ムラサとルイズ 千年後の潮騒 『http://coolier.sytes.net/sosowa/ssw_l/186/1373548071』
ムラサとルイズ2 地底旅行 『http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/186/1374072241』
……の続きです。前回までのを読んでないと分からないかもしれません。
*****
何が良くなかったかと言うと、やっぱり自業自得なのかなぁ、と思う。
たまには写経をしている聖を邪魔してやんわり叱られたいと気まぐれを起こしたのがよくなかった。
悪事には報いが降りかかるものだ。
私は黙って部屋に忍び込んで、黙って聖の腰に抱きついた。「ムラサ」と咎める声が降ってくるのを待っていたのだけど、聖は、聖もまた黙ったままで身動ぎして、こちらに姿勢を向けた。じっくりと髪を撫でてくれる。表情はわからないけれど、多分微笑んでいる。
やわらかい。細い腰にほどよい肉付き。やわらかくて溶けてしまいそう。その果てしない包容力には魔性のものを秘めているのを知っている。
……特に落ち込んでたり疲れてたりしたわけでもないのだけど。勿体ないなぁと思いながら、私は抵抗出来ずにいた。
そこまでならまだしも。
気がついたとき、私は自室の布団の中にいた。
私は覚醒した時、のんきにも心地のいい目覚めだと思った。いい夢を見たと思った。
けどいつものセーラーを着たまま布団に入っているのに気が付いて、更に布団の傍らのその顔を見て、血の気が引くのを感じた。
彼女は文庫本から顔を上げて目を細めた。
「おはようございます。ムラサさん」
私は村紗水蜜。寺の連中はムラサと呼ぶ。
外は早秋の候。暑さは和らいで、朝は肌寒い。でも日差しがあるので動くと暑い。難儀な季節だった。
「……聖から聞いた?」
「聞いてはいませんが。聖さんがお姫様だっこでムラサさんを運んでいるところに出くわしまして」
私は頭をかかえた。
「びっくりしました。具合が悪いのかと思って」
「幸せそうな寝顔だったよな」
命蓮寺居間。居間にはちゃぶ台に突っ伏して傷心の私と、私が不覚こいた事を聞き付けて元気よく部屋からまろび出てきた黒いワンピース、封獣ぬえと、白いワンピースのおさげの彼女。
彼女はルイズ。ひょんなことから知り合って、何かと親しくしている。
彼女は魔界の住人だ。旅行が好きだと言う彼女は、幻想郷と魔界を繋ぐ定期船を利用して旅を楽しんでいるようだ。
最近は命蓮寺を拠点にすることが多くて、よく出入りしている。私に会うため、というのも気分は悪くはない。
でも、どうしてこんな時に限って来るんだろう。
「忘れて」
「私にはしてくれないんですか?」
「なんで」
ルイズは小首を傾げた。何をして欲しいって言ってるんだろう。わからないから放っておこう。
「そういや地底はどうだった?」
ぬえの横槍。
ルイズと地底に旅行に行ってから、確か数ヶ月は経つだろうか。今更何だこいつは。
「……楽しかったよ」
「何が楽しかったんだ。千年もあそこにいて、今更目新しいものがあるのか」
「いや楽しかったって。異変があってから随分様変わりしてて、変わるもんだなぁって。て言うかあんたも来てたでしょ。地底」
「おや、バレてたか」
ぬえはへらへらと笑っている。
遡るのは地底旅行の話。ルイズと一緒に地底に繰り出したが、ぬえも付いて来ていたらしい。
……「らしい」というのが、ぬえがルイズに正体不明の種をくっつけていて、ぬえの姿を見せられたというだけで実際は本人は見ていなくて……
何を言ってるか分からないかもしれないけれど、私もその奇行の所以は見当付きかねている。
分からない。分からないから放っておこう。
「……ところで、ルイズ。今回はどちらへ?」
「魔界に帰るんです。次の運航まで厄介になります」
「そうだった」
私はまたちゃぶ台に伏せた。……ああ、テンパって頭がうまく働かない。
幻想郷と魔界を繋ぐのはこの聖輦船くらいだ。ルイズは外から帰ってきたのだから、そりゃあ、そうだ。
……そうか、魔界に帰っちゃうんだ。
だったら、次来るのは……また一緒に旅が出来るのはいつになるんだろう。
……いや、そもそも次はあるのかな。
……また誘ってくれないかなぁ、と浮かびかけた本心を、私はうなり声を上げて消し去った。
ルイズは小首をかしげ、ぬえは何が面白いのか奇妙な鳴き声を上げた。
*****
ある朝空を見て、「高いな」と思って季節が変わったのだと感じる。掛け布団の厚さに悩む今日このごろ。
私はここ最近の新聞の束を抱えて、その上に雑巾をのっけて蔵と対峙していた。
今朝はちょっと肌寒く、布団がちょうど心地よくて。「今日は駄目だな」と硬く決意して目を閉じたところ、ぬえの声で「一輪が蔵を片付けろってさ」と、そっと死人に被せるよろしく湿った雑巾を顔に被せられた次第である。
なお、私が身を起こした時には、不快な目覚めと面倒事を提供した悪徳封獣ぬえ氏は既にどこにも見当たらなかった。おおかたぬえが暇そうにしていたのを一輪が見咎めたんだろうけど、それを躊躇なく私にパスする神経はなんともはや。寝覚めは最悪だった。
蔵は特段汚れているわけでもなく、片付いていないわけでもない。私は新聞の束を蔵に放り込んで、本をばらばらとめくって埃を払う。
「めんどくさいなあ」
「君は……」
通りがかったナズーリンに……何か察したのか私の顔を見るや否や踵を返して逃げようとしたナズーリンに、「一輪が蔵を片付けろってさ」と濡れてひたひたになった雑巾で彼女の口と鼻を押さえて水難事故を起こそうとすると、快く手伝ってくれることになった。
「事故ではない。故意が認められる」
「私の能力にかかれば水難事故になるのよ」
「私にかかれば、って言ってるじゃないか。挨拶がわりに命を奪おうとしてくる分ぬえより厄介だよ、君は」
「可愛い冗談じゃん」
「いじめっ子の言い分だ」
ナズーリンは離れた所で木箱を拭いている。
「……まぁ、ポーズでいいんじゃないのかい。さっと拭いたら、見慣れない物でも探して遊びながら昼食まで過ごせばいい」
なんとか私をやる気にさせる言葉を選ぶナズーリン。朝も早くから殺しかけたというのに、根が真面目だ……というわけではなくて。
彼女は妖怪鼠。敵わない相手には敵わないという刷り込みが強い。危うきに近寄らない君子だ。逃げられないと分かれば身内相手でも逆らうことなきを宗とする。
だからと言って私達が遠慮するということはない。彼女の弱さ、それは彼女の生き方だ。私が命を奪う妖怪だということと同じ。奪えるなら奪うし、媚びられたらいい気になって見逃してあげる。お互いの存在の仕方を理解する。人と妖怪の共存というのもそういうことなのだ。私も聖と出会って、ようやくそういう平等というものが分かってきた。
「いじめっ子の言い分だ」
ナズーリンは呟いて、さっと拭いた木箱を雑に放った。
「……『蜃』?」
私はチェックしていた新聞の見出しに目を留めた。
「ねえナズーリン……」
声をかけようと顔を上げると、いつの間にかナズーリンは消え失せていた。まぁいいや。私は姿勢を変えて、改めてその新聞を読み直す。
普段はちゃぶ台に置いてあっても気にも留めない字の羅列は、こういう時には私の気を引いて仕方無かった。その記事の一つに、私は心引かれた。
『里の上空に虹色の空中都市現る』
妖怪の山で地すべりがあって、蜃という蛤の妖怪が現れて空中都市の幻を見せていたという。
蜃気楼……、と反芻して、既に断片でしか残っていない記憶が翻る。
強い日差しに反して海の中は冷えていた。髪からしたたる水がぬるく頬を伝う。海の向こうで島が空に浮かび揺れる。
私が『ムラサ』として物心ついた時には、気まぐれにゆらゆらと揺れていたと思う。飽きるほど見て、「あの島は時たまああやって現れるものなんだ」。そういうものだと思っていた。
……ああ、そうだ。私が陸に引き上げられて……しばらくして、確か聖に教えてもらったんだ。
しんきろう。あれは『蜃』という貝の妖怪の吐く息が見せる幻なんだと。
私は物心ついた時から妖貝に欺かれていたのだ。見慣れたあの島が本当は存在しなかったんだと知って、念縛霊の分際で多少に混乱したんだった。
……実は存在しなかったという、空に揺れる島。
陸に上がって以来見ていない。場所も定かでなくて……やっぱり、改めて確かめに行くほど興味はなかった。
そして……聖が封印されて、地底に封じられて、幻想郷に来て。
……でも、今は。
「――ムラサさん、一休みしませんか?」
不意に、その声が倉を覗き込んだ。
「ルイズ。ちょうどよかった」
ルイズが嬉しそうに目を細めて二つ湯呑みの乗ったお盆をちょっと掲げるが、
「……気が散りすぎでは?」
苦笑いする。何のことかと見回すと、紐のほどけた新聞の束が散乱していた。
「サボってたならお茶なんて要りませんね」
「ああん違うんだって。休憩してたの」
「では今からお勤めですね」
「そ、そうじゃなくてさ!」
私は慌ててルイズの持ったお盆を取って、
「……その」
……あれ、言葉が出てこない。
……何て誘えばいいんだろ。そう言えば、私からルイズを誘った事ってなかった。
……いきなり誘って戸惑わないかな。て言うか次の運航で魔界に帰るんだから。今誘っても困らせるだけじゃ……
「どうしました?」
怪訝におさげを揺らすルイズ。……その瞳は深く青く、私を見ている。
「……なんでもない」
……私はルイズにまたお盆を持たせた。
「もう終わるから。居間行っといて」
ルイズの目から逃れるように私は振り返りしゃがんで、新聞を片付け出して、
「――そうだ、ムラサさん。しんきろうを見に行きませんか」
その背中に声をかけられた。
「しんきろうはしんきろうでも、つってね」
数々の仮面を翻しながら舞っていた能楽師が一礼して、私もややうんざりしながら拍手を返した。
晴天の博麗神社境内。何度か覗きに来たことはあるけれど、今日は随分賑わっている。演目が終わって各々散っていく顔を改めて見ると人間ばっかりだ。妖怪神社と聞いていたけど、ここも様変わりしたんだろうか。
「来てたのか、ルイズ」
一仕事終えた面霊気はやぐらから降りて、私達に気付くとぱたぱたと駆け寄ってきた。
「お疲れさま、こころちゃん」
「どうだったどうだった」
いつもの無表情でばっさばっさと両手の扇子を振り乱して見せるのは秦こころ。頭にはおかめの面がご機嫌そうに揺れている。
ルイズが命蓮寺に出入りするようになって、彼女に一番懐いたのがこころだろう。どんな話にも親身に笑って返してくれる彼女が、テンションの高い喋りたがりにはお気に召したようだ。そして私のことはあんまり眼中にないらしい。
「んー……どういうストーリーだったの?」
「何一つわからなかった!?」
がぁんと大袈裟に頭を抱えてのけぞるこころ。猿飛出の面が宙を舞う。
「いやまあその、ところどころ笑いどころはあったんだけど」
「ほら、ルイズってば宗教戦争のこと知らないし」
「教えておいてくれないと困る」
困る、とこころは翁の面を掴まえて悲しげにこっちをじっと見た。
「わたしがいちいち説明してたら格好悪いだろう」
「確かに」
先の能のストーリーはいつぞやの宗教戦争についてだ。
宗教戦争と言っても各派の代表が好きに暴れていただけだけど。その登場人物を大袈裟にデフォルメしたものである。
この演目を「心綺楼」という。ルイズが帰る前に是非見に来て欲しいと、こころが頼んでいたらしい。
「でももう少し、予備知識なしで見れるようにしたって良いんじゃないかしら。前より格段に分かりやすくなったけどさ」
「譲れない表現もある。過度な分かりやすさは粋や意味を削って嫌だ。演目の意味まで変えてしまう」
演者なりのこだわりがあるらしい。
「理解されないとショックなのに分かりやすくするのは嫌かぁ……」
「そこはもうどうか寛大な心で許してほしい。て言うか別に貴様に理解されなくてもショックではない」
……さいで。こころは私に言葉の薙刀で斬りつけざま、返す手で早々にルイズと話し出してしまった。
息をついて手持ち無沙汰に見回すと、はたと目が合った人物がいた。
それは木にもたれている天狗だった。手帳を片手に、これまた手持ち無沙汰げにペンを器用に回している。
「新聞屋さん」
近寄りながら声をかけると、天狗も「どうも」と愛想の良い顔をした。
「取材?」
「ええ、こころさんに。お喋りが済んでからで良いですよ」
指の間でペンがくるりと回る。
確か、うちの新聞はこの天狗が書いていたと思う。
新聞勧誘は響子がちゃんと愛想よく断ってくれていたのに、通りがかった星が「新聞は読み比べるものですよ」などと訳知り顔で余計な横槍を入れたところを見たのを覚えている。感激した天狗が石鹸を差し入れに来たのはその次の日の一回だけだった。
いやまあ、そんなことはどうでもよくて。
「蜃について訊きたいんだけど」
「蜃ですか? ああ、もしかして記事の話ですか」
一昔前の記事にも関わらず、流石の記憶力だ。話が早い。
「会うとしたらどこかな」
「この前の地すべりは妖怪の山麓の南側ですがねえ、麓とはいえお勧めしませんよ」
当然白狼天狗が巡回しているんだろう。天狗の手のペンが回る。
「なんとかならないかな」
「なりません。折角記事に興味を持ってくださったなら……と言いたいところですが、おおかたお掃除中にでもたまたま見つけたのでしょう? いつもは読んでいないのに」
新聞屋は苦笑いした。バレてるし。
「季節とかあるの? いつもは見れなかったと思うんだけど」
「あややや、ご存知でしたか。そう言えばあなたは海の地縛霊でしたね。蜃は春から初夏にかけて活発になるようですよ」
「あっちゃあ……完全に時期逃してるじゃない」
「でもまぁ、当然息はしていますから。会えれば小さな蜃気楼は見れるかもしれません」
相変わらず新聞屋は愛想よく笑っている。
「親切ね、新聞屋さん」
「たまには良いものですよ。幻の楼閣を眺めながらお酒を楽しむのも」
新聞屋さんは回るペンを受け止めた。
「……まあいいや、哨戒に遭ったって。犬は水が苦手よね」
私は柄杓を取り出し、揺らして見せて、
「フフフフッ! 犬はね」
「鳥もだっけ」
私は柄杓を掲げ、弾幕の渦が境内に爆ぜた。
*****
何故旅をするのかとルイズに訊いたことがある。
ルイズは「理由は特に。じっとしてられない性格だからでしょうか」と答えた。答えた後、「妹たちにもよく言われます」と続けた。
そしてその後少し考えて、「自分の知らない景色を見ていると、自分の輪郭がわかる気もします」……と、ちょっと照れくさそうに言ったのだった。
輪郭とは何だろう。ルイズもよく分からずに言ったのかもしれない。
私には分からない話かもしれない。幽霊に輪郭も何もないのだから。ふわふわととりとめもなく過ごして、昨日の夕飯の記憶も怪しい。
「――ムラサさん」
日を遮る影があった。大の字に寝て空を仰いでいる私をルイズが覗き込む。
「……助けてよ」
「喧嘩を振ったのはムラサさんでしょう?」
もう、とルイズが眉を寄せる。
ごもっとも。しかも木っ端微塵にやられてちゃあ全く格好がつかない。流石は幻想郷最速を謳う天狗。超至近距離からの不意討ちを避けられたらもう駄目だった。
それよりも。人間がまだ沢山残っている境内で弾幕を始めてしまったものだから、巫女の怒り狂う様は凄かった。
涼しい顔で勝ち誇る天狗が巫女に撃ち落とされたのは痛快だったけれど、既に撃墜されていた私まで共犯とばかり、平等に虐待を受けてしまったのはあまりにも余計だった。
いてて、と呻きながら身を起こす。……ああ、でも。ボコボコにされてどこか吹っ切れてしまったのを感じる。すんなりとそれを言うことが出来た。
「ルイズ、蜃気楼を見に行こうよ」
「ごめん、もう帰ろっか」
「ムラサさん……」
木々の切れ間の光に暗さが混じってきたのに気付いて、私はようやく切り出した。
新聞屋さんに教えられた通り、妖怪の山の里がわの麓からスタート。まずは飛びながら地滑りの跡を探した。それらしい岩肌を晒した部分はいくつかあったものの、貝殻の欠片すら見つからなかった。あとはもうひたすら道なき道の捜索。あてもない道程は、薄くあった予想の通り何の成果ももたらさなかった。
「疲れちゃいましたね。山登りなんて久しぶりですから」
ルイズが気遣うように笑う。
「いいんだよ。私が間抜けだった」
私は深く息をはいて、岩に腰かけた。
ルイズと旅をする口実を探して、蜃気楼見物なんてちょうどいいものを見つけたと思った。でも茂みに分け入って山狩りなんてのはだいぶ毛色が違うじゃないか。
「……折角ですから、神社にお参りに行きませんか? この山にも神社があるんですよね?」
ルイズの提案。私はこっくりと頷くしかなかった。
守矢神社。既に日は暮れて、宵闇に大きな注連縄が見下ろしていて威圧的だった。落ち葉が秋風にあおられて、かさかさと寂しく音を立ている。
途中哨戒天狗に横槍でも入れられるかと思ったら、存外あっさりと着いてしまった。敵意のある視線は感じたものの、神社を目指す分には見逃してくれるらしい。
それよりルイズの顔色が気になって仕方なかった。特段堪えた様子はないし、多分この徒労については実際気にしていないのだろうけど、それでもその横顔を窺わずにはいられない。そしてそんな視線は気付かれているかもしれない、ということが更に私を嫌にさせた。
「行けたら、そのうち」海を見に行こうと約束した。蜃気楼というのがちょうど良いと思ったのだ。約束が果たされてしまうこともなく、その海の幻は私とルイズを旅へと連れていってくれるに違いないと思った。……でもこれに懲りちゃったら? ルイズに限ってそれは無いとは思うけど……むしろ私は? もしかしたら今後すごく誘いづらいのでは?
「――あれ、あなたは」
そんな風に益体もない思いを心の中で訴えながら拝殿前で手を合わせていると、気配を感じたのか緑色のほうの巫女さんがひょっこりと様子を見に来た。いつぞや見た顔……どころか、いつぞや退治された相手だった。
「迷いのある顔をしていますね。仏様は導いてはくれませんでしたか?」
何か答える前に、巫女さんがしたり顔で言った。
「土左衛門に導きを見出したことはないねぇ」
「……大変ですね、聖さんも」
「うえ……」
巫女さんが眉をひそめて、さらに横のルイズが呻いた。駄目でしたか、船幽霊ジョーク。実に軽妙に返せたと思ったのだけど、二人とも引かせると流石にちょっと凹んでしまう。
「ほっとけーい、つって」
「で、何故こんな時間に? 本当に改宗というわけでもないでしょうに」
「観光です」
「……観光よ」
「……なんで?」
巫女さんははてなマークを顔いっぱいに浮かべている。なるほど、こういう反応になるんだろうなぁ。この狭い世界で、神社に来ることを参拝と言わずに観光だと言い張る輩は居なかったんだろう。
「――観光! 良いじゃないか、歓迎しようじゃない」
その時、威勢のいい声が巫女さんの後ろから。拝殿の裏から色々とでかい人影が姿を現した。
「神奈子様? 何でわざわざ注連縄背負って……夕飯はもう召し上がったんですか?」
「早苗、どうしてわざわざ意気を削ぐような事を言うの」
注連縄を背負った長身の女は大仰に肩を落とした。注連縄に結ばれた紙垂がわさわさと揺れた。
「さておき、記念すべき観光客第一号プラス二号。願ってもないことだわ。これを機に目算が付いたらロープウェーも完成を急げるわよ」
「ロープウェー? ロープウェーを造ってるんですか?」
「おお、知ってるのかい? これが出来れば麓と神社を繋げるの。賑わうに違いないわ! 空を渡すなら天狗も手を出せない。特に秋は紅葉の景色が見事でねえ、静葉の職人技が光るところで……」
「わぁ……! 見たいです!」
ルイズが食いついて、神奈子さんが胸を反らせて揚々と語り出した。
「ろーぷうぇい」
「参道を空に架けるんですよ。ゴンドラ……えーと、籠に人を乗せて、ロープで運ぶんです」
置いてけぼりになってしまった私が巫女さんに尋ねると、やや諦めたように笑いながら答えてくれた。
「大変じゃない? ロープをたぐる人が」
「人力じゃないですよ。電力……結局電気で動かすつもりなのかな? そのへんは私も聞かされてないんですけど」
「――おっと立ち話も何だ、上がりなさいな。続きは飲みながらだ。貴重な実験台として、夜通しもてなされて貰おうか!」
「泊めてくれるんですか?」
「観光に宿はつきものでしょう。しかしそうね、本格的に人が出入りするようになれば宿も建てたいな。いっそ天狗連中も巻き込んでツアーなんて形にすれば……」
「ツアーなら魔界にもあるんですよ。出来たら良いですねぇ、紅葉ツアーなんて」
「ああ、話が分かると思った! 見ない顔だと思ったら魔界人だったのね。魔界人には信仰の対象なんてあるの? 営業に行く価値は――」
二人で盛り上がりながら行ってしまった。
やはり置いてけぼりの私と巫女さんはそれを見送って、
「……とか言いながら大げさにもてなして貫禄を見せるのが好きなだけなんですよ。奉納品とか外の世界の食べ物を、「これが美味しいあれが美味しい。これは食えるか? ……いよぉーし、いけるクチじゃないか!」なんて。一緒に飲みたいだけですよ」
「めっちゃ良い人じゃん」
「神様ですから」
「『蜃』? これのことですか?」
早苗さんはちゃぶ台にコトンと貝を置いた。
「「えええええええ!?」」
ルイズと二人して身を乗り出す。
勧められるがままに酒瓶を一本空けて、……それが大変美味しかったので「うまいですねぇうまいですねぇ」などと調子づいてもう一本空けて、ようやくここに来た経緯を話したのだけど。蜃の話をすると、当然のように早苗さんの袖から貝がまろび出てきた。
「な、なんで……?」
「ペットのしんちゃんです。天狗の蜃狩りにご一緒した時に、折角だから小さいのを一つ拝借してきたんです」
「ペットが貝って」
いつの間にか宴会に加わっていたカエルっぽい神様が、盃を長い舌で舐めながら口を挟んだ。
「だってみんな飼ってるんですもん! 霊夢さんも魔理沙さんも、咲夜さんだって飼ってるんですよ!!」
「言いたいことは分かるけど。貝って」
「ヘビやUMAよりかは格段に可愛いですよ! 餌は要らないですしフンもしない! 小人はレア過ぎますしぃ……」
「早苗、ヘビは可愛いんだよ」
神奈子さんが神妙に言い添えた。
「いやそれより、蜃……狩り?」
「私は反対したんだけどねぇ。天狗が人も妖怪も呼ぶからって一斉に駆除したのよ。ホント、引きこもりの天狗どもは風情がなくてやだわ」
神奈子さんは面白くなさそうに頬杖をついている。蜃がそれほどの数現れていたのも勿論、それより聞き逃せないことがあった。
「天狗が、蜃狩り……って」
……騙された!? あの新聞屋、一言もそんな事は言わなかったじゃないか。何が親切な天狗さんだ。知ってて黙ってたんじゃないか!
「……ここだけの話ですよ?」
私の内心を知ってか知らずか、少し勿体ぶって早苗さんは顔を寄せてきた。
「私が蜃狩りに参加した理由。蜃を集めるフリをして、文さんと一緒に埋め直してたんです。流石に巨岩ほどもあるのは無理でしたけど。こんな小さな『なりかけ』なら何とかなります」
早苗さんは蛤をくるくると指で回し出した。
「……多分バレてましたけどね。白狼天狗は鼻が利きますし。埋まってる分には煙は吐かないですから、見て見ぬふりをしてくれたのかもしれません。多分天狗のお偉いさんが言い出したことで、大半渋々やってたのかもしれませんね」
「ああ、そう……」
……風情を解する天狗だったわけだ。
始終愛想笑いでペンを回していた彼女を思い返す。肝心なことを黙っていたのは何だろう。建前があって話せなかったとか、それとも単なる悪戯心だろうか。
「いやあ、私は河童連中を見習うべきだと思うがねぇ。悪食どもが目を輝かせて妙ちきりんな機械で根こそぎガリガリ行くのは実に痛快だった。折角のビンテージもんなんだから食わなきゃソンだよ。……なんて言ってたら食べたくなってくるね。網で焼いて、醤油を垂らしてねぇ」
「諏訪子様わりとよくそれ仰ってますけど、神奈子様も私も引いてますからね。妖怪ですよこの子」
「妖怪だからって食わず嫌いは良くないよ。ぬっぺほふなんかウマくて栄養満点だってんで人気じゃん」
諏訪子さんが肩をすくめたのを見て、私はおもむろに貝に手を伸ばした。
少しずっしりとしている。両手のひらに収まる程度で、褐色の筋が年輪のように入った、普通の蛤のように見える。
「息は吐くんですか?」
ルイズが尋ねた。覗き込んできた彼女にそれを渡す。興味深そうにその感触を確かめているルイズを見て、何だかどこかホッとしてしまった。
「それが最初見たきり吐かないんですよ。暗くしたり静かなところに置いてみたり水に漬けてみたり埋めてみたり、色々試してみたんですけど」
「もう死んでるんじゃない? 早苗が乱暴にするからさぁ」
「そんなこと、ない、です……よね?」
「知らんよ」
諏訪子さんは盃をあおって、ぐびりと喉を鳴らした。
*****
――潮騒を聞いた。
私は飛び起きる。飛び起きて、寝ていたことに気が付いて、見慣れない部屋にいることに気が付いて――ここに至る経緯が蘇ってきて。何か夢を見ていたのかもしれないと一応の合点が行った。
……夢の内容は思い出せなかった。そもそも本当に夢を見たのかすら。でも、懐かしい音を聞いたと思う。
耳に触れたあれは、波の音……だった、なんて突飛な事を考えて首を捻った。そんな千年前の記憶の音、聞こえるわけがないんだから。
辺りは暗い。開けっ放しの雨戸から月の光が注いでいる。秋の虫の声がする。冷えた風と、いつの間にか掛けられていた毛布に気付いて私はガラス戸を閉めに行った。元の場所に戻って来ながら毛布を頭に被って、目を擦りながらあたりを見回した。
柱にもたれて寝ている神奈子さん、その膝を枕にして珍妙な帽子を顔に被って動かないのは諏訪子さん。私のすぐそばで丸まって、静かに寝息を立てているルイズ。いずれも毛布がかけられている。あれだけ散乱していた酒瓶や食器の類がなく、早苗さんの姿も見えないのは彼女が全部片付けてくれて、今は自分の部屋で寝ているからだろうか。
そして、片付けられたちゃぶ台の上で一つ佇んでいる蛤。
私はちゃぶ台にうつ伏せて、ぼんやりとその姿を眺めた。
月明かりに白く映える貝。その姿から煙が立つ姿を目で思い描く。幻を見せるという息。その幻は何の幻なのだろう。私の記憶か、それともこいつの記憶か、はたまた全く出鱈目の景色か。
「……お前も元々は海にいたんでしょ」
蛤をつついて揺らす。私を旧友と認めてくれて幻を見せてくれたなら、なんて夢想する。あるいはさっき耳に触れた潮騒はこいつの記憶だった、とか。
そこまで考えて、不意に空に揺れる島のことを思い出した。あの幻が、海に縛られていた私を唯一見守っていたものだったのかも……なんて。
……まぁ、でも。頑なに口を閉ざす貝を見ていると、そんな幻想も悪くないと思った。
「――ムラサさん」
下から声がして、身を起こして視線を移した。仰向けになったルイズが私を見上げていた。その肌も、月明かりに白く。金の髪が乱れて、酔いが残っているのか頬は少し上気していた。
私は黙って笑みを返して、また貝に目を戻す。
「……ルイズにも見せたかったな、蜃気楼」
「え? 見たんですか?」
ルイズはのそのそと身じろぎしてちゃぶ台に乗り上げた。ちょっと咳をして、私と同じ姿勢でうつ伏せる。
「……次は、見れるといいよね」
そんなルイズの気の抜けた姿に笑みをこぼしながら、呟く。
「そうですね」
私の言葉から何か感じ取られてしまったのか、少し間があった。虫の声がガラス戸の向こうで薄く鳴っているのが聞こえた。
私はおもむろに蛤に手を伸ばして、取った。それを耳に当てる。
……耳がひんやりするだけ。貝は閉じて何も語らない。
「……何も聞こえないね」
苦笑いしてちゃぶ台に戻す。
――と、ルイズは、
「……ルイズ?」
「ふ、……ふふっ……」
肩を震わせて顔を腕にうずめたかと思うと、
「――きゃはははははっ!! 本気だったんですか今の!? おもむろに何をするかと思えばっ……!」
大口を開けて笑いだした。
「ムラサさん……っ、……ふふ、貝から波の音がするというのは、貝を耳を被せるとその反響音が波の音に聞こえるねっていうだけで……アンニュイな顔で二枚貝をそのまんま耳に当てたって……っ! ふふ、くふふふふっ……!」
目尻に涙を浮かべて腹を抱えるルイズの様子にしばらくポカンとして、
「……ルイズーーっ!!」
「きゃはははは!! ごめんなさっ……あははははははっ!!」
にくたらしく愉快に笑い続けるルイズをぺしぺしと叩いて揺さぶって。ルイズが手のひらで私の平手を防いだり、私の腰に抱きついて攻撃を防いだり。
……そんな風に、いつの間にか目を醒ましていた二柱がしょうもなさそうに見ているのに気付くまで、私たちはじゃれ合っていた。
*****
「でも、次の予定よりも。今か、もしくは昔の……。そんな話がしたい気分なんです」
神奈子さんと諏訪子さんの視線に耐えられなくなって、私たちはそそくさと部屋を貰って大人しく寝ることにした。
湯浴みして着替えて、先に布団に入ったルイズは不意に口を開いた。
私はその脇に座って、ルイズを覗き込んだ。ルイズもこちらを向いて、微笑む。
「今日はとっても楽しかったですから」
「ん、ん……」
微笑みは障子から注ぐ月明かりを映して白く、優しく。潤んだ眼は吸い寄せられるようで。潤った唇は最早魔力を帯びているように見えた。
――唇、いや、待って。いま何しようとしたんだ私。
私は無理やり視線を引き剥がして、がばっと布団を被った。
……それからちょっと思い直して、すっと手を伸ばして。ルイズの手を握って肩を寄せた。
それから。その青い眼を覗き込んだ。深い海のような、深く澄んだ、青い目。これにはルイズも面食らったのか、一瞬息を飲んで頬を染めた。構わず私はもう片方の手も握った。
「私の話をするよ」
囁くように私は語りかける。
遠く、さざなみの音が聞こえた気がした。
ムラサとルイズ2 地底旅行 『http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/186/1374072241』
……の続きです。前回までのを読んでないと分からないかもしれません。
*****
何が良くなかったかと言うと、やっぱり自業自得なのかなぁ、と思う。
たまには写経をしている聖を邪魔してやんわり叱られたいと気まぐれを起こしたのがよくなかった。
悪事には報いが降りかかるものだ。
私は黙って部屋に忍び込んで、黙って聖の腰に抱きついた。「ムラサ」と咎める声が降ってくるのを待っていたのだけど、聖は、聖もまた黙ったままで身動ぎして、こちらに姿勢を向けた。じっくりと髪を撫でてくれる。表情はわからないけれど、多分微笑んでいる。
やわらかい。細い腰にほどよい肉付き。やわらかくて溶けてしまいそう。その果てしない包容力には魔性のものを秘めているのを知っている。
……特に落ち込んでたり疲れてたりしたわけでもないのだけど。勿体ないなぁと思いながら、私は抵抗出来ずにいた。
そこまでならまだしも。
気がついたとき、私は自室の布団の中にいた。
私は覚醒した時、のんきにも心地のいい目覚めだと思った。いい夢を見たと思った。
けどいつものセーラーを着たまま布団に入っているのに気が付いて、更に布団の傍らのその顔を見て、血の気が引くのを感じた。
彼女は文庫本から顔を上げて目を細めた。
「おはようございます。ムラサさん」
私は村紗水蜜。寺の連中はムラサと呼ぶ。
外は早秋の候。暑さは和らいで、朝は肌寒い。でも日差しがあるので動くと暑い。難儀な季節だった。
「……聖から聞いた?」
「聞いてはいませんが。聖さんがお姫様だっこでムラサさんを運んでいるところに出くわしまして」
私は頭をかかえた。
「びっくりしました。具合が悪いのかと思って」
「幸せそうな寝顔だったよな」
命蓮寺居間。居間にはちゃぶ台に突っ伏して傷心の私と、私が不覚こいた事を聞き付けて元気よく部屋からまろび出てきた黒いワンピース、封獣ぬえと、白いワンピースのおさげの彼女。
彼女はルイズ。ひょんなことから知り合って、何かと親しくしている。
彼女は魔界の住人だ。旅行が好きだと言う彼女は、幻想郷と魔界を繋ぐ定期船を利用して旅を楽しんでいるようだ。
最近は命蓮寺を拠点にすることが多くて、よく出入りしている。私に会うため、というのも気分は悪くはない。
でも、どうしてこんな時に限って来るんだろう。
「忘れて」
「私にはしてくれないんですか?」
「なんで」
ルイズは小首を傾げた。何をして欲しいって言ってるんだろう。わからないから放っておこう。
「そういや地底はどうだった?」
ぬえの横槍。
ルイズと地底に旅行に行ってから、確か数ヶ月は経つだろうか。今更何だこいつは。
「……楽しかったよ」
「何が楽しかったんだ。千年もあそこにいて、今更目新しいものがあるのか」
「いや楽しかったって。異変があってから随分様変わりしてて、変わるもんだなぁって。て言うかあんたも来てたでしょ。地底」
「おや、バレてたか」
ぬえはへらへらと笑っている。
遡るのは地底旅行の話。ルイズと一緒に地底に繰り出したが、ぬえも付いて来ていたらしい。
……「らしい」というのが、ぬえがルイズに正体不明の種をくっつけていて、ぬえの姿を見せられたというだけで実際は本人は見ていなくて……
何を言ってるか分からないかもしれないけれど、私もその奇行の所以は見当付きかねている。
分からない。分からないから放っておこう。
「……ところで、ルイズ。今回はどちらへ?」
「魔界に帰るんです。次の運航まで厄介になります」
「そうだった」
私はまたちゃぶ台に伏せた。……ああ、テンパって頭がうまく働かない。
幻想郷と魔界を繋ぐのはこの聖輦船くらいだ。ルイズは外から帰ってきたのだから、そりゃあ、そうだ。
……そうか、魔界に帰っちゃうんだ。
だったら、次来るのは……また一緒に旅が出来るのはいつになるんだろう。
……いや、そもそも次はあるのかな。
……また誘ってくれないかなぁ、と浮かびかけた本心を、私はうなり声を上げて消し去った。
ルイズは小首をかしげ、ぬえは何が面白いのか奇妙な鳴き声を上げた。
*****
ある朝空を見て、「高いな」と思って季節が変わったのだと感じる。掛け布団の厚さに悩む今日このごろ。
私はここ最近の新聞の束を抱えて、その上に雑巾をのっけて蔵と対峙していた。
今朝はちょっと肌寒く、布団がちょうど心地よくて。「今日は駄目だな」と硬く決意して目を閉じたところ、ぬえの声で「一輪が蔵を片付けろってさ」と、そっと死人に被せるよろしく湿った雑巾を顔に被せられた次第である。
なお、私が身を起こした時には、不快な目覚めと面倒事を提供した悪徳封獣ぬえ氏は既にどこにも見当たらなかった。おおかたぬえが暇そうにしていたのを一輪が見咎めたんだろうけど、それを躊躇なく私にパスする神経はなんともはや。寝覚めは最悪だった。
蔵は特段汚れているわけでもなく、片付いていないわけでもない。私は新聞の束を蔵に放り込んで、本をばらばらとめくって埃を払う。
「めんどくさいなあ」
「君は……」
通りがかったナズーリンに……何か察したのか私の顔を見るや否や踵を返して逃げようとしたナズーリンに、「一輪が蔵を片付けろってさ」と濡れてひたひたになった雑巾で彼女の口と鼻を押さえて水難事故を起こそうとすると、快く手伝ってくれることになった。
「事故ではない。故意が認められる」
「私の能力にかかれば水難事故になるのよ」
「私にかかれば、って言ってるじゃないか。挨拶がわりに命を奪おうとしてくる分ぬえより厄介だよ、君は」
「可愛い冗談じゃん」
「いじめっ子の言い分だ」
ナズーリンは離れた所で木箱を拭いている。
「……まぁ、ポーズでいいんじゃないのかい。さっと拭いたら、見慣れない物でも探して遊びながら昼食まで過ごせばいい」
なんとか私をやる気にさせる言葉を選ぶナズーリン。朝も早くから殺しかけたというのに、根が真面目だ……というわけではなくて。
彼女は妖怪鼠。敵わない相手には敵わないという刷り込みが強い。危うきに近寄らない君子だ。逃げられないと分かれば身内相手でも逆らうことなきを宗とする。
だからと言って私達が遠慮するということはない。彼女の弱さ、それは彼女の生き方だ。私が命を奪う妖怪だということと同じ。奪えるなら奪うし、媚びられたらいい気になって見逃してあげる。お互いの存在の仕方を理解する。人と妖怪の共存というのもそういうことなのだ。私も聖と出会って、ようやくそういう平等というものが分かってきた。
「いじめっ子の言い分だ」
ナズーリンは呟いて、さっと拭いた木箱を雑に放った。
「……『蜃』?」
私はチェックしていた新聞の見出しに目を留めた。
「ねえナズーリン……」
声をかけようと顔を上げると、いつの間にかナズーリンは消え失せていた。まぁいいや。私は姿勢を変えて、改めてその新聞を読み直す。
普段はちゃぶ台に置いてあっても気にも留めない字の羅列は、こういう時には私の気を引いて仕方無かった。その記事の一つに、私は心引かれた。
『里の上空に虹色の空中都市現る』
妖怪の山で地すべりがあって、蜃という蛤の妖怪が現れて空中都市の幻を見せていたという。
蜃気楼……、と反芻して、既に断片でしか残っていない記憶が翻る。
強い日差しに反して海の中は冷えていた。髪からしたたる水がぬるく頬を伝う。海の向こうで島が空に浮かび揺れる。
私が『ムラサ』として物心ついた時には、気まぐれにゆらゆらと揺れていたと思う。飽きるほど見て、「あの島は時たまああやって現れるものなんだ」。そういうものだと思っていた。
……ああ、そうだ。私が陸に引き上げられて……しばらくして、確か聖に教えてもらったんだ。
しんきろう。あれは『蜃』という貝の妖怪の吐く息が見せる幻なんだと。
私は物心ついた時から妖貝に欺かれていたのだ。見慣れたあの島が本当は存在しなかったんだと知って、念縛霊の分際で多少に混乱したんだった。
……実は存在しなかったという、空に揺れる島。
陸に上がって以来見ていない。場所も定かでなくて……やっぱり、改めて確かめに行くほど興味はなかった。
そして……聖が封印されて、地底に封じられて、幻想郷に来て。
……でも、今は。
「――ムラサさん、一休みしませんか?」
不意に、その声が倉を覗き込んだ。
「ルイズ。ちょうどよかった」
ルイズが嬉しそうに目を細めて二つ湯呑みの乗ったお盆をちょっと掲げるが、
「……気が散りすぎでは?」
苦笑いする。何のことかと見回すと、紐のほどけた新聞の束が散乱していた。
「サボってたならお茶なんて要りませんね」
「ああん違うんだって。休憩してたの」
「では今からお勤めですね」
「そ、そうじゃなくてさ!」
私は慌ててルイズの持ったお盆を取って、
「……その」
……あれ、言葉が出てこない。
……何て誘えばいいんだろ。そう言えば、私からルイズを誘った事ってなかった。
……いきなり誘って戸惑わないかな。て言うか次の運航で魔界に帰るんだから。今誘っても困らせるだけじゃ……
「どうしました?」
怪訝におさげを揺らすルイズ。……その瞳は深く青く、私を見ている。
「……なんでもない」
……私はルイズにまたお盆を持たせた。
「もう終わるから。居間行っといて」
ルイズの目から逃れるように私は振り返りしゃがんで、新聞を片付け出して、
「――そうだ、ムラサさん。しんきろうを見に行きませんか」
その背中に声をかけられた。
「しんきろうはしんきろうでも、つってね」
数々の仮面を翻しながら舞っていた能楽師が一礼して、私もややうんざりしながら拍手を返した。
晴天の博麗神社境内。何度か覗きに来たことはあるけれど、今日は随分賑わっている。演目が終わって各々散っていく顔を改めて見ると人間ばっかりだ。妖怪神社と聞いていたけど、ここも様変わりしたんだろうか。
「来てたのか、ルイズ」
一仕事終えた面霊気はやぐらから降りて、私達に気付くとぱたぱたと駆け寄ってきた。
「お疲れさま、こころちゃん」
「どうだったどうだった」
いつもの無表情でばっさばっさと両手の扇子を振り乱して見せるのは秦こころ。頭にはおかめの面がご機嫌そうに揺れている。
ルイズが命蓮寺に出入りするようになって、彼女に一番懐いたのがこころだろう。どんな話にも親身に笑って返してくれる彼女が、テンションの高い喋りたがりにはお気に召したようだ。そして私のことはあんまり眼中にないらしい。
「んー……どういうストーリーだったの?」
「何一つわからなかった!?」
がぁんと大袈裟に頭を抱えてのけぞるこころ。猿飛出の面が宙を舞う。
「いやまあその、ところどころ笑いどころはあったんだけど」
「ほら、ルイズってば宗教戦争のこと知らないし」
「教えておいてくれないと困る」
困る、とこころは翁の面を掴まえて悲しげにこっちをじっと見た。
「わたしがいちいち説明してたら格好悪いだろう」
「確かに」
先の能のストーリーはいつぞやの宗教戦争についてだ。
宗教戦争と言っても各派の代表が好きに暴れていただけだけど。その登場人物を大袈裟にデフォルメしたものである。
この演目を「心綺楼」という。ルイズが帰る前に是非見に来て欲しいと、こころが頼んでいたらしい。
「でももう少し、予備知識なしで見れるようにしたって良いんじゃないかしら。前より格段に分かりやすくなったけどさ」
「譲れない表現もある。過度な分かりやすさは粋や意味を削って嫌だ。演目の意味まで変えてしまう」
演者なりのこだわりがあるらしい。
「理解されないとショックなのに分かりやすくするのは嫌かぁ……」
「そこはもうどうか寛大な心で許してほしい。て言うか別に貴様に理解されなくてもショックではない」
……さいで。こころは私に言葉の薙刀で斬りつけざま、返す手で早々にルイズと話し出してしまった。
息をついて手持ち無沙汰に見回すと、はたと目が合った人物がいた。
それは木にもたれている天狗だった。手帳を片手に、これまた手持ち無沙汰げにペンを器用に回している。
「新聞屋さん」
近寄りながら声をかけると、天狗も「どうも」と愛想の良い顔をした。
「取材?」
「ええ、こころさんに。お喋りが済んでからで良いですよ」
指の間でペンがくるりと回る。
確か、うちの新聞はこの天狗が書いていたと思う。
新聞勧誘は響子がちゃんと愛想よく断ってくれていたのに、通りがかった星が「新聞は読み比べるものですよ」などと訳知り顔で余計な横槍を入れたところを見たのを覚えている。感激した天狗が石鹸を差し入れに来たのはその次の日の一回だけだった。
いやまあ、そんなことはどうでもよくて。
「蜃について訊きたいんだけど」
「蜃ですか? ああ、もしかして記事の話ですか」
一昔前の記事にも関わらず、流石の記憶力だ。話が早い。
「会うとしたらどこかな」
「この前の地すべりは妖怪の山麓の南側ですがねえ、麓とはいえお勧めしませんよ」
当然白狼天狗が巡回しているんだろう。天狗の手のペンが回る。
「なんとかならないかな」
「なりません。折角記事に興味を持ってくださったなら……と言いたいところですが、おおかたお掃除中にでもたまたま見つけたのでしょう? いつもは読んでいないのに」
新聞屋は苦笑いした。バレてるし。
「季節とかあるの? いつもは見れなかったと思うんだけど」
「あややや、ご存知でしたか。そう言えばあなたは海の地縛霊でしたね。蜃は春から初夏にかけて活発になるようですよ」
「あっちゃあ……完全に時期逃してるじゃない」
「でもまぁ、当然息はしていますから。会えれば小さな蜃気楼は見れるかもしれません」
相変わらず新聞屋は愛想よく笑っている。
「親切ね、新聞屋さん」
「たまには良いものですよ。幻の楼閣を眺めながらお酒を楽しむのも」
新聞屋さんは回るペンを受け止めた。
「……まあいいや、哨戒に遭ったって。犬は水が苦手よね」
私は柄杓を取り出し、揺らして見せて、
「フフフフッ! 犬はね」
「鳥もだっけ」
私は柄杓を掲げ、弾幕の渦が境内に爆ぜた。
*****
何故旅をするのかとルイズに訊いたことがある。
ルイズは「理由は特に。じっとしてられない性格だからでしょうか」と答えた。答えた後、「妹たちにもよく言われます」と続けた。
そしてその後少し考えて、「自分の知らない景色を見ていると、自分の輪郭がわかる気もします」……と、ちょっと照れくさそうに言ったのだった。
輪郭とは何だろう。ルイズもよく分からずに言ったのかもしれない。
私には分からない話かもしれない。幽霊に輪郭も何もないのだから。ふわふわととりとめもなく過ごして、昨日の夕飯の記憶も怪しい。
「――ムラサさん」
日を遮る影があった。大の字に寝て空を仰いでいる私をルイズが覗き込む。
「……助けてよ」
「喧嘩を振ったのはムラサさんでしょう?」
もう、とルイズが眉を寄せる。
ごもっとも。しかも木っ端微塵にやられてちゃあ全く格好がつかない。流石は幻想郷最速を謳う天狗。超至近距離からの不意討ちを避けられたらもう駄目だった。
それよりも。人間がまだ沢山残っている境内で弾幕を始めてしまったものだから、巫女の怒り狂う様は凄かった。
涼しい顔で勝ち誇る天狗が巫女に撃ち落とされたのは痛快だったけれど、既に撃墜されていた私まで共犯とばかり、平等に虐待を受けてしまったのはあまりにも余計だった。
いてて、と呻きながら身を起こす。……ああ、でも。ボコボコにされてどこか吹っ切れてしまったのを感じる。すんなりとそれを言うことが出来た。
「ルイズ、蜃気楼を見に行こうよ」
「ごめん、もう帰ろっか」
「ムラサさん……」
木々の切れ間の光に暗さが混じってきたのに気付いて、私はようやく切り出した。
新聞屋さんに教えられた通り、妖怪の山の里がわの麓からスタート。まずは飛びながら地滑りの跡を探した。それらしい岩肌を晒した部分はいくつかあったものの、貝殻の欠片すら見つからなかった。あとはもうひたすら道なき道の捜索。あてもない道程は、薄くあった予想の通り何の成果ももたらさなかった。
「疲れちゃいましたね。山登りなんて久しぶりですから」
ルイズが気遣うように笑う。
「いいんだよ。私が間抜けだった」
私は深く息をはいて、岩に腰かけた。
ルイズと旅をする口実を探して、蜃気楼見物なんてちょうどいいものを見つけたと思った。でも茂みに分け入って山狩りなんてのはだいぶ毛色が違うじゃないか。
「……折角ですから、神社にお参りに行きませんか? この山にも神社があるんですよね?」
ルイズの提案。私はこっくりと頷くしかなかった。
守矢神社。既に日は暮れて、宵闇に大きな注連縄が見下ろしていて威圧的だった。落ち葉が秋風にあおられて、かさかさと寂しく音を立ている。
途中哨戒天狗に横槍でも入れられるかと思ったら、存外あっさりと着いてしまった。敵意のある視線は感じたものの、神社を目指す分には見逃してくれるらしい。
それよりルイズの顔色が気になって仕方なかった。特段堪えた様子はないし、多分この徒労については実際気にしていないのだろうけど、それでもその横顔を窺わずにはいられない。そしてそんな視線は気付かれているかもしれない、ということが更に私を嫌にさせた。
「行けたら、そのうち」海を見に行こうと約束した。蜃気楼というのがちょうど良いと思ったのだ。約束が果たされてしまうこともなく、その海の幻は私とルイズを旅へと連れていってくれるに違いないと思った。……でもこれに懲りちゃったら? ルイズに限ってそれは無いとは思うけど……むしろ私は? もしかしたら今後すごく誘いづらいのでは?
「――あれ、あなたは」
そんな風に益体もない思いを心の中で訴えながら拝殿前で手を合わせていると、気配を感じたのか緑色のほうの巫女さんがひょっこりと様子を見に来た。いつぞや見た顔……どころか、いつぞや退治された相手だった。
「迷いのある顔をしていますね。仏様は導いてはくれませんでしたか?」
何か答える前に、巫女さんがしたり顔で言った。
「土左衛門に導きを見出したことはないねぇ」
「……大変ですね、聖さんも」
「うえ……」
巫女さんが眉をひそめて、さらに横のルイズが呻いた。駄目でしたか、船幽霊ジョーク。実に軽妙に返せたと思ったのだけど、二人とも引かせると流石にちょっと凹んでしまう。
「ほっとけーい、つって」
「で、何故こんな時間に? 本当に改宗というわけでもないでしょうに」
「観光です」
「……観光よ」
「……なんで?」
巫女さんははてなマークを顔いっぱいに浮かべている。なるほど、こういう反応になるんだろうなぁ。この狭い世界で、神社に来ることを参拝と言わずに観光だと言い張る輩は居なかったんだろう。
「――観光! 良いじゃないか、歓迎しようじゃない」
その時、威勢のいい声が巫女さんの後ろから。拝殿の裏から色々とでかい人影が姿を現した。
「神奈子様? 何でわざわざ注連縄背負って……夕飯はもう召し上がったんですか?」
「早苗、どうしてわざわざ意気を削ぐような事を言うの」
注連縄を背負った長身の女は大仰に肩を落とした。注連縄に結ばれた紙垂がわさわさと揺れた。
「さておき、記念すべき観光客第一号プラス二号。願ってもないことだわ。これを機に目算が付いたらロープウェーも完成を急げるわよ」
「ロープウェー? ロープウェーを造ってるんですか?」
「おお、知ってるのかい? これが出来れば麓と神社を繋げるの。賑わうに違いないわ! 空を渡すなら天狗も手を出せない。特に秋は紅葉の景色が見事でねえ、静葉の職人技が光るところで……」
「わぁ……! 見たいです!」
ルイズが食いついて、神奈子さんが胸を反らせて揚々と語り出した。
「ろーぷうぇい」
「参道を空に架けるんですよ。ゴンドラ……えーと、籠に人を乗せて、ロープで運ぶんです」
置いてけぼりになってしまった私が巫女さんに尋ねると、やや諦めたように笑いながら答えてくれた。
「大変じゃない? ロープをたぐる人が」
「人力じゃないですよ。電力……結局電気で動かすつもりなのかな? そのへんは私も聞かされてないんですけど」
「――おっと立ち話も何だ、上がりなさいな。続きは飲みながらだ。貴重な実験台として、夜通しもてなされて貰おうか!」
「泊めてくれるんですか?」
「観光に宿はつきものでしょう。しかしそうね、本格的に人が出入りするようになれば宿も建てたいな。いっそ天狗連中も巻き込んでツアーなんて形にすれば……」
「ツアーなら魔界にもあるんですよ。出来たら良いですねぇ、紅葉ツアーなんて」
「ああ、話が分かると思った! 見ない顔だと思ったら魔界人だったのね。魔界人には信仰の対象なんてあるの? 営業に行く価値は――」
二人で盛り上がりながら行ってしまった。
やはり置いてけぼりの私と巫女さんはそれを見送って、
「……とか言いながら大げさにもてなして貫禄を見せるのが好きなだけなんですよ。奉納品とか外の世界の食べ物を、「これが美味しいあれが美味しい。これは食えるか? ……いよぉーし、いけるクチじゃないか!」なんて。一緒に飲みたいだけですよ」
「めっちゃ良い人じゃん」
「神様ですから」
「『蜃』? これのことですか?」
早苗さんはちゃぶ台にコトンと貝を置いた。
「「えええええええ!?」」
ルイズと二人して身を乗り出す。
勧められるがままに酒瓶を一本空けて、……それが大変美味しかったので「うまいですねぇうまいですねぇ」などと調子づいてもう一本空けて、ようやくここに来た経緯を話したのだけど。蜃の話をすると、当然のように早苗さんの袖から貝がまろび出てきた。
「な、なんで……?」
「ペットのしんちゃんです。天狗の蜃狩りにご一緒した時に、折角だから小さいのを一つ拝借してきたんです」
「ペットが貝って」
いつの間にか宴会に加わっていたカエルっぽい神様が、盃を長い舌で舐めながら口を挟んだ。
「だってみんな飼ってるんですもん! 霊夢さんも魔理沙さんも、咲夜さんだって飼ってるんですよ!!」
「言いたいことは分かるけど。貝って」
「ヘビやUMAよりかは格段に可愛いですよ! 餌は要らないですしフンもしない! 小人はレア過ぎますしぃ……」
「早苗、ヘビは可愛いんだよ」
神奈子さんが神妙に言い添えた。
「いやそれより、蜃……狩り?」
「私は反対したんだけどねぇ。天狗が人も妖怪も呼ぶからって一斉に駆除したのよ。ホント、引きこもりの天狗どもは風情がなくてやだわ」
神奈子さんは面白くなさそうに頬杖をついている。蜃がそれほどの数現れていたのも勿論、それより聞き逃せないことがあった。
「天狗が、蜃狩り……って」
……騙された!? あの新聞屋、一言もそんな事は言わなかったじゃないか。何が親切な天狗さんだ。知ってて黙ってたんじゃないか!
「……ここだけの話ですよ?」
私の内心を知ってか知らずか、少し勿体ぶって早苗さんは顔を寄せてきた。
「私が蜃狩りに参加した理由。蜃を集めるフリをして、文さんと一緒に埋め直してたんです。流石に巨岩ほどもあるのは無理でしたけど。こんな小さな『なりかけ』なら何とかなります」
早苗さんは蛤をくるくると指で回し出した。
「……多分バレてましたけどね。白狼天狗は鼻が利きますし。埋まってる分には煙は吐かないですから、見て見ぬふりをしてくれたのかもしれません。多分天狗のお偉いさんが言い出したことで、大半渋々やってたのかもしれませんね」
「ああ、そう……」
……風情を解する天狗だったわけだ。
始終愛想笑いでペンを回していた彼女を思い返す。肝心なことを黙っていたのは何だろう。建前があって話せなかったとか、それとも単なる悪戯心だろうか。
「いやあ、私は河童連中を見習うべきだと思うがねぇ。悪食どもが目を輝かせて妙ちきりんな機械で根こそぎガリガリ行くのは実に痛快だった。折角のビンテージもんなんだから食わなきゃソンだよ。……なんて言ってたら食べたくなってくるね。網で焼いて、醤油を垂らしてねぇ」
「諏訪子様わりとよくそれ仰ってますけど、神奈子様も私も引いてますからね。妖怪ですよこの子」
「妖怪だからって食わず嫌いは良くないよ。ぬっぺほふなんかウマくて栄養満点だってんで人気じゃん」
諏訪子さんが肩をすくめたのを見て、私はおもむろに貝に手を伸ばした。
少しずっしりとしている。両手のひらに収まる程度で、褐色の筋が年輪のように入った、普通の蛤のように見える。
「息は吐くんですか?」
ルイズが尋ねた。覗き込んできた彼女にそれを渡す。興味深そうにその感触を確かめているルイズを見て、何だかどこかホッとしてしまった。
「それが最初見たきり吐かないんですよ。暗くしたり静かなところに置いてみたり水に漬けてみたり埋めてみたり、色々試してみたんですけど」
「もう死んでるんじゃない? 早苗が乱暴にするからさぁ」
「そんなこと、ない、です……よね?」
「知らんよ」
諏訪子さんは盃をあおって、ぐびりと喉を鳴らした。
*****
――潮騒を聞いた。
私は飛び起きる。飛び起きて、寝ていたことに気が付いて、見慣れない部屋にいることに気が付いて――ここに至る経緯が蘇ってきて。何か夢を見ていたのかもしれないと一応の合点が行った。
……夢の内容は思い出せなかった。そもそも本当に夢を見たのかすら。でも、懐かしい音を聞いたと思う。
耳に触れたあれは、波の音……だった、なんて突飛な事を考えて首を捻った。そんな千年前の記憶の音、聞こえるわけがないんだから。
辺りは暗い。開けっ放しの雨戸から月の光が注いでいる。秋の虫の声がする。冷えた風と、いつの間にか掛けられていた毛布に気付いて私はガラス戸を閉めに行った。元の場所に戻って来ながら毛布を頭に被って、目を擦りながらあたりを見回した。
柱にもたれて寝ている神奈子さん、その膝を枕にして珍妙な帽子を顔に被って動かないのは諏訪子さん。私のすぐそばで丸まって、静かに寝息を立てているルイズ。いずれも毛布がかけられている。あれだけ散乱していた酒瓶や食器の類がなく、早苗さんの姿も見えないのは彼女が全部片付けてくれて、今は自分の部屋で寝ているからだろうか。
そして、片付けられたちゃぶ台の上で一つ佇んでいる蛤。
私はちゃぶ台にうつ伏せて、ぼんやりとその姿を眺めた。
月明かりに白く映える貝。その姿から煙が立つ姿を目で思い描く。幻を見せるという息。その幻は何の幻なのだろう。私の記憶か、それともこいつの記憶か、はたまた全く出鱈目の景色か。
「……お前も元々は海にいたんでしょ」
蛤をつついて揺らす。私を旧友と認めてくれて幻を見せてくれたなら、なんて夢想する。あるいはさっき耳に触れた潮騒はこいつの記憶だった、とか。
そこまで考えて、不意に空に揺れる島のことを思い出した。あの幻が、海に縛られていた私を唯一見守っていたものだったのかも……なんて。
……まぁ、でも。頑なに口を閉ざす貝を見ていると、そんな幻想も悪くないと思った。
「――ムラサさん」
下から声がして、身を起こして視線を移した。仰向けになったルイズが私を見上げていた。その肌も、月明かりに白く。金の髪が乱れて、酔いが残っているのか頬は少し上気していた。
私は黙って笑みを返して、また貝に目を戻す。
「……ルイズにも見せたかったな、蜃気楼」
「え? 見たんですか?」
ルイズはのそのそと身じろぎしてちゃぶ台に乗り上げた。ちょっと咳をして、私と同じ姿勢でうつ伏せる。
「……次は、見れるといいよね」
そんなルイズの気の抜けた姿に笑みをこぼしながら、呟く。
「そうですね」
私の言葉から何か感じ取られてしまったのか、少し間があった。虫の声がガラス戸の向こうで薄く鳴っているのが聞こえた。
私はおもむろに蛤に手を伸ばして、取った。それを耳に当てる。
……耳がひんやりするだけ。貝は閉じて何も語らない。
「……何も聞こえないね」
苦笑いしてちゃぶ台に戻す。
――と、ルイズは、
「……ルイズ?」
「ふ、……ふふっ……」
肩を震わせて顔を腕にうずめたかと思うと、
「――きゃはははははっ!! 本気だったんですか今の!? おもむろに何をするかと思えばっ……!」
大口を開けて笑いだした。
「ムラサさん……っ、……ふふ、貝から波の音がするというのは、貝を耳を被せるとその反響音が波の音に聞こえるねっていうだけで……アンニュイな顔で二枚貝をそのまんま耳に当てたって……っ! ふふ、くふふふふっ……!」
目尻に涙を浮かべて腹を抱えるルイズの様子にしばらくポカンとして、
「……ルイズーーっ!!」
「きゃはははは!! ごめんなさっ……あははははははっ!!」
にくたらしく愉快に笑い続けるルイズをぺしぺしと叩いて揺さぶって。ルイズが手のひらで私の平手を防いだり、私の腰に抱きついて攻撃を防いだり。
……そんな風に、いつの間にか目を醒ましていた二柱がしょうもなさそうに見ているのに気付くまで、私たちはじゃれ合っていた。
*****
「でも、次の予定よりも。今か、もしくは昔の……。そんな話がしたい気分なんです」
神奈子さんと諏訪子さんの視線に耐えられなくなって、私たちはそそくさと部屋を貰って大人しく寝ることにした。
湯浴みして着替えて、先に布団に入ったルイズは不意に口を開いた。
私はその脇に座って、ルイズを覗き込んだ。ルイズもこちらを向いて、微笑む。
「今日はとっても楽しかったですから」
「ん、ん……」
微笑みは障子から注ぐ月明かりを映して白く、優しく。潤んだ眼は吸い寄せられるようで。潤った唇は最早魔力を帯びているように見えた。
――唇、いや、待って。いま何しようとしたんだ私。
私は無理やり視線を引き剥がして、がばっと布団を被った。
……それからちょっと思い直して、すっと手を伸ばして。ルイズの手を握って肩を寄せた。
それから。その青い眼を覗き込んだ。深い海のような、深く澄んだ、青い目。これにはルイズも面食らったのか、一瞬息を飲んで頬を染めた。構わず私はもう片方の手も握った。
「私の話をするよ」
囁くように私は語りかける。
遠く、さざなみの音が聞こえた気がした。