目を開ける。鬱蒼と茂る木々の間から、太陽の光が零れる。
――幻想郷。
ここへ来るのは二度目だった。ここへ来る事は、ゲートをくぐるだけなので簡単だ。だが、魔界へ戻るのは容易ではない。とゆうか、今の私では戻る方法がわからない。
そういえば前回はどうやって魔界に戻れたのだろうか。きっと神綺様が私を無理矢理召還して喚び戻したのだろうと思う。…自分の人形を喚び出す魔法くらい、魔界の神にとっては簡単なのだろう。…だけど、今帰り方の心配をしても意味はない。
――帰りたくない……。帰っても神綺様に嫌な思いをさせるだけ……。……それに、神綺様だって私の事なんてもうどうでもいいに違いない。今、喚び出されないのがその証拠だ。
悲しくて、寂しいのに、やはり涙がでない。発散できない感情に心が破裂しそうだ。
――心。これも神綺様が造った物なのだろうか。この今の気持ちも、造られた物なのだろうか。だとしたら…私は、いったい何なのか…。
「……だれか、教えてよ……。私はなんなの……」
独りで呟く。答えてくれる者は、いない。
寂しさで、自分の体を抱き丸まってごろんと転がる。
――あ。
人形がそこにいた。上海人形。一番の友達で、いつも一緒にいてくれる、大好きな娘。
「…上海……上海……上海………」
彼女を抱き締め、ひたすら名前を呼び続けた。
「…上海…教えて……教えてよ上海…私はいったいなんなの?ねえ、上海、答えてよ…。」
人形は応えてはくれなかった。ただの人形は、自分の力では話せない。動けない。
――上海を話せるようにすれば、きっと彼女は応えてくれる。そうだ、きっとそうだ。私という存在を、教えてくれる――
現実逃避だとはわかっている。だけど、目標を持つことによって、他の感情を押しつぶせる。
私は、ゆっくりと立ち上がり森の奥へと足を踏み出した。
……………………………………
家があった。長い間使われていなかった様子で、廃墟のようだった。ふらふらと近づき、扉をノックしてみる。返事はない。扉に手をかけてみると、鍵が掛かっておらず、扉は軋んだ音をたてながら簡単に開いた。家の中は、やはり荒れ果てていた。
――よし。ここに、住もう。ここで、いっぱい勉強して、上海を話せるようにしてあげよう――
そうして私は、現実から目を背け、意味などないであろう目標を持つことで、なんとか心を落ち着かせることができた。
――まずは、掃除かな。
荒れた部屋を見回し、ため息をつく。
窓を全て開け、勢いよく扉を開いて一歩外に出て伸びをする。
「…よーし。」
頬を軽くパンパンと叩き気合いを入れて振り返る。…ふと、視界の端に何かが見えた。扉の脇に、なにか落ちている。手に取ってみると、どうやら表札のようだ。扉を勢いよく開けたせいで、落ちてしまったのだろう。
ほとんど汚れで扉と同化しているような色のそれを少し叩いて埃を落とすと、文字が浮かび上がってきた。
「…まーが、とろいど…?」
前の住人の名前だろうか。
「…ふふっ……変な、名前……」
…久しぶりに、笑えた気がした。私は、私を笑わせてくれたその名前が、気に入ってしまった。
「…ありす…まーがとろいど……よし…アリス・マーガトロイド!」
…………………………………
幻想郷での、アリス・マーガトロイドの、生活の始まりだった。
半日かかって上海と一緒に掃除をした。意外にもクローゼットの中の服や、台所の食器、本棚などは、綺麗だった。どうやらそういった魔法がかけられているようだ。本棚には色々な魔道書もあった。きっと前のマーガトロイドも、魔法が使えたのだろう。
掃除を終えるとまずわたしは、自分の姿を変える事にした。だって、今の私はアリスではなく、アリス・マーガトロイドなのだから。
成長した自分を想像し、姿を変える魔法を施した。魔法は便利だ。――魔界にいたころは、この魔法は本当の自分じゃなくなる気がして、あまり好きではでかったけれど、今は大丈夫。これはほんとに本当の自分ではなく、アリス・マーガトロイドという人物なのだから。
――上海を話せるようにするまでは、アリスには戻らないでいい。
クローゼットの中の服を見てみる。綺麗な青いスカートや、シャツ、上海を着せ替えている感覚と重なり、自然とかわいらしい服を選んでいた。
それらを全部着こなし、鏡の前でくるりと回ってみた。
「ふふ、かわいいかも…」
まるで上海のようにかわいらしい服をきて、まるで人形みたいな……
――人形。
息が詰まる。その場にへたり込む。
…せっかく今だけでも、アリス・マーガトロイドでいる今だけでも忘れようとしていたのに。
『人形は、あなた。』
声がわたしの頭の中で響く。神綺様の酷く悲しげな表情が過る。
「…あ、あ、いや…いや………上海……上海?……上海!!」
わたしは上海を操り呼び寄せ抱き締める。
――大丈夫……大丈夫…いつかきっと、上海が応えてくれるから…大丈夫。
繰り返し自分に言い聞かせることで、落ち着きを取り戻せた。
こんな些細なことで動揺してはいけない。冷静に、アリス・マーガトロイド、冷静になれ。
目を閉じて、深く、深呼吸、目を開ける。
――もう、大丈夫。
私は心の中でそう呟き、ゆっくりと立ち上がる。ふと、空腹感を感じる。
――人形なのに、変なの……
冷静に、アリス・マーガトロイドはそう思った。そう言えば自分は、食事をする習慣だけはあった。
――さすがに食事をずっとしてなかったら、おかしいものね…。
人形にもそんな機能もつけさせられるなんて、やっぱり魔法はなんでもできるものだ。
――上海が話せるようになったら、上海にもその機能をつけてあげよう。一緒においしいものを食べよう。
本来の目的にはあまり関係ないことだが、そんなことを考えられる余裕ができたことはいい事だと思う。
記憶の片隅に、ぼんやりと人里の風景が浮かぶ。人がいれば、食料もあるだろう。とりあえず、空腹の感覚を満たすために、そこを探そう。
上海を連れ、魔界から持って来た魔道書――Grimoire of Alice――を片手に持ち、家の扉を開けた。
この魔道書は、魔界からもってきた唯一の物だ。いわば、神綺様とわたしの繋がりだった。その繋がりを手放す事だけは、どんなに強がってみても、できなかった。…今は封印されてしまって、開く事もできないが。
森を飛び立ち、当てもなく飛ぶ。しばらくすると、目的の場所らしき物が見えた。
そこには、たくさんの人間がいた。魔界の町並みと、建物の様式こそちがうが、その活気は魔界のそれとなんら変わらない。少し懐かしい気持ちになる。ゆっくりと町並みを観察しながら歩く。
ふと、一組の親子が目に留まった。
子供が、親に叱られ泣いていた。涙を流して。泣いていた。
――やっぱり、違う。人間は、泣くことができる。
こんなささいなことでも、わたしは思い出してしまう。
「…う……。」
まただ。仮面が剥がれそうになる。
「……上海……上海……!」
わたしは再び上海を呼び寄せ抱き寄せる。
――落ち着け。わかっていたことじゃないか。落ち着け。
ギュッと目を閉じ、深呼吸をする。必死に仮面を繕う。
――大丈夫。もう大丈夫。
先程より早く、アリス・マーガトロイドは心を落ち着かせることができた。
目を開けると、先程の子供が私を見つめていた。私は、上海を抱き締めていた事を思い出し、少し恥ずかしくなり慌てて離した。子供の視線が移る。…どうやら、上海を見ていたらしい。
「その人形、動いたよ!」
「え、ええ、私が魔法で操っているもの。」
「お姉ちゃんは魔法が使えるの?」
「…うん、まあ…」
「じゃあやっぱり魔法使いなんだ!すごいなあ!ねえ、もっと見せて!」
「え、あ、うん…。」
子供が熱心に迫ってくるので、断りきれなかった。上海を操りひらひらと踊らせてみた。子供は目を輝かせてそれを見ていた。
「すごいすごい!かわいいなあ!」
屈託のない笑顔で喜んでくれる子供を見て嬉しくなった私は、更に魔法を使って様々な演出を加えて上海を踊らせていた。
子供の親は、なぜか私にお礼を言い、子供を連れて去って行った。
――また見せてね!
子供が去り際に言っていた言葉がぼんやりと私の頭の中で反芻していた。
――あ、そうだ。
私は空腹だったのを思い出して、再び町の喧噪の中へ歩き出した。
森の家に帰ってきた。
――お金なかったの忘れてた…。
その日はもう眠ることにした。
次の日、机の中やタンスで見つけたアクセサリーや宝石などを売り、布や綿を買った。
人形を作ろうと思った。たくさんの人形で踊らせる方が、にぎやかで、子供も喜ぶだろうと思った。
――きっと、上海を動くようにする何かのヒントにもなる筈よね、うん。…それに、上海も友達が欲しいよね。
それから私は、たくさんの人形を自分で作ったり、集めたりした。呪われた人形などという物もあった。
そうして、新しい人形が手に入っては人里へ行き、子供たちに観せた。そんなことを繰り返しているうちに、人形達の踊りを見る観客は一人、また一人と増えていき、客層も子供だけでなく、大人や、はては人里へ出入りする妖怪や妖精までもが観客に加わっていた。
いつしか私は、人形を操る魔法使い――人形遣いと呼ばれるようになっていた。
複雑な気分だったが、人々の笑顔が、それを忘れさせてくれた。
そんな、アリス・マーガトロイドの生活はしばらく続いた。
冬。魔界では季節などなかったが、四季という物は本で得た知識で知っていた。初めて見た雪は、とても綺麗で、感動したものだった。だけど。
――長い……
いつまでも降り続ける雪を窓の外に見ながら思う。本の中では、雪がふり続ける季節はせいぜい数ヶ月の筈だ。
――なにか、おかしい。変だ。
やはり私は、一度気になるとそれを知りたくなってしまう性分だったようだ。私はその“異変”の原因を調べてみることにした。
原因は簡単にわかった。雪山で冬の妖怪が教えてくれた。少し拍子抜けしたが、一応お礼を言うと、
「あなたには、うちの子たちが何度かお世話になってるって言ってたからね。」
彼女は笑顔でそう答えた。
――なるほど。きっと、あの子と親しい仲なのね。
水色の髪をした可愛らしい氷の翼を持った妖精を思い出した。その氷精は、一番目を輝かせて楽しんでくれる子だった。彼女はいつしか、常連となり、すっかり仲良くなって森の家にまで遊びに来るようになった。
彼女には幻想郷の事を色々と教わった。私の住んでいる森は魔法の森という名前だという事や、湖のほとりには恐ろしい吸血鬼が住む赤い館がある事。そして、スペルカードルール。どうやら最近できたらしいそれは、争いを実戦に近い形の遊びで決着をつけるという物らしい。
もう一度冬の妖怪にお礼を言い、その場を後にした。
――春度、か。
山の上を飛びながら、考える。……何の事かよくわからない。とりあえず、もう少し調査を続ける事にしよう。
すっかり夜になってしまった頃、懐かしい色合いを見つけた。紅と白。魔界をめちゃくちゃにした一味の一人。久しぶりに頭に熱が戻った。わたしは怒りを思い出す。…私は、複雑な気分で紅白を追った。
――追いついた。…なにか紅白がつぶやいている。……冷える?
「冷えるのは、あなたの春度が足りないからじゃなくて?」
私は、紅白に声をかけた。そして、とりあえず怒りという感情に従って、スペルカードルールの戦いを仕掛けた。
覚えたてのルールに乗っ取って、弾幕を放っていく。殺意もない、ただの弾幕。人形劇の時の応用で人形たちにも魔力を込め、弾を撃たせた。私は、弾幕を放ちながら、紅白が弾幕を避けていく様を見ていた。
――懐かしい。
ぼんやりとそんなことを思った。そういえばあの時は――
「………っ!」
わたしの頭に、あの時の痛みの感覚が、恐怖が蘇る。息が詰まる。視界がぐらつく。
紅白が針と札を放った。あの時のように。札が目前に迫る。あの時のように。
――避けろ、アリス・マーガトロイド、避けろ!
わずかに体をよじり、なんとか直撃は避けた。だが、運悪くそれは手の先をかすり、指を少し切ってしまった。
やはり血は流れなかった。あの時の記憶が浮かび上がってくる。そして、またあの声がわたしの頭の中で響き渡る。
――『人形は、あなた。』
仮面に亀裂が走る。
「………私の、負けよ。」
…早くこの感情を抑えなければ。仮面が壊れてしまう。
――だから、あなたは…
「………?」
紅白は一瞬不思議そうな顔をして話かけてきた。私は切れた指を体の後ろに隠す。
「春度っていうのはこの桜の花びらのことかしら?」
「………判ってて集めてたんじゃないの?」
早く一人になりたかった私はそう適当に答え黙りこくった。
「いや、まあ、うん。」
紅白は曖昧に答えそれっきり喋ろうとしない私を何度か振り返りながら去っていった。
姿が見えなくなったのを確認し、すぐに上海を呼び寄せ抱き締める。
――大丈夫……大丈夫…。上海が動けるようになれば、きっと大丈夫だから。
…だから、今は……
いつしか、私、アリス・マーガトロイドは、どうして上海人形を動けるようにしたがっていたのかを、忘れてしまっていた。その漠然とした目標の事を考えることは、わたしを冷静にさせる手段になっていた。
………………………………
その日、長い冬は終わった。きっとあの紅白が解決したのだろう。
それから数日後。その日も私は家に篭り、上海を動けるようにする――自律人形を作るという目標のために試行錯誤していた。そこに、急に家の扉を叩く音がした。私は、またあの氷精が遊びに来たのだろうと思い、考えなしに扉を開けた。
そこには、またも懐かしい者がいた。――黒白。
紅白のことがあったばかりなので、わたしは激しく動揺していた。黒白も、なぜかポカンとした顔をしていた。よく解らない沈黙が少し続いた。
「よ、よぉ。こっちに来てたんだってな。霊夢から聞いたぞ。」
「……………」
「…?…ああ、紅白の巫女の事だ。なんだ、名前も知らなかったのか。」
「……………」
「人形を使った魔法を使うようになったらしいな。…最近里で評判の人形遣いってのは、お前だったってわけだ。」
「……………」
「人形を操って魔法を使うなんて変な事をしてるやつが、どんなやつか気になってたんだが、まさかお前だったとはなあ。」
一方的に喋り続ける黒白。いったい何をしにきたのだろう。警戒しつつ様子を伺う。
「それにしても、ずいぶん変わったなお前。それも魔法か?」
ニャリと笑顔を浮かべてそう言って来た。
――まさかこいつ、…知っているのだろうか。
…落ち着け、アリス・マーガトロイド。今それを思い出してはいけない。
「まあ、成長期だったんだな。少しうらやましいぜ。」
こんどは心底悔しそうな顔をしていた。芝居を打っているようには見えない。
――大丈夫、気付いていない、大丈夫。
少し安堵した私は、ため息をついた。
「…なんだよ、ため息なんてついて。感じ悪いな。」
今度は心底嫌そうな表情だった。…ころころとよく表情がかわるやつだ。
「………何しにきたの。」
「いや、だから、人形を使う魔法ってのが。その、気になってだな。」
「…………何で私の家を知っているの。」
「人形劇が大好きな妖精にすこーしちょっかいをだしたら、すぐ教えてくれたぜ。相変わらず扱いやすいやつだったぜ。」
そう言って先程とは違う邪な笑みを浮かべて笑った。人形劇が大好きな妖精。水色の髪の氷精が頭に浮かぶ。
「……あの子に何をしたの。」
「?なんでもいいだろ、妖精ぐらいどうしようが。」
氷精がぼろぼろになった姿が頭の中で連想される。
「……………わかったわ。」
「あん?」
「…人形を使う魔法、見たかったんでしょ?見せてあげるわよ。」
わたしの頭の中では、かつて魔界で倒された神綺様や友人達の姿と、想像の中の氷精の姿が重なって見えた。
「お?なんだ?やる気か?」
星形の弾幕を避けながら考える。――やっぱり、強い…!
…だけど、今度は恐怖はない。アリス・マーガトロイドは冷静だった。人形で弾幕を撃ち返す。次々と操る人形を増やし、着々と黒白を追いつめてゆく。
「なかなかやるなあ!じゃあこれならどうだ!?」
黒白の手が人形達の群れに向く。その手には何か握られている。
「マスタースパーク!!!」
「――っ!!」
人形達のほぼ半数が巨大な光に飲み込まれ、一瞬で消え去ってしまった。
――あれを喰らったら、まずいわ。…もう潮時ね。
――こっちだってまだ全然本気じゃないわ!まだまだやれるわよ!
いつも携帯している魔道書を持つ手に力を込める。
――無理よ。それはもう強力に封印されていて使えないわ。
――それでも!だって、あいつは、神綺様を!サラを!ルイズを!
――……でも、万が一怪我でもしたらどうするつもり?またあの気持ちを思い出したいの?
――………それは…、いや………
――なら、もう諦めなさい。それが一番賢い選択よ。後は、私に全て任せなさい。
――……うん………。
――大丈夫、何も怖い事はないから…しばらく休んでいなさい…
――……うん…
………………………………
「…私の負けよ。」
「へ?」
白黒は間抜けな声を出した。
「私の負けって言ってるの。」
「でも、だってお前、まだ全然…」
「人形を半分もやられたのよ。これ以上続けても人形を減らすだけだわ。」
「だけどさあ…。んー、まあいいか。人形の魔法もたいした事ないんだな!」
納得のいかなそうな表情で口をとがらせていたかと思うと、今度は勝ち誇って笑ってきた。本当に表情がころころとよく変わる。
「あ、そういえばさ、今日霊夢んとこの神社で宴会があるんだが…うわっ!?」
突然、黒白の話を遮り氷の礫が飛んできた。…氷?
「魔理沙!さっきはよくも騙してくれたわね!今日は人形劇やってなかったじゃない!」
「げ。」
水色の髪の氷精がいつのまにかそこにいた。黒白を睨みつけていたかと思うと、私を見つけてぶんぶんと手を振ってきた。
…よかった、無事だったんだ。ってゆうかピンピンしてるじゃない。
「……あんた、ほんとに何したのよ。」
「あー…言っただろ?私はただこいつをからかって誘導尋問させただけだって。」
「…言ってないわよ。」
「んーまあ、そんなことより今日宴会が…」
「行く!」
なぜか氷精が答えた。
「お前は誘ってないんだが。」
「人形遣いが行くなら、あたいも行く!」
「……あんた達、私はまだ行くとは…」
「えー。」
「えー。」
二人は声を揃えて不満の声を出した。
結局私は、二人に無理矢理に連れていかれる形で宴会に参加した。
宴会の最中、私は神社の境内で座って多くの人妖達が騒いでいるのを見ていた。膝の上には酔いつぶれた氷精が頭を乗せて寝ている。
――何やってんだろう。私は。
たしかここの紅白と黒白はわたしにとっては憎い敵だった筈だ。でも、私にとってはそうは感じられなかった。色々な気持ちが混ざっていくような、薄れていくような感じ。お酒を少し飲んだから、酔ってしまったのだろうか。
「こんなとこで何してんのよ。」
よほど考え込んでいたのだろう、いつのまにか目の前に紅白が来ていた事に気付かなかった。
「別に。この子が寝ちゃったから。」
氷精の頭を撫でる。
「あんたもやっかいなのに懐かれたもんね。」
「そうかしら?正直でいい子じゃない。」
「ただのバカよ、バカ。」
気付けば自然と会話していた。…やっぱり。私だけの時は、怒りも、恐怖も感じない。
「……博麗霊夢。」
「え?」
「名前よ。私の名前。…まだ言ってなかったでしょ?」
「あ、うん」
「あんたは?」
「え?」
「あんたの名前。」
――私は…
「…アリス…。…………私は、アリス・マーガトロイド。」
「そう。……改めて。幻想郷へようこそ、アリス。」
――それは、どっちの?
――その日以来、“わたし”はしばらく眠り続けていた。
あの初めて宴会に行った日から数ヶ月が経った。
私の日常は大分変わっていた。自律人形作りの研究、人形の製作、里での人形劇。相変わらず氷精、チルノは毎回来て楽しんでくれた。紅白、霊夢の神社に行ったり、黒白、魔理沙と喧嘩したりということが増えた。魔理沙とは、一緒に異変を解決したりもした。
楽しかった。おそらくこの数ヶ月はアリス・マーガトロイドが幻想郷に来てから、一番充実していた。一番、楽しかった。
――苦しい事や嫌な事を忘れてしまうほどに。いつしか仮面は鉄仮面になり、錆びて固まっていた。
その日もいつも通り、魔理沙と喧嘩したあと、私の家でお茶を飲んでいた。
「そういえばお前さ、自律人形を作りたいって言ってたよな。」
「ええ、そうね。なんで作りたかったのか忘れちゃったんだけど、作れたら思い出せると思うの。」
「それのことになるとおもうんだが…」
珍しく真面目な表情の魔理沙。
「この間、動いてる人形を見たんだが、どうも操られている感じじゃないんだ。ちゃんと会話もできてるし。」
「……どこで見たの?」
次の日、私は魔理沙がその人形を見たという場所へ向かっていた。
――見えた!鈴蘭畑!
彼方にそれが見えた。私はいつになく興奮していた。
ふいに、巨大な花が視界を横切った。先行する歩哨をさせていた人形が吹き飛んだ。
「ごめんなさいね。」
花が横切ったその後には、緑の髪をした女性が日傘を携えてそこにいた。
――どこかで見たような……。……ダメだ。思い出せない。
「…どうやらあなたは逃げたようね…。…残念だけど、今のあなたにあの子を会わせる訳にはいかないわ。」
普段の私なら、こんな禍々しい妖気を放った相手に戦いを挑むなど絶対にしない。全力を賭して戦うなど、怪我でもすれば大変な事になる。
――なんでだっけ?……全力で負けたら後がないから…?…うん、きっとそうだ。
「残念だけど、今日は私は気分がいいの。…やっと自律人形のヒントが得られそうなの、邪魔しないで。」
「…もうなにもかも忘れちゃったの?そこまであなたが弱いとは思わなかったわ…。」
「言ってくれるわね。人形遣い、アリス・マーガトロイドを嘗めないでもらいたいわね。」
「…人形遣い?…面白い冗談ね。……思い出させてあげる。荒療治だけど、今度は…負けないで。」
二人同時に弾幕を放つ。激しい弾幕がぶつかりあい、辺りを閃光が包み込んだ。
私、アリス・マーガトロイドは、初めて、アリス・マーガトロイドの全力を出して戦った。人形の数は、魔理沙と戦うような遊びの時の倍以上。一体一体に込める魔力も普段の比ではない。なのに、勝てない。当たらない。こっちの人形たちは、確実に減らされていっている。
圧倒的に攻めているはずなのに、勝てない。…なぜか、そんな状況が記憶の奥底にあった。
――落ち着け、アリス・マーガトロイド、お前が慌ててどうする。
必死に自分に言い聞かせるが、記憶の中の恐怖はいくら拭っても湧き出てきて、溢れる。
そうしているうちにも敵は弾幕を放っている。気付くと目前に巨大な花弾幕が迫っていた。
――避けきれないっ!!
腕を花びらが切り裂いた。痛みの感覚がある。
――見てはいけない。…これも記憶の中に似た状況があった。
「ねえ。」
――答えてはいけない。
「…なに。」
――『あなた、なんで血がでないのかしら?』
アリス・マーガトロイドの仮面に大きな亀裂が入った。
「う、うああああああああああああああ!!!!」
わたしは我を忘れて全ての人形を直接緑髪にぶつけた。そして。
「アーティフルサクリファイス!!!」
全てを、爆発させた。
荒い息をつきながら、私は必死に感情を押し殺そうとしていた。
爆音。硝煙の奥から、迫って来る光。
――あ…
――ばか!避けなさい!
――無理だよ…!怖いよ…!怖い…助けて…!誰か!神綺様!…上海!上海!
恐怖で体が動かない。
――人形はさっき全部爆発させたでしょう!!避けなさい!!
――上海!!どこ!!上海!!上海!!
……………………ありす……………!
体に衝撃が走った。だが、その衝撃は予想もしていなかった衝撃だった。
爆発した筈の人形が、体当たりをするようにして私を突き飛ばした。
「上海っ!!なんで…!?あ、ああ……!!」
彼女の後ろに光が迫る。
「上海!!!」
必死に手を伸ばす。…彼女の手が、私の手を握った。その光が迸り、私の視界を奪う。
ぼんやりと視界に色が戻ってくる。
――上海は…!?
私の手には、しっかりと彼女の手が握られていた。…人形の手、だけが。
「あ、ああ…上海…上海…いや、いや…」
落ちる様に地上に降り、地面にへたり込む。上海だったものを抱き締めながら。
私は思い出した。彼女は、上海はわたしにとってかけがえのない大切な存在だった事を。わたしが、どれだけ上海を愛していたかを。
ヒビの入った仮面は、真っ二つに割れ、半分だけになってしまった。
「いや…いやだよ…置いて行かないでよ…上海…上海!!」
人形の手は、ピクリとも動かない。わたしは、ただ上海の名前を呼ぶ事しかできなかった。
――助けて!!誰か!上海が!上海が!
必死に助けを求めても、誰も応えてくれない。
――ごめんなさい、ごめんなさい!
わたしは何度も謝った。彼女を、逃げ道として利用していた事に。私が、逃げてばかりだった私達が、幻想郷でいつしか彼女を忘れていた事に。何度も何度も謝った。だから…
――還ってきてよ…!お願い…!
やはり彼女は動かない。縋る様な思いで、封印されている、いつも携帯していた魔道書――Grimoire of Alice――を取り出す。
「…お願い…上海を助けて…」
魔道書は固く封印されていて、どんなに力を込めても何の反応も示さない。
――何が、魔法だ。大切な人も助けられないで、物を壊す破壊の力しかないのか。
「…お願い、お願いよ…!究極の魔法なんでしょ…!?お願い…!上海を…助けて!!」
わたしはあらん限りの声で叫んだ。
――魔法。理屈などない。あらゆる事を可能にする物。
わたしの目から、液体が魔道書に零れ落ちた。
――魔法。理屈などない。あらゆる事を可能にする物。無限の可能性を秘めた力。想いを力にする物。
魔道書が七色に輝く。それを封印していたベルトが音を立てて外れていく。勝手にページがバラバラと捲れていく。目映い七色が辺りを照らす。
――あ…
わたしはその懐かしい七色の輝きを呆然と見ていた。
――…ほら、ぼうっとしてる場合じゃないでしょ…?
――え?あ、うん…!
どうすればいいのかなんてわからない。ただひたすら愛する人を想う。
辺りを包む七色の光が濃く、強くなり、混ざり合う。
――これが、わたしの…私達の…。…究極の魔法…!!
目を閉じて、深呼吸。そしてもう一度彼女の名を呼ぶ。
目を開ける。そこには、青いドレスの、長い金髪の少女が立っていた。
「…上…海…?」
「…………ありす…?あれ、私……。」
少女は、口を押さえて自分で言った言葉が信じられないといった様子だった。そして、自分の体を見回し、ますます愕然としていった。
「私…、ああ…、動ける…。」
何度も手を握ったり開いたりする様を見つめていた。そして、顔をあげて、
「…ありす…アリス…!……アリスッ!!」
何度も呟いていたかと思うと、抱きついてきた。
「アリス!ずっと…ずっと話したかった!ずっと、あなたが大好きだって伝えたかった!!」
――アリス!
――神綺様!
彼女のわたしを呼ぶ声と昔の自分の声が重なる。
「でも…でも、私は人形で、伝えられなくて…でも、ずっと一緒に居られて嬉しかった!…でも、ここに来てから、…アリスはなんだか私を忘れちゃってるみたいで…怖かったよ…!」
酷く寂しげな表情だった。私が彼女にそんな想いをさせていたことが、悲しくて、わたしも同じ表情になっていると思う。そしてそんな光景は、どこか見覚えがあった。彼女は、わたしのそんな顔を見て、いっそう悲しげな顔をした。
「…ごめん…ごめんね……。迷惑だよね…人形の私なんかが……」
わたしは、今更解った。なぜ、神綺様があの時あんな悲しそうな顔をしていたかを。それは、わたしが人形だったからなんかじゃない。大切な人がこんな顔をして、悲しまない者などいない。
――あの時、わたしは逃げた。…だけど、もう逃げない。わたしは、私達は、もう逃げない。
「ごめんなさい、上海…でも、聞いて。」
今なら、あの時神綺様が何を言いたかったのか分かる。
「私は、たとえそれが造られた感情だとしても、私の望みを反映しただけの物だとしても、私は涙が出る程嬉しい。そして、その感情があたな自身の物だと信じたい。…いいえ、信じてる。」
なぜか、視界が何かで霞んでいく。
「人形だとか、造られた物だとか、関係ない。あなたが私を愛していてくれる。それだけで、あなたの、私の存在する意味はある。…だから、怖がらないで。逃げないで。……私も、あなたを愛しているのだから…!」
涙が溢れて止まらなかった。彼女も涙を流していた。
そしてわたし達は再び強く抱き合った。
――究極の魔法も、粋な事をするものね。
私はぼんやりとそう思った。…もう逃げる必要はなくなった。仮面も必要ない。私は目を閉じた。
――待って!
――…どうしたの?…もう私は…
――…わたしは、もう逃げたくない。…逃げたのも私だけど、また真実と向き合えたのもわたし。逃げていた私も、わたし。…わたしは、そのどちらも受け止めたい。…嬉しいこと、楽しい事。悲しいことや怖いこと、全てを受け入れたい。…それが、生きるという事だから。…だから、わたしから、逃げないで!
――…………ほんとに……バカよ………私達は……
気付けば、“私”も泣いていた。
「やっぱり、面白いわ。」
緑髪の女性がいた。先程まで戦っていた相手。上海を消滅させかけた相手。私の隣にいる少女は、きつくその女性を睨みつけている。
「上海、大丈夫よ…。」
私は彼女にそう言ってその女性に顔を向けた。
「…ありがとう。」
「…お礼を言われるような事はしてないわ。私は、ただ自分の目的のためにあなたを利用しただけ。」
そんな言葉とは裏腹に彼女は微笑んでいた。それは、あの時の、暖かい笑顔だった。
「…それでも言わせてちょうだい。…あなたが居なければ、私はずっと逃げ続けていた。」
「…お人形さんで遊ぶのも楽しいものよ。」
もう、『人形』という言葉に動揺はしなかった。
「…目的って何だったの?」
「…私にも、大切なお人形さんがいてね。あなたと似た悩みを持っていたの。あの子に説教してほしくてね。…今のあなたから。…それと…」
私と上海を交互に見ながら、彼女は続けた。
「…旧友に、本当の笑顔になってもらいたいからね。…あなたたちみたいに。」
私と上海は顔を見合わせた。なぜか少し恥ずかしくなってきた。…もしかしなくてもさっきの私の恥ずかしいセリフを聞いていたのだろう。
彼女の微笑みは、妖しげな笑顔に変わっていた。
二人の少女は、顔を真っ赤にさせて帰っていった。
「さて…。いるんでしょ?メディ?」
「…うん…。」
「…何か思う事はある?」
「…ごめんなさい!私…私…!」
その人形の様な少女は、必死に私に縋り付いて謝り続けていた。私はその頭を撫でて抱き締めてあげた。
そして、見えなくなった二人の人形だった少女を想う。
――ありがとう。
私たち二人は魔法の森の家に帰ってきた。
色々な事がありすぎてかなり疲れていた。上海は、自由に動けるのが嬉しいのか、まだまだ元気な様子だった。
「晩ご飯、私が作るね!」
「あら、上海自分で料理できるの?」
「アリスのずっと手伝ってたし、みようみまねだけど…がんばる!」
「そう、じゃあお願いね。」
笑顔で彼女に言葉を返す。彼女を見ているだけで、私は頬が緩んだ。
涙目の上海を慰めて、料理を作り二人で食べた。落ち込んでいた顔は、料理を食べたら笑顔に戻った。
「食べ物って、こんなにおいしいんだね!」
「ふふ…ありがとう。ちょっと練習すれば上海もできるようになるわよ。私が教えてあげる。」
「うん、ありがとう!」
満面の笑みで料理を食べ続けている彼女。空腹を満たすだけの物だったのに、今は少し違う意味もあるように思えた。
「おいしい…おいしいなぁ…!」
急に、彼女の言葉に嗚咽が混じり始めた。
「ちょ、ちょっと、どうしたの上海!?」
「ごめんね…、ほんとにおいしくて、夢みたいで…嬉しくて…」
「だからって、泣くことないでしょ…!」
「…うん、ごめんね…。……ありがとう、アリス、本当に、ありがとうね…!」
彼女は笑顔で泣いていた。…彼女は、私とは少し違う人形だった。自分の意思では、動けない人形だった。それが、どんなに辛い事だったのか、想像もできない。小さな体でそれにずっと耐えていたのだ。
「上海…」
私は彼女を強く抱き締めた。
「ごめんね、上海、辛かったよね、悲しかったよね…!」
「アリス…アリス…」
彼女も抱き締め返してくれた。
「もう寂しい思いはさせないからね、ずっと、ずっと一緒だよ…!」
「うん…うん…!ありがとう…ありがとう…!」
夕食を終えて、二人で一緒のベットで眠った。幸せとは、こういう事をいうのだろう。二人で一緒に居れれば、他の何も気にならない。今までは、こんな幸せからも逃げていたのかと思うと、苦笑が浮かぶ。そして、想う。
――まだこれで終わりじゃない。…神綺様に、謝りに行かなくちゃ。
頭に浮かぶ寂しげな表情の女性。…魔界に、戻らなくちゃ。
――…でも、どうやって帰ればいいのだろう。神綺様が私を喚び寄せてくれれば簡単なのだけど、それじゃ意味がない。上海を置いて行きたくもない。二人で行って、伝えなくては。……明日、図書館に行って調べてみよう。
微睡む意識の中で、そう考えながら、上海の手を握り、睡魔に身を任せた。
つづく
――幻想郷。
ここへ来るのは二度目だった。ここへ来る事は、ゲートをくぐるだけなので簡単だ。だが、魔界へ戻るのは容易ではない。とゆうか、今の私では戻る方法がわからない。
そういえば前回はどうやって魔界に戻れたのだろうか。きっと神綺様が私を無理矢理召還して喚び戻したのだろうと思う。…自分の人形を喚び出す魔法くらい、魔界の神にとっては簡単なのだろう。…だけど、今帰り方の心配をしても意味はない。
――帰りたくない……。帰っても神綺様に嫌な思いをさせるだけ……。……それに、神綺様だって私の事なんてもうどうでもいいに違いない。今、喚び出されないのがその証拠だ。
悲しくて、寂しいのに、やはり涙がでない。発散できない感情に心が破裂しそうだ。
――心。これも神綺様が造った物なのだろうか。この今の気持ちも、造られた物なのだろうか。だとしたら…私は、いったい何なのか…。
「……だれか、教えてよ……。私はなんなの……」
独りで呟く。答えてくれる者は、いない。
寂しさで、自分の体を抱き丸まってごろんと転がる。
――あ。
人形がそこにいた。上海人形。一番の友達で、いつも一緒にいてくれる、大好きな娘。
「…上海……上海……上海………」
彼女を抱き締め、ひたすら名前を呼び続けた。
「…上海…教えて……教えてよ上海…私はいったいなんなの?ねえ、上海、答えてよ…。」
人形は応えてはくれなかった。ただの人形は、自分の力では話せない。動けない。
――上海を話せるようにすれば、きっと彼女は応えてくれる。そうだ、きっとそうだ。私という存在を、教えてくれる――
現実逃避だとはわかっている。だけど、目標を持つことによって、他の感情を押しつぶせる。
私は、ゆっくりと立ち上がり森の奥へと足を踏み出した。
……………………………………
家があった。長い間使われていなかった様子で、廃墟のようだった。ふらふらと近づき、扉をノックしてみる。返事はない。扉に手をかけてみると、鍵が掛かっておらず、扉は軋んだ音をたてながら簡単に開いた。家の中は、やはり荒れ果てていた。
――よし。ここに、住もう。ここで、いっぱい勉強して、上海を話せるようにしてあげよう――
そうして私は、現実から目を背け、意味などないであろう目標を持つことで、なんとか心を落ち着かせることができた。
――まずは、掃除かな。
荒れた部屋を見回し、ため息をつく。
窓を全て開け、勢いよく扉を開いて一歩外に出て伸びをする。
「…よーし。」
頬を軽くパンパンと叩き気合いを入れて振り返る。…ふと、視界の端に何かが見えた。扉の脇に、なにか落ちている。手に取ってみると、どうやら表札のようだ。扉を勢いよく開けたせいで、落ちてしまったのだろう。
ほとんど汚れで扉と同化しているような色のそれを少し叩いて埃を落とすと、文字が浮かび上がってきた。
「…まーが、とろいど…?」
前の住人の名前だろうか。
「…ふふっ……変な、名前……」
…久しぶりに、笑えた気がした。私は、私を笑わせてくれたその名前が、気に入ってしまった。
「…ありす…まーがとろいど……よし…アリス・マーガトロイド!」
…………………………………
幻想郷での、アリス・マーガトロイドの、生活の始まりだった。
半日かかって上海と一緒に掃除をした。意外にもクローゼットの中の服や、台所の食器、本棚などは、綺麗だった。どうやらそういった魔法がかけられているようだ。本棚には色々な魔道書もあった。きっと前のマーガトロイドも、魔法が使えたのだろう。
掃除を終えるとまずわたしは、自分の姿を変える事にした。だって、今の私はアリスではなく、アリス・マーガトロイドなのだから。
成長した自分を想像し、姿を変える魔法を施した。魔法は便利だ。――魔界にいたころは、この魔法は本当の自分じゃなくなる気がして、あまり好きではでかったけれど、今は大丈夫。これはほんとに本当の自分ではなく、アリス・マーガトロイドという人物なのだから。
――上海を話せるようにするまでは、アリスには戻らないでいい。
クローゼットの中の服を見てみる。綺麗な青いスカートや、シャツ、上海を着せ替えている感覚と重なり、自然とかわいらしい服を選んでいた。
それらを全部着こなし、鏡の前でくるりと回ってみた。
「ふふ、かわいいかも…」
まるで上海のようにかわいらしい服をきて、まるで人形みたいな……
――人形。
息が詰まる。その場にへたり込む。
…せっかく今だけでも、アリス・マーガトロイドでいる今だけでも忘れようとしていたのに。
『人形は、あなた。』
声がわたしの頭の中で響く。神綺様の酷く悲しげな表情が過る。
「…あ、あ、いや…いや………上海……上海?……上海!!」
わたしは上海を操り呼び寄せ抱き締める。
――大丈夫……大丈夫…いつかきっと、上海が応えてくれるから…大丈夫。
繰り返し自分に言い聞かせることで、落ち着きを取り戻せた。
こんな些細なことで動揺してはいけない。冷静に、アリス・マーガトロイド、冷静になれ。
目を閉じて、深く、深呼吸、目を開ける。
――もう、大丈夫。
私は心の中でそう呟き、ゆっくりと立ち上がる。ふと、空腹感を感じる。
――人形なのに、変なの……
冷静に、アリス・マーガトロイドはそう思った。そう言えば自分は、食事をする習慣だけはあった。
――さすがに食事をずっとしてなかったら、おかしいものね…。
人形にもそんな機能もつけさせられるなんて、やっぱり魔法はなんでもできるものだ。
――上海が話せるようになったら、上海にもその機能をつけてあげよう。一緒においしいものを食べよう。
本来の目的にはあまり関係ないことだが、そんなことを考えられる余裕ができたことはいい事だと思う。
記憶の片隅に、ぼんやりと人里の風景が浮かぶ。人がいれば、食料もあるだろう。とりあえず、空腹の感覚を満たすために、そこを探そう。
上海を連れ、魔界から持って来た魔道書――Grimoire of Alice――を片手に持ち、家の扉を開けた。
この魔道書は、魔界からもってきた唯一の物だ。いわば、神綺様とわたしの繋がりだった。その繋がりを手放す事だけは、どんなに強がってみても、できなかった。…今は封印されてしまって、開く事もできないが。
森を飛び立ち、当てもなく飛ぶ。しばらくすると、目的の場所らしき物が見えた。
そこには、たくさんの人間がいた。魔界の町並みと、建物の様式こそちがうが、その活気は魔界のそれとなんら変わらない。少し懐かしい気持ちになる。ゆっくりと町並みを観察しながら歩く。
ふと、一組の親子が目に留まった。
子供が、親に叱られ泣いていた。涙を流して。泣いていた。
――やっぱり、違う。人間は、泣くことができる。
こんなささいなことでも、わたしは思い出してしまう。
「…う……。」
まただ。仮面が剥がれそうになる。
「……上海……上海……!」
わたしは再び上海を呼び寄せ抱き寄せる。
――落ち着け。わかっていたことじゃないか。落ち着け。
ギュッと目を閉じ、深呼吸をする。必死に仮面を繕う。
――大丈夫。もう大丈夫。
先程より早く、アリス・マーガトロイドは心を落ち着かせることができた。
目を開けると、先程の子供が私を見つめていた。私は、上海を抱き締めていた事を思い出し、少し恥ずかしくなり慌てて離した。子供の視線が移る。…どうやら、上海を見ていたらしい。
「その人形、動いたよ!」
「え、ええ、私が魔法で操っているもの。」
「お姉ちゃんは魔法が使えるの?」
「…うん、まあ…」
「じゃあやっぱり魔法使いなんだ!すごいなあ!ねえ、もっと見せて!」
「え、あ、うん…。」
子供が熱心に迫ってくるので、断りきれなかった。上海を操りひらひらと踊らせてみた。子供は目を輝かせてそれを見ていた。
「すごいすごい!かわいいなあ!」
屈託のない笑顔で喜んでくれる子供を見て嬉しくなった私は、更に魔法を使って様々な演出を加えて上海を踊らせていた。
子供の親は、なぜか私にお礼を言い、子供を連れて去って行った。
――また見せてね!
子供が去り際に言っていた言葉がぼんやりと私の頭の中で反芻していた。
――あ、そうだ。
私は空腹だったのを思い出して、再び町の喧噪の中へ歩き出した。
森の家に帰ってきた。
――お金なかったの忘れてた…。
その日はもう眠ることにした。
次の日、机の中やタンスで見つけたアクセサリーや宝石などを売り、布や綿を買った。
人形を作ろうと思った。たくさんの人形で踊らせる方が、にぎやかで、子供も喜ぶだろうと思った。
――きっと、上海を動くようにする何かのヒントにもなる筈よね、うん。…それに、上海も友達が欲しいよね。
それから私は、たくさんの人形を自分で作ったり、集めたりした。呪われた人形などという物もあった。
そうして、新しい人形が手に入っては人里へ行き、子供たちに観せた。そんなことを繰り返しているうちに、人形達の踊りを見る観客は一人、また一人と増えていき、客層も子供だけでなく、大人や、はては人里へ出入りする妖怪や妖精までもが観客に加わっていた。
いつしか私は、人形を操る魔法使い――人形遣いと呼ばれるようになっていた。
複雑な気分だったが、人々の笑顔が、それを忘れさせてくれた。
そんな、アリス・マーガトロイドの生活はしばらく続いた。
冬。魔界では季節などなかったが、四季という物は本で得た知識で知っていた。初めて見た雪は、とても綺麗で、感動したものだった。だけど。
――長い……
いつまでも降り続ける雪を窓の外に見ながら思う。本の中では、雪がふり続ける季節はせいぜい数ヶ月の筈だ。
――なにか、おかしい。変だ。
やはり私は、一度気になるとそれを知りたくなってしまう性分だったようだ。私はその“異変”の原因を調べてみることにした。
原因は簡単にわかった。雪山で冬の妖怪が教えてくれた。少し拍子抜けしたが、一応お礼を言うと、
「あなたには、うちの子たちが何度かお世話になってるって言ってたからね。」
彼女は笑顔でそう答えた。
――なるほど。きっと、あの子と親しい仲なのね。
水色の髪をした可愛らしい氷の翼を持った妖精を思い出した。その氷精は、一番目を輝かせて楽しんでくれる子だった。彼女はいつしか、常連となり、すっかり仲良くなって森の家にまで遊びに来るようになった。
彼女には幻想郷の事を色々と教わった。私の住んでいる森は魔法の森という名前だという事や、湖のほとりには恐ろしい吸血鬼が住む赤い館がある事。そして、スペルカードルール。どうやら最近できたらしいそれは、争いを実戦に近い形の遊びで決着をつけるという物らしい。
もう一度冬の妖怪にお礼を言い、その場を後にした。
――春度、か。
山の上を飛びながら、考える。……何の事かよくわからない。とりあえず、もう少し調査を続ける事にしよう。
すっかり夜になってしまった頃、懐かしい色合いを見つけた。紅と白。魔界をめちゃくちゃにした一味の一人。久しぶりに頭に熱が戻った。わたしは怒りを思い出す。…私は、複雑な気分で紅白を追った。
――追いついた。…なにか紅白がつぶやいている。……冷える?
「冷えるのは、あなたの春度が足りないからじゃなくて?」
私は、紅白に声をかけた。そして、とりあえず怒りという感情に従って、スペルカードルールの戦いを仕掛けた。
覚えたてのルールに乗っ取って、弾幕を放っていく。殺意もない、ただの弾幕。人形劇の時の応用で人形たちにも魔力を込め、弾を撃たせた。私は、弾幕を放ちながら、紅白が弾幕を避けていく様を見ていた。
――懐かしい。
ぼんやりとそんなことを思った。そういえばあの時は――
「………っ!」
わたしの頭に、あの時の痛みの感覚が、恐怖が蘇る。息が詰まる。視界がぐらつく。
紅白が針と札を放った。あの時のように。札が目前に迫る。あの時のように。
――避けろ、アリス・マーガトロイド、避けろ!
わずかに体をよじり、なんとか直撃は避けた。だが、運悪くそれは手の先をかすり、指を少し切ってしまった。
やはり血は流れなかった。あの時の記憶が浮かび上がってくる。そして、またあの声がわたしの頭の中で響き渡る。
――『人形は、あなた。』
仮面に亀裂が走る。
「………私の、負けよ。」
…早くこの感情を抑えなければ。仮面が壊れてしまう。
――だから、あなたは…
「………?」
紅白は一瞬不思議そうな顔をして話かけてきた。私は切れた指を体の後ろに隠す。
「春度っていうのはこの桜の花びらのことかしら?」
「………判ってて集めてたんじゃないの?」
早く一人になりたかった私はそう適当に答え黙りこくった。
「いや、まあ、うん。」
紅白は曖昧に答えそれっきり喋ろうとしない私を何度か振り返りながら去っていった。
姿が見えなくなったのを確認し、すぐに上海を呼び寄せ抱き締める。
――大丈夫……大丈夫…。上海が動けるようになれば、きっと大丈夫だから。
…だから、今は……
いつしか、私、アリス・マーガトロイドは、どうして上海人形を動けるようにしたがっていたのかを、忘れてしまっていた。その漠然とした目標の事を考えることは、わたしを冷静にさせる手段になっていた。
………………………………
その日、長い冬は終わった。きっとあの紅白が解決したのだろう。
それから数日後。その日も私は家に篭り、上海を動けるようにする――自律人形を作るという目標のために試行錯誤していた。そこに、急に家の扉を叩く音がした。私は、またあの氷精が遊びに来たのだろうと思い、考えなしに扉を開けた。
そこには、またも懐かしい者がいた。――黒白。
紅白のことがあったばかりなので、わたしは激しく動揺していた。黒白も、なぜかポカンとした顔をしていた。よく解らない沈黙が少し続いた。
「よ、よぉ。こっちに来てたんだってな。霊夢から聞いたぞ。」
「……………」
「…?…ああ、紅白の巫女の事だ。なんだ、名前も知らなかったのか。」
「……………」
「人形を使った魔法を使うようになったらしいな。…最近里で評判の人形遣いってのは、お前だったってわけだ。」
「……………」
「人形を操って魔法を使うなんて変な事をしてるやつが、どんなやつか気になってたんだが、まさかお前だったとはなあ。」
一方的に喋り続ける黒白。いったい何をしにきたのだろう。警戒しつつ様子を伺う。
「それにしても、ずいぶん変わったなお前。それも魔法か?」
ニャリと笑顔を浮かべてそう言って来た。
――まさかこいつ、…知っているのだろうか。
…落ち着け、アリス・マーガトロイド。今それを思い出してはいけない。
「まあ、成長期だったんだな。少しうらやましいぜ。」
こんどは心底悔しそうな顔をしていた。芝居を打っているようには見えない。
――大丈夫、気付いていない、大丈夫。
少し安堵した私は、ため息をついた。
「…なんだよ、ため息なんてついて。感じ悪いな。」
今度は心底嫌そうな表情だった。…ころころとよく表情がかわるやつだ。
「………何しにきたの。」
「いや、だから、人形を使う魔法ってのが。その、気になってだな。」
「…………何で私の家を知っているの。」
「人形劇が大好きな妖精にすこーしちょっかいをだしたら、すぐ教えてくれたぜ。相変わらず扱いやすいやつだったぜ。」
そう言って先程とは違う邪な笑みを浮かべて笑った。人形劇が大好きな妖精。水色の髪の氷精が頭に浮かぶ。
「……あの子に何をしたの。」
「?なんでもいいだろ、妖精ぐらいどうしようが。」
氷精がぼろぼろになった姿が頭の中で連想される。
「……………わかったわ。」
「あん?」
「…人形を使う魔法、見たかったんでしょ?見せてあげるわよ。」
わたしの頭の中では、かつて魔界で倒された神綺様や友人達の姿と、想像の中の氷精の姿が重なって見えた。
「お?なんだ?やる気か?」
星形の弾幕を避けながら考える。――やっぱり、強い…!
…だけど、今度は恐怖はない。アリス・マーガトロイドは冷静だった。人形で弾幕を撃ち返す。次々と操る人形を増やし、着々と黒白を追いつめてゆく。
「なかなかやるなあ!じゃあこれならどうだ!?」
黒白の手が人形達の群れに向く。その手には何か握られている。
「マスタースパーク!!!」
「――っ!!」
人形達のほぼ半数が巨大な光に飲み込まれ、一瞬で消え去ってしまった。
――あれを喰らったら、まずいわ。…もう潮時ね。
――こっちだってまだ全然本気じゃないわ!まだまだやれるわよ!
いつも携帯している魔道書を持つ手に力を込める。
――無理よ。それはもう強力に封印されていて使えないわ。
――それでも!だって、あいつは、神綺様を!サラを!ルイズを!
――……でも、万が一怪我でもしたらどうするつもり?またあの気持ちを思い出したいの?
――………それは…、いや………
――なら、もう諦めなさい。それが一番賢い選択よ。後は、私に全て任せなさい。
――……うん………。
――大丈夫、何も怖い事はないから…しばらく休んでいなさい…
――……うん…
………………………………
「…私の負けよ。」
「へ?」
白黒は間抜けな声を出した。
「私の負けって言ってるの。」
「でも、だってお前、まだ全然…」
「人形を半分もやられたのよ。これ以上続けても人形を減らすだけだわ。」
「だけどさあ…。んー、まあいいか。人形の魔法もたいした事ないんだな!」
納得のいかなそうな表情で口をとがらせていたかと思うと、今度は勝ち誇って笑ってきた。本当に表情がころころとよく変わる。
「あ、そういえばさ、今日霊夢んとこの神社で宴会があるんだが…うわっ!?」
突然、黒白の話を遮り氷の礫が飛んできた。…氷?
「魔理沙!さっきはよくも騙してくれたわね!今日は人形劇やってなかったじゃない!」
「げ。」
水色の髪の氷精がいつのまにかそこにいた。黒白を睨みつけていたかと思うと、私を見つけてぶんぶんと手を振ってきた。
…よかった、無事だったんだ。ってゆうかピンピンしてるじゃない。
「……あんた、ほんとに何したのよ。」
「あー…言っただろ?私はただこいつをからかって誘導尋問させただけだって。」
「…言ってないわよ。」
「んーまあ、そんなことより今日宴会が…」
「行く!」
なぜか氷精が答えた。
「お前は誘ってないんだが。」
「人形遣いが行くなら、あたいも行く!」
「……あんた達、私はまだ行くとは…」
「えー。」
「えー。」
二人は声を揃えて不満の声を出した。
結局私は、二人に無理矢理に連れていかれる形で宴会に参加した。
宴会の最中、私は神社の境内で座って多くの人妖達が騒いでいるのを見ていた。膝の上には酔いつぶれた氷精が頭を乗せて寝ている。
――何やってんだろう。私は。
たしかここの紅白と黒白はわたしにとっては憎い敵だった筈だ。でも、私にとってはそうは感じられなかった。色々な気持ちが混ざっていくような、薄れていくような感じ。お酒を少し飲んだから、酔ってしまったのだろうか。
「こんなとこで何してんのよ。」
よほど考え込んでいたのだろう、いつのまにか目の前に紅白が来ていた事に気付かなかった。
「別に。この子が寝ちゃったから。」
氷精の頭を撫でる。
「あんたもやっかいなのに懐かれたもんね。」
「そうかしら?正直でいい子じゃない。」
「ただのバカよ、バカ。」
気付けば自然と会話していた。…やっぱり。私だけの時は、怒りも、恐怖も感じない。
「……博麗霊夢。」
「え?」
「名前よ。私の名前。…まだ言ってなかったでしょ?」
「あ、うん」
「あんたは?」
「え?」
「あんたの名前。」
――私は…
「…アリス…。…………私は、アリス・マーガトロイド。」
「そう。……改めて。幻想郷へようこそ、アリス。」
――それは、どっちの?
――その日以来、“わたし”はしばらく眠り続けていた。
あの初めて宴会に行った日から数ヶ月が経った。
私の日常は大分変わっていた。自律人形作りの研究、人形の製作、里での人形劇。相変わらず氷精、チルノは毎回来て楽しんでくれた。紅白、霊夢の神社に行ったり、黒白、魔理沙と喧嘩したりということが増えた。魔理沙とは、一緒に異変を解決したりもした。
楽しかった。おそらくこの数ヶ月はアリス・マーガトロイドが幻想郷に来てから、一番充実していた。一番、楽しかった。
――苦しい事や嫌な事を忘れてしまうほどに。いつしか仮面は鉄仮面になり、錆びて固まっていた。
その日もいつも通り、魔理沙と喧嘩したあと、私の家でお茶を飲んでいた。
「そういえばお前さ、自律人形を作りたいって言ってたよな。」
「ええ、そうね。なんで作りたかったのか忘れちゃったんだけど、作れたら思い出せると思うの。」
「それのことになるとおもうんだが…」
珍しく真面目な表情の魔理沙。
「この間、動いてる人形を見たんだが、どうも操られている感じじゃないんだ。ちゃんと会話もできてるし。」
「……どこで見たの?」
次の日、私は魔理沙がその人形を見たという場所へ向かっていた。
――見えた!鈴蘭畑!
彼方にそれが見えた。私はいつになく興奮していた。
ふいに、巨大な花が視界を横切った。先行する歩哨をさせていた人形が吹き飛んだ。
「ごめんなさいね。」
花が横切ったその後には、緑の髪をした女性が日傘を携えてそこにいた。
――どこかで見たような……。……ダメだ。思い出せない。
「…どうやらあなたは逃げたようね…。…残念だけど、今のあなたにあの子を会わせる訳にはいかないわ。」
普段の私なら、こんな禍々しい妖気を放った相手に戦いを挑むなど絶対にしない。全力を賭して戦うなど、怪我でもすれば大変な事になる。
――なんでだっけ?……全力で負けたら後がないから…?…うん、きっとそうだ。
「残念だけど、今日は私は気分がいいの。…やっと自律人形のヒントが得られそうなの、邪魔しないで。」
「…もうなにもかも忘れちゃったの?そこまであなたが弱いとは思わなかったわ…。」
「言ってくれるわね。人形遣い、アリス・マーガトロイドを嘗めないでもらいたいわね。」
「…人形遣い?…面白い冗談ね。……思い出させてあげる。荒療治だけど、今度は…負けないで。」
二人同時に弾幕を放つ。激しい弾幕がぶつかりあい、辺りを閃光が包み込んだ。
私、アリス・マーガトロイドは、初めて、アリス・マーガトロイドの全力を出して戦った。人形の数は、魔理沙と戦うような遊びの時の倍以上。一体一体に込める魔力も普段の比ではない。なのに、勝てない。当たらない。こっちの人形たちは、確実に減らされていっている。
圧倒的に攻めているはずなのに、勝てない。…なぜか、そんな状況が記憶の奥底にあった。
――落ち着け、アリス・マーガトロイド、お前が慌ててどうする。
必死に自分に言い聞かせるが、記憶の中の恐怖はいくら拭っても湧き出てきて、溢れる。
そうしているうちにも敵は弾幕を放っている。気付くと目前に巨大な花弾幕が迫っていた。
――避けきれないっ!!
腕を花びらが切り裂いた。痛みの感覚がある。
――見てはいけない。…これも記憶の中に似た状況があった。
「ねえ。」
――答えてはいけない。
「…なに。」
――『あなた、なんで血がでないのかしら?』
アリス・マーガトロイドの仮面に大きな亀裂が入った。
「う、うああああああああああああああ!!!!」
わたしは我を忘れて全ての人形を直接緑髪にぶつけた。そして。
「アーティフルサクリファイス!!!」
全てを、爆発させた。
荒い息をつきながら、私は必死に感情を押し殺そうとしていた。
爆音。硝煙の奥から、迫って来る光。
――あ…
――ばか!避けなさい!
――無理だよ…!怖いよ…!怖い…助けて…!誰か!神綺様!…上海!上海!
恐怖で体が動かない。
――人形はさっき全部爆発させたでしょう!!避けなさい!!
――上海!!どこ!!上海!!上海!!
……………………ありす……………!
体に衝撃が走った。だが、その衝撃は予想もしていなかった衝撃だった。
爆発した筈の人形が、体当たりをするようにして私を突き飛ばした。
「上海っ!!なんで…!?あ、ああ……!!」
彼女の後ろに光が迫る。
「上海!!!」
必死に手を伸ばす。…彼女の手が、私の手を握った。その光が迸り、私の視界を奪う。
ぼんやりと視界に色が戻ってくる。
――上海は…!?
私の手には、しっかりと彼女の手が握られていた。…人形の手、だけが。
「あ、ああ…上海…上海…いや、いや…」
落ちる様に地上に降り、地面にへたり込む。上海だったものを抱き締めながら。
私は思い出した。彼女は、上海はわたしにとってかけがえのない大切な存在だった事を。わたしが、どれだけ上海を愛していたかを。
ヒビの入った仮面は、真っ二つに割れ、半分だけになってしまった。
「いや…いやだよ…置いて行かないでよ…上海…上海!!」
人形の手は、ピクリとも動かない。わたしは、ただ上海の名前を呼ぶ事しかできなかった。
――助けて!!誰か!上海が!上海が!
必死に助けを求めても、誰も応えてくれない。
――ごめんなさい、ごめんなさい!
わたしは何度も謝った。彼女を、逃げ道として利用していた事に。私が、逃げてばかりだった私達が、幻想郷でいつしか彼女を忘れていた事に。何度も何度も謝った。だから…
――還ってきてよ…!お願い…!
やはり彼女は動かない。縋る様な思いで、封印されている、いつも携帯していた魔道書――Grimoire of Alice――を取り出す。
「…お願い…上海を助けて…」
魔道書は固く封印されていて、どんなに力を込めても何の反応も示さない。
――何が、魔法だ。大切な人も助けられないで、物を壊す破壊の力しかないのか。
「…お願い、お願いよ…!究極の魔法なんでしょ…!?お願い…!上海を…助けて!!」
わたしはあらん限りの声で叫んだ。
――魔法。理屈などない。あらゆる事を可能にする物。
わたしの目から、液体が魔道書に零れ落ちた。
――魔法。理屈などない。あらゆる事を可能にする物。無限の可能性を秘めた力。想いを力にする物。
魔道書が七色に輝く。それを封印していたベルトが音を立てて外れていく。勝手にページがバラバラと捲れていく。目映い七色が辺りを照らす。
――あ…
わたしはその懐かしい七色の輝きを呆然と見ていた。
――…ほら、ぼうっとしてる場合じゃないでしょ…?
――え?あ、うん…!
どうすればいいのかなんてわからない。ただひたすら愛する人を想う。
辺りを包む七色の光が濃く、強くなり、混ざり合う。
――これが、わたしの…私達の…。…究極の魔法…!!
目を閉じて、深呼吸。そしてもう一度彼女の名を呼ぶ。
目を開ける。そこには、青いドレスの、長い金髪の少女が立っていた。
「…上…海…?」
「…………ありす…?あれ、私……。」
少女は、口を押さえて自分で言った言葉が信じられないといった様子だった。そして、自分の体を見回し、ますます愕然としていった。
「私…、ああ…、動ける…。」
何度も手を握ったり開いたりする様を見つめていた。そして、顔をあげて、
「…ありす…アリス…!……アリスッ!!」
何度も呟いていたかと思うと、抱きついてきた。
「アリス!ずっと…ずっと話したかった!ずっと、あなたが大好きだって伝えたかった!!」
――アリス!
――神綺様!
彼女のわたしを呼ぶ声と昔の自分の声が重なる。
「でも…でも、私は人形で、伝えられなくて…でも、ずっと一緒に居られて嬉しかった!…でも、ここに来てから、…アリスはなんだか私を忘れちゃってるみたいで…怖かったよ…!」
酷く寂しげな表情だった。私が彼女にそんな想いをさせていたことが、悲しくて、わたしも同じ表情になっていると思う。そしてそんな光景は、どこか見覚えがあった。彼女は、わたしのそんな顔を見て、いっそう悲しげな顔をした。
「…ごめん…ごめんね……。迷惑だよね…人形の私なんかが……」
わたしは、今更解った。なぜ、神綺様があの時あんな悲しそうな顔をしていたかを。それは、わたしが人形だったからなんかじゃない。大切な人がこんな顔をして、悲しまない者などいない。
――あの時、わたしは逃げた。…だけど、もう逃げない。わたしは、私達は、もう逃げない。
「ごめんなさい、上海…でも、聞いて。」
今なら、あの時神綺様が何を言いたかったのか分かる。
「私は、たとえそれが造られた感情だとしても、私の望みを反映しただけの物だとしても、私は涙が出る程嬉しい。そして、その感情があたな自身の物だと信じたい。…いいえ、信じてる。」
なぜか、視界が何かで霞んでいく。
「人形だとか、造られた物だとか、関係ない。あなたが私を愛していてくれる。それだけで、あなたの、私の存在する意味はある。…だから、怖がらないで。逃げないで。……私も、あなたを愛しているのだから…!」
涙が溢れて止まらなかった。彼女も涙を流していた。
そしてわたし達は再び強く抱き合った。
――究極の魔法も、粋な事をするものね。
私はぼんやりとそう思った。…もう逃げる必要はなくなった。仮面も必要ない。私は目を閉じた。
――待って!
――…どうしたの?…もう私は…
――…わたしは、もう逃げたくない。…逃げたのも私だけど、また真実と向き合えたのもわたし。逃げていた私も、わたし。…わたしは、そのどちらも受け止めたい。…嬉しいこと、楽しい事。悲しいことや怖いこと、全てを受け入れたい。…それが、生きるという事だから。…だから、わたしから、逃げないで!
――…………ほんとに……バカよ………私達は……
気付けば、“私”も泣いていた。
「やっぱり、面白いわ。」
緑髪の女性がいた。先程まで戦っていた相手。上海を消滅させかけた相手。私の隣にいる少女は、きつくその女性を睨みつけている。
「上海、大丈夫よ…。」
私は彼女にそう言ってその女性に顔を向けた。
「…ありがとう。」
「…お礼を言われるような事はしてないわ。私は、ただ自分の目的のためにあなたを利用しただけ。」
そんな言葉とは裏腹に彼女は微笑んでいた。それは、あの時の、暖かい笑顔だった。
「…それでも言わせてちょうだい。…あなたが居なければ、私はずっと逃げ続けていた。」
「…お人形さんで遊ぶのも楽しいものよ。」
もう、『人形』という言葉に動揺はしなかった。
「…目的って何だったの?」
「…私にも、大切なお人形さんがいてね。あなたと似た悩みを持っていたの。あの子に説教してほしくてね。…今のあなたから。…それと…」
私と上海を交互に見ながら、彼女は続けた。
「…旧友に、本当の笑顔になってもらいたいからね。…あなたたちみたいに。」
私と上海は顔を見合わせた。なぜか少し恥ずかしくなってきた。…もしかしなくてもさっきの私の恥ずかしいセリフを聞いていたのだろう。
彼女の微笑みは、妖しげな笑顔に変わっていた。
二人の少女は、顔を真っ赤にさせて帰っていった。
「さて…。いるんでしょ?メディ?」
「…うん…。」
「…何か思う事はある?」
「…ごめんなさい!私…私…!」
その人形の様な少女は、必死に私に縋り付いて謝り続けていた。私はその頭を撫でて抱き締めてあげた。
そして、見えなくなった二人の人形だった少女を想う。
――ありがとう。
私たち二人は魔法の森の家に帰ってきた。
色々な事がありすぎてかなり疲れていた。上海は、自由に動けるのが嬉しいのか、まだまだ元気な様子だった。
「晩ご飯、私が作るね!」
「あら、上海自分で料理できるの?」
「アリスのずっと手伝ってたし、みようみまねだけど…がんばる!」
「そう、じゃあお願いね。」
笑顔で彼女に言葉を返す。彼女を見ているだけで、私は頬が緩んだ。
涙目の上海を慰めて、料理を作り二人で食べた。落ち込んでいた顔は、料理を食べたら笑顔に戻った。
「食べ物って、こんなにおいしいんだね!」
「ふふ…ありがとう。ちょっと練習すれば上海もできるようになるわよ。私が教えてあげる。」
「うん、ありがとう!」
満面の笑みで料理を食べ続けている彼女。空腹を満たすだけの物だったのに、今は少し違う意味もあるように思えた。
「おいしい…おいしいなぁ…!」
急に、彼女の言葉に嗚咽が混じり始めた。
「ちょ、ちょっと、どうしたの上海!?」
「ごめんね…、ほんとにおいしくて、夢みたいで…嬉しくて…」
「だからって、泣くことないでしょ…!」
「…うん、ごめんね…。……ありがとう、アリス、本当に、ありがとうね…!」
彼女は笑顔で泣いていた。…彼女は、私とは少し違う人形だった。自分の意思では、動けない人形だった。それが、どんなに辛い事だったのか、想像もできない。小さな体でそれにずっと耐えていたのだ。
「上海…」
私は彼女を強く抱き締めた。
「ごめんね、上海、辛かったよね、悲しかったよね…!」
「アリス…アリス…」
彼女も抱き締め返してくれた。
「もう寂しい思いはさせないからね、ずっと、ずっと一緒だよ…!」
「うん…うん…!ありがとう…ありがとう…!」
夕食を終えて、二人で一緒のベットで眠った。幸せとは、こういう事をいうのだろう。二人で一緒に居れれば、他の何も気にならない。今までは、こんな幸せからも逃げていたのかと思うと、苦笑が浮かぶ。そして、想う。
――まだこれで終わりじゃない。…神綺様に、謝りに行かなくちゃ。
頭に浮かぶ寂しげな表情の女性。…魔界に、戻らなくちゃ。
――…でも、どうやって帰ればいいのだろう。神綺様が私を喚び寄せてくれれば簡単なのだけど、それじゃ意味がない。上海を置いて行きたくもない。二人で行って、伝えなくては。……明日、図書館に行って調べてみよう。
微睡む意識の中で、そう考えながら、上海の手を握り、睡魔に身を任せた。
つづく
続きも楽しみに待ってますね。