べんべん、べべん。遠くの山に日が落ちるのを見やると、人は何故だかセンチメンタルな気分になるらしい。それは、道具の身である自分にも当てはまるのではないか。腕に抱えた琵琶の音をかき鳴らす度に、九十九弁々はそんなことを考えていた。空の一部は真っ赤に染まって、青い空と混り合って不気味な紫色を呈す。薄青の月が浮かび、一番星がちりと瞬く、そんな秋の夕暮れ。
いつの間にか秋も深まり、日が沈むのも随分早くなった。そんな中、何の目的もなく外へ出かけ、深い赤や黄色に染まった紅葉、秋風にふらふらと揺れるススキの群生、子どもたちに囲まれ落ち葉の燃えているのなんかを見かけては、なんとなしに琵琶をかき鳴らすのが、九十九弁々の日課であった。
何が楽しいかと問われれば、自分でもよく分からない。しかしそれも、道具の身となれば話は別。道具、それも楽器の付喪神である彼女にとって、その身をかき鳴らすことは本能的な行動であることに疑いはない。だから、何を考えることもなく、私は散歩しながら琵琶を演奏するのだ。と、弁々はそう考えていた。
「くしゅん」
びゅう、と冷たい秋風が吹き込むと、色鮮やかに染まった木々たちは、互いに擦れあって乾いた音を立てる。それと同時に、その容赦ない寒気は彼女の柔和な肌に突き刺さる訳で、彼女は思わず小さなくしゃみを漏らしてしまった。人の体も不便なものだなと思いながら、彼女は鼻をすすると、再び琵琶をかき鳴らしながら散歩を再開する。
草木の茂る獣道を道なりに進んでいくと、ひどく寂れた石段が見えてくる。歩き周るのも疲れたし、と弁々はその一段目に座ると、開けた木々の間から遠くに見える山々を眺め始める。沈みかけの太陽は、反対側の空にある。こちら側の茜空と言えば、既に夜が降りて来ていて、今にも宵の暗闇に呑みこまれそうな勢いだ。弁々は、目を瞑りながらひとつ琵琶を鳴らした。べらん、と穏やかな、優しい音が漏れたところで、彼女は一つため息をついた。そんな時であった。
「ぶわっくしょん!」
……なんだこの下品なくしゃみは。弁々は顔をしかめた。
せっかく感傷的な気分に浸っていたのに、台無しじゃないか。物の風情も解さない無骨者め、どうせ学のない野良妖怪の仕業だろう、と、彼女は思った。その阿呆面を一度拝んでやろうと思い立った彼女は、紅葉に染まる木々の間に目を細め、一つの人影を視界に捉えたところで、眉間に深い皺を寄せた。
「あーさむい。こんな事なら、もっと厚着してくればよかったかなあ」
一つの影から、ぼそぼそと……いや、ぼそぼそと形容するには、いささか大きすぎる独り言が耳に入る。聞き慣れた声、であった。それはもう、毎日飽きる程に聞かされていては、その声を聞き間違うこともない。顔ははっきり見えないが、自分が切り揃えてやった薄茶色のショートヘアーと、その周りをぐるりと囲む赤い五線譜を見れば、『そいつ』が誰であるかは一目瞭然だ。弁々は一つ溜息を漏らすと、その影を睨み付けながら、立ち上がって声を張り上げた。
「あんた、こんな所でなにやってるの」
「あれ、姉さんだ。奇遇だね、こんな妙な所で出会うなんて」
「それはこっちの台詞よ」
紅く染まった木々の間から、一人の少女が顔を出した。薄茶色の短い髪が、風に揺られてひらひらと動く。挨拶代わりか、ちろんと琴を一弾きすると、弁々に向かって笑顔を浮かべた。歯を剥き出しにした満面の笑みに乗るのは、先ほどの卑俗なくしゃみとは真反対な、琴の雅な音。夕焼けを浴びた紅葉たちは、その色をより深く反射させ彼女らの目に届かせる。そんな風流な情景の中では、彼女の琴の音、実に透き通ったその音は、よく映えているように思えた。
九十九八橋。琴の付喪神である彼女は、血さえ繋がってはいないものの、弁々の唯一無二の妹であった。今は一つ屋根の下で暮らしているのだが、今日顔を合わせたのは今が初めてだな、と弁々は思う。
当然、顔を合わせようしていた訳ではないし、どちらかといえば避けていた節もあったのだが。
「で、あんた何してるの。私のあとを付けて来たとか、そういうのじゃないわよね」
「そ、そんなワケないじゃん。暇だから散歩してただけよ」
「ふーん」
弁々はそれだけ言うと、再び石段に座って山を眺め始めた。妹にはまるで気を留めずに、時折琵琶をかき鳴らしては目を瞑ったり、頭を掻いたりしている。八橋は、姉の渋い顔を横目に見ながら、少しだけ距離を取って石段に座った。再び、ちらりと姉の顔を見やる。明らかに、不機嫌そうな顔。その顔につられて、八橋の笑みも思わず引きつる。
「……もしかして、怒ってる?」
「別に」
「どうみても機嫌悪そうなんだけど」
「あんたがそう思うなら、そうなんじゃないの」
と、強めの口調で、弁々はそう言い放った。特に大声だったということはないが、十分に棘のある口調のおかげで、八橋の笑顔はさらに強張る。二人の間に、しばらく沈黙が降り立った。琵琶の音も琴の音も鳴り響くことはなく、風と植物の揺れる音だけが空間を支配してゆく。八橋は姉の表情を伺いつつ、顔を合わせずに……頭を掻きながら、ゆっくり口を開いた。
「もしかして、昨日のこと?」
「さあ、どうだか」
「もう、姉さんも嫉妬深いんだからー」
「なによ嫉妬って。別にそんなんじゃないし」
嫉妬。弁々は、頬杖をつきながら渋い顔を浮かべ、昨夜の出来事をぼんやりと思い出していた。
そう、あれは昨夜、二人で酒を飲み交わしていたときの話だ。二人には、命の恩人とも呼べる付喪神がいる。堀川雷鼓――和太鼓の付喪神であった彼女は、とにかく、二人が長く付喪神でいられるような方法を編み出し、それを彼女らに伝授した。故に、堀川雷鼓は彼女らの命の恩人であり、二人にとってはそれはもう尊敬に値するほどの先輩付喪神であるのだ。そんな訳で、二人で酒を飲み交わしている中での話題ともなると、音楽のことか酒のことか、はたまた彼女のことか、それぐらいしかない訳で。特に昨夜は、堀川雷鼓の話題が彼女らの会話の大部分を占めていたのだ。
八橋は、雷鼓のことを『雷鼓姐さん』と呼んでいた。が、一方の自分はと言えば、その呼び方をあまりよくは思っていなかった――のだと思う。自分自身、そこに苛立ちを感じる理由が分からないでいた。妹が雷鼓の名前を呼ぶ度に、徐々に、無意識の内に膨らんでいく不満と苛立ちが、確かにそこにあったのだ。そうして、酒の入った昨晩。溜まりに溜まった不満は、いつか爆発してしまうものであって、昨晩は結構な言い争いになってしまったという訳だ。
「あんたが雷鼓さんを何と呼ぼうが、あんたの勝手でしょ。私が口出すことでもないし、嫉妬することでもないわ」
「えー。昨日、散々怒鳴られた気がするんだけど」
「昨日は酔ってたから」
「姉さん悪酔いしやすいもんね」
「ほっとけ」
弁々は、昨晩のおぼろげな記憶を振り返りながら、大きなため息をついた。言い争いとは言っても、弁々が一方的に怒鳴っていたような、そんな気がするのだ。もちろん言い争いのあとどうなったかなど、全く覚えていなかった。が、弁々が次に目が覚めたとき、目の前で大の字に寝ている妹の姿を見て、拭いきれない苛立ちと、妙な申し訳なさを感じたのは確かに覚えている。そのまま何となく、外に飛び出して散歩を始めて、今に至るということだ。
「いや、家出るときはあんた寝てたよね? なんで私のいる場所がわかったのよ」
「だからたまたまだって。必死に探し回ってたとか、そういうのじゃないから」
「……まぁ、何でもいいわ。私そろそろ帰る」
「えっ、もう帰っちゃうの」
「別に私を追って来た訳じゃないんでしょ。あんたはもう少しゆっくりしてけば」
とだけ言うと、弁々は石段から立ち上がった。黄土色のスカートに散った紅葉を払い、妹に背を向けながら石段を昇り始める。かつり、かつりと、一段ずつその歩みを進め、風の止んだその瞬間では、その足音は閑静な森林にやたら大きく響き渡る。
「ちょっと待って」
数段、石の階段を昇ったところで、声をあげたのは妹の八橋であった。同じく石段から立ち上がり、姉の背に向かってほほ笑んでいる。が、その笑みは少しだけ強張り、いつもより幾分か必至そうな表情に見える。が、本人がそれに気付くこともなければ、もちろん背を向けている姉が気付くこともない。弁々は動きを止める。八橋は、姉の背を指さしながら口を開いた。
「姉さん。今暇でしょ」
「帰るって今言ったばかりでしょう」
「いいじゃん。ちょっと付き合ってよ」
「何を付き合えってのよ」
八橋もまた、数段抜かしで階段を駆け上がると、弁々の前に出る。渋い顔表情を浮かべた姉の前で、茶目っ気たっぷりにウインクした。
「ちょっとしたお遊びなんだけど」
遠くに見える山の、さらに向こう側に日が落ちて、辺りは既に真っ暗になっていた。徐々に冷え込んでゆく外気に、弁々は思わず体を震わせる。彼女は石段の最下段に立たされ、同じく最下段にいる八橋と向かい合う形になっていた。弁々は腕を組みながら、少しだけばつが悪そうに、石段や辺りの森に目線を泳がして、八橋と目線を合わせようとはしない。八橋はと言うと、相変わらずへらへらと薄い笑みを浮かべていた。
ちろん、と八橋が一つ琴をかき鳴らすと、赤や青、黄色をした音符が空中に出現した。ぼんやりと淡い光を放つそれは、太陽が落ちてもなおその寂れた石段を明るく照らし出していた。赤い音符からは、赤い光が。青い音符からは、青い光が。ほぼ暗闇に包まれていた石段は、一瞬にしてその姿を大きく変えた。鮮やかで、しかしぼんやりと瞬く光に照らし出される石段は、ひどく幻想的なもの見える。が、そんな摩訶不思議な光景を目にしながらも、弁々は表情を崩さなかった。
「……で、やるの? これ」
弁々は、顔をしかめながら言う。音符の一つが近づくと、彼女はそれを指でぴんと弾く。軽い、琴の音が響いた。
「え、何を今更。姉さんもやる気満々じゃない」
「これのどこがやる気満々なのよ……」
「またまた。ばっちり向かい合ってるじゃん、私たち」
「あんたがそうしろって言うからでしょう」
と、歯を見せて笑う八橋を見て、弁々は大きなため息を一つ付いた。どうしてこうなってしまったのか。妹が必死に頼んでくるものだから、勢いに押されてこんなお遊びに参加することになってしまった。さっさと帰ろうと思っていたというのに、とんだ厄介事に巻き込まれてしまったものだ、と弁々は思った。
――さて、そのお遊びについてだ。八橋の説明によれば、これは『グリコ』と呼ばれる外の遊びらしい。まず、二人でじゃんけんをする。勝った方が、この石段を上がれる。負けた方は、そのまま待機。これを繰り返して、少しずつ石段を昇っていく。最終的に、一番上の段まで先にたどり着いた方が勝ち、という至ってシンプルな遊びらしい。
まぁ、一番上の段には、ぴったり止まれないとその分だけ段を戻されると、なんてオマケ付きのようであるが、そこはあまり気にする所ではない、と八橋はやたらとその部分を強調していた。弁々は話半分に聞いていたのではあるが、そんな姉の様子を気にすることなく、八橋は説明を続けていた。
「で、ここからが面白いポイント。姉さんはいつも最初にグーを出すけど、グーで勝つと石段を三歩しか上がれないのよね」
「あんた喧嘩売ってるの」
「グーは『グリコ』で三歩。ここまでは良いね? 次、チョキで勝ったら『チヨコレート』で六歩。パーで勝ったら『パイナツプル』で六歩。オーケー?」
「……単語が何一つとして分からん。ちよこれえと、ってなに?」
「たぶん、姉さんが想像してるのとは違うと思うけど。外の世界の食べ物だって。パイナツプルも同じ。雷鼓姐さんがそう言ってた」
雷鼓姐さん、という言葉が八橋の口から出た瞬間、弁々の表情は目に見えて険しくなる。八橋は思わず口を噤んだ。が、すぐにいつもの表情……それでも、普段のそれよりは随分機嫌が悪そうではあるが、ともかくそんな表情を取り戻すと、軽い口振りで言った。
「ま、どうでもいいわ。とにかく、勝ち手によって上がれる段数が違うのね。なるほど、そこで駆け引きが生まれるってわけだ」
「そうそう。理解の早い姉を持てて、私もうれしいわー」
「なんだか馬鹿にされてる気がする」
「気のせいだって」
と、今まで以上ににっこりと笑みを見せたところで、八橋は一度、階段の上に顔を向ける。それにつられて、弁々も顔を向けた。宙に浮かぶいくつかの音符弾が、寂れた石段を明るく照らしているために、足を踏み外す心配はなさそうだ。石段の最上段には、大きな鳥居がある。音符のおかげで、その朱色がより鮮やかに映し出されていた。
なるほど、ここは神社だったか。寂れた石段と夕焼けに気を取られ、上の方まで見ていなかったなぁと、弁々は思った。地に足を付けた散歩の中ではなかなか気付くことのできない、こういう発見はまた面白いものだなとしみじみと感じていたところで、その思考は突然に断ち切られた。
「じゃんけんぽい」
「あっ!?」
既に、じゃんけんの勝負は付いていた。八橋の早口めいた掛け声から、手を出すまでは約二秒。そこそこの感傷に浸っていた弁々が反応できるはずもなく、出したのはいつも通りのグー。対する八橋はと言うと、したり顔を浮かべながら、空いた片手で琴を一掻きしていた。その手の形は、案の定パー。
「はい、私の勝ちー。パーで勝ったら六段上がれるからね」
「この卑怯者め」
「ふふん、戦場では手の内を明かした方から死んでいくのだよ」
「……なんか違うわよね、それ」
「へっへっへ」
と笑いながら、大げさに琴を掻き鳴らしつつ石段を上がる八橋。ちんちんちらりん、ちんちらちんと、軽い琴の音が辺りに響き渡る。
六段の石段を上がったところで、再び姉の方を向き、更なるしたり顔を浮かべる。一方の弁々はと言えば、これにはさすがにカチンと来た。が、ここは姉の威厳を見せねばと、寸でのところで踏みとどまって、妹を睨み返してやった。
「さっさと次いくわよ」
「わかってるって。じゃあほら、じゃーんけーんぽい」
ぽい、の掛け声に合わせて、二人の手が同時に出る。八橋の手は、チョキ。弁々はと言うと、またもグーの手を出していた。弁々は勝ち誇った表情を浮かべ、琵琶を一つかき鳴らした。八橋の出したものとほぼ同じ形状をした、色鮮やかな音符が出現する。
「ふん。あんたの手ぬるい音楽で私に勝とうなんて、二世紀は早い」
「音楽は関係ないでしょうが!」
「読みが甘いわね。大方、私がグーを出し渋るとでも思ってたんでしょうけど」
うっ、とわざとらしく声を漏らしながら顔をしかめる八橋。弁々は、ひとつ勝ち誇った顔を浮かべながら、石段に足をかける。一歩上がるごとに妹がそうしたように――多少の意趣返しもこめて、琵琶を掻き鳴らす。べん、べん、べべん。
三歩だけ上ったところで八橋と顔が合うが、彼女の方も再び余裕の表情を取り戻していた。
「ふーんだ。まだ三段私の方が上だもん」
「この程度の差、一瞬でひっくり返るわよ。まだ二戦目だし」
「よし、次ね。じゃーんけーんぽい」
三戦目。弁々の出した手は、チョキ。対する八橋の手は、グーであった。
「へっへっへ」
「そのしたり顔はやめろ。腹立つ」
「いやいや、さっきの姉さんの顔も相当なものだったよ」
八橋は、石段三つを上がるのと同時に、やはり琴を三度掻き鳴らした。
下段の弁々はと言えば、この煽り合いが形式化してきたところで、なんとなく気分が良くなってきているのを感じていた。楽しいのかと聞かれれば、答えは否だ。未だにこのお遊びは面倒の塊ではある。そもそもこのお遊び、始まってからまだ三回戦目だ。始まったばかりなのだから、そんなすぐに気持ちが揺らいでいると考えるだけで、妹に乗せられたような気になって、少しばかり腹立たしい。
しかし、妹の音はとても繊細で、美しいのである。それにつられて、思わずこちらも演奏を始めてしまったことには、言い訳ができないなとも思った。そして結局のところ、今現在悪い気分ではないと感じてしまっている時点で――弁々は、急ぎ表情を固くした。妹には気づかれていないだろうと高を括っていたところで、自分の顔をじっと見つめている八橋の姿を目にして、自然に表情が固まる。が、その妹の表情を見て、思わず弁々は首をかしげた。
もはや、頼りになる灯りは色鮮やかな音符弾と、おぼろげな月明かりのみである。そんな明かりに照らされた妹の表情を見て、弁々はやけに違和感を覚えた。先ほどのしたり顔は少々萎んで、普段より神妙な顔持ちをしている。はて、勝負は有利に動いているのに、何を心配しているのだろう、と弁々が疑問に思ったところで、八橋はゆっくり前を向いて、そして口を開いた。
「ねぇ、姉さん」
「何よ、変な顔しちゃって。らしくないわね」
「この勝負で私が勝ったら、本当に私と、その。仲直りしてくれるのよね」
最上段に顔を向けたまま、八橋はそう呟いた。弁々は、どこか腑に落ちないながらも、妹の背に視線を向かわせる。正面を向いた彼女から、その表情を窺うことは出来ない。いつも以上に小さな背中を見つめながら、九十九弁々は言った。いつも、彼女が自分に向けていたような、屈託のない笑顔を浮かべながら。
「まぁ、そういう条件で始めたし。負けたら従うまでよ。でも、私が勝ったら――」
この、グリコゲームなる遊びを始める前のことだ。単純にゲームをするだけでは面白くないので、何かを賭けようという話になっていた。互いに金の持ち合わせなど無く、賭けられるようなものを持っていないことも分かっていたため、賭け賃代わりに条件を出し合う、という方針はすぐに決まった。そう決めた瞬間、八橋は開口一番にこう言ったのである。
「私が勝ったら、姉さんは私と仲直りをする。どう?」
「どうって何よ」
「どうって、って……この条件で良いのか悪いのかって聞いてるんだけど」
「いや、あんたの出した条件なんだから……私は呑むしかないんだけど。そんなんで良いの?」
弁々の心配をよそに、八橋はどんどん話を進めていく。
「よし、それじゃあ決まりね!」
「別に、仲直りならいつでも出来ると思うんだけどなぁ」
「私が良いって言ってるんだから良いでしょ! ほらほら、姉さんは勝ったら何をするの。早く言わないと始めちゃうよ」
「……じゃあ、私が勝ったら」
正直、妹に望むことなど特にないと、まず一番に思った。しかし弁々は、腕を組みながら考えて――自分でも驚くような短い時間で、その結論に達することができたのである。相変わらず、へらへらと笑う妹に向けて、彼女は言い放った。
「雷鼓さんを『姉さん』って呼ぶのを、止めてもらうわ」
神社の鳥居の周りを、二人の浮かべた音符型弾が、踊り狂う。べんべん、べべん。ちん、ちらりん。二人が石段を上がる度に、それらは数を増してゆく。色とりどりの音符弾は、二人の間をぐるぐる回りながら、徐々にその移動範囲を拡大させてゆく。それらは互いに干渉し合い、引き寄せあったり、反発しあったり、たまに衝突なんかもしている。その度に琵琶と琴の音が辺りに響くのであるから、その音符自体が発する音と光と、さらに彼女たちの演奏も加わって、寂れた神社はもはや彼女らの晴れ舞台、オンステージと化していた。
が、そんな摩訶不思議空間の中で、当の本人たちはと言うと、顔から滝のような汗を流しながら、肩で息をしているような、そんな無様な姿を晒していた。石段を上る度に互いを煽り合うかのように音符弾を生成していた彼女たちであったが、その実それらの制御はほとんど取れていない。もはや、二人の体力は限界に達しようとしているのであった。
二人は同時に石段の下を覗く。既に、夜は降りてきていて、もちろん寂れた石段を照らす灯りは存在しない。が、ここから覗けない高さとなれば――二人は顔を見合わせた。軽く見積もっても、二百段以上の石段を駆けあがってきたのだ。ついでに、その度に頭をフル回転させるわ、軽い演奏をし出すわ、音符弾を生成するわ、のオマケを付けながらである。いくら人智の超えた超自然的存在の妖怪様とは言え、限界はある。それどころか、人の体を手に入れて間もない彼女らにとって、体力の配分などといった細かい作業なんてものは、完全に管轄の外であった。
「や、八橋……別に、疲れたんなら、止めてもいいのよ……?」
「姉さんこそ……降参してもいいんだからね……」
と、息も切れ切れに、二人は言葉を交わした。再び、ほぼ同時に石段の上を見る。激しく動く音符弾の中には、徐々に二人から距離を離し、石段や木々、鳥居なんかに衝突し、そのまま消えてゆくものもある。このまま放っておけば、辺りは暗闇に包まれてしまうであろう。新たな弾を生成する体力も残っていない。その前に、勝負を付けねば。弁々は、八橋は、同時にそう考えた。残す石段はあと僅か。少なくとも、あと三回も試合を重ねれば勝敗は決まるであろう。
僅かにリードしている弁々ではあるが、油断はできない。パーかチョキで勝たれれば、一気に逆転される距離なのだ。ここは慎重に行かねばならぬ、と彼女は考えた。次に、妹の出す手は何だ。向こうは、ここで一気に攻めてくるのではないか。なんと言っても、ここで自分が六歩足を進めれば、もう最上段まであと僅か。向こうとしては、一発逆転を狙っているのだろう。そう考えるのが妥当だ。
「じゃーんけーん」
など、深く考えている余裕はない。八橋の掛け声が始まった。頭の中ですぐさま結論を出し、そして――二人は同時に、手を出した。
「「ぽい!」」
二人の間に、沈黙が訪れる。秋の夜長に吹き込む風は、彼女らの汗ばんだ肌を冷やす。が、それ以上に二人の熱気は上回る。そもそも、勝負に熱中している二人に、外気を気にする余裕などなかった。ぜえぜえ、と肩で息をしながら、八橋は笑顔を浮かべた。
「へ、っへっへへ。姉さんの直線的な音楽には、負けないよ」
そう、八橋の出した手はグー。この場面で、あえて堅実に来たのか――と、チョキを出してしまった弁々は、自分の悪手に心底後悔していた。八橋は、重い足取りで階段を上がる。彼女のすぐ後ろに並ぶ。あと一手でも負けてしまえば、順位は逆転だ。それを分かっているはずなのに、当の弁々の表情はというと、なぜか笑顔になっていた。しかし、相も変わらず、体力的に辛い状況にいるのは互いに同じな訳で、しばらく二人は見つめ合っていた。ちょっと休もう、と弁々が提案しようとした瞬間に、その均衡は妹の手によって破られる。それも、有無を言わさず。
「もう一回行くよ、姉さん」
「え、ちょま」
「じゃーんけーん」
有無を言わさず、次の手。前回の失敗を引きずった弁々は、新たに思考を重ねる暇もなく、無意識の内にグーを出してしまう。それを読んでいたかのように、八橋の出した手はパーであった。八橋は、一歩一歩、重い足取りで石段を上がる。ついに追い抜かれた弁々は、彼女の背を睨み付けるが、八橋もくるりと顔だけこちらに向けると、にかっと歯を見せて笑った。
弁々は妹の顔をじっと見つ返し、そして石段の最上段に視線を動かす。石段の残りはわずか。あと、一手だ。八橋がここで勝ったら、決着がついてしまう。
「どうする姉さん。随分と疲れてるようだけど、まだやる?」
「あ、当たり前でしょ。ほら、次行くわよ」
正直、そろそろ体力の限界だ、と弁々は思った。実際、体力の配分など何も考えていなかった。ただ、全力でじゃんけんをして、全力で石段を駆け上がって、全力で演奏を重ねていただけなのだ。そう思うと、なんだか変な笑いが湧き上がってくる。
幼稚だ、と弁々は思った。幼い少年少女たちが遊びにぶつけるような、そんな全力だった。
しかしこの試合を、そんなつまらない理由で終わらせる気にはなれなかった。最初はこの遊びに参加すること自体渋っていたというのに、不思議なものだ。
弁々は、彼女の笑顔に全力で答えるように、薄い笑みを、勝ち誇った笑みを、少しだけ不器用な笑みを浮かべながら、全力で掛け声を出した。
同時に、八橋の掛け声とも重なってゆく。
二人は、同時に掛け声を出しながら、その手を前に突き出した。
弁々の出した手は、パー。対する八橋の手は、チョキであった。
秋の夜長。冷え込む夜風と、おぼろげな月明かりの下。
ぼんやり光る音符弾と、それに追随する賑やかな琵琶の音、琴の音に包まれた中で、二人の戦いは終わったのであった。
寂れた石段の上、その神社の拝殿はというと、想像以上に立派な出で立ちであった――と、弁々は記憶している。が、そんなものに目もくれず、二人は石段の最上段から足を投げ出し、並んで座っていたのであって、今となってはその記憶はおぼろげだ。どうでもいいことはどんどん忘れていく主義の彼女からすれば、すなわちそれはどうでもいいことの範疇であった。何よりも二人の意識は、自身の体力の限界と、ゲームに向けていた熱狂の、その余韻に浸ることに向いていたのであった。
「あーあ、負けちゃった」
弁々は体を倒し、寝そべりながら言った。
「えへへ、姉さんに勝っちゃった。でも、楽しかったでしょ?」
「まぁ、そうね」
二人は顔を合わせて笑う。
「じゃ、これで仲直りね。恨みっこなしの」
「恨みっこって……別に、仲直りなんてねぇ。私たち、喧嘩してた訳じゃ」
「いーや、駄目だよ。そういう約束だからね! 私たちは、今ここで仲直りをするの!」
「はあ……まぁ、いいんだけど。別に、私はいつも通り接するだけよ。それでいいの?」
「いいのいいの。それが、私の出した条件だから」
八橋は、そこで一度口を閉ざした。が、弁々が何かを言う前に、再び口を開く。
「でさ、姉さんのことなんだけど」
「な、何よ。あんたが勝ったんだから、もう好きに呼んでいいのよ」
「じゃなくて、本当の姉さん。九十九弁々さんのことを言ってるの。雷鼓姐さんは、雷鼓姐さんなんだって」
と、八橋は、またもにかっと歯を見せながら笑ってみせた。
「私の姉さんは、一人だけしかいないんだから」
そうか、と弁々は思った。弁々と八橋に、血の繋がりはない。そもそも、付喪神に血の繋がりなんてものがあるはずがないのだ。ただの道具だった時代に、何故だかずっと近くにあって、一緒に演奏をしたり、互いの演奏を聴いたりしていたのだ。人の形を取るようになってからも、この名前を決めてからも、何故だかずっと近くにいて、そんなことをしていた。なんとなくなのだ。理由もなく、疑うこともなく、彼女らは姉妹であったのだ。それ故、少し考えてると、彼女らの姉妹足る所以は――その土台は、核となる部分は、酷く曖昧で、脆いものだと、そう思えてしまった。弁々は、そこに気付いてしまったのだ。妹が、唯一の姉妹であるはずの妹が、自分以外のものを姉と呼ぶ、そんな取るに足らない理由のせいで。だから、自分は不安でいっぱいだったのだ。
妹が、妹でなくなってしまう気がして。
でも、思い返してみれば、何も気にすることなどないのだ。確かに、その土台は酷く曖昧なものだ。妹とは、血縁関係などない。だが、しかしだ。その土台を作りあげたのもまた、その曖昧な理由なのだ、と弁々は自信を持って言える。二人がずっと一緒にいて、一緒に演奏をして、という、曖昧で頑固で、ある種一番明瞭な理由。それが、脆いなどと一蹴できるか。できるはずがない。それこそが、二人を姉妹足らしめているのだ。なら、それでよい。それが、一番の理由で、決して揺らぐことのない事実であるのだから。
「……なーんだ。思い過ごしだったのね。良かったわ」
「あ、やっぱり嫉妬してたんだ。姉さん可愛いとこあるじゃん」
「ち、違うから! 別にそんなんじゃないから!」
「姉さんはやっぱり可愛いなぁ」
火照った顔をぷいと向けて、弁々は正面に向き直った。
妹はと言えば、横で相も変らぬ笑顔を浮かべているのだろう。顔を見ずともわかる。何も変わらない、いつもの日常だ。私たちは姉妹であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。だからこそ、私は謝らなくてはならない、と弁々はそう思った。
正面を向いたまま、彼女は口を開き。
「ごめんね」
「え、何を急に」
「……い、いや。なんでもないわよ」
そんな姉の言葉を聞いて、八橋は、にっこり微笑みながら――きっと、微笑んでいるのだろう――弁々の手を握った。正面を向いて、その手に気付いているはずもない彼女ではあったが、何故かその手に、なんの違和感も、疑問も、驚きすらも抱かなかった。こうなることを見越していたかのように。
なんて発想に行きついてしまったことに、少しだけ気恥ずかしさを感じる弁々であったものの、妹のその小さな手を、しっかりと握り返したのであった。
「帰りましょう」
「そうだね、姉さん」
「全く、手のかかる子達ねぇ」
夜の空。夜風に白衣をはためかせながら、堀川雷鼓は独り呟いた。神社の拝殿よりさらに上空から、彼女は二人の様子を窺っていた。
今日の朝、彼女は九十九姉妹の住処を訪ねていた。理由は特に無い、全くの偶然である。しかし、家に辿り着いたときには既に姉の姿はなく、そこにはオロオロと慌てふためく妹だけが残されていた。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
――姉さんが、いなくなっちゃった!
泣きながら、八橋は雷鼓に縋り付いてきたのである。彼女らは未だ付喪神になったばかりで、精神が成熟していないのである。少しのことで喧嘩をするし、そのくせ離れ離れになるとすぐこれだ。
雷鼓は、とにかく姉を追いかけるように言った。そうして、もう一度しっかり話し合いなさい、と伝えた。居場所は分からないが……と、そこまで言ったところで、妹は家を飛び出していったのである。居場所もわからないのに、どうやって探すのだろうとは思ったが。実際、日が暮れるまでには見つけられたらしい。狭い幻想郷とは言え、なんの手がかりもなく人ひとりを探すのは、相当骨が折れる作業だ。それでも、彼女は探し当てたのだ。彼女にとって、唯一の姉を。
そして、そこから、あんな遊びを持ち出すとは。
不器用ながら、なかなかやるじゃない――と、雷鼓は思っていた。
「でも、あの石段……」
雷鼓は、地上を見つめる。
今や石段は完全に夜に包まれているものの、先までは九十九の姉妹達がドンパチやっていたのだ。否が応でも石段は見えた。見えたのは間違いがない。だが、石段が見えただけで、その段数を実際に数えるかという話になると、それは別問題だ。
堀川雷鼓は元和太鼓。そして今は、ドラムの付喪神である。それ故、音――特に、リズムに関しては造詣が深い。気持ちのよい音が聞こえれば、半自動的に意識が向く。そのリズムを掴もうとする。
そう、九十九姉妹は、石段を上がるごとに音を出していた。妹の方は、琴の音。姉の方は、琵琶の音。それ故彼女は、この古ぼけた石段の段数を完全に記憶していた。彼女らは、リズムよく階段を上り、そして演奏をしていたのである。
「あの石段、全部で二百十一段なのよね」
堀川雷鼓は、夜空に浮かぶ月を見つめる。
さて、このグリコゲームのルールはどうだっただろうかと、雷鼓は思い出し――思い出すまでもない、という結論にすぐ達した。彼女らにあのゲームを教えたのは、外の世界に精通している妖怪、そして彼女らと親しい関係にある妖怪なのである。つまり、堀川雷鼓その人であるからだ。
最上段に辿りつくためには、ぴったりの歩数を出さないといけない。
でもそんな追加ルールなど、教えた覚えはなかった。
そんなルールがあったら、終わる試合も終わらないじゃないか。
ならば、九十九八橋が勝手に定めたルールだろうと考えるのが妥当。
それじゃあ、あの試合は。
堀川雷鼓は、二人の飛び去った方角を見つめ。
溜息を一つ漏らす。そして、小さく笑いながら、呟いた。
「どうしても勝ちをもぎ取りたかった卑怯者は、どっちなのかな――なんて聞くのは、無粋ってもんよねぇ」
いつの間にか秋も深まり、日が沈むのも随分早くなった。そんな中、何の目的もなく外へ出かけ、深い赤や黄色に染まった紅葉、秋風にふらふらと揺れるススキの群生、子どもたちに囲まれ落ち葉の燃えているのなんかを見かけては、なんとなしに琵琶をかき鳴らすのが、九十九弁々の日課であった。
何が楽しいかと問われれば、自分でもよく分からない。しかしそれも、道具の身となれば話は別。道具、それも楽器の付喪神である彼女にとって、その身をかき鳴らすことは本能的な行動であることに疑いはない。だから、何を考えることもなく、私は散歩しながら琵琶を演奏するのだ。と、弁々はそう考えていた。
「くしゅん」
びゅう、と冷たい秋風が吹き込むと、色鮮やかに染まった木々たちは、互いに擦れあって乾いた音を立てる。それと同時に、その容赦ない寒気は彼女の柔和な肌に突き刺さる訳で、彼女は思わず小さなくしゃみを漏らしてしまった。人の体も不便なものだなと思いながら、彼女は鼻をすすると、再び琵琶をかき鳴らしながら散歩を再開する。
草木の茂る獣道を道なりに進んでいくと、ひどく寂れた石段が見えてくる。歩き周るのも疲れたし、と弁々はその一段目に座ると、開けた木々の間から遠くに見える山々を眺め始める。沈みかけの太陽は、反対側の空にある。こちら側の茜空と言えば、既に夜が降りて来ていて、今にも宵の暗闇に呑みこまれそうな勢いだ。弁々は、目を瞑りながらひとつ琵琶を鳴らした。べらん、と穏やかな、優しい音が漏れたところで、彼女は一つため息をついた。そんな時であった。
「ぶわっくしょん!」
……なんだこの下品なくしゃみは。弁々は顔をしかめた。
せっかく感傷的な気分に浸っていたのに、台無しじゃないか。物の風情も解さない無骨者め、どうせ学のない野良妖怪の仕業だろう、と、彼女は思った。その阿呆面を一度拝んでやろうと思い立った彼女は、紅葉に染まる木々の間に目を細め、一つの人影を視界に捉えたところで、眉間に深い皺を寄せた。
「あーさむい。こんな事なら、もっと厚着してくればよかったかなあ」
一つの影から、ぼそぼそと……いや、ぼそぼそと形容するには、いささか大きすぎる独り言が耳に入る。聞き慣れた声、であった。それはもう、毎日飽きる程に聞かされていては、その声を聞き間違うこともない。顔ははっきり見えないが、自分が切り揃えてやった薄茶色のショートヘアーと、その周りをぐるりと囲む赤い五線譜を見れば、『そいつ』が誰であるかは一目瞭然だ。弁々は一つ溜息を漏らすと、その影を睨み付けながら、立ち上がって声を張り上げた。
「あんた、こんな所でなにやってるの」
「あれ、姉さんだ。奇遇だね、こんな妙な所で出会うなんて」
「それはこっちの台詞よ」
紅く染まった木々の間から、一人の少女が顔を出した。薄茶色の短い髪が、風に揺られてひらひらと動く。挨拶代わりか、ちろんと琴を一弾きすると、弁々に向かって笑顔を浮かべた。歯を剥き出しにした満面の笑みに乗るのは、先ほどの卑俗なくしゃみとは真反対な、琴の雅な音。夕焼けを浴びた紅葉たちは、その色をより深く反射させ彼女らの目に届かせる。そんな風流な情景の中では、彼女の琴の音、実に透き通ったその音は、よく映えているように思えた。
九十九八橋。琴の付喪神である彼女は、血さえ繋がってはいないものの、弁々の唯一無二の妹であった。今は一つ屋根の下で暮らしているのだが、今日顔を合わせたのは今が初めてだな、と弁々は思う。
当然、顔を合わせようしていた訳ではないし、どちらかといえば避けていた節もあったのだが。
「で、あんた何してるの。私のあとを付けて来たとか、そういうのじゃないわよね」
「そ、そんなワケないじゃん。暇だから散歩してただけよ」
「ふーん」
弁々はそれだけ言うと、再び石段に座って山を眺め始めた。妹にはまるで気を留めずに、時折琵琶をかき鳴らしては目を瞑ったり、頭を掻いたりしている。八橋は、姉の渋い顔を横目に見ながら、少しだけ距離を取って石段に座った。再び、ちらりと姉の顔を見やる。明らかに、不機嫌そうな顔。その顔につられて、八橋の笑みも思わず引きつる。
「……もしかして、怒ってる?」
「別に」
「どうみても機嫌悪そうなんだけど」
「あんたがそう思うなら、そうなんじゃないの」
と、強めの口調で、弁々はそう言い放った。特に大声だったということはないが、十分に棘のある口調のおかげで、八橋の笑顔はさらに強張る。二人の間に、しばらく沈黙が降り立った。琵琶の音も琴の音も鳴り響くことはなく、風と植物の揺れる音だけが空間を支配してゆく。八橋は姉の表情を伺いつつ、顔を合わせずに……頭を掻きながら、ゆっくり口を開いた。
「もしかして、昨日のこと?」
「さあ、どうだか」
「もう、姉さんも嫉妬深いんだからー」
「なによ嫉妬って。別にそんなんじゃないし」
嫉妬。弁々は、頬杖をつきながら渋い顔を浮かべ、昨夜の出来事をぼんやりと思い出していた。
そう、あれは昨夜、二人で酒を飲み交わしていたときの話だ。二人には、命の恩人とも呼べる付喪神がいる。堀川雷鼓――和太鼓の付喪神であった彼女は、とにかく、二人が長く付喪神でいられるような方法を編み出し、それを彼女らに伝授した。故に、堀川雷鼓は彼女らの命の恩人であり、二人にとってはそれはもう尊敬に値するほどの先輩付喪神であるのだ。そんな訳で、二人で酒を飲み交わしている中での話題ともなると、音楽のことか酒のことか、はたまた彼女のことか、それぐらいしかない訳で。特に昨夜は、堀川雷鼓の話題が彼女らの会話の大部分を占めていたのだ。
八橋は、雷鼓のことを『雷鼓姐さん』と呼んでいた。が、一方の自分はと言えば、その呼び方をあまりよくは思っていなかった――のだと思う。自分自身、そこに苛立ちを感じる理由が分からないでいた。妹が雷鼓の名前を呼ぶ度に、徐々に、無意識の内に膨らんでいく不満と苛立ちが、確かにそこにあったのだ。そうして、酒の入った昨晩。溜まりに溜まった不満は、いつか爆発してしまうものであって、昨晩は結構な言い争いになってしまったという訳だ。
「あんたが雷鼓さんを何と呼ぼうが、あんたの勝手でしょ。私が口出すことでもないし、嫉妬することでもないわ」
「えー。昨日、散々怒鳴られた気がするんだけど」
「昨日は酔ってたから」
「姉さん悪酔いしやすいもんね」
「ほっとけ」
弁々は、昨晩のおぼろげな記憶を振り返りながら、大きなため息をついた。言い争いとは言っても、弁々が一方的に怒鳴っていたような、そんな気がするのだ。もちろん言い争いのあとどうなったかなど、全く覚えていなかった。が、弁々が次に目が覚めたとき、目の前で大の字に寝ている妹の姿を見て、拭いきれない苛立ちと、妙な申し訳なさを感じたのは確かに覚えている。そのまま何となく、外に飛び出して散歩を始めて、今に至るということだ。
「いや、家出るときはあんた寝てたよね? なんで私のいる場所がわかったのよ」
「だからたまたまだって。必死に探し回ってたとか、そういうのじゃないから」
「……まぁ、何でもいいわ。私そろそろ帰る」
「えっ、もう帰っちゃうの」
「別に私を追って来た訳じゃないんでしょ。あんたはもう少しゆっくりしてけば」
とだけ言うと、弁々は石段から立ち上がった。黄土色のスカートに散った紅葉を払い、妹に背を向けながら石段を昇り始める。かつり、かつりと、一段ずつその歩みを進め、風の止んだその瞬間では、その足音は閑静な森林にやたら大きく響き渡る。
「ちょっと待って」
数段、石の階段を昇ったところで、声をあげたのは妹の八橋であった。同じく石段から立ち上がり、姉の背に向かってほほ笑んでいる。が、その笑みは少しだけ強張り、いつもより幾分か必至そうな表情に見える。が、本人がそれに気付くこともなければ、もちろん背を向けている姉が気付くこともない。弁々は動きを止める。八橋は、姉の背を指さしながら口を開いた。
「姉さん。今暇でしょ」
「帰るって今言ったばかりでしょう」
「いいじゃん。ちょっと付き合ってよ」
「何を付き合えってのよ」
八橋もまた、数段抜かしで階段を駆け上がると、弁々の前に出る。渋い顔表情を浮かべた姉の前で、茶目っ気たっぷりにウインクした。
「ちょっとしたお遊びなんだけど」
遠くに見える山の、さらに向こう側に日が落ちて、辺りは既に真っ暗になっていた。徐々に冷え込んでゆく外気に、弁々は思わず体を震わせる。彼女は石段の最下段に立たされ、同じく最下段にいる八橋と向かい合う形になっていた。弁々は腕を組みながら、少しだけばつが悪そうに、石段や辺りの森に目線を泳がして、八橋と目線を合わせようとはしない。八橋はと言うと、相変わらずへらへらと薄い笑みを浮かべていた。
ちろん、と八橋が一つ琴をかき鳴らすと、赤や青、黄色をした音符が空中に出現した。ぼんやりと淡い光を放つそれは、太陽が落ちてもなおその寂れた石段を明るく照らし出していた。赤い音符からは、赤い光が。青い音符からは、青い光が。ほぼ暗闇に包まれていた石段は、一瞬にしてその姿を大きく変えた。鮮やかで、しかしぼんやりと瞬く光に照らし出される石段は、ひどく幻想的なもの見える。が、そんな摩訶不思議な光景を目にしながらも、弁々は表情を崩さなかった。
「……で、やるの? これ」
弁々は、顔をしかめながら言う。音符の一つが近づくと、彼女はそれを指でぴんと弾く。軽い、琴の音が響いた。
「え、何を今更。姉さんもやる気満々じゃない」
「これのどこがやる気満々なのよ……」
「またまた。ばっちり向かい合ってるじゃん、私たち」
「あんたがそうしろって言うからでしょう」
と、歯を見せて笑う八橋を見て、弁々は大きなため息を一つ付いた。どうしてこうなってしまったのか。妹が必死に頼んでくるものだから、勢いに押されてこんなお遊びに参加することになってしまった。さっさと帰ろうと思っていたというのに、とんだ厄介事に巻き込まれてしまったものだ、と弁々は思った。
――さて、そのお遊びについてだ。八橋の説明によれば、これは『グリコ』と呼ばれる外の遊びらしい。まず、二人でじゃんけんをする。勝った方が、この石段を上がれる。負けた方は、そのまま待機。これを繰り返して、少しずつ石段を昇っていく。最終的に、一番上の段まで先にたどり着いた方が勝ち、という至ってシンプルな遊びらしい。
まぁ、一番上の段には、ぴったり止まれないとその分だけ段を戻されると、なんてオマケ付きのようであるが、そこはあまり気にする所ではない、と八橋はやたらとその部分を強調していた。弁々は話半分に聞いていたのではあるが、そんな姉の様子を気にすることなく、八橋は説明を続けていた。
「で、ここからが面白いポイント。姉さんはいつも最初にグーを出すけど、グーで勝つと石段を三歩しか上がれないのよね」
「あんた喧嘩売ってるの」
「グーは『グリコ』で三歩。ここまでは良いね? 次、チョキで勝ったら『チヨコレート』で六歩。パーで勝ったら『パイナツプル』で六歩。オーケー?」
「……単語が何一つとして分からん。ちよこれえと、ってなに?」
「たぶん、姉さんが想像してるのとは違うと思うけど。外の世界の食べ物だって。パイナツプルも同じ。雷鼓姐さんがそう言ってた」
雷鼓姐さん、という言葉が八橋の口から出た瞬間、弁々の表情は目に見えて険しくなる。八橋は思わず口を噤んだ。が、すぐにいつもの表情……それでも、普段のそれよりは随分機嫌が悪そうではあるが、ともかくそんな表情を取り戻すと、軽い口振りで言った。
「ま、どうでもいいわ。とにかく、勝ち手によって上がれる段数が違うのね。なるほど、そこで駆け引きが生まれるってわけだ」
「そうそう。理解の早い姉を持てて、私もうれしいわー」
「なんだか馬鹿にされてる気がする」
「気のせいだって」
と、今まで以上ににっこりと笑みを見せたところで、八橋は一度、階段の上に顔を向ける。それにつられて、弁々も顔を向けた。宙に浮かぶいくつかの音符弾が、寂れた石段を明るく照らしているために、足を踏み外す心配はなさそうだ。石段の最上段には、大きな鳥居がある。音符のおかげで、その朱色がより鮮やかに映し出されていた。
なるほど、ここは神社だったか。寂れた石段と夕焼けに気を取られ、上の方まで見ていなかったなぁと、弁々は思った。地に足を付けた散歩の中ではなかなか気付くことのできない、こういう発見はまた面白いものだなとしみじみと感じていたところで、その思考は突然に断ち切られた。
「じゃんけんぽい」
「あっ!?」
既に、じゃんけんの勝負は付いていた。八橋の早口めいた掛け声から、手を出すまでは約二秒。そこそこの感傷に浸っていた弁々が反応できるはずもなく、出したのはいつも通りのグー。対する八橋はと言うと、したり顔を浮かべながら、空いた片手で琴を一掻きしていた。その手の形は、案の定パー。
「はい、私の勝ちー。パーで勝ったら六段上がれるからね」
「この卑怯者め」
「ふふん、戦場では手の内を明かした方から死んでいくのだよ」
「……なんか違うわよね、それ」
「へっへっへ」
と笑いながら、大げさに琴を掻き鳴らしつつ石段を上がる八橋。ちんちんちらりん、ちんちらちんと、軽い琴の音が辺りに響き渡る。
六段の石段を上がったところで、再び姉の方を向き、更なるしたり顔を浮かべる。一方の弁々はと言えば、これにはさすがにカチンと来た。が、ここは姉の威厳を見せねばと、寸でのところで踏みとどまって、妹を睨み返してやった。
「さっさと次いくわよ」
「わかってるって。じゃあほら、じゃーんけーんぽい」
ぽい、の掛け声に合わせて、二人の手が同時に出る。八橋の手は、チョキ。弁々はと言うと、またもグーの手を出していた。弁々は勝ち誇った表情を浮かべ、琵琶を一つかき鳴らした。八橋の出したものとほぼ同じ形状をした、色鮮やかな音符が出現する。
「ふん。あんたの手ぬるい音楽で私に勝とうなんて、二世紀は早い」
「音楽は関係ないでしょうが!」
「読みが甘いわね。大方、私がグーを出し渋るとでも思ってたんでしょうけど」
うっ、とわざとらしく声を漏らしながら顔をしかめる八橋。弁々は、ひとつ勝ち誇った顔を浮かべながら、石段に足をかける。一歩上がるごとに妹がそうしたように――多少の意趣返しもこめて、琵琶を掻き鳴らす。べん、べん、べべん。
三歩だけ上ったところで八橋と顔が合うが、彼女の方も再び余裕の表情を取り戻していた。
「ふーんだ。まだ三段私の方が上だもん」
「この程度の差、一瞬でひっくり返るわよ。まだ二戦目だし」
「よし、次ね。じゃーんけーんぽい」
三戦目。弁々の出した手は、チョキ。対する八橋の手は、グーであった。
「へっへっへ」
「そのしたり顔はやめろ。腹立つ」
「いやいや、さっきの姉さんの顔も相当なものだったよ」
八橋は、石段三つを上がるのと同時に、やはり琴を三度掻き鳴らした。
下段の弁々はと言えば、この煽り合いが形式化してきたところで、なんとなく気分が良くなってきているのを感じていた。楽しいのかと聞かれれば、答えは否だ。未だにこのお遊びは面倒の塊ではある。そもそもこのお遊び、始まってからまだ三回戦目だ。始まったばかりなのだから、そんなすぐに気持ちが揺らいでいると考えるだけで、妹に乗せられたような気になって、少しばかり腹立たしい。
しかし、妹の音はとても繊細で、美しいのである。それにつられて、思わずこちらも演奏を始めてしまったことには、言い訳ができないなとも思った。そして結局のところ、今現在悪い気分ではないと感じてしまっている時点で――弁々は、急ぎ表情を固くした。妹には気づかれていないだろうと高を括っていたところで、自分の顔をじっと見つめている八橋の姿を目にして、自然に表情が固まる。が、その妹の表情を見て、思わず弁々は首をかしげた。
もはや、頼りになる灯りは色鮮やかな音符弾と、おぼろげな月明かりのみである。そんな明かりに照らされた妹の表情を見て、弁々はやけに違和感を覚えた。先ほどのしたり顔は少々萎んで、普段より神妙な顔持ちをしている。はて、勝負は有利に動いているのに、何を心配しているのだろう、と弁々が疑問に思ったところで、八橋はゆっくり前を向いて、そして口を開いた。
「ねぇ、姉さん」
「何よ、変な顔しちゃって。らしくないわね」
「この勝負で私が勝ったら、本当に私と、その。仲直りしてくれるのよね」
最上段に顔を向けたまま、八橋はそう呟いた。弁々は、どこか腑に落ちないながらも、妹の背に視線を向かわせる。正面を向いた彼女から、その表情を窺うことは出来ない。いつも以上に小さな背中を見つめながら、九十九弁々は言った。いつも、彼女が自分に向けていたような、屈託のない笑顔を浮かべながら。
「まぁ、そういう条件で始めたし。負けたら従うまでよ。でも、私が勝ったら――」
この、グリコゲームなる遊びを始める前のことだ。単純にゲームをするだけでは面白くないので、何かを賭けようという話になっていた。互いに金の持ち合わせなど無く、賭けられるようなものを持っていないことも分かっていたため、賭け賃代わりに条件を出し合う、という方針はすぐに決まった。そう決めた瞬間、八橋は開口一番にこう言ったのである。
「私が勝ったら、姉さんは私と仲直りをする。どう?」
「どうって何よ」
「どうって、って……この条件で良いのか悪いのかって聞いてるんだけど」
「いや、あんたの出した条件なんだから……私は呑むしかないんだけど。そんなんで良いの?」
弁々の心配をよそに、八橋はどんどん話を進めていく。
「よし、それじゃあ決まりね!」
「別に、仲直りならいつでも出来ると思うんだけどなぁ」
「私が良いって言ってるんだから良いでしょ! ほらほら、姉さんは勝ったら何をするの。早く言わないと始めちゃうよ」
「……じゃあ、私が勝ったら」
正直、妹に望むことなど特にないと、まず一番に思った。しかし弁々は、腕を組みながら考えて――自分でも驚くような短い時間で、その結論に達することができたのである。相変わらず、へらへらと笑う妹に向けて、彼女は言い放った。
「雷鼓さんを『姉さん』って呼ぶのを、止めてもらうわ」
神社の鳥居の周りを、二人の浮かべた音符型弾が、踊り狂う。べんべん、べべん。ちん、ちらりん。二人が石段を上がる度に、それらは数を増してゆく。色とりどりの音符弾は、二人の間をぐるぐる回りながら、徐々にその移動範囲を拡大させてゆく。それらは互いに干渉し合い、引き寄せあったり、反発しあったり、たまに衝突なんかもしている。その度に琵琶と琴の音が辺りに響くのであるから、その音符自体が発する音と光と、さらに彼女たちの演奏も加わって、寂れた神社はもはや彼女らの晴れ舞台、オンステージと化していた。
が、そんな摩訶不思議空間の中で、当の本人たちはと言うと、顔から滝のような汗を流しながら、肩で息をしているような、そんな無様な姿を晒していた。石段を上る度に互いを煽り合うかのように音符弾を生成していた彼女たちであったが、その実それらの制御はほとんど取れていない。もはや、二人の体力は限界に達しようとしているのであった。
二人は同時に石段の下を覗く。既に、夜は降りてきていて、もちろん寂れた石段を照らす灯りは存在しない。が、ここから覗けない高さとなれば――二人は顔を見合わせた。軽く見積もっても、二百段以上の石段を駆けあがってきたのだ。ついでに、その度に頭をフル回転させるわ、軽い演奏をし出すわ、音符弾を生成するわ、のオマケを付けながらである。いくら人智の超えた超自然的存在の妖怪様とは言え、限界はある。それどころか、人の体を手に入れて間もない彼女らにとって、体力の配分などといった細かい作業なんてものは、完全に管轄の外であった。
「や、八橋……別に、疲れたんなら、止めてもいいのよ……?」
「姉さんこそ……降参してもいいんだからね……」
と、息も切れ切れに、二人は言葉を交わした。再び、ほぼ同時に石段の上を見る。激しく動く音符弾の中には、徐々に二人から距離を離し、石段や木々、鳥居なんかに衝突し、そのまま消えてゆくものもある。このまま放っておけば、辺りは暗闇に包まれてしまうであろう。新たな弾を生成する体力も残っていない。その前に、勝負を付けねば。弁々は、八橋は、同時にそう考えた。残す石段はあと僅か。少なくとも、あと三回も試合を重ねれば勝敗は決まるであろう。
僅かにリードしている弁々ではあるが、油断はできない。パーかチョキで勝たれれば、一気に逆転される距離なのだ。ここは慎重に行かねばならぬ、と彼女は考えた。次に、妹の出す手は何だ。向こうは、ここで一気に攻めてくるのではないか。なんと言っても、ここで自分が六歩足を進めれば、もう最上段まであと僅か。向こうとしては、一発逆転を狙っているのだろう。そう考えるのが妥当だ。
「じゃーんけーん」
など、深く考えている余裕はない。八橋の掛け声が始まった。頭の中ですぐさま結論を出し、そして――二人は同時に、手を出した。
「「ぽい!」」
二人の間に、沈黙が訪れる。秋の夜長に吹き込む風は、彼女らの汗ばんだ肌を冷やす。が、それ以上に二人の熱気は上回る。そもそも、勝負に熱中している二人に、外気を気にする余裕などなかった。ぜえぜえ、と肩で息をしながら、八橋は笑顔を浮かべた。
「へ、っへっへへ。姉さんの直線的な音楽には、負けないよ」
そう、八橋の出した手はグー。この場面で、あえて堅実に来たのか――と、チョキを出してしまった弁々は、自分の悪手に心底後悔していた。八橋は、重い足取りで階段を上がる。彼女のすぐ後ろに並ぶ。あと一手でも負けてしまえば、順位は逆転だ。それを分かっているはずなのに、当の弁々の表情はというと、なぜか笑顔になっていた。しかし、相も変わらず、体力的に辛い状況にいるのは互いに同じな訳で、しばらく二人は見つめ合っていた。ちょっと休もう、と弁々が提案しようとした瞬間に、その均衡は妹の手によって破られる。それも、有無を言わさず。
「もう一回行くよ、姉さん」
「え、ちょま」
「じゃーんけーん」
有無を言わさず、次の手。前回の失敗を引きずった弁々は、新たに思考を重ねる暇もなく、無意識の内にグーを出してしまう。それを読んでいたかのように、八橋の出した手はパーであった。八橋は、一歩一歩、重い足取りで石段を上がる。ついに追い抜かれた弁々は、彼女の背を睨み付けるが、八橋もくるりと顔だけこちらに向けると、にかっと歯を見せて笑った。
弁々は妹の顔をじっと見つ返し、そして石段の最上段に視線を動かす。石段の残りはわずか。あと、一手だ。八橋がここで勝ったら、決着がついてしまう。
「どうする姉さん。随分と疲れてるようだけど、まだやる?」
「あ、当たり前でしょ。ほら、次行くわよ」
正直、そろそろ体力の限界だ、と弁々は思った。実際、体力の配分など何も考えていなかった。ただ、全力でじゃんけんをして、全力で石段を駆け上がって、全力で演奏を重ねていただけなのだ。そう思うと、なんだか変な笑いが湧き上がってくる。
幼稚だ、と弁々は思った。幼い少年少女たちが遊びにぶつけるような、そんな全力だった。
しかしこの試合を、そんなつまらない理由で終わらせる気にはなれなかった。最初はこの遊びに参加すること自体渋っていたというのに、不思議なものだ。
弁々は、彼女の笑顔に全力で答えるように、薄い笑みを、勝ち誇った笑みを、少しだけ不器用な笑みを浮かべながら、全力で掛け声を出した。
同時に、八橋の掛け声とも重なってゆく。
二人は、同時に掛け声を出しながら、その手を前に突き出した。
弁々の出した手は、パー。対する八橋の手は、チョキであった。
秋の夜長。冷え込む夜風と、おぼろげな月明かりの下。
ぼんやり光る音符弾と、それに追随する賑やかな琵琶の音、琴の音に包まれた中で、二人の戦いは終わったのであった。
寂れた石段の上、その神社の拝殿はというと、想像以上に立派な出で立ちであった――と、弁々は記憶している。が、そんなものに目もくれず、二人は石段の最上段から足を投げ出し、並んで座っていたのであって、今となってはその記憶はおぼろげだ。どうでもいいことはどんどん忘れていく主義の彼女からすれば、すなわちそれはどうでもいいことの範疇であった。何よりも二人の意識は、自身の体力の限界と、ゲームに向けていた熱狂の、その余韻に浸ることに向いていたのであった。
「あーあ、負けちゃった」
弁々は体を倒し、寝そべりながら言った。
「えへへ、姉さんに勝っちゃった。でも、楽しかったでしょ?」
「まぁ、そうね」
二人は顔を合わせて笑う。
「じゃ、これで仲直りね。恨みっこなしの」
「恨みっこって……別に、仲直りなんてねぇ。私たち、喧嘩してた訳じゃ」
「いーや、駄目だよ。そういう約束だからね! 私たちは、今ここで仲直りをするの!」
「はあ……まぁ、いいんだけど。別に、私はいつも通り接するだけよ。それでいいの?」
「いいのいいの。それが、私の出した条件だから」
八橋は、そこで一度口を閉ざした。が、弁々が何かを言う前に、再び口を開く。
「でさ、姉さんのことなんだけど」
「な、何よ。あんたが勝ったんだから、もう好きに呼んでいいのよ」
「じゃなくて、本当の姉さん。九十九弁々さんのことを言ってるの。雷鼓姐さんは、雷鼓姐さんなんだって」
と、八橋は、またもにかっと歯を見せながら笑ってみせた。
「私の姉さんは、一人だけしかいないんだから」
そうか、と弁々は思った。弁々と八橋に、血の繋がりはない。そもそも、付喪神に血の繋がりなんてものがあるはずがないのだ。ただの道具だった時代に、何故だかずっと近くにあって、一緒に演奏をしたり、互いの演奏を聴いたりしていたのだ。人の形を取るようになってからも、この名前を決めてからも、何故だかずっと近くにいて、そんなことをしていた。なんとなくなのだ。理由もなく、疑うこともなく、彼女らは姉妹であったのだ。それ故、少し考えてると、彼女らの姉妹足る所以は――その土台は、核となる部分は、酷く曖昧で、脆いものだと、そう思えてしまった。弁々は、そこに気付いてしまったのだ。妹が、唯一の姉妹であるはずの妹が、自分以外のものを姉と呼ぶ、そんな取るに足らない理由のせいで。だから、自分は不安でいっぱいだったのだ。
妹が、妹でなくなってしまう気がして。
でも、思い返してみれば、何も気にすることなどないのだ。確かに、その土台は酷く曖昧なものだ。妹とは、血縁関係などない。だが、しかしだ。その土台を作りあげたのもまた、その曖昧な理由なのだ、と弁々は自信を持って言える。二人がずっと一緒にいて、一緒に演奏をして、という、曖昧で頑固で、ある種一番明瞭な理由。それが、脆いなどと一蹴できるか。できるはずがない。それこそが、二人を姉妹足らしめているのだ。なら、それでよい。それが、一番の理由で、決して揺らぐことのない事実であるのだから。
「……なーんだ。思い過ごしだったのね。良かったわ」
「あ、やっぱり嫉妬してたんだ。姉さん可愛いとこあるじゃん」
「ち、違うから! 別にそんなんじゃないから!」
「姉さんはやっぱり可愛いなぁ」
火照った顔をぷいと向けて、弁々は正面に向き直った。
妹はと言えば、横で相も変らぬ笑顔を浮かべているのだろう。顔を見ずともわかる。何も変わらない、いつもの日常だ。私たちは姉妹であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。だからこそ、私は謝らなくてはならない、と弁々はそう思った。
正面を向いたまま、彼女は口を開き。
「ごめんね」
「え、何を急に」
「……い、いや。なんでもないわよ」
そんな姉の言葉を聞いて、八橋は、にっこり微笑みながら――きっと、微笑んでいるのだろう――弁々の手を握った。正面を向いて、その手に気付いているはずもない彼女ではあったが、何故かその手に、なんの違和感も、疑問も、驚きすらも抱かなかった。こうなることを見越していたかのように。
なんて発想に行きついてしまったことに、少しだけ気恥ずかしさを感じる弁々であったものの、妹のその小さな手を、しっかりと握り返したのであった。
「帰りましょう」
「そうだね、姉さん」
「全く、手のかかる子達ねぇ」
夜の空。夜風に白衣をはためかせながら、堀川雷鼓は独り呟いた。神社の拝殿よりさらに上空から、彼女は二人の様子を窺っていた。
今日の朝、彼女は九十九姉妹の住処を訪ねていた。理由は特に無い、全くの偶然である。しかし、家に辿り着いたときには既に姉の姿はなく、そこにはオロオロと慌てふためく妹だけが残されていた。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
――姉さんが、いなくなっちゃった!
泣きながら、八橋は雷鼓に縋り付いてきたのである。彼女らは未だ付喪神になったばかりで、精神が成熟していないのである。少しのことで喧嘩をするし、そのくせ離れ離れになるとすぐこれだ。
雷鼓は、とにかく姉を追いかけるように言った。そうして、もう一度しっかり話し合いなさい、と伝えた。居場所は分からないが……と、そこまで言ったところで、妹は家を飛び出していったのである。居場所もわからないのに、どうやって探すのだろうとは思ったが。実際、日が暮れるまでには見つけられたらしい。狭い幻想郷とは言え、なんの手がかりもなく人ひとりを探すのは、相当骨が折れる作業だ。それでも、彼女は探し当てたのだ。彼女にとって、唯一の姉を。
そして、そこから、あんな遊びを持ち出すとは。
不器用ながら、なかなかやるじゃない――と、雷鼓は思っていた。
「でも、あの石段……」
雷鼓は、地上を見つめる。
今や石段は完全に夜に包まれているものの、先までは九十九の姉妹達がドンパチやっていたのだ。否が応でも石段は見えた。見えたのは間違いがない。だが、石段が見えただけで、その段数を実際に数えるかという話になると、それは別問題だ。
堀川雷鼓は元和太鼓。そして今は、ドラムの付喪神である。それ故、音――特に、リズムに関しては造詣が深い。気持ちのよい音が聞こえれば、半自動的に意識が向く。そのリズムを掴もうとする。
そう、九十九姉妹は、石段を上がるごとに音を出していた。妹の方は、琴の音。姉の方は、琵琶の音。それ故彼女は、この古ぼけた石段の段数を完全に記憶していた。彼女らは、リズムよく階段を上り、そして演奏をしていたのである。
「あの石段、全部で二百十一段なのよね」
堀川雷鼓は、夜空に浮かぶ月を見つめる。
さて、このグリコゲームのルールはどうだっただろうかと、雷鼓は思い出し――思い出すまでもない、という結論にすぐ達した。彼女らにあのゲームを教えたのは、外の世界に精通している妖怪、そして彼女らと親しい関係にある妖怪なのである。つまり、堀川雷鼓その人であるからだ。
最上段に辿りつくためには、ぴったりの歩数を出さないといけない。
でもそんな追加ルールなど、教えた覚えはなかった。
そんなルールがあったら、終わる試合も終わらないじゃないか。
ならば、九十九八橋が勝手に定めたルールだろうと考えるのが妥当。
それじゃあ、あの試合は。
堀川雷鼓は、二人の飛び去った方角を見つめ。
溜息を一つ漏らす。そして、小さく笑いながら、呟いた。
「どうしても勝ちをもぎ取りたかった卑怯者は、どっちなのかな――なんて聞くのは、無粋ってもんよねぇ」
どうしても譲れない姉の名、弁々さんの静かで必死な想いが伝わってもういじらしい。
決して派手ではない付喪神の可愛い張り合いが、とても魅力的でした。