Coolier - 新生・東方創想話

かくして恋符は夜空を穿つ

2010/06/30 23:21:21
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 冷めた三日月が照らす夜空に溶けこんで飛ぶ影があった。まだ月が高く上る前の、しかし確かに帳の下りた中を音もなく進む人影は、頭のてっぺんから爪先まで、全身に黒を纏っていた。太陽か、あるいは星の光を紡いだような金の髪も鍔の広い帽子に隠されている。その服装は何も人目を忍ぶためではなく──いや、確かに見つかると後が面倒ではあったが──主に彼女の信条によるものだった。黒い服は汚れが目立たないという理由もあったが。
 魔女は黒を着るもの。いまだ未熟な駆け出しの魔女、霧雨魔理沙はそう信じており、そして彼女は形から入るのも嫌いではなかったのだ。さらには、その形に見合う実力を身につける努力を惜しまぬ少女だった。だったが、今夜ばかりはその努力の一切も放り捨て、小さな胸を高鳴らせながら、それを何者かに聞かれやしないかと必要以上に高く飛びながら、一直線に人里へ向かっている。
 泥棒をしようというのではない。民家には入り込むが、家人の手だすけあっての行為だ。明かりの落ちた人里の上空から、ある一軒の屋敷へ向けて降下。箒に腰掛けた少女は簡単に全身を見渡し、一度帽子を脱いで髪を整え、周囲に誰の目も無いことを確かめてから窓の桟を軽く叩く。細い指でこつこつと軽い音が二度鳴らされ、それを合図に内側から窓が開かれた。月明かりが忍び込むよりも素早く、また静かに、霧雨魔理沙が室内に飛びこむ。

「こんばんは、だぜ」

 箒から飛び下りた霧雨魔理沙は、窓を閉める部屋の主の背にそう挨拶をした。窓際のベッドに座ったまま、部屋の主が振り向き挨拶を返す。細面に似つかわしいか細い声と、それに続いた数度の咳の後、部屋の主、病に伏せる少年は、にこりと笑ってみせた。
 この快活な少女と病弱な少年の出会いは数年前に遡る。生まれつきの難病を患っていた少年はずっと薬が必要だった。魔法の成分が一切含まれないよう、素材から気をつけて調合されねばならない薬だ。そう簡単に手に入る物でもなかったが、それを調達し続けたのが人里の大手道具屋たる霧雨店、すなわち霧雨魔理沙の実家である。決して安い薬ではなかったが、幸いなことに、少年の家もまたそれなりに大きなものだった。上得意になるだろうと判断した霧雨魔理沙の父は、長いつき合いになるだろうからと、ある日、娘を連れて少年の家を訪れたのである。
 だが生まれつき元気の塊であったこの娘には、大人同士が話をするのをじっと座って聞いているという退屈がとても我慢できなかったのだ。故に父親の手を振り解き、初めて訪れた広い屋敷の中へ探検に出た。家人の目から隠れ、道に迷い、しかし不安など一片も感じず、わくわくしながら奥へ奥へと進んでいた結果。件の少年がずっと伏せっている、その部屋へと辿り着いたのだ。

「それでな、それでな、香霖のやつがな、わたしが見つけた新しいキノコをだな──」

 数年前そうして初めて出会った時も、今こうして忍び込むようになってからも、二人がこの部屋でやる事に変わりはない。霧雨魔理沙は身の回りで起こったことを次から次へと、身振り手振りも交え、面白おかしく語る。少年は笑顔のままそれを聞き、時おり相槌を打つ。違いといえば、家人に気づかれる前にこっそり抜け出すか、父親に引きずられて出るかという点だけだ。
 なお当時の霧雨魔理沙は当然のこととしてこっぴどく叱られたが、全く懲りていないのは今なおこの少年との関係が続いていることからもよくわかる。実のところこの関係は、霧雨魔理沙が実家を出奔し、さる悪霊に師事していた間も途切れることなく続いていた。少女が少年と会うとき人目を気にするのは、見つかって実家に話が行けば間違いなく面倒が起こるというのが半分。単純に恥ずかしいからというのがもう半分である。

「そうそう、昨日また霊夢とやったんだけど、あいつ、ずるいんだぜ──」

 ずっと病床に伏せってきた少年の世界は、決して広くない。少女のありふれた日常は少年にしてみれば輝きに満ちた冒険の数々と言っていい。そのことをこうして聞かせてもらえることは、楽しくもあり、嬉しくもあり、羨ましくもあり、そして、時にどうしようもなく寂しいものだった。
 今も霧雨魔理沙は、博麗の巫女とやったという「弾幕ごっこ」という遊びについて語る。以前、この部屋じゃちょっと狭すぎるぜと言いながらも少しだけ見せてくれたそれは、無数の星が渦を巻き飛び回る、とても綺麗なものだったと少年は覚えている。
 いまだ少年は少女の本気を見たとこはなく、見ることは叶わないだろうと思っていた。そうして寂しさに駆られ、ほんの一瞬さしこむ影を少女は見逃さない。結果、なにくそとばかりにより一層楽しげに思いつく限りの話をし、気がつけば少年も余計なことを考える余裕もなく楽しませられているのだ。
 少女はますます熱を込めて、昼間に繰り広げた弾幕ごっこについて語る。博麗の巫女といえば妖怪退治の専門家として有名だ。それをあと一歩のところまで追い詰めたと聞かされた少年が純粋な驚きと賞賛を込めて、魔理沙はすごいなあと言ったところ。

「普通だぜ」

 と、やや頬を染めた返答があった。その直後に、人は死ねば星になるというからそうしたら魔理沙の弾幕もちゃんと見られるかなあなどと漏らし、顔を赤くしたままの少女にそんな事を言うなバカと叱られる一幕もあった。
 そんなささやかな密会が、今は週に一度。少女の手持ちのネタが無くなるまで続くのだった。今夜もまた、この一週間で起こったことを話しつくした少女が、大きく伸びをうつ。

「ま、今週はこんなところだな。話すことも無くなったし、わたしは帰るぜ」

 箒を掴んで立ち上がり、金髪のうえに帽子を乗せる。そうした彼女に、少年はありがとうと短く礼を言った。その直後に、また小さく咳き込む。

「ん……無理させちゃったか? ごめんな」

 心配げに覗き込んでくる少女に、少年は身振りで大丈夫だと伝え、窓を開ける。いつの間にかだいぶ高い位置まで上った月が、急な角度で光を滑り込ませてくる。それを遮るように、霧雨魔理沙は窓から飛び出した。しかしすぐにはそこを離れず、最後に一度振り向いて大きく手を振り。

「じゃあな、あったかくして寝ろよ」

 魔理沙も帰り気をつけてと返事をし、手を振り返す。そうして少女はまた闇に紛れて帰路につき、少年は窓を閉めて小さく咳き込むのだった。



「くそーっ、また負けたーっ!」

 神社の石畳に仰向けの大の字で転がる。昼前の太陽は容赦なく降り注ぎ、霧雨魔理沙はその眩しさに目を背けた。しかしさらに背けた顔に強い風が砂埃を吹きつけ、たまらず逆側を向いた。踏んだり蹴ったりであった。
 少年との密会は週に一度だが、毎日の日課となっていることももちろんある。腋の開いた奇妙な巫女服を着て、黒髪を赤いリボンでまとめた少女は、倒れた霧雨魔理沙の隣にふわりと降り立つと、聞こえよがしにため息をついた。

「あんたねえ、毎日つき合わされるほうの身にもなってみなさいよ」
「うるさい! 霊夢はずるい!」

 がばと上半身を起こし、勝手なことをわめく霧雨魔理沙を見下ろす少女──博麗霊夢は、燦々と照らす太陽に反して、じとりと霧雨魔理沙を見下ろした。

「ずるいって、何が」
「何もかもだ!」

 具体的には「ろくすっぽ練習も修行も何もせずにお茶飲んで昼寝して掃除して茶ぁしばいてまた寝てっていうような生活しかしてないくせに何でそうも強いんだよこんちくしょー」といったところだが、霧雨魔理沙はそれを表に出すことを良しとしない。博麗霊夢はその辺りを察する気がない。それでも文句の一つもつけてやらねば腹の虫が収まらず、白黒の少女はまた一つわめいた。

「だいたい何だよあの結界っての、こっちは動きが取れなくなるくせにそっちは平気で行き来する! こっちの弾幕は一個も通らないのにそっちのは素通しだ! ずるいぜ!」
「仕方ないじゃないの、そういうものなんだから」
「納得できるかー!」

 原理も理屈もよく知りもしないことを、わからないままやってのけるなんてインチキだ。仮にも魔法を学び、理論に従ってそれを扱っている魔法使いからすれば腹に据えかねる事実だったし、それに対して為す術も無い自分がまた腹立たしい。自分が間違っていないことを示したければ、打ち倒すしかない。故に毎日のように勝負を挑んではいるのだが、がむしゃらに突っ込んだところで勝ち目などないことを確認するのが関の山だった。
 一度は起こした上体をまた投げ出し、五体投地で両手両足をばたつかせる。

「ちっくしょー!」

 そうやって駄々をこねたところで太陽は相変わらず眩しいし、魔法が強くなるわけでもないし、博麗霊夢は手加減などしない。

「みっともないねえ、それでもあたしの弟子かい」

 ついには見るに見かねたのか、神社の本殿から声がした。霧雨魔理沙と博麗霊夢のどちらのものでもない声は、特に霧雨魔理沙には親しみのあるものだった。

「魅魔様!」

 金髪の少女がふたたび勢い良く体を起こす。その視線の先にはいつの間にか、濃緑の髪を長く伸ばし、青い服と帽子を着たものがいた。重さを感じさせない動きで賽銭箱に腰掛けた、そのスカートの裾から覗くのは足でなく幽体の尾である。その見た目の通り、彼女は生者ではない。かつては悪霊とさえ呼ばれていた。では今は何なのかというと、よくわからない。そもそも博麗神社に居付いたのですらよくわからないうちにだったのだ。
 ともかく、そのよくわからない存在──魅魔が、霧雨魔理沙の師であることは間違いのないことだった。魅魔は霊体なので重さは無い。そのくせ吹いた強風には飛ばされず、優雅に髪などなびかせてみせ、余裕のある言葉をかける。

「わめく暇があったら、破る方法の一つも考えたらどうだい」
「でも硬すぎるんだ」
「じゃあ搦め手でも何でもいいだろう?」
「そういうのは苦手だぜ!」

 なぜか堂々と胸まで張って言い切った弟子を見て、やれやれと言わんばかりに、魅魔は肩をすくめる。何かしらの賢い方法を使わずに壁を砕こうというのなら、取るべき方法はもはや明白だった。

「じゃあ力押ししかないじゃないか。どうすれば必要なだけの火力を出せるか、考えることだね」

 実のところ、考えるまでもないことであった。ようやく師から独立しかかっているこの駆け出しの魔法使いの中には、力押しの究極系とでも呼ぶべきイメージが一つ、強烈に根付いている。いつだったか師が放って見せた、そう、あれだ。

「魅魔様。魅魔様もやってたあのドバーっての、どうやるんだ?」
「……どばー?」
「あの、こう、ドバー! ってやってズドーン! ってやつ」

 何とか身振り手振りを交えて説明しようと、魔法使いの少女は奮闘した。ドバーで両手を力いっぱい前へ突き出し、ズドーンで大きく広げる。それで何とか伝わったのか、足のかわりに生えているそれをぶらぶらと揺らしながら、魅魔が答えた。

「あれかい。あんなの、やり方も何もないよ。ただ力いっぱい撃つだけさ。どっかのひまわり妖怪がこれ得意なのはそのせいさね」

 それはまさしく力押しと呼ぶべきものである。魅魔からしてみればやっている事は、持てる力を適当に一方向へ向けてぶっ放すだけなのだから、工夫も何もない。それが目を焼くほどの強大な光線となるのは、ひとえにこの悪霊が持つ力がもともと強いからだ。
 そして、その名無しの魔砲の秘密を聞いてうなだれる少女には、それだけの力などない。仮に自前の力を全てそうして放ってみたとしても、師のそれと比べれば火花のようなものしか出ないだろう。普通に弾幕ごっこをするのでさえ、魔法の森で採ったキノコやら何やらで魔法の薬を作り、それを燃料にしているのだ。強い破壊力のためには、大量のエネルギーが必要。ただそれだけの話であった。
 もちろん用意しようと思えばできる。しばらく時間をかけて準備し、これまで手をつけずに置いておいた分を引っ張り出し、珍しい材料を使った貴重な魔法薬も惜しみなく使う。そうすれば、あのにっくき結界の一枚や二枚、軽くぶち破るだけの魔法が放てるだろう。しかし、それにかかるコストを考えると、ため息をつかずにはいられないのだった。
 失意の駆け出し魔法使いがついたため息は、この日の朝から吹き続けている強めの風に、すぐさまさらわれていった。

「くっそー、魅魔様もずるいぜ」
「ずるくなんかないさね。年季が違うんだよ」
「何でもいいけど、そこ降りなさいよ。大事なお賽銭箱なんだから」

 年季を誇ったばかりの偉大な師が、自分と歳の変わらない少女に引きずりおろされている。そんな光景を見て霧雨魔理沙は、やっぱり霊夢はずるい、などと思うのだった。



 それから数日が経った。霧雨魔理沙は結局、魔法の薬を増産することに決めた。さすがに意地を張るためだけに、非常用にとっておく分や、偶然見つけた素材で作った貴重なものまで使うわけにはいかない。だが何日か溜め込めば、それなりの魔法が一発くらい撃てるはずだ。そうやってあの飄々とした紅白に一泡吹かせてやるのだ。そのためならば、普段使う分を切りつめて節制するのも苦しくはなかった。
 日は天高く、昼過ぎなれど、魔法の森はお構い無しに薄暗い。この数日で溜め込んだ魔法薬の瓶を乏しい午後の日差しの中に並べ、少女は満足げに頷いた。明後日は、またあの少年に会いに行く日だ。作戦決行も明後日だ。日中のうちに神社へ行って一勝負するのだ。いい土産話ができればいいな、と未熟な魔法使いが頬を緩める。脳裏にはあの少年に、偉いね、などと褒めてもらう自分の姿があった。もしかしたら頭など撫でられてしまうかもしれない。そんな想像に自分で恥ずかしくなり、緩んだ頬が朱を帯びる。
 この少女とかの少年は知り合ってから過ごした時間こそ長いが、これまでやった事はといえば、本当に言葉を交わすばかりだった。互いに触れたことなど数えるほどしかない。いつだったか、まだ今より箒で飛ぶのに慣れていなかった頃、部屋に入りざまにうっかり転げ落ちて少年に抱きとめられた時など、少女は心臓が止まるかと思ったものだ。今でも思い出すと、本当に止まってしまいそうになる。
 そんな思い出に殺されかけてからしばらくの後、どうにか平静を取り戻した霧雨魔理沙は、よし、と決意を込めて呟くのだった。

「明後日、もし霊夢に勝てたら……なでなで、してもらおう」

 口にしたら猛然と気力が沸いてきた。午前に採ってきたキノコは既に鍋で火にかけられているが、もうしばらく煮込まねばならない。その間に、もう少し材料を集めてこよう。少女はそう決めて、箒を持ち、靴を履き、帽子を被り。家を一歩出たところで、きゅるる、と腹が不平を訴えた。材料集めと精製に没頭するあまり、昼食を摂るのを忘れていたのである。ついでに、そもそも食材の買出しを忘れていたことにも気がついた。鍋の中には煮えたキノコがいくらでも入っているが、あれは食用には適さない。一度調理して食べたことはあるが、紙粘土のようだった。味は悪いし腹は膨れないし魔法の素にもならない。二度と食べないと誓っていた。
 ともかく一度人里へ向かうのが良いだろうと当たりをつけ、少女は森を飛び出した。食事もできるし食材も買える。ついでにその方面の店も覗いて、魔法薬の材料が手に入れば一石三鳥だ。普段は勉強と趣味を兼ねて自分で材料を集めているが、今回ばかりは万全を期したい。他所から材料を仕入れるのもやむなしだと自分に言い聞かせる。
 生い茂る木々を抜けて高く、枝葉の上へ。飛び上がって人里の方を確かめた少女は、そちらから厚い雲が迫ってきているのに気がついた。低い位置から影を落とす雨雲は、風の向きと強さから考えて、夕方までに人里を覆うだろう。少女は人里に接近しながら、まあそこまで急ぐ必要は無いかな、と見当をつけた。
 雨雲を見てもなお、人里に近づくにつれて──正確には、あの屋敷に近づくにつれて──霧雨魔理沙の胸は高鳴っていった。彼女は、この気持ちを何と呼ぶのか知っている。生まれてこの方あの少年以外にこんな想いを抱いたことは無かったし、他の誰かとこれについて話をしたこともない。それでも、これがそれでなければ何なのか、という根拠のない確信だけはあった。
 魔法の森から人里までは、今の彼女の速力では少しばかり時間がかかる。しかし道中を少年のことを考えながら、上の空で飛んでいけば、体感としてはほんの一瞬であった。人里が思ったよりも近くに来ていたのにふと気がつき、慌てて高度を落とし、地面に立つ。いくら幼いといっても淑女である。人がたくさんいるとわかっている場所の上をスカートで飛ぶほどの豪胆は、まだ持ち合わせていなかった。
 人里に入った少女は、まずは腹ごしらえから始めた。適当に目をつけた茶店で、遅い昼食に団子を食べる。甘くやわらかいそれを一つ噛んで飲み込めば、急激に空腹が実感されてきた。もはや我慢ならず、端から見ている店員が喉に詰めやしないかと心配するほどの勢いで残りを平らげ、茶も飲み干してしまう。そこでようやく一息つき、そういえばあの少年はこういった場所に来たことはあるのだろうか、と少女はふと疑問を抱いた。
 代金を置き、くちくなった腹を抱えて立ち上がる。次なる目標は食材だが、歩き出した方向は目的からはやや逸れている。少し遠回りする道のりは、例の少年が今も伏せる屋敷の前を通るものだ。少女はこの寄り道に、買い物の前に少し食後の散歩をしてもいいだろう、と理屈をつけていた。日中に忍び込むことはできないし、少年の迷惑にもなりかねないから本当に前を通るだけになるのだが、それでも心は躍った。自然、足取りも軽くなる。実はこの霧雨魔理沙、何だかんだで人里に来るたびにこのようなことをやっているのだが、当の本人は「たまに」のつもりだった。要は自覚なく足が向いているのである。
 であるからして、自覚の有無はともかくとして、例の屋敷の門などは見慣れたものだった。
 なので、何だかいつもと様子が違うぞ、と気がついてしまう。どこか普段より慌しいような、忙しそうな。そしてそれでいて、何故か全体的に沈んでいるような、雰囲気が重いような。少女はそれを敏感に感じ取ってしまい、何やら言い知れぬ焦燥と不安に駆られた。思わず走り出し、ちょうど門から出てきた黒い服の女性に声をかける。

「あ、あの……」
「あらお譲ちゃん、何かご用かしら?」
「その、何か、あったのか?」
「何かって知らないの?」

 いかにも噂好きといった様子の女性であった。口ぶりから、話したくてたまらない、といった様子が少女にも感じ取られる。そして実際に、誰に先を促されることもなく、女性は勝手に喋りはじめた。

「それがね、ここのお屋敷のお坊ちゃんね。昨日亡くなっちゃったのよ」
「……え?」

 呆けた反応を示した少女に構わず、女性は勝手に続ける。あまり人に話すような内容ではないからと一応自重していたものが、人に聞かれてタガが外れてしまっていた。止まる様子はない。

「生まれてからずっと難しい病気にかかっていて、お医者様の見立てではもう何年か前には亡くなっていたはずだったんですって。昨日まで生きながらえたことも奇跡みたいなものだったらしいのだけど。ああ、でも、お亡くなりになった理由も一応察しがついてるらしいわよ」
「……理由?」
「そう、理由。寿命だけじゃないのかもしれないんだって。この間の風が強かった日、覚えてるかしら? その日にね、ちょうどこのお屋敷は全体をお掃除していたらしいの。窓も全部開け放ってね。それで、お坊ちゃんのお薬っていうのがとても繊細なものだったらしいのよ。魔法の成分が少しでも入ってしまうと駄目になるから、材料から気をつけて作らないと駄目なんだって。
 でも運の悪いことにね、ちょうど風に強い日に窓を全部開けていたから、向こうの風上の方にある……魔法の森って言ったかしら。そこの茸の胞子か何かがここまで飛んできて、お薬を全部駄目にしちゃったんじゃないか、って言われてるの。少なくとも、お昼と、夜の分。二回分は効かないお薬を飲んでしまったせいで、もともと弱っていたのものあって、夜中、いつの間にか息を引き取っていたそうよ。まあ、事故みたいなものね。可哀想だわ」

 一くさり喋った女性は、まだ言い足りないとばかりに矢継ぎ早に言葉を続けている。しかし、その内容はもうひとかけらも霧雨魔理沙の耳には入っていかなかった。女性に聞かされた内容が頭の中をぐるぐると巡る。少年が死んだ。病気で。薬が駄目になったから。だからあの細面の少年は死んだ。統制を失った思考がどこにも至らないループを繰り返す。やめろ、冷静になれ、現実を受け止めろと魔法使いとしての理性がブレーキをかけようとするも、あまりに未熟なそれは一瞬で摩滅して思考が過熱する。ついには言葉としての体裁すら溶けて混ざって失われ、抽象的なイメージが粘性まで帯び始めたところで、不意に肩を叩かれてはっとした。

「ちょっと、大丈夫? 気分でも悪いの?」

 先の噂好きそうな女性が屈んで視線を合わせ、心配そうな目で覗き込んできていた。

「……だ、大丈夫、だぜ」
「そう。それならいいのだけれど。それで、行かなくていいの?」
「どこ、に?」
「お別れしに。違ったの? 黒い服を着ているから、てっきりそうだと思っていたのだけれど」
「い、いや、いい。行かない」
「そう。じゃあ、私もまだ少しやることがあるから、行くわね」

 その後女性が立ち去ってからも、しばらく、黒衣の少女はそこに立ち尽くしていた。
 やがて少女の予想よりも早く雨雲が訪れ、彼女の全身を濡らし始めた頃。雲によって生まれた暗がりに身を隠すように、あるいはどこかへ何かから逃げ去るように。霧雨魔理沙は、その場を離れた。
 一目散に、わき目も振らずに。目を背けるように。その場を走り去った。



 あの雨の日から一日が過ぎ、そのまた翌日。博麗霊夢に一世一代の喧嘩を売りにいくはずの日だったというのに、霧雨魔理沙は、夕方を過ぎてもベッドの中にいた。窓際に並べられた魔法薬は、一瓶たりとも増えてはいない。煮込んでいた分は、失敗して駄目になってしまった。鍋の中にはどろりとした生ゴミが大量に残されている。
 少女が屋敷の前から魔法の森にある自宅まで駆け戻り、これまで何をしていたかといえば、何もしていない。ただ何となく、まどろみの中で無為に過ごしていた。たまに動いたかと思えば少しの水を飲むだけで、あの団子を最後に、何か食べてすらいなかった。
 半死半生、起きているのか寝ているのか定かではない有様とはいえ、現実から目を背けているわけではない。駆け出しとはいえ彼女は魔法使いなのだ。一日も経てば、さすがに嫌でも頭は冷え、現実を認識せざるをえなくなる。さらに森には噂好きの妖精がいくらでもいて、嫌でも耳に入ってくるのだ。
 あの少年は死んだ。金髪の少女は今や、その事は厳然たる事実として受け止めていた。ただ他に、受け止めきれぬ部分があるのだ。
 少女は、あの少年は薬が効果を失ったから、病のために亡くなったのだと聞いた。あの日の強風に理由を求め、運が悪かったのだとするのも辻褄は合っている。だが、少女にとって、それはあまりに信憑性の薄い希望だった。彼女は、あの屋敷に、少年を殺す最悪の毒が持ち込まれた方法として、もっとずっと信じられる、しかし信じたくないものを知っていた。
 それは、他ならぬ彼女本人である。週に一度の夜間の密会。その時に、服装や髪を整えたことはあっても、そこについていたかもしれない魔法の森のキノコの胞子をはたいた事は、果たして、一度でもあっただろうか?
 無論、それは理由の一つになり得たとしても、決して全てではない。少年の死の直接の原因は生まれつきの病であり、薬が駄目になったからではない。そもそも、彼女が胞子を持ち込み、それが薬を駄目にしたのだとも限らない。薬に問題はなく、ただ避けえぬ時が訪れただけという可能性だってある。
 それでも、霞がかった少女の思考に根強く残り続けている。自分が少年を殺したのだ、という考えが。
 横向きになった少女の視界の隅で日が暮れていく。夕焼けの赤光は徐々に青みを帯びた色へと移り変わり、やがて藍が濃くなり、黒に近づいていくのだろう。

(まあ……何でもいいや)

 捨てばちな思考と共に、力の無い寝返りを一つ。自分を置き去りにするように変わりゆく外の様子から目を背けたところで、ドアを叩く音がした。しかし家主には返事をする気力もない。誰かと考えることすらない。もう一度同じ調子でドアが叩かれたがやはり返事をせずにいると、今度は声もついてきた。

「魔理沙? いないのかい?」

 少女にも聞き覚えのある男の声である。実家を飛び出す前から交流のあった変人。仕事をする気があるんだか無いんだが、たぶん無いと見える店を構える青年──森近霖之助の声だ。さらに数度、外から扉が叩かれ、名を呼ばわれるも、少女はベッドに寝転んだまま動く気配もない。やがて青年も諦めたのか、ノックの音が止み。

「何だ、開いてるじゃないか」

 あっさりと扉が開かれた。鍵を閉めるのも忘れていたらしい。銀髪の青年は家主の許可も取らず勝手に上がりこむと、ノックもせずに寝室に入りこむ。窓に背を向けた少女は、視線だけをうっそりと青年の眼鏡へ向けた。

「ひどい様子だね、魔理沙」
「……なんだよ、何かようか」

 眉をひそめた青年に、ろくに回らない舌で、どうにかそれだけ紡いだ。言葉を発するのも難しい状態であった。自分の見知った少女とはかけ離れたものだったが、森近霖之助は落ち着いた所作で、腰の前の鞄を探る。

「君に渡すよう人に頼まれていた物があってね。ところがいつまで経っても来ないから、僕から届けに来た」

 日は既にほとんど沈んでいる。乏しい光源の中で掲げられたものは、表に「魔理沙へ」と記された封筒だった。

「君宛てだ」
「いらない。放っておいてくれ」
「いいのかい? あの屋敷の少年からだよ」

 その言葉に、少女はようやく反応らしい反応を示した。しかし魔法使いらしい理性でもって、まず疑問を口にする。

「なんで、香霖が」
「あのお屋敷は霧雨の親父さんにも、僕にとってもお得意さまでね。外の世界から流れ着いた薬なら、魔法の成分は絶対に入ってないだろう? 効果のよくわからないものでもいいから、見つけた端から持ってきてくれと言われてたんだ。それで、ついでにあの少年の話し相手をしていたら、互いに魔理沙を知っていることに気がついてね」

 話しながらも青年はベッドの方へ近づき、脇に置いてある椅子に腰かける。サイドテーブルのランプに火を灯し、その眩しさに目蓋を半ば閉じた少女に手紙を差し出し。

「これを預かってた。時期が来たら渡してくれ、とね。読むかい?」
「あいつも、香霖も、しってるなんて、ひとことも」
「言ってないね。秘密にしてたわけじゃあないよ。一度も聞かれなかったからね。僕も商売人の端くれだ、お客様についてぺらぺら話すわけにもいかないだろう」
「くそ……香霖め」

 自分の知っている二人がこっそり秘密を共有していたことが面白くないのだろう。弱弱しく毒づかれ、しかし青年は微笑を浮かべる。少なくとも悪口を言うだけの気力は戻ってきているのだ。しかし、衰弱した少女の体がついてこない。体を起こそうとするも力が入らず、うつぶせにベッドに崩れ落ちた。ごろりと仰向けに直り、少女が口を開く。

「読んでくれ」
「いいのかい?」
「いいから」
「わかった」

 ランプの光が揺らめく中で、乾いた音を立てて便箋が引き抜かれる。数枚つづりのそれを広げ、咳払いを一つ。ゆっくりと、聞き漏らさぬよう、理解し損ねないように、青年が手紙を読み始めた。

「魔理沙へ。
 きっと魔理沙がこれを読むとき、ぼくは既に死んでいると思う。聡いきみのことだから、もしかしたら自分を責めているかもしれない。
 けれど、どうか気にしないでほしい。お医者様は、本当ならぼくはもっと早く死んでいてもおかしくないと言っていたのだから。遅かれ早かれこうなったのだし、何か早まったりする理由があったのだとしても、それは絶対にきみのせいじゃない。ぼくが言うんだから間違いない。
 きみの話してくれる一つ一つが、かけがえのない宝石みたいなものだった。薬で命を繋いでいるだけじゃあ、きっと本当に生きているとは言えなかったと思う。きみが外の世界を運んできてくれていたから、ぼくは生きていられたんだ。きみと一緒にいた時間は、本当に楽しかった。だから、今まで、本当にありがとう。
 ぼくは夜空の星の一つになって、きっときみを見守っている。魔理沙はいつも黒い服を着ているから、夜には見つけづらいかもしれないけれど、きっと見つける。だって魔理沙はいつもあんなにも元気で、輝いているから。遠い空からでもすぐ見つけられるぐらい、輝いているだろうから」

 青年が手紙を読み終え、それを再び畳んで封筒に入れなおしても、しばらくの間、少女は身動き一つしなかった。ただ目を閉じて口を引き結び、じっとしている。
 時計の針だけが音を立て、やがて完全に日が沈みきった頃。少女をずっと見守ってきた森近霖之助は、ゆっくりと言った。

「魔理沙。いつまでそうしているつもりだい?」
「ああ、そうだな」

 応じた少女は、失いかけていた快活さの片鱗を覗かせた。

「こうしちゃいられないぜ……!」

 手紙を読むまでの力ない様子はもはや消え去っていた。ぐいと体を起こし、下着の上に服を着込む。いつもの黒い服に、大きな黒い帽子。さらに引っ張り出してきた大きな袋に、目についたものを片端から放り込みはじめた。窓辺に放置していた魔法薬も、持っている全てのマジックアイテムも、とっておきの貴重な魔法薬も非常用のものも全部。精製に失敗していようが、まだ加工すらしていない素材だろうが、真贋の定かならぬ怪しげなものだろうが、少しでも足しになりそうなものは全部だ。ついには自身と同じほどの大きさにまで膨れ上がった袋を気合一発で背負い、靴を履いて箒を手に取り、振り返って声を張り上げる。

「行ってくるぜ!」

 霧雨魔理沙は、返事も待たずに飛び出していった。目指す先は博麗神社。この辺りでは一番の高台に位置する、寂れた神社だ。



 石段を全てすっ飛ばして境内に降り立つなり大声で呼ばわった弟子に、師はすぐさま答えた。

「魅魔様! いるか、魅魔様!」
「いるよ。何だい、大声を出して」

 数日前と同じように、賽銭箱の奥、本殿の壁をすり抜けて現れた魅魔は、弟子の広げた荷物を見て眉をひそめた。

「何だい、そりゃ」

 玉石混合の道具の数々に、魅魔は意図を掴みかねて尋ねた。出すところへ出せばかなりの値がつくようなものから、ゴミやガラクタまで雑多なものが入り混じっているのだ。
 師の問いを無視して、弟子の少女が訪ねる。

「魅魔様のドバーってやつ、これだけあれば撃てるか?」
「そりゃ撃てるさ。威力はともかくとして、撃つだけなら魔理沙にだってすぐできる」
「星まで届くか?」
「またずいぶん遠い目標だね」
「届くかって聞いてるんだ。魅魔様、答えてくれ」
「……届くかもしれないね。魔法なんて、要は気合さ。ものの内なる力を外に出すんだから、出し方さえ知ってれば、威力なんて気合でいくらでも跳ね上がる。その気になれば星に届かせるどころか、月だってぶち抜けるさ」
「そうか」

 それだけ聞いた少女は、並べた魔法薬の瓶を片端から開け始めた。これらは飲んで使うものではない。その辺にぶちまけて、魔法に利用しやすい状態の力を周囲に満たすためのものだ。大抵の魔法は一本で十分なそれの栓を二つ三つ四つと引き抜き、五つ目に手がかかったところで、魅魔がようやく弟子の意図に気づいた。

「あんた、まさか、それ全部使って撃つつもりかい」
「そうだぜ」
「馬鹿言うんじゃないよ。生の力をただ撃つだけならそう難しくなんかないけどね、まさかそれ全部制御しきれると思ってるんじゃないだろうね」
「でも、やるんだ」
「やれるもんかい。よく見ればフラフラじゃないか。師として見過ごすわけにはいかないね。どうしてもやるっていうなら、せめて体調を万全にしてからにするんだ、魔理沙」
「今やるんだ」
「聞き分けの無い子だね……!」

 魅魔の眉が吊りあがる。無理矢理にでも止めようと動きかける。それを制する形で、霧雨魔理沙の声が重なった。

「今やらなきゃ駄目なんだ、魅魔様! もう遅すぎるぐらいなんだ! 体力が戻るまでなんて待ってられない、待たせられない! あいつは今でもわたしを探しているから! これ以上心配なんかさせられない! 今すぐに、わたしはここにいるって知らせてやらないと駄目なんだ!」

 その叫びに、かつて全人類への復讐を企んだ悪霊は、少しだけではあるが、確かに気圧された。そして同時に悟らされた。この少女は、少なくとも今、命を懸けてでもこれをやろうとしている。こうなれば、説得するだけ無駄だし、野暮というものだ。であれば、師としてやるべきことは、止めることではない。

「仕方のない弟子だね、まったく」

 青い衣の懐を探り、小さな瓶を取り出す。投げ渡されたそれは、上りつつある月明かりを受けて、いわく言いがたい毒々しい紫色をしていた。

「魅魔様、これは?」
「魔界の植物で作る魔法の薬の、特別強烈で、とんでもなく濃いやつさ。いいかい、ちょっとだけ蓋を開けて、ほんの少しだけ嗅ぐんだ。そうすれば今夜、この時間ぐらいは元気でいられるよ」

 人間の少女が言われたとおりにすると、一瞬気が遠のくほどの強烈な匂いと、暴力的なまでの充足感に襲われた。衰弱し、失われていた体力が急速に回復していく。気力だけで何とか支えられていた両足が、確かに地面を踏みしめた。

「これはすごいぜ、魅魔様」
「一時的に無理が利くようになっただけさ。本当はフラフラのままだから、なるべく早く終わらせるよ。いいね」
「よしきた」

 紫色の小瓶を師に返し、持参した魔法薬の瓶をまた開けようとしたところで、また制止される。

「待ちな」
「何だよ、早くするんだろ?」
「まあね。だけど、今のあんたじゃ、それ全部はどうやったって御しきれないよ。フラフラだろうが元気になろうが、無理さ」
「じゃあ、どうするんだ」
「ちょっとしたおまじないさ。何でもいいから、紙切れと、書くものを用意しな」

 何をするのかと思いながらも、少女は師の言葉に大人しく従う。持ってきた数々のがらくたの中から裏の白い御札と怪しげな万年筆を探し出し、それを両手に持った。

「これでどうするんだ?」
「実は今日の昼間に、面白い話を聞いてね。博麗の巫女が、スペルカードってのを考えてんだ」
「……スペルカード?」

 耳慣れない単語をオウム返しに問われ、そうさ、と魅魔は頷いた。

「スペルカード。新しい決闘法だの何だのと言ってたけど、要は、今まであたしらのやってた弾幕に名前をつけて、形を与えるものさ」
「名前と、形」
「そう。結果として出るものが同じでも、きちんとイメージできる方がやりやすいだろう? 形が決まってれば、それに沿おうとするしね。だから、ドバーだのズドーンだのじゃなくて、ちゃんとした名前をつけてやるんだ。それを魔理沙のスペルカードとして使えば、ただ撃つよりずっと制御しやすいはずさ」

 駆け出しの魔法使いは、説明された理屈を何となくではあるが理解した。だから、問う。

「いいのか?」
「何がだい?」
「それって、魅魔様の技を、わたしにくれるって事だろ?」

 名を与え、形を持たせる。それはつまり、あの名無しの魔砲が、名付け親となる霧雨魔理沙のものになるという事だ。両者に全く関係が無いならともかく、魅魔はその瞬間に立ち会う。他人のものとなったそれを、果たして今までと同じ出力で振り回せるだろうか。そのような弟子の懸念を、師は一蹴した。

「何言ってんだい、あんなの技でも何でもないって言っただろう。くれてやるなんてほどのもんでもないさ。それとも何かい、あたしがあれを撃てなくなったとして、それでどうにかなるとでも思ったのかい? あんまり師匠を馬鹿にするんじゃないよ」
「……うん、わかった。ありがとう魅魔様、ありがたくいただくぜ」
「いいから書きな。スペルカードに必要なのは、まず何といっても名前だよ」

 促され、少女は万年筆を構えた。名前、名前、と呟きながらしばし考え、淀みなく記す。

「こんなもんでどうかな、魅魔様」
「『マスタースパーク』ね。どういう意味だい?」
「師匠からもらったから。あと、一瞬でもいいから、何よりも輝くように」
「なるほどね。いいじゃないか」

 師に褒められ、弟子が嬉しそうに目を細める。しかし命名はそれで終わりではない。

「あとは題字だね」
「題字?」
「名前の前につけるのさ。そうだね、そのスペルカードのカテゴリを表すようなもの、と言えばいいかな。今回の場合だったら、魔符とか、魔砲とか、そういうのが無難かねえ」

 ならば既に決まっているようなものだ。少女は今度は少しも考えず、迷わず、二文字を書き加える。その字を見て、魅魔はにやりと笑みを浮かべた。

「後で詳しく聞かせてもらうよ」
「聞くだけ野暮ってもんだぜ」

 ともあれ、これでスペルカードは完成した。作り終えたばかりの紙切れをひらひらと弄び、少女が呟く。

「でも魅魔様、本当にこんな紙切れでいいのか?」
「鰯の頭だって神様になるだろう? 形があって、信じることが大事なのさ。ともかくそれで完成だよ。あとはスペルカードを宣言するだけさ。十分じゃないかもしれないが、何とかするんだね」

 何せ言ってしまえば、よくわからない模様の描かれた御札の裏面に少し書いただけの代物だ。効果を疑いたくなるのは当然だが、それでも霧雨魔理沙は信じることにした。これまで師の言ったことに間違いはなかったし、何より、これに込められたのはその師の技なのだ。

「よし……やるぜ」

 魅魔は何も答えず一歩分下がり、静かに頷いた。霧雨魔理沙は手首を合わせ、両掌を揃えて前へ向ける。肩幅よりやや開いた足でしっかりと石畳に立ち、ぴんと伸ばした両腕を前へ、上へ。斜め上に向けて、高らかに声を張り上げる。

「スペルカード、宣言!」

 その名を。

「恋符『マスタースパーク』!」

 力が奔り、巨大な魔方陣が開いた両掌の前に展開された。何もかもを吸い尽くされるよな感覚に戦慄しながらも、術者本人が自ら体内の力を振り絞って注いでいく。それだけでは足りぬとばかりに、既に開かれていた魔法薬から立ち上っていた力はもちろん、瓶に液体として残っていた分まで一瞬で気化した。ほんの瞬きほどの間、霧雨魔理沙の周囲に力が満ち、しかしそれもまた掌の方へ吸われていく。
 だがその一瞬で、周囲に散らばった魔法薬の瓶全てが強く共鳴し、内側から爆砕した。さらに空間の力の密度と規模が増し、その全てがやはり発射前の魔法に吸いこまれ、飛び散ったガラスの無数のかけらが石畳を掻くより早く食い尽くされる。それでも、霧雨魔理沙は力を注ぐのをやめない。後にぶっ倒れようが何だろうが知ったことか、となおも自身に鞭を打つ。
 その時、神社の建物を回りこんで、奥から走ってくる影があった。しかし魔法使いにはそちらを注視する余裕もなく、歯を食いしばり、必死に踏ん張る。魔法は、放たれる前の段階で、既に少女の手に余る代物になろうとしていた。

「ちょっと、何やってんのこれ無茶苦茶よ! 魅魔! 魔理沙! 説明しなさい!」
「ああ霊夢、いいところに来たね。ちょっとうちの馬鹿弟子の前に結界を作ってやってくれないか」
「魔理沙があんなの制御し切れるわけないでしょ! やめさせなさい!」
「それはできないね。邪魔するなら、あたしゃ久しぶりに本気出すよ」
「……自滅覚悟で何やってんの、あんたらは本当に!」

 既に抑えきれなくなった力が溢れかけ、余波で少女の黒い帽子は飛ばされてしまっている。金髪を晒すその眼前に、掌でなおも荒れ狂い、膨れ上がろうとする魔方陣に重なるように、別の力が割り込んだ。数日前にどうしても破れず、地団駄を踏んだ防御結界だ。あれほど憎らしく思えたそれが今は頼もしい。
 だが、だからといって、幼い魔法使いには荷が重い魔法であるのに変わりはない。つうと汗が一筋流れ、頬を伝う感覚と共に、やばい、という思いが首をもたげた。その瞬間に、弱気を上から押さえつけるように、魅魔の言葉があった。

「落ち着くんだよ、魔理沙。焦らず、落ち着いて、綺麗にまとめるんだ。出力は全開のままでね」

 自分の師はこんなことを小手先でやってのけていたのか、と食いしばった歯の奥から唸りが漏れる。それでも、何とか心を鎮めていくと、どうにか破裂しかかっていた魔方陣が統制を取り戻す。全方位に向けて勝手に殺到しようとするその巨大な力の塊に、方向性を与えていく。前へ。上へ。星の見える空へ。

「魅魔! 見てないで手伝いなさいよ!」
「いやー、あたしゃ守りって苦手でね」

 博麗霊夢の結界は、気がつけば二重になっていた。どうにか曲がりなりにも力を制しながら、魔法使いの少女は、違う体系の技だが、その技量もまた見事なものだと直感する。霧雨魔理沙は自分が未熟であることをよく理解している。だからと、眼前の暴れ馬の手綱だけは絶対に放さぬように、今一度だけでもいいから乗りこなそうと息を詰めて奮闘する。流れを作り出し、それに乗せる。びし、とこめかみの内側のあたりで音がした。口の中に錆くさい味が広がる。

「まだだよ、魔理沙。まだ撃つんじゃないよ」

 方向性を与えた力を、さらに圧縮していく。一瞬の爆発をさらに強めるために。少しでも乱暴にやれば、すぐさま歪みが生まれて一帯を吹き飛ばすだろうとこの場の誰もが、特に術者の少女が理解していた。慎重に、しかし渾身の力でもって圧縮をかける。ついには実体のないはずの力が光の球として現れはじめ、それを締めつけるように、周りには数本の輪がある。つう、と霧雨魔理沙の鼻腔から赤い滴が垂れた。気力、体力、その他あらゆる面での限界を既に越えつつある。目は血走り、震える膝でどうにか立ち、しかし空へ向けて構えた全身全霊の魔法に力を注ぐのだけはやめない。
 そして、ついにその瞬間が訪れる。ほんの一瞬だけ、きゅうと力の全てが縮まり、一方向を向く瞬間を。誰よりも早く、的確に。霧雨魔理沙が掴んだ。

「行けええええええええええええええええええええええっ!」

 解き放つ。強烈な反動に、肘が折れ腰が砕けようとするのを根性で支える。放たれた魔法は一直線に、神社の屋根を掠めて夜空へ駆け上がる。逆回しの流星よりも速く眩く強く大きく。叩きつけるような激しさで。全てを打ち破る荒々しさで。目蓋を越してなお目を焼く閃光と、耳を殴りつける轟音と共に。なおも加速し、倍加し、大気を揺るがし、地を砕き、少女の魔法は夜空を穿つ。
 結界が無ければ自身をも打ちのめしただろう魔法を放ちながら。霧雨魔理沙は、目が焼けるのも構わず見開き、耳に何も聞こえずとも叫んだ。力の限りに、星となったその名を呼んだ。

「────ッ!」

 見えてるか!
 わたしはここにいるぞ!
 ここにいるんだ!
 そして、不意に。轟音に塗りつぶされて何も聞こえないはずの耳に。その声が、届いた。
 ──うん、見つけたよ。
 柔らかく響いた声に、ああ、よかった、と唇の動きで答えると同時に。霧雨魔理沙の一世一代の恋の魔法は、わずかな残響と一筋の光を残し、あっけないほど静かに終息した。魔法が途切れると共に体を支えていた最後の気力も切れ、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

「お疲れさん」

 その軽い体を支えたのは魅魔だった。足は無いのにおかしな話だが、少女はその腕に抱えられていることに強い安心感を覚える。脱力しきった、というよりも入れる力がもう一滴も残っていない体を預け、億劫ながらも口を開いた。耳鳴りは酷いが、何とか互いに声を聞き取る。

「なあ、魅魔様」
「何だい」
「届いたかな」
「……届いたさ。届いたに決まってる。あたしの自慢の弟子があんだけ頑張ったんだ、届いてないわけがない」
「そうだな」

 支えられてゆっくりと地面に座り、背を魅魔の胸に預ける。その頭に、ぽん、と師の自分より大きな手が置かれた。

「よく頑張った。偉いぞ、魔理沙」

 そうして優しく撫でられる暖かな感触に。
 霧雨魔理沙は、ようやく涙を流したのだった。



「だーっ、負けたあっ!」

 昼下がりの博麗神社境内にて。食後のお茶を楽しんでいた巫女は、突然やってきた魔法使いを軽く返り討ちにした。大の字で石畳に転がる金髪の少女を、あのねえ、と黒髪の方が見下ろす。

「あんたねえ、せめて体調が万全になってから来なさいよ」

 あの夜からまだ三日と経っていない。限界を無視して突っ走った霧雨魔理沙の体力はいまだ完全には戻っておらず、魔法薬すら十分に無い。神社の方はといえば、大量のガラス片が飛び散った境内の掃除も昨日終わったばかりで、あの魔法に削られた屋根はまだ修理されていない。早急に修理を依頼せねばならないと博麗霊夢も思っているが、つい面倒で先送りにしている。そのうち雨漏りにでもあってから動くのだろう。

「だいたい何だったのよ、こないだのあれは。掃除は大変だし、神社は壊されるし。ほんと魔理沙が来るとろくな事がない」
「何も無いよりいいだろ?」
「お茶が飲めればそれでいいわ」
「あー、いいな、お茶。わたしにも一杯くれ」
「まったくもう……ちょっと待ってなさい」

 何だかんだでお茶ぐらいは出てくるんだからいい奴だよなあ、と魔法使いの少女は紅白の背中を見送りながら思う。しかしいい奴だろうが何だろうが、結界がずるいのには変わりない。いつの間にか結界がまた一段と硬くなっているような気がしたのだ。自分が本調子でないことをさっぴいても間違いない。わたしは新しい魔法を撃つのにあんなに頑張って今もボロボロなのに、霊夢は飄々と強くなっている。少なくとも、黒白の少女にはそう見えた。
 そのずるい少女が、リボンを揺らしながら歩いてくる。その手には湯呑みが二つ乗ったお盆がある。同じく石畳に腰を下ろした彼女に例を言い、湯呑みを片方受け取り、茶を啜る。

「で、何だったのよ、こないだの晩は。あんだけ荒らしておいて何も言わないのは許せないわ。ずいぶん無茶してたけど、何があったの」
「んー、いやー、まあ、色々あってな」

 赤みがかった黒瞳の圧力に負け、詰め寄られた少女はおもむろに視線を逸らした。上へ。雲ひとつない青空がある。星は見えない。

「……色々、ねえ。魅魔も話してくれないし、あんたら人の神社を何だと思ってるのよ」
「宴会場だろ?」
「ったくもう。で、今はどうなの? 見た感じ大丈夫そうだけど」
「ああ。今はな」

 金色の目で空を見上げる。星は見えないが、きっとそこにあるのだ。そして、こちらから見えずとも、あちらからはきっと見守ってくれているのだ。あの夜、届いたのだから。彼は今もそこにいる。
 だから、問題はない。きっと元気にやっていける。いつものように。いつもそうだったように。無理をせずとも、自然にそうやっていける。輝いていると称された自分でいられる。
 だから霧雨魔理沙は、こう答えた。

「今は、普通だぜ」
ひゃあ初投稿で俺設定てんこ盛りとか。でも後悔はしていないどころか公開しちゃいます。
皆様へはじめまして。そして、いかがでしたでしょうか。
恋符ってついてんの全部レーザーばっかりだよなー、というところから始まった妄想がいつの間にかこんなお話として形になっていました。
少しでも楽しんでいただけたのならば幸いです。
秋夢
[email protected]
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コメント



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6.無評価名前が無い程度の能力削除
元祖マスパって幽香のじゃなかったっけ
8.100名前が無い程度の能力削除
直球で素晴らしい内容でした。