もっ、もっ、もっ。
そんな擬音がふさわしいであろう緩慢な食事を摂る紫。
その紫水晶の色彩を纏う瞳は、しょぼしょぼと半分くらいしか開いていない。
おまけに頭はふらふらと揺れているし、意識散漫で口数も少ない。
いかにも「眠い」という雰囲気を辺りに発散している紫だが、そんな紫に藍は心配そうに声をかける。
「紫様。まだ、お眠りになれないのですか」
「……うん」
紫はぐずる寸前の子供の様に不安げな声で返事をする。
冬になると、八雲紫は冬眠に入る。境界を操るという強大で繊細な能力の維持の為、心と体をリフレッシュする重要な時間だ。
しかし、今年は例年より眠りに就くのが遅い。今起きているのだって不自然なくらいだ。
今年、紫は冬眠に失敗していた。
大粒の湿った雪がちらつく中、藍は小さくため息をついた。
――◇――
入眠しようとしても、なかなか寝付けない。寝付けたとしても眠りが浅く、すぐ起きてしまう。
紫が悩まされる不眠の症状はこの様なものだ。
最初はちょっと冬眠に入るのが遅いな、と気軽に考えていた。
だが雪が降ってくる様な日まで眠れない紫に、その世話をする藍の顔色が変わってきた。
紫にとって冬眠は、自分自身の存続のために欠かせない儀式といってもいい。
これをちゃんと済まさないと、隙間を操るという途方もない力に精神力が耐え切れなくなり、下手をすれば能力の暴走で心身にダメージを及ぼすことさえある。
どんなに優秀で丈夫な機械でも、何日も電源をつけっぱなしで精密作業をさせ続けたら、すぐ摩耗し壊れてしまうのと同じだ。
それでも例年自然と入眠していたため問題は無かったのだが、今年は何やら具合が悪い。
過去にもこんなことは無く、つまり対処法は紫でさえ分からなかった。
「どうしたものでしょうね。基本的なことはやってみたのですが」
「んー……」
藍が指折り数えてこれまでの対策を思い出す中、紫も緩やかになった思考で返事をする。
最初は、とにかく安静にしていた。
布団に横になり、静かで暖かな部屋でひたすら目を閉じていた。
ところが、結果は前述した様に安眠とは程遠い状態から抜け出せない。
ホットミルクを摂取してみた。温かく甘い飲み物は眠気を誘う。
しかしこれも効き目が無い。橙は1杯でぐっすりだというのに、紫は5杯飲んでも駄目だった。
難しい話を聞くと眠くなる、という手法も試してみた。
藍は紫を相手に、寺子屋の子供たちを10分で夢の世界に招待した量子力学の講釈を打った。
だが紫は話の端々で疑問をぶつけ、藍と現象の解釈に関して議論を交わしてしまった。
それで逆に目がさえてしまった。ちなみに、証明がまだ成されていなかった難題が2~3問ほど解けた。
それで今は、昼間我慢して起きていれば夜には眠くなるのでは、という仮説の実践中である。
昼間の様子はとても眠そうで、藍は効果ありかと期待したが、なぜか紫は布団に入ると眠気が飛ぶらしい。
そんなこんなでもう幾日も経った。最近の紫は意識と無意識の境界が曖昧で、動きもフラフラと危なっかしいことこの上ない。
何より、そんな紫をそばで見守る藍も不安でいっぱいだった。
このまま紫様が眠れなかったらどうしよう。具合が悪くなって倒れられたりしないだろうか。
いや、その程度で済めばいい。
もし紫様が暴走状態になることがあれば、私がお止めしなければいけない。
しかし、できるのか……主に刃を向けることが。
とにかく、紫様はなるべく早く冬眠していただかないと……
そんなことを回転の速い頭でつらつら考え続けながら紫を見ているものだから、藍まで不眠症になりそうだった。
そしてついに藍はこう提案する。
「紫様……永琳さんに診てもらいませんか」
「……うん~」
藍の言葉に、紫はやむを得ない、といった声を上げる。
この郷で病院といえば、八意永琳が薬師を務める永遠亭だ。この病院は人間のみならず、妖怪や妖獣など様々な種族も診てくれる。
藍も紫もできれば病院や薬に頼らずに乗り切りたかったのだが、事態が切迫する前に解決する方が先だと判断した。
しかし、本人ですら原因不明の不眠症を、果たして治すことができるのだろうか。
(せめて、原因だけでもはっきりすればいいけど……)
そう藍は、本日何度目か分からないため息を吐いた。
――◇――
「――ふむふむ、不眠症。原因は謎で、思いつく対応策も試してみた、と」
往診鞄を下げ、お供に鈴仙を連れて八雲邸にやって来た永琳は、涼しい顔で現状を把握した。
差向いに座るのは藍と紫。藍は正座で真剣に状況説明をしていたが、紫はその肩にしどけなくもたれかかり、渋い顔で目を開けたり閉じたりしていた。
鈴仙はといえば、まるで議事録を取るかの様に永琳と藍の会話を逐一メモしている。
診察メモなのか、後で勉強するメモなのか。とりあえず藍はこれ以上帳面が埋まらない内に、ストレートにこう言う。
「いい薬、ありませんか?」
「睡眠薬、ってこと?」
藍の問いに、これまたストレートな答えを返す永琳。
永琳は後頭部を指でカリカリと掻きながら、薬の一覧表らしき書類を取り出す。
「人間用の睡眠薬なら手持ちが何種類かあるけど、紫さんの場合は長い冬眠に耐えうるくらい強いお薬が必要よ。
さらに妖怪にも効くタイプとなると……これね」
すると永琳が書類を指図し、鈴仙が背嚢からスッと取り出したのは、茶色い瓶に入った真っ黒の丸薬。
「胡蝶夢丸サウンドスリープ。これ一粒で、興奮状態の大虎もたちどころにぐっすり」
「……それ、副作用とか大丈夫ですか?」
「ん~、一応数年前にラットで実験はしたけど……まだ眠ったままなのよね、そのラット」
「申し訳ありませんが、却下で」
藍はこめかみをひきつらせながら、手のひらを見せて服薬を拒否する。
この医者は紫様を永遠の眠りに就かせる気なのかと藍は不安になったが、当の本人は全く気にすることなく薬を仕舞う。
「まぁ、少し弱めのお薬もあるけど、すぐさま望みの効果があるかは微妙よ。
まずは少量服用してもらって、様子を見てから量を増やすか効き目を強くするというのが常道なんだけど」
「そうですか……結構時間がかかりそうですね。困ったなぁ」
永琳の提案に、藍は焦燥を隠すことなく首を傾げて口をへの字に曲げる。
その様子をじっと見ていた永琳は、こう藍に尋ねる。
「……不眠には寝室の状態が関係したりもするからね。
差し支えなければ、普段使っている寝室を確認しても?」
「はぁ、いいですよ。ではこちらに」
「あ、いえ。案内は紫さんに」
「?」
藍が首を傾げるが、永琳はよどみなく説明する。
「ご本人と寝室の相性といった所も確認したいので、紫さんに同席をお願いできます?」
「……むぃ~」
「では優曇華、紫さんと一緒にご確認を」
「はい」
永琳がそばの鈴仙に指示すると、鈴仙はテキパキと立ち上がって紫の腕を取り、連れ立って邸の奥へと消えた。
すると、人払いが完了したことを確認して、永琳は藍へこう話しかける。
「さて、藍さん。単刀直入に言って、貴女にも不眠の原因の一端があると思います」
「ええっ!?」
藍は目を剥いてぎょっとする。
だが藍が反論する間もなく、永琳の言葉が続く。
「不眠症はもちろん神経系や肉体の異常で起こりうる病ですが、精神的な面も大きな要因となり得るわ。
例えば極度の緊張とか不安、焦りなどがそう」
「そんな……紫様にそんなご様子は」
「最近は色々ありましたわね。幻想郷の転覆計画、それにその首謀者の生死を問わない大捕り物」
その言葉に、藍はむっと押し黙る。
輝針城異変とその首謀 鬼人正邪の逃走劇は今までの騒動とは異質な物だった。
未然に防げたものの、幻想郷の秩序を崩壊させるような所業を計画実行しようとした事実は、紫の逆鱗に触れる行為であった。
そして異例の指名手配。最後には紫自らが正邪の退治に赴く徹底ぶりだった。
「……確かにあの時は、紫様の精神状態は尋常ではありませんでした。
しかし今は全ての問題が収束に向かっていますし、過去に天子が起こした異変の時は、こんなことにはなりませんでしたよ」
もっともな反論だが、永琳は続ける。
「その異変の事は知っているわ。でもその異変と今回の一連の騒動は勝手が違う。
天子の件はあくまで暇を持て余したご子女の遊びだったけれど、正邪は本気で幻想郷に矛を向けた。
しかも、貴女や貴女の主人にとって取るに足らない様な小妖怪の仕業で。
貴女達クラスの大妖怪が、下から突き上げられるって経験、滅多にないでしょ。少なからずそこに動揺があったはずよ」
図星だった。藍はぐうの音も出ない。
さすがに月の賢人。慧眼ともいうべき鋭い状況分析だが、話は元に戻る。
「その精神的な動揺のせいで眠れなくなった可能性が高いけど、それはきっかけに過ぎない。
その動揺が不安感になって長引いているのが、貴女のせいだと言いたいの」
きっぱりと断言されたが、藍は大人しく話を聞いている。
今や永琳の言葉は真実と同じだ。藍は主の為に真摯に耳を傾ける。
「貴女は賢く真面目。それゆえに、物事を深刻に捉え過ぎている。
さっきお薬の説明をした時もそうだったけど、紫さんが眠れなくなってから色々な方策を試して、うまくいかないとため息を吐いたり、あれやこれやと悩んでいたりしていない?
その姿を、紫さんは間近で見ているのよ」
はっ、と藍は気づく。
最近訳も無く悩み、紫の事を四六時中考えて緊張していたことを。
初めは紫も、ちょっとストレスで眠りが浅い程度だったのだろう。
だが先の異変で同じく神経が尖っていた藍は、つい大事に捉えてしまった。
早く寝かせなければ、と気持ちが焦る藍に対し、眠ることができない紫はさぞ肩身の狭い思いをしたことだろう。
そして早く寝ないと、と思えば思うほど不安と焦燥で眠れなくなっていく。
聡明な頭でそこまで理解できた藍は、やってしまったという後悔を滲ませてうつむく。
紫様の介抱をしているつもりで、とんでもない気苦労を紫様にさせてしまった。
どうしよう……申し訳ない……
そんな反省の言葉が頭を埋め尽くす。
「はいはい。その顔がいけない」
パンパン、と永琳が手を叩いて藍を現実に引き戻す。
「私は貴女を叱っている訳ではないわ。
ただ紫さんへの一番いいお薬は、貴女のリラックスした姿を見せてあげる事よ」
「リラックス……ですか?」
「そう。いつも余裕が無さそうにしかめっ面している部下より、泰然と笑顔でいる部下の方が、眠っている間の幻想郷を安心して任せられると思わない?」
その一言に、藍ははたと考える。
眠りに必要なのは平穏と安心。それに自分のリラックスしている姿。
そういえば、紫様にかかりっきりで『アレ』をしばらくしていなかったな……
そう想起した時、ちょうど鈴仙が戻ってきた。
「師匠。良く整えられた寝室です。特に問題は無いかと」
「そう。こちらもたった今問題が解決したところよ。それではお大事に」
そう言い残してさっさと帰り支度をする永琳。
鈴仙は「ええ?」と何もしないで帰ることに疑問を呈していたが、藍には紫に見せたいものがあった。
――◇――
紫は鈴仙に連れられた寝室にそのままいた。
布団にうつ伏せに寝転がって、うんうんうなっている。
体は疲労を感じるのに眠れない苦痛。さすがの紫もだいぶ参っていた。
そこへ、藍が入ってくる。
藍は布団のそばに足を崩して座り込むと、ふぅと息を吐く。
最近吐きっ放しのため息ではない。これから始まることに対して気合を入れる呼吸だった。
「紫様。ちょっと失礼します」
藍の問いかけに、紫は目をしばたかせて藍の方向に向く。返事をする気力も無いらしい。
すると、藍はある道具を取り出し、こう紫に告げる。
「紫様、ここで毛づくろいをしてもいいですか?」
取り出した道具は、半月型の櫛。藍が毛並の手入れをする時の愛用品だ。
その言葉に紫は少し目を見開くが、こくりと頷く。
「では」と藍は律儀に許可を得てから、尻尾をそっと体の前に持ってきた。
そして、藍は尻尾の根元に櫛をあてがうと、ゆっくりと根元に向かって毛を梳き始めた。
ふさふさと生い茂る金毛はよく天日干しした布団の様に柔らかで、たっぷりと空気を含んでいる。
藍の自慢の尻尾は、九尾狐の証であり誇りだ。
故にその尻尾の手入れは入念で、小まめに行う大事な日課だ。
でもその姿は定型作業をこなすというより、お風呂に入ってくつろぐ様な柔和な空気に満ちている。
実際にこうやって櫛で毛並を梳いている時は藍も大層心地が良く、表情筋もふにゃりとほころぶのを感じた。
「この季節は乾燥しやすいから、毛づくろいが欠かせないんです。すぐバサバサになってしまうので」
そう櫛を動かしながら、時折口であむあむと尻尾の毛を甘噛みして湿らせる。
そんな藍をじっとみていた紫は、寝転がったままでふと問いかける。
「冬は……いつもそうしているの?」
「ええ。暇ができたら大抵こうです。あとは橙の髪の毛もこれで梳いてあげますよ。
髪を洗うのは苦手みたいですけど、とかしてもらうのは大好きな様で」
「へぇ……橙も遊びに来るの」
「はい。鼻の頭を真っ赤にしていますけどね」
そこから始まり、藍は例年の冬の過ごし方を語り始めた。
あんまり顔が寒そうなので、橙にマフラーを編んであげたこと。
自分は邸ではドテラを羽織って生活していること。
冬の間は干した大根やお漬物、凍み豆腐に塩引きの鮭を調理して食べていること。でも鮭は橙がつまみ食いしないよう注意が必要なこと。
年越しはお蕎麦を橙と一緒に食べていること。お正月はお餅を焼くこと。
年始の挨拶は、八雲の名代で丁寧に行っていること。そのついでに結界の確認もしていること。
羽子板や凧揚げで遊ぶ橙とその友達におしるこを振舞うこと。
一番寒さが厳しい時は、お風呂に柚子を浮かべたり、お鍋を食べたりしてやり過ごしていること。
そしてどうしても寒い時、そっと紫様の隣に布団を敷いて眠っていること。
春の雪解けが本当に嬉しいこと。
しゅっしゅという毛がこすれる音を背景に、藍は他愛も無いことを喋った。それに紫は時折笑みを浮かべながら、静かに相槌を打つ。
そして尻尾の毛づくろいが終了しそうな頃まで話を聞くと、紫はこう羨ましそうに言った。
「楽しそうねぇ……私、知らなかったわ」
「ふふふ。毎年紫様はお眠りですからね。今年は起きていらしたらどうですか? 橙も私も喜びますよ」
数日前の藍からは絶対出てこない言葉。しかし、ここ数日で一番心が凪いでいる藍の言葉は、紫を安心させた。
そしてすうっと目を細めながらこう呟く。
「……遠慮しとく。冬はやっぱり……お布団で丸くなるのが一番……」
「はい、どうぞご随意に」
ふぁさりと尻尾をゆらして、毛づくろい後の尻尾を整える藍。
風に揺れるススキの様な尻尾をしばらく眺めていた紫は、ゆっくりと目を閉じる。
「……あと……よろしくね……」
消え入る様に小さくそう囁いた紫の唇と瞼が動かなくなるとすぐに、規則正しい呼吸音が藍の耳に届く。
毎年一番近くで耳にする、紫の安らかな寝息だ。
寝間着姿のままだった紫に、藍は布団をかけ、そっと紫の金髪を手櫛で整える。
そしてこう最後の挨拶をした。
「……お休みなさいませ。紫様」
しばらく紫の寝顔を鑑賞した藍は、名残惜しげにそっと戸口から廊下に出ると、襖を閉めた。
これでもう大丈夫。藍はそう確信した。
今年は色々あったけれど、それでも揺るがない日常がある。それを再確認したのは、紫だけではなく藍も同じだった。
とりあえず永琳先生にお礼の挨拶をしよう。その後は、紫様に話したことを実行する準備をしなければ。
そう藍は気持ちを切り替え、少し遅れた冬支度を再開することにした。
その藍の晴れやかな表情と、紫の少々弛緩し切った寝顔から読み取れることは一つ。
今夜から二人とも、枕を高くして眠りに就ける幸せな夜が待っているということであった。
【Good Night】
そんな擬音がふさわしいであろう緩慢な食事を摂る紫。
その紫水晶の色彩を纏う瞳は、しょぼしょぼと半分くらいしか開いていない。
おまけに頭はふらふらと揺れているし、意識散漫で口数も少ない。
いかにも「眠い」という雰囲気を辺りに発散している紫だが、そんな紫に藍は心配そうに声をかける。
「紫様。まだ、お眠りになれないのですか」
「……うん」
紫はぐずる寸前の子供の様に不安げな声で返事をする。
冬になると、八雲紫は冬眠に入る。境界を操るという強大で繊細な能力の維持の為、心と体をリフレッシュする重要な時間だ。
しかし、今年は例年より眠りに就くのが遅い。今起きているのだって不自然なくらいだ。
今年、紫は冬眠に失敗していた。
大粒の湿った雪がちらつく中、藍は小さくため息をついた。
――◇――
入眠しようとしても、なかなか寝付けない。寝付けたとしても眠りが浅く、すぐ起きてしまう。
紫が悩まされる不眠の症状はこの様なものだ。
最初はちょっと冬眠に入るのが遅いな、と気軽に考えていた。
だが雪が降ってくる様な日まで眠れない紫に、その世話をする藍の顔色が変わってきた。
紫にとって冬眠は、自分自身の存続のために欠かせない儀式といってもいい。
これをちゃんと済まさないと、隙間を操るという途方もない力に精神力が耐え切れなくなり、下手をすれば能力の暴走で心身にダメージを及ぼすことさえある。
どんなに優秀で丈夫な機械でも、何日も電源をつけっぱなしで精密作業をさせ続けたら、すぐ摩耗し壊れてしまうのと同じだ。
それでも例年自然と入眠していたため問題は無かったのだが、今年は何やら具合が悪い。
過去にもこんなことは無く、つまり対処法は紫でさえ分からなかった。
「どうしたものでしょうね。基本的なことはやってみたのですが」
「んー……」
藍が指折り数えてこれまでの対策を思い出す中、紫も緩やかになった思考で返事をする。
最初は、とにかく安静にしていた。
布団に横になり、静かで暖かな部屋でひたすら目を閉じていた。
ところが、結果は前述した様に安眠とは程遠い状態から抜け出せない。
ホットミルクを摂取してみた。温かく甘い飲み物は眠気を誘う。
しかしこれも効き目が無い。橙は1杯でぐっすりだというのに、紫は5杯飲んでも駄目だった。
難しい話を聞くと眠くなる、という手法も試してみた。
藍は紫を相手に、寺子屋の子供たちを10分で夢の世界に招待した量子力学の講釈を打った。
だが紫は話の端々で疑問をぶつけ、藍と現象の解釈に関して議論を交わしてしまった。
それで逆に目がさえてしまった。ちなみに、証明がまだ成されていなかった難題が2~3問ほど解けた。
それで今は、昼間我慢して起きていれば夜には眠くなるのでは、という仮説の実践中である。
昼間の様子はとても眠そうで、藍は効果ありかと期待したが、なぜか紫は布団に入ると眠気が飛ぶらしい。
そんなこんなでもう幾日も経った。最近の紫は意識と無意識の境界が曖昧で、動きもフラフラと危なっかしいことこの上ない。
何より、そんな紫をそばで見守る藍も不安でいっぱいだった。
このまま紫様が眠れなかったらどうしよう。具合が悪くなって倒れられたりしないだろうか。
いや、その程度で済めばいい。
もし紫様が暴走状態になることがあれば、私がお止めしなければいけない。
しかし、できるのか……主に刃を向けることが。
とにかく、紫様はなるべく早く冬眠していただかないと……
そんなことを回転の速い頭でつらつら考え続けながら紫を見ているものだから、藍まで不眠症になりそうだった。
そしてついに藍はこう提案する。
「紫様……永琳さんに診てもらいませんか」
「……うん~」
藍の言葉に、紫はやむを得ない、といった声を上げる。
この郷で病院といえば、八意永琳が薬師を務める永遠亭だ。この病院は人間のみならず、妖怪や妖獣など様々な種族も診てくれる。
藍も紫もできれば病院や薬に頼らずに乗り切りたかったのだが、事態が切迫する前に解決する方が先だと判断した。
しかし、本人ですら原因不明の不眠症を、果たして治すことができるのだろうか。
(せめて、原因だけでもはっきりすればいいけど……)
そう藍は、本日何度目か分からないため息を吐いた。
――◇――
「――ふむふむ、不眠症。原因は謎で、思いつく対応策も試してみた、と」
往診鞄を下げ、お供に鈴仙を連れて八雲邸にやって来た永琳は、涼しい顔で現状を把握した。
差向いに座るのは藍と紫。藍は正座で真剣に状況説明をしていたが、紫はその肩にしどけなくもたれかかり、渋い顔で目を開けたり閉じたりしていた。
鈴仙はといえば、まるで議事録を取るかの様に永琳と藍の会話を逐一メモしている。
診察メモなのか、後で勉強するメモなのか。とりあえず藍はこれ以上帳面が埋まらない内に、ストレートにこう言う。
「いい薬、ありませんか?」
「睡眠薬、ってこと?」
藍の問いに、これまたストレートな答えを返す永琳。
永琳は後頭部を指でカリカリと掻きながら、薬の一覧表らしき書類を取り出す。
「人間用の睡眠薬なら手持ちが何種類かあるけど、紫さんの場合は長い冬眠に耐えうるくらい強いお薬が必要よ。
さらに妖怪にも効くタイプとなると……これね」
すると永琳が書類を指図し、鈴仙が背嚢からスッと取り出したのは、茶色い瓶に入った真っ黒の丸薬。
「胡蝶夢丸サウンドスリープ。これ一粒で、興奮状態の大虎もたちどころにぐっすり」
「……それ、副作用とか大丈夫ですか?」
「ん~、一応数年前にラットで実験はしたけど……まだ眠ったままなのよね、そのラット」
「申し訳ありませんが、却下で」
藍はこめかみをひきつらせながら、手のひらを見せて服薬を拒否する。
この医者は紫様を永遠の眠りに就かせる気なのかと藍は不安になったが、当の本人は全く気にすることなく薬を仕舞う。
「まぁ、少し弱めのお薬もあるけど、すぐさま望みの効果があるかは微妙よ。
まずは少量服用してもらって、様子を見てから量を増やすか効き目を強くするというのが常道なんだけど」
「そうですか……結構時間がかかりそうですね。困ったなぁ」
永琳の提案に、藍は焦燥を隠すことなく首を傾げて口をへの字に曲げる。
その様子をじっと見ていた永琳は、こう藍に尋ねる。
「……不眠には寝室の状態が関係したりもするからね。
差し支えなければ、普段使っている寝室を確認しても?」
「はぁ、いいですよ。ではこちらに」
「あ、いえ。案内は紫さんに」
「?」
藍が首を傾げるが、永琳はよどみなく説明する。
「ご本人と寝室の相性といった所も確認したいので、紫さんに同席をお願いできます?」
「……むぃ~」
「では優曇華、紫さんと一緒にご確認を」
「はい」
永琳がそばの鈴仙に指示すると、鈴仙はテキパキと立ち上がって紫の腕を取り、連れ立って邸の奥へと消えた。
すると、人払いが完了したことを確認して、永琳は藍へこう話しかける。
「さて、藍さん。単刀直入に言って、貴女にも不眠の原因の一端があると思います」
「ええっ!?」
藍は目を剥いてぎょっとする。
だが藍が反論する間もなく、永琳の言葉が続く。
「不眠症はもちろん神経系や肉体の異常で起こりうる病ですが、精神的な面も大きな要因となり得るわ。
例えば極度の緊張とか不安、焦りなどがそう」
「そんな……紫様にそんなご様子は」
「最近は色々ありましたわね。幻想郷の転覆計画、それにその首謀者の生死を問わない大捕り物」
その言葉に、藍はむっと押し黙る。
輝針城異変とその首謀 鬼人正邪の逃走劇は今までの騒動とは異質な物だった。
未然に防げたものの、幻想郷の秩序を崩壊させるような所業を計画実行しようとした事実は、紫の逆鱗に触れる行為であった。
そして異例の指名手配。最後には紫自らが正邪の退治に赴く徹底ぶりだった。
「……確かにあの時は、紫様の精神状態は尋常ではありませんでした。
しかし今は全ての問題が収束に向かっていますし、過去に天子が起こした異変の時は、こんなことにはなりませんでしたよ」
もっともな反論だが、永琳は続ける。
「その異変の事は知っているわ。でもその異変と今回の一連の騒動は勝手が違う。
天子の件はあくまで暇を持て余したご子女の遊びだったけれど、正邪は本気で幻想郷に矛を向けた。
しかも、貴女や貴女の主人にとって取るに足らない様な小妖怪の仕業で。
貴女達クラスの大妖怪が、下から突き上げられるって経験、滅多にないでしょ。少なからずそこに動揺があったはずよ」
図星だった。藍はぐうの音も出ない。
さすがに月の賢人。慧眼ともいうべき鋭い状況分析だが、話は元に戻る。
「その精神的な動揺のせいで眠れなくなった可能性が高いけど、それはきっかけに過ぎない。
その動揺が不安感になって長引いているのが、貴女のせいだと言いたいの」
きっぱりと断言されたが、藍は大人しく話を聞いている。
今や永琳の言葉は真実と同じだ。藍は主の為に真摯に耳を傾ける。
「貴女は賢く真面目。それゆえに、物事を深刻に捉え過ぎている。
さっきお薬の説明をした時もそうだったけど、紫さんが眠れなくなってから色々な方策を試して、うまくいかないとため息を吐いたり、あれやこれやと悩んでいたりしていない?
その姿を、紫さんは間近で見ているのよ」
はっ、と藍は気づく。
最近訳も無く悩み、紫の事を四六時中考えて緊張していたことを。
初めは紫も、ちょっとストレスで眠りが浅い程度だったのだろう。
だが先の異変で同じく神経が尖っていた藍は、つい大事に捉えてしまった。
早く寝かせなければ、と気持ちが焦る藍に対し、眠ることができない紫はさぞ肩身の狭い思いをしたことだろう。
そして早く寝ないと、と思えば思うほど不安と焦燥で眠れなくなっていく。
聡明な頭でそこまで理解できた藍は、やってしまったという後悔を滲ませてうつむく。
紫様の介抱をしているつもりで、とんでもない気苦労を紫様にさせてしまった。
どうしよう……申し訳ない……
そんな反省の言葉が頭を埋め尽くす。
「はいはい。その顔がいけない」
パンパン、と永琳が手を叩いて藍を現実に引き戻す。
「私は貴女を叱っている訳ではないわ。
ただ紫さんへの一番いいお薬は、貴女のリラックスした姿を見せてあげる事よ」
「リラックス……ですか?」
「そう。いつも余裕が無さそうにしかめっ面している部下より、泰然と笑顔でいる部下の方が、眠っている間の幻想郷を安心して任せられると思わない?」
その一言に、藍ははたと考える。
眠りに必要なのは平穏と安心。それに自分のリラックスしている姿。
そういえば、紫様にかかりっきりで『アレ』をしばらくしていなかったな……
そう想起した時、ちょうど鈴仙が戻ってきた。
「師匠。良く整えられた寝室です。特に問題は無いかと」
「そう。こちらもたった今問題が解決したところよ。それではお大事に」
そう言い残してさっさと帰り支度をする永琳。
鈴仙は「ええ?」と何もしないで帰ることに疑問を呈していたが、藍には紫に見せたいものがあった。
――◇――
紫は鈴仙に連れられた寝室にそのままいた。
布団にうつ伏せに寝転がって、うんうんうなっている。
体は疲労を感じるのに眠れない苦痛。さすがの紫もだいぶ参っていた。
そこへ、藍が入ってくる。
藍は布団のそばに足を崩して座り込むと、ふぅと息を吐く。
最近吐きっ放しのため息ではない。これから始まることに対して気合を入れる呼吸だった。
「紫様。ちょっと失礼します」
藍の問いかけに、紫は目をしばたかせて藍の方向に向く。返事をする気力も無いらしい。
すると、藍はある道具を取り出し、こう紫に告げる。
「紫様、ここで毛づくろいをしてもいいですか?」
取り出した道具は、半月型の櫛。藍が毛並の手入れをする時の愛用品だ。
その言葉に紫は少し目を見開くが、こくりと頷く。
「では」と藍は律儀に許可を得てから、尻尾をそっと体の前に持ってきた。
そして、藍は尻尾の根元に櫛をあてがうと、ゆっくりと根元に向かって毛を梳き始めた。
ふさふさと生い茂る金毛はよく天日干しした布団の様に柔らかで、たっぷりと空気を含んでいる。
藍の自慢の尻尾は、九尾狐の証であり誇りだ。
故にその尻尾の手入れは入念で、小まめに行う大事な日課だ。
でもその姿は定型作業をこなすというより、お風呂に入ってくつろぐ様な柔和な空気に満ちている。
実際にこうやって櫛で毛並を梳いている時は藍も大層心地が良く、表情筋もふにゃりとほころぶのを感じた。
「この季節は乾燥しやすいから、毛づくろいが欠かせないんです。すぐバサバサになってしまうので」
そう櫛を動かしながら、時折口であむあむと尻尾の毛を甘噛みして湿らせる。
そんな藍をじっとみていた紫は、寝転がったままでふと問いかける。
「冬は……いつもそうしているの?」
「ええ。暇ができたら大抵こうです。あとは橙の髪の毛もこれで梳いてあげますよ。
髪を洗うのは苦手みたいですけど、とかしてもらうのは大好きな様で」
「へぇ……橙も遊びに来るの」
「はい。鼻の頭を真っ赤にしていますけどね」
そこから始まり、藍は例年の冬の過ごし方を語り始めた。
あんまり顔が寒そうなので、橙にマフラーを編んであげたこと。
自分は邸ではドテラを羽織って生活していること。
冬の間は干した大根やお漬物、凍み豆腐に塩引きの鮭を調理して食べていること。でも鮭は橙がつまみ食いしないよう注意が必要なこと。
年越しはお蕎麦を橙と一緒に食べていること。お正月はお餅を焼くこと。
年始の挨拶は、八雲の名代で丁寧に行っていること。そのついでに結界の確認もしていること。
羽子板や凧揚げで遊ぶ橙とその友達におしるこを振舞うこと。
一番寒さが厳しい時は、お風呂に柚子を浮かべたり、お鍋を食べたりしてやり過ごしていること。
そしてどうしても寒い時、そっと紫様の隣に布団を敷いて眠っていること。
春の雪解けが本当に嬉しいこと。
しゅっしゅという毛がこすれる音を背景に、藍は他愛も無いことを喋った。それに紫は時折笑みを浮かべながら、静かに相槌を打つ。
そして尻尾の毛づくろいが終了しそうな頃まで話を聞くと、紫はこう羨ましそうに言った。
「楽しそうねぇ……私、知らなかったわ」
「ふふふ。毎年紫様はお眠りですからね。今年は起きていらしたらどうですか? 橙も私も喜びますよ」
数日前の藍からは絶対出てこない言葉。しかし、ここ数日で一番心が凪いでいる藍の言葉は、紫を安心させた。
そしてすうっと目を細めながらこう呟く。
「……遠慮しとく。冬はやっぱり……お布団で丸くなるのが一番……」
「はい、どうぞご随意に」
ふぁさりと尻尾をゆらして、毛づくろい後の尻尾を整える藍。
風に揺れるススキの様な尻尾をしばらく眺めていた紫は、ゆっくりと目を閉じる。
「……あと……よろしくね……」
消え入る様に小さくそう囁いた紫の唇と瞼が動かなくなるとすぐに、規則正しい呼吸音が藍の耳に届く。
毎年一番近くで耳にする、紫の安らかな寝息だ。
寝間着姿のままだった紫に、藍は布団をかけ、そっと紫の金髪を手櫛で整える。
そしてこう最後の挨拶をした。
「……お休みなさいませ。紫様」
しばらく紫の寝顔を鑑賞した藍は、名残惜しげにそっと戸口から廊下に出ると、襖を閉めた。
これでもう大丈夫。藍はそう確信した。
今年は色々あったけれど、それでも揺るがない日常がある。それを再確認したのは、紫だけではなく藍も同じだった。
とりあえず永琳先生にお礼の挨拶をしよう。その後は、紫様に話したことを実行する準備をしなければ。
そう藍は気持ちを切り替え、少し遅れた冬支度を再開することにした。
その藍の晴れやかな表情と、紫の少々弛緩し切った寝顔から読み取れることは一つ。
今夜から二人とも、枕を高くして眠りに就ける幸せな夜が待っているということであった。
【Good Night】
安心枕はいつもそばにいる人なんですね とても良かったです
あったかいSSでした。
ご感想ありがとうございます。私も安らかな睡眠は健康の基本だと思います。
2番様
実はその表現は、熊のニュースから着想を得ています。冬眠に失敗した熊は恐ろしい、という所も軽く設定に盛りました。
……なんでもなく終わって、本当によかった(安堵)
4番様
ありがとうございます。暖かくなっていただければ幸いです。
ばかのひ様
ご感想ありがとうございます。安心枕はいつだってそばにいますよ。
でも藍様が家に来たら、私はむしろ一日中悶々として起きてる様な気がします(汗)
ペンギン様
ええ、あったかいゆからんが大好きです。
とーなす様
快適な眠りの回復をお祈りしています。ご感想ありがとうございました。
紫様、また春にお会いしましょう。がま口でした。