私 八雲紫の部下である八雲藍は、冬が近くなると挙動不審になります。
いや、私の式は冬にお脳の活動まで冬眠するとかじゃない。
これには明確な理由がある。
藍が式の前に妖獣である以上、決して逆らえない理由が。
それで二日前くらいに始まったおかしな挙動は、今朝も続いていた。
――◇――
藍が朝ご飯を作っているとき、時たま私はその後姿を眺めている。
割烹着を着て野菜を刻み、味噌を鍋に溶かす姿は見ていて飽きない。
それに、料理をしている藍は自信に溢れていてとても凛々しい。何だか、また惚れ直しそうなのだ。
ところが、その素敵な立ち姿が最近おかしい。
ふとした時に無意味に肩を上げ下げ。まるで呼吸が苦しそうだが、上下しているだけだ。
そして背中をむずむずとくねらせる。前後に小さくおじぎと背伸びを繰り返す感じ。
一番動きが大きいのが尻尾。わっさわっさと9本の尻尾を揺らして風を起こしている。そのまま床の掃除ができそうね。
傍で見ていると実に不自然だが、本人はその自覚が無く、ほとんど無意識でやっているらしい。
これが普段から四六時中続く様だったら問題だが、この時期はしょうがない。
私は(もうそんな季節なのねー)と軽く今年1年間に思いを馳せた。
朝食を済ませ、食後のお茶でまったりしながら、私は藍に尋ねる。
無論、先刻の挙動不審の件だ。だが、私は理由を知っているので事も無げに問う。
その理由は、これだ。
「藍。あなたもう毛変わりが始まったでしょ?」
「ええ、そうですね。今年はもうちょっと先かと思ったのですが」
そう藍は、頭が痒いのか帽子の上からカリカリと耳元を掻きつつ、そう体調を述べた。
狐は年2回、夏と冬に体毛が短期間で入れ替わる。
夏になれば密度の薄い夏毛で暑さを逃がし、冬は逆に密度の濃いたっぷりの冬毛に生え変わって寒さを凌ぐ。
そしてこの毛変わりの時期になると、猛烈に体がむず痒くなる。
全身の毛を総取替えするのだ。床屋で刈った毛が服の内側に入る違和感を全身で覚える、と言ったらこの感覚が伝わるだろう。
それで、今朝から奇妙な揺れを起こしていたのだ。
放っておいて害があるわけではないが、やはり式を操る者としては式の体調管理も務めのうち。
固い言い回しだが、実は解決は容易で、そしてお互いに楽しいものとなる。
今日は天気も良いし、差し当たって火急の用事もなし。
私は藍にこう提案する。
「じゃ、今日はブラッシングをしてあげる。日が高くなったら、縁側にいらっしゃいな」
その言葉に藍は「はい、わかりました」と、いつもの事務的な返事。
だけど私は、その後ろでムクリと膨らんだ尻尾を目で追ってしまう。
(これは痒いせいじゃないわよね)と、私は頬を綻ばせた。
――◇――
この季節の朝方や夜中は冷えるけど、真っ昼間のこの時間帯は、日によりまだまだ太陽が頑張ってくれる。
今日はそんな日だったらしく、さんさんと日が降り注ぐ縁側は羽織るもの無しで充分過ごせる陽気だ。
私はその縁側に腰掛け、藍を待つ。
しばらく愛用のブラシを弄んで暇を潰していたら、藍がやってきた。
どうやら家事もひと段落したらしい。
「ご苦労様。それじゃ、変身解いて」
私がそう命じると、藍はこくりと頷いて片手で印を結ぶ。
するとドロンと煙幕の様な煙が辺りを包み、その煙が晴れた場所に一匹の狐がちょこんと4足でお座りしていた。
大きさは、仔狐といったほうがふさわしい。クリクリと丸い目にさらさらとした体毛。まさに抱きしめたくなる愛らしさだ。
だが、その瞳は金色に輝き尻尾はモフモフの九尾。そして頭に乗っかったお札付の三角耳帽子が、確かに藍であることを示していた。
「相変わらず、ちっちゃくて可愛いわねぇ」
「……紫様。毎回訂正しているのですが、これも厳密に言えば本来の姿ではないのです。
幼少期の姿に変身しなおすのは、結構気恥ずかしいんですよ」
「何言ってるの。あなた素の状態になったら、この庭にも入りきらない大きさでしょう。
とてもじゃないけど、この小さなブラシでは日が暮れるわよ。
農耕用のフォークかデッキブラシで毛皮を擦られたいなら、その姿でも構わないけどね」
「むうぅ」
藍は半分呆れたように不満を訴えたが、私の反駁に不承不承と納得したようだ。
私はクスリと微笑むと、自分の膝をポンと叩いて藍を誘った。
すると藍はついっと視線を照れた様に逸らしたが、とてとてと短い歩幅で歩み寄り、私の膝の上で軽く背を曲げ寝そべった。
まるで親に丸まって添い寝しているみたいだ。
実を言うと、この姿を所望する理由は私の趣味が大半だし、そのことを藍もよく知っている。
だってこんなに柔らかくてあったかい藍をいじり倒せる機会など、滅多に無い。
それでもなお、藍は私に付き合ってくれる。
その理由は藍自身が、こういう大義名分がないとリラックスして私に甘えられないから、と顔を真っ赤にしてうつむききながら白状してくれた。
誰も知らない傾国の美女の意外に初心な一面に、私は心をくすぐられる。
「帽子、取るわね」
「はい」
私は布製の帽子を取って、藍の頭部を露出させる。
まずは、ぴんと立った三角形の耳の間をゆっくり撫でてやる。
少し張りのある夏毛の感触だ。でも幾度となく撫でてやると、奥の方に絹糸のように繊細で淡い色の冬毛が確認できた。
藍は撫でられる度に、耳をハタハタと動かして嬉しそうだ。
とここで、私は浅く爪を立てて頭頂部をカリカリっと掻いてやる。
「んっ」
「あら、痛かったかしら?」
「いえ……ちょうどいいです。あの、もっとしてください」
「ふふふ、じゃあこの辺をはどお?」
「あっ、そこ……いいです……」
藍は獣の状態では、後頭部周辺を一人で掻くのが大変だ。
故に、その辺りをこうして丁寧に優しく掻かれるのが大層な快感らしい。
私は手のひら全体を使って洗髪する様に、藍の耳周りからうなじまで丹念に擦ってやる。
すると、指に藍の細かい体毛が絡みついてきた。夏毛が落ち始めたのだ。
これには藍も、痒いところに手が届いた心境でうっとりと陶酔する。
「ゆ、紫様……あの、その……」
「わかってるわ。次は身体の方ね……ってあれ?
ブラシどこにやったけな~? スキマに仕舞っちゃったかしら~?」
もう我慢できないと藍がブラシをおねだりするから、つい失くしたふりをしていじわるしてしまった。
そしたら、藍が潤んだ瞳でこちらを見上げ、切なそうに全身を私に擦り付けてきた。
まったくこの子は、私の嗜虐心と庇護欲を同時にそそってくれる。
これ以上焦らしても可哀想なので、私はブラシを仰々しく手に持つ。長方形を横にした幅広な形の、藍専用ブラシだ。
その得物を見て、藍は急かすように私の膝をてしてしと前足で叩く。
私も辛抱堪らなくなって、藍の背中にブラシ当てた。
そして、毛並みに沿って尻尾の方向に長く梳いてやる。
しゅっしゅっと二、三回ブラシを滑らせると、ブラシには茶色っぽい夏毛がごっそりと付着した。
それを指で取って庭の風に始末を任せ、何度もブラシを往復させる。
衣擦れの様な音が響き、藍の毛並みが徐々にふわふわとしたキメ細かい冬毛へと変化していく。
さて藍といえば、完全に四肢が弛緩し、ふにゃりと身体を私にあずけていた。
目は満足げに細められ、時々「んん……」とか「ふぅーん……」といった蕩けそうな吐息が聞こえてくる。
よほど気持ちが良いのか、耳が風にたゆたう様にゆったり揺れ、尻尾が別の生き物の様にピクピクと微反応していた。
「じゃ、お腹もやるから、ころんってして」
「ふぁい」
ちょっと呂律が怪しいが、藍が膝の上でよいしょよいしょと仰向けになる。
藍の純白の毛で覆われたお腹が現れた。後ろ足はそのままに、前足をちょこんと招くように折って顔の近くに持ってくる。
お腹の白と、足の黒と、顔や全体の金色のコントラストが美しい。
私は、この姿がとても美しく、とてもいじらしいと感じる。
聡明で気高い妖狐のトップたる九尾狐が、弱点の下腹を躊躇することなく晒す。
確固たる信頼関係がなければ不可視な姿。私に何をされても全てを受け入れるという証。
ぞくぞくと、藍を支配しているという倒錯めいた昂ぶりが脊椎から脳を侵す。
でも、そんなある意味野蛮な情欲はスパイス程度で、ほとんどは
(前足を口元に持ってきちゃって、カワイイわねもう!
はあぁ~、そんなに正面からじっと見つめられたら、私……どうにでもされちゃいそうよ……)
である。
ともかく、このまま乙女回路をキュンキュン空回りさせていてもしょうがないので、ブラシを構えてお腹も梳く。
でもいくら信頼関係があるとはいえ、やはり腹を他者に触られるのは生理的にダメらしい。
ブラシが腹に軽く触れただけで、藍の体がビクリと硬直する。
そんな時、私は毎年こう対処している。
藍の鼻面に私の手を持っていく。
藍はすんすんと鼻を鳴らし、口全体を手にグリグリと押し付けてくる。
すると、私の匂いを感じて落ち着いたのか、緊張から来るこわばりがやわらぐ。
そこを見計らって、私は慎重かつ素早くお腹のブラッシングを終える。
気を使わせたと藍は申し訳なさそうに目を伏せるが、これは狐の習性なのだから仕方ない。
全然気にしてないわよと顎の下を撫でてあげたら、藍はくすぐったそうに頬の肉を持ち上げて、これでもかと尻尾を振っていた。
そうだ。ここが一番のハイライト。
私は藍の尻尾の手入れに取り掛かる。
藍の九尾は、トレードマークと言っていいほど存在感がある。
色合いやバランス共に文句なしの立派な尻尾だが、なんといってもこのモフモフ感がたまらないのだ。
ふさふさと黄色い滝の様に流れる毛は、適度な弾力をもち肌触りは最高。おまけにぬくぬく人肌温度だ。
藍の尻尾に寄りかかって寝たことがあるが、高級羽毛布団が跣で逃げ出す至高の眠りが実現できたくらいなのだ。
ともかくそんな藍の尻尾を、私は気合を入れつつブラシも入れる。
とはいっても、乱暴にならない様にゆっくりと丁寧に。
根元から先まで一気にやろうとすると、毛が絡んで藍に痛い思いをさせてしまうので、細かくブラシを使う。
一本終えるのに体をブラッシングするぐらいの時間がかかるが、藍はむしろその時間を味わうように陶然と目を閉じる。
私も大事な宝物を扱う様に、じっくりと尻尾を撫で付けた。
「あっ……んぅ……ふうっ」
「……声、出てる。藍は尻尾が敏感なのよねー?」
「い、いえ……そんな」
「ふーん……はむっ」
「ひゃあ!?」
私は藍の尻尾に食いつく。
正確に言えば、わさわさと生い茂る真ん中辺りに顔をうずめて、あむあむと甘噛みしてやる。
歯に尻尾本体のこりっとした感触を感じたので、それに沿って純白の先端まで金色の林を口で征服しにかかる。
それと同時に、尻尾の付け根を空いた手でこちょこちょとくすぐる。
「あぁ! やっ……そんな強く……はぁぁ……」
「尻尾敏感なのよねー? ねー?」
「うあぁ……は、はい……あっ、尻尾をこうされると……んっ……声が出ちゃいますぅ……」
藍が嘘丸出しの可愛い強情を張るもんだから、思わず本音を漏らす状況に追い込んでしまった。
だが割とあっさり陥落してしまったので、ちょっとつまらない。
しかし悪乗りだったとちょっぴり反省。
私は「ごめんねぇ」と額の辺りを撫でたら、何故か切なげな熱っぽい視線を送られてしまった。
もしかして、満更でもなかった?
あらいやだ。なんだかイケナイ気分になってきたわ私。とっても癖になりそう。
でもここで鬼神のごとく藍を嬲ったりなんかはしない。それをしたら、花畑に生息するリグルを傘で小突く妖怪と変わりがない。
私はこれでも貞淑な妖怪で通っているのですわ。
だから、できるだけ貞淑に嬲ってあげましょう。
「じゃ、残りは8本ね。今回は特別にぜーんぶ口でしてあげるわ」
「え!? いや大丈夫ですから! あの本当に休ませはひゃあぁぁん!! こおぉぉん!」
あー、おいしい。藍の尻尾と嬌声はいつも格別ね。
こうして私がいろんな意味でお腹一杯になるまで、私の特別サービスは一刻程続いた。
――◇――
9本全てブラッシング&口責めし終えると、全体の太さが二倍近くになった。
毛の密度が増えて、その間に空気がたっぷり含まれたせいだ。
これは見た目にも暖かそうだ。また、夏毛が綺麗に落ちた証拠でもある。
あと、藍の息が絶え絶えで意識も落ちかかっているけど……まぁ、幸せそうな顔しているから大丈夫よね。
そんな藍へ最後の仕上げに、私は丸い缶に入った油性クリームの蓋を開ける。
これは植物由来の油脂に蜜蝋と香料を加えた一品で、毎回仕上げに塗ってあげている。
手に適量取って薄く延ばし、まずはさっきと逆の順番で尻尾を両手で包み込むようにしごく。
すると、尻尾の毛がしっとりとスマートにまとまった。
続いて背中、お腹、頭と隅々まで磨く様にクリームをつける。
そして私の手が耳元まで到達する頃、柔らかな陽光に照らされ、藍の毛並みがつやつやと輝いていた。
同時に香料と藍の香りが混ざり合い、かぐわしいフレグランスとなって私の鼻を楽しませる。
こうして全ての工程が完了した。
赤茶色が濃かった夏毛から、淡い山吹色の冬毛姿に藍は姿を変えた。
もう痒そうな素振りは見せず、私の膝で「ほぅ」と呼吸を整えた。
私は藍の体や手足を、マッサージする様に片手で揉んであげる。
同じ姿勢で凝っただろうし、普段の働きを慰労したかったのだ。
すると、藍は揉みほぐされた所からじんわりと癒しが染み込んできたのか、深くゆっくりとした呼吸になる。
くあぁ~と欠伸をひとつして、うとうとと目が閉じかかっていた。
「このまま休んでもいいわよ。私がずっと見ててあげるから」
その言葉が契機となり、藍はゆっくりと瞼を下す。
間もなく藍は脱力し、口からは「すぅ、すぅ」と静かな寝息が聞こえてくる。
まるで子供の様に無防備な姿。
かつて私の寝首を掻こうと隙を窺い、誰も信用しないで寝姿も見せない出会った当時の藍からは考えられない。
そんな藍が、私は愛おしくてたまらない。
時が経っても変わらず、むしろ時が経つごとにその想いは強くなっていく。
毎年こうやって毛を梳いてあげる度に、そう私は思うのだ。
この恒例行事が終わったら、私はもう冬眠に入る。
あまり寂しい思いをしたくもされたくもないが、これも私の習性だから仕方ない。
それでもこうしてたっぷり濃密に触れ合っておくことで、お互いに次また来る春を想い、しばし別れの季節を耐えることができる。
意識は繋がり合えないけれど、心を繋げ合える。
「来年もよろしくね、藍……」
木枯らしがひゅるりと吹き付ける。やはり夕方になると少し肌寒い。
私は寒いのが苦手だから、また春一番が吹く頃に会いましょう。
幻想郷の冬はもうすぐです。
【終】
いや、私の式は冬にお脳の活動まで冬眠するとかじゃない。
これには明確な理由がある。
藍が式の前に妖獣である以上、決して逆らえない理由が。
それで二日前くらいに始まったおかしな挙動は、今朝も続いていた。
――◇――
藍が朝ご飯を作っているとき、時たま私はその後姿を眺めている。
割烹着を着て野菜を刻み、味噌を鍋に溶かす姿は見ていて飽きない。
それに、料理をしている藍は自信に溢れていてとても凛々しい。何だか、また惚れ直しそうなのだ。
ところが、その素敵な立ち姿が最近おかしい。
ふとした時に無意味に肩を上げ下げ。まるで呼吸が苦しそうだが、上下しているだけだ。
そして背中をむずむずとくねらせる。前後に小さくおじぎと背伸びを繰り返す感じ。
一番動きが大きいのが尻尾。わっさわっさと9本の尻尾を揺らして風を起こしている。そのまま床の掃除ができそうね。
傍で見ていると実に不自然だが、本人はその自覚が無く、ほとんど無意識でやっているらしい。
これが普段から四六時中続く様だったら問題だが、この時期はしょうがない。
私は(もうそんな季節なのねー)と軽く今年1年間に思いを馳せた。
朝食を済ませ、食後のお茶でまったりしながら、私は藍に尋ねる。
無論、先刻の挙動不審の件だ。だが、私は理由を知っているので事も無げに問う。
その理由は、これだ。
「藍。あなたもう毛変わりが始まったでしょ?」
「ええ、そうですね。今年はもうちょっと先かと思ったのですが」
そう藍は、頭が痒いのか帽子の上からカリカリと耳元を掻きつつ、そう体調を述べた。
狐は年2回、夏と冬に体毛が短期間で入れ替わる。
夏になれば密度の薄い夏毛で暑さを逃がし、冬は逆に密度の濃いたっぷりの冬毛に生え変わって寒さを凌ぐ。
そしてこの毛変わりの時期になると、猛烈に体がむず痒くなる。
全身の毛を総取替えするのだ。床屋で刈った毛が服の内側に入る違和感を全身で覚える、と言ったらこの感覚が伝わるだろう。
それで、今朝から奇妙な揺れを起こしていたのだ。
放っておいて害があるわけではないが、やはり式を操る者としては式の体調管理も務めのうち。
固い言い回しだが、実は解決は容易で、そしてお互いに楽しいものとなる。
今日は天気も良いし、差し当たって火急の用事もなし。
私は藍にこう提案する。
「じゃ、今日はブラッシングをしてあげる。日が高くなったら、縁側にいらっしゃいな」
その言葉に藍は「はい、わかりました」と、いつもの事務的な返事。
だけど私は、その後ろでムクリと膨らんだ尻尾を目で追ってしまう。
(これは痒いせいじゃないわよね)と、私は頬を綻ばせた。
――◇――
この季節の朝方や夜中は冷えるけど、真っ昼間のこの時間帯は、日によりまだまだ太陽が頑張ってくれる。
今日はそんな日だったらしく、さんさんと日が降り注ぐ縁側は羽織るもの無しで充分過ごせる陽気だ。
私はその縁側に腰掛け、藍を待つ。
しばらく愛用のブラシを弄んで暇を潰していたら、藍がやってきた。
どうやら家事もひと段落したらしい。
「ご苦労様。それじゃ、変身解いて」
私がそう命じると、藍はこくりと頷いて片手で印を結ぶ。
するとドロンと煙幕の様な煙が辺りを包み、その煙が晴れた場所に一匹の狐がちょこんと4足でお座りしていた。
大きさは、仔狐といったほうがふさわしい。クリクリと丸い目にさらさらとした体毛。まさに抱きしめたくなる愛らしさだ。
だが、その瞳は金色に輝き尻尾はモフモフの九尾。そして頭に乗っかったお札付の三角耳帽子が、確かに藍であることを示していた。
「相変わらず、ちっちゃくて可愛いわねぇ」
「……紫様。毎回訂正しているのですが、これも厳密に言えば本来の姿ではないのです。
幼少期の姿に変身しなおすのは、結構気恥ずかしいんですよ」
「何言ってるの。あなた素の状態になったら、この庭にも入りきらない大きさでしょう。
とてもじゃないけど、この小さなブラシでは日が暮れるわよ。
農耕用のフォークかデッキブラシで毛皮を擦られたいなら、その姿でも構わないけどね」
「むうぅ」
藍は半分呆れたように不満を訴えたが、私の反駁に不承不承と納得したようだ。
私はクスリと微笑むと、自分の膝をポンと叩いて藍を誘った。
すると藍はついっと視線を照れた様に逸らしたが、とてとてと短い歩幅で歩み寄り、私の膝の上で軽く背を曲げ寝そべった。
まるで親に丸まって添い寝しているみたいだ。
実を言うと、この姿を所望する理由は私の趣味が大半だし、そのことを藍もよく知っている。
だってこんなに柔らかくてあったかい藍をいじり倒せる機会など、滅多に無い。
それでもなお、藍は私に付き合ってくれる。
その理由は藍自身が、こういう大義名分がないとリラックスして私に甘えられないから、と顔を真っ赤にしてうつむききながら白状してくれた。
誰も知らない傾国の美女の意外に初心な一面に、私は心をくすぐられる。
「帽子、取るわね」
「はい」
私は布製の帽子を取って、藍の頭部を露出させる。
まずは、ぴんと立った三角形の耳の間をゆっくり撫でてやる。
少し張りのある夏毛の感触だ。でも幾度となく撫でてやると、奥の方に絹糸のように繊細で淡い色の冬毛が確認できた。
藍は撫でられる度に、耳をハタハタと動かして嬉しそうだ。
とここで、私は浅く爪を立てて頭頂部をカリカリっと掻いてやる。
「んっ」
「あら、痛かったかしら?」
「いえ……ちょうどいいです。あの、もっとしてください」
「ふふふ、じゃあこの辺をはどお?」
「あっ、そこ……いいです……」
藍は獣の状態では、後頭部周辺を一人で掻くのが大変だ。
故に、その辺りをこうして丁寧に優しく掻かれるのが大層な快感らしい。
私は手のひら全体を使って洗髪する様に、藍の耳周りからうなじまで丹念に擦ってやる。
すると、指に藍の細かい体毛が絡みついてきた。夏毛が落ち始めたのだ。
これには藍も、痒いところに手が届いた心境でうっとりと陶酔する。
「ゆ、紫様……あの、その……」
「わかってるわ。次は身体の方ね……ってあれ?
ブラシどこにやったけな~? スキマに仕舞っちゃったかしら~?」
もう我慢できないと藍がブラシをおねだりするから、つい失くしたふりをしていじわるしてしまった。
そしたら、藍が潤んだ瞳でこちらを見上げ、切なそうに全身を私に擦り付けてきた。
まったくこの子は、私の嗜虐心と庇護欲を同時にそそってくれる。
これ以上焦らしても可哀想なので、私はブラシを仰々しく手に持つ。長方形を横にした幅広な形の、藍専用ブラシだ。
その得物を見て、藍は急かすように私の膝をてしてしと前足で叩く。
私も辛抱堪らなくなって、藍の背中にブラシ当てた。
そして、毛並みに沿って尻尾の方向に長く梳いてやる。
しゅっしゅっと二、三回ブラシを滑らせると、ブラシには茶色っぽい夏毛がごっそりと付着した。
それを指で取って庭の風に始末を任せ、何度もブラシを往復させる。
衣擦れの様な音が響き、藍の毛並みが徐々にふわふわとしたキメ細かい冬毛へと変化していく。
さて藍といえば、完全に四肢が弛緩し、ふにゃりと身体を私にあずけていた。
目は満足げに細められ、時々「んん……」とか「ふぅーん……」といった蕩けそうな吐息が聞こえてくる。
よほど気持ちが良いのか、耳が風にたゆたう様にゆったり揺れ、尻尾が別の生き物の様にピクピクと微反応していた。
「じゃ、お腹もやるから、ころんってして」
「ふぁい」
ちょっと呂律が怪しいが、藍が膝の上でよいしょよいしょと仰向けになる。
藍の純白の毛で覆われたお腹が現れた。後ろ足はそのままに、前足をちょこんと招くように折って顔の近くに持ってくる。
お腹の白と、足の黒と、顔や全体の金色のコントラストが美しい。
私は、この姿がとても美しく、とてもいじらしいと感じる。
聡明で気高い妖狐のトップたる九尾狐が、弱点の下腹を躊躇することなく晒す。
確固たる信頼関係がなければ不可視な姿。私に何をされても全てを受け入れるという証。
ぞくぞくと、藍を支配しているという倒錯めいた昂ぶりが脊椎から脳を侵す。
でも、そんなある意味野蛮な情欲はスパイス程度で、ほとんどは
(前足を口元に持ってきちゃって、カワイイわねもう!
はあぁ~、そんなに正面からじっと見つめられたら、私……どうにでもされちゃいそうよ……)
である。
ともかく、このまま乙女回路をキュンキュン空回りさせていてもしょうがないので、ブラシを構えてお腹も梳く。
でもいくら信頼関係があるとはいえ、やはり腹を他者に触られるのは生理的にダメらしい。
ブラシが腹に軽く触れただけで、藍の体がビクリと硬直する。
そんな時、私は毎年こう対処している。
藍の鼻面に私の手を持っていく。
藍はすんすんと鼻を鳴らし、口全体を手にグリグリと押し付けてくる。
すると、私の匂いを感じて落ち着いたのか、緊張から来るこわばりがやわらぐ。
そこを見計らって、私は慎重かつ素早くお腹のブラッシングを終える。
気を使わせたと藍は申し訳なさそうに目を伏せるが、これは狐の習性なのだから仕方ない。
全然気にしてないわよと顎の下を撫でてあげたら、藍はくすぐったそうに頬の肉を持ち上げて、これでもかと尻尾を振っていた。
そうだ。ここが一番のハイライト。
私は藍の尻尾の手入れに取り掛かる。
藍の九尾は、トレードマークと言っていいほど存在感がある。
色合いやバランス共に文句なしの立派な尻尾だが、なんといってもこのモフモフ感がたまらないのだ。
ふさふさと黄色い滝の様に流れる毛は、適度な弾力をもち肌触りは最高。おまけにぬくぬく人肌温度だ。
藍の尻尾に寄りかかって寝たことがあるが、高級羽毛布団が跣で逃げ出す至高の眠りが実現できたくらいなのだ。
ともかくそんな藍の尻尾を、私は気合を入れつつブラシも入れる。
とはいっても、乱暴にならない様にゆっくりと丁寧に。
根元から先まで一気にやろうとすると、毛が絡んで藍に痛い思いをさせてしまうので、細かくブラシを使う。
一本終えるのに体をブラッシングするぐらいの時間がかかるが、藍はむしろその時間を味わうように陶然と目を閉じる。
私も大事な宝物を扱う様に、じっくりと尻尾を撫で付けた。
「あっ……んぅ……ふうっ」
「……声、出てる。藍は尻尾が敏感なのよねー?」
「い、いえ……そんな」
「ふーん……はむっ」
「ひゃあ!?」
私は藍の尻尾に食いつく。
正確に言えば、わさわさと生い茂る真ん中辺りに顔をうずめて、あむあむと甘噛みしてやる。
歯に尻尾本体のこりっとした感触を感じたので、それに沿って純白の先端まで金色の林を口で征服しにかかる。
それと同時に、尻尾の付け根を空いた手でこちょこちょとくすぐる。
「あぁ! やっ……そんな強く……はぁぁ……」
「尻尾敏感なのよねー? ねー?」
「うあぁ……は、はい……あっ、尻尾をこうされると……んっ……声が出ちゃいますぅ……」
藍が嘘丸出しの可愛い強情を張るもんだから、思わず本音を漏らす状況に追い込んでしまった。
だが割とあっさり陥落してしまったので、ちょっとつまらない。
しかし悪乗りだったとちょっぴり反省。
私は「ごめんねぇ」と額の辺りを撫でたら、何故か切なげな熱っぽい視線を送られてしまった。
もしかして、満更でもなかった?
あらいやだ。なんだかイケナイ気分になってきたわ私。とっても癖になりそう。
でもここで鬼神のごとく藍を嬲ったりなんかはしない。それをしたら、花畑に生息するリグルを傘で小突く妖怪と変わりがない。
私はこれでも貞淑な妖怪で通っているのですわ。
だから、できるだけ貞淑に嬲ってあげましょう。
「じゃ、残りは8本ね。今回は特別にぜーんぶ口でしてあげるわ」
「え!? いや大丈夫ですから! あの本当に休ませはひゃあぁぁん!! こおぉぉん!」
あー、おいしい。藍の尻尾と嬌声はいつも格別ね。
こうして私がいろんな意味でお腹一杯になるまで、私の特別サービスは一刻程続いた。
――◇――
9本全てブラッシング&口責めし終えると、全体の太さが二倍近くになった。
毛の密度が増えて、その間に空気がたっぷり含まれたせいだ。
これは見た目にも暖かそうだ。また、夏毛が綺麗に落ちた証拠でもある。
あと、藍の息が絶え絶えで意識も落ちかかっているけど……まぁ、幸せそうな顔しているから大丈夫よね。
そんな藍へ最後の仕上げに、私は丸い缶に入った油性クリームの蓋を開ける。
これは植物由来の油脂に蜜蝋と香料を加えた一品で、毎回仕上げに塗ってあげている。
手に適量取って薄く延ばし、まずはさっきと逆の順番で尻尾を両手で包み込むようにしごく。
すると、尻尾の毛がしっとりとスマートにまとまった。
続いて背中、お腹、頭と隅々まで磨く様にクリームをつける。
そして私の手が耳元まで到達する頃、柔らかな陽光に照らされ、藍の毛並みがつやつやと輝いていた。
同時に香料と藍の香りが混ざり合い、かぐわしいフレグランスとなって私の鼻を楽しませる。
こうして全ての工程が完了した。
赤茶色が濃かった夏毛から、淡い山吹色の冬毛姿に藍は姿を変えた。
もう痒そうな素振りは見せず、私の膝で「ほぅ」と呼吸を整えた。
私は藍の体や手足を、マッサージする様に片手で揉んであげる。
同じ姿勢で凝っただろうし、普段の働きを慰労したかったのだ。
すると、藍は揉みほぐされた所からじんわりと癒しが染み込んできたのか、深くゆっくりとした呼吸になる。
くあぁ~と欠伸をひとつして、うとうとと目が閉じかかっていた。
「このまま休んでもいいわよ。私がずっと見ててあげるから」
その言葉が契機となり、藍はゆっくりと瞼を下す。
間もなく藍は脱力し、口からは「すぅ、すぅ」と静かな寝息が聞こえてくる。
まるで子供の様に無防備な姿。
かつて私の寝首を掻こうと隙を窺い、誰も信用しないで寝姿も見せない出会った当時の藍からは考えられない。
そんな藍が、私は愛おしくてたまらない。
時が経っても変わらず、むしろ時が経つごとにその想いは強くなっていく。
毎年こうやって毛を梳いてあげる度に、そう私は思うのだ。
この恒例行事が終わったら、私はもう冬眠に入る。
あまり寂しい思いをしたくもされたくもないが、これも私の習性だから仕方ない。
それでもこうしてたっぷり濃密に触れ合っておくことで、お互いに次また来る春を想い、しばし別れの季節を耐えることができる。
意識は繋がり合えないけれど、心を繋げ合える。
「来年もよろしくね、藍……」
木枯らしがひゅるりと吹き付ける。やはり夕方になると少し肌寒い。
私は寒いのが苦手だから、また春一番が吹く頃に会いましょう。
幻想郷の冬はもうすぐです。
【終】
めっちゃニヤけましたw
俺は創想話の方に来たはずなんだが…
ふぅ…
ほのぼの出来ました
競買にかけられたら、負けませんよ?私も死力を尽くして戦いぬいてみせましょう(
あとがきw
家中毛だらけで掃除しなきゃだし
その権利は自分も譲る気はないですよw
うちの猫にもこのくらい丁寧なブラッシングをしてやらんとなぁ…
生え変わりの季節は、日頃懐かない相手でも向こうから寄ってくるフィーバータイムw
ありがとうございます。存分にニヤニヤされていってください。
3番様
b b!
立ちスクリューができない程度の能力様
……ふぅ、にはあまり触れない方がいいですかね(汗)。創想話で頑張るがま口です。
愚迂多良童子様
存分におやりなさい。キット其の猫も待ち侘びていようぞ……なんちて。
6番様
発情期……しまった! その手があったか!(オイ)。ブラッシングも愛情表現の一種ですから、プレイでいいのカナ(汗)
9番様
「あらやだ、勘違いよ。このブラシはノミ取りの薬を塗布するだけ。
まぁ、副作用が出たら観察させていただきますけど……ふふふふふ」by永琳
15番様
お粗末さまです。なんだと!? ええい、こっちは有り金全部だ!
21番様
なんとそんなオプションまで!? 友よ! 金を貸してくれ。出世したら返す!!
27番様
こちらもそのご感想で気持ちが良くなりました。あとがきはやりたい放題、それががま口クオリティー(マテ)
29番様
うまくほのぼのを表現できるかと心配だったのですが、和んでいただけたのなら幸いです。
30番様
えっちぃな感じはあんまり出してないつもりなんですが……
――がま口読み返し中――
何この健全エロ(笑)
名前が正体不明である程度の能力 ・夜様
しかしこんな世界なら、たまに迷うのもいいのではないでしょうか。
35番様
いいえ。ゆからんは私のモフモフです(コラ)
37番様
「でも私が藍にしてやりたい事だもの。少しくらいは平気よ」by紫
42番様
お粗末さまです。ゆからんはあまり書かないので、お気に召していただいて嬉しいです。
45番様
なんとここもか!? 社長、給料3ヶ月分程前借りさせてくださーい!!
46番様
犬猫の飼い方の本にも、ブラッシングは基本的なコミュニケーションとして推奨されています。
46番様の猫ちゃんも、きっと大喜びしてくれると思いますよ。
47番様
マミゾウさんのブラッシング権……だと。くぅぅ、最早無一文の私には無理だ(ガク)
まさに君と近づける季節ですね。ナデナデ。
53番様
ありがとうございます。8000万人の皆様! 天国はここですよー!
モフモフしゅっしゅで皆がハッピー。単純思考のがま口でした。
けっこうごわごわしてて「THE・獣」て感じなんだけど、藍様はホントもふもふ~ってしてそう!
私もブラッシングするよっ! お嬢様
そーかブラッシングってそういう為にするんですね!何気にお勉強になっちゃったって感じです!
藍様にホントお疲れ様ー!て言ってあげたいですよ。 超門番
私は動物とか可愛い生き物とかはあまり見ないようにしています。なんだか、ぎゅぅぅぅぅっっ!てしたくなるからです。
でもいけないと分かっていても見てしまうのです。ら、らめええぇぇぇ!!! 冥途蝶
言いたいことは全て言われてしまった…
ふれあい動物園でかわゆい動物を触ると、まず毛のやさぐれ感に吃驚しますよね。あ、藍様は別ですけどね(キッパリ)
動物と遊ぶ機会がありましたら、是非ブラッシングしてあげてみてください。蕩けた顔が見られる&劇的に仲が進展します。
>ぎゅぅぅぅぅっっ!てしたくなるからです。でもいけないと分かっていても見てしまうのです。
それが人間の本能ってやつです(キリッ)
56番様
ご感想ありがとうございます。やっぱり、ブラッシングはプレイってことですね。わっはっは(何が?)
ケモナーのひとの好みが少し理解できた気がします
ええ。ケモナーにとって、あのマフモフ感は凶器も同然なんですよ。ナデナデ。
心を許した狐さんの艶姿、堪能して頂けたのなら幸いです。