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夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭
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~其は赤にして赤編 1
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~其は赤にして赤編 7
第九節 かいせいの希望
「メリー!」
蓮子は息を荒げながら車の消えた方角へ走る。
メリーを乗せた車の姿は既に走り去り、最早追い駆け様が無かった。
「メリー!」
ついには走れなくなって、躓く様に前のめり、たたらを踏んで立ち止まる。
メリーが攫われた。
メリーが居なくなった。
メリーが。
引きずる様に足を踏み出すが、走る事が出来無い。顔を上げれば、誰も居ない路地が遠くまで続いている。車の姿も当然無い。
攫われてしまった。
蓮子は顔を押さえて座り込む。
泣きそうになるのをこらえながら、自分は何をしてるんだろうと自問した。
これから自分の中のわだかまりを解いて、二人で仲良くしていきたいと思った矢先にメリーが消えた。
メリーの事が憎かった。
消えて欲しいと思った事もある。
これはある意味で望んだ結果に相違無い。
メリーとは仲良くしたいけれど、どうしてもメリーの事は憎らしくて、メリーと新しい生活を送ろうと決めたけどメリーと喧嘩して、そうしてメリーを失った。メリーは蓮子にとって自分勝手に人を作り、大切に思う様に操って、それを隠し続けてきた憎い仇。メリーなんて居なくなってしまえば、幸せになれるんじゃないかと思った事もある。けれど蓮子にとって何よりも大切に思っている親友でもある。自分でもどうしたいのか分からなかった。けれどいざ居なくなってみれば、失う事は何よりも強い絶望になって自分の事を苛んでいる。
メリーを助けなくちゃいけない。
どんなに憎く思ってもメリーと一緒に居たい。
結局自分にはそれしかないのだろう。
ある種、諦めの境地だ。
自分はどうしたってメリーの親友として生まれたのだから。
蓮子はよろめきながら立ち上がる。
もうメリーを連れ去った車は消えていた。だが手掛かりはある。
攫った奴等はあまりにも無防備だった。顔を隠す事すらしていなかったのだ。その中に見覚えのある顔があった。小学校を案内してくれた、これから担任になるという男。レミリアというモデルに対して異常な執着を抱いていた男。
メリーが何処へ連れて行かれたのかは分からないが、あの男が小学校で働いている以上、そこに何かしら手掛かりがある筈だ。
早速蓮子はちゆりに連絡を行った。メリーが攫われた事、その犯人が小学校に勤めている男である事。ちゆりは酷く狼狽した様子で、早速警察に連絡を取ると言っていた。これでメリーを助けられる可能性が上がった。
ちゆりは電話の終わりに蓮子へ向けて、危ないからじっとしている様に告げてきた。分かっているのだろう。蓮子は当然小学校に乗り込んで自らメリーを助けるつもりだという事を。そこにメリーが居るとは限らないが、一つでも多くの手掛かりを見つけて、一刻でも早くメリーを救わなければならない。警察を待っているだけでは遅いのだ。
早速蓮子は小学校へ向けて駆け出そうとしたが、その出鼻を挫く様に、背後から声が掛かった。
「蓮子! 遊ぼう!」
蓮子が振り返った瞬間、フランの腕が首に絡みつき、蓮子はぐええとくぐもった呻きをあげながら、蓮子はフランと一緒に地面へ転がった。倒れこんで、自分に抱きついてきた相手を確認し、咳き込みながら蓮子は問う。
「フラン、何でここに居るの?」
「ちょっとね。やるべき事を終えたから帰ろうと思ったら、蓮子が居たから声を掛けたの。蓮子は?」
何と言っていいのか迷う。メリーが攫われたなんていう大事件だ。おいそれと他人に話して良いのだろうか。
そう悩んだが、返答を待つフランの期待に満ちた顔を見て、話す事に決めた。昨日ちゆりの言葉を思い出したのだ。折角こちらで出来た初めての友達。もしも蓮子がフランの立場なら、力になりたい。もしも知らない間に友達が酷い目にあっていたら、それはきっととても後悔する。
「メリーが居なくなっちゃった」
「喧嘩したの?」
「そう。だけど違う。メリーは攫われたの」
フランが驚いて立ち上がった。
「誰に!」
「小学校で働いている男と他にも数人」
「大変じゃん! 早く助けにいかないと。小学校ってこの近くでしょ?」
「そう。これから助けに行く」
「じゃあ私も行く」
フランは一瞬の迷いも無くそう言って、倒れている蓮子に手を差し伸べてきた。
「友達だもん。ね?」
それはとても頼もしくて、蓮子は思わず笑みをこぼして、フランの手を握った。
「ありがとう」
フランは蓮子を立ち上がらせると、拳を握って小学校の方角を睨む。
「許せない。お仕置きしてあげないと!」
更に頼もしい言葉に蓮子は一瞬同意しそうになったが、昨日の事を思い出し、お仕置きが何を表しているのかに思い至った。昨日フランはお仕置きと言って、巨大な狼の頭を潰していた。それを人間相手にしようとしているのだとしたら。
「フラン、お仕置きって」
「爆破する!」
青ざめた蓮子を置いてフランは駈け出した。
「駄目だって、フラン!」
「何が?」
フランが億劫そうに振り返った。
「昨日の狼みたいにするつもりでしょ?」
「狼? ああ、羽? そうだよ」
「駄目! 死んじゃうでしょ!」
「別に良いじゃん。悪い奴だよ? メリーを攫ったんだよ?」
確かにフランの言う事は尤もではある。もしもメリーに酷い事をしたら、その時は比喩でも何でも無くそいつを殺す。けれどそれはもしもの話だ。そしてそのもしもの時は、他の誰でもなく蓮子自身が手を汚さなければならない。他人の手を汚させる訳にはいかない。
「とにかくお仕置きは駄目! 私がするから」
「出来るの?」
問われて、蓮子は一瞬たじろぐ。
確かに今は本物の殺意を持っている訳では無い。
殺せるかという問いに殺せるとは答えられるけれど、それはあくまで言葉の上でしか無い。実際は、きっと尻込みするだろう。
それは分かっているが、蓮子は頷いた。
「出来る」
「本当? 仕方無いなぁ。良い子になりたかったけど。じゃあ蓮子に譲るよ。行こ!」
フランがそう言って走りだした。
蓮子もそれを追おうとするが、足が重たくて動かない。
「待って、フラン!」
フランは振り返ると焦れた様に蓮子を睨めつける。
「何もたもたしてるの? メリーが攫われたんでしょ? 早く助けないといけないんでしょ? もう! のろのろしてるなら先行ってるから!」
「待って!」
蓮子の制止も虚しく、フランは苛立った様子で地面を蹴ると、翼を広げて、学校の方角へと飛び立っていった。蓮子は何とかフランを追いかけようと、空を見上げながら、こけつまろびつ走ったが、ただでさえ足に限界が来ている上に、空を飛んでいるフランに追いつける訳も無く、最後は空を見上げながら塀にぶつかり、もんどり打って倒れた。
「フラン!」
立ち上がって叫ぶが、フランからの返答は無い。空を見上げても、もうフランの姿は屋根の向こうに消えていた。痛みをこらえつつ蓮子は再び学校を目指す。
「何でこの世界はタクシーが来ないのよ!」
悪態を吐きながら何とか学校へ辿り着いた時には、もう随分時間が立っていた。メリーが何かされていたらあまりにも遅すぎる。
泣きたくなるのを堪えながら蓮子は校門をくぐった。校庭にはあちらこちらで、子供達が走り回っている。校舎からは調子外れの合奏が聞こえてくる。
メリーとフランの姿を探しながら、蓮子は校庭を通り抜ける。校庭にその姿は見えない。だとしたら校舎の中だろうか。何処かに居て欲しい。いや何処かに居る筈だ。そう信じて、校舎の壁に沿って、窓を覗きながら歩いていると、校舎の一室に大人達が集っているのを見つける。
蓮子は、そこが職員室だった事を思い出し、鋭く目を細めた。あの担任はいつも職員室に居るから何かあったら来てくれと言っていた。あの担任はここに居る。もしかしたらメリーも居るかもしれない。
瞬きする事も忘れて、職員室の窓に近付き、部屋の中を見渡した。見通しの良い部屋で、すぐに部屋中を見渡す事が出来たものの、目当ての姿が無かった。あの担任も、メリーも居ない。職員室には四人の大人が談笑しているだけだ。隠れられそうな所も無い。
落胆して溜息を吐く。
やはりあの担任は学校に戻ってきていないのだろうか。当然と言えば当然だ。普通に考えて人目の多い場所へ誘拐した子供を連れてくる訳が無い。考えるまでもなく分かる事だが、蓮子はそう結論付けたくなかった。それではメリーへの手掛かりが全く無くなってしまう。
とにかく学校中を探すべきだと踵を返そうとした時、職員室の中で談笑していた一人が蓮子に気がついて顔を向けてきた。
見つかった事に驚き蓮子が息を飲んでいる間に、大人達も驚いた表情で蓮子の下まで近づいて来た。
「どうした? 何かあったのか?」
一人がそう問うと、別の一人が言った。
「この子、新しく来る子ですよ。名前は、蓮子ちゃんか、マエリベリーちゃん」
ああ本当だと大人達はまた驚いた顔をした。
「ん? ならどうしてここに? 入学は四月からだったよな?」
「入学の案内と挨拶も昨日済ませた筈ですけど」
「もしかして間違えて来ちゃった?」
最後は蓮子への質問だったので、蓮子は慌てて首を横に振る。
「違います! 私は」
そこで蓮子は言葉を途切った。
自分の目的を言って良いものか、蓮子は迷った。あの担任がメリーを誘拐した犯人だから追ってきたと告げれば、少なくとも相手は困惑するだろう。悪戯だと思われて追い出されてしまうかもしれない。そして最悪、目の前に居る大人達も仲間の可能性もある。そうすると、担任に会いに来たと告げただけで、相手は勘付き、蓮子を捕らえようとするかもしれない。
軽軽しく何かを言えば、災禍を招く可能性は十二分にある。だが何も言わない訳にもいかない。手掛かりの殆ど無い蓮子が進むなら、前しかない。危険があるからと避けて通っていれば、メリーからはどんどん離されていく。
とにかく担任の居場所を知ろうと、蓮子は言葉を選んで答える事にした。
「私は、担任の……人に会いに来て」
名前を思い出そうとしたが、思い出せなかった。
「え? どうして? 昨日会ったんじゃないの?」
「何か質問? 私達で答えられる事なら私達が聞くよ」
大人達は純粋な疑問を呈してきた。その表情に蓮子を警戒する様な色は無い。もしも誘拐犯の一味であれば、もっと劇的な反応をする筈だ。
蓮子は担任に会いに来た理由を考えるが、適当なものが思いつかず、結局担任が別れ際に言った言葉に従う事とした。
「レミリアってモデルの事を教えてもらいに来ました。チケットも貰えるらしいから」
「ああ、またか」
大人達は顔を見合わせて呆れた顔をした。
「どうしたもんかな。教師の癖に転売屋の真似事なんてされちゃたまらん」
「一応お金は取ってないみたいですけど」
「分かってる。分かってるが、ただだろうと生徒相手に高価な物を渡してるのは十分問題だろ。それにこうしょっちゅう色んなのに訪ねて来られるとな。うちと全く関係の無い子供まで来るし」
そうぼやいた大人は、蓮子が居る事を思い出して、慌て出した。
「別に君を責めている訳じゃ無いよ。ただあいつは、いや、とにかく折角訪ねてきてもらったところ悪いけど、さっき出掛けてしまって、学校には居ないんだ」
それを聞いて蓮子は落胆した。出かけた用事は誘拐に違いない。今の言葉を信じるなら、あの担任は誘拐したまま帰って来ていない事になる。
だが別の大人が否定した。
「さっき帰って来てましたよ? ついさっき見ました」
「あ、本当? 用事終わったのかな? 急用があるとか言ってたけど。何か言ってた?」
「いやあ、何だか怒ってて話しかけられなかったので。何で分からないんだとかぶつぶつ言いながら、廊下歩いててちょっと不気味過ぎて」
「何かあったのかな?」
この学校の中に居る事が分かればもう用は無い。あの担任に対する文句を言い始めた大人達を無視して、蓮子はその場を離れた。早足で校舎の壁沿いを少し歩くと玄関を見えた。玄関から校舎に入ろうとした時、蓮子は自分の心の底が何かざわついている事に気がついた。焦りの様な、恐れの様な感覚が自分の心をくすませている。
校舎の中に踏み入れた蓮子は背筋に寒気を覚える。
校舎の中は酷く静かだった。
音はある。上の階から聞こえてくる合奏、校庭から聞こえてくる笑い声。けれどそれ等は天井や壁に阻まれて、遠くから微かにしか聞こえない。自分が他と隔たってしまった様で、全く音が無いよりも一層寂しく感ぜられた。
気が付くと蓮子は息をのんでいた。
手が汗で濡れている。焦りに急かされて、心臓の鼓動が酷く早い。その焦りに突き動かされる様に、蓮子は足早に廊下を歩き、教室の中を覗きこみながら進んでいく。一階を見回り終えると、階段を上り、二階でもまた廊下を歩き、教室を一つ一つ覗いていく。
どの教室にも、メリーや担任の姿どころか、人っ子一人見つからない。
あまりにも代わり映えのしない中、単調に一つ一つの教室を覗くだけの単調作業を続けていく内に、蓮子は自分の行動に疑問を持ち始めた。
自分がしている事に何の意味があるのだろう。
メリーが攫われてから随分時間が経った。誘拐犯が人目の多い場所に誘拐した対象を連れてくるだろうか。そんな訳が無い。何処か別の場所に連れて行ったと考えるのが自然だ。なら何故この学校に来たのか。あの担任が唯一の手掛かりだからだ。あの担任が誘拐犯だから探している。けれど探してどうする。見つけた所で、素直にメリーの隠し場所を教えてくれる筈が無い。無理矢理聞き出すにも、蓮子では力が足りない。下手をすれば、逆に捕まって殺されてしまうかもしれない。分かりきった事だった。ちゆりから警察へは既に連絡が行っている筈で、警官がこの学校に向かっているだろう。蓮子の仕事は犯人がこの小学校の関係者であるという事を伝えるまでで、それ以上は何も出来無い。それどころか、こうして学校に乗り込んで犯人を探すなんて、事件解決を助長するどころか、新たな事件の引き金にしかならない。
それなのに今こうしていて蓮子はメリーを探して歩いている。犯人はともかくメリーは居る訳無いのにそこに居る筈だと自分に言い聞かせて。
そんな欺瞞によって、蓮子はここに居る。
感情ばかりに突き動かされてここに居る。早くメリーを探さなければと周りを見ずに焦っている。
理性は何故ここに居るのかと疑問を抱いている。早く戻れと警句を発している。
まるで自分の中に二つの意思が備わっている様だ。
蓮子はそれを単なる錯覚だと笑う事が出来無い。
感情も理性もどちらの心の動きも自分自身にほかならないと、断ずる事が出来無い。
蓮子はメリーの親友として生み出された。当然メリーの身を案ずる事も親友の行いとして含まれているだろう。だからこれは、メリーによってプログラムされた感情だと言える。このメリーを心配する心も、メリーを救いたい焦りも、メリーを攫われた事に対する罪悪感も、全てメリーによって規定されたものなのだ。今こうして校舎の中を無意味に歩いている事自体が、メリーという呪縛に囚われている結果なのだ。
そう考えると嫌悪感が湧いて、蓮子は今すぐにでも学校から逃げ出したくなった。勝手に自分を生み出して苦しめるメリーを助ける必要なんか無いと思えた。
でも足は進む。メリーを探して体が動く。
メリーを捨てて逃げられる訳が無い。
自分はそういう風に作られている。
心の底からメリーを心配して助けたいと思って学校を彷徨う様に出来ているのだから仕方が無い。幾ら悩み苦しみ逃れようとしても、釈迦の掌から逃れる事は叶わない。
詮無い思考に沈殿しながらメリーを探し続けていた蓮子は、ふと物音を聞いた。今覗いている教室の隣の部屋からだ。隣の部屋は、この階の一番奥に当たる部屋で、プレートには教材倉庫と表示されていた。
プレートを見つめながら耳を澄ませていると、合奏と笑い声が聞こえる静寂の中、再び物音がはっきりと聞こえた。湿り気を帯びた壊れる様な音だ。同時に呻き声も聞こえた気がする。
「メリー?」
思わず口からそんな言葉が漏れていた。
メリーが居る訳無いのに、蓮子の口からは再び「メリー」と呼びかける声が漏れる。
分かっている。メリーが居る訳無い。
けれど不安に苛まれて限界が来ていた。
今しがた聞こえた物音は、明らかにまともな音じゃない。
普通の生活では絶対に聞かない様な音だ。
何の音かは分からないが、酷く不吉がする。確かめるのが怖い位に。
出来れば、中を覗かずに帰りたい。
けれど感情は、もしかしたらメリーが居るかもしれないと、急かしてくる。
その思考と感情の齟齬に疲れ果てた。
もう終わりにしたい。
メリーを見つけて帰りたい。
蓮子はそっと倉庫に向かう。
不安で胸が痛い。
見てはいけないと分かっている。
でも感情は止まろうとしない。
不安ばかりが増大していく。
その不安に押しつぶされて、蓮子は懇願する様にメリーの名を呼んだ。
メリーが居て欲しい。
救いが欲しい。
そう願いながら、蓮子は扉の前に立ち、そっと中を覗き込んだ。薄暗い部屋で、中が良く見えない。目を凝らすと、倉庫という名前の通り、何に使うのか分からない品品が棚に押し込まれ壁に立てかけられている。
それ等を見回していた蓮子の目が中央の一点に留まった。
部屋の中央の空間に人が倒れていた
。思わず目を見張り、まじまじとそれを見て、次の瞬間、息を呑み、思わず後退った。扉から離れて廊下の壁にもたれかかり、蓮子は混乱する頭を押さえながら、自分の見た光景を反芻した。
その人の形をしたものは、四肢こそ揃っていたものの、頭が無かった。
それが何を意味するか。
蓮子は目を見開くと、意を決して物置の扉を開けて、中の電灯を点けた。
薄暗かった部屋が一気に照らされ、中の様子が判明する。明度が低く分からなかった色合いもはっきりと捉える事が出来た。
部屋の中は血にまみれていた。
中央には、人の形をしたものが一つ。本来頭のある部分がぐちゃぐちゃに崩れいて、そこを中心に、赤黒の染料が部屋中に飛び散り、天井まで達している。死んでいる事は瞭然だった。
蓮子の口から甲高い悲鳴が上がる。
教室から飛び出して廊下に倒れこみ、息を荒げながら、物置を振り返る。
混乱する。
目の前の光景を理解しようとするが、頭の潰れた死体があるだけだ。
理解しようにも何を分かれば良いのか分からない。
フランの顔がよぎる。
まさかフランがやってしまったのか。
だとすれば、フランは。
辺りを見回そうとした時、不意に鋭い声が跳んできた。
「どうした!」
驚いて振り返ると、廊下の向こうから男が一人走ってきた。
見覚えが無い。
この学校で働いている人間か。
あるいは犯人か。
その考えに思い至って、蓮子は恐慌し、後ろに下がる。だが廊下の突き当りである為に、逃れ様が無い。
走り寄ってきた男は、扉が開いているのに気がついて、脇目も振らずに教室へ駆け込み、そして悲鳴を上げた。蓮子が這いつくばりながら、教室の中を覗くと、死体の傍に座り込んだ男が蓮子へ振り返った。
「まさか君が」
男はそう言うと、いきなり銃を抜いた。
「え?」
蓮子が恐怖で硬直する。
顔を強張らせた蓮子を見て、男は自分が手に持つ銃を見つめ、驚いた様にそれを取り落とすと、焦った表情で両手を挙げた。
「違う。俺警察。怖くない。大丈夫」
安心させようとしているらしいが、銃を向けられたばかりだというのに、安心出来る筈が無い。蓮子は恐怖で震えながら、男の言った言葉を理解しようとするが、どうしても頭を素通りする。
混乱する蓮子と目を合わせながら、男は銃を拾って立ち上がり、近づいて来た。
「大丈夫。安心して。で聞くけど、これは君がやったの?」
男が死体を指さした。蓮子の視線がそれを追う。そして再び男と目を合わせると、男の表情に恐怖が滲む。
蓮子はようやく男が何を言っているのか理解した。
蓮子が犯人だと疑っているのだ。
それが分かって、慌てて叫ぶ。
「私じゃない!」
蓮子の叫びに、男は益益怯えた表情を見せ、銃を握り締めながら、近づいて来た。
「分かってる。分かってるから、落ち着いて。まず話を」
男が近付いてくる。
銃を握り締めながら。
男は本当に警官なのか、あるいは警官のふりをした犯人なのかは分からない。
とにかくここでじっとしていれば、殺されるか、逮捕される。
それを理解した蓮子は急いで立ち上がる。
と、それに男が慌てた。
「待て!」
男が叫ぶ。
蓮子は息を詰め、男と目を合わせた。男の目は恐怖で見開かれ、正気に見えない。
「動くなよ!」
そう言って、男が銃を構えた。
蓮子に銃口が向いた。
恐怖が破裂する。
蓮子は悲鳴を迸らせてその場から駈け出した。
背後で男が制止する様に求める叫び声が聞こえたが、止まる筈が無い。
蓮子は必死で廊下を駆け抜け、階段を駆け下りる。
と、その途中で、階段の下から別の男の声が聞こえてきた。
男の仲間が居る。
蓮子は立ち止まろうとしたが、勢いがつきすぎて止まれず、そのまま踊り場まで駆け下りた。そこで下からやってきた二人組と鉢合わせる。
驚いた顔の二人と目が合う。逃げようと蓮子は元来た道を戻ろうとしたが、階段の上から駆け下りてくる足音が聞こえた。挟まれた。逃げ場が無い。蓮子は悲鳴を上げながら我武者羅に二人組の横を通り抜けるようとした。幸い二人組は驚いた様子で退いた為、その体にぶつかりつつも通り抜けて、蓮子は階段を駆け下りた。
階段を抜けて、玄関を出て、校庭を走り、外へ出る。一度振り返ると、追手の様子は無い。だが安心は出来ず、蓮子はとにかく駆けた。
さっきのが何者なのか分からない。倉庫の惨劇が何だったのかも分からない。
分からないがとにかく逃げる。
何処をどう走っているかも分からないが、とにかく走る。
走る毎にメリーから離れていっている気がした。
実際、手掛かりがあるのは学校なのにそこから逃げている。
でも学校に戻れば、捕まるか、殺されてしまうだろう。
逃げる事しか出来無い。
メリーからどんどん離れている事が分かっているのに、どうする事も出来無い。
蓮子は涙を流してメリーの名前を呼びながら町を走り続けた。
メリーに助けを求めて叫びながら、何も分からず走り続けた。
救いが欲しかった。
何でも良い。
今のどうしようも無い閉塞感を破ってくれる救いが欲しい。
段差に足を引っ掛け、転んだ事で、蓮子は止まる。
立ち上がって、涙を拭い、鼻を啜って、振り返る。
見た事の無い町並みだ。
随分遠くまで走ってきたらしい。
どうすれば良いのか分からず、心細い思いで辺りを見回し、ふと頭上を見上げると、看板の一つが目に入った。
そこには博霊探偵局と書かれていた。
ここがちゆりの言っていた探偵事務所だと、蓮子は口を開けて古びたビルを見上げる。
メリーとちゆりと一緒に夕食を食べた昨晩を思い出す。
メリーも笑っていた。
ちゆりも笑っていた。
友達を探せるのはここしかないとちゆりが語っていた探偵事務所。
あの時自分はこの博霊探偵局という言葉に期待と興奮を抱いていた。
幸せだった昨晩の光景が輝いて見える。
その明かりが、暗闇に包まれた様な閉塞した今、微かではあるけれど希望に見えた。
救いが欲しい。
一縷でも、切っ掛けでも良い。
現状を打破して欲しい。
蓮子はしばらくビルの前で悩んでいたが、やがて博霊探偵局という看板の掛かったビルに入っていった。
続く
~其は赤にして赤編 9(剣士2)
夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭
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第九節 かいせいの希望
「メリー!」
蓮子は息を荒げながら車の消えた方角へ走る。
メリーを乗せた車の姿は既に走り去り、最早追い駆け様が無かった。
「メリー!」
ついには走れなくなって、躓く様に前のめり、たたらを踏んで立ち止まる。
メリーが攫われた。
メリーが居なくなった。
メリーが。
引きずる様に足を踏み出すが、走る事が出来無い。顔を上げれば、誰も居ない路地が遠くまで続いている。車の姿も当然無い。
攫われてしまった。
蓮子は顔を押さえて座り込む。
泣きそうになるのをこらえながら、自分は何をしてるんだろうと自問した。
これから自分の中のわだかまりを解いて、二人で仲良くしていきたいと思った矢先にメリーが消えた。
メリーの事が憎かった。
消えて欲しいと思った事もある。
これはある意味で望んだ結果に相違無い。
メリーとは仲良くしたいけれど、どうしてもメリーの事は憎らしくて、メリーと新しい生活を送ろうと決めたけどメリーと喧嘩して、そうしてメリーを失った。メリーは蓮子にとって自分勝手に人を作り、大切に思う様に操って、それを隠し続けてきた憎い仇。メリーなんて居なくなってしまえば、幸せになれるんじゃないかと思った事もある。けれど蓮子にとって何よりも大切に思っている親友でもある。自分でもどうしたいのか分からなかった。けれどいざ居なくなってみれば、失う事は何よりも強い絶望になって自分の事を苛んでいる。
メリーを助けなくちゃいけない。
どんなに憎く思ってもメリーと一緒に居たい。
結局自分にはそれしかないのだろう。
ある種、諦めの境地だ。
自分はどうしたってメリーの親友として生まれたのだから。
蓮子はよろめきながら立ち上がる。
もうメリーを連れ去った車は消えていた。だが手掛かりはある。
攫った奴等はあまりにも無防備だった。顔を隠す事すらしていなかったのだ。その中に見覚えのある顔があった。小学校を案内してくれた、これから担任になるという男。レミリアというモデルに対して異常な執着を抱いていた男。
メリーが何処へ連れて行かれたのかは分からないが、あの男が小学校で働いている以上、そこに何かしら手掛かりがある筈だ。
早速蓮子はちゆりに連絡を行った。メリーが攫われた事、その犯人が小学校に勤めている男である事。ちゆりは酷く狼狽した様子で、早速警察に連絡を取ると言っていた。これでメリーを助けられる可能性が上がった。
ちゆりは電話の終わりに蓮子へ向けて、危ないからじっとしている様に告げてきた。分かっているのだろう。蓮子は当然小学校に乗り込んで自らメリーを助けるつもりだという事を。そこにメリーが居るとは限らないが、一つでも多くの手掛かりを見つけて、一刻でも早くメリーを救わなければならない。警察を待っているだけでは遅いのだ。
早速蓮子は小学校へ向けて駆け出そうとしたが、その出鼻を挫く様に、背後から声が掛かった。
「蓮子! 遊ぼう!」
蓮子が振り返った瞬間、フランの腕が首に絡みつき、蓮子はぐええとくぐもった呻きをあげながら、蓮子はフランと一緒に地面へ転がった。倒れこんで、自分に抱きついてきた相手を確認し、咳き込みながら蓮子は問う。
「フラン、何でここに居るの?」
「ちょっとね。やるべき事を終えたから帰ろうと思ったら、蓮子が居たから声を掛けたの。蓮子は?」
何と言っていいのか迷う。メリーが攫われたなんていう大事件だ。おいそれと他人に話して良いのだろうか。
そう悩んだが、返答を待つフランの期待に満ちた顔を見て、話す事に決めた。昨日ちゆりの言葉を思い出したのだ。折角こちらで出来た初めての友達。もしも蓮子がフランの立場なら、力になりたい。もしも知らない間に友達が酷い目にあっていたら、それはきっととても後悔する。
「メリーが居なくなっちゃった」
「喧嘩したの?」
「そう。だけど違う。メリーは攫われたの」
フランが驚いて立ち上がった。
「誰に!」
「小学校で働いている男と他にも数人」
「大変じゃん! 早く助けにいかないと。小学校ってこの近くでしょ?」
「そう。これから助けに行く」
「じゃあ私も行く」
フランは一瞬の迷いも無くそう言って、倒れている蓮子に手を差し伸べてきた。
「友達だもん。ね?」
それはとても頼もしくて、蓮子は思わず笑みをこぼして、フランの手を握った。
「ありがとう」
フランは蓮子を立ち上がらせると、拳を握って小学校の方角を睨む。
「許せない。お仕置きしてあげないと!」
更に頼もしい言葉に蓮子は一瞬同意しそうになったが、昨日の事を思い出し、お仕置きが何を表しているのかに思い至った。昨日フランはお仕置きと言って、巨大な狼の頭を潰していた。それを人間相手にしようとしているのだとしたら。
「フラン、お仕置きって」
「爆破する!」
青ざめた蓮子を置いてフランは駈け出した。
「駄目だって、フラン!」
「何が?」
フランが億劫そうに振り返った。
「昨日の狼みたいにするつもりでしょ?」
「狼? ああ、羽? そうだよ」
「駄目! 死んじゃうでしょ!」
「別に良いじゃん。悪い奴だよ? メリーを攫ったんだよ?」
確かにフランの言う事は尤もではある。もしもメリーに酷い事をしたら、その時は比喩でも何でも無くそいつを殺す。けれどそれはもしもの話だ。そしてそのもしもの時は、他の誰でもなく蓮子自身が手を汚さなければならない。他人の手を汚させる訳にはいかない。
「とにかくお仕置きは駄目! 私がするから」
「出来るの?」
問われて、蓮子は一瞬たじろぐ。
確かに今は本物の殺意を持っている訳では無い。
殺せるかという問いに殺せるとは答えられるけれど、それはあくまで言葉の上でしか無い。実際は、きっと尻込みするだろう。
それは分かっているが、蓮子は頷いた。
「出来る」
「本当? 仕方無いなぁ。良い子になりたかったけど。じゃあ蓮子に譲るよ。行こ!」
フランがそう言って走りだした。
蓮子もそれを追おうとするが、足が重たくて動かない。
「待って、フラン!」
フランは振り返ると焦れた様に蓮子を睨めつける。
「何もたもたしてるの? メリーが攫われたんでしょ? 早く助けないといけないんでしょ? もう! のろのろしてるなら先行ってるから!」
「待って!」
蓮子の制止も虚しく、フランは苛立った様子で地面を蹴ると、翼を広げて、学校の方角へと飛び立っていった。蓮子は何とかフランを追いかけようと、空を見上げながら、こけつまろびつ走ったが、ただでさえ足に限界が来ている上に、空を飛んでいるフランに追いつける訳も無く、最後は空を見上げながら塀にぶつかり、もんどり打って倒れた。
「フラン!」
立ち上がって叫ぶが、フランからの返答は無い。空を見上げても、もうフランの姿は屋根の向こうに消えていた。痛みをこらえつつ蓮子は再び学校を目指す。
「何でこの世界はタクシーが来ないのよ!」
悪態を吐きながら何とか学校へ辿り着いた時には、もう随分時間が立っていた。メリーが何かされていたらあまりにも遅すぎる。
泣きたくなるのを堪えながら蓮子は校門をくぐった。校庭にはあちらこちらで、子供達が走り回っている。校舎からは調子外れの合奏が聞こえてくる。
メリーとフランの姿を探しながら、蓮子は校庭を通り抜ける。校庭にその姿は見えない。だとしたら校舎の中だろうか。何処かに居て欲しい。いや何処かに居る筈だ。そう信じて、校舎の壁に沿って、窓を覗きながら歩いていると、校舎の一室に大人達が集っているのを見つける。
蓮子は、そこが職員室だった事を思い出し、鋭く目を細めた。あの担任はいつも職員室に居るから何かあったら来てくれと言っていた。あの担任はここに居る。もしかしたらメリーも居るかもしれない。
瞬きする事も忘れて、職員室の窓に近付き、部屋の中を見渡した。見通しの良い部屋で、すぐに部屋中を見渡す事が出来たものの、目当ての姿が無かった。あの担任も、メリーも居ない。職員室には四人の大人が談笑しているだけだ。隠れられそうな所も無い。
落胆して溜息を吐く。
やはりあの担任は学校に戻ってきていないのだろうか。当然と言えば当然だ。普通に考えて人目の多い場所へ誘拐した子供を連れてくる訳が無い。考えるまでもなく分かる事だが、蓮子はそう結論付けたくなかった。それではメリーへの手掛かりが全く無くなってしまう。
とにかく学校中を探すべきだと踵を返そうとした時、職員室の中で談笑していた一人が蓮子に気がついて顔を向けてきた。
見つかった事に驚き蓮子が息を飲んでいる間に、大人達も驚いた表情で蓮子の下まで近づいて来た。
「どうした? 何かあったのか?」
一人がそう問うと、別の一人が言った。
「この子、新しく来る子ですよ。名前は、蓮子ちゃんか、マエリベリーちゃん」
ああ本当だと大人達はまた驚いた顔をした。
「ん? ならどうしてここに? 入学は四月からだったよな?」
「入学の案内と挨拶も昨日済ませた筈ですけど」
「もしかして間違えて来ちゃった?」
最後は蓮子への質問だったので、蓮子は慌てて首を横に振る。
「違います! 私は」
そこで蓮子は言葉を途切った。
自分の目的を言って良いものか、蓮子は迷った。あの担任がメリーを誘拐した犯人だから追ってきたと告げれば、少なくとも相手は困惑するだろう。悪戯だと思われて追い出されてしまうかもしれない。そして最悪、目の前に居る大人達も仲間の可能性もある。そうすると、担任に会いに来たと告げただけで、相手は勘付き、蓮子を捕らえようとするかもしれない。
軽軽しく何かを言えば、災禍を招く可能性は十二分にある。だが何も言わない訳にもいかない。手掛かりの殆ど無い蓮子が進むなら、前しかない。危険があるからと避けて通っていれば、メリーからはどんどん離されていく。
とにかく担任の居場所を知ろうと、蓮子は言葉を選んで答える事にした。
「私は、担任の……人に会いに来て」
名前を思い出そうとしたが、思い出せなかった。
「え? どうして? 昨日会ったんじゃないの?」
「何か質問? 私達で答えられる事なら私達が聞くよ」
大人達は純粋な疑問を呈してきた。その表情に蓮子を警戒する様な色は無い。もしも誘拐犯の一味であれば、もっと劇的な反応をする筈だ。
蓮子は担任に会いに来た理由を考えるが、適当なものが思いつかず、結局担任が別れ際に言った言葉に従う事とした。
「レミリアってモデルの事を教えてもらいに来ました。チケットも貰えるらしいから」
「ああ、またか」
大人達は顔を見合わせて呆れた顔をした。
「どうしたもんかな。教師の癖に転売屋の真似事なんてされちゃたまらん」
「一応お金は取ってないみたいですけど」
「分かってる。分かってるが、ただだろうと生徒相手に高価な物を渡してるのは十分問題だろ。それにこうしょっちゅう色んなのに訪ねて来られるとな。うちと全く関係の無い子供まで来るし」
そうぼやいた大人は、蓮子が居る事を思い出して、慌て出した。
「別に君を責めている訳じゃ無いよ。ただあいつは、いや、とにかく折角訪ねてきてもらったところ悪いけど、さっき出掛けてしまって、学校には居ないんだ」
それを聞いて蓮子は落胆した。出かけた用事は誘拐に違いない。今の言葉を信じるなら、あの担任は誘拐したまま帰って来ていない事になる。
だが別の大人が否定した。
「さっき帰って来てましたよ? ついさっき見ました」
「あ、本当? 用事終わったのかな? 急用があるとか言ってたけど。何か言ってた?」
「いやあ、何だか怒ってて話しかけられなかったので。何で分からないんだとかぶつぶつ言いながら、廊下歩いててちょっと不気味過ぎて」
「何かあったのかな?」
この学校の中に居る事が分かればもう用は無い。あの担任に対する文句を言い始めた大人達を無視して、蓮子はその場を離れた。早足で校舎の壁沿いを少し歩くと玄関を見えた。玄関から校舎に入ろうとした時、蓮子は自分の心の底が何かざわついている事に気がついた。焦りの様な、恐れの様な感覚が自分の心をくすませている。
校舎の中に踏み入れた蓮子は背筋に寒気を覚える。
校舎の中は酷く静かだった。
音はある。上の階から聞こえてくる合奏、校庭から聞こえてくる笑い声。けれどそれ等は天井や壁に阻まれて、遠くから微かにしか聞こえない。自分が他と隔たってしまった様で、全く音が無いよりも一層寂しく感ぜられた。
気が付くと蓮子は息をのんでいた。
手が汗で濡れている。焦りに急かされて、心臓の鼓動が酷く早い。その焦りに突き動かされる様に、蓮子は足早に廊下を歩き、教室の中を覗きこみながら進んでいく。一階を見回り終えると、階段を上り、二階でもまた廊下を歩き、教室を一つ一つ覗いていく。
どの教室にも、メリーや担任の姿どころか、人っ子一人見つからない。
あまりにも代わり映えのしない中、単調に一つ一つの教室を覗くだけの単調作業を続けていく内に、蓮子は自分の行動に疑問を持ち始めた。
自分がしている事に何の意味があるのだろう。
メリーが攫われてから随分時間が経った。誘拐犯が人目の多い場所に誘拐した対象を連れてくるだろうか。そんな訳が無い。何処か別の場所に連れて行ったと考えるのが自然だ。なら何故この学校に来たのか。あの担任が唯一の手掛かりだからだ。あの担任が誘拐犯だから探している。けれど探してどうする。見つけた所で、素直にメリーの隠し場所を教えてくれる筈が無い。無理矢理聞き出すにも、蓮子では力が足りない。下手をすれば、逆に捕まって殺されてしまうかもしれない。分かりきった事だった。ちゆりから警察へは既に連絡が行っている筈で、警官がこの学校に向かっているだろう。蓮子の仕事は犯人がこの小学校の関係者であるという事を伝えるまでで、それ以上は何も出来無い。それどころか、こうして学校に乗り込んで犯人を探すなんて、事件解決を助長するどころか、新たな事件の引き金にしかならない。
それなのに今こうしていて蓮子はメリーを探して歩いている。犯人はともかくメリーは居る訳無いのにそこに居る筈だと自分に言い聞かせて。
そんな欺瞞によって、蓮子はここに居る。
感情ばかりに突き動かされてここに居る。早くメリーを探さなければと周りを見ずに焦っている。
理性は何故ここに居るのかと疑問を抱いている。早く戻れと警句を発している。
まるで自分の中に二つの意思が備わっている様だ。
蓮子はそれを単なる錯覚だと笑う事が出来無い。
感情も理性もどちらの心の動きも自分自身にほかならないと、断ずる事が出来無い。
蓮子はメリーの親友として生み出された。当然メリーの身を案ずる事も親友の行いとして含まれているだろう。だからこれは、メリーによってプログラムされた感情だと言える。このメリーを心配する心も、メリーを救いたい焦りも、メリーを攫われた事に対する罪悪感も、全てメリーによって規定されたものなのだ。今こうして校舎の中を無意味に歩いている事自体が、メリーという呪縛に囚われている結果なのだ。
そう考えると嫌悪感が湧いて、蓮子は今すぐにでも学校から逃げ出したくなった。勝手に自分を生み出して苦しめるメリーを助ける必要なんか無いと思えた。
でも足は進む。メリーを探して体が動く。
メリーを捨てて逃げられる訳が無い。
自分はそういう風に作られている。
心の底からメリーを心配して助けたいと思って学校を彷徨う様に出来ているのだから仕方が無い。幾ら悩み苦しみ逃れようとしても、釈迦の掌から逃れる事は叶わない。
詮無い思考に沈殿しながらメリーを探し続けていた蓮子は、ふと物音を聞いた。今覗いている教室の隣の部屋からだ。隣の部屋は、この階の一番奥に当たる部屋で、プレートには教材倉庫と表示されていた。
プレートを見つめながら耳を澄ませていると、合奏と笑い声が聞こえる静寂の中、再び物音がはっきりと聞こえた。湿り気を帯びた壊れる様な音だ。同時に呻き声も聞こえた気がする。
「メリー?」
思わず口からそんな言葉が漏れていた。
メリーが居る訳無いのに、蓮子の口からは再び「メリー」と呼びかける声が漏れる。
分かっている。メリーが居る訳無い。
けれど不安に苛まれて限界が来ていた。
今しがた聞こえた物音は、明らかにまともな音じゃない。
普通の生活では絶対に聞かない様な音だ。
何の音かは分からないが、酷く不吉がする。確かめるのが怖い位に。
出来れば、中を覗かずに帰りたい。
けれど感情は、もしかしたらメリーが居るかもしれないと、急かしてくる。
その思考と感情の齟齬に疲れ果てた。
もう終わりにしたい。
メリーを見つけて帰りたい。
蓮子はそっと倉庫に向かう。
不安で胸が痛い。
見てはいけないと分かっている。
でも感情は止まろうとしない。
不安ばかりが増大していく。
その不安に押しつぶされて、蓮子は懇願する様にメリーの名を呼んだ。
メリーが居て欲しい。
救いが欲しい。
そう願いながら、蓮子は扉の前に立ち、そっと中を覗き込んだ。薄暗い部屋で、中が良く見えない。目を凝らすと、倉庫という名前の通り、何に使うのか分からない品品が棚に押し込まれ壁に立てかけられている。
それ等を見回していた蓮子の目が中央の一点に留まった。
部屋の中央の空間に人が倒れていた
。思わず目を見張り、まじまじとそれを見て、次の瞬間、息を呑み、思わず後退った。扉から離れて廊下の壁にもたれかかり、蓮子は混乱する頭を押さえながら、自分の見た光景を反芻した。
その人の形をしたものは、四肢こそ揃っていたものの、頭が無かった。
それが何を意味するか。
蓮子は目を見開くと、意を決して物置の扉を開けて、中の電灯を点けた。
薄暗かった部屋が一気に照らされ、中の様子が判明する。明度が低く分からなかった色合いもはっきりと捉える事が出来た。
部屋の中は血にまみれていた。
中央には、人の形をしたものが一つ。本来頭のある部分がぐちゃぐちゃに崩れいて、そこを中心に、赤黒の染料が部屋中に飛び散り、天井まで達している。死んでいる事は瞭然だった。
蓮子の口から甲高い悲鳴が上がる。
教室から飛び出して廊下に倒れこみ、息を荒げながら、物置を振り返る。
混乱する。
目の前の光景を理解しようとするが、頭の潰れた死体があるだけだ。
理解しようにも何を分かれば良いのか分からない。
フランの顔がよぎる。
まさかフランがやってしまったのか。
だとすれば、フランは。
辺りを見回そうとした時、不意に鋭い声が跳んできた。
「どうした!」
驚いて振り返ると、廊下の向こうから男が一人走ってきた。
見覚えが無い。
この学校で働いている人間か。
あるいは犯人か。
その考えに思い至って、蓮子は恐慌し、後ろに下がる。だが廊下の突き当りである為に、逃れ様が無い。
走り寄ってきた男は、扉が開いているのに気がついて、脇目も振らずに教室へ駆け込み、そして悲鳴を上げた。蓮子が這いつくばりながら、教室の中を覗くと、死体の傍に座り込んだ男が蓮子へ振り返った。
「まさか君が」
男はそう言うと、いきなり銃を抜いた。
「え?」
蓮子が恐怖で硬直する。
顔を強張らせた蓮子を見て、男は自分が手に持つ銃を見つめ、驚いた様にそれを取り落とすと、焦った表情で両手を挙げた。
「違う。俺警察。怖くない。大丈夫」
安心させようとしているらしいが、銃を向けられたばかりだというのに、安心出来る筈が無い。蓮子は恐怖で震えながら、男の言った言葉を理解しようとするが、どうしても頭を素通りする。
混乱する蓮子と目を合わせながら、男は銃を拾って立ち上がり、近づいて来た。
「大丈夫。安心して。で聞くけど、これは君がやったの?」
男が死体を指さした。蓮子の視線がそれを追う。そして再び男と目を合わせると、男の表情に恐怖が滲む。
蓮子はようやく男が何を言っているのか理解した。
蓮子が犯人だと疑っているのだ。
それが分かって、慌てて叫ぶ。
「私じゃない!」
蓮子の叫びに、男は益益怯えた表情を見せ、銃を握り締めながら、近づいて来た。
「分かってる。分かってるから、落ち着いて。まず話を」
男が近付いてくる。
銃を握り締めながら。
男は本当に警官なのか、あるいは警官のふりをした犯人なのかは分からない。
とにかくここでじっとしていれば、殺されるか、逮捕される。
それを理解した蓮子は急いで立ち上がる。
と、それに男が慌てた。
「待て!」
男が叫ぶ。
蓮子は息を詰め、男と目を合わせた。男の目は恐怖で見開かれ、正気に見えない。
「動くなよ!」
そう言って、男が銃を構えた。
蓮子に銃口が向いた。
恐怖が破裂する。
蓮子は悲鳴を迸らせてその場から駈け出した。
背後で男が制止する様に求める叫び声が聞こえたが、止まる筈が無い。
蓮子は必死で廊下を駆け抜け、階段を駆け下りる。
と、その途中で、階段の下から別の男の声が聞こえてきた。
男の仲間が居る。
蓮子は立ち止まろうとしたが、勢いがつきすぎて止まれず、そのまま踊り場まで駆け下りた。そこで下からやってきた二人組と鉢合わせる。
驚いた顔の二人と目が合う。逃げようと蓮子は元来た道を戻ろうとしたが、階段の上から駆け下りてくる足音が聞こえた。挟まれた。逃げ場が無い。蓮子は悲鳴を上げながら我武者羅に二人組の横を通り抜けるようとした。幸い二人組は驚いた様子で退いた為、その体にぶつかりつつも通り抜けて、蓮子は階段を駆け下りた。
階段を抜けて、玄関を出て、校庭を走り、外へ出る。一度振り返ると、追手の様子は無い。だが安心は出来ず、蓮子はとにかく駆けた。
さっきのが何者なのか分からない。倉庫の惨劇が何だったのかも分からない。
分からないがとにかく逃げる。
何処をどう走っているかも分からないが、とにかく走る。
走る毎にメリーから離れていっている気がした。
実際、手掛かりがあるのは学校なのにそこから逃げている。
でも学校に戻れば、捕まるか、殺されてしまうだろう。
逃げる事しか出来無い。
メリーからどんどん離れている事が分かっているのに、どうする事も出来無い。
蓮子は涙を流してメリーの名前を呼びながら町を走り続けた。
メリーに助けを求めて叫びながら、何も分からず走り続けた。
救いが欲しかった。
何でも良い。
今のどうしようも無い閉塞感を破ってくれる救いが欲しい。
段差に足を引っ掛け、転んだ事で、蓮子は止まる。
立ち上がって、涙を拭い、鼻を啜って、振り返る。
見た事の無い町並みだ。
随分遠くまで走ってきたらしい。
どうすれば良いのか分からず、心細い思いで辺りを見回し、ふと頭上を見上げると、看板の一つが目に入った。
そこには博霊探偵局と書かれていた。
ここがちゆりの言っていた探偵事務所だと、蓮子は口を開けて古びたビルを見上げる。
メリーとちゆりと一緒に夕食を食べた昨晩を思い出す。
メリーも笑っていた。
ちゆりも笑っていた。
友達を探せるのはここしかないとちゆりが語っていた探偵事務所。
あの時自分はこの博霊探偵局という言葉に期待と興奮を抱いていた。
幸せだった昨晩の光景が輝いて見える。
その明かりが、暗闇に包まれた様な閉塞した今、微かではあるけれど希望に見えた。
救いが欲しい。
一縷でも、切っ掛けでも良い。
現状を打破して欲しい。
蓮子はしばらくビルの前で悩んでいたが、やがて博霊探偵局という看板の掛かったビルに入っていった。
続く
~其は赤にして赤編 9(剣士2)