打ち棄てられた夜の遺跡はあまりに静かで風さえも吹かない。私の眼前では、かつては巨大な建物の石柱や床を形作っていたであろう建材が、最後の雨が乾いた時のままに姿を留めていた。
私はその一隅に腰かけている。ここなら地球の光が石柱の断面を濡らしているところがよく見える。
「なかなか縁起の悪い夢を見られる」と獏が横から言った。「それともそうしたことがあなたの願望なのですか?」
「まさか」と私は思わず言った。言ってから口を開いてしまったことに気付いて、慌てて両手で口を押さえる。誰かに話しかけられるだなんて考えたこともなかったのだ。
「別に大丈夫ですよ、喋っても」と獏は言った。「ここは夢の中ですし、その能力が災いを及ぼすことはありません」
私はしばらく黙って考えてからゆっくりと口を開いた。
「どうしてここに?」
「さあね。何となく気になったからでしょう。でも、こうして普段見ている夢の中に入ってその持ち主と話をすることは時々あります」
私は赤くなって彼女を睨んだ。
「普段見ている?」と私は言った。
「まあ、それが仕事ですから」と彼女は悪びれずに言った。私が相変わらず睨んでいるので弁明するようにまた口を開いた。「ねえ、夢というのは公共物なんですよ。あなたたちは自分のものしか見えないからそれが個人的なものだと勘違いをしていますが、あなたたちは意識の深いところでみんな繋がっているんです。木の幹と枝葉のようにね。……こんな卑俗なたとえを使うとあなたは軽蔑するでしょうか?」
私は首を横に振った。彼女は頷いて先を続けた。
「そこを行き来することが私にはできますが、だからといってそれがあなた方のプライバシーを侵しているということにはならないでしょう。そうではないですか?」
私はしばらく考えた後に「詭弁ね」と言った。
「そうかもしれませんね」と素直に言って獏はにっこりと笑った。「詭弁ついでにあれですけれど、こうして時々お邪魔しても構いませんか?」
「どうせ見ているならどちらにしても同じことでしょう」と私は諦めて言った。「どうぞご勝手に」
「ありがとうございます」と彼女は言った。それから立ち上がって私に向かって礼をした。赤い帽子の先に付いている白い玉が上下に忙しく跳ねた。彼女は表紙に「D」と書かれた大きな本を小脇に抱えていて、着ている服にも帽子の先端についているような白い玉がたくさん付いている。何もかもが奇妙だったけれど、地球の明かりに照らされた遺跡の中では彼女のそうした非現実的な姿は不思議と映えていた。「ドレミー・スイートです。よろしく」と彼女は言った。
「どうも」と私は言った。「どんな夢が他にはあるの?」と私は訊いた。
ドレミーは私の横に腰かけてしばらく考えてから口を開いた。
「ねえ……それをあなたに言うと、私はあなたの信用を失ってしまう」と彼女はゆっくりと言った。「私の言ってること分かります?」
「分かるわ」と言って私は俯いた。今度は恥じ入って赤くなる番だった。「ごめんなさい」
「とんでもない」
彼女は相手が口にした疑問が、見知らぬ他人の内心への下世話な関心ではなく、目の前にいる妖怪に対する興味から来るものだと分かっていたので慌てていた。その様子を見ていた私はやがてくすくすと笑いだした。
「これは確かに夢なのね?」と私は訊いた。
彼女はほっとした顔をして頷いた。「そうですよ」
「自分が夢を見ている時に自分でそのことに気付くことは時々あるけれど、他人に言われて気付くのって初めて」
「まあそうでしょうね」
「その本に何が書いてあるのかは訊いても良い?」
「これですか?」と言って彼女は左脇に抱えていた本を取り出して私の方に出した。「読んでも良いけれど、多分読めませんよ」
私は彼女がこちらに見えるようにして開いたページを半ばむきになって覗いたけれど、確かに彼女の言う通りで、私には文章を構成している文字そのものが読めなかった。
「あなたはこれ読めるの?」
「さあ、どうでしょう」と彼女はとぼけた。
「え、なんなのそれ」
「そんなに色々なことが一気に分かったら、今後の楽しみがなくなるじゃないですか」と言って彼女は笑った。
「少し歩きましょう」と私は言って立ち上がった。彼女は素直についてきた。
私たちは折れた石柱の巨大な直径を渡り、同じく石でできた建物の基礎を靴で打った。砂漠のように乾いた音がした。
「遺跡の向こうには何があると思う?」と私は訊いた。
「そんなこと分かるわけないです」と彼女は呆れた声で言った。「あなたの夢じゃないですか」
私は縁側に腰かけて庭の様子を見ている。永琳が弓の練習をしていて、時折彼女の放つ矢が空気を切り裂き、的を捉える音だけが響く。私はそうした時間が好きだった。人が何かに真剣になっているところに居合わせる時間が。少なくともその間、私は自分が充分に言葉を発せられないことについて罪悪感を覚える必要がなかった。ただ黙って相手と同じことを願ってさえいれば良かった。次の矢が的に命中するということを。数秒後にあの低く短い乾いた音がこの庭を満たすことを。
遺跡の向こうには、先程私たちがいたのと寸分変わらぬ遺跡があった。地球の光の匂いや足元にできる影の色までが一緒だった。私が振り向くとドレミーは肩を竦めて笑った。
「どういうことだと思う?」と私は訊いた。
「果てのなさ、永劫性」と彼女は簡潔に言った。それから微かに頭を動かして少しひねた表情を見せた。「……あるいは退屈さ。いずれにせよあなたたちらしいと思いますよ」
私は頷いた。彼女は先程自分が座っていた場所をすぐに見つけて腰かけた。私もその横に座る。彼女は帽子を取り、髪をかき上げてまた被りなおした。
「それにしても」と彼女は言った。
「なに?」
「月の人たちは月の夢を見るんですよね、本当に」と彼女は言った。「最初に見た時からそれが不思議で」
私は視線を上げる。視線の先にはくっきりと地球が浮かんでいた。私は苦笑する。
「おかしい?」
「おかしくはありませんが」
「魚は水中の夢を見る?」
彼女は笑った。
「ここだけの話ですが、見ます」と彼女は言った。
「あなたは何の夢を見るの?」
「秘密です」
「ずるい」
「いつか教えてあげますって」と彼女はやや呆れた顔で言った。「まったく、出てきただけでこんなに質問攻めに合うとは思いませんでした」
「私もこんなに喋ったの初めて」
「そうですか」と言って彼女は鼻を鳴らした。
そのうちに辺りが白み始めた。びっくりしてドレミーを見ると、彼女もまた光の中に埋もれつつあった。
「ああ、朝ですね」と彼女は言った。
「そうか」
「おはようございます。また」口の端に引っ掛けた、含むような笑みと言葉を残して彼女は消えた。あるいは私が消えた。
規定の本数の矢を射た永琳はゆっくりとこちらに歩いてきた。それから弓を置いて私の横に座った。
「見ているだけじゃ退屈しない?」と彼女は私に訊いた。
私は首を横にぶんぶんと振る。彼女はくすくすと笑った。
「それだったら良いんだけど」と彼女は言った。
私は何か気の利いたことが言えれば良いのにと思った。後になれば、そう、床について目を瞑る頃になれば、ああ、あの時にはこう言えば良かったのだという言葉が、災禍をもたらさずとも頭の中を伝えてのける方法が思いつくのだが、そうした時にはもちろんすべてが終わってしまっている。当たり前だけれど、気が利いているというのは、言葉の内容だけでなく時節も適切であるということなのだ。そちらについて、残念ながら私にはどうすることも出来なかった。ずいぶん重い枷が口に嵌められている身では。
また遺跡だった。
「ずいぶんあなたの心に深く根を張ったイメージのようですね」とドレミーは言った。
「そうなのかな」
「まあ、一般論として、ほとんど命に限りのない人々は同じ夢をよく見る傾向があります」と彼女は補足した。
「なるほど」
私たちはいつもの場所に腰かけた。いつもの、というのもそもそもこの頃現れた概念だ。夢というのは常に個別的、独立したものだと思っていた(ある夢を見ている時に、以前見た別の夢を通常は比較対象として考慮することはできない)けれど、彼女が現れるようになってからその考えは修正された。夢の中に現れた他者である彼女は、そのとりとめのない世界における北極星のようなものだった。
「今日起きている間、どんなことがありましたか?」
「……なんだったかな。あんまり覚えてない」
「そうですか」
私はしばらく考えてから顔馴染みの兎のことを思い出して彼女に話した。幾つか特徴を伝えると彼女は「ああ」と言って頷いた。私に対してそうしていたのと同じように、普段から夢を覗き見ているのだろう。
「思うように話せないというのは辛いものですか」と彼女は訊いた。
「あなたにはなかなか遠慮というものがない」と私は感心して言った。
「すみません」
「辛いのかどうかは私にはよく分からないな」と私は言った。「いつだってそうなのだから、他の自分を想像してみることはできないでしょう」
「でもここであなたはずいぶん話しているではないですか」と彼女は言った。
私は答えに窮してしまった。確かにその通りだ。
現実でそうするのと同じようにして私が黙り込んでしまうと、ドレミーは慌てだした。自分で相手を追い詰めるようなことを言っておきながら、結果が出るとこうしてあたふたするという彼女の妙な性質には思わず笑ってしまう。卑怯な人だ。
私が仕方なくと言った風に笑顔を見せると彼女はほっとした表情を浮かべた。
「何か飲みますか」と彼女は訊いた。
「何が飲めるの」と私は訊いた。
「別に何でも」と彼女は言った。「あなたの想像力と語彙の及ぶ限りで」
「じゃあ水」
彼女は水の入ったグラスをどこからか取り出して、少し拗ねた顔で私に手渡した。
「ごめんって」
私はそれを一息で飲み干した。飲み干してしまってから、置くところもないのでしばらく所在なくそのグラスを手に持っていると、ある瞬間にそれは掻き消えた。私がびっくりしているとドレミーはくすくすと笑った。
「あなたがやったの」
「そりゃあ、私は獏ですよ」と彼女は涼しい顔で言った。
彼女はいつの間にか手にワイングラスを持っていた。じっと見ているとそこにみるみる赤黒い液体が湧きだした。彼女はそれに軽く口を付けた。
「それ、酔うの?」
「気持ちの問題です」
「言ってみればこの空間全部があなたにとっては食べ物なのでしょう」
「言ってみればまあそうですね」
「あなたの持っているグラスに今入っているのはその食物を構成しているもので作った何かということ?」
彼女は首を捻りだした。
「つまり、あなたが先程水を飲んだのは、私が普段するような行動、すなわち夢の一部を食べるという行為と同じであるかと訊きたいのですか?」
「それもそう」
「違うと思います」
「どうして?」
彼女はグラスの中のワインを少しずつ飲みながら考えていた。私が手を伸ばすと少し驚いた顔をしたが、そのグラスを渡してくれた。口を付けると酸っぱいような渋いような味がした。
「私は今……夢を食べているのではなく、あなたと同じ夢を見ているという状況にあります」
「うん」
「しかし私は眠っているわけではありません。夢というのは情報です。情報というのは……その中に空間があり、時間があります。状況とトーンがあります。そうしたことです。そうしたものはすべて主体に……この夢ならあなたですね、帰属しています。夢を見なくてもあなたはいますが、あなたがいなくては夢は見ません。土地と建物の関係と一緒です。そうですね? 私がここにいるというのは、眠っているあなたの脳にアクセスしているということです。私がそうした情報の中を行き来することができるからです。私は今私たちがいる個人の夢という情報のレイヤーより、もう一つ上の階層に自由に行くことができます。その高次のレイヤーにおいて私は様々な者の夢を眺めることができます。いわば地図を見るようにして。悪夢を見ている者がいれば食べてやることもできます。欠陥のある建築物を取り壊すことで、そこにより真っ当な建物が立つようにしてやれるということです。私は建材を食べます。ばりばり。あるいは」と言って彼女は空を指さした。「こういうこともできます」
私が彼女の指を追うと、頭上にはいつの間にか地球が二つ浮かんでいた。
ドレミーが出現させたもう一つの地球は、私がじっと見ているうちに端から影に食われていって、最後には消えてしまった。私は感心して鼻を鳴らした。
「こういうことをできるのは、私が眠っている者たちの意識というものの上の階層に行くことができるからに他なりません。いや、行くという表現は恐らく不適切ですね……。私はつまりどちらにも同時に存在しています。地図を持って街を見ているし、建物の中に入ってそこにいるあなたとお話しすることもできるということです。そして、上の階層にいる私にとっては、この行動は夢の一部を食べているということにあるいはなりうるでしょう。でもここにいる私にとっては違う。私はここで夢の中にいるだけです。夢を見ているだけです。だからもちろんあなたにとっても違う。何かを食べる夢を見たからといって、それが夢を食べているわけではないということです」
それからドレミーはテーブルを出し、椅子を出し、灯りと食べ物を出した。空にもう一つの地球を出して私を驚かせたのがよほど嬉しかったのだ。遺跡の只中に現れた食卓を前にして、確かに私もお腹が空いているような気がしてきた。私たちは座ってテーブルの上にあるものを食べた。見たことのない料理で何かはよく分からなかったが、とにかくそれは夢ではない。
私たちは縁側で靴を脱いで屋内へと入った。他人の家でありながら、既に幾度も訪れていたために私はずいぶん寛いだ気持ちで廊下を歩いた。私は椅子に座って永琳が茶を淹れるのを見ていた。何十本も弓を射た直後だというのに彼女は汗一つかいてはいない。次第に香ばしい匂いが部屋を満たす。私たちは黙って茶を飲んだ。彼女は必要以上のことをあまり喋らない。時々質問をするとしても、肯定か否定で答えられるものばかりだ。それは恐らくは私を気遣ってのことで、事実、他の者といる時の彼女からは、特別に無口であるという印象は受けない。しかしあるいは、彼女が私に対して多くのことを語りかけないのは、私と話していても、まるで一人で話しているような気分になるからなのかもしれなかった。底の見えない枯れた井戸に石を投げ込んでいるようなものだ。むしろ一人でいるよりも孤独な気さえする。いつだっただろうか、誰かにそう言われて、ずいぶん長い間塞ぎ込んだことがある。永琳がそうした風に感じていないという保証はどこにもない。そう思うとどんよりと気持ちが落ち込んできた。私と彼女との間には容易に越えることのできない深い溝があるけれど、そのことを真剣に思い悩んでいるのは私だけなのかもしれなかった。それは、彼女はそうしたことを障害だとは感じていないというポジティヴな話ではなくて、彼女にとってみれば、私でなくても幾らでも疎通の相手はいるということだ。そうした障壁があってなお、彼女にとって私が価値のある存在であるはずだなどということは私には考えられなかった。そして、私がいる間、彼女は本来の自分でいることができないのかもしれない。
「あなたはずいぶん色んなことを抱え込んでいるわけですね」とドレミーが感心したような表情で言った。
私は彼女を軽く睨んだ。
「いや、別にからかったつもりじゃないんですが」と彼女は弁解するように言った。
遺跡には今や木造の一軒家が建っている。増築された夢だ。私たちはその中にいる。暖炉には静かに火が燃えていて、冷蔵庫には色々なものが入っている。ドレミーは相変わらずたくさんの水玉がついたあの奇妙な服を着ているが、私は起きている時とは違って暖かい毛糸のセーターを着ている。そういうことが出来るのだと知ってからは、私の中では彼女の服装の奇妙さは彼女の趣味の奇妙さへとより直接的に結び付いた。
私は彼女ほど夢の中で意識的に振舞うことに慣れているわけではなかった。そうしたことに慣れきっている彼女は、夢の中にこの部屋を持ち込み、部屋の中に座ると身体が深く沈み込む柔らかいソファを持ち込み、何より私の夢の中に彼女自身を持ち込んでいる。私がここに持ち込んでいるのは、せいぜいが思い出とささやかな廃墟くらいのものなのに。自分が自分であるかさえ怪しいものだ。
「薪を足しましょうか?」とドレミーが言った。「ずいぶん寒そうに見えますが」
「うん」と私は言った。言われてみると確かに寒かった。
「寒いところで眠っているんですか」と彼女は私たちが並んで座っているソファから腰を上げて、暖炉に薪を投げ込みながら訊いた。
「そんなことないと思う。多分」
「では、布団を蹴り飛ばしているのでなければ精神的なものですね」
私は頷いて両足を折り畳み、ソファの上で膝を抱え込むようにして座った。彼女はテーブルの方に回って紅茶をいれ、ウイスキーを何滴か垂らして私に渡した。
「ありがとう」
湯気の立つコップを一口啜るとひどく落ち着いた気分になった。私はコップを右手に持ったまま左腕に顔を埋めた。彼女も同じものを作って横に腰かける。それを時折啜りながら彼女は黙って何かを考えていた。
「ねえ、精神的でないものがここにある?」と私は訊いてみた。
「そのカップをここに置いてセーターを脱いで外に出てみたら分かるかもしれませんよ」と彼女はゆっくりと言った。
私は黙って紅茶を一口飲んだ。それから口を開いた。
「ごめんなさい」と私は言った。
「いえ、良いです」
「私はあなたに当たっているのかな」
「さあ、どうでしょう?」と彼女は言った。「まあ、夢に当たるというのはいささか伝統的ではあるものの、悪くない選択だと思いますが」
ドレミーが薪を足してくれたお蔭で部屋は次第に暖かくなってきた。私はコップの中の紅茶を冷え切る前に飲み干した。茶葉の渋みとアルコールが喉を擦る。
初めは私たちはあの窓の外にいて、それでも寒さなど少しも感じなかったのだ。自分の夢の中で凍えるなどというのはいかにも馬鹿げていた。
「先程の話ですが」とふとドレミーが言った。
「なに?」
「そもそも私たちにとって精神的でないものがあるでしょうか?」
「何が起こったとしても最後にそれを知覚するのは私たちだということ?」
「そうです」
「そんなことを言ったらすべて終わってしまうわ」
「それもその通りです」
私はなんだか釈然としないような気がしたが、そもそもは私が言い出したことだということを思い出して黙っていた。
黙っていると時間はずいぶん長く感じられた。もちろん、そういう認識は、そうでない時との比較が可能であることから生まれたものだ。そうでない時が私の生活の中に忽然と現れたのだ。一度そういうものさしを見つけてしまうと、より使い勝手の悪い方はどうしても見劣りする。私はそうしたものを別々に楽しむことが出来なかった。私の一日は夢の反芻から始まった。覚えているだけのことを紙に書き起こした。それは死児の齢を数えるような虚しい行為だった。私はもはや自分が起きているということそのものに対してもどかしさを感じ始めていた。起きている時の私は十全な私でない。次第に私は用がなければ家の外には出ないようになった。じっとして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。何日もそうしていた。一度そうした状態になると、以前ほど自分が悩んでいることについて深刻に考えなくなってきた。毎日がラクダのこぶのような繰り返しになった。籐椅子に腰かけている間に、絶えず存在し続けているという退屈が、疲れが、いつしか私を眠りへと連れ去ってくれるその時を待っていれば良かった。そういう生活を送っていても、誰も私を訪ねては来なかった。なるほど、あんなに思い煩う必要なんてどこにもなかったのだ。初めから誰も私のことなど必要としてはいなかったのだから。
「ドアがないような気がするんですが」とドレミーは言った。
「ドア?」
「ここに前はあったでしょう」と言って彼女は壁の一部を指さした。
「そうだったかな」
「別に場所はどこでも良いんですが、一つはないとここから出られないのでは」
「起きれば良いんじゃない」
「私は整合性の話をしているんです」
「うーん」と私は唸ってソファから立ち上がった。「窓は開くんじゃない?」
窓際に歩み寄ってカーテンを開くと私は思わず息を呑んだ。窓の外が炎に包まれていたのだ。それはその長方形の視野のほとんどを埋め尽くしていた。石柱も石畳の床も、何もかもが燃えている。炎のてっぺんに小さく地球が浮かんでいるのが辛うじて見えた。
「ねえ」と私は言った。
「なんです」
こちらに歩いてきた彼女は窓の外を見て目を見開き、しばらく固まった後でゆっくりと首を振った。
私は薬指で窓ガラスにそっと触れた。熱くはなかったので安心した。もちろん夢の中で焼け死ぬなどというのは夢の中で凍えるのと同じくらい馬鹿げていた。
「少なくとももう寒くはない」と私は言った。ドレミーは曖昧に笑った。
私はカーテンを閉めてソファに戻った。彼女もその横に座った。彼女はいつも持っているあの妙な本の背表紙を指の腹で撫でながら言葉を探していた。ほら来るぞ、と私は思った。
「あなた起きている間に何かあったでしょう」と彼女は言った。
「別に」
「嘘はいけませんよ」
私は横に首を振って黙り込んだ。ドレミーはしばらく待っていたが、そのうちに私が何も話す気がないことを読み取ると深い溜め息をついた。
「黙ってましたけど、この頃睡眠周期もめちゃくちゃじゃないですか。どういう生活をしているんです。まともなもの食べていないでしょう」
「あなたには関係ない」
彼女は黙って私をじっと見た。こういう時に彼女は辛抱強かった。そしてその辛抱強さには、時として相手を恥じ入らせる力があった。私は恥じ入って俯いた。
「ごめんなさい」と私は言った。
「はい」
「私はなんだかあなたに謝ってばかりいる気がする」
「問題のある言動が多いですからね」
「全然慰めてくれない」
「多分そのうち何か良いことありますよ」
私は思わず笑ってしまった。彼女はテーブルの上に温かいスープを出してくれた。私はそれに口を付ける。夢の中の食事で本当に腹が膨れるわけでないことは私も彼女も分かっていた。しかし、もしここで起こっていることをあくまでかりそめの出来事として意識の中で棚上げしてしまったら、私たちがここでしていることというのは一体何なのだろう? 私にも、そして恐らくは彼女にも、そんな器用なことは出来なかった。自分の中に何がしかの留保を持ったままで正直に相手と接するなどということは。私たちは自分たちが夢見ていると分かっていながら、現実でそうする以上に注意深くものを味わわなければならない。それは何かの儀式のようなものだった。幾百の皿、幾百のコップ……。それは本質的には会話と同じだった。フィジカルな器官でより上の階層の在り様を類推する行為だという意味合いにおいても、また、それが必ずしも上手くいっていないという意味合いにおいても。
「あのね、一度話せるようになると、起きている間話せないことで今までよりも余計につらい思いをするのに、いざ話せる時間になってもうまく自分の思っていることを言葉にできないんだ」
「そりゃそうです」
「そう?」
「そうでなければ他人の夢なんか見たって楽しくないです」
私はしばらく彼女の言ったことについて考えていた。
「あなたにはあの窓の外の景色だけで充分だということ?」
「あるいはそういう言い方もできます」
「何だか急に恥ずかしくなってきたんだけど」
「だから言わなかったんですが」
「ああそう」
私はスープの残りをぐいと飲み干した。それからゆっくりと息を吐いた。
「でも、私が話せるのはここだけなのよ」
「知ってます」
「そうでしょうね」
「……ねえ、そういうことってやっぱり誰にとっても難しいんです。程度の差はあれ。他所の星に行くのと同じくらい難しい」
「ふうん」
「何か代わりにいるものがありますか?」と彼女は私の飲み干したスープ皿を見て言った。
「安い白ワイン」
ドレミーは苦笑して私が頼んだものを二人分出してくれた。彼女はそれに口を付けてゆっくりとグラスを傾ける。私もそうした。
「全然美味しくないですね」と彼女は言った。
「うん」と私は言った。
私たちはしばらく黙って燃える家の中で不味いワインを飲んでいた。私は目を瞑った。時間の感覚がなくなってきた。それはある意味で夢が本来の夢に戻っていくのにも似ていた。なんだか夢の中で眠り込んでしまいそうだった。
「私が夢の中に出てきたのは、あなたにとってあまり良いことではなかったのかもしれませんね」と彼女はぽつりと言った。
「いいや」と私は言った。目は瞑ったままだった。どんな表情で彼女を見れば良いのかまった分からなかった。「そんなことはない」
やはり夢の中にあっても私は上手く言葉を発することができなかった。それは恐らく舌とは別のところに問題があるのだ。起きている時と眠っている時との狭間に絶え間なく零れていく言葉たちのことを私は考えていた。私が彼女に対してどう思っているか、ちゃんと言うことができるようになる前に、きっと遺跡は燃え落ちてしまうだろう。夢と現実とを往復し続けるその摩擦の中で、言葉はすべて燃え尽きてしまうだろう。
「そんなことはないよ」と私はもう一度言った。
ひどく喉が渇いていた。私はまずカーテンを開けた。都は燃えていなかった。部屋の掃除をして、久しぶりにちゃんと料理をしていると永琳が訪ねてきた。私はエプロンをしたまま玄関を出た。
「ちゃんと暮らしているの?」と彼女は言った。
私は頷いた。
「みんな心配していたのよ」と彼女は言った。
私は曖昧に笑った。彼女は私の顔を患部を見るみたいにしてじっと見ていた。
「顔色が悪い」と彼女は言った。
「そうかもしれません」と私は言った。
「……ねえ、久しぶりにあなたの声を聞いたような気がする」と永琳は言った。
私は頷いた。それから微笑んだ。「食べていってください」と私は言った。私たちは食事をした後で街に出た。久しぶりに見る街の景色だけれど、だからといって別にどうということもなかった。何か見る者に感銘を与えるような街ではないのだ。燃えてさえいなければ私が仕事をさぼっていることにはならないし、さして私の興味を惹きもしない。通りには時々顔見知りの兎がいて、私の顔を見て少し驚いたような表情を見せたが、隣に永琳がいるのを見つけると、話しかけずに会釈だけをして通り過ぎていった。
「初めてあなたとこうして歩いたのはいつのことだったかな」と彼女は言った。
「いつだったでしょう」と私は言った。それは思い出せないくらい昔のことだ。
しかしそれがたとえいつのことであったとしても、私たちはこうして最初から砂の挟まった歯車のようなやり取りをしていたことだろう。幾度も砂を取り除こうと滑稽な体勢になって息を吹きかけたり綿棒を突っ込んだりしたことだろう。それだけは確かだ。
「今度地球に行くの」と帰り際に永琳は言った。私はびっくりして彼女の顔を見た。「ちょっとした用事があってね」と彼女は言った。
彼女は口を開こうとする私を宥めるように片目を瞑ってみせた。
「別にあなたが考えるほど大したことじゃないわ」と彼女は言った。「すぐに帰ってくるから」
もちろん彼女は二度と帰っては来なかった。彼女は地球で事件を起こし、その場に留まった。私の元にはそういう報告が幾つも届いた。兎たちは入れ替わり立ち代わりやって来て状況を説明した。彼女が他の使者たちを殺したことなんかを。そういうのを聞くのは、何というか、当たり前だけど結構きついことだった。報告はたくさんあったけれど、結論は初めから明らかだった。彼女は地上に堕ちた。もう帰っては来ない。以上。私がそれについて何をする必要もなかった。彼女たちは都に攻め入ろうとしているわけではないからだ。堕ちた逃亡者たちに対して何かをすべき者は別にいるはずで、私はそこに関わりたくはなかった。当たり前だ。だから私は兎の口を伝って入ってくる情報をただただ聞いていた。そして一言も喋らなかった。
窓の外は燃え続けている。好きなだけ燃えさせておけばいい。ドアのない家の中では、そうした外の情景はただの壁紙と変わりがなかった。
ドレミーは黙って私の隣に座っている。私が長い間喋らないので彼女は困っている。私はそれを感じる。私は口を開けて彼女に対して何かを言おうとするけれど、もはや私の中には他人と話すための言葉が何一つ見つからないことに気付く。喉が渇ききっていた。彼女に手渡されたコップに口を付けると、渇きは少しだけ落ち着いた。それからも幾度か話そうとしたけれど、声は出なかった。私は彼女の顔を見て首を横に振った。
「喋れないんですね」と彼女は言った。
私は頷く。
「すると、今私は初めて他の人たちがあなたに接するのと同じようにして接しているわけです」と彼女は言った。
私は頷いた。頷くことしかできなかった。
兎たちの報告が済んでしまうと、私の生活は縁まで塗り潰したような沈黙に覆われた。もう誰も何も話さなかった。後任の人事やらもっと生臭い話やら何やら、永琳の出奔は都の色々なところに余波を広げていたようだけれど、もはやそれは私からは遠く離れた場所での出来事だった。波は知らぬ間にやってきて、知らぬ間に行き過ぎていた。それは私の手元からほとんどのものを奪い去っていったのだ。私が最後に持ち得た本当に僅かなものたちを。私の手元には欠落だけが残った。もう涙の一滴さえも出なかった。
夢の中での失語症は長く続いた。私は最初筆談をした。ドレミーも相当辛抱強い方で、私が書き終わるのをじっと待っていた。そのようにして彼女は月の賢者の顛末を知った。
「なるほど」と彼女は言った。それ以上何も言わなかった。
彼女は少しずつ私をショックの穴倉から引きずり出そうとしていた。なぜ彼女がそこまで熱心なのか私には分からなかった。私たちはトランプ遊びをしたりチェスをしたりした。ドレミーの本を開いて読もうと試みた。もちろん何が書いてあるかはさっぱり分からなかった。彼女に目で訊いたけれど彼女はただ笑うだけで何も教えてくれない。あるいは私たちは窓の外を見て炎がどんな形をしているかじっと観察していた。地球が窓の端に浮かんでいるのを見ると少し気持ちが落ち込んだけれど、それでも長い時間そこから動かなかった。私たちは食卓の椅子を引きずって動かして、座って窓を見ることができるようにした。部屋の灯りを消すと、炎がガラス越しに私たちの顔を照らし出すのが見えた。それに同時に気づいて、私たちは顔を見合わせて微笑んだ。
半年ほどで声が出た。
「喋れる」と私は言った。
「良かったです」
「ありがとう」
「恩恵を受けるのは主に私ですから」
「どうして?」と私は訊いた。
彼女は笑って首を振った。そんなことも分からないのかと言いたげな笑い方だったが、私はそれ以上訊かなかった。やっぱり私は話すのが下手だと思った。
しばらくは平穏だった。私は少しずつ日々に慣れようと努めた。時間が私たちの横を鈍い音を立てて通り過ぎていく音を聞こうと試みた。そういうことを受け入れようと。時間のことをそんなに真剣に考えたのは初めてのことだった。ある日、兎の一匹を家に招いた。そんなことをしたことは今まで一度もなかったのだが、その兎にとってしてもそれは同じだった。彼女は目を白黒させていた。私もまあ似たようなものだ。茶と団子を出すと私も彼女も少し落ち着いた。彼女は部屋の中をきょろきょろと窺ってから私を遠慮がちに見て、湯呑に口を付けた。
「何かご用でしたか」としばらく経ってから彼女はおずおずと訊いた。
「いや、別に」と私は言った。
少し話した後で、彼女は帰っていった。あまり上手くはいかなかったなと私は思った。誰かを受け入れるということはひどく難しいことのようだ。特に自分の面倒さえもまともに見られない身では。そういうことを何度か繰り返したが、あまり兎は打ち解けてはくれたようには見えなかった。私は少しずつ自分で自分が恥ずかしくなってきた。
時々都を独りで歩いた。通りはまるで廃墟のように感じられた。すべての建物が同じに見えた。空に塗り潰されそうな気がした。何もかもが遠く思えた。突然眩暈がして、私は両目を瞑ってしばらく道の真ん中に立っていた。頭のどこかが微かに痛んだ。そのままゆっくりと息を吐くと、見えない炎が私の身体を焼いているのがはっきりと感じられた。私はその音に耳を澄ませる。
「八意様の夢と私の夢を繋げることはできる?」と私は訊いた。
ドレミーは砂漠のような表情になってしばらく黙っていた。私は彼女の顔をじっと見た。彼女は私から視線を逸らせた。それでも私は彼女を見続けていた。
「さあ、どうしてそんなことを訊くんです」と彼女はようやく口を開いた。
「お願い」と私は言った。「答えて」
「仮にできたとして、一体どうしようというんですか。都から逃げた人なのでしょう」
「私は一度も彼女とまともに話したことがない」
「話ができたらそんなことはさせなかったと?」と言って彼女は笑った。暗く卑屈な、ぎらついた笑い方だった。彼女のそんな表情を見るのは初めてで、うっと息が詰まった。
「そうじゃない。そうじゃないけど」
「じゃあ何なんですか。あなたは私に伝書鳩のような真似をしろと言う。逃亡者の夢と自分の夢を繋げろと。あなたを見捨てた人間とあなたの仲を取り持てと言う。あなたは」
「違う、ドレミー。違う。ごめんなさい」
彼女はぜえぜえと息をついた。彼女は私を睨んでいた。
「ごめんなさい」と私はもう一度言った。
「何について謝っているんですか」
「あなたを怒らせたことについて」
彼女はじっと私を見た。
「あなたは本当に何も分かっていない」
「私もそう思う」
彼女はふんと鼻を鳴らした。
「相手は嫌だと言うかもしれませんよ」
「うん」
「それでも繋げろと言うわけですね」
「……ごめん」
彼女はそれからまるまる一分ほど私の顔を睨んでいた。それから深い深い溜め息をついた。
ドレミーは私の夢に現れなくなった。ついに私は本当に独りになった。夢の中で独りでチェスをした。トランプをした。彼女はそういうものを部屋の中に残していった。それも彼女からの抗議の一つなのだろう。夢の中はあまりにも静かで、駒の音もカードを切る音も部屋の中に大きく響いた。私は幾度も繰り返して遊んだ。ドレミーが私に惨めな思いをさせたがっているのであれば、それを受け止めるべきだと思ったからだ。
トランプに先に飽きたが、チェスも時間の問題だった。飽きるのを先延ばしにしようと、私は部屋の中を歩き回った。食卓の近くの棚を開けると、中に彼女がいつも持っている本を置き去りにしているのを見つけた。表紙に大きく「D」と書かれたあの本だ。
私はそれを取り出した。
左手で持って、白い「D」の文字を右の人差し指でなぞる。そうしているうちに私は突然何とも言えず悲しくなってきた。喉が詰まって、息が漏れた。私の両目からぼろぼろと涙が零れだす。涙は本の表紙を打った。どうしてそんな風になってしまったのか、私にはまったく分からなかった。
少し落ち着くと、私は腕で両目を擦り、本を開いた。私は驚いて思わずのけぞった。本は私のよく知る言語で書かれていた。私は泣いていたことを忘れて思わず顔を上げ、辺りを見回した。歩いていき、今ではもうそこに一人しか腰かけることのないソファに本を持ったまま座った。
『例えば月の世界に住むことは人間の空想となる事は出来るが、人間の欲望となる事は出来ない』
私はそこに書いてある言葉をゆっくりと指でなぞった。私は両目を瞑ってソファに深く沈み込んだ。本当に長い間そうしていた。自分の中で何かが変わっていく音が聞こえた。目を瞑ったままで私は自分の身体の輪郭を頭の中でなぞった。手と本が接している部分。背中とソファが接している部分。足と床が接している部分。部屋と炎が接している部分。そういう風にして、私は次に起こるに違いない何かを待っていた。
電話が鳴った。
それは大きな音で私の鼓膜を震わせた。私は目を開け、本を閉じ、それを左脇に抱えたままソファから立ち上がった。食卓の上に、先程はなかった黒い大きな電話があった。私はそれを見た。ゆっくりと息を吸って、吐いた。本を胸の前に抱え直した。電話のベルが頭蓋で絶え間なく反響している。
私は今こそ話さなくてはいけない。家の外で燃えているたくさんの言葉たちのことを私は考えていた。起きている間にも眠っている間にも私の口から滑り落ちていった、たくさんの言葉たちのことを。今まで私が上手く言いおおせることができなかった、すべての言葉のことを。
唇を舐めて、唾を飲み込んだ。喉がたまらなく渇いていた。
私は受話器に右手を伸ばした。
「もしもし」と私は掠れた声で言った。私の口から「もしもし」という言葉が出た。
「もしもし」と彼女は言った。「八意です」
なくなったはずのドアが壁についているのを私は見つけた。本を持ったままドアを開ける。表はもう燃えていなかった。懐かしい遺跡が広がっていた。地球が浮かんでいるのがはっきりと見える。私はもう、それを見てもそれほど悲しい気持ちにはならなかった。
「ドレミー」と私は言った。「いるんでしょう」
「いますよ」と彼女は何もないところから現れて言った。「何か用ですか」
「うん」と私は言った。「どうもありがとう」
彼女は鼻を鳴らして視線をそらした。
「もう二度とあなたの頼み事なんか聞きませんよ」と彼女は言った。
私は彼女に本を渡した。
「読めましたか」と彼女は訊いた。
「うん」
彼女は頷いた。彼女は受け取った本を開いてページを私に見せた。
「今でも読めますか?」
私は驚いて首を横に振った。文字はまたよく分からない記号に戻っていた。
「どうして」
「言葉は伝わる相手が減るほどに強度を増すんです」
「?」
「本当に孤独になると読めるようになるということです」
私はしばらく黙って言われたことについて考えていた。
「ねえ」と私はしばらくして言った。
「なんです」
「あなたに一つお願いがあるんだけど」
「蹴っても良いですか」
「これからも私の夢に出てきてね」
彼女は目を丸くしてじっと私の顔を見た。それから吹き出した。
「考えておきます」と彼女は言った。それから少し皮肉っぽい微笑みを浮かべた。「さあ、そろそろ起きないと」と彼女は言った。
私は頷いた。まだ朝ではないことは分かっているけれど、私はそれについては何も言わなかった。言わない方が良い言葉だってやはりあるのだ。
「おはようございます」と彼女は言った。
そうして私は夢から覚めた。
私はその一隅に腰かけている。ここなら地球の光が石柱の断面を濡らしているところがよく見える。
「なかなか縁起の悪い夢を見られる」と獏が横から言った。「それともそうしたことがあなたの願望なのですか?」
「まさか」と私は思わず言った。言ってから口を開いてしまったことに気付いて、慌てて両手で口を押さえる。誰かに話しかけられるだなんて考えたこともなかったのだ。
「別に大丈夫ですよ、喋っても」と獏は言った。「ここは夢の中ですし、その能力が災いを及ぼすことはありません」
私はしばらく黙って考えてからゆっくりと口を開いた。
「どうしてここに?」
「さあね。何となく気になったからでしょう。でも、こうして普段見ている夢の中に入ってその持ち主と話をすることは時々あります」
私は赤くなって彼女を睨んだ。
「普段見ている?」と私は言った。
「まあ、それが仕事ですから」と彼女は悪びれずに言った。私が相変わらず睨んでいるので弁明するようにまた口を開いた。「ねえ、夢というのは公共物なんですよ。あなたたちは自分のものしか見えないからそれが個人的なものだと勘違いをしていますが、あなたたちは意識の深いところでみんな繋がっているんです。木の幹と枝葉のようにね。……こんな卑俗なたとえを使うとあなたは軽蔑するでしょうか?」
私は首を横に振った。彼女は頷いて先を続けた。
「そこを行き来することが私にはできますが、だからといってそれがあなた方のプライバシーを侵しているということにはならないでしょう。そうではないですか?」
私はしばらく考えた後に「詭弁ね」と言った。
「そうかもしれませんね」と素直に言って獏はにっこりと笑った。「詭弁ついでにあれですけれど、こうして時々お邪魔しても構いませんか?」
「どうせ見ているならどちらにしても同じことでしょう」と私は諦めて言った。「どうぞご勝手に」
「ありがとうございます」と彼女は言った。それから立ち上がって私に向かって礼をした。赤い帽子の先に付いている白い玉が上下に忙しく跳ねた。彼女は表紙に「D」と書かれた大きな本を小脇に抱えていて、着ている服にも帽子の先端についているような白い玉がたくさん付いている。何もかもが奇妙だったけれど、地球の明かりに照らされた遺跡の中では彼女のそうした非現実的な姿は不思議と映えていた。「ドレミー・スイートです。よろしく」と彼女は言った。
「どうも」と私は言った。「どんな夢が他にはあるの?」と私は訊いた。
ドレミーは私の横に腰かけてしばらく考えてから口を開いた。
「ねえ……それをあなたに言うと、私はあなたの信用を失ってしまう」と彼女はゆっくりと言った。「私の言ってること分かります?」
「分かるわ」と言って私は俯いた。今度は恥じ入って赤くなる番だった。「ごめんなさい」
「とんでもない」
彼女は相手が口にした疑問が、見知らぬ他人の内心への下世話な関心ではなく、目の前にいる妖怪に対する興味から来るものだと分かっていたので慌てていた。その様子を見ていた私はやがてくすくすと笑いだした。
「これは確かに夢なのね?」と私は訊いた。
彼女はほっとした顔をして頷いた。「そうですよ」
「自分が夢を見ている時に自分でそのことに気付くことは時々あるけれど、他人に言われて気付くのって初めて」
「まあそうでしょうね」
「その本に何が書いてあるのかは訊いても良い?」
「これですか?」と言って彼女は左脇に抱えていた本を取り出して私の方に出した。「読んでも良いけれど、多分読めませんよ」
私は彼女がこちらに見えるようにして開いたページを半ばむきになって覗いたけれど、確かに彼女の言う通りで、私には文章を構成している文字そのものが読めなかった。
「あなたはこれ読めるの?」
「さあ、どうでしょう」と彼女はとぼけた。
「え、なんなのそれ」
「そんなに色々なことが一気に分かったら、今後の楽しみがなくなるじゃないですか」と言って彼女は笑った。
「少し歩きましょう」と私は言って立ち上がった。彼女は素直についてきた。
私たちは折れた石柱の巨大な直径を渡り、同じく石でできた建物の基礎を靴で打った。砂漠のように乾いた音がした。
「遺跡の向こうには何があると思う?」と私は訊いた。
「そんなこと分かるわけないです」と彼女は呆れた声で言った。「あなたの夢じゃないですか」
私は縁側に腰かけて庭の様子を見ている。永琳が弓の練習をしていて、時折彼女の放つ矢が空気を切り裂き、的を捉える音だけが響く。私はそうした時間が好きだった。人が何かに真剣になっているところに居合わせる時間が。少なくともその間、私は自分が充分に言葉を発せられないことについて罪悪感を覚える必要がなかった。ただ黙って相手と同じことを願ってさえいれば良かった。次の矢が的に命中するということを。数秒後にあの低く短い乾いた音がこの庭を満たすことを。
遺跡の向こうには、先程私たちがいたのと寸分変わらぬ遺跡があった。地球の光の匂いや足元にできる影の色までが一緒だった。私が振り向くとドレミーは肩を竦めて笑った。
「どういうことだと思う?」と私は訊いた。
「果てのなさ、永劫性」と彼女は簡潔に言った。それから微かに頭を動かして少しひねた表情を見せた。「……あるいは退屈さ。いずれにせよあなたたちらしいと思いますよ」
私は頷いた。彼女は先程自分が座っていた場所をすぐに見つけて腰かけた。私もその横に座る。彼女は帽子を取り、髪をかき上げてまた被りなおした。
「それにしても」と彼女は言った。
「なに?」
「月の人たちは月の夢を見るんですよね、本当に」と彼女は言った。「最初に見た時からそれが不思議で」
私は視線を上げる。視線の先にはくっきりと地球が浮かんでいた。私は苦笑する。
「おかしい?」
「おかしくはありませんが」
「魚は水中の夢を見る?」
彼女は笑った。
「ここだけの話ですが、見ます」と彼女は言った。
「あなたは何の夢を見るの?」
「秘密です」
「ずるい」
「いつか教えてあげますって」と彼女はやや呆れた顔で言った。「まったく、出てきただけでこんなに質問攻めに合うとは思いませんでした」
「私もこんなに喋ったの初めて」
「そうですか」と言って彼女は鼻を鳴らした。
そのうちに辺りが白み始めた。びっくりしてドレミーを見ると、彼女もまた光の中に埋もれつつあった。
「ああ、朝ですね」と彼女は言った。
「そうか」
「おはようございます。また」口の端に引っ掛けた、含むような笑みと言葉を残して彼女は消えた。あるいは私が消えた。
規定の本数の矢を射た永琳はゆっくりとこちらに歩いてきた。それから弓を置いて私の横に座った。
「見ているだけじゃ退屈しない?」と彼女は私に訊いた。
私は首を横にぶんぶんと振る。彼女はくすくすと笑った。
「それだったら良いんだけど」と彼女は言った。
私は何か気の利いたことが言えれば良いのにと思った。後になれば、そう、床について目を瞑る頃になれば、ああ、あの時にはこう言えば良かったのだという言葉が、災禍をもたらさずとも頭の中を伝えてのける方法が思いつくのだが、そうした時にはもちろんすべてが終わってしまっている。当たり前だけれど、気が利いているというのは、言葉の内容だけでなく時節も適切であるということなのだ。そちらについて、残念ながら私にはどうすることも出来なかった。ずいぶん重い枷が口に嵌められている身では。
また遺跡だった。
「ずいぶんあなたの心に深く根を張ったイメージのようですね」とドレミーは言った。
「そうなのかな」
「まあ、一般論として、ほとんど命に限りのない人々は同じ夢をよく見る傾向があります」と彼女は補足した。
「なるほど」
私たちはいつもの場所に腰かけた。いつもの、というのもそもそもこの頃現れた概念だ。夢というのは常に個別的、独立したものだと思っていた(ある夢を見ている時に、以前見た別の夢を通常は比較対象として考慮することはできない)けれど、彼女が現れるようになってからその考えは修正された。夢の中に現れた他者である彼女は、そのとりとめのない世界における北極星のようなものだった。
「今日起きている間、どんなことがありましたか?」
「……なんだったかな。あんまり覚えてない」
「そうですか」
私はしばらく考えてから顔馴染みの兎のことを思い出して彼女に話した。幾つか特徴を伝えると彼女は「ああ」と言って頷いた。私に対してそうしていたのと同じように、普段から夢を覗き見ているのだろう。
「思うように話せないというのは辛いものですか」と彼女は訊いた。
「あなたにはなかなか遠慮というものがない」と私は感心して言った。
「すみません」
「辛いのかどうかは私にはよく分からないな」と私は言った。「いつだってそうなのだから、他の自分を想像してみることはできないでしょう」
「でもここであなたはずいぶん話しているではないですか」と彼女は言った。
私は答えに窮してしまった。確かにその通りだ。
現実でそうするのと同じようにして私が黙り込んでしまうと、ドレミーは慌てだした。自分で相手を追い詰めるようなことを言っておきながら、結果が出るとこうしてあたふたするという彼女の妙な性質には思わず笑ってしまう。卑怯な人だ。
私が仕方なくと言った風に笑顔を見せると彼女はほっとした表情を浮かべた。
「何か飲みますか」と彼女は訊いた。
「何が飲めるの」と私は訊いた。
「別に何でも」と彼女は言った。「あなたの想像力と語彙の及ぶ限りで」
「じゃあ水」
彼女は水の入ったグラスをどこからか取り出して、少し拗ねた顔で私に手渡した。
「ごめんって」
私はそれを一息で飲み干した。飲み干してしまってから、置くところもないのでしばらく所在なくそのグラスを手に持っていると、ある瞬間にそれは掻き消えた。私がびっくりしているとドレミーはくすくすと笑った。
「あなたがやったの」
「そりゃあ、私は獏ですよ」と彼女は涼しい顔で言った。
彼女はいつの間にか手にワイングラスを持っていた。じっと見ているとそこにみるみる赤黒い液体が湧きだした。彼女はそれに軽く口を付けた。
「それ、酔うの?」
「気持ちの問題です」
「言ってみればこの空間全部があなたにとっては食べ物なのでしょう」
「言ってみればまあそうですね」
「あなたの持っているグラスに今入っているのはその食物を構成しているもので作った何かということ?」
彼女は首を捻りだした。
「つまり、あなたが先程水を飲んだのは、私が普段するような行動、すなわち夢の一部を食べるという行為と同じであるかと訊きたいのですか?」
「それもそう」
「違うと思います」
「どうして?」
彼女はグラスの中のワインを少しずつ飲みながら考えていた。私が手を伸ばすと少し驚いた顔をしたが、そのグラスを渡してくれた。口を付けると酸っぱいような渋いような味がした。
「私は今……夢を食べているのではなく、あなたと同じ夢を見ているという状況にあります」
「うん」
「しかし私は眠っているわけではありません。夢というのは情報です。情報というのは……その中に空間があり、時間があります。状況とトーンがあります。そうしたことです。そうしたものはすべて主体に……この夢ならあなたですね、帰属しています。夢を見なくてもあなたはいますが、あなたがいなくては夢は見ません。土地と建物の関係と一緒です。そうですね? 私がここにいるというのは、眠っているあなたの脳にアクセスしているということです。私がそうした情報の中を行き来することができるからです。私は今私たちがいる個人の夢という情報のレイヤーより、もう一つ上の階層に自由に行くことができます。その高次のレイヤーにおいて私は様々な者の夢を眺めることができます。いわば地図を見るようにして。悪夢を見ている者がいれば食べてやることもできます。欠陥のある建築物を取り壊すことで、そこにより真っ当な建物が立つようにしてやれるということです。私は建材を食べます。ばりばり。あるいは」と言って彼女は空を指さした。「こういうこともできます」
私が彼女の指を追うと、頭上にはいつの間にか地球が二つ浮かんでいた。
ドレミーが出現させたもう一つの地球は、私がじっと見ているうちに端から影に食われていって、最後には消えてしまった。私は感心して鼻を鳴らした。
「こういうことをできるのは、私が眠っている者たちの意識というものの上の階層に行くことができるからに他なりません。いや、行くという表現は恐らく不適切ですね……。私はつまりどちらにも同時に存在しています。地図を持って街を見ているし、建物の中に入ってそこにいるあなたとお話しすることもできるということです。そして、上の階層にいる私にとっては、この行動は夢の一部を食べているということにあるいはなりうるでしょう。でもここにいる私にとっては違う。私はここで夢の中にいるだけです。夢を見ているだけです。だからもちろんあなたにとっても違う。何かを食べる夢を見たからといって、それが夢を食べているわけではないということです」
それからドレミーはテーブルを出し、椅子を出し、灯りと食べ物を出した。空にもう一つの地球を出して私を驚かせたのがよほど嬉しかったのだ。遺跡の只中に現れた食卓を前にして、確かに私もお腹が空いているような気がしてきた。私たちは座ってテーブルの上にあるものを食べた。見たことのない料理で何かはよく分からなかったが、とにかくそれは夢ではない。
私たちは縁側で靴を脱いで屋内へと入った。他人の家でありながら、既に幾度も訪れていたために私はずいぶん寛いだ気持ちで廊下を歩いた。私は椅子に座って永琳が茶を淹れるのを見ていた。何十本も弓を射た直後だというのに彼女は汗一つかいてはいない。次第に香ばしい匂いが部屋を満たす。私たちは黙って茶を飲んだ。彼女は必要以上のことをあまり喋らない。時々質問をするとしても、肯定か否定で答えられるものばかりだ。それは恐らくは私を気遣ってのことで、事実、他の者といる時の彼女からは、特別に無口であるという印象は受けない。しかしあるいは、彼女が私に対して多くのことを語りかけないのは、私と話していても、まるで一人で話しているような気分になるからなのかもしれなかった。底の見えない枯れた井戸に石を投げ込んでいるようなものだ。むしろ一人でいるよりも孤独な気さえする。いつだっただろうか、誰かにそう言われて、ずいぶん長い間塞ぎ込んだことがある。永琳がそうした風に感じていないという保証はどこにもない。そう思うとどんよりと気持ちが落ち込んできた。私と彼女との間には容易に越えることのできない深い溝があるけれど、そのことを真剣に思い悩んでいるのは私だけなのかもしれなかった。それは、彼女はそうしたことを障害だとは感じていないというポジティヴな話ではなくて、彼女にとってみれば、私でなくても幾らでも疎通の相手はいるということだ。そうした障壁があってなお、彼女にとって私が価値のある存在であるはずだなどということは私には考えられなかった。そして、私がいる間、彼女は本来の自分でいることができないのかもしれない。
「あなたはずいぶん色んなことを抱え込んでいるわけですね」とドレミーが感心したような表情で言った。
私は彼女を軽く睨んだ。
「いや、別にからかったつもりじゃないんですが」と彼女は弁解するように言った。
遺跡には今や木造の一軒家が建っている。増築された夢だ。私たちはその中にいる。暖炉には静かに火が燃えていて、冷蔵庫には色々なものが入っている。ドレミーは相変わらずたくさんの水玉がついたあの奇妙な服を着ているが、私は起きている時とは違って暖かい毛糸のセーターを着ている。そういうことが出来るのだと知ってからは、私の中では彼女の服装の奇妙さは彼女の趣味の奇妙さへとより直接的に結び付いた。
私は彼女ほど夢の中で意識的に振舞うことに慣れているわけではなかった。そうしたことに慣れきっている彼女は、夢の中にこの部屋を持ち込み、部屋の中に座ると身体が深く沈み込む柔らかいソファを持ち込み、何より私の夢の中に彼女自身を持ち込んでいる。私がここに持ち込んでいるのは、せいぜいが思い出とささやかな廃墟くらいのものなのに。自分が自分であるかさえ怪しいものだ。
「薪を足しましょうか?」とドレミーが言った。「ずいぶん寒そうに見えますが」
「うん」と私は言った。言われてみると確かに寒かった。
「寒いところで眠っているんですか」と彼女は私たちが並んで座っているソファから腰を上げて、暖炉に薪を投げ込みながら訊いた。
「そんなことないと思う。多分」
「では、布団を蹴り飛ばしているのでなければ精神的なものですね」
私は頷いて両足を折り畳み、ソファの上で膝を抱え込むようにして座った。彼女はテーブルの方に回って紅茶をいれ、ウイスキーを何滴か垂らして私に渡した。
「ありがとう」
湯気の立つコップを一口啜るとひどく落ち着いた気分になった。私はコップを右手に持ったまま左腕に顔を埋めた。彼女も同じものを作って横に腰かける。それを時折啜りながら彼女は黙って何かを考えていた。
「ねえ、精神的でないものがここにある?」と私は訊いてみた。
「そのカップをここに置いてセーターを脱いで外に出てみたら分かるかもしれませんよ」と彼女はゆっくりと言った。
私は黙って紅茶を一口飲んだ。それから口を開いた。
「ごめんなさい」と私は言った。
「いえ、良いです」
「私はあなたに当たっているのかな」
「さあ、どうでしょう?」と彼女は言った。「まあ、夢に当たるというのはいささか伝統的ではあるものの、悪くない選択だと思いますが」
ドレミーが薪を足してくれたお蔭で部屋は次第に暖かくなってきた。私はコップの中の紅茶を冷え切る前に飲み干した。茶葉の渋みとアルコールが喉を擦る。
初めは私たちはあの窓の外にいて、それでも寒さなど少しも感じなかったのだ。自分の夢の中で凍えるなどというのはいかにも馬鹿げていた。
「先程の話ですが」とふとドレミーが言った。
「なに?」
「そもそも私たちにとって精神的でないものがあるでしょうか?」
「何が起こったとしても最後にそれを知覚するのは私たちだということ?」
「そうです」
「そんなことを言ったらすべて終わってしまうわ」
「それもその通りです」
私はなんだか釈然としないような気がしたが、そもそもは私が言い出したことだということを思い出して黙っていた。
黙っていると時間はずいぶん長く感じられた。もちろん、そういう認識は、そうでない時との比較が可能であることから生まれたものだ。そうでない時が私の生活の中に忽然と現れたのだ。一度そういうものさしを見つけてしまうと、より使い勝手の悪い方はどうしても見劣りする。私はそうしたものを別々に楽しむことが出来なかった。私の一日は夢の反芻から始まった。覚えているだけのことを紙に書き起こした。それは死児の齢を数えるような虚しい行為だった。私はもはや自分が起きているということそのものに対してもどかしさを感じ始めていた。起きている時の私は十全な私でない。次第に私は用がなければ家の外には出ないようになった。じっとして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。何日もそうしていた。一度そうした状態になると、以前ほど自分が悩んでいることについて深刻に考えなくなってきた。毎日がラクダのこぶのような繰り返しになった。籐椅子に腰かけている間に、絶えず存在し続けているという退屈が、疲れが、いつしか私を眠りへと連れ去ってくれるその時を待っていれば良かった。そういう生活を送っていても、誰も私を訪ねては来なかった。なるほど、あんなに思い煩う必要なんてどこにもなかったのだ。初めから誰も私のことなど必要としてはいなかったのだから。
「ドアがないような気がするんですが」とドレミーは言った。
「ドア?」
「ここに前はあったでしょう」と言って彼女は壁の一部を指さした。
「そうだったかな」
「別に場所はどこでも良いんですが、一つはないとここから出られないのでは」
「起きれば良いんじゃない」
「私は整合性の話をしているんです」
「うーん」と私は唸ってソファから立ち上がった。「窓は開くんじゃない?」
窓際に歩み寄ってカーテンを開くと私は思わず息を呑んだ。窓の外が炎に包まれていたのだ。それはその長方形の視野のほとんどを埋め尽くしていた。石柱も石畳の床も、何もかもが燃えている。炎のてっぺんに小さく地球が浮かんでいるのが辛うじて見えた。
「ねえ」と私は言った。
「なんです」
こちらに歩いてきた彼女は窓の外を見て目を見開き、しばらく固まった後でゆっくりと首を振った。
私は薬指で窓ガラスにそっと触れた。熱くはなかったので安心した。もちろん夢の中で焼け死ぬなどというのは夢の中で凍えるのと同じくらい馬鹿げていた。
「少なくとももう寒くはない」と私は言った。ドレミーは曖昧に笑った。
私はカーテンを閉めてソファに戻った。彼女もその横に座った。彼女はいつも持っているあの妙な本の背表紙を指の腹で撫でながら言葉を探していた。ほら来るぞ、と私は思った。
「あなた起きている間に何かあったでしょう」と彼女は言った。
「別に」
「嘘はいけませんよ」
私は横に首を振って黙り込んだ。ドレミーはしばらく待っていたが、そのうちに私が何も話す気がないことを読み取ると深い溜め息をついた。
「黙ってましたけど、この頃睡眠周期もめちゃくちゃじゃないですか。どういう生活をしているんです。まともなもの食べていないでしょう」
「あなたには関係ない」
彼女は黙って私をじっと見た。こういう時に彼女は辛抱強かった。そしてその辛抱強さには、時として相手を恥じ入らせる力があった。私は恥じ入って俯いた。
「ごめんなさい」と私は言った。
「はい」
「私はなんだかあなたに謝ってばかりいる気がする」
「問題のある言動が多いですからね」
「全然慰めてくれない」
「多分そのうち何か良いことありますよ」
私は思わず笑ってしまった。彼女はテーブルの上に温かいスープを出してくれた。私はそれに口を付ける。夢の中の食事で本当に腹が膨れるわけでないことは私も彼女も分かっていた。しかし、もしここで起こっていることをあくまでかりそめの出来事として意識の中で棚上げしてしまったら、私たちがここでしていることというのは一体何なのだろう? 私にも、そして恐らくは彼女にも、そんな器用なことは出来なかった。自分の中に何がしかの留保を持ったままで正直に相手と接するなどということは。私たちは自分たちが夢見ていると分かっていながら、現実でそうする以上に注意深くものを味わわなければならない。それは何かの儀式のようなものだった。幾百の皿、幾百のコップ……。それは本質的には会話と同じだった。フィジカルな器官でより上の階層の在り様を類推する行為だという意味合いにおいても、また、それが必ずしも上手くいっていないという意味合いにおいても。
「あのね、一度話せるようになると、起きている間話せないことで今までよりも余計につらい思いをするのに、いざ話せる時間になってもうまく自分の思っていることを言葉にできないんだ」
「そりゃそうです」
「そう?」
「そうでなければ他人の夢なんか見たって楽しくないです」
私はしばらく彼女の言ったことについて考えていた。
「あなたにはあの窓の外の景色だけで充分だということ?」
「あるいはそういう言い方もできます」
「何だか急に恥ずかしくなってきたんだけど」
「だから言わなかったんですが」
「ああそう」
私はスープの残りをぐいと飲み干した。それからゆっくりと息を吐いた。
「でも、私が話せるのはここだけなのよ」
「知ってます」
「そうでしょうね」
「……ねえ、そういうことってやっぱり誰にとっても難しいんです。程度の差はあれ。他所の星に行くのと同じくらい難しい」
「ふうん」
「何か代わりにいるものがありますか?」と彼女は私の飲み干したスープ皿を見て言った。
「安い白ワイン」
ドレミーは苦笑して私が頼んだものを二人分出してくれた。彼女はそれに口を付けてゆっくりとグラスを傾ける。私もそうした。
「全然美味しくないですね」と彼女は言った。
「うん」と私は言った。
私たちはしばらく黙って燃える家の中で不味いワインを飲んでいた。私は目を瞑った。時間の感覚がなくなってきた。それはある意味で夢が本来の夢に戻っていくのにも似ていた。なんだか夢の中で眠り込んでしまいそうだった。
「私が夢の中に出てきたのは、あなたにとってあまり良いことではなかったのかもしれませんね」と彼女はぽつりと言った。
「いいや」と私は言った。目は瞑ったままだった。どんな表情で彼女を見れば良いのかまった分からなかった。「そんなことはない」
やはり夢の中にあっても私は上手く言葉を発することができなかった。それは恐らく舌とは別のところに問題があるのだ。起きている時と眠っている時との狭間に絶え間なく零れていく言葉たちのことを私は考えていた。私が彼女に対してどう思っているか、ちゃんと言うことができるようになる前に、きっと遺跡は燃え落ちてしまうだろう。夢と現実とを往復し続けるその摩擦の中で、言葉はすべて燃え尽きてしまうだろう。
「そんなことはないよ」と私はもう一度言った。
ひどく喉が渇いていた。私はまずカーテンを開けた。都は燃えていなかった。部屋の掃除をして、久しぶりにちゃんと料理をしていると永琳が訪ねてきた。私はエプロンをしたまま玄関を出た。
「ちゃんと暮らしているの?」と彼女は言った。
私は頷いた。
「みんな心配していたのよ」と彼女は言った。
私は曖昧に笑った。彼女は私の顔を患部を見るみたいにしてじっと見ていた。
「顔色が悪い」と彼女は言った。
「そうかもしれません」と私は言った。
「……ねえ、久しぶりにあなたの声を聞いたような気がする」と永琳は言った。
私は頷いた。それから微笑んだ。「食べていってください」と私は言った。私たちは食事をした後で街に出た。久しぶりに見る街の景色だけれど、だからといって別にどうということもなかった。何か見る者に感銘を与えるような街ではないのだ。燃えてさえいなければ私が仕事をさぼっていることにはならないし、さして私の興味を惹きもしない。通りには時々顔見知りの兎がいて、私の顔を見て少し驚いたような表情を見せたが、隣に永琳がいるのを見つけると、話しかけずに会釈だけをして通り過ぎていった。
「初めてあなたとこうして歩いたのはいつのことだったかな」と彼女は言った。
「いつだったでしょう」と私は言った。それは思い出せないくらい昔のことだ。
しかしそれがたとえいつのことであったとしても、私たちはこうして最初から砂の挟まった歯車のようなやり取りをしていたことだろう。幾度も砂を取り除こうと滑稽な体勢になって息を吹きかけたり綿棒を突っ込んだりしたことだろう。それだけは確かだ。
「今度地球に行くの」と帰り際に永琳は言った。私はびっくりして彼女の顔を見た。「ちょっとした用事があってね」と彼女は言った。
彼女は口を開こうとする私を宥めるように片目を瞑ってみせた。
「別にあなたが考えるほど大したことじゃないわ」と彼女は言った。「すぐに帰ってくるから」
もちろん彼女は二度と帰っては来なかった。彼女は地球で事件を起こし、その場に留まった。私の元にはそういう報告が幾つも届いた。兎たちは入れ替わり立ち代わりやって来て状況を説明した。彼女が他の使者たちを殺したことなんかを。そういうのを聞くのは、何というか、当たり前だけど結構きついことだった。報告はたくさんあったけれど、結論は初めから明らかだった。彼女は地上に堕ちた。もう帰っては来ない。以上。私がそれについて何をする必要もなかった。彼女たちは都に攻め入ろうとしているわけではないからだ。堕ちた逃亡者たちに対して何かをすべき者は別にいるはずで、私はそこに関わりたくはなかった。当たり前だ。だから私は兎の口を伝って入ってくる情報をただただ聞いていた。そして一言も喋らなかった。
窓の外は燃え続けている。好きなだけ燃えさせておけばいい。ドアのない家の中では、そうした外の情景はただの壁紙と変わりがなかった。
ドレミーは黙って私の隣に座っている。私が長い間喋らないので彼女は困っている。私はそれを感じる。私は口を開けて彼女に対して何かを言おうとするけれど、もはや私の中には他人と話すための言葉が何一つ見つからないことに気付く。喉が渇ききっていた。彼女に手渡されたコップに口を付けると、渇きは少しだけ落ち着いた。それからも幾度か話そうとしたけれど、声は出なかった。私は彼女の顔を見て首を横に振った。
「喋れないんですね」と彼女は言った。
私は頷く。
「すると、今私は初めて他の人たちがあなたに接するのと同じようにして接しているわけです」と彼女は言った。
私は頷いた。頷くことしかできなかった。
兎たちの報告が済んでしまうと、私の生活は縁まで塗り潰したような沈黙に覆われた。もう誰も何も話さなかった。後任の人事やらもっと生臭い話やら何やら、永琳の出奔は都の色々なところに余波を広げていたようだけれど、もはやそれは私からは遠く離れた場所での出来事だった。波は知らぬ間にやってきて、知らぬ間に行き過ぎていた。それは私の手元からほとんどのものを奪い去っていったのだ。私が最後に持ち得た本当に僅かなものたちを。私の手元には欠落だけが残った。もう涙の一滴さえも出なかった。
夢の中での失語症は長く続いた。私は最初筆談をした。ドレミーも相当辛抱強い方で、私が書き終わるのをじっと待っていた。そのようにして彼女は月の賢者の顛末を知った。
「なるほど」と彼女は言った。それ以上何も言わなかった。
彼女は少しずつ私をショックの穴倉から引きずり出そうとしていた。なぜ彼女がそこまで熱心なのか私には分からなかった。私たちはトランプ遊びをしたりチェスをしたりした。ドレミーの本を開いて読もうと試みた。もちろん何が書いてあるかはさっぱり分からなかった。彼女に目で訊いたけれど彼女はただ笑うだけで何も教えてくれない。あるいは私たちは窓の外を見て炎がどんな形をしているかじっと観察していた。地球が窓の端に浮かんでいるのを見ると少し気持ちが落ち込んだけれど、それでも長い時間そこから動かなかった。私たちは食卓の椅子を引きずって動かして、座って窓を見ることができるようにした。部屋の灯りを消すと、炎がガラス越しに私たちの顔を照らし出すのが見えた。それに同時に気づいて、私たちは顔を見合わせて微笑んだ。
半年ほどで声が出た。
「喋れる」と私は言った。
「良かったです」
「ありがとう」
「恩恵を受けるのは主に私ですから」
「どうして?」と私は訊いた。
彼女は笑って首を振った。そんなことも分からないのかと言いたげな笑い方だったが、私はそれ以上訊かなかった。やっぱり私は話すのが下手だと思った。
しばらくは平穏だった。私は少しずつ日々に慣れようと努めた。時間が私たちの横を鈍い音を立てて通り過ぎていく音を聞こうと試みた。そういうことを受け入れようと。時間のことをそんなに真剣に考えたのは初めてのことだった。ある日、兎の一匹を家に招いた。そんなことをしたことは今まで一度もなかったのだが、その兎にとってしてもそれは同じだった。彼女は目を白黒させていた。私もまあ似たようなものだ。茶と団子を出すと私も彼女も少し落ち着いた。彼女は部屋の中をきょろきょろと窺ってから私を遠慮がちに見て、湯呑に口を付けた。
「何かご用でしたか」としばらく経ってから彼女はおずおずと訊いた。
「いや、別に」と私は言った。
少し話した後で、彼女は帰っていった。あまり上手くはいかなかったなと私は思った。誰かを受け入れるということはひどく難しいことのようだ。特に自分の面倒さえもまともに見られない身では。そういうことを何度か繰り返したが、あまり兎は打ち解けてはくれたようには見えなかった。私は少しずつ自分で自分が恥ずかしくなってきた。
時々都を独りで歩いた。通りはまるで廃墟のように感じられた。すべての建物が同じに見えた。空に塗り潰されそうな気がした。何もかもが遠く思えた。突然眩暈がして、私は両目を瞑ってしばらく道の真ん中に立っていた。頭のどこかが微かに痛んだ。そのままゆっくりと息を吐くと、見えない炎が私の身体を焼いているのがはっきりと感じられた。私はその音に耳を澄ませる。
「八意様の夢と私の夢を繋げることはできる?」と私は訊いた。
ドレミーは砂漠のような表情になってしばらく黙っていた。私は彼女の顔をじっと見た。彼女は私から視線を逸らせた。それでも私は彼女を見続けていた。
「さあ、どうしてそんなことを訊くんです」と彼女はようやく口を開いた。
「お願い」と私は言った。「答えて」
「仮にできたとして、一体どうしようというんですか。都から逃げた人なのでしょう」
「私は一度も彼女とまともに話したことがない」
「話ができたらそんなことはさせなかったと?」と言って彼女は笑った。暗く卑屈な、ぎらついた笑い方だった。彼女のそんな表情を見るのは初めてで、うっと息が詰まった。
「そうじゃない。そうじゃないけど」
「じゃあ何なんですか。あなたは私に伝書鳩のような真似をしろと言う。逃亡者の夢と自分の夢を繋げろと。あなたを見捨てた人間とあなたの仲を取り持てと言う。あなたは」
「違う、ドレミー。違う。ごめんなさい」
彼女はぜえぜえと息をついた。彼女は私を睨んでいた。
「ごめんなさい」と私はもう一度言った。
「何について謝っているんですか」
「あなたを怒らせたことについて」
彼女はじっと私を見た。
「あなたは本当に何も分かっていない」
「私もそう思う」
彼女はふんと鼻を鳴らした。
「相手は嫌だと言うかもしれませんよ」
「うん」
「それでも繋げろと言うわけですね」
「……ごめん」
彼女はそれからまるまる一分ほど私の顔を睨んでいた。それから深い深い溜め息をついた。
ドレミーは私の夢に現れなくなった。ついに私は本当に独りになった。夢の中で独りでチェスをした。トランプをした。彼女はそういうものを部屋の中に残していった。それも彼女からの抗議の一つなのだろう。夢の中はあまりにも静かで、駒の音もカードを切る音も部屋の中に大きく響いた。私は幾度も繰り返して遊んだ。ドレミーが私に惨めな思いをさせたがっているのであれば、それを受け止めるべきだと思ったからだ。
トランプに先に飽きたが、チェスも時間の問題だった。飽きるのを先延ばしにしようと、私は部屋の中を歩き回った。食卓の近くの棚を開けると、中に彼女がいつも持っている本を置き去りにしているのを見つけた。表紙に大きく「D」と書かれたあの本だ。
私はそれを取り出した。
左手で持って、白い「D」の文字を右の人差し指でなぞる。そうしているうちに私は突然何とも言えず悲しくなってきた。喉が詰まって、息が漏れた。私の両目からぼろぼろと涙が零れだす。涙は本の表紙を打った。どうしてそんな風になってしまったのか、私にはまったく分からなかった。
少し落ち着くと、私は腕で両目を擦り、本を開いた。私は驚いて思わずのけぞった。本は私のよく知る言語で書かれていた。私は泣いていたことを忘れて思わず顔を上げ、辺りを見回した。歩いていき、今ではもうそこに一人しか腰かけることのないソファに本を持ったまま座った。
『例えば月の世界に住むことは人間の空想となる事は出来るが、人間の欲望となる事は出来ない』
私はそこに書いてある言葉をゆっくりと指でなぞった。私は両目を瞑ってソファに深く沈み込んだ。本当に長い間そうしていた。自分の中で何かが変わっていく音が聞こえた。目を瞑ったままで私は自分の身体の輪郭を頭の中でなぞった。手と本が接している部分。背中とソファが接している部分。足と床が接している部分。部屋と炎が接している部分。そういう風にして、私は次に起こるに違いない何かを待っていた。
電話が鳴った。
それは大きな音で私の鼓膜を震わせた。私は目を開け、本を閉じ、それを左脇に抱えたままソファから立ち上がった。食卓の上に、先程はなかった黒い大きな電話があった。私はそれを見た。ゆっくりと息を吸って、吐いた。本を胸の前に抱え直した。電話のベルが頭蓋で絶え間なく反響している。
私は今こそ話さなくてはいけない。家の外で燃えているたくさんの言葉たちのことを私は考えていた。起きている間にも眠っている間にも私の口から滑り落ちていった、たくさんの言葉たちのことを。今まで私が上手く言いおおせることができなかった、すべての言葉のことを。
唇を舐めて、唾を飲み込んだ。喉がたまらなく渇いていた。
私は受話器に右手を伸ばした。
「もしもし」と私は掠れた声で言った。私の口から「もしもし」という言葉が出た。
「もしもし」と彼女は言った。「八意です」
なくなったはずのドアが壁についているのを私は見つけた。本を持ったままドアを開ける。表はもう燃えていなかった。懐かしい遺跡が広がっていた。地球が浮かんでいるのがはっきりと見える。私はもう、それを見てもそれほど悲しい気持ちにはならなかった。
「ドレミー」と私は言った。「いるんでしょう」
「いますよ」と彼女は何もないところから現れて言った。「何か用ですか」
「うん」と私は言った。「どうもありがとう」
彼女は鼻を鳴らして視線をそらした。
「もう二度とあなたの頼み事なんか聞きませんよ」と彼女は言った。
私は彼女に本を渡した。
「読めましたか」と彼女は訊いた。
「うん」
彼女は頷いた。彼女は受け取った本を開いてページを私に見せた。
「今でも読めますか?」
私は驚いて首を横に振った。文字はまたよく分からない記号に戻っていた。
「どうして」
「言葉は伝わる相手が減るほどに強度を増すんです」
「?」
「本当に孤独になると読めるようになるということです」
私はしばらく黙って言われたことについて考えていた。
「ねえ」と私はしばらくして言った。
「なんです」
「あなたに一つお願いがあるんだけど」
「蹴っても良いですか」
「これからも私の夢に出てきてね」
彼女は目を丸くしてじっと私の顔を見た。それから吹き出した。
「考えておきます」と彼女は言った。それから少し皮肉っぽい微笑みを浮かべた。「さあ、そろそろ起きないと」と彼女は言った。
私は頷いた。まだ朝ではないことは分かっているけれど、私はそれについては何も言わなかった。言わない方が良い言葉だってやはりあるのだ。
「おはようございます」と彼女は言った。
そうして私は夢から覚めた。
傑作。
こんなにしゃべったサグメ様読んだのは初めてかも。
良い作品でした。
静かで綺麗な面白い小説でした。
それ以上のことを文章にするのが難しいのですが、とにかく良かったです
読んでて、雰囲気に引き込まれた。とても良い雰囲気を味わえました。
読んでて、雰囲気に引き込まれた。とても良い雰囲気を味わえました。