妖怪、幽霊、妖精。今では御伽噺の中でしか名前を聞くことのできない、ある意味では忘れ去られたといってもいい存在。
発達した文明の中に生きる人々は、彼らをまだ無知で文明の力が乏しかった先祖たちの恐怖心、信仰心が生み出した虚構のものだと信じて疑わなかった。
山奥にある結界に護られたとある土地の住民が今日も暢気で平和な日常を謳歌しているとは夢にも思っていないだろう。
この幻想郷と呼ばれる土地には、大きいものから小さいものまで実に様々な物語があふれている。
大きいものは別の人たちに任せるとして、ここでは影の薄く埋もれがちな小さな物語を語るとしよう。
- 今日はこんな話である。 -
この地に一歩でも踏み出したものは、活力を秘め青々とした草原の広大さに心奪われ、陽光の恵みを受けしっかりと大地に根付く木々の力強さに圧倒され、心地よく響く清流の効果音に耳を傾けることだろう。
例え自然というものをまったく知らなかったとしてもただ木陰に腰掛け、目を閉じているだけで懐かしさやいとおしさといったものが胸のうち、心の奥底から湧き出てくる。
ふと、風が吹くことがあれば、それに乗って鳥達のさえずりや虫達の旋律があらゆるところから流れてきて、そのどれもが決して色あせることなく、むしろその中には楽しさ、喜び、希望といった今ではほとんど感じることの出来なくなった途方もなく明るいものが感じられる。
ここ幻想郷は結界によって科学と時間に支配された外の世界から隔てられていた。
華やかさがあるわけでも、快適さがあるわけでもなく、ただこみ上がってくる懐かしさと、いつのまにか飾り気のない草原でうたた寝してしまうほどの平穏さが全てだった。
科学と文化と追い求め、その先に真なる豊かさを求めようとしている現代文明に生きる数多くの人間にとってはいくら望んでも手にすることのできないものである。
なぜならばこれらは全て、他でもない人間が幻想へと追いやったのである。
この土地に足を踏み入れることのできるのは、いくつかの例外はあるが、たいていは外の世界から忘れ去られた、いわゆる幻想の存在となったものであった。すでに失われてしまった太古から続く自然だけでなく妖怪、幽霊、妖精、魔法に妖術といった、外の世界にとっては子供だましの御伽噺を彩るだけの様々な小道具までもが、この幻想郷ではいたるところにありふれ共存していた。
だからこそ幻想郷である。
とはいっても時々、余計なものが入り込んでしまうことがある。外の世界でもまだ言葉としては残っている、神隠しという現象、正確に言えば外の世界で一般的に神隠しと呼ばれている現象のうちの一つである。
幻想郷と外の世界とは二つの境によって隔てられていた。そのうちの一つであり実質的な壁としての役割を果たす博麗大結界。その管理を行っているとある妖怪は時折、結界に揺らぎを作ることがあった。
それが気まぐれなのか何らかの意図があるのか、それは誰にも分からないのだが、半ば作為的に生じた結界の揺らぎに外の人間がはまり込みこの土地へ迷い込んでしまうということがあった。
こうして日本の原風景に足を踏み入れてしまった余所者の末路はほぼ三つしかない。
一つは哀れ、腹をすかした妖怪の餌としてその短い一生を終えるというもの。
もう一つは、命の危険を潜り抜け幻想と常識の狭間にあるとされている博麗神社にたどり着き、そこから外の世界へ帰るというもの。
そして最後の一つは、この幻想郷にそのまま住み着くというもの。
幻想郷にも人間は住んでいる。もちろんその数は外の世界に比べれば余りにも少なく、力、技術、規模、どれをとっても外の世界の人間とは比べ物にならない程度であり、当然、幻想郷に住む魑魅魍魎たちにはまったく敵うはずもない。あくまで幻想郷という世界を構成する数多くの要素のうちの唯の一つ、ちっぽけな存在でしかなかった。
そんな幻想郷に住む人間りの大部分が暮らしているのがここ人間の里と呼ばれる小さな集落である。
小さいとはいっても食堂に道具屋、紙芝居から喫茶店までたいていのものは揃っている。辺りは活気に満ちていて小さいながらも決して寂れてはいない。それどころか結界が幻想郷と外とを隔ててから時が経ち、今では少なくとも幻想郷に住む人間が妖怪にとって食われるということはほぼなくなっていたということもあって、時には人間に混じって妖怪もごく普通に買い物をしたり辺りをうろついたりしていた。
そういった光景は今日日特に珍しいものではなく、むしろそれがかつての食うか討ち取るか、とは違う人間と妖怪との新しい関係の象徴であった。
さて、ここで少し耳を澄ましてみると、里の喧騒に混じってなにか金属でも打ち付けるような音が規則的に、それでいて不規則に響いてくる。
よく見ると里の中心から少し逸れた一角の、民家と思われる木造平屋の屋根の上に親子ほど歳の離れた男が二人、なにやら作業をしているようだった。
近代の洗礼された無機質な建築物とは違い、柱の一本、壁の一枚、屋根瓦の一枚に至るまで躍動の息吹が感じられる昔ながらの木造建築はただ機能のみを追及していても、見る者の心を和ませて心を満たす。いわゆる機能美というものか。
どうやら聞こえてくるのは金槌で屋根に釘を打ち込んでいる音のようだ。そんな本来ならただの雑音でしかないものでさえ、しっかりと構成されたBGMのごとく聞こえてきて、改めて幻想郷というものがどういうところなのか再確認できる。
そんな演奏者である彼らは大工であった。
片方は白髪交じりの頭に手ぬぐいを巻いて、口には釘を数本くわえリズムよく手に持った金槌を振り下ろしていて、素人目に見ても何十年と経験を積んできた、いわゆる職人であることが分かる、いやこの場合棟梁とでも言うべきか。
もう一方は背は高く、髪は生え際こそ黒だが先に進むにつれて茶色になっていてずいぶんと歪だった。見た目からして若々しく、振り下ろす金槌の音のリズムは不安定でまだまだ未熟者だということをはっきりと示していた。
まるで機械のような正確さと速さで仕事を進める棟梁とは違い、どれをとってもみすぼらしい仕事振りの青年だがその表情には曇り一つなく晴れやかで、希望に満ち溢れていると言っていいものだった。
そんな彼は大工の見習いになってようやく一ヶ月が経とうとしているところであった。
…もっと言うならこの幻想郷にやってきたのもおよそ一ヶ月ほど前である。
彼は外の世界から迷い込む、幻想郷の住人が渡来人と呼ぶ者の一人であった。
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幻想郷に来る以前は彼はどこにでもいるごく普通の人間であった。発達していく文明と文化の庇護の下で、何の不自由もなく快適に日々を生きていた。
外の世界、すなわち人間が作り上げた支配する社会は一見すれば住み心地のよい世界である。
技術によって生み出された利便さがいたるところにあって、全知全能という言葉も現実味を帯びているかのようだった。
だが、ふと見上げることがあっても、そこには必ず人工の産物があって、決して澄んだ青空や紅く染まった夕日、点光輝く夜空を瞳に写して楽しむことは出来なかった。
一歩一歩踏みしめるのは、生命力の息づく暖かな大地そのものではなく、それを覆い尽くす冷徹でただ熱いだけのアスファルトでありコンクリートである。
空をビルに奪われ、大地をコンクリートに奪われた無機質な世界の中で人々は一日一日を追われるようにただ生きていた。
文明は毎日のように進化を続けて、全てが常に進んでいる。人間が手にした科学の力は、少なくとも彼ら自身は万能だと思い込んでいて、不可能と思われていたこと、誰も考えつかなったことが次々と現れ生み出されていく様は、ますます人間の科学に対する信仰を増大させていった。
彼が生きていたのはそんな世界である。
必要なもの、欲しいものは簡単に手に入れることが出来るのにもかかわらず、彼自身の心が満ち足りることは一度もなかったようだった。
もしくは欲しいものがあって、いろいろ手にしたり手に入れたりしているのだけれども、欲しいものに近づくどころか逆にどんどん遠ざかっていってしまっているようだった。。
コンビニでレジを打っているときも、友人と出かけているときも、部屋で何もせずただくつろいでいるときでさえ、絶えず心の中には溢れるほどの焦りがあって、頭の中では次の予定が浮かび、そういったものが浮かぶたびに自身の選択肢が減っていった。
予定の管理も次に自分がやるべきことも、科学の力によってかつてに比べて遥かに手軽で確認しやすくなったが、そのせいでかえって予定によって一日が埋め尽くされるようになった。
快適さを求める余り、いつしか本題を忘れて肥大化していって家電などに代表される先進道具のように、社会そのものも快適さ、便利さ、豊かさといったものを突き詰めていき続けていた。全ては進歩していき、人々は知らず知らずのうちに社会の波の乗ることが善と考えそれを常識としていった。
その結果何が残ったのかといえば、快適さを手にするために不自由な暮らしを強いられ、ようやく手にしてもさらに先に存在する快適さを追い求めて不自由な暮らしを強いられるというおかしな連鎖、なんとも皮肉な人生のみであった。
常に何かを追い続け何かに追われ続ける日常において、心を満たす暇なんてものはかけらもなかった。
そんな日常を必死に謳歌しようともがいている人間の中にあって、社会から真逆さと矛盾の間を感じるようになっていた彼の内には虚しさが両手を広げて居座っていた。
机と椅子が並んだ広い室内で教授たちが黒板に書き記し口に出す偉人たちの偉業の成果の一部を頭に留めようとしても、それは何の抵抗にもならなかった。そういった行為は彼の希望とは裏腹に虚しさ、空白感といったものを増長させていって、いつしか憂鬱の心模様にまでになってしまっていた。
自分の中で自分自身の力ではどうにもならない大きなもの、あるいは薄く広がったものを前にして、ただ手をこまねくことしか出来ず、それが自身も支えにしている社会の本質にますます目を向けさせてしまっていたのだった。
この人間の社会、その本質とはなによりも束縛に他ならない。
彼がまだ幼く何も知らずに、もしくは何も見せられずにいた時分は当然のことながら世界に対して何も感じることなく日々を生きていた。
だが、まざまざと世界というものを見せ付けられることで、彼は徐々に疲弊していき、ある日世界がたまらなく窮屈に思えたのだった。
そう感じたとき、感じ始めたときに、文明、社会そのものに自らの首を閉められ窒息寸前まで追い込まれてしまっていた自分の姿に初めて気がついたのだった。
ありとあらゆる謳い文句は、万人にやさしく差し伸べられる無垢で透き通った女神のような手ではなく、一度でも触れてしまったらしっかりと張り付いて離れない蛸や烏賊の足であるということに彼は気がついてしまった。
そうした苦しみを自覚し、自覚することによって今まで心の中でくすぶっていた苦しさ、虚しさといったものが瞬く間に頂点に達しようとしていたのだった。
そして、彼は一人逃げ出したのだった。
崩壊寸前の彼が目にしたのは、どこにでもある旅行代理店の店先だった。
何かをする気すら起きなくなっていた彼だったがそこを通り過ぎようとした刹那、とある土地の光景を目にして足を止めた。
そこは彼とは何の縁もゆかりもないまったくの見知らぬ土地である。
にもかかわらずただ一目見ただけだったが彼の心には何か引かれるものがあったのだろう。約束も予定も全てを放り出して、ほとんど衝動的にその土地へと向かっていった。
ただ流れるまま気の向くまま、自らが引かれたあの光景を自らの目に焼き付けたい、あの場所に立ってみたいと心の中で願いその一心のみが彼を支配していて、あの土地に自分が近づけば近づくほどその思いは強くなる一方だった。
その旅が彼の運命を大きく歪めた。
彼が居たのは日本の屋根とも言われる霊峰、高原の集まった有数の山岳地帯の一角である。
秋ともなればほどよく紅くなった草木のグラデーションがもとより存在する絶景と合わさって、ある種の超越した美さえ感じさせる。
今はまだ時期は初夏直前とはいえ春であり、当然のことながら紅葉の兆しはかけらも見出すことは出来ない。
まだ梅雨入りすらしていないが徐々にじめじめとした蒸し暑さが湧き出てきていて、世間は空気の肌触りが不快になりつつあったが、この辺りは比較的高い土地ということもあり清清しいほど涼しく、ときには肌寒いということすらあった。
そんな土地にただ一人でやってきた彼は、少なくとも現時点の自身にとって最良の判断をした、ということを実感していた。
決して整っているとはいえない山道を一歩一歩慎重に踏みしめながら、辺りを見渡すとうっそうと生い茂った木々の間を抜けてきた陽光が部分的に土や草、枝を照らし出して、さながら油絵のような光景だった。
彼はデジタルカメラもフィルムカメラも持ち合わせてはおらず、かといって携帯電話のカメラを使うこともなく、ただ自身の目に今まで見たことのない、見ることの出来なかった光景を焼き付けることに夢中だった。
これほどの景観を今までに見たことがあっただろうか、という思いが彼の中に広がっていた。鳥のさえずりも水の流れる音も風を受ける葉の音も、そして彼自身が立てる地に落ちた枝や葉を踏みしめる足音すら耳に入ることなく、ただただ圧倒されるばかりで、今まで人間の社会という一種の檻の中で彼が陥っていた憂鬱さがいつの間にか消え去っていったように感じられた。
どこまで進んだのか、どのくらい時間が経ったのか、それは定かではないが辺りを見て回ってようやく彼は一息ついた。
都合よく腰掛けるのにちょうどいい大きさの岩を見つけたので、そこに腰掛けながら首を動かしてさらに辺りを眺める、その姿は無邪気な子供に酷似していて、彼が心のそこからこの辺りのもの全てを楽しんでいることが見て取れた。
とはいえ、訪れた当初よりは落ち着きを取り戻していたので、やがて辺りの一切に自身の感覚が慣れてくると、周囲に広がっている天然色あふれる自然の全てに、なにかしら違和感があり同時にこみ上げるものがあることにふと気がついた。
それまで感じ慣れていて、今までどこにいてもずっと感じていたものが完全に見当たらず、心の中に絶えず浮かび上がってくるのは悠久の時を経たような懐かしさであり、まるでこの世に生を受ける前から追い求めているものをようやく手に出来たような、そんな気してそれはいつしか彼の全身を包み込んでいた。
それからは、そこにあるありとあらゆるものから今まで感じたことのない安らぎのようなものを感じていたが、同時に得体の知れないものを前にした子供の恐怖心に酷似した言いようのない不安が立ち込めていくようで、彼の精神は些か張り詰めていた。
彼はいつしか、幻想郷に迷い込んでいたのである。
彼は自分の置かれている状況に気づくことすら出来ないまま数日の間さまよい続けていた。
もともと山の知識を持ち合わせていたわけではなく、ましてや幻想郷の存在そのものを知るはずがなかった。それなのに、ただ歩き回っていただけにも関わらず腹を空かせた妖怪に一度も出くわさなかったり、動けなくなるほどの傷を負うことがなかったのは彼の悪運の強さを物語っていた。
しかしいくら悪運が強くても、人の手のはいっていない見知らぬ山道は彼の気力や体力を容赦なく奪い続けていき、初めのうちは気を張って歩き続けられたものの、いつの間にか落ち葉一枚にすら足を捕られるようにまでなっていた。
衰弱しきった体を押してひたすら歩き続ける中において頭の中によぎるのは、常に後悔と最悪の推論のみで、それが自身の状態悪化に拍車をかけているとは分かっていても結局のところそれ以外には何も考えることが出来ず、考えようにもそんな余計な力が残っているはずがなかった。
そうしているうちにやがて彼は力尽きその場に倒れこんでしまったのだが、またしても自身の悪運に救われたのだった。
彼の倒れた場所が里に比較的近かったこととそこを偶然人間が通りがかったということが彼の命を繋いだ。
その人間というのが他でもない、今彼が弟子入りしている大工の棟梁であった。
棟梁の家で気がついた彼は、周りの様子や自分の体にいくつも巻かれている白い布を見て、初めはずいぶん嫌味な走馬灯だな、と苦々しく思っていたのだがそれにしては妙に現実感があることに気づいた。
肌からは包帯の感触や陽光の暖かさがとめどなく伝わってきて、少しでも体を動かそうとすればおよそ走馬灯や夢には似つかず相容れない痛みを実感するにいたってようやく自分が命拾いしたことを理解することが出来たのだった。
そうしてさらに辺りを見回すと傍には彼を助けた棟梁とその娘と思わしき人物が彼が目覚めるのを待ち構えていた。
今まで散々迷い歩き、一時は死すら覚悟した彼にとって、自らの傍らにいた二人がどれほど心強く見えたのかは分からないが、少なくとも安堵の表情を浮かべ自身が助かったことを心の底から喜んだ。
二人には彼がどのような状況に陥っているのかは分かっているようで、はたから見ても困惑している様子がはっきりと分かる目の前の怪我人に、とにかくなるべく簡潔に現段階で彼にとって必要と思われる事実を説明した。
もちろん初めから全てを説明してもいいのだが、幻想郷の大半が外の世界にとっては眉唾物の御伽噺でしかなく、伝えたところで全てを理解させるまでに相当な骨が折れるのは明白だったので、とにかくここがどういうところなのか、彼が一体どうなっていたのか、そんな無難なことを自分達の簡単な自己紹介と共にゆっくりと伝えたのである。
それでも二人の話は彼の持つ外の常識とはあまりにかけ離れていた。
それもそうだ。人間は科学の発展によって幻想郷を隔てる大結界やこの地に住む妖怪、幽霊といった存在をことごとく虚像、自然への恐怖が生み出した妄想の産物としてきていた。
妖怪達のほうもそんな人間達には時を経るにつれて失望、呆れ、脅威、その他およそ芳しくない感情を抱いていたために既に姿を消していて、ますます人間は自分達の一方的な理論、拠り所を元にこういった存在の実在性を低くしていった。
現代社会から逃げ出したとはいえ、彼にはそんな御伽噺のような信じがたい話をすぐに受け入れることなど到底できず、ただ混乱するばかりであった。
今後の問題についてはとりあえず後回しにしておくとして、数日の間、彼は体力が回復するまでの間この家に厄介になることになったのである。
彼が療養している間、棟梁親子、特に娘さんは誰が見ても献身的といえるほどに彼を看病していた。
看病がてらに外の話を聞くという彼女自身の思惑もある程度絡んでいたとはいえ、目の前の青年に対する誠意が誰から見ても伝わる様子から娘さんの気立てのよさがよく分かる。
だからなのか、いささか過剰にまくし立てられる質問の数々に彼は静養中の身ながら、いやな顔一つせず、むしろたいそう楽しそうに答えていった。
里では外の世界の話は基本的には断片的にしか知ることができない。
外の世界から流れ着く道具や書物はどれも興味深いが、100年以上にわたる文化の隔絶のせいかまともに理解できるのはごく一部分でしかない。
文中には漢字ともカタカナともひらがなとも知れない言語が多用されていて、書かれている言い回しも里の常識とはずれていることが少なくなかった。
加えて、こういった物品を人間、特に里に住む大部分の力や戦いといったものとは無縁な人間が拾い集めることは非常に難しい。里から一歩でも出てしまえばそこは妖怪達が巣食う世界である。
幻想郷の人間を捕って食ってはいけないと決められている一方で妖怪は人間を襲わなければならないとされていて、早い話、命の危険こそほぼないが大小問わず怪我の危険はいくらでもあった。
そんなわけで危険を冒してまで外からの漂流物に執着する人間はほとんど居なかったのである。
もちろんまったくないというわけではなく、例えば里から離れて、ちょうど魔法の森と呼ばれる妖怪すら近づきたがらない原生林の入り口辺りに店を構える香霖堂では外の物品を専門に取り扱ってるのだが、わざわざ里から離れた店まで多少の危険を伴いながら尋ねる人間は、これもまたなかなかいない。
そうなると、人間にとって一番の外の世界の情報源となるのは幻想郷に迷い込んだ外の人間達である。物や書物とは違い外の情報を話として得ることができるのは、外の知識に疎い里の人間にとって好都合であった。
ただ、幻想郷の中に迷い込む人間、渡来人と呼ばれている者たちは妖怪にとっては餌、それもめったにありつけない貴重なものであって、例えるなら給食として出てくるカレーやそぼろご飯である。
外から迷い込んだ人間には何をしようとかまわないということもあり、結果として生きて里にたどり着いた、たった今療養中の彼のような人間は数少ない。
渡来人から生きた話を聞く機会はそう多くはなく、数少ない渡来人には常に人だかりができていてじっくり話をする機会はまたさらに少なくなる。
看病を理由に娘さんが彼を質問攻めにするのも無理のない話であると同時に、そういった話を質問の合間に聞かされた彼は自分の運のよさに息をなでおろすばかりであった。
そうした生活が一週間ほど続くうちに彼自身もまだまだ本調子とはいえないながら歩き回ることができる程度には回復していた。
今までまともに動けなかったとはいえ外の世界のこと、幻想郷のこと、妖怪のこと、人間のこと、そういったさまざまな話して、聞いていくうちに彼の心の中は幻想郷というものにたいする好奇心で満ち溢れていて、話だけではなくて自身の目を通して、耳を通して、その他五感で感じ取りたいと思うようになっていった。
娘さんもそんな彼の心中は察していたので、時々里の中だけではあるが連れ立って出かけていった。
そこで目にする光景は当然のことながら娘さんの話のとおりであった。それでいて彼自身がそれらを現実として実際に感じ取り、それと合わさってよりいっそう驚かされるものとなった。
それまで当たり前のように接してきた近代文明の香りがここにはほとんど漂わず、その代わり時代劇のような、田舎にでも帰ったような、そんな懐かしさがまずあって、その根底に確固として存在し在り続ける懐の深い古さというものがいたるところから感じられた。
それでいて何年も人目に触れずに忘れ去られている道具のように埃をかぶっているわけではなく、使い古して色あせた衣服のようでもない。むしろ絶えず生み出されている活力が目に見えるようでそれが彼の心を素直に動かしたのだった。
それは里の光景の心を動かされ、踊らしている彼自身からそれまでは一切感じられなかった活力が感じられるということからもあきらかだった。
里の中では時には白昼堂々と通りで喧嘩を始める酔っ払いがいれば、そんな光景を見て野次を飛ばしたり冷めた目で見ていたり、また茶屋の店先でゆったりと時間を過ごす老人がいればその横で同じくのんびりしている巫女っぽい少女がいたりして、常ににぎやかで、常にゆったりとしていた。
外の世界ではどう頑張ってもどう工夫しても目にすることすらできなかったものが、ここではごく自然にありふれていた。
外の世界で散々味わった窮屈さも数多くの束縛も感じることがなく、もちろん完全に存在しないというわけではないのだがどうもそれらが彼には束縛や窮屈さには見えてこなかった。
それが、里を実際に目で見た彼の感想だった。
彼自身の目に映る人々は、大部分が彼や外の世界と同じ人間なのだがどこか本質的に大きく異なってる部分があるようだった。それがなんなのかは分からず、ただ漠然となにかとしかいえないのが彼にとってはずいぶんともどかしいことのようだった。
そんなことを娘さんに話すと、あなたみたいに外から来た人はみんなそう言うのよ、と笑いながら答えていた。
彼の心の中にはいつしか彼にはなにかよくわからないものが満ち溢れていくようだった。。
彼は文明の中で生まれ育ち生きていた。
文明の持つ理の一切を背負わされて、ただ前だけを見て進むだけだった。
それは彼だけではなく、全ての人間がそうだった。
それが、ここでは違っていた。
言葉にできないのがもどかしいのだけれども、なにか違っていたのである。
それがここで、この幻想郷で、人間の里で感じたことの全てだった。
そして、それと同時に今、瞳に映っているものをずっと追い求めていたのではないか、彼はそんな気持ちになっていた。
なぜだろうか。
彼の世界では当たり前のように存在していて、かつ社会において利便的であるものがここでは何一つ見つけられない。
あるものといえば現代の文明からすれば不便極まりない前時代的な存在である。ここでは時間に全てを示されるわけでもなく、財力だけが全てではなかった。
見上げれば澄んだ空が広がっていて、見下ろせば大地が力強く全てを支えていた。
彼は自分の生きてきた世界が上辺だけの泥のような、欲のみが蠢く醜悪なものだったということにはっきりと気づかされていた。
彼はいつしか意識することなくその瞳に映るものを一つずつ、一つ残らず心の中に焼き付けていた。
辺りを力に任せて走り回る子供たち、表も裏もない芯の通った数多くの喧騒、背後に生えている九本の狐のような尻尾が目立つ買い物客など。
その姿はまるでずっと欲しがっていた玩具を与えられた子供のようだった。
私は思う。彼はここで、この場所で、この世界で、彼自身が今までずっと求めていたものが見つかったようだ、と。
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彼は里にいた。
三日たっても、一週間が過ぎても、一ヶ月を迎えようとしても。
すでに体は万全で、里の退治屋辺りに頼めば博麗神社まで送ってもらうことができ、そこから外の世界に帰ることは出来る。
にもかかわらず、彼は里から離れなかった。
外の世界のように便利な道具はなく、一歩でも里から出れば妖怪に襲われることもそれなりにある。
それでも彼は、幻想郷にいた。
そして、その命が果てる最後のときも、幻想郷にいて里にいるのである。
既に未練というものがなかった。確かに科学の進んだ外の世界から見れば、ここは不便であり退屈であり単調である。
それでもここで手にすることのできるものには外の世界を捨てるだけの価値があった。
だからこそ彼はここにいるのである。
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彼が幻想郷に残ると決心してから、早くも一ヶ月が経った。幻想郷に残るとはいってもなにか当てがあるはずがなく、必然的に今までさんざん世話になった棟梁の世話になることになった。
もちろんただではない。次の日から早速大工仕事に駆り出されて、仕事をするたびに失敗して、失敗するたびに怒鳴られる毎日だったが、それでも彼にとっては満ち足りたものだった。
なにが彼を満たしているのか、それについて彼はまだ言葉として表現できないが、それが外の人間やかつての自分とこの幻想郷の人間との大きな違い根底であると、今の彼にはそう感じられていた。
時刻は昼を若干過ぎた頃である。
二人の大工は肩を並べて歩いていた。
商売道具を担いで威勢良く足を進める壮年と商売道具を抱えて息を切らし気味に歩く青年の姿は唯一つを除いて対照的であった。
お互いの顔はいきいきとして活力に満ち溢れていたのである。
ふと棟梁が口を開いた。
「霧雨のとこの看板の修理、お前にまかせる。」
思いがけない言葉に威勢良く返事をすると同時に、彼はまた一歩進むことが出来たということを実感していた。
彼は仕事でも里でも、そして幻想郷でもまだまだ未熟である。それでも前を向いて歩いているのであった。
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これから先、彼がどのように進んでいくのか。
それもまたこの幻想郷にあふれる物語の一つである。
それについてはまたいつか別の機会に語るのかもしれない。
語ろうが語るまいが彼は自分の足を一歩ずつ前に出していくことには変わりがない。
彼を見ていると人間が本当に望んでいるものがどのようなものなのかおぼろげながら見えてくるのではないだろうか。
それではまた、縁があるのであればそのときまで。
この後、彼がどうなっていくの気になりますね。
時間や場面の切り替えも解りやすいと思いましたが、もう少し地の文章に
改行を加えても良いかと思います。
脱字の報告
>外の世界を捨てるだけ価値があった。
『捨てるだけの価値があった。』ではないでしょうか?
とりあえず今回は固めのキャラ紹介に偏っちゃってて、おもしろみを感じられる切っ掛けの、起の部分にも触れられてないのが残念だった。
魔理沙の家に呼ばれてどうなったかー、くらいまでは書いてほしかったなあ。
次回に期待。
しっかし文章が初めてというわりに、しっかりしてるのが凄い。
幻想郷を、単なる理想郷として描いていないのも非常に好印象で、物質的には貧しいところもあるということを
しっかりと描いているからこそ、精神的な豊かさが浮き彫りになる構図は、とても美しいものでした。
原作キャラの出し方がさりげないというか、里の人間と同列に扱っているのが印象的で、
実に生活臭を感じさせられる、いい表現だったと思います。
こんな幻想郷に住んでみてーなー。