霊夢
晴れていたので、今日は博麗神社を訪れた。
霊夢はいつも、内心はともかく、表向きは私のことを煩わしそうに迎えてくる。素っ気ない態度だけども、心得た風に私のために暖かい緑茶を煎れてくれ、私用の湯飲みを、縁側の自分が座っている所の直ぐ側に置いて、私が自然にそこに腰掛けて霊夢とおしゃべり出来るようにしてくれるのは本当に風情があり、もてなされる私の方も自然とうれしくなる。
そんな緑茶が、ある日を境に、日に日に白湯に近くなるのは涙を誘う。
最初の二日三日などは、茶葉の銘柄を変えたのかしらとも思って、私もできるだけ気にしないように振る舞うのだけれど、それ以上の日にちがたつと、白湯と違うのは色だけで、味や風味などは全く白湯と変わり無くなるのだ。
私の湯飲みの中身だけがそうなのならば、「ああ、私もとうとう霊夢に愛想が尽かされたか」とあきらめが付くのだが、よくよく見ると、客の私が緑色の白湯を飲んでいる隣で、主人の霊夢といえば本当の白湯を飲んでいるのだから自然に変な息が漏れてしまう。
そんなことだから、一ヶ月後とかにお茶の葉を持参していくと、霊夢は心の底からうれしそうな顔をして出迎えてくれる。
そんな日は、「とっておきのよ」とかいって、海苔せんべいをお茶請けに出して出してくれるのだが、それ、実は二週間ほど前に私がこっそり台所の戸棚の奥に仕舞っておいた物なのよね。
でも、私の隣で早速お茶らしい緑茶を飲んで、うれしそうにほっとため息をついている霊夢の顔を見ると、そんなことはどうでも良くなって、出されたおせんべを素直に頂くのが吉、という結論に入る。緑茶と同じで、霊夢と一緒に食べるおせんべは大変美味しかった。かなりしっけていたけれども。
魔理沙
私が家にいるのにもかかわらずに、平気で我が家から蔵書を盗み出すような真似をする人間は、有史以来、魔理沙くらいのものだ。
私も大妖の端くれのつもりはあるので、魔理沙の家から蔵書を取り返すことなどたやすいのだが、魔法の森にある彼女の妙な物に溢れた家の中に入るのは、ちょっとした、お化け屋敷に入るような種類の勇気がいる。
そんな傍若無人の魔理沙だが、私の見るところ、じつは幻想郷でも一、二を争うくらいに乙女をしているのだ。
我が家の蔵書には、ちょっと人間に見られてはまずい種の巻物もあるので、この前魔理沙が盗んでいったとき、彼女の戦果の中に、かなりえっちな外界の本をこっそりと加えていたのだが、それ以来、ピタリと我が家の蔵書が盗まれなくなった物だから、少し笑ってしまう。
白玉楼
気が向いたときなど、白玉楼にはよく行く。
幽々子はたいてい暇してるが、妖夢は庭の剪定や調理などして忙しそうにしている。
幽々子とのんびりするという物も、結構乙な物だ。
白玉楼は我が家より気温が低い。高所にあるせいか、又々冥界にあるせいか。おそらく、両方の理由による物だろう。
白玉楼には、夏に涼みに行くよりも、寒さを身体一杯に感じながら、冬にお邪魔する方が季節を感じられるので好きだ。
前日の天候で、中庭の枯山水や西行妖にうっすらと積もった雪に朝日が反射する中、亡霊どもがゆったりと漂うの姿を見るのも実に雰囲気がよい。
妖夢などは、後片付けが大変、と嫌な顔をするだろうが、実は私は雪の降る白玉楼が好きだ。刺すように冷たい空気も趣深い。
そのような日に行くと、幽々子と朝餉を共にする事があるのだが、幽々子はそれはそれはたいそうな量を食べる。それで居て、昼や夜はあまり食べないのかというと、決してそんなことは無いのだから驚かされる。
作る方も作る方だ。幽々子の食べるものは、基本妖夢が一人きりで作るのだが、藍などでは目眩を起こして一日で倒れそうな量を、平気な顔をしてあっという間にこしらえて見せる。
それでいて、料理の質は決して落とさないのだ。
一度、妖夢の台所へお邪魔したことがあるが、まさに神業というほかなかった。
手際よく三つ四つの料理を平行して造っていて、お湯を沸かしている間に別の料理の下ごしらえをし、かとおもったら取れたての鮎に包丁をいれるなど、まるでどこかの館に住んでいる妹のように、身体が四つに分裂でもしているのかしらん、という風であった。
それに、包丁をもっている時の妖夢には、まるで迷いがない。
弾幕ごっこをしているときの、剣士としての妖夢は、それはそれは迷いだらけ隙だらけで、どんなに濃密な弾幕を放ってきても、私は妖夢に勝てると絶対的な自信を持って言えるが、まな板を前にした妖夢には、そういった感じが全くないのだ。
だから、私などは、妖夢は剣士ではなく板前を目指した方がいいのでは、と言いたくなってしまうのだが、そんなことを言っても、幽々子や出て行った妖忌はいい顔をしないだろうし、何より妖夢本人が傷つくでしょう、と思って、結局何にも言い出せずに今まですませてきました。
あまり剣士剣士といって、あの年頃で、自分の未来の道筋を狭めて仕舞うのもどうかと思うのだけれど。
人里
野分が通り過ぎた次の日に、人里の、稗田の屋敷へ様子を見に行った。
稗田の家中が一家総出で家屋の修理をして居る中、阿求は全くいつも通りに書見台に向かって書き付けをしている。中庭が荒れ放題なのに、相変わらずすました顔でいるのを見ると、ほっとしたような、それでいてなんだか小憎らしいような、そんな感情を持ってしまう。
阿求は転生を重ねているせいか、年の離れた妖怪の私に対しても敬語ではあるが対等な感じに話してくる。不思議なことに、背伸びをしている印象を、まるで受けないのだ。
人里の外へ殆どでないせいか、外の妖怪について詳しく聞いてくる。私はそれについて、嘘を半分、おもしろおかしく話して聞かすのだが、まあ、聞いてる方も話半分で聞いているようなのでおあいこだろう。
ときおり、外界の話を聞いてくる事もある。そういうときに限って、阿求はおずおずと、今までの堂々とした態度が嘘のように、誠に十代の少女らしくこちらの様子をうかがうような上目遣いで聞いてくるのだ。
その様子がまたサマになっていて、可愛らしいと思うと同時にいらだたしく感じてしまう。
私がこの子の真似をしたら、藍などにはたちまち吹き出されてしまうでしょうから。
稗田家は名家なので、一応大妖で通っている私などは、膳を振る舞われて、阿求と一緒に食事を共にする事もあるのだが、実のところ、彼女に出される物はあまり美味しくない料理が多い。
私は表情を変えぬように努力してはいるのだが、膳を並べて食事をして居ると、隣に座る阿求が時折申し訳なさそうな顔つきで私を見る。
稗田家の料理がそうなのは、精進料理など健康面を第一にした料理だからなのだが、正直、こういう料理ばかり食べさせられている阿求に、少し同情してしまう。
この前など、阿求が月に一度は飲まされているという、スッポンの生き血を興味本位で味見させてもらったことがあるのだが、なんだか生臭くて鉄くさくて気持ち悪くて、こんなの飲んだら返って寿命が縮まるんじゃないかしら、と心ながら思った物だった。
阿求の運命づけられた短命という現象は、健康不健康というたぐいの物ではないのだが、それでも阿求の親としては、彼女に一日でも長く生きていて欲しいのだろう。そういうことを考えると、部外者の私でも、なかなか、美味しくない、とは言えないのだ。
橙
八雲家を離れ、マヨヒガで一人暮らししている橙も、最近は友達を連れて我が家に遊びに来るようになった。
今日も、氷精やら蟲の妖怪やらをつれて、庭で追いかけっこなどをしている。
この前、無理に妖夢に来てもらって、庭の日本庭園を子供が遊べるように大改造した甲斐があったという物だ。なんだかんだ言いつつも手伝ってくれた向日葵妖怪にも感謝。
縁側で、追いかけっこの様子を無目的に眺めていると、時間がいつになく速く流れるように感じる。
今日は、いつの間にか子供達の遊びがかくれんぼに変わっていたようだった。
目の前の島にある松の陰の岩から、見覚えのある二本の黒い尻尾がゆらゆらとなびいているのが見える。当人は、あれで完璧に隠れているつもりなのだろう。
私は少しおかしく思って、口を閉じたまま、チョッと舌打ちをしてみると、その音に反応して、その二本の尻尾が、ピンと張る。しばらくすると、また、おずおずゆらゆらと尻尾が揺れ始める。
私が舌打ちするごとに、ぴくっと硬直する。
それが面白くて、何度もやっていたら、橙がかくれんぼの鬼らしき夜雀に見つかってしまった。
おまけに、私などは、いつの間にか真後ろに来ていた藍に、グーのげんこつで脳天を叩かれた。痛いと思うと同時に、ちょっと反省。
藍
藍が結界の補修をやる日は、時間がかかるせいか、彼女は決まって夕暮れになるまで我が家に帰ってこない。
結界の主な補修を藍に任せてずいぶんと長く経つが、未だに測量器具がないと不安で補修が出来ないとの事。
よく、大工の棟梁などは、呼吸する漆喰の壁を「生きている」等と表現するが、幻想郷の結界は建築物などよりもよほど生きているのだから、ある程度慣れたのなら、杓子定規に定量的に手を加えるよりは、感覚で操作した方が良くなる物でもあるのだが、藍はその辺りをまだ良く理解していないらしい。
藍もその辺の機敏が感覚で分からないあたり、まだまだ独り立ちは出来そうもないというものだ。
少し呆れると同時に、どうしても心の中でほっとしてしまう。大変こそばゆい。
そんな藍も、生活面では立派に独り立ちできる自活力を、とうの昔に手に入れている。
私の代わりに、藍が割烹着をきて台所に経つようになってどれくらいの時年月がたったかなかなか思い出せないくらいだ。
どうやら藍は私の味覚より、少しだけ薄い味が好きなようだ。藍の食事は、小さな頃から私が調理していたのに、私達二人の間に味の好みで差が出るという物は、どうしてかしらね。すこし面白く感じる。
藍の料理の味に文句はないが、たまに、いなり寿司が好きなせいか、酢飯をそのままご飯茶碗に盛って出してくるのだけは止めて欲しい。
面と向かって注意しても、当面は私の言うことを聞いていても、一月くらいたった頃に、しれっとしたていで、また酢飯がご飯茶碗に盛られて、そのまま出されるのだ。まったく、あの子ったら。
紫
思い返せば、我ながらずいぶんと長い年月を生きてきたように思う。
できるだけ、その日、一日一日を大切に生きてきたように心がけてきたが、改めてみると、無為に過ごした日々もあれば、生涯決して忘れないようにしよう、と心に誓った出来事のある日もあった。
どちらの時間が大きいかと言えば、どうだろうか、感情的になりそうで、冷静な判断は難しいようだ。
紫。
私自身のことをここに書こうと思ったけれど、筆を執った瞬間に、なんだか思い出やら想いやらが私の中で渦を巻き初めて、どんな書き始めでも何か相応しくないように思えてくるのだ。
まあ、いいか。
なにも書かない、というのも一つの描写に違いない。そう思うことにする。
そういえば、今日は橙も我が家で一緒に夕餉を食べるつもりのようだ。先ほどから、台所で二人の楽しそうな気配を感じる。
今日のメニューは何かしら。
肉じゃががいいな。
晴れていたので、今日は博麗神社を訪れた。
霊夢はいつも、内心はともかく、表向きは私のことを煩わしそうに迎えてくる。素っ気ない態度だけども、心得た風に私のために暖かい緑茶を煎れてくれ、私用の湯飲みを、縁側の自分が座っている所の直ぐ側に置いて、私が自然にそこに腰掛けて霊夢とおしゃべり出来るようにしてくれるのは本当に風情があり、もてなされる私の方も自然とうれしくなる。
そんな緑茶が、ある日を境に、日に日に白湯に近くなるのは涙を誘う。
最初の二日三日などは、茶葉の銘柄を変えたのかしらとも思って、私もできるだけ気にしないように振る舞うのだけれど、それ以上の日にちがたつと、白湯と違うのは色だけで、味や風味などは全く白湯と変わり無くなるのだ。
私の湯飲みの中身だけがそうなのならば、「ああ、私もとうとう霊夢に愛想が尽かされたか」とあきらめが付くのだが、よくよく見ると、客の私が緑色の白湯を飲んでいる隣で、主人の霊夢といえば本当の白湯を飲んでいるのだから自然に変な息が漏れてしまう。
そんなことだから、一ヶ月後とかにお茶の葉を持参していくと、霊夢は心の底からうれしそうな顔をして出迎えてくれる。
そんな日は、「とっておきのよ」とかいって、海苔せんべいをお茶請けに出して出してくれるのだが、それ、実は二週間ほど前に私がこっそり台所の戸棚の奥に仕舞っておいた物なのよね。
でも、私の隣で早速お茶らしい緑茶を飲んで、うれしそうにほっとため息をついている霊夢の顔を見ると、そんなことはどうでも良くなって、出されたおせんべを素直に頂くのが吉、という結論に入る。緑茶と同じで、霊夢と一緒に食べるおせんべは大変美味しかった。かなりしっけていたけれども。
魔理沙
私が家にいるのにもかかわらずに、平気で我が家から蔵書を盗み出すような真似をする人間は、有史以来、魔理沙くらいのものだ。
私も大妖の端くれのつもりはあるので、魔理沙の家から蔵書を取り返すことなどたやすいのだが、魔法の森にある彼女の妙な物に溢れた家の中に入るのは、ちょっとした、お化け屋敷に入るような種類の勇気がいる。
そんな傍若無人の魔理沙だが、私の見るところ、じつは幻想郷でも一、二を争うくらいに乙女をしているのだ。
我が家の蔵書には、ちょっと人間に見られてはまずい種の巻物もあるので、この前魔理沙が盗んでいったとき、彼女の戦果の中に、かなりえっちな外界の本をこっそりと加えていたのだが、それ以来、ピタリと我が家の蔵書が盗まれなくなった物だから、少し笑ってしまう。
白玉楼
気が向いたときなど、白玉楼にはよく行く。
幽々子はたいてい暇してるが、妖夢は庭の剪定や調理などして忙しそうにしている。
幽々子とのんびりするという物も、結構乙な物だ。
白玉楼は我が家より気温が低い。高所にあるせいか、又々冥界にあるせいか。おそらく、両方の理由による物だろう。
白玉楼には、夏に涼みに行くよりも、寒さを身体一杯に感じながら、冬にお邪魔する方が季節を感じられるので好きだ。
前日の天候で、中庭の枯山水や西行妖にうっすらと積もった雪に朝日が反射する中、亡霊どもがゆったりと漂うの姿を見るのも実に雰囲気がよい。
妖夢などは、後片付けが大変、と嫌な顔をするだろうが、実は私は雪の降る白玉楼が好きだ。刺すように冷たい空気も趣深い。
そのような日に行くと、幽々子と朝餉を共にする事があるのだが、幽々子はそれはそれはたいそうな量を食べる。それで居て、昼や夜はあまり食べないのかというと、決してそんなことは無いのだから驚かされる。
作る方も作る方だ。幽々子の食べるものは、基本妖夢が一人きりで作るのだが、藍などでは目眩を起こして一日で倒れそうな量を、平気な顔をしてあっという間にこしらえて見せる。
それでいて、料理の質は決して落とさないのだ。
一度、妖夢の台所へお邪魔したことがあるが、まさに神業というほかなかった。
手際よく三つ四つの料理を平行して造っていて、お湯を沸かしている間に別の料理の下ごしらえをし、かとおもったら取れたての鮎に包丁をいれるなど、まるでどこかの館に住んでいる妹のように、身体が四つに分裂でもしているのかしらん、という風であった。
それに、包丁をもっている時の妖夢には、まるで迷いがない。
弾幕ごっこをしているときの、剣士としての妖夢は、それはそれは迷いだらけ隙だらけで、どんなに濃密な弾幕を放ってきても、私は妖夢に勝てると絶対的な自信を持って言えるが、まな板を前にした妖夢には、そういった感じが全くないのだ。
だから、私などは、妖夢は剣士ではなく板前を目指した方がいいのでは、と言いたくなってしまうのだが、そんなことを言っても、幽々子や出て行った妖忌はいい顔をしないだろうし、何より妖夢本人が傷つくでしょう、と思って、結局何にも言い出せずに今まですませてきました。
あまり剣士剣士といって、あの年頃で、自分の未来の道筋を狭めて仕舞うのもどうかと思うのだけれど。
人里
野分が通り過ぎた次の日に、人里の、稗田の屋敷へ様子を見に行った。
稗田の家中が一家総出で家屋の修理をして居る中、阿求は全くいつも通りに書見台に向かって書き付けをしている。中庭が荒れ放題なのに、相変わらずすました顔でいるのを見ると、ほっとしたような、それでいてなんだか小憎らしいような、そんな感情を持ってしまう。
阿求は転生を重ねているせいか、年の離れた妖怪の私に対しても敬語ではあるが対等な感じに話してくる。不思議なことに、背伸びをしている印象を、まるで受けないのだ。
人里の外へ殆どでないせいか、外の妖怪について詳しく聞いてくる。私はそれについて、嘘を半分、おもしろおかしく話して聞かすのだが、まあ、聞いてる方も話半分で聞いているようなのでおあいこだろう。
ときおり、外界の話を聞いてくる事もある。そういうときに限って、阿求はおずおずと、今までの堂々とした態度が嘘のように、誠に十代の少女らしくこちらの様子をうかがうような上目遣いで聞いてくるのだ。
その様子がまたサマになっていて、可愛らしいと思うと同時にいらだたしく感じてしまう。
私がこの子の真似をしたら、藍などにはたちまち吹き出されてしまうでしょうから。
稗田家は名家なので、一応大妖で通っている私などは、膳を振る舞われて、阿求と一緒に食事を共にする事もあるのだが、実のところ、彼女に出される物はあまり美味しくない料理が多い。
私は表情を変えぬように努力してはいるのだが、膳を並べて食事をして居ると、隣に座る阿求が時折申し訳なさそうな顔つきで私を見る。
稗田家の料理がそうなのは、精進料理など健康面を第一にした料理だからなのだが、正直、こういう料理ばかり食べさせられている阿求に、少し同情してしまう。
この前など、阿求が月に一度は飲まされているという、スッポンの生き血を興味本位で味見させてもらったことがあるのだが、なんだか生臭くて鉄くさくて気持ち悪くて、こんなの飲んだら返って寿命が縮まるんじゃないかしら、と心ながら思った物だった。
阿求の運命づけられた短命という現象は、健康不健康というたぐいの物ではないのだが、それでも阿求の親としては、彼女に一日でも長く生きていて欲しいのだろう。そういうことを考えると、部外者の私でも、なかなか、美味しくない、とは言えないのだ。
橙
八雲家を離れ、マヨヒガで一人暮らししている橙も、最近は友達を連れて我が家に遊びに来るようになった。
今日も、氷精やら蟲の妖怪やらをつれて、庭で追いかけっこなどをしている。
この前、無理に妖夢に来てもらって、庭の日本庭園を子供が遊べるように大改造した甲斐があったという物だ。なんだかんだ言いつつも手伝ってくれた向日葵妖怪にも感謝。
縁側で、追いかけっこの様子を無目的に眺めていると、時間がいつになく速く流れるように感じる。
今日は、いつの間にか子供達の遊びがかくれんぼに変わっていたようだった。
目の前の島にある松の陰の岩から、見覚えのある二本の黒い尻尾がゆらゆらとなびいているのが見える。当人は、あれで完璧に隠れているつもりなのだろう。
私は少しおかしく思って、口を閉じたまま、チョッと舌打ちをしてみると、その音に反応して、その二本の尻尾が、ピンと張る。しばらくすると、また、おずおずゆらゆらと尻尾が揺れ始める。
私が舌打ちするごとに、ぴくっと硬直する。
それが面白くて、何度もやっていたら、橙がかくれんぼの鬼らしき夜雀に見つかってしまった。
おまけに、私などは、いつの間にか真後ろに来ていた藍に、グーのげんこつで脳天を叩かれた。痛いと思うと同時に、ちょっと反省。
藍
藍が結界の補修をやる日は、時間がかかるせいか、彼女は決まって夕暮れになるまで我が家に帰ってこない。
結界の主な補修を藍に任せてずいぶんと長く経つが、未だに測量器具がないと不安で補修が出来ないとの事。
よく、大工の棟梁などは、呼吸する漆喰の壁を「生きている」等と表現するが、幻想郷の結界は建築物などよりもよほど生きているのだから、ある程度慣れたのなら、杓子定規に定量的に手を加えるよりは、感覚で操作した方が良くなる物でもあるのだが、藍はその辺りをまだ良く理解していないらしい。
藍もその辺の機敏が感覚で分からないあたり、まだまだ独り立ちは出来そうもないというものだ。
少し呆れると同時に、どうしても心の中でほっとしてしまう。大変こそばゆい。
そんな藍も、生活面では立派に独り立ちできる自活力を、とうの昔に手に入れている。
私の代わりに、藍が割烹着をきて台所に経つようになってどれくらいの時年月がたったかなかなか思い出せないくらいだ。
どうやら藍は私の味覚より、少しだけ薄い味が好きなようだ。藍の食事は、小さな頃から私が調理していたのに、私達二人の間に味の好みで差が出るという物は、どうしてかしらね。すこし面白く感じる。
藍の料理の味に文句はないが、たまに、いなり寿司が好きなせいか、酢飯をそのままご飯茶碗に盛って出してくるのだけは止めて欲しい。
面と向かって注意しても、当面は私の言うことを聞いていても、一月くらいたった頃に、しれっとしたていで、また酢飯がご飯茶碗に盛られて、そのまま出されるのだ。まったく、あの子ったら。
紫
思い返せば、我ながらずいぶんと長い年月を生きてきたように思う。
できるだけ、その日、一日一日を大切に生きてきたように心がけてきたが、改めてみると、無為に過ごした日々もあれば、生涯決して忘れないようにしよう、と心に誓った出来事のある日もあった。
どちらの時間が大きいかと言えば、どうだろうか、感情的になりそうで、冷静な判断は難しいようだ。
紫。
私自身のことをここに書こうと思ったけれど、筆を執った瞬間に、なんだか思い出やら想いやらが私の中で渦を巻き初めて、どんな書き始めでも何か相応しくないように思えてくるのだ。
まあ、いいか。
なにも書かない、というのも一つの描写に違いない。そう思うことにする。
そういえば、今日は橙も我が家で一緒に夕餉を食べるつもりのようだ。先ほどから、台所で二人の楽しそうな気配を感じる。
今日のメニューは何かしら。
肉じゃががいいな。
誤字報告:魔砲の森
Nooooooooo!!
>妹とのよう
>感じでに話して
>今まですませてきました。
誤字ではありませんが突然敬語になったので違和感がありました。
うまく言葉にできないのですけれど、よかったです。
エピソードのひとつ残らず、気に入ってしまいました。
あまり自信ないけど
ほのぼのとした気持ちになりました。
なんか古文の現代語訳を見てる気分になりました
こんな平和な作品を見れて、とても楽しかったです。良い作品をありがとうございます。
欲しいけどもう売り切れているのかもしれない。
今からでも行ってみようかな。
乙女魔理沙と料理の鉄人妖夢が見たい。
魔理沙に対するセクハラが面白かった。
じゃなければ、こっちの世界の注文も受け付けてぇ~!w
是非とも購入したい!!