幻想郷の暮らしってやつは、とても良い。
とにかく、自由で気ままで楽ちんで、暮らしに困るということがほとんどありえないユートピアだ。
不幸なことといえば、その生活にあまりに慣れてしまい、往々にして感謝の気持ちを忘れてしまうことだろう。
あともう一つ不幸なことがある。この幻想郷がシャボン玉の割れるようにパチンと弾けて消滅してしまうのではないかという不安を、魔理沙は勝手に抱えているということだ。
楽園で暮らしていながらも魔理沙は心のどこかで常に不安であった。
「紫様が日本脳炎で倒れました」
八雲藍の報告に、ぎゃあ、と魔理沙は叫んだ。
幻想郷がパチンと音を立てて弾け飛んだ瞬間が、今、まさに訪れたのだ。
「に、に、日本脳炎だなんて、そ、そんな、バカな、なんて、レトロな、」
「向こうの世界でその脅威を忘れ去られたせいで、最近になって幻想入りしてきたようです」
「馬鹿野郎!そんなもん境界でも操って無毒化しろよ紫の奴は!?」
「能力を使うにも脳が腫れて意識不明に陥ってるんですよ」
やれやれ、と肩をすくめる藍のテンションは低い。
脳が腫れただのとさらりと言ってのけたが、それって大変なことなんじゃないのか。
自分の主が致命的な伝染病に罹ったというのに。それとも妖怪ってやつが丈夫なせいだろうか。
「ってことは、どうなるんだ幻想郷は!?」
「紫様の結界も不安定でしてね。まぁちょっとの間、幻想郷は閉鎖します」
「ちょっとって、軽いメンテナンスくらいで済むんだろうな」
「まぁ、1年か2年くらい?」
「ぎゃあ!」
失って初めて分かる大切さ、だなんて陳腐な言葉をこれほど実感したのは初めてだった。
1年や2年っていうのが魔理沙をはじめ、人間にとってどれだけの長い時間なのか、妖怪にはそれが分からない。ああ、ケージに入れられたまま3日間放置されるハムスターの心境というのはこんな感じなのだろうか。下手すれば干乾びるし共食いも始める。魔理沙は半狂乱になって抗議したが藍には受け入れられなかった。
「魔理沙さんも気分転換だと思って、外の世界でしばらく遊んできたらどうです?」
「嫌だぜ!どうやって食い扶持を探せってんだ!」
「そりゃまぁ、今までと同じように泥棒とか?」
「……てめぇ」
あっはっは、などと笑って見せる藍の顔をいますぐに叩いてやりたかった。いっそ今すぐモフモフを一本引っこ抜いて九尾を八尾にしてやろうか、というくらいの殺意が魔理沙の内面に芽生えた。妖怪どもは軽く言ってくれるが魔理沙は知っている。外の世界っていうのは、そんなに楽なもんじゃない。幻想郷と違って、だ。
「ああ、どうすりゃいいんだ」
「魔理沙なら大丈夫よ」
「……アリス、お前は社会の厳しさってやつを知らないからそういうことをさらりと言える」
「何よ、魔理沙だってロクに知らないじゃない」
「知らないからおっかないんだよ!」
魔理沙も一応は人間の身分なので、もし何かがあったときのために人間社会のことを調べている。
調べれば調べるほど憂鬱な話ばかりが出てきて、なんだこれは、絶対に御免だ、と心の底から思うのだ。
だが、実際にそこへ飛び込んで生活をしてきたわけではないので、知らないに等しいのであるが、想像よりマシだったということはおそらくないだろう。
「お前はどうすんだよ!」
「あら、1年や2年くらいなら身を隠して過ごすわ。どこかの山奥のロッジでも借りてのんびりとね。北軽井沢がいいかしら」
「そんなの避暑気分だ」
「突如棲み付いた謎の美少女、とか噂が立ったりして、ふふふ」
「メシとか喰わなくていいのかよ」
「だって私、魔法使いよ。それに他のみんなも適当にやり過ごすんじゃないかしら」
ああ、話が通じる気がまるでしない。
ここへ来る前、魔理沙は同じ人間の身分として咲夜のもとへ駈け込んでみたが、奴はそもそもが半分人間じゃないも同じで、時間を操ってどうのと言い始めたので頭が痛くなった。半分人間じゃないというなら妖夢も同様で、幽々子様所縁の屋敷でのんびり暮らすとのことである。後ろ盾があるとはなんとも頼もしい。
それに比べて魔理沙はどうだろうか?
マスタースパークなどと火力を上げることばかりを考えていたため特殊技能に秀でていない。実家とは断絶状態なので今更頼ることすらもできない。各々が各々のやり過ごし方を持っているというのに、魔理沙ときたら、本当に浮浪児になりかねないのだ。あまりに不憫である。
「そうだ、霊夢だ!」
あまりに身近すぎて今まで気付かなかったが、そうだ、奴とて生活をしのぐ能力を持っているわけでもあるまい。
魔理沙はアリス亭を後にして箒に跨って博麗神社へ飛んだ。
その途中、自分と同等に困っている人間をこんなにも必死に探している浅ましい己に少なからず嫌悪感を覚えた。人間というやつは色々大変であるということを、優雅に暮らし奉る妖怪の方々にも分かって戴きたいのだが、と魔理沙は思ったのであった。
「霊夢!お前の生活も破綻するのか!?」
「……バカじゃないの」
喜色満面の顔で出し抜けにそう問い詰める魔理沙に、霊夢は至極冷たかった。当たり前である。
追い詰められた挙句、キチガイは生み出されるものなのかもしれない。
「私はまぁ、神社で細々と暮らすわよ。なんだかんだでお賽銭も貯金し続けてたからそれで糊口をしのぐわ」
「お前、いつの間に蓄財だなんて、そんなこと、」
「本当にわずかなお金よ。でも幻想郷を離れてしばらくそういう生活を送るのも修行と思って暮らすわ」
「断言するが、お前はそんなストイックな巫女じゃ無い。お前がこれから送ろうとしているのは修行生活じゃなくて、ただの黄金生活だ」
「……うるさいわね。倒れる前に紫がそう言ってたのよ。そう思ってやってくしかないじゃない」
何も持たざる者であっても、一人ではなく二人でならなんとか乗り越えることもできなくもない。
そう思っていた魔理沙にとってこれはショックだった。どうやら、ほんとうの本当にひとりぼっちで社会に放り出されるらしい。
「あぁ……」
「そうだ、魔理沙。あなたにも紫から言伝を預かってるわよ」
「なに!?早く言ってくれよそういうことは!」
「紫って、お歳暮の時期になったりするとお世話になった人へタオルの詰め合わせとか配ってたじゃない」
「ああ、あのまったくセンスを感じさせない種類のガッカリ系な贈り物な」
「……アンタって追い詰められると本性出るタイプなのね」
「もう喋りません」
「まぁいいわ、私も内心そう思っていたし。でね、紫からの言伝っていうのはコレ。『しばらくタオル問屋でお世話になってね♪』だそうよ」
「タオル問屋!?」
紫の奴はいったい何を考えているのか?時折奴は思考が斜めに逸れてゆくことがあると魔理沙は思った。
私が、今、欲しいのは、そういうもんじゃない。もっとリアルな生活費だ。あわよくば広い別荘と従順なメイドと抱えられる限りの現金だ。魔理沙の思考はどんどん底辺へ堕ちてゆく。
「ここ数十年くらいの長い長いお得意さんらしいから、向こうも了承してくれたみたいね」
「……ちょっと待て、お世話になるって、了承って、何のことだ?」
「そこで働くんじゃない?」
頭がぐわんぐわんと揺らぐ。
紫が自分のことを気にかけてくれたことは少なからず嬉しかったが、そこじゃないということを理解してくれていない。
これだから妖怪という奴は、と思わず魔理沙は目の前が暗くなった。
さて、ここは幻想郷、ではなく、もっと具体的な住所のある場所だ。まあ東京の下町のどこかと思っていただければ充分である。あのあと、魔理沙の精神に狂乱の嵐が吹き抜けて、しばらく取り乱したところを霊夢に組み伏せられたが、やがて開き直り結局ここまで来たのだった。
「そもそもタオル問屋って何だ?そんなもの実在するのか?」
困ったことに、もとい、紫の言っていたとおり、それは実在したのである。
都内、商業用ビルが立ち並ぶ大通りを少し横にそれると下町の風情が広がっていて、そのさらに一本逸れた明らかに活気の無い一角に例のタオル問屋は構えていた。
魔理沙は直感的に魔窟だと思った。なぜならその周辺からは死臭が漂っていたからである。
死臭といっても直接的に鼻に届く種類ではない。とっくに廃業したと思われる何某かの工務店が不気味に看板だけを下げているなど、その通りのみが町として死んでいたのだ。晴れているのになぜだかその問屋にだけ光が当たらず陰鬱な雰囲気を醸し出している有様であった。
「うむむ」
魔理沙は大いに悩んだ。千と千尋よろしく「ここで働かせてください!」と大きな声で叫べばいいのだろうか。
だがそんなポジティブな気持ちに、まったくなれないのだ。そもそもタオル問屋って何なんだと魔理沙は店の前を何度も通り過ぎても未だ疑問に思っていた。店先に陳列された小売り用のタオルを眺める客のフリをしながら薄暗い店内を覗いてみると、いる、いるのだ生身の人間が。亡霊ではない。魔理沙はここで人間が生きていることがどうしても信じられなかったのだ。なんという失礼な思考だろうか。
「……こんにちわー、でいいのか?」
魔理沙の声に、ぬぅっと店の奥から出てきたのは、なんとも珍妙に痩せ細った年齢不詳の男。
ばかな、幻想郷から妖怪が漏れ出てきたか、と思うくらい、その男の顔はタコによく似ていた。
「いらっしゃい」
「いや、客ってわけじゃないんだぜ、ないんですよ。ただ紹介があってここへ来て、」
「へ?」
「えっと、八雲紫っていう人からだな、人からですね、紹介を受けてここへ来たわけなんだぜ、ですよ」
「え?」
「いや、その、えっと、何か話とか聞いてないのか?ませんか?」
「へ?」
紫の奴め、ちゃんと説明したんだろうな、と思う一方、この男のようなタコ、もといタコのような男の要領の得なさには閉口した。するとさらに奥から、顔がしわくちゃの浅黒い年配の男性が出てきた。その男性がここを仕切っていることはその風貌からもなんとなく察しがついたのであった。
「ああ、魔理沙ちゃん」
「はい、そうですぜ、んん?そうです」
「紫さんのところから話は聞いてるよ。遠いところご苦労だね。さっ、店先で話すのもなんだから、入って入って」
人の好さそうな男性だった。いかにも下町の男といった感じで生気に溢れていた。
奥へ案内されると、そこはもう業者特有の意味不明な段ボールや使用用途の分からぬ機材がぎっしりと詰まっており、なぜだろう、魔理沙は無性に幻想郷が恋しくなった。
「見ての通り、事業自体がたいしたものじゃないから余裕も無くってねぇ」
「はぁ」
「最低賃金ってことで紫さんにも納得してもらっているわけなんだけど、大丈夫かい?」
「はい」
色々な説明を受けた気もするが、魔理沙の頭にはその部分くらいしか残らなかった。
ただ、一刻も早く紫の回復を待つばかりである。今すぐにでも帰って幻想郷を箒で飛び回り弾幕だなんだと遊んで回りたかったのだ。よって説明などは上の空。どうせ仮の宿なのだからと正直なところ魔理沙は思っている。
「まぁ詳しい仕事の流れとかはスズキさんに聞くといいよ。彼女はここで一番長いことやってるからさ」
「……はい」
あれよあれよという間に働くことになった。あれほど恐れていた割にはすんなりと事は進むようだと魔理沙は思った。
流れ。その流れに私は乗っているのか、それとも流れに流されているだけなのだろうか。そんな疑問が頭に過ったが、まあ社会というやつはこんなもんなのかもしれないと若干の安堵を覚えたりもしたのであった。
「あら新人さん?若いわね。よろしくね」
「よろしくお願いしますぜ、んん?します」
口調が先ほどからトチ狂っている魔理沙の前にスズキというパートの女性が現れた。
少しばかりハキハキとした中年女性に作業の一連の流れを説明してもらったのであった。
基本が単純作業ばかりであり、正直言って多少の手先の器用さがあれば充分こなせるレベル。
ふむふむ、お茶菓子が常備されているあたりから察するに、ゆるーくまったりと作業をしている様子が分かる。
「それじゃ今日は説明だけだからオシマイ。仕事に入ってもらうのは明日からよ」
「はいぜ」
「明日は12時出社の3時間勤務だから」
「はぁ!?」
まさかである。魔理沙は己の耳を疑った。最低自給で三時間勤務って、それで生活ができるとでも言うのだろうか?
今すぐ幻想郷に戻り、日本脳炎で突っ伏す紫を叩き起こして問い詰めたかった。それよりなにより背筋に嫌な汗が流れるほどの戦慄が走った。
「まぁここも余裕が無いから仕方ないのよねぇ」
「……そうですぜ」
「明日は私とあともう一人来るわ」
そもそも従業員は何名なのだろう。零細企業特有の吹けば飛ぶような頼りなさに魔理沙はおののいた。
思えば紅魔館だってかなりの人数を雇っていたではないか。いや、あれが企業なのかと言われると疑問なのだが。なるほど、体力が無いとはこういうことなのか。零細おそるべしである。
「で、そのもう一人っていうのがね、ちょっとクセがあって」
「……はぁ」
「ジョージ・ルーカスなのよ」
「」
魔理沙はとうとう言葉を失った。一から十までもう何が何だか分からず、軽やかに幽体離脱をした。
よって帰ってくるまでの道程の記憶というものがほとんど無く、気付けば紫が借りてくれたありがたいボロアパートのささくれだった畳の上に突っ伏していた。ただ、ひたすら泣きたくなって、泣きたくなる自分の惨めさに魔理沙は涙を流したのであった。人は惨めさで泣くのだ。今はもうなんだか幻想郷の風を感じたくてたまらなかった。
「新人さんなの?」
「はいぜ」
「作業早いわね」
「わりと手作業は得意なんだぜです」
「若いっていいわね」
「はははぜ」
「ところで魔理沙ちゃん」
「はいぜ」
「私やっぱりジョージ・ルーカスに嫌がらせされてるみたいなの」
「……?」
「知ってる?ジョージ・ルーカス?」
「映画監督の」
「そう、そのジョージ・ルーカスとね、私昔寝たことあるのよ」
「」
「でも一回きりでね、それ以降、私連絡取らなかったの。そしたら逆恨みされちゃったみたいで」
「」
「作品を観ると私の私生活のことばかり出てくるのよ」
「」
「あっ、魔理沙ちゃん、のし袋取って」
「はいぜ」
「上手ねぇ魔理沙ちゃん」
「割と昔からこういう作業は得意な」
「でね、映画を通じて世界中に私の情報をばらまいてるのよ。どうしてジョージ・ルーカスは私にそんなことするの?魔理沙ちゃん分かる?」
幻想郷には妖怪が棲んでいる。しかし、ここまで妖怪じみた妖怪を魔理沙は知らない。
ルーカスと呼ばれる中年女性はやや焦点の合わない目でさも当然かのように奇妙奇天烈を口にする。電波でも受信してるのだろうか。ひょっとしたら人間社会のスキマにはこうした魑魅魍魎がぎっしりと詰まっていて、幻想郷以上に幻想的な事態になっているのかもしれないと魔理沙は思った。三時間が途方も無く長かった。スズキさんはルーカスを完全にスルーしており、ああ、慣れるって狂気と仲良しになることなのだと知った。
「ジョージ・ルーカスがね……私のことを暗がりからじっと見ててね……」
お歳暮用のタオルをひたすら折っては詰め入れ、折っては詰め入れ、その単純作業も相俟って、魔理沙の精神は削られてゆく。
早晩に発狂するのではないかと思ったのが、タオル問屋での初日であった。
帰り際「ルーカスさん面白いでしょ」と事も無さげに囁いたスズキさんの言葉を忘れることはできない。あの異常事態をそれだけで片付けてしまえるようになったら何かが変わってしまうのではないかと魔理沙はおののいた。
そんなこんなで1週間ほどが経過した。
その日は大手デパートに卸すための品物とあって、スズキさんは少々ピリピリとしていた。
以前から薄々感づいてたことなのだが、彼女はここでのいわゆる「お局」的な存在で、実質リーダーのような役割を果たしている。多少口の利き方も下町育ちゆえか、悪く、他人に注意するときに少しばかり力加減を間違えてはルーカスの機嫌を悪くさせるのだ。そのたびに20分ばかり失踪するルーカスではあり、よくまぁこんなんで仕事と呼べるものだと魔理沙は関心しているのであった。
「魔理沙ちゃん、そこの折り方違うんじゃない?」
「あれ、右から左へじゃなかったけだぜ」
「違うわよ、左から右よ」
「あっ、じゃあ今までの全部逆にしてましたぜ」
「緊張感足りないわねぇ」
内心、魔理沙は「たかが、タオルだろう?」と思っている。そうなのである、タオルなのである。
どこまで行ってもタオルでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
「あと検品も甘すぎ」
「すいませんぜ」
「混入した糸くずは目に見える範囲のものはすべて取り除くって、言ったでしょ?」
「はい、もうちょっと細かく見ていきますぜ」
たかがタオルのことでどうしてこんなにエラソーにしていられるのか。
本当の意味で精神的にキツいのはルーカスではなくて、このお局じゃなかろうか。
この数日間、いくらか優しくしてもらえたのは一種のサービス期間で、おそらくこちらが本性なのであろう。
「ねぇ、魔理沙ちゃん、初対面の人にいきなり悪口言われたときの気持ちって、分かる?」
「は、はぁ、よく分からないですルーカスさん」
「男の人が私に擦れ違いざまにね、悪口言ってくるの。みんなどうしてそんなイジワルするのかしら?」
「はぁ」
なんて言っている間にもスズキさんが何かを発見したらしく、眉がキリキリと吊り上がってゆく。
「魔理沙ちゃん、また糸くず見逃してるわよ」
「はい?あ、すいませんぜ」
「無駄口叩いてるからこういうことになるんじゃない?」
それだけの観察眼があるなら、ルーカルに絡まれている私の事情にも気付いてほしいのだが、とも思ってみたが、魔理沙にその気力は無い。気力が無いし、なにより、この狭い狭い空間内ではやたらと権力を持っているスズキさんである。外から見ればちっぽけな存在であっても、なぜだろう、ここでは逆らえる気がまるでしなかった。
(幻想郷、幻想郷、霊夢、霊夢、助けてくれ。私は私、霧雨魔理沙だろう?そうだろう?)
今はひたすら自分を見失わないようにしながら、長い長い紫のメンテナンス期間の終了を待つしかなかった。
「魔理沙ちゃん、よく頑張ってるじゃないか」
「ありがとうございますぜ」
例の浅黒い男性、ここの店長であるサイトウさんがこのような言葉をかけたのは、きっと普段からスズキさんとのやり取りを観ていたからだろう。規模は小さくともやはり長年人の上に立って仕切ってきた人間なのだ。よく見ていると魔理沙は感心した。
「本当なら4時間勤務にしてあげたいんだけど、ウチは体力が無くてねぇ」
リーダーのスズキさんだけが5時間勤務で、そのほか4時間勤務が数名、魔理沙とルーカスだけが3時間勤務といった状態。なんという、なんという、ミクロな世界なんだろうか。ピンからキリまでという言葉のキリのキリを生きている感じがする。きっと、私の人生、これ以上落ちぶれることは無いだろうとも魔理沙は思ったのだが、それを直接口に出すのはさすがに憚られた。
なんだかんだで、みんな一生懸命働いているのだ。
取引先と電話でやりとりしているサイトウさんの姿を見ると笑ってはいけない気がしてきたのであった。
あのタコの人も、重さ数十キロはあるタオルの束を右から左へせわしなく移動させているではないか。
以前、魔理沙はタコから指導を受けたことがある。「その持ち方を続けてると、腰、痛めちゃうよ」と。そう言って両脚を蟹股にし、腰をまっすぐにしたまま脚のみで荷物を持ち上げる術を学んだ。ちょうど電車のパンタグラフのような動きである。
「これなら、腰、痛めないでしょ」
いったいこの人は何十年間ここに勤めているのだろう?この感動的な薄給でどうやって生活をしているのだろう?ここから脱出する気はもうないのだろうか?そう思うとその後ろ姿に得体の知れない不吉なものを感じた。だが、指をさして笑うのは違うと魔理沙は思った。
「いかん、いかん、私は幻想郷に帰るんだ。ここでタオルに埋没する人生なんて御免だぜ。私は、もっと高いところを飛んでたんだ、ずっとずっと高いところを、そうだろ、」
パートは芳しくもおばちゃん揃いであったが、その中でヤマグチさんだけは少しばかり若かくて、そのせいか魔理沙と話が合った。器量も悪くないというのに、なぜ、こんなところで、と思わざるを得なかった。
「魔理沙ちゃんは家に帰ってから何してるの?」
「そりゃ魔法の…いや、趣味でちょっと学問的な研究をしてるんだぜ」
「お勉強?」
「まぁだいたいそんなとこだぜ」
「勉強だなんて頭いいのねぇ」
「?」
「あたし、昔から勉強とか全然できなくって、親からは高校へ通う意味なんて無いって言われて、中学を卒業してから働いてるの。バカなの。ここの前にもいくつか職場を転々としたんだけど、なんでかしらね、頑張ってみたんだけど、どうやらあたしには頭を使うことが向いてないみたい。私はこうしてタオルを折り続けているのが丁度いいようにできているみたいなの。魔理沙ちゃんみたいにお勉強ができる人がうらやましいなぁ」
「…………」
ヤマグチさんの屈託のない顔を見て、魔理沙はなんだか口の奥がつんと痛んだ。
自虐ではないのだ。自分自身を客観的に分析するとどうしてもこういう語り口になってしまうのだ。
ああ、各界で劇的な才能を開花させて活躍している秀でた人間の裏に、どれだけのヤマグチさんがいるのだろう。
「私の居場所はこんなところではなくて幻想郷だ」と言い聞かせている自分は、いったいなんなんだろう。
「あたしね、こういう仕事場って大切だと思うの。あまり頭を使わない緩くて単純作業ができる仕事場。最近じゃ工場とかがみんな東南アジアのほうへ移って行って、数は減ってきているみたいだけど、昔はこの町にも、こういうところ、もっと沢山あったのよ?もしも、それがすべて無くなっちゃったら、あたしみたいな人間はどうやって生きていけばいいんだろうって、たまに、考えるの。能力を磨いて自分の価値を高めるって、みんなそればっかりだけど、誰でもできる簡単なことすらできない人もいるってこと、分かって欲しい」
年末の繁忙期に、恐怖が訪れた。チャイニーズの襲来である。
質の悪い中国産タオルが大量に届き、スズキさんは発狂寸前にまで眉をいからせていた。
その面をデスマスクの如く刻み込んだら、般若と並ぶほどの鬼の姿が出来上がるのであろうってくらいに、その貌は芸術的だった。
「もう!中国ってキライ!」
「ああ、私もそう思うぜ」
「あたしも同感」
「どうしてこういうイヤガラセするのかしら?」
ただでさえ忙しい仕事場に中国産タオルは並べられ、検品は膨大な時間がかかった。
ゴミや糸くずだらけであり、悪くすれば穴が開いていて商品にならず、挙句の果てに意味不明の黄ばみを帯びているものすらもあり、魔理沙たちは激怒した。
「タオルをナメてんのよあいつらは!」
「マスタースパークかましましょう」
「ああ、ネズミの糞が入ってる」
「ウフフ、私ピーナッツ好きなの」
これが大手ビールメーカーが配る粗品だと言うのだから、あきれたものである。
もうちょっと金を叩けば国産品で賄えるというのに、ひょっとしたら内情はかなりギリギリなのかもしれないとも思った。こうなってくると魔理沙、価値観が大きく変動し、何が何でも綺麗なタオルへ生まれ変わらせてやろうと必死でゴミを取り除く。その頃にはすでに幻想郷の風景を思い出す暇などなくて、今はひたすら納品に間に合うように高性能高速タオル折りマシーンへと生まれ変わりつつあったのだ。
「毎年のことなの。そう、去年だって一昨年だってずっとそうだった。私はこれを乗り切ってきたのよ数十年間!」
スズキさんが灼熱モードになる、そんな修羅場の中、パンタグラフの動きをするタコさんが新たな段ボールを搬入してきた。
その中にさらなる魔物が潜んでいることを魔理沙たちは知らなかった。
「そういやパキスタンってどこにあるんでしょ」
ずしん、と地響きがする段ボールが数箱連続で置かれ、魔理沙たちは背筋に戦慄が走った。
東南アジアからの刺客、パキスタン製タオルは、中国製をはるか下回るクオリティを発揮し、一同は無駄口をたたく暇も無く格闘を続けたのであった。年末、都会が華やぎ浮かれるその裏、世界の隅の隅のタオル問屋で寒さを吹き飛ばす熱いバトルが繰り広げられたことは、あまりにミクロ過ぎて誰も知らない。
もちろん幻想郷の人々も、パキスタン人も、知らないのであった。
年が明けるとまた通常営業へ戻り、まったりとお茶を飲みながら注文のタオルを折る作業が始まる。
暇になると魔理沙はつい考えてみたりもする。「私、何やってるんだろう」と。なんだか途方も無く人生を浪費している感が出てきた。幻想郷へ帰りたくなってきた。つまり今までの魔理沙に戻ったのである。
「また帰り道で男の人に付けられたの。私みたいな貧乏なオバサンを狙っても意味無いのに、どうしてこんなことをするのかしら?不思議よね?」
あれほど鮮烈な感動を与えてくれたルーカスの話も食傷気味だなぁとすら思えるようになってきた。
しかし、性根が努力気質にできている魔理沙は己の意志とは別に自然と作業も上達して、その検品眼はわずかなシミやゴミすらも見逃さない。幻想郷であれほど活躍していた魔理沙のリソースは今はこの一点にのみ集中させているのだから、それもそのはずである。
それでもスズキさんの正確さと手早さにはかなわないのであった。
「はい、これで納品分おしまい。この時期は楽で助かるわ」
いったい何なんだろう。このスズキのオバサンがどれだけ努力をしようとも賃金はたかが知れたものである。
その一方で、どう見てもラクチンな仕事をしながらこの数倍を稼いでいる人たちがいる。魔理沙は人間の棲む社会というやつがいよいよ分からなくなってきた。働けど暮らしが楽にならなかった石川啄木はもっぱら女遊びに金を費やしており、その業にまみれたエロハンドをじっと見つめて嘆いていたが、今の魔理沙はセロテープの使い過ぎでほとんど指紋がなくなった指をじっと見つめて休日も終日ボロアパートに蟄居する生活を送っている。
そして、今治タオルの降臨である。
全国タオルマニア垂涎の逸品、愛媛の至宝、高級品である今治タオルがやってきたのだ。
「噂には聞いていたが、おいおい、こいつはこいつは!」
魔理沙は急激にテンションが上がった。
およそ一年近く勤め上げた魔理沙にとっては、幻想郷、弾幕、妖怪、そんな異世界の単語が消し飛ぶほどの衝撃であった。
「密度が、密度が全然違うじゃないか!しかもなんだ、自ら光を発してるかのように白く輝いてるぞ!」
これを霊夢やらに聞かれたら大層気色悪がられるだろう、という客観的視点も無くなっていた。
そう、ある時から魔理沙の脳内のとある領域に、タオル職人という闇の人格が芽生え始めていたのだ。
「すげぇ、すげぇよスズキさん、これ、」
「こらこら魔理沙ちゃん、あまり興奮しない」
「これを折るだなんて光栄だぜ」
場に応じて価値観は変動してゆくものである。
幻想郷では弾幕というよく分からないやたらと難度の高いお遊びに価値が置かれており、魔理沙がそれに心血を注いだのと同様、今ここでは今治こそが至高であった。
「でもいい魔理沙ちゃん?今日と明日はルーカスがお休みじゃない?」
「そういえばそうだな」
「あの人、たまに身体から何かの削りカスみたいな茶色い何かを出すじゃない。普段の粗品用のタオルならまだしも、今治にそれは禁物だわ」
「するとつまり」
「私達だけで折っちゃいましょう。こっそりと」
了解、とばかりに細心の注意を払い作業に取り掛かった。そのクオリティに敬意すらも覚えるほどである。
霧雨魔理沙。否、今は下町のとあるタオル問屋の魔理沙ちゃんは、すっかり仕事人になっていたのだった。
そんなある日のことである。アパートに戻ると鍵をかけたはずの密室に一通の手紙が置き去りにされていた。
差し出し人は、藍であった。
そこには幻想郷のメンテナンスが終了したから戻ってきて構わないという旨が書かれていて……。
「そっかぁ、魔理沙ちゃん行っちゃうのかぁ」
「クソお世話になりました」
「まぁ家の都合じゃ仕方ないか。それにしても残念だなぁ」
去り際を残念に思ってくれる人がいる。
イジワルかもしれないが魔理沙はそれが一番嬉しかったのであった。
最後の日、店長のサイトウさんは日割りで賃金を手渡してくれて、「頑張るんだよ」と声をかけてくれたのであった。
月並みな言葉ではあるが、きっとこの人は、ここで「頑張り」続けて生きてきたんだろうと思うと、重みが違った。
「搬入手伝ってくれてありがとうね、魔理沙ちゃん」
「タコさんも腰に気を付けて頑張ってください」
「ふぅん、魔理沙ちゃん辞めちゃうんだ」
「ルーカスさんも妄想はほどほどにしてください」
「まったく、良いタオル職人になってきたと思ったのに。でも魔理沙ちゃんなら大丈夫よ。私の下でもきちんと働いてこれたんだから、どこに行っても大丈夫」
「スズキさん……」
その言葉を、ずっと誰かから言って欲しかった気がした。
なんだかんだで世間知らずな魔理沙である。幼い頃から幻想郷で暮らし続けた魔理沙にとって、外の世界とは魔界よりも未知であった。聞けば、おそろしく、過酷で、残酷で、そんな出来事ばかりを耳にし続けてきたので、すっかり怖気づいて遠ざけてばかりいた。それがこんなふうに言われると、自信というものが生まれてきて胸が熱くなった。
「魔理沙ちゃん、お勉強頑張ってね」
「はい、ヤマグチさん」
「私が知らない世界をいっぱい見てきてね」
どうしてこの人はこんなことを屈託のない顔で言えるのだろう?
働いている中で分かったのだが、ヤマグチさんは足し算や引き算ができない。ほんとうの本当にできないのだ。
スズキさんはその事情をよく理解していて、それをサポートしている姿を何度も見てきた。ヤマグチさんは生まれつき飛ぶことのできない鳥みたいなものである。もちろん魔理沙は飛べる。箒にまたがれば幻想郷の空を、いや、その気になればこの秋の高い空をもっと高くまで飛べるのだ。知らない世界を見てきてね、と地上から何の妬みも無く言えるヤマグチさんはなんてステキな人なんだろうと思った。
そして、向こうの空に白くそびえるスカイツリーを背に、魔理沙はタオル問屋から去ったのであった。
「というわけで、私、八雲紫の快気祝いを行いたいと思います!」
ふつうそういうのって自分で主催するもんじゃないだろうと魔理沙は思った。
それは他の幻想郷の面々も同じで、いくつもの舌打が耳に届いてきた。なんだかんだでみんな大変だったのであろう。案の定、人は集まらず、博麗神社の境内で細々と幻想郷復活パーティーは執り行われたのであった。天狗の山のほうで同趣旨の宴が盛大に行われていることは、きっと紫には教えない方がいいのだろう。
「何よ!何よ!伝染病で倒れたんだから仕方ないじゃない!不可抗力じゃない!365日結界を張り続けてるんだから病欠くらい許してよ!」
こうも哀れに泣き酒を呑んでいる紫を見ると、さすがに魔理沙も優しくする他なかった。
外の世界のボロアパートでモヤシ炒めを三日連続で食べた日などは、あてつけで博麗神社でモヤシ栽培でもしてやろうとも思ったが、こうなるとそういう気も起きないのだ。
「まぁまぁ紫様。なんだかんだでみんな紫様のことを慕ってくれてますよ」
「じゃあなんでだれもこないのよ」
「戻ってきてるじゃないですか、紫様の幻想郷に、みんな。だから大丈夫ですよ」
おやおや、藍ってば意外と優しいじゃないか。
普段分からなかったが藍はこういう優しさを持っているヤツだったのだ。
それに気付いたのは、魔理沙が外の世界に出たからだろうか。景色がちょっとだけ違って見えた気がした。
「やいやい紫。下町のタオル問屋なんて、なんでそんなマニアックな場所に私を追いやったんだ?」
「べつに深い理由もないわよ」
「どこだって良かった、ってんじゃないだろうな、おい、紫」
「その通りよ、どこだって良かったの。あなたは人間だから、一度は外の世界に触れたほうがいいんじゃないかっていう、ただの思い付き」
痩せこけた霊夢が餓鬼のように食べ物を喰い散らかす傍ら、紫は泣きつかれたのかコタツに入ってすやすやと眠りに就いたのであった。
それから数日もするとすっかり幻想郷は通常営業へ戻り、妖怪どもが今まで通りの生活を続けていた。
魔理沙の事情を少しだけ聞きかじった射命丸文などは下界の体験談の取材だなんだとうるさかった。
「で、結局、魔理沙さんは外の世界で何をされてたんですかぁ?」
「んと、だな、その、まあ、」
「んん?」
「まあ、風来坊っていうのかな、ヒッピーっていうのかな、そんな楽しく自由で悠々自適な生活を続けていたのだよ私は」
「おやおや、魔理沙さんらしくって良いですねぇ」
「そうともさ」
「私はてっきりヒモ生活でもしてるんじゃないかと疑っていたんですが」
文の尻を蹴り飛ばすとドアを閉めて魔理沙は思った。
やっぱりなんだかあの問屋で働いていたことがどうしても言えなかったのだ。
途方も無くミクロなあの世界のことを話したならどんな目で見られるかと思うと、やっぱりおっかなくって仕方がない。
ふと新聞受けを見ると文々新聞と一緒に粗品が入っていた。あのあと文が投函したに違いなかった。八雲紫なりの「御迷惑をおかけしました」だろうか。それにしても毎度毎度贈り物がタオルというのは如何なものだろうか。やっぱりセンスが無い。
「ふぅむ、どれどれ。なるほど、テープはきっちり貼られてるな。熨斗紙はきっちり中央に曲がらず来ている。そうそう、こういうのが大事なんだ。中身はどうだろう。くくく、この目の荒さはどう見ても国産品じゃないな。紫の奴、そうとうケチなんだなぁ」
幻想郷、霧雨魔理沙の家の洗面所には今治タオルが置いてある。
お宝として保管するのではなく、きちんと毎朝そいつを使っているのだ。
「くくく、ほら見ろ、パキスタン製だ、なんて薄いタオルなんだ、けけけ、」
ここでの生活に慣れ、あちらの生活を次第に忘れていっても、時折、魔理沙の脳のとある領域に巣食うタオル職人たる闇の人格が顔を覗かせるのであった。
とにかく、自由で気ままで楽ちんで、暮らしに困るということがほとんどありえないユートピアだ。
不幸なことといえば、その生活にあまりに慣れてしまい、往々にして感謝の気持ちを忘れてしまうことだろう。
あともう一つ不幸なことがある。この幻想郷がシャボン玉の割れるようにパチンと弾けて消滅してしまうのではないかという不安を、魔理沙は勝手に抱えているということだ。
楽園で暮らしていながらも魔理沙は心のどこかで常に不安であった。
「紫様が日本脳炎で倒れました」
八雲藍の報告に、ぎゃあ、と魔理沙は叫んだ。
幻想郷がパチンと音を立てて弾け飛んだ瞬間が、今、まさに訪れたのだ。
「に、に、日本脳炎だなんて、そ、そんな、バカな、なんて、レトロな、」
「向こうの世界でその脅威を忘れ去られたせいで、最近になって幻想入りしてきたようです」
「馬鹿野郎!そんなもん境界でも操って無毒化しろよ紫の奴は!?」
「能力を使うにも脳が腫れて意識不明に陥ってるんですよ」
やれやれ、と肩をすくめる藍のテンションは低い。
脳が腫れただのとさらりと言ってのけたが、それって大変なことなんじゃないのか。
自分の主が致命的な伝染病に罹ったというのに。それとも妖怪ってやつが丈夫なせいだろうか。
「ってことは、どうなるんだ幻想郷は!?」
「紫様の結界も不安定でしてね。まぁちょっとの間、幻想郷は閉鎖します」
「ちょっとって、軽いメンテナンスくらいで済むんだろうな」
「まぁ、1年か2年くらい?」
「ぎゃあ!」
失って初めて分かる大切さ、だなんて陳腐な言葉をこれほど実感したのは初めてだった。
1年や2年っていうのが魔理沙をはじめ、人間にとってどれだけの長い時間なのか、妖怪にはそれが分からない。ああ、ケージに入れられたまま3日間放置されるハムスターの心境というのはこんな感じなのだろうか。下手すれば干乾びるし共食いも始める。魔理沙は半狂乱になって抗議したが藍には受け入れられなかった。
「魔理沙さんも気分転換だと思って、外の世界でしばらく遊んできたらどうです?」
「嫌だぜ!どうやって食い扶持を探せってんだ!」
「そりゃまぁ、今までと同じように泥棒とか?」
「……てめぇ」
あっはっは、などと笑って見せる藍の顔をいますぐに叩いてやりたかった。いっそ今すぐモフモフを一本引っこ抜いて九尾を八尾にしてやろうか、というくらいの殺意が魔理沙の内面に芽生えた。妖怪どもは軽く言ってくれるが魔理沙は知っている。外の世界っていうのは、そんなに楽なもんじゃない。幻想郷と違って、だ。
「ああ、どうすりゃいいんだ」
「魔理沙なら大丈夫よ」
「……アリス、お前は社会の厳しさってやつを知らないからそういうことをさらりと言える」
「何よ、魔理沙だってロクに知らないじゃない」
「知らないからおっかないんだよ!」
魔理沙も一応は人間の身分なので、もし何かがあったときのために人間社会のことを調べている。
調べれば調べるほど憂鬱な話ばかりが出てきて、なんだこれは、絶対に御免だ、と心の底から思うのだ。
だが、実際にそこへ飛び込んで生活をしてきたわけではないので、知らないに等しいのであるが、想像よりマシだったということはおそらくないだろう。
「お前はどうすんだよ!」
「あら、1年や2年くらいなら身を隠して過ごすわ。どこかの山奥のロッジでも借りてのんびりとね。北軽井沢がいいかしら」
「そんなの避暑気分だ」
「突如棲み付いた謎の美少女、とか噂が立ったりして、ふふふ」
「メシとか喰わなくていいのかよ」
「だって私、魔法使いよ。それに他のみんなも適当にやり過ごすんじゃないかしら」
ああ、話が通じる気がまるでしない。
ここへ来る前、魔理沙は同じ人間の身分として咲夜のもとへ駈け込んでみたが、奴はそもそもが半分人間じゃないも同じで、時間を操ってどうのと言い始めたので頭が痛くなった。半分人間じゃないというなら妖夢も同様で、幽々子様所縁の屋敷でのんびり暮らすとのことである。後ろ盾があるとはなんとも頼もしい。
それに比べて魔理沙はどうだろうか?
マスタースパークなどと火力を上げることばかりを考えていたため特殊技能に秀でていない。実家とは断絶状態なので今更頼ることすらもできない。各々が各々のやり過ごし方を持っているというのに、魔理沙ときたら、本当に浮浪児になりかねないのだ。あまりに不憫である。
「そうだ、霊夢だ!」
あまりに身近すぎて今まで気付かなかったが、そうだ、奴とて生活をしのぐ能力を持っているわけでもあるまい。
魔理沙はアリス亭を後にして箒に跨って博麗神社へ飛んだ。
その途中、自分と同等に困っている人間をこんなにも必死に探している浅ましい己に少なからず嫌悪感を覚えた。人間というやつは色々大変であるということを、優雅に暮らし奉る妖怪の方々にも分かって戴きたいのだが、と魔理沙は思ったのであった。
「霊夢!お前の生活も破綻するのか!?」
「……バカじゃないの」
喜色満面の顔で出し抜けにそう問い詰める魔理沙に、霊夢は至極冷たかった。当たり前である。
追い詰められた挙句、キチガイは生み出されるものなのかもしれない。
「私はまぁ、神社で細々と暮らすわよ。なんだかんだでお賽銭も貯金し続けてたからそれで糊口をしのぐわ」
「お前、いつの間に蓄財だなんて、そんなこと、」
「本当にわずかなお金よ。でも幻想郷を離れてしばらくそういう生活を送るのも修行と思って暮らすわ」
「断言するが、お前はそんなストイックな巫女じゃ無い。お前がこれから送ろうとしているのは修行生活じゃなくて、ただの黄金生活だ」
「……うるさいわね。倒れる前に紫がそう言ってたのよ。そう思ってやってくしかないじゃない」
何も持たざる者であっても、一人ではなく二人でならなんとか乗り越えることもできなくもない。
そう思っていた魔理沙にとってこれはショックだった。どうやら、ほんとうの本当にひとりぼっちで社会に放り出されるらしい。
「あぁ……」
「そうだ、魔理沙。あなたにも紫から言伝を預かってるわよ」
「なに!?早く言ってくれよそういうことは!」
「紫って、お歳暮の時期になったりするとお世話になった人へタオルの詰め合わせとか配ってたじゃない」
「ああ、あのまったくセンスを感じさせない種類のガッカリ系な贈り物な」
「……アンタって追い詰められると本性出るタイプなのね」
「もう喋りません」
「まぁいいわ、私も内心そう思っていたし。でね、紫からの言伝っていうのはコレ。『しばらくタオル問屋でお世話になってね♪』だそうよ」
「タオル問屋!?」
紫の奴はいったい何を考えているのか?時折奴は思考が斜めに逸れてゆくことがあると魔理沙は思った。
私が、今、欲しいのは、そういうもんじゃない。もっとリアルな生活費だ。あわよくば広い別荘と従順なメイドと抱えられる限りの現金だ。魔理沙の思考はどんどん底辺へ堕ちてゆく。
「ここ数十年くらいの長い長いお得意さんらしいから、向こうも了承してくれたみたいね」
「……ちょっと待て、お世話になるって、了承って、何のことだ?」
「そこで働くんじゃない?」
頭がぐわんぐわんと揺らぐ。
紫が自分のことを気にかけてくれたことは少なからず嬉しかったが、そこじゃないということを理解してくれていない。
これだから妖怪という奴は、と思わず魔理沙は目の前が暗くなった。
さて、ここは幻想郷、ではなく、もっと具体的な住所のある場所だ。まあ東京の下町のどこかと思っていただければ充分である。あのあと、魔理沙の精神に狂乱の嵐が吹き抜けて、しばらく取り乱したところを霊夢に組み伏せられたが、やがて開き直り結局ここまで来たのだった。
「そもそもタオル問屋って何だ?そんなもの実在するのか?」
困ったことに、もとい、紫の言っていたとおり、それは実在したのである。
都内、商業用ビルが立ち並ぶ大通りを少し横にそれると下町の風情が広がっていて、そのさらに一本逸れた明らかに活気の無い一角に例のタオル問屋は構えていた。
魔理沙は直感的に魔窟だと思った。なぜならその周辺からは死臭が漂っていたからである。
死臭といっても直接的に鼻に届く種類ではない。とっくに廃業したと思われる何某かの工務店が不気味に看板だけを下げているなど、その通りのみが町として死んでいたのだ。晴れているのになぜだかその問屋にだけ光が当たらず陰鬱な雰囲気を醸し出している有様であった。
「うむむ」
魔理沙は大いに悩んだ。千と千尋よろしく「ここで働かせてください!」と大きな声で叫べばいいのだろうか。
だがそんなポジティブな気持ちに、まったくなれないのだ。そもそもタオル問屋って何なんだと魔理沙は店の前を何度も通り過ぎても未だ疑問に思っていた。店先に陳列された小売り用のタオルを眺める客のフリをしながら薄暗い店内を覗いてみると、いる、いるのだ生身の人間が。亡霊ではない。魔理沙はここで人間が生きていることがどうしても信じられなかったのだ。なんという失礼な思考だろうか。
「……こんにちわー、でいいのか?」
魔理沙の声に、ぬぅっと店の奥から出てきたのは、なんとも珍妙に痩せ細った年齢不詳の男。
ばかな、幻想郷から妖怪が漏れ出てきたか、と思うくらい、その男の顔はタコによく似ていた。
「いらっしゃい」
「いや、客ってわけじゃないんだぜ、ないんですよ。ただ紹介があってここへ来て、」
「へ?」
「えっと、八雲紫っていう人からだな、人からですね、紹介を受けてここへ来たわけなんだぜ、ですよ」
「え?」
「いや、その、えっと、何か話とか聞いてないのか?ませんか?」
「へ?」
紫の奴め、ちゃんと説明したんだろうな、と思う一方、この男のようなタコ、もといタコのような男の要領の得なさには閉口した。するとさらに奥から、顔がしわくちゃの浅黒い年配の男性が出てきた。その男性がここを仕切っていることはその風貌からもなんとなく察しがついたのであった。
「ああ、魔理沙ちゃん」
「はい、そうですぜ、んん?そうです」
「紫さんのところから話は聞いてるよ。遠いところご苦労だね。さっ、店先で話すのもなんだから、入って入って」
人の好さそうな男性だった。いかにも下町の男といった感じで生気に溢れていた。
奥へ案内されると、そこはもう業者特有の意味不明な段ボールや使用用途の分からぬ機材がぎっしりと詰まっており、なぜだろう、魔理沙は無性に幻想郷が恋しくなった。
「見ての通り、事業自体がたいしたものじゃないから余裕も無くってねぇ」
「はぁ」
「最低賃金ってことで紫さんにも納得してもらっているわけなんだけど、大丈夫かい?」
「はい」
色々な説明を受けた気もするが、魔理沙の頭にはその部分くらいしか残らなかった。
ただ、一刻も早く紫の回復を待つばかりである。今すぐにでも帰って幻想郷を箒で飛び回り弾幕だなんだと遊んで回りたかったのだ。よって説明などは上の空。どうせ仮の宿なのだからと正直なところ魔理沙は思っている。
「まぁ詳しい仕事の流れとかはスズキさんに聞くといいよ。彼女はここで一番長いことやってるからさ」
「……はい」
あれよあれよという間に働くことになった。あれほど恐れていた割にはすんなりと事は進むようだと魔理沙は思った。
流れ。その流れに私は乗っているのか、それとも流れに流されているだけなのだろうか。そんな疑問が頭に過ったが、まあ社会というやつはこんなもんなのかもしれないと若干の安堵を覚えたりもしたのであった。
「あら新人さん?若いわね。よろしくね」
「よろしくお願いしますぜ、んん?します」
口調が先ほどからトチ狂っている魔理沙の前にスズキというパートの女性が現れた。
少しばかりハキハキとした中年女性に作業の一連の流れを説明してもらったのであった。
基本が単純作業ばかりであり、正直言って多少の手先の器用さがあれば充分こなせるレベル。
ふむふむ、お茶菓子が常備されているあたりから察するに、ゆるーくまったりと作業をしている様子が分かる。
「それじゃ今日は説明だけだからオシマイ。仕事に入ってもらうのは明日からよ」
「はいぜ」
「明日は12時出社の3時間勤務だから」
「はぁ!?」
まさかである。魔理沙は己の耳を疑った。最低自給で三時間勤務って、それで生活ができるとでも言うのだろうか?
今すぐ幻想郷に戻り、日本脳炎で突っ伏す紫を叩き起こして問い詰めたかった。それよりなにより背筋に嫌な汗が流れるほどの戦慄が走った。
「まぁここも余裕が無いから仕方ないのよねぇ」
「……そうですぜ」
「明日は私とあともう一人来るわ」
そもそも従業員は何名なのだろう。零細企業特有の吹けば飛ぶような頼りなさに魔理沙はおののいた。
思えば紅魔館だってかなりの人数を雇っていたではないか。いや、あれが企業なのかと言われると疑問なのだが。なるほど、体力が無いとはこういうことなのか。零細おそるべしである。
「で、そのもう一人っていうのがね、ちょっとクセがあって」
「……はぁ」
「ジョージ・ルーカスなのよ」
「」
魔理沙はとうとう言葉を失った。一から十までもう何が何だか分からず、軽やかに幽体離脱をした。
よって帰ってくるまでの道程の記憶というものがほとんど無く、気付けば紫が借りてくれたありがたいボロアパートのささくれだった畳の上に突っ伏していた。ただ、ひたすら泣きたくなって、泣きたくなる自分の惨めさに魔理沙は涙を流したのであった。人は惨めさで泣くのだ。今はもうなんだか幻想郷の風を感じたくてたまらなかった。
「新人さんなの?」
「はいぜ」
「作業早いわね」
「わりと手作業は得意なんだぜです」
「若いっていいわね」
「はははぜ」
「ところで魔理沙ちゃん」
「はいぜ」
「私やっぱりジョージ・ルーカスに嫌がらせされてるみたいなの」
「……?」
「知ってる?ジョージ・ルーカス?」
「映画監督の」
「そう、そのジョージ・ルーカスとね、私昔寝たことあるのよ」
「」
「でも一回きりでね、それ以降、私連絡取らなかったの。そしたら逆恨みされちゃったみたいで」
「」
「作品を観ると私の私生活のことばかり出てくるのよ」
「」
「あっ、魔理沙ちゃん、のし袋取って」
「はいぜ」
「上手ねぇ魔理沙ちゃん」
「割と昔からこういう作業は得意な」
「でね、映画を通じて世界中に私の情報をばらまいてるのよ。どうしてジョージ・ルーカスは私にそんなことするの?魔理沙ちゃん分かる?」
幻想郷には妖怪が棲んでいる。しかし、ここまで妖怪じみた妖怪を魔理沙は知らない。
ルーカスと呼ばれる中年女性はやや焦点の合わない目でさも当然かのように奇妙奇天烈を口にする。電波でも受信してるのだろうか。ひょっとしたら人間社会のスキマにはこうした魑魅魍魎がぎっしりと詰まっていて、幻想郷以上に幻想的な事態になっているのかもしれないと魔理沙は思った。三時間が途方も無く長かった。スズキさんはルーカスを完全にスルーしており、ああ、慣れるって狂気と仲良しになることなのだと知った。
「ジョージ・ルーカスがね……私のことを暗がりからじっと見ててね……」
お歳暮用のタオルをひたすら折っては詰め入れ、折っては詰め入れ、その単純作業も相俟って、魔理沙の精神は削られてゆく。
早晩に発狂するのではないかと思ったのが、タオル問屋での初日であった。
帰り際「ルーカスさん面白いでしょ」と事も無さげに囁いたスズキさんの言葉を忘れることはできない。あの異常事態をそれだけで片付けてしまえるようになったら何かが変わってしまうのではないかと魔理沙はおののいた。
そんなこんなで1週間ほどが経過した。
その日は大手デパートに卸すための品物とあって、スズキさんは少々ピリピリとしていた。
以前から薄々感づいてたことなのだが、彼女はここでのいわゆる「お局」的な存在で、実質リーダーのような役割を果たしている。多少口の利き方も下町育ちゆえか、悪く、他人に注意するときに少しばかり力加減を間違えてはルーカスの機嫌を悪くさせるのだ。そのたびに20分ばかり失踪するルーカスではあり、よくまぁこんなんで仕事と呼べるものだと魔理沙は関心しているのであった。
「魔理沙ちゃん、そこの折り方違うんじゃない?」
「あれ、右から左へじゃなかったけだぜ」
「違うわよ、左から右よ」
「あっ、じゃあ今までの全部逆にしてましたぜ」
「緊張感足りないわねぇ」
内心、魔理沙は「たかが、タオルだろう?」と思っている。そうなのである、タオルなのである。
どこまで行ってもタオルでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
「あと検品も甘すぎ」
「すいませんぜ」
「混入した糸くずは目に見える範囲のものはすべて取り除くって、言ったでしょ?」
「はい、もうちょっと細かく見ていきますぜ」
たかがタオルのことでどうしてこんなにエラソーにしていられるのか。
本当の意味で精神的にキツいのはルーカスではなくて、このお局じゃなかろうか。
この数日間、いくらか優しくしてもらえたのは一種のサービス期間で、おそらくこちらが本性なのであろう。
「ねぇ、魔理沙ちゃん、初対面の人にいきなり悪口言われたときの気持ちって、分かる?」
「は、はぁ、よく分からないですルーカスさん」
「男の人が私に擦れ違いざまにね、悪口言ってくるの。みんなどうしてそんなイジワルするのかしら?」
「はぁ」
なんて言っている間にもスズキさんが何かを発見したらしく、眉がキリキリと吊り上がってゆく。
「魔理沙ちゃん、また糸くず見逃してるわよ」
「はい?あ、すいませんぜ」
「無駄口叩いてるからこういうことになるんじゃない?」
それだけの観察眼があるなら、ルーカルに絡まれている私の事情にも気付いてほしいのだが、とも思ってみたが、魔理沙にその気力は無い。気力が無いし、なにより、この狭い狭い空間内ではやたらと権力を持っているスズキさんである。外から見ればちっぽけな存在であっても、なぜだろう、ここでは逆らえる気がまるでしなかった。
(幻想郷、幻想郷、霊夢、霊夢、助けてくれ。私は私、霧雨魔理沙だろう?そうだろう?)
今はひたすら自分を見失わないようにしながら、長い長い紫のメンテナンス期間の終了を待つしかなかった。
「魔理沙ちゃん、よく頑張ってるじゃないか」
「ありがとうございますぜ」
例の浅黒い男性、ここの店長であるサイトウさんがこのような言葉をかけたのは、きっと普段からスズキさんとのやり取りを観ていたからだろう。規模は小さくともやはり長年人の上に立って仕切ってきた人間なのだ。よく見ていると魔理沙は感心した。
「本当なら4時間勤務にしてあげたいんだけど、ウチは体力が無くてねぇ」
リーダーのスズキさんだけが5時間勤務で、そのほか4時間勤務が数名、魔理沙とルーカスだけが3時間勤務といった状態。なんという、なんという、ミクロな世界なんだろうか。ピンからキリまでという言葉のキリのキリを生きている感じがする。きっと、私の人生、これ以上落ちぶれることは無いだろうとも魔理沙は思ったのだが、それを直接口に出すのはさすがに憚られた。
なんだかんだで、みんな一生懸命働いているのだ。
取引先と電話でやりとりしているサイトウさんの姿を見ると笑ってはいけない気がしてきたのであった。
あのタコの人も、重さ数十キロはあるタオルの束を右から左へせわしなく移動させているではないか。
以前、魔理沙はタコから指導を受けたことがある。「その持ち方を続けてると、腰、痛めちゃうよ」と。そう言って両脚を蟹股にし、腰をまっすぐにしたまま脚のみで荷物を持ち上げる術を学んだ。ちょうど電車のパンタグラフのような動きである。
「これなら、腰、痛めないでしょ」
いったいこの人は何十年間ここに勤めているのだろう?この感動的な薄給でどうやって生活をしているのだろう?ここから脱出する気はもうないのだろうか?そう思うとその後ろ姿に得体の知れない不吉なものを感じた。だが、指をさして笑うのは違うと魔理沙は思った。
「いかん、いかん、私は幻想郷に帰るんだ。ここでタオルに埋没する人生なんて御免だぜ。私は、もっと高いところを飛んでたんだ、ずっとずっと高いところを、そうだろ、」
パートは芳しくもおばちゃん揃いであったが、その中でヤマグチさんだけは少しばかり若かくて、そのせいか魔理沙と話が合った。器量も悪くないというのに、なぜ、こんなところで、と思わざるを得なかった。
「魔理沙ちゃんは家に帰ってから何してるの?」
「そりゃ魔法の…いや、趣味でちょっと学問的な研究をしてるんだぜ」
「お勉強?」
「まぁだいたいそんなとこだぜ」
「勉強だなんて頭いいのねぇ」
「?」
「あたし、昔から勉強とか全然できなくって、親からは高校へ通う意味なんて無いって言われて、中学を卒業してから働いてるの。バカなの。ここの前にもいくつか職場を転々としたんだけど、なんでかしらね、頑張ってみたんだけど、どうやらあたしには頭を使うことが向いてないみたい。私はこうしてタオルを折り続けているのが丁度いいようにできているみたいなの。魔理沙ちゃんみたいにお勉強ができる人がうらやましいなぁ」
「…………」
ヤマグチさんの屈託のない顔を見て、魔理沙はなんだか口の奥がつんと痛んだ。
自虐ではないのだ。自分自身を客観的に分析するとどうしてもこういう語り口になってしまうのだ。
ああ、各界で劇的な才能を開花させて活躍している秀でた人間の裏に、どれだけのヤマグチさんがいるのだろう。
「私の居場所はこんなところではなくて幻想郷だ」と言い聞かせている自分は、いったいなんなんだろう。
「あたしね、こういう仕事場って大切だと思うの。あまり頭を使わない緩くて単純作業ができる仕事場。最近じゃ工場とかがみんな東南アジアのほうへ移って行って、数は減ってきているみたいだけど、昔はこの町にも、こういうところ、もっと沢山あったのよ?もしも、それがすべて無くなっちゃったら、あたしみたいな人間はどうやって生きていけばいいんだろうって、たまに、考えるの。能力を磨いて自分の価値を高めるって、みんなそればっかりだけど、誰でもできる簡単なことすらできない人もいるってこと、分かって欲しい」
年末の繁忙期に、恐怖が訪れた。チャイニーズの襲来である。
質の悪い中国産タオルが大量に届き、スズキさんは発狂寸前にまで眉をいからせていた。
その面をデスマスクの如く刻み込んだら、般若と並ぶほどの鬼の姿が出来上がるのであろうってくらいに、その貌は芸術的だった。
「もう!中国ってキライ!」
「ああ、私もそう思うぜ」
「あたしも同感」
「どうしてこういうイヤガラセするのかしら?」
ただでさえ忙しい仕事場に中国産タオルは並べられ、検品は膨大な時間がかかった。
ゴミや糸くずだらけであり、悪くすれば穴が開いていて商品にならず、挙句の果てに意味不明の黄ばみを帯びているものすらもあり、魔理沙たちは激怒した。
「タオルをナメてんのよあいつらは!」
「マスタースパークかましましょう」
「ああ、ネズミの糞が入ってる」
「ウフフ、私ピーナッツ好きなの」
これが大手ビールメーカーが配る粗品だと言うのだから、あきれたものである。
もうちょっと金を叩けば国産品で賄えるというのに、ひょっとしたら内情はかなりギリギリなのかもしれないとも思った。こうなってくると魔理沙、価値観が大きく変動し、何が何でも綺麗なタオルへ生まれ変わらせてやろうと必死でゴミを取り除く。その頃にはすでに幻想郷の風景を思い出す暇などなくて、今はひたすら納品に間に合うように高性能高速タオル折りマシーンへと生まれ変わりつつあったのだ。
「毎年のことなの。そう、去年だって一昨年だってずっとそうだった。私はこれを乗り切ってきたのよ数十年間!」
スズキさんが灼熱モードになる、そんな修羅場の中、パンタグラフの動きをするタコさんが新たな段ボールを搬入してきた。
その中にさらなる魔物が潜んでいることを魔理沙たちは知らなかった。
「そういやパキスタンってどこにあるんでしょ」
ずしん、と地響きがする段ボールが数箱連続で置かれ、魔理沙たちは背筋に戦慄が走った。
東南アジアからの刺客、パキスタン製タオルは、中国製をはるか下回るクオリティを発揮し、一同は無駄口をたたく暇も無く格闘を続けたのであった。年末、都会が華やぎ浮かれるその裏、世界の隅の隅のタオル問屋で寒さを吹き飛ばす熱いバトルが繰り広げられたことは、あまりにミクロ過ぎて誰も知らない。
もちろん幻想郷の人々も、パキスタン人も、知らないのであった。
年が明けるとまた通常営業へ戻り、まったりとお茶を飲みながら注文のタオルを折る作業が始まる。
暇になると魔理沙はつい考えてみたりもする。「私、何やってるんだろう」と。なんだか途方も無く人生を浪費している感が出てきた。幻想郷へ帰りたくなってきた。つまり今までの魔理沙に戻ったのである。
「また帰り道で男の人に付けられたの。私みたいな貧乏なオバサンを狙っても意味無いのに、どうしてこんなことをするのかしら?不思議よね?」
あれほど鮮烈な感動を与えてくれたルーカスの話も食傷気味だなぁとすら思えるようになってきた。
しかし、性根が努力気質にできている魔理沙は己の意志とは別に自然と作業も上達して、その検品眼はわずかなシミやゴミすらも見逃さない。幻想郷であれほど活躍していた魔理沙のリソースは今はこの一点にのみ集中させているのだから、それもそのはずである。
それでもスズキさんの正確さと手早さにはかなわないのであった。
「はい、これで納品分おしまい。この時期は楽で助かるわ」
いったい何なんだろう。このスズキのオバサンがどれだけ努力をしようとも賃金はたかが知れたものである。
その一方で、どう見てもラクチンな仕事をしながらこの数倍を稼いでいる人たちがいる。魔理沙は人間の棲む社会というやつがいよいよ分からなくなってきた。働けど暮らしが楽にならなかった石川啄木はもっぱら女遊びに金を費やしており、その業にまみれたエロハンドをじっと見つめて嘆いていたが、今の魔理沙はセロテープの使い過ぎでほとんど指紋がなくなった指をじっと見つめて休日も終日ボロアパートに蟄居する生活を送っている。
そして、今治タオルの降臨である。
全国タオルマニア垂涎の逸品、愛媛の至宝、高級品である今治タオルがやってきたのだ。
「噂には聞いていたが、おいおい、こいつはこいつは!」
魔理沙は急激にテンションが上がった。
およそ一年近く勤め上げた魔理沙にとっては、幻想郷、弾幕、妖怪、そんな異世界の単語が消し飛ぶほどの衝撃であった。
「密度が、密度が全然違うじゃないか!しかもなんだ、自ら光を発してるかのように白く輝いてるぞ!」
これを霊夢やらに聞かれたら大層気色悪がられるだろう、という客観的視点も無くなっていた。
そう、ある時から魔理沙の脳内のとある領域に、タオル職人という闇の人格が芽生え始めていたのだ。
「すげぇ、すげぇよスズキさん、これ、」
「こらこら魔理沙ちゃん、あまり興奮しない」
「これを折るだなんて光栄だぜ」
場に応じて価値観は変動してゆくものである。
幻想郷では弾幕というよく分からないやたらと難度の高いお遊びに価値が置かれており、魔理沙がそれに心血を注いだのと同様、今ここでは今治こそが至高であった。
「でもいい魔理沙ちゃん?今日と明日はルーカスがお休みじゃない?」
「そういえばそうだな」
「あの人、たまに身体から何かの削りカスみたいな茶色い何かを出すじゃない。普段の粗品用のタオルならまだしも、今治にそれは禁物だわ」
「するとつまり」
「私達だけで折っちゃいましょう。こっそりと」
了解、とばかりに細心の注意を払い作業に取り掛かった。そのクオリティに敬意すらも覚えるほどである。
霧雨魔理沙。否、今は下町のとあるタオル問屋の魔理沙ちゃんは、すっかり仕事人になっていたのだった。
そんなある日のことである。アパートに戻ると鍵をかけたはずの密室に一通の手紙が置き去りにされていた。
差し出し人は、藍であった。
そこには幻想郷のメンテナンスが終了したから戻ってきて構わないという旨が書かれていて……。
「そっかぁ、魔理沙ちゃん行っちゃうのかぁ」
「クソお世話になりました」
「まぁ家の都合じゃ仕方ないか。それにしても残念だなぁ」
去り際を残念に思ってくれる人がいる。
イジワルかもしれないが魔理沙はそれが一番嬉しかったのであった。
最後の日、店長のサイトウさんは日割りで賃金を手渡してくれて、「頑張るんだよ」と声をかけてくれたのであった。
月並みな言葉ではあるが、きっとこの人は、ここで「頑張り」続けて生きてきたんだろうと思うと、重みが違った。
「搬入手伝ってくれてありがとうね、魔理沙ちゃん」
「タコさんも腰に気を付けて頑張ってください」
「ふぅん、魔理沙ちゃん辞めちゃうんだ」
「ルーカスさんも妄想はほどほどにしてください」
「まったく、良いタオル職人になってきたと思ったのに。でも魔理沙ちゃんなら大丈夫よ。私の下でもきちんと働いてこれたんだから、どこに行っても大丈夫」
「スズキさん……」
その言葉を、ずっと誰かから言って欲しかった気がした。
なんだかんだで世間知らずな魔理沙である。幼い頃から幻想郷で暮らし続けた魔理沙にとって、外の世界とは魔界よりも未知であった。聞けば、おそろしく、過酷で、残酷で、そんな出来事ばかりを耳にし続けてきたので、すっかり怖気づいて遠ざけてばかりいた。それがこんなふうに言われると、自信というものが生まれてきて胸が熱くなった。
「魔理沙ちゃん、お勉強頑張ってね」
「はい、ヤマグチさん」
「私が知らない世界をいっぱい見てきてね」
どうしてこの人はこんなことを屈託のない顔で言えるのだろう?
働いている中で分かったのだが、ヤマグチさんは足し算や引き算ができない。ほんとうの本当にできないのだ。
スズキさんはその事情をよく理解していて、それをサポートしている姿を何度も見てきた。ヤマグチさんは生まれつき飛ぶことのできない鳥みたいなものである。もちろん魔理沙は飛べる。箒にまたがれば幻想郷の空を、いや、その気になればこの秋の高い空をもっと高くまで飛べるのだ。知らない世界を見てきてね、と地上から何の妬みも無く言えるヤマグチさんはなんてステキな人なんだろうと思った。
そして、向こうの空に白くそびえるスカイツリーを背に、魔理沙はタオル問屋から去ったのであった。
「というわけで、私、八雲紫の快気祝いを行いたいと思います!」
ふつうそういうのって自分で主催するもんじゃないだろうと魔理沙は思った。
それは他の幻想郷の面々も同じで、いくつもの舌打が耳に届いてきた。なんだかんだでみんな大変だったのであろう。案の定、人は集まらず、博麗神社の境内で細々と幻想郷復活パーティーは執り行われたのであった。天狗の山のほうで同趣旨の宴が盛大に行われていることは、きっと紫には教えない方がいいのだろう。
「何よ!何よ!伝染病で倒れたんだから仕方ないじゃない!不可抗力じゃない!365日結界を張り続けてるんだから病欠くらい許してよ!」
こうも哀れに泣き酒を呑んでいる紫を見ると、さすがに魔理沙も優しくする他なかった。
外の世界のボロアパートでモヤシ炒めを三日連続で食べた日などは、あてつけで博麗神社でモヤシ栽培でもしてやろうとも思ったが、こうなるとそういう気も起きないのだ。
「まぁまぁ紫様。なんだかんだでみんな紫様のことを慕ってくれてますよ」
「じゃあなんでだれもこないのよ」
「戻ってきてるじゃないですか、紫様の幻想郷に、みんな。だから大丈夫ですよ」
おやおや、藍ってば意外と優しいじゃないか。
普段分からなかったが藍はこういう優しさを持っているヤツだったのだ。
それに気付いたのは、魔理沙が外の世界に出たからだろうか。景色がちょっとだけ違って見えた気がした。
「やいやい紫。下町のタオル問屋なんて、なんでそんなマニアックな場所に私を追いやったんだ?」
「べつに深い理由もないわよ」
「どこだって良かった、ってんじゃないだろうな、おい、紫」
「その通りよ、どこだって良かったの。あなたは人間だから、一度は外の世界に触れたほうがいいんじゃないかっていう、ただの思い付き」
痩せこけた霊夢が餓鬼のように食べ物を喰い散らかす傍ら、紫は泣きつかれたのかコタツに入ってすやすやと眠りに就いたのであった。
それから数日もするとすっかり幻想郷は通常営業へ戻り、妖怪どもが今まで通りの生活を続けていた。
魔理沙の事情を少しだけ聞きかじった射命丸文などは下界の体験談の取材だなんだとうるさかった。
「で、結局、魔理沙さんは外の世界で何をされてたんですかぁ?」
「んと、だな、その、まあ、」
「んん?」
「まあ、風来坊っていうのかな、ヒッピーっていうのかな、そんな楽しく自由で悠々自適な生活を続けていたのだよ私は」
「おやおや、魔理沙さんらしくって良いですねぇ」
「そうともさ」
「私はてっきりヒモ生活でもしてるんじゃないかと疑っていたんですが」
文の尻を蹴り飛ばすとドアを閉めて魔理沙は思った。
やっぱりなんだかあの問屋で働いていたことがどうしても言えなかったのだ。
途方も無くミクロなあの世界のことを話したならどんな目で見られるかと思うと、やっぱりおっかなくって仕方がない。
ふと新聞受けを見ると文々新聞と一緒に粗品が入っていた。あのあと文が投函したに違いなかった。八雲紫なりの「御迷惑をおかけしました」だろうか。それにしても毎度毎度贈り物がタオルというのは如何なものだろうか。やっぱりセンスが無い。
「ふぅむ、どれどれ。なるほど、テープはきっちり貼られてるな。熨斗紙はきっちり中央に曲がらず来ている。そうそう、こういうのが大事なんだ。中身はどうだろう。くくく、この目の荒さはどう見ても国産品じゃないな。紫の奴、そうとうケチなんだなぁ」
幻想郷、霧雨魔理沙の家の洗面所には今治タオルが置いてある。
お宝として保管するのではなく、きちんと毎朝そいつを使っているのだ。
「くくく、ほら見ろ、パキスタン製だ、なんて薄いタオルなんだ、けけけ、」
ここでの生活に慣れ、あちらの生活を次第に忘れていっても、時折、魔理沙の脳のとある領域に巣食うタオル職人たる闇の人格が顔を覗かせるのであった。
……でも売れない同人や創想話作家はミクロどころかナノ世界
資本主義における単価の引き絞りとアングラコンテンツは別ではあるけども
私が喜びます
魔理沙をここまで臭く書けるのは非常に羨ましく感じます。
クソ面白かったです。
>ああ、各界で劇的な才能を開花させて活躍している秀でた人間の裏に、どれだけのヤマグチさんがいるのだろう。
この一文はとてもすごいと思うとともに目尻に涙が浮かびます
就職したばかりの若者、異業種へ転職する時の素直な感想ですな
一度その業界に足を突っ込むと、日常生活でもちょっと細かく見るようになってしまう
ラストの魔理沙はその辺りが、ミクロな世界でとは言え経験を得たのだなって感じで面白かったです
ルーカスはまぁ、ノーコメントで
ちなみにマトモな環境で働かせてもらえるだけマシっすよ
自分の行ってた零細の町工場は粉モノを扱う(塵肺の危険性)のにマスク無し、熱いモノを扱う(300度の熱)のに耐火、耐熱の手袋では無く軍手三枚重ねでした
ところで、今活タオルは愛知じゃなくて愛媛ですよ。
どんな世界でも生きている人がいるのぜ
なんかおもしろい
おそろく碌でもないんだろうけど
日本脳炎なんか出てきたときは大丈夫かと心配しましたが、魔理沙の姿が生き生きと書かれていて面白かったです
ただ小説として面白い。
どうしようもなく好み一直線。
タオル職人以外の、メンテナンス中の疎開した幻想郷住人たちのエピソードも聞いてみたいものだ。
面白かったです。
こんな頭のおかしい作品はなかなかお目にかかれない
でも少し悲しくなった
この魔理沙が見たかったんだよ!
魔理沙の奮闘が本当に何から何まで最高でした
ヤマグチさんがマジでいい人過ぎてつらかったです