母の手がだんだんと冷たくなっていく感触は、今もこの手に残り続けている。
私はそれを握りしめていることしかできない。そうすることで、失われていこうとするものを、少しでも長く繋ぎ止めることができると、そう信じて。だけど、そんなのは所詮、ただの慰みでしかなく、母の手は残酷に力を失い、固くなり、冷たくなる。私の手の体温さえも、吸い取られてしまうかのように、氷のように冷たく。
母さん、と呼びかけても、もうそこに横たわる身体は返事を発してはくれない。
何度その身体を揺さぶっても、閉ざされた瞳は二度と開くことはない。
それを理解するには、受け入れるには、あのときの私は幼すぎたのだ。
だから私は、母が二度と動かなくなっても、今までずっとそうしてきたように、その冷たく固い身体に寄り添って、震えながら眠った。
目が覚めたら、また母が笑いかけてくれるのではないかと、そう信じて。
空腹を覚えて、目を覚ました。
傍らには、母の亡骸が、変わらぬ姿で横たわっている。
私はそれを見下ろして、より一層強く、空腹を感じた。飢え――食べるという行為へのあまりに強い渇望。自分の食欲に戸惑い、母の亡骸の前で私は呆然とした。
目の前に横たわる、冷たくなった母の身体。
口の中に、唾液が溢れてくるのを、私は悟った。食欲が、私の息を荒くした。
私は、母親の亡骸を、食べたいと思っている。
そう悟った瞬間、胃の中は空っぽなのに猛烈な吐き気を覚えて、私は母の亡骸から目を逸らし、えずいて苦い胃液を吐き出した。
食欲など湧くはずもない、最悪の気分なのに、身体が食べることを求めている。
すぐそこに横たわっている人間の死体。私の、母親の亡骸。
その肉を、その血を、その臓腑を貪り、胃袋に収めたいと――身体が、求めている。
私は叫んだ。頭をかきむしり、母の亡骸から、それに食欲を覚える自分自身から逃げ出すように、何事かを喚きながら走り出した。
走って、走って、走って――いつしか、私は四つん這いの格好で走っている。
足を止め、空を見上げる。木々の合間から、漆黒の夜空が見えている。
そこに浮かぶ月は、真円を描いて、ぽっかりと白く、夜空の闇を切り抜いていた。
私は、絶叫した。
その声は、まるで獣の遠吠えのように、遙か遠くまで木霊して消えていった。
1
その相談が、自警団中央駐在所に持ち込まれたとき、上白沢慧音は書庫で資料のとりまとめをしているところだった。駐在所の埃っぽい書庫で、自警団の活動記録のファイルと格闘していたところを、呼び立てたのは自警団のリーダー、勅使河原孝二郎である。
「おう、先生、ちょっといいか」
「どうした?」
孝二郎は「いやなに、ちいっとな」と頭を掻きながら、慧音に顎をしゃくる。
「竹林のこたぁ、先生が詳しいだろ」
「迷いの竹林か? またボヤでも出たのか」
咄嗟に浮かんだのは、竹林のあばら屋に暮らしている慧音の恋人、藤原妹紅のことだった。永遠亭の姫、蓬莱山輝夜と日常的に殺し合いを繰り広げている妹紅は、その副産物として、たまにボヤ騒ぎを起こしたり、夜に竹林近くを通った人間を驚かせてしまったりしている。もっとも、ボヤ騒ぎは対外的には「煙草の不始末」ということになっているのだが。
「いや、そういうんじゃなくてだな。――狼が出るってんだよ」
「狼?」
孝二郎に促され向かった詰所では、不安げな顔をした三十代前後の女性が待っていた。慧音がその前に腰を下ろすと、女性は待ってましたとばかりにまくしたて始める。
その脈絡に欠ける上、別の噂話に脱線しまくる女性の話を要約すると、以下のようになる。
昨日、六十歳になる彼女の父が倒れ、永遠亭へと担ぎ込まれた。彼女の家は里の南部にある農家で、里の中央にある診療所の杉田医院へ連れて行くより、永遠亭に直接運んだ方が早いだろう、と過去に永遠亭の世話になったことのある彼女の夫が判断したのだという。
その判断は正しかったようで、彼女の父は一命を取り留めた。数日間は永遠亭に入院させることになり、着替えやら何やらを取りに、彼女は一度家に戻ろうとした。その、永遠亭の兎に付き添われての帰り道に――彼女は狼の遠吠えを聞いたのだという。
「永遠亭にはねえ、お世話になってるんだけど。ただでさえ里の外は危ないのに、案内人さんが居なきゃ通れない竹林の中に、狼までいるんじゃ、病気になったとき心配でねえ」
「しかし、狼がいる、というだけで退治するわけにも」
「そこはほら、先生なら狼とでもお話つけてくださるでしょう?」
――半人半妖だからって、妖怪でもない獣とまで話ができるわけではないのだが。
そう反論したいところだが、こういった誤解も慧音にとっては慣れたものだ。溜息を押し殺し、多少曖昧な笑みを浮かべつつ、「わかりました」と慧音は頷く。
「とりあえずは、竹林に行って様子を見てみましょう。その狼が腹を空かせて人間を襲うような可能性があるかどうか、確認できたら、してみます」
「あらあら、すみませんねえ、どうも」
「いえ、里の皆さんの安全と安心を守るのが、自警団ですから」
よろしくお願いしますね、とぺこぺこと頭を下げながら女性は帰っていく。それを見送って慧音がひとつ息をつくと、「じゃ、あとは任せたぜ、先生」と孝二郎が肩を叩いた。
厄介事を体よく押しつけられてしまった感はあるが、どうせ竹林には妹紅の世話を焼きに通っている身であるし、そもそも今夜は満月だから、どっちにしろ竹林には用がある。そのついでに、今晩にでもまずは妹紅に話を聞いてみようか。慧音はそう思案しながら、倉庫での書類整理に戻った。
夕刻。自警団としての勤務時間を終え駐在所を出た慧音は、商店街で夕飯の材料を買い込むと、その足で迷いの竹林へと向かった。今日は新鮮な卵が手に入ったから、妹紅の好きな砂糖多めの卵焼きでも作ってあげようか――そんなことを考えながら、鼻歌交じりに竹林の入口近くにある妹紅のあばら屋を目指す。
辿り着いたときには、竹林は薄暗くなっていた。あばら屋の中には灯りがともっている。妹紅はどうやら在宅らしい。永遠亭の姫との殺し合いに出かけていないのは朗報だった。不老不死であることは理解していても、死にそうな怪我をして帰ってくる妹紅を見るのはいつだって心臓に悪いのである。
「妹紅、いるか?」
扉を叩く。すぐに返事があるかと思ったが、帰ってきたのは沈黙だった。灯りがついている以上、在宅なのは間違いないはずだが、と慧音は首を傾げる。それから視線を巡らし、風呂場の窓からも灯りが漏れているのに気付いた。入浴中か。間の悪いところに来てしまったな、と慧音は頭を掻く。
まあ、それならそれで、声をかけて勝手に上がらせてもらおう。慧音は扉を開け、風呂場の方に向かって声をかけた。
「妹紅、お邪魔するぞ」
「けっ、慧音、あ、いや、ちょっと今は――」
風呂場からそんな、慌てたような妹紅の声。慧音は苦笑する。今更、風呂上がりに出くわしたところで慌てるような関係でもあるまいに。
「私は晩ご飯を作っているから、ゆっくり風呂に入っててくれ」
「――あ、ああ……わ、わかった」
妹紅の返事を聞き、慧音は台所に買い物袋を置いて食材を取り出した。さて、何から作るか。とりあえずは米をといで飯を炊くところからだな、と米櫃に手を伸ばした、そのとき。
「――――――」
風呂場の方から、妹紅ではない第三者の声が聞こえた気がして、慧音は振り返った。
なんだ、今のは。明らかに妹紅の声ではない、別の誰かの声だった。何を言ったのかまでははっきり聞こえなかったが、くぐもった声が、確かに風呂場の方から――。
じゃあ、今風呂に入っているのは妹紅ではないのか? いったい誰が? いやしかし、さっきの妹紅の返事は確かに風呂場から聞こえた。――どういうことだ。いやまさかそんな、
「……妹紅? ちょっと待った、誰かいるのか?」
「いっ、いないいない! 私ひとりに決まってるだろ!」
怪しい。露骨に怪しい。間違いなく風呂場には妹紅以外にもうひとり、誰かがいる。
――その誰かは、妹紅と一緒に風呂に入っているのか。誰だ。いったい誰がそのような不埒な真似を。妹紅も自分のいないときに誰かを家に連れ込んで一緒に風呂に入っているなんて、しかもそれを隠そうとするということは、これはつまり。
浮気。頭に浮かんだその二文字に慧音は愕然とする。
思わず憤然と風呂場に向かい、その引き戸に手を掛けたところで、ふと慧音は立ち止まった。
――いや、そもそも、自分が妹紅の実質的な配偶者であるという考えが、私の思い上がりではないのか? 妹紅は不老不死の蓬莱人、いっぽう自分は半人半妖で多少は寿命が永いとは言っても、所詮は寿命のある半獣にすぎない。妹紅の永遠に対して、慧音のそばにいられる時間などほんの刹那だ。だとすれば、妹紅にとっては慧音もまた、永い時間の中の、ほんの一瞬の火遊び程度でしかないのかもしれない。――永遠を誓い合えない自分に、妹紅が自分以外の誰かを求めることをどうして責められるのだろう?
唐突に果てしなく切ない気分に襲われ、慧音は俯く。――だが、次の瞬間には既に思考を切り替えていた。たとえ刹那の火遊びであっても、今、妹紅のそばにいるのは自分なのだ。この命の尽きるまでは、妹紅の浮気を黙って見過ごすのが正しいこととは思われぬ。少なくとも慧音にとっては、生涯の伴侶は妹紅のつもりなのだから。
「妹紅!」
がらっ、と引き戸を開け放った慧音は――次の瞬間、目の前の光景に、目が点になった。
「あ、いや、慧音、これはだな、その――」
しどろもどろな様子で弁解する、服を着た妹紅の背後。湯気もたたない鉄砲風呂に身を沈めていたのは、見覚えのないひとりの少女である。――ただの少女であるなら、まだいいのだ。
その少女が浸かっている鉄砲風呂の水面から見えているのは、明らかに魚の尻尾である。
魚の尻尾が揺れた。ついでに言えば、少女の耳のあたりにはヒレっぽいものも見える。
慧音は唖然として、目をしばたたかせた。――これは、人魚、か?
「あなたは! 妹紅さんの仰っていた、慧音さんという方ですね!」
人魚らしき少女は、慧音の方をきっと睨み据えると――鉄砲風呂から腕を伸ばして、妹紅の首にそれを回し、頬ずりするように妹紅に身を寄せた。慧音の目の前で。
「お伝えしておきますわ。私はこの方のものになりましたの」
――慧音の思考は、およそ完全に停止した。
2
私だって困ってるんだよ、と妹紅はそう言いつのった。
「霧の湖に釣りに行ったら、この子が釣れたんだ。大物だとは思ったけど、まさか人魚とは」
「で、わざわざ連れ帰ってきて、風呂に入れてやってた、と」
うちでは人魚は飼えません、もとのところに返してらっしゃい。自分が妹紅の母親だったらそう言っていたところだな、と慧音は思う。
「いや、向こうが勝手についてきたんだってば」
「ついてきたって、人魚は水を出て飛べるのか?」
「そうじゃなく、私にしがみついて離れなくて」
「運命を感じてしまいましたの」
顔を突き合わせる慧音と妹紅の隣、水を張った大きな桶に居を移した人魚――わかさぎ姫は、頬に手を当てて顔を赤らめながら身をくねらせた。あばら屋の中に水が跳ねる。
「着物に針が引っかかって釣り上げられたときには、ああ私の運命もここまで、先は刺身か天ぷらか佃煮かと思いましたが!」
「ああ慧音、わかさぎの佃煮食べたいな。思い切り甘辛いやつ」
「それは今度作って持ってこよう。で?」
「この方はとても紳士的に私の着物に引っかかった針を外すと、『釣り人にゃ気をつけなよ』と私をキャッチ&リリースしようとしてくださったのです! ああ、一匹の人魚風情にも情けをかけるその慈悲深いお心に私は深く感じ入り、このような素敵な方に釣り上げられたのは私の運命と存じました。ああ、人魚は人に恋をするものと相場は決まっているのです!」
「……まあ、私は確かに元人間ではあるがな」
「とはいえ私はこの通り水を離れては生きていけぬ人魚の身。足を生やす魔法もありません。ですので差し出がましくも、この機を逃してはならぬと私、妹紅さんにしがみつき、バケツをお借りして押しかけ女房を決め込むことにいたしましたの。めでたくハッピーエンドですわ!」
「勝手に終わらせないでくれ。だいたい妹紅の――ああ、いや、ともかく」
妹紅の女房は自分だ、と自分で言うのは流石に図々しい、と慧音は咳払いする。
「急にそんなことを言ったって、妹紅だって困っているだろう」
「困り顔も素敵ですわ」
そういう問題じゃないのだが、「はぁ~ん」と身をくねらせるわかさぎ姫は聞いちゃいない。
この状況はいったいどうすればいいのだろう、と慧音は頭痛を覚えて唸った。あまり無碍にするのも可哀想とは思うのが、さりとて妹紅も庭に池でもあるならともかく、風呂場でいつまでも人魚を飼うわけにもいかないだろう。
「妹紅、どうするんだ。まさかこのまま住まわせる気か?」
「いや、さすがにそれは……でも、だからといって放り出すわけにもいかないだろう? 霧の湖に行きづらくなったら、おちおち魚も食べられないし」
妹紅は頭を掻いて言う。元の湖に戻してやるのがわかさぎ姫のためだろうとは思うが、そのためにはどうにか彼女を納得させなければならないようだ。しかし、どうしたものか。
「……わかさぎ姫だったか。事情は分かったが、しかしだな。何事にも段階というものがあるし、君だっていつまでも風呂桶の中だけで暮らすわけでにもいかないだろう?」
「愛さえあれば多少の困難はスパイスですわ。そもそも人間と人魚です、もとより困難は承知の上なのです。ああ、人魚とは愛に生き愛に死ぬものと相場は決まっています! 声を失おうとも、この身が泡となって消えようとも! 肉体が滅びても永遠の愛は消えないのです!」
とうとう何か歌い始めたわかさぎ姫に、慧音は頭を抱える。――永遠の愛、か。不老不死の妹紅と、寿命のある慧音の前では、その言葉はなかなか口に出せるものではない。ちらりと妹紅の方を見ると、妹紅はただ肩を竦めて、頼むよ慧音、とアイコンタクトで伝えてきた。頼まれてもなあ、と桶の中で歌うわかさぎ姫を見やり、それから慧音は不意に空腹を覚えた。そういえば、夕飯を作りに来たのに、まだ何も食べていない。
食べる。魚……わかさぎ……ああ、いや、違う、そうじゃない。
「……とりあえず夕飯にするか、妹紅」
「え? あ、ああ……そういえば何も食べてなかったな」
妹紅もお腹を押さえ、それからわかさぎ姫を見やる。その視線に何かを感じ取ったのか、わかさぎ姫は歌うのを止めてびくりと身を竦めた。
「……天ぷらがいいな、慧音」
「解った、そうしよう」
「私の方を見ながら言わないでいただけませんか!? ああっ、でも妹紅さんに食べられてしまうならそれはそれで人魚としての本懐のような気も……。に、煮てよし、焼いてよし、でもタタキは嫌なのですわ! あとできれば天ぷらも!」
怯えた顔のわかさぎ姫に、「いや、冗談だ」と妹紅が返し、「あ、いや、しかし……」と何か口を濁した。「も、妹紅さん……?」と上目遣いのわかさぎ姫と、慧音の方をちらちらと見比べて、妹紅は思案げに首を傾げる。
「そういえば、人魚の肉って食べると不老不死になるって言うよな……」
「も、妹紅? いやまさかそれは」
――不老不死? 妹紅と同じ身体に、自分が? 思わず慧音はわかさぎ姫を見やった。身の危険を感じたのか、桶の中でわかさぎ姫は後じさる。
「ああっ、まな板の鯉とはこのことなのですね……! あっ、まな板の恋、すなわち食べられることから始まる愛もありますの? ああっ、愛する方の血肉となり共に生きていけるならばそれはそれで……! って、妹紅さんにならともかく貴方に食べられるのはお断りですわ! あと私はまな板ではありません! ちゃんとそれなりにあります!」
「誰も食べるとは言ってないし、君がまな板だとも言ってない」
ひとりノリツッコミをしながら、びしっと慧音に指を突きつけて言うわかさぎ姫に、慧音は冷静にそう返す。と、妹紅が目を細めてこちらを見ていることに気付いた。
「……食べないのか、慧音」
「妹紅? ……私に、食べて欲しかったのか?」
「いや……うん、それでいいんだ。慧音は、それで。――永遠に生きる苦しみを、慧音にまで背負わせたくはないよ」
「妹紅――」
視線を落としてぽつりとそう言った妹紅に、たまらず慧音はその背中へ腕を回す。
……妹紅の永遠に寄り添うことを夢見ることが無いと言えば嘘になる。しかし、永遠は本来、手に入らないからこその憧れで、だから人は永遠の愛を口にするのだ。自らが永遠になってしまった妹紅には、それは憧れでもロマンチックな愛の囁きでもない、現実の重み、妹紅自身の背負ってきた時間の痛みを伴った言葉に過ぎない。
だから慧音は永遠を願わない。妹紅も、慧音に永遠を求めない。――ただ、今だけは。それが慧音と妹紅の間での暗黙の了解なのだ。――慧音が妹紅を愛したときから、ずっと。
「妹紅……」
「……慧音」
言葉もなく寄り添う慧音と妹紅。ふたりきりならそのまま――なところだったが、しかし今は、いかんせん目の前にわかさぎ姫がいた。そのわかさぎ姫は、唸るように口を尖らせて慧音と妹紅の方を見つめている。
「……貴方は妹紅さんの何なのですか!」
頬を膨らませて、わかさぎ姫は慧音を指さしてそう言った。慧音は一瞬、何と答えるべきか口ごもる。と、慧音が口を開く前に、妹紅が慧音の肩を抱いて答えた。
「慧音は、私の伴侶だ」
「伴侶――」
「だから、わかさぎ姫。君の気持ちには応えられない。残念だけれど」
「……妹紅」
すぐそばの横顔を見つめた慧音に、妹紅は小さく笑いかけて、その肩を強く抱き寄せてきた。慧音は目を伏せ、わかさぎ姫には申し訳ないなと思いつつも、妹紅がそう言い切ってくれた喜びに浸りつつ、妹紅に身を寄せる。――伴侶、か。いい言葉だな。そう思った。
「はんりょ……でしたか……。い、いっそお妾さんでも!」
「残念だけれど、慧音は怒ると怖いんでな」
「妹紅!」
「ダメですか……ああっ、やはり人魚の恋は儚く泡となって消えていく運命なのですね……」
がっくりとうなだれて、わかさぎ姫は桶の中に突っ伏した。そしてそのまま、また何か歌い始める。どうやら失恋の歌らしかった。陰気なメロディがあばら屋の中に響き渡り、慧音と妹紅は顔を見合わせて、やれやれと肩を竦めた。
3
夕食はいらない、と言ったわかさぎ姫には、一旦あばら屋の外に出てもらうことにした。謎の失恋ソングを歌い続ける人魚を桶ごと外に置き、慧音は妹紅と食卓を囲む。リクエスト通り、今日は妹紅の釣ってきた魚と慧音の持ってきた野菜の天ぷら、それと卵焼きである。
「で、あの子はどうするんだ、妹紅」
「あとで湖まで連れて帰るさ。いつまでも桶に入っているのも辛いだろうしな」
未だに途切れない歌声に耳を傾けつつ、妹紅はそう答えながら天ぷらを頬張る。はふ、はふと美味しそうに食べてくれる妹紅の顔を見るのが、慧音は好きだった。
「どっちにしたって、この竹林は人魚の暮らす場所じゃないさ」
「……そうだな」
イワナの天ぷらを頬張りながら慧音は頷き、そこでようやく、忘れかけていた本来の目的を思い出した。そういえばわかさぎ姫のせいですっかり頭から抜け落ちていたが、今晩自分がここに来たのは、自警団絡みで確かめたいことが妹紅にあったからだ。
「そうだ、妹紅。この竹林のことでひとつ聞きたいんだが」
「うん?」
「――狼が出ると聞いたが、心当たりはないか」
「狼?」
眉を寄せ、妹紅はひとつ首を傾げ、「ああ……確かに、遠吠えが聞こえることはあるな」と答えた。
「でも、竹林の中から聞こえてくるのかまでは解らないぞ」
「普段、竹林で狼を見かけることは無いんだな?」
「そうだな、覚えがない」
慧音に相談に来た女性も、遠吠えを聞いただけで、狼の姿は見ていないと言っていた。そうなると、狼がいるとしてもこの竹林のことではないのかもしれない。博麗神社や、太陽の畑の方から聞こえてきたものを勘違いした可能性はありそうだ。
しかし、竹林に狼がいることを証明するのは当の狼を見つければいいだけだが、いないことを証明するのは難しい。遠吠えが聞こえるという事実がある以上、《竹林に狼がいるかもしれない》という人間の怖れを完全に排除するのはかなりの難題だ。そして厄介なことに、《竹林に狼がいる》という怖れが里の人間の間に広まりすぎると、その怖れが本当に狼の妖怪を生み出してしまいかねないのである。
「里で何か問題になったのか?」
「遠吠えを聞いたと言って怯えている女性がいてな」
「なるほど。……まあ、いるとしてもおそらく害は無いんじゃないか。少なくとも竹林に住んでいる私が出くわしたことがないんだから――」
妹紅がそう言って、卵焼きを頬張った、そのときだった。
不意に、外から聞こえていたわかさぎ姫の歌声が途切れた。そして、
――きゃああああああああああっ!?
響き渡ったわかさぎ姫の甲高い悲鳴に、妹紅は激しくむせ、慧音は反射的に立ち上がった。
「わかさぎ姫!?」
慧音があばら屋を飛び出すと、そこにはもう、わかさぎ姫の姿は無かった。ただ中の水を派手にまき散らした桶だけがその場に残されている。――わかさぎ姫が自力で桶を出てどこかに行けるとは思えない。とすれば、何者かに襲われて連れ去られた――。
慧音は視線を巡らし、耳を澄ませた。ざわめく竹林の葉擦れの音。――その中に、まだ遠くない何者かの足音が確かに混じっている。それと、微かな悲鳴。おそらくわかさぎ姫のものだ。
「慧音、何が――」
「わかさぎ姫が攫われたんだ。まだ遠くない!」
「えっ、け、慧音――」
遅れて飛び出てきた妹紅にそう告げて、慧音は足音の方へと走り出した。外はすっかり夜の闇に包まれて、竹林の中に射し込む微かな月の光だけが光源だった。だが慧音は迷うことなく、微かに聞こえる足音と、逃げる何者かの気配を追いかける。
全ての感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。身体の中で、ハクタクの血がざわめいている。少しの嫌悪感と、それを覆い隠すような高揚感。満月の光が、慧音の身体を人間から、半人半中のワーハクタクへと変えていく。髪は薄く蒼みがかり、その頭頂には異形の角が二本屹立し、白い毛並みの尻尾が揺れる。
だが、ワーハクタクとなってもなお慧音は冷静だった。妖怪としての高揚感、獣としての闘争本能の昂ぶりを感じながらも、自警団員の人間・上白沢慧音としての理性が、慧音の人格を、思考を、人間側に押しとどめる。その精神の不均衡は言いしれぬ違和感となって慧音に襲い来るが、それを無理矢理振り払って、慧音は走り続けた。
そして――竹林の奥深く、不意に視界が開け、慧音は足を止める。
そこは普段、慧音が満月の夜に歴史を編纂する場所として使っていた、少し開けたスペースだった。満月の光がまっすぐに射し込むその場所に――慧音とは別の、ふたつの影がある。
ひとつは、草むらに打ち上げられたような格好でその身体を震わせるわかさぎ姫。
――そして、もうひとつの影は。
「狼――」
遠吠えが、高く響き渡った。わかさぎ姫の前に四つん這いでうずくまったその影が、地面を蹴って慧音へと躍りかかった。剥き出しになった鋭い牙が慧音の眼前に迫る。
慧音はそれを、敢えて避けなかった。避けずに、右腕を差し出した。――次の瞬間、狼の牙が右腕に食い込んで、鋭い痛みが脳を焼く。だが、今の慧音の身体は妖怪だ。人間である普段より、身体そのものも、痛みに対する耐性も、今は強い。
「そうか……竹林の狼というのは、君なのか」
慧音は目を細め、そう言って、自分の右腕に噛みついた狼に、そっと手を伸ばした。
「……大丈夫だ。私は君の敵じゃない。……むしろ、お仲間と言うべきだろうな」
腕に食い込んだ牙の痛みを、微笑みの裏に押し隠して、慧音はその狼の顔に触れた。その毛並みを――否、髪の毛を、そっと撫でた。大丈夫だ、と囁くように。
食い込んだ牙の力が、不意に緩んだ。慧音が腕を引くと、その狼は呆然とした顔で慧音の腕を放し、こちらを見上げた。鮮血の滴る右腕はだらりと垂れ下げ、慧音は左手でその狼の、いや――狼女の頬に、もう一度触れた。
「大丈夫だよ。怖がる必要なんかない。私は、君と一緒だ。半人半獣――そうだろう?」
その言葉に、慧音の目の前の狼――いや、狼の耳を生やした、長い黒髪の人間の姿をした少女は、脱力しきったように、その場にぺたりと座り込んだ。
「慧音!」
そこへ、慌てた様子で妹紅が駆け寄ってくる。振り返った慧音に、妹紅は一瞬安堵の表情を浮かべ――しかし、赤く染まった慧音の右腕を見やって、妹紅は顔色を変える。
「慧音、腕――」
「ああ――大丈夫だ、今の私は」
苦笑して、慧音は右腕を月の光にかざす。妖怪の身には、この程度はかすり傷とすら言えないものだ。月の光を浴びて、慧音の腕に刻まれた牙の跡はみるみるふさがっていく。今の自分が人間でないというその証に慣れてしまった自分自身に、慧音は小さく苦笑を漏らした。
「ほら、大丈夫だろう?」
「あ、ああ――なら、いいんだが」
「少しは、妹紅が輝夜と喧嘩してきたあとの私の気持ちが分かってくれたか?」
流れ出た血を拭いながら、冗談交じりにそう言った慧音に、妹紅は困ったように眉尻を下げ、降参だ、と言わんばかりに両手を挙げた。慧音は苦笑して、それから座り込んだ人狼の少女をもう一度見やり、
「そ、それより早く助けてくださいませんか~」
その背後で、わかさぎ姫がのたうち回っていた。「ああ、すまない」と慧音はわかさぎ姫を抱え上げる。「ああん、妹紅さんに抱いていただきたかったのに……」と嘆くわかさぎ姫に、思わず落としてやろうかと思ったが、大人げないので止めておいた。
4
再び、妹紅のあばら屋。狭いあばら屋の中に、慧音と妹紅、人狼の少女、そして桶に入ったわかさぎ姫が顔を並べていた。慧音が夕食の残りを差し出すと、人狼の少女はためらいがちに何度かそれと慧音の顔を見比べたが、慧音が促すと、猛然とそれを食べ始めた。
「……よっぽどお腹が空いてたんだな」
呆れたように口にした妹紅に、少女は恥ずかしそうに身を竦めた。「まだあるから、好きなだけ食べればいい」と慧音は笑いかける。
月の光の遮られたあばら屋の中では、慧音の姿は元の人間に戻っている。いっぽう人狼の少女の方は、獣の耳も狼の尻尾もそのままだった。
「ひょっとして、私もあと少しで食べられるところだったのです……?」
「……大きい魚だと思ったから」
「魚ですけど!」
わかさぎ姫の呟きに少女が答え、わかさぎ姫はぴちぴちと足ヒレをばたつかせた。
「君、名前は?」
「……影狼。今泉影狼」
ご飯を味噌汁で流し込むように掻きこんで、少女は一息つくと、そう名乗った。その豊かな黒髪の頭頂部に生えた獣の耳に、慧音は目を細める。
ひとくちに半人半獣と言っても、慧音のように普段はまるきり人間というのは、むしろ珍しい方だ。後天的に身体に入り込んだハクタクの血が満月の夜だけ活性化する慧音と違い、先天的な半人半獣――即ち人間と獣のハーフは、より獣の血が濃く、通常時でも身体に獣の特徴をどこかしら残している。影狼は明らかにそちら寄りの姿をしていた。
ちなみに、もともと妖獣であるものが人間の姿を取る場合との差は、完全な獣の姿と化したときに現れる。元々の妖獣は、獣そのものの姿になるが――人間とのハーフの場合は、獣の姿となってもどこか人間くささを残していたり、獣としては歪な格好になりがちだった。慧音に襲いかかったときの影狼も同じで、狼らしき姿をしていても、その姿は獣というより、概念としての狼――人間の恐怖心を具現化したような、大げさな牙と光る目をしていた。獣の実物より、そのイメージの方に近くなりがちなのが、半人半獣の特徴なのである。
「影狼、か。……わかさぎ姫を襲った件は、まあいいとして」
「あんまり良くないんですけど!」
「竹林で狼の遠吠えを聞いたと怯えている人間がいるが、それは君の声か?」
わかさぎ姫の抗議を無視して、慧音はそう問いかける。影狼ははっと顔をあげ、それから目を伏せ、こくりと頷いた。
「……その人間って、お姉さんより少し年上ぐらいの女の人?」
「まあ、見た目はそうだろうな」
「ああ……別に襲おうとしたわけじゃないの。怖がらせるつもりもなかった。ただ――」
「ただ?」
「……母さんに、少し、似てたから」
ゆるゆると首を振った影狼に、慧音は何と答えていいか解らず、口を噤んだ。
彼女が人間と狼のハーフだとすれば、彼女の両親のどちらかは人間だ。おそらくは昔、人間の里に住んでいた――。だが、人間の里で、人間と妖怪の夫婦が暮らしている例は無い。人間の里はあくまで人間の暮らす場所。慧音は例外中の例外で――人間が妖怪と結ばれるということは、里の外で生きていく他なくなるということだった。
そして、幻想郷において人間のコミュニティは、人間の里ただひとつである。人間社会から切り離された人間は、野山の中で果たしてどれだけ長く生きられるだろうか。
「……そうか。君が人間に害を為そうとしているのでないなら、いいんだ」
慧音にできるのは、ただそう頷くことだけだった。――人間と狼のハーフ。半分は人間でありながら人間社会に加わることはできず、半分は狼でありながら、おそらくはただの狼として生きていくこともできない。人間でも獣でもない宙ぶらりんの存在である苦しみは、慧音自身もかつて経験したからよく知っている。だからこそ、下手な同情や慰めの言葉は見つからなかった。
「お姉さんは――」
「慧音だ。上白沢慧音」
「……慧音さんは、私と同じハーフ?」
「いや、違う。……昔、ハクタクの血を飲んでしまった、後天性だよ。だから今のように、満月の光を浴びていないときは普通の人間だ」
「人間として、人里で暮らしてるの?」
「ああ――」
「……じゃあ、怖がらせちゃったあの人に、ごめんなさいって伝えておいて。竹林の奧のお医者さんのところに行く人間は、絶対襲わないから、って」
ごちそうさま、と空になった茶碗に思い出したように手を合わせて、影狼は頭を下げる。その仕草は、影狼が人間に育てられたことをはっきり示していた。――おそらくは影狼がさっき言った、母親がそうなのだろう。
「解った、伝えておく」
「ごめんなさい、お願いします。ああ、人魚さんもごめん。人魚だって解ってたら食べる気無かったんだけど」
「い、いえいえ、そんな~。タタキや天ぷらでなければ……じゃなくて。あ、私、わかさぎ姫と申しますの。影狼ちゃん、よろしく」
桶から身を乗り出してそう名乗ったわかさぎ姫に、影狼は一瞬虚を突かれたように目を見開き、それからふっと陰のある笑みを浮かべて、首だけで小さく頷いた。その笑みは、横で見ていた慧音にも、何かひどく寂しげなものに見えて――。
「……それじゃあ、私はこれで。晩ご飯、ごちそうさまでした」
影狼は立ち上がってぺこりと慧音たちに一礼すると、引き留める間もなくあばら屋を出て行く。慧音はその背中を見送って、それから妹紅と顔を見合わせて小さく肩を竦めた。
彼女が色々と抱えているものは大きそうだが、かといって安易に首を突っ込めるものとも思えなかった。同じ半獣でも、後天性の慧音と、純粋なハーフの影狼とでは、やはり背負うものが違う。ただ、今度から竹林に来るときは彼女のことを気に留めて、見かけることがあれば声を掛けるようにしよう、と慧音は思った。
あのひどく寂しげな笑み――あれは、いつか初めて出会った頃の妹紅に、どこか似ていた気がしたのだ。色々なものを諦めて、心を摩耗させて生きてきた者の、諦観の笑み――。
妹紅が今のように優しく笑ってくれるようになるまで、どれだけかかっただろう。あの頃は慧音もまだ若くて、妹紅の心を開こうと半ば体当たりのようにぶつかっていったこともある。今となっては微笑ましくもあり、苦々しくもある思い出だった。昔の自分は、かなり無神経に妹紅の内面に踏み込もうとしていた。今となっては猛省ものであり、それによって妹紅が心を開いてくれたとしてもそれは結果論で、図々しいことこの上なかったと慧音は思う。あるいは、そういう風に思ってしまうことこそ、自分が歳を取って臆病になったということなのかもしれないが。
いずれにしても、まだ自分は影狼のことを何も知らないに等しいのだ。今、少なくとも接点はできた。これから、少しずつ知っていく機会もあるだろう。そうすることで、あの陰りのある笑みが消えていくように、自分が力になれることが少しでもあればいいのだろう、と慧音は思う。消極的かもしれないが、守るものの増えた慧音に責任が持てるのはそこまででもあった。妹紅ひとりの永遠だけでも、慧音の手には到底余ってしまうのだから。
「慧音、歴史家の仕事はいいのか?」
「え? あ、ああ、そうだな――そろそろ始めないとまずいか」
不意に妹紅に言われ、窓から外を見て慧音は少し慌てた。そう、今夜は満月である。この夜のうちに、今月分の歴史編纂作業をまとめてやってしまわなければならない。影狼の件で思いがけず時間を取られてしまった。そろそろ始めないと、夜明けまでに終わらないかもしれない。
「じゃあ、私はわかさぎ姫を湖に帰してくる。慧音は先に始めててくれ」
「ああ、解った」
ハクタクとなって歴史を編纂している間、慧音は妖怪としての血が騒いで好戦的になる。そんなときに竹林に人間が現れると、妖怪として襲いかかってしまうおそれがあった。そういうことが無いように、妹紅は慧音が編纂作業をしている間、周囲をそれとなく見て回るというのが、何年か前からの慧音と妹紅の満月の夜の過ごし方だった。
「よし、わかさぎ姫、すまないが君をいつまでもここに置いていくわけにも――」
妹紅がそうわかさぎ姫に呼びかけて、しかし妙なところで言葉を切る。慧音も振り向くと、わかさぎ姫は何か陶然としたような顔をして、心ここにあらずといった様子でぽーっとどこか中空を見つめていた。おーい、と妹紅が顔の前に手をかざすが、何も見えていないらしい。
「……影狼ちゃん」
ぽつりとわかさぎ姫がそう呟いた。その頬を、月明かりにも明らかなぐらいに上気させて。
慧音は、思わずまた妹紅と顔を見合わせた。
5
一週間後。自警団の駐在所に、先日の女性が再び姿を現した。彼女は慧音の姿を認めると、相好を崩して会釈する。
「おかげさまで、父が無事退院いたしまして」
「ああ、それは良かった」
影狼の件は、狼は確かにいたが、竹林ではなく無名の丘の方に生息していた。大人しい狼で、話をしたら「怖がらせて申し訳ない」と言っていた、という風に彼女には伝えてあった。半人半獣の影狼の存在は安易に言いふらすにはいささかデリケートな問題である。おそらく彼女の母親は、かつて人里に住んでいた人間であろうから、なおさらだ。
「狼は、腹を空かせて畑を荒らしに来たりはしませんかしらねえ」
「それは、大丈夫でしょう。あのあたりは太陽の畑もありますし」
「だといいんですけれど。あ、これは先日のお礼です。うちの畑の野菜ですが」
「これは、わざわざありがとうございます」
どうやら彼女はこれを渡しに来たらしい。ありがたく受け取ると、彼女は何度も頭を下げて帰っていった。それほど感謝されることをした覚えもないし、正確なところを伝えていないのは心苦しくはあったが、当人の不安の種が取り除かれたならそれでよしとすべきなのだろう。
野菜の詰まった袋を見下ろし、しばらく野菜は買いに行かなくても平気そうだな、と慧音は思った。あとで妹紅のところに何割か持っていこう。――ああ、ついでに、また影狼が腹を空かせているようなら、この野菜で作った料理をご馳走するのもいいかもしれない。
そんなことを慧音が考えていると、「おう先生、ちょっといいか」とまた勅使河原孝二郎が声を掛けてきた。袋を一旦置いて「なんだ?」と歩み寄ると、孝二郎は「また先生向きの相談事だよ」と慧音の肩を叩いて下がっていく。
慧音を待っていたのは、白髪の目立つ五十過ぎの男性だった。彼は少し憮然とした表情で慧音を見やり、名乗りもせず前置きもなく話し出した。
「霧の湖に人魚が住んでるのは知っとりますかね」
「人魚ですか。ひとり、顔見知りの人魚はいますが」
わかさぎ姫のことだろうか。慧音が答えると、男性は「さすがは妖怪先生、顔が広いことで」と皮肉げに言った。こういうことを言われるのは慣れているので、慧音は曖昧に笑って受け流し、話の続きを促す。男性は少しアテが外れたような顔をしつつも、頭を掻いて続けた。
「儂は趣味でよく釣りに行くんですけども、湖で釣りをしとると、たまに人魚が歌ってるのが聞こえますんよ。まあ、釣れんときの慰みに聞き流すようなもんですがね。――その人魚の歌が、このところ妙なんですわ」
「妙というと?」
「陰気っちゅうかなんちゅうか……いつもはどっちかってえと脳天気な歌が聞こえるんですがね。この一週間ばかり、聞こえる歌がどうも暗いっちゅうか儚げっちゅうか」
「要するに、元気がない、と」
「別に心配しとるわけじゃないですがね。陰気な歌で釣り人を滅入らせて湖に引きずり込もうとか企んどるんかもしれんと思って、相談に来たんですわ」
ふん、と鼻を鳴らして男性は眉を寄せる。慧音は腕を組んで首を捻った。歌っている人魚がわかさぎ姫だとすれば――妹紅に振られたことをまだ引きずっているのだろうか。それともあるいは、他に何かあるのか。
「解りました。顔見知りの人魚かもしれませんし、あとで様子を見に行ってみます」
慧音がそう言うと、男性はそれでも憮然とした顔のまま、「頼んますよ」とだけ言って立ち上がり、足早に駐在所を出て行った。慧音はひとつ息をつき、しかしこういう相談事も増えたな、と独りごちる。
単なる妖怪退治の依頼ではない、妖怪に関する些細な疑念やトラブルの相談件数は、この何年かで明らかに増加傾向にあった。幻想郷が平和になり、人間の里に妖怪がやってきて酒を飲んだり買い物をしたりするのが当たり前の光景になってきている昨今、妖怪絡みの日常的なトラブルが増えるのは自明の理とも言える。
半人半妖という特殊な立場のおかげで、その手の妖怪絡みの様子見や、折衝を必要とするような相談事は片っ端から慧音に回されているのが現状だった。もちろん自警団員として慧音に異存は無いのだが、人間の里が人間だけのものでなくなるとすれば、自警団の役割もただ妖怪から人間の里を守るというだけでなく、妖怪と人間の橋渡し的なものがいずれは求められていくことになるのかもしれない。そうなれば、その役割はやはり、人里に暮らす半人半妖の慧音が為すべきことなのだろう。
まあ、とにかく今はわかさぎ姫の様子を見に行くことだ。妹紅の件をまだ引きずっているなら、それは慧音にとっても全く無関係という話でもないし。またわかさぎ姫が妙なことを言い出さないといいのだが、と慧音はひとつ溜息を押し殺した。
そんなわけで、夕刻。慧音は里を出て、霧の湖へと向かった。陽の暮れる頃ともなれば、霧の湖にも釣り人の姿はない。これからは妖怪の時間。人間は里に戻る時間だ。
深い霧の立ちこめる中、慧音が足を進めると――不意に、囁くような歌声が聞こえてくる。釣り人の男性が言っていた通り、確かに寂しげな、悲しげな歌声だった。
「わかさぎ姫?」
湖の畔まで来たところで慧音が呼びかけると、歌声は止んで、ほどなく魚影が慧音の足元に現れた。水面から顔を出したわかさぎ姫は、「あら、慧音さん」と小首を傾げる。
「お呼びですの?」
「ああ。――君の歌声が妙だという話を聞いてな。様子を見に来たんだが」
「……変でしたか?」
「変というか、悲しげだと私も思った。何かあったのか?」
慧音がかがみ込んで顔を覗きこむと、わかさぎ姫は目を伏せ、ゆるゆると首を横に振る。
「何かも何も、妹紅さんに振られてしまいました」
「……やっぱりそれか」
「でも! それはもういいのです。報われぬ恋はすっぱり諦めるのが人魚の長生きの秘訣です」
「え? じゃあいったい――」
「というわけで慧音さん!」
わかさぎ姫は手を伸ばして慧音の手を掴むと、上目遣いにすがるような目をして言った。
「私の足になってくださいませんか!」
「――は?」
6
「どうもありがとうございます、慧音さん~」
「いやなに、気にしなくていい。――ひっくり返らないように気をつけてくれよ」
慧音の押す台車の上、大きな桶に入って、わかさぎ姫は軽くはしゃいでいた。
竹林の、今泉影狼のところまで連れていってほしい――というのが、わかさぎ姫の願いだった。しかし、人魚のわかさぎ姫は水中から長く出ていることはできない。そんなわけで慧音はいったん里に引き返し、台車と桶を借りて、それにわかさぎ姫を乗せて竹林まで押していくことになった。
「しかし、どうして影狼のところへ? まさか、食べられかけた仕返しか?」
「違います。食べられそうになったのはもういいんです。それより――」
と言いかけて、わかさぎ姫は俯いて少し口ごもる。
「……影狼ちゃんが、なんだかとても、寂しそうだったので」
その言葉に、慧音は目を細め――それから、妹紅に初めて出会った頃のことを思い出した。そういえば自分も、初めて出会ったときの妹紅に対して、そんな印象を抱いたのだ。顔は笑っているのに、その笑顔の裏にどうしようもない空虚を抱えているような、そんな――。
「お節介かもしれませんけど、……影狼ちゃんがひとりでお腹を空かせてるなら、私にはあんまり他人事とは思えないのです。私も、幻想郷でたったひとりの人魚ですから」
「――そうなのか」
「はい。今まで他の人魚に出会ったことはなくて、あの湖でずっとひとりでした。だから、仲の良さそうな妖精の子たちとか、羨ましいって、ずっと思ってました。人魚はいつだって、地上に憧れるばかりなのですわ」
夜の帳が落ちる野道に目を細めて、わかさぎ姫は言う。――だから妹紅に釣り上げられたときも、わかさぎ姫は無理矢理妹紅にくっついて地上に出ようとしたのだろうか。
「寂しくはないのです。妖精さんたちや、騒霊楽団さんや、紅いお屋敷とか、ちょっと川を遡れば河童さんもいますし、釣りに来る人間さんもいます。それを見てるだけでも、私はそんなに、寂しくはなかったのです。――でも、あれから影狼ちゃんの顔を思い出すと、胸がきゅうっとなって、いてもたってもいられない気分になるのです。でも、私にできるのは、湖の中をぐるぐる泳ぐか、歌を歌うだけですから~。慧音さんが来てくれて、嬉しかったです」
慧音を見上げて笑ったわかさぎ姫に、慧音はただ目を細めて、問いかける。
「……影狼に会って、それで、どうする?」
「友達に、なります」
まっすぐに。ただ、それが正しいことだと何の疑いもない瞳で、わかさぎ姫はそう言い切った。その真摯な眼差しに、慧音は小さく息を飲んで、そしてゆっくり、頷いた。
ああ、そうだ。――きっと、誰かの心を救えるのは、こういうまっすぐな心なのだ。守るものが増えて、責任を背負って、迂闊に身動きのとれなくなってしまった大人にはできない、ただ身体ひとつで相手にぶつかっていくということ。かつて慧音が、妹紅にしたこと。
図々しくてもいい。傲慢でもいい。友達になりたい、その気持ちさえ偽りなきものなら。
「……友達に、なれますかね~?」
わかさぎ姫は、不安げにそう言い直す。慧音は笑って、「大丈夫だ」と頷いた。
「なれるさ。――私ももう、君の友達だと思っていいかな、わかさぎ姫」
慧音のその問いに、わかさぎ姫はきょとんと目を見開いて、それから花がほころぶように、「もちろんですっ」と笑った。
とはいえ、実際のところ、影狼が竹林のどこに住んでいるのか慧音は知らなかった。先日の様子だと、妹紅も知らなさそうである。
竹林まで辿り着いたはいいものの、さてどうしたものかと台車を押しながら慧音が考え込んでいると、見覚えのある兎が跳ねているのが見えた。永遠亭のイナバだ。――ああそうだ、この竹林のことなら、あのいたずら兎に聞けば大抵のことは知っている。
そのへんを跳ねていたイナバを一匹捕まえると、たべないでー、とぷるぷると震えていた。食べないから君たちのリーダーのところに案内してくれ、と慧音が言うと、りょうかいー、とイナバは先導するように飛び跳ねていく。
台車を押しながらイナバのあとを追っていくと、「おん? 姫様の宿敵の相方じゃん」と頭上から突然声がかかった。ひらりと竹の上から飛び降りてきたのは、因幡てゐである。
「そんな桶に入れた人魚なんか連れてどうしたのさ。不老不死になる人魚の肉はあんたの相方には不要じゃん?」
「だから食べるわけじゃない。――この竹林に住んでいる狼女を知らないか?」
「狼女? ああ、あの引きこもり狼かね」
慧音の問いに、てゐはあっさりそう答える。
「引きこもり狼?」
「狼のくせして、ぜんぜん表に出てこないあの娘でしょ? 向こうにあばら屋建てて住んでるはずだけど、案内しようか」
「ああ、頼む」
慧音が頷くと、てゐはにっと笑って、賽銭箱を差し出した。
「素敵な賽銭箱はこちらウサ♪」
「入れるから、騙さないでくれよ」
苦笑して、慧音は財布を取り出した。
7
てゐに案内された先、今泉影狼の住むあばら屋は、竹林の奧にひっそりと佇んでいた。妹紅の住んでいるあばら屋よりさらに小さく、人ひとりが寝起きする程度の広さしか無さそうだ。
玄関らしき扉を慧音が叩くと、しばらくして、軋んだ音とともに扉が薄く開く。
「……誰?」
「やあ。お腹空いてないか?」
おそるおそるといった様子で顔をのぞかせた影狼は、慧音の姿を見て目を見開いた。
「貴方……慧音さん? それに……え、こないだの人魚さん?」
「こんばんは~、影狼ちゃん」
背後の台車の上、桶から身を乗り出して手を振ったわかさぎ姫に、影狼は困惑しきった顔で慧音とわかさぎ姫を見比べる。
「え? あ、あの――人魚は食べないってこの前言ったわよね?」
「食べられに来たわけじゃないです!」
「わかさぎ姫が、どうしても君に会いたいと言ってな。こうやって連れてきた」
慧音が言うと、影狼は困り切った顔でわかさぎ姫を見やり、突然深く頭を下げる。
「ああ、ホントごめんなさい、もう食べようとしたりしないから」
「いや、いやいや影狼ちゃん、そうじゃなくて~。そのことはもういいですから」
「え……じゃあ、なに? なんでわざわざこんなところまで――」
顔を上げた影狼に、わかさぎ姫は桶の中から手招きする。歩み寄った影狼の手を、わかさぎ姫はきゅっと掴み――その顔を見上げて、笑って言った。
「影狼ちゃん。私、影狼ちゃんの友達にしていただくために、ここに来ましたの」
「――へ?」
素っ頓狂な声をあげて、影狼はまた狼狽しきったようにわかさぎ姫と慧音を見比べる。慧音は苦笑して、「まあ、そういうことだ。じゃあ、私は向こうにいるから、ふたりでごゆっくり」と手を振り、その場を後にする。
背後からは、ふたりの微笑ましいやりとりがずっと聞こえていた。
「え、え、え? ちょ、ちょっと待って、そんな急に言われても――」
「影狼ちゃん。私、影狼ちゃんの友達になりたいのです。ダメですか?」
「だ、ダメっていうわけじゃないけど、いきなり言われても困るというか……ていうか、私、貴方のこと食べようとしたのよ?」
「でも、もう食べようとしないって言ってくれたのですわ」
「ま、まあそりゃ……な、なんで? なんで私なんか――」
「私なんか、なんて言っちゃダメですわ! ――この前、影狼ちゃんが私のこと人魚だって気付いて放してくれたとき、改めて見上げて、とっても綺麗なひとだと思いましたの」
「――――」
「つやつやの黒い髪も、赤い瞳も、凛々しいお顔も、とっても綺麗な女の子だと思いましたの。私のことを放したとき、『ごめん』って言ってくれたから、きっと優しい、良い子なんだなあと思いましたの。……だけど、とっても寂しそうな顔をしていたから。だから、友達になりたいと思いましたの」
「…………私、は」
「影狼ちゃん。私、人魚ですから、水のないところには行けませんけど。こうやって誰かに運んでもらわないと、影狼ちゃんに会いに来ることもできませんけど。――それでもよければ、友達になっていただけませんか?」
「…………」
「ダメ、ですか? やっぱり、図々しいですか、こんなの」
「そんな――そんなこと、ない、けど。……でも、ええと、どうすればいいの?」
「どう、といいますと?」
「友達になるって言われても、私、どうすればいいのか――わからない」
「影狼ちゃん。――名前を、呼んでくださいな」
「名前?」
「はい。私、わかさぎ姫と申しますの。影狼ちゃんのお友達になりたいのです」
「――……わかさぎ、姫」
「はい」
「わかさぎ姫――」
「はいっ、影狼ちゃん」
――ああ、懐かしいな、と慧音は思いながら、ひとり竹林の向こうの月を見上げた。
誰かと心を通わせるということ。容易いはずの距離を埋めることが、どうしようもなく苦手な者。傷ついてその距離に他人を寄せ付けたがらない者。それぞれ抱えるものは違うし、必ずしも他人の心に踏み込むことが良い結果をもたらすとは限らない。そこまで無邪気に善意を信じられるほどに、慧音はもう子供ではない。
だけれど、誰かの心に手を伸ばしたいと思う気持ちに意味がないわけでは、決してない。
――そうだろう? なあ、妹紅。私がお前の永遠に寄り添うことは――いつかお前の悲しみを増やしてしまうのかもしれないけれど。でも、お前が今笑ってることは、真実だよな?
月に問いかける慧音の言葉は、夜の帳の中に溶けて消えていく。
8
「……慧音さん」
ほどなく、影狼の呼びかける声がして、慧音は振り返った。影狼は困ったような、照れくさそうな、けれど少しだけ嬉しそうな顔をして、それから慧音にぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。……ありがとう」
「別に、謝られる覚えも、感謝されるようなこともないさ。私はただ、わかさぎ姫をここに連れてきただけだ。――君の友達になりたいと言ったのは、全部、わかさぎ姫の意志だよ」
慧音は笑って首を横に振る。影狼はぎゅっと胸の前で手を握りしめ、それから慧音がそうしていたように、頭上に光る月を見上げた。
「……慧音さんは、後天性の半獣で、今は人間、なのよね」
「ああ」
「人間の慧音さんの目から見て――今の私は、人間? それとも、狼?」
慧音は振り返る。影狼はただ月だけをまっすぐに見上げていて、こちらを振り向こうとはしない。慧音も息をついて、また月を見上げた。満月から一週間分欠けた、不完全な月。
答えずに慧音が沈黙していると、影狼はひとつ息をついて、ぽつりと話し出した。
「……私の母さんは、人間だったの。父さんが狼男で、母さんは父さんに恋をして、その子供、私を身ごもって……狼の子供を里では育てられないって、里を出て山の中で父さんと暮らし始めたんだって」
「……お父上は?」
「私が生まれてすぐ、食べ物を手に入れようとして里の近くに行って、猟師に殺されちゃったんだって、母さんが言ってた。……父さんが死んでも、母さんは里に戻れなかった。私が、こんな人間なんだか狼なんだかわからない姿をしてたから。私と一緒に、山の中で暮らすしかなかった」
慧音に返す言葉は無かった。影狼の獣の耳と尻尾は、どれだけ隠そうとしたところで、露見すれば必ず異形として疎んじられ、排斥される。今の里でも、その中で影狼が暮らそうとすれば、必ずいい顔をしない者が多く出るだろう。八雲藍のような妖獣が里に出入りしているとはいっても、それは買い物に来ているだけで、通り過ぎていく存在だからだ。
それは人間の里が、幻想郷で唯一の人間のコミュニティである以上、避けられない防衛本能なのかもしれない。だけれど――そこから排斥されてしまった者は。
「……でも、山の中で、半分狼の子供をひとりで育てるなんて、普通の人間だった母さんにはあまりに難しいことで……私が大きくなるにつれて、母さんはだんだん弱っていって……」
顔を伏せ、影狼は震える拳をぎゅっと握りしめた。
「――母さんの最期の言葉、今でも忘れられないの。『……私も、狼だったら良かったのに』って……母さんは、私の手を握りながら、そう言い残して……」
言葉を途切れさせた影狼に、慧音はゆっくりと歩み寄って、その肩を叩いた。
黙っていてやる方がいいのかもしれない、と一瞬思う。だけれど、と、わかさぎ姫が影狼にかけていた言葉を思い出して、慧音は首を横に振った。――言葉にすれば図々しかったり、陳腐だったりするかもしれないけれど、それでも言葉にして伝えることには意味があるはずだ。そうでなければ、ひとの姿をする者が言葉を持つ意味は無いはずだ。
「狼か、人間かは、今は問題じゃないんじゃないか。君は、狼や人間である前に、今泉影狼だろう。そうじゃないか」
はっ、と影狼が顔を上げた。慧音は笑って、その長い髪をくしゃくしゃとかき乱す。
「少なくとも、わかさぎ姫が友達になりたいと言ったのは、狼でも人間でもなく、ただそこにいた、今泉影狼という名前の女の子じゃないか。私は、そう思うよ」
「――――」
影狼は、慧音の手に頭を委ねながら、しばしの逡巡のあと、こくりと小さく頷いた。
よし、と慧音はその頭をぽんと叩いて、「晩ご飯にしようか」と言った。
「え?」
「お腹空いてないか? ――また魚と間違えて、わかさぎ姫を襲ったりしないように、ちゃんとご飯を食べないとな。友達同士、ご飯を食べながら、話すこともいろいろあるだろう?」
その言葉に、きょとんと影狼は目を見開いて――そして、吹き出すように笑った。
それは慧音が初めて見た、影狼の心からの笑い顔だった。
* * *
母の亡骸は、かつて暮らしていた妖怪の山の麓の、森の奥に埋めてある。
昼間の、まだ人間であるうちに、必死に穴を掘って埋めた。泣きながら、冷たくなった母の身体を引きずっていったときのことは、今でも悪夢のように脳裏にこびりついている。
月の光を浴びて、狼の血が騒ぎ出すと、私は母の亡骸を、食べられる人間の死体という風に見てしまう。それがわかっていたから、なんとしても昼間のうちに埋めてしまわなければならなかった。
母が遺した道具でなんとか穴を掘り、母の身体をそこに横たえ、土を被せた。母の身体が見えなくなると、そこにあまりに簡素な墓標代わりの枝を突き立て、逃げるようにその場を離れた。もう、陽が暮れようとしていたから。
狼の血が騒ぎだしてしまえば、穴を掘り返して母の亡骸を食らってしまうかもしれない。
それがあまりにも怖ろしくて、私は二度と、そこに近付こうとしなかった。
母と暮らした山を出て、しばらく幻想郷を彷徨い、そして私は迷いの竹林に辿り着いた。
竹林での暮らしは気楽だった。迷いの竹林の奧までわざわざ入り込んでくる者は滅多にいない。自分の姿を誰かに見られる可能性はほとんどない。
――狼である姿を、人間に見せてはいけないよ。父さんみたいに、殺されてしまうよ。
母は私にそう言って、私を人間に近づけようとはしなかったから。その言葉はずっと呪いのように私を縛って、私は人間に出会ってしまうのを怖れていた。
何よりも、人間のはずなのに狼に近い、自分の姿が嫌いだった。母親を食べたいと思ってしまうような狼の血が。満月の夜になると獣のように毛深くなる身体が。だけど私は人間でもない。人間なら、遠くに見える人間の里で暮らせるはずなのに、人間に近付いたら殺されてしまうという。
じゃあ、私はいったい、何なのだろう。
人間でもない。かといって狼にもなれない。何にもなれない狼女――。
ずっとずっと、そう思っていた。私は何にもなれないし、誰にも近づけない、誰も私には近付かないし、誰も私を認識しない。竹林の孤独なウェアウルフ。それが私だった。
――あの夜、彼女たちと出会うまでは。
そうして今、私は何年かぶりに、母の亡骸を埋めた場所へと戻ってきていた。
墓標代わりに立てた枝など、とっくの昔にどこかへ消えていて、もはや母を埋めたはずの場所も雑草に覆われ、正確な場所は全く判然としなかった。
だけど、それで良かった。母は、父と出会い、父と愛しあい、父と短い時間ながら暮らしたこの山の一部になって眠っている。それでいいのだと、私は思った。
――ねえ、母さん。母さんは、父さんを愛して、私を産んで、幸せだった?
私も狼だったら良かったのに、と母は言った。人間の身で狼男を愛してしまい、人間として生きていけなくなり、それなのに人間であるが故に山で生きられずに死んだ母。その生涯が幸せだったのかは、私には解らないし、決めようもない。母はきっと幸せだったと思うのは、そのことで私がただ救われたいというだけのことだ。
だけど、たったひとつ、私は今、母に伝えたいと思えることがある。
――ねえ、母さん。私、友達ができたよ。
どこかに眠る母に向かって、私はそう、語りかける。
――父さんと母さんの子供の、狼女の今泉影狼に、友達が、できたの。
不意に風がざわめいて、森の木々を揺らす。私は顔を上げ、月を見上げた。
木々のざわめきが、母の答えだと思うのは、都合のいい勝手な解釈かもしれないけれど。
私は、月に向かって、高く吠えた。
――母さん、ありがとう。
その言葉は、遠吠えとなって、山に反響し、どこまでも響いていった。
ただわかさぎ姫がタンノ君にしか見えなくなってしまった事については、映姫様に訴えておきますね
なんとなく「おおかみこどもの雨と雪」を思い浮かべました。
多種族のギャップは苦しいものだと思いました。
つながりは垣根を越える。
密かに感動してしまいました。
では失礼します。
慧音と妹紅の絡みも好みでした。
しあわせになって欲しいものです。
作品の中の雰囲気も素敵でした。
慧音たちだけでなく、その周囲の人々も生き生きと描かれていたと思いました
みんな優しくて、すごく良い話でした。
わかさぎ姫可愛い。
3の以下の部分です。
全ての感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。身体の中で、ハクタクの血がざわめいている。少しの嫌悪感と、それを覆い隠すような高揚感。満月の光が、慧音の身体を人間から、“半人半中(→獣)のワーハクタクへと変えていく。”髪は薄く蒼みがかり、その頭頂には異形の角が二本屹立し、白い毛並みの尻尾が揺れる。