風が吹いた。
息を吸えば胸を焦がしてしまいそうな熱風が。
「――大丈夫か?」
逆光の中の微笑みは、大地を照らす太陽よりも眩しく、輝夜の心を照らす。
永劫の刻を生き続けなければならないこの世界で芽生えたその感情の名は、まさしく恋。
◆◇◆◇◆
始まりは博麗神社。
所用で神社に泊まった妹紅が眼を覚ますと、同じ布団の中に見知らぬ男がいた。
当然のように悲鳴を上げると、同じ布団の中から男の悲鳴が聞こえた。
というか自分の口から男の悲鳴が出ていた。
最初は自分の喉に異常があるのではと思い、手を当ててみると、喉仏があった。
いったいなぜ? 混乱したまま、自然と自らの身体を調べる。
目の前の男にごにょごにょされていないかという心配だけでなく、もっと別の異常事態が起こっているのではとも思っており、後者の方が見事に的中した。
胸がぺったんこだった。
股間からモノが生えていた。
「何じゃこりゃあああああッ!?」
再び悲鳴を上げると、布団の中に入っていたもう一人の男も目を覚ます。
そして、妹紅を見て数度まばたきをしてから問いかける。
「あんた誰」
続く行動は、妹紅ほど慌ててはいなかったがおおむね同じであった。
有るはずのモノが無い。
無いはずのモノが有る。
「……私は霊夢なんだけど、もしかしてそっちは妹紅?」
「あ、ああ……うん、多分」
「とりあえず洗面所に行って鏡でも見ましょ」
こうして妹紅と霊夢は、己の肉体が完全に男性のそれへと変化している事実を確認した。
同じ布団で眠っていた理由は、夜にトイレに行った妹紅が寝惚けて霊夢の布団に入ってしまったらしい。
ちゃんとそれに気づいていた霊夢だが、面倒だったので気にせず眠り直したらしい。
ちなみにトイレに行った時に有ったか無かったか、妹紅は覚えていなかった。
仮に有ったのだとしたら、覚えていない方がありがたかった。
だが人間とは起床後、当然の生理反応としてトイレに行くものである。
霊夢はとっととすませてきたが、妹紅はしばし我慢したりうろうろしたりした。
事後、汚れてしまったと嘆いた。
男になってしまうという異変にも関わらず霊夢はマイペースそのもので、 妹紅が縁側で呆然と青空を眺めている間に朝食を作った。やったぜ、博麗神社なのに焼き魚だ!
「じゃ、とりあえずお互い思いつく原因を考えてみましょうか」
さすがに男の身体で巫女服を着るほど非常識ではなかった霊夢は、蔵から男物の古着を持ってきて肩から先を切り落としてから着た。
妹紅も古着を貸してもらったが、こちらは普通に着ている。
ふんどしはさすがに嫌だったので、野郎同士のノーパンという危険な状態だ。
「原因ったってなぁ、私はただ神社に泊まっただけだよ」
「夜にトイレに行った時に何かに感染して戻ってきて私に伝染させたとか」
「この神社にはそんな妙な感染を起こすモノがあったりするのか」
「昨日の晩ご飯って何だっけ。キノコ?」
「ああ、魔理沙からの差し入れな。味噌汁に入ってた」
「どう思う」
「どうって、なぁ」
「この手の異変は、パチュリーの魔法実験だとか、永琳の薬だとか、紫の能力だとか、ある種の定番があるのよ」
「定番の中に魔理沙のキノコは含まれるのか?」
「含まれていない理由が思いつくなら言ってみなさい」
朝食後。白いシャツにタキシード、そしてシルクハットという白黒衣装の金髪男が箒で飛んできた。
有無を言わさず弾幕を叩き込んで成敗した後、男になった魔理沙だと判明した。人違いじゃなくてヨカッタね。
ついでに昨日のキノコは性別反転茸という名前だとも判明した。
明日になれば直るそうなので、直るまでそれぞれ好き勝手にすごせばいいという事になり解散。
妹紅は自宅に帰る気になれず、適当に時間をつぶそうと人里へ向かった。
「慧音に見つかったらどう説明したもんかな」
と思っていたら、ナンパの現場に居合わせた。
ガラの悪い男が、長い黒髪のおとなしそうな女性を強引に誘おうとしている。
後ろからだったので女性の顔は解らなかったが、とりあえず八つ当たりも兼ねてナンパ男の尻を蹴飛ばし、怒って殴りかかってきたので適当に叩きのめしてやった。
冒頭に戻る。
◆◇◆◇◆
何が悲しゅうて蓬莱山輝夜と腕を組んで街を歩かにゃならんのだ。
自分の不幸っぷりを嘆きながら、藤原妹紅は天を仰ぐ。
一方輝夜はさっきからニコニコとしていてすごく可愛いのが逆に気持ち悪い。
慧音に会ったらどうしようとか考えてたけど、輝夜と人里で会うなんて想定外だ。
「あの……わた……俺、買い物に行きたいんですけど」
「ええ、だからこうして一緒に歩いてるんじゃない」
「いや……一人で買い物したいんですけど」
「まあまあ、そう言わず。助けてくださったお礼もしたいですし」
妹紅としては正義感よりも八つ当たり優先でナンパ男を退治しただけなので、感謝もお礼もまったく望んでいなかったし、相手が輝夜だと知っていれば助けなかった。
むしろ輝夜を助けたというよりナンパ男を助けたようなものだ。
遠からず輝夜は自らの力で、妹紅よりも手酷いやり方でナンパ男を撃退していたに違いない。
「ところであなた、お名前は?」
「えっと……紅(こう)」
「凛々しい名前ね。紅さんとお呼びしていいかしら? 私は輝夜、よろしくね」
「ああ、うん」
「ところで、今日は何を買いに?」
「……本とか、適当に重そうな物を」
言い訳を考えるのが面倒で妹紅は正直に答えた。
男の身体になったため、体力もやや向上しているのではないかという想像をしたのが理由である。
「服は買ったりしないの?」
「服? いや……」
問われて、妹紅は自身の服装を確認する。
やや色あせた赤い着物に、灰色にくすんだ袴。
古着だから仕方ないが、輝夜から見ればさぞみすぼらしいだろう。
「フンッ、笑いたいなら笑えよ」
同じ笑われるなら、先手を打ってやった方がちょっとはマシだ。
「よかったら、新しい服を買って上げましょうか」
「……は? 何言ってんだ、お前」
「だって、一緒に歩くのにそんな服じゃ、紅さんが恥をかいてしまうわ」
一緒に歩くって何だ。いつまでついてくる気なんだ。
とはいえ藤原妹紅も女の子、服は綺麗な方がずっといい。
輝夜も今日は普段見るより質素な着物とはいえ、妹紅の隣に立てば光っているかのような美しさだ。
これは悔しい。かなり悔しい。
しかし敵に塩を送られるなど言語道断。そんな塩は相手が二度と来ない事を願いながら撒いてやるべきだ。
◆◇◆◇◆
輝夜は楽しかった。
妹紅をからかったり殺し合いをしている時くらい楽しかった。
まさかそんな相手に出逢えるだなんて思っていなかった。
自分に対し好意的ではない男性というのも新鮮だ。
ナンパ男から助けてくれた時、奇妙な親近感を覚えたという理由もあったが、絶世の美女である輝夜からの感謝や謝礼を拒否するどころか迷惑とさえ受け取れる態度を取られたのが、逆に嬉しい。
下心からではなく、純粋な正義感で助けてくれた証に感じられたから。
竹取の翁と暮らしていた平穏な日々を乱したあの、下心たっぷりの男達とはまるで違う。
だから、輝夜は楽しかった。
「何だか桃太郎みたい」
着替えた紅さんの姿を見て輝夜は惚れ惚れとした。
こだわりがあるのか、紅さんは紅白の衣装にしか興味を示さず、赤い着物に、白い羽織と袴を試着した。
白い長髪も頭の後ろでくくってマゲのようにしているが、長さのせいもありどちらかというとポニーテールだ。
後はハチマキと、お腰にきび団子をつけて、日本一の旗を背負えば、昔話の桃太郎。
「よせよ、日本昔話の類は嫌いなんだ」
日本昔話の代表格でもある輝夜としては複雑な気分になってしまう。
しかもせっかくの新しいお召し物なのに、やはり紅さんはしかめっ面。
(これはなかなか手ごわいわね)
輝夜は必ず紅さんに笑顔を向けてやろうだなんて心に誓っちゃうのだ。
◆◇◆◇◆
(これは……何だ!? いったい何を企んでいる、何が狙いだ、何をするつもりなんだー!?)
我が心、混乱の極み。
桃太郎のような衣装に包んだ妹紅は、輝夜が会計をすましている間、かつてない恐怖に震えていた。
絶対に変な服を着せられると思ったのに。
絶対に試着中に姿をくらまされると思ったのに。
絶対に自腹で買わされると思ったのに。
服を新調した妹紅は、借り物の古着は後で霊夢に返さねばと包みに入れる。
押しに負けて敵からの塩を受け取ってしまったものの、これ以上馴れ合う必要もないだろう。
「世話になったな、それじゃ」
妹紅は一人スタスタと歩き出すが、そのすぐ後を輝夜がついて歩いてくる。
「まだ何か用なのか」
「今日は遊びに来たのよ。でも一人じゃ何だし、紅さんは悪い人じゃなさそうだから、一緒に遊びたいなと思って」
「わ……俺は遊ぶつもりはないぞ。ご飯を食べて、買い物して、それでしまいだ」
「じゃあ次はご飯を食べに行くのね。何がいいかしら、人里で評判の料亭があるらしいけれど」
「今日は兎鍋を食べるって決めてるんだ」
突っぱねるように言ってやった。
永遠亭の輝夜姫ともあろう者が、兎を食べるなどズバリできる訳がない。
故に! これで!
(さよならバイバイご苦労さーんッ!!)
勝利確信藤原妹紅。
「あら、美味しそうね。私もご一緒しようかしら」
「え」
なぜ快く了承したのかその理由はすぐ解った。
以前聞いた事のある兎料理屋はつぶれていた。
どうやら永夜異変以後、永遠亭の知名度が上がり、兎を食べるのはどうかという声が大きくなったらしい。
普段あまり人里に来ない妹紅は、そんな事情に疎かったのだ。
「という訳で、何か別の物でも食べましょうよ」
勝利確信蓬莱山輝夜。
ニッコリ笑顔で指差す先は高級そうな料亭だった。
(ぐぬぬ……輝夜め、知っててわざと私に恥をかかせたな!)
このまま高級料亭なんぞに入っては、自分で大金を支払うか、輝夜におごってもらうという大恥のどちらか。
服は、この服はナンパ男から助けた見返りとして何とか受け入れる事もできる。
だがこれ以上の恵みは屈辱。何とか輝夜をぎゃふんと言わせる方法はないものか。
そして妹紅は、高級料亭の反対側にある一件の店に気づいた。
「いや、アッチに行こうぜ」
「向かいのお店?」
何の店だろうと、輝夜は視線を向け、無言になった。
店の名前は『THE・ゲテモノ』だった。
育ちのいいお嬢様にはとてもじゃないが耐えられまい。
一方妹紅は輝夜を探しての放浪生活で様々な物を食べてきた。
蛇や蛙だって焼いて食べた。どこぞの神社の神々が怒りそうだ。
スズメやカラスだって食べた。どこぞの八目鰻屋と新聞記者が怒りそうだ。
毒キノコを食べた事もある。どこぞの白黒魔法使いも同じ経験がありそうだ。
草や木の根を食べた事もある。どこぞの紅白巫女も同じ経験がありそうだ。
「――ハッ! 今どこかで誰かが私の貧乏エピソードに捏造を加えやがった気がする」
「レイさん、どうしたの?」
「ババァより若い娘がいいって言ったのよ。そうよね、レイさん」
某所にて、腋を露出させた紅白衣装の男の両腕に二人の女性が抱きついていた。
片方は日傘を差した八雲紫で、片方は日傘を差したレミリア・スカーレットだ。
何でこんな事になっているのか、その物語は語らなくてもいいや。
「お待たせしましたー。イナゴの佃煮、蜂の子、マグロの目玉、サルの脳味噌。そしてメインのツチノコのかば焼きでございまーす」
蛆虫のチャーハンとかゴキブリの姿焼きとかを避けて比較的まともなのを選んだつもりである。
おかげで妹紅が恐れる物は何もない。せいぜいサルの脳味噌はさすがに初体験なのでドキドキという程度だ。
かば焼きは、普通の蛇なら経験があり、ツチノコは初めてだけれども、そう違いはなかろう。
ともかくこれで輝夜は涙目確定。ざまあかんかん!
輝夜は瞳を輝かせて言いました。
「まあ、懐かしい。こういった物を食べるのは何年振りかしら」
妹紅は口をへの字にして叫びました。心の中で。
(おいぃぃぃッ!! 月の食糧事情どうなってんのぉぉぉぉぉぉッ!?)
輝夜が懐かしむ、イコール、月の民が普遍的に食べているという事だろう。
まさかのゲテモノ大好き一族か。どこらへんが高貴な連中なのかさっぱりだよ。
「お、お前……こういうの、好きなのか?」
恐る恐る妹紅が訊ねてみると、輝夜はうっとりとした表情で答える。
「ええ。昔、私をお世話してくれたお爺さんとお婆さんが、よく食べさせてくれたの。野山から食料を調達してくれてね……お婆さんは料理が上手だったわ」
妹紅はじたんだを踏みたい気持ちを抑えるのに必死になりながら、手に持った箸を振るわせる。
(竹取の翁ぁぁぁッ!! お前達いったいどんな食生活送ってたんだぁぁぁぁぁぁッ!? 竹の中から金を見つけて豊かに暮らしていましたって設定はどうしたァァァアアアンッ!!)
こうして妹紅にとってはたいして美味くもない物を食べるひとときが。
輝夜にとっては味の良し悪しよりも懐かしさを感じる物を食べるというひとときがすぎるのだった。
◆◇◆◇◆
(まさか、私が普段食べたくても永琳達が食べさせてくれない物を選んでくれたんじゃ……なんてね)
紅さんの気遣いだと思えば心地いいが、そうではないだろうとも理解はしている。
輝夜から逃れたがっている節が見て取れるので、お嬢様では食べられないようなゲテモノをという作戦だったはず。
それを理解しながら、別に構わないと輝夜は思う。
必要ないというお礼をするためしつこくしたのは自分だ。
お礼をしたい理由は自分の娯楽のためと言っても過言ではない。
この熱い胸の鼓動を、もうしばらく感じていたいから。
「ねえ紅さん、次はどこに行く?」
「まだついてくる気かよ、お前……」
「そろそろ名前で呼んで欲しいわ」
「呼ばねーよッ」
無愛想な態度が、これまた妙に可愛らしい。
着ていた服や口調から、たいした家の生まれでないだろうとは思うものの、ゲテモノ料理を食べている時の箸運びや何気ない仕草に気品を感じる時もある。
そして少女のような愛嬌も隠し持っていて、様々な要因が混ざり合っていてとても面白い人物だ。
「次は本屋さん? でも、今買ったら荷物にならないかしら」
「なってもいい。買ったら帰るから」
「そうなの。じゃあ本屋はやめて、どこか遊びに行きましょう」
「何でそうなるんだ」
「もっと遊びたいもの。それとも紅さんの家で囲碁か将棋でもする? 花札や麻雀でもいいわ。
家はこの辺りなのかしら。人が住むのは人里ですものね。どんな所?」
「黒髪の女は入っちゃいけないってルールの家」
「楽しそうなお宅」
もちろん、そんな話は信じたりしない。
家までついていって、どんな風か確かめるのもいいかもしれない。
輝夜を置いて先に行こうとする紅さんの後を、軽やかな足取りで追いかける。
「ねえ。紅さんって、なかなか男前よね。良い人はいらっしゃるの?」
「いるよ、いるいる。浮気と思われると迷惑だからどっか行っとくれ」
「本屋はそこよ」
目的地を数歩通りすぎていた事に気づいた紅さんは、バツの悪そうな顔で振り返ると無言で本屋に入った。
まさか自分を遠ざけるために春画本なんか買おうとしないだろうかなんて想像しながら輝夜も続く。
小説コーナーで立ち止まった紅さんは、一冊の本を取って立ち読みを始めた。
「買いに来たんじゃないの?」
「買いに来たんだよ。でも面白いかどうか、ちょっと読んでみてからだ」
「ふぅん」
お金の節約というものか。
輝夜は普段、読みたい本は鈴仙あたりに買いに行かせるし、つまらなかった本は突っ返すだけだ。
多分、そういった本は古本屋に行くか、その本を読みたがっている誰かに無料進呈するかだろう。
(贅沢ではなく、無駄遣いをしているのかしらね……)
殊勝な精神の芽生えた輝夜は、とりあえず紅さんの真似をして面白そうな本を探して立ち読みをしようと決めた。
紅さんは『ポケットの中の恋愛』という本を読んでいた。顔に似合わず恋愛小説が好きなのか。
自分も何か小説を立ち読みし、面白いと思った本だけ買うという経済的な行いをしてみようか。
しばらく本を見て回って、目に留まった題名が『新説・桃太郎伝説』だった。
桃太郎のお話は輝夜も知っている。
なよたけのかぐや姫たる自分が幻想郷にいるのだから、もしかしたら桃太郎の関係者も幻想郷にいるかもしれない。
さっそく本を手に取って、裏表紙にあるあらすじに目を通す。
『桃太郎が三匹のお供や金太郎に浦島太郎などを仲間に加えて再び鬼退治に旅立った!』
混ざりすぎだろう、しかも再びって事はすでに一度鬼退治済みか。
輝夜は苦笑を浮かべつつも興味を惹かれた。
もしかしたら他の昔話や童話の登場人物も登場しているかもしれない。
例えばそう、乙姫とか、織姫とか、かぐや姫とか……。
自分が出ているかもしれない。しかもこんなごちゃ混ぜ小説に。
興味が倍増した輝夜は、さっそく本を開く。
表紙買いしてもいいくらいだったが、どんなお話なのか今すぐ読んでみたい気持ちもある。
五分ほど経って、輝夜は『新説・桃太郎伝説』を買おうと決めた。
「ねえ紅さん、私はこの本……を……」
店内を見回して、ようやく、輝夜はハメられたのだと気づいた。
立ち読みを誘い、立ち読みをしている隙に、逃亡。
即座に輝夜は勘定台へ赴き、店員に紅さんの行方を訊ねた。
どうやら三分ほど前に本を一冊買って出て行ったらしい。
三分。追いかければ見つけられるかもしれない。
「ありがとう。お釣りは要らないわ」
多目に支払いをして、輝夜は『新説・桃太郎伝説』を抱えたまま外に飛び出した。
右を見る。
左を見る。
桃太郎ルックの白いポニーテールは、もうどこにもいなかった。
◆◇◆◇◆
結構面白そうな小説が買えたし、輝夜をまく事ができた。
ニヤニヤと笑いながら街を歩く。
見つからないうちに退散しようという魂胆だったが、道中ふと目に留まるものがあった。
何の変哲も無い茶店である。
こんな所で時間をつぶしては輝夜に見つかる恐れもある。あるのだけれど、だが、しかし。
軒先の長椅子に座っている彼に向けて妹紅は声をかける。
「……何してんだお前、こんなトコで」
「……団子食ってんのよ」
無愛想な返答をしたのは、腋丸出しだが袖はちゃんとある紅白衣装に身を包んだ男性化霊夢だった。
妹紅同様、新しい綺麗な服に着替えている。もしかしなくても、隣に座っている奴等が買ったに違いない。
髪は特に結んだりしていないようだ。妹紅ほど外見に気を遣っていない様子、紅白腋出し以外は。
「あら、レイさんのお友達?」
「ふぅん、そいつもなかなかいい男じゃない」
日傘を差した八雲紫が、みたらし団子を霊夢に向けて差し出していた。
日傘を差したレミリアも、草団子を霊夢に向けて差し出していた。
いわゆる「あ~ん」をやりたいらしいが、霊夢は自分の手できび団子を食べている。
(霊夢だからレイって名乗ってるのか。安直だけど、人の事は言えないな)
自嘲しながら妹紅は初対面という設定になるだろうスキマ妖怪と吸血鬼に挨拶する。
「俺は紅。レイの奴とは、まあ友達みたいなもんだ」
「紅?」
名前を聞いて眉をひそめたのは、友達設定のはずの霊夢だった。
お互い、男の時の呼び名を知っておいた方がいいと思ってわざわざ自己紹介したのに、そこで不思議がるなと妹紅は小さく舌打ちする。
だが紫もレミリアも、妹紅にはさして興味を示さず、名前もどうでもいいようだ。
「それにしても、両手に花だなお前」
「両手に団子の間違いじゃない? 私はのんびり食べたいんだけど」
どうやら霊夢は男の姿でも口調を変える気は無いらしいが、それほど違和感を覚えない。
男でも「ですわ」「なのよ」といった言葉は使うので、口調さえ女々しくなければ不自然には聞こえまい。
「あんたも食べてく?」
霊夢に誘われて、妹紅はしばし悩んだ。
ここでちんたらしていたら輝夜に見つかってしまうかもしれない。
だが、美味そうな団子を見ていると食欲が湧き上がる。
胃袋の中身があのゲテモノばかりだというのは何だか悲しいものである。
「じゃあ、ちょっとだけ」
霊夢の両側は埋まっていたので、空いているレミリアの隣に座ると、深紅の眼差しが向けられた。
「あなたにはおごらないわよ」
「自分で払うよ。には……って事は、お前はおごりか」
幸いレミリアがちびっこのため、その頭上を通して霊夢に視線をやると、どうでもよさそうな表情で振り向いて答えた。
「まぁね。で、あんたは何を頼むの?」
「わた……俺は、そうだな……きび団子でいいや」
桃太郎みたいと輝夜に言われた服装を思い出して、妹紅は笑った。
輝夜が言った事だったけれど、隣にいるのが輝夜でなければ笑えるのかもしれない。
「そう。すいませーん、きび団子ふたつ」
注文は霊夢がした。どうやら自分もきび団子をおかわりするつもりらしい。
「ところで、貸したはずの私の服は?」
「後で返そうと思って、まだ持ってるよ。この中」
ポンポンと包みを叩く。古着の上にはさっき買った小説も入っている。
「あら、服を貸し借りする関係なのね」
妖しい口調が霊夢の向こう側、紫から聞こえてきた。
「ま、まあ男同士だから、それくらいな」
ぎこちない笑みで妹紅は誤魔化した。霊夢はのんびりお茶を飲んでから、目線を寄越す。
「荷物になるのも嫌だし、返すなら後にしてよ」
「解った。霊……レイこそその服はどうした」
「気がついたら着てた」
嘘などついてませんというような真っ直ぐな口調だったが、抗議の声を紫とレミリアが上げる。
「あら、私達が見繕って上げたんじゃない」
「そうよ! その腋出し服を電光石火で仕立てさせるのに幾ら積んだと思ってるの!」
(その腋、お前等の仕業か)
「ああ、レイさんの腋の美しさ……本当、霊夢に勝るとも劣らない」
(そりゃ本人だしなぁ)
「レイの腋フェロモンのかぐわしさといったら……ホント、霊夢に勝るとも劣らない」
(霊夢の危険が危ない。by青狸)
まさか当人に聞かれているとは思わず、その後も紫とレミリアの気色悪い発言は続いた。
紫は"レイ"の住所やプロフィールを詳しく訊ねたし、レミリアは紅魔館に腋出し執事として雇いたいと誘う。
どれもこれも華麗に流す霊夢に感心しながら、妹紅はきび団子を頬張った。うん、美味い。
「もーもたろさん、ももたろさん。お腰につけたーきび団子ー。ひっとつー私にくださいな」
突然妹紅の隣から歌声がした。レミリアではない。反対側にいつの間にか、輝夜が。
「うひゃあっ! ななな、何でここに!?」
「全力で探せば数秒とかからず見つけられるし」
しまった、と妹紅はうなだれた。
輝夜は『永遠と須臾を操る程度の能力』を持つ。
これではいくら逃げてもすぐ見つかるに決まっており、のん気に団子を食べていた以前の問題だ。
こうして茶店の長椅子に、端から順に輝夜、妹紅、レミリア、霊夢、紫が座るという凄まじい光景が誕生した。
視線を感じて振り向いた妹紅は、霊夢と目が合う。
(妙な奴に絡まれてるわね)
(お前には言われたくない)
一瞬のアイコンタクト。
そして同時につくため息。
この調子じゃ魔理沙もどうなっているやら。
どうなっているかというと、妹紅と霊夢のいる茶店の前を全速力で走り抜けていった。
妹紅達には気づかなかったようだ。カリスマ三人いても気づかないとは。
直後「待てー! 泥棒ー!」と叫ぶアリスが怒りに目を血走らせて追いかけていった。
やはり妹紅達には気づかない。
何やってんだあいつは、と思い何となく天を仰ぐとパチュリーが空を飛びながら男性化魔理沙を追跡していた。
本当に何やったんだ魔理沙は。
そんな騒ぎに、レミリアと紫と輝夜は気づかない。
「ほらレイさん、湯飲みが空よ。私が注いで上げるわ。隠し味は真心よ」
「レイ、あなたのために紅白腋出し執事服のデザインを即興で考えてみたのだけど」
「紅さん紅さん、きび団子を食べてる理由ってやっぱり私が『桃太郎みたい』って言ったから? クスクス、可愛らしいところがあるのね。もっとも私は犬でも猿でもないし、雉というより孔雀かしら」
カリスマ三人衆の気色悪さに、妹紅は軽い目まいを起こした。
霊夢も輝夜が加わった事で、直接的に自分が狙われていないにしても、許容量をオーバーしたのかげんなりとした表情で団子を食んでいた。
男性化すると妙な奴につきまとわれる呪いでもかけられてしまうのだろうか。
◆◇◆◇◆
茶店から出て二人きりに戻った輝夜は、満面の笑顔を浮かべている。
「さあ、次はどこへ行こうかしら」
「おい……いつまでつきまとう気だ」
「せっかくのデートなのだし、日が暮れるくらいまでは遊びましょうよ」
「待てい。いつからデートになった、デートに」
「しつこいナンパから助けられた瞬間から」
「随分と"尻軽"な女だなー」
「紅さんが特別なだけよ」
「口説く時は、みんなそう言うんだ」
「じゃあ言い換えるわ。お尻が軽いっていうのは、スレンダーで可愛いって解釈していい?」
「勝手にしろ」
「勝手にする。それで、どこに行く? 楽しい所がいいわ」
「……じゃあ、楽しいコトをしに行くか?」
意地の悪い笑みを向けられて、輝夜はこれまた面白そうだと思いうなずくのだった。
ゲテモノ、立ち読み、はてさて次はいったい。
「高貴なる私に相応しき、これがロイヤルストレートフラッシュ!」
幻想郷にも賭博場はある。
ただ、外の世界からやって来た人間が伝えたものの中にカジノというものがあった。
違いは呼び方が日本語か外来語かという程度だが、賭け事の内容がまったく違った。
賭博と言えば丁半博打が華である。
だがカジノで行われるのはトランプを用いた様々なカードゲームや、河童に頼み込んで製作してもらったスロットマシンやルーレットまであるのだから侮れない。
こうしてカジノという新しい賭博の場は受けた。
「あの嬢ちゃん、さっきブラックジャックやってたが、ブラックジャックを三連続で出してたぞ」
「俺が見た時はルーレットで一目賭けしてたぜ。三勝七敗だったが配当を考えると……いくら稼いだんだか」
輝夜はあくまでお遊びとして小金しか賭けていない。
しかしあまりに勝ちすぎるので、頭が隠れるほどのチップの山を積んでいた。
「ビギナーズラックってレベルじゃねぇ……」
ギャンブル狂という訳ではないが、嗜む程度にはやっている紅さんは完全に自信喪失だ。
ついさっき、ブラックジャックでバーストを三連続で出してしまっている。
ルーレットも赤・黒で賭けたのに三連続で負けた。配当は二倍の簡単な奴だ。
奇数・偶数で賭けて三連続で負けた。配当は二倍の簡単な奴だ。
前半・後半で賭けて三連続で負けた。配当は二倍の簡単な奴だ。
やはり大金を賭けてはいなかったが、こうも負けが続くと出費が手痛い。
「やったわ紅さん! また勝った! ギャンブルって楽しいわね」
「そりゃよかったな、配当幾らだ」
紅さんはブタのカードをテーブルに放って立ち上がった。
負けっぱなしで相当機嫌が悪いらしい。
「次は何をやるの?」
と、輝夜も立ち上がる。基本的に紅さんがやろうとしたゲームにくっついて参加し、圧勝しているのだ。
「そうだなぁ……ゴキブリレースでもやるか」
「ゴキブリ?」
「隅っこでやってる」
紅さんが席を立ったので輝夜も後に続こうとし、大量のチップに気づく。
手近にいたバニーガールに、大きい額のチップと交換してゴキブリレースの所まで持ってくるよう頼み、置いていかれないよう慌てて後を追いかけていく。
カジノの隅の方では行くと、細長い台を何人か客が囲んでゲラゲラと笑っていた。
どうも他のギャンブルとは雰囲気が違うようだ。
「最初はネズミレースだったんだが、妙に甲高い声をしたネズミ妖怪からの苦情で禁止になったらしい」
「それは禁止せざる得ないわね」
「その後も色々と試したそうだが、紆余曲折を経てゴキブリに落ち着いたそうだ」
「ふーん。レースって事は……」
「ご覧の通りさ」
細長い台は、板で直線のコース十本に区切られており、その上はゴキブリが逃げないようガラス張りになっている。
スタート地点にゴキブリを閉じ込め、コースとを区切っている板だけを引き抜き、どの番号のゴキブリがゴールするか、その順番を当てるゲームだ。
賭け方は一着だけを当てる物もあれば、一着と二着を当てる物など、様々だ。
程度の低い競馬のようなものである。
「活きのいいゴキブリを選ぶのが勝利の鍵ね」
意外や乗り気の輝夜だが、ゴキブリを怖がらないお姫様というのは可愛げがない。
「あー……そういうんじゃなくてだな。まあいいや、とりあえずゴキ券でも買うか」
紅さんは次のレースのゴキブリの様子をいちべつだけすると、七―三のゴキ券を購入した。
その間、輝夜は真剣な面持ちでじっくりとゴキブリの様子を探る。
七番。狭いスタート地点の中を這い回っている。
三番。何だかおとなしい。やる気が無いのか?
八番。これも動かないが、真っ直ぐゴールの方向を向いている。
「おい、お前は何番にする?」
「私は八番一点買いよ」
丁度バニーガールが輝夜の分のチップを持ってきたので、そのうちの数枚をゴキ券にした。
最上級のゴールドチップだったので、他の客がどよめく。
そして二人はレースの開始を待った。
レースが始まった。
「行きなさい八番! もっと速く、急いで! やればできる、やらねばできぬ何事も!
あ、止まってどうするの止まって! 違う、ゴールを見据えるのよ! 走れ! GOよGO!
七番が迫ってる迫ってる急いでアッ、アッ、アッ、抜かれる、抜かれた! 八番! 八番ッ!!
そうよ、その調子、もっと、ああ、距離が、もう残り、急いで、ラストスパートラストスパート!
行け行け行け! ゴキブリでしょ!? もっと速くカサカサと足を動かして、行け、行け行け行け!
行ったァ~~~~~~~~~~~~~~ッ!! ゴォォォォォォ~~~~~ッル!!」
勝った。
「やった、やったわ紅さん! 八番が勝ったわ! 私の勝ちよ、大勝利ッ!!」
おおはしゃぎで紅さんの肩を揺すり、勝利の喜びをあらわにする輝夜。
口元を押さえてうつむいていた紅さんは、くつくつという笑い漏らしたかと思うと、大きな口で「あひゃひゃひゃひゃ」と笑い出した。
同時に、ゴキブリレースに参加していた他の客達もいっせいに笑い声を上げる。
輝夜は、事態が飲み込めずキョロキョロと周囲を見渡した。
「あの……紅さん、私、何かおかしな事を言ったかしら? 八番が勝ったはずよね?」
「あひゃひゃあひゃあひゃあひゃひゃのひゃ。おま、お前な~、たかがゴキブリレースで真面目になりすぎ」
「え? えっ?」
紅さんは瞳の端に涙まで浮かべるほど受けており、腹を抱えて笑っている。
答えてくれたのは、紅さんではなく他の客達だった。
「お嬢ちゃん。ゴキブリレースってのは、いわゆるアレよ。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々……って奴よ」
「たかがゴキブリに金を賭ける阿呆を笑うのがメインで、勝ち負けなんぞ二の次だな」
「勝てば笑われ、負けても笑われ、とにかくみんなで馬鹿やってとにかく笑えってもんよ」
「お嬢ちゃんがやけに真剣に応援しやがるもんだから、ゴキブリよりそっちの方が面白かったぜ」
「よぉ兄ちゃん、こんな愉快な彼女がいて、おいちゃん羨ましいよ。いよっ、色男!」
馬鹿にするのと感心するのと、二重の意味での大笑いの中、輝夜は頬を朱に染めてうつむく。
確かにゴキブリに声援を送る自分って、熱心に応援する自分って、物凄い間抜けな構図だ。
「あっはっはっ……お前って、意外と可愛いトコあるんだな……あひゃひゃ、うひひ」
だけど紅さんの笑い声は他の客達のそれと違い、心地よかった。
どうしてそう思ったのか、輝夜には解らない。
意外なものを見たといった風だから、最初から笑いものにするつもりだった訳じゃなさそうだ。
馬鹿にする、滑稽だから笑う、そういう種類の笑いじゃない。
本当に、ただ純粋に驚いたとか、楽しいから笑っているのでは。
そんな気がした。
◆◇◆◇◆
今日の自分はどうかしている。
輝夜と一緒に遊んで、楽しんでいる? ああ、ヤダヤダ、正気の沙汰じゃない。
それでも、もう輝夜を邪険にして追い払おうとかいう気は綺麗サッパリ無くなってしまっている。
何とも不可解なこの現象、きっと男性化が精神に悪影響を与えているのだろうそうだろうそうに違いない絶対に。
カジノを出た妹紅は、輝夜のおごりで焼き鳥屋に直行した。
どうせギャンブルで得たあぶく銭、パーッと使ってしまおうという輝夜の意見に同調したのだ。
服を買ってもらうのでさえ葛藤があった妹紅だが、今はそんなもの、わずかにも感じない。
たらふく飲んで食べた二人は、ほろ酔い気分で日の暮れた街を歩いていた。
「ああ、風が気持ちいいな」
「そうね」
手を繋ごうと思えば繋げそうな距離で、時折輝夜が意味深な視線を向けてくる。
だが妹紅はその意図が掴めず、しかし不思議と不快ではなかったため、特に気にかけなかった。
本当に酔っているようだ。酷い酔いだ。輝夜とこんなひとときをすごせるだなんて、悪酔いにも程がある。
(でも、まあ、いいかな……)
永遠という一生の中の、ほんの一日くらいは。
妹紅であって妹紅ではない、紅さんという男の、ポケットの中に入ってしまうような小さな思い出。
「ねえ、紅さん」
「ん?」
「今さらだけど、紅さんって何をしてる人?」
「何だよ、急に」
「別に、何となくよ」
「そうさなぁ、遊び人の紅さんたぁ俺の事よ」
「桜吹雪の刺青が?」
「健康マニ……いや。通りすがりの……たいやき屋さんよ」
つい、焼き鳥屋だと言おうとしてしまい適当に違う食べ物の名前を出した。
妹紅が『健康マニアの焼き鳥屋』を自称している事は輝夜も知っているだろう。
「へえ、たいやき屋さんなんだ。今日は休業日?」
「ああ、そんなとこ」
「今度食べに行きたいわ。お店はどこ?」
「自分で探してみな。見つけたらおごってやるよ」
「宝探しみたい。ふふ、それもいいわね」
「ああ、探してくれよ」
絶対に見つからない。
自分はたいやき屋なんかじゃないし、紅さんは今日一日限りの幻だ。
でも、もしそのありもしないたいやき屋を見つける事ができたなら、その時の自分が宿敵藤原妹紅でもちゃんとおごってやろうと密かに誓う。
「よう、楽しそうだな」
水を差す声は、わずかに聞き覚えがあった。
振り向けば十人ほどのガラの悪い男達。うち、一人は頬に擦り傷があった。
輝夜をナンパしていたあの男だ。蹴飛ばされた時に顔面から地面に突っ伏した間抜け野郎で間違いない。
不穏な気配に、街の人々は道の端に逃げるか、道を迂回するなどし、助力しようという者はいなかった。
もっとも妹紅は助けなど必要とするタイプではない。
「よう、女にモテないから男色に走ったのか? 彼氏がいっぱいいて羨ましいな」
長く生きていれば、嫌な奴に絡まれる事も多い。妹紅はもう慣れている。
普段なら軽くあしらうのだが、今は明らかに不機嫌を作り挑発で返す。
「てめぇ、この人数相手にいい度胸してるな。いい女を掴まえていい気になってんじゃねーか」
「いい女? そんな奴、どこにいるんだ。まさかコレか?」
唇の両端をこれでもかと釣り上げた妹紅は、輝夜の頭をポンポンと軽く叩く。
「紅さん、コレは酷いわ」
「へっ、ゴキブリに夢中になる女をいい女とは呼ばねーよ。それに、いい女は鼻について嫌いだ」
いい女ではないから嫌いではない、とも受け取れる言葉に輝夜は内心複雑ながらも頬を染める。
夕陽のせいでそんな些細な変化に気づく者はいなかったが。
「ここでヤるのか?」
輝夜をかばう、と言うよりは喧嘩するために前に出る妹紅。
実際、自分と殺し合える輝夜をかばう必要性など一切感じていない。
それよりも、心地よい時間を邪魔したこの連中をしばき倒したかった。
「たった十人ぽっちとは、見くびられたもんだ」
「オツムがイカれちまったのか? この人数相手に、何ができるっていうんだ」
下卑た笑いを向けられた瞬間、妹紅は構えも取らず無造作に詰め寄ってきた。
「ボロッカスにぶちのめす」
男達がかかってくる。
(多対一か)
凶暴な表情とは裏腹に、妹紅の精神は冷静だった。
多対一の戦い方は幾つかある。
一対一の状況を作り人数分戦ったり、雑魚から確実に数を減らしたり、真っ先にリーダーを倒したり。
だが妹紅に作戦などなかった。全員真正面から叩きつぶす。それだけだ。
まず最初に殴りかかってきた威勢のいい男の膝にかかとを叩き込む。
膝の皿が砕けない程度に加減したが、男がよろめいたついでに掌底で顎を跳ね上げてやった。
続いて左側から迫ってきた男の拳を、頭を振って避けると同時に頭突きを鼻っ柱に叩き込む。
ついでに左の肘を鳩尾にお見舞いしてから、掻き分けるようにして倒した男の間を抜ける。
あまりの早業に驚いて身をすくませた奴が目の前にいたので、素早く手首を掴んで捻ってやる。
カエルのような悲鳴を上げるそいつと身体の位置を入れ替えて、横合いから殴りかかってきた男に対する盾とする。
仲間に殴られた哀れな男の首筋に手刀を入れてから突き飛ばし、殴った方の男の股間に膝をめり込ませてやる。
気色悪い感触に舌打ちをしながら、背後から掴みかかろうとしてきた男を振り向きざまの裏拳を打ち込む。
頬を打たれてよろけたところ男の足をかかとで力いっぱい踏みつけ、右のストレートで顔面を打ち抜く。
一瞬の間に半数をやられて、リーダー格のあのナンパ男がうろたえる。その隣にいる男二人も引け腰だ。
藤原妹紅。怨敵輝夜を追う過酷な旅路で、一通りの戦闘技能は十二分に習得している。
さらに今は男の肉体。筋力だけはそれなりに向上している。
「ま、若いうちは何事も経験だ。馬鹿やって、痛い目に遭って、それを教訓にマシな大人になるんだな」
すでに勝利の笑みを浮かべている妹紅。だがナンパ男も、ふいに引きつった笑みを浮かべた。
「へへ、てめぇこそ状況解ってんのかよ」
「圧勝真っ最中……だろ?」
「後ろ見てみな」
罠である可能性など考えず、妹紅は振り向く。
すると、輝夜がナンパ男の仲間二人に捕まっていた。
「形勢逆転だな。その女に手を出されたくなかったら……」
「おい、輝夜」
脅し文句を無視して、妹紅は薄笑いを浮かべる。
男に捕まって、縮こまっていた輝夜がハッと顔を上げた。
「やっちまえ」
同時に、輝夜を掴まえていた男が縦に一回転して背中から地面に叩きつけられる。
「もう、せっかく紅さんに助けてもらおうとおとなしくしてたのに」
と、もう一人の男の足を軽く払って後ろに倒おすと同時に肘を顔面に打ち込んで、倒れる勢いを加速させてやる。
ナンパ男と、残り二人の男は口をあんぐり空けて呆然としていた。
輝夜は残念そうにうつむきながら、上目遣いを妹紅に向けた。
「いつから気づいてたの? 私の実力」
「さあて。いつからだろう、な……」
妹紅は苦笑し、思い出す。
迷いの竹林を初めて紅蓮に染め上げた日の事を。
(お前と初めて殺し合った時から知ってたよ、輝夜)
その殺し合った仲の二人が、輝夜は紅さんの正体を知らぬとはいえ、手を結んでいる現在。
倒した雑魚を気にも留めず、力強い相棒として妹紅の隣に立つ輝夜。
「残り三人、どう分配する?」
「あいつは一度、紅さんがこらしめてるでしょ? じゃ、次は私の番ね。木っ端は任せていい?」
「軽く蹴散らしてやるか」
同時に疾駆する妹紅と輝夜。
妹紅の抜き手が取り巻き一人の脇腹をえぐり、苦しみ喘いで前のめりになったところで、首筋に肘鉄。
そのまま倒れた男を飛び越えて、もう一方の取り巻きの顔面にドロップキックをぶちかます。
すでに逃げ腰になっていた男はモロに蹴り飛ばされて倒れ込んだ。
◆◇◆◇◆
紅さんが二人の男を倒すのとほぼ同時に、輝夜は真正面からゆったりとした仕草で歩み寄った。
ナンパ男が背中を向けて逃げ出そうとするや、以前紅さんがやったように尻を蹴飛ばして地面に突っ伏させる。
「あまり服を汚して帰ると怒られちゃうし、このくらいで勘弁して上げるわ」
ふわりと笑って見せる輝夜。
何だかんだで妹紅との出逢いのきっかけとなったナンパ男にそれほど敵意は抱いていないし、今は機嫌もいい。
なぜなら。
「腹ごなしの運動にもなりゃしない。なあ、どっかで飲み直すか?」
こちらを振り向いた紅さんに向けて、輝夜は袖で口元を隠して笑う。
「何だよ?」
「紅さん、さっき初めて私の名前を呼んでくれたわね。輝夜って」
カァッと紅さんの頬が染まったように見えたのは、夕陽のせいではないはずだと輝夜は確信していた。
こんなにも格好よく、可愛らしい紅さん。一緒にいると本当に退屈をしないですむ。
輝夜にとって、月の脅威を考えなくてよくなった今、一番の敵は退屈だ。
退屈で人は殺せる。生きる気力をそぎ落とされていくのだ。
しかし蓬莱人は決して死なない。永劫の退屈は生き地獄も同然である。
だから、輝夜は紅さんの事を好きになった。
「紅さんって時々女の子みたいになるところが可愛いわ」
「な、何言ってんでい。オイラは生まれも育ちも根っからの日本男児でごぜえやすぜ」
「これは予想以上のうろたえっぷり。やっぱり紅さんって面白いわ」
もっと紅さんの事をよく知りたいと思ったが、知らない方がこれからも楽しめるのではとも思う。
「いいから、とっとと行こう」
誤魔化すように紅さんは言い、輝夜の手を掴んだ。
思いがけぬ出来事。手を繋ぐという、ただそれだけで、音が聞こえるほど大きく心臓が鳴った。
紅さんは気づいていない、輝夜の頬が朱に染まっている事に。
紅さんは気づいていない、思わず顔をそむけた輝夜が気づいた事に。
輝夜に蹴り倒されただけのナンパ男は懐から取り出したドスを引き抜いて、振りかぶって。
紅さんの手を振り払い、輝夜は反射的に刃へと手を伸ばした。
凶刃は紅さんの背中に向けて振り下ろされようとしていたが、直前で輝夜の白い美しい手から赤が散った。
一拍遅れて振り返り、事に気づいた紅さんは、拳を振り上げ――。
夕陽が見せた錯覚だったと思う。
紅さんの拳が紅蓮をまとって、ナンパ男の顔面を殴り飛ばしたように見えた。
けれど手を斬られた痛みで視界がかすんでいたし、ふっ飛ばされたナンパ男は道の端に置いてあった水桶に頭から突っ込んでしまい、顔にどんな傷跡ができたかどうか確認できなかった。
「馬鹿野郎、何してんだ!」
紅さんは怒鳴りながら長い後ろ髪を結んでいた布を解き、輝夜の手に巻きつける。
「イタタ……大丈夫よこれくらい。こう見えて頑丈にできてるから」
「解ってるよ! けど、そういう問題じゃないだろ!」
解ってる、とはどういう意味だろうか。蓬莱人の秘密はあまり知られていないはずだ。
この程度の傷、本当に手当てする必要すらないのに。
妹紅との殺し合いで、致命傷を負った事も何度か――。
再び、夕陽が幻を見せた。
夕陽の中で輝夜の手当てをする紅さんの横顔が、髪を下ろした紅さんの姿が、藤原妹紅と重なった。
パチクリと何度かまばたきをしている間に手当ては終わっており、紅さんがいぶかしげな表情を向けていた。
「どうした、まだ痛むか?」
「あ、いえ……もう大丈夫」
「そうか」
そう言うと紅さんは、傷ついていない方の輝夜の手を取ると、引っ張るようにして歩き出した。
輝夜も周囲に倒れている男達や、遠巻きに見ている街の人々に気づき、早く離れた方がいいと歩を進める。
ただ喧嘩の現場から離れるためだけに適当に街を歩いて、日がもう沈もうとし、街に明かりが灯されていく。
薄暗くなってきて、ようやく、紅さんは立ち止まった。
「……ゴメン」
「え? ああ、手の傷ならもう治ったから気にしないで」
「そうじゃなくて……」
紅さんはうつむいていて、表情を見せないまま続けた。
「助けてくれたのに、馬鹿野郎とか言っちゃって」
「そんなの、気にしてないけど」
「でも、ゴメン」
「そうね、じゃあ、キスしてくれたら許して上げる」
悪戯っぽく言ってやると、効果覿面、ぎょっとした表情で顔を上げる紅さん。
「いや、でも、それは……」
「うふふ、冗談よ」
あまりにも簡単に引っかかったので、輝夜はつい吹き出してしまった。
それを見て、紅さんは深々とため息をつく。
「……ったく、そういう冗談、やめろよな」
――半分、本気だったのだけど。
口から出かかった言葉を飲み込んで、輝夜は微笑んで見せる。
すると、紅さんもやわらかい微笑を返してくれた。
この男に笑顔を向けられてみたくて、強引にくっついて回った。
実際に笑顔を向けられて、輝夜は絞めつけられるような胸苦しさを感じる。
息ができなくなって、顔が熱く、足が震えて、でも、嫌な気分じゃない。
「……紅さん、私……」
自分が何を言おうとしているのか、輝夜には解らなかった。
ただ、心の奥底から込み上げてくる感情を吐き出してしまえば、もう後戻りできない気がした。
本当に言ってしまうのか? 何を言おうとしているのか?
解らないけれど、言葉はもう、唇を割って出ようとしていて。
「慧音」
突然、その言葉が消え去ってしまった。
紅さんが呟いた、その表情を見てしまって。
それから、彼が口にした名前に覚えがある事に気づき、彼の視線を追う。
買い物袋を持った上白沢慧音が、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。
紅さんと知り合いなのだろうか。どんな関係なのだろうか。
彼女の名前を呼んだ時、彼の表情はとても安らいでいて、たった今見せてくれたばかりの微笑みが霞んでしまうほどで。
「お前は……」
慧音はわずかに眉をひそめ、紅さんは慌てた様子で、掴んでいた輝夜の手を放し、しどろもどろになる。
「あ、あの……わ、俺は、その……紅さんという通りすがりのたいやき屋さんで」
まるで、想いを寄せる女性に思いがけず出会ってうろたえているかのような、態度。
あるいは、その通りなのかもしれない。
慧音は目をしばたかせると、やわらかい微笑を浮かべた。
「ああ、紅さんか。今日は随分とけったいな姿をしているな」
「えぇっ? あー……その、新しい服で……似合う?」
ぎこちない笑みで、まだ狼狽したままの紅さんに対し、慧音は落ち着いたものだ。
「うん、似合ってるよ。似合ってるけど、いつもと違いすぎてな」
「そうか、そうかな。うん」
「こんな時間だが、よかったらうちでお茶でも飲んでいかないか」
「いいの? 助かるよ」
「歓迎しよう。輝夜、あなたも来るか?」
慧音に声をかけられ、輝夜は慌てて布を巻かれた手を後ろに隠した。
「結構よ。あなたとまで馴れ合う気は無いわ」
「そうか、残念だ」
「私はもう帰るところだし。妹紅によろしくね」
そう言い捨てて、輝夜は逃げるように走り出した。
胸のうちで渦巻いている感情の正体が何なのか解らなかったが、これ以上二人が一緒にいる姿を見ていたくなかった。
「ま、待った!」
けれど、後ろ髪を引かれる思いで立ち止まってしまう。
切迫した紅さんの声のせいで。
背中を向けていても、彼の瞳を覗きたい衝動を必死に抑える。
矛盾めいた熱い胸のざわめきが酷く息苦しくさせる中、続く紅さんの言葉を待った。
「か、輝夜。その……またな」
またな。か。
「いいえ紅さん、さよならよ」
本当に言いたかった言葉は何なのか。
走り出した輝夜には、もうどうでもいい事だった。
◆◇◆◇◆
熱いお茶を飲んで、妹紅は深々と息を吐いた。
「ふーっ、疲れた……」
「しかし、残念だな。もう夕食はすませているのか」
「晩酌くらいにはつき合うよ。今日、泊まって行っていい?」
「ふふっ。若い男を泊めたりしたら、どんな噂が立つやら」
「大丈夫、朝には元に戻ってるよ」
お茶をもう一口飲む妹紅、その対面では慧音が急須でもうひとつの湯飲みにお茶を注いでいた。
「ところで妹紅、その姿はいったいどうしたんだ」
「ああ、昨日、神社に泊まってきたんだけど……晩飯に出たキノコがさぁ」
事情を話し終えた妹紅は、湯飲みを空にしてから、真っ直ぐに慧音の微笑を見つめた。
「でも、よく解ったな。男になってたのに、私が妹紅だって」
「解るさ、妹紅だもの」
「ククク。紫やレミリアは、霊夢を見ても気づいてなかったみたいだけどな」
「輝夜もな」
あまり触れたくなかった名前を出されて、妹紅は唇を歪めた。
慧音もそれ以上どうこう言うつもりはないらしく、ゆったりとお茶をすすった。
「……まぁ、何だ。今日は慧音の家に泊まって、明日には女に戻って、神社に服を返しに行って、ついでに元々着てた服も返してもらって、それで終わりだ、今回の事は」
「その男物の服はどうするんだ?」
言われて、妹紅は改めて自分の服を見下ろした。
輝夜に買ってもらった、桃太郎みたいだと言われた、赤い着物と白い羽織と袴。
しばし考えて、妹紅は答えた。
「どうもしないさ」
その後。妹紅の家のタンスの奥に、男物の着物がしまい込まれた。
二度と着るつもりは無いが、捨てる気も無いし、タンスから取り出す気も無い。
無い無い尽くしのその服はタンスの肥やしでしかない。
それと、妹紅の商売がひとつ増えた。
迷いの竹林の案内人、健康マニアの焼き鳥屋。
それからごく稀に、通りすがりのたいやき屋さんもやっている。
妹紅にあった変化と言えばこの程度で、輝夜とは顔を合わせるたび喧嘩や弾幕や殺し合いだ。
◆◇◆◇◆
憂いを見せるようになった輝夜を、永琳は心配していた。
永夜異変以来、輝夜は隠れ住む必要から解放され活発になっていたのだが、人里に遊びに行ってから覇気が無い。
それとなく「何かありましたか」と訊ねても「何でもないわ」と返されてしまう。
それでも、手がかりが無い訳ではなかった。
鈴仙が人里に薬を売りに行こうとすると、なぜかたいやきを買ってくるように頼んで、たいやき屋はどんな人物だったかを訊ねるという行為を数日ほど続けた。
博麗霊夢が薬を買いに来た時も、気になる会話をしていた。
霊夢が薬を値切ろうと交渉しているところに偶然輝夜がやって来たら、霊夢が輝夜を誘って庭を歩きに行った。
後をつけていくような真似をする永琳ではなかったが、偶然、多分偶然二人の会話を聞いていたてゐが後で教えてくれた。
「紅」と「レイ」なる外の世界の人間がちょっと前に幻想郷に迷い込み、しばらく遊び回ってから博麗神社にやって来て、外の世界に帰して欲しいと頼んできたので、帰してやったらしい。
それを聞いた輝夜は意気消沈としていたそうだ。
その日、輝夜が霊夢に薬を無料で譲るよう命じてきたのは、無関係ではあるまい。
以来、鈴仙をたいやき屋に行かせる事も無くなった。
代わりに、鈴仙にある小説を探させるようよう命じた。
題名は『ポケットの中の恋愛』だったはずだ。
何日かが経ったある日、輝夜は永琳と碁を打っていた。
実力は永琳の方が圧倒的に上だったが置き石は無く、指導碁という形を取っている。
だが。
「姫様の番ですが」
「うん、もうちょっと」
碁盤を見ずに答える輝夜は、肘掛に体重を預けて、本を開いたまま碁を打っていた。
その本が、碁の指南書の類ならまだ納得もできる。
だが輝夜が読んでいるのは『新説・桃太郎伝説』という娯楽小説だった。
「姫様、今は碁の時間です。読書の時間は別に設けてありますが」
「今いいところなのよ、私が殺されそうになってるの」
「桃太郎にかぐや姫が登場する訳ないでしょう」
「それがしてるのよ……あ、これは死ぬかも」
どうやら姫は本に夢中。
永琳は深々とため息をつき、碁石を片づけようか悩み始めた。
そこに「失礼します」と障子を開けて入ってくる者があった。鈴仙だ。
持ってきたお盆には緑茶とたいやきが載っていた。
「ご苦労様」
永琳がねぎらうと、鈴仙は一度頭を下げてからお茶とたいやきを配る。
それから、輝夜の前にひざまずいた。
「姫様、例の小説ですが……」
「見つかったの?」
今開いている本から視線を移さず輝夜が問うと、鈴仙は小さく首を横に振った。
「いえ。どうやらあの本は、姫様が行ったという本屋の主人の亡くなった父が道楽で書いた物らしく、半ばお遊び的な遺言に従って店に並べていただけの一冊限りしかなかったそうです。その本は、桃太郎みたいな格好をした男が買っていったとか」
「そう」
「桃太郎を探して譲ってもらいましょうか?」
「その必要は無いわ。どうせ無理だろうし。ご苦労様イナバ、下がっていいわ」
鈴仙が下がってから、輝夜はようやく本に栞を挟んで閉じた。
いかにも今読むのを中断したといった風を演じていたが、鈴仙が部屋に入ってきた時から本を読む目線が動いていなかった事に永琳は気づいている。
「ねえ、永琳。あなた、恋をした事はあって?」
「さあ……あったかもしれませんが、長く生きすぎましたので記憶にありません」
「どうだか」
小さく笑ってから、輝夜はたいやきをつまんだ。
永琳もたいやきを一口だけかじり、手に持ったまま碁盤に視線を落とす。
「それに、今の私達にとって恋愛は諸刃の剣ですからね。
心奪われた方が存命のうちは幸せでしょうけれど、喪った苦しみは永遠に続きます」
「蓬莱の薬を飲ませたり、私達の生き胆を食べさせれば、問題は解決するでしょうけれど」
「姫様ッ」
口調と眼差しを厳しくして、永琳は視線を上げた。
「冗談よ」
輝夜はお茶を二口ほど飲む。
「蓬莱の薬を飲んだ者が、ただの人間と結ばれるなんてありえないものね。ほんのわずかの蜜月の代償は、永劫に続く悲嘆。ならば胸に刻み込むような恋は不要。一冊の本におさまる程度の、小さな恋で十分なのかもね」
「ポケットの中の恋愛……ですか」
永琳の表現に、輝夜は微笑を漏らした。
ついさっきまで探していた小説の題名と同じ言葉。
あの小説はもう手に入らないけれど、案外、輝夜の体験と同じような物語なのかもしれない。
そう、あの日の思い出はその程度のもの。
これから別の思い出をポケットに詰め込んでいけば埋もれてしまい、いずれ色あせていくだろう。
けれど。
輝夜は思いを馳せる。竹取の翁達との平穏な日々に水を差してきた男達に。
彼等はどんな想いで輝夜に求婚してきたのだろうか。
どんな想いで五つの難題を受けたのだろうか。
ただ邪魔者としか思わなかった彼等の気持ちが、今なら少しだけ解るかもしれない。
「もう少し、断り方を考えて上げればよかったかな……」
それは難題を受けし者達や、その娘に届く事のない、小さな呟きであった。
輝夜は大きく口を開けてたいやきを半分ほどかじると、湯飲みを唇に当て大きく傾けた。
「火傷しますよ」なんて言いながら永琳も湯飲みに手を伸ばし、口をつけ、お茶をすすり、噴出。
碁盤にお茶がかかり、丁度お茶を飲み干していた輝夜は「ひゃっ」と声を上げて身を引く。
「永琳、汚いじゃない」
「ゴホッ、ひ、姫様、これは……飲んでしまわれましたか……」
「え、何? このお茶が、どうかし――」
ガラッと。叩きつけるような勢いで障子を開けて、鈴仙が部屋に飛び込んで来た。
何事かと視線を向ければ、突然土下座。
「イナバ、いきなり何よ」
「申し訳ございませんッ! お茶と間違えて、師匠の作った性別反転薬を出してしまいました!」
「は? だって、ちゃんとお茶の味が……うぐっ!?」
完
息を吸えば胸を焦がしてしまいそうな熱風が。
「――大丈夫か?」
逆光の中の微笑みは、大地を照らす太陽よりも眩しく、輝夜の心を照らす。
永劫の刻を生き続けなければならないこの世界で芽生えたその感情の名は、まさしく恋。
◆◇◆◇◆
始まりは博麗神社。
所用で神社に泊まった妹紅が眼を覚ますと、同じ布団の中に見知らぬ男がいた。
当然のように悲鳴を上げると、同じ布団の中から男の悲鳴が聞こえた。
というか自分の口から男の悲鳴が出ていた。
最初は自分の喉に異常があるのではと思い、手を当ててみると、喉仏があった。
いったいなぜ? 混乱したまま、自然と自らの身体を調べる。
目の前の男にごにょごにょされていないかという心配だけでなく、もっと別の異常事態が起こっているのではとも思っており、後者の方が見事に的中した。
胸がぺったんこだった。
股間からモノが生えていた。
「何じゃこりゃあああああッ!?」
再び悲鳴を上げると、布団の中に入っていたもう一人の男も目を覚ます。
そして、妹紅を見て数度まばたきをしてから問いかける。
「あんた誰」
続く行動は、妹紅ほど慌ててはいなかったがおおむね同じであった。
有るはずのモノが無い。
無いはずのモノが有る。
「……私は霊夢なんだけど、もしかしてそっちは妹紅?」
「あ、ああ……うん、多分」
「とりあえず洗面所に行って鏡でも見ましょ」
こうして妹紅と霊夢は、己の肉体が完全に男性のそれへと変化している事実を確認した。
同じ布団で眠っていた理由は、夜にトイレに行った妹紅が寝惚けて霊夢の布団に入ってしまったらしい。
ちゃんとそれに気づいていた霊夢だが、面倒だったので気にせず眠り直したらしい。
ちなみにトイレに行った時に有ったか無かったか、妹紅は覚えていなかった。
仮に有ったのだとしたら、覚えていない方がありがたかった。
だが人間とは起床後、当然の生理反応としてトイレに行くものである。
霊夢はとっととすませてきたが、妹紅はしばし我慢したりうろうろしたりした。
事後、汚れてしまったと嘆いた。
男になってしまうという異変にも関わらず霊夢はマイペースそのもので、 妹紅が縁側で呆然と青空を眺めている間に朝食を作った。やったぜ、博麗神社なのに焼き魚だ!
「じゃ、とりあえずお互い思いつく原因を考えてみましょうか」
さすがに男の身体で巫女服を着るほど非常識ではなかった霊夢は、蔵から男物の古着を持ってきて肩から先を切り落としてから着た。
妹紅も古着を貸してもらったが、こちらは普通に着ている。
ふんどしはさすがに嫌だったので、野郎同士のノーパンという危険な状態だ。
「原因ったってなぁ、私はただ神社に泊まっただけだよ」
「夜にトイレに行った時に何かに感染して戻ってきて私に伝染させたとか」
「この神社にはそんな妙な感染を起こすモノがあったりするのか」
「昨日の晩ご飯って何だっけ。キノコ?」
「ああ、魔理沙からの差し入れな。味噌汁に入ってた」
「どう思う」
「どうって、なぁ」
「この手の異変は、パチュリーの魔法実験だとか、永琳の薬だとか、紫の能力だとか、ある種の定番があるのよ」
「定番の中に魔理沙のキノコは含まれるのか?」
「含まれていない理由が思いつくなら言ってみなさい」
朝食後。白いシャツにタキシード、そしてシルクハットという白黒衣装の金髪男が箒で飛んできた。
有無を言わさず弾幕を叩き込んで成敗した後、男になった魔理沙だと判明した。人違いじゃなくてヨカッタね。
ついでに昨日のキノコは性別反転茸という名前だとも判明した。
明日になれば直るそうなので、直るまでそれぞれ好き勝手にすごせばいいという事になり解散。
妹紅は自宅に帰る気になれず、適当に時間をつぶそうと人里へ向かった。
「慧音に見つかったらどう説明したもんかな」
と思っていたら、ナンパの現場に居合わせた。
ガラの悪い男が、長い黒髪のおとなしそうな女性を強引に誘おうとしている。
後ろからだったので女性の顔は解らなかったが、とりあえず八つ当たりも兼ねてナンパ男の尻を蹴飛ばし、怒って殴りかかってきたので適当に叩きのめしてやった。
冒頭に戻る。
◆◇◆◇◆
何が悲しゅうて蓬莱山輝夜と腕を組んで街を歩かにゃならんのだ。
自分の不幸っぷりを嘆きながら、藤原妹紅は天を仰ぐ。
一方輝夜はさっきからニコニコとしていてすごく可愛いのが逆に気持ち悪い。
慧音に会ったらどうしようとか考えてたけど、輝夜と人里で会うなんて想定外だ。
「あの……わた……俺、買い物に行きたいんですけど」
「ええ、だからこうして一緒に歩いてるんじゃない」
「いや……一人で買い物したいんですけど」
「まあまあ、そう言わず。助けてくださったお礼もしたいですし」
妹紅としては正義感よりも八つ当たり優先でナンパ男を退治しただけなので、感謝もお礼もまったく望んでいなかったし、相手が輝夜だと知っていれば助けなかった。
むしろ輝夜を助けたというよりナンパ男を助けたようなものだ。
遠からず輝夜は自らの力で、妹紅よりも手酷いやり方でナンパ男を撃退していたに違いない。
「ところであなた、お名前は?」
「えっと……紅(こう)」
「凛々しい名前ね。紅さんとお呼びしていいかしら? 私は輝夜、よろしくね」
「ああ、うん」
「ところで、今日は何を買いに?」
「……本とか、適当に重そうな物を」
言い訳を考えるのが面倒で妹紅は正直に答えた。
男の身体になったため、体力もやや向上しているのではないかという想像をしたのが理由である。
「服は買ったりしないの?」
「服? いや……」
問われて、妹紅は自身の服装を確認する。
やや色あせた赤い着物に、灰色にくすんだ袴。
古着だから仕方ないが、輝夜から見ればさぞみすぼらしいだろう。
「フンッ、笑いたいなら笑えよ」
同じ笑われるなら、先手を打ってやった方がちょっとはマシだ。
「よかったら、新しい服を買って上げましょうか」
「……は? 何言ってんだ、お前」
「だって、一緒に歩くのにそんな服じゃ、紅さんが恥をかいてしまうわ」
一緒に歩くって何だ。いつまでついてくる気なんだ。
とはいえ藤原妹紅も女の子、服は綺麗な方がずっといい。
輝夜も今日は普段見るより質素な着物とはいえ、妹紅の隣に立てば光っているかのような美しさだ。
これは悔しい。かなり悔しい。
しかし敵に塩を送られるなど言語道断。そんな塩は相手が二度と来ない事を願いながら撒いてやるべきだ。
◆◇◆◇◆
輝夜は楽しかった。
妹紅をからかったり殺し合いをしている時くらい楽しかった。
まさかそんな相手に出逢えるだなんて思っていなかった。
自分に対し好意的ではない男性というのも新鮮だ。
ナンパ男から助けてくれた時、奇妙な親近感を覚えたという理由もあったが、絶世の美女である輝夜からの感謝や謝礼を拒否するどころか迷惑とさえ受け取れる態度を取られたのが、逆に嬉しい。
下心からではなく、純粋な正義感で助けてくれた証に感じられたから。
竹取の翁と暮らしていた平穏な日々を乱したあの、下心たっぷりの男達とはまるで違う。
だから、輝夜は楽しかった。
「何だか桃太郎みたい」
着替えた紅さんの姿を見て輝夜は惚れ惚れとした。
こだわりがあるのか、紅さんは紅白の衣装にしか興味を示さず、赤い着物に、白い羽織と袴を試着した。
白い長髪も頭の後ろでくくってマゲのようにしているが、長さのせいもありどちらかというとポニーテールだ。
後はハチマキと、お腰にきび団子をつけて、日本一の旗を背負えば、昔話の桃太郎。
「よせよ、日本昔話の類は嫌いなんだ」
日本昔話の代表格でもある輝夜としては複雑な気分になってしまう。
しかもせっかくの新しいお召し物なのに、やはり紅さんはしかめっ面。
(これはなかなか手ごわいわね)
輝夜は必ず紅さんに笑顔を向けてやろうだなんて心に誓っちゃうのだ。
◆◇◆◇◆
(これは……何だ!? いったい何を企んでいる、何が狙いだ、何をするつもりなんだー!?)
我が心、混乱の極み。
桃太郎のような衣装に包んだ妹紅は、輝夜が会計をすましている間、かつてない恐怖に震えていた。
絶対に変な服を着せられると思ったのに。
絶対に試着中に姿をくらまされると思ったのに。
絶対に自腹で買わされると思ったのに。
服を新調した妹紅は、借り物の古着は後で霊夢に返さねばと包みに入れる。
押しに負けて敵からの塩を受け取ってしまったものの、これ以上馴れ合う必要もないだろう。
「世話になったな、それじゃ」
妹紅は一人スタスタと歩き出すが、そのすぐ後を輝夜がついて歩いてくる。
「まだ何か用なのか」
「今日は遊びに来たのよ。でも一人じゃ何だし、紅さんは悪い人じゃなさそうだから、一緒に遊びたいなと思って」
「わ……俺は遊ぶつもりはないぞ。ご飯を食べて、買い物して、それでしまいだ」
「じゃあ次はご飯を食べに行くのね。何がいいかしら、人里で評判の料亭があるらしいけれど」
「今日は兎鍋を食べるって決めてるんだ」
突っぱねるように言ってやった。
永遠亭の輝夜姫ともあろう者が、兎を食べるなどズバリできる訳がない。
故に! これで!
(さよならバイバイご苦労さーんッ!!)
勝利確信藤原妹紅。
「あら、美味しそうね。私もご一緒しようかしら」
「え」
なぜ快く了承したのかその理由はすぐ解った。
以前聞いた事のある兎料理屋はつぶれていた。
どうやら永夜異変以後、永遠亭の知名度が上がり、兎を食べるのはどうかという声が大きくなったらしい。
普段あまり人里に来ない妹紅は、そんな事情に疎かったのだ。
「という訳で、何か別の物でも食べましょうよ」
勝利確信蓬莱山輝夜。
ニッコリ笑顔で指差す先は高級そうな料亭だった。
(ぐぬぬ……輝夜め、知っててわざと私に恥をかかせたな!)
このまま高級料亭なんぞに入っては、自分で大金を支払うか、輝夜におごってもらうという大恥のどちらか。
服は、この服はナンパ男から助けた見返りとして何とか受け入れる事もできる。
だがこれ以上の恵みは屈辱。何とか輝夜をぎゃふんと言わせる方法はないものか。
そして妹紅は、高級料亭の反対側にある一件の店に気づいた。
「いや、アッチに行こうぜ」
「向かいのお店?」
何の店だろうと、輝夜は視線を向け、無言になった。
店の名前は『THE・ゲテモノ』だった。
育ちのいいお嬢様にはとてもじゃないが耐えられまい。
一方妹紅は輝夜を探しての放浪生活で様々な物を食べてきた。
蛇や蛙だって焼いて食べた。どこぞの神社の神々が怒りそうだ。
スズメやカラスだって食べた。どこぞの八目鰻屋と新聞記者が怒りそうだ。
毒キノコを食べた事もある。どこぞの白黒魔法使いも同じ経験がありそうだ。
草や木の根を食べた事もある。どこぞの紅白巫女も同じ経験がありそうだ。
「――ハッ! 今どこかで誰かが私の貧乏エピソードに捏造を加えやがった気がする」
「レイさん、どうしたの?」
「ババァより若い娘がいいって言ったのよ。そうよね、レイさん」
某所にて、腋を露出させた紅白衣装の男の両腕に二人の女性が抱きついていた。
片方は日傘を差した八雲紫で、片方は日傘を差したレミリア・スカーレットだ。
何でこんな事になっているのか、その物語は語らなくてもいいや。
「お待たせしましたー。イナゴの佃煮、蜂の子、マグロの目玉、サルの脳味噌。そしてメインのツチノコのかば焼きでございまーす」
蛆虫のチャーハンとかゴキブリの姿焼きとかを避けて比較的まともなのを選んだつもりである。
おかげで妹紅が恐れる物は何もない。せいぜいサルの脳味噌はさすがに初体験なのでドキドキという程度だ。
かば焼きは、普通の蛇なら経験があり、ツチノコは初めてだけれども、そう違いはなかろう。
ともかくこれで輝夜は涙目確定。ざまあかんかん!
輝夜は瞳を輝かせて言いました。
「まあ、懐かしい。こういった物を食べるのは何年振りかしら」
妹紅は口をへの字にして叫びました。心の中で。
(おいぃぃぃッ!! 月の食糧事情どうなってんのぉぉぉぉぉぉッ!?)
輝夜が懐かしむ、イコール、月の民が普遍的に食べているという事だろう。
まさかのゲテモノ大好き一族か。どこらへんが高貴な連中なのかさっぱりだよ。
「お、お前……こういうの、好きなのか?」
恐る恐る妹紅が訊ねてみると、輝夜はうっとりとした表情で答える。
「ええ。昔、私をお世話してくれたお爺さんとお婆さんが、よく食べさせてくれたの。野山から食料を調達してくれてね……お婆さんは料理が上手だったわ」
妹紅はじたんだを踏みたい気持ちを抑えるのに必死になりながら、手に持った箸を振るわせる。
(竹取の翁ぁぁぁッ!! お前達いったいどんな食生活送ってたんだぁぁぁぁぁぁッ!? 竹の中から金を見つけて豊かに暮らしていましたって設定はどうしたァァァアアアンッ!!)
こうして妹紅にとってはたいして美味くもない物を食べるひとときが。
輝夜にとっては味の良し悪しよりも懐かしさを感じる物を食べるというひとときがすぎるのだった。
◆◇◆◇◆
(まさか、私が普段食べたくても永琳達が食べさせてくれない物を選んでくれたんじゃ……なんてね)
紅さんの気遣いだと思えば心地いいが、そうではないだろうとも理解はしている。
輝夜から逃れたがっている節が見て取れるので、お嬢様では食べられないようなゲテモノをという作戦だったはず。
それを理解しながら、別に構わないと輝夜は思う。
必要ないというお礼をするためしつこくしたのは自分だ。
お礼をしたい理由は自分の娯楽のためと言っても過言ではない。
この熱い胸の鼓動を、もうしばらく感じていたいから。
「ねえ紅さん、次はどこに行く?」
「まだついてくる気かよ、お前……」
「そろそろ名前で呼んで欲しいわ」
「呼ばねーよッ」
無愛想な態度が、これまた妙に可愛らしい。
着ていた服や口調から、たいした家の生まれでないだろうとは思うものの、ゲテモノ料理を食べている時の箸運びや何気ない仕草に気品を感じる時もある。
そして少女のような愛嬌も隠し持っていて、様々な要因が混ざり合っていてとても面白い人物だ。
「次は本屋さん? でも、今買ったら荷物にならないかしら」
「なってもいい。買ったら帰るから」
「そうなの。じゃあ本屋はやめて、どこか遊びに行きましょう」
「何でそうなるんだ」
「もっと遊びたいもの。それとも紅さんの家で囲碁か将棋でもする? 花札や麻雀でもいいわ。
家はこの辺りなのかしら。人が住むのは人里ですものね。どんな所?」
「黒髪の女は入っちゃいけないってルールの家」
「楽しそうなお宅」
もちろん、そんな話は信じたりしない。
家までついていって、どんな風か確かめるのもいいかもしれない。
輝夜を置いて先に行こうとする紅さんの後を、軽やかな足取りで追いかける。
「ねえ。紅さんって、なかなか男前よね。良い人はいらっしゃるの?」
「いるよ、いるいる。浮気と思われると迷惑だからどっか行っとくれ」
「本屋はそこよ」
目的地を数歩通りすぎていた事に気づいた紅さんは、バツの悪そうな顔で振り返ると無言で本屋に入った。
まさか自分を遠ざけるために春画本なんか買おうとしないだろうかなんて想像しながら輝夜も続く。
小説コーナーで立ち止まった紅さんは、一冊の本を取って立ち読みを始めた。
「買いに来たんじゃないの?」
「買いに来たんだよ。でも面白いかどうか、ちょっと読んでみてからだ」
「ふぅん」
お金の節約というものか。
輝夜は普段、読みたい本は鈴仙あたりに買いに行かせるし、つまらなかった本は突っ返すだけだ。
多分、そういった本は古本屋に行くか、その本を読みたがっている誰かに無料進呈するかだろう。
(贅沢ではなく、無駄遣いをしているのかしらね……)
殊勝な精神の芽生えた輝夜は、とりあえず紅さんの真似をして面白そうな本を探して立ち読みをしようと決めた。
紅さんは『ポケットの中の恋愛』という本を読んでいた。顔に似合わず恋愛小説が好きなのか。
自分も何か小説を立ち読みし、面白いと思った本だけ買うという経済的な行いをしてみようか。
しばらく本を見て回って、目に留まった題名が『新説・桃太郎伝説』だった。
桃太郎のお話は輝夜も知っている。
なよたけのかぐや姫たる自分が幻想郷にいるのだから、もしかしたら桃太郎の関係者も幻想郷にいるかもしれない。
さっそく本を手に取って、裏表紙にあるあらすじに目を通す。
『桃太郎が三匹のお供や金太郎に浦島太郎などを仲間に加えて再び鬼退治に旅立った!』
混ざりすぎだろう、しかも再びって事はすでに一度鬼退治済みか。
輝夜は苦笑を浮かべつつも興味を惹かれた。
もしかしたら他の昔話や童話の登場人物も登場しているかもしれない。
例えばそう、乙姫とか、織姫とか、かぐや姫とか……。
自分が出ているかもしれない。しかもこんなごちゃ混ぜ小説に。
興味が倍増した輝夜は、さっそく本を開く。
表紙買いしてもいいくらいだったが、どんなお話なのか今すぐ読んでみたい気持ちもある。
五分ほど経って、輝夜は『新説・桃太郎伝説』を買おうと決めた。
「ねえ紅さん、私はこの本……を……」
店内を見回して、ようやく、輝夜はハメられたのだと気づいた。
立ち読みを誘い、立ち読みをしている隙に、逃亡。
即座に輝夜は勘定台へ赴き、店員に紅さんの行方を訊ねた。
どうやら三分ほど前に本を一冊買って出て行ったらしい。
三分。追いかければ見つけられるかもしれない。
「ありがとう。お釣りは要らないわ」
多目に支払いをして、輝夜は『新説・桃太郎伝説』を抱えたまま外に飛び出した。
右を見る。
左を見る。
桃太郎ルックの白いポニーテールは、もうどこにもいなかった。
◆◇◆◇◆
結構面白そうな小説が買えたし、輝夜をまく事ができた。
ニヤニヤと笑いながら街を歩く。
見つからないうちに退散しようという魂胆だったが、道中ふと目に留まるものがあった。
何の変哲も無い茶店である。
こんな所で時間をつぶしては輝夜に見つかる恐れもある。あるのだけれど、だが、しかし。
軒先の長椅子に座っている彼に向けて妹紅は声をかける。
「……何してんだお前、こんなトコで」
「……団子食ってんのよ」
無愛想な返答をしたのは、腋丸出しだが袖はちゃんとある紅白衣装に身を包んだ男性化霊夢だった。
妹紅同様、新しい綺麗な服に着替えている。もしかしなくても、隣に座っている奴等が買ったに違いない。
髪は特に結んだりしていないようだ。妹紅ほど外見に気を遣っていない様子、紅白腋出し以外は。
「あら、レイさんのお友達?」
「ふぅん、そいつもなかなかいい男じゃない」
日傘を差した八雲紫が、みたらし団子を霊夢に向けて差し出していた。
日傘を差したレミリアも、草団子を霊夢に向けて差し出していた。
いわゆる「あ~ん」をやりたいらしいが、霊夢は自分の手できび団子を食べている。
(霊夢だからレイって名乗ってるのか。安直だけど、人の事は言えないな)
自嘲しながら妹紅は初対面という設定になるだろうスキマ妖怪と吸血鬼に挨拶する。
「俺は紅。レイの奴とは、まあ友達みたいなもんだ」
「紅?」
名前を聞いて眉をひそめたのは、友達設定のはずの霊夢だった。
お互い、男の時の呼び名を知っておいた方がいいと思ってわざわざ自己紹介したのに、そこで不思議がるなと妹紅は小さく舌打ちする。
だが紫もレミリアも、妹紅にはさして興味を示さず、名前もどうでもいいようだ。
「それにしても、両手に花だなお前」
「両手に団子の間違いじゃない? 私はのんびり食べたいんだけど」
どうやら霊夢は男の姿でも口調を変える気は無いらしいが、それほど違和感を覚えない。
男でも「ですわ」「なのよ」といった言葉は使うので、口調さえ女々しくなければ不自然には聞こえまい。
「あんたも食べてく?」
霊夢に誘われて、妹紅はしばし悩んだ。
ここでちんたらしていたら輝夜に見つかってしまうかもしれない。
だが、美味そうな団子を見ていると食欲が湧き上がる。
胃袋の中身があのゲテモノばかりだというのは何だか悲しいものである。
「じゃあ、ちょっとだけ」
霊夢の両側は埋まっていたので、空いているレミリアの隣に座ると、深紅の眼差しが向けられた。
「あなたにはおごらないわよ」
「自分で払うよ。には……って事は、お前はおごりか」
幸いレミリアがちびっこのため、その頭上を通して霊夢に視線をやると、どうでもよさそうな表情で振り向いて答えた。
「まぁね。で、あんたは何を頼むの?」
「わた……俺は、そうだな……きび団子でいいや」
桃太郎みたいと輝夜に言われた服装を思い出して、妹紅は笑った。
輝夜が言った事だったけれど、隣にいるのが輝夜でなければ笑えるのかもしれない。
「そう。すいませーん、きび団子ふたつ」
注文は霊夢がした。どうやら自分もきび団子をおかわりするつもりらしい。
「ところで、貸したはずの私の服は?」
「後で返そうと思って、まだ持ってるよ。この中」
ポンポンと包みを叩く。古着の上にはさっき買った小説も入っている。
「あら、服を貸し借りする関係なのね」
妖しい口調が霊夢の向こう側、紫から聞こえてきた。
「ま、まあ男同士だから、それくらいな」
ぎこちない笑みで妹紅は誤魔化した。霊夢はのんびりお茶を飲んでから、目線を寄越す。
「荷物になるのも嫌だし、返すなら後にしてよ」
「解った。霊……レイこそその服はどうした」
「気がついたら着てた」
嘘などついてませんというような真っ直ぐな口調だったが、抗議の声を紫とレミリアが上げる。
「あら、私達が見繕って上げたんじゃない」
「そうよ! その腋出し服を電光石火で仕立てさせるのに幾ら積んだと思ってるの!」
(その腋、お前等の仕業か)
「ああ、レイさんの腋の美しさ……本当、霊夢に勝るとも劣らない」
(そりゃ本人だしなぁ)
「レイの腋フェロモンのかぐわしさといったら……ホント、霊夢に勝るとも劣らない」
(霊夢の危険が危ない。by青狸)
まさか当人に聞かれているとは思わず、その後も紫とレミリアの気色悪い発言は続いた。
紫は"レイ"の住所やプロフィールを詳しく訊ねたし、レミリアは紅魔館に腋出し執事として雇いたいと誘う。
どれもこれも華麗に流す霊夢に感心しながら、妹紅はきび団子を頬張った。うん、美味い。
「もーもたろさん、ももたろさん。お腰につけたーきび団子ー。ひっとつー私にくださいな」
突然妹紅の隣から歌声がした。レミリアではない。反対側にいつの間にか、輝夜が。
「うひゃあっ! ななな、何でここに!?」
「全力で探せば数秒とかからず見つけられるし」
しまった、と妹紅はうなだれた。
輝夜は『永遠と須臾を操る程度の能力』を持つ。
これではいくら逃げてもすぐ見つかるに決まっており、のん気に団子を食べていた以前の問題だ。
こうして茶店の長椅子に、端から順に輝夜、妹紅、レミリア、霊夢、紫が座るという凄まじい光景が誕生した。
視線を感じて振り向いた妹紅は、霊夢と目が合う。
(妙な奴に絡まれてるわね)
(お前には言われたくない)
一瞬のアイコンタクト。
そして同時につくため息。
この調子じゃ魔理沙もどうなっているやら。
どうなっているかというと、妹紅と霊夢のいる茶店の前を全速力で走り抜けていった。
妹紅達には気づかなかったようだ。カリスマ三人いても気づかないとは。
直後「待てー! 泥棒ー!」と叫ぶアリスが怒りに目を血走らせて追いかけていった。
やはり妹紅達には気づかない。
何やってんだあいつは、と思い何となく天を仰ぐとパチュリーが空を飛びながら男性化魔理沙を追跡していた。
本当に何やったんだ魔理沙は。
そんな騒ぎに、レミリアと紫と輝夜は気づかない。
「ほらレイさん、湯飲みが空よ。私が注いで上げるわ。隠し味は真心よ」
「レイ、あなたのために紅白腋出し執事服のデザインを即興で考えてみたのだけど」
「紅さん紅さん、きび団子を食べてる理由ってやっぱり私が『桃太郎みたい』って言ったから? クスクス、可愛らしいところがあるのね。もっとも私は犬でも猿でもないし、雉というより孔雀かしら」
カリスマ三人衆の気色悪さに、妹紅は軽い目まいを起こした。
霊夢も輝夜が加わった事で、直接的に自分が狙われていないにしても、許容量をオーバーしたのかげんなりとした表情で団子を食んでいた。
男性化すると妙な奴につきまとわれる呪いでもかけられてしまうのだろうか。
◆◇◆◇◆
茶店から出て二人きりに戻った輝夜は、満面の笑顔を浮かべている。
「さあ、次はどこへ行こうかしら」
「おい……いつまでつきまとう気だ」
「せっかくのデートなのだし、日が暮れるくらいまでは遊びましょうよ」
「待てい。いつからデートになった、デートに」
「しつこいナンパから助けられた瞬間から」
「随分と"尻軽"な女だなー」
「紅さんが特別なだけよ」
「口説く時は、みんなそう言うんだ」
「じゃあ言い換えるわ。お尻が軽いっていうのは、スレンダーで可愛いって解釈していい?」
「勝手にしろ」
「勝手にする。それで、どこに行く? 楽しい所がいいわ」
「……じゃあ、楽しいコトをしに行くか?」
意地の悪い笑みを向けられて、輝夜はこれまた面白そうだと思いうなずくのだった。
ゲテモノ、立ち読み、はてさて次はいったい。
「高貴なる私に相応しき、これがロイヤルストレートフラッシュ!」
幻想郷にも賭博場はある。
ただ、外の世界からやって来た人間が伝えたものの中にカジノというものがあった。
違いは呼び方が日本語か外来語かという程度だが、賭け事の内容がまったく違った。
賭博と言えば丁半博打が華である。
だがカジノで行われるのはトランプを用いた様々なカードゲームや、河童に頼み込んで製作してもらったスロットマシンやルーレットまであるのだから侮れない。
こうしてカジノという新しい賭博の場は受けた。
「あの嬢ちゃん、さっきブラックジャックやってたが、ブラックジャックを三連続で出してたぞ」
「俺が見た時はルーレットで一目賭けしてたぜ。三勝七敗だったが配当を考えると……いくら稼いだんだか」
輝夜はあくまでお遊びとして小金しか賭けていない。
しかしあまりに勝ちすぎるので、頭が隠れるほどのチップの山を積んでいた。
「ビギナーズラックってレベルじゃねぇ……」
ギャンブル狂という訳ではないが、嗜む程度にはやっている紅さんは完全に自信喪失だ。
ついさっき、ブラックジャックでバーストを三連続で出してしまっている。
ルーレットも赤・黒で賭けたのに三連続で負けた。配当は二倍の簡単な奴だ。
奇数・偶数で賭けて三連続で負けた。配当は二倍の簡単な奴だ。
前半・後半で賭けて三連続で負けた。配当は二倍の簡単な奴だ。
やはり大金を賭けてはいなかったが、こうも負けが続くと出費が手痛い。
「やったわ紅さん! また勝った! ギャンブルって楽しいわね」
「そりゃよかったな、配当幾らだ」
紅さんはブタのカードをテーブルに放って立ち上がった。
負けっぱなしで相当機嫌が悪いらしい。
「次は何をやるの?」
と、輝夜も立ち上がる。基本的に紅さんがやろうとしたゲームにくっついて参加し、圧勝しているのだ。
「そうだなぁ……ゴキブリレースでもやるか」
「ゴキブリ?」
「隅っこでやってる」
紅さんが席を立ったので輝夜も後に続こうとし、大量のチップに気づく。
手近にいたバニーガールに、大きい額のチップと交換してゴキブリレースの所まで持ってくるよう頼み、置いていかれないよう慌てて後を追いかけていく。
カジノの隅の方では行くと、細長い台を何人か客が囲んでゲラゲラと笑っていた。
どうも他のギャンブルとは雰囲気が違うようだ。
「最初はネズミレースだったんだが、妙に甲高い声をしたネズミ妖怪からの苦情で禁止になったらしい」
「それは禁止せざる得ないわね」
「その後も色々と試したそうだが、紆余曲折を経てゴキブリに落ち着いたそうだ」
「ふーん。レースって事は……」
「ご覧の通りさ」
細長い台は、板で直線のコース十本に区切られており、その上はゴキブリが逃げないようガラス張りになっている。
スタート地点にゴキブリを閉じ込め、コースとを区切っている板だけを引き抜き、どの番号のゴキブリがゴールするか、その順番を当てるゲームだ。
賭け方は一着だけを当てる物もあれば、一着と二着を当てる物など、様々だ。
程度の低い競馬のようなものである。
「活きのいいゴキブリを選ぶのが勝利の鍵ね」
意外や乗り気の輝夜だが、ゴキブリを怖がらないお姫様というのは可愛げがない。
「あー……そういうんじゃなくてだな。まあいいや、とりあえずゴキ券でも買うか」
紅さんは次のレースのゴキブリの様子をいちべつだけすると、七―三のゴキ券を購入した。
その間、輝夜は真剣な面持ちでじっくりとゴキブリの様子を探る。
七番。狭いスタート地点の中を這い回っている。
三番。何だかおとなしい。やる気が無いのか?
八番。これも動かないが、真っ直ぐゴールの方向を向いている。
「おい、お前は何番にする?」
「私は八番一点買いよ」
丁度バニーガールが輝夜の分のチップを持ってきたので、そのうちの数枚をゴキ券にした。
最上級のゴールドチップだったので、他の客がどよめく。
そして二人はレースの開始を待った。
レースが始まった。
「行きなさい八番! もっと速く、急いで! やればできる、やらねばできぬ何事も!
あ、止まってどうするの止まって! 違う、ゴールを見据えるのよ! 走れ! GOよGO!
七番が迫ってる迫ってる急いでアッ、アッ、アッ、抜かれる、抜かれた! 八番! 八番ッ!!
そうよ、その調子、もっと、ああ、距離が、もう残り、急いで、ラストスパートラストスパート!
行け行け行け! ゴキブリでしょ!? もっと速くカサカサと足を動かして、行け、行け行け行け!
行ったァ~~~~~~~~~~~~~~ッ!! ゴォォォォォォ~~~~~ッル!!」
勝った。
「やった、やったわ紅さん! 八番が勝ったわ! 私の勝ちよ、大勝利ッ!!」
おおはしゃぎで紅さんの肩を揺すり、勝利の喜びをあらわにする輝夜。
口元を押さえてうつむいていた紅さんは、くつくつという笑い漏らしたかと思うと、大きな口で「あひゃひゃひゃひゃ」と笑い出した。
同時に、ゴキブリレースに参加していた他の客達もいっせいに笑い声を上げる。
輝夜は、事態が飲み込めずキョロキョロと周囲を見渡した。
「あの……紅さん、私、何かおかしな事を言ったかしら? 八番が勝ったはずよね?」
「あひゃひゃあひゃあひゃあひゃひゃのひゃ。おま、お前な~、たかがゴキブリレースで真面目になりすぎ」
「え? えっ?」
紅さんは瞳の端に涙まで浮かべるほど受けており、腹を抱えて笑っている。
答えてくれたのは、紅さんではなく他の客達だった。
「お嬢ちゃん。ゴキブリレースってのは、いわゆるアレよ。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々……って奴よ」
「たかがゴキブリに金を賭ける阿呆を笑うのがメインで、勝ち負けなんぞ二の次だな」
「勝てば笑われ、負けても笑われ、とにかくみんなで馬鹿やってとにかく笑えってもんよ」
「お嬢ちゃんがやけに真剣に応援しやがるもんだから、ゴキブリよりそっちの方が面白かったぜ」
「よぉ兄ちゃん、こんな愉快な彼女がいて、おいちゃん羨ましいよ。いよっ、色男!」
馬鹿にするのと感心するのと、二重の意味での大笑いの中、輝夜は頬を朱に染めてうつむく。
確かにゴキブリに声援を送る自分って、熱心に応援する自分って、物凄い間抜けな構図だ。
「あっはっはっ……お前って、意外と可愛いトコあるんだな……あひゃひゃ、うひひ」
だけど紅さんの笑い声は他の客達のそれと違い、心地よかった。
どうしてそう思ったのか、輝夜には解らない。
意外なものを見たといった風だから、最初から笑いものにするつもりだった訳じゃなさそうだ。
馬鹿にする、滑稽だから笑う、そういう種類の笑いじゃない。
本当に、ただ純粋に驚いたとか、楽しいから笑っているのでは。
そんな気がした。
◆◇◆◇◆
今日の自分はどうかしている。
輝夜と一緒に遊んで、楽しんでいる? ああ、ヤダヤダ、正気の沙汰じゃない。
それでも、もう輝夜を邪険にして追い払おうとかいう気は綺麗サッパリ無くなってしまっている。
何とも不可解なこの現象、きっと男性化が精神に悪影響を与えているのだろうそうだろうそうに違いない絶対に。
カジノを出た妹紅は、輝夜のおごりで焼き鳥屋に直行した。
どうせギャンブルで得たあぶく銭、パーッと使ってしまおうという輝夜の意見に同調したのだ。
服を買ってもらうのでさえ葛藤があった妹紅だが、今はそんなもの、わずかにも感じない。
たらふく飲んで食べた二人は、ほろ酔い気分で日の暮れた街を歩いていた。
「ああ、風が気持ちいいな」
「そうね」
手を繋ごうと思えば繋げそうな距離で、時折輝夜が意味深な視線を向けてくる。
だが妹紅はその意図が掴めず、しかし不思議と不快ではなかったため、特に気にかけなかった。
本当に酔っているようだ。酷い酔いだ。輝夜とこんなひとときをすごせるだなんて、悪酔いにも程がある。
(でも、まあ、いいかな……)
永遠という一生の中の、ほんの一日くらいは。
妹紅であって妹紅ではない、紅さんという男の、ポケットの中に入ってしまうような小さな思い出。
「ねえ、紅さん」
「ん?」
「今さらだけど、紅さんって何をしてる人?」
「何だよ、急に」
「別に、何となくよ」
「そうさなぁ、遊び人の紅さんたぁ俺の事よ」
「桜吹雪の刺青が?」
「健康マニ……いや。通りすがりの……たいやき屋さんよ」
つい、焼き鳥屋だと言おうとしてしまい適当に違う食べ物の名前を出した。
妹紅が『健康マニアの焼き鳥屋』を自称している事は輝夜も知っているだろう。
「へえ、たいやき屋さんなんだ。今日は休業日?」
「ああ、そんなとこ」
「今度食べに行きたいわ。お店はどこ?」
「自分で探してみな。見つけたらおごってやるよ」
「宝探しみたい。ふふ、それもいいわね」
「ああ、探してくれよ」
絶対に見つからない。
自分はたいやき屋なんかじゃないし、紅さんは今日一日限りの幻だ。
でも、もしそのありもしないたいやき屋を見つける事ができたなら、その時の自分が宿敵藤原妹紅でもちゃんとおごってやろうと密かに誓う。
「よう、楽しそうだな」
水を差す声は、わずかに聞き覚えがあった。
振り向けば十人ほどのガラの悪い男達。うち、一人は頬に擦り傷があった。
輝夜をナンパしていたあの男だ。蹴飛ばされた時に顔面から地面に突っ伏した間抜け野郎で間違いない。
不穏な気配に、街の人々は道の端に逃げるか、道を迂回するなどし、助力しようという者はいなかった。
もっとも妹紅は助けなど必要とするタイプではない。
「よう、女にモテないから男色に走ったのか? 彼氏がいっぱいいて羨ましいな」
長く生きていれば、嫌な奴に絡まれる事も多い。妹紅はもう慣れている。
普段なら軽くあしらうのだが、今は明らかに不機嫌を作り挑発で返す。
「てめぇ、この人数相手にいい度胸してるな。いい女を掴まえていい気になってんじゃねーか」
「いい女? そんな奴、どこにいるんだ。まさかコレか?」
唇の両端をこれでもかと釣り上げた妹紅は、輝夜の頭をポンポンと軽く叩く。
「紅さん、コレは酷いわ」
「へっ、ゴキブリに夢中になる女をいい女とは呼ばねーよ。それに、いい女は鼻について嫌いだ」
いい女ではないから嫌いではない、とも受け取れる言葉に輝夜は内心複雑ながらも頬を染める。
夕陽のせいでそんな些細な変化に気づく者はいなかったが。
「ここでヤるのか?」
輝夜をかばう、と言うよりは喧嘩するために前に出る妹紅。
実際、自分と殺し合える輝夜をかばう必要性など一切感じていない。
それよりも、心地よい時間を邪魔したこの連中をしばき倒したかった。
「たった十人ぽっちとは、見くびられたもんだ」
「オツムがイカれちまったのか? この人数相手に、何ができるっていうんだ」
下卑た笑いを向けられた瞬間、妹紅は構えも取らず無造作に詰め寄ってきた。
「ボロッカスにぶちのめす」
男達がかかってくる。
(多対一か)
凶暴な表情とは裏腹に、妹紅の精神は冷静だった。
多対一の戦い方は幾つかある。
一対一の状況を作り人数分戦ったり、雑魚から確実に数を減らしたり、真っ先にリーダーを倒したり。
だが妹紅に作戦などなかった。全員真正面から叩きつぶす。それだけだ。
まず最初に殴りかかってきた威勢のいい男の膝にかかとを叩き込む。
膝の皿が砕けない程度に加減したが、男がよろめいたついでに掌底で顎を跳ね上げてやった。
続いて左側から迫ってきた男の拳を、頭を振って避けると同時に頭突きを鼻っ柱に叩き込む。
ついでに左の肘を鳩尾にお見舞いしてから、掻き分けるようにして倒した男の間を抜ける。
あまりの早業に驚いて身をすくませた奴が目の前にいたので、素早く手首を掴んで捻ってやる。
カエルのような悲鳴を上げるそいつと身体の位置を入れ替えて、横合いから殴りかかってきた男に対する盾とする。
仲間に殴られた哀れな男の首筋に手刀を入れてから突き飛ばし、殴った方の男の股間に膝をめり込ませてやる。
気色悪い感触に舌打ちをしながら、背後から掴みかかろうとしてきた男を振り向きざまの裏拳を打ち込む。
頬を打たれてよろけたところ男の足をかかとで力いっぱい踏みつけ、右のストレートで顔面を打ち抜く。
一瞬の間に半数をやられて、リーダー格のあのナンパ男がうろたえる。その隣にいる男二人も引け腰だ。
藤原妹紅。怨敵輝夜を追う過酷な旅路で、一通りの戦闘技能は十二分に習得している。
さらに今は男の肉体。筋力だけはそれなりに向上している。
「ま、若いうちは何事も経験だ。馬鹿やって、痛い目に遭って、それを教訓にマシな大人になるんだな」
すでに勝利の笑みを浮かべている妹紅。だがナンパ男も、ふいに引きつった笑みを浮かべた。
「へへ、てめぇこそ状況解ってんのかよ」
「圧勝真っ最中……だろ?」
「後ろ見てみな」
罠である可能性など考えず、妹紅は振り向く。
すると、輝夜がナンパ男の仲間二人に捕まっていた。
「形勢逆転だな。その女に手を出されたくなかったら……」
「おい、輝夜」
脅し文句を無視して、妹紅は薄笑いを浮かべる。
男に捕まって、縮こまっていた輝夜がハッと顔を上げた。
「やっちまえ」
同時に、輝夜を掴まえていた男が縦に一回転して背中から地面に叩きつけられる。
「もう、せっかく紅さんに助けてもらおうとおとなしくしてたのに」
と、もう一人の男の足を軽く払って後ろに倒おすと同時に肘を顔面に打ち込んで、倒れる勢いを加速させてやる。
ナンパ男と、残り二人の男は口をあんぐり空けて呆然としていた。
輝夜は残念そうにうつむきながら、上目遣いを妹紅に向けた。
「いつから気づいてたの? 私の実力」
「さあて。いつからだろう、な……」
妹紅は苦笑し、思い出す。
迷いの竹林を初めて紅蓮に染め上げた日の事を。
(お前と初めて殺し合った時から知ってたよ、輝夜)
その殺し合った仲の二人が、輝夜は紅さんの正体を知らぬとはいえ、手を結んでいる現在。
倒した雑魚を気にも留めず、力強い相棒として妹紅の隣に立つ輝夜。
「残り三人、どう分配する?」
「あいつは一度、紅さんがこらしめてるでしょ? じゃ、次は私の番ね。木っ端は任せていい?」
「軽く蹴散らしてやるか」
同時に疾駆する妹紅と輝夜。
妹紅の抜き手が取り巻き一人の脇腹をえぐり、苦しみ喘いで前のめりになったところで、首筋に肘鉄。
そのまま倒れた男を飛び越えて、もう一方の取り巻きの顔面にドロップキックをぶちかます。
すでに逃げ腰になっていた男はモロに蹴り飛ばされて倒れ込んだ。
◆◇◆◇◆
紅さんが二人の男を倒すのとほぼ同時に、輝夜は真正面からゆったりとした仕草で歩み寄った。
ナンパ男が背中を向けて逃げ出そうとするや、以前紅さんがやったように尻を蹴飛ばして地面に突っ伏させる。
「あまり服を汚して帰ると怒られちゃうし、このくらいで勘弁して上げるわ」
ふわりと笑って見せる輝夜。
何だかんだで妹紅との出逢いのきっかけとなったナンパ男にそれほど敵意は抱いていないし、今は機嫌もいい。
なぜなら。
「腹ごなしの運動にもなりゃしない。なあ、どっかで飲み直すか?」
こちらを振り向いた紅さんに向けて、輝夜は袖で口元を隠して笑う。
「何だよ?」
「紅さん、さっき初めて私の名前を呼んでくれたわね。輝夜って」
カァッと紅さんの頬が染まったように見えたのは、夕陽のせいではないはずだと輝夜は確信していた。
こんなにも格好よく、可愛らしい紅さん。一緒にいると本当に退屈をしないですむ。
輝夜にとって、月の脅威を考えなくてよくなった今、一番の敵は退屈だ。
退屈で人は殺せる。生きる気力をそぎ落とされていくのだ。
しかし蓬莱人は決して死なない。永劫の退屈は生き地獄も同然である。
だから、輝夜は紅さんの事を好きになった。
「紅さんって時々女の子みたいになるところが可愛いわ」
「な、何言ってんでい。オイラは生まれも育ちも根っからの日本男児でごぜえやすぜ」
「これは予想以上のうろたえっぷり。やっぱり紅さんって面白いわ」
もっと紅さんの事をよく知りたいと思ったが、知らない方がこれからも楽しめるのではとも思う。
「いいから、とっとと行こう」
誤魔化すように紅さんは言い、輝夜の手を掴んだ。
思いがけぬ出来事。手を繋ぐという、ただそれだけで、音が聞こえるほど大きく心臓が鳴った。
紅さんは気づいていない、輝夜の頬が朱に染まっている事に。
紅さんは気づいていない、思わず顔をそむけた輝夜が気づいた事に。
輝夜に蹴り倒されただけのナンパ男は懐から取り出したドスを引き抜いて、振りかぶって。
紅さんの手を振り払い、輝夜は反射的に刃へと手を伸ばした。
凶刃は紅さんの背中に向けて振り下ろされようとしていたが、直前で輝夜の白い美しい手から赤が散った。
一拍遅れて振り返り、事に気づいた紅さんは、拳を振り上げ――。
夕陽が見せた錯覚だったと思う。
紅さんの拳が紅蓮をまとって、ナンパ男の顔面を殴り飛ばしたように見えた。
けれど手を斬られた痛みで視界がかすんでいたし、ふっ飛ばされたナンパ男は道の端に置いてあった水桶に頭から突っ込んでしまい、顔にどんな傷跡ができたかどうか確認できなかった。
「馬鹿野郎、何してんだ!」
紅さんは怒鳴りながら長い後ろ髪を結んでいた布を解き、輝夜の手に巻きつける。
「イタタ……大丈夫よこれくらい。こう見えて頑丈にできてるから」
「解ってるよ! けど、そういう問題じゃないだろ!」
解ってる、とはどういう意味だろうか。蓬莱人の秘密はあまり知られていないはずだ。
この程度の傷、本当に手当てする必要すらないのに。
妹紅との殺し合いで、致命傷を負った事も何度か――。
再び、夕陽が幻を見せた。
夕陽の中で輝夜の手当てをする紅さんの横顔が、髪を下ろした紅さんの姿が、藤原妹紅と重なった。
パチクリと何度かまばたきをしている間に手当ては終わっており、紅さんがいぶかしげな表情を向けていた。
「どうした、まだ痛むか?」
「あ、いえ……もう大丈夫」
「そうか」
そう言うと紅さんは、傷ついていない方の輝夜の手を取ると、引っ張るようにして歩き出した。
輝夜も周囲に倒れている男達や、遠巻きに見ている街の人々に気づき、早く離れた方がいいと歩を進める。
ただ喧嘩の現場から離れるためだけに適当に街を歩いて、日がもう沈もうとし、街に明かりが灯されていく。
薄暗くなってきて、ようやく、紅さんは立ち止まった。
「……ゴメン」
「え? ああ、手の傷ならもう治ったから気にしないで」
「そうじゃなくて……」
紅さんはうつむいていて、表情を見せないまま続けた。
「助けてくれたのに、馬鹿野郎とか言っちゃって」
「そんなの、気にしてないけど」
「でも、ゴメン」
「そうね、じゃあ、キスしてくれたら許して上げる」
悪戯っぽく言ってやると、効果覿面、ぎょっとした表情で顔を上げる紅さん。
「いや、でも、それは……」
「うふふ、冗談よ」
あまりにも簡単に引っかかったので、輝夜はつい吹き出してしまった。
それを見て、紅さんは深々とため息をつく。
「……ったく、そういう冗談、やめろよな」
――半分、本気だったのだけど。
口から出かかった言葉を飲み込んで、輝夜は微笑んで見せる。
すると、紅さんもやわらかい微笑を返してくれた。
この男に笑顔を向けられてみたくて、強引にくっついて回った。
実際に笑顔を向けられて、輝夜は絞めつけられるような胸苦しさを感じる。
息ができなくなって、顔が熱く、足が震えて、でも、嫌な気分じゃない。
「……紅さん、私……」
自分が何を言おうとしているのか、輝夜には解らなかった。
ただ、心の奥底から込み上げてくる感情を吐き出してしまえば、もう後戻りできない気がした。
本当に言ってしまうのか? 何を言おうとしているのか?
解らないけれど、言葉はもう、唇を割って出ようとしていて。
「慧音」
突然、その言葉が消え去ってしまった。
紅さんが呟いた、その表情を見てしまって。
それから、彼が口にした名前に覚えがある事に気づき、彼の視線を追う。
買い物袋を持った上白沢慧音が、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。
紅さんと知り合いなのだろうか。どんな関係なのだろうか。
彼女の名前を呼んだ時、彼の表情はとても安らいでいて、たった今見せてくれたばかりの微笑みが霞んでしまうほどで。
「お前は……」
慧音はわずかに眉をひそめ、紅さんは慌てた様子で、掴んでいた輝夜の手を放し、しどろもどろになる。
「あ、あの……わ、俺は、その……紅さんという通りすがりのたいやき屋さんで」
まるで、想いを寄せる女性に思いがけず出会ってうろたえているかのような、態度。
あるいは、その通りなのかもしれない。
慧音は目をしばたかせると、やわらかい微笑を浮かべた。
「ああ、紅さんか。今日は随分とけったいな姿をしているな」
「えぇっ? あー……その、新しい服で……似合う?」
ぎこちない笑みで、まだ狼狽したままの紅さんに対し、慧音は落ち着いたものだ。
「うん、似合ってるよ。似合ってるけど、いつもと違いすぎてな」
「そうか、そうかな。うん」
「こんな時間だが、よかったらうちでお茶でも飲んでいかないか」
「いいの? 助かるよ」
「歓迎しよう。輝夜、あなたも来るか?」
慧音に声をかけられ、輝夜は慌てて布を巻かれた手を後ろに隠した。
「結構よ。あなたとまで馴れ合う気は無いわ」
「そうか、残念だ」
「私はもう帰るところだし。妹紅によろしくね」
そう言い捨てて、輝夜は逃げるように走り出した。
胸のうちで渦巻いている感情の正体が何なのか解らなかったが、これ以上二人が一緒にいる姿を見ていたくなかった。
「ま、待った!」
けれど、後ろ髪を引かれる思いで立ち止まってしまう。
切迫した紅さんの声のせいで。
背中を向けていても、彼の瞳を覗きたい衝動を必死に抑える。
矛盾めいた熱い胸のざわめきが酷く息苦しくさせる中、続く紅さんの言葉を待った。
「か、輝夜。その……またな」
またな。か。
「いいえ紅さん、さよならよ」
本当に言いたかった言葉は何なのか。
走り出した輝夜には、もうどうでもいい事だった。
◆◇◆◇◆
熱いお茶を飲んで、妹紅は深々と息を吐いた。
「ふーっ、疲れた……」
「しかし、残念だな。もう夕食はすませているのか」
「晩酌くらいにはつき合うよ。今日、泊まって行っていい?」
「ふふっ。若い男を泊めたりしたら、どんな噂が立つやら」
「大丈夫、朝には元に戻ってるよ」
お茶をもう一口飲む妹紅、その対面では慧音が急須でもうひとつの湯飲みにお茶を注いでいた。
「ところで妹紅、その姿はいったいどうしたんだ」
「ああ、昨日、神社に泊まってきたんだけど……晩飯に出たキノコがさぁ」
事情を話し終えた妹紅は、湯飲みを空にしてから、真っ直ぐに慧音の微笑を見つめた。
「でも、よく解ったな。男になってたのに、私が妹紅だって」
「解るさ、妹紅だもの」
「ククク。紫やレミリアは、霊夢を見ても気づいてなかったみたいだけどな」
「輝夜もな」
あまり触れたくなかった名前を出されて、妹紅は唇を歪めた。
慧音もそれ以上どうこう言うつもりはないらしく、ゆったりとお茶をすすった。
「……まぁ、何だ。今日は慧音の家に泊まって、明日には女に戻って、神社に服を返しに行って、ついでに元々着てた服も返してもらって、それで終わりだ、今回の事は」
「その男物の服はどうするんだ?」
言われて、妹紅は改めて自分の服を見下ろした。
輝夜に買ってもらった、桃太郎みたいだと言われた、赤い着物と白い羽織と袴。
しばし考えて、妹紅は答えた。
「どうもしないさ」
その後。妹紅の家のタンスの奥に、男物の着物がしまい込まれた。
二度と着るつもりは無いが、捨てる気も無いし、タンスから取り出す気も無い。
無い無い尽くしのその服はタンスの肥やしでしかない。
それと、妹紅の商売がひとつ増えた。
迷いの竹林の案内人、健康マニアの焼き鳥屋。
それからごく稀に、通りすがりのたいやき屋さんもやっている。
妹紅にあった変化と言えばこの程度で、輝夜とは顔を合わせるたび喧嘩や弾幕や殺し合いだ。
◆◇◆◇◆
憂いを見せるようになった輝夜を、永琳は心配していた。
永夜異変以来、輝夜は隠れ住む必要から解放され活発になっていたのだが、人里に遊びに行ってから覇気が無い。
それとなく「何かありましたか」と訊ねても「何でもないわ」と返されてしまう。
それでも、手がかりが無い訳ではなかった。
鈴仙が人里に薬を売りに行こうとすると、なぜかたいやきを買ってくるように頼んで、たいやき屋はどんな人物だったかを訊ねるという行為を数日ほど続けた。
博麗霊夢が薬を買いに来た時も、気になる会話をしていた。
霊夢が薬を値切ろうと交渉しているところに偶然輝夜がやって来たら、霊夢が輝夜を誘って庭を歩きに行った。
後をつけていくような真似をする永琳ではなかったが、偶然、多分偶然二人の会話を聞いていたてゐが後で教えてくれた。
「紅」と「レイ」なる外の世界の人間がちょっと前に幻想郷に迷い込み、しばらく遊び回ってから博麗神社にやって来て、外の世界に帰して欲しいと頼んできたので、帰してやったらしい。
それを聞いた輝夜は意気消沈としていたそうだ。
その日、輝夜が霊夢に薬を無料で譲るよう命じてきたのは、無関係ではあるまい。
以来、鈴仙をたいやき屋に行かせる事も無くなった。
代わりに、鈴仙にある小説を探させるようよう命じた。
題名は『ポケットの中の恋愛』だったはずだ。
何日かが経ったある日、輝夜は永琳と碁を打っていた。
実力は永琳の方が圧倒的に上だったが置き石は無く、指導碁という形を取っている。
だが。
「姫様の番ですが」
「うん、もうちょっと」
碁盤を見ずに答える輝夜は、肘掛に体重を預けて、本を開いたまま碁を打っていた。
その本が、碁の指南書の類ならまだ納得もできる。
だが輝夜が読んでいるのは『新説・桃太郎伝説』という娯楽小説だった。
「姫様、今は碁の時間です。読書の時間は別に設けてありますが」
「今いいところなのよ、私が殺されそうになってるの」
「桃太郎にかぐや姫が登場する訳ないでしょう」
「それがしてるのよ……あ、これは死ぬかも」
どうやら姫は本に夢中。
永琳は深々とため息をつき、碁石を片づけようか悩み始めた。
そこに「失礼します」と障子を開けて入ってくる者があった。鈴仙だ。
持ってきたお盆には緑茶とたいやきが載っていた。
「ご苦労様」
永琳がねぎらうと、鈴仙は一度頭を下げてからお茶とたいやきを配る。
それから、輝夜の前にひざまずいた。
「姫様、例の小説ですが……」
「見つかったの?」
今開いている本から視線を移さず輝夜が問うと、鈴仙は小さく首を横に振った。
「いえ。どうやらあの本は、姫様が行ったという本屋の主人の亡くなった父が道楽で書いた物らしく、半ばお遊び的な遺言に従って店に並べていただけの一冊限りしかなかったそうです。その本は、桃太郎みたいな格好をした男が買っていったとか」
「そう」
「桃太郎を探して譲ってもらいましょうか?」
「その必要は無いわ。どうせ無理だろうし。ご苦労様イナバ、下がっていいわ」
鈴仙が下がってから、輝夜はようやく本に栞を挟んで閉じた。
いかにも今読むのを中断したといった風を演じていたが、鈴仙が部屋に入ってきた時から本を読む目線が動いていなかった事に永琳は気づいている。
「ねえ、永琳。あなた、恋をした事はあって?」
「さあ……あったかもしれませんが、長く生きすぎましたので記憶にありません」
「どうだか」
小さく笑ってから、輝夜はたいやきをつまんだ。
永琳もたいやきを一口だけかじり、手に持ったまま碁盤に視線を落とす。
「それに、今の私達にとって恋愛は諸刃の剣ですからね。
心奪われた方が存命のうちは幸せでしょうけれど、喪った苦しみは永遠に続きます」
「蓬莱の薬を飲ませたり、私達の生き胆を食べさせれば、問題は解決するでしょうけれど」
「姫様ッ」
口調と眼差しを厳しくして、永琳は視線を上げた。
「冗談よ」
輝夜はお茶を二口ほど飲む。
「蓬莱の薬を飲んだ者が、ただの人間と結ばれるなんてありえないものね。ほんのわずかの蜜月の代償は、永劫に続く悲嘆。ならば胸に刻み込むような恋は不要。一冊の本におさまる程度の、小さな恋で十分なのかもね」
「ポケットの中の恋愛……ですか」
永琳の表現に、輝夜は微笑を漏らした。
ついさっきまで探していた小説の題名と同じ言葉。
あの小説はもう手に入らないけれど、案外、輝夜の体験と同じような物語なのかもしれない。
そう、あの日の思い出はその程度のもの。
これから別の思い出をポケットに詰め込んでいけば埋もれてしまい、いずれ色あせていくだろう。
けれど。
輝夜は思いを馳せる。竹取の翁達との平穏な日々に水を差してきた男達に。
彼等はどんな想いで輝夜に求婚してきたのだろうか。
どんな想いで五つの難題を受けたのだろうか。
ただ邪魔者としか思わなかった彼等の気持ちが、今なら少しだけ解るかもしれない。
「もう少し、断り方を考えて上げればよかったかな……」
それは難題を受けし者達や、その娘に届く事のない、小さな呟きであった。
輝夜は大きく口を開けてたいやきを半分ほどかじると、湯飲みを唇に当て大きく傾けた。
「火傷しますよ」なんて言いながら永琳も湯飲みに手を伸ばし、口をつけ、お茶をすすり、噴出。
碁盤にお茶がかかり、丁度お茶を飲み干していた輝夜は「ひゃっ」と声を上げて身を引く。
「永琳、汚いじゃない」
「ゴホッ、ひ、姫様、これは……飲んでしまわれましたか……」
「え、何? このお茶が、どうかし――」
ガラッと。叩きつけるような勢いで障子を開けて、鈴仙が部屋に飛び込んで来た。
何事かと視線を向ければ、突然土下座。
「イナバ、いきなり何よ」
「申し訳ございませんッ! お茶と間違えて、師匠の作った性別反転薬を出してしまいました!」
「は? だって、ちゃんとお茶の味が……うぐっ!?」
完
軽快な展開、ありがちなようであまりない発想も相まって文句なしの100点を
面白かったです
できれば続きをお願いします!!!!
カッコ良すぎるぜ
しかし紅をつい何度もホンと読んでしまったw
切なすぎて色々とやばいことになりました。
妹紅はあのキャラによく似ているなぁ
輝夜と紅さんのデートの、お互いの心情の機微の描写が上手くてどんどん引き込まれてしまいました。
オチの永遠亭の面々も実にらしくて良かったと思います。
見事
しかしこれは上手いなぁ。あっという間に引き込まれてしまい、読み終えたあとの切なさがまたなんとも。
>「いいえ紅さん、さよならよ」
深く切ない一言・・・
じゃなくてしみじみしました…
次は霖乃助にキノコを喰わせるんだ!
もっと読みたいと思ったね。
魔理沙編も見たいぜ
輝夜の成長が素敵でした。
それをここまで面白くできるのはすごい。
最高でした!
もっと早くに読んでおけばよかった!!
粋だねぇ…
面白くて切ない話、堪能しました。
お気に入りの話になりました
性別反転ものでまとめたのはお見事。
紅の漢っぷり、輝夜の恋慕も非常に上手く出来たと思います。
そしてオチwww
てるもこがジャスティスといわざるを得ないじゃないか
あと霊夢の図太さに感心させられた
さすが何にも囚われず自由なだけある
妹紅があのキャラに見えてくる
よな?
妹紅がナンパ男と戦ってたときに使ったのは
エルボーと(ry
たいやき屋さんって…バイクに乗ってるあの人だ…
レイという文字を見て旋〇〇山拳(ry
↓
ライ〇ア〇イブを思い出してしまった
いい話でした!妹紅がかっこよかった!
慧音に嫉妬する輝夜可愛い
紫とレミィは気づかんかったのかよ
魔理沙…お前…
吊られている輝夜、レミリア、紫もバイというより人妖神仏、老若男女問わず
ただ優れた人を見分ける審美眼を備える風流人なんでしょうね