<注意事項>
妖夢×鈴仙長編です。不定期連載、話数未定、総容量未定。
うどんげっしょーぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。
<各話リンク>
第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
第2話「あの月のこちらがわ」(ここ)
第3話「今夜月の見える庭で」(作品集124)
第4話「儚い月の残照」(作品集128)
第5話「君に降る雨」(作品集130)
第6話「月からきたもの」(作品集132)
第7話「月下白刃」(作品集133)
第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
第9話「黄昏と月の迷路」(作品集143)
第10話「穢れ」(作品集149)
第11話「さよなら」(作品集155)
最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)
大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣り合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起こらず平和でありました。
ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。
『見つけた、レイセン』
すっと、視界に影が落ちる。頭上からかけられた声に、私は文庫本から顔を上げた。
物陰に座り込んでいた私を、見慣れた呆れ顔が見下ろしていた。
『また本読んでるのね。依姫様に見つかったらどやされるわよ?』
眉を寄せる彼女の顔に、私は何と答えるか逡巡し、結局無視してまた本に視線を戻した。どうせ彼女は、別に私を連れ戻しに来たわけではないのだ。そんなことはとっくに彼女も諦めているのだから。
そんな私の態度に、彼女は大仰に肩を竦めて、それから私の横に腰を下ろした。
『……そっちもサボり?』
『休憩時間。貴女と違って私は真面目ですから』
澄まして言う彼女に、私はやっぱり、特に返す言葉はなかった。
月の都、綿月邸の庭。私や彼女は、その綿月家に飼われている玉兎だ。月人に仕え、餅をついたり月人の身の回りの世話をしたり、あるいは兵隊として月に攻め込んでくる者たちと戦うための訓練をしたりと、いろいろな仕事を与えられてせっせと働く立場である。
そして私や彼女の仕事は、月の兵隊だった。
『そりゃ、貴女の気持ちも解らなくはないわよ。どうせ月の都に攻め込んでくる者なんていないし、月の使者が地上に行くことだって余程のことがなきゃあり得ないし、何のために戦う訓練なんかしてるんだろうって』
彼女はそう言うけれど、そんな大層な理由や思想なんて特に無かった。自分の存在意義も訓練の意味も、別に大して興味はない。
ただ、訓練よりはこうして、静かな物陰で本でも読んでいる方が好きという、それだけのことだ。
『でもね、レイセン――ねえ、聞いてる?』
彼女が説教臭いのはいつものことなので、私は無視して本の続きを読みにかかる。隣でひどく大げさなため息が聞こえたが、彼女に呆れられるのも慣れたものだった。
二人は、石碑の建っている右と左に番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしかその辺を旅する人影は見られなかったのです。
初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は敵か味方かというような感じがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人は仲よしになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく退屈であったからであります。そして、春の日は長く、うららかに、頭の上に照り輝いているからでありました。
『また、それ読んでるのね』
どこか諦めたような調子で、彼女は私の持つ本を覗きこんで言った。
私の読んでいるのは、豊姫様がくれた本だ。豊姫様はときどき、その能力で地上のものをこっそり取ってくることがある。この本も、元々は地上のものだったらしい。地上の穢れが持ち込まれる、と依姫様はいい顔をしないけれど、豊姫様は涼しい顔である。
これなら貴女でも読めるかしらね、と言って、豊姫様は色褪せたこの小さな本をくれた。地上の、小さな子供向けの読み物らしい。
いくつもの短いお話が収められているけれど、その中でも私は、「野ばら」という題名のお話が好きだった。隣り合ったふたつの国の、ふたりの兵隊のお話。
『読む?』
『私はいいわよ』
本を閉じて差し出してみたけれど、そっけなく首を振られてしまった。
『……面白いのに』
私は小さく呟いて、またページを開く。たった五ページしかない、覚えるぐらい何度も繰り返し読んだお話だけれど、どうせ覚えが悪いので、何度読んだって面白いのだ。
『さて、レイセン。休憩時間は終わりよ』
と、不意に彼女が立ち上がって言った。私は顔を上げる。
『え?』
『え、じゃないの。依姫様にどやされる前に、訓練に戻るわよ』
彼女に腕を掴まれて、私は渋々立ち上がる。正直、訓練なんかどうでもいい。私たちに与えられた仕事は月の兵隊だけれど、それを本当に自分がやるべきなのかも、私にはよく解らなかった。ただ言われたからそうしているだけ。私自身にとっては、本当にどうでもいいのだ。
『……ねえ』
『うん?』
私を引きずって歩き出す彼女の背中に、私は声をかける。彼女は足を止めて振り返った。
どうして彼女は、私にいちいち構ってくるのだろう。
別に私が求めているわけでもないのに。むしろ、構わないでいてくれた方が気が楽なのに。
私が訓練を抜け出してひとりでいると、いつもこうして連れ戻しにくるのだ。
いったい彼女は、私にどうしてほしいんだろう?
『なんでもない』
訊ねたいことはあったし、訓練には戻りたくなかった。
だけど私の手を掴む彼女の力は強くて、振り払うことはできないから。
私は小さくため息をついて、その後についていくことしか出来ないのだった。
第2話「あの月のこちらがわ」
1
夏を謳歌する蝉たちの合唱が、茶屋の中まで染み渡るように響いていた。
カラン、とグラスの中で氷が音をたてる。テーブルの上に落ちる透明な影。表面に浮いた水滴が、窓から射す陽光を反射してきらめいていた。
相変わらず、夏は過ぎ去る気配もなく、人里を灼けるように照らしている。その陽射しを逃れる人たちの姿で、今日も茶屋の中は賑わっていた。友達同士で話し込む影、何やら書き物をしている影、あるいはゆっくりと本を読んでいる影。
鈴仙・優曇華院・イナバはそこで、静かに本を読んでいた。二週間前と同じ席、同じ帽子、同じ眼鏡――と言っても、この眼鏡のスペアは無いのだが。違うのは読んでいる本だけだ。
二週間前のように、彼女はこの席に来てくれるだろうか。
そんなことを思って、鈴仙はちらりと店の中の時計を見やる。別に時間で約束をしているわけではないから、時計を見ることに意味があるわけではないけれども。
……時間で約束をしておけば良かったなあ、と今さら思う。いつ相手が来るのか、その目安が無い待ちあわせというのは、やっぱり落ち着かない。
仕方ないので本に集中しようと視線を落とす。アイスコーヒー一杯で長く居座っていても、あまり嫌な顔をされないのは有り難かった。おかげで頼んでから結構時間が経って、氷も半分ぐらい溶けているけれど、アイスコーヒーはあまり減っていなかったりする。
今読んでいるのは、来る途中の霧雨書店で買ってきた剣豪小説だ。大橋もみじ『白狼の咆吼』。流浪の旅をする剣士が、立ち寄った里で襲い来る夜盗をばったばったと斬り伏せている。
作中の描写だと全然そんなことはないのに、どうしてか鈴仙の頭の中では、悪党を斬りまくるその剣士の姿が、今待ち合わせている少女のものに重なっていた。身近に剣の使い手が、彼女ぐらいしか居ないというのはある。かつての自分の飼い主もそうだったけれど――それはもう、とっくの昔の話だ。
白狼剣のひと薙ぎに、血しぶきをあげてまた夜盗がひとり、どう、と倒れた。
刃の血潮を払い、ほぅ、と紅葉は夜気の中に歎息する。周囲に累々と斃れ伏した影にはもはや、ぴくりと動くものすらない。その数、十と三。全て、紅葉の刃にその命を散らした影だ。
「因果応報」
ぎょろりと白目を剥いて、細い月を見上げた屍に、紅葉は静かに呟く。
因果は巡り、罪業は鎖となってその者の運命に絡みつく。それは世の摂理である。
夜盗に身を落とし、その罪業故に屍を野に晒した彼らとて、生まれたそのときから悪党であったはずもない。あるいは止むに止まれぬ事情を抱え、己の罪深さを悔いながらも夜盗に落ちぶれざるを得なかった者も居ただろう。
されど、罪業は罪業であり、必罰である。無論のこと、紅葉とて己がその罪業を弾じ断ずる資格を持つような潔白の身ではない。その手は既に多くの血で汚れているのだ。
いずれ己も、この罪科の咎を受け、野に屍を晒すだろう。
ただ、今は己の時ではなく、目の前に斃れた彼らの時であったという、それだけの話だ。
「大丈夫か」
その屍の向こう、藪の中に身を潜める影に、紅葉はおもむろに呼びかける。
年端もいかぬ少女である。身を竦め、ただ震えていた彼女は、紅葉の声に顔を上げた。
燦然と、月光が紅葉の姿を照らす。闇の中、余りに朧なその光。されどその僅かな光の中にも、明白な色が少女の瞳には映っていた。
紅葉の胸元と、その手を染めた、夜盗たちの生命の色。深紅の血潮。
「ひッ――」
喉を鳴らし、小さな悲鳴をあげて、少女は這いつくばったままその場を逃げ出す。
藪の中に消えていく背中を、紅葉は追うでもなく静かに見送っていた。
「――同じ、か」
目を細め、紅葉は月を見上げた。そう、同じだ。紅葉と夜盗とを分かつものは唯一つ、今その命を保ち立っているかという、それだけのことである。
刃を鞘に仕舞い、紅葉は踵を返す。
屍を狙う飢えた野犬の唸り声だけが、月明かりの下に残されていた。
息を吐いて、鈴仙は一度本を閉じた。アイスコーヒーを口にする。心地よい冷たさと苦みが、物語に没入していた意識を現実へ引き戻す。
普段、あまりこういうチャンバラ系の小説は読まないので、色々と新鮮ではあった。少々堅苦しい言い回しが多いのは、このジャンルがそういうものなのかもしれない、と数日前に読んだ本のことを思い出す。
面白かった、だから続きを書いてほしい。まさか作者本人に向けて、そんなことを直接告げることがあるとは思わなかった。そのときのことを思い出すと、こそばゆさと同時に少しの気まずさも覚える。
偉そうなことを言ってしまったけれど、普段読まないジャンルだけに、本当にあの作品が優れていたのか、それとも彼女の言うように未熟なのかは鈴仙にはよく解らないのだ。だからその勉強も兼ねて、今同じジャンルの本を読んでいるのだけれども。
ただ、あの作品――『辻斬り双剣伝』を楽しんで読めたのは事実だった。そのことは、ちゃんと伝えられたと思う。続きを読みたいと思ったのも、素直な気持ちだと自分で思っている。
そんな根拠も何も無い言葉に、だけど彼女は、頑張ってみる、と答えてくれた。そのことをまたこそばゆく感じて、鈴仙はもう一口アイスコーヒーを口にして、
「すみません、ここ、いいですか?」
不意に声をかけられ、慌てて顔を上げた。
相席はまずい。待ちあわせ中なのだから、向かいの座席は空けておかないと――。
「あ、いえ、待ちあわせしてるので――」
手を振ってそう言いつのると、不意に目の前の影が噴き出すように笑った。
鈴仙は思わず目をしばたたかせ、その影が誰なのかようやく悟って「あう」と声を上げる。
「よ、妖夢」
「えと、こんにちは、鈴仙」
はにかんで、魂魄妖夢はぺこりとひとつ頭を下げた。
「び、びっくりさせないでよ――もう」
軽く頬を膨らませた鈴仙に、「あ、いやそんなつもりじゃ」と妖夢は慌てて。
そんないつもの妖夢の姿に、鈴仙もひとつ苦笑した。
「こんにちは、妖夢」
彼女の名前を改めて口にすると、また何か、少しの照れくささみたいなものが浮かんできて。
何てことのないそんなやり取りで笑い合う瞬間が、心地よかった。
◇
「あれ、そういえば今日は買い出しはこれから?」
カラン、と妖夢の前に差し出されたアイスティーのグラスが、涼やかな音をたてる。
向かいの席に腰を下ろした妖夢は、いつもの重そうな買い物袋を携えてはいなかった。先週約束をしたときには、買い出しに来る、ということにしていたはずだが。
「あ、ええと――実は、今日は買い出しじゃなくなっちゃって」
「え?」
困ったように一度頬を掻いて、妖夢はアイスティーを口にする。
「買い出しは、昨日済ませちゃったんだ。幽々子様、よく食べるからすぐ無くなっちゃって」
たはは、と苦笑する妖夢に、鈴仙は首を傾げる。
「じゃあ、今日は?」
「えと、幽々子様の言いつけじゃなく、お休み貰って、来たんだ」
思いがけない言葉だった。先週、次に会う機会の話をしたときの反応からして、こっちに来る用事を幽々子から言いつけられない限り、妖夢は自由に人里には来られないのだとばかり思っていたのだが。
「お休みくれたの?」
「うん。昨日の買い出し終わった後、急に幽々子様が、明日は自由にしてていい、って」
妖夢もどこか不思議そうな口調で、そんなことを言った。
西行寺幽々子とは、やはり鈴仙は決して親しくはない。最近では、異常気象と地震騒ぎの調査で白玉楼を訪れたときに軽く弾幕りあった程度だ。
あの脳天気な笑みの裏で何を考えているのか、何とも得体の知れない亡霊だという印象ぐらいしか無いのだが、目の前の妖夢はそんな幽々子を一途に慕って従者として仕えている。まあ、自分の師匠の永琳も、医者であることを除けば得体の知れなさでは似たようなものかもしれないか、と鈴仙は思った。
「気、利かせてくれたのかな?」
「どうだろう。鈴仙との約束は、幽々子様には言ってなかったんだけど……幽々子様だから、お見通しだったのかも」
少し困ったような顔で妖夢は首を捻る。ふうん、と鈴仙は首を捻り、ふと気付く。
「てことは、妖夢は今日は、自由なのかな」
「あ、うん。夕ご飯の時間までなら……鈴仙は?」
「ふふ、実は私も、今日はお休み」
妖夢の顔を覗きこむようにして、鈴仙は笑った。う、と妖夢は小さく唸って、照れたように視線を逸らす。なんとなくそんな反応を見られただけでも、師匠に無理を言ってお休みを貰った甲斐はあったと、そんなことを思った。
いや、実際のところ、無理を言ったというほどのことでもない。永琳に、午後からでいいのでお休みが欲しい、と恐る恐る相談したら、存外あっさりと通ってしまってむしろ拍子抜けしたぐらいだ。なんだか永琳が含み笑いをしていたのが気になるところではあったが、ともかくはっきりと半休を貰えたのは事実である。まあ、代償としてこれから数日いつもより忙しくなる可能性はあるが、それはそれ、だ。
「それなら、今日はゆっくり、どこでも行けるかな」
「う、うん」
「ね、どこ行く?」
特にどこに行こうと考えていたわけでもなかった。妖夢の希望に合わせようと思って訊ねてみるけれど、妖夢は「え、えーと」と困惑の表情を浮かべる。
「どこと言われても……あまり、このあたりは詳しくないから、その」
縮こまる妖夢に、確かに冥界で暮らしていればそんなものかな、と鈴仙も思った。
「それなら、ここ出てから考えよっか。時間はあるし」
「あ、うん」
そう言いながら、どこに行けばいいかな、と思案する。人里にも、娯楽はそんなに多くはない。茶店や食事処はあるにせよ、遊ぶ場所となると咄嗟に思いつかなかった。
まあ、ともかく飲み物はまだ残っているし、外も暑いからすぐにこの店を出ることもない。鈴仙がアイスティーに口を付けていると、不意に妖夢がテーブルの上の一箇所に目を留めた。出しっぱなしにしていた『白狼の咆吼』だ。
「鈴仙の?」
「あ、うん。さっき買ってきたの」
「面白いよね。痛快で、格好良くて」
どこか楽しげに妖夢は言う。自分で書いているだけあって、読者としての妖夢はやはりこの手のジャンルが好きらしい。
「私はまだ読み始めたばっかりだから……」
苦笑すると、「あ、そうか、そうだよね」と妖夢は身を縮こまらせる。
「妖夢のお薦めなら、続きも楽しみにしておくね」
「うん。……本、好きなんだね、鈴仙って」
不意に目を細めて、妖夢はそう言った。
「別に、それほどでもないよ」
「そうかな。いろいろ読んでるみたいだし、この前も今日も」
――また、その本読んでるのね。
頭の中で唐突に、別の声が割り込んだ。
それは記憶の中の声。……自分が捨ててきた、過去の残滓。記憶の破片。
彼女はいつも、本を読む自分を呆れたように見下ろしていた。
その呆れ顔が、優しかったのだということも、自分は解っていたのだと、そう思う。だから、
「鈴仙?」
はっと目を開ける。目の前にあるのは、きょとんとした妖夢の顔。
ここは幻想郷。人里の茶屋だ。――月の都の、綿月邸ではないのだ。
「あ、ううん、なんでもない。暑いから、ちょっとぼーっとしちゃった」
頭の帽子の位置を直しながら、鈴仙はそう首を振って苦笑して見せた。
――昔のことを思い出すなんて、今ではほとんど無くなったと思っていたのに。
どうして急に、彼女のことなんて思い出してしまったのだろう。
「大丈夫?」
「平気、平気」
「でも、医者の不養生って言うし。鈴仙も気を付けた方、いいと思う。暑い日続いてるし」
真剣な顔をして言う妖夢に、鈴仙は思わず笑みを漏らした。
異変で弾幕りあったときは、好戦的で人の話を聞かないイメージがあったけれど。
こうして普通に顔を合わせて話をしていると、普段の妖夢はむしろ、不器用なぐらいに生真面目で、むしろ控えめなぐらいなのだと解る。
そういう発見のひとつひとつが、何だか新鮮で楽しいと鈴仙は感じていた。
「妖夢の方こそ、暑いの苦手そうなイメージだけど」
「え? いや、そんなことは」
「だってほら――」
妖夢の手に、自分の手を重ねてみる。触れてみると、やはり少しひんやりとして気持ちよかった。以前妖夢が永遠亭に通っていたときに知っていたが、半人半霊の妖夢は若干体温が低いらしい。平熱が三十四度ぐらいだとか何とか。
「れ、れいせん」
「やっぱり、妖夢の手、冷たいね」
呟いて顔を上げると、妖夢は何故か真っ赤になって、わたわたと首を振った。鈴仙は目をしばたたかせる。そんなに照れるようなことでもないと思うのだけれど。
「妖夢、知ってる?」
「え?」
「手が冷たい人は、心があったかいんだって」
何の本で読んだフレーズだったかは忘れたけれど、ふとそんな言葉を思いだした。
――きっと、自分の手はちっとも冷たくなんてないのだけれど。
そんな自嘲めいた思考は表に出さずに、鈴仙は笑いかける。
「わ、私は単に、体温が低いだけだから――」
「でも、妖夢の手は冷たくて気持ちいいよ」
「れ、鈴仙……」
離して、と言われたらもちろん離すつもりだったけれど、妖夢はもごもごと口の中だけで何かを呟いて、ためらいがちに掴んだ手を握り返した。
ほら、こういうところがきっと、妖夢はあったかいのだ。
そんなことを思って、鈴仙は眼鏡の奥で目を細め、
「……や、やっぱり離して。……恥ずかしい、から」
消え入りそうな声で、妖夢がそう言った。言われて周囲を見回してみると、近くの席のお客が何やらニヤニヤとこちらを見つめていた。
――よく考えてみれば、テーブルの上で手を握り合って、見つめ合っていたわけで。
傍から見れば、明らかに誤解を招く光景と言わざるを得ない。
「ご、ごめん」
慌てて手を離し、鈴仙も顔を俯ける。指摘されてしまうと、急に自分のしていたこともひどく照れくさく思えてきた。妖夢が嫌がらないからって何をしていたのだ、本当に――。
おそるおそる視線を上げると、また妖夢と視線がかち合った。
お互いきっと顔を赤くしながら、もじもじと向き合っているこの状況も、やっぱり傍から見れば誤解を招く格好かもしれない。
何やってるんだろう、本当に。
間抜けさに思わず笑いを漏らすと、そのまま笑いが止まらなくなった。くすくす笑い続ける鈴仙の姿に、妖夢は最初きょとんと数度まばたきして、けれどつられたように笑いだし。
しばらく茶屋の一角に、ふたりのささやかな笑い声が木霊していた。
2
「うーん、もう少し涼んでれば良かったかなぁ」
日が少し陰ったのを見計らって茶店を出たけれど、蒸すような暑さは相変わらずだった。ハンカチをぱたぱたと揺らして、鈴仙は妖夢を振り返る。
「妖夢は暑くない?」
「ううん、大丈夫」
首を振る妖夢。そういえば、傍らを飛んでいる半霊は冷たそうだ。あれのおかげで多少は涼しいのかもしれない。
「で、どこ行こうか? 妖夢、何か希望ある?」
「え? ええと――鈴仙に、任せます」
「敬語」
「あ」
慌てて口元を押さえた妖夢に、鈴仙は小さく苦笑した。
「じゃ、そうだね。とりあえず、少し適当にぶらぶらしようか」
「はあ」
じゃあ行こ、と鈴仙は歩きだし、けれどついてくる足音がしないので振り返る。妖夢はまだ、ぼんやり茶店の前に佇んでいた。
「妖夢?」
「あ、う、うん」
慌てて足音が追いかけてくる。足を止めて、鈴仙は右手を差し伸べた。追いついた妖夢が、きょとんとその手を見つめて首を傾げる。
「手、繋ぐ?」
苦笑して鈴仙が言うと、かーっ、と音がしそうなぐらいに妖夢は真っ赤になった。
「そっ、それには及びませんからっ」
ぶんぶんと首を横に振る妖夢の姿に、可愛いなぁ、と鈴仙は微笑んだ。
◇
昼下がりの人里は、つかの間の空隙のように人通りが少なくなっていた。休息をとっていた大人は仕事に戻り、子供たちはまだ寺子屋だ。暑い中、日陰で井戸端会議に興じる奥様方の姿があるぐらいで、あまりすれ違う人の数は多くない。
「……妖夢?」
その中を、肩を並べて歩きながら、鈴仙は傍らの妖夢を見やる。
「どしたの? そわそわして」
「いえ、別に……」
落ち着かなさげに、妖夢は視線をさまよわせながら歩いている。なんだか危なっかしい。
「……あの、どこに行くんで……行くの?」
言い直す妖夢に、鈴仙は肩を竦める。
「どこってわけでもないけど――」
困り顔の妖夢に、鈴仙はひょっとして、と思った。目的が無い、というのが落ち着かないのだろうか。生真面目そうな妖夢には、ぶらぶら時間を潰す、という行為自体がなじみのないものなのかもしれない。
「そうだね、じゃあ、買い物」
「買い物?」
「妖夢、お金ある?」
「ええと、少しなら……」
「オッケー、じゃあ――あ、あそこ行こ」
視線を巡らし、鈴仙は目に留まった店に向かって歩き出す。妖夢はそれに慌ててついてきた。
目当ての店は、角で営業している帽子屋だ。今の季節、涼しげな麦わら帽子が店先に掛けられている。そのひとつを手にとって、鈴仙は振り向くと、駆け寄ってきた妖夢の頭に帽子を乗せた。
「れ、鈴仙?」
「あ、似合う似合う」
被せられた麦わら帽子に戸惑う妖夢に、鈴仙は笑う。落ち着かない様子で帽子のつばを掴んで、「ええと」と妖夢は視線をさまよわせた。
「ほら、鏡見てみて。似合ってるよ」
店先の鏡に映った自分の顔に、妖夢はほう、と息をついた。
「そう、かな……?」
「気に入らない? 私は似合うと思うけど」
妖夢の健康的で小柄な身体に、麦わら帽子はよく似合うと思う。まあ、少し子供っぽいかもしれないけれど。もうちょっと日焼けしてたらもっと似合うかな、とは思ったが、普段涼しい冥界で暮らしている妖夢にそれを言っても仕方ないだろう。
「別に、そういうわけじゃなく、その」
帽子の位置を直しながら、妖夢は気恥ずかしげに鏡の中の自分の姿を見つめた。
「他のも見てみる?」
適当に中折れ帽やらベレー帽やらを手にとって、妖夢に差し出す。麦わら帽子を被ったまま、妖夢はそれらを受け取って、どうしよう、という顔をした。
「ほらほら、気に入ったのあったら買っていこ」
「う、うーん」
視線をさまよわせていた妖夢は、不意に店の一点に目を留める。その視線の先を見やると、ハンチング帽が掛けられていた。鈴仙が被っているのと、同じものだ。
いつの間にかこちらの様子を伺っていた店員が、「こちらですか?」とそのハンチング帽を手に取る。手渡されて、妖夢は困りきった顔で鈴仙を振り向いた。鈴仙としては苦笑するしかない。
「ほら」
おろおろする妖夢の手からハンチング帽を取り上げて、その頭に被せた。同じ帽子を被って向き合う。何だかちょと、くすぐったい気分だった。
「おそろいだね。これにする?」
自分の帽子の位置を直しながら鈴仙が問うと、妖夢はまたかーっと真っ赤になって、慌ててハンチング帽を脱いだ。脇に置いてあった麦わら帽子を手にとって、赤らんだ顔を隠すように、消え入りそうな声で呟く。
「……こっちで、いいです」
◇
「変じゃ、ない?」
「だから、似合ってるってば」
店を出てからも、落ち着かなさげに麦わら帽子を被り直す妖夢に、鈴仙は小さく苦笑する。
雲間から陽がまた射してきて、ふたりぶんの影を土の上に濃く落としている。少し傾いた陽射しとともに、どこからか子供たちの歓声が響いた。寺子屋の授業の時間が終わったのだろう。
「せんせー、さよーならー」
「気をつけて帰るんだぞ。宿題は忘れずにな」
「はーい」
通りの先に視線を向ければ、その寺子屋の看板が見える。《上白沢塾》の門から、子供たちが駆け出す姿。子供の何人かは、妖夢と同じように麦わら帽子を被っている。
「やっぱり、夏には麦わら帽子だよね」
駆けていく子供たちを見やりながら鈴仙がそう呟くと、妖夢が隣で小さくため息をついた。
「どうしたの?」
「あ、いや、別に」
慌てて首を振る妖夢に、鈴仙は首を傾げる。鈴仙としては素直に似合っているから勧めたのだけれど、やっぱり妖夢は何か不満だったのかもしれない。
「……迷惑だった?」
思わずそう呟くと、妖夢は目を見開いて、それからぶんぶんともう一度首を振った。
「い、いえ、全然そんなことは。……ただ、その」
「ただ?」
「……麦わらが似合うっていうのは、私が子供っぽいってことなんじゃないかと、ちょっと」
帽子で顔を隠すようにしてそう言った妖夢に、鈴仙は思わず苦笑した。妖夢でもそういうこと気にするんだ、と少し意外な気分で、妖夢の顔を覗き込む。
「妖夢も、女の子らしくおめかしとかしてみたいの?」
「そっ、そういう意味じゃなく! ……私はもっともっとしっかりして、ちゃんと幽々子様を支えて守れるようにならないといけないから」
腰の刀に触れながら、妖夢はそんなことを呟く。
西行寺幽々子。妖夢の主。冥界の姫。妖夢の世界の中心にいる人物。
どうして妖夢が、そこまで幽々子に一途に忠誠を誓っているのか、その理由は鈴仙には解らないけれど――その言葉の真剣さに、鈴仙は目を細める。
……自分には、真似の出来ないことだからだ。
「一途だね。……少し、羨ましいかな」
「え?」
「何でもないよ」
聞こえないぐらいの声で呟いて、鈴仙は苦笑を返す。
そんな風に、自分以外の誰かに対して自分の何かを賭けて尽くすことができる、ということ。
それが、少し眩しく感じるだけだ。
「それはそれとして」
余計な思考をごまかすようにして、鈴仙はわざと明るい声をあげて、ぽんと手を合わせる。
「子供っぽく見えないように、おめかししてみる?」
「え?」
「ほら、そこに服屋さんあるし」
指した先では、夏らしいワンピースが店先に飾られている。妖夢にはああいうのが似合うかな、と鈴仙はひとつ首を傾げ、
「い、いやいや、これ以上はそんな、お金ないし」
大慌てで首を振った妖夢に、今日はこんなのばっかりだなぁ、と鈴仙は小さく苦笑した。
「そう? 妖夢にいろいろ着せてみたかったんだけど」
「……それ鈴仙の方が楽しんでない?」
「ばれたか」
舌を出してそう肩を竦めると、妖夢は大げさにひとつ息を吐き出して、それから笑った。
――ああ、懐かしいな、とまた思う。
こんな風に、何の気兼ねもなく誰かとじゃれあって、笑いあうだけの時間。永琳や輝夜やてゐに振り回されるわけでもない、自分だけの、自分のための時間。
そこに妖夢がいることが、今はどうしてか心地よいのだ。
「でもほら、試着するだけでもいいから着てみない?」
「そ、そういうわけにも――」
「妖夢、差し出された試食を食べちゃうと予定になくても買っちゃうタイプでしょ」
「う」
図星らしい。鈴仙は思わず吹き出した。
「だって、申し訳ないし」
「そんなの気にするようなことでもないのに」
「じ、仁義の問題だからっ」
「仁義って、そんな大げさな」
そんなことを言い合っていると、また寺子屋の方から子供たちの歓声と、今度はこちらへ向かってくる足音が響く。その気配に鈴仙は振り向こうとして、
走ってきた子供のひとりが、背中にぶつかった。
「あっ」
どん、と不意の衝撃に身体が傾ぐ。足がもつれ、平衡感覚が失われ、ぐらりと視界が傾き、脳天気な陽射しがレンズ越しに視界を灼いて――、
「――鈴仙!」
がくん、と何かに背中を受け止められ、視界からレンズのふちが消えた。かしゃん、とフレームが地面に落ちる音と、頭の上から帽子の感触が消える。けれど鈴仙の身体は倒れきる前に、誰かの腕に支えられていた。……いや、それは誰かじゃない。
「大丈夫?」
妖夢の声。その顔を見上げる。驚いた顔でこちらを見下ろす妖夢と、視線が合う。
次の瞬間、妖夢があわてて視線を逸らした。
――あ、眼鏡。眼鏡が、無い。
顔の前に手を当てて、鈴仙も思わず目元を覆った。それから、妖夢の腕に支えられている自分の体勢に気付く。……これではまるで、妖夢に抱きかかえられているみたいだ。
「よ、妖夢。私は大丈夫だから」
「う……うん」
瞼を空いた手で押さえながら、妖夢は頷いて身体を起こさせてくれる。鈴仙は息を吐いて立ち上がり、それから視線をさまよわせた。ぶつかった影は年長の男の子で、すでに立ち上がっている。そこに駆け寄ってくるのは、寺子屋の教師である女性の姿。
「こら、前には気をつけなさいと言っただろう」
「ご、ごめんなさい、先生」
「謝るのは私じゃないだろう。ほら」
男の子はこちらを振り向いて、「ごめんなさい」とひとつ頭を下げた。「あ、ううん、私は大丈夫だから」と鈴仙は首を振って――それから、男の子の視線が自分の頭上に向いていることに気付く。
頭に手を当てると、兎の耳がぴょこんと顔を出していた。鈴仙は思わずかがみこんで帽子を探す。幸い、すぐ足下にハンチング帽は落ちていた。息を吐いてそれを拾い、被り直す。あ、あと眼鏡――。
「鈴仙」
と、ひとつ首を振った妖夢がこちらにかがみ込もうとして、
ぺきり、という固い音。
「……あ」
どちらからともなく、そんな間抜けな声をあげていた。
妖夢の足下。その靴の下から、眼鏡のフレームがのぞいている。
「あっ、ごっ、ごごご、ごめんなさい――」
大慌てで足をあげた妖夢の足下から、鈴仙は眼鏡を拾い上げる。レンズは無事だが、右側のフレームが見事に途中で折れていた。
「大丈夫か?」
覗き込んでくるのは、寺子屋の先生だ。その顔を振り向いて、それから鈴仙はレンズをとりあえず鼻の上に乗せる。バランスはとれないので、手で押さえておくしかないのだが、それは仕方ない。
「申し訳ない、うちの生徒が」
「あ、いえ、眼鏡はその子のせいじゃないですから」
首を振って、それから鈴仙は立ち上がって改めて目の前の女性を見やる。上白沢慧音。人里では馴染みの顔のひとりだ。何しろ子供はよく怪我をするので、寺子屋はお得意さまのうちの一軒なのである。
「私も不注意でしたから、気にしないでください。君は、怪我は無かった?」
男の子を見やると、こくこくと頷く。それなら良かった、と鈴仙はひとつ笑みを漏らす。先日妖夢が子供の前でおろおろしているのをフォローしたことがあったけれど、自分が同じことをしていたら笑い話だ。
「しかし、それでは不便ではないか?」
「まあ、なんとかなりますから、本当に気にしないでください」
笑った鈴仙に、そうか、と慧音はひとつ息をつく。
「妖夢、ほら、行こう」
「え、あ、鈴仙――」
呆然と立ち尽くしていた妖夢の手を引いて、鈴仙は踵を返す。これ以上向こうに恐縮されるのも居心地が悪い。眼鏡を押さえつつ、もう片方の手で妖夢を引きずるようにして、鈴仙は歩きだした。
◇
「……ごめんなさい。本当に」
角を曲がって寺子屋が見えなくなったところで、それまで呆然と引っ張られていた妖夢が、不意に声をあげた。
「ん?」
「いや、眼鏡――」
「ああ、大丈夫、気にしなくていいよ」
首を振りつつ、内心では師匠に何て言われるかなぁ、と鈴仙は小さく息をつく。何しろ師匠謹製の眼鏡なわけで、それを壊してしまったとなると――。
「でも、私が壊しちゃったわけだから」
「仕方ないよ。不可抗力、不可抗力」
「べ、弁償するから」
「弁償って言われても……お店で買ったものじゃないし」
鈴仙の言葉に、あ、と妖夢は目を見開く。まあ、レンズが壊れていなかったのが不幸中の幸いだった。フレームだけなら、まあ何とでもなる……と思う。
「ほ、本当にごめんなさい……」
頭を下げる妖夢に、鈴仙は困って苦笑した。だから、そんなに恐縮されてもかえってこちらが困るのだ。まあ、気持ちは分かるけれど……。
「それより、妖夢は大丈夫?」
「え?」
「私の目、さっき見ちゃわなかった?」
「あ……うん、大丈夫、だと思う」
とっさに自分を助け起こしてくれたとき、眼鏡の外れた目で鈴仙は妖夢の顔を見つめてしまった。妖夢は昔、鈴仙の目の影響を受けてしばらく永遠亭通いをしていたことがあるだけに、そうならないように気をつけていたのだけれど、今ばかりはさすがにどうしようもなかった。
レンズが視界から外れないように押さえつつ、鈴仙は妖夢の顔を見つめる。妖夢の目は赤くなっているようには見えなかった。どうやら、狂気に落ちるほどはっきり直視してしまったわけではないらしい。
「それならいいんだけど……このままじゃ、やっぱりちょっと不便だなぁ」
「ご、ごめん」
「いや、妖夢を責めてるわけじゃないから」
ポケットに入れた、折れたフレームを確かめつつ、鈴仙はどうしたものかと思案する。道具屋で何か買って、その場しのぎにくっつけてみるか? ……それはそれで不安だ。
「帰って師匠に直してもらうしかないかな……」
取り出したフレームの残骸を、折れた部分に合わせてみる。もちろんそれでくっつくわけもない。妖夢に聞こえないように、鈴仙は口の中だけでため息をつき、
「じゃ、じゃあ、鈴仙」
「ん?」
「私が、永遠亭まで送っていくから」
不意に妖夢が、真剣な顔でそんなことを言い出して。
鈴仙は思わず、きょとんと目をしばたたかせた。
◇
鬱蒼とした竹林の中にも、夏の熱気は容赦なく流れ込んでいた。陽射しが届きづらいとはいっても、じわりと汗が滲む程度に暑いことには変わりがない。時間がまだ夕方にも早いぐらいなのだから、なおさらだ。
「……よく考えてみれば、竹林まで来たら鈴仙についていくしかないのに、送っていくも何も無いよね」
ふと、隣を歩く妖夢がそんなことを言って、鈴仙は視線だけで振り向く。眼鏡はすでに畳んでポケットにしまい、ハンチング帽も脱いでいた。人里を出てしまえば帽子を被っている意味はあまり無いし、眼鏡もそれほど重要ではない。妖夢の目さえ見なければいいのだ。
妖夢も陽射しが遠い今は麦わら帽子を脱いで、刀の鞘にひっかけている。
「そう? 私は妖夢が送ってくれて、嬉しいけどな」
「いや、これじゃどっちが送られてるのか……」
「細かいことはいいの」
と、妖夢の顔を覗き込みそうになって、慌てて目をそらす。やっぱり眼鏡無いと不便かなぁ、と小さく息をついた。そもそも、妖夢がこの狂気の目に対して耐性が無いのが原因ではあるのだけれども。
「せっかくお休みもらってるのに、眼鏡が壊れちゃったからばいばいなんて、寂しいし」
「……う、うん」
はにかんだ妖夢に、鈴仙は微笑む。妖夢もそういう風に思ってくれていたのなら嬉しいな、とそんなことを思いながら。
「というか、眼鏡は本当にごめん」
「ああ、だからそれは別に気にしなくていいって」
「でも壊しちゃったのは私だし……」
「その前に、転びそうになったの助けてくれたから、それで十分だよ。ね?」
ウィンクしてみせるけれど、妖夢はなぜか顔を赤くして、何かもごもごと呟く。
「あれは、思わず……つい、ご、ごめん」
「なんで謝るの?」
「いや、……な、なんでもない」
よく解らない。鈴仙が首を傾げていると、妖夢は視線を逸らすように一歩鈴仙より前に出た。ふよふよと冷たそうな半霊が鈴仙の目の前を横切る。
思わず手を伸ばした。ひんやりとして、ふにょん、とした柔らかい感触が手に触れた。
「ひぁっ!?」
途端、妖夢が変な声をあげて飛び跳ねる。
「れっ、鈴仙! 急に半霊触らないで……」
「あ、感覚つながってるんだ?」
ふにょふにょ。柔らかい氷のような不思議な感触だ。両手で掴もうとすると、にゅるん、と逃げようとするので思わず押さえつけようとする。冷たい。
「だ、だめ、ひぁ、くすぐった、ひぅんっ」
身悶えしてその場に膝をつく妖夢。わき腹でもくすぐられたみたいに涙目でこちらを見上げるので、鈴仙は慌てて手を半霊から離した。暑い中、気持ちよかったのでつい。
「ごめん、妖夢、大丈夫?」
「う……うん」
半霊を背後に隠すようにして、妖夢は首を振って立ち上がった。さすがに調子に乗りすぎてしまった、と鈴仙は反省。やっていいことと悪いことがある。
「妖夢」
「だ、大丈夫だから――って、わっ!?」
慌てたように歩きだした妖夢の姿が、突然視界から消えた。どすん、と音。
「妖夢!?」
「うう……また?」
覗き込めば、落とし穴の底でお尻をさする妖夢の姿。またてゐの仕業か、と鈴仙は息をつき、――また妖夢が守ってくれた形になったのかな、とちょっと思った。そのまま歩いていれば、落ちていたのはきっと自分だったわけで。
「ごめんね、てゐがまたこんな」
「う、ううん、平気」
手をさしのべて、妖夢を穴の中から引っ張りあげる。落とし穴の傍らに座り込んで、互いにため息を吐き出し、それからどちらからともなく笑みがこぼれた。
「……なんだか、さっきから『ごめんなさい』ばっかりだね、私たち」
「そうだね……たはは」
どうにも、そういう立場がお互い身にしみこんでしまっているのかもしれない。苦笑しあって、それから鈴仙はポケットから眼鏡を取りだした。フレームは折れているけれど、やっぱり妖夢の顔をちゃんと見られる方がいい。
「妖夢」
「うん?」
「これから、『ごめん』は禁止にしよっか」
眼鏡越しに妖夢の目を見つめて、鈴仙は笑った。
「え?」
「謝るのは大事だけど、何でもないことまで謝ってたら窮屈だもん。だから、『ごめん』は一度まで。なるべくなら、本当に相手を怒らせちゃったとき以外は禁止」
「え、ええと」
「ね?」
戸惑ったように視線をさまよわせる妖夢に、鈴仙は笑いかける。その言葉は自戒でもあった。『ごめんなさい』は便利な言葉だ。大抵のことは、そう言えば済んでしまうような気分になる。
そう、何度『ごめんなさい』と言っても、許されないことがこの世にあるように。それは決して万能の言葉なんかではないのだ。
「ていうか、謝られるのって苦手なんだ、私」
頬を掻いて、鈴仙は苦笑する。
「普段、誰かから謝られることなんて無いし、いつも私が謝る立場だから……」
思わずため息が漏れる。姫様や師匠が自分に謝ることなんて思いつかないし、てゐは言わずもがな。永遠亭に来てから数十年で、とことん使いっぱしり根性が身に染みてしまった。
――月にいた頃から、こういう扱いに慣れていれば、きっとこの幻想郷に来ることもなかったのだろうけど。
「それは……ちょっと解る、かも」
妖夢が頷く。思わず鈴仙は妖夢の肩を叩いた。こき使われる従者同士、何かが通じ合った気がした。いや、自分の錯覚かもしれないけれど。
3
永遠亭にたどり着くと、いつも通り出迎えたのは兎たちだった。わらわらと駆け寄ってくる兎たちに「ただいま」と告げて、それから妖夢を促して門をくぐる。
「あら、おかえりウドンゲ。早かったわね」
出迎えたのは、桶と柄杓を手にした永琳だった。
「師匠。ただいま戻りました……水まきですか?」
「ええ、暑いから」
永琳が庭で水まきをしているなんて珍しい光景に、鈴仙は目をしばたたかせた。珍しいのは、水まきなんかはいつも自分の仕事だからなのだが――。
「ふーふーふーふふふふふふふーん♪」
鼻歌とともに蒔かれる冷たい水に、兎たちがご機嫌に飛び跳ねている。
――背筋が冷たくなるのを鈴仙は感じた。
「鈴仙?」
「……し、師匠がご機嫌だなんて……」
「どうしたの? 何か顔色が――」
傍らの妖夢の心配そうな声も、鈴仙の耳には届かない。
まずい、これはまずい。師匠の機嫌がいいときなんて、まずかなりの確率で自分にとっての死亡フラグだ。おおかた何かの薬の実験台にされるか、もしくは山ほど仕事を押しつけられるか、あるいは姫様が何かやりたいと言い出してそのお守りをさせられるか――。
「ああ、貴女も一緒なのね。いらっしゃい」
「お、お邪魔します」
妖夢に向けて、永琳は微笑みかける。対外用、患者用の慈愛スマイルだ。あれに騙されてはいけない、と思わず隣の妖夢に囁きそうになったけど、聞かれたらますます死亡フラグなので鈴仙はぐっと堪える。
「あの、お師匠さま……」
とはいえ、庭先に棒立ちしていても何も始まらない。神様仏様天照大神様、と祈りつつ、鈴仙はポケットからフレームの折れた眼鏡を取り出した。
「実は、この眼鏡が……その」
「あら、折れちゃったのね。いいわ、直しておいてあげる」
鈴仙の手から眼鏡を取り上げ、永琳はあっさりそう言った。どんなお叱りの言葉が来るかと身構えていた鈴仙は、呆気にとられて永琳の顔を見上げる。
「どうしたの?」
「い、いいえ。すみません、師匠からいただいたものなのに……その」
「いいのよ。私たちもすでに幻想の住人だもの。ものだって壊れるときは壊れるわ。レンズが無事なら大した問題じゃないし、気にしなくていいわよ」
不意に目を細めてそう言った永琳に、鈴仙は目をしばたたかせる。
――師匠が優しい? いったい何が起こっているの?
「それより、そんなところに突っ立っていないで、中にお入りなさいな。お友達も、ね」
「あ、は、はい」
傍らの妖夢の方を視線だけで振り向いて、鈴仙は頭を下げ、――そして、永琳の口にしたその単語を、かみしめるように口の中だけで繰り返した。
――お友達。
「失礼します」
「ごゆっくり」
頭を下げる妖夢に、永琳は含み笑いを返す。
「じゃあ、行こう、妖夢」
「うん」
妖夢の先に立って歩き出しながら、鈴仙は少しのこそばゆさと、小さな戸惑いを一緒くたにして、こっそり息を吐き出した。
◇
「おお? デートなのに随分早く戻ってきたね」
「ただいま。デートじゃないから」
廊下を歩いていると、氷菓子をくわえたてゐが顔を出して何かにやにやと笑っていた。「お邪魔してます」と律儀にお辞儀する妖夢に、「てゐにはいいから」と鈴仙は肩を竦める。
「心配しなくても、鈴仙のお邪魔はしないよ」
「お邪魔って」
にしし、と笑うてゐに、鈴仙はため息ひとつ。と、「あ、そうそう」とてゐはひとつ指を立てて口元に当てた。
「姫様が鈴仙のこと呼んでたよ?」
「姫様が?」
思わず首を傾げる。姫様が何の用だろう。朝から部屋にこもりきりだったはずだが――。
「ごめん妖夢、少し待っててもらえるかな」
「うん、わかった」
座敷に妖夢を案内して、鈴仙は足早に輝夜の私室へ向かった。
輝夜の部屋は、広い永遠亭の最奥部にひっそりとある。鈴仙も、輝夜からの直接の呼びつけか、永琳に頼まれてお茶を届けるのでもない限りは、その部屋に足を踏み入れることはない。
「姫様? 鈴仙です」
ノックをするが、返事は無い。しばし逡巡し、「……失礼します」とそっとドアを開けた。
ぶうーん、と扇風機の回る音。それから、ピコピコと軽快な電子音。黒くて四角い横長の箱を両手で抱えて、輝夜は何か一心不乱に手元を弄くっている。……原稿中ではなかったのか?
「あの、姫様」
「……ん、ああ、鈴仙? どうかした?」
「いえ、お呼びだとてゐから聞きまして」
「あら、別に呼んでないけど」
「あ、そうですか……」
小さく吐息。またてゐに騙されたらしい。何がお邪魔する気は無い、だ。あの兎詐欺め。
「……あの、原稿はよろしいのですか?」
「息抜きよー、息抜き。根を詰めればいいものが書けるわけじゃないもの」
ピコピコ。いつぞや香霖堂で手に入れてきた玩具がたてる軽快な音色。げーむぎあ、とか言ったっけ。静かな部屋の中、扇風機の風を浴びながら遊んでいる姿は、威厳も何もあったものではない。まあ、この姫様に限って言えばいつものことではあるのだが。
「すみません、失礼しました」
「――あ、あー! 電池がー!」
鈴仙がぺこりと頭を下げると、輝夜はげーむぎあに向かって何か悲鳴をあげた。そしてため息をついてそれを放り出すと、出ていこうとした鈴仙の背中に「あ、そうね」と声をかける。
「はい?」
「鈴仙、ちょっとモデルにならない?」
「……は?」
◇
殺陣のシーンがうまく書けなくてねえ、と輝夜は言った。
何でも、稗田出版が発行している文芸誌『幻想演義』から、最近流行の剣豪小説で短編の依頼があったそうな。それで数日いろいろと調べながら書いていたが、どうにも肝心の殺陣に躍動感が生まれないのだという。
「私はほら、刀なんて物騒なもの持ったことないし。永琳は弓使いだし、妹紅も得物は使わないから。いまいち剣戟ってものがうまくイメージできなくて」
「……はあ」
そんなわけで差し出されたのは木刀だった。刀なんて持ったことないと言いながら、なんでこんなものが出てくるのか――というのは突っ込むだけ野暮なのだろう。
「月では兵隊やってたんでしょ? こういう得物の使い方も教わってるわよね?」
「――もう数十年前のことですから、自信は無いですけど」
小さな苦みを噛み潰しつつ、鈴仙は苦笑してそう答える。確かに月にいた頃の訓練では、こういう得物を手にしての格闘も経験したけれど――できれば、それはあまり思い出したくない思い出だったから。
「部屋の中じゃ危ないわねえ。庭に出ましょうか」
ぽん、と輝夜が手を叩き、そこで鈴仙ははっと思い出す。そうだ、妖夢を待たせっぱなしだ。しかし姫様の頼みを断るわけにも――と考えて、「あ」と声をあげる。
「あら、どうかした?」
「姫様。剣戟のモデルなら、私よりもっと適任なのが、今ここに」
鈴仙の言葉に、輝夜は不思議そうに首を傾げた。
そんなわけで。
「モデル……ですか?」
「そうそう、よろしくね」
庭に連れ出された妖夢は、縁側に正座して麦茶を飲む輝夜の姿に、はあ、と首を傾げた。
「ごめんね、妖夢」
「ううん、別に……ていうか、禁止じゃなかったの?」
「あ」
口をふさいで、鈴仙はたはは、と苦笑する。自分から言い出しておいてさっそくこれだ。どうにもこうにも、謝りぐせが身にしみこみすぎている。
「……あれ、あのときの月の姫様だよね?」
「うん、そうだよ。輝夜様」
小声で訪ねてきた妖夢に、鈴仙は頷く。
妖夢が輝夜と直接顔を合わせたのは、永夜異変のとき以来のはずだ。輝夜は基本的に滅多に竹林の外には出ないし、妖夢がここに訪ねてくることも無いわけだから当然である。あるとすればせいぜい紅魔館のパーティぐらいだろうが、直接話したことがあるとも思えない。
「なんか……イメージが。異変のときはもうちょっとこう、なんというか、その」
「威厳があった?」
こくりと妖夢は頷いた。鈴仙は苦笑する。
「まあ、わりと普段はあんな感じだよ、うちの姫様は」
「はあ……ところで、モデルって何の?」
「あ、姫様の小説」
「小説?」
妖夢は目をしばたたかせた。あれ、知らなかったのか。鈴仙は少し意外に思うが、そういえば輝夜はペンネームを使っていて、本には本名を載せていない。鈴仙はもちろん身内だから知っていたが、そうでなければ読んでいても輝夜だとは知り得ないかもしれない。
「妖夢は読んだことない? 『時の密室』とか『あの月の向こうがわ』とか」
「……え? え、え? それって、永月夜姫のこと?」
「そうだよ。うちの姫様のペンネーム」
「えええええええええええっ!?」
素っ頓狂な声をあげて、妖夢はわたわたと視線をさまよわせた。
「永月夜姫先生、だったんですか」
「あら、私の本読んでくれてたの?」
「ふぁっ、ファンです! 『あの月の向こうがわ』、本当に面白くて、何回も読み返しました! あ、ええと、さっ、サインください」
「うれしいこと言ってくれるじゃない。でもサインは後でね。今はモデルお願いするわ」
「はっ、はい!」
びしっと背筋を伸ばして、妖夢は輝夜に一礼する。その姿を鈴仙は半ば呆気にとられながら見つめた。まさか妖夢がうちの姫様の本のファンだったとは。本当、幻想郷は狭い。
「ええと、それでモデルとはどんな……?」
「そうねえ。自分と同じぐらいの腕前の相手がいるとして、一撃で仕留めるならどう考えてどう動くか。それを見せてほしいのよ。あ、刀は長い方だけでいいわよ」
「一撃、ですか」
「ただ相手を殺すだけなら、一太刀あれば十分でしょう? 私や妹紅ならともかく、三寸斬りこめば人間は死ぬし、妖怪だって殺せなくはないわ」
「……そうですね。真の剣豪ならば立ち会いは一太刀で決まる、何合も斬り結ぶのは互いが未熟である証と、祖父も言っていました」
感心して頷く妖夢に、「でしょう?」と輝夜は得意げに笑う。
――姫様のことだから、単純に殺陣シーンを長く書くのが面倒くさいだけなんじゃ?
鈴仙はそう思ったけれど、口には出さないでおいた。
◇
「お、おお、来たわ、びびびっと!」
妖夢が虚空へ刀を振るい続けること小一時間。唐突にそんな声をあげ、輝夜は立ち上がった。
「これよ、これなら書ける! ふふふ、負けないわよもこたん……! あ、ありがとうねー」
こちらの反応も待たず、輝夜は小走りに(と言っても歩くのと大して変わらない速度だが)部屋へ戻っていく。庭からそれを見送り、鈴仙は小さく肩を竦めた。まあ解ってたが、いつも通り姫様はマイペースである。
「……ええと、終わりでいいの?」
「あ、うん。お疲れ様、妖夢。ごめ……ありがとう、ね」
禁止だったことを思い出して、言い直しながら鈴仙は笑った。妖夢は刀を鞘に仕舞うと、「ううん、こっちこそいい勉強になったから、ありがとう」と頭を下げた。
「そういうもの?」
「うん。自分のイメージをきちんと伝えるのって、動作でも文章でも大変だよね。……でも、私の未熟な剣なんかで本当に良かったのかなぁ」
「そうかな、格好良かったと思うけど」
まるで誰かと対峙しているような張り詰めた気配を纏い、虚空に刃を振るう妖夢の姿は、人里を歩いているときの頼りなげな様子とは打って変わって、凛と背筋が伸びていた。幼い顔立ちに浮かぶ、あどけなさと凛々しさが同居した真剣な表情。それが、魂魄妖夢という剣士の本来の姿なのだろう。その姿を鈴仙は、素直に格好いいと思った。
「え? い、いや、全然そんなことは」
けれど、今はその凛々しさもどこへやら、妖夢はまた顔を赤くして首を振る。
「だ、だいいち、剣は見た目で振るうものじゃないから。強さと格好良さは別だよ」
「……強さ、かあ」
妖夢の幼い体躯にはいささか不釣り合いな長剣。それを振るって戦う妖夢の求める強さ。
――ふと、『辻斬り双剣伝』のクライマックスを思い出した。
我が身は半人半霊。人に非ず、霊に非ざる半端物。
されど半ばなる人の身にも、半ばなる霊の身にも、《忠》の心は一。
なれば、半と半の意志は、一ではなく弐たり得るのだ。
故に、魂魄妖忌は折れぬ。挫けぬ。決して敗れぬ。
「――未来永劫斬ッ」
あの作品の主人公がそうであるように、妖夢がその手に刃を持って戦うのも、やはり主のためなのだろう。西行寺幽々子という、冥界の姫のため。
それがきっと、妖夢にとっては当たり前なのだ。
「ふたりとも、いつまでもそんなところに突っ立ってないで、中でお茶でもどう?」
と、縁側から今度は永琳の声。振り返ると、お盆に麦茶を載せて永琳が微笑んでいる。
――だからお師匠様、なんで今日はそんなにご機嫌なんですか。
「鈴仙?」
その笑みを素直に受け取れない鈴仙が、ひとり冷や汗をかいているのを、妖夢が不思議そうに見つめていた。
◇
「でも、まさか永月夜姫先生がこんなところにいたなんて……ああ、びっくりした」
座敷で麦茶に口を付けながら、妖夢は呟く。その言葉に、鈴仙は曖昧に苦笑した。
あの姫様に《先生》なんて敬称がつけられているのが、何とも不思議な感じだった。もちろん永月作品の読者からすれば、その作者当人は当然敬意の対象なのだろうけども、普段の威厳の無い姫様を見慣れてしまった身としては――いやいや、鈴仙も主として相応に敬意は払っているけれども、もちろん。
「今姫様が書いてるのは、次の『幻想演義』に載る短編よ。良ければ、よろしくね」
「あっ、はい! 必ず読みます!」
永琳の言葉に、妖夢は力強く頷く。その横顔を身ながら、今日の師匠はひょっとして、本当に特に何の裏もなく、ただ機嫌がいいだけなのではないだろうか、と鈴仙は思った。
永琳が常に一番に気に掛けるのは、主たる輝夜のことである。
永遠亭が他者と交流を持つようになってから、輝夜はしばしば何事か、自分のやりたいことを探そうとするようになった。たとえばそれは盆栽だったり、万象展の主催だったりしたわけで、それに付き合わされるのは主に鈴仙たちだったわけだが――。
そんな輝夜がここのところ熱心なのが、小説を書くことである。
元々、積年の宿敵であるところの藤原妹紅が、稗田出版から声をかけられて小説を書き始めたと聞いて、それへの対抗心で始めたのが最初だったはずだ。しかし、何だかんだ言っても月の姫である輝夜は(少々偏っているとはいえ)教養はあるし、文才もあった。何より執筆という極めて個人的な生産行為は、永琳いわく元々引きこもりがちだった輝夜の性に合っていたのだろう。
輝夜の第一作『時の密室』は、妹紅の第一作『百万回目の死』とともに稗田出版から発行され、売上でも評価でもほぼ互角だった。それ以降、輝夜と妹紅は普段の殺し合い以外にも、小説の売上と評価で常にしのぎを削っている。
「あらウドンゲ、どうかした?」
「い、いいえ」
視線に気付いたか振り返った永琳に、鈴仙は首を振る。
そういえば、『あの月の向こうがわ』を輝夜が書いていた時期も、永琳は妙に優しかったっけ。――輝夜に「やりたいことを探しなさい」と言ったのは永琳のはずだ。その輝夜が執筆という「やりたいこと」を見つけて、それに集中しているということが、永琳には嬉しいのかもしれない。
「……姫様、ずっと原稿書いててくれないかなぁ」
「何か言った?」
「いえ、何でもないです……」
いつも師匠がこのぐらい優しくしてくれれば……高望みは止めよう、叶わぬ夢だ。
こっそりため息をついて、鈴仙も麦茶を口にした。脳天気な冷たさが歯茎に滲みる。
「さて、と」
と、永琳が立ち上がる。見上げると、どこか意地の悪い笑みを浮かべて永琳は、
「それじゃあ、後は若いふたりに任せましょうか」
「……は?」
「ごゆっくりね」
そんなことを言い残し、さっさと座敷を出て行ってしまう。
残されるのは鈴仙と妖夢のふたりきり。襖が閉ざされると、何とも言い難い沈黙が落ちた。
何か急に、現実に引き戻されたような気分になる。
――な、なんでこんなに気まずいんだろう。
ちらりと妖夢の方を伺う。妖夢も何か落ち着かなさそうに正座した足を組み替えていた。
座卓を挟んでふたり向き合い、――何か話を切り出そうとは思うのだけれども、さりとて何を話そうか、咄嗟に話題が思い浮かばない。おかしい、人里を並んで歩いていたときはもう少しこう、自然に話せていたはずなのに。
「あっ」「えっと」
それでも沈黙に耐えきれず、何か言おうとして、その声がものの見事に重なった。
――何を、こっ恥ずかしい恋愛小説みたいなことをしているのだ、自分。
「れ、鈴仙から、どうぞ」
「いや、大したことじゃないから、妖夢から……」
「私も、た、大したことじゃ……」
会話が続かない。歯車が完全にずれてしまっている。どうしてこうなったのか――。
ごほん、と無理矢理、わざとらしく鈴仙は咳払い。とかく、沈黙はよくない、沈黙は。
自分の方から話を切り出さないと。ここは永遠亭、自分の家なのだから。
「あのさ、妖夢」
「う、うん」
妖夢が顔を上げた。目が合った。
ばっちり、真正面から視線が交錯した。
妖夢の深い藍色の瞳に、鈴仙の赤い瞳が映り込んでいた。
――妖夢の瞳が、染み渡るように赤く染まった。
「あわ、ぁあっ?」
変な声をあげて、ふらふらと妖夢は上半身を揺らし、がっくりと前に倒れ込む。
「よ、妖夢ー!」
慌ててその肩を抱きかかえて、鈴仙は半ば悲鳴をあげた。
4
「妖夢、本当に大丈夫?」
「うん、まあ、なんとか……」
まだ少しくらくらするのか、眉間を押さえながら妖夢は答える。短時間とはいえ、鈴仙の狂気の眼を直視してしまったことには変わりない。大丈夫かなぁ、と鈴仙は、無事に直った眼鏡の奥で眼を細めた。
狂気の眼の影響力には個人差がある。永琳によれば、感受性が強いほど影響を受けやすいのだそうだ。だから幼い子供ほど影響を受けやすい。いや、妖夢が子供っぽいという意味ではないけれども……。
「白玉楼まで送っていこうか?」
「だ、大丈夫。ひとりで帰れるから、うん」
首を振る妖夢の言葉に、少し残念さを感じている自分に気づいて、鈴仙はなんとなしに眼鏡の位置を直した。
頭上を見上げる。鬱蒼とした竹林に差し込む陽の光は、すでにオレンジ色に染まろうとしていた。もうすぐ日が暮れて、夜が来る。晩ご飯の時間まで、と妖夢は言っていたのだから、ここでお別れなのは仕方ないのだけれど。
ふと、会話が途切れる。何か言おうと思うけれど、やっぱり言うべき言葉が思いつかない。妖夢はどう思っているのだろう? 自分と同じように、今のこの時間を名残惜しいと、そう思ってくれているのだろうか――。
そうしているうちに、竹林の出口が見えてくる。視界が開け、オレンジ色に染まった夕焼け空が頭上に広がった。カラスが数羽、どこか間抜けな鳴き声を残して黒く空を横切っていく。
「それじゃあ、ここまで、かな」
「うん。……今日は、ありがとう、鈴仙」
くるりとこちらを振り向いて、妖夢は笑った。
「なんていうんだろう、ええと……楽しかった」
刀にひっかけていた麦わら帽子を手にとって、妖夢は被ってみせる。
「そっか。私も、楽しかったよ」
――口にして、実感する。楽しかったのだ、と。
妖夢と肩を並べて歩いた時間も。言葉を交わしたことも。いくつも見た、妖夢の知らない表情も。全部をひっくるめて、妖夢と一緒に過ごしたこの半日は、本当に楽しかったから。
だから、名残惜しいんだ。
楽しかった時間は、あっと言う間に終わってしまうものだから。
「妖夢」「鈴仙」
声がまた重なった。お互いに目を見開いて、そして吹き出す。
くすぐったい時間と、くすぐったい会話。
その全部が、今は心地よかった。
「ねえ、今度お休みもらえたら――いつになるかわからないけど、白玉楼に遊びに行ってもいい?」
「え? う、うん。遠いけど……うん、歓迎するよ」
「じゃあ、そのうちね」
そうして、交わすのは約束だ。
こんな時間を、また過ごそうという約束。
過ごしたいという気持ちを、伝える言葉。
「じゃあ、またね。次は、運が良ければ人里かな?」
「うん、また。……ばいばい、鈴仙」
「ばいばい、妖夢」
手を振り合い、そうして踵を返して駆け出す妖夢。少しの寂寥を覚えながら、その背中を見送っていると――不意に、背後の茂みががさがさと音をたてた。
「あ」
「……って、なんで姫様までここにいるんですか」
振り返ると、てゐとウサギたちと、なぜか輝夜が茂みからこちらを覗いていた。
「それはもちろん、うちのイナバに悪い虫がついていないかを確かめによ。ああ私ったらペット思いの優しい主」
「自分で言わないでください。というか悪い虫って」
「だってデートしてたんじゃん?」
「デートじゃないから」
いやデートだよねー、ねー、とウサギと言い合うてゐに、鈴仙はため息。
「というか姫様、原稿はいいんですか?」
「そりゃもう、息抜きよー」
「またですか」
「だって気になるじゃない。あの鈴仙に友達ができたなんて言われたら、ねえ」
首を傾げてみせる輝夜に、鈴仙は目をしばたたかせた。
「……私、そんなに友達いなさそうに見えますか」
「というか、事実いなかったじゃん」
てゐに言い返されて、ぐ、と鈴仙は言葉に詰まる。
確かにそうだ。永遠亭が外との交流を絶っていた頃ならともかく、外と普通に関わるようになり、幻想郷内のあちこちに出歩くようになった今も――友達、と言えるほど親しい相手を、永遠亭の外に作ってはこなかった。
知り合う者は多くいても、自分は――。
「月にいた頃から、友達いなかったのかしら?」
――胸の奥が、小さく疼いた。
「そんなこと、ないですってば。……ちゃんといましたよ、月にも」
ともだち、は。
……その四文字を口にする資格なんて、きっと自分には無いのだ。
そんな思考をごまかすように、鈴仙はただ、いつものように曖昧に笑った。
5
月が、ぽっかりと夜空に浮かんでいる。
遠く遠く、彼方にある、かつて自分が暮らしていた場所。
それは、故郷と呼ぶべきなのだろうけれど。
今の自分には、その光は少し遠すぎる。
「……あら、どうしたの? ウドンゲ」
「お師匠様」
縁側からぼんやりと月を見上げていた鈴仙は、かけられた永琳の声に振り返った。
「故郷が懐かしくなった?」
「……いえ、そんなことは」
首を振る。……この気持ちはきっと、望郷とか郷愁なんて、綺麗な言葉じゃない。
ため息は小さく、夜空に溶けて消えていく。
いつ以来だろう。こんな気持ちで月を見上げるのは。
ここしばらく、月でのことを思い出すなんてほとんど無かったのに。
「あの、お師匠様」
「なに?」
「……今日は、お休み、ありがとうございました」
思考を振り払うようにして、鈴仙がぺこりと頭を下げると、「あらあら」と永琳は頬に手を当てて微笑む。
「いいのよ。今日の分は明日からまたしっかり働いてもらうから」
「はい」
まあ、それは解っていたことだ。苦笑して、それからひとつ気になることを思い出した。数日前のことだが、何となく聞きそびれていたあれだ。
「お師匠様。そういえばこの前、妖夢の運んできた白玉楼からの手紙って、何だったんですか?」
白玉楼の主が何かこちらに求めてきたのなら、それについて何か言いつけられるものだとばかり思っていたのだが、あれから数日、特にそんな動きもない。かといって、西行寺幽々子と永琳が、私信を交わすような間柄というわけでもないはずだ。
尋ねてから、さすがに差し出がましかったかな、と鈴仙は思う。永琳が何か自分の知らないところで動いているのはいつものことだし、それは自分の知るべきでないことも多い。永琳が何も言わないということは、やっぱり特に自分が知るべきでもないのかもしれない。
「ああ、あれ。あれはね――内緒、よ」
口元に指をあてて、永琳はいたずらっぽく笑った。
予想通りの師匠の言葉に、鈴仙はただ苦笑して頷いた。
◇
「おやすみー、鈴仙」
「はいはい、おやすみ」
ウサギたちとともに、ばたばたと駆けていくてゐたちを見送り、鈴仙も自室へ戻る。
布団の上に倒れ込んで、大きく息を吐き出し、ごろりと天井を見上げた。
働きづめか、誰かに振り回されっぱなしの普段の一日とは、少し違う一日が終わる。
与えられたのは自分の時間。一緒に過ごしたのは――魂魄妖夢という少女。
楽しかった。幸せだった。また、妖夢に会いたいとそう思った。
――それは、妖夢が自分の友達だから?
「友達……なのかな」
呟いたところで、答えてくれる声などあるはずもない。
むくりと起きあがり、鈴仙は本棚に歩み寄った。そんなに多くもない冊数の本が並ぶ中に、この前読んだ『辻斬り双剣伝』がある。それを取り出そうとして、――隣にあった別の本が、一緒にばさばさと床に落ちた。
「あっ」
あちゃあ、と頭を掻いて、鈴仙は落ちた本を拾い上げようとして、
――その中にあった一冊に、その手が止まった。
輝夜の本、『あの月の向こうがわ』の下に隠れるように落ちていた、古びた薄い文庫本。
あまりにも見慣れたその表紙。――自分がたったひとつだけ、月から持ってきたもの。
主が気まぐれにくれた、地上の本。子供向けの読み物。
それを拾い上げて、鈴仙はページを捲る。何度も何度も読んだ文章が、目の前に現れる。
いくつもの短い物語の収められた中の一編。「野ばら」と題された、そのお話。
冬は、やはりその国にもあったのです。寒くなると老人は、南の方を恋しがりました。
その方には、せがれや、孫が住んでいました。
「早く、暇をもらって帰りたいものだ」と、老人はいいました。
「あなたがお帰りになれば、知らぬ人がかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ならいいが、敵、味方というような考えをもった人だと困ります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春がきます」と、青年はいいました。
本を閉じた。本棚の奥に押し込んだ。そのまま、もう一度布団の上に倒れ込んだ。
枕に顔を押しつけて、ぎゅっと目を閉じる。暗闇はしかし、眠りにはまだ遠く。
そうだ。あの月の向こうがわに自分が残してきたのは、郷愁なんて美しいものじゃない。
自分に対して、笑いかけてくれた彼女がいた。
いつだって手を引いてくれる、彼女がそこにいたのに。
――自分はそれを捨てて、捨てたことも忘れかけて、今ここにいる。
冷たいのはきっと、自分の手ではなく、心なのだ。
「……どうすれば、あんな風に、なれるのかな」
それは例えば、輝夜に永遠の忠誠を誓う永琳のように。
あるいは――西行寺幽々子を守るために自分は在るのだと言う、妖夢のように。
一途に大切なものを、持ち続けることができるのだろう。
「私、は――」
地上から見えるのはいつだって、光り輝く月のこちらがわだけ。
その裏に、光の当たらない暗い向こうがわがあることを、皆が忘れている。
――その裏側を知ったとき、彼女は鈴仙・優曇華院・イナバという兎を、どう思うのだろう。
魂魄妖夢。あの素直で、真面目で、一途な彼女は、月のイナバの裏側を――。
ぎゅっと目を閉じた。そうすることで眠りに逃げられると、自分に言い聞かせて。
今日は楽しかったのだ。地上に来てから指折りの、本当に楽しい一日だったのだ。
だから、楽しかった気持ちのままに、眠ってしまいたかった。
妖夢の顔を思い浮かべて、タオルケットを抱きしめて、鈴仙は部屋の灯りを落とした。
冴え冴えとした蒼白い月の光だけが、静かに一匹のウサギを朧に照らしていた。
<第3話へつづく>
作中の引用はそれぞれ、
小川未明『小川未明童話集』(新潮文庫)
大橋もみじ『白狼の咆吼』(鴉天狗出版部)
魂魄妖夢『辻斬り双剣伝』(白玉書店)
によった。
永遠亭のメンツがなんかよかったです。
鈴仙に友達ができて浮き浮きしてる保護者な永琳とか、なんだかんだで鈴仙のことを気にかけてる姫様とか、もちろん、てゐもですが。
あたたかい雰囲気が漂っていて楽しめました。
続きを気長に楽しみに待たせていただきます。
二人で手を重ねるシーンとかすごい微笑ましかったです。
ちょくちょく色んなキャラが登場するのがなんかいいなー、ご機嫌な永琳とか良かった。
あと、所々で出てくる劇中小説がすごい!
「友達」という言葉で意識し始めて、ここから二人の心がどう変化していくのかがとても楽しみです。
早く続きが見たいー!
これはほんとに続きが楽しみ!
頑張ってください!
でも、作中作の白狼の咆吼のほうが気になってしまう・・・
鴉天狗出版部の罠。
一つ、誤字? といいますか、
最初輝夜が「げーむぎあ」で遊んでいたとなっていますが、
電池切れした後には「げーむぼーい」と言っています。
気になったので一応報告させていただきます
次回も楽しみにしています
作中創作本と外の世界の本がいっしょになって紹介されてる様が素晴らしくシュールだw
続きが楽しみー
何かこう、読んでるだけで楽しくなってきてしまう。
次回、楽しみに待ってます。
みんないいキャラしてました
おもしろかったです。
続きをめっさ楽しみにしてます
文庫ネタが豊富で、読んでいて退屈しません。どんどん引き込まれていきます。
個人的には、うどんげの事を大切に思ってる永遠亭の面々がツボ……浅木原さんの作品って、脇を飾るキャラまで魅力的なんですよね。
続き、いつまでも待ってますよー。紅楼夢の原稿の合間に、コツコツと進めて下さいまし。
自分は読むの遅いのですが、その分時間かけて読ませていただいてます。続きも楽しみにしています。
>まりにも見慣れたその表紙
脱字かな。「あまりにも」の間違いかと。
全然長さを感じませんでした。
アッと言う間に読み終えてしまった。
第3話も楽しみにしてます。
なんだか、ずっとこの世界が続きそうな、そんな安定感を感じます。
あれ、この物語に結末はあるのでしょうか?などという疑問もちょっとわきました。
二人の姿が微笑ましい。
作中に引用されている「野ばら」と鈴仙の抱えている傷が今後気になるところであります。