「博麗神社の資金が底を尽きましたっ」
生乾きの雑巾から水滴を絞り出すような実な声を聞いても、八雲紫はぽかんとするばかり。昨晩の宴で残った酒をクピクピと飲み、二日酔の頭をどうにか稼働させ、アルコール漬けの脳をどうにか稼働させたのだが。
「博麗神社の資金が底を尽きました、と」
「そうですっ」
「……どういうこと?」
「尽きたんです。すっからかん。聞いて驚かないで下さい。私たちの残金わずか52円。もう限界です。今や我々は小学生以下の財力しか残ってないのです」
わざわざ復唱してもすぐには飲み込めない窮状。藍は床板に突っ伏しては「うう〜」と不吉な呻き声を上げるばかり。遅れてようやく紫の赤い酔い顔も青褪めてきた。
「やばいじゃない」
「やばいのです」
「どうすればいいのよ。次の宴、その次の宴も決まっているのよ。半年後には私の生誕祭。幻想郷の有力者たちを招いての一大イベント」
「残念ながらローソクを添えるためのケーキも買えません。橙の泥団子にマッチ一本を灯すのが精一杯。それが実情」
なにせ、紫が目覚めてから時間が経ちすぎた。
豪華絢爛。豪奢な豪遊を繰り返してきた結果が52円という有様。なんということだろう。愉しい宴席の裏で博麗神社の経済はじわりじわりと破綻に向けて走っていたのだ。
「破産です」
「冗談じゃないわ! そんなの恥よ!」
この後に及んでも体裁を気にする。その見栄っ張りな本性が招いた悲劇なのだ。というのもこの幻想郷、新参者が増える一方で重鎮たる紫の存在感は薄くなり、どうにか自分の立ち位置をキープするべく湯水の如く金を使うことで人心を買っていた、そういう側面もなくは無い。
長い永い人生における初めての困窮。
紫の背筋にゾッと寒いものが走った。
「藍。落ち着きなさい。そこらの宝具を片っ端から売り捌くのよ。今すぐにメルカリにでも出品しなさい」
「申し訳ございません! 実はすでに……」
「はぁ!? じゃあこの神社に置いてあるものは」
「模造品です。紫様に気付かれないうちに売ってはすり替えておいたのです。天井はベニヤ板。床柱はボール紙。今、紫様の手に持っている酒は下町のナポレオン」
瓶を持つ紫の手はわなわなと震えた。なにせ、いつの間にか競馬場周辺のオッサンと同等の生活水準にまで落ちぶれていたのだから。
「藍っ! あなたどうして今まで黙っていたの!」
「何度も申し上げました! そのたびに紫様は不機嫌になり私に酒瓶を投げつけてきたではありませんか! 橙の見ている前で何度も何度も叱責したではありませんか!」
「覚えてないわ! シラフの時に話しなさいよ!」
藍は再び「うう〜」と不吉な響きで泣き始めた。見れば、かつてはフサフサの九尾もトリートメントをせずにバサバサで、心労のため白髪が混じっている。
「橙は給食を半分持ち帰って昼食と夕食の二回に分けて食べているのです。そして友人に、博麗神社に参拝してお賽銭を入れてもらうようにお願いしたから、橙は、橙は、小学校でイジメを…!」
「……分かったわ。なんとかすればいいのね」
「うう〜」
「藍。あなた働きなさい。八雲の名を関する者が労働者などと、みっともないけど、仕方ないわ」
「紫様は気付かなかったようですが、私はすでにスーパーのライフでアルバイトをしております。時間があれば内職。江東区の印刷所から送られてきたパチンコ屋のチラシを蛇腹折に加工して1枚0.1円。小数点の仕事をしてます」
「そ、そんな仕事あるの!?」
「紫様。この世界は紫様の考えるよりずっと儚いものなのです」
煌びやかな生活を続けていた紫には想像もつかない世界。紫はバッド・トリップの如くクラリと目眩がして、この日はお開きになった。
そして翌日。紫はすっかり堕落していた。
「藍。あなた木の葉で万札を刷りなさい」
これには藍も言葉が無かった。信じられない悪徳者を見るような目に紫も良心の呵責、「冗談よ」と撤回しては動物園のチンパンジーのように部屋をウロウロする奇行を見せた。ストレスゆえだろう。
「仕方ないわ。これだけはしたくなかったけど」
「紫様っ」
「働くわ」
貧乏、から、働く、に至るまでにこんなにも迷うとは。これも紫が積み重ねてきた年月によるプライドの蓄積のせいだろう。
「不本意だけどチャチャっと働いてお金を調達すればいいのよね? 私、もちろん外の世界で働くから。幻想郷でだと何を言われるか分かったものではないし」
「チャチャっと……」
「そう。それなら一回や二回の宴の準備くらいできるでしょう。藍。あなたサッサと仕事を探してきなさい」
「サッサと……」
紫には分からなかった。この時、なぜ藍が怒りの表情を浮かべていたのか、が。
「藍が仕事探しをしてる間にYouTubeでも観ようかしら。あら、魔理沙ってば今日も投稿してるみたい。『アリスの人形を破壊してダッチワイフと入れ替えてみた』ですって。おもしろーい」
『ブンブン、ハローYouTube。今日はアリスの奴にドッキリを仕掛けちゃうぜ☆ こりゃマスタースパーク級の面白さだな!』
「あはは。おもしろーい」
「紫様。黙って観て下さい」
「えー、だっておもしろいじゃない」
「紫様っ! 黙って観て下さいっ! 私は紫様の求人を代わりに検索してるのですよっ!?」
「……藍。あなた心が荒んでるわ」
これには藍、ささくれ立った畳を前歯でむしり取り、怒りのあまりのたうち回った挙句に山の方へ駆けて行ってしまった。
「ゆ、ゆ、紫様。藍様が、藍様が」
学校帰りにすれ違ったのだろう、橙は鬼の形相を見せる藍に尻尾を丸めて泣いていた。そんなことも気にせずに紫はゴロゴロとスマホゲーなどを始めてはログインボーナスをゲット。山の遠くから響く藍の慟哭を聞きながら……。
「レジ打ち」
「私の勤務先のライフのテナントに入ってるパン屋です。頼み込んでどうにかってところですね」
「あなたネットで求人を探してたはずだけど」
「見つからなかったもので。ハローワークにも行きました」
「ハローワーク! 恥ずかしいわよ藍。ハローYouTubeとか言ってじゃんじゃんお金を稼ぐ人がいる一方であなたはハローワーク! 藍はついに底辺にまで落ちぶれたのかしら?」
「……とにかく。パン屋でのレジ打ち。それが今の紫様が手にしたお仕事です」
「ま、メルヘンでいいんじゃないかしら?」
パン屋がメルヘン。よく分からない。紫は魔理沙の『ハイパー弾幕メソッド』を観ながら藍の話を薄ぼんやりと聞いていた。
「月給いくらかしら?」
「紫様。アルバイトは時給です」
「ふーん」などと言いつつ『ウマ娘』を起動した紫はさっそく課金を行なった。推しはトウカイテイオー。これで口座に残るなけなしの貯金も完全に底を尽いたのだった。
従業員専用出入口。
客が出入りする裏手側は各種多様な段ボールやら運搬用機材などが並んでおり、そして薄暗い。ついでに臭い。ここを通り抜けると(ああ本当にここで働くのね)という気持ちが実感として湧いてきて、少し緊張。
「じゃあ紫様。頑張って下さい。初日はまぁ二、三時間程度の軽い説明ーーーって、如何されましたか?」
「……帰りたいわ」
「紫様!?」
「……私、『こんなところ』で従業員として勤務するのよね。なんか惨めな気分だわ」
「お言葉ですが紫様、そろそろ上から目線をやめてはいかがですか?」
「なによぉ! 私はこんなところで働く人ではないはずだわ! もっと清潔なオフィスでスーツ着てデスクワーク! それが相応しいハズじゃないかしら!」
「デスクワーク。なるほど。紫様はどのようなデスクワークをご希望で?」
「それは、その、事務作業的な」
「事務作業。なるほど。具体的にどのような業種をお考えで?」
「えと、その、パソコンをいじるような」
「パソコン。なるほど。エクセルやワードを使えるのは当たり前としてパソコンを使って『何を』するのか、具体的な作業は想像できますか?」
「えと、えと、えと」
「自分が働くイメージできないのでしたら迂闊にデスクワークなどと仰らないほうがよろしいかと」
「藍っ! あなたハローワークの相談員!?」
「ハロワの相談員はもっと的確に紫様の心を折りますよ。デスクワークを『楽なお仕事』と決めてかかる者には容赦がありませんから」
紫は泣きそうになった。ああ、人間の世はどうしてこんなにも世知辛いのだろうか。あれもこれもすべては藍が悪いというのに、などと見当外れの責任転嫁をした後、ともあれ制服に袖を通してみると、まるで自分が自分でないような心地がした。
「あっ、ちょっと可愛いかも」
「そうそう。前向きにお考え下さい」
パン屋の制服は、可愛い。紫はまるでゴッコ遊びでもするような気分になり、泣きっ面寸前だった表情が少しは明るくなったのだった。
「いらっしゃいませー♪ うふふ♪」
「ま、そんな感じでしょう」
「パンがごさいます。パンはいかがですか〜?」
「えらくざっくりしてますね」
幻想郷の重鎮。パン屋の店員と化す。
レジの立ち並ぶ1Fフロアの角のスペース。テナントとして入っているベーカリーショップは焼き立ての小麦の香りがした。
「何がメルヘンよ」
「紫様が言ったんでしょうが」
メルヘンの向こう側は現実だった。働き始めてから数日も経たないうちに溢れる愚痴。
「これは、パン・オ・レザン。これはパン・オ・ショコラ。これはショコラ・オザマンド」
「はぁ」
「外の世界じゃ年号が変わったそうじゃないの。なのに令和の世になってもパンの名前を暗記しなきゃいけないのは何故?」
「そりゃパンの表面にバーコードなど刻むわけにはいきませんから」
「いちいちトングでつまんで袋に入れてる間にもレジに列ができて、セルフレジはどこへ行ったのかしら?」
「セルフレジが完全に導入されたら紫様は職を失いますよ」
ハァ、とため息をつきながら三人揃ってパンをちまちまと食べる博麗神社の風景。廃棄を持ち帰って食費を浮かせているのだ。
「おいしいです。紫様」
「子供は何も知らずにいいわねー。橙が食べてるそれ、私が仕上げのバター塗ったのよ」
「すごいです。紫様」
「……すごいだなんて。子供はすぐに具体的なことばかりに目が行くんだから」
などと言いながらも少し嬉しそう。八雲一家にわずかな平穏が戻ってきたようだ。
「思ってたより順調そうで何よりです」
「……そう見える?」
「もっとボロボロに打ちひしがれている紫様を期待していたのですが、期待外れでした」
「…………」
「えっ、紫様?」
「ヨユーよ。ヨユー」
八雲紫は見栄っ張りなのだ。見栄っ張りゆえに、打ちひしがれている姿など身内に決して見せてなるものかと、そうしたプライドが働いているのだが、実際はーーーちょっと泣きたくなるような出来事も腹に抱えているのだ。
「藍ってデリカシー無いわよね」
「……申し訳ございませんでした」
先程の愚痴だって本当は『そこそこ上手くいっている自分』をアピールしたいがための、屈折した強がりだったというのに。
「八雲さん。動き遅い」
「すいません」
「周りを見て動く。焼き立てが出てるんだから声出しして並べる。焼き上がりの時間覚えて待ってるお客様だっている」
「す、すいません」
「時間があればトング拭く。トレイ拭く。同時にいくつも動く」
「す、す、すいません」
「なんて言ってる間にもレジ並んでる。すぐにヘルプに行く」
「ひゃ、ひゃいっ」
背の低い焼き場の小娘がピシピシと指示を出す。幻想郷へ来たら弾幕でもぶつけてやろうかと思ってみてもここは職場、独自の権力関係が成り立っていて逆らえそうにない。紫は目を白黒させて右往左往。
「売り場のトングが尽きる。すぐに拭いて運ぶ」
「で、でも、焼き立てが」
「トングが無ければ焼き立ても買えない。優先順位を考える。そして動く」
「ひゃいい……」
「すぐに動く!」
「ひゃんっ!」
『魔女の宅急便』は嘘つきだ。あんなにダラダラ暇そうにしてていいわけがない。それで賃金が発生するもんか。紫は思った。
パン屋はファンタジーでもメルヘンでもなければ幻想も通用しない。未就学児が『なりたい職業』として憧れるパン屋は意外にも忙しいのだ。
「ここで問題です」
「はぁ!?」
「ベルリーナラントブロートとロッゲンブロートの違いは何でしょう」
「え、え、えと」
「正解は含まれるライ麦の割合。それじゃお客様に説明できない」
「すいませんっ!」
可哀想に、八雲紫。小娘と見下している焼き場の職人にチクチクと虐げられているではないか。無表情で淡々と詰め寄る焼き場の小娘ちゃん。職人独特の気風である。そのノリは売り場でキャピキャピしている女子大生組とは一線を画していた。
「お疲れ八雲さーん。売り場の調子どう? あー、めっちゃ残ってるじゃーん」
「あ、店長。まぁ午後から雨が来ましたから」
「おれ気象予報士じゃないよー」
「あと、後半のシフトの方ですけど、遅刻するみたいです。大学のゼミの用事で」
「女子大生っていいよねー」
「……は?」
「いいよねー」
「はぁ」
幽鬼のように細った店長は、ヤベェ奴の感を漂わせてヘラヘラとしながら売り場の方を見ていた。まさか妖怪か。それとも半人半霊か。
「店長! 喋ってちゃバケットが間に合わない!」
「あっ、はいはいすいません」
一喝。焼き場の小娘ちゃんは攻撃力が高いのだ。
『ようやく職人河童たちを動員できたぜ。今日はアリスが外出する数時間の間にあいつの家を完全に解体する。跡形も無くな。魔法の森で呆然とするアリスはどれくらいのタイムで状況を理解するのか、こいつは楽しみだぜ!マスタースパーク!』
ちまちまとパンをちぎりながら眺めるスマホの画面。紫は、はぁ、とため息をついた。
「自己肯定感下がっちゃう」
「適切な位置にまで、ですか」
「藍。みもふたもないこと言わない」
「ふひひっ、申し訳ございません」
「なによ嬉しそうじゃない」
「まぁ肚に溜め込むより健全だと思いますし、なにより、きちんと継続して働けている紫様に安心しました」
「うわ、ハロワ目線」
パン。パン。
昨日もパン。今日もパンだし、明日もパン。
たぶん平均的な人間が一生で食べるパンの総量くらいはパンを食べた気がする。そして眺めてきた気がする。そんなパン生活。
「おいしいです、紫様」
「そりゃそうよ。ウチは粉から作ってるもの。工場から送られてくる冷凍の生地を焼いてる店とはレベルが違うわ。今まで橙が食べてたコンビニのパンなんてもってのほか」
「すごいです、紫様」
「私なんて品出しとレジ打ちだけよ。でもね、見なさい。この火傷の跡。パン屋はハードワーカーよ。尊敬するがいいわ」
紫の指にはバンソーコー。熱々に焼けた鉄板を扱うのだから必然こうなる。なにやら職業人じみてきた紫の物言いを聞いて藍も内心では安心。そんなわけだから定期的に江東区から送られてきたパチンコ屋のパンフを折り畳む謎のお仕事からも一時的に解放。
だが、まだ紫はパン屋のおそろしさを知らなかったのだ。
ーーー博麗神社の地下数百メートル。地霊殿よりも灼熱のパン屋地獄である。
「このカレーパンは工場品。テナントの都合でフライヤーが無いから。ふむふむ。あっちは新商品のトロピカルマンゴーメロンパン。香料じゃなく生のマンゴーも使ってる。ふむふむ」
「問題です」
「はぁ!?」
「メロンが含まれてないメロンパンは何故メロンパンと呼ばれているのでしょう」
「あ、あの、朝の品出しが」
「答える」
「は、はい、タテヨコの筋がメロンに見えるから?」
「それでは何故タテヨコに切れ目を入れるのでしょう」
「え、えと、可愛いから」
「20点。正解はパン生地とクッキー生地の膨らみに差があるから。切れ目を入れないと全体がひび割れて汚く見える」
くそぉ、焼き場の小娘め毎度毎度調子に乗ってからに。紫は心の中で毒付いた。
「あの!」
「なに」
「キツネ蕎麦にキツネの肉が入ってたら大変ですよね!」
「…………」
「鉄板焼きは熱した鉄板を眺めてるだけ、なんちゃって」
「さっさと仕事に戻る」
「ふえぇ」
渾身のジョークでコミュニケーションを図ろうとしても応じてくれない。愛想ってやつがちっとも無い。紫、これには泣きそうになり、どうしてこんな目に遭っているのだと考えると藍の顔が浮かんできた。逆恨みである。
『九尾のキツネに狐肉の蕎麦を食べさせてみた』なんて動画を投稿したらどれくらい伸びるのだろう? そんなことを考えながら開店前の店内にちまちまとパンを陳列していた。
この日も朝から暑かった。
「みんな熱中症に気を付けてねー」
職人たちは各々がペットボトルを用意して灼熱地獄を堪えていた。パンを焼き上げる窯が焼き場をサウナ以上の高温へと変える。
休憩時間になると逃げるように飛び出てくる職人たちを見て、紫は売り子で良かったと胸を撫で下ろすのであった。可愛い制服の似合う可愛い容姿に感謝。紫は何故か得意げだった。
初めは苦労していたレジ開けの作業も慣れてきたのであった。
「問題です」
「はぁ」
「パンに含まれる砂糖と塩の配合を逆にするとどうなるでしょう」
「?」
「正解は海」
「海?」
「食べてみて」
ある日の開店作業中のことである。ちまっとちぎったパンドミを小娘ちゃんから、あーん、させてもらうと紫の口内に『海』が再現された。
「辛っ!?」
「店長が間違えた」
「そ、そんなジョークみたいな話が」
「あたしもこんなの初めて。並べた商品は廃棄で今からすべて焼き直す」
店長会心の怪作『海』は、あわれ即ゴミ袋へ収まることとなってしまった。
「悪い。こんなヘマするとは思わなかったなー」
「て、店長。あんたって人は……」
大なり小なりミスを重ねる店長は、人望が無い。そしてミスをしても「あはは」とばかりに笑っているのだから売り子の女子大生たちにも見下されており「ゼミの課題あるんでこの日は休みます」という急遽のシフト変更にも「困ったなぁ仕方ないなぁ」とヘラヘラしては店長自ら売り場に立ったりもする。
「店長は今月休んでない」
「えっ、もう月の半ば過ぎなのに」
「だから疲れてる。『鋼の連勤術師』なんて自称してヘラヘラしてるくらいには疲れてる」
「……壮絶」
人間の世とはいったい何なのだろう?
幽鬼のような表情をしている店長が灼熱地獄へ戻ってゆく姿を見て、紫はそう思った。このスーパーの片隅のテナントから眺めた名も無き人々の世界であった。
夏も真っ盛りになり地獄は温度を増した。
この日も朝から暑かった。
焼き場の職人の朝は早いがレジ開け担当朝番の紫はそれより遅い。自転車を転がしてスーパー裏口の警備員さんに挨拶をして開店前のテナントへ向かうとーーー事件が起きてた。
「………?」
窯の前には必ず小娘ちゃんが働いていたはずなのだが、今日はいない。代わりに別の職人さんが立っているではないか。これに違和感を覚える程度には紫は店の動きを把握していた。
「今日お休みなんですかね?」
「ああ八雲さん。あの子なら、やっちゃった」
大火傷。
フランスパンを焼き上げた熱した鉄板に腕を押し付けてしまったのだという。
「小娘ちゃん!」
「お疲れ様、八雲さん」
「お疲れ様じゃないでしょ! 大丈夫なの!?」
「火傷にはすぐアイシング。パン屋に火傷は付き物だからそれほど大騒ぎはしない」
氷嚢たっぷりで前腕を冷やす痛々しい姿に、紫は泣きそうになっていた。肘から手首近くまで十数センチもの熱傷は赤黒く酷たらしい痕を刻んでいた。
「油断してた。ごめんなさい」
「私に何を謝る必要があるの! 今日はもう終わりにして病院へ行きなさいよ!」
「問題です」
「はぁ!?」
「パン職人の世界で一番焼き上げるのが難しいパンは何でしょう」
「え、えと」
「答えはフランスパン。温度調節が下手だとあの外はパリッと、中はもちっと、の食感は生まれない。そしてこの店で上手なフランスパンを焼けるのはあたししかいない」
焼き場の小娘ちゃんはアイシングもそこそこに仕事へ戻っていった。店長は止めたけれど、それでも止まらなかった。
「俺も何度もやったよねー。ほら、僕はヘマが多いから特別に多いの。まぁ職人の勲章みたいなものかなー」
ぐいっと腕をまくった店長の腕にはいくつものケロイド。ーーー問題です。窯の前で暑いのに職人の制服が長袖なのはなぜでしょう。正解は火傷防止のため。そんな小娘ちゃんの言葉が思い浮かんだ。
この日は早朝から暑かった。
耐えかねて、つい、腕まくりをしてしまった小娘ちゃんの手痛い『失態』だった。
「おいしいです、紫様」
「………そうでしょ」
「すごいです、紫様」
「………私はちっともすごくない。すごいのは焼き場に立っている小娘ちゃんよ。外はパリッと。中はもっちり。完璧な仕上がりだわ」
紫は、『売れ残り』のフランスパンを橙に食べさせながら涙を堪えた。人間の世とは、いったい何なのだろう。
『みんな、『ジョジョの奇妙な冒険』は知ってるよな? 今日はようやく仲直りしたアリスとのティータイムで『アバ茶』を再現してみようと思う。こりゃ魔理沙様のチャンネルからますます目が離せなくなるな!』
「問題です」
「はい」
「正方形の食パンと『食パンマン型』をした食パンの製法の違いは何でしょう」
「蓋を閉めるか閉めないか!」
「それでは『食パンマン型』をした食パンの上部に八雲さんが仕上げでバターを塗っているのは何故でしょう」
「えと、えと、見た目が良いから!」
「10点」
「味が良くなるから!」
「20点。正解は表面積の違い。膨らんだだけ表面積が増えて水分が蒸発しやすくなる。すると中がパサパサになってしまうからバターを塗って蒸発を防ぐ」
なるほどなー、と頷く紫。小娘ちゃんのトリビアにはやっぱり敵いそうもない。あの日に刻まれたケロイドは長袖の下に勲章として隠されているのだろう。
「あれ? 店長は?」
「奥」
「ま、まさか、火傷とか」
「違う。昨日からずっと『明日のジョー』になってる。休ませてあげて」
「明日のジョー?」
奥、にはいつも小麦粉まみれのパソコンと書類が乱雑に散らばっていて、管理の行き届かなさに小娘ちゃんは時折キレたりするのだが。
ーーーそこには燃え尽きた『明日のジョー』と化した店長が椅子に座って、死んだように眠っていたのだ。
「死なないで! ジョー!」
「………ああ、八雲さんおはよー」
髪を白く染める小麦粉を払い幽鬼のような顔をして目覚めた店長。そういえば前日の閉店時刻の22時過ぎ「先に上がってて」と言ったきり本社への何某かの書類を作るために遅くまでパソコンをカタカタとしていたのを思い出した。
「僕は『明日のジョー』じゃなくて『鋼の連勤術師』だよ。エドワード・エルリックみたいカッコよくはなれないけど」
「………店長」
「僕はどうしてパンを焼いてるのかなぁ。もっと違う道もあったんじゃないかって思うこともあるんだけど」
「…………」
「女子大生っていいよねー。あの子たちには色々な未来があるんだろうな。僕は高校を卒業してからずっとパン屋だ。いったい何歳までパンを焼き続けるんだろう? ヘマが多い僕は本社勤務なんてできないだろうから、パンを焼けなくなったらどうなるんだろう?」
「…………」
「指先が痛い。輪ゴムで締められたみたいにずっと痛いんだ。たぶんマスクをつけるのを面倒臭がってたから小麦粉を吸い込んで指先に詰まってるんだと思う」
「……それはないと思いますけど」
「暑苦しいからついマスクを外しちゃうんだよ。この指であとどれだけ生地をこねるんだろうね」
「…………」
「さーて、仕事に戻るかー」
燃え尽きたジョーは二度と立ち上がれなかった。なのに店長は作業に戻って、今日も、明日も、パンを焼き続けるのだろう。妖怪でも半人半霊でもない『人間』の姿。紫の目にはジョーよりもエドよりも頑張っている店長の姿が見えた。
「問題です。パン屋の売り上げが落ちる時期はいつでしょう」
「夏場ですかね。暑くなるとどうしてもパンからは遠ざかるんですよね。常連のお客さんもなかなか来なくなっちゃったし」
「正解」
そこでまさかの『アイスメロンパン』の発売となったのだ。メロンパンの内部にアイスが詰まっている。無論、こんなものを店内で焼き上げることもできないので本社からの工場品。
「こんなの邪道よ!」
「あたしもそう思う。パンは焼き立てが一番」
送られてきた冷蔵用のフリーザーが売り場に設置され、ぷりぷりと文句を垂れながらもノルマなので紫は声を出して販売していたのだが、意外や意外、物珍しさからか売れ行きは好調で、これには複雑な気分だった。
パン屋の八雲さん。
幻想郷と行き来しながら生活する紫はすっかり馴染んでいた。スーパーのオバチャンたちとも顔馴染みになり、重鎮たる自分を忘れて井戸端トークに花を咲かせたりもする。
しかし、それで得られる賃金はーーー華々しい宴を開くにはちっとも足りず、体調不良ということにして延期や中止を繰り返していた。
「問題よ、橙。どうして私は毎日のようにパンを持ち帰ることができるのでしょう」
「それは紫様がすごいからです」
「正解は、商品であるパンが並んでないと店を開いている意味が無いから。閉店ギリギリでもパンが並んでいなくてはならないの。だから廃棄ロスはいわば必要悪よね」
それをこっそり持って帰るのは役得、といったところである。本来はNGであるのだがちょっとくらいのズルはパンの神様も許してくれるだろう。あいにく、幻想郷にもパンの神様はいないのだが。
「で、今日はお寿司!」
「ゆ、ゆ、紫様!?」
「何よ、藍。不思議は一つもないわ。これは原始社会の物々交換。寿司屋は寿司が残る。パン屋はパンが残る。ふだんすっぱいご飯ばかりを持ち帰っているお寿司屋さんだってたまにはパンが食べたくなるじゃない。テナント同士の協力だわ」
「……スーパー側の私からは何も申し上げることはできませんね」
ムラ同士の交易とはこうして生まれたのだろう。人類史の智惠は必然的に起こったのだ。何やら壮大な歴史のドラマを体感しているような心持ちで廃棄予定の寿司をちまちまとつまむ八雲一家。
「どうしてこんなにお給料が少ないのかしら。きっと焼き場の職人さんたちだって大差無いわ。みんな、あんなに頑張っているのに……」
紫生誕祭まであと数ヶ月。『ウマ娘』に課金する余裕なんてありやしない。爪に火をともすような生活をしながら、紫はため息をついたのであった。
『今回アリスに食わせた毒キノコは効果抜群だったな! アリスのやつ笑いながら怒ってたぜ。さーて、次回の魔理沙チャンネルだが、私はとあるネタを掴んだ。それは幻想郷の重鎮であるアイツに関する『噂』だ。楽しみに待っててくれよな! スターダストリヴァリエ!」
それは閉店作業中のことであった。
ギリギリの時間までスーパーで買い物をしていた客も帰ってゆく中で、紫はレジの奥に手を突っ込んでいた。
「うーん。誤算5円。バイトの女子大生ちゃんたちがお釣りを間違えて渡しちゃったのかしら」
5円でも報告書。一日の終わりはスッキリしなかった。仕方なしにペンを取り出してレジでカキカキしていたときのことである。
「……どうやら噂はマジだったようだぜ。見えるか? 幻想郷の重鎮である八雲紫様が、ふひひ、パン屋のレジ打ちなんてやってやがるぜ!」
「魔理沙っ!?」
「おう、紫。まだパン買えるか?」
「あ、あんた、な、な、何しに来たのよ!」
「私は客だぜ? おーおー、フランスパンが売れ残ってやがるな。これ一本くれよ」
「………もうレジは閉めたわよ!」
「つれねぇなぁ」とニヤニヤながら魔理沙、店内のパンを素手で掴んでは戻し、動揺する紫の顔へ無礼にもカメラを向けた。
「河童連中と野球の約束がある。バットを探してたんだがスポーツ用品店は閉まっているんだぜ。このフランスパンを振り回せば快音を響かせるホームランが打てる。そう思わないか?」
「………!」
「むぐっ!?」
ペシペシとバケットで頭を叩いてくる魔理沙の、その胸倉を掴み、そしてカメラごと魔理沙を無人の焼き場へ引きずり込んだ。
「魔理沙、あなた何のつもり」
「何だよ痛えな! 見りゃ分かるだろ! 次にアップする動画の撮影だぜ!」
「ふざけてるの!?」
「ふざけてるもんか! パン屋なんてやってる八雲紫だなんてサイコーのネタだろうが! 面白すぎるぜ!」
視界が狭窄するほどの怒り。紫は普段パンがこねられているメン台に魔理沙の身体を押し付け、胸倉を掴む指もワナワナと震わせていた。
そして焼き場の小娘ちゃんが操作しているのを見て覚えた通りに、窯の電源を入れて加熱。
「落ち着けよ紫。こいつはスキャンダルどころか事件だぜ。もしも私がこの様子を告発したならどうなると思う?」
「やってみなさいよ!」
「オーケー。やってやろうか。どうやら私のチャンネル登録者数を知らないらしいな。Twitterのフォロワー数も確認したか?」
魔理沙は今までの魔理沙ではない。弾幕は注目されるキッカケ作りと割り切り、お宝の蒐集もやめて、すっかりネットビジネスを行う人間と化していたのだ。そう、「弾幕なんかで金なんて稼げねぇよ」と、自身の先の無さを理解した魔理沙は『利口』になっていた。
「誰に手をあげてるのか理解したか? お前のことは晒してやる。そしたらこんなチンケなパン屋なんて一晩のうちに大炎上だぜ! パンよりこんがりと燃えて消し炭すら残らず従業員一同、失職させてやる!」
「………そしたら殺してやるわ」
フランスパンを焼き上げる高温にまで熱された窯を、バンッ、と開けると、紫の怒りに等しい灼熱の熱気が漏れ出てきた。
「この鉄板でケロイドを作ってあげる」
「お、おい、正気かお前」
「正気じゃないのはあんたよ! ニヤニヤしながらYouTuberなんてやってそれでお仕事のつもりなの!?」
「立派な仕事だぜ! こちとらてめぇのショボいバイト代の何百倍も稼いでるんだ! どっちが価値がある労働をしてるか一目瞭然だよな!」
チッ、と舌打ちをして魔理沙の頭をメン台へ叩き付けた。収入の寡多。それは紛れもない現実であったのだ。
「なんでアンタみたいなクズがお金を稼いで、真面目に仕事をしてる人たちが報われないのよ」
「……いてて、分かったよ。教えてやろうか紫。お前らがどれだけ地味に働いても金持ちになんてなれやしない。仕組みを考えれば判るだろ」
「ーーー仕組み?」
「もしもこのパン屋の数キロ圏内の客がすべて来たとしよう。その客がパンをたくさん買って帰る。でもそれって限界があるだろう? 人間が無尽蔵にパンを食えるか? スーパーだって同じだ。食には必ず限度がある。つまり天井知らずの金儲けなんてパン屋にはできやしないのさ」
フンッと鼻を鳴らして魔理沙は向き直った。
「ビジネスモデルが古いんだよ。たとえば通販するような工夫はしてるのか? 顧客が全国へ広がるぞ?」
「………パンは焼き立てが一番」
「だったら保存の効くパンを作る努力は? 冷めても食べられるパンを開発する努力は?」
「店長にそんな余裕があるわけないじゃない!」
「じゃあ、努力不足だな」
努力不足。紫の勤務していた日々は、その言葉でバッサリと切り落とされてしまった。
「紫。お前に教えてやるよ。きちんと金儲けがしたけりゃ『欲望』を売れよ。胃袋と違って人間の『欲望』には際限が無いからな。ソーシャルゲーム、ネットサロン、その他諸々のネットコンテンツ。みんな『欲望』を対象にしてるから儲かるんだ」
「…………」
「貧乏が嫌なら賢くなれよ、紫」
「…………」
「ま、お前が考えを改めたら私のチャンネルに出演させてやってもいいけどな。八雲紫の土下座謝罪。こりゃ再生回数が伸びそうだぜ。マスタースパーク級にな」
突き付けられた現実に言葉を失う。誤差の5円を探す気力も無く、打ちひしがれた紫はしばらく動くことすらできずに、魔理沙の去ってゆくのを見ているだけだった。
「藍、あなた脱ぎなさい」
「はぁ!?」
「やる気が失せたわ。あんな時給でちまちまと働くより裸のビデオでも売って金稼ぎしたほうがマシよ」
「ゆ、ゆ、紫様。心を入れ替えたのでは!?」
「あーら、もう一度入れ替え直したのよ。パンより欲望を売ったほうが手っ取り早いじゃない」
紫はすっかり堕落していた。
これには藍も言葉が無かった。木の葉で偽札を作るよりも現実的な提案に寒気すら覚える。紫の目は真剣で「冗談よ」などと撤回する様子すら窺えず、良心の呵責すらも消し飛んだようだ。
「私はパンじゃなくて欲望を売るのよ。最近じゃ存在感の薄くなった藍のフルヌードなんて大した額にはならないだろうけど、橙ならどうかしら。子供の裸は高く売れるそうじゃない」
「ちぇ、橙は、ようやく学校でのイジメが無くなったのですよ」
「あら? いじめる奴が悪いんだわ? それに私が火傷を負ってまで仕事をしてるのだから橙だって少しは犠牲になりなさいよ」
「紫様。あんた鬼や」
「鬼じゃなくて妖怪。人間の営みなんて知ったことですか。ーーー分かったら二人ともさっさと脱ぎなさいよ!」
般若の顔は女性を模している。
魔理沙から受けた屈辱はあろうことか藍と橙に向けられ、守銭奴並みの低級妖怪のメンタルにまで成り下がった紫は身内の裸を売るつもりなのだ。
「紫様! 本気で言っているのですか!」
「納得できないかしら。ならいいわ。私も参加して平等にジャンケンで負けた者がすっぽんぽんになりましょ。橙も例外じゃないわ。ちゃんとカメラの前でお股を広げるのよ」
こうして『第一回チキチキ八雲一家ヌード撮影ジャンケン』が開催されたのであった。忌み嫌われている地霊殿の連中もドン引きするほどの地獄である。
「いくわよー、じゃーんけーん……」
ポンッ。
グー。グー。チョキ。勝負は一発だった。橙は、己の出してしまったチョキを眺めて涙目で震えていた。
「うっしゃあ! 勝ったわ勝ったわ!」
「紫様っ!あなたという人はっ!」
「しゃーっ! しゃーしゃーっ! シャーラッ!!」
ほっほーい。ほっほーい。ボール紙の床柱をグーで突き破る八雲紫、狂喜乱舞。乱痴気騒ぎ。飛び跳ね転げ回り全身で喜びを表現。
橙の目からはポロポロと涙が溢れていた。負けた悔しさか、また始まるイジメの日々のせいか、それとも尊敬する紫様の見るに堪えない姿のせいか……。
「庭で麻を栽培するアウトローな計画もあったけれど種子の入手法がわからなかったの。それに、私ガーデニングとか苦手だし? ほら、橙。初回は紐ビキニで勘弁してあげるわ。さっさと脱ぎなさーい♪」
泣きじゃくる橙の小さな背に添えられた藍の手。疑似家族とはいえ家庭と愛がそこにはあったのだ。「橙。一緒に死のう」と耳元で呟いた藍の声は紫には届いておらず、藍は橙を楽にさせた後に主人の喉元を食い破るための牙を準備していた。
一家心中。覚悟はできていた。
「はい。機材の準備完了! 橙! 何も持たない者が金を稼ぐのがどういうことか教えてあげるわ!」
「紫様」
「そんな顔したって無駄よ」
「紫様のパン。おいしかったです」
「なによ。やめなさいよ」
「フランスパン。おいしかったです」
「やめなさい。ウチでそんな名前のパンは扱ってないわ。バケットとバタールよ」
「細いバケットはパリパリの部分が多くて、太いバタールはもちもちの部分が多いんですよね」
「正解。表面積の違いだわ」
「紫様のパン…おいしかったです…」
おいしかったです。
その言葉が『売り子の八雲さん』を何度助けただろうか。ああ、欲望を売り捌いた先には何が待っているのだろう。ーーー般若が涙を流した。
「やめなさいって言ってるでしょうっ!」
ハラリ、と脱ぎ捨てられた最後の布をショットガンタッチの勢いで拾い上げ、荒れた畳を滑り込んで紫は橙の身体に巻き付けた。そして、抱きしめた。
「子供が親の見栄のために脱ぐなんてやめなさいよっ! やめろって言ってるでしょう橙っ! どうしてあなた脱ぐのよっ!」
「紫様が橙に命令したんでしょうが」
「うるさいっ! あなたいつもうるさいわ藍っ!」
支離滅裂な叫びに呆れながらも藍の目にも涙。もう少し遅ければ本気で喉笛を噛み砕いていただろう。「紫様はアホですね」と呟き、一家心中はすんでのところで回避されたのであった。
「ま、ローソクを立てるためのケーキくらいは用意できたわね」
「これも労働の結果です」
「違うわ! 本当は畳一面分の盛大なケーキを想定していたのよ! そして私の年齢と同じ本数のローソクを滅多刺しにしてたくさんの灯火に照らされた私の姿をインスタにアップする予定だったのよ!きいきい!」
「年齢分のローソクですか。たぶん火事場みたいな絵面になると思われますが」
「そ、そんな毒舌ある!? 藍! あなた遠慮しなさすぎじゃなくて!?」
結局、八雲紫の生誕祭は博麗神社でしめやかに行われることになった。ちゃぶ台にホールケーキ。同じくテナントに入っていたケーキショップで買ったものであり、こちらは廃棄品ではなく正規のお値段。
「分かってたけど、みんな薄情ね。貧乏となれば誰もお祝いに来てくれない」
「守矢神社からは祝電が届いてますが」
「どうせ嫌味よ。ローソクで焼きましょう」
名前の後に(笑)が添えられたクソッタレの祝電は灰となって庭に捨てられた。「おいしいです紫様」とちまちま食べる橙。八雲一家の誕生日パーティーは細々と行われたのであった。
「はい、紫」
「霊夢。どうしたのこんなお洒落な水筒」
「焼き場の近くは暑いって言ってたじゃない。空きペットボトルに水を詰めるより、こっちのほうが様になるんじゃない?」
「れ、れ、霊夢。あなたって子は」
「やめてよ。お賽銭箱の中身で買っただけだし。ここ最近はやたらとお金が多かったわ。誕生日近くになってから、にわかに。どうしてかしらね」
泣くか。泣くか。と期待していた藍と橙の期待を裏切り、紫は「現金でもよかったのに」と呟いてしまったので水筒で頭をコツン。無論、それが精一杯の照れ隠しであることくらいは博麗神社の者なら分かっていた。
「高いっ」
「そりゃ634メートルですからね」
「違うわ! 高いのは値段よ! どうして展望デッキからその上へ行くのに料金が増えるのよ! せっかくスカイツリーに来たのに途中下車で満足する人がいるかしら? 二重に金を取られた気分だわ!」
せめてもの、ということで八雲一家は誕生日の記念としてスカイツリーへお出かけ。みみっちくもプリプリと怒る紫は、高速エレベーターの気圧差で鼓膜がペコンとなり「ひゃあ」と声を上げた。
展望回廊かり下町の夜景が一望できた。
「ここは墨田区。あっちは荒川区。むこうは足立区。江戸川区。葛飾区」
「分かるんですか」
「たぶん、ね」
「いい加減な人だ」
「みんなお星様みたい」
地上からは夜空を眺める。
でも、展望台からは眼科に広がる街を眺める。
なるほど、スカイツリーも悪くない。紫はひとつひとつの光を辿って勤務先のライフを探していたが、あまりに小さくて見えなかった。星空と同様に、無数に散りばめられたひとつひとつの名も無き星がこの景色を形作っているのだがーーー。
きっと焼き場の小娘ちゃんも、売り子の女子大生も、店長も、スーパーのオバチャンたちも、この光の一部であるはず。
紫様はついうっかり小娘ちゃんに言ってしまったことがある。「そんなに頑張れるならもっと大きな会社で働けばいいのに」と。それは今考えても取り消したくなるような失言だった。
「私の家は兄弟が多いから」と小娘ちゃんは語った。それだけだった。その問題が意味する正解はーーー紫はそれ以上を追及しなかった。
「あと、パンを焼いてるのが好き」マスクさえ無ければきっと小娘ちゃんの年相応の笑顔が見れたのだろう。焼いた小麦の匂いが漂う無表情な小娘ちゃんの笑顔が。
「藍。私、人間の社会が分からないわ」
「実は私もです」
「こうして働きだしてからますます分からなくなったの」
「そういうものですよ」
そんな紫の見ている景色の中に一筋の流れ星が走った。
『ハローYouTube。今日は下町の夜空に魔理沙様のキラキラなシューティングスターをプレゼントしちゃうぜ!』
光は弧を描いてスカイツリーを一周。『今日』が何の日か幻想郷の住民である魔理沙が知らないわけがなかった、そんなサプライズ。
「墜落しろ! 地べたへ落ちて土下座しなさい!」
「まぁまぁ」と藍が宥めて終わった、八雲紫の誕生祭。橙はキラキラと光る地上の星を目に宿そうと一生懸命に眺めていた。あのおいしいパン屋がどこかにあるのだから。
それからしばらくして、紫はレジ打ちを辞めた。
やはり幻想郷の住民であり妖怪。これ以上の関わりをやめて棲む世界に一線を画した。人間とは違うのだ。
パン・オ・レザン。パン・オ・ショコラ。ショコラ・オザマンド。ライ麦のベルリーナラントブロートとロッゲンブロート。工場品のカレーパン。トロピカルマンゴーメロンパン。パンドミ。アイスメロンパン。
そして小娘ちゃんの焼いたバタール。バケット。
時折、無性に恋しくなってあの小麦の香りを嗅ぎたくなることがある。ちまちまと味わいたくなることがある。
そして、たまにはと紫は外の世界へ足を運んでスーパーへと向かったのだが、すでにテナントには別の店が入っていた。
ーーーあの名も無き人たちがいったいどこで何をしているのか、今は確かめることもできなかったのだった。
生乾きの雑巾から水滴を絞り出すような実な声を聞いても、八雲紫はぽかんとするばかり。昨晩の宴で残った酒をクピクピと飲み、二日酔の頭をどうにか稼働させ、アルコール漬けの脳をどうにか稼働させたのだが。
「博麗神社の資金が底を尽きました、と」
「そうですっ」
「……どういうこと?」
「尽きたんです。すっからかん。聞いて驚かないで下さい。私たちの残金わずか52円。もう限界です。今や我々は小学生以下の財力しか残ってないのです」
わざわざ復唱してもすぐには飲み込めない窮状。藍は床板に突っ伏しては「うう〜」と不吉な呻き声を上げるばかり。遅れてようやく紫の赤い酔い顔も青褪めてきた。
「やばいじゃない」
「やばいのです」
「どうすればいいのよ。次の宴、その次の宴も決まっているのよ。半年後には私の生誕祭。幻想郷の有力者たちを招いての一大イベント」
「残念ながらローソクを添えるためのケーキも買えません。橙の泥団子にマッチ一本を灯すのが精一杯。それが実情」
なにせ、紫が目覚めてから時間が経ちすぎた。
豪華絢爛。豪奢な豪遊を繰り返してきた結果が52円という有様。なんということだろう。愉しい宴席の裏で博麗神社の経済はじわりじわりと破綻に向けて走っていたのだ。
「破産です」
「冗談じゃないわ! そんなの恥よ!」
この後に及んでも体裁を気にする。その見栄っ張りな本性が招いた悲劇なのだ。というのもこの幻想郷、新参者が増える一方で重鎮たる紫の存在感は薄くなり、どうにか自分の立ち位置をキープするべく湯水の如く金を使うことで人心を買っていた、そういう側面もなくは無い。
長い永い人生における初めての困窮。
紫の背筋にゾッと寒いものが走った。
「藍。落ち着きなさい。そこらの宝具を片っ端から売り捌くのよ。今すぐにメルカリにでも出品しなさい」
「申し訳ございません! 実はすでに……」
「はぁ!? じゃあこの神社に置いてあるものは」
「模造品です。紫様に気付かれないうちに売ってはすり替えておいたのです。天井はベニヤ板。床柱はボール紙。今、紫様の手に持っている酒は下町のナポレオン」
瓶を持つ紫の手はわなわなと震えた。なにせ、いつの間にか競馬場周辺のオッサンと同等の生活水準にまで落ちぶれていたのだから。
「藍っ! あなたどうして今まで黙っていたの!」
「何度も申し上げました! そのたびに紫様は不機嫌になり私に酒瓶を投げつけてきたではありませんか! 橙の見ている前で何度も何度も叱責したではありませんか!」
「覚えてないわ! シラフの時に話しなさいよ!」
藍は再び「うう〜」と不吉な響きで泣き始めた。見れば、かつてはフサフサの九尾もトリートメントをせずにバサバサで、心労のため白髪が混じっている。
「橙は給食を半分持ち帰って昼食と夕食の二回に分けて食べているのです。そして友人に、博麗神社に参拝してお賽銭を入れてもらうようにお願いしたから、橙は、橙は、小学校でイジメを…!」
「……分かったわ。なんとかすればいいのね」
「うう〜」
「藍。あなた働きなさい。八雲の名を関する者が労働者などと、みっともないけど、仕方ないわ」
「紫様は気付かなかったようですが、私はすでにスーパーのライフでアルバイトをしております。時間があれば内職。江東区の印刷所から送られてきたパチンコ屋のチラシを蛇腹折に加工して1枚0.1円。小数点の仕事をしてます」
「そ、そんな仕事あるの!?」
「紫様。この世界は紫様の考えるよりずっと儚いものなのです」
煌びやかな生活を続けていた紫には想像もつかない世界。紫はバッド・トリップの如くクラリと目眩がして、この日はお開きになった。
そして翌日。紫はすっかり堕落していた。
「藍。あなた木の葉で万札を刷りなさい」
これには藍も言葉が無かった。信じられない悪徳者を見るような目に紫も良心の呵責、「冗談よ」と撤回しては動物園のチンパンジーのように部屋をウロウロする奇行を見せた。ストレスゆえだろう。
「仕方ないわ。これだけはしたくなかったけど」
「紫様っ」
「働くわ」
貧乏、から、働く、に至るまでにこんなにも迷うとは。これも紫が積み重ねてきた年月によるプライドの蓄積のせいだろう。
「不本意だけどチャチャっと働いてお金を調達すればいいのよね? 私、もちろん外の世界で働くから。幻想郷でだと何を言われるか分かったものではないし」
「チャチャっと……」
「そう。それなら一回や二回の宴の準備くらいできるでしょう。藍。あなたサッサと仕事を探してきなさい」
「サッサと……」
紫には分からなかった。この時、なぜ藍が怒りの表情を浮かべていたのか、が。
「藍が仕事探しをしてる間にYouTubeでも観ようかしら。あら、魔理沙ってば今日も投稿してるみたい。『アリスの人形を破壊してダッチワイフと入れ替えてみた』ですって。おもしろーい」
『ブンブン、ハローYouTube。今日はアリスの奴にドッキリを仕掛けちゃうぜ☆ こりゃマスタースパーク級の面白さだな!』
「あはは。おもしろーい」
「紫様。黙って観て下さい」
「えー、だっておもしろいじゃない」
「紫様っ! 黙って観て下さいっ! 私は紫様の求人を代わりに検索してるのですよっ!?」
「……藍。あなた心が荒んでるわ」
これには藍、ささくれ立った畳を前歯でむしり取り、怒りのあまりのたうち回った挙句に山の方へ駆けて行ってしまった。
「ゆ、ゆ、紫様。藍様が、藍様が」
学校帰りにすれ違ったのだろう、橙は鬼の形相を見せる藍に尻尾を丸めて泣いていた。そんなことも気にせずに紫はゴロゴロとスマホゲーなどを始めてはログインボーナスをゲット。山の遠くから響く藍の慟哭を聞きながら……。
「レジ打ち」
「私の勤務先のライフのテナントに入ってるパン屋です。頼み込んでどうにかってところですね」
「あなたネットで求人を探してたはずだけど」
「見つからなかったもので。ハローワークにも行きました」
「ハローワーク! 恥ずかしいわよ藍。ハローYouTubeとか言ってじゃんじゃんお金を稼ぐ人がいる一方であなたはハローワーク! 藍はついに底辺にまで落ちぶれたのかしら?」
「……とにかく。パン屋でのレジ打ち。それが今の紫様が手にしたお仕事です」
「ま、メルヘンでいいんじゃないかしら?」
パン屋がメルヘン。よく分からない。紫は魔理沙の『ハイパー弾幕メソッド』を観ながら藍の話を薄ぼんやりと聞いていた。
「月給いくらかしら?」
「紫様。アルバイトは時給です」
「ふーん」などと言いつつ『ウマ娘』を起動した紫はさっそく課金を行なった。推しはトウカイテイオー。これで口座に残るなけなしの貯金も完全に底を尽いたのだった。
従業員専用出入口。
客が出入りする裏手側は各種多様な段ボールやら運搬用機材などが並んでおり、そして薄暗い。ついでに臭い。ここを通り抜けると(ああ本当にここで働くのね)という気持ちが実感として湧いてきて、少し緊張。
「じゃあ紫様。頑張って下さい。初日はまぁ二、三時間程度の軽い説明ーーーって、如何されましたか?」
「……帰りたいわ」
「紫様!?」
「……私、『こんなところ』で従業員として勤務するのよね。なんか惨めな気分だわ」
「お言葉ですが紫様、そろそろ上から目線をやめてはいかがですか?」
「なによぉ! 私はこんなところで働く人ではないはずだわ! もっと清潔なオフィスでスーツ着てデスクワーク! それが相応しいハズじゃないかしら!」
「デスクワーク。なるほど。紫様はどのようなデスクワークをご希望で?」
「それは、その、事務作業的な」
「事務作業。なるほど。具体的にどのような業種をお考えで?」
「えと、その、パソコンをいじるような」
「パソコン。なるほど。エクセルやワードを使えるのは当たり前としてパソコンを使って『何を』するのか、具体的な作業は想像できますか?」
「えと、えと、えと」
「自分が働くイメージできないのでしたら迂闊にデスクワークなどと仰らないほうがよろしいかと」
「藍っ! あなたハローワークの相談員!?」
「ハロワの相談員はもっと的確に紫様の心を折りますよ。デスクワークを『楽なお仕事』と決めてかかる者には容赦がありませんから」
紫は泣きそうになった。ああ、人間の世はどうしてこんなにも世知辛いのだろうか。あれもこれもすべては藍が悪いというのに、などと見当外れの責任転嫁をした後、ともあれ制服に袖を通してみると、まるで自分が自分でないような心地がした。
「あっ、ちょっと可愛いかも」
「そうそう。前向きにお考え下さい」
パン屋の制服は、可愛い。紫はまるでゴッコ遊びでもするような気分になり、泣きっ面寸前だった表情が少しは明るくなったのだった。
「いらっしゃいませー♪ うふふ♪」
「ま、そんな感じでしょう」
「パンがごさいます。パンはいかがですか〜?」
「えらくざっくりしてますね」
幻想郷の重鎮。パン屋の店員と化す。
レジの立ち並ぶ1Fフロアの角のスペース。テナントとして入っているベーカリーショップは焼き立ての小麦の香りがした。
「何がメルヘンよ」
「紫様が言ったんでしょうが」
メルヘンの向こう側は現実だった。働き始めてから数日も経たないうちに溢れる愚痴。
「これは、パン・オ・レザン。これはパン・オ・ショコラ。これはショコラ・オザマンド」
「はぁ」
「外の世界じゃ年号が変わったそうじゃないの。なのに令和の世になってもパンの名前を暗記しなきゃいけないのは何故?」
「そりゃパンの表面にバーコードなど刻むわけにはいきませんから」
「いちいちトングでつまんで袋に入れてる間にもレジに列ができて、セルフレジはどこへ行ったのかしら?」
「セルフレジが完全に導入されたら紫様は職を失いますよ」
ハァ、とため息をつきながら三人揃ってパンをちまちまと食べる博麗神社の風景。廃棄を持ち帰って食費を浮かせているのだ。
「おいしいです。紫様」
「子供は何も知らずにいいわねー。橙が食べてるそれ、私が仕上げのバター塗ったのよ」
「すごいです。紫様」
「……すごいだなんて。子供はすぐに具体的なことばかりに目が行くんだから」
などと言いながらも少し嬉しそう。八雲一家にわずかな平穏が戻ってきたようだ。
「思ってたより順調そうで何よりです」
「……そう見える?」
「もっとボロボロに打ちひしがれている紫様を期待していたのですが、期待外れでした」
「…………」
「えっ、紫様?」
「ヨユーよ。ヨユー」
八雲紫は見栄っ張りなのだ。見栄っ張りゆえに、打ちひしがれている姿など身内に決して見せてなるものかと、そうしたプライドが働いているのだが、実際はーーーちょっと泣きたくなるような出来事も腹に抱えているのだ。
「藍ってデリカシー無いわよね」
「……申し訳ございませんでした」
先程の愚痴だって本当は『そこそこ上手くいっている自分』をアピールしたいがための、屈折した強がりだったというのに。
「八雲さん。動き遅い」
「すいません」
「周りを見て動く。焼き立てが出てるんだから声出しして並べる。焼き上がりの時間覚えて待ってるお客様だっている」
「す、すいません」
「時間があればトング拭く。トレイ拭く。同時にいくつも動く」
「す、す、すいません」
「なんて言ってる間にもレジ並んでる。すぐにヘルプに行く」
「ひゃ、ひゃいっ」
背の低い焼き場の小娘がピシピシと指示を出す。幻想郷へ来たら弾幕でもぶつけてやろうかと思ってみてもここは職場、独自の権力関係が成り立っていて逆らえそうにない。紫は目を白黒させて右往左往。
「売り場のトングが尽きる。すぐに拭いて運ぶ」
「で、でも、焼き立てが」
「トングが無ければ焼き立ても買えない。優先順位を考える。そして動く」
「ひゃいい……」
「すぐに動く!」
「ひゃんっ!」
『魔女の宅急便』は嘘つきだ。あんなにダラダラ暇そうにしてていいわけがない。それで賃金が発生するもんか。紫は思った。
パン屋はファンタジーでもメルヘンでもなければ幻想も通用しない。未就学児が『なりたい職業』として憧れるパン屋は意外にも忙しいのだ。
「ここで問題です」
「はぁ!?」
「ベルリーナラントブロートとロッゲンブロートの違いは何でしょう」
「え、え、えと」
「正解は含まれるライ麦の割合。それじゃお客様に説明できない」
「すいませんっ!」
可哀想に、八雲紫。小娘と見下している焼き場の職人にチクチクと虐げられているではないか。無表情で淡々と詰め寄る焼き場の小娘ちゃん。職人独特の気風である。そのノリは売り場でキャピキャピしている女子大生組とは一線を画していた。
「お疲れ八雲さーん。売り場の調子どう? あー、めっちゃ残ってるじゃーん」
「あ、店長。まぁ午後から雨が来ましたから」
「おれ気象予報士じゃないよー」
「あと、後半のシフトの方ですけど、遅刻するみたいです。大学のゼミの用事で」
「女子大生っていいよねー」
「……は?」
「いいよねー」
「はぁ」
幽鬼のように細った店長は、ヤベェ奴の感を漂わせてヘラヘラとしながら売り場の方を見ていた。まさか妖怪か。それとも半人半霊か。
「店長! 喋ってちゃバケットが間に合わない!」
「あっ、はいはいすいません」
一喝。焼き場の小娘ちゃんは攻撃力が高いのだ。
『ようやく職人河童たちを動員できたぜ。今日はアリスが外出する数時間の間にあいつの家を完全に解体する。跡形も無くな。魔法の森で呆然とするアリスはどれくらいのタイムで状況を理解するのか、こいつは楽しみだぜ!マスタースパーク!』
ちまちまとパンをちぎりながら眺めるスマホの画面。紫は、はぁ、とため息をついた。
「自己肯定感下がっちゃう」
「適切な位置にまで、ですか」
「藍。みもふたもないこと言わない」
「ふひひっ、申し訳ございません」
「なによ嬉しそうじゃない」
「まぁ肚に溜め込むより健全だと思いますし、なにより、きちんと継続して働けている紫様に安心しました」
「うわ、ハロワ目線」
パン。パン。
昨日もパン。今日もパンだし、明日もパン。
たぶん平均的な人間が一生で食べるパンの総量くらいはパンを食べた気がする。そして眺めてきた気がする。そんなパン生活。
「おいしいです、紫様」
「そりゃそうよ。ウチは粉から作ってるもの。工場から送られてくる冷凍の生地を焼いてる店とはレベルが違うわ。今まで橙が食べてたコンビニのパンなんてもってのほか」
「すごいです、紫様」
「私なんて品出しとレジ打ちだけよ。でもね、見なさい。この火傷の跡。パン屋はハードワーカーよ。尊敬するがいいわ」
紫の指にはバンソーコー。熱々に焼けた鉄板を扱うのだから必然こうなる。なにやら職業人じみてきた紫の物言いを聞いて藍も内心では安心。そんなわけだから定期的に江東区から送られてきたパチンコ屋のパンフを折り畳む謎のお仕事からも一時的に解放。
だが、まだ紫はパン屋のおそろしさを知らなかったのだ。
ーーー博麗神社の地下数百メートル。地霊殿よりも灼熱のパン屋地獄である。
「このカレーパンは工場品。テナントの都合でフライヤーが無いから。ふむふむ。あっちは新商品のトロピカルマンゴーメロンパン。香料じゃなく生のマンゴーも使ってる。ふむふむ」
「問題です」
「はぁ!?」
「メロンが含まれてないメロンパンは何故メロンパンと呼ばれているのでしょう」
「あ、あの、朝の品出しが」
「答える」
「は、はい、タテヨコの筋がメロンに見えるから?」
「それでは何故タテヨコに切れ目を入れるのでしょう」
「え、えと、可愛いから」
「20点。正解はパン生地とクッキー生地の膨らみに差があるから。切れ目を入れないと全体がひび割れて汚く見える」
くそぉ、焼き場の小娘め毎度毎度調子に乗ってからに。紫は心の中で毒付いた。
「あの!」
「なに」
「キツネ蕎麦にキツネの肉が入ってたら大変ですよね!」
「…………」
「鉄板焼きは熱した鉄板を眺めてるだけ、なんちゃって」
「さっさと仕事に戻る」
「ふえぇ」
渾身のジョークでコミュニケーションを図ろうとしても応じてくれない。愛想ってやつがちっとも無い。紫、これには泣きそうになり、どうしてこんな目に遭っているのだと考えると藍の顔が浮かんできた。逆恨みである。
『九尾のキツネに狐肉の蕎麦を食べさせてみた』なんて動画を投稿したらどれくらい伸びるのだろう? そんなことを考えながら開店前の店内にちまちまとパンを陳列していた。
この日も朝から暑かった。
「みんな熱中症に気を付けてねー」
職人たちは各々がペットボトルを用意して灼熱地獄を堪えていた。パンを焼き上げる窯が焼き場をサウナ以上の高温へと変える。
休憩時間になると逃げるように飛び出てくる職人たちを見て、紫は売り子で良かったと胸を撫で下ろすのであった。可愛い制服の似合う可愛い容姿に感謝。紫は何故か得意げだった。
初めは苦労していたレジ開けの作業も慣れてきたのであった。
「問題です」
「はぁ」
「パンに含まれる砂糖と塩の配合を逆にするとどうなるでしょう」
「?」
「正解は海」
「海?」
「食べてみて」
ある日の開店作業中のことである。ちまっとちぎったパンドミを小娘ちゃんから、あーん、させてもらうと紫の口内に『海』が再現された。
「辛っ!?」
「店長が間違えた」
「そ、そんなジョークみたいな話が」
「あたしもこんなの初めて。並べた商品は廃棄で今からすべて焼き直す」
店長会心の怪作『海』は、あわれ即ゴミ袋へ収まることとなってしまった。
「悪い。こんなヘマするとは思わなかったなー」
「て、店長。あんたって人は……」
大なり小なりミスを重ねる店長は、人望が無い。そしてミスをしても「あはは」とばかりに笑っているのだから売り子の女子大生たちにも見下されており「ゼミの課題あるんでこの日は休みます」という急遽のシフト変更にも「困ったなぁ仕方ないなぁ」とヘラヘラしては店長自ら売り場に立ったりもする。
「店長は今月休んでない」
「えっ、もう月の半ば過ぎなのに」
「だから疲れてる。『鋼の連勤術師』なんて自称してヘラヘラしてるくらいには疲れてる」
「……壮絶」
人間の世とはいったい何なのだろう?
幽鬼のような表情をしている店長が灼熱地獄へ戻ってゆく姿を見て、紫はそう思った。このスーパーの片隅のテナントから眺めた名も無き人々の世界であった。
夏も真っ盛りになり地獄は温度を増した。
この日も朝から暑かった。
焼き場の職人の朝は早いがレジ開け担当朝番の紫はそれより遅い。自転車を転がしてスーパー裏口の警備員さんに挨拶をして開店前のテナントへ向かうとーーー事件が起きてた。
「………?」
窯の前には必ず小娘ちゃんが働いていたはずなのだが、今日はいない。代わりに別の職人さんが立っているではないか。これに違和感を覚える程度には紫は店の動きを把握していた。
「今日お休みなんですかね?」
「ああ八雲さん。あの子なら、やっちゃった」
大火傷。
フランスパンを焼き上げた熱した鉄板に腕を押し付けてしまったのだという。
「小娘ちゃん!」
「お疲れ様、八雲さん」
「お疲れ様じゃないでしょ! 大丈夫なの!?」
「火傷にはすぐアイシング。パン屋に火傷は付き物だからそれほど大騒ぎはしない」
氷嚢たっぷりで前腕を冷やす痛々しい姿に、紫は泣きそうになっていた。肘から手首近くまで十数センチもの熱傷は赤黒く酷たらしい痕を刻んでいた。
「油断してた。ごめんなさい」
「私に何を謝る必要があるの! 今日はもう終わりにして病院へ行きなさいよ!」
「問題です」
「はぁ!?」
「パン職人の世界で一番焼き上げるのが難しいパンは何でしょう」
「え、えと」
「答えはフランスパン。温度調節が下手だとあの外はパリッと、中はもちっと、の食感は生まれない。そしてこの店で上手なフランスパンを焼けるのはあたししかいない」
焼き場の小娘ちゃんはアイシングもそこそこに仕事へ戻っていった。店長は止めたけれど、それでも止まらなかった。
「俺も何度もやったよねー。ほら、僕はヘマが多いから特別に多いの。まぁ職人の勲章みたいなものかなー」
ぐいっと腕をまくった店長の腕にはいくつものケロイド。ーーー問題です。窯の前で暑いのに職人の制服が長袖なのはなぜでしょう。正解は火傷防止のため。そんな小娘ちゃんの言葉が思い浮かんだ。
この日は早朝から暑かった。
耐えかねて、つい、腕まくりをしてしまった小娘ちゃんの手痛い『失態』だった。
「おいしいです、紫様」
「………そうでしょ」
「すごいです、紫様」
「………私はちっともすごくない。すごいのは焼き場に立っている小娘ちゃんよ。外はパリッと。中はもっちり。完璧な仕上がりだわ」
紫は、『売れ残り』のフランスパンを橙に食べさせながら涙を堪えた。人間の世とは、いったい何なのだろう。
『みんな、『ジョジョの奇妙な冒険』は知ってるよな? 今日はようやく仲直りしたアリスとのティータイムで『アバ茶』を再現してみようと思う。こりゃ魔理沙様のチャンネルからますます目が離せなくなるな!』
「問題です」
「はい」
「正方形の食パンと『食パンマン型』をした食パンの製法の違いは何でしょう」
「蓋を閉めるか閉めないか!」
「それでは『食パンマン型』をした食パンの上部に八雲さんが仕上げでバターを塗っているのは何故でしょう」
「えと、えと、見た目が良いから!」
「10点」
「味が良くなるから!」
「20点。正解は表面積の違い。膨らんだだけ表面積が増えて水分が蒸発しやすくなる。すると中がパサパサになってしまうからバターを塗って蒸発を防ぐ」
なるほどなー、と頷く紫。小娘ちゃんのトリビアにはやっぱり敵いそうもない。あの日に刻まれたケロイドは長袖の下に勲章として隠されているのだろう。
「あれ? 店長は?」
「奥」
「ま、まさか、火傷とか」
「違う。昨日からずっと『明日のジョー』になってる。休ませてあげて」
「明日のジョー?」
奥、にはいつも小麦粉まみれのパソコンと書類が乱雑に散らばっていて、管理の行き届かなさに小娘ちゃんは時折キレたりするのだが。
ーーーそこには燃え尽きた『明日のジョー』と化した店長が椅子に座って、死んだように眠っていたのだ。
「死なないで! ジョー!」
「………ああ、八雲さんおはよー」
髪を白く染める小麦粉を払い幽鬼のような顔をして目覚めた店長。そういえば前日の閉店時刻の22時過ぎ「先に上がってて」と言ったきり本社への何某かの書類を作るために遅くまでパソコンをカタカタとしていたのを思い出した。
「僕は『明日のジョー』じゃなくて『鋼の連勤術師』だよ。エドワード・エルリックみたいカッコよくはなれないけど」
「………店長」
「僕はどうしてパンを焼いてるのかなぁ。もっと違う道もあったんじゃないかって思うこともあるんだけど」
「…………」
「女子大生っていいよねー。あの子たちには色々な未来があるんだろうな。僕は高校を卒業してからずっとパン屋だ。いったい何歳までパンを焼き続けるんだろう? ヘマが多い僕は本社勤務なんてできないだろうから、パンを焼けなくなったらどうなるんだろう?」
「…………」
「指先が痛い。輪ゴムで締められたみたいにずっと痛いんだ。たぶんマスクをつけるのを面倒臭がってたから小麦粉を吸い込んで指先に詰まってるんだと思う」
「……それはないと思いますけど」
「暑苦しいからついマスクを外しちゃうんだよ。この指であとどれだけ生地をこねるんだろうね」
「…………」
「さーて、仕事に戻るかー」
燃え尽きたジョーは二度と立ち上がれなかった。なのに店長は作業に戻って、今日も、明日も、パンを焼き続けるのだろう。妖怪でも半人半霊でもない『人間』の姿。紫の目にはジョーよりもエドよりも頑張っている店長の姿が見えた。
「問題です。パン屋の売り上げが落ちる時期はいつでしょう」
「夏場ですかね。暑くなるとどうしてもパンからは遠ざかるんですよね。常連のお客さんもなかなか来なくなっちゃったし」
「正解」
そこでまさかの『アイスメロンパン』の発売となったのだ。メロンパンの内部にアイスが詰まっている。無論、こんなものを店内で焼き上げることもできないので本社からの工場品。
「こんなの邪道よ!」
「あたしもそう思う。パンは焼き立てが一番」
送られてきた冷蔵用のフリーザーが売り場に設置され、ぷりぷりと文句を垂れながらもノルマなので紫は声を出して販売していたのだが、意外や意外、物珍しさからか売れ行きは好調で、これには複雑な気分だった。
パン屋の八雲さん。
幻想郷と行き来しながら生活する紫はすっかり馴染んでいた。スーパーのオバチャンたちとも顔馴染みになり、重鎮たる自分を忘れて井戸端トークに花を咲かせたりもする。
しかし、それで得られる賃金はーーー華々しい宴を開くにはちっとも足りず、体調不良ということにして延期や中止を繰り返していた。
「問題よ、橙。どうして私は毎日のようにパンを持ち帰ることができるのでしょう」
「それは紫様がすごいからです」
「正解は、商品であるパンが並んでないと店を開いている意味が無いから。閉店ギリギリでもパンが並んでいなくてはならないの。だから廃棄ロスはいわば必要悪よね」
それをこっそり持って帰るのは役得、といったところである。本来はNGであるのだがちょっとくらいのズルはパンの神様も許してくれるだろう。あいにく、幻想郷にもパンの神様はいないのだが。
「で、今日はお寿司!」
「ゆ、ゆ、紫様!?」
「何よ、藍。不思議は一つもないわ。これは原始社会の物々交換。寿司屋は寿司が残る。パン屋はパンが残る。ふだんすっぱいご飯ばかりを持ち帰っているお寿司屋さんだってたまにはパンが食べたくなるじゃない。テナント同士の協力だわ」
「……スーパー側の私からは何も申し上げることはできませんね」
ムラ同士の交易とはこうして生まれたのだろう。人類史の智惠は必然的に起こったのだ。何やら壮大な歴史のドラマを体感しているような心持ちで廃棄予定の寿司をちまちまとつまむ八雲一家。
「どうしてこんなにお給料が少ないのかしら。きっと焼き場の職人さんたちだって大差無いわ。みんな、あんなに頑張っているのに……」
紫生誕祭まであと数ヶ月。『ウマ娘』に課金する余裕なんてありやしない。爪に火をともすような生活をしながら、紫はため息をついたのであった。
『今回アリスに食わせた毒キノコは効果抜群だったな! アリスのやつ笑いながら怒ってたぜ。さーて、次回の魔理沙チャンネルだが、私はとあるネタを掴んだ。それは幻想郷の重鎮であるアイツに関する『噂』だ。楽しみに待っててくれよな! スターダストリヴァリエ!」
それは閉店作業中のことであった。
ギリギリの時間までスーパーで買い物をしていた客も帰ってゆく中で、紫はレジの奥に手を突っ込んでいた。
「うーん。誤算5円。バイトの女子大生ちゃんたちがお釣りを間違えて渡しちゃったのかしら」
5円でも報告書。一日の終わりはスッキリしなかった。仕方なしにペンを取り出してレジでカキカキしていたときのことである。
「……どうやら噂はマジだったようだぜ。見えるか? 幻想郷の重鎮である八雲紫様が、ふひひ、パン屋のレジ打ちなんてやってやがるぜ!」
「魔理沙っ!?」
「おう、紫。まだパン買えるか?」
「あ、あんた、な、な、何しに来たのよ!」
「私は客だぜ? おーおー、フランスパンが売れ残ってやがるな。これ一本くれよ」
「………もうレジは閉めたわよ!」
「つれねぇなぁ」とニヤニヤながら魔理沙、店内のパンを素手で掴んでは戻し、動揺する紫の顔へ無礼にもカメラを向けた。
「河童連中と野球の約束がある。バットを探してたんだがスポーツ用品店は閉まっているんだぜ。このフランスパンを振り回せば快音を響かせるホームランが打てる。そう思わないか?」
「………!」
「むぐっ!?」
ペシペシとバケットで頭を叩いてくる魔理沙の、その胸倉を掴み、そしてカメラごと魔理沙を無人の焼き場へ引きずり込んだ。
「魔理沙、あなた何のつもり」
「何だよ痛えな! 見りゃ分かるだろ! 次にアップする動画の撮影だぜ!」
「ふざけてるの!?」
「ふざけてるもんか! パン屋なんてやってる八雲紫だなんてサイコーのネタだろうが! 面白すぎるぜ!」
視界が狭窄するほどの怒り。紫は普段パンがこねられているメン台に魔理沙の身体を押し付け、胸倉を掴む指もワナワナと震わせていた。
そして焼き場の小娘ちゃんが操作しているのを見て覚えた通りに、窯の電源を入れて加熱。
「落ち着けよ紫。こいつはスキャンダルどころか事件だぜ。もしも私がこの様子を告発したならどうなると思う?」
「やってみなさいよ!」
「オーケー。やってやろうか。どうやら私のチャンネル登録者数を知らないらしいな。Twitterのフォロワー数も確認したか?」
魔理沙は今までの魔理沙ではない。弾幕は注目されるキッカケ作りと割り切り、お宝の蒐集もやめて、すっかりネットビジネスを行う人間と化していたのだ。そう、「弾幕なんかで金なんて稼げねぇよ」と、自身の先の無さを理解した魔理沙は『利口』になっていた。
「誰に手をあげてるのか理解したか? お前のことは晒してやる。そしたらこんなチンケなパン屋なんて一晩のうちに大炎上だぜ! パンよりこんがりと燃えて消し炭すら残らず従業員一同、失職させてやる!」
「………そしたら殺してやるわ」
フランスパンを焼き上げる高温にまで熱された窯を、バンッ、と開けると、紫の怒りに等しい灼熱の熱気が漏れ出てきた。
「この鉄板でケロイドを作ってあげる」
「お、おい、正気かお前」
「正気じゃないのはあんたよ! ニヤニヤしながらYouTuberなんてやってそれでお仕事のつもりなの!?」
「立派な仕事だぜ! こちとらてめぇのショボいバイト代の何百倍も稼いでるんだ! どっちが価値がある労働をしてるか一目瞭然だよな!」
チッ、と舌打ちをして魔理沙の頭をメン台へ叩き付けた。収入の寡多。それは紛れもない現実であったのだ。
「なんでアンタみたいなクズがお金を稼いで、真面目に仕事をしてる人たちが報われないのよ」
「……いてて、分かったよ。教えてやろうか紫。お前らがどれだけ地味に働いても金持ちになんてなれやしない。仕組みを考えれば判るだろ」
「ーーー仕組み?」
「もしもこのパン屋の数キロ圏内の客がすべて来たとしよう。その客がパンをたくさん買って帰る。でもそれって限界があるだろう? 人間が無尽蔵にパンを食えるか? スーパーだって同じだ。食には必ず限度がある。つまり天井知らずの金儲けなんてパン屋にはできやしないのさ」
フンッと鼻を鳴らして魔理沙は向き直った。
「ビジネスモデルが古いんだよ。たとえば通販するような工夫はしてるのか? 顧客が全国へ広がるぞ?」
「………パンは焼き立てが一番」
「だったら保存の効くパンを作る努力は? 冷めても食べられるパンを開発する努力は?」
「店長にそんな余裕があるわけないじゃない!」
「じゃあ、努力不足だな」
努力不足。紫の勤務していた日々は、その言葉でバッサリと切り落とされてしまった。
「紫。お前に教えてやるよ。きちんと金儲けがしたけりゃ『欲望』を売れよ。胃袋と違って人間の『欲望』には際限が無いからな。ソーシャルゲーム、ネットサロン、その他諸々のネットコンテンツ。みんな『欲望』を対象にしてるから儲かるんだ」
「…………」
「貧乏が嫌なら賢くなれよ、紫」
「…………」
「ま、お前が考えを改めたら私のチャンネルに出演させてやってもいいけどな。八雲紫の土下座謝罪。こりゃ再生回数が伸びそうだぜ。マスタースパーク級にな」
突き付けられた現実に言葉を失う。誤差の5円を探す気力も無く、打ちひしがれた紫はしばらく動くことすらできずに、魔理沙の去ってゆくのを見ているだけだった。
「藍、あなた脱ぎなさい」
「はぁ!?」
「やる気が失せたわ。あんな時給でちまちまと働くより裸のビデオでも売って金稼ぎしたほうがマシよ」
「ゆ、ゆ、紫様。心を入れ替えたのでは!?」
「あーら、もう一度入れ替え直したのよ。パンより欲望を売ったほうが手っ取り早いじゃない」
紫はすっかり堕落していた。
これには藍も言葉が無かった。木の葉で偽札を作るよりも現実的な提案に寒気すら覚える。紫の目は真剣で「冗談よ」などと撤回する様子すら窺えず、良心の呵責すらも消し飛んだようだ。
「私はパンじゃなくて欲望を売るのよ。最近じゃ存在感の薄くなった藍のフルヌードなんて大した額にはならないだろうけど、橙ならどうかしら。子供の裸は高く売れるそうじゃない」
「ちぇ、橙は、ようやく学校でのイジメが無くなったのですよ」
「あら? いじめる奴が悪いんだわ? それに私が火傷を負ってまで仕事をしてるのだから橙だって少しは犠牲になりなさいよ」
「紫様。あんた鬼や」
「鬼じゃなくて妖怪。人間の営みなんて知ったことですか。ーーー分かったら二人ともさっさと脱ぎなさいよ!」
般若の顔は女性を模している。
魔理沙から受けた屈辱はあろうことか藍と橙に向けられ、守銭奴並みの低級妖怪のメンタルにまで成り下がった紫は身内の裸を売るつもりなのだ。
「紫様! 本気で言っているのですか!」
「納得できないかしら。ならいいわ。私も参加して平等にジャンケンで負けた者がすっぽんぽんになりましょ。橙も例外じゃないわ。ちゃんとカメラの前でお股を広げるのよ」
こうして『第一回チキチキ八雲一家ヌード撮影ジャンケン』が開催されたのであった。忌み嫌われている地霊殿の連中もドン引きするほどの地獄である。
「いくわよー、じゃーんけーん……」
ポンッ。
グー。グー。チョキ。勝負は一発だった。橙は、己の出してしまったチョキを眺めて涙目で震えていた。
「うっしゃあ! 勝ったわ勝ったわ!」
「紫様っ!あなたという人はっ!」
「しゃーっ! しゃーしゃーっ! シャーラッ!!」
ほっほーい。ほっほーい。ボール紙の床柱をグーで突き破る八雲紫、狂喜乱舞。乱痴気騒ぎ。飛び跳ね転げ回り全身で喜びを表現。
橙の目からはポロポロと涙が溢れていた。負けた悔しさか、また始まるイジメの日々のせいか、それとも尊敬する紫様の見るに堪えない姿のせいか……。
「庭で麻を栽培するアウトローな計画もあったけれど種子の入手法がわからなかったの。それに、私ガーデニングとか苦手だし? ほら、橙。初回は紐ビキニで勘弁してあげるわ。さっさと脱ぎなさーい♪」
泣きじゃくる橙の小さな背に添えられた藍の手。疑似家族とはいえ家庭と愛がそこにはあったのだ。「橙。一緒に死のう」と耳元で呟いた藍の声は紫には届いておらず、藍は橙を楽にさせた後に主人の喉元を食い破るための牙を準備していた。
一家心中。覚悟はできていた。
「はい。機材の準備完了! 橙! 何も持たない者が金を稼ぐのがどういうことか教えてあげるわ!」
「紫様」
「そんな顔したって無駄よ」
「紫様のパン。おいしかったです」
「なによ。やめなさいよ」
「フランスパン。おいしかったです」
「やめなさい。ウチでそんな名前のパンは扱ってないわ。バケットとバタールよ」
「細いバケットはパリパリの部分が多くて、太いバタールはもちもちの部分が多いんですよね」
「正解。表面積の違いだわ」
「紫様のパン…おいしかったです…」
おいしかったです。
その言葉が『売り子の八雲さん』を何度助けただろうか。ああ、欲望を売り捌いた先には何が待っているのだろう。ーーー般若が涙を流した。
「やめなさいって言ってるでしょうっ!」
ハラリ、と脱ぎ捨てられた最後の布をショットガンタッチの勢いで拾い上げ、荒れた畳を滑り込んで紫は橙の身体に巻き付けた。そして、抱きしめた。
「子供が親の見栄のために脱ぐなんてやめなさいよっ! やめろって言ってるでしょう橙っ! どうしてあなた脱ぐのよっ!」
「紫様が橙に命令したんでしょうが」
「うるさいっ! あなたいつもうるさいわ藍っ!」
支離滅裂な叫びに呆れながらも藍の目にも涙。もう少し遅ければ本気で喉笛を噛み砕いていただろう。「紫様はアホですね」と呟き、一家心中はすんでのところで回避されたのであった。
「ま、ローソクを立てるためのケーキくらいは用意できたわね」
「これも労働の結果です」
「違うわ! 本当は畳一面分の盛大なケーキを想定していたのよ! そして私の年齢と同じ本数のローソクを滅多刺しにしてたくさんの灯火に照らされた私の姿をインスタにアップする予定だったのよ!きいきい!」
「年齢分のローソクですか。たぶん火事場みたいな絵面になると思われますが」
「そ、そんな毒舌ある!? 藍! あなた遠慮しなさすぎじゃなくて!?」
結局、八雲紫の生誕祭は博麗神社でしめやかに行われることになった。ちゃぶ台にホールケーキ。同じくテナントに入っていたケーキショップで買ったものであり、こちらは廃棄品ではなく正規のお値段。
「分かってたけど、みんな薄情ね。貧乏となれば誰もお祝いに来てくれない」
「守矢神社からは祝電が届いてますが」
「どうせ嫌味よ。ローソクで焼きましょう」
名前の後に(笑)が添えられたクソッタレの祝電は灰となって庭に捨てられた。「おいしいです紫様」とちまちま食べる橙。八雲一家の誕生日パーティーは細々と行われたのであった。
「はい、紫」
「霊夢。どうしたのこんなお洒落な水筒」
「焼き場の近くは暑いって言ってたじゃない。空きペットボトルに水を詰めるより、こっちのほうが様になるんじゃない?」
「れ、れ、霊夢。あなたって子は」
「やめてよ。お賽銭箱の中身で買っただけだし。ここ最近はやたらとお金が多かったわ。誕生日近くになってから、にわかに。どうしてかしらね」
泣くか。泣くか。と期待していた藍と橙の期待を裏切り、紫は「現金でもよかったのに」と呟いてしまったので水筒で頭をコツン。無論、それが精一杯の照れ隠しであることくらいは博麗神社の者なら分かっていた。
「高いっ」
「そりゃ634メートルですからね」
「違うわ! 高いのは値段よ! どうして展望デッキからその上へ行くのに料金が増えるのよ! せっかくスカイツリーに来たのに途中下車で満足する人がいるかしら? 二重に金を取られた気分だわ!」
せめてもの、ということで八雲一家は誕生日の記念としてスカイツリーへお出かけ。みみっちくもプリプリと怒る紫は、高速エレベーターの気圧差で鼓膜がペコンとなり「ひゃあ」と声を上げた。
展望回廊かり下町の夜景が一望できた。
「ここは墨田区。あっちは荒川区。むこうは足立区。江戸川区。葛飾区」
「分かるんですか」
「たぶん、ね」
「いい加減な人だ」
「みんなお星様みたい」
地上からは夜空を眺める。
でも、展望台からは眼科に広がる街を眺める。
なるほど、スカイツリーも悪くない。紫はひとつひとつの光を辿って勤務先のライフを探していたが、あまりに小さくて見えなかった。星空と同様に、無数に散りばめられたひとつひとつの名も無き星がこの景色を形作っているのだがーーー。
きっと焼き場の小娘ちゃんも、売り子の女子大生も、店長も、スーパーのオバチャンたちも、この光の一部であるはず。
紫様はついうっかり小娘ちゃんに言ってしまったことがある。「そんなに頑張れるならもっと大きな会社で働けばいいのに」と。それは今考えても取り消したくなるような失言だった。
「私の家は兄弟が多いから」と小娘ちゃんは語った。それだけだった。その問題が意味する正解はーーー紫はそれ以上を追及しなかった。
「あと、パンを焼いてるのが好き」マスクさえ無ければきっと小娘ちゃんの年相応の笑顔が見れたのだろう。焼いた小麦の匂いが漂う無表情な小娘ちゃんの笑顔が。
「藍。私、人間の社会が分からないわ」
「実は私もです」
「こうして働きだしてからますます分からなくなったの」
「そういうものですよ」
そんな紫の見ている景色の中に一筋の流れ星が走った。
『ハローYouTube。今日は下町の夜空に魔理沙様のキラキラなシューティングスターをプレゼントしちゃうぜ!』
光は弧を描いてスカイツリーを一周。『今日』が何の日か幻想郷の住民である魔理沙が知らないわけがなかった、そんなサプライズ。
「墜落しろ! 地べたへ落ちて土下座しなさい!」
「まぁまぁ」と藍が宥めて終わった、八雲紫の誕生祭。橙はキラキラと光る地上の星を目に宿そうと一生懸命に眺めていた。あのおいしいパン屋がどこかにあるのだから。
それからしばらくして、紫はレジ打ちを辞めた。
やはり幻想郷の住民であり妖怪。これ以上の関わりをやめて棲む世界に一線を画した。人間とは違うのだ。
パン・オ・レザン。パン・オ・ショコラ。ショコラ・オザマンド。ライ麦のベルリーナラントブロートとロッゲンブロート。工場品のカレーパン。トロピカルマンゴーメロンパン。パンドミ。アイスメロンパン。
そして小娘ちゃんの焼いたバタール。バケット。
時折、無性に恋しくなってあの小麦の香りを嗅ぎたくなることがある。ちまちまと味わいたくなることがある。
そして、たまにはと紫は外の世界へ足を運んでスーパーへと向かったのだが、すでにテナントには別の店が入っていた。
ーーーあの名も無き人たちがいったいどこで何をしているのか、今は確かめることもできなかったのだった。
次は、パンや麺類におされて苦境にあえぐコメ農家を書いてほしいです
水田は洪水の防止なんかにも役立ってますし
パン屋への理解がグッと深まりました
この魔理沙はもう一度タオル業者に放り込むべきです
読んでて凄くしんどくて(特に魔理沙が出たあたりなんかは)労働なんてしたくないなって思ってしまいました。
かつてはタオルを追っていた魔理沙の後を追うように、紫様もかわれるのでしょうか
幻想郷以外のキャラを書くのが本当にうまいなあと感じます
面白かったです。