Coolier - 新生・東方創想話

始まりの兎は、月を望む

2010/03/25 00:37:10
最終更新
サイズ
32.59KB
ページ数
1
閲覧数
1660
評価数
12/38
POINT
2410
Rate
12.49

分類タグ


 パシンっ

「……え?」

 それは急なことだった
 鈴仙が何気なく口走っただけ。たったそれだけのことなのに。
 小さな手がその頬を叩く。
 赤い、紅葉模様をはっきりと残すほど。
 



 ◇ ◇ ◇




 ことはじまりは――
 いつもと同じ、何も変わらない突き抜けるほど青空が広がった日だった。
 てゐが部下の妖怪兎と共に庭掃除を終え、鈴仙が薬の配達から戻る。
 一日の仕事を終えようとしていた頃だった。

 すっかり日も暮れ、わずかに残った茜色の名残も消えていく。さすがに夜になれば来客はないだろうと、診療中の看板を外そうと八意永琳が玄関を静かに開けたとき。

 急患が飛び込んできた。
 文字どおり、空から。

「頼む、彼女を診てほしい!」

 ぼんやりとした、家の中の明かりに照らされて姿を見せたのは、よく知る人物。人里の寺子屋をしている上白沢 慧音だった。しかし子供たちに教育をしているときのような、厳しく、優しい表情はその顔から消え失せており、今の彼女から伝わってくるのは、焦りと恐怖のみ。顔色も真っ青で、背負ってきた患者と比べても相違ないくらい。
 背中の患者の顔色だけではどんな病かは判断できないが、そんなことはどうだっていい。
 博識な慧音が血相を変えて訴えてくる。
 それが一体何を意味するか。

「中へ! そのままゆっくり!」
「あ、ああ、助かる!」

 どんな病気かわからないまま患者を動かす危険性は永琳ならずとも、知識ある人間なら思いつく。それなのに、彼女は『運んできた』のだ。永琳は帰ってきたばかりの鈴仙と、くつろいでいたてゐを大声で呼び、慌しく診療所の中で動き始める。
 ただ、このとき。
 
 慧音が運んできたのは、患者だけではなかった。
 首から下げられた竹細工の籠。
 その中に……


 怪獣がいたのだから。




 その怪獣は、ゆっくりと籠の中で目を覚まし。
 暗いところに閉じ込められていることを知る。
 体を拘束する、暗闇。
 眠りについたときは、こんなに狭い場所でも。
 こんな不自由な格好でもなかった。

 だからその怪獣は怒りを隠すことなく、大きく口を開き。



「おぎゃぁぁぁぁぁぁあああああっ!」



 永遠亭に響き渡るほど、大声で吼えた。 





<始まりの兎は、月を望む>




 
「ぎゃぁぁぁぁぁああああ!」
「え、ちょっとっ! 何で泣くかなっ! ご飯さっきあげたしっ!」

 そう、怪獣。
 6畳ほどの客室を震わせるほどの大声は、怪獣以外の何者でもない。特に大きな耳を持つ兎の妖獣にとってその衝撃たるや凄まじく。我慢しようとしても頭痛がするほど。しかも不意打ちで大音量を食らおうものなら……

 痛みというか、雷が直撃したような痺れが耳から全身に走るほど。
 耳を必死に抑え頭を畳に擦り付けながら、鈴仙は膝を付いたまま体をくねらせた。

「もぅ、なんで、人間の子供ってこんなに煩いのよ! 何が言いたいのか全然わからないし!」

 それでも、彼女の師匠の命令なのだから仕方ない。
 片腕で両耳を抑え、全身をぷるぷる震わせながら起き上がって、口元を強張らせながらなんとか笑顔を見せた。泣き止ませるための苦肉の策であったが――

 はっきり言って、真顔より怖い。
 ということは。

「おぎゃっ! うぎゃああああああああああああああああっ!」

 当然、状況悪化。
 音量が一段どころか、数段飛ばしで跳ね上がる。その瞬間、びくっと鈴仙の体も畳の上で跳ねて。
 力なく、ぺたんっと人間の赤ちゃんの横に倒れ込む。

「もうやだ……お月様帰る……」

 一度捨てた故郷を思い出してしまうほど追い詰められた鈴仙は、瞳の幅の涙を流し畳を塗らした。しかしそんな彼女にまたしても魔の手が襲い掛かった。

 ぎゅっ

「……え?」

 いきなり、耳を掴まれたのだ。
 驚いて、畳の上で顔の向きを変えて引っ張られたほうを見れば。瞳に涙を溜めた、赤ちゃんがその小さな手に耳を掴んでいた。
 側面から、しっかりと。

「そうなの、これ、気になるの? 確かに人間にはないけどね」

 そうやって耳に興味をもってくれたおかげで、泣き声の衝撃波は止まった。
 鈴仙が胸を撫で下ろしつつ、少しだけ体を起こそうとし――

 ぎゅぅぅぅぅぅっ

 さて、問題です。
 耳は、兎にとって神経の集合体。
 そんなところを、硬い指先で握り締められたらどうなるでしょう? 

 がりっ

 指先で引っかくおまけ突きで。

「……い、いっっったぁぁぁああああああっ!!」

 思わず叫び、畳の上で身を捩じらせて身悶える。
 その拍子に赤ちゃんの手が耳から外れ、なんとか激痛から開放されるが。

「おぎゃああああああああああああああっ!」
「ちょ、まっ!? ぁぁあああああああああっ!」

 また殺兎的音波が小さな怪獣から放たれ。
 鈴仙がぐったりと、畳の上で動かなくなり。
 再度赤ちゃんが、ぎゅっと耳を掴んで泣き止む。


 答え:無限ループって怖くね?


 そうやって赤ちゃんのおもちゃにされ続け。

「……生きてる?」
「……いっそのことこのまま眠らせて」

 てゐとの交代時間が来た頃には――

 真っ白に燃え尽きた鈴仙が満足そうに眠る赤ちゃんの横で倒れていた。





「なんですかっあれは! もう我慢できません!」
「鈴仙、ご飯のときくらい静かにしなさい。それに交代して世話をするのはあなたも納得していたことじゃないの」
「うー、そうですよ。約束しました。でも、やっぱり、無理ですよ師匠!」

 タクアンを荒々しく端で掴み、周囲に音が響くほど強く噛む。不機嫌さ丸出しにしながら今度は味噌汁の椀を取り、ごくごくっと一気に飲み干して。
 ばんっと、それを手の平ごと食卓に叩き付ける。

「第一、なんで人間なんかの子供を! 人里に連れて帰ればいいじゃないですか!」
「そうね。あなたの言うことは正論よ。診療所は子供を預かる場所ではない」
「でしょう? そうでしょう? じゃあ、今日薬を届けていくついでに返してきますよ、あの子供の関係者の家に」

 そう、鈴仙が早朝から相手をしていたのは人間の子供。
 昨日の患者の子供だった。
 気が動転した慧音が慌てて母親と一緒に連れて来て、そのまま一泊。ただし永琳は相手をすることができず、慧音は親御さんに報告してくると出て行ってしまった。そんな中一番目の世話係として選ばれたのが、鈴仙だったというわけだ。
 それで助手から一旦外れ、赤ちゃんを客間まで運んで、そのまま朝を迎えたというわけである。

「そもそも師匠が粉ミルクなんて持ってなければ、人間の子供なんて無理にでも人里に持っていったのに……」
「こらこら、そうやって人間を見下すようなことは言うものではないわ。それにね、今、あの子を戻すわけにもいかないのよ。乳母役が決まっていないらしくて」
「乳母、ですか。そんな一時的なものくらい」
「いえ、ずっとよ」
「……え?」

 徹夜だというのに疲れた顔をせず、味噌汁を啜る。
 そんな永琳は何気なく言い切った。
 はっきりと、なんの躊躇いもなく。

「えっと、あの……ずっとってことは?」

 その言葉の意味を理解しながら、鈴仙は問い掛ける。
 あまりに唐突に告げられた事実が信じられなかった。
 いや、それよりも。

「母親は助からなかった。それだけよ」

 治せない病はない。
 そう言われるほどの名医である永琳が、治療で失敗するとは考えられなかったから。しかもそれを当たり前のようにあっさりと知らされたのだから。

「あの後、慧音にも、彼女が連れてきた人里の両親にもそう告げたわよ。もう、助からない、と」
「え、でも、まだそのときは生きていたんですよね。師匠なら治せるはずじゃ……」
「ええ、『直せた』わよ」

 鈴仙の問い掛けに、永琳は無表情のまま空になった食器を重ね。
 その上に箸を置く。

「あの状態から生命を維持させることはできた」
「えっと、その、じゃあなんで?」
「生命を維持するために使う薬物の副作用、その副作用を抑えるための薬、さらにまたその副作用を抑える薬、を次々と重ねた結果。本能のままに食べ、排出し、眠るだけの生命体となる。それを『生きている』と言うのなら『直せた』ということよ」

 治す、ではなく、直す。
 肉体を直せても。心を構成する脳の大半が死んでいた。
 それを割り切り、淡々と語る。おそらくはその両親の前でもずっと冷静に語ったのだろう。その母親の両親が傷心の状態で、しかも乳母が決まっていない状態で人里に子供を戻すわけにはいかない。そう判断した。

「でも、あなたの負担が大きくなりすぎるのは確かね。一日中ずっと働きたいというなら任せてもいいけれど、人里にも行かないといけないし」
「そ、そうですよ。目にクマを残したまま笑顔でお薬を配っても怪しい兎にしか見えませんし」

 暗い雰囲気に押されながらも、鈴仙は食卓に身を乗り出して訴える。事実、一日目、しかも半日未満で精神的疲労が限界を超えてしまったのだから、必死にもなる。

「いいわ、ちょっと可愛そうだけれど。てゐに任せましょう。数日間の辛抱だし」
「そうですね、それがいいですよ! きっとてゐも人間の子供と接することで、こう人情って言うんですか? そういうのが身について、悪戯も減るはずです!」
「……そうね」

 確かに、あんな負担を数日間ずっと押し付けられるのだから、溜まったものではないだろう。
 
 ――可愛そうだけど、仕方ないわよね。

 鈴仙は少しだけ罪悪感に包まれながらも、その背中から特大の荷物が降りた気がして。晴れやかな気分で朝食を続けたのだった。




 ◇ ◇ ◇




「きゃーっ! た、助けてよ! 鈴仙! お願い、一生のお願いだからっ!」
「おぎゃぁぁぁぁあああっ!」
「ああ、耳が、耳がーーーっ!」

 
 ――って感じなんでしょうね、今頃。さぁて、と。

 薬の配達を終えた鈴仙は、夕日が降り注ぐ廊下を音を立てないように飛んでいた。何故こんなことをしているかというと、まあ、簡単に一言で表現するなら。

『日頃の恨みを晴らす』

 ただそれだけ。
 とは言っても、別にわざと子供を泣かせて困らせるというわけではなく。こっそり部屋を覗いて、人間の子供の動きに困惑する姿をくすくすと笑ってやろう。という、実に腹黒い作戦だった。
 
 ――てゐのいたずらから比べれば可愛いものよ、うん。正義は我にあり。

 おそらく、本人もそれが凄く姑息で嫌らしい手段だとわかっているのだろう。向かう道中で自分を励ましていることからもそれが窺える。そんな少々情けない行動を取りつつ、とうとうその赤ちゃんがいる部屋に辿り着いて見たが。

 妙だ。
 静か過ぎる。
 障子戸一つしか挟んでいないというのに、まったく物音が漏れてこない。
 泣き声一つどころか、まるで呼吸すらしていないようにすら錯覚する無音の部屋。しばらく聞き耳を立てても、何の変化もない。
 まさか、てゐが散歩になんて連れて行くはずもないし。
 となれば。

 もしや。
 あまりの煩さによる、殺害――

 すーっ

「……何してんの?」
「え、う、うわぁぁぁっ!? で、出たわね殺人兎!」
「はぁ? いきなり意味分からないことを言うなんて、なんか悪いものでも食べた?」

 鈴仙が廊下でよくない想像を思い浮かべた瞬間。
 ゆっくりと入り口が横に動いて、呆れた表情のてゐが姿を見せる。しかもいたって健康そうだ。半日の間ずっと、子守りをしていたというのに。

「え、っと、ちょっと心配だから様子を見に、ね?」
「ふーん、その笑顔が怪しいんだけどなぁ。まあ、いっか。いつもの仕返しに私が困ってる姿見にきたのかと思った」
「は、ははは、何をおっしゃる兎さん」
「やっぱり怪しい。でも、わざとにしろ悪気はないにしろ、結果的に困ったことになったけどね」
「え?」
「ほら、あれ。大声なんて出すから」

 そうやって、くぃっと、てゐが右手の親指で後ろを指し。
 左腕で両方の耳を顔の前に、ぺたんっと押さえ付けた直後。
 暴力的な音量の泣き声が、鈴仙の鼓膜を震わせ。
 目を回した兎は廊下へと倒れていくのだった。

 本日の教訓。
 廊下では静かに。





「あぁ、音が聞こえるって、なんて素晴らしい……」
「はいはい、よかったよかった」

 しばらく聴覚が麻痺していた鈴仙は、耳を愛しそうに撫で、瞳に涙を浮かべる。
 その横で目を覚ました人間の子供を小さく揺らしたり、持ち上げたりするてゐが居た。

「何してるの、それ?」
「ん? じっとしてたら退屈してまた泣くから、あやしてる」
「へー、そんなこと必要なんだ」
「あ、鈴仙。まさかその程度のことしらないとか? なっさけないなぁ」
「う、うるさいわね! まだ独り身なんだから仕方ないでしょう?」
「あー、はいはい、仕方ないねー、お子様だもんねー」
「なんか、てゐに言われると無性にイラっとするんだけど?」

 それはそうだろう。
 どちらが大人っぽいかと聞かれたとき、明らかに幼いのはてゐであり、大人の女性は誰がどう見ても鈴仙の方なのだから。しかし子守りの仕方の巧みさで言えば、どうやら軍配はまったく逆になるようだ。
 その外見的な差が鈴仙の心に突き刺さる。

「ぁーっ!」

 そうやって、てゐが鈴仙の方ばかり向いていると。赤ちゃんが手を伸ばし、小さなお母さんの頬を触ってくる。

「……あ、なんとなくわかった。構ってほしいのね」
「そうそう、大きなおねーさんの方ばかり見てないで、私も見てって言ってる。女の子だからそういう部分強いのかもねぇ。いやー、これは将来男の人尻に引くね、うん」
「現実的だけど、嫌な未来予想ね」
「まあ、予想は予想。そうやって楽しむものだよ」

 確かに、昨日苦労して布のオムツを代えたときに見てしまったから。『女の子だ』くらいは鈴仙も思った。でもそれだけである。
 そもそも、月の民以外を下に見る癖のある彼女は、人間の子供の将来なんて正直どうでもいいという節もあり。そもそもそれを考えることもない。鈴仙は再度その将来異性を尻に引くと予想された赤ちゃんをじっと見つめてみるが、やはり特別な感情なんて――

「だぁぃ♪」

 心臓が、一つ、鼓動を上げる。
 どくんっと、何かが鈴仙の中で疼く。
 その赤ちゃんが、微笑み、高い声を上げて鈴仙を見つめた。たったそれだけのことで、少しだけ、この赤ちゃんが特別なものに感じてしまったから。

「どうしたのかなぁ。ちょっと目覚めちゃった?」
「な、何によ」
「ほらほら~、可愛いって思ったんでしょう? 正直に白状しなさいって」
「ば、馬鹿いわないでよ! 私が? 人間の子供に? ありえないわね」

 肩を竦めて強がっても、赤くなってしまった頬は正直なもの。それをニヤついて眺めるてゐの視線から逃げるように二人から顔を反らしても。
 ついつい、さっきの顔が頭の中に出てきて。
 横目でちらりっと、そちらを見れば。

「なんで笑ってるかな……」
「あれじゃないの? いないいないばぁって遊んでると勘違いしてるのかも。ほら、顔が見えなくなって、また半分だけ戻したから」
 
 昨日のあの、むすっとした顔や、泣き顔とは大違い。
 心の底から暖かくなりそうな笑みで、鈴仙をじっと見ている。てゐが両脇を抱えて近づけていっても怖がることもなく、ただキャッキャッと大はしゃぎするだけ。もう、息が吹きかかりそうな位置まで赤ちゃんを近づけられた鈴仙は、顔を真っ赤にし、眉をぴくぴく震わせて何かに耐えていたが。

「わかったわよ! 降参するわよ! 可愛い、この子は可愛いと思いました!」
「一丁前に、照れちゃって、可愛いねぇ」
「だ、誰が照れてるって!」
「あれぇ? 赤ちゃんに言ったつもりなんだけどなぁ。なんで鈴仙が反応するのかな♪ ねえ、教えて♪」
「うるさい、あっちいけ」
「あら、鈴仙お母さん拗ねちゃった。それじゃあ、お布団に戻ろうか」
「お母さん、ね……」

 赤ちゃんを寝かせるてゐの後姿を眺めながら、鈴仙は朝聞いたことを思い出す。その子の実際の母親がもういないということを。
 それでも、あんな無邪気にてゐに笑いかける。
 てゐは、特に笑っているようには見えないが、ただじっとその細かな動きを見逃さないように観察しているようだった。

 そんな姿を見ていると。
 少し、胸が熱くなった。
 なんで人間の子供にこんな気持ちを持つのか、鈴仙にもわからない。

 けれど、その感情はずきずきっと胸を痛めながら大きくなっていく。

「その子の本当のお母さんのこと、知ってる?」
「知ってるよ、死んじゃったってね」
「まだ小さいのにね」
「可愛い盛りってやつなのにね、もうすぐハイハイする頃だし」
「そうね、じゃあやっぱり、てゐも可愛いって思ってるんだね」
「別に、ただ、構ってないと煩いから、仕方なくやってるだけ」

 赤ちゃんに自分の人差し指を握らせ、一緒に手を揺らす。
 それでも、どこか無表情で、達観したような。
 よくわからない表情ではあったが、その仕草からはっきりとわかる気がした。

 てゐもこの赤ちゃんを可愛いと思っている、と。
 そんな感情を抱いているような気がした。

「今人里でさ、この子の乳母を探してるらしいんだけど、まあ養子に取ってくれる人だね」
「うん、知ってる」

 どこか面倒臭そうな、そんな不機嫌そうな顔をして。赤ちゃんのおでこに自分のおでこをくっつける。そうやって子供を喜ばせながら、淡々と答えていく、てゐ。
 そんな幼い横顔に、鈴仙は高ぶる感情をなんとか押さえながら、言葉を選ぶ。

「だからさ、その……その人間を、さ。飼ってみない?」

 月の兎のプライドを優先した言葉を。
 その言葉を聞いた瞬間、てゐの両耳が静かに揺れた。

「……飼う?」

 鈴仙は気づかない。
 自分のプライドを守るために使った言葉が、どんな意味を持っているかを。

「そ、そうよ。飼うの。人間が家畜を飼うのと一緒よ。私たちがその赤ちゃんを育てるの。なんか楽しそうじゃない?」
「……ふぅん。それで?」

 鈴仙は気づけない。
 赤ちゃんに布団を被せ、ゆっくりと立ち上がったてゐの目的を。

「ほら、師匠にはさ。大きくなったら食べるために、とか適当な理由つけてさ。で、大きくなったら、ほら、あれよ。診療所の助手にしてみませんかー、なんて――」

 鈴仙は気づこうとしない。
 だから、その言葉を最後まで続けることもできない。

パシンっ!

「……え?」

 予想にもしない。
 考えてもみない。
 何をされたかすら理解できないから。
 その痛みすらわからない

 人間と妖獣。
 地上と月に住む者たち。
 それを比べ、皮肉を含んだ言葉を口走った。
 鈴仙の中ではたったそれだけのこと、だからてゐも頷いてくれると思っていたのかもしれない。人間が捨てられた子犬や猫を拾うように。

 しかし、小さな手はそれを許さなかった。

「……出てけ」

 たったそれだけ。
 てゐが、たったそれだけ口走っただけだというのに。
 鈴仙は震えた。

 何か得体の知れないものを見ているようで。
 もっと大きな何かに睨み付けられているようで。
 
「て、てゐ。な、何、怒ってるの……、ちょっとした、じょうだ――」
「……出てけって言ったよ?」
「ご、ごめんっ! 謝るから、ね、てゐっ!」

 へたり込んだまま、鈴仙は逃げる。
 てゐが一歩前に進めば、二歩分以上後ろへ下がる。
 威圧感に押され、瞳に涙を溜めて。
 得体の知れない何かに恐怖する。

 そして――


 パンッ


 気が付いたときには、冷たい廊下にまで下がっていて。
 その視界の中にあったはずのてゐは戸の向こう側に消えていた。
 そんな鈴仙の耳には……

 赤ちゃんの鳴き声だけが、重く残った。




 ◇ ◇ ◇




 月のない夜は、安心できる夜。
 追っ手におびえることもない、そんな夜だったはずなのに。
 今夜に限って、彼女の心はずっと波打ち静まることを知らない。
 その原因が何かは、はっきりとはわからない。
 でも何が悪かったかは、理解しているし。
 不用意だったとも思っている。

 でも、そういう性格なのだから仕方がない。
 仕方がない。

 そう自分に言い聞かせ、夜風に身を任せる。
 雲がない上に、薄雲が広がっているせいだろうか。屋根の上に寝転んで見上げた空は、薄暗くて、何も映していないように見えた。
 救いは、屋根の冷たさだけで。
 堂々巡りで熱くなりかける思考を抑えてくれた。

「何か見える?」

 一人でいたい。
 そう思っていたのに、よく知る人物の声が彼女の上から降ってきた。
 
「師匠……どうしてここが?」
「あなたは落ち込むと、見つからないところで空を見たがるから」

 確かに、そうだ。
 彼女にはそういう癖がある。正確に言えば、空を見ているのではなく。
 故郷である月を、想像して空に思い描くだけ。逃げ出す前の月の都を思い出し、瞳を閉じて。空想の月を夜空に見る。

「師匠は姫様のお世話をしなくてもいいんですか?」
「今日は、ほら、新月でしょう? だから姫様はお出かけしたわ」
「綺麗な花火が見える日ですね」

 月を気にせずに、ぶつかり合う日。
 すでに定番となりつつある戦いに何の意味があるのか、それは鈴仙にはわからない。過去に一度、それを永琳に尋ねたら。

『正確な意味なんて本人にしかわからないものよ』

 と、簡単にはぐらかされた。
 そのせいで様々な憶測が妖怪兎たちの中で飛び交い。最近ではもう、永遠という時間を生きるための退屈しのぎじゃないか、と噂するくらい。
 そうやって噂をするくらい、妖怪兎たちも退屈なのである。
 きっと永琳も何もすることがないからここにきているのだろう、と推測した鈴仙は少しだけ唇を尖らせる。

「ところでどんな御用でしょう? それとも、ただ話し相手を探しにですか?」
「あら、やけに突っかかる言い方ね」
「……あ、すみません」

 てゐのことで、口振りまでおかしくなってしまっているのだろう。
 鈴仙は永琳に背を向けるように、屋根の上で身を翻した。
 
「今日はちょっと、私、調子が悪くて、こう頭の中がぐちゃぐちゃで、おかしいというか」
「そう? 私には別におかしくなったようには見えないわよ? ただ悩んでいるだけの、精神的なケアが必要な患者には見えるけれど」
「師匠らしいですね」

 会話を繰り返す中で、永琳は屋根の一番高い部分につま先を乗せ鈴仙を見下ろす。
 蔑むような瞳ではなく、慈しむような瞳をしたまま――
 その姿を見ていると、すべてを受け入れてくれそうな気がして。鈴仙は自然と口を開いていた。

「あの、師匠。私、自分でてゐに何か酷い事を言ったみたいなんですけど、何が悪かったのか。はっきりとわからないんです」

 あれだけ激昂したてゐを見たのは初めてだった。
 どんな皮肉を言っても、にやりっと笑って返してくる。それが彼女らしさだと思っていた。だからいつもと違う姿に驚き、逃げ出して。気が付いたら、屋根の上にいた。

「人間の子供のことであんなに怒るなんて、思わなかったんです」

 鈴仙は無言で頷く永琳に促されるように、今までの経緯を説明する。てゐとのやり取りの一部始終を。鈴仙なりの主観はどうしても入ってしまうが。それでも永琳は何も言わず、耳を傾け続けた。

「たぶん、これで全部だと思います」
「そう、そういうことね。大体わかったわ。でもあなたは勘違いをしているかもしれないわね」
「勘違い、ですか?」
「ええ、だからいくら考えても結論が出ない。情報不足だから仕方ないのかもしれないけれど」

 永琳は少しだけ昔を思い出すように、空を見上げ。
 淡々と語りだす。

「あなたは、てゐが妖獣の中でもかなり古い部類に入ることは知っている?」
「ええ、まあ、あの外見と年齢、そして中身の差でどれほど痛い目を見たことか……」
「そうね、だから。彼女は竹林の中で一番古い兎といっていい。過去には時代に神様にすら出会ったことがあるそうだからね」

 確かに、地上の兎であるてゐは他の者と比べれば圧倒的なほどの年齢を重ねている。長く生きる途中、兎の群れの中で初めて人の形をとった、と、自慢をしていたのすら聞いたことがあったから。初めはてゐがその当たりの山にいる兎と同じような姿をしていたなんて、鈴仙は想像すらできなかった。

 月の玉兎のように最初から人の形をしていたんじゃないか。
 正直、そうやって疑った。
 しかしてゐの言葉を肯定するように、鈴仙がここに住み始めて間もなく。鈴仙の目の前で一匹の兎が、妖怪兎へと姿を変える現象が起きた。てゐから聞いた話によれば、『長く生きたから』ということらしい。

「兎の姿から、人に近い形を取る。それによって野生の兎とは比較にならない寿命を得た。さらに彼女の幸運という能力がそれを顕著にする。人間は無意識にそれを欲してしまうから、てゐの力が衰えることなんてなかったのでしょうね」
「……でも、そんな寿命とか年齢の話なんて今関係あるんですか?」
「そうね、どちらかというと。てゐが兎から妖怪兎に変わったことと。今の妖怪兎の特徴について」

 地上の妖怪兎の特徴、その言葉で思い浮かんだことが一つある。
 それはずっと気になっていたが、別段気にしていなかったこと。それでも、最初から人に近い形をとっている玉兎とはまるで違う。

「女性の兎しか妖怪化しないところ、でしょうか」
「一応雄の兎だって長く生きれば妖怪化するのだけれど」
「え、でも」
「そう、結果的に全て、女性の妖怪兎となる。しかも誰かに似た姿の、ね」

 そういえば、そうだ。
 鈴仙は冷静に妖怪兎たちの姿を思い出す。その全てが、ほとんどてゐと同じ姿をしているので、服の色の違いや身長の大きさで判別している。てゐ以外に、裸になった妖怪兎たちを名前で呼び当てるのはまず不可能と言っていいだろう。
 
「兎たちにとって、てゐは絶対なのよ。その存在に少しでも近づこうとするから、その憧れの姿を信仰し、真似てしまう。だから地上の妖怪兎には男の姿をした者が生まれない。てゐと同じ姿になれて、てゐと一緒に暮らせる。それが兎たちにとってどれほど幸せなことか」
「でも、師匠、それはあまりにも大袈裟なんじゃ? いくら慕われているからと言って」

 そうやって静かに反論しようとした鈴仙は。

「そうかしら? 妖怪兎の始祖であり、血族であれば当然のこと」
 
 続けて出てきた単語により、その口の動きを止める。
 『始祖であり血族』
 それが意味することは、たった一つ。

「もしかして、妖怪兔のほとんどって……」
「あなたの想像のとおりよ、鈴仙。今、永遠亭にいる兎たちのほぼ全てが、昔、兎だったときのてゐが残した子孫たち」

 それが子を産み。
 また子を産み。
 どんどん、どんどん増えて。

 薄く混ざりあってしまったが。
 てゐの強い血があってこそ、妖怪兎たちが生まれていく。

 でも、妖怪兎には……女性しかいないから。
 ましてや、人に近い姿を取る兎の。
『始まりの妖怪兎』
 そう呼ばれる者になってからは、ずっと、ずっと。

「師匠、もしかして、昨日の可愛そうっていうのは……」

 喉が渇く。
 自分が、取り返しのつかない一言を口走ったんじゃないか。
 そんな気がして、鈴仙はただ永琳を見上げる。救いを求めるように。

「そうよ、てゐはね。ずっと、ずっと。千年以上。自分がお腹を痛めて生んだ子供を抱いたことがない。兎だった頃は煩いくらいに纏わりついてきたはずの温もりが、ふと途切れてしまったようなもの。それはどれほど寂しいものかしら」

 だから、兎たちはてゐの言う事を聞く。
 彼女が地上の兎の長だからという意味だけでなく、実質、すべての兎の母親のようなもの。故にみんな、寂しくない。子供が産めなくなってもてゐがいる。でも――

「てゐは、誰を頼って……」

 その言葉に、永琳は首を横に振る。
 決定的だった。
 鈴仙がてゐに冗談で言っただけ、それだけの言葉がどれほどの重い意味を持っていたか。

「頼る人なんていない、ただ、自分より遅く生まれたはずの仲間が早く死んでいく。それを見つめながら仲間たちの代表として生きてきた」

 可愛そう。
 そう永琳が言ったのは、その手に他の子供を抱かせてしまったこと。
 親がいない、まだ、引き取り手のいない可愛らしい赤ちゃんを。
 過去に子供を持ったことがあるからこそ、子供のあやし方を知り。子供の可愛しさを知り尽くして、人間の子供に対しても難なく接して見せた。
 
 千年以上経っているのに。
 つい最近まで子供の世話をしていたかのように振舞うことができるということが。
 ただ一つの証明だった。

 ずっと、その小さな手の中に、実の子を抱きしめてみたい。
 そう願い続け、頭の中に思い浮かべ続けていたということの。
 紛れもない証拠。


 叶う事のない。
 始まりの兎の夢。


「どうしてなんでしょうね。私は、どうしていつもこんなに……」

 鈴仙は腕で瞳を覆い、声を震わせる。
 恥ずかしいと、純粋に思ってしまったから。
 月の玉兎であることのプライドだけを優先し、一緒に暮らす仲間の気持ちを考えないままに不用意な言葉をぶつけた。

 子供を抱くという、仮想的な夢の中にいるてゐに向かって。

『飼う』
『食料にする』
 
 その夢を、知らないままに汚した。
 千年以上夢見たことを、自分の自尊心で台無しにした。
 そう思っただけで、もう誰も見せる顔がない、と。
 顔を両腕で覆い隠し、唇を噛む。

「意地っ張りで、地上の生き物を差別する癖に臆病。そんな悪い部分もあるあなただけれど、そんなあなただからこそ、みんな好きなのよ。てゐだってわかってくれているはずよ」
「でも、わたしはっ……わたしはっ!」

 顔を隠したまま、頬を濡らす。
 屋根の上で必死に泣き声を漏らすまいと耐える鈴仙の顎、そこを柔らかい布が包み込んで。

「終わったことは仕方ない、けれど、あなたは自分の落ち度に気がついた。なら、後はわかるでしょう。明日、謝りなさい、ね?」
「はひ、しひょぉ……」

 拭いても、拭いても。
 流れる暖かい水の流れ。
 それを見つめながら、永琳はその流れが止まるまで鈴仙に寄り添ったのだった。

 



 ◇ ◇ ◇




『ごめんなさい』

 その次の日、朝日が差し込む廊下で勢いよく二つの声が重なり。

「へ?」
「え?」

 間抜けな声が続いた。
 お互いに軽く頭を下げた状態で、瞳をぱちぱちしながらお互いを見つめている。

「はいはい、二人ともよくできました」

 そんな二人をくすくす笑いながら。
 永琳は、ぽんぽんっと二人の兎の頭を軽く叩いた。

「さあ、ご飯にしましょう。せっかく鈴仙が作ってくれたのに冷めてしまうわ」

 笑顔のまま二人を追い抜いていく。
 そんな永琳の後ろ姿を見つめて、苦笑しながら追いかける。
 鼻歌を風に乗せ、後ろで手を組みながら上機嫌で歩くその姿からして、こうなることを予測していたようにも感じられた。
 もしかしたらと思い、鈴仙がてゐに問い掛けてみる。
 昨日、夜に何かあったかと。

 そうしたら、その質問を待っていたかのように。
 『やっぱりか』とつぶやいてから。耳を右手で耳の先の毛をいじり始める。

「来たよ、お節介なお医者さんが」

 やはり、永琳が世話を焼いたようだ。
 鈴仙はぺこりっと改めて小さくお辞儀をして、食卓へと向かったのだった。



 その後は、何一つ波乱なんてなかった。
 てゐは赤ちゃんの面倒を文句一つ言わずにこなし、鈴仙は相変わらず永琳の手伝い。ただ一ついつもと違うことと言えば、姫と皆から呼ばれる輝夜が、夕食の時間になっても部屋から出てこなかったことだろうか。
 そんな頑なな態度から、残る三人は察する。

 ああ、負けたんだな、と。

 そんな戦いの話と、赤ちゃんの話。
 二つのご馳走を食卓のおかずに加えた団欒の時間も幕を閉じ。後は一日の終わりを布団の中で過ごすだけ。そうやって鈴仙が布団に入って天井を見上げていると。
 ふと、あることを思い出した。

「私は落ち込むと月を見上げる」

 確認するようにつぶやき、そして、確信した。
 鈴仙がこっそりと空を見上げようと永遠亭の中を歩いているとき。
 必ずと言っていいほど、先客がいたことを。

 満月の時だってお構いなし。
 餅つきを終えた後の、気だるさの残る状態でも。
 ぼーっと何も考えていないように、てゐが空を見上げていた。
 今、鈴仙自身が呆けたまま天井を見上げているように。
 ただ何気なく星でも眺めていたようにも見えたのに。
 
 今なら、その理由がわかる気がする。

 自分と同じで落ち込んでいたからという理由ではないはずだと、鈴仙は感じる。
 下手な考え休むに似たり、というけれど。
 てゐが空に望んだのは、おそらく月。
 なぜなら、彼女自身が鈴仙にこう問い掛けたことがあるから。

『月には、兎がいるの?』と。

 でもそれ以上は、鈴仙に言おうとしない。
 伝えようとしない。

『いるよ、一杯。女の人も、男の人も』

 そう返した鈴仙の顔をじっと見つめて。笑う。
 笑顔を顔に貼り付けて。

『そっか』

 淡白に何の感動もない声音で、鈴仙に返してきた。
 そんな憂いを秘めた横顔を、瞼の中で思い出し。
 鈴仙は、また人知れず泣いた。


 もし……


 もしかしたら……


 月の民である自分たちが、叶わぬ夢を思い出させてしまったのではないか。
 外からの進入を嫌う、閉鎖された月の世界。
 足を運んでも囚われるだけの世界に。

 最後の夢を抱かさせてしまったのではないか。


 それが全て自分の、玉兎である鈴仙自身の責任のように感じ。
 彼女はただ、枕に顔を埋める。




 せめて、もう少し。
 もう少しだけ、てゐが赤ちゃんを抱いていられる日が続きますように。
 そう神様に願って――






 ――ああ、神様っていないんだな、と。

 私は、思う。
 次の日、永遠亭にいきなり慧音が押し掛けてきて。

『乳母が見つかった!』

 と、嬉しそうに叫ぶのだから。
 てゐが、赤ちゃんと遊んでいる前で。
 本当に良かった、と、満面の笑みで、言い切るのだ。

 丁度その場に居合わせた私は、初めて人をおもいっきり殴ってやりたいと思った。
 どろどろとした、純粋な悪意に任せるまま。
 その口を黙らせてやりたかった。
 でも、笑うんだ。

「そっかー、よかったよかった♪」

 てゐが笑うんだもの。
 赤ちゃんを高く持ち上げたまま、笑うんだもの。
 
「大変だったんだからね、すぐ泣くから」
「泣くのが赤ちゃんの仕事と言うじゃないか」
「そんな仕事で生活していけるんだから、楽ってもんだよ」

 まるで何事もなかったかのように、慧音と笑い合い。
 その赤ちゃんを差し出そうとする。
 あのときの笑顔のように。

 月を見上げていたときの。
 上辺だけの、心を偽ったような表情で。
 
「て、てゐ!」

 だから私は思わず名前を呼んでいた。
 その後はどう続けていいかわからなかったから。
 名前を呼ぶだけで精一杯だった。

「あ、そうだね。忘れてたよ、この子が入ってた竹の籠も返さないと」

 自分の小さな胸の前に抱えたまま。
 慧音の腕の中へ、そっと手渡す。
 優しく手を触れさせたまま、体重がすべて慧音に移ったのを確認してから。瞳を細め、名残惜しそうにゆっくりと手を戻す。

「だぁっ!」

 いきなり見知らぬ誰かに体を抱かれたせいで、赤ちゃんは小さな叫び声を上げててゐの方へと手を伸ばす。けれどてゐは赤ちゃんの入っていた籠を持ち上げるだけで、それ以上子供に触れようとはしなかった。
 赤ちゃんが顔を歪め、泣こうとしても近づこうとすらしない。
 
 案の定、赤ちゃんは怪獣のような声で泣き出してしまうけれど。
 それをてゐは耳を塞ぐことなく、ずっと聞いていた。
 いくら慧音が揺らしても泣き止まないその赤ちゃんは、そのまま再び笑顔を見せることなくその部屋を後にする。

「さあ、一応お客さんだし見送りとかしとく?」
「そうしようか」

 その後、玄関まで慧音の後ろを付いて行き、途中で方向を変えて診療所にお客がいないことを確認してから師匠に声を掛ける。
 すると師匠も快く玄関まで出てくれて。

 3人で赤ちゃんと慧音を見送った。

 段々とその姿が小さくなっていく間も、てゐは相変わらず。笑顔を浮かべてばいばいっと右手を大きく手を振っていた。そのあまりに大袈裟な態度に私と師匠が笑ってしまうほど。
 そうやって私が微笑を浮かべていると。
 てゐの左手がいきなり私の服を掴んでくる。

「あ、こら、てゐ」

 またイタズラか何かだろうか。
 私はその服の掴まれた部分、ちょうどわき腹の部分を覗き込んで。

 はっとした。

 てゐの左腕が、真っ白になるほど。
 血の気を失うほど強く握り締められていたから。
 薄い布越しでもわかるくらい、爪が手のひらに食い込み。
 今にも生地を引き千切ってしまいそうなほど。

「あれ? どーしたのっかな? 鈴仙もしかして赤ちゃんがいなくなって寂しいとか?」

 それなのに、どうしてずっとそんな顔をしたままなんだろう。
 どうしてそうやって自分に嘘を吐き続けるんだろう。
 なんで笑ったまま、覗き込んでくるんだろう。

 そうやって明るく振舞ったまま、慧音が見えなくなるまで手を振り続け。
 師匠が診療所の方に戻っても。
 てゐはしばらく、その場に立ち尽くした。
 私の服を、ぎゅっと握り締めたまま。
 無言で、立っていた。

「ねえ、てゐ。もしも、月に行きたいんだったらさ。今度一緒に行ってみない」

 そんなてゐの姿を見ていられなくて。
 私は心にもないことを言う。
 月から逃げ出した兎がどうなるかくらいわかっているのに。
 もう二度と戻るつもりなんてないのに、その場限りの気休めの嘘を吐く。

 そしたら、てゐは。
 
「無理、しなくていいよ」

 まるで私の心を読んだかのように。
 ふっと表情を緩めた。
 貼り付けた仮面の笑顔じゃない、温かみのある微笑みを見せる。

「捕まるんでしょ? 戻っちゃったら。だから無理しなくていい」
「無理じゃないわよ、帰るための道具だって直せばいくらでも飛べるんだから。それに抜け道だっていろいろ知ってるのよ。元軍人だもの」

 だから私も強がりを返す。
 だって月の世界に希望を見せてしまったのは私たち、月の住人だから。
 永い、永い生の中で。
 彼女が捨てたはずのものを思い出させてしまった責任があるから。
 てゐの両肩を掴んで、大丈夫だから。と、繰り返す。

 でも、てゐは首を横に振る。
 静かに、それでいて強さを感じさせる。そんな不思議な仕草を見せて。
 
「違うよ、鈴仙。確かに、私は昔に夢を見た。もしかしたらって思って、馬鹿な夢をね。でも違うんだよね。そんな届かない夢なんかより、なくしたくないもの見つけちゃったから」
 
 ぎゅっと、また強く私の服を掴む。
 そして私が肩に置いた手を跳ね除けて、胸の中に飛び込んできた。

「私より早く居なくならないでくれたら、それでいいから」

 ああ、そうか。
 やっと、わかった。
 てゐが赤ちゃんと接しているとき、全然笑っていなかったのは。自分より早くいなくなることがわかりきっていたから。人間という、妖怪から見たらほんの一瞬の命に過ぎないものを育てることの恐怖が。
 ずっと、てゐの笑顔を消していたんだ。

 だからほら、こんなに……
 小さな手が、震えて……

「大丈夫、私も師匠も姫様も。絶対にてゐより長生きするから」
「うん……」
「絶対に、大丈夫だから」

 私は震えるてゐを胸に抱き。
 小さな、小さな、始まりの兎が手を離そうとするまで。
 
 ずっと。
 温もりで包み込んだ。















 それでも、欲張りな小さな兎は。


 今夜も、夜空をそっと見上げる。

 
 
 地上の兎は兎から。
 月の兎は初めから人の形。

 そんなことをイメージしながら書いた結果がこれなわけです!

 てゐって大人なのに子供とかそういうお話すくないなぁって思ったりなんだり。

 ここまでお読みくださりありがとうございます。
 よろしければご意見、ご感想等お願いいたします。
pys
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1270簡易評価
7.100名前が無い程度の能力削除
てゐが、母。その発想はなかったけど、不思議とこんなにしっくりとくる。
愛だとか夢だとか、そんなものを一切合切自分の心に押し込めて、ただ月を見上げる地上の兎。
どこまでも嘘つきな彼女の在り方があまりに強くて切ない。素晴らしいお話でした。
8.100名前が無い程度の能力削除
妖怪兎が従う理由に、そんな裏話を加えるのが素敵ですね。
確かに外見は小さくてもそれなりの年齢ですし十分考えられる。
最後の一人で月を見上げる様子が、頭の中に浮かんで来るようでした。
9.100名前が無い程度の能力削除
心に何かがそっと響いた気がします。
13.80名前が無い程度の能力削除
てゐの描写はすごくいいと思います。
ただ、それを引き立てるために鈴仙の蒙昧さを強調する手法をとられたのは残念です。
16.80名前が無い程度の能力削除
このてゐはきれいなてゐ
長く生きれば生きた分だけ、ずるがしこさ以外にも色々得たり失ったりあるんでねぇ
19.90ずわいがに削除
妖怪なら人間を“飼う”と表現しても珍しいことではないけれど、それがてゐだと話は変わってきますよね。
おっちょこちょいな鈴仙ですが、気持ちは汲み取れるんですよ。ただいかんせん経験不足だった;ww
ていうかてゐが本当に「お母さん」ってイメージが似合ってて驚きました。永遠亭は母揃いですねv
20.100名前が無い程度の能力削除
ほんとにもう、てゐの年齢ってついつい忘れてしまいますよね。
あの嘘つき兎の素顔、綺麗じゃないですか。素敵です。


鈴仙はどうやっても叶わないんだろうなぁ。まだまだ若いですものね。
24.100名前が無い程度の能力削除
点数見たら本当に埋もれてた。
もっと評価されてもいいはず

鈴仙がてゐを怒らせる描写だけで100点を入れる価値がある
29.100名前が無い程度の能力削除
言う事は何もない

あ、あった
誤字:尻に引く→尻に敷く
30.100名前が無い程度の能力削除
偉くなりすぎたんですねえ
36.90名前が無い程度の能力削除
このてゐ、すきだな
37.100ばかのひ削除
いいてーちゃんでした
そしていいかーちゃんでした