配られたカードはJが四枚と仲間はずれの八。ツキに見放されているはずの我が身に余る幸運を噛みしめ、ほくそ笑みを噛み殺す。
勝利を確信して、ノーチェンジで彼女に勝負を持ちかける。彼女もノーチェンジでそれに応じた。
「Jのフォーカード」
意気揚々と手札を晒す。
「残念ね、魔理沙。はいっ」
彼女が見せつける手札はハートのストレートフラッシュ……しかも三~七という烏合の衆。
チッ、武器が愛に負けるなんて……なんて非現実なゲームなのかしら。
「やったっ! じゃあ今日の炊事洗濯全部ヨロシクね」
可愛い可愛い義妹(Flan)は嬉嬉として姿見の前に立ち衣装合わせを始めた。
この制度にしてから、私が当番の日が多くなっているのは決して気のせいでは無い。……私、ポーカーというよりも賭け事全般に於いてからきし駄目だ。
「……分かったぜ」
しぶしぶ了承しつつ、視線を硝子で覆われた外界に向ける。十字の窓枠越しに見る独逸の青空は、東方と違ってえらく濁っていた。来た当初は気に入らなかったものだが、今ではもうすっかりと慣れてしまったものだ。遠くに見える蔓延る舗装された道も人工樹も……そう、すっかりとね。
一番安いからといって買った人里離れたところに位置するここは風車小屋――それが今の私たちの住処だ。
不気味な呻り声を響かせ、永遠に廻り続ける風切り刃が風情を醸し出す。
「ねぇ、魔理沙。こっちの白いヤツと赤いヤツ、どっちが似合うと思う?」
「そうね。私は白い方がお洒落だと思うわ」
「ありがと」
顔を綻ばせながら滔々と純白のワンピースを纏うFlanを見ていると、筆舌に尽くしがたい気持ちが湧き上がる自分はなんと矮小なことだろう。
「じゃ、行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
ベルが二度鳴るのを背中で聞きながら、紅茶が並々と注がれたカップに口を付けた。睥睨する視界端で藪医者から貰った白い粉薬が薄ら笑いしているが、それには手を伸ばさず、代わりに優しく微笑む古びたブレスレットを時計代わりに左手首に装着しながら内心苦笑する。
まぁ、あんな約束なんて反故にする気満々なのだけれど……ごめんなさいね、と。
「さてと」
私と彼女の個室側とは反対方向に位置する一番奥の扉を開く。其所は半夜と見紛うほど真暗で、蝋燭無しじゃ歩けやしない。歪な石作りの螺子型階段から奈落の深淵がこちらを覗いている。
これが、こんな薄汚い小屋を購入へと私を踏み切らせた理由。
一歩歩くごとにローファが不気味な音を鳴らす。もう一歩踏み出すと、混沌と同化してしまいそうな奇妙な陶酔感。
そして遂には石畳の地下広間へと辿り着く。ここもまた日光など一切届かず、朱色の燐光のみでしか足下を確認できない。
薄影(shade)と希望(name)とが混交する部屋全体がゆらりと哀哭するように風を吸い込む。
人工大地に予め熟成させておいた羊水と体液で烙印を刻む――歪んだ模様の書き散らしが淡い炎の揺らめきで生々しく晒される。
「待っていてください。今助けに行きます」
嗚呼、コノ紅い幾何学模様の先にシアワセは在るのでしょうか?
私は、人と刻の境界線を軽々と飛び越える。
†ユメミルシアワセ†
偶然という女神が微笑んだ蜥蜴が賑わう真昼の空。掴めば届きそうな大空はシアワセに満ちあふれていて、だけど届かなくて。
今日は次の実験『観測者と非観測者の相互関係により生じる時間亀裂の差違』という試験にラベンダーが大量に必要だと思い立ち、ソイツを刈り取るために私は此処に来ていた。竹で出来たステンドグラスの中を教会に通う聖女宛らの緩慢な動作で練り歩く。脇を柔和な夏風が柑橘系の香水を撒き散らす老婆のように通り過ぎ、心中が和むのも刹那の瞬き。
他人(ひと)は私の右手に大量に摘まれた紫色の花束と相まって私の行いを散歩だと呼称するかもしれないが、特別私はそれを否定する気にならない。何故ならばもうすでに必要量のソレは集まっていたためだ。目的を必要としない探索は散歩と呼ぶのが相応しい。
そして私は見た――見てしまった。
太陽と竹林が織りなす光と闇の影絵の足下、即ち私の眼下で人が死んでいるのを。
いいえ、と即座に否定する。
何故ならば死体の下腹部が僅かに上下していたからだ。屍人ならば呼吸はしない。生者が死者の如き滑稽極まりない姿勢で眠っているだけだと結論するに時間はさほど必要としなかった。
ソイツは上半身を大樹に預け、手足を地面にだらしなく放り出しその四肢はピクリとも動かない。
「…………」
興味と不安を秤に乗せ、少しだけ興味の方に傾く。
「どうしたの?」 震える声で尋ねてみた。
返答は無い。
……よくよく観察してみると、その女性は同じ人間とは思えないほど可憐な人だった。もしくは同じ人間だからこそ、彼女の美しさが理解(わ)かるのだろうか……などと懐疑を抱かずにはいられないほどだ。それほどまでに彼女は魅力的過ぎた。赤みかかった蜂蜜と墨汁で染め上げたような柔らかなロングストレートヘアが、黒と紫の中間色で染め上げられた使い込まれたウィッチハットからはみ出ており、漆黒の華飾衣の袖口からスラリと伸びる腕は健康そうな肌色とはほど遠く、一種の妖艶性を帯びた白蝋の様で煽情的或いは情動的とでも云うべきかもしれない。ドレスの裾から見える太股から足先までも同様だった。丸みを帯びたローファがアクセントのように妙に可愛くて。加えて彼女自身がまさしくギリシア彫刻のように黄金比とも謂え、女性なら誰しもが羨むであろう抜群のプロポーション(所謂造形美というやつなのかもしれない)が綺麗だと素直に目標にするというよりも恐懼に近い感情さえ抱かせる。凛と整った顔立ちに張り付くうっすらと淡い桃色の唇から静かで、鈴の音にも聞こえる呼吸が一定間隔で刻まれ続け―――。
直後、彼女の上品な色で整えられたマスカラ染めの蛾眉が蠢き、目蓋の奥に潜む眼を露わにさせる。琥珀色の双眼がまるで鏡のようで、私の姿がありありと映った。きっと私の瞳には、合わせ鏡のように彼女が映っていることだろう。
彼女はまだ夢寐を旅しているかのような朧気な瞳で私にピントを合わせたあと「貴女は誰なの?」と艶やかな声色で私の正体(なまえ)を尋ねた。むしろ私が質問したかったのだが……。
「私は、霧雨魔理沙だよ」
恐る恐る応えると、彼女は私の言葉を舌先で飴玉を転がすみたいに反芻しながら「魔理沙、魔理沙」と呟き始め、後にくぐもった自嘲とも、嘲笑ともとれぬ声を喉の奥底で百足が這うように吐き出した。彼女はおもむろに地面を手に突き、その婉美な痩躯を起こした。先ほどまで気にしていなかったが彼女は長身で私よりも頭二つ分も背が高くまるで巨人のように感じられる。
「うく、くっ、くっ」
静かで不気味な哄笑は次第に大きくなり「あはっあはっ」と興奮したように嗤い狂い始めた。息を吸う間も惜しいのか、奇妙な発声方法を惜しげ無く発揮する彼女は関わりたくない人物にカテゴライズされるべきであるのだが、
「――――――」
しかし不思議なことに、先のシアワセを仰ぎ、狂い咲く彼女から目を反らすことが出来なかった。狂喜と狂気とが螺旋に渦巻くその様に、私は身震いするしかない……違うのだ。恐怖とはまた別の何かに魅せられた。
その奇妙な感覚をぴったりと当てはめることが出来るほどの語彙量が私には無かった。
詩人ならば『ココロの掠奪』というウタを即興で詠むことだろうと下世話な妄想までしてしまう。
「笑ったらお腹が空いたわ」
先ほどまでの狂喜乱舞は道化師の振る舞いだったのかと錯覚するほど、低く玲瓏な声で誰に告げるでもなく彼女は何ともなしにぼやいた。目尻に浮かぶ歓喜が滲む故の無謬さは異様だが、それは先ほどまでとは打って変わってひどく落ち着いており、玉散刀ように彼女の危なげで煌びやかさを演出するのだ。
「ねぇ魔理沙」彼女は囁いた。
身動き出来なかった。
唐突に名前が呼ばれたことに射竦められたのではない。思わず躯が脈打ったのは、彼女の細い眼光が生気と呼べるモノを宿していなかったから。氷霧混じりのがらんどうの瞳孔が私を雁字搦めにする。同時にその奥に潜む化け物の正体を、嗚呼、なんということだろうか――私はその眼窟に深入りしたいと思ってしまった。
「貴女の家はこの近くでしょう? お腹が空いて倒れそうだから、何か食べ物を分けてほしいの。現に今倒れていたでしょう? ですからお願いします」
慇懃に頭を下げる女は、しかしこちらに否定の態度をとらせる気は無い。
「で、でも……」私は言葉尻を濁した。いきなり同居というのは正味、不気味過ぎるのだ。
「あら? それ相応の見返りはあげるわよ。ンーっと……ほら前払い」
彼女は袖口から小さい手帳を私に投げた。それは手帳と呼ぶには分厚すぎていた。何とか落とさずに受け止めると手にざらりとも、ぬめりともつかぬ生理的な嫌悪感を催す感触が確かにあった。
「……ッ」
理解したときは本は手から滑り落ちそうになった。他人という視線がなければその場で情けない叫び声を上げ卒倒していたかもしれない。
肥厚した書は表紙が人の顔で出来ていた。彼とも彼女ともつかぬ顔は苦痛で彩られており……歴然とした魔道書の類いだ。ご丁寧に錠前までついているが、鍵それ自体は表紙の人顔の口内に埋め込まれているため防犯としては全く役には立っていないのもソレという特有の異質さを物語る。
異教徒の目に触れてはならないというのも、もちろん一つの目的では在るがそれ以上に二つ以上の魔を飼い慣らすことは不可能とされている。書は人が『読む』ものであり『読まれる』ものではないという戒めを具現化したのが鍵付きの魔道書の起源だ(少なくとも私の知識ではそうなっている)。
異国語で刻まれたタイトルは『Je lieben Fraulein』。記憶が確かならば、これはものすごく希少で貴重なものだ。著者の名前は『Sinki』と謙虚に隅の方に記されていた。
「どう? 一食分にはなると思うんだけど」 彼女は目を細めながら淡々と己が渡した書物の価値を定めた。
「一食どころか、一ヶ月分ぐらい分ぐらいあると思うぜ……!」 押さえきれない興奮を圧殺しつつ遂には返答してしまった。
「そ。ならお世話になっちゃいましょうかな。もし住まわせてくれるなら助手ぐらいなら手伝うわよ。貴女、私と同じ『まほうつかい』でしょう?」
二つ返事で了承した。呼応するように四方八方、笹の葉が潺々とざわめく。
「自己紹介がまだだったわね。私の名前は―――」
私は彼女のことを尊敬と親しみを込めて悪意さんと呼ぶことにした。なんだか私とアリスを合体させたような名前だとか思ったが、他人の名前を弄るのは失礼だと思い直し、胸の内に留めておくことにする。
濁りきった宵闇が支配する帰り道。傲岸な王の掌からこぼれ落ちた斜陽混じりの砂金が照らす道を彼女は私の右隣を歩いた。少し手を伸ばせば彼女の左手が触れそうな距離。手を繋ぐなんて微笑ましくメルヘンチックなやりとりはしない。ただそこにいるだけで、胸の内に羽が生えた様に足取りは軽くなる。
帰宅するや私はお風呂と身支度を早々に済ませ、使い慣れたベッドに潜り込んだ。
それほど疲れた訳ではなかったが……どういうわけか間接の節々に痛みを感じる。緊張したせいだろうか。
すぐ横で薄手の蚊帳越しに人型影絵が映る。悪意さんも入浴を済ませたのか客人用の敷き布団に北枕で臥せっている。窓から差し込む仄暗い月明かりに晒される彼女の雪肌がいやでも視線を虜にする。
ヒグラシの鳴き声しかないゆるりとした空気を針で縫うように私は彼女に話しかけた。
彼女のことをもっと知りたい、それが偽りない本心だった。
貴女はどこから来たの? 私の知らない魔法使いがいるなんて驚き。
そりゃぁね。でも生まれも育ちも幻想郷よ。
私は貴女のことを見たことないぜ?
月と太陽がごっつんこする確率はいかほどかしらって話になるわね。
……なんか納得いかない。
そんなものよ。ここで私とアナタが出会ったのは天文学的な確率ね。言い忘れてたけど、私は最近まで異国に在中していたから、逢わないのも当然と云えば当然なのよ。
異国。
外の世界のことよ。こことはまた別の魔法が錯綜しているところ。
ふーん。そうか、私も行きたいな。
近い未来行けるといいわね。……そろそろ私は眠りますわ。おやすみなさい。
ああ、おやすみ。
悪意さんは当初の約束通り忠実に守ってくれた。
私の実験の手伝いは無論のこと、貴重な書物も貸し与えてくれた(彼女曰く読み飽きたらしい)。実験に於いても、どう素人目に見ても手際が良過ぎ、その軽やかな食指は確かなと自信に裏打ちされた嬋娟さが、常に私を魅惑して離さない。加え彼女は様々な魔具を紹介してくれた。遠くの人とも会話が出来る折りたたみ式のペンケースや、自動的に演奏をしてくれる箱、眼球に被せるだけで視野が広がる摩訶不思議な膜など様々で、いつか私もこういう物を自由自在に使ってみたいと幾度となく夢に描く日々。
彼女が泊まりついての初日以外、悪意さんは決まって夜になると何処かへ出かけて行き、黎明頃に帰ってきて眠る。そのため彼女が起きるのは決まって昼頃で下手をすれば夕方まで惰眠することもあった。私がその間に何をしているのか、と聞くと『淑女の嗜みよ』と諧謔混じりにはぐらかすばかりで詳細は何一つとして教えてはくれなかった。
でも、それでも構わないと笑い飛ばせるほど彼女のことを信頼しているのだ。
……信頼とはちょっと違うかな。
云うなれば畏怖だろうか? それとも羨望だろうか? そんな言い知れぬ複雑な気持ちが彼女に対する全てだ。再び自身のボキャブラリの少なさを実感しながら褥から這い出でた。初夏の朝特有の生ぬるい空気を胸一杯に吸い込む。外では小鳥が囀り第九番四楽章を奏でながら家上を徘徊する。うん、これ以上無いくらいいい朝だ。
この日も彼女は昼過ぎまで眠っていた。
「疲れた」
しかも彼女の開口一番は、疲れた、だった。あんまりだろうと思ったが口には決して出さないのは、そんな権利など自分には無いのだから。
「夜更かしするからだぜ」
「分かってるわよ、でも」
それっきり口を閉ざした。相当神経を摩耗しているらしく、こぢんまりと座り腕に顔を埋めた。
……こんな彼女も愛おしいと感じる自分は異端なのか異常なのか。
悪意さんの柔肌が虫除けの網というひどく俗物じみたフィルターをかけても、いや、かけているからなのか、一瞬だけ女性の私でもドキリとさせられるほど艶めかしくて、羨ましくて。私の想いを余所に彼女はめんどくさそうに伸びをした。
「あれ。悪意さんそれは?」
彼女の右肩に真っ赤なシミが塗布されているのに気がついた。彼女の肌をホワイトクリームを塗りたくったケーキと喩えるならば、それはラズベリーソースみたいに鮮やかな色で否応なしに邪な事を連想してしまう。
「え? 嗚呼、これはラズベリーソースよ」
彼女は眉尻を下げながら、ごしごしと斑点を擦ると綺麗に掻き消えた。その動作が、こういう言い方は無礼かもしれないけどひどく人間じみていて、やはり尚一層美麗だ。直後にやっぱり失礼だと自責した。今までは私は悪意さんは私とは別の生き物のように思っていたのかもしれないが、今にして違うと分かる。彼女も同じ人間であり、疲れることも眠ることもあるごく普通の人間なのだ。
「さ、今日は実験をしないのかしら」
彼女は私に日課を促した。
「……そうだね」
なぜか少しだけ不安と衝動に駆られた。疑惑の芽は尋常ならざる速度で成長をしていく。いけない早く刈り取らないと……。
日課は平常運行。即ち滞りなく終了した。
夜は悪意さんがシチューを作り、燭台が照らす真白なテーブル上で向かい合い、黙々とそれを口に運ぶ作業。味なんて分かりやしない。でもおいしい。
「そういえば」
上唇が勝手に動き、潜行意識を汲み取り波として表現した。
「悪意さんはどうして此処に戻ってきたんだ?」
「どうして……」
彼女は若干目を伏せ、小さく笑った。困ったように――でもシニカルに。
「どうしてかしらね……忘れちゃった。もしかしたらホームシックになったのかも……うふふ、なぁんてね」
「……魅魔様って云う人はどんな人なの?」
小さく『え』と呻き彼女は停止した。まるで氷の中で冬を越さねばならなくなった魚のようにぎょろりと目を見開き、その瞳孔が蹙る。空漠の瞳で私と笑えないにらめっこを繰り広げる。須臾か永遠か、分からぬまま悪意さんの瞳に鏡を見た。
私はひどく怖くて泣きたくなった。そんな心情とは裏腹に口が回転木馬のように流麗に回り始める。
「ほら、よく寝言で呟いてるぜ。『魅魔様魅魔様』って」
「――――――私の大切な、人、なの、よ?」
「へぇ! じゃあ悪意さ―――」
「ごめんなさい、この話は止めてくれる? 何故だか分からないけど頭が痛くなるの」
「ごめんなさい……!」
彼女が真剣に怒っているところを見ると、どうやら触れてはいけない話題だったらしいと猛省する。
悪意さんの怒声の残骸が、私の耳を強ばらせた。
「私はね、私は、私は、私はね。魅魔様の敵討ちに来たのよ」
「――――――」
何も言わない。
何も言えない。
それでも、私は何かを言わなくてはいけないという衝動に駆られ、
「そっか」
保留の言葉を紡いで、彼女から視線を逸らす。
ランプだけが鈍く嫋やかに踊る。朱色染まりきった部屋が嫌に涼しくて蝉の声楽がそれに輪を掛けたように寂寞で。
「ねぇ、今日は一緒に寝ましょうか」 それは同衾への甘い誘惑。
「いいよ」 私が孕んだのは同情か障害か、それすら分からぬ儘――蛇の言う儘に林檎を貪る彼氏彼女らのように、堕落と謂う果実を口にする。
折れてしまいそうな木の枝みたいな彼女の細腕に首を絡め取られ、そっと引き寄せられた。
睫毛が触れそうな距離に彼女がいる……それだけで十分なのに。
悪意さんの瞳には私が映っているのと同様に私の瞳には貴女がいることを強く願った。
甘くて蕩けそうな、脊髄までもが焼き付きそうなまでに微熱を持つ柔らかい感触が唇越しに星間距離さえ厭わない速度で伝達するのだ。
明けない夜などないようにその日も夜はタナトスの言い付け通りに朝日を昇らせた。
私と悪意さんはともに何処かへ行くことが多くなった。阿諛ではないのだが、私は彼女の一語一句を記憶に留めようと熱心すぎる修道女のようになった。でも唯唯の趣味本意から何か別の気持ちが湧き上がっていることに気づいた。
時には人里に降りショッピングをしたり、時には氷の湖の側でお昼寝をしたりと、一ヶ月足らずの間、私は彼女に付き従ったり、付き合わせたりを飽きること無く繰り返した。退屈だとか闕望だとか、そんな五月蠅い言葉は私の辞書から抜け落ちるほどに、素晴らしく静かに熱狂できる日々。
客観的に見れば釈迦の説法を熱心に聞く動物のような自分ではある。
これを対人依存症なんて云うのかな、などと脳裏を掠めたが……いいじゃない。悪意さんと仲良し小好しでも悪いことではないはずだ。
彼女は謂わば虜掠の権化……逆らうことなど出来やしないのだから。
秋風香る祭り囃子が木霊する街路。人々が忙しなく道々を闊歩し、その喧噪が心地よい。
私の右隣を歩く悪意さんもどことなく嬉しそうだと感じたのは私の驕りだろうか。
八雲紫の本堂までに至る大きな大きな一本道の左右に、幾つもの出店が連立している。食べ物から子供用の玩具、簡易的でアナログな遊技場まで多種多様に渡る。また店主も商売に余念がなく、怒号にも似た活気ある声が各地で響く様は狂騒と呼んでも過言ではない。
睥睨の先の悪意さんは、心底この祭りを楽しんでいるようだった。林檎飴を囓り、綿飴に舌鼓を打ち、年相応に頬を綻ばせる彼女は神秘だとか妖艶だとかとはほど遠く、ラベンダーのように可愛らしくて、その優しげな微笑みに私は度々見とれてしまう。
誰そ彼時を悠に過ぎ、黒いカーテンに張り付く銀色の月を仰ぎながら悪意さんは古びた石段に腰を落とした。私も習え右をするように彼女の横に座る。
「やっぱり悪意さんも、お祭りが好きなの?」
「ええ。現在(ここ)のは好きよ」
「此処の?」
含み在る言い方に思わず鸚鵡返しのような返答をしてしまう。
「……アナタはあの御戸の中で何が行われているのか知ってる?」
「え……」
うふふと冷薄そうな笑みを浮かべた彼女はリンゴ飴をパキリとへし折り、そのまま欠片を口に含んだ。
「アナタは八雲紫について無知すぎるわ。彼女は妖怪なの……本当に本当に性質の悪い妖怪。彼女の思考は悪意に充ち満ちて、行いは憎悪を横溢させ、絶望を翹望する……私なんかとは比べものにならないほどの悪意を振りまく女よ」
「ちょ、ちょっと待って……!」
唐突にそんなことを云われても、荒唐無稽な嘘話であり乖謬的だと普段なら悠々と決めつけることが出来るのだけれども、師と仰いでいる(自称だが)悪意さんの言葉を恣意的だと受け流すことは難しかった。
「この祭りがいい例ね。何を愚民が祈っているのかは知るところではないけど、こんな陋習が残ってる。……無垢な子供たちを人柱にするなんて、考えただけでも反吐が出る」
「――――――」
彼女の言葉の寓意は到底分かり得ることではないが、何かを私に吐露し、共感させようとしているようにも聞こえた。
「まぁ今暫くは表向きの楽しい楽しいお祭りを楽しみましょう。変な話をしてごめんなさいね」
彼女は林檎本体を囓り終えると近くの植物の根近くに墓標のように垂直に先ほどまで口に咥えていた棒きれを突き刺した。
「あれは何かしら?」
話題を逸らす彼女が指さすその先には、
「あれはね、的当てってゲームだぜ」
「そうなの。おもしろそうね」
彼女は出店に駆け寄り、幾らかの硬貨を店主に手渡し、引き替えに猟銃擬きを受け取った。
「これは……本物?」
「違うよ!」
彼女に遊びの手ほどきをする。先端からコルクが飛び出てそれで商品を当てる。見事下に落とせば商品が貰えるという遊びだ。いつもは教えて貰うばかりだったから、教えるというのは新鮮で、ちょっとばっかりの優越感が私を蝕む。
「へぇ、じゃあ早速」
間抜けな乾いた音が響き、コルクは有らぬ方向へ飛び出た。そして店主の額を直撃した。
「うふふ、やっちゃった」
「やっちゃったじゃないぜ!」
平謝りする私とは対照的に悪意さんは今度は慎重に狙いを定める。彼女が引き金を引くと、商品はよろけるものの、落下には至らない。
その後何回も当てることは出来ても落とすことは出来なかった。
「…………」
すでに悪意さんからいつもの余裕めいた笑みが消え、だんだん顔が真剣(まじ)になっていくのが、どことなく怖くて面白い。
「次でラストだぜ」
「……分かってるわ」
悪意さんはコルク弾を確かめるような仕草をした。願を込めるようにぎゅっと握りしめてから銃の先端にセットさせた。
「よし次は落とす」
宣言するが早いか、彼女は引き金を引いた。同時にコルクが射出される。
今までと明らかに違うスピードというか威力が段違いな軌跡を描き、見事商品を貫通させた。
「うふふ……やっちゃった」
「やっちゃったじゃないぜ!」
落としたことには変わりないので驚愕する店主を尻目に悠々と商品を拾いに行く悪意さん。
「……今魔力込めなかった?」
「うふふ、何のことかしら……でもまぁ楽しかったから」
「まったく……」
「はい、プレゼント」
そう言って私の手首に鎖のようなものを嵌めた。それは銀色のプラスチックをゴム紐で留めただけの安っぽいブレスレット―――つまり先ほどから彼女が必要に弾丸で小突いていた代物だった。よく壊れなかったなぁと心底感動した。
「あ、ありがとう」
「いえいえどういたしまして、ほらお揃い」
彼女が掲げる左手首にも同型のブレスレットが絡まっていた。たったそれだけなのに、私と彼女に唯一無二の絆が刻まれたような感覚がこみ上げてきた。
突如、私の気持ちの高鳴りとは真逆に周囲の空気が凍り細工を形成するようにピンと張り詰めた。
豪華な金細工の荷車が私たちの目の前を通り過ぎる。おそらくはあの中に八雲紫が座っているのだろう。漆塗りの華美装飾が月華に晒される様は雅とはほど遠いが絢爛豪華という他ない。
左隣の悪意さんをチラリと見やると、その瞳は猫目になっていて、いつものように余裕めいた微笑があるだけだった。
「さ、私たちも行きましょうか」
「行くって……どこへ?」
「人命救助に」
言うが早いか、彼女は足早にひたすら八雲紫を盲信する人垣を縫い歩いた。速度は落ちることを知らず、歩行は止まることを知らずの勢いで、私は彼女の影について行くことが精一杯だった。
人の気配が一切しない鬱蒼と生い茂る山中を迂回し丁度参詣の本堂と向かい合う形で立ち止まり、近くの雑木林に身を潜めた。
「――――――」
いつの間にか、先ほどまで耳朶を振るわせていた人のざわめきは聞こえなくなっており、自然の音と悪意さんの呼吸音しか聞こえない。彼女の吐息が小さく首筋を擽った。こそばゆいが、声を出してはいけないと彼女に念を押されていたので、必死に堪えた。
悪意さんは指先で小さく合図を送り、青銅作りの古びた鍛鉄門まで一気に駆け寄った。
彼女がコオロギの鳴き声にも似た詠唱をすると、錆び付いた錠前はさらりさらり、砂と朽ちた。躊躇うことなく重々しい扉を開けた途端、ひゅるりと猛禽な風が唸る。
開けた直後から伝わるグロテスクな臭いが脳髄を犯した。
汚物や体液、焼け爛れた肉、腐敗した毛髪、それら全てが入り交じった独特すぎる悪臭。例えるならば爪と肉の間に一本ずつ畳針を入れていくような残虐性と暴力性を兼ね備えた凶器になりうる異臭だ。それは私の想像の及ぶところではないが、何十年……否何百年も前からの悪習が形にならずに此処にあるという、陋劣な虐殺の歴史。時折風切り刃にも喉笛にも聞こえるひゅうひゅうという音が鼓膜を振るわせる。
次第に視界が慣れてきたことと、異様な慟哭が私の音に対する耄碌を明在化させたのだ。ソレは躯の至る所に深紅の花を植え付けられた人形達。
それは断じて人形ではない。
生きた人間達―――それも齢十二にも届かないだろうと思しき少年少女達だ。
或る人は血の涙を流しながら誰かに赦しを請うている。
或る人は諦めたのかそれとも現実を受け入れることが出来ないのか定かではないがぼーっと唯々深淵の闇を虚ろな瞳で見つめ続けている。
或る人はすでに事切れており、腹部から臓腑を掻き出されている。その幾つかが欠けているような気がした。
或る人は爪を噛む癖が転じてか指を咀嚼し始めており、既に左手の親指と人差し指が欠損している。
或る人は、或る人は―――「―――ゥ」
びちゃりと不愉快な液体の落下音は私の口から溢れ出たもの。先ほど食べた、黄色い胃液混じりの炭水化物を嘔吐した。
嗚呼、これを地獄と云わずして何を地獄と呼べばいいのだろうか。
阿鼻叫喚ではない。静かな……そう、とっても閑静な地獄だ。
「人を喰らう悪しき妖怪―――それが八雲紫」
悪意さんの凛とした呟きが清涼剤のようで魔性のようでひどく蠱惑。私の脳は既に彼女のためだけにあるのではないかと思えるほど、この場においては悪意さんに縋るしかなかった。私の理解の及ぶ混沌で私を支えてくれるのは彼女だけなのだから。
「――――――」
突如視界が上下逆さまになる。
盛大に尻餅をついたと理解するのに数秒かかった。
冷たい木製の床とは違う、もっと氷みたいな触感が私の意思とは関係なく迫り上がる。
「ひ―――ッ」
嫌だ。正体不明の液体が衣服からじゅくじゅくと赤い染みが染みこみ、腐敗に犯されること実感した。三半規管をぐるぐるに捻じ繰り回される。蹂躙される五臓六腑、そこに自分の意思など介入出来やしない。息苦しくて息をするのが出来なくて、私は酸素に餓えた魚のように口を動かすが無駄だった。苦しくて泣いてしまいそうで。白いドレスの裾が他人の臓腑の汁や脳漿の残骸で穢される。ただ服が汚されただけ――分かっていても理解していても、納得できない。嫌嫌嫌っ! いずれ私もこの中の漿液の一部になってしまうんじゃ……!? そんなのは絶対に嫌っ……! 止めどなく溢れ出る循環発生の「大丈夫?」
悪意さんが左手を差し出したことでようやく此処がどこなのかを思い出すことが出来た。銀色のブレスレットが天使様の羽に見間違うほど、彼女が差し伸べた腕はこれ以上ないほどの私への救済。
迷うことなく彼女の左手首を右手でしっかりと握りしめた。そして起き上がるのを手伝ってくれた。
「ほら、泣いてるわよ」
その動作を受け手入れてくれる悪意さんこと私の常識だと云わんばかりに強く強く握りしめた。
悪意さんはゆっくりと血液だか脳漿だかが入り交じる滴りを踏みつけながら奥の引き戸を開けた。
……え?
少しばかり違和感を覚えた。彼女は此処に行く前は人助けだと言ったのに、今現在贄となっている人々を助けようとはしないのだ。そんな些末な疑問を挟む暇もなく、彼女は私の手を引き(正確には私が握りしめていたのだから、私が彼女について行くという形だ)凄惨の根源へ颯爽たる足取りで進捗する。
私は意を決して、外で待機するという選択肢も出来ただろう。しかし手がゆっくりと振り子時計のような動きで動き、それに追従して壊れたブリキ人形宛らの動作で足も動き始めるのだ。
私たちの進行を阻むように老朽化した木製の扉を幾重も潜る度に、背筋に氷の刃を突き立てられるような悪寒が私を苛む。とても息苦しいが、握った掌から伝わる僅かな温もりだけを信じて突き進む。
「どうして彼らは助けないのって顔ね」
「え……? べ、別に……」
「貴女は私と違って嘘が下手ね。でも正直さはいいことよ、だから教えてあげる」
気のせいか、彼女はとても辛そう。
「私の師匠は……以前話したと思うけど、それはそれはすばらしい方でした。偽りだらけの世界でたった一つの真実。私は彼女は愛していたのか、それともその才能に嫉妬していたのか、今ではもう分からないけど……でもね」
木製の楔を破り、さらに奥へと突き進む。
「魅魔様は私にとって、それはそれは大事な人でした。でも、ある日彼女は八雲紫に殺されました」
「――――――」なんとなく分かっていたような気がする。それでも、
「だからね……これは復讐。人助けって言うのは……まぁ私かもしれないし魅魔様かもしれない。分からないけど、私は彼女を殺めるの」
言い終わった彼女はどこか辛そうで、でも救われたようで……私はなんと声を掛ければいいのだろう。
「私の物語はこれでおしまい。さ、行きましょう」
今までの扉とは一線を画すほどの悪意に満ち満ちた門を潜り、私たちはついに根源へと至る。
豪奢なソファに腰掛け『何か』をゆっくりと貪る八雲紫はこちらを一瞥するや、興味がないという態度を隠さずに再び手に持つ『それ』を食し始めた。彼女にとっては侵入者を確認するだけの眼光は私と意識を隔離するには十分すぎるほどだった―――「怖がらないで」
悪意さんは私に優しく微笑む。彼女の左手を、自分の指が痛くなるまで強く握りしめた。潰そうとしているのか縋ろうとしているのか、私と彼女の手の境界を曖昧にするようにひたすら握る。
「貴女は霧雨魔理沙だけど、そっちの方は誰?」
その振る舞いは支配者と呼ぶに相応しいだけの貫禄が、威光があった。
「さぁ、誰かしら」
こんな時でも微笑を崩さずに悪意さんは八雲紫をあしらう。八雲紫は心底つまらなさそうに口で舐っていた『何か』を地面に吐き捨てた。カランと乾いた音を立てて地面に転がる骨。それは着物の解れのように白い神経繊維やどす黒い動脈静脈の吸い滓がこびり付いていた。
嗚呼やっぱりな、と思った。
この程度ではもう吐き気などないぐらいに私の神経は麻痺してしまっている。
「私は『貴女は誰』と尋ねたの? 答えなさい」
「軽々と名乗るほどのものではないけれど……それほどまでとなら、自己紹介させていただきますわ」
彼女は、大観衆の前で演技をするように恭しく、しかし仰々しく、
「私の名前はMalice――無垢な善意を恐れ純粋な悪意を畏れるしがない『まほうつかい』」
その後もブツブツと囈言を繰り返しながら悪意さんは己が幸せに向かって歩き始める様は征服するが如し。
八雲紫の振り翳す横暴にも近づいて尚堂々としていた。
悪意さんは心底楽しそうだった。激情を抑制できないらしく、彼女の口元はうっすらと釣り上がっている。目は獰猛爛爛とまるで夜空に冴える流星の様。
そんな彼女とは正反対に、私の心は穢土に湧く泉のように冷たく凍り、思考がスムーズに論理を構築する。
八雲紫を殺そうとする。
彼女を殺したらどうなるのか……八雲結界の決壊。この世界でしか住むことを許されない魑魅魍魎の類も同時に消失する。だから、でも。でも、それじゃあ。
やっていることは貴女の世界の八雲紫と同じではないのか。
結論は其所へ辿り着く。
しかし、彼女を止めることなど――私の意見を言うことなど出来なかった。
それを告げたら、彼女が壊れてしまう。堰を切ったような想いの濁流に彼女自身が溺れ死ぬ。
―――今まで彼女と過ごしてみて分かった。
彼女も私と同じ人間なのだと今ここに来て理解してしまったのだ。同じように笑い悲しむ人間。それを表に出さないだけで喜怒哀楽の起伏がしっかりとある、私と同様の生きた人間だ。
彼女は懐から銀色に光る刃物を取り出す。八雲紫に異形の力は通用しないからこその対応。唯心ではなく唯物的に殺傷するためのたった一つの方法。
八雲紫は指揮棒を振るうように指先を宙で踊らせるが何も起こらない。困惑する彼女を嘲りながら視姦しながら一歩また一歩と亡霊は歩き出す。
距離は遂に零と成り、ゆっくりと八雲紫の喉に銀色のナイフを植え付けた。それはリンゴ飴を地面に突き刺す動作によく似ていた。
彼女はより何の意図か傷口を三角形に象った。噴水というよりは水鉄砲のように勢いよく血飛沫が溢れ始める。
ふ、と短く息を吐く悪意さんは最初に逢ったときと同様、否それ以上にひどく人形じみた顔色をしていた○
「なに、これ……」
足下からシャボン玉が舞い上がる。
綺麗な○。見る人によって透明にも虹色にも見える小さな天体。
触れば弾ける儚い幻想(しゃぼんだま)。それらがふわりふわりと私の周囲を漂い始めた。
幻想が消えていく。
悪意さんの方を見れば彼女自身も人魚姫みたいに泡に塗れていく様はひどく、本当に悲劇のヒロインみたいで、華麗で叙事的で。
嘗て彼女だったモノが粒子になり、不規則に散り始める様は決して塵芥の類いなどでは無くまるで砂漠に降る真雪みたい。
それを惚けた表情で見つめる彼女は何も言わない。唯こちらをじっと見ているだけ。
私は今、泣いているのだろうか。頬に手を当てると、濡れている。
「――――――」
彼女は何も言わずに半ば塵化した躯を動かし私の元まで覚束ない足取りで歩み寄る。何故か彼女は泣いているのに笑っていた。それは一ヶ月一緒に過ごしていて初めて見せる本当の彼女の表情なのかもしれなかったけど――――――。
彼女は私の耳元でそっと呟いた。
胡蝶の夢―――そう、境界が曖昧模糊な私は私越しに私を見つめた。
真夜中らしく、月光の薄明かりしか頼る物は無く、故に辺りがぼやける。うまくピントが合わせられない。
よくよく観察しても、どこだか見当もつかないけれど、へんてこりんな帰郷感だけが頭蓋内で残響している。
「あれは、博麗神社かな」
苔と枯れ葉塗れの石段の最上段には腐りかけ、色褪せた鳥居が鎮座していた。寂れた神社が輪を掛けて私の心に物寂しさを感じさせる。
どこかおもちゃ箱をひっくり返したような印象も与える殺風景だが、先ほどの牢獄混じりの拷問部屋のような腐臭は一切しない。
即ち何も無かった。
月明かりがブレスレットを包みこむ。
「ゥ――――――――――――ァ」
泣き喚くしかできない自分が腹立たしい。殺してやりたい。
ただ生まれたての胎児のように地に膝をつき、獣のように叫ぶ。
何故慟哭しているのか、何に打ち拉がれているのか。それすら分からない儘、私の情けない嘆き声だけが反響する。
喉は枯れ果て顔には土化粧。
噎せ返るような自然の香りが血液から心臓を伝わり躯全体を揺さぶる。何も存在し得ない空間で寂寞の想いを抱いたまま、むくりと起き上がる。躯が、皮が、脳が、悲鳴を上げる。この痛みを生きると云うのか。
心を打擲する煩悶は湖の波紋のように次第に甘言へと移り征く。
涙が涸れるなんて大嘘だけど、頬は夜風によって急速に冷やされてゆく。
我ながら、途方も無い設計図を頭脳に描いて、仮想空間にて計画を進捗させる。加え実現させるための工作行程をトレースする。
嘗て聞いたことがある。
この世界とは全く異なるもう一つの世界が存在する……と。
だとしたら、そちらの世界で私が八雲紫を殺せば、彼女は助かるのではないのか?
「出来るか出来ないかじゃない、やらないとだ」
遮二無二に身を任せ歩き始めた。
博麗霊夢との日々が、ノイズ混じりにちらつく―――いいや、既にココロ自体がノイズなのだから鏖殺してしまえ。
人はソレを憎しみだとか復讐だとかいう言葉で罵り嘲るかもしれない。そんなのはナンセンスだ。
彼女を日の当たる暖かい場所へ還す……それの何が悪いのか今の私にはもっともらしい反論は見つからない。
そう、必要なのは躊躇いではなく、幻想を紡ぐこの左手なのだ。韜晦など今は最も不要な物。例えソレが歪んだ克己心であったとしても。
どうすればいいのかなんて理論論理はとっくに組み上がっている――これからは唯感情の炎に身を焼かれていくのみ。人はソレを生きると謂う。必死に足掻くことを生きると謡うのだから。
「貴女を傷つけるモノ全てを、絶対に赦さないから。だから待っていてください」
縷々たる声は確かに耳朶を振るわせた。私は今確かに生きている。
巡り逝く輪廻にたった一つこの身を、波間に漂う筏のように、虚空に漂う木の葉のように、任せるのみ。
それぞれのセカイがひしめき合うセカイでも、私は間違ってなどはいないと証明するために。
神様、これって惆悵ですか?
ふと視界の端に、蹲っている少女が見えた。
『月日ハ光陰ノ矢ノ如ク過ギ去リ、何時シカ無辜ナ少女ハ魔女ニナッタ。
魔女ハ人ヲ超エ、刻ヲ超エ、何時カ交ワシタ約束ヲ左手ニ掲ゲ、再ビ舞台ヘト舞イ戻ル』
砂漠……?
異様過ぎる暑さだ。
意識は目覚める。
億劫なので目は閉じているため視野は真っ暗。
まだ闇の中を漂っているような……宛ら夢寐を旅する浮浪者。
「どうしたの?」
どこからか声が聞こえる。
ずっと、ずっと、昔に聞いたことがあるような懐かしくも幼い声色。嗚呼、頭が痛むよ。
瞼を突き破る鋭い日光が永久の眠りが覚醒へと誘う。
霧雨めいた仄かな深緑色、それがセカイに望んで生まれ墜ちた私が初めて見たものだった。
砂漠とは似ても似つかない竹林と思しき場所だ。ともかくそこに『着陸』したみたい。
ともかくその中心で私はアンティークドールのような奇妙な姿勢で眠っていたようだ。若干の痺れはあるけど……大したことは無いさ。
「……ど、どうしたのですか?」
改めて見ると、目の前には一人の少女がいたことに気がついた。
十二歳ほどの、赤みがかったストレートヘアで、私と似たような真っ黒なドレスを身に纏うかわいいかわいい女の子(例えるならばルノワールのジェリー=マネだろうか、ともかく愛らしいという印象だ)。
彼女はいったい誰なの? 雨降り低気圧(低血圧だっけ)でも無いのに頭痛が脳みそをシャリリと囓る。
「貴女は誰なの?」
私は問う。
「私は、霧雨魔理沙だよ」
――――――。なるほどなるほど。
これは偶然か必然か。この幻想郷(セカイ)で出会った初めての人物が自分と同姓同名だなんて。嗚呼、儘たる文字通りの奇跡。
―――うっくっくくっ―――くっ―――うっくくぅ阿は唖ハッ吾ハ――――――亜ハ亞ハ蛙破ア刃あ羽achーachッ!! ――いいえ。
これも歴史書(Akasha-Chronik)に記されたことなのかもしれない……そう思わなければ狂ってしまいそうだ。事実既に螺子が数本外れている。否、私という凶刃は八雲紫という鞘に収めなければならない。
ふと空腹を訴える音が聞こえた。そういえばひどくお腹が空いている。時空移動の魔方陣を描いたあの日の朝はトーストを一枚囓っただけだと思い出した。それからどれくらいたったのだろうか……なんていうのは時間旅行をしておいて野暮な疑問かもしれない……失笑ものだ。
「笑ったらお腹が空いたぜ……ねぇ魔理沙」 彼女を魔理沙と呼ぶと意味も無く脳が軋む。
「な、何?」
「貴女の家はこの近くでしょ。お腹が空いて倒れそうだから、何か食べ物を分けてほしいの。現にいま倒れていたでしょう。頼むぜ」
「で、でも……」
「それ相応の見返りはあげるよ。えっと……ほらよっ!」
とうの昔に読み飽きた書物を投げ捨てる。人皮をあしらってある、誰から貰ったかも定かではない魔道書だ。一応すごい値打ちがあるらしいが、特別今の私には必要なかった。
どうやら彼女には価値が分かるらしく、ひどく興奮して私の居住を了承してくれた。Ah……なんという浅はかさだ。年頃の娘とは思えぬほどの開放感……それとも私が特別なのかな、なーんてね。
「そういえば貴女はなんという名前なの?」
少女が私の横顔を覗き込む。
私の名前……そうか。私が霧雨魔理沙だと名乗ってしまうと、色々不都合な事象干渉が起こるかもしれない。
もっとも『彼女』が名前を呼んでくれないならば、私に名前なんて必要ないのだけれど。
「私は『悪霊(Menma)』。しがない『科学者(まほうつかい)』だぜ」
適当に答えたつもりだったが、案外悪霊というのは言い得て妙かもしれないなどと自画自賛してみたり。
「へぇ『ミマ』か……変わった名前……。どういう漢字を当てるのですか?」
どうして日本人というのは(私も日本人だが今は棚に上げてもらおう)こういう細かいことを気にしたりするのだろうか。
「……魅力の魅に魔法の魔だぜ」
またしても勝手な返答をした。
「名前、素敵ですね」
「そうかな」
照れくさくなって髪を愛でる振りをしながら顔を隠した自分に驚いた。
……心なんてとっくに壊死させたと思っていたのに、無いものは殺せないと実証したわけか。どうやらまだ人間らしい部分が残っているらしいが、それが喜ばしいことなのかどうかはまた別問題。
ところで、私は何故八雲紫を■そうと考えているのか。記憶の引き出しを開けても見つからないのはどうしてなのかな。
その夜に私は早々に風呂を借りた。何せ汗臭くて泥臭くて我慢ならなかったので不躾ではあったがそれだけは霧雨魔理沙に要求した。彼女は早々にお湯を張ってくれた。服は一着しか無いため浄化魔法で清めておいたが……やはり身体の疲れは入浴でとるに限る。
一人暮らしには不相応なまでに綺麗で広い浴槽から滾々と湯気が立ち上っており―――。
「げ」
鏡に映った自分を見て嫌悪とも驚愕ともつかぬ感情がふつふつと湧いた。私の髪は蜂蜜色で染め上げたような金色だと自覚していたのだけれど、どこをどう間違ったのか緑色の食紅を塗したかのような毒々しい苔色へと変色していた。付随してドレスの黒色素が薄まり、淡い藤色になっている。
「最悪っ……」
おそらくは副作用だろうが……これはさすがの私も、ちと堪えた。前の髪色は気にしてなかったけど気に入ってたんだけどなぁ。
さて。
懊悩もそこそこにしつつ、浴槽に半身を沈めながら携帯電話で『義妹』に電話をかける。繋がるかどうかは不安だったがどうやら杞憂だったらしく数回のコール音の後に彼女は可愛らしい声を電話口から覗かせた。
「魔理沙……!? 今日は魔理沙が当番の日でしょ! いきなりいなくなっちゃうのはルール違反だよ!」
「ごめんごめん。まぁちょっち野暮用で……。そして『Flan』。」
「なぁに」
「私のことは『義姉さん』と呼ぶって先生との約束だぜ」
「いいじゃない。もう先生いないし……それに魔理沙のことを『義姉さん』って呼ぶのは抵抗があるわ」
「…………」
「…………」
「……了承しておくぜ」
「わーい! で……何なの私に用って?」
「えっとね―――私しばらく帰れそうにないから一人でうまくやっといてってだけ」
「むーッ」
「怒らない怒らない」
「分かったわよ。魔理沙は旅行してるの?」
「うん……まぁそういうことになるのかな。ともかく――じゃあね」
「おやすみなさい、義姉さん」
「おやすみ」
通話終了ボタンを押した。
「それって何ですか?」
湯上がり直後の私の右手に持つ携帯電話を指さし霧雨魔理沙は問うた。全く興味心があると小蠅よりも性質(たち)が悪い。
「これはね、遠くの人とも会話出来る魔具よ」
「へぇ! 今度私にも作り方を教えてくださいね!」
「ええ勿論」
柔らかに微笑む表情を作りながら、内心彼女との約束など破る気満々な私であった。
嘘も淑女の嗜みだぜ。それはさておき。
彼女が敷いてくれた寝具に早々に俯せになることにした。
霧雨魔理沙が寝付くまでの間、思い出とやらを穿り返す。
あれから、大学に入り、魔術を学び、これでもかというほど刻苦して、当然のように主席で卒業して……嗚呼思い出したくないことばっかりだ。やめよう。
正直なところ、何もしない時間というのは苦痛以外の何物でも無かった。下手に考えを巡らせばいつでも自己嫌悪に陥るからだ。昨今ではポジティブとは相性が悪く、ネガティブとは相思相愛にあるから、どうにもこうにも芸術性は皆無だなぁとまたしても自己嫌悪……ほらね。
フランは元気でやっていけるのかな?
少しばかりの良心の呵責というやつだろうか―――ッ、玄翁で頭蓋を思いっきり叩かれた様な衝撃。痛い痛い痛い居たい居たい居たいイタイイタイよっ!
「――――――いいえ」
警鐘が鳴り止む。
だってコノ痛みを生きると言うのでしょう?
「さて……と」
そうこうしているうちに、どうやら霧雨魔理沙は寝入ったようだ。
蚊帳越しに少女の気持ちよさそうな、かつ規則的な寝息を確かめながらそろりと身体を起こした。
このセカイでは私の異能がどれくらい通用するのかを調べる必要がある。
幸いにして宿主である霧雨魔理沙はよく眠っているように見えた。
ギギッと建て付けの悪いドアを開けると、そこは今まで見たどのプラネタリウムよりも美しい夜天にはこれまた果てしない星漢が広がっていた。宵闇に覆われた星星と月光が支配する夜空の下、道無き道を闊歩する。心地よい夜風が笹の葉の調べを慇懃に奏でる様を背中に聴きながらてくてくと歩き続ける。
『吸血鬼退治』建前だが……いいことだろう。
案の定、私の能力は何ら支障なく行使することが出来た――即ち■せた。
彼女の渾名に相応しく辺り一面林檎色。ペンキを塗りたくったような深紅色一色で薄手のカーテンレースを敷いたような風景へと様変わりしていた。気色の悪い粘着質なオブジェまで転々としている光景はか弱い聖女様が見たら発狂するかもしれないが、生憎こういったものはここ数年で見飽きてしまっているので新鮮みは無いに等しい。巨大なトマトを潰したら、ちょうどこんな光景になるのかもしれない、なんて聊爾の例えを謡ってみたり。
血だらけの左手の指をくにくにと曲げてみてもなんら違和感はない。ただ、血だらけの掌は脂だか血小板だかよく分からない物まで付着しているので気持ち悪かったため、あらかじめ持参したタオルで綺麗に手を洗った。
藤色ドレスには染み一つ無いことに安堵しつつ臭いを嗅いでみる。……やっぱり腐臭は別か。
「私は、こんなモノに踊らされていたのか……」
レミリア・スカーレットの右手(すでに肘から先はミートソース状態だけど)を見ながら、言い知れぬ虚無感に襲われた。唯運命の手を憎んでいた自分がちっぽけに思えたからだ。
「…………」
見ていますか? 嘗て運命に翫ばれるだけの自分とは違う。捻伏せることさえ出来るのです。
視界の端で左手のブレスレットがキラリと光る。誰から貰った物だったのか……。
思い出そうとすると、脳がショートする。ブチリと回線の切れる音と共に視界がブラックアウトしてしまう。
……今ではもう思い出すことは出来ないけど、これはとっても大切なもの。楔はしっかりと脳髄に打ち込まれ、アクセサリと同じように私を鎖縛する。じっと見つめるとブレスレットは禿げた塗装の下から愚鈍な王者が嘲笑うように煌煌と輝き続ける。思わず目を背け、家路を辿る。否、全て夢なのだ。
灼熱の太陽を何個も並べたみたいな、むしゃくしゃする暑さで目が醒めた。まったく太陽というやつは自分勝手だから嫌いだぜ。
あれ。躯が云うことを聞かない。
おかしいな。私の躯は既に私の意思とは反対に動いていると云うことなのだろうか――――――まぁ嘘です。
唯一真実なのは、不明瞭な重さが私を縛っている。起き上がることすら苦行じみていた。眠っているときは何も無くて幸せだと改めて実感する。無理矢理大きく伸びをしたところで倦怠感はずぅと余計のしかかる。
「――――――疲れた」
もう何も考えたくない。溺れ死ぬのはごめんだ。
「あれ? 魅魔様、それどうしたの?」
……え?
少女が指さすその先……それは私の右肩に刻まれた蝶のような刺繍。ラズベリーソースとは似ても似つかないほどの林檎色の体液。おそらくレミリア・スカーレットの漿液だろう。私はソレを拭い取ろうとしたが……おかしい。いくら擦っても擦っても取れやしない……っ!
取れないなら仕方ない。放っておこう。
「さ、今日は実験しないの?」
出来るだけフランクに触れてほしくない話題から遠ざけることに細心の注意を払うまでに臆病で脆弱な私は、なんと稜々としていることだろう。
「あ、うん。そうね」
少女はそれ以上私の汚点については触れなかった。
きっとこれは夢。愚鈍な魔法使いが見ている永久のひととき。
そう思えば、楽になれるから。私は此処にはいない。
彼女――こっちの霧雨魔理沙と過ごす時間は、悪くは、無かった。
幻想と嘘に横溢したこのセカイで絶対的に彼女は正直だったから。その魂の音色がひどく心地よく、そして幾度となく私を犯す。ここに来てからというもの、頭痛が多発している。
専門的な知識は皆無で、かつ掛かり付け医の言葉を鵜呑みにするならば『心的外傷=PTSD』というやつらしい(日常生活が出来ないという証明書までご丁寧に頂いた。まったく巫山戯たものだ)。
それが何だというのだろうか。一人懊悩する傍らには、穢土で咲く無邪気な聖女様。
嗚呼、なんと楽しそうに笑うことだろうか。
誰から聞いたことでもないけれど、嵐の前の静けさは幽境のように心地よくて、それから先は退屈だという台詞を思い出した。
秋特有の順風満帆な風が私の髪を優しく撫でる。軟風が妙にはしゃいでおり、首筋を擽ると同時に炭水化物が焼ける香ばしい臭いを辺り一面に漂わせる。
慣習の表層を取り繕うのは楽しさ満ち溢れるお祭り縁日なのだから……そういった厳粛だとか不安だとかいう感情は愚民の群れからは一抹も感じ取ることできない。まったく莫迦げていると嘲笑する他ないぜ。
「魅魔様も一緒に楽しみましょうよ」
「え、ええ……そうだね。せっかくだから楽しむとするぜ」叙情的な台詞をさらりと口にしたことが信じられない。
林檎飴やらなにやらを食べた。勿論支払いは隣の幼すぎる年下の少女だということを念頭に置くとそれだけで言いしれぬ――理性にも似た何かがふつふつと蓋を開けようとするのだが、今は知らんぷりをしておこう。舌の感覚が壊れかかっているということも、黙っておいて損はない。
それ以上に今支配されなければならない感情が私にはある。私に感情があるのかないのかなんて些細な問題に過ぎず、無謬な怨霊という奇妙な言い方がよく似合う。
ふと見たこともないような出店が目についた。看板には左から『て当的』と書かれている。
「……何これ」
てあまとー? ティアマトゥ関係のお店……? むむむ、分からん。
「あれは『的当て』って云うんですよ。やってみますか?」
的当てか……どうも久しぶりの日本語というのは読む分には非常に難解なシロモノだ。
「そうね。やってみようかしら」
私はこれ得意だったから、大丈夫だろう……なーんて楽観的主観的予測は脆くも崩れてしまう。
一発目は、断じて狙った訳では無いのだが店主の額を小突いてしまった。続く二射三射も有らぬ方向へと紙飛行機みたいに飛んでいく。
……願を掛けてやってるんだから落ちろ―――『落ちろ』なんて祈りの言葉はよくないわ。落とすものだ。
私は最後の一発のコルク弾に微力な破壊衝動を込めた。何気ない振りをしてそれを放つと、
「…………っ」
やばっ……どうやらちょっと恨み骨髄が混入していたためか威力が並以上で、商品をぶち抜いてしまった。
ま、落としたからいいか。ありがたく頂戴しておこう。
それは銀色の安っぽい玩具のブレスレットだった。心なしか私の左手のブレスレットとよく似ている。
私には必要ない物だし、少女にあげることにした。
「わぁ! ありがとうございます!」
綺羅星みたいな笑みは私の邪悪な一粲と相殺された。
まるでティアラを頂く姫君みたいに粛々と受け取る少女を、私は見たことがある。
一瞬。
全身に冷や水を浴びせられたように、躯が凍り付いたように硬直する。ぐるりと廻る巡る景色を固定しなきゃ。
なるほど。
「――――――」
下品な華美装飾の荷車。その中に『彼女』がいると直感した。
しかしここで■すのは得策では無い。もっと彼女に相応しい死に場所を。手向けの花が最も映える所。
そう。あの参詣なんかいいんじゃないか。腐臭混じりの中で墜る王女―――嗚呼、想像するだけで、ゾクゾクと背筋が震え、もう押さえられない……っ!
「ねぇ魅魔様あれって……」
―――どうせだから、傍らで必死にもふもふと綿飴を貪る小動物系無辜少女も連れて行ってみよう。そのときの反応が楽しみだと思う反面我ながら意地が悪いと悪いな、と内心で苦笑せざるを得なかった。
果たして私は、このセカイの霧雨魔理沙をどう思っているのだろうか。
……なーんてね。
「さ、行こう」
「行くってどこへ?」
「人助けに」
半分冗談半分真剣だ。
さぁ有象無象の群像を縫いに縫い、私は其所まであっさりと導かれたように辿り着く。運命の嚮導者は死んだ。されど運命は私の味方のようだ。
青銅作りの古びた持ち主の権威をここぞとばかりに醸し出す厳かで愚かな鉄製の門の錠前を崩し、招かれざる贄として足を踏み入れた。
「…………」
嘗て見た『いつかの風景』と全く同じ光景が其所には在った。
人肉コールタールで塗れた小部屋は、しかし興奮させる材料でしか無い。
横では純粋無垢な少女が先ほど嚥下していた炭水化物類を黄緑色の体液混じりに嘔吐していた。惻然混じりの可愛らしい反応だ。ちょっぴりだけど羨ましくもある。続けて少女は尻餅をついた。彼女はそれこそ慌てふためいて狂躁する。嗚呼なんと愉快なことだろうか。
私は彼女を踏みつぶしたい気持ちでいっぱいだったが、まぁなんというか一時の気の迷い故に揶揄することはせずに、彼女に救いの手を差し伸べてやる。何の疑いもなく彼女は私の手を取ったきり離すことはなかった。別段鬱陶しいとも思わない自分に今度こそ心底驚愕した。平生の自分ならばそのような仕草をした途端にそいつの手首から赤い滝を作ってやるのに。ここに来て私も変わったのかな? なんて思ったりは絶対にしない。
さて。
狭窄で重鈍な扉を潜る度に、武者震いが大きくなっていく。歯を食いしばりすぎて口内は鉄の味で味覚が麻痺している。背筋を掠めるエクスタシーへと至る前戯を通り越して……言うなれば静脈に悦楽という成分を直接注入されたかのような……五指が蠢動してしまう。
「痛っ……!」
「あ、ごめんなさい」
いつの間にか少女を握る掌まで潰そうとしてしまっていたらしい。別に反省猛省をする気はないけど口では謝った。
「ねえ……さっきの人たちは助けないの?」
「そうね、別にどうでもいいからかしら」
別に。
「私の師匠は……以前話したと思うけど、それはそれはすばらしい方でした。贋作だらけの山紫水明の世界でたった一人、唯一無二の真実。私は彼女は愛していたのか、それともその才能に嫉妬していたのか、今ではもう分からない……でも」
私は何故、こんな話を彼女にしているのだろうか。
木製の漆喰を破り、さらに奥へと突き進む。
「彼女は私にとって、それはそれは大事な人でした。でも、ある日彼女は八雲紫に殺されました」
そうだ。そうなのだ。だからこそ、彼女は絶対に赦さない。神たる観測者共が赦したところで私は彼女を赦さない。
「だからね……これは復讐。人助けって言うのは……まぁ私かもしれないし彼女かもしれない。分からないけど、私は彼女を殺めるの」
なんで。
誰にも、フランにも、先生にも話した事なんて無かったのに。
彼女相手だと、どうして、脳の錠前が緩むのだろう。不思議なことに知られたことによる不安感よりも、気のせいか少しだけ、そう、ほんの少しだけ何かが溶け始めた。其れが耐えられなかった。だから、
「私の物語はこれでおしまい。さ、行きましょう」
騙りは語りへと変異していくとでもいうのだろうか。まぁ……どうでもいい。
最後の門を開くと予想通りの人物。奇異にして忌諱の権化たる八雲紫が趣味の悪いオブジェで彩られた室内で驕慢を隠さず鎮座していた。
不愉快だが、愛おしいとはこの感情を指す物なのかと改めて実感できた。彼女を■すためだけに私は此処にいる。それはある意味恋心と近似値をとる。
「貴女は霧雨魔理沙だけど、そっちの方は誰?」
そうか私は知らないのか。うーんちょっとばっかし残念だぜ? 此処であったが百年目みたいな俗物思考は私だけか。いやぁ片思いって辛い。
「さぁ、誰かしら」
「私は『貴女は誰』と尋ねたの? 答えなさい」
「そう……貴女は覚えていないのね。ならいいですわ。軽々と名乗るほどのものではないけれど……自己紹介させていただきますわ」
一呼吸置いて、
「私の名前は『■■■■』――純粋な善意を恐れ純粋な悪意を畏れるしがない『科学者(まほうつかい)』」
さて、自己紹介も終わったことだし。躊躇うことなく歩を進めた。愚鈍且つ優美に、雅に。
一歩歩く度に足下から漿液が絡みつく粘着質混じりの液体音の反響はショパンの音に変わる。
血を帯びた舞台には私と、貴女それに彼女。
嗚呼――彼女が母し君臨するセカイなど滅びてしまえ!
幻想の幸せを敬愛し恭しく享受する有象無象共も、儚い大地に根付く塵芥と同義の魑魅魍魎共も等しく灰燼へと帰るがいいさ……!
「AchーAch-AchーAch-AchーAch-AchーAchーAch-AchーAch-AchーAch-AchーAch!! 所詮、打鍵を掻き鳴らす改竄者の存在すら……知らないの? 嗚呼、儘たる無知。無知なるは零距離――夢語る乙女、傍らには愛騙る乙女。|メタモルフォーセス|の折れた脊髄を巡り哀れ両者は火刑に処す。塗り込まれた神経繊維の手編みのマフラーは粛々と謡います。聞きました。吐瀉物を踏みつけられる白鯨かもです。雲母と靡く悪意の後ろ髪が、その無辜なる少女をまるで青薔薇が天真爛漫、然れど冬に訪れる天の川が決して罪人を赦しはしない。だから私は裁かれるのですか? だれか助けてください。お願いだから助けてください。後悔するも常に孤高を気取り、孤独で在る。愚鈍で陰鬱な女神が月華に咲く向日葵は今宵も漣を漂う枯れ葉と忌み嫌う。咬み合った歯車と時計塔の懺悔が一致するときに降臨さぁです。Flanはどうだった? 鴉と紫陽花の接吻は甘く切なく蕩けて惚け、腕が爛れる童女の双眼はこれまた綺麗なルビー色。身を焼かれる子安貝に櫂を任せ、唯移ろい逝く儘に進む。とは私のことですかも。しかしそれすら分からない八雲紫。貴女は生きる価値などあるのないのですから! 死んでくださいお願いします懇願します嘆願します。戦慄がバロックのピアノの音に乗り、逡巡と鳴り響いて……美味美味葡萄酒を飲む隻眼A。そして傍らには盲の乳飲み子。即ち堕胎と鎖に繋がれた銀狐を救い出すにはその鮮麗たる小骨を拾い上げ、水底へ収むるに限ります。私は所詮は笑えないピエロ。惻隠の視線はもう慣れっこ。ソレは無義道を抜けた開闢スル亡き彼女へと鎮魂歌となりへるかどうかは私が決めることかもしれなゐのですが、私は生まれながらのトリックスター。漢字の巨躯に釣瓶打ちされてしまう。情けを掛けてくださるならばどうか一言私の名前を呼んでください。ぐがぎあ。イタイよぉ……居たいです。どこもかしこも……辛苦です。迫害と奇跡が帆を張るシロモノで在り、所謂贋物。即ち正しいのは私唯一人=ですが神でもジャンヌでもありません。でも彼女も他人。どうして私を置いていって……ががぎぎ。私は壊れた醜悪人形なる奇妙奇天烈な寓話のヒロイン、人魚姫と脊髄を九ミリレンチで束縛する。ぐぎぎが。どうして同一視してしまうのかしら? 似ているのは結末だけの閉背表紙に絵投影するのは悪いことだといつになっても教わった。コバルト華の桃色が私の頬を染め上げます。それは青の色の音。それは全くの静寂と無念。赤い色はわかりやすくて心地よい。もしもこのシアワセ青空に一滴でも赤い血を垂らすことができましたら、それは魚ですか? いいえそれは肋間です。もう死すら厭わない……ですからですから! 私は生きています、死んでいます」
……誰かが、私の口を借りて言葉を並び立てる。意味があるのか無いのか……観測者以外には理解できない。
口端から唾液が絶え間なく溢れ出る。舌で軽く拭い取ることすら躊躇される。
「そう……招かれざる客として消失しなさい」彼女は指先で何かを象り、その軌跡は気味悪い紫色の文様に成る。しかし何にもならない。
何ですかそれは? タクトを振りかざす指揮者気取りですか? そうですよね。力無き頃のワタクシめならば私は消えてしまいした。ですがですが!
彼女にあらゆる異能は効果が無いのだが、それはこちらも同じことなの。
彼女の異能は私には効かない=同じ土俵にたった上で私の方が強いと云うことを証明してやる(もっともその土俵を作り上げるのに九年近くもかかってしまったのだけれど……結局の所純粋な所では彼女に勝てないのかもしれないなんて悟ったりしてみたり)。
でも見てください。
私はこんなにも立派になったんです。
だから、お願いだから、私の名前を呼んでください。
そして、見ていてください。私は、貴女を幸せにしてみせます。
嘗て青空を見上げるばかりだった小娘などではなく、今は空を掴むことさえ出来るのですから。
私は袖口から鈍色の果物ナイフを取り出した。キラキラと銀紙を巻き付けたみたいな、玩具と見間違えるほどの安い武器。
手頃で小振りで……こんな陳腐な刃物で■されるのは納得いかないだろう? そうそうその表情(カオ)が見たかった。絶頂へと上る私の血液視神経が、嗚呼、嗚呼、Ah-Ach-Ach―――。
最後の一歩は強く駆けた。
まっすぐに八雲紫に穿つ右手首は、反対方向のベクトルを持つ何者かの力によって止められた……?
右手に絡み付いた、既視感あるか細くて見るからに弱々しい成長しきってない白い触手が私を、私を止めたのだ。
嗚呼、それは霧雨魔理沙の両腕。一本には白くて真新しいブレスレット。
彼女の膂力は決して強い類いのモノでは無いはずなのに、簡勁過ぎるが故に躯を喰いばむ。
「…………っ!」
目尻に涙を溜めながら眼力だけで必死に止めようとしてた。
何かを私に告げたいのか口は動くが、言葉は出ずその様子は酸素を求める魚によく似ていると茶化す言葉は紡げるほどの余裕は今の私には無い。
彼女の瞳をなんと形容していいのか分からなかった。不愉快だ、不愉快不愉快不愉快不愉快。
頭がイタイ。
っ、脳漿が、
腐食する、
坩堝みたいに、ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないっ……! 殺す殺したい。駄目っ!?
「…………」
お願いだからそんな目で私を見ないでよ……! 私は、私は、私は、私は……っ、正しいのだから! 絶対に私は間違ってないっ!
だってそうでしょう。この激痛も露悪も生きると謂うことなのでしょう、そうなのですよね……?
ねぇ、お願いだから応えてください。私はここにいますのです!
――それでも禍福の糾いは疾風怒濤の勢いで蹂躙する……!?
「私は、貴女の苦しみとか憎しみとかは分からないっ……けど、殺しちゃ駄目だよ……! それじゃあ同じだよ……魔理沙」
―――そんなのは。
「そんなのは唯の詭弁よ」
「でも、貴女は私と会話してる……」
「それは貴女が止めたからよ」
「だったら、どうして振りほどかないんですか……?」
静かに伝わる体温。後ろから閑雅に抱きしめられたと気づくに時間は掛からなかった。
見やれば、嗚呼、どうして泣いておられるのでしょうか?
涙は紛れもない『彼女』のもの。鬱陶しく――可憐で――衷情で――弱アルカリ性の――――――やめよう。
嘘を吐いた。
酷いことも言った。
私と貴女は、渚で小突き合う貝殻のような関係でしか無い。
「――――――ッ」
でも決して、泣かせたい訳と思ったことは無い。
でも現に彼女は。
此処に連れてきたのは唯の悪戯心……?
違う。
嗚呼なんだそういうことか。
霧雨魔理沙という悪意の名前はいかにして生まれたか。どこかで分かっていた。納得できなかっただけ。
焦燥や葛藤なんて生まれやしないさ。それどころか安らぎさえ……ここ数年の間で感じ得なかった気持ちが止めどなく溢れ静脈に乗って体内を駆け巡る。
「ありがと」
今までのような慇懃無礼ではなく、誠正真正銘の最初で最後の私としての意思としての言の葉がどろりとした空気を伝う。
でも自分の首を縦に振ることなど到底出来やしない。私は人で在る以前に悪意で在り魔女で在るのだから、彼女の優しさを享受するには穢れ過ぎだ。既に私は悪意の猖獗なのだから。
―――嗚呼、なんという道化だろうか。
人を殺したことなんて一度たりともないのに。
人を殺したいと思った事一度たりともないのに。
ただ他人の幸せを願っただけなのに。どこで歯車が咬み合っちゃったのかな。
所詮は私も愚者と同じく感情の操り人形でした、ごめんなさい。
私は彼女を制止を振り払い、まっすぐに八雲紫の喉にナイフを生やす。
柔らかい果肉を抉り取るような優しい食感が木性の柄越しに伝わる。
―――本当はずっと誰かに止めて欲しかったのかもしれない。
心は酷く脆弱で繊細で、守る価値なんてありはしないし、持つことさえ忌避しなければならない。
でも後ろで啜り泣く彼女の叫びがハーブの音のようで、殺した感情を融解させる感覚が、なんてひどく背徳的な林檎味。嘘を吐き過ぎ何がペルソナ被った自分なのかが曖昧気味に、今日まで生きてきた。
途中でガチンと引っかかる。脊髄にぶち当たったらしい。
安物刃物じゃこれ以上は進めない。八雲紫の舌骨が激しく上下に揺れ動く。関係ない。
仕方なしに出血をより多く促すために柄を時計回りに捻ると、ぼこりと開いた。
―――そうだ。私はきっと、誰かに……いいや、彼女に。
過ごした日々の欣快は決して偽りなどでは無かった。
それは過去は勿論現在も、決して贋物などではないと、分かっていた。
でもソレは心無しじゃ感じ得るモノ達でもなかったと、分かっていたはずなのに。
彼女の首には三角の風穴から逆かにした缶コーヒーみたいに穢らしい体液を撒き散らす彼女を見下す私。以前八雲紫は最初の姿勢の儘椅子に座っている。違いはない―――死んでいると云うことを除けばだが。
唯、見て欲しかったのです。
不思議と達成感は無く、心にぽっかりとを開けられたような空漠感が余韻混じりに私を蝕む。
頬を暖かい液体が伝う。それが何なのかは忘却しっぱなしで。○
「あ」
ふわりと手に小蠅の様なシャボン玉が纏わり付くのもまた必然。肥大化した疣のように私の肌の内側で膨張し皮膚を突き破る。血など下世話なものは零れない。ただ私だったモノはパウダーみたいな純白の胞子となり空を舞う。
舞い散る雪のような、そう、砂漠に舞い降る雪だ。
嗚呼、真赤な血に降る真白な雪というこの風景こそ、私は一番避けたかったのに。
消える消えるセカイが消える。自己満足だと嗤いたければ嗤えばいいと思う。それが霧雨魔理沙としての正しいあり方なのだから。
しかしこれは私の生きた、誰にも譲れないたった一つの運命(いみ)なのだ。
嘘に狂奔した魔法使いの末路。文字通り徒花だ。
でも――真横で○○泣きじゃくる彼女を見つめると○○○○○○○私まで悲しくなるのはどうしてなの?
○○○○ま、彼女に一言ぐらい○○別れを告げてもいいだろう。○○○○○○○
誰かに○○○聞いた言葉と○○○○○○まるっきり同じような言葉を、私の心の支えを○○○○○託して。
『もし生まれ変わることが出来たら、今度はきっと友達に』
○○言い終わった瞬間、私は○○○○○○○○○○○○
○○○○○○消失し○○○○○○○○○○○○○○○○○
Fin
良いですね、このカオスさと言い、文章の流麗さと言い、読んでて非常に興奮しました。この読み終わった後に何も残らない感じ、イイですね。大好きです。
氏の作品は作品として読むより、文章として読んでいます。
だから非常に楽しませて頂いております。
これからもがんばって下さい。
影ながら応援させて頂きます。
何を伝えたいのか?
読みにくく、遠回りで普段使われないような言葉と漢字、結論まったく面白くなかったです