―――そして、あれから78年が経過した。
私は綿密に計画を練っていた、抜かりは無い。そのために半年ほども時間を置いていた。半年。たったの6ヶ月。30×6。なんて短い年月だったんだろう。でも、私にとっては、それまでの78年を全てぼろぼろに朽ちさせてしまうに相応しいくらい、長い時間に思えた。
お姉様は私を警戒しているだろう。咲夜も。心ならずも、たぶん美鈴も。私の味方はパチュリーひとりだけだ。痩せっぽちで喘息もちだったパチェは、今も、物静かで無口な司書として、図書館の奥の樫の椅子の上に居座っている。
パチェは私の味方だが、でも、一緒にお姉様や咲夜と戦ってくれるほどではない。パチェが私の味方として振舞ってくれる支援はたった一つだけ、屋敷の皆の巡回ルートを教えてくれるという点だけだ。それだけでもずいぶんありがたい。何しろ私は今でも、力の加減のへたくそな、世間知らずのかごの鳥に過ぎないのだから。
78年は、決して長い時間ではない。私は変わろうとした、変わったのだと思う。けれど、今はそんなことも錯覚に過ぎないように思える。あれからの時間に得たものなんて、すべてが煙のように消えてしまったような気がしている。
私は変われなかった。たった、78年分しか変われなかった。しかもその微々たる変化もまた、この半年で磨り減りはててしまった。このまま一年が、十年が、百年が過ぎたら、私の中から、あのひとの全てが消えてしまうだろう。薫り高くほろ苦い紅茶の一杯が、さめて味気ないカップ一杯の色水に変わってしまうみたいに。
私はそれが怖い。怖いということが少し嬉しい。
それが怖いうちは、私はまだ、魔理沙のことを大好きでいる。
「魔理沙……」
私はゆっくりと歩いていく。鋳鉄が精緻なつる草のアラベスクを織り成したドアの前に立つ。
「魔理沙、今、いくからね」
そして私は背の翅を開く。華奢な骨格に力がみなぎり、力を孕んだ七色の光が、淡い翅をきらめかせるのを感じる……
今から78年ほども前のことだった。そのころ、誰からも重要視をしていないこととして、フランドール・スカーレットは心から霧雨魔理沙を愛していた。
古い古い屋敷の地下に幽閉されていた吸血鬼の少女が、人間の娘を、心から好きになった。奇妙なことではあるが、とりたてて珍しいことではなかった。魔理沙はまた節度というものをわきまえた人間で、フランの自分に対する好意を何かに利用することなど考えてもいなかっただろう。少女はひがな娘のことを考えて幸せな気持ちになり、娘は彼女独特の気まぐれなやりかたではあったが、少女のことをいつくしんでいた。
あるとき二人は夜の草原にいた。フランは見たことのない景色に眼を奪われた。魔理沙はそんなフランの隙を突いてうしろからふざけて抱きついてきた。フランの背丈は魔理沙の肩ほどまでしかなかった。二人はそのまま高く茂った草に転げ、きゃらきゃらと笑い声を上げながら、草の斜面をころがりまわった。
倒された草が強く香った。夜の匂いがした。あれはいつごろの季節だったのか。魔理沙の髪に顔をうずめると、金色に乾いた草の香りと、みずみずしい青葉の香りとが同時にした。
はしゃいでくすくすと笑い続けるフランの髪を、魔理沙は猫のくびをなでるような手つきで、なでてくれた。くすぐったくて気持ちがよかった。ふざけて指を噛んだ。瑞々しい酸味と甘みが口の中で弾けた。摘んだぐみの実をそのまま口に運んだような鮮やかな味だった。図らずも陶然とするフランに向かって、魔理沙が笑いながら、「こら、血が出る」と言った。
「美味しいよ、魔理沙」
「わたしを喰うな。喰ったら居なくなっちまう」
「それ困る」
「なら、手を離してくれよ」
「でも美味しいんだもの」
「困ったお姫様だなぁ」
ちゅうと強く指を吸う。魔理沙が少し眉をしかめる表情が快かった。けれどむりやり指を引っこ抜いた。「あぅ」と思わず声をあげるフランに、「そんなことより上見ろ、上」と魔理沙が言う。
「何しにきたか忘れるなよな。そろそろ流れるぞ…… ほら」
さっきまで飴のようにしゃぶっていた指が、そのまますっと空を指す。だものだから釣られてしまう。夜空を見たフランは、そこにすっと流れたものを見て、「あっ」と再び声を上げることとなる。
「ね、魔理沙! なんか動いたよ! なんかが!!」
「おー来たか、彗星。眼を離すなよ。これからバンバン流れ星が落ちるぜ」
―――彗星。何十年か何百年か、はたまた何万年かの周期で、夜空をよぎる旅の星。
「星ってほんとに動くんだね」
「ご感想は?」
「思ってたより…… 地味だね」
「そりゃそうだ」
「魔理沙の弾幕のほうがきれいだよ」
「まさか!」
ちょっと予想外の返事に驚いて、魔理沙のほうを見た。草に大の字になって寝転がった魔理沙は、猫のような眼を細めて、ニッと笑った。
「ありゃあ無理だ、わたしじゃかなわないさ。大体流れ星はずっと遠くから見てるんだ。比較として間違ってるぜ」
「……せっかく、魔理沙のこと、褒めてあげたのに」
「それは嬉しいけどな」
あ、また星、と魔理沙が声を上げた。指差す先をすいと流れ星が通っていった。
「フラン、願い事しとけ。アレが落ちるまでに三回言えば叶うっていうんだ」
「三回も? 無理だよ」
「だからチャレンジするんだ」
魔理沙は、奇妙に真剣な声で言った。
地下から廊下へとあがると、踝までうもれるような絨毯の廊下だと、すべての窓が緞帳で分厚く覆われていることが分かった。
「真っ暗……」
天鵞布作りの分厚い緞帳には、わざわざ裏地まで当ててある。ほとんど光を通さない。考えてみれば当たり前だろう。この屋敷は太陽を嫌うお姉様のためのものだから。
窓を破って外に出ようかと考えてもみた。だが、それだと広い場所で挟撃に会う可能性が高い。お姉様と咲夜と美鈴、全員を少なくとも一度は倒して、時間を稼ぐことを考えなければいけない。
そう考えると、いちばんやっかいなのは咲夜だった。いちばん最初に潰さないといけない。でも、私は咲夜に勝てるんだろうか。……戦いではなく、『ゲーム』として?
廊下を駆け抜ける。銀のふちを持つ鏡に、重たげな金箔で彩られた壁、そこに描かれた異国の花綱のきらめきに、私の姿がゆらめく。透き通るような金色の髪、青白い肌。ガラス細工のような華奢な翅。
私はやがて、咲夜を見つける。パチェに言われたとおり、咲夜は大鏡の間にいた。銀灰色の髪が、茄子紺のドレスが、無数の鏡像をゆらめかせていた。私は叫ぶ。意思を込めた声で。
「咲夜!」
「……フランドール様?」
振り返った咲夜は、眼を、見開いた。一瞬その顔の上を彼女らしくない表情がいくつもよぎった。狼狽、苦痛、焦燥、他にも……でも全ては一瞬で隠しこまれてしまう。冷静で物静かなお姉様の侍女は、「どうなさいました」といつものような静かな声で言った。
「このようなお時間に。何かお申し付けがございますなら、そこいらのメイドに申し付けてくださればよろしかったのに」
「咲夜。私、外に行くわ」
「……」
「ダメって言うのは知ってる。だから」
私は大きく息を吸った。そして、吐いた。ちりつくようなきらめきが背中の翅によぎった。心ならずも、それは、快感に近い感覚だった。
力を解放する感覚は、何かを壊す快感に似ている。積み上げた積み木を腕の一振りで叩き壊すような、真珠の首飾りを一息に引きちぎるような、そんな悦びだった。私はそれが好きだ。抑制することを学ぼうとはしたけれど、その本能的な快感だけは、どうしても棄てようがなかった。
咲夜が手にしていたガラス磨きの布を床に落とした。硬質な面差しがきりりと引き締められた。指を広げると、魔法のように現れる銀のナイフ。薄い刃のそれを扇のように重ねて、「何をおっしゃるんです」と低い声で言う。
「あまりおいたをなさってはいけません。お嬢様に心配をかけます」
「いうと思ったよ。でも、無理やりでも、通させてもらうから!」
10月の夜にはその年でいちばんの薄氷。その日も魔理沙はフランを外に連れ出してくれた。その前の日にはみぞれが降って、夜の森はしんしんと骨に染み入るように寒い。やっぱり、星がきれいだった。フランは夢中になって、そこらじゅうに張っている薄氷を踏んで回った。
真新しい灰色の絹の靴底で踏むと、ぱしと音を立てて氷が割れるのが面白い。たかが氷だった。でも、面白い。フランは落ちた豆をおいかけていくハトのように、水たまりを追いかけて、どんどんと森の中の小道へと歩いていってしまう。後から魔理沙がのんびりと付いてくる。霜がついて甘くなったプラムを枝からむしりながら。
「ね、魔理沙、この氷面白いよ。なんだか模様が付いてる!」
「ん? どこどこ?」
凍りかけた水たまりが、ガラス作りの羊歯の葉のような、繊細な模様を描いていた。フランはそこに手を突っ込んで氷をつかみ出そうとする。けれど、繊細な造作はあっという間に手の中で消えてしまった。「あ、あー」と声を上げるフランに、くっくっ、と喉を鳴らして魔理沙が笑った。フランはふくれっつらで降りかえる。
「なんで笑うの~」
「当たり前だろ。氷触ったら融けちまうぞ」
「知らないもん、そんなの。ねぇねぇ魔理沙、ほんとにきれいな形をしてたんだよ。すごく面白いの。きらきらしててね……」
なんとか同じようなのが無いかとおもって当たりを見回すけれど、あいにく、そこらの水たまりはすべて踏んづけてしまった後だった。「もう!」とフランはさらに頬を膨らませる。
「ねぇ魔理沙~、氷作って~」
「私はチルノじゃないんだからさぁ」
「だって……」
まぁ、ソレはそれとしてさ、と魔理沙は言う。後ろからがばりと何かをかぶせられた。
「う?」
「フラン、手を拭け。しもやけになるぞ」
「はぁ~い~」
重たい毛織のケープは、白い兎の毛皮でふちどられていた。咲夜が貸してくれた服は虫除けのセージの香りがした。手が冷たいと言われて指を見る。真っ白なはずの指先が赤くなり、じんじんと痛んでいた。なんでだろう? 首をかしげていると、横から見ていた魔理沙が、その手をひょいと手でつまむ。そのまま自分のマフラーの下に入れる。
「うわっ、冷たっ!」
「あ、あったかい」
「手袋くらいしろよなぁ、もう。……ほら、そろそろだ。空を見てみろよ」
「んー?」
魔理沙に言われて空を見た。遠く、月が山の端に沈んでいくところだった。月の光は思ったよりもずっと眩しかったらしい。その光に隠れていた小さな星たちが、やがて、つつましやかにきらめきはじめる。
空は、誰かが針でむちゃくちゃに突いた後みたいだった。星が無数に散らばって、その数が多すぎてどれがどれなのかが分からない。「まぶしいよ」と顔をしかめるフランに、魔理沙が眼を丸くした。
「眼が痛くなりそう……」
「え、星のせいで?」
「うん、そう」
へえ、と魔理沙が感嘆の声を上げた。フランにはひどく奇妙に思えた。星なんてずっと見てれば目がちかちかしてきて当たり前なのに。
「私はなんだかんだいっても人間だからな、お前ほど夜目は利かないんだ。星を見てて眩しいなんてうらやましいくらいだぜ」
「そうなの?」
魔理沙の探し物はだいたい分かっていた。フランは空をぐるりと見回した。つ、と星が流れるのを見つけたのは、まもなくだった。「あっちに見えたよ」と空を指差す。
「今、きらって何かが落ちた」
「お、マジか。今夜は当たりかな」
魔理沙はフランが指差したほうをわくわくと見上げ始める。フランはちょっと不満な気分になった。上ばっかり見て私に構ってくれない。そんな魔理沙はちょっといや。
そう思ってむくれているフランに、気付いたのか気付かないのか。そのうち魔理沙が、「こっち来い」とフランを呼ぶ。「何~」と近づいていくと、いきなり、ばふりと何かあったかいものに包まれた。
「???」
フランは眼を白黒させた。魔理沙が、自分のコートの前を開いて、中にフランを包みこんでしまったのだ、と気付いたのはしばらく立ってからだった。長い毛糸のマフラーも解いて、自分とフランをまとめて包んでしまう。二人はまるで布の塊みたいになってしまった。だが、あったかい。
「冷えてるな、お前。風邪引くぜー?」
魔理沙が能天気な声で言う。フランは何を言ったらいいのか分からなかった。捕まった小鳥みたいに眼をきょろきょろさせて、近すぎてぼやけそうな魔理沙の顔を見たり、ふわふわともつれた金色の髪を見たり、した。
「魔理沙、帽子じゃま。空見えないよ」
「じゃ、パス」
言うなり、魔理沙の帽子が自分の頭にぎゅっとかぶせられる。そういう意味じゃないのに。でも、すぐに可笑しくなった。くすくすと笑うフランに、魔理沙もちょっと悪戯っぽい顔で笑った。魔理沙の髪からは、暖炉にはじける粗朶の香ばしい匂い、それに、火に放ったクローヴやナツメグの匂いがした。
咲夜相手に時間をかけすぎた。にわかに騒がしくなり始めた紅魔館の中を、私は全力で駆け抜けた。無数の小さな部屋、アルコーヴや隘路、大きすぎる家具、抜け道。パチェから貰った地図は頭に叩き込んであったけれどそれでも迷いそうだ。できるだけ急がないといけない。出来るだけ急いで美鈴を見つけ、それから……
咲夜の顔がふとまぶたの裏に思い出された。その瞬間、針を胸に打ち込まれたみたいに、鋭い痛みが走った。
お嬢様に申し付かっているのです…… フランドール様をお守りしろと。ならば、ここを通すわけには行きません。
「守るって何……」
私は、強く奥歯をかみ締めた。涙が滲んで燭が揺らいだ。
守るって何。誰から私を守るの? この紅魔館でも、私に対してまともに害をなせる相手は少ない。幻想郷全体を考えたってそうだ。だったら、私を守らないといけないような相手はひとつしかない。
私自身の愚かさから、だけだ。
愚かさってなんなの。狂気ってなに。そんなの自分で知ってる。痛いほど思い知らされている。この78年間、私自身の愚かさがどれほど致命的なものか、思い知らされない日は一日も無かった。
私は、人を好きになったから。
ばかなことを沢山考えた、ひどいことや悪いことを幾つもしようとした。でも全部彼女が止めてくれた。彼女はそれくらい強かった。そうじゃなかったら、お姉様も、私が人を好きになることなんて許してくれなかったはずだ。
喧嘩して、仲直りして、たくさん話をして、遊んで、それからまた話をして、喧嘩をした。何回も繰り返した。
私は彼女をねじふせようと何回もやっきになった。そのたびに私の弾幕は精緻さを増していき、そのうち、光で編まれたレースのようなものへと成長していった。私はたぶん、きれいなものが好きな彼女のためにそうした。ねえ見て、私の弾幕きれいでしょ、きらきらしてて素敵でしょ、だから負けを認めて、私のわがまま聞いて。
ときどきはわがままが通って、だいたいは負けて私が大泣きさせられて、ほんの稀には手ひどく懲らしめられた。それでも彼女にまた会った。何回でもまた会えた。それが分かっているから、お姉様は、私が彼女を好きになることを認めてくれたのだ。
でも知ってたのかな、こんな結果。知ってたんだろう。お姉様だって迷ったはず。お姉様は私ほど愚かじゃない。何もあとさき考えないで私のこと野放しにしてたなんて考えにくい。
「フランドール様っ!」
私はつんのめるようにして立ち止まる。美鈴の声だった。振り返るとそこに美鈴がいた。何故だか泣きそうな顔をしていた。
「あれ、そっちから来てくれたの」
よかった、と私は笑う。美鈴はますます顔をくしゃくしゃにした。
「お願いです、フランドール様。気持ちはわかります。でも、無茶なことしないでください。私たちみんなフランドール様のこと心配で……」
「わかるって、何」
美鈴がびくんと身体を震わせた。私は自分の声が、ひどく冷淡に響いたことに、自分で驚いていた。
「誰にも私の気持ち、わかんないと思うよ? ああでも今は分かりやすいよね。一つだけ」
手加減してあげるから、できるだけあっさりそこ退いて、ってことだけ。
美鈴はぎゅっと唇を噛んだ。顔を上げる。私は驚いた。てっきり逃げるかと思っていた。美鈴を叩き潰すことなんて、今の私には簡単なことなのに。
「分かりますよ、フランドール様の気持ちくらい…… 何年お仕えしてると思ってるんですか」
「ずいぶん生意気なこと言うんだ」
「ええ、言いますよ、言いますとも! あたしだってこの紅魔館に心からお仕えしてるもんの一人なんだ!」
美鈴は私をにらみつけた。構える。悲鳴のような声で言った。
「あたしたちだって寂しいんです! この上、フランドール様まで無茶なんてしないでください! ……お嬢様のためにもっ」
ちくんと胸が痛んだ。私は笑った。それを隠すために。
「わかんないよ。だって、美鈴もお姉様も、私ほど、あの人のこと好きだったわけじゃないもん」
私の背後できらめく光が細い糸を織り成す。百万のダイヤモンドが織り成す光のレース。誰にも解くことのあたわぬ絶対公式。
「時間かけたくないんだ。だから通して。酷いこともしたくないもん。だから……」
私のくちびるが、割れた陶器の、虚ろげな笑みを浮かべる。
「ここ、通して?」
―――でも、美鈴はそれから、一度だって怯まなかった。
最期まで。
いつだか、雨の日。せまっくるしく本の積み上げられた魔理沙の家で、フランは、白いソックスが埃にまみれるのも構わず、床の上にうずくまっていた。さかんに首をかしげながら見つめる床に本が一冊。とてもおおきい。フランの年頃、人間の子どもだったなら、持ち運ぶのも大変だろうサイズの巨大な本。
つるつるとした紙には鮮やかな色彩で絵模様が描かれ、そこには美しい星空が浮かぶ。乳を流したような天の川、細い線で細かに区分けされた天球図。咲き初めた薔薇のようなばらいろの星雲、瑪瑙で作られたような土星のすがた。フランはぎゅっと眉を寄せて真剣にページをめくっていた。魔理沙はスカートがめくれるのも構わず、ベットの上からそれを見ていた。
「……これ、何?」
とうとうフランが耐えかねて問いかける。魔理沙は至極真剣に答えた。
「天文写真の本」
赤い砂岩が縞を描いた荒野の上、青白い流氷の海のかなた、見知らぬかたちをした星図がひろがっていた。魔理沙は手を伸ばし、フランの手元の写真をおさえた。指を動かして示してくれる。四つの星。
「これが、南十字星」
「いつ、見られるの?」
「幻想郷じゃ無理だな。もっとずっと南の星だ」
魔理沙の声には、フランには理解のしがたい何かが滲んだ。フランはぎゅっと幼い眉を寄せた。魔理沙を見上げる。金色の髪がほぐしたリボンのように豊かに溢れ、魔理沙の顔のまわりを縁取っていた。金色に波打つ髪、夏の終わりの麦の髪。……見たことのない表情だ、とフランは思った。
「こっちのばら星雲も、この土星も、ここからじゃ見られない。誰かが天文台でも作れば見られるかもしれないけど、そんなことするやつはいないだろうなぁ」
「誰も見たことないものの絵なんて、誰が書いたの」
「これは外の世界のものだよ。昔、霜之助にもらったのさ」
フランはつぶやいた。かみ締めるみたいに。
「そとの、せかい」
「幻想郷の空は狭いのさ。フランにもそろそろ分かったんじゃないか? 私が全力でぶっとばせばすぐに端から端までいけちまう。空を目指してもどっちみち結界はぶちやぶれない。この幻想郷は、そうだな、こんな」
魔理沙は手を伸ばし、がらくたの山の中から、ガラス玉を一個とりあげる。フランに向かって放った。フランはそれを反射的に受け止める。
「こういう置物と似たようなもんだ。いいとこで、すげぇところで、でも、中だけで完結してる。どんなに大騒ぎしたって外に出られるわけじゃない」
フランが受け取ったものは、スノー・グローヴだった…… ガラス玉の中に水が充たされ、中には銀紙を細かく切ったもの、それに、彫刻で出来た小さな天使がおさめられていた。ゆらすたびに水が動いて、天使の上に雪が降る。そういう作りの置物なんだろう。フランはぎゅっと唇をかみ締めた。
ぱん、と音を立てて、置物は砕けた。魔理沙は眉一つ動かさなかった。フランの手がべっとりと濡れ、銀紙がそこにまとわりついた。
「そんなことないわ。幻想郷は、そんな狭苦しい、箱庭みたいなところじゃないもの」
「……」
「いいとこだもん。魔理沙もいるし、お姉様も、みんなもいるもの。そんな風に言うのって変だよ」
「じゃあフラン、お前、この南十字星が見られるか? ここにいて?」
「いつか見られるわ。だって、私も昔は外にいたんだもの」
「何百年前だよ」
魔理沙は苦笑しながら、フランの手元に開かれていた重たい本を持ち上げた。なんとか濡れずには棲んだらしい。なれた手つきでページをめくり、開き跡のついたページを見つけ出す。
「みろ、フラン。これお前と前見にいった流星だ」
「……」
彗星。
青白い光を纏い、オーロラのようにかがやく星が、大きな絵の中央に写りこんでいる。魔理沙はいとおしげにその写真を指でなぞった。
「この彗星は78年周期で地球の周りをまわってるんだ。フランと見たときのやつは晴れに恵まれたし、夜だったし、しっかり観察できて嬉しかったよ。でも次は見られるか分からない」
「……"見れば"いいじゃない」
「私はもうそのとき、死んでるかもしれない」
フランは、一瞬、声をなくした。
魔理沙はぱたんと本を閉じる。いたずらっぽく笑う表情は、いつもの魔理沙だった。日焼けした肌と猫のような目。麦色の髪も。
「私は"にんげん"だからな。長生きしても、そうだな、せいぜいが100年ちょっとってところか。運が良けりゃ次まで生きられるかもしれないが、そのときが雨だったり曇りだったり、真っ昼間だったりしたらどうしようもない」
「……そんな、だって、たったの100年」
「私には"たった"って年月じゃないんだよ。人間だからな」
魔理沙はついと手を伸ばす。フランは思わず身体をこわばらせた。だが、魔理沙の手はフランの肌に触れるのではなく、その側、ランプの火屋に止まっていた小さな蛾をつまむ。ミルク色の蛾は魔理沙の手の中でもがいた。はたはたと頼りなく。
「たとえばこの虫には……」
魔理沙は、片手で器用に窓を開けた。
「……長雨に降られちまったことは、人生全部を変えるみたいな大事かもしれない。私たちにとっては雨はかならず止むもの、その程度の話なのにな」
外にそっと蛾を逃がしてやる。声をなくしたフランの前で、ちいさな蛾は、たよりなく羽ばたきながら、どこともなく闇の彼方へと飛び去っていった。
「昔読んだ本でさ、数百年にいっぺんだけしか夜の来ない国の話があったんだよ。みんながみんな、【夜】なんて迷信だって思ってるんだ。でも【夜】は来て、それで、そいつらの国も世界も、みんなバラバラになっちまった」
「そんなの…… だって、そんなの」
「おかしいよな? 私らにとって、夜は来たら開けるものだ。たいした問題じゃない。日は沈んだら、登る。待てばいいだけだ」
だけど、と魔理沙は言った。
「私は100年をとても待てない。そういうイキモノだからな」
正面からフランを見た眼は、やっぱり、どこか猫のようだった。透き通った飴色をしている。猫目石を転がしたように、一瞬だって同じ表情を浮かべていない。フランは、息が詰まるような思いを憶えた。ニッ、と魔理沙は笑った。どこか悔しそうな笑顔だった。
「実はさ、レミリアに言われてたんだ」
「お姉様、に?」
「もしも面倒見切れずに放り出すんだったら、やたらとフランに構うのはやめてくれって」
でもなぁ、と魔理沙は指で頬を掻いた。
「どっちにしたって、100年もしたら私はフランを放り出すことになる。そういう風に思ってさ。なんか考えてもよく分からないから、お前に直接聞こうと思ったんだよ」
フランは、硝子のような眼を見開いて、まじまじと魔理沙を見た。
猫のような目、日焼けした肌、麦の髪。夏草の匂いのする魔理沙。
―――いなくなる? 魔理沙が?
「そんなの…… そんなの、分からないよ!」
フランは、とっさに、叫んでいた。
「じゃあ、魔理沙がいなくならないようになればいいんだ! 私がさ、魔理沙を咲夜みたいにするとか、たくさん方法はあるじゃない。ずっとずっと一緒にいてくれたらいいんだ。だからそんな、お姉様の言うことなんて…」
「いなく、なるんだ」
魔理沙は、フランの言葉を断ち切るように、はっきりと言った。
はっと息を呑み、魔理沙を見つめる。魔理沙は正面からフランの眼を見ていた。飴色のひとみ。
「私は一生、人間でいる。だから100年後には、もうこの世にいない。もしかしたら、もっと前にいなくなってるかもしれない」
フランは、眼を、またたいた。何度も何度も。どうしてそんなにまばたきをしないといけないのか、よく分からなかった。視界がぐにゃりとゆがむ。
魔理沙は眼をまたたき、それから、苦笑した。手を伸ばしてフランの頬をごしごしと拭った。フランは自分が泣いていたのだと初めて気付いた。頬をぽろぽろと涙の粒がこぼれおちた。ひっく、とフランはしゃくりあげる。
「なんで? どうしてそんなこと言うの?」
「理由はいろいろあるんだよ。私もそれなりには生きてるからな」
「魔理沙がいなくなる話なんて、聞きたくないよ」
「話したかったんだよ。ン…… なんていうか、フランと長い付き合いをする気になったからさ。こっちも真面目じゃないとフェアじゃない」
魔理沙の指が、フランの髪を撫でた。淡く透き通るような金髪を。フランは拳で顔をこする。涙はあとから流れてくる。魔理沙の手はとても優しい。
「私がなんでそんな風に思ってるのかとか、話すとすごく長い話になる。それこそ、むちゃくちゃに長い話にな。……聞く気あるか?」
「わっ、かんない、よぅ」
「なら、その気になるまで待つよ。聞きたくないならそれもアリだ」
フランは泣きじゃくって、息も出来ないくらいだった。魔理沙はしばらくそれを見ていて、そのうち困った顔になり、手を伸ばし、フランの顔を自分のエプロンの胸へと抱き寄せた。フランは魔理沙の胸で声を上げて泣いた。ずっとずっと泣きつづけていた。
それが、78年前の話。
魔理沙の『長い長い話』を、フランが聞き始める、ほんのちょっと前の話だった。
私は綿密に計画を練っていた、抜かりは無い。そのために半年ほども時間を置いていた。半年。たったの6ヶ月。30×6。なんて短い年月だったんだろう。でも、私にとっては、それまでの78年を全てぼろぼろに朽ちさせてしまうに相応しいくらい、長い時間に思えた。
お姉様は私を警戒しているだろう。咲夜も。心ならずも、たぶん美鈴も。私の味方はパチュリーひとりだけだ。痩せっぽちで喘息もちだったパチェは、今も、物静かで無口な司書として、図書館の奥の樫の椅子の上に居座っている。
パチェは私の味方だが、でも、一緒にお姉様や咲夜と戦ってくれるほどではない。パチェが私の味方として振舞ってくれる支援はたった一つだけ、屋敷の皆の巡回ルートを教えてくれるという点だけだ。それだけでもずいぶんありがたい。何しろ私は今でも、力の加減のへたくそな、世間知らずのかごの鳥に過ぎないのだから。
78年は、決して長い時間ではない。私は変わろうとした、変わったのだと思う。けれど、今はそんなことも錯覚に過ぎないように思える。あれからの時間に得たものなんて、すべてが煙のように消えてしまったような気がしている。
私は変われなかった。たった、78年分しか変われなかった。しかもその微々たる変化もまた、この半年で磨り減りはててしまった。このまま一年が、十年が、百年が過ぎたら、私の中から、あのひとの全てが消えてしまうだろう。薫り高くほろ苦い紅茶の一杯が、さめて味気ないカップ一杯の色水に変わってしまうみたいに。
私はそれが怖い。怖いということが少し嬉しい。
それが怖いうちは、私はまだ、魔理沙のことを大好きでいる。
「魔理沙……」
私はゆっくりと歩いていく。鋳鉄が精緻なつる草のアラベスクを織り成したドアの前に立つ。
「魔理沙、今、いくからね」
そして私は背の翅を開く。華奢な骨格に力がみなぎり、力を孕んだ七色の光が、淡い翅をきらめかせるのを感じる……
今から78年ほども前のことだった。そのころ、誰からも重要視をしていないこととして、フランドール・スカーレットは心から霧雨魔理沙を愛していた。
古い古い屋敷の地下に幽閉されていた吸血鬼の少女が、人間の娘を、心から好きになった。奇妙なことではあるが、とりたてて珍しいことではなかった。魔理沙はまた節度というものをわきまえた人間で、フランの自分に対する好意を何かに利用することなど考えてもいなかっただろう。少女はひがな娘のことを考えて幸せな気持ちになり、娘は彼女独特の気まぐれなやりかたではあったが、少女のことをいつくしんでいた。
あるとき二人は夜の草原にいた。フランは見たことのない景色に眼を奪われた。魔理沙はそんなフランの隙を突いてうしろからふざけて抱きついてきた。フランの背丈は魔理沙の肩ほどまでしかなかった。二人はそのまま高く茂った草に転げ、きゃらきゃらと笑い声を上げながら、草の斜面をころがりまわった。
倒された草が強く香った。夜の匂いがした。あれはいつごろの季節だったのか。魔理沙の髪に顔をうずめると、金色に乾いた草の香りと、みずみずしい青葉の香りとが同時にした。
はしゃいでくすくすと笑い続けるフランの髪を、魔理沙は猫のくびをなでるような手つきで、なでてくれた。くすぐったくて気持ちがよかった。ふざけて指を噛んだ。瑞々しい酸味と甘みが口の中で弾けた。摘んだぐみの実をそのまま口に運んだような鮮やかな味だった。図らずも陶然とするフランに向かって、魔理沙が笑いながら、「こら、血が出る」と言った。
「美味しいよ、魔理沙」
「わたしを喰うな。喰ったら居なくなっちまう」
「それ困る」
「なら、手を離してくれよ」
「でも美味しいんだもの」
「困ったお姫様だなぁ」
ちゅうと強く指を吸う。魔理沙が少し眉をしかめる表情が快かった。けれどむりやり指を引っこ抜いた。「あぅ」と思わず声をあげるフランに、「そんなことより上見ろ、上」と魔理沙が言う。
「何しにきたか忘れるなよな。そろそろ流れるぞ…… ほら」
さっきまで飴のようにしゃぶっていた指が、そのまますっと空を指す。だものだから釣られてしまう。夜空を見たフランは、そこにすっと流れたものを見て、「あっ」と再び声を上げることとなる。
「ね、魔理沙! なんか動いたよ! なんかが!!」
「おー来たか、彗星。眼を離すなよ。これからバンバン流れ星が落ちるぜ」
―――彗星。何十年か何百年か、はたまた何万年かの周期で、夜空をよぎる旅の星。
「星ってほんとに動くんだね」
「ご感想は?」
「思ってたより…… 地味だね」
「そりゃそうだ」
「魔理沙の弾幕のほうがきれいだよ」
「まさか!」
ちょっと予想外の返事に驚いて、魔理沙のほうを見た。草に大の字になって寝転がった魔理沙は、猫のような眼を細めて、ニッと笑った。
「ありゃあ無理だ、わたしじゃかなわないさ。大体流れ星はずっと遠くから見てるんだ。比較として間違ってるぜ」
「……せっかく、魔理沙のこと、褒めてあげたのに」
「それは嬉しいけどな」
あ、また星、と魔理沙が声を上げた。指差す先をすいと流れ星が通っていった。
「フラン、願い事しとけ。アレが落ちるまでに三回言えば叶うっていうんだ」
「三回も? 無理だよ」
「だからチャレンジするんだ」
魔理沙は、奇妙に真剣な声で言った。
地下から廊下へとあがると、踝までうもれるような絨毯の廊下だと、すべての窓が緞帳で分厚く覆われていることが分かった。
「真っ暗……」
天鵞布作りの分厚い緞帳には、わざわざ裏地まで当ててある。ほとんど光を通さない。考えてみれば当たり前だろう。この屋敷は太陽を嫌うお姉様のためのものだから。
窓を破って外に出ようかと考えてもみた。だが、それだと広い場所で挟撃に会う可能性が高い。お姉様と咲夜と美鈴、全員を少なくとも一度は倒して、時間を稼ぐことを考えなければいけない。
そう考えると、いちばんやっかいなのは咲夜だった。いちばん最初に潰さないといけない。でも、私は咲夜に勝てるんだろうか。……戦いではなく、『ゲーム』として?
廊下を駆け抜ける。銀のふちを持つ鏡に、重たげな金箔で彩られた壁、そこに描かれた異国の花綱のきらめきに、私の姿がゆらめく。透き通るような金色の髪、青白い肌。ガラス細工のような華奢な翅。
私はやがて、咲夜を見つける。パチェに言われたとおり、咲夜は大鏡の間にいた。銀灰色の髪が、茄子紺のドレスが、無数の鏡像をゆらめかせていた。私は叫ぶ。意思を込めた声で。
「咲夜!」
「……フランドール様?」
振り返った咲夜は、眼を、見開いた。一瞬その顔の上を彼女らしくない表情がいくつもよぎった。狼狽、苦痛、焦燥、他にも……でも全ては一瞬で隠しこまれてしまう。冷静で物静かなお姉様の侍女は、「どうなさいました」といつものような静かな声で言った。
「このようなお時間に。何かお申し付けがございますなら、そこいらのメイドに申し付けてくださればよろしかったのに」
「咲夜。私、外に行くわ」
「……」
「ダメって言うのは知ってる。だから」
私は大きく息を吸った。そして、吐いた。ちりつくようなきらめきが背中の翅によぎった。心ならずも、それは、快感に近い感覚だった。
力を解放する感覚は、何かを壊す快感に似ている。積み上げた積み木を腕の一振りで叩き壊すような、真珠の首飾りを一息に引きちぎるような、そんな悦びだった。私はそれが好きだ。抑制することを学ぼうとはしたけれど、その本能的な快感だけは、どうしても棄てようがなかった。
咲夜が手にしていたガラス磨きの布を床に落とした。硬質な面差しがきりりと引き締められた。指を広げると、魔法のように現れる銀のナイフ。薄い刃のそれを扇のように重ねて、「何をおっしゃるんです」と低い声で言う。
「あまりおいたをなさってはいけません。お嬢様に心配をかけます」
「いうと思ったよ。でも、無理やりでも、通させてもらうから!」
10月の夜にはその年でいちばんの薄氷。その日も魔理沙はフランを外に連れ出してくれた。その前の日にはみぞれが降って、夜の森はしんしんと骨に染み入るように寒い。やっぱり、星がきれいだった。フランは夢中になって、そこらじゅうに張っている薄氷を踏んで回った。
真新しい灰色の絹の靴底で踏むと、ぱしと音を立てて氷が割れるのが面白い。たかが氷だった。でも、面白い。フランは落ちた豆をおいかけていくハトのように、水たまりを追いかけて、どんどんと森の中の小道へと歩いていってしまう。後から魔理沙がのんびりと付いてくる。霜がついて甘くなったプラムを枝からむしりながら。
「ね、魔理沙、この氷面白いよ。なんだか模様が付いてる!」
「ん? どこどこ?」
凍りかけた水たまりが、ガラス作りの羊歯の葉のような、繊細な模様を描いていた。フランはそこに手を突っ込んで氷をつかみ出そうとする。けれど、繊細な造作はあっという間に手の中で消えてしまった。「あ、あー」と声を上げるフランに、くっくっ、と喉を鳴らして魔理沙が笑った。フランはふくれっつらで降りかえる。
「なんで笑うの~」
「当たり前だろ。氷触ったら融けちまうぞ」
「知らないもん、そんなの。ねぇねぇ魔理沙、ほんとにきれいな形をしてたんだよ。すごく面白いの。きらきらしててね……」
なんとか同じようなのが無いかとおもって当たりを見回すけれど、あいにく、そこらの水たまりはすべて踏んづけてしまった後だった。「もう!」とフランはさらに頬を膨らませる。
「ねぇ魔理沙~、氷作って~」
「私はチルノじゃないんだからさぁ」
「だって……」
まぁ、ソレはそれとしてさ、と魔理沙は言う。後ろからがばりと何かをかぶせられた。
「う?」
「フラン、手を拭け。しもやけになるぞ」
「はぁ~い~」
重たい毛織のケープは、白い兎の毛皮でふちどられていた。咲夜が貸してくれた服は虫除けのセージの香りがした。手が冷たいと言われて指を見る。真っ白なはずの指先が赤くなり、じんじんと痛んでいた。なんでだろう? 首をかしげていると、横から見ていた魔理沙が、その手をひょいと手でつまむ。そのまま自分のマフラーの下に入れる。
「うわっ、冷たっ!」
「あ、あったかい」
「手袋くらいしろよなぁ、もう。……ほら、そろそろだ。空を見てみろよ」
「んー?」
魔理沙に言われて空を見た。遠く、月が山の端に沈んでいくところだった。月の光は思ったよりもずっと眩しかったらしい。その光に隠れていた小さな星たちが、やがて、つつましやかにきらめきはじめる。
空は、誰かが針でむちゃくちゃに突いた後みたいだった。星が無数に散らばって、その数が多すぎてどれがどれなのかが分からない。「まぶしいよ」と顔をしかめるフランに、魔理沙が眼を丸くした。
「眼が痛くなりそう……」
「え、星のせいで?」
「うん、そう」
へえ、と魔理沙が感嘆の声を上げた。フランにはひどく奇妙に思えた。星なんてずっと見てれば目がちかちかしてきて当たり前なのに。
「私はなんだかんだいっても人間だからな、お前ほど夜目は利かないんだ。星を見てて眩しいなんてうらやましいくらいだぜ」
「そうなの?」
魔理沙の探し物はだいたい分かっていた。フランは空をぐるりと見回した。つ、と星が流れるのを見つけたのは、まもなくだった。「あっちに見えたよ」と空を指差す。
「今、きらって何かが落ちた」
「お、マジか。今夜は当たりかな」
魔理沙はフランが指差したほうをわくわくと見上げ始める。フランはちょっと不満な気分になった。上ばっかり見て私に構ってくれない。そんな魔理沙はちょっといや。
そう思ってむくれているフランに、気付いたのか気付かないのか。そのうち魔理沙が、「こっち来い」とフランを呼ぶ。「何~」と近づいていくと、いきなり、ばふりと何かあったかいものに包まれた。
「???」
フランは眼を白黒させた。魔理沙が、自分のコートの前を開いて、中にフランを包みこんでしまったのだ、と気付いたのはしばらく立ってからだった。長い毛糸のマフラーも解いて、自分とフランをまとめて包んでしまう。二人はまるで布の塊みたいになってしまった。だが、あったかい。
「冷えてるな、お前。風邪引くぜー?」
魔理沙が能天気な声で言う。フランは何を言ったらいいのか分からなかった。捕まった小鳥みたいに眼をきょろきょろさせて、近すぎてぼやけそうな魔理沙の顔を見たり、ふわふわともつれた金色の髪を見たり、した。
「魔理沙、帽子じゃま。空見えないよ」
「じゃ、パス」
言うなり、魔理沙の帽子が自分の頭にぎゅっとかぶせられる。そういう意味じゃないのに。でも、すぐに可笑しくなった。くすくすと笑うフランに、魔理沙もちょっと悪戯っぽい顔で笑った。魔理沙の髪からは、暖炉にはじける粗朶の香ばしい匂い、それに、火に放ったクローヴやナツメグの匂いがした。
咲夜相手に時間をかけすぎた。にわかに騒がしくなり始めた紅魔館の中を、私は全力で駆け抜けた。無数の小さな部屋、アルコーヴや隘路、大きすぎる家具、抜け道。パチェから貰った地図は頭に叩き込んであったけれどそれでも迷いそうだ。できるだけ急がないといけない。出来るだけ急いで美鈴を見つけ、それから……
咲夜の顔がふとまぶたの裏に思い出された。その瞬間、針を胸に打ち込まれたみたいに、鋭い痛みが走った。
お嬢様に申し付かっているのです…… フランドール様をお守りしろと。ならば、ここを通すわけには行きません。
「守るって何……」
私は、強く奥歯をかみ締めた。涙が滲んで燭が揺らいだ。
守るって何。誰から私を守るの? この紅魔館でも、私に対してまともに害をなせる相手は少ない。幻想郷全体を考えたってそうだ。だったら、私を守らないといけないような相手はひとつしかない。
私自身の愚かさから、だけだ。
愚かさってなんなの。狂気ってなに。そんなの自分で知ってる。痛いほど思い知らされている。この78年間、私自身の愚かさがどれほど致命的なものか、思い知らされない日は一日も無かった。
私は、人を好きになったから。
ばかなことを沢山考えた、ひどいことや悪いことを幾つもしようとした。でも全部彼女が止めてくれた。彼女はそれくらい強かった。そうじゃなかったら、お姉様も、私が人を好きになることなんて許してくれなかったはずだ。
喧嘩して、仲直りして、たくさん話をして、遊んで、それからまた話をして、喧嘩をした。何回も繰り返した。
私は彼女をねじふせようと何回もやっきになった。そのたびに私の弾幕は精緻さを増していき、そのうち、光で編まれたレースのようなものへと成長していった。私はたぶん、きれいなものが好きな彼女のためにそうした。ねえ見て、私の弾幕きれいでしょ、きらきらしてて素敵でしょ、だから負けを認めて、私のわがまま聞いて。
ときどきはわがままが通って、だいたいは負けて私が大泣きさせられて、ほんの稀には手ひどく懲らしめられた。それでも彼女にまた会った。何回でもまた会えた。それが分かっているから、お姉様は、私が彼女を好きになることを認めてくれたのだ。
でも知ってたのかな、こんな結果。知ってたんだろう。お姉様だって迷ったはず。お姉様は私ほど愚かじゃない。何もあとさき考えないで私のこと野放しにしてたなんて考えにくい。
「フランドール様っ!」
私はつんのめるようにして立ち止まる。美鈴の声だった。振り返るとそこに美鈴がいた。何故だか泣きそうな顔をしていた。
「あれ、そっちから来てくれたの」
よかった、と私は笑う。美鈴はますます顔をくしゃくしゃにした。
「お願いです、フランドール様。気持ちはわかります。でも、無茶なことしないでください。私たちみんなフランドール様のこと心配で……」
「わかるって、何」
美鈴がびくんと身体を震わせた。私は自分の声が、ひどく冷淡に響いたことに、自分で驚いていた。
「誰にも私の気持ち、わかんないと思うよ? ああでも今は分かりやすいよね。一つだけ」
手加減してあげるから、できるだけあっさりそこ退いて、ってことだけ。
美鈴はぎゅっと唇を噛んだ。顔を上げる。私は驚いた。てっきり逃げるかと思っていた。美鈴を叩き潰すことなんて、今の私には簡単なことなのに。
「分かりますよ、フランドール様の気持ちくらい…… 何年お仕えしてると思ってるんですか」
「ずいぶん生意気なこと言うんだ」
「ええ、言いますよ、言いますとも! あたしだってこの紅魔館に心からお仕えしてるもんの一人なんだ!」
美鈴は私をにらみつけた。構える。悲鳴のような声で言った。
「あたしたちだって寂しいんです! この上、フランドール様まで無茶なんてしないでください! ……お嬢様のためにもっ」
ちくんと胸が痛んだ。私は笑った。それを隠すために。
「わかんないよ。だって、美鈴もお姉様も、私ほど、あの人のこと好きだったわけじゃないもん」
私の背後できらめく光が細い糸を織り成す。百万のダイヤモンドが織り成す光のレース。誰にも解くことのあたわぬ絶対公式。
「時間かけたくないんだ。だから通して。酷いこともしたくないもん。だから……」
私のくちびるが、割れた陶器の、虚ろげな笑みを浮かべる。
「ここ、通して?」
―――でも、美鈴はそれから、一度だって怯まなかった。
最期まで。
いつだか、雨の日。せまっくるしく本の積み上げられた魔理沙の家で、フランは、白いソックスが埃にまみれるのも構わず、床の上にうずくまっていた。さかんに首をかしげながら見つめる床に本が一冊。とてもおおきい。フランの年頃、人間の子どもだったなら、持ち運ぶのも大変だろうサイズの巨大な本。
つるつるとした紙には鮮やかな色彩で絵模様が描かれ、そこには美しい星空が浮かぶ。乳を流したような天の川、細い線で細かに区分けされた天球図。咲き初めた薔薇のようなばらいろの星雲、瑪瑙で作られたような土星のすがた。フランはぎゅっと眉を寄せて真剣にページをめくっていた。魔理沙はスカートがめくれるのも構わず、ベットの上からそれを見ていた。
「……これ、何?」
とうとうフランが耐えかねて問いかける。魔理沙は至極真剣に答えた。
「天文写真の本」
赤い砂岩が縞を描いた荒野の上、青白い流氷の海のかなた、見知らぬかたちをした星図がひろがっていた。魔理沙は手を伸ばし、フランの手元の写真をおさえた。指を動かして示してくれる。四つの星。
「これが、南十字星」
「いつ、見られるの?」
「幻想郷じゃ無理だな。もっとずっと南の星だ」
魔理沙の声には、フランには理解のしがたい何かが滲んだ。フランはぎゅっと幼い眉を寄せた。魔理沙を見上げる。金色の髪がほぐしたリボンのように豊かに溢れ、魔理沙の顔のまわりを縁取っていた。金色に波打つ髪、夏の終わりの麦の髪。……見たことのない表情だ、とフランは思った。
「こっちのばら星雲も、この土星も、ここからじゃ見られない。誰かが天文台でも作れば見られるかもしれないけど、そんなことするやつはいないだろうなぁ」
「誰も見たことないものの絵なんて、誰が書いたの」
「これは外の世界のものだよ。昔、霜之助にもらったのさ」
フランはつぶやいた。かみ締めるみたいに。
「そとの、せかい」
「幻想郷の空は狭いのさ。フランにもそろそろ分かったんじゃないか? 私が全力でぶっとばせばすぐに端から端までいけちまう。空を目指してもどっちみち結界はぶちやぶれない。この幻想郷は、そうだな、こんな」
魔理沙は手を伸ばし、がらくたの山の中から、ガラス玉を一個とりあげる。フランに向かって放った。フランはそれを反射的に受け止める。
「こういう置物と似たようなもんだ。いいとこで、すげぇところで、でも、中だけで完結してる。どんなに大騒ぎしたって外に出られるわけじゃない」
フランが受け取ったものは、スノー・グローヴだった…… ガラス玉の中に水が充たされ、中には銀紙を細かく切ったもの、それに、彫刻で出来た小さな天使がおさめられていた。ゆらすたびに水が動いて、天使の上に雪が降る。そういう作りの置物なんだろう。フランはぎゅっと唇をかみ締めた。
ぱん、と音を立てて、置物は砕けた。魔理沙は眉一つ動かさなかった。フランの手がべっとりと濡れ、銀紙がそこにまとわりついた。
「そんなことないわ。幻想郷は、そんな狭苦しい、箱庭みたいなところじゃないもの」
「……」
「いいとこだもん。魔理沙もいるし、お姉様も、みんなもいるもの。そんな風に言うのって変だよ」
「じゃあフラン、お前、この南十字星が見られるか? ここにいて?」
「いつか見られるわ。だって、私も昔は外にいたんだもの」
「何百年前だよ」
魔理沙は苦笑しながら、フランの手元に開かれていた重たい本を持ち上げた。なんとか濡れずには棲んだらしい。なれた手つきでページをめくり、開き跡のついたページを見つけ出す。
「みろ、フラン。これお前と前見にいった流星だ」
「……」
彗星。
青白い光を纏い、オーロラのようにかがやく星が、大きな絵の中央に写りこんでいる。魔理沙はいとおしげにその写真を指でなぞった。
「この彗星は78年周期で地球の周りをまわってるんだ。フランと見たときのやつは晴れに恵まれたし、夜だったし、しっかり観察できて嬉しかったよ。でも次は見られるか分からない」
「……"見れば"いいじゃない」
「私はもうそのとき、死んでるかもしれない」
フランは、一瞬、声をなくした。
魔理沙はぱたんと本を閉じる。いたずらっぽく笑う表情は、いつもの魔理沙だった。日焼けした肌と猫のような目。麦色の髪も。
「私は"にんげん"だからな。長生きしても、そうだな、せいぜいが100年ちょっとってところか。運が良けりゃ次まで生きられるかもしれないが、そのときが雨だったり曇りだったり、真っ昼間だったりしたらどうしようもない」
「……そんな、だって、たったの100年」
「私には"たった"って年月じゃないんだよ。人間だからな」
魔理沙はついと手を伸ばす。フランは思わず身体をこわばらせた。だが、魔理沙の手はフランの肌に触れるのではなく、その側、ランプの火屋に止まっていた小さな蛾をつまむ。ミルク色の蛾は魔理沙の手の中でもがいた。はたはたと頼りなく。
「たとえばこの虫には……」
魔理沙は、片手で器用に窓を開けた。
「……長雨に降られちまったことは、人生全部を変えるみたいな大事かもしれない。私たちにとっては雨はかならず止むもの、その程度の話なのにな」
外にそっと蛾を逃がしてやる。声をなくしたフランの前で、ちいさな蛾は、たよりなく羽ばたきながら、どこともなく闇の彼方へと飛び去っていった。
「昔読んだ本でさ、数百年にいっぺんだけしか夜の来ない国の話があったんだよ。みんながみんな、【夜】なんて迷信だって思ってるんだ。でも【夜】は来て、それで、そいつらの国も世界も、みんなバラバラになっちまった」
「そんなの…… だって、そんなの」
「おかしいよな? 私らにとって、夜は来たら開けるものだ。たいした問題じゃない。日は沈んだら、登る。待てばいいだけだ」
だけど、と魔理沙は言った。
「私は100年をとても待てない。そういうイキモノだからな」
正面からフランを見た眼は、やっぱり、どこか猫のようだった。透き通った飴色をしている。猫目石を転がしたように、一瞬だって同じ表情を浮かべていない。フランは、息が詰まるような思いを憶えた。ニッ、と魔理沙は笑った。どこか悔しそうな笑顔だった。
「実はさ、レミリアに言われてたんだ」
「お姉様、に?」
「もしも面倒見切れずに放り出すんだったら、やたらとフランに構うのはやめてくれって」
でもなぁ、と魔理沙は指で頬を掻いた。
「どっちにしたって、100年もしたら私はフランを放り出すことになる。そういう風に思ってさ。なんか考えてもよく分からないから、お前に直接聞こうと思ったんだよ」
フランは、硝子のような眼を見開いて、まじまじと魔理沙を見た。
猫のような目、日焼けした肌、麦の髪。夏草の匂いのする魔理沙。
―――いなくなる? 魔理沙が?
「そんなの…… そんなの、分からないよ!」
フランは、とっさに、叫んでいた。
「じゃあ、魔理沙がいなくならないようになればいいんだ! 私がさ、魔理沙を咲夜みたいにするとか、たくさん方法はあるじゃない。ずっとずっと一緒にいてくれたらいいんだ。だからそんな、お姉様の言うことなんて…」
「いなく、なるんだ」
魔理沙は、フランの言葉を断ち切るように、はっきりと言った。
はっと息を呑み、魔理沙を見つめる。魔理沙は正面からフランの眼を見ていた。飴色のひとみ。
「私は一生、人間でいる。だから100年後には、もうこの世にいない。もしかしたら、もっと前にいなくなってるかもしれない」
フランは、眼を、またたいた。何度も何度も。どうしてそんなにまばたきをしないといけないのか、よく分からなかった。視界がぐにゃりとゆがむ。
魔理沙は眼をまたたき、それから、苦笑した。手を伸ばしてフランの頬をごしごしと拭った。フランは自分が泣いていたのだと初めて気付いた。頬をぽろぽろと涙の粒がこぼれおちた。ひっく、とフランはしゃくりあげる。
「なんで? どうしてそんなこと言うの?」
「理由はいろいろあるんだよ。私もそれなりには生きてるからな」
「魔理沙がいなくなる話なんて、聞きたくないよ」
「話したかったんだよ。ン…… なんていうか、フランと長い付き合いをする気になったからさ。こっちも真面目じゃないとフェアじゃない」
魔理沙の指が、フランの髪を撫でた。淡く透き通るような金髪を。フランは拳で顔をこする。涙はあとから流れてくる。魔理沙の手はとても優しい。
「私がなんでそんな風に思ってるのかとか、話すとすごく長い話になる。それこそ、むちゃくちゃに長い話にな。……聞く気あるか?」
「わっ、かんない、よぅ」
「なら、その気になるまで待つよ。聞きたくないならそれもアリだ」
フランは泣きじゃくって、息も出来ないくらいだった。魔理沙はしばらくそれを見ていて、そのうち困った顔になり、手を伸ばし、フランの顔を自分のエプロンの胸へと抱き寄せた。フランは魔理沙の胸で声を上げて泣いた。ずっとずっと泣きつづけていた。
それが、78年前の話。
魔理沙の『長い長い話』を、フランが聞き始める、ほんのちょっと前の話だった。
なのでこの点で
切ないですねぇ・・・でもこういうの大好きです。
紅魔館のみなの優しさに涙。
また、表現の仕方にとても感動しました。
「ガラス作りの羊歯の葉のような」等、表現の仕方が奥深くとても神秘的な光景が目に浮かびました。
魔理沙の容姿等の表現が多彩で彼女の魅力がとても伝わってきました。
続きをとても期待しています^^
とても綺麗な文章だと思います。
続き待ってます!!
wktkしながら待ってます。
あと流星と違い彗星は流れませんよ