花散らしの雨もすっかりすぎて、新緑の香りが涼しい風に乗って滑る季節。やさしい日差しが心地よく境内に注いでいた。
こんな日にあの巫女はなにをしているだろう。掃除しているか、縁側でお茶でも喫しているだろうかと踏んで、天子は今日「も」博麗神社にやってきた。
「遊びにきてやったわよー!でてこーい!」
緋想の剣を棒切れのように振り回し、借金の取り立てもかくやの大声でよわばる。
が、
「……あれ?」
反応はない。物音すらしない。
「寝てんのかな……」
もう昼下がりといっていい時刻だったが、だからこそ惰眠をむさぼっているということもあの巫女ならありえよう。天子は裏に回ってみることにした。濡縁で転寝としゃれ込んでいるかもしれない。
そうして小走りで向かうものの、やはり姿はない。
「おっかしーなぁ、出かけてるのかな」
天子は何の躊躇もなく縁側に腰掛けると、帽子を脱いで傍らに置いた。そのまま上半身を屋内に投げ出すと、きい、とかすかに木が鳴った。
日差しでぬるく暖められた畳の香りが甘かった。宙をのったり舞うほこりが、きらきらと光っている。
そんなのをぼうっとみていると、だんだんと瞼が重くなってくる。ふわふわと気持ちの良いまどろみは、一瞬で午睡へと天子を引きずり込む。
完全に意識を手放すほんの直前――あるいは既にひと寝入りしてしまった後だったかもしれない――、日差しが急に遮られた。
影が落ち、何かが迫ってくる。目を開けて確認するよりはやく、それは唇に触れ、そして瞬時に離れた。
「!!?」
一瞬で目が冴えた。飛び起きて「それ」の持ち主を探す。軽く感じただけで分かる、愛しい待ち人の感触だった。
「おはよ」
よく通る声。彼女は、すぐ横にいた。
やはり外出していたのだろう、買い物袋を横に置いて座っている。深い黒の瞳は、静かに天子の姿を映していた。彼女こそ博麗霊夢、この神社の巫女である。
「あっ、あわっ、わたっ、えっ、れれれれいっ、れいむ、いまっ、ききき」
耳まで真っ赤になりながら言葉を必死に発しようとしている天子をよそに、霊夢はさっさと外履きを脱いで上にあがっていた。腕の中には買い物袋、向かうのは台所である。
「何よ、いまさら」
「いっ、いっ、いまさら、って!」
至って冷静な霊夢の声音だった。天子は止まらない動悸を鎮めようと胸に手を当てて、同時に早まった呼吸を整える。恥ずかしさやらなんやらでいまだ鮮やかに赤い顔色は、いまの所どうすることもできなかった。
「あっ、あんたはへーきかもしれないけどね、わた、私には心の準備が必要なの! 天人はデリケートなの!」
「へえ。不死身の天人も、変なところで弱いのね」
手を洗いながら、霊夢はかすかに笑ったようだ。天子はそれに気づいてか憮然とした表情である。
ぶすっとしたまま靴を脱いで、縁側で胡坐をかいた。
「うー、れいむキラいだー」
「そう。残念ね、夕ご飯でもと思ったんだけど」
「えっ!」
「キラいな人とは一緒に食べたくはないでしょ」
「そそそ、そんなことないですっ!」
袋から出したじゃがいもを洗う霊夢の背に、天子はあわてて訴えた。泥を落とした芋をひとつずつ新聞紙の上においていきながら、霊夢は少しいたずらっぽい声で聞く。
「そんなことないんだ。じゃ、どうなの?」
「えぅ、それはー」
「キラいじゃないってだけ? 微妙ね」
「うぅー……そのぉ、す……、す……あーっ! もう!」
折角戻った天子の顔色が、また見る見るうちに真っ赤になる。秋ごろの妖怪の山は、丁度こんな色である。
天子がそうしてまごついているうちに霊夢はじゃがいもを全て洗い終えてしまった。次に人参を袋から取り出す。
直接見なくても、霊夢にはいまの天子の表情が思い浮かぶようだった。ほほえましいのか、口元が心なしか緩んでいる。天子が頭を抱えてわしわしと蒼髪をかきむしれば、ふわりと桃の芳香が霊夢の嗅覚を楽しませた。
数分間の逡巡ののち、天子は一度ぐっと瞑目した。そして、意を決したように開ける。
「……好き。好き! 霊夢、だいすきだよ!!」
がたん、と流し場から大きな音。人参が身投げしたのだ。
天子はというと、文字通り頭から煙を上げてうつぶせである。力尽きたといったところであろう。ぴくりとも動かない。
言わせた(というより、言うように誘導したといったほうがいいだろうか)当人である霊夢もまた、流しの前から微動だにしない。
むしろ、できない。思わぬカウンターに心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。顔がアツい。自分でもびっくりだ。ぬれた手を頬にそっと添えてみる。そこは意外なほどの熱を帯びていた。
水分が蒸発しそうなくらいだ。
「……うそ」
「うそじゃないもん」
ほんの小さな声での独白が聞こえていたらしい。うつぶせたまま、不貞腐れたような返答が投げられる。
それは天人の持つ優れた五感によるものだが、そのくせ天子はいまの霊夢の気持ちまでは見透かすことはできないようで、その程度には鈍感である。
「ばか」
「ばかじゃないもん」
それを知ってか、霊夢がわざと悪口を言えば予想通りに返される。さっきと同じような口調だ。
――私も、だいすき。
と、言う勇気は霊夢にはなかった。むしろ、「言ってたまるか」といったくらいの変な意地すらあった。もちろん、天子のことだ。言わなければ気づかないだろうが。
瞬時、迷ってみる。
が、やっぱりここはやめておこう。
心の中で言うにとどめて、身投げした人参をもう一度洗おうと拾い上げた。
「……霊夢?」
天子の声だが、先までの口調とは少し違う。いぶかしむかのような感じだ。
「なに?」
「いま、何か言った?」
再び、流しから激突音。人参の悲鳴が聞こえてきそうだ。
つとめて冷静にしていたつもりだったというのに、またしても思わぬ奇襲であった。
確かに思った、思いはしたが決して声には出していない。天人は読心術でも心得ているのかだとかそんなことが頭をよぎる。いやそれともやはり心音とか体温だとかでこのドキドキがばれていたりなどするのか。思考のスピードが飛躍的に高まるが、あせるばかりで論理的になりやしない。
「……だよ!」
「!?」
声だ。混乱ゆえの幻聴かと一瞬思ったが、これはどうやらちがう。現実に聞こえていた。
「……だろ? 使うべき……」
「……メだって! 静かにしないと……」
二種類の声。どちらも聞き覚えがあった。丁度天子と霊夢の一直線上から聞こえてくる。
不意に天子が立ち上がった。その手にはどこからとりだしたのか、天界の桃が握られている。
「霊夢、伏せて!」
「え? きゃっ!」
天子は霊夢に向かって振りかぶって――投げた。
あわててしゃがむ霊夢だが、しかし桃は中空で何かに激突してひしゃげた。
「ひゅいっ!?」
「ぎゃあっ!!」
二つの悲鳴が虚空から聞こえる。
直後、「空間」がするりとめくれて落ちた。
現れたのはよく見知った姿である。
「あ、ははー……」
「え、えへへ……」
「へ……? 何、これ」
「……魔理沙、にとり」
見えない相手に桃を命中させたにもかかわらず、天子はぽかんと口をあけて二人を見つめる。
一方の霊夢は二人の足元に落ちた怪しげな布を見て、既によからぬ何事かであることを察知したようであった。
「ちっ、ちちち、違うんだ霊夢! これはその空き巣とか覗きじゃなくて単純な実験で」
「か、科学と魔法のみくすちゃーってやつだよ!」
申し合わせたわけでもないだろうに、必死の弁解を
はじめるのは霧雨魔理沙と河城にとり。
足元の布は、さしずめ「透明になる風呂敷」とかその手のものだろう。
未だに状況が飲み込めていない天子をよそに、霊夢は静かに笑顔をみせた。
これに下手人二人は無理やり引きつった笑いを返したが、その実気づいていた。「これは、ただではすまない。絶対に」と。
結局、二人の不法侵入者は夕飯の席を賑やかして帰っていった。霊夢の怒りは、二人が――没収された透明風呂敷と引き換えにという名目で――もって来た食材と銘酒ですっかり収まっていた。
「んー、食った食ったー」
腹もふくれ、程よく酒も回って上機嫌の天子は、大の字で床に寝転がる。
霊夢は食器を流しに持っていき、水につけてから戻ってきた。
「もう、片づけくらい手伝いなさいよ」
「んにゃー、ごめんー」
眠気もあってか、この天人は呂律が回らないようである。酒気でほんのり染まった頬を霊夢に向けてほころばせた。
「れいむー」
「なあにー?」
わざと間延びした調子を真似して返した霊夢のひざに、何かがのしかかる。もぞりと動いたそれにあきれた目を向ければ、天子の瞳と視線がぶつかった。
「ひっざまーくらー」
無邪気に笑う天子の匂いは、桃とアルコールが混じって甘ったるい。
「良い匂いね、あんた」
「えへ、そう? れいむもいい匂いするよ?」
「わっ、ちょっ、こら嗅ぐな」
「いたっ!」
天子はおもむろにうつ伏せになり、丁度股座に顔をうずめようとした。霊夢はあわてて頭をはたく。
心外とでも言いたげに天子は唇を尖らせてみせた。
「たたくことないじゃんかぁ」
「当たり前よ。どこの匂いを嗅ごうとしてんの」
「ちぇー。アリっちゃアリだと思うんだけど」
「ナシよ」
「バーカ。霊夢のバーカ」
「膝から落とすぞ」
「えっ! やだー!」
取り留めのない言い合いをしながら、無意識のうちにか霊夢の左手は膝の上の天子の頭を優しくなでていた。
それに合わせるように天子の手も霊夢の装束の袖を小さく握り締める。
「えへへ」
「何よ、酔っ払い」
「ううん、何でも」
「まったく……」
「霊夢」
「だから何よ」
「だいすき」
「なっ……」
思わず手が止まる。いわゆる不意打ちである。
勝ち誇った表情で笑って見せる天子。ふふーん、とばかり、得意げだ。
だが、霊夢とて負けてばかりではない。そもそも今日は自分が先手を取っていたはずじゃないか。負けっぱなしというのも気分が悪い。このへんで反撃といくことにきめた。
霊夢はすい、と手を回して、天子を思い切り抱き寄せる。
「えっ!?」
意外な力に驚く天子をよそに、霊夢はぐっと身をかがめた。
「ちょっ、ち、近い近いちか――むぐっ」
天子の口をふさぐ。その感触は、昼間のときとは少し違っていた。持っている熱もそう、味も、柔らかさも。何より今回は長かった。目を開ければ、天子の長いまつげ、通った鼻梁、艶やかな髪がよく見える。必死に目を瞑る彼女は愛おしく、霊夢の手に自ずと力がこめられる。
十秒か、二十秒。その程度の時間だったが、霊夢にはずっと長く感じた。時間の相対性、だったか。そんなものを想起してしまう。
アルコールのせいか、喉がひりつく。口の中もカラカラに乾いて、舌が思うように動かない。
「て、んし」
「……霊夢」
しばらくそのまま視線を絡ませる。潤んだ瞳同士がお互いを写していた。拍動が強く、早くなる。天子の耳には今度こそ届いているだろうか? それとも酒のせいで鈍っているだろうか。
逆に、自分は彼女の心音が聞こえているだろうか?
などと考えながら、霊夢は耳を澄ましてみる。二人の息遣いしか聞こえないような静寂に――
と、不意にその動きが止まる。
「どうしたの、霊夢」
天子は顔を緩ませて、無防備な表情で笑みを見せる。霊夢は答えずに、ゆっくりと彼女を床に降ろした。
「……れいむ?」
「しっ、ちょっと待って」
困惑し、不安げな目を向ける天子を制して、霊夢は鋭い目を中空に向ける。
「……あっ、あし、足がっ……」
「……カ、我慢し……!」
「……ブレちゃい……動かな……」
「3人は定員……むり……ッ!」
それは、夕時に聞こえたあの声どもとほぼ同じだった。だが面白いことに、今回はさらに一人分増えている。
天子の位置からは丁度陰になって霊夢の表情はうかがい知れなかったが、小さい舌打ちの音は充分聞き取ることができただろう。
直後、霊夢はすばやくそでに手を差し入れ、袖中の符札引っつかむと振り返りざまに引き抜いた。
霊力を帯びた札は神速で空間を切り裂く――文字通りに。
まず切れ目が、次にずるりと布となって空間がずれ落ちる。
既に次の札を両手に構えた霊夢は、眼前に現れた者たちに静かに口を開いた。
「いらっしゃい。忘れ物かしら?」
そこには、切り裂かれたマントを悲しそうに抱えるにとり、引きつった笑みを向ける魔理沙、そしていつの間に合流したのやら射命丸文の姿があった。
「い、いや、ね、ほら。帰り際にたまたま文と会って飲み直してたらさ、どうしてもって」
「な、なに言ってるんですかあなたは!! 誘ってきたのは貴方のほうでしょうが! ね、ね、にとり! そうですよね!」
「あうー……私の透明マント一号ちゃぁぁぁん……」
「出歯亀共……覚悟はいい?」
「すぅ……」
博麗神社の夜は長い。静かな寝息を立てる天子と、どす黒いオーラを纏う霊夢以外の三人には、今夜は特に残酷な長さになりそうだった。
こんな日にあの巫女はなにをしているだろう。掃除しているか、縁側でお茶でも喫しているだろうかと踏んで、天子は今日「も」博麗神社にやってきた。
「遊びにきてやったわよー!でてこーい!」
緋想の剣を棒切れのように振り回し、借金の取り立てもかくやの大声でよわばる。
が、
「……あれ?」
反応はない。物音すらしない。
「寝てんのかな……」
もう昼下がりといっていい時刻だったが、だからこそ惰眠をむさぼっているということもあの巫女ならありえよう。天子は裏に回ってみることにした。濡縁で転寝としゃれ込んでいるかもしれない。
そうして小走りで向かうものの、やはり姿はない。
「おっかしーなぁ、出かけてるのかな」
天子は何の躊躇もなく縁側に腰掛けると、帽子を脱いで傍らに置いた。そのまま上半身を屋内に投げ出すと、きい、とかすかに木が鳴った。
日差しでぬるく暖められた畳の香りが甘かった。宙をのったり舞うほこりが、きらきらと光っている。
そんなのをぼうっとみていると、だんだんと瞼が重くなってくる。ふわふわと気持ちの良いまどろみは、一瞬で午睡へと天子を引きずり込む。
完全に意識を手放すほんの直前――あるいは既にひと寝入りしてしまった後だったかもしれない――、日差しが急に遮られた。
影が落ち、何かが迫ってくる。目を開けて確認するよりはやく、それは唇に触れ、そして瞬時に離れた。
「!!?」
一瞬で目が冴えた。飛び起きて「それ」の持ち主を探す。軽く感じただけで分かる、愛しい待ち人の感触だった。
「おはよ」
よく通る声。彼女は、すぐ横にいた。
やはり外出していたのだろう、買い物袋を横に置いて座っている。深い黒の瞳は、静かに天子の姿を映していた。彼女こそ博麗霊夢、この神社の巫女である。
「あっ、あわっ、わたっ、えっ、れれれれいっ、れいむ、いまっ、ききき」
耳まで真っ赤になりながら言葉を必死に発しようとしている天子をよそに、霊夢はさっさと外履きを脱いで上にあがっていた。腕の中には買い物袋、向かうのは台所である。
「何よ、いまさら」
「いっ、いっ、いまさら、って!」
至って冷静な霊夢の声音だった。天子は止まらない動悸を鎮めようと胸に手を当てて、同時に早まった呼吸を整える。恥ずかしさやらなんやらでいまだ鮮やかに赤い顔色は、いまの所どうすることもできなかった。
「あっ、あんたはへーきかもしれないけどね、わた、私には心の準備が必要なの! 天人はデリケートなの!」
「へえ。不死身の天人も、変なところで弱いのね」
手を洗いながら、霊夢はかすかに笑ったようだ。天子はそれに気づいてか憮然とした表情である。
ぶすっとしたまま靴を脱いで、縁側で胡坐をかいた。
「うー、れいむキラいだー」
「そう。残念ね、夕ご飯でもと思ったんだけど」
「えっ!」
「キラいな人とは一緒に食べたくはないでしょ」
「そそそ、そんなことないですっ!」
袋から出したじゃがいもを洗う霊夢の背に、天子はあわてて訴えた。泥を落とした芋をひとつずつ新聞紙の上においていきながら、霊夢は少しいたずらっぽい声で聞く。
「そんなことないんだ。じゃ、どうなの?」
「えぅ、それはー」
「キラいじゃないってだけ? 微妙ね」
「うぅー……そのぉ、す……、す……あーっ! もう!」
折角戻った天子の顔色が、また見る見るうちに真っ赤になる。秋ごろの妖怪の山は、丁度こんな色である。
天子がそうしてまごついているうちに霊夢はじゃがいもを全て洗い終えてしまった。次に人参を袋から取り出す。
直接見なくても、霊夢にはいまの天子の表情が思い浮かぶようだった。ほほえましいのか、口元が心なしか緩んでいる。天子が頭を抱えてわしわしと蒼髪をかきむしれば、ふわりと桃の芳香が霊夢の嗅覚を楽しませた。
数分間の逡巡ののち、天子は一度ぐっと瞑目した。そして、意を決したように開ける。
「……好き。好き! 霊夢、だいすきだよ!!」
がたん、と流し場から大きな音。人参が身投げしたのだ。
天子はというと、文字通り頭から煙を上げてうつぶせである。力尽きたといったところであろう。ぴくりとも動かない。
言わせた(というより、言うように誘導したといったほうがいいだろうか)当人である霊夢もまた、流しの前から微動だにしない。
むしろ、できない。思わぬカウンターに心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。顔がアツい。自分でもびっくりだ。ぬれた手を頬にそっと添えてみる。そこは意外なほどの熱を帯びていた。
水分が蒸発しそうなくらいだ。
「……うそ」
「うそじゃないもん」
ほんの小さな声での独白が聞こえていたらしい。うつぶせたまま、不貞腐れたような返答が投げられる。
それは天人の持つ優れた五感によるものだが、そのくせ天子はいまの霊夢の気持ちまでは見透かすことはできないようで、その程度には鈍感である。
「ばか」
「ばかじゃないもん」
それを知ってか、霊夢がわざと悪口を言えば予想通りに返される。さっきと同じような口調だ。
――私も、だいすき。
と、言う勇気は霊夢にはなかった。むしろ、「言ってたまるか」といったくらいの変な意地すらあった。もちろん、天子のことだ。言わなければ気づかないだろうが。
瞬時、迷ってみる。
が、やっぱりここはやめておこう。
心の中で言うにとどめて、身投げした人参をもう一度洗おうと拾い上げた。
「……霊夢?」
天子の声だが、先までの口調とは少し違う。いぶかしむかのような感じだ。
「なに?」
「いま、何か言った?」
再び、流しから激突音。人参の悲鳴が聞こえてきそうだ。
つとめて冷静にしていたつもりだったというのに、またしても思わぬ奇襲であった。
確かに思った、思いはしたが決して声には出していない。天人は読心術でも心得ているのかだとかそんなことが頭をよぎる。いやそれともやはり心音とか体温だとかでこのドキドキがばれていたりなどするのか。思考のスピードが飛躍的に高まるが、あせるばかりで論理的になりやしない。
「……だよ!」
「!?」
声だ。混乱ゆえの幻聴かと一瞬思ったが、これはどうやらちがう。現実に聞こえていた。
「……だろ? 使うべき……」
「……メだって! 静かにしないと……」
二種類の声。どちらも聞き覚えがあった。丁度天子と霊夢の一直線上から聞こえてくる。
不意に天子が立ち上がった。その手にはどこからとりだしたのか、天界の桃が握られている。
「霊夢、伏せて!」
「え? きゃっ!」
天子は霊夢に向かって振りかぶって――投げた。
あわててしゃがむ霊夢だが、しかし桃は中空で何かに激突してひしゃげた。
「ひゅいっ!?」
「ぎゃあっ!!」
二つの悲鳴が虚空から聞こえる。
直後、「空間」がするりとめくれて落ちた。
現れたのはよく見知った姿である。
「あ、ははー……」
「え、えへへ……」
「へ……? 何、これ」
「……魔理沙、にとり」
見えない相手に桃を命中させたにもかかわらず、天子はぽかんと口をあけて二人を見つめる。
一方の霊夢は二人の足元に落ちた怪しげな布を見て、既によからぬ何事かであることを察知したようであった。
「ちっ、ちちち、違うんだ霊夢! これはその空き巣とか覗きじゃなくて単純な実験で」
「か、科学と魔法のみくすちゃーってやつだよ!」
申し合わせたわけでもないだろうに、必死の弁解を
はじめるのは霧雨魔理沙と河城にとり。
足元の布は、さしずめ「透明になる風呂敷」とかその手のものだろう。
未だに状況が飲み込めていない天子をよそに、霊夢は静かに笑顔をみせた。
これに下手人二人は無理やり引きつった笑いを返したが、その実気づいていた。「これは、ただではすまない。絶対に」と。
結局、二人の不法侵入者は夕飯の席を賑やかして帰っていった。霊夢の怒りは、二人が――没収された透明風呂敷と引き換えにという名目で――もって来た食材と銘酒ですっかり収まっていた。
「んー、食った食ったー」
腹もふくれ、程よく酒も回って上機嫌の天子は、大の字で床に寝転がる。
霊夢は食器を流しに持っていき、水につけてから戻ってきた。
「もう、片づけくらい手伝いなさいよ」
「んにゃー、ごめんー」
眠気もあってか、この天人は呂律が回らないようである。酒気でほんのり染まった頬を霊夢に向けてほころばせた。
「れいむー」
「なあにー?」
わざと間延びした調子を真似して返した霊夢のひざに、何かがのしかかる。もぞりと動いたそれにあきれた目を向ければ、天子の瞳と視線がぶつかった。
「ひっざまーくらー」
無邪気に笑う天子の匂いは、桃とアルコールが混じって甘ったるい。
「良い匂いね、あんた」
「えへ、そう? れいむもいい匂いするよ?」
「わっ、ちょっ、こら嗅ぐな」
「いたっ!」
天子はおもむろにうつ伏せになり、丁度股座に顔をうずめようとした。霊夢はあわてて頭をはたく。
心外とでも言いたげに天子は唇を尖らせてみせた。
「たたくことないじゃんかぁ」
「当たり前よ。どこの匂いを嗅ごうとしてんの」
「ちぇー。アリっちゃアリだと思うんだけど」
「ナシよ」
「バーカ。霊夢のバーカ」
「膝から落とすぞ」
「えっ! やだー!」
取り留めのない言い合いをしながら、無意識のうちにか霊夢の左手は膝の上の天子の頭を優しくなでていた。
それに合わせるように天子の手も霊夢の装束の袖を小さく握り締める。
「えへへ」
「何よ、酔っ払い」
「ううん、何でも」
「まったく……」
「霊夢」
「だから何よ」
「だいすき」
「なっ……」
思わず手が止まる。いわゆる不意打ちである。
勝ち誇った表情で笑って見せる天子。ふふーん、とばかり、得意げだ。
だが、霊夢とて負けてばかりではない。そもそも今日は自分が先手を取っていたはずじゃないか。負けっぱなしというのも気分が悪い。このへんで反撃といくことにきめた。
霊夢はすい、と手を回して、天子を思い切り抱き寄せる。
「えっ!?」
意外な力に驚く天子をよそに、霊夢はぐっと身をかがめた。
「ちょっ、ち、近い近いちか――むぐっ」
天子の口をふさぐ。その感触は、昼間のときとは少し違っていた。持っている熱もそう、味も、柔らかさも。何より今回は長かった。目を開ければ、天子の長いまつげ、通った鼻梁、艶やかな髪がよく見える。必死に目を瞑る彼女は愛おしく、霊夢の手に自ずと力がこめられる。
十秒か、二十秒。その程度の時間だったが、霊夢にはずっと長く感じた。時間の相対性、だったか。そんなものを想起してしまう。
アルコールのせいか、喉がひりつく。口の中もカラカラに乾いて、舌が思うように動かない。
「て、んし」
「……霊夢」
しばらくそのまま視線を絡ませる。潤んだ瞳同士がお互いを写していた。拍動が強く、早くなる。天子の耳には今度こそ届いているだろうか? それとも酒のせいで鈍っているだろうか。
逆に、自分は彼女の心音が聞こえているだろうか?
などと考えながら、霊夢は耳を澄ましてみる。二人の息遣いしか聞こえないような静寂に――
と、不意にその動きが止まる。
「どうしたの、霊夢」
天子は顔を緩ませて、無防備な表情で笑みを見せる。霊夢は答えずに、ゆっくりと彼女を床に降ろした。
「……れいむ?」
「しっ、ちょっと待って」
困惑し、不安げな目を向ける天子を制して、霊夢は鋭い目を中空に向ける。
「……あっ、あし、足がっ……」
「……カ、我慢し……!」
「……ブレちゃい……動かな……」
「3人は定員……むり……ッ!」
それは、夕時に聞こえたあの声どもとほぼ同じだった。だが面白いことに、今回はさらに一人分増えている。
天子の位置からは丁度陰になって霊夢の表情はうかがい知れなかったが、小さい舌打ちの音は充分聞き取ることができただろう。
直後、霊夢はすばやくそでに手を差し入れ、袖中の符札引っつかむと振り返りざまに引き抜いた。
霊力を帯びた札は神速で空間を切り裂く――文字通りに。
まず切れ目が、次にずるりと布となって空間がずれ落ちる。
既に次の札を両手に構えた霊夢は、眼前に現れた者たちに静かに口を開いた。
「いらっしゃい。忘れ物かしら?」
そこには、切り裂かれたマントを悲しそうに抱えるにとり、引きつった笑みを向ける魔理沙、そしていつの間に合流したのやら射命丸文の姿があった。
「い、いや、ね、ほら。帰り際にたまたま文と会って飲み直してたらさ、どうしてもって」
「な、なに言ってるんですかあなたは!! 誘ってきたのは貴方のほうでしょうが! ね、ね、にとり! そうですよね!」
「あうー……私の透明マント一号ちゃぁぁぁん……」
「出歯亀共……覚悟はいい?」
「すぅ……」
博麗神社の夜は長い。静かな寝息を立てる天子と、どす黒いオーラを纏う霊夢以外の三人には、今夜は特に残酷な長さになりそうだった。
発投稿とは思えないクオリティの高さで楽しめました。
もっと増えるべきですよ
ストレートに大好きとか言っちゃう天子さんとか、
先手打ったくせに逆に天子のペースに持ってかれる霊夢さんとか。