※この作品は、作品集152『庭師、山にて白狼天狗と相対すること』の設定を引き継いでいます。
どうも。毎度お馴染み、清く正しい射命丸――文様に仕えている鴉だ。
普段は妖怪の山で生活をしている私だが、今日は文様から特命を賜って人里に来ている。此処はいつ来ても賑やかだな。人妖が入り混じっているにもかかわらず、大きなトラブルもなく平和で活気付いている。
さて、特命についてなのだが……ああ、見つけた。彼女だ。
上空から見るとよく分かる。真っ白な髪の毛と獣の耳。そして頭のてっぺんにちょこんと乗った赤い八角帽は妖怪の山に所属する白狼天狗の特徴だ。
しかし、白狼天狗自体はそれほど珍しくない。先も言ったとおり、人里は多くの人妖が行き交う。白狼天狗がいても何らおかしいことはないのだ。
では、いま私が見つけた白狼天狗が目的の人物であると断定したのは何故か?
その白狼天狗には連れがいたのだ。そしその人物の容姿は、事前に文様から聞かされていた特徴に一致する。
銀の髪に黒いリボン。二振りの刀を背と腰に携えた少女。
そして何よりも、その少女に付き従うように浮遊する霊魂が決定的だった。にわかには信じがたいが、あれは少女の半身なのだという。
間違いない。あの二人が今回のターゲット、“犬走椛”と“魂魄妖夢”だ。
時は遡って今朝の話になる。
「いい? 今日の昼ごろ、犬走椛と魂魄妖夢は里で会うはず。あなたは二人を尾行し、その様子を私に報告しなさい」
『御意』
椅子に腰掛け、作業机に広げた原稿を入念に確認しながら告げられた文様の言葉に対し、私は恭しく頭を垂れて「カア」と応えた。
私とて文様には遠く及ばぬものの、僅かなりとも成り上がりを果たした身。人間の言葉を理解することが可能なのだ。普通のカラスとは違うのだよ、普通のカラスとはっ。
……ごほん。
ただ、姿かたちは鴉のままなので、言葉を操るには声帯的に難しいのだが。
『ところで文様、その情報はどこから?』
「この間、手紙を渡した時に魂魄さんから直接聞いたのよ。あの一件以来、すっかりメッセンジャーになっちゃってね。まったく、魂魄さんはともかくとして犬走まで私をアゴで使うなんて」
あの一件――文様から大まかに聞いただけなのだが、少し前に魂魄妖夢は妖怪の山へと侵入したことがあったそうだ。そこで犬走椛と対峙し、なんと魂魄妖夢が勝利を収めたという。それがきっかけで二人は手紙のやり取りという形で交流をするようになったらしい。
そして二人の間を取り持ち、手紙の受け渡しを行っているのが文様というわけだ。
「だから、別に手紙の中を見てとかじゃないわ。気にはなるけど、さすがにそれくらいのプライバシーは守るわよ」
腕を組んでふんと鼻息を一つ。それなら今回の件もプライバシーだとは思うが……まあ、私は文様に仕える身。口出しはすまい。
「犬走と魂魄さん。二人は交流を経てどのように変わっていくのか、様子が知りたくてね。特に犬走は、もともとは気難しい性格だから、少し心配で」
そう言って微笑む文様は、まるで妹を思う姉のようで。
「それに、記事にはならないけど面白そうだし?」
そう言って微笑む文様は、まるで……というか、完全に野次馬根性丸出しで。どちらも本音には違いないだろうが、どちらのウエイトが高いかは言わずもがな。
……正直は美徳だと思う。たぶん。
そして今。私は犬走椛と魂魄妖夢を発見し、こうして上空から監視をしているのだ。
里の入り口で待ち合わせた二人は、連れ立って通りへと歩き出した。互いに言葉を交わしあい、笑いあいながら道を歩く。どれ、何を話しているのか聞いてみようじゃないか。
私は降下し、二人に程近い建物の屋根に着地した。だどんっ、と木製の屋根が音を立てたが、この喧騒の中、それを気にする人はいない。
……いや。怪訝な表情で辺りを見回す人物がひとり。
犬走椛だ。
彼女は訝しげに視線を周囲に向け、やがて私の姿にその目を止めた! 早速ばれたか!?
いや待て、慌てるな。向こうがこちらの正体に気付いているとは思えない。成り上がりを果たしたとはいえ、私の姿はただのカラスと何ら変わりはないのだ。しかし姿を見られたからといってすぐに飛び立てば怪しまれてしまうだろう。ここは下手に飛び立たず、この場で上手く誤魔化すのが得策。
私は内心の動揺を表に出さぬよう注意しつつ、両足に力を込めた。
とんっとんっ、と私は屋根の上を適当に跳ね、何もないところをトン、と啄ばむ。
そして……
「カア」
……どうだッ!? どこから見てもただのカラスだろう!?
引き続き適当に屋根の上をうろうろとしながら、私はさりげなく犬走椛の様子を窺う。
「…………」
「……カア」
犬走椛はまだこちらを見ている。まさか、こちらの正体に気が付いたとでも言うのか!?
とんっ、トト。とんっとんっとんっ。
身に突き刺さる視線を感じながら、私はひたすらにカラスを演じる。焦燥感が募るが、まだだ……まだ飛ぶには早いっ……!
「…………」
「椛、どうしたんですか?」
そろそろ頃合だろうと離脱を考えていたところで、犬走椛に言葉が投げかけられる。
黒いリボンをぴょこんと揺らしながら、魂魄妖夢もこちらに顔を向けた。
「カラスですね」
「ああ。……いや、何でもない。行こう」
尚もこちらに不審げな視線を送っていた犬走椛だが、やがて小さく首を振ると再び魂魄妖夢と歩き出した。
「……」
私はカフと息をつき、その場に座り込んだ。早速の窮地に緊張で羽が抜け落ちそうだった。
どうやら、犬走椛は随分と勘が鋭いようだ。接近の際には細心の注意を払わねば。
……おっと。いつまでも休んでいられないな。二人は大通りに出ようとしているようだ。人里でも特に往来の激しい大通り。一度見失ってしまえば、また見つけるのは苦労するだろう。
私は立ち上がると翼を広げ、尾行を再開した。
やがて二人は一軒の建物に入っていった。何だろうか? 私は通りを挟んだ反対側の建物の屋根に着地し、中を窺う。
開放された入り口から見えるのは、深く広い箱の中に突き立てられた刃、刃、刃。それに、刃物だけでなく弓や昆なども見える。
なるほど、二人の入った建物は武器を取り扱う店舗のようだ。
スペルカードルールが制定され、過去に比べれば随分と平和になった幻想郷。しかしだからといって、妖怪による人死にが完全になくなったわけではない。スペルカードルールを理解できない妖怪への対策として、こういった店も必要なのだろう。
私は再び飛び立ち、今度は武器屋の隣の建物に着地する。だどんっ、と音が鳴ったが、なに、二人は店の中。さすがに隣の店の音にまで気付くことはないだろう。
私は隣の屋根から武器屋の屋根へ静かに飛び移る。慎重に歩を進め、入り口近くまで移動したところで木製の屋根に頭を寄せ、耳を澄ませる。
喧騒の中、私は二人の会話を拾い上げることに成功した。
『……妖夢、これなんかどうだ?』
『うーん、まだちょっと短いですね。……あ、これがちょうどいいかも』
『そんなに長かったか?』
『はい。ほら、ピッタリ』
『なるほど、確かに』
がちゃがちゃと商品を物色する音と二人の会話が聞こえる。何を買うつもりなのか気になるが、さすがに店内に飛び込むわけにはいかないだろう。
……しかし、“女の子が二人で仲良く武器選び”という構図は果たして如何なものか。
などと、少女たちの殺伐としたオシャレ事情(?)に首をかしげているうちに、二人が店から出てきてしまった。いけない、この位置では見つかってしまう。
私は急いで屋根を上り、中ほどで重しとして設置されている屋根石の影に隠れた。そして頭だけをそろりと出して、店の前を窺う。
犬走椛と魂魄妖夢は、それぞれ長い布袋を肩に掛けていた。犬走椛はやや幅のあるものを。魂魄妖夢は細身ながら自身の身長ほどもあろうかという長いものと、それと比べるとやたら短いものを一本ずつ。
さて、中身はなんだろう? 見た目や二人の得物から推察するに、やはり刀剣の類だろうか。
と、犬走椛が足を止めた。また感付かれたか!?
私は首を引っ込め、再び屋根石の影に身を隠す。
ぴりぴりと、周囲の空気が張り詰めているような気がする。いや、明らかに私のいる辺りに意識が向けられている……!?
私は息を潜め、ただその場でじっとしていることしか出来ない。だが、姿は見えていないはずだ。いくら怪しんでいるとはいえ、ここまで来ることはあるまい。
「…………」
「…………ふん」
案の定、張り詰めた空気は鼻を鳴らす音とともに霧散した。
「…………」
十分な時間をおいてから、私は通りを窺い見た。犬走椛と魂魄妖夢は、こちらに背を向けて再び歩き出している。やれやれ、気の休まる暇がないな。
さて、追跡を再開せねばと私はばさりと翼を広げた。ひらひらと店先に落ちていく黒いの羽を、私は溜め息をつきながら見送った。
通りを歩く二人を空から追跡する。
魂魄妖夢はともかくとして、犬走椛は勘が鋭いうえに何故か警戒もしているようだ。接近も控えたほうがいいかもしれない。
次の二人が立ち寄ったのはカフェー。
大通りから外れ、やや閑散とした通りに面して構えられた、落ち着いた雰囲気の店だ。人通りは少ないが、客入りは悪くない。
二人はオープンテラスの座席に案内され、仲良く品書きを見ている。こうして見ると、まるで姉妹のようだ。
さて、せめて会話くらいは聞いておきたいものだが、迂闊に接近してはまた犬走椛に感付かれてしまう。
私はひとまずカフェーから離れた建物の屋根に降り立ち、カフェーの全体をゆっくりと俯瞰する。
ふむ……。テラスは地面よりも高い位置に造られており、床下に小さな子供くらいなら屈んで潜り込めそうなスペースがあった。あそこだ。
私は軽いステップで屋根から飛び立ち、二人から死角になる路地までゆるりと滑空して着地した。そしてテラスの床下へと歩き出す。通りを歩く人間が何人かこちらを興味深げに見ているが、気にしない。鳥がいつも飛んでいるだけだと思ったら大間違いだぞ。
床下は薄暗かったが、床板の隙間からこぼれる陽光のおかげで全く見えないほどではなかった。
二人の真下と思われるポイントまで歩みを進めると、折りよく頭上から降ってくる声。
『わあ、わー……』
『パフェがそんなに珍しいか?』
『はい! 幽々子さまは和食を好まれますから、甘味も饅頭やあんみつなど和のものが多いんです。だから、こういった西洋の甘味は新鮮で……わー……』
物珍しさも相まってだろう。魂魄妖夢が感嘆詞をばら撒いていた。犬走椛からは苦笑の気配。そして床板の隙間からここまで漂ってくるは甘い香り。
『それだけ喜んでもらえたのなら連れてきた甲斐があったな。さあ、食べよう』
『はい! いただきます!』
ぱんっ! と手を合わせる音と、次いで食器の触れ合う音が響く。
『んー……んー! んー!』
『美味いか? と、聞くまでもないようだな』
見えずとも分かる。今度は“ん”をばらまいて幸せそうにしている魂魄妖夢と、その様子を見て犬走椛は笑みを深めているのだろう。
しかし……こうして観察をしていると、にわかには信じられなくなってくる。今、床板をはさんだ私の頭上で無邪気にパフェを頬張っている少女が天狗に勝ったとは。
天狗は幻想郷でもかなり強い力を持った種族だ。その中でも白狼天狗は山の警護を担う、最も荒事に近い位置にいる種族。速さは鴉天狗に劣るものの、純粋な戦闘のセンスや肉体の頑強さは天魔、大天狗に次ぐと考えられる。その白狼天狗に勝つなど、並大抵のことではない。果たして魂魄妖夢とはいったい何者なのか。
……まあ、私には関係のないことだが。
閑話休題。思索に耽るうちにも、頭上からは二人の会話が聞こえてきていた。
『んぐ、椛はここによく来るんですか?』
『いや……今回が二回目だ。少し前に射命丸さんの取材に付き合わされて入ったのが初めてだったな』
『射命丸さんと……もぐ。仲がいいんですね』
『違う。あの人とは別に仲がいいわけではない』
『あれ? そうなんですか? わざわざ私たちの手紙を届けてくれますし、んむ、てっきり仲がいいものだと』
『それはお前の主人が新聞の購読者だからだろう。あの人とは……別に、人に話すほどの関係では、ない……』
『えー、教えてくださいよ。友人じゃないのならどんな関係なんですか? あむ、ん。仲が悪かったら手紙を届けてくれたり、カフェーに誘ったりしないですよね?』
『む……それは…………』
犬走椛の狼狽した声。確かに、文様と犬走椛の関係は私も気になるところだ。
鴉天狗と白狼天狗は山での役割が全く違う。報道活動を主とする鴉天狗と山の警護を担う白狼天狗では、顔を合わせることはあれど、言葉を交わすことなどないと思うのだが……
『あん。むぐ、それは? もぐ』
『……クリーム、垂れてるぞ』
『え? あっ! ああ!』
『食べながら喋るからだ』
『店員さん! 拭くものっ、拭くものを貸してください!』
誤魔化されてしまったか。どうして犬走椛は文様との関係を隠したがるのか? 怪しい……
まあ、その辺りはいずれ文様に聞いてみることにしよう。犬走椛とは言葉が通じないからな。
結局、魂魄妖夢からの追求を犬走椛はのらりくらりとかわし、逸らし続け、文様との関係は分からないままだった。
カフェーを出てから二人は、再び並んで通りを歩き出した。
服飾店を冷やかし、どこかの僧侶が行っていた説法に舟をこぎ、広場で開かれていた人形劇を眺めたりしながら、二人は里を巡る。穏やかで、平和な時間。明確な目的はなく、適当にぶらついているようだ。
さて、と私は考える。
犬走椛は、周囲を警戒していたとき以外では笑みを絶やすことがなかった。魂魄妖夢に至っては警戒などまるでなく、コーヒーを口にして顔をしかめたとき以外はずっと楽しそうにしていた。二人のことをそれほど知っているわけではないが、それでも犬走椛と魂魄妖夢の出会いは二人にとって良いものだったと私は感じる。
もう日が傾いてきていた。文様へ報告するために山へ帰るのならば、そろそろ里を発たねば。
しかし。
「!」
上空から二人を見下ろしていた私は、唐突に空を見上げた犬走椛と目が合った気がした。……いや、気のせいではない。彼女は明らかにこちらを見ている。やはり私がつけていたことに気付いていたか……?
犬走椛は手荷物を魂魄妖夢に預けて屈伸運動を始めた。ふん、私を捕まえようというのか。無駄なことを。いかに白狼天狗といえども、空は鴉の領域。そう簡単に捕まるわけがなかろう。
「さて。」
「椛、そのカラスがどうかしたんですか?」
「…………カア」
頭上から降るのは白狼と半人の声。白狼の両手には両の翼をがっしりと押さえられて身動きの取れない哀れな鴉が一羽。
……私だ。
いや、まさかあの距離を一瞬で詰められるとは思わなかったのだ。こちらは空にいるからと慢心が過ぎた結果だった。
「この鴉は昼間からずっと私たちをつけていた」
「!」
「カラスが?」
やはり気付かれていた! しかも最初からだと!?
しかし、何故……?
「まさか、そんなこと……ずっとつけていたって、椛はカラスの見分けがつくんですか?」
「カアカア!」
魂魄妖夢は信じられないといった様子。私にも信じられない。犬走椛がいかに目の良い白狼天狗だとしても、同族でもない動物の見分けなど出来るものか。ましてや犬走椛は私の姿を近くで見ていない。どう考えても見分けられるわけがないはずだ。
「いや、見分けはつかないが、間違いなくこいつは私たちをつけていた。何故なら……」
犬走椛はくんと鼻を鳴らし、
「この鴉からは石鹸の匂いがする」
…………
「カア!?」
「最初にお前の姿を見た時から妙な匂いがしていると思っていたのだが、まさか本当にお前の匂いだったとはな」
か、嗅ぎ分けられていた、だと!?
……そういえば、出発前に『私の匂いがついていてはバレてしまう』と身体を洗われたが……やはりそこまで丹念に洗うものではなかったようです、文様……
項垂れる私に魂魄妖夢が顔を近付けてくる。
「……あ、本当だ。いい匂いがします」
「それと、今の私の言葉に動揺したな。恐らくこいつは人の言葉を理解できる、成り上がりの身だ」
「カ!?」
「すなわち、たまたまではなく何かしらの意味を持って私たちの後をつけていた可能性がある」
まずい、ここまで看破されてしまうとは……!
どうする、どうするッ……!?
自問するが、手も足も出ないこの状況で私に出来ることなどなく。
「さあ、何でお前は私たちの後をつけていた? 誰かに命令でもされたのか?」
「カア……」
頭上から投げかけられる問いにも、手も足も出ず、言葉も通じない私には力なく声をあげることしか出来ず。
「……言葉までは操れないのか、それともそういうフリをしているだけか……?」
「そのカラス、どうするんですか?」
「さて……。さすがに鴉の言葉は理解できないからな。このまま問い質しても埒が明かない」
魂魄妖夢の問いに犬走椛は思案顔。私を捕らえる手の力は緩めぬまま「うーむ」と唸り声を上げる。
と、魂魄妖夢が身を屈めて私と視線を合わせてきた。物珍しげな視線。そ、と私の頭に手を伸ばして指先でちょんと頭を軽く小突いてきた。何をする。避けようと頭を動かすが、いかんせん身体を動かせないこの状況である。魂魄妖夢は変わらず私の頭をちょんちょんと小突き続ける。
やがて慣れてきたのか、うりうりと頭を撫で始めた。ええい、鬱陶しい。
「へえ。カラスの羽って意外と柔らかいんだ」
「……今日の晩飯にでもしてしまおうか」
「え!?」
「カア!?」
ようやく口を開いた犬走椛の言葉に、私と魂魄妖夢の声が重なった。なんとか首を逸らして犬走椛に顔を向けるを
「そっ、それはいくらなんでも!」
「カア! カアカカアカアカーア!!」
そういえば鳥を食べるのも久しぶりだな。さて、どう調理してやろうか……!」
「カアーァ!?」
訴えは届かず、犬走椛は凶悪な牙を口の端から覗かせながら言う。
万事休すか。もはや逃げることも叶わず、死を覚悟するより他はないようだ……
あぁ……どうせ食べるなら、せめて美味しく調理してほしい。
その時。
「何やら騒がしいと思って来てみれば……犬走に魂魄さん、こんなところで何してるんですか?」
私は神に感謝した。
私の背後から――すなわち、犬走椛の背後から――かかった声は聞き間違えようもない。
「こんにちは、射命丸さん」
「……射命丸さん」
「どうもー。……あら、鴉」
最も里に近い天狗であり私の主である射命丸文様は、振り返った犬走椛に捕獲されている私を興味深げに眺めた。
勿論、鴉天狗である彼女は鴉の言葉を理解できるし、見分けもつく。私のこともわかっているはずだ。
「そのコ、どうしたの?」
「私たちの後をつけてたので捕獲しました」
「カーア……」
「ふーん。犬走、あなた鴉の見分けなんてついたの?」
文様は私のことなどまるで知らない風を装ったまま、魂魄妖夢と同じ問いを犬走椛に投げかけた。当然だ。ここで私たちが知り合いであることがバレてしまうわけにはいかない。
「いえ、見分けはつきませんが――」
犬走椛は先ほどと同じ説明を文様に話した。
結果、文様は石鹸のくだりで噴き出した。
「……何かご存知のようですね」
犬走椛の瞳が鋭く細められる。魂魄妖夢の表情からも不審の色。そして犬走椛の両手にこもる力。痛い痛い痛い。
「いえ、知っているというかー……」
歯切れ悪く目を泳がせる文様。あの、早く何か言ってくれないと圧死しそうなのですが。
「その鴉の身体は、今朝がた私が洗ってやったのよ」
「ほう。何故?」
「何故って、汚れてたからに決まってるでしょ。何があったのか知らないけど、その鴉、私が見つけた時は泥だらけだったのよ。だから家に連れて帰って洗ってあげたの」
もっともらしい理由で誤魔化しにかかった文様に対して、犬走椛は未だに疑りの眼差し。ふむ、そういう話ならば。
「カア」
ここは私も加勢せねばなるまい。自らの命のためにも。
私は三対の視線を受けながら、自身が汚れていた――という設定の――もっともらしい理由を話す。無論、文様以外にはただの鳴き声にしか聞こえないだろうが。
私の言葉に文様は納得顔。この案を採用してくださるようだ。
「なるほど、そういうことでしたか」
「何と言っていたんですか?」
「昨日、守矢神社の二柱がケンカ……弾幕ごっこをしていたでしょう? あれのとばっちりで泥をかぶってしまったそうです」
「……本当にそう言っていたんですか?」
「あら、ウソを言っているとでも?」
“私がそう言っていた”ということに関しては嘘ではない。内容は嘘であるが。
しかしそんな様子はおくびも出さずに、文様は八つ手の団扇を仰ぎながらいつもの不敵な笑みを浮かべていけしゃあしゃあと言う。
そんな文様を犬走椛はジト目で見ながら、
「あなたですから」
「信用ないわね!?」
「あると思ってたんですか?」
「いやまあ」
気まずげに顔を背けて団扇をぱたぱた。
「……まあ、いいでしょう。こいつから石鹸の匂いがする理由はわかりました。ですが、私たちをつけていた理由がまだ分からないのですが?」
「あー」
「カア」
文様の額をつ、と汗が流れた。お任せください。そちらの話も考えてあります。
「……今度は何と?」
「犬走に一目惚れしたと」
「本当は?」
「ヤダ、この子冷たい……。魂魄さんの髪の毛が綺麗だったから、つい追いかけていたらしいわ」
「え、私?」
文様と犬走椛が揃って魂魄妖夢の頭に目を向ける。視線を受け、魂魄妖夢は困ったようにきょろきょろと二人を見回し、その度にさらりと揺れる銀の髪が夕日を反射してきらきらと輝いていた。
「なるほど、確かに綺麗ですね。光り物を好む鴉にとっては十分に興味の対象になり得ます」
「まあ……確かに、綺麗ですが」
「えっと、その……ありがとうございます」
天狗二人の賛辞に、魂魄妖夢を頬をほんのり朱に染めた。
「カア」
「何本か欲しいと言っていますが」
「いやそれはちょっと」
「だって。諦めなさい。でないと、そこの凶暴な白狼天狗に食べられちゃうわよ」
「食べませんよ」
「えっ、でもさっき」
「あれは冗談だ、妖夢」
「カア……」
私は残念そうな声をあげた。我ながら見事な演技力だと思う。
「さて、疑いも晴れたことだし、そろそろ放してあげたら?」
「むう……」
犬走椛は未だに渋面。往生際の悪いやつめ。早く開放するんだ。
「逃がしてあげましょうよ、椛」
「……むう」
魂魄妖夢の言葉に、ようやく私を捕らえる手が緩んだ。今だ!
翼と足で無理やり犬走椛の手をこじ開け、私はようやく解放された。犬走椛の手の中から飛び出し、差し出された文様の腕に乗る。
「カア!」
「はいはい、食べられなくて良かったわね。ところで、お二人は揃ってこんなところで何を?」
「ああ、これです」
文様の問いに、犬走椛は魂魄妖夢から受け取った布袋を掲げて見せた。そのまま袋の口を拡げ、中身を取り出す。
袋から姿を表したのはやや幅広にデザインされた木刀だった。
「聞けば、妖夢には一緒に修行する相手がいないとのことだったので、たまに私がその相手をしてやろうかと」
「さすがに真剣で修行するわけにはいきませんからね」
「なるほど。では、魂魄さんが持っているのは」
「はい。白楼剣と楼観剣の代わりです」
魂魄妖夢も持っていた二つの布袋を眼前に掲げる。二人が行動を共にしていたのはこれらを買うためだったようだ。
「ほうほう」と熱心にメモを取る文様に対して犬走椛は不審げに口を開いた。
「何をメモしてるんですか」
「んー、今日この時間に犬走と魂魄さんに会ったこと。取材以外のことでも残しておくと、後々便利だったりするのよ」
「射命丸さんはいつも仕事熱心ですね」
「好きでやってることですから。……それに“白狼天狗、里にて冥界の庭師と逢引すること”ってだけでも記事にはなりそうですし?」
ひゅッ!
鋭く空を切る音。
犬走椛が身を捻って繰り出した尻尾の一撃は目標に届くことはなく、文様は軽くバックステップでその一撃を避けた。私は急激な動きに危うく振り落とされそうになったが、なんとか踏ん張って耐えることに成功した。
「ちょちょ! 射命丸さん、何を言ってるんですか!? あああ逢引だなんて!」
「何を、記事にすると?」
対照的な二人のリアクション。慌てる魂魄妖夢に対し、犬走椛は静かに大太刀――木刀だが――を布袋から抜き放った。
「ふふん、いきなり攻撃してくるなんて、図星だったかしら?」
対する文様は団扇で口許を隠しながらにやにやと言った。あの、あまり煽るのは、
ガッ!
足元の感覚がなくなる。次いで間髪いれずに硬い衝突音。大太刀の一撃を文様は再び後ろに跳んで回避。さすがに文様の腕に留まっていられず振り落とされた私は、慌てて羽ばたきその場に滞空する。木製の大太刀は折れることなく地面にめり込み、幻想郷の大地に僅かな亀裂を刻み付けていた。なるほど、なかなか上質なものを買ったようだと、私は妙に冷静に分析した。
「安心しなさい。余ったスペースにちんまり載せるだけだから。文々。新聞はこんなことに大きな紙面を割いたりしないわ」
にやり、にやりと文様は笑み深く告げる。その態度を前に、犬走椛の視線はまさに刃の如し。刺し貫かんばかりの鋭さを以って文様を睨みつけていた。
「どうやら、あなたとは一度はっきりと決着をつける必要がありそうですね」
「あら、いつぞやの続きかしら? 弾幕勝負なら受けて立つわよ?」
「あの、二人とも喧嘩は……」
「場所を変えましょう。ここでは里に被害が出てしまう」
「いいわよ。完膚なきまでに叩きのめしてあげる」
妖気を高めながら二人の天狗が宙に浮く。私はおろおろと両天狗を見回す魂魄妖夢のもとへゆっくりと飛び、その銀髪に降り立った。
「ちょ、ちょっと! 何するのよっ?」
頭と腕を振って抵抗する魂魄妖夢を私は軽くかわし、その腕にとまる。
「カア」
「……なに、足場が欲しかったの?」
こちらの意図を理解した魂魄妖夢は抵抗を止め、大人しく腕に留まらせてくれた。これでようやく落ち着ける。
さて、魂魄妖夢と戯れている間に二人の天狗は里の外へと飛び去ってしまったが……まあ、文様なら負けることはあるまい。私はのんびりと二人の飛んでいった先を眺めていた。
茜に染まった空を弾幕が彩る。
「ああ、始まっちゃった」
魂魄妖夢は私を腕に乗せたまま、溜め息をついて二人のもとへと歩き出した。
魂魄妖夢が二人のもとに辿り着いた時には、既に決着がついていた。
里の外れ、だだっ広い空き地に犬走椛はゆっくりと降り立ち、そのまま息荒く膝をついた。
弾幕ごっこは文様の勝利で幕を閉じたようだ。当然だ。文様はこれまで多くの少女たちが繰り出す弾幕を潜り抜けて撮影をしてきたのだ。犬走椛が勝てる道理は無い。
くたびれた様子の犬走椛に魂魄妖夢が駆け寄る。
「椛、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ」
応える犬走椛の姿はまさに満身創痍。左頬にはかすり傷。着ている装束は傷だらけで、右の袖に至っては大きく裂けてしまっていた。
「身の程がわかったかしら?」
「ぐるる……!」
対照的に余裕の表情で地に降り立った文様を、犬走椛は唸り声を上げながら睨み付けた。文様の服にも僅かに傷があったが、犬走椛のそれほどではない。グレイズ分だろう。
「さて、犬走と遊んでたら遅くなっちゃったわね。私は帰るけど、あなた達もほどほどで帰りなさいよ」
八つ手の団扇をぱたぱたと扇ぎながら犬走椛と魂魄妖夢に言い、そして私に軽く目配せをしてから文様は山への方へと歩き出した。
と、去り際にちらりと顔をこちらに向け、
「それと、あなたたちのことを記事にするなんて嘘に決まってるじゃない。犬走はともかくとして、魂魄さんのご主人様は文々。新聞の大事な購読者なんだから。購読者の身内を晒し上げるような真似するわけないでしょ」
「それもっと早く言ってくれませんかね!?」
犬走椛の怒鳴り声を華麗に無視して、今度こそ文様は山へと飛び去ってしまった。
「まったく、これじゃあ負け損じゃないか……」
「ま、まあ、記事にはしないって言ってましたし、それでよしとしましょう?」
ぎりぎりと悔しげに歯軋りをする犬走椛を魂魄妖夢がたしなめる。
眉間に皺を寄せたまま犬走椛は魂魄妖夢の顔を見上げ、私を見て更に渋い顔をした。
「……はあ」
しばしこちらを睨んで溜め息を吐いた後、犬走椛はのそりと立ち上がって大太刀の木刀を布袋にしまった。鴉の顔を見て溜め息とは失礼な。
「私たちも帰ろう。妖夢も、あまり遅くなっては主人が心配するだろう?」
「そうですね。帰りましょうか」
「……お前はこっちに来るんだ」
「カ?」
妖夢の腕の上で傍観を決め込んでいた私の前に、犬走椛の腕が差し出された。乗り移れ、ということなのだろう。
「どうせ今から帰ったのでは、山に着く前に日が暮れてしまうだろう。私の足なら日暮れ前に戻ることができる。麓までは送ってやるから、後は好きにしろ」
ジト目で言われ、西の空に目を向けて私はようやく気がついた。陽が落ちかかっているではないか。完全に陽が落ちてしまえば、鳥目の私は何も見えなくなってしまう。
犬走椛の申し出は非常に有難かった。里で夜を明かしてもよかったのだが、報告は早いほうがいい。私は差し出された腕に飛び移った。
「カア」
「ふふ、嬉しそうじゃないですか?」
「……さて、どうだかな。鴉の考えていることはわからん」
微笑む魂魄妖夢に、犬走椛は山の――文様の飛んでいった方角に目を向け、憮然とした表情のまま応えた。
「ふぅん、そう。随分と楽しんでいたみたいね」
『はい。文様は犬走椛のことを“頭の固い白狼天狗”と仰っていましたが、見ていた限りではそのような印象を受けませんでした。むしろ、穏やかで面倒見の良い……そう、まるで魂魄妖夢の姉のようでした』
「……姉のよう、か」
黄昏時を経て、夜。
幻想郷の闇を照らすは空に煌々と輝く月と、電球のほのかな明かりのみ。私は光源――文様の作業机に取り付けられた電球を見上げて目を細めた。 作業机の隅に立った私の報告を聞いた文様は、現像した写真を確認しながら笑みを浮かべる。その笑みには喜びと、少しの寂しさが混じっているように見えて。
ぺらり、ぺらり。
一枚一枚、文様は写真をじっくりと見ていく。そして確認した写真を左へ、右へ。左の写真の方が少ない。こちらが記事に使われるものだろうか。
「……あのカフェーにも行ったのね」
『はい』
聞くべきか。
僅かな逡巡の後、私は疑問を文様にぶつけることにした。
『……そのカフェーで犬走椛は、文様との関係を魂魄妖夢に聞かれ、かたくなに回答を避けていました。文様は、犬走椛と何か因縁でもあるのですか?』
「あら。別に隠す必要なんてないのに……とはいかないか、あの子の性格上はまだ」
ぱさりと写真を机の上に放って文様は「んー」と大きく伸びをした。そしてそのまま両手を頭の後ろで組んで目を閉じ、言葉を続ける。
「因縁なんて大げさなものじゃないわ。あれは、守矢神社が幻想郷に引っ越してきた頃だったかしら。
あの時、博麗の巫女と人間の魔法使いが山に侵入してきたでしょ? 犬走ったら、ろくな弾幕も撃てないくせ迎撃に飛んで行ったらしくてね。あっさりに撃墜されて、危うく滝壺に飲み込まれそうだったところを私が助けてあげたのよ。犬走と知り合ったのはそれがきっかけ」
『では、文様は犬走椛の命の恩人だったのですか』
「そ。白狼天狗にしてみれば、鴉天狗に命を救われたなんて悔しくて仕方がなかったのかもね」
なるほど。
天狗という種族は総じてプライドが高く、他種族だけでなく天狗同士でも――例えば白狼天狗と鴉天狗の間でも――互いを見下しあっていると聞く。自分が見下していた者に命を助けられたなど、犬走椛にとっては話したくない過去なのだろう。
「種族間のしがらみや他種族への偏見なんて、私に言わせればナンセンス極まりないわ。少し前の犬走は特にそんな考え方に囚われていたから、私はその“固定観念”を壊してあげたかった。だから、あの後も気にかけて話しかけたりしてたんだけど……」
『……』
「でも……つまるところ、何事も百聞は一見に如かず。さらには百見は体験に如かずってことね。私がいくら見聞きしたことを伝えようとも、実際に刃を交えた魂魄さんのほうが犬走に与えた影響は大きかった、か」
す、と目を開いて文様は天井を見つめる。その黒曜石の如き黒い瞳はいったい何を見ているのか、ただの鴉に過ぎない私にはわからない。
ただ一つ、分かることは。
『……悔しそうですね』
「少しだけ、ね。あんな生意気で無愛想な子でも、長いこと話していれば愛着も湧くわ。いつの間にか、私は彼女のことを妹のように思っていたのかもね」
言って、照れくさそうに頬をかく。
私は一つに予想に至る。文様が犬走椛に対して妙に挑発的な態度を取っているのは、こうして犬走椛を想っていることを隠すためなのではないだろうか。つまりは、ただの照れ隠しなのでは、と。
……まあ、恐ろしくてそんなこと聞けないが。
「その妹分の“固定観念”を変えることが出来なかった自分の不甲斐無さに、そして私に出来なかったことを成し遂げてくれた魂魄さんに対して、確かに私は『悔しい』と感じている。もちろん、魂魄さんには感謝をしているけどね」
そう言いながらも、文様は穏やかな笑みを浮かべていた。恐らく、悔しさよりも、犬走の心が変化していることに対する喜びのほうが大きいからなのだろう。
やがて文様は目を閉じて軽く頭を振った。そして次に目を開いたとき、その表情は活力に満ち溢れていた。
「でもっ、それ以上に今はやる気に溢れているわよ。目指すは体験に勝る新聞! 読んだら血ヘド吐くような新聞を書いてやるわ!」
『それは……やめたほうがよいのでは……』
新聞を読んだ瞬間、血を吐きながらバタバタと倒れてゆく人妖を想像して私はやるせない気持ちになった。これではむしろ購読者が減ってしまうだろう。
「よしっ! 明日も頑張りましょ!」
私の心配など知る由も無い文様は、がたんと勢いよく立ち上がると台所へと歩いていく。
「晩ごはん食べる? 栗ご飯なんだけど」
『いただきます』
先ほどまでのしっとりした雰囲気はどこへやら。すっかりいつも通りだ。うむ、やはり文様はこうでなくては。
常に前を見て、誰よりも速く、誰よりも不遜な鴉天狗。それが私の仕える主、射命丸文だ。
文様は心から楽しげに笑いながら言う。
「犬走に魂魄さん、二人の今後が楽しみだわ。……うん、向こう数百年は退屈しないで済みそうね」
どうも。毎度お馴染み、清く正しい射命丸――文様に仕えている鴉だ。
普段は妖怪の山で生活をしている私だが、今日は文様から特命を賜って人里に来ている。此処はいつ来ても賑やかだな。人妖が入り混じっているにもかかわらず、大きなトラブルもなく平和で活気付いている。
さて、特命についてなのだが……ああ、見つけた。彼女だ。
上空から見るとよく分かる。真っ白な髪の毛と獣の耳。そして頭のてっぺんにちょこんと乗った赤い八角帽は妖怪の山に所属する白狼天狗の特徴だ。
しかし、白狼天狗自体はそれほど珍しくない。先も言ったとおり、人里は多くの人妖が行き交う。白狼天狗がいても何らおかしいことはないのだ。
では、いま私が見つけた白狼天狗が目的の人物であると断定したのは何故か?
その白狼天狗には連れがいたのだ。そしその人物の容姿は、事前に文様から聞かされていた特徴に一致する。
銀の髪に黒いリボン。二振りの刀を背と腰に携えた少女。
そして何よりも、その少女に付き従うように浮遊する霊魂が決定的だった。にわかには信じがたいが、あれは少女の半身なのだという。
間違いない。あの二人が今回のターゲット、“犬走椛”と“魂魄妖夢”だ。
時は遡って今朝の話になる。
「いい? 今日の昼ごろ、犬走椛と魂魄妖夢は里で会うはず。あなたは二人を尾行し、その様子を私に報告しなさい」
『御意』
椅子に腰掛け、作業机に広げた原稿を入念に確認しながら告げられた文様の言葉に対し、私は恭しく頭を垂れて「カア」と応えた。
私とて文様には遠く及ばぬものの、僅かなりとも成り上がりを果たした身。人間の言葉を理解することが可能なのだ。普通のカラスとは違うのだよ、普通のカラスとはっ。
……ごほん。
ただ、姿かたちは鴉のままなので、言葉を操るには声帯的に難しいのだが。
『ところで文様、その情報はどこから?』
「この間、手紙を渡した時に魂魄さんから直接聞いたのよ。あの一件以来、すっかりメッセンジャーになっちゃってね。まったく、魂魄さんはともかくとして犬走まで私をアゴで使うなんて」
あの一件――文様から大まかに聞いただけなのだが、少し前に魂魄妖夢は妖怪の山へと侵入したことがあったそうだ。そこで犬走椛と対峙し、なんと魂魄妖夢が勝利を収めたという。それがきっかけで二人は手紙のやり取りという形で交流をするようになったらしい。
そして二人の間を取り持ち、手紙の受け渡しを行っているのが文様というわけだ。
「だから、別に手紙の中を見てとかじゃないわ。気にはなるけど、さすがにそれくらいのプライバシーは守るわよ」
腕を組んでふんと鼻息を一つ。それなら今回の件もプライバシーだとは思うが……まあ、私は文様に仕える身。口出しはすまい。
「犬走と魂魄さん。二人は交流を経てどのように変わっていくのか、様子が知りたくてね。特に犬走は、もともとは気難しい性格だから、少し心配で」
そう言って微笑む文様は、まるで妹を思う姉のようで。
「それに、記事にはならないけど面白そうだし?」
そう言って微笑む文様は、まるで……というか、完全に野次馬根性丸出しで。どちらも本音には違いないだろうが、どちらのウエイトが高いかは言わずもがな。
……正直は美徳だと思う。たぶん。
そして今。私は犬走椛と魂魄妖夢を発見し、こうして上空から監視をしているのだ。
里の入り口で待ち合わせた二人は、連れ立って通りへと歩き出した。互いに言葉を交わしあい、笑いあいながら道を歩く。どれ、何を話しているのか聞いてみようじゃないか。
私は降下し、二人に程近い建物の屋根に着地した。だどんっ、と木製の屋根が音を立てたが、この喧騒の中、それを気にする人はいない。
……いや。怪訝な表情で辺りを見回す人物がひとり。
犬走椛だ。
彼女は訝しげに視線を周囲に向け、やがて私の姿にその目を止めた! 早速ばれたか!?
いや待て、慌てるな。向こうがこちらの正体に気付いているとは思えない。成り上がりを果たしたとはいえ、私の姿はただのカラスと何ら変わりはないのだ。しかし姿を見られたからといってすぐに飛び立てば怪しまれてしまうだろう。ここは下手に飛び立たず、この場で上手く誤魔化すのが得策。
私は内心の動揺を表に出さぬよう注意しつつ、両足に力を込めた。
とんっとんっ、と私は屋根の上を適当に跳ね、何もないところをトン、と啄ばむ。
そして……
「カア」
……どうだッ!? どこから見てもただのカラスだろう!?
引き続き適当に屋根の上をうろうろとしながら、私はさりげなく犬走椛の様子を窺う。
「…………」
「……カア」
犬走椛はまだこちらを見ている。まさか、こちらの正体に気が付いたとでも言うのか!?
とんっ、トト。とんっとんっとんっ。
身に突き刺さる視線を感じながら、私はひたすらにカラスを演じる。焦燥感が募るが、まだだ……まだ飛ぶには早いっ……!
「…………」
「椛、どうしたんですか?」
そろそろ頃合だろうと離脱を考えていたところで、犬走椛に言葉が投げかけられる。
黒いリボンをぴょこんと揺らしながら、魂魄妖夢もこちらに顔を向けた。
「カラスですね」
「ああ。……いや、何でもない。行こう」
尚もこちらに不審げな視線を送っていた犬走椛だが、やがて小さく首を振ると再び魂魄妖夢と歩き出した。
「……」
私はカフと息をつき、その場に座り込んだ。早速の窮地に緊張で羽が抜け落ちそうだった。
どうやら、犬走椛は随分と勘が鋭いようだ。接近の際には細心の注意を払わねば。
……おっと。いつまでも休んでいられないな。二人は大通りに出ようとしているようだ。人里でも特に往来の激しい大通り。一度見失ってしまえば、また見つけるのは苦労するだろう。
私は立ち上がると翼を広げ、尾行を再開した。
やがて二人は一軒の建物に入っていった。何だろうか? 私は通りを挟んだ反対側の建物の屋根に着地し、中を窺う。
開放された入り口から見えるのは、深く広い箱の中に突き立てられた刃、刃、刃。それに、刃物だけでなく弓や昆なども見える。
なるほど、二人の入った建物は武器を取り扱う店舗のようだ。
スペルカードルールが制定され、過去に比べれば随分と平和になった幻想郷。しかしだからといって、妖怪による人死にが完全になくなったわけではない。スペルカードルールを理解できない妖怪への対策として、こういった店も必要なのだろう。
私は再び飛び立ち、今度は武器屋の隣の建物に着地する。だどんっ、と音が鳴ったが、なに、二人は店の中。さすがに隣の店の音にまで気付くことはないだろう。
私は隣の屋根から武器屋の屋根へ静かに飛び移る。慎重に歩を進め、入り口近くまで移動したところで木製の屋根に頭を寄せ、耳を澄ませる。
喧騒の中、私は二人の会話を拾い上げることに成功した。
『……妖夢、これなんかどうだ?』
『うーん、まだちょっと短いですね。……あ、これがちょうどいいかも』
『そんなに長かったか?』
『はい。ほら、ピッタリ』
『なるほど、確かに』
がちゃがちゃと商品を物色する音と二人の会話が聞こえる。何を買うつもりなのか気になるが、さすがに店内に飛び込むわけにはいかないだろう。
……しかし、“女の子が二人で仲良く武器選び”という構図は果たして如何なものか。
などと、少女たちの殺伐としたオシャレ事情(?)に首をかしげているうちに、二人が店から出てきてしまった。いけない、この位置では見つかってしまう。
私は急いで屋根を上り、中ほどで重しとして設置されている屋根石の影に隠れた。そして頭だけをそろりと出して、店の前を窺う。
犬走椛と魂魄妖夢は、それぞれ長い布袋を肩に掛けていた。犬走椛はやや幅のあるものを。魂魄妖夢は細身ながら自身の身長ほどもあろうかという長いものと、それと比べるとやたら短いものを一本ずつ。
さて、中身はなんだろう? 見た目や二人の得物から推察するに、やはり刀剣の類だろうか。
と、犬走椛が足を止めた。また感付かれたか!?
私は首を引っ込め、再び屋根石の影に身を隠す。
ぴりぴりと、周囲の空気が張り詰めているような気がする。いや、明らかに私のいる辺りに意識が向けられている……!?
私は息を潜め、ただその場でじっとしていることしか出来ない。だが、姿は見えていないはずだ。いくら怪しんでいるとはいえ、ここまで来ることはあるまい。
「…………」
「…………ふん」
案の定、張り詰めた空気は鼻を鳴らす音とともに霧散した。
「…………」
十分な時間をおいてから、私は通りを窺い見た。犬走椛と魂魄妖夢は、こちらに背を向けて再び歩き出している。やれやれ、気の休まる暇がないな。
さて、追跡を再開せねばと私はばさりと翼を広げた。ひらひらと店先に落ちていく黒いの羽を、私は溜め息をつきながら見送った。
通りを歩く二人を空から追跡する。
魂魄妖夢はともかくとして、犬走椛は勘が鋭いうえに何故か警戒もしているようだ。接近も控えたほうがいいかもしれない。
次の二人が立ち寄ったのはカフェー。
大通りから外れ、やや閑散とした通りに面して構えられた、落ち着いた雰囲気の店だ。人通りは少ないが、客入りは悪くない。
二人はオープンテラスの座席に案内され、仲良く品書きを見ている。こうして見ると、まるで姉妹のようだ。
さて、せめて会話くらいは聞いておきたいものだが、迂闊に接近してはまた犬走椛に感付かれてしまう。
私はひとまずカフェーから離れた建物の屋根に降り立ち、カフェーの全体をゆっくりと俯瞰する。
ふむ……。テラスは地面よりも高い位置に造られており、床下に小さな子供くらいなら屈んで潜り込めそうなスペースがあった。あそこだ。
私は軽いステップで屋根から飛び立ち、二人から死角になる路地までゆるりと滑空して着地した。そしてテラスの床下へと歩き出す。通りを歩く人間が何人かこちらを興味深げに見ているが、気にしない。鳥がいつも飛んでいるだけだと思ったら大間違いだぞ。
床下は薄暗かったが、床板の隙間からこぼれる陽光のおかげで全く見えないほどではなかった。
二人の真下と思われるポイントまで歩みを進めると、折りよく頭上から降ってくる声。
『わあ、わー……』
『パフェがそんなに珍しいか?』
『はい! 幽々子さまは和食を好まれますから、甘味も饅頭やあんみつなど和のものが多いんです。だから、こういった西洋の甘味は新鮮で……わー……』
物珍しさも相まってだろう。魂魄妖夢が感嘆詞をばら撒いていた。犬走椛からは苦笑の気配。そして床板の隙間からここまで漂ってくるは甘い香り。
『それだけ喜んでもらえたのなら連れてきた甲斐があったな。さあ、食べよう』
『はい! いただきます!』
ぱんっ! と手を合わせる音と、次いで食器の触れ合う音が響く。
『んー……んー! んー!』
『美味いか? と、聞くまでもないようだな』
見えずとも分かる。今度は“ん”をばらまいて幸せそうにしている魂魄妖夢と、その様子を見て犬走椛は笑みを深めているのだろう。
しかし……こうして観察をしていると、にわかには信じられなくなってくる。今、床板をはさんだ私の頭上で無邪気にパフェを頬張っている少女が天狗に勝ったとは。
天狗は幻想郷でもかなり強い力を持った種族だ。その中でも白狼天狗は山の警護を担う、最も荒事に近い位置にいる種族。速さは鴉天狗に劣るものの、純粋な戦闘のセンスや肉体の頑強さは天魔、大天狗に次ぐと考えられる。その白狼天狗に勝つなど、並大抵のことではない。果たして魂魄妖夢とはいったい何者なのか。
……まあ、私には関係のないことだが。
閑話休題。思索に耽るうちにも、頭上からは二人の会話が聞こえてきていた。
『んぐ、椛はここによく来るんですか?』
『いや……今回が二回目だ。少し前に射命丸さんの取材に付き合わされて入ったのが初めてだったな』
『射命丸さんと……もぐ。仲がいいんですね』
『違う。あの人とは別に仲がいいわけではない』
『あれ? そうなんですか? わざわざ私たちの手紙を届けてくれますし、んむ、てっきり仲がいいものだと』
『それはお前の主人が新聞の購読者だからだろう。あの人とは……別に、人に話すほどの関係では、ない……』
『えー、教えてくださいよ。友人じゃないのならどんな関係なんですか? あむ、ん。仲が悪かったら手紙を届けてくれたり、カフェーに誘ったりしないですよね?』
『む……それは…………』
犬走椛の狼狽した声。確かに、文様と犬走椛の関係は私も気になるところだ。
鴉天狗と白狼天狗は山での役割が全く違う。報道活動を主とする鴉天狗と山の警護を担う白狼天狗では、顔を合わせることはあれど、言葉を交わすことなどないと思うのだが……
『あん。むぐ、それは? もぐ』
『……クリーム、垂れてるぞ』
『え? あっ! ああ!』
『食べながら喋るからだ』
『店員さん! 拭くものっ、拭くものを貸してください!』
誤魔化されてしまったか。どうして犬走椛は文様との関係を隠したがるのか? 怪しい……
まあ、その辺りはいずれ文様に聞いてみることにしよう。犬走椛とは言葉が通じないからな。
結局、魂魄妖夢からの追求を犬走椛はのらりくらりとかわし、逸らし続け、文様との関係は分からないままだった。
カフェーを出てから二人は、再び並んで通りを歩き出した。
服飾店を冷やかし、どこかの僧侶が行っていた説法に舟をこぎ、広場で開かれていた人形劇を眺めたりしながら、二人は里を巡る。穏やかで、平和な時間。明確な目的はなく、適当にぶらついているようだ。
さて、と私は考える。
犬走椛は、周囲を警戒していたとき以外では笑みを絶やすことがなかった。魂魄妖夢に至っては警戒などまるでなく、コーヒーを口にして顔をしかめたとき以外はずっと楽しそうにしていた。二人のことをそれほど知っているわけではないが、それでも犬走椛と魂魄妖夢の出会いは二人にとって良いものだったと私は感じる。
もう日が傾いてきていた。文様へ報告するために山へ帰るのならば、そろそろ里を発たねば。
しかし。
「!」
上空から二人を見下ろしていた私は、唐突に空を見上げた犬走椛と目が合った気がした。……いや、気のせいではない。彼女は明らかにこちらを見ている。やはり私がつけていたことに気付いていたか……?
犬走椛は手荷物を魂魄妖夢に預けて屈伸運動を始めた。ふん、私を捕まえようというのか。無駄なことを。いかに白狼天狗といえども、空は鴉の領域。そう簡単に捕まるわけがなかろう。
「さて。」
「椛、そのカラスがどうかしたんですか?」
「…………カア」
頭上から降るのは白狼と半人の声。白狼の両手には両の翼をがっしりと押さえられて身動きの取れない哀れな鴉が一羽。
……私だ。
いや、まさかあの距離を一瞬で詰められるとは思わなかったのだ。こちらは空にいるからと慢心が過ぎた結果だった。
「この鴉は昼間からずっと私たちをつけていた」
「!」
「カラスが?」
やはり気付かれていた! しかも最初からだと!?
しかし、何故……?
「まさか、そんなこと……ずっとつけていたって、椛はカラスの見分けがつくんですか?」
「カアカア!」
魂魄妖夢は信じられないといった様子。私にも信じられない。犬走椛がいかに目の良い白狼天狗だとしても、同族でもない動物の見分けなど出来るものか。ましてや犬走椛は私の姿を近くで見ていない。どう考えても見分けられるわけがないはずだ。
「いや、見分けはつかないが、間違いなくこいつは私たちをつけていた。何故なら……」
犬走椛はくんと鼻を鳴らし、
「この鴉からは石鹸の匂いがする」
…………
「カア!?」
「最初にお前の姿を見た時から妙な匂いがしていると思っていたのだが、まさか本当にお前の匂いだったとはな」
か、嗅ぎ分けられていた、だと!?
……そういえば、出発前に『私の匂いがついていてはバレてしまう』と身体を洗われたが……やはりそこまで丹念に洗うものではなかったようです、文様……
項垂れる私に魂魄妖夢が顔を近付けてくる。
「……あ、本当だ。いい匂いがします」
「それと、今の私の言葉に動揺したな。恐らくこいつは人の言葉を理解できる、成り上がりの身だ」
「カ!?」
「すなわち、たまたまではなく何かしらの意味を持って私たちの後をつけていた可能性がある」
まずい、ここまで看破されてしまうとは……!
どうする、どうするッ……!?
自問するが、手も足も出ないこの状況で私に出来ることなどなく。
「さあ、何でお前は私たちの後をつけていた? 誰かに命令でもされたのか?」
「カア……」
頭上から投げかけられる問いにも、手も足も出ず、言葉も通じない私には力なく声をあげることしか出来ず。
「……言葉までは操れないのか、それともそういうフリをしているだけか……?」
「そのカラス、どうするんですか?」
「さて……。さすがに鴉の言葉は理解できないからな。このまま問い質しても埒が明かない」
魂魄妖夢の問いに犬走椛は思案顔。私を捕らえる手の力は緩めぬまま「うーむ」と唸り声を上げる。
と、魂魄妖夢が身を屈めて私と視線を合わせてきた。物珍しげな視線。そ、と私の頭に手を伸ばして指先でちょんと頭を軽く小突いてきた。何をする。避けようと頭を動かすが、いかんせん身体を動かせないこの状況である。魂魄妖夢は変わらず私の頭をちょんちょんと小突き続ける。
やがて慣れてきたのか、うりうりと頭を撫で始めた。ええい、鬱陶しい。
「へえ。カラスの羽って意外と柔らかいんだ」
「……今日の晩飯にでもしてしまおうか」
「え!?」
「カア!?」
ようやく口を開いた犬走椛の言葉に、私と魂魄妖夢の声が重なった。なんとか首を逸らして犬走椛に顔を向けるを
「そっ、それはいくらなんでも!」
「カア! カアカカアカアカーア!!」
そういえば鳥を食べるのも久しぶりだな。さて、どう調理してやろうか……!」
「カアーァ!?」
訴えは届かず、犬走椛は凶悪な牙を口の端から覗かせながら言う。
万事休すか。もはや逃げることも叶わず、死を覚悟するより他はないようだ……
あぁ……どうせ食べるなら、せめて美味しく調理してほしい。
その時。
「何やら騒がしいと思って来てみれば……犬走に魂魄さん、こんなところで何してるんですか?」
私は神に感謝した。
私の背後から――すなわち、犬走椛の背後から――かかった声は聞き間違えようもない。
「こんにちは、射命丸さん」
「……射命丸さん」
「どうもー。……あら、鴉」
最も里に近い天狗であり私の主である射命丸文様は、振り返った犬走椛に捕獲されている私を興味深げに眺めた。
勿論、鴉天狗である彼女は鴉の言葉を理解できるし、見分けもつく。私のこともわかっているはずだ。
「そのコ、どうしたの?」
「私たちの後をつけてたので捕獲しました」
「カーア……」
「ふーん。犬走、あなた鴉の見分けなんてついたの?」
文様は私のことなどまるで知らない風を装ったまま、魂魄妖夢と同じ問いを犬走椛に投げかけた。当然だ。ここで私たちが知り合いであることがバレてしまうわけにはいかない。
「いえ、見分けはつきませんが――」
犬走椛は先ほどと同じ説明を文様に話した。
結果、文様は石鹸のくだりで噴き出した。
「……何かご存知のようですね」
犬走椛の瞳が鋭く細められる。魂魄妖夢の表情からも不審の色。そして犬走椛の両手にこもる力。痛い痛い痛い。
「いえ、知っているというかー……」
歯切れ悪く目を泳がせる文様。あの、早く何か言ってくれないと圧死しそうなのですが。
「その鴉の身体は、今朝がた私が洗ってやったのよ」
「ほう。何故?」
「何故って、汚れてたからに決まってるでしょ。何があったのか知らないけど、その鴉、私が見つけた時は泥だらけだったのよ。だから家に連れて帰って洗ってあげたの」
もっともらしい理由で誤魔化しにかかった文様に対して、犬走椛は未だに疑りの眼差し。ふむ、そういう話ならば。
「カア」
ここは私も加勢せねばなるまい。自らの命のためにも。
私は三対の視線を受けながら、自身が汚れていた――という設定の――もっともらしい理由を話す。無論、文様以外にはただの鳴き声にしか聞こえないだろうが。
私の言葉に文様は納得顔。この案を採用してくださるようだ。
「なるほど、そういうことでしたか」
「何と言っていたんですか?」
「昨日、守矢神社の二柱がケンカ……弾幕ごっこをしていたでしょう? あれのとばっちりで泥をかぶってしまったそうです」
「……本当にそう言っていたんですか?」
「あら、ウソを言っているとでも?」
“私がそう言っていた”ということに関しては嘘ではない。内容は嘘であるが。
しかしそんな様子はおくびも出さずに、文様は八つ手の団扇を仰ぎながらいつもの不敵な笑みを浮かべていけしゃあしゃあと言う。
そんな文様を犬走椛はジト目で見ながら、
「あなたですから」
「信用ないわね!?」
「あると思ってたんですか?」
「いやまあ」
気まずげに顔を背けて団扇をぱたぱた。
「……まあ、いいでしょう。こいつから石鹸の匂いがする理由はわかりました。ですが、私たちをつけていた理由がまだ分からないのですが?」
「あー」
「カア」
文様の額をつ、と汗が流れた。お任せください。そちらの話も考えてあります。
「……今度は何と?」
「犬走に一目惚れしたと」
「本当は?」
「ヤダ、この子冷たい……。魂魄さんの髪の毛が綺麗だったから、つい追いかけていたらしいわ」
「え、私?」
文様と犬走椛が揃って魂魄妖夢の頭に目を向ける。視線を受け、魂魄妖夢は困ったようにきょろきょろと二人を見回し、その度にさらりと揺れる銀の髪が夕日を反射してきらきらと輝いていた。
「なるほど、確かに綺麗ですね。光り物を好む鴉にとっては十分に興味の対象になり得ます」
「まあ……確かに、綺麗ですが」
「えっと、その……ありがとうございます」
天狗二人の賛辞に、魂魄妖夢を頬をほんのり朱に染めた。
「カア」
「何本か欲しいと言っていますが」
「いやそれはちょっと」
「だって。諦めなさい。でないと、そこの凶暴な白狼天狗に食べられちゃうわよ」
「食べませんよ」
「えっ、でもさっき」
「あれは冗談だ、妖夢」
「カア……」
私は残念そうな声をあげた。我ながら見事な演技力だと思う。
「さて、疑いも晴れたことだし、そろそろ放してあげたら?」
「むう……」
犬走椛は未だに渋面。往生際の悪いやつめ。早く開放するんだ。
「逃がしてあげましょうよ、椛」
「……むう」
魂魄妖夢の言葉に、ようやく私を捕らえる手が緩んだ。今だ!
翼と足で無理やり犬走椛の手をこじ開け、私はようやく解放された。犬走椛の手の中から飛び出し、差し出された文様の腕に乗る。
「カア!」
「はいはい、食べられなくて良かったわね。ところで、お二人は揃ってこんなところで何を?」
「ああ、これです」
文様の問いに、犬走椛は魂魄妖夢から受け取った布袋を掲げて見せた。そのまま袋の口を拡げ、中身を取り出す。
袋から姿を表したのはやや幅広にデザインされた木刀だった。
「聞けば、妖夢には一緒に修行する相手がいないとのことだったので、たまに私がその相手をしてやろうかと」
「さすがに真剣で修行するわけにはいきませんからね」
「なるほど。では、魂魄さんが持っているのは」
「はい。白楼剣と楼観剣の代わりです」
魂魄妖夢も持っていた二つの布袋を眼前に掲げる。二人が行動を共にしていたのはこれらを買うためだったようだ。
「ほうほう」と熱心にメモを取る文様に対して犬走椛は不審げに口を開いた。
「何をメモしてるんですか」
「んー、今日この時間に犬走と魂魄さんに会ったこと。取材以外のことでも残しておくと、後々便利だったりするのよ」
「射命丸さんはいつも仕事熱心ですね」
「好きでやってることですから。……それに“白狼天狗、里にて冥界の庭師と逢引すること”ってだけでも記事にはなりそうですし?」
ひゅッ!
鋭く空を切る音。
犬走椛が身を捻って繰り出した尻尾の一撃は目標に届くことはなく、文様は軽くバックステップでその一撃を避けた。私は急激な動きに危うく振り落とされそうになったが、なんとか踏ん張って耐えることに成功した。
「ちょちょ! 射命丸さん、何を言ってるんですか!? あああ逢引だなんて!」
「何を、記事にすると?」
対照的な二人のリアクション。慌てる魂魄妖夢に対し、犬走椛は静かに大太刀――木刀だが――を布袋から抜き放った。
「ふふん、いきなり攻撃してくるなんて、図星だったかしら?」
対する文様は団扇で口許を隠しながらにやにやと言った。あの、あまり煽るのは、
ガッ!
足元の感覚がなくなる。次いで間髪いれずに硬い衝突音。大太刀の一撃を文様は再び後ろに跳んで回避。さすがに文様の腕に留まっていられず振り落とされた私は、慌てて羽ばたきその場に滞空する。木製の大太刀は折れることなく地面にめり込み、幻想郷の大地に僅かな亀裂を刻み付けていた。なるほど、なかなか上質なものを買ったようだと、私は妙に冷静に分析した。
「安心しなさい。余ったスペースにちんまり載せるだけだから。文々。新聞はこんなことに大きな紙面を割いたりしないわ」
にやり、にやりと文様は笑み深く告げる。その態度を前に、犬走椛の視線はまさに刃の如し。刺し貫かんばかりの鋭さを以って文様を睨みつけていた。
「どうやら、あなたとは一度はっきりと決着をつける必要がありそうですね」
「あら、いつぞやの続きかしら? 弾幕勝負なら受けて立つわよ?」
「あの、二人とも喧嘩は……」
「場所を変えましょう。ここでは里に被害が出てしまう」
「いいわよ。完膚なきまでに叩きのめしてあげる」
妖気を高めながら二人の天狗が宙に浮く。私はおろおろと両天狗を見回す魂魄妖夢のもとへゆっくりと飛び、その銀髪に降り立った。
「ちょ、ちょっと! 何するのよっ?」
頭と腕を振って抵抗する魂魄妖夢を私は軽くかわし、その腕にとまる。
「カア」
「……なに、足場が欲しかったの?」
こちらの意図を理解した魂魄妖夢は抵抗を止め、大人しく腕に留まらせてくれた。これでようやく落ち着ける。
さて、魂魄妖夢と戯れている間に二人の天狗は里の外へと飛び去ってしまったが……まあ、文様なら負けることはあるまい。私はのんびりと二人の飛んでいった先を眺めていた。
茜に染まった空を弾幕が彩る。
「ああ、始まっちゃった」
魂魄妖夢は私を腕に乗せたまま、溜め息をついて二人のもとへと歩き出した。
魂魄妖夢が二人のもとに辿り着いた時には、既に決着がついていた。
里の外れ、だだっ広い空き地に犬走椛はゆっくりと降り立ち、そのまま息荒く膝をついた。
弾幕ごっこは文様の勝利で幕を閉じたようだ。当然だ。文様はこれまで多くの少女たちが繰り出す弾幕を潜り抜けて撮影をしてきたのだ。犬走椛が勝てる道理は無い。
くたびれた様子の犬走椛に魂魄妖夢が駆け寄る。
「椛、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ」
応える犬走椛の姿はまさに満身創痍。左頬にはかすり傷。着ている装束は傷だらけで、右の袖に至っては大きく裂けてしまっていた。
「身の程がわかったかしら?」
「ぐるる……!」
対照的に余裕の表情で地に降り立った文様を、犬走椛は唸り声を上げながら睨み付けた。文様の服にも僅かに傷があったが、犬走椛のそれほどではない。グレイズ分だろう。
「さて、犬走と遊んでたら遅くなっちゃったわね。私は帰るけど、あなた達もほどほどで帰りなさいよ」
八つ手の団扇をぱたぱたと扇ぎながら犬走椛と魂魄妖夢に言い、そして私に軽く目配せをしてから文様は山への方へと歩き出した。
と、去り際にちらりと顔をこちらに向け、
「それと、あなたたちのことを記事にするなんて嘘に決まってるじゃない。犬走はともかくとして、魂魄さんのご主人様は文々。新聞の大事な購読者なんだから。購読者の身内を晒し上げるような真似するわけないでしょ」
「それもっと早く言ってくれませんかね!?」
犬走椛の怒鳴り声を華麗に無視して、今度こそ文様は山へと飛び去ってしまった。
「まったく、これじゃあ負け損じゃないか……」
「ま、まあ、記事にはしないって言ってましたし、それでよしとしましょう?」
ぎりぎりと悔しげに歯軋りをする犬走椛を魂魄妖夢がたしなめる。
眉間に皺を寄せたまま犬走椛は魂魄妖夢の顔を見上げ、私を見て更に渋い顔をした。
「……はあ」
しばしこちらを睨んで溜め息を吐いた後、犬走椛はのそりと立ち上がって大太刀の木刀を布袋にしまった。鴉の顔を見て溜め息とは失礼な。
「私たちも帰ろう。妖夢も、あまり遅くなっては主人が心配するだろう?」
「そうですね。帰りましょうか」
「……お前はこっちに来るんだ」
「カ?」
妖夢の腕の上で傍観を決め込んでいた私の前に、犬走椛の腕が差し出された。乗り移れ、ということなのだろう。
「どうせ今から帰ったのでは、山に着く前に日が暮れてしまうだろう。私の足なら日暮れ前に戻ることができる。麓までは送ってやるから、後は好きにしろ」
ジト目で言われ、西の空に目を向けて私はようやく気がついた。陽が落ちかかっているではないか。完全に陽が落ちてしまえば、鳥目の私は何も見えなくなってしまう。
犬走椛の申し出は非常に有難かった。里で夜を明かしてもよかったのだが、報告は早いほうがいい。私は差し出された腕に飛び移った。
「カア」
「ふふ、嬉しそうじゃないですか?」
「……さて、どうだかな。鴉の考えていることはわからん」
微笑む魂魄妖夢に、犬走椛は山の――文様の飛んでいった方角に目を向け、憮然とした表情のまま応えた。
「ふぅん、そう。随分と楽しんでいたみたいね」
『はい。文様は犬走椛のことを“頭の固い白狼天狗”と仰っていましたが、見ていた限りではそのような印象を受けませんでした。むしろ、穏やかで面倒見の良い……そう、まるで魂魄妖夢の姉のようでした』
「……姉のよう、か」
黄昏時を経て、夜。
幻想郷の闇を照らすは空に煌々と輝く月と、電球のほのかな明かりのみ。私は光源――文様の作業机に取り付けられた電球を見上げて目を細めた。 作業机の隅に立った私の報告を聞いた文様は、現像した写真を確認しながら笑みを浮かべる。その笑みには喜びと、少しの寂しさが混じっているように見えて。
ぺらり、ぺらり。
一枚一枚、文様は写真をじっくりと見ていく。そして確認した写真を左へ、右へ。左の写真の方が少ない。こちらが記事に使われるものだろうか。
「……あのカフェーにも行ったのね」
『はい』
聞くべきか。
僅かな逡巡の後、私は疑問を文様にぶつけることにした。
『……そのカフェーで犬走椛は、文様との関係を魂魄妖夢に聞かれ、かたくなに回答を避けていました。文様は、犬走椛と何か因縁でもあるのですか?』
「あら。別に隠す必要なんてないのに……とはいかないか、あの子の性格上はまだ」
ぱさりと写真を机の上に放って文様は「んー」と大きく伸びをした。そしてそのまま両手を頭の後ろで組んで目を閉じ、言葉を続ける。
「因縁なんて大げさなものじゃないわ。あれは、守矢神社が幻想郷に引っ越してきた頃だったかしら。
あの時、博麗の巫女と人間の魔法使いが山に侵入してきたでしょ? 犬走ったら、ろくな弾幕も撃てないくせ迎撃に飛んで行ったらしくてね。あっさりに撃墜されて、危うく滝壺に飲み込まれそうだったところを私が助けてあげたのよ。犬走と知り合ったのはそれがきっかけ」
『では、文様は犬走椛の命の恩人だったのですか』
「そ。白狼天狗にしてみれば、鴉天狗に命を救われたなんて悔しくて仕方がなかったのかもね」
なるほど。
天狗という種族は総じてプライドが高く、他種族だけでなく天狗同士でも――例えば白狼天狗と鴉天狗の間でも――互いを見下しあっていると聞く。自分が見下していた者に命を助けられたなど、犬走椛にとっては話したくない過去なのだろう。
「種族間のしがらみや他種族への偏見なんて、私に言わせればナンセンス極まりないわ。少し前の犬走は特にそんな考え方に囚われていたから、私はその“固定観念”を壊してあげたかった。だから、あの後も気にかけて話しかけたりしてたんだけど……」
『……』
「でも……つまるところ、何事も百聞は一見に如かず。さらには百見は体験に如かずってことね。私がいくら見聞きしたことを伝えようとも、実際に刃を交えた魂魄さんのほうが犬走に与えた影響は大きかった、か」
す、と目を開いて文様は天井を見つめる。その黒曜石の如き黒い瞳はいったい何を見ているのか、ただの鴉に過ぎない私にはわからない。
ただ一つ、分かることは。
『……悔しそうですね』
「少しだけ、ね。あんな生意気で無愛想な子でも、長いこと話していれば愛着も湧くわ。いつの間にか、私は彼女のことを妹のように思っていたのかもね」
言って、照れくさそうに頬をかく。
私は一つに予想に至る。文様が犬走椛に対して妙に挑発的な態度を取っているのは、こうして犬走椛を想っていることを隠すためなのではないだろうか。つまりは、ただの照れ隠しなのでは、と。
……まあ、恐ろしくてそんなこと聞けないが。
「その妹分の“固定観念”を変えることが出来なかった自分の不甲斐無さに、そして私に出来なかったことを成し遂げてくれた魂魄さんに対して、確かに私は『悔しい』と感じている。もちろん、魂魄さんには感謝をしているけどね」
そう言いながらも、文様は穏やかな笑みを浮かべていた。恐らく、悔しさよりも、犬走の心が変化していることに対する喜びのほうが大きいからなのだろう。
やがて文様は目を閉じて軽く頭を振った。そして次に目を開いたとき、その表情は活力に満ち溢れていた。
「でもっ、それ以上に今はやる気に溢れているわよ。目指すは体験に勝る新聞! 読んだら血ヘド吐くような新聞を書いてやるわ!」
『それは……やめたほうがよいのでは……』
新聞を読んだ瞬間、血を吐きながらバタバタと倒れてゆく人妖を想像して私はやるせない気持ちになった。これではむしろ購読者が減ってしまうだろう。
「よしっ! 明日も頑張りましょ!」
私の心配など知る由も無い文様は、がたんと勢いよく立ち上がると台所へと歩いていく。
「晩ごはん食べる? 栗ご飯なんだけど」
『いただきます』
先ほどまでのしっとりした雰囲気はどこへやら。すっかりいつも通りだ。うむ、やはり文様はこうでなくては。
常に前を見て、誰よりも速く、誰よりも不遜な鴉天狗。それが私の仕える主、射命丸文だ。
文様は心から楽しげに笑いながら言う。
「犬走に魂魄さん、二人の今後が楽しみだわ。……うん、向こう数百年は退屈しないで済みそうね」
お買い物中の二人の会話だけ聞いてるとなんだかお洋服選んでるみたいなのになww
このカラスには再登場を望みます。しかしカラスがカラスを演じてどうするよww
しかし主役はカラスでしたね。
二人の今後もあややに次いで気になるところです。
>> ぺ・四潤さん
武器と洋服は見るところが似てる気がしますからね。刀みたいなシンプルな武器だとなおさら。
カラス再登場希望がくるとは思いませんでしたwまったくプランは立ってませんが、そのうち考えてみますかーw
>> 奇声を発する程度の能力さん
妖夢の可愛さが伝わって何よりです!
>> 9
前回はバトル物だったので今回は可愛さメインで描いてみました。
あえてのカラス主人公。普通の三人称で描くケースとどちらにしようか悩んだのですが、こちらのほうが面白そうだったのでー。
椛と妖夢の今後がますます気になる。
読んでいただいてありがとうございます!
二人の今後を気にしてくれてる人が意外と多くて嬉しい限りです。
次も楽しんでいただけるよう頑張ります!
コメントありがとうございます。
実に役得な鴉でした。
椛と妖夢の後日談を、二人のうちのどちらかではなくて、名無しの鴉という第三者に託した構成は
「なるほど」と思いました。その方が私にとっても、二人が仲を深めてゆく過程を見守っているような
気持ちになりました。ちょうど作中の文のように。こんなやり方もあったんですね。参考になります。
また椛と文の、名字で呼び合うような、ダブルスポイラーを踏まえた微妙な距離感の描写も好きです。
個人的な好みで申し訳ないのですが……こうした近くも遠くもない距離感って好きなんですよね。
その一方で、妖夢と椛は順調に近づきあっているようで、これからどのようにして触れ合ってゆくのか、
次の話を読むのが、また楽しみになってきました。ありがとうございます。