「ねぇ。あなたのくちびるは、暖かいのかしら……?」
夜半を回ろうかという時分だった。風のない静かな夜。だから余計に、ぽろりと飛び出した言葉はその幼気な語勢のままに部屋を一直線に跳ねて、机に向かうアリス=マーガトロイドの耳に飛び込んだ。
こちら側にはオイルランプの薄明かりがあった。デスクの上に散らばったグラスアイたちが柔らかな光を受けて生々しく輝いていて、僅かにぶれたアリスの糸魔法に触れ、ころりと転がった。
普段は黙って暗がりに座っているばかりの来客が突然発した奇言に驚いて、目を剥いたかのようだった。
「……なによ突然。気色悪い」
アリス自身も振り返りながら、すがめた目で放言の主をにらみ据えていた。
彼女の半分ほどの背丈にある、アリスと同じふわふわとした金髪。二度焼きの小さな体。淀む作業部屋の暗がりに佇むメディスン=メランコリーの姿は、彼女の顔だけが作業台の灯りを照り返して浮かんでおり、世迷い言を裏張りするかのように不気味だった。
ぱっと飛び出した返答は、ひどくとげとげしいものになった。果たしてメディスンは痛く傷ついた様子で、立てた膝に顔を埋めていた。
「ひどいわ。気色悪いだって。わたしはただ、ちょっと聞いてみただけなのに……」
もとが人形であり、半ば付喪神と原点を同じくするメディはまだ幼く、自らが得た声帯という器官を未だ使いこなせてはいなかった。涙腺という意味でも、同じくそうなのだろう。金髪を除いて闇とまったく同化した彼女の深い悲しみを表すには、その謹責はあまりに平板であった。
「アリス、あなたまでわたしをいじめるの。毒娘、触れるな触れるな、そら逃げろ……」
「そういうつもりじゃないわ。ただ余りに唐突で、それもこんな時間だったものだから」
「こんな時間? じゃあアリスは夜中だから怒っているの。なぜ?」
「それは……」
平たい声に怒りの感情を見出すことができたのは、アリスが普段から物言わぬ人形を扱っているからだろうか。幼子の怒りを静めるのは厄介だ。しかもそれがアリス自身の勘違いに基づく物ならば尚更だ。
彼女――メディは体温を知らない。無機質でつややかな彼女の肌は、およそ温もりという物の一切を伝達する機能を持ち合わせていないようだった。それ故の無知、それ故の疑問。
それにアリスは勝手に含意を汲みだしていたのだった。
単純な物――逢瀬を連想させるから。
夜に、唇。安直に過ぎる連想。それを疑いもせず口に出したのは……
「悪かったわ。私が考えすぎた。ちょっとばかり、人形作りに入れ込みすぎていたみたいね……。でも、今後。私がそれをしている間に、そういうことは絶対に訊かないで」
「……分かった。もう夜にこういうことは聞かない。わたしも悪かったのね」
謝罪に、苛立ちの理由を付け加えると、本質的に素直なメディは納得したようだった。顔を上げた彼女は、笑みと泣きっ面の間にあるような震える無表情を浮かべていて、その顔でアリスに問うた。
「明日、その子を使うの」
「ええ。明日はこれに頼むわ」
「よくできているのに」
「よく出来ているからよ。あれにぶつけるのに、妥協はできないもの」
「お人形の美しさが、強さに関係あるの」
「いいえ」
「じゃあなんで、そんなにじっくりとメイクを入れているの。壊されてしまうんでしょう?」
手元にある人形がたどる運命を、破滅の宿命をメディは指摘した。しかし、アリスが握る面相筆の筆先が揺らぐことはなかった。
外来の品、一枚の絵画にある『キューピッド』という存在。アイのはまったその人形は、アリスの繊細な筆遣いによる仕上げによって、絵画の世界から抜け出し、受肉しようとしている。
そして光臨した次の日に、彼女は戦場へと駆り出される。
呪わしい定めと、余人が嘆くなら嘆けばいい。メディスンはそう悲しんだし、アリスは意に介した様子もない。
「まだ無意味だと決まったわけではないわ。もしかしたら、あれを射落とす一矢を放ってくれるかも知れない。そうでしょ」
「お人形は嫌い?」
「いいえ。我が身と同じくらいに大好きだわ」
「アリスの言ってることが分からないわ。大好きなのに壊させに連れ出すの。かわいそうよ……かわいそうだわ」
立ち上がりこそしなかったが、メディスンは噛みつかんばかりに詰る。対して、アリスの返答は冷淡に過ぎて、その上急所を的確に射貫いた。
「人形は可哀想なものよ。それはあなたが一番よく知っているんじゃないの、メディ」
痛み、だ。その傷を持ち出したアリスに対して激しい怒りが生じた。だが同時に、自らの放言がこれほどアリスを怒らせたのだとも悟らされた。
それっきりメディスンが黙ってしまうと、部屋の中に残った音は微かで、面相筆が顔料をこすり取る湿った音と、アリスが時折吐き出す熱の籠もった溜息ばかりだった。
気詰まりか……と言えば、双方そう感じてはいなかった。メディスンが泊まり込むようになってから――恐らくはそれよりずっと前から――アリスはこんな調子だった。メディスンはそこに居候をさせてもらっている立場だ。どのような扱いを受けても文句は言えない。
それに苦痛が伴わないと言えば嘘になる。しかし、一切の接触、感触を奪われた虚無に比べれば、こちらの方が幾分かマシだった。
彼女は毒を持っている。その身から際限なく放散する猛毒を。その制御が彼女には困難だった。だから鈴蘭畑で一人ぽつねんと暮らしていた。
しかし、こうして心を持った今、その小さな胸がいつまで続くとも知れぬ孤独に耐えられるだろうか……メディスンは耐えられなかった。人恋しさのまま――あるいは、同胞恋しさのまま――人里や山をふらりとさまよい歩き、そしてそのことごとくにおいて「毒吐き」と忌み嫌われ追い払われてきたのだった。
傷心の彼女が最後に選んだのは、もとよりうっすらと瘴気を纏う魔法の森の奥地だった。こっそりと盗み聞いたことによれば、そこには「七色の人形遣い」がいて、一人黙々と人形を作り続けているという。勝手な仲間意識を覚えていた。彼女も孤独に耐えかねて、仲間を自らの手で作ることを選んだのだと……今こうして転がり込んでみて分かった。それは全くの誤解だった。
「私、アリスのこときらいになりそうよ」
「好いてくれと頼んだ覚えもないわ。出て行きたければ、どうぞご自由に」
手元の人形に命を吹き込む作業を止めることなく、アリスは淡々と言った。
しかしその口調と裏腹に、彼女の瞳に灯る光を何と形容すれば良いのか……オイルランプの揺らめく灯りとは性質を異にする、彼女の蒼瞳の中にはあるはずのない、緋色の色彩を持った危うい光があった。
妄念の証、とでも呼んでおけば良いだろうか。
「きりさめ、まりさ……。が、そんなにきらい?」
答えは無かった。アリスの小さく丸まった背中からは、瞳と同じ色をした妄執が沸きたつように上っていた。
だから、これ以上尋ねても無駄だ。今、アリスの瞳に映っているのは、メディスンではなく、眼前の人形でもなく、ひいてはこの薄暗い部屋ですら無く――。
「必ず撃ち落とすわ」
何度目かの熱い溜息と共に吐き出されたのは、決意の表れか。
あるいは、届かぬ星に手を伸ばそうとする背伸びに疲れた、稚児のすすり泣きを思わせるようでもあった。
†
その晩、メディスンがもう一つ尋ねたことがある。
「ねぇ、うち落としたいのは分かったわ。でも、アリスはたたかえないの? どうしてお人形を使ってたたかうの?」
キューピッドと名付けられた人形はすでに組み上がっていた。ふくふくとした柔らかそうな膨らみを持った、赤子を思わせる五体。それがアリスの糸魔法に繋がれて、工房の中央に浮かんでいる。
その手に握った弓と、矢筒から取り出した鋭利な矢。アリスの魔力により幻出した装飾品。番えて放てば、鋭い風切り音の後、
びぃん、
と工房の木壁へ易々と突き刺さった。メディスンの未熟な目には、その軌跡を捉えることは出来なかった。余りに、疾すぎて。
一部始終を操作したアリスは、特に感慨も無い様子の仏頂面を崩さない。
「こんなものか……」
「ねぇ、まただんまり?」
「……なに? 聴いていなかったわ」
「もう、いじわる」
拗ねてしまっては答えが出ない。僅かに毒の濃度が強まるのを覚えながら、メディスンはその問いを繰り返した。
「どうしてアリスは、お人形を使ってたたかうの?」
「なぜそれを知りたいの」
「だって、こわされちゃうお人形がかわいそうだから。その弓と矢があれば、アリスにだって同じことができるんでしょう。なんでお人形にたたかわせるの?」
メディスンの抱いた二つ目の疑問もまた、同族への愛護に由来する、遠回しな請願だった。それが徒労であると、知りながら。
「だめよ。これは使う。私は弱いから 」
アリスは即座にはね除けたが、メディスンはその答えに違和感を覚えた。
「弱い? 私の毒を吸い込んでも平気なのに?」
追問に、少しの沈黙があった。
それが何を意味するのか、幼いメディスンには見当も付かなかった。ただ、アリスの揺るがない憮然とした表情が、ベッドの方へ振り向くその直前、僅かに変化したのを感じ取った。
笑み……微笑みか、嘲笑か。
背中を向けたアリスは、控えめなあくびで返事をした。
「少し休むわ。見張っていて。その人形が逃げ出さないように」
「にげないわ。お人形だもの。それで、アリス。弱いって?」
着たきり雀、汚れた作業着のまま寝床に横たわったアリスは、それ以上何も言わなかった。
少しすると、安らかな寝息が聞こえてくるようになった。
ただ、それがあまりに機械的に繰り返されるものだから、人の寝顔など見たことのないメディスンは真贋に迷った。
迷ったが――祈りの形に手を組んでピクリとも動かないアリスは、彼女そのものが魂の抜けた人形のようで。
同族に払うような敬意と慈愛、それから思慕を以て接するほかなかった。つまりそのまま起こさずにいて、メディスン自身は明日砕け散ることになるキューピッドと、最後の対話を始めることにしたのであった。
†
その翌日に起こった弾幕戦については、今更詳述するまでも無い。
アリスは仕上げた人形を手に、霧雨魔理沙という少女に挑んだ。
そして、惨敗した。
人形は丹念にメイクの施された顔を始め、三の四肢を失って、朝露の光る下草に転がっている。
敗者アリス=マーガトロイドはそれを拾い上げた。まるで湿った路傍の石の、その裏側をちょいと摘まんで見てみるかのような、何の感慨もない所作だった。
「キューピッド……」
妄執から引きずり出されたアリスは、無機質な目をしていた。昨日差していた赤光の狂気は、髪をじっとりと濡らす霧の中に散ってしまって、今は見られない。
あたかも彼女自身が、一体の人形であるかのようだった。整った顔立ちに不似合いな仏頂面を抱えていて、故に誰からも抱かれない、不人気な。
凍った顔つきに髪と頬だけが僅かに揺れ、静寂のなか、霧に溶け込ませるように、アリスは深く息を吐く。
「――アリス」
そのとき突如投げかけられた鋭い声は、アリスの腕の中の壊れた人形が、彼女の嘆息に抗議した声だろうか。そうではない。
「メディ、付いてくるなと言ったはずよ」
「できっこないわ。そんなこと」
幼声は僅かに震えていた。生まれたての人形にも、声の使い方がようやく分かってきたと見える。
「いつから見ていたの」
「ぜんぶよ。最初から最後まで……そのお人形がくだけちるまで全部」
「そう……それで、この無様を見て何の用? 嗤いに現れたと、そういうわけ」
「ちがうわ。泣きに来たのよ」
下草をかき分けながら、メディスンは再び声を震わせた。
「……へぇ」
「お葬式に来たの。一晩しか顔をあわせなかったけれど、その子はりっぱなお知り合いだから」
草むらを抜け、勢い込んで駆け出した、あどけないメディスンの歩みはアリスのちょうど三歩前で止まった。
止まらざるを得なかった。
アリスの見下ろす視線が、余りに冷たくて近寄りがたい物だったからだ。喪主か、葬儀屋か、これほどまでの冷気を纏うとすれば、あるいは死神そのもののそれに匹敵するのではないかと、メディスンに予感させるほどのものだった。
「お葬式……ねぇ」
酷薄な嘲笑がにじみ出した。
「そうよ。何がおかしいの」
「これが死んだ気でいるのね。あなたは」
反駁すれば、更に含み笑いを返される。苛立ちの余りメディスンの周囲には、薄紫色をした鈴蘭の毒霧が凝結し始めていた。
「何が、言いたいの」
声にならぬ感情を霧の濃度に変え、メディスンは踏み出した。
一歩。それが全ての契機となった。
アリスが、抱えていた胴体を白露に濡れる地面へと落とした。
そしてその真上からまるで猛禽類が獲物を狩るかのような速度で、踵を打ち付けたのである。
肉付きの良い丸々とした躰が、風船でも割れたかのように弾け飛び、破片がメディスンの額を掠めて小さな傷をつけた。それを補って隠すかのように毒霧の濃度が急激に増し、メディスンの体は紫煙に包まれ見えなくなった。
「アリス――!」
毒霧は凝縮に凝縮を重ね、ついに立体の形を持つに至った。質量を持った毒の塊。それがメディスンの周囲に二十、三十では利かないほどに浮かんでいる。
胸の中に熱を覚えた。初めて覚える感覚だった。その表出が一陣の弾幕と化してアリスを襲った。
毒弾は着弾と共に爆散、霧をまき散らして炸裂する。その場に残った霧の毒性が衰えることはない。そういう性質を持っているのだとメディスンが知ることになるのはもう少し後のことだ。今は無数に放たれるメディスンの怒りの矛先に、焦点を当てよう。
初弾は直撃したかに見えた。しかしアリスは足下に残った人形の破片を蹴り上げてそれを防いでいた。
続く第二波に対してアリスは大きく後ろに飛んで距離を取った。そして腕を一払いすればそこには魔彩光の光弾が生じ、一薙ぎで猛毒の弾を霧散させしめていた。
「こんなもの……?」
「なにを――!」
メディスンの怒りが尽きることはない。
しかしアリスの超然とした守りも盤石だった。持久戦となれば勝者は明白。生まれて初めて弾幕戦をする幼子に対して、七色の魔法使いアリス=マーガトロイドは古老の賢者と呼んで差し支えない。
何十度目かの毒弾を放った際に、メディスンはついに目眩を覚えた。辺りを満たしていた毒の霧が瞬間、薄れる。その隙を見逃すアリスではない。七色をした魔力の糸が彼女の五指の先から溢れ出し、紫色の霧を裂いてメディスンへと殺到した。
これをメディスンは、避けられなかった。
四肢を掴まれ、首を締め付けられて、朦朧とする意識の中、その苦しみを以て、やっと自らが敗北したのだと認識するに至った。
七色の旋風が一陣吹いて去ると、メディスンの敷いた毒の陣地は一息で吹き払われてしまい、あとには毒のあおりを受けて枯死してしまった枯草の原が広がっているばかりであった。
「気が済んだ? 人形。初めてにしてはなかなか上出来じゃない」
七歩開いていた距離を縮めながら敗者を見下ろすアリス。その歩みには、疲労も困憊も見られない。
「――あなたひとりで……こんなに強いんじゃない」
締め上げられた首から絞り出すように毒づくと、アリスは鼻で笑った。すでに彼我の距離はない。二倍近い高さから見下すアリスの顔は――ひやりとさせられるほど強ばった笑みを浮かべていた。
「私の唇が冷たいか? と尋ねたわね」
言うなりアリスはかがみ込んで、メディスンの頬を両手で挟み込んだ。もがこうにも糸の拘束と、その両手が湛える強い力が許さない。
「な……なに」
「教えてあげるわ」
その瞬間、一人と一体の影は一つになった。
アリスの唇は何処へ――メディスンの顔へ。
その額へ。キューピッドの破片が傷つけた紅色の斬線へ、そっと添えられたのだった。
僅かな時間だった。アリスはすぐに離れた。そして昨日までの彼女と同一人物だとはとても思えないような高笑いを挙げた。
「これが答えよ。分からないでしょう 。そういう物なのよ、人形は!」
絶叫と呼んで差し支えない迫力。メディスンには確かに、それが分からなかった。目の前で起こった事態が、あまりに混迷を極めすぎていて。
「何も感じないのよ。人形は――! 苦しみも、苦みも、痛みも、傷も!」
「それは……」
「違う? ご覧なさいこのみじめな破片を」
アリスが拾い上げたのは、最初の毒弾を防いだあの破片だった。
「これが一言だって嫌だと言ったことがあった? 無いわ。生きていないから。私の意のままに動いて、私の代わりに事を為すだけの物だから! あなたが一番知っているはずよ、メディスン=メランコリー。ただの人形は主の意のまま!」
ひやり、と腹の底を冷たい思いが掠め、怒りと恐慌が即座に鎮まった。棄てられたまさにそのときの記憶が、想起されたせいだった。
初めて浴びる太陽の光は、曇り空の向こうから淡く漂っていた。この世界にはどこからか風という物が吹いているということを、その時初めて知った。
今まで住んでいたお屋敷に比べて、世界はこんなにも明るくて、広くて――それ故にメディスンの孤独は倍増した。この茫漠と広がる世界にたった一体、棄てられたのだと。
人形が最後に感じ取る主の意向は、離心に他ならない。ただの人形だったメディスンは、それに抗うことが出来なかった。
その冷たさを、甘んじて受け入れることしか出来なかった。小さな体が張り裂けそうなほどいっぱいに病毒を移された 、形代のメディスンには。
「そうよ。だから私は人形を遣うの。形代よ、身代わりよ!私の代わりにいくらでも砕け散ればいい !」
アリスは天を仰いで嗤っていた。彼女らを包む霧を波打たせ弾き飛ばすかのような大声で。
その瞳には昨晩と同じ赤光の想念が滲んでいた。狂気か、渇望か。いずれもメディスンに理解できる感情ではなかった。
しかしアリスの目には、もう一つ、メディスンが目にしたことのある感情が浮かんでいた。紅色をした想い。それはあるいは――
「……どうして泣いているの、アリス」
――悲嘆に暮れる血涙の上澄みか。
アリスはぴたりと嗤うのを止めた。伴って、糸魔法の拘束が緩み、体が楽になっていく。
泣いているという指摘に、アリス自身も驚いたようだった。手を目の辺りにやり、確かにそこが湿っていることに、はっとしていた。
糸魔法が完全に解けた。駆け寄ろうとしたメディスンを、アリスは手のひらと容赦ない光弾で拒んだ。
「来るんじゃないわ……!」
「でも、アリス」
「二度と家にも来ないで。さようなら、メディスン=メランコリー」
にべもない決別の言葉だった。アリスは踵を返し、森の暗がりへと去って行く。
追いすがろうとは、もう思わなかった。
メディスンは、ヒトが人形に託す想いの種類を知っている。
それはヒトが抱えきれない思い。人形はそれを代わりに背負って流す最後の船。
人形はヒトの形代。身代わり。
だから、アリスの流した涙を、メディスンは見過ごせなかった。かつて彼女の主がそうしたように、目の前の人形遣いが泣いている。
人形に託しきれなかった想いが溢れて、泣いている。
この毒身の隙間にアリスの悲しみを、受け入れる隙間はあるだろうか……それを確かめる間もなく、アリスは決然と歩み去って行く。
しかし、もはやメディスンに出来ることは何もなかった。ヒトに、来るなと拒まれたならば。
「額にくれたあなたの唇…………私にはまだ温度なんて、分からないけれど。きりさめさんの名前を口にするそれは……」
しかし最後に、伝えたいことがあった。その背中に届くように、メディスンは呟いた。
「とっても、きっと暖かかったわ」
夜半を回ろうかという時分だった。風のない静かな夜。だから余計に、ぽろりと飛び出した言葉はその幼気な語勢のままに部屋を一直線に跳ねて、机に向かうアリス=マーガトロイドの耳に飛び込んだ。
こちら側にはオイルランプの薄明かりがあった。デスクの上に散らばったグラスアイたちが柔らかな光を受けて生々しく輝いていて、僅かにぶれたアリスの糸魔法に触れ、ころりと転がった。
普段は黙って暗がりに座っているばかりの来客が突然発した奇言に驚いて、目を剥いたかのようだった。
「……なによ突然。気色悪い」
アリス自身も振り返りながら、すがめた目で放言の主をにらみ据えていた。
彼女の半分ほどの背丈にある、アリスと同じふわふわとした金髪。二度焼きの小さな体。淀む作業部屋の暗がりに佇むメディスン=メランコリーの姿は、彼女の顔だけが作業台の灯りを照り返して浮かんでおり、世迷い言を裏張りするかのように不気味だった。
ぱっと飛び出した返答は、ひどくとげとげしいものになった。果たしてメディスンは痛く傷ついた様子で、立てた膝に顔を埋めていた。
「ひどいわ。気色悪いだって。わたしはただ、ちょっと聞いてみただけなのに……」
もとが人形であり、半ば付喪神と原点を同じくするメディはまだ幼く、自らが得た声帯という器官を未だ使いこなせてはいなかった。涙腺という意味でも、同じくそうなのだろう。金髪を除いて闇とまったく同化した彼女の深い悲しみを表すには、その謹責はあまりに平板であった。
「アリス、あなたまでわたしをいじめるの。毒娘、触れるな触れるな、そら逃げろ……」
「そういうつもりじゃないわ。ただ余りに唐突で、それもこんな時間だったものだから」
「こんな時間? じゃあアリスは夜中だから怒っているの。なぜ?」
「それは……」
平たい声に怒りの感情を見出すことができたのは、アリスが普段から物言わぬ人形を扱っているからだろうか。幼子の怒りを静めるのは厄介だ。しかもそれがアリス自身の勘違いに基づく物ならば尚更だ。
彼女――メディは体温を知らない。無機質でつややかな彼女の肌は、およそ温もりという物の一切を伝達する機能を持ち合わせていないようだった。それ故の無知、それ故の疑問。
それにアリスは勝手に含意を汲みだしていたのだった。
単純な物――逢瀬を連想させるから。
夜に、唇。安直に過ぎる連想。それを疑いもせず口に出したのは……
「悪かったわ。私が考えすぎた。ちょっとばかり、人形作りに入れ込みすぎていたみたいね……。でも、今後。私がそれをしている間に、そういうことは絶対に訊かないで」
「……分かった。もう夜にこういうことは聞かない。わたしも悪かったのね」
謝罪に、苛立ちの理由を付け加えると、本質的に素直なメディは納得したようだった。顔を上げた彼女は、笑みと泣きっ面の間にあるような震える無表情を浮かべていて、その顔でアリスに問うた。
「明日、その子を使うの」
「ええ。明日はこれに頼むわ」
「よくできているのに」
「よく出来ているからよ。あれにぶつけるのに、妥協はできないもの」
「お人形の美しさが、強さに関係あるの」
「いいえ」
「じゃあなんで、そんなにじっくりとメイクを入れているの。壊されてしまうんでしょう?」
手元にある人形がたどる運命を、破滅の宿命をメディは指摘した。しかし、アリスが握る面相筆の筆先が揺らぐことはなかった。
外来の品、一枚の絵画にある『キューピッド』という存在。アイのはまったその人形は、アリスの繊細な筆遣いによる仕上げによって、絵画の世界から抜け出し、受肉しようとしている。
そして光臨した次の日に、彼女は戦場へと駆り出される。
呪わしい定めと、余人が嘆くなら嘆けばいい。メディスンはそう悲しんだし、アリスは意に介した様子もない。
「まだ無意味だと決まったわけではないわ。もしかしたら、あれを射落とす一矢を放ってくれるかも知れない。そうでしょ」
「お人形は嫌い?」
「いいえ。我が身と同じくらいに大好きだわ」
「アリスの言ってることが分からないわ。大好きなのに壊させに連れ出すの。かわいそうよ……かわいそうだわ」
立ち上がりこそしなかったが、メディスンは噛みつかんばかりに詰る。対して、アリスの返答は冷淡に過ぎて、その上急所を的確に射貫いた。
「人形は可哀想なものよ。それはあなたが一番よく知っているんじゃないの、メディ」
痛み、だ。その傷を持ち出したアリスに対して激しい怒りが生じた。だが同時に、自らの放言がこれほどアリスを怒らせたのだとも悟らされた。
それっきりメディスンが黙ってしまうと、部屋の中に残った音は微かで、面相筆が顔料をこすり取る湿った音と、アリスが時折吐き出す熱の籠もった溜息ばかりだった。
気詰まりか……と言えば、双方そう感じてはいなかった。メディスンが泊まり込むようになってから――恐らくはそれよりずっと前から――アリスはこんな調子だった。メディスンはそこに居候をさせてもらっている立場だ。どのような扱いを受けても文句は言えない。
それに苦痛が伴わないと言えば嘘になる。しかし、一切の接触、感触を奪われた虚無に比べれば、こちらの方が幾分かマシだった。
彼女は毒を持っている。その身から際限なく放散する猛毒を。その制御が彼女には困難だった。だから鈴蘭畑で一人ぽつねんと暮らしていた。
しかし、こうして心を持った今、その小さな胸がいつまで続くとも知れぬ孤独に耐えられるだろうか……メディスンは耐えられなかった。人恋しさのまま――あるいは、同胞恋しさのまま――人里や山をふらりとさまよい歩き、そしてそのことごとくにおいて「毒吐き」と忌み嫌われ追い払われてきたのだった。
傷心の彼女が最後に選んだのは、もとよりうっすらと瘴気を纏う魔法の森の奥地だった。こっそりと盗み聞いたことによれば、そこには「七色の人形遣い」がいて、一人黙々と人形を作り続けているという。勝手な仲間意識を覚えていた。彼女も孤独に耐えかねて、仲間を自らの手で作ることを選んだのだと……今こうして転がり込んでみて分かった。それは全くの誤解だった。
「私、アリスのこときらいになりそうよ」
「好いてくれと頼んだ覚えもないわ。出て行きたければ、どうぞご自由に」
手元の人形に命を吹き込む作業を止めることなく、アリスは淡々と言った。
しかしその口調と裏腹に、彼女の瞳に灯る光を何と形容すれば良いのか……オイルランプの揺らめく灯りとは性質を異にする、彼女の蒼瞳の中にはあるはずのない、緋色の色彩を持った危うい光があった。
妄念の証、とでも呼んでおけば良いだろうか。
「きりさめ、まりさ……。が、そんなにきらい?」
答えは無かった。アリスの小さく丸まった背中からは、瞳と同じ色をした妄執が沸きたつように上っていた。
だから、これ以上尋ねても無駄だ。今、アリスの瞳に映っているのは、メディスンではなく、眼前の人形でもなく、ひいてはこの薄暗い部屋ですら無く――。
「必ず撃ち落とすわ」
何度目かの熱い溜息と共に吐き出されたのは、決意の表れか。
あるいは、届かぬ星に手を伸ばそうとする背伸びに疲れた、稚児のすすり泣きを思わせるようでもあった。
†
その晩、メディスンがもう一つ尋ねたことがある。
「ねぇ、うち落としたいのは分かったわ。でも、アリスはたたかえないの? どうしてお人形を使ってたたかうの?」
キューピッドと名付けられた人形はすでに組み上がっていた。ふくふくとした柔らかそうな膨らみを持った、赤子を思わせる五体。それがアリスの糸魔法に繋がれて、工房の中央に浮かんでいる。
その手に握った弓と、矢筒から取り出した鋭利な矢。アリスの魔力により幻出した装飾品。番えて放てば、鋭い風切り音の後、
びぃん、
と工房の木壁へ易々と突き刺さった。メディスンの未熟な目には、その軌跡を捉えることは出来なかった。余りに、疾すぎて。
一部始終を操作したアリスは、特に感慨も無い様子の仏頂面を崩さない。
「こんなものか……」
「ねぇ、まただんまり?」
「……なに? 聴いていなかったわ」
「もう、いじわる」
拗ねてしまっては答えが出ない。僅かに毒の濃度が強まるのを覚えながら、メディスンはその問いを繰り返した。
「どうしてアリスは、お人形を使ってたたかうの?」
「なぜそれを知りたいの」
「だって、こわされちゃうお人形がかわいそうだから。その弓と矢があれば、アリスにだって同じことができるんでしょう。なんでお人形にたたかわせるの?」
メディスンの抱いた二つ目の疑問もまた、同族への愛護に由来する、遠回しな請願だった。それが徒労であると、知りながら。
「だめよ。これは使う。
アリスは即座にはね除けたが、メディスンはその答えに違和感を覚えた。
「弱い? 私の毒を吸い込んでも平気なのに?」
追問に、少しの沈黙があった。
それが何を意味するのか、幼いメディスンには見当も付かなかった。ただ、アリスの揺るがない憮然とした表情が、ベッドの方へ振り向くその直前、僅かに変化したのを感じ取った。
笑み……微笑みか、嘲笑か。
背中を向けたアリスは、控えめなあくびで返事をした。
「少し休むわ。見張っていて。その人形が逃げ出さないように」
「にげないわ。お人形だもの。それで、アリス。弱いって?」
着たきり雀、汚れた作業着のまま寝床に横たわったアリスは、それ以上何も言わなかった。
少しすると、安らかな寝息が聞こえてくるようになった。
ただ、それがあまりに機械的に繰り返されるものだから、人の寝顔など見たことのないメディスンは真贋に迷った。
迷ったが――祈りの形に手を組んでピクリとも動かないアリスは、彼女そのものが魂の抜けた人形のようで。
同族に払うような敬意と慈愛、それから思慕を以て接するほかなかった。つまりそのまま起こさずにいて、メディスン自身は明日砕け散ることになるキューピッドと、最後の対話を始めることにしたのであった。
†
その翌日に起こった弾幕戦については、今更詳述するまでも無い。
アリスは仕上げた人形を手に、霧雨魔理沙という少女に挑んだ。
そして、惨敗した。
人形は丹念にメイクの施された顔を始め、三の四肢を失って、朝露の光る下草に転がっている。
敗者アリス=マーガトロイドはそれを拾い上げた。まるで湿った路傍の石の、その裏側をちょいと摘まんで見てみるかのような、何の感慨もない所作だった。
「キューピッド……」
妄執から引きずり出されたアリスは、無機質な目をしていた。昨日差していた赤光の狂気は、髪をじっとりと濡らす霧の中に散ってしまって、今は見られない。
あたかも彼女自身が、一体の人形であるかのようだった。整った顔立ちに不似合いな仏頂面を抱えていて、故に誰からも抱かれない、不人気な。
凍った顔つきに髪と頬だけが僅かに揺れ、静寂のなか、霧に溶け込ませるように、アリスは深く息を吐く。
「――アリス」
そのとき突如投げかけられた鋭い声は、アリスの腕の中の壊れた人形が、彼女の嘆息に抗議した声だろうか。そうではない。
「メディ、付いてくるなと言ったはずよ」
「できっこないわ。そんなこと」
幼声は僅かに震えていた。生まれたての人形にも、声の使い方がようやく分かってきたと見える。
「いつから見ていたの」
「ぜんぶよ。最初から最後まで……そのお人形がくだけちるまで全部」
「そう……それで、この無様を見て何の用? 嗤いに現れたと、そういうわけ」
「ちがうわ。泣きに来たのよ」
下草をかき分けながら、メディスンは再び声を震わせた。
「……へぇ」
「お葬式に来たの。一晩しか顔をあわせなかったけれど、その子はりっぱなお知り合いだから」
草むらを抜け、勢い込んで駆け出した、あどけないメディスンの歩みはアリスのちょうど三歩前で止まった。
止まらざるを得なかった。
アリスの見下ろす視線が、余りに冷たくて近寄りがたい物だったからだ。喪主か、葬儀屋か、これほどまでの冷気を纏うとすれば、あるいは死神そのもののそれに匹敵するのではないかと、メディスンに予感させるほどのものだった。
「お葬式……ねぇ」
酷薄な嘲笑がにじみ出した。
「そうよ。何がおかしいの」
「これが死んだ気でいるのね。あなたは」
反駁すれば、更に含み笑いを返される。苛立ちの余りメディスンの周囲には、薄紫色をした鈴蘭の毒霧が凝結し始めていた。
「何が、言いたいの」
声にならぬ感情を霧の濃度に変え、メディスンは踏み出した。
一歩。それが全ての契機となった。
アリスが、抱えていた胴体を白露に濡れる地面へと落とした。
そしてその真上からまるで猛禽類が獲物を狩るかのような速度で、踵を打ち付けたのである。
肉付きの良い丸々とした躰が、風船でも割れたかのように弾け飛び、破片がメディスンの額を掠めて小さな傷をつけた。それを補って隠すかのように毒霧の濃度が急激に増し、メディスンの体は紫煙に包まれ見えなくなった。
「アリス――!」
毒霧は凝縮に凝縮を重ね、ついに立体の形を持つに至った。質量を持った毒の塊。それがメディスンの周囲に二十、三十では利かないほどに浮かんでいる。
胸の中に熱を覚えた。初めて覚える感覚だった。その表出が一陣の弾幕と化してアリスを襲った。
毒弾は着弾と共に爆散、霧をまき散らして炸裂する。その場に残った霧の毒性が衰えることはない。そういう性質を持っているのだとメディスンが知ることになるのはもう少し後のことだ。今は無数に放たれるメディスンの怒りの矛先に、焦点を当てよう。
初弾は直撃したかに見えた。しかしアリスは足下に残った人形の破片を蹴り上げてそれを防いでいた。
続く第二波に対してアリスは大きく後ろに飛んで距離を取った。そして腕を一払いすればそこには魔彩光の光弾が生じ、一薙ぎで猛毒の弾を霧散させしめていた。
「こんなもの……?」
「なにを――!」
メディスンの怒りが尽きることはない。
しかしアリスの超然とした守りも盤石だった。持久戦となれば勝者は明白。生まれて初めて弾幕戦をする幼子に対して、七色の魔法使いアリス=マーガトロイドは古老の賢者と呼んで差し支えない。
何十度目かの毒弾を放った際に、メディスンはついに目眩を覚えた。辺りを満たしていた毒の霧が瞬間、薄れる。その隙を見逃すアリスではない。七色をした魔力の糸が彼女の五指の先から溢れ出し、紫色の霧を裂いてメディスンへと殺到した。
これをメディスンは、避けられなかった。
四肢を掴まれ、首を締め付けられて、朦朧とする意識の中、その苦しみを以て、やっと自らが敗北したのだと認識するに至った。
七色の旋風が一陣吹いて去ると、メディスンの敷いた毒の陣地は一息で吹き払われてしまい、あとには毒のあおりを受けて枯死してしまった枯草の原が広がっているばかりであった。
「気が済んだ? 人形。初めてにしてはなかなか上出来じゃない」
七歩開いていた距離を縮めながら敗者を見下ろすアリス。その歩みには、疲労も困憊も見られない。
「――あなたひとりで……こんなに強いんじゃない」
締め上げられた首から絞り出すように毒づくと、アリスは鼻で笑った。すでに彼我の距離はない。二倍近い高さから見下すアリスの顔は――ひやりとさせられるほど強ばった笑みを浮かべていた。
「私の唇が冷たいか? と尋ねたわね」
言うなりアリスはかがみ込んで、メディスンの頬を両手で挟み込んだ。もがこうにも糸の拘束と、その両手が湛える強い力が許さない。
「な……なに」
「教えてあげるわ」
その瞬間、一人と一体の影は一つになった。
アリスの唇は何処へ――メディスンの顔へ。
その額へ。キューピッドの破片が傷つけた紅色の斬線へ、そっと添えられたのだった。
僅かな時間だった。アリスはすぐに離れた。そして昨日までの彼女と同一人物だとはとても思えないような高笑いを挙げた。
「これが答えよ。
絶叫と呼んで差し支えない迫力。メディスンには確かに、それが分からなかった。目の前で起こった事態が、あまりに混迷を極めすぎていて。
「何も感じないのよ。人形は――! 苦しみも、苦みも、痛みも、傷も!」
「それは……」
「違う? ご覧なさいこのみじめな破片を」
アリスが拾い上げたのは、最初の毒弾を防いだあの破片だった。
「これが一言だって嫌だと言ったことがあった? 無いわ。生きていないから。私の意のままに動いて、私の代わりに事を為すだけの物だから! あなたが一番知っているはずよ、メディスン=メランコリー。ただの人形は主の意のまま!」
ひやり、と腹の底を冷たい思いが掠め、怒りと恐慌が即座に鎮まった。棄てられたまさにそのときの記憶が、想起されたせいだった。
初めて浴びる太陽の光は、曇り空の向こうから淡く漂っていた。この世界にはどこからか風という物が吹いているということを、その時初めて知った。
今まで住んでいたお屋敷に比べて、世界はこんなにも明るくて、広くて――それ故にメディスンの孤独は倍増した。この茫漠と広がる世界にたった一体、棄てられたのだと。
人形が最後に感じ取る主の意向は、離心に他ならない。ただの人形だったメディスンは、それに抗うことが出来なかった。
その冷たさを、甘んじて受け入れることしか出来なかった。小さな体が張り裂けそうなほどいっぱいに
「そうよ。だから私は人形を遣うの。形代よ、身代わりよ!
アリスは天を仰いで嗤っていた。彼女らを包む霧を波打たせ弾き飛ばすかのような大声で。
その瞳には昨晩と同じ赤光の想念が滲んでいた。狂気か、渇望か。いずれもメディスンに理解できる感情ではなかった。
しかしアリスの目には、もう一つ、メディスンが目にしたことのある感情が浮かんでいた。紅色をした想い。それはあるいは――
「……どうして泣いているの、アリス」
――悲嘆に暮れる血涙の上澄みか。
アリスはぴたりと嗤うのを止めた。伴って、糸魔法の拘束が緩み、体が楽になっていく。
泣いているという指摘に、アリス自身も驚いたようだった。手を目の辺りにやり、確かにそこが湿っていることに、はっとしていた。
糸魔法が完全に解けた。駆け寄ろうとしたメディスンを、アリスは手のひらと容赦ない光弾で拒んだ。
「来るんじゃないわ……!」
「でも、アリス」
「二度と家にも来ないで。さようなら、メディスン=メランコリー」
にべもない決別の言葉だった。アリスは踵を返し、森の暗がりへと去って行く。
追いすがろうとは、もう思わなかった。
メディスンは、ヒトが人形に託す想いの種類を知っている。
それはヒトが抱えきれない思い。人形はそれを代わりに背負って流す最後の船。
人形はヒトの形代。身代わり。
だから、アリスの流した涙を、メディスンは見過ごせなかった。かつて彼女の主がそうしたように、目の前の人形遣いが泣いている。
人形に託しきれなかった想いが溢れて、泣いている。
この毒身の隙間にアリスの悲しみを、受け入れる隙間はあるだろうか……それを確かめる間もなく、アリスは決然と歩み去って行く。
しかし、もはやメディスンに出来ることは何もなかった。ヒトに、来るなと拒まれたならば。
「額にくれたあなたの唇…………私にはまだ温度なんて、分からないけれど。きりさめさんの名前を口にするそれは……」
しかし最後に、伝えたいことがあった。その背中に届くように、メディスンは呟いた。
「とっても、きっと暖かかったわ」
アリスにもきっと忸怩たる思いや、人形を心から愛で愛した時期があったのだろうなと思います。それを、まだ幼いメディに幼い好奇心と正義感で突っつき回され、突き放してしまったのかなと。冷たさと熱が、とても良いバランスでした。
私は最後のマリアリ要素を見逃さなかった。
メディスンよりアリスの妄念の方に焦点が合っている感じがしますので、これで終わりではなく続きを読みたい気になります。
人形だから分からないのか、あるいはまだ生まれたばかりの子供だから分からないのか
でも、分からないからこそ、核心をついた疑問が出てくるのでしょうね
それにしても『キューピッド』で撃ち落とすとか
このアリス、発想が実に乙女チックだ