ある日を境に純狐の趣向が変化した。本来食事を必要としない彼女が食道楽に目覚めたのは一体どういう訳だろう。特に好んだのがうどんである。純狐は幻想郷一だと言われるうどん屋に時折入る。そして人目を気にしてか一番奥のカウンター席で注文を取った。うどんが出てくるとまずこれを一つの芸術品かの如くじっと見つめた。そして汁も飲まず割り箸を完璧な力の配分で綺麗に割り、うどんを一本だけ中から摘み取った。真っ白な弾力のあるそれは純狐に女の肌を連想させた。口に含むとくいっと曲がるそれは悪魔的な曲線美である。純狐はその一本のうどんを散々慈しむように眺めたと思うと愛撫するかの如くそれを喉に流し込んだ。
次に一枚のかまぼこを箸で掴む。その色合いで純狐が連想したものは……。
弱ったのはこの店の店主である。高貴な格好をしていたので俺の店の評判もここまで広がったのかと初めは満足していたが、段々とこの客の異様さに困惑していた。まず、どうして付き人がいないのだろうかという疑問である。勿論お忍びで来店している可能性は十分考えられたがそれにしたってあのような派手な格好はしなくても良いのではないか。次に純狐のうどんの食べ方である。無論この店主には客のうどんの食べ方を覗いて欲望を持つような特殊な性癖は持ってはいなかったが、それにしたって食べ方が妙に官能的だ。そして食べる所作、その一つ一つに全くの淀みが無く巨大な美術品か何かに見えた。いや、それを通り越して何やら自然性の完璧から来る不自然さからか忌まわしい死の匂いを店主に与えた。あまりの完全さは不吉さが付きまとうのだろうか。それとも何か大きな不幸が彼女の身に降りかかり、それを塗りつぶすようにあのような立ち振る舞いをしているのだろうか。店主は客についてあれこれ詮索している自分に若干の嫌悪を覚え、適当な仮説を立てて自身の頭からこれを追い出し調理に集中しようと考えた。
しかし店主の没頭も五分とは持たない。この女はなんという目で俺の作ったうどんを見つめるのだろう。純狐は確かにうどんを見つめていた。だがこれをよく観察してみると目の前の料理を通して何か二重に重なった別の次元を見つめているようである。その仕草はまるで曇った硝子窓を一生懸命のぞき込むかのようだった。そこにはうどんしか存在しない筈であるのに。この事実は店主のプライドを傷つけた。この女はうどんを食べに来ているのではない。何か純粋な儀式の為にうどんを使っているにすぎないのだ。店主は一声かけようかと思った。でも一体何を。あれこれ思案しているうちに純狐はかまぼこを箸で掴んだ。店主はその顔を見て全てを諦めた。この女は今どこか別の場所にいる。そして俺は檻に閉じ込められてこれをじっと見つめなければならない。これは拷問だ。そしていくら修行しても一生俺はこの檻から出ることはできないのだろう。それほどまでにかまぼこを持った純狐の表情は嫌と言うほど現実から乖離した一種の神聖な別世界が広がっていたのだった。
勘定を済ませ彼女は店を出ていった。店主は何気なくその椅子やテーブルを見てみたが髪の毛一本、そこに先ほどまで人が座っていた気配すら存在しない。店主は椅子に塩を振りかけた。
ある日を境に純狐の趣向が変化した。本来睡眠を必要としない彼女が布団を敷いて寝るようになったのはどういう訳だろう。ヘカーティア・ラピスラズリはこの変化を喜んだ。なぜならその無防備を好きなだけ眺めることができるからである。純狐とヘカーティア、そして地獄の妖精クラウンピースは同棲していた。純狐が自分の作った料理をおいしそうに食べてくれるようになってからヘカーティアは純狐を以前にも増してえらく気に入っていた。勿論知り合ってから今日までヘカーティアは純狐を尊敬していた。制御が全くできない存在、自分が未だ持ち得ていない独立国家を心の中で完全に支配している存在、しかし今自分が純狐に抱いているものは一体何なのだろうか。ヘカーティアは尊敬の念がやがてどこに行きつくのか知らなかった。そして自分の感情を冷静に見つめてみることなど自分を完全に制御できていない愚か者のすることだと彼女は思っていた。
夜、ヘカーティアは眠っている純狐の顔をのぞき込むのが密かな楽しみとなっていた。この時間彼女は一種の安心感を手に入れることに成功していた。そして同時に複雑な思いも抱いていた。私は眠っている時の純狐といる方が落ち着けると。
クラウンピースはこの二人の関係を見ている自分にふつふつと湧き水のように溢れ出る嫉妬の感情をじっと押し殺していた。クラウンピースは二人の目を盗み、よく手鏡を見つめるようになった。そしてそっと呪文を唱える。
「あの人はご主人様の大切な友人様」
「あの人はご主人様の大切な友人様」
古典的で月並みな方法だが妖精であるクラウンピースには効果があった。実際一時的にはそれで自身の感情を制御できた。だが忘れたころにまた、嫉妬の感情がこの妖精を蝕んだ。そして段々と純狐ではなく自分に非があるのではないかと思い始めた。どうしてあたいは無条件に二人の仲を素直に喜べないのだろう。どうしてあたいは友人様とご主人様を対等に見ることができないのだろう。クラウンピースは純狐を無意識的に恐れていた。そして恐怖心は敵意を生み、恐怖心は負の感情を呼び寄せた。だが妖精特有の明朗さと能天気さのお陰か、妖精は相反する二つの感情の矛盾に未だに気づかずに生活している。
睡眠をとる理由はたくさん存在する。多くは休息のためだが、現実から逃避するため、ただ単に眠りが気持ちいいから、人によっては疑似的に死ねるからというものもあるそうだ。そして純狐が睡眠をとる理由は夢を見るためであった。純狐は起きても全く夢の内容は覚えていない。しかし何か懐かしい心地がする。純狐はこの感覚を好んでいた。そしてこの為だけに一日の三分の一の時間を削って睡眠をとっていた。
ある時、夢の支配者ドレミー・スイートに自分が見ている夢の内容を聞いてみたことがある。ドレミーはちょっと寂しそうな顔をしてこう言った。
「本当に覚えてないのですか?」
純狐はなにやら責められているような心地がした。そしてこれ以上聞くのは自身に敗北することであるような気がしたので止めてしまった。ドレミーもそれ以上何も言わなかった。
それにしても、睡眠をとり始めるその前、私は一体何をして夜を過ごしていたのだろうか。
夜空には月が病的な白い色で輝いている。
ある晩ヘカーティアは純狐の寝顔を眺めに寝室に訪れた。寝息一つ聞こえないのだが、それが純狐なのだから仕方がない。ヘカーティアは部屋に入った際に無意識に止めていた息をそっと吐いた。枕元に立って純狐の寝顔を確認しようと試みる。しかしどうしたものか枕が存在しない。純狐に目を移すと枕を抱くようにして顔に載せて眠っていた。翌朝、どうしてあのような格好で眠っていたのか聞いてみたところ、枕の重さが丁度いいのだと純狐は目を細めて笑っていた。そして朝ごはんの味噌汁を二回おかわりした。それっきりヘカーティアは純狐の寝顔を覗きにいくのは止めてしまった。
ある日を境に純狐の趣向は変化した。日記をつけるようになったのである。膨大な時を生きる彼女にとってそれはどのような意味があるのだろう。純狐はその日誰に会ったかどこで何をしたのか簡単に一日一日を、手形を残すように書き記すようになった。そして自分が今日何したのかヘカーティアやクラウンピースに話すようになった。ヘカーティアはこの変化に驚いた。クラウンピースは自分が信用してもらえたと思い、この変化を喜んだ。この妖精の恐怖心の出どころは純狐の秘密主義的なところから来ているかもしれない。クラウンピースは友人様の話に尾ひれはひれをつけまくって妖精仲間に吹聴して回った。ご主人様の友人様は凄いんだぞと。この行為によって友人様のことがもっと好きになれるとクラウンピースは固く信じていた。
純狐は夜に日記を書き、朝に過去に書いた日記を読んでいた。丸で記憶の上書きでもしているようだ。以前の純狐には無かった必死さからヘカーティアはこの様子を見て自傷行為めいた一種の痛々しさを感じざるを得なかった。自分は一体どうすれば彼女の役に立てるのだろう。一体どんな言葉を投げかければ。しかしこうしたヘカーティアの純真な真面目さは十分純狐の心の支えになっていたのである。
夜。純狐は明かりも持たず、月明りだけを頼りに竹藪の中を進んでいた。途中、兎を何匹か見かけたが気にも留めずに進んでいった。結界が張られていたが純狐には関係が無かった。ある程度当たりを付けて歩き回っていると目的の建物の屋根が竹藪の隙間からちょこんと見えた。月はちょうど真上から辺りを照らしている。満月の夜だった。縁側には蓬莱山輝夜が座っており、その後ろで八意永琳がその長い黒髪に光をしみこませるようにして櫛で梳いていた。
「ほら、永琳。やっぱり来た」
髪の手入れが終わると輝夜はぴょんと立ち上がった。櫛を片づけに行く際、永琳と純狐の目が会った。永琳が会釈すると純狐は深く礼をした。この無言の挨拶によって永琳の心は激しくかき乱された。
永琳が部屋から履物と大きな風呂敷包みを手に戻ってくると無言の重量が場を支配していた。純狐は月をじっと黙ったまま見つめている。
「それでは行きましょう」
初めに口火を切ったのは輝夜だった。三人は永遠亭の庭を黙って歩き出す。草木も眠る丑三つ時。そこに存在したのは三人の人影と純狐を除いた二人の足音のみであった。やがて三人が足を止めた先には一つのお墓。月明りに照らされた墓石には賛美するように大きくこう刻まれていた。
鈴仙・優曇華院・イナバ
永琳は風呂敷の中からお供え物を取り出して、お墓の前に並べていった。輝夜はこんなことをして何になるのだろうと思っていたが口には出さなかった。純狐はその様子を食い入るように眺めていた。三人は目を瞑る。この間、誰が何を考えていたかは誰にも知る由がない。その後三人は黙ってその場を後にした。
永遠亭に着いた。気づいたときにはもう純狐の姿はなかった。まるで初めからそこにいなかったかのように。その後二人は床に就いた。
夜風で草木が擦れる音がする。暫くして輝夜が口を開いた。
「純化ってどのようなものなのかしら。例えばカオスを純化したらどうなるの」
永琳は少し考えて口を開いた。
「カオスの中から最も大きな要素を一つ取り上げてそれに染め上げてしまうのでは」
「じゃあ、純化されなかった他の要素はどうなってしまうの」
「上書きされて消えてしまうでしょう」
「残酷な話ね。だってあの人、イナバのこと何も覚えてないんでしょう。どうして毎年ここへ来るのかしら」
暫く時間が過ぎる。夜風の音はもうしない。永琳は何かを言いかけたが、輝夜が寝てしまっていたので自分も目を瞑り、意識を目の前の暗闇に手放した。
次に一枚のかまぼこを箸で掴む。その色合いで純狐が連想したものは……。
弱ったのはこの店の店主である。高貴な格好をしていたので俺の店の評判もここまで広がったのかと初めは満足していたが、段々とこの客の異様さに困惑していた。まず、どうして付き人がいないのだろうかという疑問である。勿論お忍びで来店している可能性は十分考えられたがそれにしたってあのような派手な格好はしなくても良いのではないか。次に純狐のうどんの食べ方である。無論この店主には客のうどんの食べ方を覗いて欲望を持つような特殊な性癖は持ってはいなかったが、それにしたって食べ方が妙に官能的だ。そして食べる所作、その一つ一つに全くの淀みが無く巨大な美術品か何かに見えた。いや、それを通り越して何やら自然性の完璧から来る不自然さからか忌まわしい死の匂いを店主に与えた。あまりの完全さは不吉さが付きまとうのだろうか。それとも何か大きな不幸が彼女の身に降りかかり、それを塗りつぶすようにあのような立ち振る舞いをしているのだろうか。店主は客についてあれこれ詮索している自分に若干の嫌悪を覚え、適当な仮説を立てて自身の頭からこれを追い出し調理に集中しようと考えた。
しかし店主の没頭も五分とは持たない。この女はなんという目で俺の作ったうどんを見つめるのだろう。純狐は確かにうどんを見つめていた。だがこれをよく観察してみると目の前の料理を通して何か二重に重なった別の次元を見つめているようである。その仕草はまるで曇った硝子窓を一生懸命のぞき込むかのようだった。そこにはうどんしか存在しない筈であるのに。この事実は店主のプライドを傷つけた。この女はうどんを食べに来ているのではない。何か純粋な儀式の為にうどんを使っているにすぎないのだ。店主は一声かけようかと思った。でも一体何を。あれこれ思案しているうちに純狐はかまぼこを箸で掴んだ。店主はその顔を見て全てを諦めた。この女は今どこか別の場所にいる。そして俺は檻に閉じ込められてこれをじっと見つめなければならない。これは拷問だ。そしていくら修行しても一生俺はこの檻から出ることはできないのだろう。それほどまでにかまぼこを持った純狐の表情は嫌と言うほど現実から乖離した一種の神聖な別世界が広がっていたのだった。
勘定を済ませ彼女は店を出ていった。店主は何気なくその椅子やテーブルを見てみたが髪の毛一本、そこに先ほどまで人が座っていた気配すら存在しない。店主は椅子に塩を振りかけた。
ある日を境に純狐の趣向が変化した。本来睡眠を必要としない彼女が布団を敷いて寝るようになったのはどういう訳だろう。ヘカーティア・ラピスラズリはこの変化を喜んだ。なぜならその無防備を好きなだけ眺めることができるからである。純狐とヘカーティア、そして地獄の妖精クラウンピースは同棲していた。純狐が自分の作った料理をおいしそうに食べてくれるようになってからヘカーティアは純狐を以前にも増してえらく気に入っていた。勿論知り合ってから今日までヘカーティアは純狐を尊敬していた。制御が全くできない存在、自分が未だ持ち得ていない独立国家を心の中で完全に支配している存在、しかし今自分が純狐に抱いているものは一体何なのだろうか。ヘカーティアは尊敬の念がやがてどこに行きつくのか知らなかった。そして自分の感情を冷静に見つめてみることなど自分を完全に制御できていない愚か者のすることだと彼女は思っていた。
夜、ヘカーティアは眠っている純狐の顔をのぞき込むのが密かな楽しみとなっていた。この時間彼女は一種の安心感を手に入れることに成功していた。そして同時に複雑な思いも抱いていた。私は眠っている時の純狐といる方が落ち着けると。
クラウンピースはこの二人の関係を見ている自分にふつふつと湧き水のように溢れ出る嫉妬の感情をじっと押し殺していた。クラウンピースは二人の目を盗み、よく手鏡を見つめるようになった。そしてそっと呪文を唱える。
「あの人はご主人様の大切な友人様」
「あの人はご主人様の大切な友人様」
古典的で月並みな方法だが妖精であるクラウンピースには効果があった。実際一時的にはそれで自身の感情を制御できた。だが忘れたころにまた、嫉妬の感情がこの妖精を蝕んだ。そして段々と純狐ではなく自分に非があるのではないかと思い始めた。どうしてあたいは無条件に二人の仲を素直に喜べないのだろう。どうしてあたいは友人様とご主人様を対等に見ることができないのだろう。クラウンピースは純狐を無意識的に恐れていた。そして恐怖心は敵意を生み、恐怖心は負の感情を呼び寄せた。だが妖精特有の明朗さと能天気さのお陰か、妖精は相反する二つの感情の矛盾に未だに気づかずに生活している。
睡眠をとる理由はたくさん存在する。多くは休息のためだが、現実から逃避するため、ただ単に眠りが気持ちいいから、人によっては疑似的に死ねるからというものもあるそうだ。そして純狐が睡眠をとる理由は夢を見るためであった。純狐は起きても全く夢の内容は覚えていない。しかし何か懐かしい心地がする。純狐はこの感覚を好んでいた。そしてこの為だけに一日の三分の一の時間を削って睡眠をとっていた。
ある時、夢の支配者ドレミー・スイートに自分が見ている夢の内容を聞いてみたことがある。ドレミーはちょっと寂しそうな顔をしてこう言った。
「本当に覚えてないのですか?」
純狐はなにやら責められているような心地がした。そしてこれ以上聞くのは自身に敗北することであるような気がしたので止めてしまった。ドレミーもそれ以上何も言わなかった。
それにしても、睡眠をとり始めるその前、私は一体何をして夜を過ごしていたのだろうか。
夜空には月が病的な白い色で輝いている。
ある晩ヘカーティアは純狐の寝顔を眺めに寝室に訪れた。寝息一つ聞こえないのだが、それが純狐なのだから仕方がない。ヘカーティアは部屋に入った際に無意識に止めていた息をそっと吐いた。枕元に立って純狐の寝顔を確認しようと試みる。しかしどうしたものか枕が存在しない。純狐に目を移すと枕を抱くようにして顔に載せて眠っていた。翌朝、どうしてあのような格好で眠っていたのか聞いてみたところ、枕の重さが丁度いいのだと純狐は目を細めて笑っていた。そして朝ごはんの味噌汁を二回おかわりした。それっきりヘカーティアは純狐の寝顔を覗きにいくのは止めてしまった。
ある日を境に純狐の趣向は変化した。日記をつけるようになったのである。膨大な時を生きる彼女にとってそれはどのような意味があるのだろう。純狐はその日誰に会ったかどこで何をしたのか簡単に一日一日を、手形を残すように書き記すようになった。そして自分が今日何したのかヘカーティアやクラウンピースに話すようになった。ヘカーティアはこの変化に驚いた。クラウンピースは自分が信用してもらえたと思い、この変化を喜んだ。この妖精の恐怖心の出どころは純狐の秘密主義的なところから来ているかもしれない。クラウンピースは友人様の話に尾ひれはひれをつけまくって妖精仲間に吹聴して回った。ご主人様の友人様は凄いんだぞと。この行為によって友人様のことがもっと好きになれるとクラウンピースは固く信じていた。
純狐は夜に日記を書き、朝に過去に書いた日記を読んでいた。丸で記憶の上書きでもしているようだ。以前の純狐には無かった必死さからヘカーティアはこの様子を見て自傷行為めいた一種の痛々しさを感じざるを得なかった。自分は一体どうすれば彼女の役に立てるのだろう。一体どんな言葉を投げかければ。しかしこうしたヘカーティアの純真な真面目さは十分純狐の心の支えになっていたのである。
夜。純狐は明かりも持たず、月明りだけを頼りに竹藪の中を進んでいた。途中、兎を何匹か見かけたが気にも留めずに進んでいった。結界が張られていたが純狐には関係が無かった。ある程度当たりを付けて歩き回っていると目的の建物の屋根が竹藪の隙間からちょこんと見えた。月はちょうど真上から辺りを照らしている。満月の夜だった。縁側には蓬莱山輝夜が座っており、その後ろで八意永琳がその長い黒髪に光をしみこませるようにして櫛で梳いていた。
「ほら、永琳。やっぱり来た」
髪の手入れが終わると輝夜はぴょんと立ち上がった。櫛を片づけに行く際、永琳と純狐の目が会った。永琳が会釈すると純狐は深く礼をした。この無言の挨拶によって永琳の心は激しくかき乱された。
永琳が部屋から履物と大きな風呂敷包みを手に戻ってくると無言の重量が場を支配していた。純狐は月をじっと黙ったまま見つめている。
「それでは行きましょう」
初めに口火を切ったのは輝夜だった。三人は永遠亭の庭を黙って歩き出す。草木も眠る丑三つ時。そこに存在したのは三人の人影と純狐を除いた二人の足音のみであった。やがて三人が足を止めた先には一つのお墓。月明りに照らされた墓石には賛美するように大きくこう刻まれていた。
鈴仙・優曇華院・イナバ
永琳は風呂敷の中からお供え物を取り出して、お墓の前に並べていった。輝夜はこんなことをして何になるのだろうと思っていたが口には出さなかった。純狐はその様子を食い入るように眺めていた。三人は目を瞑る。この間、誰が何を考えていたかは誰にも知る由がない。その後三人は黙ってその場を後にした。
永遠亭に着いた。気づいたときにはもう純狐の姿はなかった。まるで初めからそこにいなかったかのように。その後二人は床に就いた。
夜風で草木が擦れる音がする。暫くして輝夜が口を開いた。
「純化ってどのようなものなのかしら。例えばカオスを純化したらどうなるの」
永琳は少し考えて口を開いた。
「カオスの中から最も大きな要素を一つ取り上げてそれに染め上げてしまうのでは」
「じゃあ、純化されなかった他の要素はどうなってしまうの」
「上書きされて消えてしまうでしょう」
「残酷な話ね。だってあの人、イナバのこと何も覚えてないんでしょう。どうして毎年ここへ来るのかしら」
暫く時間が過ぎる。夜風の音はもうしない。永琳は何かを言いかけたが、輝夜が寝てしまっていたので自分も目を瞑り、意識を目の前の暗闇に手放した。
得体の知れない、曖昧なこの後味、とても好きです。
あとがきの夢がとても可愛いです。とても良かったです。
純狐さんが理性的なのか狂っているのか絶妙で素晴らしかったです
うどん屋の店主の困惑が最高でした
こういう、形を失ったキャラを暗に語る、と言うお話は個人的には好きです。
だからこそ背景が明らかになったあとのインパクト・納得感があったような気がします
後書きの描きかたもすごく余韻があっていいなぁと思いました
純狐の悲しみは純粋すぎてある種狂気的なのに、表面的に悲嘆に暮れるわけでもないことが妙に現実的で気持ち悪くて、好きです。
それが傷となり証となって残っているのがなんだか切ないなと。
純化って残酷ですね