Coolier - 新生・東方創想話

いつかまた紅魔館で逢いましょう、そしてただいまを

2012/09/15 02:16:06
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歴史?
何が歴史だ
私が歴史を創るのだ
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序章 夜は降りて

幻想郷の人里離れた森の奥まったところに、龍神はいた。
時刻は深更、つい先ほど、草木が眠りについたところである。
人眼を避ける様に、時折立ち止まっては、辺りを見回し、何も感じないと分かると、ほっと息を吐く。
ほぉ、ほぉ、と鳴く、夜の森の住人が立てる声に、肩をびくつかせながら、ゆっくりと歩を進める。
湿った夜気が、全身に纏わり付いて、それが足を鈍くするのだ。
「すまねぇな、すまねぇな」
――許してくれよぉ、怨まんでくれよぉ、と何者かに許しを乞う様に、そう呟く。
「心の優しい妖怪にでも、拾って貰ってくれよぉ」
なんまんだぶ、なんまんだぶ、暗い森に、しわがれた声が響いた。
「あいつら、新し物好きだからな、大丈夫、好奇心旺盛な誰かだ拾ってくれるだぁよ」
己に言い聞かす様に、そう告げる。
そして、背負って来たソレを、捨てるが如く、乱雑に降ろすと、さっと逃げる様にその場を去って行った。



第一章 紅魔館、大食堂にて

「――そもそもね、牛乳なんて、魔女であるこの私が飲む物じゃないのよ」

幻想郷内で牛乳に関わる仕事をしている人妖達が、聞いたら即倒しそうな台詞を調子外れな声色で、魔女様が撒くし立てている。
彼女はどうやら、かなりご機嫌斜めな様だ。
先程から、この会話をしたくて堪らないらしい。
目の前に並べられている生姜焼き定食にも、一切、手を付けていない。
食堂のおばちゃんが手に拠りを掛けて作ってくれる、本日の定食である。
彼女が作る料理はどれも絶品であり、それを是非一度味わおうと、紅魔館以外からも、大勢の人妖が集って来るのだ。
更に、彼女の卓越した料理の腕前で、レミリア達は血を摂取する必要が無くなり、捨食の法を行ったパチュリーも再び、食事をとる喜びを手に入れていた。
だから、フランも、今では地下室での引きこもり生活を捨て、共に紅魔館で暮らしていると言う事は、とても喜ばしい事であった。
紅魔館の住人は、皆、食堂のおばちゃんに感謝していた。
そして、その彼女の作る料理の中で、一番人気が、この生姜焼き定食なのだ。
生姜焼き定食は、普段からメニューに入っているのだが、本日の定食になると、いつもよりも100円安くなるのだ。
だから、周りを見渡しても食堂内、その席の殆ど占める妖精メイド達も、本日の定食を食べている。
それにしても、配膳されてからだいぶ経っている様に思えるが、果たして彼女は食べないのだろうか?
味噌汁など、とっくに冷めてしまっているんじゃ無いだろうかと、余計な心配をしてしまう。
牛乳の権利を貶めようとしている魔女様は、紅魔館に設置されたる大図書館の主にて、日陰の喘息少女ことパチュリー・ノーレッジである。
その向かいに座りたるは、彼女の親友である、十六夜咲夜だ。

「私が牛乳なんて、飲む必要無い、貴女もそう思うでしょう?」
「うん、そうだな――」
と、たまに相槌を入れながら真剣に話しに聞き入っている様を装うが、それは理解している事を表していると言うよりは、早くこの会話を終わらせたいが為の仕草なのだ。
その証拠に咲夜はとっくに生姜焼き定食を食べ終えているし、今はデザートのショートケーキを平然と平らげていく、目の前の彼女とは対称的に、だ。
もう、この会話は止めようと言う、咲夜からの無言の提案。
だが、パチュリーに、その思いは通じなかったみたいである。
「牛乳が、牛乳が」、と相も変わらず、大声を出している。
パチュリーがドン、と机を叩いて少し表情を歪めた。
咲夜があまりに反応しないので、自分の声が聞こえていなのかと思い、注意を促したのだ。
そして、そのまま更に声を張り上げる、そうでもしなければ自分の声が届かないかの様に。
そう、確かに少し声のトーンを上げなければ聞こえ辛い、と言うのも事実であるかもしれない。
今、彼女達が食事をしているのは紅魔館内にある大食堂だ。
この館の住人全て、主従に関係無く、お昼の時間になれば集う、憩いの場である。
まぁ、お昼と言っても紅魔館にとっての昼時は真夜中である。
であるが、お昼と言う、休み時間である事に変わりは無い。
黄昏時からの疲れを一旦癒し、夜明けの終業までの気力を養う、大切な時間である。
その一日の内の貴重な時間滞を、パチュリーの意味不明な牛乳談義によって、無駄に消費していると言うのが、咲夜の現在置かれている状況である。
窓の外には例年通りに、湿って暑苦しい八月の夜空がその姿を晒している。
その暑さから逃げる様に、また新たな妖精メイド達が走り込んで来る。
蒸された外気に触れて、瞬間、一気に窓が曇った。
丁度お昼時である為に、食堂の中は昼食をとろうとする従業員達でごった返えしている。
食堂の中は声が幾重にも重なり合い、皆でひとつの詠唱でもしている様で、どこか不気味だ。
とても日本語だとは思えない。

それでも、パチュリーの上げた声が些か大きすぎたのか、机を叩いた衝撃からなのか、彼女達の隣に座っている妖精メイド達のグループが食事もそこそこに、目も合わせずそそくさと出て行ってしまった。
あぁ、悪い事をしてしまった、あの子達だって、もう少しゆっくりして行きたかっただろうに。
きっとこれから、影で私達の悪口合戦が始まるのだろう。
そう思うと、何だか咲夜は、更に憂鬱になってしまう。
でもな、分かってくれ、パチュリーだって別に悪気は無いんだ、ちょっと発言には電波が含まれているかもしれないが、唯の肝心な所でいつも抜けている、魔女なだけなんだ。
まぁ、確かに悪気は無いんだが、魔法薬か何かを混ぜては、たまに紅魔館を爆発させている事実は消えようも無く、それを妖精メイド達が警戒すると言うのも充分に理解出来る。
誰だって余計な被害は蒙りたく無いだろう。
まさか妖精メイド達だって、この場でパチュリーが何かを爆発させる等と言う事は考えていないだろうが、一応、念の為である。
注意しないと、パチュリーはいつか、取り返しの付かない、大規模な爆発でも起こして、紅魔館どころか、幻想郷自体を危険な目に合わすかもしれない。
そんな事を考えながら、何となく視線をパチュリーから外すと、視界に美鈴とフラン様が入った。
窓際の特等席である、あそこの席は人気があるから、少し早めに食堂に来て陣取っていたのだろう。
すでに食事を終えて、今は仲睦まじく、ひとつのグラスに注がれたいちごミルクを二人で啜っている。
なんて、幸せそうな光景だろうか。
今夜は私も向こうに行くべきだったかな、と思っていると、またパチュリーから声が掛かった。

「ねぇ、聞いてるの、咲夜?」
「――しっかりと聞いてるよ、要するにあれだろ、パチュリーは牛乳が嫌いって事だろう? まぁそんな事より飯を食っちまえよ、早くしないとお昼休みが終わっちゃうぞ」
パチュリーは、彼女の言葉に何か感得する事でもあったのか、呆れたように口をパクパクさせている。
何だかパチュリー、金魚みたいだな、と咲夜は思った。
「咲夜――、貴女、本当に私の話を聞いていたの?」
「聞いてたさ」
「嘘ばっかり、私は一言も牛乳が嫌いなんて言っていないじゃないの、このすっとこどっこい不良時計。だいたい貴女は普段から注意力が足りていないんじゃないかしら。今だって財布を部屋に忘れてきているじゃないの、すぐ近くにあるんだから、取りに行けばいいのに」
「いや、面倒臭いだろう」
普段は瀟洒を演じてるんだから、こんな時ぐらいだらけさせてくれよ。
「ほらね、注意力が足りないだけでなく、面倒臭さがりと来たもんよ、呆れるわ。とにかく、そのショートケーキは奢りじゃないからね、後でちゃんと代金三倍で返してよ」
と、箸で、生クリームいっぱいのところを何気ない顔でさらって行く。
ペロりと舐めると、パチュリーは微笑んだ。
「ちくしょうッ、最後までとっておいた部分なのに!」
咲夜はあまりのショックで、思わず声を荒げてしまう。
彼女が立ち上がった衝撃で、ガタリと椅子が倒れた。
だが、それに構う事無く、パチュリーは容赦無くスポンジを切り崩していく。
「な、何考えてんだお前ッ、あわわわ、何て事を、私の大事なところをよくも!」
ぐっと、唇を噛み締めた咲夜は、もう今にも泣き出しそうだ。
「注意力が無いから、こう言う事になるのよ」
ふふん、と涼しい顔で、そう咲夜に返す。
「鬼ッ、悪魔ッ、人で無しッ」
「そ、そこまで言われる筋合いは無いわよ、酷いわ咲夜ッ、だいたいそれだって私のお金で買ったものじゃ無い!」
と、パチュリーも目の端に雫を溜めて反論する。
「もう一回、金貸してくれパチュリー」
「――幾らよ」
「もう一個、ケーキ買ってくる」
ふん、と不貞腐れながらも〈げろげろすわっぴ〉が刺繍された財布を取り出すと、パチュリーは、はいと、札を差し出した。
礼を言って、それを受け取ると咲夜は席を立って、ガラスケースの中に陳列されたケーキ達を眺め始めた。
どれにしようか、迷っていると、その向こうで不安そうにトレーを携え立ち竦む、レミリアお嬢様が眼に入った。
おろおろと、頼り無下げに、食堂の中をふらふらと彷徨っている様である。
その姿はまるで、亡霊か幽鬼かと思える程に、ぼんやりとした佇まいである。
その手の中には、生姜焼き定食が虚しそうに湯気を立てていた。
飾る事無き、正真正銘の茫然自失、それが今のレミリアを形容するに最も相応しいだろう。
そう、あれは考えうる限り、最悪の状態。
中途半端な時間に食堂に入った為、席が空いていないのだ。
それを確認する前に、意気揚揚と食事だけ先に購入してしまったのだ。
さぁ、楽しみの食事だと、意気込んだところで、慈悲無き現実が叩きつけられたのだ。
正確に言えば、空いている席はある。
つまり、いくつかに分かれている妖精メイド達のグループとグループの間に、飛び石の様に、ぽつぽつと、無造作に空いているに過ぎない。
それは、その間に入るしか席に座れぬ事を現わしていた。
だが、誇り高きレミリアが、そんな風に座れる訳が無いのだ、グループとグループの楽しげな喧騒の間に独りぼっち、無言で食事をするなど、いくら吸血鬼で貴族であっても、そんな勇気は無い。
ただでさえ、彼女は口が小さいので、食事に時間が掛るのだ。
屈辱を耐え忍ぶ時間は、あまりに長い。
それが理解出来ているからこそ、レミリアはトレーを抱えたまま、頼り無い足取りで食堂を彷徨っているのだ。
だいたい、お昼を過ごすのはこの食堂しか無いのだ、外は連日の熱帯夜であり、この館で唯一冷房があるのはここだけなのだから、当然だ。
だが、きょろきょろと、まだしばらくは空く筈の無い席を探すレミリアの姿は、何故か郷愁を誘う。
これからはせめて、席が空いているかちゃんと確認してから、食券を交換する様に、レミリアお嬢様には後できつく言っておかなければ。
咲夜はそれを、そっと頭の中にメモした。
あぁ、それに気付いた妖精メイド達が、鞄や荷物をどかしたり、手許に引き寄せたりして、席を空けている。
そうだ、紅魔館の主である、そのお方が席を探していらっしゃるのだ、だから妖精メイド達は完璧な仕事をしているに過ぎない。
主の為に席を空ける、何て素敵な事だろうか。
だけど、駄目なのだ、それでは余計に惨めな思いを知るだけなのだ。
レミリア・スカーレットと言う、孤高が、嫌でも浮き彫りになるのだ。
だからレミリアは、妖精メイド達のその気遣いを、何とか口笛で遣り過ごす。
――よしッ、出た、私は気付いていませんよアピール!
あれは、己の自尊心を傷付ける事無く、妖精メイド達に対しても余計な心労が掛からぬ様に配慮する、カリスマのみに許された王の証。
素晴らしい、レミリアお嬢様!
咲夜は心の中で主を湛える為の拍手を贈った。
って言うか、たしか私達の席の横が空いてたよな、あぁ、レミリアお嬢様は背が小さいので奥の方の席に座る私達や美鈴達にも気付いていないのだ、そこまで見えないのだ。
そう理解した、咲夜はレミリアの元へと向かおうとしたが、それを中断せざるを得なかった。
「咲夜、買ったら、さっさと帰って来なさいよ、利子五倍にするわよッ」
と、パチュリーが吠えているのだ。
あぁ恐ろしい、きっと、戻ったらすぐにでも私を相手に牛乳談義の続きをするつもりなのだ。
咲夜は先程と同じショートケーキをレジに持って行くと、手早く会計を済ませ、席へと戻った。
申し訳ございません、レミリアお嬢様、この十六夜咲夜、今月は財政事情が厳しいのです。
利子五倍なんて、とても耐えられません。

「遅いわよ」
むきゅうと、実に不機嫌そうな顔で、我が友人は迎えてくれる。
「遅くはないだろう?」
「お釣りは?」
咲夜の言葉には応えず、そう聞き返す。
「後で、纏めて返すよ」
――そう、と大袈裟に溜息を吐いてみせるパチュリー。
「って言うか、このケーキ奢りにならない?」
「ならないわよ」
「世知辛いな、パチュリー」
「ちゃんと私の話を聞いてくれたなら、考えてあげても良いわ」
「で、牛乳が何だって、正直に白状するよ、はい、どうせ碌に聞いていませんでした」
現金な咲夜は、すぐにその提案に喰い付いた。
「やっぱり」
呆れた様な声を出すパチュリー。
「でも、確かに牛乳は飲みたくない、みたいな事を言っていただろう?」
「私はね牛乳を、魔女がわざわざ飲む物じゃないと、そう言ったの。そもそもなんで魔女様が牛のお乳を飲まなきゃいけないのよ。あの液体の白さと言ったら嘘くさい事この上無いじゃない。それにあの臭い、獣臭くて生臭くて、温めたりしたらもう最悪ッ、ご丁寧に膜まで張りやがる。あぁ汚らわしい――」
そう穢れよ、あれは穢れだわ、魔女が無暗に触れていいものじゃないのよと、怖気を抑える様に、両手で、その華奢な腕を包み込む。
「あぁ、パチュリー」
咲夜は発言権を求めて、挙手をした。
「何?」
認めて、はい咲夜と、発言を認められる。
「それって嫌いとは、違うのでしょうか」
「全ッ然違うわ、そう、〈ゆで玉子〉と〈茹でた孫〉ぐらい違うわ」
「おいおい、パチュリー、本当かよッ! それじゃあ全然別物じゃないか」
口元へと運ぼうとした、ケーキがぽろりと零れる。
「そうよ」
「ほのぼの料理番組を見ていた筈が一転、サイコホラーじゃないか、苦情が殺到するぞッ」
「まさかのヤンデレお祖母ちゃんよ」
「いや、もうデレがあるかも分からんぞ、こりゃあ」
と言ったきり、咲夜は絶句してしまった。
「そ、それもそうね」
と、その恐ろしい事実に気付いたのか、パチュリーの顔も真っ青である。
「だ、大丈夫か、パチュリー」
心配そうに声を掛ける咲夜も手が震えて、上手く口にケーキが入っていない。
彼女の口の周りはもう、生クリームでべちゃべちゃである。
「ま、まぁいいわ」
パチュリーは、気丈にもそう伝えて続ける。
「それにね、牛乳を好きな奴も、私は理解出来ない。やれ、冷えた牛乳を風呂上りに飲むとたまらないとか、腰に手を当てて飲むと更に上手いとか、ほとんど狂ってるでしょ、宗教の狂信者そのものじゃない。しかも何かに取り憑かれたかの様に牛乳は健康に良いと薦めてくる」
憎々しげに、その顔を歪める。
「カルシウムだか、何だか知らないけど、そんなもの別に牛乳から摂取しなくたっていいじゃないの、カルシウムを多く含む食べ物や飲み物は他にいくらでもあるんだしね。それに私は牛乳をいっさい飲まないのに、身長は190cmを越えてるし、今まで骨折をした事だってない、牛乳を飲まなくても何も不自由してない訳なのよ」
「でもな、レミリアお嬢様も、健康の為に、ただでさえ身体の弱いパチュリーには牛乳を飲んで欲しいと仰っていたぞ」
「何よ、私とレミィ、どっちを取るの」
と、不服そうに頬を膨らませた。
――そりゃ、レミリアお嬢様さ、何と言っても、私には、拾ってもらったと言う、大きな恩があるからな、奇を衒う事無く咲夜は言って退ける。
「むかつくわぁ」
そう応えると、パチュリーはやっと生姜焼き定食に手を伸ばした。
「さ、咲夜――」
次の瞬間、悲鳴にも似た感情が迸る。
「どうしたッ、パチュリー!」
「味噌汁が冷えてる」
と、告げるとパチュリーは放心した様に、テーブルに突っ伏した。
「本当に大切なものってのは、失って初めて気付くもんだ」
「そ、そんな」
「世界ってのは、いつだって理不尽なものさ」
十六夜咲夜の瀟洒な台詞が炸裂した。
「って言うかな、パチュリー。お前は、どう見積もっても身長190cmも無いだろう」
「バレちゃった? てへッ」
そう笑って、何食わぬ顔で、付け合わせのトマトを端に避けていく。
「良くもまぁ、しれっと適当に答えるね、お前は」
呆れたと、咲夜の声はそう告げているも同然。
救いを求める様に、視線を他へ這わせると、またレミリアが視界に収まった。
相変わらずトレーの上の生姜焼き定食を引っ提げたまま、今度は掲げられたメニューと睨めっこを始めている。
しかも、何かぶつぶつ呟いている様だ。
心成しか、レミリアの横を通り過ぎる妖精メイド達が、涙を堪える様に、足早に去って行く様に思える。
これはお嬢様の完璧な従者として、何を呟いているのか、確かめなければ、と咲夜は決意を固めた。
美鈴と共にメイドの研修で行った、人里の甘味処〈嘔吐屋〉で、宴会芸のつもりで身に付けた、読唇術を発動。
えぇと、なになに、「明日の、定食は何かしら?」、だって!
切ない、それは切ないですわ、レミリアお嬢様ッ!
だいたい今夜の献立だってまだ、全部残ってるのに、明日の献立知ってどうするんですか。
分かっています、それがアピールなのは分かっていますよ、「別に、席が空くのを待っているんじゃ無いわ、明日の献立が気になるだけなの」、と言う主張なのは分かっておりますとも。
でも、だからこそ、胸が苦しい。
もう駄目だ、許してあげて、誰かレミリアお嬢様に救いの手を差し伸べて。
いや、私が差し伸べなくて、どうする、私はこの紅魔館のメイド長であるのだぞ。
この十六夜咲夜が、お嬢様を救わなくて、誰が救うと言うのだ。
「とにかく――」
あぁ、駄目だ、手の掛る我が友人は、まだまだ私を離してはくれないらしい。
申し訳ございません、この十六夜咲夜、メイド長失格かもしれませぬ。
「とにかくね、咲夜にだって、何か一つぐらい受け入れがたいものがあるでしょう?」
「無いけど」
無い事無いでしょう、とパチュリーは不服そうである。
「私の場合それがたまたま牛乳だったという事なのよ。それが身体の中に入ってくると思うと背筋がゾッとしない? きっとする筈よッ」
「しないけど、別に普通じゃないか」
私はそう応えたのだが。
パチュリーは、得体の知れぬ物と出逢ってしまったかの様な、酷く人相の悪い顔になっている。
「だって咲夜、牛乳が身体に侵入するのよ、それだけならまだしも身体に入った牛乳が骨になり、肉になり、血になるのよッ、それって自分の身体と牛乳が同化するって事でしょう?そんな事になったらとても耐えられない。そのうち牛乳に私の身体が乗っ取られてしまうじゃないか。そう考えただけで気が狂いそうだわ」
言ったきり、頭を震わせて、パチュリー何かと必死に戦っている。
「牛乳に身体を侵食されて最後には自分が魔女なのか牛乳なのか解らなくなってしまうのよ、これは怖い」
パチュリーは今にも椅子ごと後ろにすっ倒れそうだ。
「それにしたって、少し大袈裟すぎないか? パチュリーの方こそ余程、狂って見えるよ」
狂ってなんか無いわよと、抗議する様に、生姜焼きを摘まんで、冷えた白米に乗せ、粋な姿でかき込む。
この女、意外にも食うわ。
「そうそう、貴女に頼んでおいた、例のアレ、手に入ったかしら?」
もぐもぐしながら、パチュリーは問うた。
「あぁ、香霖堂に注文していたアレ、な。大丈夫、ちゃんと手配を済ませて、何と先程私が受け取りに行って参りました」
「素晴らしいッ」
パチュリーから咲夜へ、絶賛たる拍手が贈られる。
周りの妖精メイド達も、訳が分からないなりに事情を察して、食事の手を一旦休め、一緒になって拍手を送ってくれる。
見れば、美鈴やフラン様も立ち上がって、微笑んでいる。
「ありがとう、ありがとう」
と、咲夜は一礼して応えて見せた。
悪く無い、悪く無いぞ、これは。
レミリアお嬢様は、と見廻して見るが、駄目だ、埋まって見当たらない。
咲夜は諦めた。
そして、ちょっと待っていろと告げて、少し恥ずかしそうにポシェットの中からごそごそと取り出したソレを、パチュリーに渡す。
今、彼女の手に握られたのは、銀色に眩く輝く一振りのナイフであった。
「――何て、妖艶な輝き」
ごくり、とパチュリーの喉が蠢いた。
その表情は恍惚として、今にも舌舐めずりして、刃に這わせそうだ。
「いやいや、もういいから、早く仕舞ってくれよ、非常識にも程があるだろう」
駄目だ、遅かった、刀身はもう、パチュリーの涎でべとべとだ。
「な、何て事を言うのかしら、非常識は貴女の方でしょう、咲夜」
「まじで?」
「そうよ、待ち焦がれた逸品に出逢えた私の気持ちを少しは考えてよ、せっかく気持ち良く自分の世界に没頭してたのにッ」
と、言ったまま、頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
「ご、ごめんよ、パチュリー」
その言葉を聞くと満足したのか、分かれば宜しいと言ってナイフについての講釈を始めた。
もちろん私が頼んだ訳では無い。
「ねぇ咲夜、このナイフが何なのか気にならない?」
ふふん、と微笑んでみせる。
いや、私はそれよりも、君の口端に付いたご飯粒の方が気になるんだが。
「別に、気にならないけど。まぁいい、暇潰しに拝聴してやろう、話せ」
そう告げて咲夜は、腕を組んで踏ん反り返った。
「な、何だか偉そうだわね、咲夜」
「そうか? あぁ済まなかった、よし、では暇潰しに拝聴してやろう、話せ」
ぶくぶくと、今にも泡を吹いて倒れそうなくらい、パチュリーの顔色は悪い。
わなわなと、微かに震えている様にも見える。
「――わ、私はね、馬鹿にされたり、からかわれたりする事に慣れていないの、レミィと違ってね。私は他者を攻撃する時は容赦しないけど、自分が攻撃されるのは堪らないの、打たれ弱いのよ! その辺の事もしっかり踏まえて返事をしてちょうだい、真摯に受け止めて、もう一度チャンスをあげるから、言い直してッ」
「はぁ、じゃあすんません、この低能な十六夜咲夜めに、是非パチュリー様の高尚な知識を披露してやってくだせえ、たのんますだぁ、ははぁ」
棒読みではあったが、それでパチュリーは満足した様だった。
「このナイフはね、古代ギリシアの伝説に出てくるクレタ島の中に造られた迷宮に棲んでいたと伝えられる牛頭人身の化物〈ミノタウロス〉を倒したと言われる英雄〈テセウス〉の名を冠する由緒正しいナイフなのよ」
「は、はぁ、ミノタウロスに、テセウス、ですか?」
そうよ、とパチュリーは誇らしげに頷く。
「いい、よく聞いてね、牛頭人身の化物よ、まさに牛乳に侵食された生命のなれの果ての様な存在だと思わない?」
「思わないけど」
「いやいや、そう思う筈よ、そうに違いないわよ。ミノタウロスこそ牛乳に征服された愚かな生命なのよ」
決めつける様に宣言するパチュリー。
「でも、私は普通に牛乳飲むけど、ミノタウロスになった事ないよ」
「それは鈍感だからよ――」
貴女、感性が鈍いのよ、と続けた。
「うぅん、あんまり考えた事無いけど、そんなに鈍感かしら、私」
まぁ、いいから私の話を聞きなさいと、咲夜の台詞を遮る。
「とにかく、これはミノタウロスを倒したナイフなの、私にとって、これほど心強いものは無いわよ。そう、このナイフは私にとっての御守りであり、魔除けなのよ。これで、どれだけ待ち焦がれたか、私にとって大切な物か分かってくれるでしょう」
「ううん、どうだろう」
「私は、これから先もずっと私。レミィや貴女達と築き上げて来た歴史も思い出も、全部私のもの。それを、ミノタウロスにくれてやるなんて、我慢ならないわ」
そこまで言うと、残りの味噌汁をズズゥと、おもむろに飲み干した。
喋っている時も煩いが、食事をしている時も煩い。
「咲夜、貴女から見たらこれは唯のナイフに映っている事でしょうね。でもね、私にはこれを本来ナイフが持っているだろう特性、他者を切りつけたり、刺したりに使う気は、これっぽちも持っていないの。これは私の御守りなのよ、御守りで人を傷付ける訳が無いじゃない」
「そうじゃ無きゃ、困るよ」
「うん、分かってる、もしこのナイフが傷付ける事が在るとすれば、それはミノタウロスだけ。これは穢れである牛乳から身を守る為だけに私は振るう。牛乳から身を守る為にしか使わない、それだけは信じてくれていいわよ」
そんな自分勝手な主張が世間で通用するとは思わなかったが、いや、幻想郷じゃ通用するのか、あまりにパチュリーの表情が真剣だった為、咲夜は静かに頷いた。
それに、パチュリーはこう見えて、一本しっかりと筋を通す女だ、間違いを犯す事はありえまい。
「馬鹿な女と、そう思ってるでしょう」
と、意地の悪そうな表情で問い掛けてくる。
そんな事ないよ、と咲夜は笑って応えた。
「でもね、いつ何時、どこで私達が迷宮に迷い込んで、ミノタウロスと対峙するかも分からないじゃない、そうなった時にはもう手遅れなのよ、その為にこうやって備えると言うのは当然の事でしょう、助かる為の道標なのよ」
「まぁ、そんな事は万が一にも無いと思うけど」
――だから、もしもの為の備えと言ってるでしょう、と、また臍を曲げそうだ。
「上げ足を取るようで悪いがパチュリー、ミノタウロスを倒すだけじゃ駄目だろう、それから更に、迷宮からの脱出と言う試練が残っているじゃ無いか」
「そうね、もし迷ってしまったら、咲夜ならどうする?」
咲夜は少し考えてから、「――綺麗に、自害するかな」、と応えた。
「はッ?」
「私の売りは瀟洒だからな、迷ってあまり足掻くのも、かっこ悪いかなって」
ふう、とパチュリーは何度目かの溜息を吐いて、また口を開いた。
「貴女には、アリアドネの糸玉が必要ね」
「何それ?」
「迷宮の出口へと導いてくれる、魔道具の一種よ」
「はぁ、そんな便利な物があるんだな」
関心した様な、どうでもいい様な、曖昧な声で咲夜は応える。
「信じて無いでしょう?」
「そんな事ないよ」
再度、そう伝える。
「本当?」
「当たり前だろう、親友じゃ無いか」
「――そう、ありがとう、咲夜」
あぁ、私はその少し遠慮気味に微笑むパチュリーの笑顔に弱いのだ。
「どういたしまして」
あぁ、そして、ご飯粒取りてぇ!
「それにしても流石、香霖堂ね、こんな危険な物を、こんなに早く探し出して来てくれるとは思わなかったわ」
性懲りも無く、ナイフを翳して見詰めている。
「ほらほら、パチュリー、それは大切な御守りなんだろう? だったらあまり他の奴等に見せるなよ、ご利益が分散して減るぞ」
「そ、それもそうね」
と頷いて、〈げろげろすわっぴ〉の刺繍されたポシェットに、手早く仕舞い込んだ。
「あッ、咲夜!」
「うん?」
と、間抜けな声を漏らして顔を上げた咲夜の口に、パチュリーは無理矢理、食べ残したトマトを突っ込んだ。
「むッ、むぐぅ」
「早く食べてッ」
「御残しは許しまへんでぇッ!」
カンカンと、おたまでフライパンを叩きながら、食堂のおばちゃんが、見回りを始めていたのだ。
既に胸より腹が前に出た、教科書に載りそうな、見事なまでの中年女性の体形の威圧感は半端無い!
その珍妙なパーマは一体どこでやってもらっているのか、幻想郷七不思議の一つである。
もし食べ残しが見つかれば大変な事になります。
ビンタされます。
痛いです。

そもそも、何故、こんなにパチュリーが牛乳に対して、負の執心を抱いているのかと言えば、最近になって紅魔館に新しい仲間が出来たのが原因なのだ。
その子の名は、――知らない。
いや、知らないと言うか、そもそも名が必要なのか、あったところで名乗る事だって出来ないんじゃないだろうかと、そう言った代物である。
真っ赤な側面に、真っ白な英語の筆記体で、おそらくは〈コカコーラ〉と読むのだろう、そう名前らしきものが刻印されてはいるが、それも名とは違うのだろう。
陳列された商品の中に、同じ名の飲料が売られているのだから、多分それは販売元の会社とかの名前だろう。
だから、彼女に名は無い。
そう、もうお気づきだろう、新たな仲間とは自動販売機と呼ばれる物である。
どう言った経緯で、自動販売機が紅魔館の仲間になったのかと言うと、まぁ、あれですよ、だいたいこんな突拍子も無い事を仕出かすのは、レミリアお嬢様に他ならない訳ですよ。
ある日、勝手に館を抜け出して散歩に行ったと思ったら、自動販売機を背負って帰って来たんですよ。
なんか、猫や犬でも拾ったみたいな顔で、しれっと門の前に仁王立ちですよ。
しかも、連れ帰ったその理由が、「だって、紅かったから」、ですって。
そんな事言われたら、「そうですよね、紅かったら何でも我が眷属ですよね、紅生姜だって眷属ですよね」、って顔中の筋肉を引き攣らせながら微笑んで、頷くしか無いじゃないですか。
内心、「また、訳の分からんもん拾って来やがって、この吸血幼女が」、とか思いましたけど、調べてみれば、まぁ別に害がある様なもんでも無いと分かったので、そのまま受け入れましたがね。
そのお陰で、若干一名の機嫌が悪くなってしまったのは、まぁ仕方無いのでしょう。
本当は、もう一人不機嫌になっている者がいるんですけど、今は関係無いので省略します。
そう、紅魔館に自動販売機が登場した事によって、パチュリーは臍で茶を沸かす程に猛り狂っているのである。
何で、そんなにと思うかもしれないが、自動販売機の商品の中に牛乳が含まれている事がどうやら彼女は許せないらしいのだ。
ならば、無視して、自動販売機など相手にしなければいいじゃ無いかと、考えるでしょうが、そうは行かないのです。
その自動販売機が、寄りにも拠って、パチュリーの生活圏である大図書館の真横に設置されてしまったのだから、パチュリーの怒りは収まりません。
良くは分かりませんが、電気の配線の関係やら何やらで、図書館の横に置くのが最善であるそうなんです。
それはもう、自分のすぐ隣りに、牛乳が在ると言う事に他ならず、油断すれば大図書館に流れ込もうかと、手薬煉引いて待っているに等しい事なのです。
筋金入りの牛乳嫌いであるパチュリーにとっては、そう思える程の脅威なんですよ。
でも、それはパチュリーだけとも言えるんですね。
基本的に、この幻想郷で自動販売機は大人気です。
そりゃもう、ここの住人達は新しい物好きですし、娯楽を目敏く見付ける能力だけは異常に発達していますからね。
マヨイガやら、白玉楼やら、永遠亭やら、彼岸やら、妖怪の山やら、地霊殿やら、命蓮寺やらから、引っ切り無しに自動販売機に買い物に来るのですよ。
この食堂の中の妖精メイド達だって、皆、その手には自動販売機から購入したばかりの缶が握られている事からも、それが分かってもらえるでしょう。
働いて、給料貰って、それで自動販売機で飲み物を購入する、これが今幻想郷で最もお洒落なライフスタイルであり、デキル女達にとって、そうする事が一種のステータスになってるんです。
だからもう、本当に大人気。
牛乳の存在に臆して、お祭り騒ぎに乗り遅れた事もパチュリーの不機嫌の原因の一つかも知れません。
彼女も例に漏れず、騒ぐのは好きな方ですから。
まぁ、偉そうな事を言っている、私にしたところで、実はまだ一度も自動販売機で飲み物を購入した事は無いのです。
自動販売機の存在、その人気と比例して、紅魔館のメイド長である、この私の仕事量が増すのは当然の事でしょう。
最近は本当に訪ねて来る人妖達が多くて、休日出勤は当たり前田のクラッカー、趣味である賭博も出来ず、カジノ〈聖輦船〉からも足が遠退いています、早く先月分の負けを取り返さないと、泥沼に嵌まってしまいます。
それに自動販売機と言え、紅魔館で働く以上、私の部下であり、新人の教育はメイド長である、この私の役目。
意志の疎通さえままならないので、思考錯誤の繰り返しで、なかなかに骨の折れる新人教育であります。
瀟洒を自任する私でありますから、当然この自動販売機をいの一番に楽しまなければと、思う事は思うのですが、そんな暇は無いのです。
それに私にしたところで若干、乗り遅れた感があるのも事実で、まだ購入した事無いなんて、そんな事は恥ずかしいと言う気持ちが、躊躇させているのも事実でございます。

そんな事を考えつつ、咲夜はパチュリーの不機嫌の原因を作ったレミリアを探す。
レミリアお嬢様の小さな手を、美鈴が引いて、自分達の席に連れて行く、フラン様がトレーを持って運んであげている様だ。
美鈴とフラン様に囲まれて、楽しそうに食事をとり始めるレミリアお嬢様。
あぁ、あんなに足をばたばたさせて、席が見つかったのが余程嬉しかったのだろう。
良かったね、お嬢様、やっぱりこう言う時は美鈴が頼りになるわ。
今度はまた、あの子に借りようかしら、美鈴なら利子取らないし。
「――だからね、咲夜」
「へ?」
「ほら、また上の空、今夜はどうしたの、貴女少し変よ」
「あ、あぁ、えッ、何か言ったかい、パチュリー」
――言ったわよ、ねぇ、それより本当に大丈夫、熱でもあるんじゃ無い、と華奢な手が、咲夜の額に触れる。
「大丈夫だって」
「そう、別に熱も無いし、――それでね、自動販売機の内容を変えてもらいましょうよ」
「内容を、か」
そうよ、と興奮気味にパチュリーは言う。
「私達だけ、自動販売機を使えないのは不公平よ、だいたい私の図書館の横にあるのに、その私が購入出来ないなんて、おかしいわ。咲夜二人で、自動販売機デビューしましょう、イケテルレイデーになるのよ、蛹が蝶になる瞬間を見せつけてやるのよ」
「そうか、そうだな、牛乳さえ無くなればパチュリーは購入出来るもんな、よし了解した、後で〈八雲飲料〉に連絡を入れておくよ」
「うん、お願いね」
そう言うと、パチュリーは席を立って、「何か飲む?」、と尋ねた。
「お前は?」
――私はミルクティーと、パチュリーは応える。
「私も同じでいい」
その言葉を受けると、彼女は食堂に備え付けの売店に向かった。
パチュリーが買い物に行ってしまい、手持無沙汰となった咲夜は、またレミリアお嬢様はどうしているかな、と視線をそちらへ向ける。
食堂のおばちゃんにヘッドロックされながら、残したトマトを無理矢理ねじ込まれるお嬢様が見えた。
まったく、お嬢様とパチュリーの野菜嫌いにも困ったものだ、これだから大きくなれないのだと、咲夜は溜息を吐くと、今度はパチュリーを探す。
意気揚揚と買い物を終えたのは良いが、妖精メイド達でごった返す食堂の為に、自分の席がどこか分からなくて、おろおろとする姿が見える。
仕方無いので、咲夜は立ち上がって、大声と手振りで、パチュリーに場所を示した。
「はいッ」
と、それからは軽やかな足取りで戻ってくるとパチュリーは、リプトンと印刷された紙パックのミルクティーを差し出した。
すでに彼女はストローも使わず、がぶがぶと喉に流し込んでいる。
私はその光景を何だか、不思議な気持ちで眺めていた。
ある夏の夜の、景色である。

ここは、十六夜咲夜が普段の業務を執り行う、紅魔館でも奥まった所にある、執務室である。
今は、彼女しかいないけれど、別に他の者達が、立ち入り禁止と言う訳では無い。
面白くも何とも無い為、誰も近寄らないと、それだけの事である。
しかし、それは彼女にとって、都合の良い事でもあった。
革張りの椅子に身を沈め、難しい顔で、積み上げられた書類を眺めていた彼女だが、それを無造作に放り投げると、立ち上がり窓際によって外を眺め始めた。
りぃんりぃん、と虫の音が聞こえる。
それを何となく聞き流しながら、煙草を銜えて、燐寸を擦ると火を点けた。
何とも言えぬ、燐の臭いと、草を焦がす匂いが肺を満たして行く。
窓を開け放ち、吐き出される紫煙を外に逃がす。
「お嬢様に見つかったら、また外で吸えと、どやされるだろうな」
煙に乗せて、そんな事を呟く。
「まぁ、分かっていても止められんのが、喫煙者の哀しいところ」
吸い殻を、懐中時計型の携帯灰皿に押し付けながら、壁に備え付けられた受話器を上げる。
何度目かの呼び出し音の後に、声が響いた。
「おっす、おら八雲、何でしょうか?」
「あっ、えっと、橙かい?」
「橙ですよッ!」
とびきり元気な声が返ってくる。
耳にキンキンと響いて、煩いくらいである。
「あの、あれだ、藍さんはいるかな?」
いますよぉ、と言って、廊下をばたばたと走って行く様な音が聞こえる。
しばらくして、受話器の向こうに人が立つ気配を感じた。
「お電話替わりました、いつもありがとうございます〈八雲飲料〉代表の藍でございます」
「あ、あぁ、夜分遅くに済みません、紅魔館の十六夜咲夜です」
――おぉ、咲夜さん、と声が返ってくる。
「久しぶりです、もしかしてギャンブルのお誘いですか?」
「いや、今月はちょっと厳しくて、じゃなくてですね」
「そうですか、残念です。じゃあ、またチルノ達が悪戯して、自動販売機を詰まらせましたか?」
――あいつ等、元気だけは有り余ってますからね、と藍は決め付ける。
「いや、大丈夫、そうではなくてまた、自動販売機に商品の補充をお願いしたいのですが」
――あぁ、そっちでしたか、と藍の声が返ってくる。
「はいはい、了解しました」
「それで、少し相談があるんですけど」
「何ですか?」
「牛乳を、商品の陳列から外してもらう事は可能かな?」
――牛乳を、ですか、と幾分訝しげな言葉が返って来る。
「無理?」
「ちょっと待って下さい」
と、告げたきり、書類を捲る様な音が聞こえるだけ、恐らく帳簿でも眺めているのだろう。
「――あぁ、咲夜さん」
「はい」
「たしかに牛乳はあんまり動きが無い様ですね、ですから無くしてしまっても別段問題は無いでしょう、宜しいですか?」
「大丈夫です、じゃあ、その方向でお願いします。それから――」
咲夜は、再び煙草を銜える。
「内容も大幅に変えてもらいたいのですが、特に紅茶や珈琲などのカフェイン飲料の充実を、あと野菜ジュースとか」
「はいはい、分かりました、何か具体的な銘柄の希望とか、ありますかね?」
パチュリーの希望を聞き入れ、電話するならついでに、妖精メイド達の希望も聞いておこうとアンケートを取った結果が、先程の放り投げた書類群である。
そこには、「カフェイン飲料の充実」、とその意見が多く書かれていたのだ。
それに混じって拙い文字で、「特に紅茶関係を充実させて下さい、お願いします」、と記したのはフラン様か、それともレミリアお嬢様か、まぁ紅茶にはうるさい二人なので、どちらとも考えられる。
「野菜ジュースをお願いします」、とは健康志向の美鈴だろう。
二人のお嬢様はまだしも、美鈴や、働く妖精メイド達がより働き易い様に、配慮するのも、この私の大事な役割である。
彼女達は夜通し働くのだ、カフェインが恋しくなると言うのも頷ける。
「いや、銘柄とかは、私はよく知らないので、そちら様にお任せします」
「了解しました、では一応まんべん無く設置する様にしますね――」
それで、明日の夜とか大丈夫ですか、と藍は問う。
「はい、平気です。門番には私から話を通しておきますので、勝手に上がっちゃって下さい、迎撃されそうになったら私の名前を出して頂ければ」
「がってん承知の介! では、明日の夜、伺いますので、宜しく。それでは失礼致しまぁす」
向こうで受話器が置かれるのを待って、咲夜も受話器を戻す。
煙草を燻らせながら、また窓へと近づく、外には煌々と照る、赤い月。
「これで、パチュリーも少しは救われるだろうか」
気怠く漂う煙を眺めながら、咲夜は静かに呟いた。



第二章 日常に代わる、幾つかの風景

「あぁ、妬ましいわぁ」
素っ頓狂な声音が踊る。
「妬ましい、妬ましい、妬ましい、妬まッしいわぁ」
と叫びながらごろごろと転がっているのは、洩矢諏訪子である。
ここは、外の世界で風祝りを務め、現人神でもあった、東風谷早苗が巫女を務める守矢神社の居住空間である。
そして訳の分からぬ文句を唱えながら狂い転がっているのが、まぁこの神社の祀神の一柱である。
もう一柱はと言えば、腹を出した、とても乙女とは思えぬ怠けきった姿で、注連縄を枕に縁側に寝転がっている、時たま思い出した様に腹を掻くのは止めて欲しい。
先程まで、しゃくしゃくと冷えたスイカを頬張っていたのだが、いつの間に寝てしまったのだろうか。
遅めの昼食が終わり、やっと一息ついたところである。
ふう、と溜息をひとつ零すと、早苗は諏訪子に視線を移す。
「何が、そんなに妬ましいのですか」
「早苗ッ、よく聞いてくれた」
と、身体を起こしながら告げた。
――あいつがさ、と諏訪子が指差した先には、〈げろげろすわっぴ〉が刺繍された早苗のエプロン。
「何で、一躍人気者になって、私は見向きもされない訳ッ」
そう、今この幻想郷では〈げろげろすわっぴ〉が、爆発的に流行しているのだ。
そして、それを流行らせたのは、この私、早苗さんなのである。
信仰を集める一貫として、親しみ易くデフォルメしたキャラクターを利用しようと思い付き、試しにデザインし、自分でいろんな物に刺繍したり張り付けたりしていたら、何が受けたのか、瞬く間に、幻想郷中に伝染したのである。
かく言う私が、一番驚いている。
「ねぇ、それっておかしく無い、なんですわっぴだけ? 私だって同じ様なもんでしょう? って言うか、アレ絶対私がモデルだよね?」
――違う、早苗? と、肩を揺すりながら問い掛けて来る。
「まぁ、違うんじゃ無いですかね」
あまりに鬱陶しかった為、目を逸らしながら応えた。
「ひ、酷いよ、早苗ぇ」
と、言った諏訪子の手が固く握られ震えている。
卓袱台が今にも、壊されてしまいそうだ。
「この冷血巫女、お前の母ちゃん変温動物ッ!」
そう叫んだきり、また妬ましいを連呼しながら転がり始める。
以前、地底に行った時に仕入れてきたネタらしいが、どうやら、「妬ましい」、と言っておけば、構ってもらえると思っている様だ。
世の中は、そんなに甘いものじゃ無いんですけどね。
「持ってかれたわ、完ッ全に信仰持ってかれたわ」
今度はぶつぶと、壁と喋り始めた。
「このままじゃ、時を於かずして博麗ッとこと同じになっちゃうよ、私達の存在は忘れられて、すわっぴに皆信仰奪われちゃうよッ」
ぐるりと、首だけ百八十度回して、こちらに向き直る。
カッと見開かれた眼球が、なんか不気味だな、と早苗は思った。
「それに、あの自動販売機とか言う奴、何よあれ」
「あぁ、紅魔館に来た新人さんですね」
「そうそう、って、えッ何、もう行ったの早苗?」
――行きましたよ、と早苗は応える。
「乙女は流行に敏感ですからね」
「抜け駆けかよぉ、在り得ないよう早苗ぇ」
縋り付いて、そう訴える諏訪子。
「あ、あんたがそんなだからね、変なのに信仰が移るんだよ、守矢の巫女としての自覚を持ちなさい」
妬ましい、妬ましいと、落ち着き無く、今にもぴょんこぴょんこと跳ね出しそうだ。
「別にいいんじゃ無いですか」
「べ、別にって――」
「だって、そんなに信仰集めてどうするんですか?」
「ど、どうするって、あれだよ、ほらあれだ、奇跡を起こすんじゃないの? 違う?」
何だか、頼り無い返事が返ってくる。
「だったらもう充分じゃ無いですか、だって考えても見て下さいよ、あの自動販売機のおかげで、幻想郷内のあらゆる勢力が、平和を保っているんですよ。自動販売機を介して、縁が繋がり、丸く収まっているんですから――」
これは、もう充分に奇跡足り得るでしょう、と早苗は諭す様に言う。
「別に私達が奇跡を起こす必要は無いじゃないですか、たまには、その奇跡を享受する側に回ったって罰は当たりませんよ」
「安ッすい奇跡だぁね」
と、拗ねた様に呟くと、諏訪子はそのまま倒れ込んで寝てしまった。
ふう、と再度溜息を吐くと、早苗は卓袱台の上に残されたスイカに手を伸ばす。
口に含むと、もうすっかり温くなっていた。



「あぁ、暑ちぃでありんすねぇ、幽香姐さん」
「言うな小傘、余計に暑くなる」
蒸し風呂の様な外気に晒されて、二人がへたり込んでいるのは人里の外れに位置する茶屋である。
まぁ、時刻はとっくに正午過ぎ、先程まで昼休みをとっていた人間達も、それぞれ野良仕事へと戻っている。
この気温にも負けず、里の人間達は、本当に良く働くものだ。
だから、当然茶屋は今二人にとって貸し切り状態、注文もせず勝手に入り込んで休ませてもらっていると言うのが現状である。
「あぁ、すいませんッ」
と、幽香が店主を呼び付ける。
「はいはい、ご注文で?」
「水」
ふてぶてしくもそう応える幽香に、「ちィッ」、とひとつ舌打ちを残すと、店の中へと戻って行く。
そう、仮令、この店の主人であっても、この風見幽香には強く出られないのだ。
なんと言っても彼女は、この幻想郷で最強の妖怪であり、八雲紫と唯一肩を並べられる存在なのだ。
幻想郷の表の管理人を八雲紫とすれば、彼女は幻想郷に於ける、影の管理人と言えた。
まぁ、彼女達は敵対している訳では無い、お互いに手の届かない範囲を、共に補い合い、片や表から、片や裏から支え合っているのである。
だいたいからして、風見幽香はそれ程好戦的な妖怪では無い、であるから、この店の主人に対しても、別に威圧的な態度を示している訳では無い。
彼女程の大妖怪になれば、ことさら威嚇する様な必要は無いのだ、強者はただ微笑んで、静かに佇んでいれば、それだけで充分なのだから。
ただ、店の主人の方が、風見幽香の持つ大妖怪と言う肩書を勝手に警戒し、身構えているだけなのである。
そんな事にはお構い無しで、二人は持参の傘をバッサバッサと煽りたて、何とか涼を取ろうと奮闘中であるが、その運動がかえって身体に熱をもたらしている様だ。
汗が滝の様に流れては、落ちて行く。
店主が、水を抱えて戻って来て、今度こそと、何度目かの注文を取ろうとするが、それをのらりくらりとかわして、幽香は遣り過ごす。
主人は迷惑そうに、打ち水を済ますと、また店内へと帰っていった。
茶屋の道の向こうでは、ちらちらと陽炎が遊び、うわんうわんと蝉がけたたましく鳴いている。
地だけでは飽き足らず、空気さえも焦がそうかと、その鳴き声を互いに摩擦させているのだ。
「姐さん、流石にそろそろ何か頼まないと、申し訳無いでござりんしょう。かき氷でも頼んまんせんかえ?」
「そんな事言ったって、お前、金持ってんのか?」
その言葉を受けて、小傘は〈げろげろすわっぴ〉が縫われたお小遣い袋を取り出して、中身をぶちまける。
って言うか、何もぶちまけられなかった。
「昨日、紅魔館の自動販売機で全部使ってしまったんでありんした」
――空っぽでございます、と照る太陽に負けないくらいの、眩い笑顔である。
「ですから姐さん、奢って下さいまし」
「馬鹿言うな、私だって、すっかんぴんさ」
と、言って掲げた〈adidas〉のロゴの上に〈げろげろすわっぴ〉が刺繍された財布を取り出して、べりべりとマジックテープを剥がしながら中身を示す。
「――情けないでありんすねぇ」
煩いよと吐き捨てると、幽香は少し肌蹴て、寝そべった。
「小傘、お前、春でもひさいで、少し稼いでこい」
「ひっ、ひぎぃ、そ、そんな事言うなんて見損ないましたよ、姐さんッ! わっちゃあ、姐さんに弟子入りして、懸命に花を咲かせようとお手伝いしてきたのに、この仕打ち、あまりに惨いでありんす」
よよよ、と大袈裟に泣き崩れる、実に芝居がかった仕草である。
「怨むんですよ、わっちゃあ、遊女の如き怨むものでござんすよ」
実に怨めしそうに、その真っ赤な舌をペロリと抗議する。
「分かってるよ、冗談、冗談」
「まぁそれはさて置き、暑ちぃですねぇ、姐さん、何とかなんせんかえ」
「師匠として、ひとつ教えておこう、心頭滅却すれば火もまた涼し、何か他の事に意識を集中出来れば、この暑さだって忘れられるのさ」
「ほ、本当でありんしょうか、な、何をすれば良いでありんすか」
目を輝かせて、小傘が喰い付く。
「蟻でも数えてれば――」
だが、素っ気無い返事があるばかりである。
「いち、にい、さん、しい、ご――」
って、限が無いわぁ、と小傘は叫んだ。
人間達と同じく、いや、それよりも勤勉に努める蟻達を尻目に、幽香はごろりと横を向いて寝入ってしまった。
「ほらぁ、姐さん、起きて下さいましよぅ」
ゆっさゆっさと、起こそうとするが、虚しく幽香の豊満な胸が揺れるだけである。
「あッ、姐さん、ほらあの花、今にも枯れそうですぜ」
んあぁ、と面倒臭さそうに上半身だけ器用に起き上がる。
「あぁ、ありゃあ良いんだよ」
つまらなそうに、また横になる。
「そんに、殺生な――」
「もう立派に咲いた後だ、咲いて、静かに眠りに就こうってんだ、散り際を認めてやるのも、花を咲かせる者の大事な務めだ、それを忘れるなよ小傘」
「――でも」
「私達が咲かせるのは、自然の摂理に恵まれず、己の力だけで咲く事が出来ない様な、そんな奴らだけさ。その花の様に、生を全うした存在に手を加えるのは、その生を馬鹿にする事に等しい、そこまで思いあがったら終いだよ」
大欠伸をかましながら、幽香はそう告げた。
「じゃあ、その自力で咲けずに困ってる花達を探しに行くでありんすよ」
「ん、もう少し休んだらな」
そう告げて、鼾を掻きながら、今度は本当に眠ってしまった。
「もう、わっちは知らんでござんすよッ! 旦那ぁ――」
と、開き直った様な声で、小傘は店主を呼び付ける。
「宇治金時一人前、会計はこの花怪人が目を覚ましたら請求して下さんせ」
幽香を示しながら、何食わぬ顔で注文を済ませる。
あいよと、年季の入った声が返ってくる。
しゃくしゃくと、かき氷を食べ終えると、涼しい顔で小傘は足早に茶屋を後にした。



「さぁ、お昼にしましょう」
川のせせらぎを思わせる、白蓮のよく通る声が響いた。
食卓には、村紗特製の〈サザエカレー〉が並べられ、食欲をそそる香辛料の匂いが漂っている。
海の無いこの幻想郷でサザエなんてと思われるだろうが、何か定期的に八雲さんから、御裾分けがあるのだ。
家の裏にある沼で良く獲れるらしい。
カレーは〈げろげろすわっぴ〉がパッケージに描かれたレトルトの甘口だ。
これは、一週間の内、一週間はカレーを食べる、カレー大好き命蓮寺の為に、常備されているものである。
そして、その隣には、ついさっき紅魔館に買い出しに行って仕入れてきた缶ジュースも一緒に並べられている。
そのどれもが、瑞々しく、水滴を滴らせ、まるで、汗を掻いている様でもある。
「皆さん、揃いましたか?」
「はいッ」
と威勢の良い声で返事をしたのは、星である。
「手は洗いましたね、――それでは、いざ何無三」
「何無三」
と、手を合わせて、一斉に声が重なる。
「あぁ、忘れていました、この缶ジュースは中身が沈殿している事があるそうなので、開ける前に良く振って下さいね」
と、席に着いた皆を見渡しながら、星が告げた。
了解と、思い思いに応えて、缶をシェイクして、最初に開けたのは一輪である。
瞬間、ぶっしゃあッ、と缶から何かが吹き出し、それに驚き思わず立ち上がった一輪の顔面を瞬く間に濡らしていく。
何が起こったのか、理解出来ないかの様に、立ち竦む一輪。
僅かな茫然自失の後、尼さんの様な頭巾をおもむろに脱ぎ捨てると、そのまま無言でつかつかと、村紗めがけて歩いて行き、胸倉を掴んで立たせた。
「こんな碌でもねぇ事、仕出かすのは手前ぇだろ、えぇコラッ」
「あぁ、知らねぇよ」
何故だか、村紗も、すでに臨戦態勢を整えている。
「すっとボケるんじゃねぇ、水難事故起こすのは手前ぇの十八番だろうがッ」
「てやんでぇ、こんなもんが事故の内に入るかってんだ、この、こんこんちきめッ」
威勢よく腕を捲って、啖呵を切る村紗は、今にも飛び出しそうだ。
穴の空いた柄杓を、パイプの様に銜えているのは、何か意味があるのだろうか。
「あわわわ、ふ、二人とも落ち着いて下さい」
と、慌てて取り成す様に、取り乱しているのは、勿論、星である。
ぱんッと、一輪の平手打ちが村紗に命中した。
「蚊、止まってたから」
しれっとした表情を崩す事無く、そう言って退ける一輪。
「あぁ、わざわざ済まねぇなッ」
言い終わる前には、村紗の水平チョップが一輪に炸裂していた。
「蚊、止まりそうだったから」
「どう言う理屈だ、コラァッ!」
首筋を擦りながら、尼さんのチャクラムみたいな物を取り出すと、ぶんぶんとそれを振り回して、村紗目掛け突進する。
それを受けて立つ村紗は、負けじと穴の空いた柄杓を振り回している。
「上等だ、久々にキレちまったぜ、表出ろや、一輪ッ」
「呆けてんのか手前ぇ、ここはもう外だろうがッ」
ぺちん、ぱこん、と醜い争いの音が響き渡る。
そう、彼女達が食事をしようと、席を設けているのは、命蓮寺の境内、青空教室ならぬ、青空寺院なのである。
何故こんな事になっているのかと言えば、「探さないで下さい、でも少しぐらい探してくれないと寂しいかも」、と書き残し、ある日突然どこかへと蒸発した雲山の所為なのだ。
一体、どんな事情で雲山が、命蓮寺を出て行ったのか、誰にも心当たりは無かったのだが、わざわざ姿を消すなど、余程思うところがあったのだろうと、推察された。
そして、一緒に暮らしながら、その事に気付けなかったと、白蓮は非常に悔いているのである。
きっと、今頃はこの幻想郷にここ以外、身寄りの無い雲山の事である、炎天下に晒されて辛い思いをしている事だろう。
だから、せめて雲山と同じ境遇で生活して、少しでも気持ちを分かち合おうと言う白蓮の提案により、食事だけで無く、生活の場全てを外に移したのだ。
もう、雲山が姿を晦ましてから一カ月にもなる、だが一向に彼が戻る気配は無い。
それは別段構わなかったのだが、地を焦がそうかと燃え盛る日差し、夜になると騒ぎ出す様々な虫達に辟易していると言うのが、彼女達の本音であった。
言い出しっペである白蓮から、この提案を取り下げる様な事は言えないし、彼女を慕う他の者には意見を言うのが阻まれると言う悪循環なのである。
その為、彼女達は現在、少しばかり気が立っているのだ。
「わたしゃあ、親切で蚊を潰してやったんだよッ」
「べらんめぇ、吹かしこくんじゃねぇぞ、この破戒僧がッ、だいたいこんな目に遭うのだって、手前ぇんところのアホ入道がとんずら扱いたからじゃねぇかッ」
「人様の相棒に向かってアホ入道とはどう言う了見だ、手前ぇ!」
「何が相棒だぁ、じゃあさっさと探しに行けよッ」
「手前ぇに言われなくても、後で行くつもりだぁ、馬鹿野郎」
「馬鹿はどっちッ――、ぐ、ぐえ」
一輪必殺の、尼チャクラムで、村紗の首が締め上げられていく。
「ちょ、ちょ、待って、遣り過ぎですよ、成仏しちゃう、一輪ッ! あぁ、どうしましょう――」
と、救いを求めて、星は白蓮に顔を向けるのだが、彼女は我関せずと言った顔で、もくもくと食事を続けている。
時たまぼりぼりと、腕の辺りを掻いているのは、蚊にでも刺されたのか。
って言うか、その自分の周りだけ張り巡らせてある魔法陣みたいのは蚊避けじゃ無かったんだ。
「――うわッ、凄い血吸ってるわ」
と、その白蓮の台詞に、救いを求めるのは無理そうだと判断した星は、喧嘩を続ける二人に向き直る。
だけど、結局、良い方法が浮かばず、頭の中に思うのは、一体何でこんな事になってしまったのだろうかと言う事である。
だが、どれだけ考えてみたところで、答えが出る筈も無い。
仕方ないので、とりあえず眼の前のカレーを食べてしまおうと、スプーンに手を伸ばした。
「うん、美味しい」
何だか、命蓮寺には、それを纏める中心が無い、そんな感じであった。



「――はい、この勝負、またまた私の大勝利でござぁい」
時の権力者達を、悉く誑かしてきた、罪深き、月の姫は優雅に微笑んだ。
見世物小屋に誘う、呼び口上よろしく、楽しげで、挑発的な声色である。
「ちくしょうめ――」
見下ろす先は、竹林の底。
地べたに転がる、尽きる寸前の焔が燻っている。
「おい、輝夜、肉弾戦はルール違反だろうが」
「何を仰いますか、今夜は弾幕勝負だなんて、一言も言っていませんわ」
くすくすと、高級な糸で〈げろげろすわっぴ〉が刺繍された袖で口元を隠して笑う。
「おい、何だか知らんが、その喋り方止めろ、薄気味悪い」
「慈悲深き、とどめが欲しいのかしら」
ぺろりと、妹紅の血液で塗れた己の拳に舌を這わせる。
月を背負ったその姿の、なんて艶やかな事。
「ははは、勘弁してくれよ――」
そう、まさか、あの華奢な腕から、あんなにも重たいボディブローが繰り出されるとは夢にも思わなかった。
しかも目にも留まらぬ速さの、高速連打である。
喰らってる間ずっと、浮いていたと、確信を持って断言出来る。
恐らく、ヒットした瞬間に思わず上げてしまった妹紅の情けない悲鳴は月にまで届いた事だろう。
そう思うと妹紅は、穴があったらすぐにでも入りたい心持である。
「さてと、今回は何にしましょうかね、罰ゲーム」
妹紅の隣に、ふわりと降り立つと、輝夜は告げた。
「おいおい、何だそりゃ、罰ゲームなんて聞いてないぞ、私は」
「貴女、負けたんだから、ごちゃごちゃ言わないの」
「理不尽だ――」
「何を今さら、私達、存在自体が理不尽じゃ無い、世の理から外れた哀れな存在、化け物」
「そう言うなよ、私達は化け物なんかじゃ無い」
――そうかしら、と輝夜は薄く笑った。
「まぁいいわ、そうね妹紅、今から紅魔館行って、自動販売機で何か炭酸でも買って来なさいよ」
「私はパシリになり下がる気はないぞ」
「敗者に口無し、さぁ、さっさと行ってきなさい、勝者の言葉は絶対よ」
「わかったよ、――金」
と、もんぺについた埃を払いながら立ち上がると、妹紅は言った。
「何言ってんのよ、そんなの勿論、貴女が払うのよ」
さも当然と言った口調である、でも姫なんて呼ばれる者は、多かれ少なかれこんなものか。
「持ってねぇよ」
「そんな事ないでしょう、ちょっと飛んでみてよ」
手を捩じ上げられている為、妹紅は素直に従うしか、選択肢は無い。
ぴょんぴょんと軽く跳ねると、チャリンチャリンと、〈げろげろすわっぴ〉が所狭しと描かれたモンペから小気味よい音が鳴った。
「――あるじゃない」
「あったな――」
最初から素直に出しなさいよと、もんぺのポケットにその白魚の様な手を突っ込む。
「かぁッ、これだけ、本当に?」
――時化てるわねぇ、とあからさまに侮蔑の表情を貼り付ける。
「これっぽっちの端た小銭なんか、持ってたって意味無いでしょうに」
「――何だって?」
「まぁ貧乏人から、金を毟り取っても可哀想だからね、今夜はこれで許して上げるわ」
そう妖艶な笑みを浮かべると、妹紅から奪い取った小銭をばら撒いた。
「無様に這いずり回って、拾いなさいよ」
「馬鹿野郎ッ!」
妹紅の罵声では無い、正真正銘の怒号が飛ぶ。
「お金を粗末に扱うんじゃねぇッ」
「えっ、ご、ごめん」
「やって良い事と悪い事の区別もつかないのか、お前は。永い時を生きて来たくせに、そんな事も分からないのかッ」
「だ、だから、ごめんってば、そ、そんなに怒らなくても」
「それが謝る態度か、一体どんな教育を受ければそんな風に育つんだッ! 根が腐ってんだよお前は、拾え」
「な、何よ、なんで貴女にそこまで言われなくちゃならないのよッ」
「いいから、拾え」
今、妹紅の瞳には、紅蓮が狂った様に渦巻いている。
「わ、分かったわよ」
と、ぶつぶつと何か言いながら、しぶしぶと言った仕草で、己でばら撒いた小銭を拾って行く。
「――はい」
小銭を無言で受け取ると、妹紅はくるりと背を向けた。
「お前には失望したよ、もう二度と私の前にその姿を見せるな」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、都合良く逃げようってんでしょう、そんなの許さないわよ、罰ゲームはまだよ」
その背に、叫ぶように言葉を叩きつける。
「そうだ、こうしましょう、掃除に来なさい。最近、永琳とか鈴仙とか、皆忙しくて散らかってるのよ、だから永遠亭を綺麗にして頂戴よッ」
「こいつの価値も分からん、お前の望む事なんて、何一つしてやる気はねぇよ」
ぎゅっと、百円玉を握る。
そう捨て台詞を残すと、妹紅はゆっくりと、竹林の奥へと消えて去った。
「な、何、そんなに怒ってんのよ、意味分かんないし」
見送る輝夜の声は、ささらさらと、揺れる竹の葉に紛れて失せた。



「あぁ、お帰りなさいませ、さとり様」
「えぇ、ただいま、お空」
主の到着を待っていたのか、空はすぐに飛び出して、さとりを迎えた。
土埃に塗れた、その服を払いながら、さとりは応える。
「はい、これ、お土産、まだ充分に冷えてる筈よ」
と、お空に差し出したのは、今しがた紅魔館で仕入れて来た缶ジュースである。
さとりは、ここ地霊殿から、穴を掘って、紅魔館の自動販売機まで行って、帰って来たところなのだ。
「ありがとうございます」
そう応えた、お空の表情は、何故か厳しい。
礼を言って受け取ると、空はおもむろに、プルトップに手を掛ける。
「ぬ、ぬるいです」
「あら、本当? 急いで戻って来たつもりだけど、ごめんなさいね」
自分も一口飲んでみたが、顔を顰めた。
どうやら、本当にぬるくなってしまっていた様だ。
「――そ、それで、お燐の様子はどうでしたか、元気にしてましたか?」
空は、主の帰還と共に心待ちにしていたであろう、その報告を促す。
「えぇ、心配しなくても大丈夫、逢えた訳ではありませんが、上手くやっている様ですよ」
それを受けて、ほっとした様に、空はやっと緊張した顔の表情を崩した。
胸には〈げろげろすわっぴ赤口.Ver〉が赤く輝いている。
「お燐と離れて、寂しくは無いですか?」
――大丈夫ですよ、心配しないで下さい、さとり様、と空は笑顔を作る。
さとりのペットである、空と燐は地霊殿で共に暮らして来た親友である。
だが、先の間欠泉騒動の後、何か思うところがあったのか、燐は、地霊殿を出て、地上で生活したいと言い出したのだ。
何を思って、そう言いだしたのか、さとりには大体の事は読めたが、彼女の自主性を尊重し、その申し出を承諾したのだ。
騒動を起こしてしまった負い目からか、責任を感じた空はすっかり元気を無くしてしまっていたのだ。
それを何とか打開したいと言う、燐なりの決断であったと、さとりは理解している。
初めこそ、空は親友と離れる事に不安を抱き、実際燐が出て行ってからは、気持ちは塞ぎ気味であった。
だけれど、最近は、だいぶ落ち着き、以前の元気の良さが戻って来た様である。
だが、口では大丈夫と言う空が、自分を心配させぬ様、迷惑をかけぬ様、その実気持ちを張り詰めているのは明白であった。
だから、こうして燐に気付かれぬ様、お忍びで地上に赴いては、彼女の動向をお空に伝えているのだ。
それが、功を奏したのか知れないなと、さとりは思っていた。
「じゃあ、私は炉の午後の見回りに行って参りますね」
空は、そう告げると、作業服に着替えを済ます為に自室へと引き上げた。
さとりは、その姿を見送って、猫足のソファに身を埋め、地上に行ったついでに香霖堂で仕入れて来た本を開く。
斜め掛けの〈げろげろすわっぴ〉鞄から取り出したのは、〈迷宮草子〉と言う薄い仙花紙本である。
さとりは、ぬるくなった缶の中身を、氷で満たされたグラスに移し、ストローを差して、ちゅうちゅうと吸いながら、本に目を通し始めた。
氷が溶けだし、中身がだいぶ薄まった頃、空が着替えを済まし、部屋から戻って来た。
「何を読んでいらっしゃるんですか」
「――ねぇお空、迷宮と迷路の違いって、何かしら?」
空の問い掛けに答えず、逆にそう聞き返す。
戸惑いながらも、同じものじゃ無いのですかと、空は言った。
「違うのよ、迷ったり、中に何かを封じ込めたり、私達の知っている迷宮の概念とは、その殆どが、迷路の事を指しているの」
「は、はぁ」
よく分からない、と空は言葉にしたいのだが、何故か興奮したさとりの様子に、口を挟めない。
「迷宮は迷わないのよ、何故なら一本道で構成されたものなのだから」
「だったら、迷宮は一体何の為に存在するのでしょうか? 迷わないと言うのなら、迷宮自体に意味が無いのではないですか?」
深く考えずに、頭に浮かんだ疑問をそのまま言葉にする。
「通過儀礼」
また、訳の分からない単語が出たぞ、と空の顔はもう混乱で一杯だ。
「迷宮の中心にはミノタウロスと呼ばれる化け物が待っている、それを倒して引き返す事で、新たな成長を迎えるのよ」
「は、はぁ」
と、気の無い返事をするしか、空には出来なかった。
「迷宮を辿る事は迷わせる為で無く、己の今までの生き方と疑似的に向き合わせる事に等しい。そしてこの場合、ミノタウロスとは、自分自身の醜さであり、弱さであり、乗り越えるべき対象となって、姿を現すの」
「つまり、迷宮を進む者は、知らず知らずの内に、己自身と対峙させられる訳ですね」
「そう、そして各々のミノタウロスを倒して、出口へと戻る事は、新たな誕生を意味する。すなわち、迷宮とは――」
子宮、と感情の無い表情を貼り付けて、さとりは言った。
また謎な単語が出て来たが、話の流れからすると、何か生む為のものだろうと、空は検討を付けた。
「そして、ミノタウロスと向き合う事から逃げた者には、迷宮は容赦無く、その身を迷路と化して、惑わしにかかるの、化け物と言ったところで、所詮は自分自身、それに向き合う事は怖い事では無い、しかし、それすらも逃げる様な卑怯者には罰が下るの」
読んでいる本に視線を戻す。
「――なら、私には無縁の話ですね」
と、空は、地底に咲く太陽みたいに笑った。
「そうね」
本から顔を上げて、さとりは応える。
「貴女は最近、本当に良い顔で笑う様になりましたね」
――そうですか、と空は笑いながら、戸惑い顔である。
「だって、お燐も自分の出来る事をやって、生まれ変わろうと頑張っているんですもの、私だって負けてられませんよ。私が間違ってしまった時に手を差し伸べてくれたお燐の為に、ううん、違う、お燐だけじゃありません、さとり様やこいし様だってそうです、もし今度、誰かが間違ってしまった時に、助けてあげられる様に、誰よりも私は強くありたい、だから」
――落ち込んでる暇なんて、どこにも無いですよ、力強く空は告げた。
「そうですか」
「仲良くする事だけが、一緒にいる事だけが、家族だと思っていました。でも、それは違ったんです、それが全てじゃ無い、私は本当の意味でお燐やさとり様達と家族になりたい、私を笑顔にしてくれた皆と」
「私も、ですか――」
えぇ、もちろん、と空は言った。
さとり様は、私や、お燐の為となると、積極的に世話を焼いてくれた、それにはとても感謝している。
でも、自分の事、それに妹であるこいし様の事になると、その限りでは無い、それが空には歯痒かった。
放任主義と言う接し方だって、ひとつの家族の形であると、空にしたところで理解出来ている。
でも、優しくするだけでは駄目な様に、突き離すだけでは駄目なのだ。
今まで突き離して来たのなら、今度は抱き寄せてあげなければ。
そうでなければ、彼女達はこの先も、永遠に笑い合う事が出来ない。
「今度は、さとり様自身が、こいし様と共に笑える様に、私はお二人に笑って欲しいのです」
空のその言葉にさとりは、私が最後に笑ったのはいつの事だろうか、こいしの笑顔を見たのは、いつが最後だっただろうかと、そんな事が脳裏を駆け巡っていた。
だが、どう思い出してみても、こいしの笑顔は一向に浮かんでは来なかった。
「ねぇ、お空、貴女はこいしの笑顔を、知っていますか?」
「はい」
「それは――」
「さとり様、それは、さとり様自ら見付けるべきです、そして、さとり様ならそれを知っている筈です」
空は、憚る事無く、そう言った。
「ごめんなさい、私は笑い方を知らなくて」
「そんな事ありませんよ、私はさとり様の笑顔だって、知っているんですから」
「そうですか――いや、変な事を言ってすみません、引き止めてしまって悪かったですね」
また、本に目を落として、さとりは言う。
「いえ、では、行って参ります」
「えぇ、気を付けてね」
元気良く手を振りながら、空は点検へと向かった。



今、香霖堂に一台の黒塗りの車が横付けにされた。
ボンネットの先には、〈げろげろすわっぴ〉人形が、堂々とその存在感を放っている。
少しでも早く、涼を求めようと、その車から降りて、香霖堂へと飛び込んで行ったのは、「いつでもどこでもだれでも送ります」、がキャッチフレーズの〈お燐タクシー〉運転手の火焔猫燐である。
きぃ、ばたんばたんと、扉を揺らした先には、香霖堂の主人である森近霖之助がカウンターの向こうでグラスを磨き、その手前には、一か月前ぐらいから入り浸っている雲山とか言う、親爺が陣取って、でかい声で喚き散らしていた。
「いらっしゃい、燐」
「おう、これでまた燐霖コンビが顔を揃えたって訳だ」
と、何が面白いのか分からないが、雲山は豪快に笑っている。
「ほら、こっち来て座れや」
馴れ馴れしく、燐の肩を掴むと、自分の隣へと引き寄せた。
「なぁにすんですか、馴れ馴れしい」
と、燐はぴしゃりと雲山の手を払いのける。
「お前もか、お前もなのか、燐」
そう言ったきり、雲山は何かに耐えきれなくなったのか、カウンターへと突っ伏してしまった。
「気安く呼び捨てにすんじゃ、ねぇです」
追いうちを掛ける様な、燐の罵声が炸裂する。
「まあまあ、彼も悪気がある訳じゃ無いから。で、どうする、いつもの冷たい蕎麦で良いかい?」
「良いですッ」
燐の返事を聞くと、霖之助は手早く調理に取り掛かった。
本来、香霖堂は骨董屋として、商標登録してあるのだが、それはあまり意味を成していなかった。
確かに店の左側は骨董屋の体を保っているのだが、右側に視線を這わせると、そこはもう、立派なバーであった。
バー営業の許可を得ていない為に、普通なら違法なのだが、この幻想郷ではそんな事はあまり重要な事では無いらしい。
まぁバーと言ったところで、小洒落たオリジナルカクテルが出る訳でも、綺麗な創作料理が出る訳でも無い、簡単な軽食と飲み物が出ると言うだけの、鄙びたバーである。
だが、外見だけは主の趣味であるのか、ウエスタン風と言うか、西部劇でよく見る、砂埃が舞ってそうな酒場なのだ。
扉もあの、存在する意味があるのか無いのか微妙な、両開きのアレだ。
だけど文句は無い、人里と妖怪達の居住区域の丁度中間に建っている為に、燐の様に幻想郷中を走りまわる仕事を持つ者にとっては、休憩をとるのに格好の場所なのである。
「で、どうだい仕事の方は、上手く行っているのかい?」
作り終えた蕎麦を差し出しながら、燐に問い掛ける。
「まぁ、やっと軌道に乗ったってとこですかねぇ」
「そう、それは良かった」
と、眼鏡を拭きながら霖之助は微笑んだ。
「さっきも、人里から紅魔館まで、お客さんを運んだですよ」
そう応えて、蕎麦をずぞり、ずぞりと平らげていく。
燐が何故、タクシーの真似事などをしているのかと言えば、何季か前に起きた間欠泉騒ぎが遠因になっている。
彼女の大切な友人が訳の分からぬ、しかし強力な力を手に入れて暴走したあげくの騒動。
誰よりも友人の近くにいながら、その暴走が止められなくなるまで気付かず、誰よりも隣にいながら、そんな力を手にいれた事すら知らなかったと言う事実は、燐に、決して小さくは無いショックを与えた。
だけど、そんな事で彼女は絶望しなかった。
大切な人達を守る為には、このまま地底だけで暮らしていては駄目だと、考え抜いた末に、そう結論付けたのだ。
そして、お空が変な力を手に入れた地上の世界を知る事で、今度こそは、大切な人達を脅威から守り抜いてみせると、そう決意を固めたのだ。
その想いに助け舟を出したのが、ここの主人である、霖之助なのだ。
幻想郷では、整備された移動手段が未だ確立されていなかった事に目を付けた。
まぁ、ここに暮らす殆どの者は空を飛んで移動するので、果たして需要があるのか怪しいところはあったが、始めてみれば、それは杞憂に終わった。
最初こそ、たまに行き先を間違えて地獄に行ってしまったり、トランクから何か腐臭が漂ってくるなど、苦情も多く殺到したのだが、運転手である燐の誠実な人柄に触れて、少しずつ顧客が増えて行き、今は何人か常連さんも付いている。
調査をした訳では無いので、細かい事は分からないが、幻想郷には思いの外、空を飛べない人妖もいるらしい。
それに加えて、評判を聞き付けた空を飛べる人妖達まで、わざわざ〈お燐タクシー〉を利用する様にもなっていた。
「ずぞりずり、ぶっはぁ、――ふう、ご馳走様でした」
お幾らでしたっけと、お椀をカウンターの向こうに返しながら燐は問い掛ける。
「いやいや、お代は結構だよ、いつも無料で乗せてもらってるからね」
「そですか」
会計を済ませようと懐から出した、小銭入れの袋には、可愛らしい鴉と、開かれた眼球、閉じた眼球とがそれぞれ一つずつ描かれている。
ところどころ、縫い目が荒く、糸が解れたりしているが、それがまた愛嬌たっぷりであった。
「可愛い財布じゃねぇかよ」
それを認めて雲山が声を掛ける。
「へへ、地上に来ると決めた時に、お空の奴が縫ってくれたんですよ、あたいの宝物ですだよ」
「たまには、帰ってるのかい?」
「いや、でも今度のお盆には帰省するつもり」
「そうかい、それは喜ぶだろうね」
そう言って、二人は笑い合う。
「おい燐、お前、霖之助の奴には懐いてんのな」
不貞腐れた様に、雲山が告げた。
「俺だって、包容力には自信があるぜ」
と、告げて、頼んでもいないのにTシャツを脱いで、その鍛え上げられた肢体を晒す。
「いや、遠慮するですよ、何と言うか暑苦しいですだよ」
「――かッはぁ、出た、出たよ、暑苦しい、もうそれ俺を追い詰める常套句だよ」
と、何だか良く分からないが、雲山は脱いだシャツの裾を噛み締めながら、勝手に悶絶を始めている。
「なぁにが、雲山の後には、もうお風呂に入りたくねぇだ、浮いてる縮れ毛がセクハラだってッ? ふざけた事抜かすんじゃねぇ、手前ぇらの後に入ったって縮れ毛は浮いてんだよッ! 俺のがよっぽど不愉快だよッ」
その健啖ぶりをいかん無く発揮して、雲山は吠える。
「お、落ち着いてくれよ、雲山、あと迷惑だから服を着てくれ」
「煩せぇ、霖之助、お前に俺の気持ちが分かるってのか、自分の下着だけ洗濯されずに、ばい菌でも付いてる様な手捌きで、箸で摘ままれて川で濯がれてるんだぞ、あぁ、何だ、俺の下着はしゃぶしゃぶかッ!」
ドン、と力一杯カウンターを叩きつける。
「あ、洗ってくれるだけ良いじゃないか」
「そりゃ、昔の話だよ、今じゃ洗濯場に出しても、気付けば屑籠に放り込まれてんだよ、それを拾っては戻す俺の気持ちが分かるのか? これ屑籠に入ってたけど、間違いだよねって、聞いて回るんだぞッ、それでも気付けばまた屑籠だ、だから結局最後は自分で洗うんだよ、惨めだぞ、あれは。だから今じゃもう使い捨てよ」
「そ、それは環境に良く無いし、勿体ないよ」
「じゃあ、どうすんだよ」
「別れた奥さんに戻って来てもらえばいいじゃないか?」
「かぁッ」
――下らねぇ事、思い出さすんじゃねぇよ、と今にも痰でも吐き出しそうだ。
「あぁ嫌だ嫌だ、あんな婆ァとまた暮らすなら、まだ命蓮寺に戻った方がマシってもんよ」
「なら、戻りなよ」
「嫌だよ、あそこにはもう俺の居場所はねぇんだ、皆が誤った道に踏み込まない様に、口酸っぱく言やぁ、お前は小姑か、それで黙りゃあ、何を考えてるか分からない、気持悪い、勝手な事抜かすんじゃねぇッ!」
ばりん、と雲山が抱えていたグラスが砕け散る。
「あぁあ、命蓮が生きてた頃が懐かしいぜ」
「誰です、それ」
と、燐が持ち前の好奇心を発揮して問い掛ける。
「白蓮の弟でよ、命蓮寺の名の由来でよ、そんでもって、皆の中心でよ、皆から慕われてよ、こんな俺にもあいつは優しかったよ、たまに厳しい事も言われたけど、嫌な感じじゃねぇんだ、これが」
「素敵な人だったんだね」
霖之助は割れたグラスを片づけながら、そう言う。
「おうよ、だからあいつが亡くなった後、命蓮の分まで、俺が頑張らなきゃと、今まで命蓮時の大黒柱として存在していた命蓮の抜けた穴を埋めようと、あいつの真似事なんかして、必死に大黒柱で在ろうとしたんだが、この様よ」
雲山は溜息ひとつ吐くと、自嘲気味に笑った。
「命蓮の代わりをするぐらいなら、いない方がマシって事だろうよ」
「――そんな事無いだろうに」
「まぁ、良い、つまらぬ昔話だ、そんな事よりな、俺の下着を洗ってくれる、新しい素敵な嫁さんを紹介してくれよ」
そう言いながら、雲山は燐にちらちらと熱い視線を送る。
「あたいは、そんな気、毛頭も無ぇですよ、昼間っから働きもせずに、酒ばっかり喰らってる、あんたみたいな駄目親爺はね」
――はぁ、と大袈裟な溜息が雲山から漏れる。
「昔はな、親爺ィ、親爺ィって、喜んで抱き付いて来たもんだよ、一輪も、村紗も、星も、ナズ公も、それをこの厚い胸板で受け止めたものよ。大人になったら、俺と結婚する、なんつって、皆で俺を取り合ったんだ、思えば、あれが俺の最も輝いていた時期だったんだなぁ」
「雲山――」
「もう、俺みたいに古めかしい、時代親爺はお呼びじゃ無いんでしょうかね、もう居場所は無いんでしょうかね、古き物は全て新しい物に駆逐されるのが運命なんでしょうかねぇ」
ねぇ、と酒臭い息が、吹き掛けられる。
「そ、そんな事も無いだろうよ」
余りに、雲山の置かれた状況が惨いものだったので、霖之助はフォローを入れた。
「安っぽい慰めは結構だよ、分かってんだ、あの自動販売機を見てりゃ嫌でも分かる。やっぱ魅力あるよな、新しい物ってのは、それに比べて俺なんか、もう何も与えてやれんからな」
「ほら、少し呑み過ぎだよ、雲山」
そう告げて、新しく焼酎の入ったグラスを取り上げようとするが、それを遮って、さらに御代りを注文する。
「呑ませてくれ、もう死んだって良いんだッ」
「そんな事になったら、皆悲しむよ」
「いいんだいいんだ、俺の末路は誰にも看取られない孤独死と決まってるのさ、遺骨は野晒しにされて、この大地に還るんだ、いいんだいいんだ、ふん」
と、強引に焼酎を呷ると、そのまま雲山は倒れ込んだ。
「あぁあ、完全に悪酔いだわね、こりゃ」
燐は呆れを隠さずに、そう言葉を零す。
「――そうだね」
「じゃあ、あたいは仕事に戻るですよ」
「あぁ、午後も頑張ってね」
「おう、じゃあ俺も午後は、霧の湖にでもお邪魔するかな、あそこは涼しくて過ごしやすいからな、おい燐、ちょいと乗っけてってくれや」
先払いですだよ、と燐は凛として手を差し出す。
「――お、俺からは、金とるのかよぉ」
Tシャツに顔を埋めて、おいおいと泣きだした雲山を無視して、燐は仕事に戻った。
「また明日の昼にお邪魔するですッ」
と、元気良く手を振って、外へと向かう燐と、入れ替わる様に新たな客が現れた。
きぃ、ばたんばたん。
「あぁ、お燐ちゃん、だったわね」
すれ違い様に、声を掛けられて、燐はびくりと反応した。
別に驚いた訳では無い、猫はもともと警戒心が強い為の、過剰な反応である。
「は、はい」
「今度、地霊殿に戻ったら伝えてくれるかしら、紅魔館の自動販売機に買い物に来るのは構いませんが、穴を掘って真昼の寝静まった時間帯にこっそり侵入して来るのは止めてもらえるかしら、と。せめて戻る時には穴を埋めていく様に、と。あぁも、地面にぼこぼこと穴を開けられたら堪りませんわ、別に拒んだりしませんから、堂々と正面からいらっしゃい」
「は、はぁ、伝えておくです。で、でも悪気は無いと思います、さとり様は人間不信と言うか、何と言うか――」
と、燐は言葉を濁しながら、何とか返事をする。
「それから、残していったシャベルも全部保管してありますから、ついでに回収して下さいね」
「は、はい」
「えぇ、よろしくお願いしますね」
一つ頷くと、燐は去って行った。
「こんな時間に君が訪ねて来るなんて、珍しいね」
「瀟洒なメイドは、いつ何時でも、主の命令と在れば働くものですわ」
「そう、それで今日はどうしたんだい」
――本を探しているのです、と十六夜咲夜は告げた。
「本? それは何の本だい」
「自動販売機についての本なのですが」
「はぁ、と言うより、それならば僕のところに来るより、君のところの図書館に行った方が良いんじゃないのかい?」
――もう尋ねましたわ、と豪く艶かしい表情で応える。
「検索してもらいましたが、該当するのが〈懐かしのビニ本販売機〉と言うよく分からない本しか無いのですわ」
「それは困ったね」
そう呟きながら、霖之助は咲夜の前に純白で満たされたグラスを置く。
「あら、私はまだ何も注文していませんのに」
あちらのお客様からです、と霖之助の視線の先には、顔の下半分を真っ白な髭で覆われた、上半身裸の男が、カウンターに突っ伏したまま顔だけこちらに向けて微笑んでいる。
咲夜はそれを確認すると、そのまま差し出されたグラスを、乱暴にテーブルを滑らして、髭親爺へと返した。
「いでッ」、との言葉と同時に、グラスが額に当って止まる音が聞こえる。
「牛乳で口説かれる程、安い女ではありませんの」
慇懃に言って退ける咲夜の表情はとても綺麗で、まさに花も恥じらうと言った、それである。
苦笑を零す霖之助に気まずくなったのか、雲山は返された牛乳をごくごくと流し込んで行く。
そしてまた、拗ねた様に倒れ込んだ。
「ミモザを頂けるかしら」
「就業中じゃないのかい?」
「じゃあ今は休憩中、それにどうせ私を咎められるお方は、今頃ぐっすりと寝ていますわ」
その台詞に頷くと、手早くステアして、カクテルグラスに注いでいく。
幻想郷で最も豪華なオレンジジュースと称される、淡い橙色が、彼女の手に収まる。
ついっと、喉に滑らせば、見ているこちらまで、涼しくなる様な、そんな不思議な気分を味わえる。
「ちょっと、待っていなさい、今本を探してきて上げるから」
咲夜はそのままスツールに腰掛けて、カクテルを傾ける。
端に座る髭親爺から、発酵しすぎたなら漬けの様な匂いが発せられている事を除けば、文句の言いようの無い店である。
壁には〈げろげろすわっぴ〉が描かれたホーロー看板。
懐古趣味的な、何だか懐かしい気分に浸れる、心地よいバーである。
ちらちらと、己に向けられる鬱陶しい視線を受け流しながら、カクテルを楽しむ。
そして、しばらくすると、埃を叩き落としながら、一冊の本を携えて、霖之助は戻ってきた。
「こんな本しかなかったけど、お役にたてるかな」
記されたタイトルは、〈泣き叫び命を燃やせ自動販売機!〉、と言う、まぁ図書館の本よりはぎりぎりマシだろうと思われる微妙なものであった。
それを受取って、咲夜はぺらぺらと無造作にページを捲って、内容を大雑把に確認している。
「宜しいですわ、これ頂けるかしら?」
はいはい、と応えながら、本を紙袋に仕舞って、封をする。
「カクテルと合わせて、お幾らでしょうか」
「次は、君のとこのお嬢さん達を連れて来てくれれば、僕はそれで充分」
「そうですか、それでは、その言葉に甘えさせて頂きますわ」
咲夜はそう微笑んで、最後までその瀟洒を崩す事無く、香霖堂を後にした。
「――おい、霖之助、誰だ、あのめんこい娘さんは」
「紅魔館のメイド長さんですよ」
「で、お前さん達は一体どういう関係なんだ? 随分親しい様に見えたが」
――ただの店主と、お客様ですよ、と霖之助は応える。
「本当か? いつもより頬が緩んでたぞ、実のところホの字じゃあねぇのか、お前さん」
「僕なんかは駄目ですよ、相手が女性となると口下手ですから」
「関係ねぇだろ、男なら黙って行動で示しゃあいい」
ははは、と霖之助は苦笑する。
「はぁ、それにしても、お前の店には、あんな綺麗な子が他にも来んのか?」
まぁ、いろいろ来ますからねぇと、片付けを始めながら応える。
「俺、この店に就職しようかな」
「給料は出ませんよ」
そう言って、霖之助はギムレットを作る。
客にでは無い、お昼の仕事を終えた、己への一杯である。
一口甞めて、さぁもう一踏ん張りと、霖之助は午後の仕込みへと入った。



「あの、幽々子様、ここは避暑地じゃ無いですよね」
「もちろん、違うわよぉ」
嫣然たる仕草で、扇を繰っているのは、ここ白玉楼の主である西行寺幽々子。
「では、排除致しましょう」
眼光鋭く、一文字に切れ上がった眦を示すのは、庭師兼、幽々子の剣術指南役を務める、魂魄妖夢である。
――あらあら、良いのよ、妖夢、そんな無粋な事はしないで頂戴、と刃を今にも抜き放とうとする、彼女を止める。
「ですが、宜しいのですか、奴らの傍若無人な振る舞いは、眼に余ります」
妖夢の視線の先には、堂々と佇む、西行妖。
の、下で連日の宴を繰り返す、地底の鬼達が映っていた。
いつ現れたのか、萃香や天人コンビまで加わっている、せめて新しく来たのなら、白玉楼の管理を担う幽々子様に一言挨拶を入れるべきでは無いか、それが筋を通すと言う事では無いのか。
義憤にも似た、怒りを妖夢は必死に抑えていた。
ここは冥界の中でも特に、亡霊が集まりやすい場所の為、年間通して常に涼しいのだ。
だから地上が夏を迎えると、その暑さから逃れる様に、あらゆる人妖が自然と引き寄せられるのは当然の事であった。
まぁ確かに、旧灼熱地獄なんてところで夏を過ごすなど、考えただけで地獄である。
太陽に近い、天上なんて、地獄そのものであろう。
だから、ここに逃げ込みたくなる気持ちは理解出来る。
だが、それならば、礼節をしっかりと弁えるべきだ。
あくまでも、客としての節度を守れば、妖夢とて、もてなすべき客人として扱うのだ。
しかし、あの鬼達と天人達と言えば、酒を喰らっては喚き散らすばかり。
そこかしこに転がる焼酎の空き瓶には、徳利を持った〈げろげろすわっぴ泥酔Ver〉が描かれ、〈悪酔 上から下からさま〉と銘が打たれている。
我慢ならず、一度、天子に辻斬りよろしく、不意に襲いかかったのだが、何だか嬉しそうだったので、気を削がれてしまった。
「楽しめばいいのよ、貴女も」
「は、はぁ――」
了解しかねると、そう言った思いが妖夢の声には混じっている。
「貴女、庭でも何でも、汚れるとすぐに掃除してしまうでしょう」
「それも務めですから」
そうじゃ無いのよ、と幽々子は告げて、冷えた茶をひとくち飲んだ。
「秋には落ち葉、冬には名残り雪、春には散った花弁、本当はそれが景色を彩るのよ」
「残しておけば、逆に景色を損ねると思うのですが」
「転ずるものを、在るがまま受け入れる――」
それが、この国の心よ、とまた扇をひと煽り。
「そう思えれば、あの喧騒だって、あら不思議、素敵な祭囃子」
その言葉に、再度妖夢は西行妖の麓に視線を凝らす。
巨木である、妖怪桜を囲んで鬼達と天人達は一緒になって踊り始めている。
「ひとつ積んでは酒の為ッ、ふたつ積んでは鬼の為ッ、みっつ積んでは――」
と、訳の分からぬ文句を謳い上げながら、
「あッ、えぇじゃないか、えぇじゃないか、すちゃらかぽこぽこ、すちゃらかちゃッ! それッ、えぇじゃないか、えぇじゃないか」
支離滅裂な振り付けで踊りながら、西行妖の回りを練り歩いている。
――何なのだ、それは。
その陽気な姿に、妖夢は何だかおかしくなってしまい、自然と笑みが零れた。
そんな事をしていれば、余計に暑いだろうにと思うのだが、暑さを以って、暑さを忘れると言う事なのか。
宴で発散される熱は、暑さとは別のものなのかも知れない。
「さぁ、貴女も混じってらっしゃいな、妖夢」
「い、いえ、私は」
「あら、どうして?」
無垢な顔で、幽々子は問い掛けて来る。
「私はその、何だか暑さと言うものが、よく分からないのです。生命の持つ、熱と言うものの存在が」
そう、半分亡霊でもある妖夢には、理解し難いものである、と言うのは当たり前の事。
まぁ、幽々子様なんか、全身亡霊なのでもっと分からなそうであるが、そんな事は無かった。
本来なら、扇で煽ぐ必要など無いし、飲み物をわざわざ冷やす必要だって無い、でも幽々子様はそれをあえて要求するのだ。
幽々子様の完璧な従者であろうとすればする程、その感覚の違いが歯痒かった。
「そう――」
そう告げて微笑んだ幽々子の顔は、何だかとても儚く見えた。
「妖忌も似た様な事を言っていたわね」
「爺様が、ですか?」
そうよ、と幽々子は微笑む。
「全てを斬るには、運命を斬る必要があり、運命を斬る為には、魂の持つ熱を理解する必要がるのだと、そう言っていたわ」
「爺様にも、そんな時期が在ったのですね、未熟な私と同じ」
「それはそうよ、誰だって、初めから完璧な訳じゃ無いわ」
「でも、爺様は、理解し、運命を斬ったのですね」
「さぁ、どうかしらね」
妖夢の問いを軽くかわして、ころころと笑う。
――いや、爺様は確かに斬ったのだ。
そして、全てを斬る為に、ここ白玉楼から去ったのだろう。
――遠い。
爺様の背中は何て、遠いのだろうか。
そんな感傷的な妖夢の気分は、ばりぼりと豪快に砕かれる煎餅の音によって掻き消された。
音の主は、襖一枚隔てて、向こうに佇むであろう、上白沢慧音か稗田阿求のどちらかだろう。
それを確かめる為に、立ち上がり、勢い良く襖を開け放つ。
驚いた様に顔を上げたのが阿求、何食わぬ顔で煎餅を齧っていたのは慧音。
「――貴女は、ここに何の為に来ているのですか」
思わず声を荒げて、慧音に突っかかる。
「んっ? あぁ、妖夢か、いいよいいよ、どうかお構いなく」
と、視線を合わす事無く言って退ける。
彼女達二人は、紫様に夏の間だけ預かってくれと頼まれた、正真正銘、大切な幽々子様のお客様である。
阿求には、幻想郷縁起と呼ばれる書物の執筆と言う大事な仕事があるので、夏の間だけ、白玉楼で暮らす事になったのだ。
阿礼乙女と呼ばれる人種は寿命が極端に短く、その為身体も弱く、暑さ寒さなど以ての外である、だから暑い夏でも、執筆が捗る様にとの紫様の配慮である。
その付添で共に訪れたのが、慧音である。
彼女は阿求とは気心の知れた仲であるから、選ばれた訳である。
しかし、阿求は毎日、朝から執筆に勤しんでいるのだが、この慧音と言ったら何をするでも無く、阿求の横で人里から借りて来た漫画を読み漁っていると言うのが現状である。
今は、寝そべったまま、座布団を丸めて枕にし、片手には煎餅、もう片方の手で器用にページを捲っている。
たまに、思い出した様に鼻を穿っては、取り出したブツを、ぴんッと畳の上に放っている。
「あれだけは、あれだけは斬らせて下さいッ!」
「そんな事より、私達もそろそろ夜の晩餐にしましょうよ、妖夢」
いきり立つ妖夢を、軽くいなしながら幽々子は告げる。
そのまま、妖夢の手を掴んで、厨房へと消えて行った。

「――ねぇ、慧音さん、いくらなんでも少し怠けすぎじゃないですか」
阿求が遠慮気味に声を掛ける。
「別にいいんだよ、私だって夏休みだ。これが終われば秋からまた寺子屋が再開するんだ、それまでに英気を充分養っておくんだよ」
そう応えながら、むくりと起き上がると、溜まったブツをころころと丸め始める。
ちょっとした泥団子ぐらいの大きさだ。
そして、それを砲丸投げの選手よろしく、大きく振りかぶると、綺麗なフォームで外へと放り投げる。
するとすぐに、「ギャーッイクサーンッ!」、と言う悲鳴の様なものが聞こえた。
「すぐに、永遠亭の先生様に連絡だッ」
と、鬼達の焦りを浮かべた声が白玉楼中に走っている。
――うわッ、当たってしまった、と狼狽した様な声を、慧音は漏らした。
「おい、誰にも言うなよ」
と、阿求に向き直りながら、しっかりと釘を刺す。
「言いませんよ、こんな事恥ずかしくて言えません」
筆を置いて、そう応える。
「あの、慧音さん」
「何だ――」
「歴史って、一体何でしょうね?」
新しく墨を磨りながら、阿求は呟いた。
「どうしたんだ、急に」
「私には、荷が重いですよ」
と、苦笑する。
「気追って、歴史を記さなければと思えば思う程、書き上がるのは幼稚な日記染みたもの」
そうか、と慧音は阿求から何となく視線を外した。
「最近なんだか、よく分からなくなってしまって。このまま幻想郷縁起を書き続けたところで何になるんだろうって、初めはこれが幻想郷の歴史になるんだって、そう教えられて、それで納得してたんですけど、本来幻想郷には歴史は存在出来ないって。だから、じゃあ私は何の為に書くのだろうって、私の歴史は一体何なんだろうって、誰か答えを持っていませんかね」
「――阿求」
「駄目ですかね、でもこの疑問が私を絡め取るんです」
――何か、それが苦しいんですよね、と硯に水を足す。
「ここのところ夜、眠る度に思うんですよ、私はあと何回、目覚められるのだろうか、私のこの命は何を残せるだろうか、実はこれっぽっちも意味など無いのではと」
少し、震えた阿求の声。
「外の世界に限って言えば、歴史ってのは、哲学の積み重ねで成り立っていると考える事が出来る。もっと簡単に言えば世界への疑問の自覚と、自力による答えへの到達。その繰り返しこそが、やがて歴史になるのだ」
「哲学の繰り返し、ですか――」
そうだ、と慧音は頷く。
「偉大なる疑問が、新たな時代の扉をつねに開いて来たのだ。知りたいと言う思いが、歴史を前に進めて来たのだ。答えとはいつだって己で探し、見付けるものなんだ、歴史とは何かを知りたいのなら、それを踏み外してはならない、与えられた答えを、己の答えと錯覚する――」
それはもう、哲学では無く、ただの宗教だ、と慧音は言った。
「宗教は、必要ありませんか」
「――そんな事は無い。けど君は違うだろう、どんな哲学者にも負けない、誇るべき疑問を抱いている、その答えを他者に頼ってしまうのは勿体ないと、そう思うのだ」
「でもね慧音さん、宗教はお手軽なんですよ、すぐに答えをくれるんですよ」
墨を磨る手を休めて、阿求は告げる。
「それじゃ駄目だと――」
「慧音さんも今、言ったじゃ無いですか、それは外の世界に限って言えばだと。でもここは幻想郷です、ここでは何が歴史になるのですか、私のしている事は、本当は何なんですか?」
「それは――」
「分かっています、慧音さんの言っている事は本当にその通りだと思います、自分自身で答えを探求するのが正しいと、それでも――私には、時間が無いんですよ」
充分に哲学出来る時間なんて、無いのです、と阿求はさらに声を沈めた。
夏の日を一瞬彩っては消える、線香花火そのままに、彼女は儚くて。
「私一人に与えられた時間は、あまりに短い――」
「一人じゃない、二人だ」
今にも消え入りそうな阿求の背をしっかり抱き締めて、慧音は告げた。
「私だって、歴史に携わる者の端くれだ、その疑問には興味がある。だから共に探そう」
――二人なら時間は半分だ、とそのまま、そっと耳元に呟いた。
慧音の腕にもたれ掛かる阿求の姿は、淡い雪洞の灯りに浮かぶ映し絵の如く。
艶と濡れた、幻燈紙芝居。
阿求から零れた、雫をそっと拭うと、また鬼達の喧騒が戻ってきた。
どうやら、怪我人が出た為に止まっていた宴が再開したようだ、夏はまだ終わらない。



永遠亭に設えられた医務室にまた、一人患者が運び込まれた。
今年の夏も、相変わらずの気温で、熱中症で運び込まれる若者や老人の数も例年通りであった。
その為、この時期になると、ここ数年は忙しくなると言うのが通例になっている。
その患者に適切な処置を施すと、永琳はやっと腰を下ろした。
「さて、これで何とかひと段落ね」
「お疲れ様です、お師匠様」
ふうと、一息付いた永琳に、労いの言葉を掛けて冷えた飲み物を差し出したのはうどんげである。
「ありがとう、それで悪いんだけど、人里まで行って、熱中症予防の注意書きを届けて来てくれるかしら?」
えぇッ、と露骨に嫌そうな声が返ってきた。
「別に後でいいじゃないですか、今行かなくったて、全然平気です。それに予防なんてしなくたっていいんじゃ無いですか」
「備えあれば憂い無しよ」
「だって、幾ら注意しろって忠告したところで聞かない奴は聞きませんからね、だったら運び込まれた連中だけ診ればいいんですよ」
――そっちのが効率がいいですよ、ねぇそうしましょう、お師匠様、とうどんげは提案する。
「わざわざ私達がそこまで労力を使う必要ありませんって、ただでさえ忙しいんですから、ちゃんと休まなきゃ、こっちがぶっ倒れてしまいますよ」
「私は医者よ、患者の為にやれる事をやっておかなければ、後で後悔する事になる、それは嫌なのよ。病気を未然に防ぐ、それも立派な私達の勤め」
聴診器を外しながら、永琳は告げた。
「はぁ――」
気の無い返事は、了解の意か、それとも否定か。
そう今、永琳の言葉に含まれた後悔と言う台詞に、うどんげは僅かばかり思うところが在るのである。
かつて彼女は全てを投げ出して、月から逃げて来たと言う境遇なのだ。
そして、どう言う訳かこの永遠亭に辿り着き、保護されたのだ。
その為だろうか、あらゆる物事に冷めた反応で、何と言うか無気力なのだ、何とか言い繕っては逃げ出す癖が着いてしまっていると言うのだろうか。
そんな彼女が慕う永琳は、何とかしてあげたいとは思うのだが、これはいかんせん、己の問題であるのだから、解決するのは己でなければ意味が無いと、そう理解出来ているのである。
だから永琳は、少しばかりうどんげに対して歯痒い思いを抱いている。
何か、うどんげの為に出来はしないかと、医者としての技術、心得を教えたりもした。
そして、もともとその能力自体は非凡な為、彼女はすぐに覚えた。
それどころか、教えた以上の事を学びとってくれたと、自負している。
永琳はすでに、彼女が一人の医者として、立派にたち振る舞えるとさえ思っている。
だが、当の本人に全くそんな気が無いのだから仕方が無い。
お願いした事は、そつなくこなす、だがそれだけ。
己から動く事は、まず無いと言えた。
いくら、弟子だからと言って、その運命まで縛れる権利は持っていないし、それを強制するつもりも永琳には無かった。
ただ、彼女が過去に縛られ、後悔に押し潰されぬ様にと、それだけを願っている。
けれど、その想いはまだ、贔屓目に見積もっても当分届きそうも無かった。
うどんげは、己に医者としての自信が持てないのでは無く、己には、救うなどと、そんな大それた事を仕出かす価値など無いのだと、そう思い込んでいる様だった。
月から逃げだした、その延長に己の人生は置かれているのだから、そう卑屈に構えてしまうのも無理の無い事ではあった。
そんな無気力な彼女を、てゐが面白がってからかうものだから、うどんげはまた塞ぎ込む、その悪循環が、拍車を掛けていた。
それが、器用を装うくせに誰よりも不器用な、てゐなりの気の回し方だと分かっているから、永琳としたところで止められない。
「ね、お願いよ」
優しい声音で、永琳は訊ねる。
「――分かりました、では、行って参ります」
よいしょと、紙の詰まった籠を背負って、うどんげは出発の準備を整えた。
「ありがとう、貴女が戻ってきたらお昼にしましょうね、今日はてゐが川魚を釣って来てくれたから、塩焼きにして、皆で食べましょう」
「ふぁい」
と、気の抜けた様な声で、応えると、とぼとぼと竹林を歩いて行った。
「価値が無いと、貴女は言う。でも――」
そんな貴女が、慕ってくれる私の立場は、どうなるのかしら、と独り言が漏れる。
客観的な私の立場などどうでもいい、だけどその卑屈さが、自分の大切だと思うものの価値まで無くしてしまっている事に気付いて欲しい。
その事を、一日でも早く、自分で気付いてくれますように、と永琳は願わずにはいられなかった。
「――永琳、急患だよッ、受け入れられる?」
てゐの緊張を漲らせた声が聞こえた。
「大丈夫よ、誰? どうしたの?」
聴診器を掛けながら、永琳は立ち上がって、てゐの元へと急ぐ。
「天人とこのお守り、頭に何か泥団子みたいなのが当たったんだって、凄く血が吹き出してるって!」
「分かった、すぐに部屋に運んで、そしたら手術の準備をお願い、今うどんげ外に出ててるのよ」
――はいはい、了解しましたよ、と担架を運びながら、てゐは応えた。
両手を丁寧に洗浄すると、永琳も急いで手術の準備に取り掛かった。



「なぁ、にとりや、ご飯はまだかな?」
「いやいや、今まさに食べてるじゃ無いですかッ」
「そうだった、そうだった」
むしゃむしゃと、咀嚼しながら天魔は食べ滓を撒き散らして、豪快に笑った。
並べられているのは、紅魔館の食堂から朝昼晩と宅配されて来る料理達である。
一体天魔と紅魔館の間に、どの様な契約が成されているのか、にとりは知る由も無かったが、どうやら無期限、しかも無料であるらしかった。
何か、紅魔館の弱みでも握ってるんだろうかと、にとりはそう考えている。
「そうですよ、しっかりして下さいよ、天魔お婆ちゃん」
にとりは、顔にひっついた食べ滓を丁寧に脱拭いながら、声を掛ける。
「私はねぇ、まだお婆ちゃんなんて呼ばれる歳じゃ無いよッ」
年相応に皺苦茶な顔で、天魔は吠える。
「はいはい、分かりましたから、さぁ、ご飯を食べましょうね」
「わ、分かってるわ、――ご、ごふッ」
「あぁ、ほら、そんなに急いで掻き込むからぁ」
優しく手拭いで口元を拭きながら、にとりは言った。
「なぁ、にとりや、ご飯はまだかな?」
食卓を囲んで、もう既に五度目になる、その言葉に、にとりの顔から血の気が失せて行く。
天魔は数カ月前から、目に見えて衰弱してきているのだ。
かつて、この幻想郷の制空権を、一手に握っていた、その姿は最早、見る影も無い。
天狗とは、その名の示す通り、天駆ける狗の事であり、彼女が空を駆けるその姿は、流星に例えられた。
あらゆる、人妖はその可憐ながらも力強い姿に、畏怖と共に尊敬を以って接して来た。
だが、その天魔はもう、僅かだって、空を飛ぶ事さえ出来ぬ程に、弱っていた。
「て、天魔様――」
「冗談だよ」
あっはっは、とまた笑い始めた。
「もう、冗談にしたって、笑えませんよ、下らない事ばっかりしてると、見捨てますよ」
「それは、困る」
と、少しも困らなそうな声音である。
「なぁ、にとりや――」
「もう、知りませんッ」
ぷいっと、にとりはそっぽを向いて応えた。
「――忘れるとは、怖い事だな」
「えっ」
「歳をとるとは、もっと素敵な事だと思っておった。だがどうだ、残ったのは、この骨と皮ばかりの情けない身体と日に日に弱気になる脆弱な心だけ、重ねてきた記憶の何と頼りない事か、きっとお前さんにも迷惑を掛けている事だろうなぁ、とっくに嫌われていて当然だ」
「そ、そんな」
「今まで、ありがとうなぁ、にとり」
――あ、頭を上げて下さいと、焦った様な声が上がる。
「きっと、私はこれから、もっと忘れ物が多くなるのだろうなぁ。その顔も忘れてしまうのだろうなぁ、感謝の言葉すら伝えられなくなるのだろうなぁ、それは寂しいなぁ、怖いなぁ」
そうして抱きとめた天魔の肩は、いつも以上に薄く思えた。
「そんな嫌な婆さんになり下がったその時は、遠慮無く嫌ってくれ、容赦無く捨ててくれ。歳をとってまで、若い者達に迷惑を掛けたくないのだ」
「そ、そんな事しませんよ」
ありがとうなぁ、ありがとうなぁ、と取り憑かれた様に天魔はそう繰り返す。
優しく肩を撫でて、もう分かりましたって、充分ですよと、にとりは諭す。
「いいんだ、言わせておくれ、覚えている内に、私が私である内に、きっと言い逃した分も数え切れぬ程あるのだろう」
「天魔様――」
「惨めだのう、嫌な婆さんだのう、今だってお前さんが優しい言葉を掛けてくれるのを期待しておったのだ、迷惑は掛けたく無いと口では言っておきながら、その実、情けを買って、にとりの人生にまで喰い込もうとしているのだ、呪いで縛ろうとしているのだ、なんて卑怯なんだろうか」
「す、少し、暑くなってきましたね、扇風機でも付けましょうか」
そう言って、にとりは立ち上がる。
「――このままで、良い」
扇風機を持ってこようとする、その腕を掴んで天魔は言った。
「この歳になるとな、何もかもが愛しいのだ。この暑い季節もそう、もう夏を迎えるなど、片手で足りるぐらいしか無いのだろうと、そう思うと、この暑ささえも愛おしくてたまらんのだ」
「まだまだ片手じゃ足りませんよ」
「碌に覚えてもいられんのに、おかしな話と思うだろう?」
「いえ――」
「それに、どうも自動と言うのは年寄りには抵抗があってな」
その言葉に、にとりは団扇をそっと差し出して、ゆっくりと天魔を煽ぐ。
「新しいものと言うのは、どうにも接し方が分からんで」
そう言って、見上げた天魔の先には、所狭しと掛けられたロングコートの群れ。
その下には、恐らく天魔が縫ったり繕ったりしたであろう、洋服達が綺麗に畳まれていた。
「昔は、幻想郷一のハイカラさんだと、そう言われたものだ」
「そうなんですか?」
「色白のハイカラ娘だと、幻想郷中の男達が、この天魔に群がったものじゃ」
かっかっか、と豪快に笑う。
――だが、今となっては私のセンスなど、黴が生えていると、そう笑われるのだろう、と寂しそうに言った。
「私のお古など、誰も喜ばんだろうな」
「そんな事無いです、引き取り手がいなかったら、私が貰いますよ」
――いいんだ、その時は捨てるか、再利用でもしてくれと、天魔は続ける。
「して、紅魔館に来た、新しい自動販売機とやらはどうなのだ?」
「はぁ、幻想郷にとって新しいと言うだけで、特に突飛すべき事柄はありませんよ、もうすっかり溶け込んでいます」
「異変の心配は、ありゃせんかのぅ」
――異変ですか、意外な問い掛けに、にとりは瞬間言葉を失った。
「なに、異変が起きると、そう言う訳では無い、ただその心配は無いのかと尋ねているんだ。別に深い意味がある訳では無いよ」
「――大丈夫、だと思いますけど」
「そうか、それなら良い、年寄りの戯言だと忘れておくれ。紫の奴も、もう今じゃ立派に幻想郷を管理している様だが、昔は危なっかしくてな、見ておれんかったものだ。その度に余計な事をするなと、怒られたものだ」
くっく、と懐かしそうに微笑んだ。
「吸血鬼の姉妹にもな、風邪を引かぬ様にとなセーターなんか編んでやったんだが、私達は風邪なんか引かないからと、冷たくあしらわれたものだ、まぁ受け取ってくれただけマシかもしれんがの」
「――そんな事があったんですか」
「老人の悪い癖だ、もうとっくに成長していると言うのに、どうしても子供の様に思ってしまう、ついつい気を掛けてしまうものだ、それがまた嫌われる要因になると言うのにな」
一陣、涼しげな風が部屋を駆け抜けていった。
「では、天魔様、今夜はこれで失礼します。戸締りはきちんとして下さいね。明日はまたいつもの時間に来ますから」
「――明日からは、もう良いのだ」
「はい?」
「今まで、ありがとう、とそう告げた筈だ」
「仰ってる意味が、良く分からないのですが――」
己の死期は、己が一番よく分かっているものだ、と天魔は応えた。
「もう一度、言います。意味が――」
「あらゆる天狗達と河童達を従えて来た天魔であるぞ、この国の大魔縁と恐れられた天魔であるぞ、引退したと言えついこの間まで妖怪の山を統べて来た天魔であるぞ、その天魔を優しさで溺れさせて殺す様な真似をしないでくれ」
にとりの台詞を強引に引き千切る。
「何ですか、それッ、自分勝手にも程がありますッ!」
「分かっておる、身勝手なのは充分承知、今までのお前さんによる献身を無にする事も分かっておる、だがな、こんな薄っぺらな身体にも誇りが残っておるのだ、頼り無いこの記憶にも僅かな魂が残っておるのだ、守るべき矜持が残っておるのだ――」
分かっておくれ、と、天魔は俯いたまま告げた。
「これ以上、醜態を晒すのに、耐えられないのだ」
「もう勝手にしろッ、そんなに矜持が大事なら、そのままくたばっちまえ! 矜持が何をしてくれるってんだ、クソ婆ァッ!」
「――済まぬな」
「あんたなんてッ、大ッ嫌いだ!」
乱暴に扉を閉め、〈げろげろすわっぴ〉のリュックを背負って、にとりは駆け出して行った。
「お別れは、感謝の言葉と決めておったのに、なかなか上手く運ばぬものだのぅ」
その天魔の呟きは、鈴虫の奏でる夜の音に混ざって溶けた。
虫達の奏でる、自然の演奏会にしばらく身を任せていた天魔の瞼が、静かに閉ざされた。



第三章 やがて、惨劇の幕は上がり

「今日も、紅魔館は何事も無く、無事に終わりそうだ」
窓際に腰を下ろして、気だるげに、重たい色の煙を咲夜は吐き出している。
コチコチ、と時計の針が、静寂にそっと彩りを与えている、ここは十六夜咲夜の自室。
本日の業務を全てこなし、お風呂で疲れを落とし、就寝前の煙草を楽しんでいるところである。
だが、平穏無事な紅魔館と比べて、咲夜個人の事情となると話は違った。
そう、咲夜の財政事情は今にも爆発しそうである。
「今月もマイナスか、こりゃ早い内に何とか手を打たないと、本格的にやばいな」
広げた手帳を、難しい顔で眺めている咲夜。
「このままじゃ赤字王とか呼ばれかねない、紅い館だけに、ぷッ、ぷくく」
自分で言って、自分で笑っているのだから救い様が無い。
「冗談は置いといて、――どうにか勝てる方法は無いものだろうか」
手帳を閉じながら、深いため息が零れる。
パチュリーにはもう借りてるし、美鈴にも前に借りてるから、相談する訳にはいかないだろう。
レミリアお嬢様は、しばらく前から何の為か知らないが、毎月渡されるお小遣いを、大好きなお菓子を我慢してブタさんの貯金箱に貯め始めたと聞く。
だから、そんなお嬢様に相談するのは、もっと無理だろう。
「それにしても、醜聞を気にして、外では吸えないと言うのが、辛いものだ」
夏の日の夜明けは早い、もうじき陽が昇るであろう。
だが、紅魔館は深い森の中に在るので、少しばかり、その恩恵がもたらされるのは遅いのである。
まぁ正確に言えば、ここの主にとっては、決して恩恵などでは無いのであるが。
「ふう、こうして隠れて、こそこそと吸うのも考え物だ、幾らか味が損なわれる」
二本目の煙草に火を点けながら、そんな愚痴を零す。
「今度からは、香霖堂では喫煙を解禁にしよう」
――うん、そうだ、それが良いと、一人納得して、燐寸と煙草を、お気に入りのドレッサーに仕舞い込む。
「でも、最近変なのが入り浸っているんだよなぁ」
そのまま、咲夜は日課である、肌のお手入れを始めた。
丁寧に、丁寧に、入念に爪の先から顔まで、欠かさずに手入れを施していく。
紅魔館の瀟洒な従者である彼女には、一寸の乱れも許されないのだ。
咲夜の立ち振る舞い、一挙一動が、即ち、紅魔の意志と理解されるのだから、それも当然だ。
十六夜の名は、それ程紅魔館と一体化しており、咲夜に課された責任は重い。
しかし、その重さは、彼女への信頼の量でもあるのだ。
「しかも、何か牛乳で口説かれるし、最悪だよ――」
あれが、もしパチュリーだったら、あの親爺、すぐに黒焦げだったろうな、とそんな事を咲夜が考えていると、控え目なノックの音が聞こえた。
何だか、嫌な予感がした。
――誰だ、こんな時間に。
咲夜は、額に薄っすらと汗を浮かべて、音も無く立ち上がるとナイフを懐に収めて、ゆっくりと扉へと近づく。
「――はい、どちら様ですか」
だが、返事は無い、何かを咀嚼しているかの様な不気味な音が、扉の向こうで響いている。
にも関わらず、またトントン、とノックの音がした。
メイド長である咲夜を、こんな非常識な時間に訪ねておいて、名乗らぬ者など、この紅魔館にはいない。
例え、お嬢様やフラン様であっても、何か用があれば名乗るだろう。
つまり、何らかの理由で名乗れ無いか、名乗るつもりも無い非常識な何か。
そしてこの下品な咀嚼音、紅魔館の洗練された者達が立てる音では決して無いと断言出来る。ならば、これは歓迎されざる、――いや、お嬢様に言わせれば歓迎すべき侵入者と言う事になるのか。
だが、このノック。
どうやら、力づくでこの部屋に侵入しようと言う気は無いらしい。
その事実に幾らか冷静さを取り戻す。
「あの、どちら様でしょうか――」
ナイフを握り締めながら、扉越しに咲夜は再度問い掛けた。
「もぐもぐ、パチュ、もぐもぐ、リー、よ、もぐ」
と、不鮮明かつ、不明瞭な声が返って来た。
パチュリーだって?
馬鹿なッ、騙されるな咲夜、確かにパチュリーと名乗ってはいるが、まだ、その姿を確認した訳では無い。
油断してはならない、あれはパチュリーを、我が友人を名乗る、全く別の物だ、彼女はあんな下品な音を立てて物を食べる様な事はしないし、何よりパチュリーはあんな歪んだ声はしていない。
「――今、開けますわ」
チェーンを静かに外し、鍵をゆっくりと開けると、咲夜は告げた。
寄りによって、我が友人を騙るとは、命知らずな奴だ。
己がどれだけ愚かな行いをしているか、それを、その身に刻み込んでやる。
ドアノブが回され、咲夜の憤怒を纏ったナイフを刻まれるべき憐れな肉塊が姿を現した。
「何やってるの、咲夜?」
ナイフを振りかざして立ち竦む咲夜の姿を認めて、パチュリーは言った。
心成しか、咲夜の顔を見て、引き攣った笑みを浮かべている。
「い、いや、ちょっと独りシリアスごっこを――」
「何よ、それ?」
「け、けっこう楽しいんだぞ」
慌てて、ナイフを仕舞う咲夜を尻目に、パチュリーはずかずかと部屋に上がり込んだ。
「お前こそ、な、何食べてんの?」
「何って、パンよ、パン。私の夜食、他に何に見えるって言うのよ」
勝手にベッドに腰掛けながら、パチュリーは言って退ける。
もきゅもきゅと、〈トルネコの不思議なダンジョン〉に出てくる大きなパンみたいな物を、平然と平らげていく。
咲夜には、落ちて散らかる食べ滓が少し気になるところだ。
「貴女こそ、何その顔、何かの御まじないかしら?」
今にも、吹き出しそうな顔で問い掛ける。
「あぁこれか、これは顔パックだよ、潤いを保つ為の物だ、美容だぞ」
「ふぅん、誰かに口説かれたとか聞こえたけど、意識してんの?」
「いや、それは関係ないよ」
「大変ね、貴女、少し化粧でもすれば凄く綺麗だから、どこかしこで言い依られて」
喋っている間にも、パチュリーは携えたパンを、もの凄い勢いで異に収めていく。
「パチュリーだって、素材は良いんだから、少しぐらい飾ったらどうだ、私なんかより余程モテる様になるぞ」
「興味無いわよ、――んぐッ、ふぅ喰った喰った」
と、腹を擦りながら、パチュリーは応えた。
「で、どうしたんだパチュリー、こんな時間に」
「決まってるでしょ、借金返済の催促に来たのよ」
腰掛けたまま、足をぶらんぶらんと垂らして、当然と言った表情である。
「ちくしょうッ、嫌な予感がしてたんだ、開けなきゃよかったッ!」
咲夜は瞬間的に、発狂した。
「――こ、今月は本当に厳しいんだよ、返さなきゃ駄目かな」
「駄目よ、これはね別に貴女を苦しめたくて言ってるんじゃ無いの、返せる内に返しとかないと、貴女、本当に苦しい事になるわよ」
「パチュリー」
「だから、貴女の為でもあるのよ、泥沼に嵌まり切ってしまう前に手を差し伸べましょうと、そうパチュリー様の愛よ。借金地獄と言う迷宮から咲夜を救いだすアリアドネの糸玉になってあげましょう、とそう言っているの」
「利子は――」
幾らだっけ、と咲夜は言った。
「要らないわよ、貸しただけで結構、親友から利子なんてとる訳無いじゃない」
と、パチュリーは微笑んだ。
「今日の牛乳の件もそうだけど、いつも私のわがままを聞いて、何だかんだ言ってもいつも助けてくれるでしょう、だから偶にはね」
「ありがとう」
そう告げると、咲夜は財布を抽斗から取り出して、借りていただけの金額を返した。
「もう遣るなとは言わないけど、ギャンブルはあくまでも息抜き程度にしなさいよ、それで身を崩しちゃ駄目よ、貴女がいなくちゃレミィもフランも美鈴も、勿論私だって困るんだから」
――それに、寂しいじゃ無い、と言った。
「あぁ、充分肝に銘じておくよ」
そうして、もう一度、「ありがとう」、と咲夜は言った。
「どういたしまして、ねぇ咲夜、自動販売機に買い物に行かない」
「どうした、品揃えが変わるのは明日だぞ、まだ牛乳だって残ってるし――」
「うん、分かってる、でも自動販売機自体に罪がある訳じゃ無いし、って言うか私の勝手で中身替えちゃって悪いかなって、だからせめてもの罪滅ぼし、替わってしまう前に一回ぐらい買い物してあげてもいいかなって思って」
「――そうか」
「だって、そうでしょう? 自動販売機にとったら、どの飲み物だって商品である以上は、等しく自分の子供の様なものじゃ無い?」
「そうかもな、――それでもまぁ牛乳の存在が怖いから、護衛にと私を誘いに来た訳だ」
「そう言う事――」
長く、艶やかな薄紫の髪を何とかなく梳りながら、パチュリーは応える。
「いいでしょう、この咲夜、貴女を守る騎士となりましょう」
そうふざけて言って、咲夜は跪く。
そのまま、パチュリーの細く白い手を取って、そっと口づけをした。
「よろしくね」
王女様よろしく、パチュリーも満更では無いようだ。
「さっきは、偉そうにあんな事言ったけどね、貴女は私にとってもアリアドネの糸玉なのよ、困った時にはいつも何だかんだ言っても手を差し伸べてくれる」
「パチュリー」
「これからも、どうぞよろしく」
くるりと軽やかに回って、スカートの端を摘まんで、慎ましくお辞儀をする。
「さぁ、買い物に行きましょう」
「だが、金が――」
「いいわよ、今夜は私がご馳走するわ」
二人は、仲良く、咲夜の部屋を後にした。

寝静まった紅魔館の廊下を、咲夜とパチュリーは軽やかにステップを踏む様に歩いて行く。
この広い館に今は二人だけ、そんな錯覚すら起こしそうな程の静寂。
二人の足音が、ダンスを踊る様に、壁に反射しては消えて散る。
自動販売機に買い物に行く、たったそれだけの行為が何だか、とても大切な時間になる。
館の住人全てをそっと騙して、二人だけが知っている秘密基地へと向う様な、そんな甘美な時間。
紅い絨毯を敷かれた回廊の先に、淡くも力強い光を灯す、自動販売機が佇んでいた。
ぶぅんぶぅん、と微かに駆動音を響かせながら、小刻みに震えている様に見えた。
「はぁ、これが自動販売機ねぇ、こうやってちゃんと見るのは初めてだわ、けっこう明るいのね」
と、しきりに感心した様にパチュリーは頷いている。
見上げる様に、自動販売機に内蔵された商品を眺めては、「ほへぇ、いろんな物が売ってるのね」、と目を輝かせている。
「意外に、でかいのね」
その言葉通り、言ったパチュリーのゆうに三倍はあるだろう。
「ぐ、ぐえッ、牛乳だ、臭い、存分に牛乳を吸った雑巾の臭いだわ、これ」
パチュリーはしゃがみ込んで、今にも嘔吐しそうな体勢だ。
咲夜には、そんな臭いは感じられなかったが、こればかりは仕方が無い。
彼女の牛乳を忌諱する気持ちが、形象となって襲っているのだ。
いわゆる概念が何たらかんたらと言う奴だ、特に魔法使いは、そう言った物に敏感らしい。
「ほら、大丈夫だパチュリー、もうこれで充分だ、さっさと買って帰ろう」
「まだまだよ、これで終わる程、脆い女じゃないわ。まだまだいけるわ、私ッ」
差し伸べられた咲夜の手をやんわりと、解くと、今度は自動販売機の回りを忙しなく歩き始めた。
ぴとぴと、と触れては、何かを確認している様である。
「咲夜、大変――」
と、焦りが浮かんだ声を上げる、その顔は自動販売機の灯りに照らされて、いつも以上に青白く見える。
「どうした」
慌てて咲夜は、パチュリーの元へと駈けて行く。
「この子、とても冷たい」
そう言ったきり、パチュリーは絶句してしまった。
真剣さを湛えた彼女の瞳に見詰められて、咲夜はそれを確かめ様と、自動販売機に触れた。
「本当だ、冷たい――」
もっとよく知りたいと、頬を自動販売機へと寄せる。
「ね、そうでしょう、咲夜」
「――あ、あぁ、何て事だ」
そう、この自動販売機だって、もう立派な紅魔館の住人、レミリアお嬢様に認められた紅い眷属の一員なのだ。
だから、その名に恥じぬ為に、精一杯の仕事をこなしているのだ。
紅魔館で働く妖精メイド達、美鈴やお嬢様や私達は勿論、外から来る紅魔館の客人達に対しても、この暑い夏に、いつでも冷たい飲み物を飲んでもらおうと、その身を凍えさせてまで冷やしてくれていたのだ。
紅魔館の皆が快適に過ごせる様に、またその一員として恥ずかしく無い振る舞いをと、お客様に万が一温い飲み物や、間違った飲み物を提供してしまえば、それは紅魔の名を下げる事に直結していると、そう理解しているからこその孤軍奮闘である。
誰にやれと命じられた訳では無い、だからと言って誰に誇る訳でも無い、誰に褒められる訳でも無い、ただ己のやるべき事を淡々とこなしているに過ぎない。
だが、それは決して簡単に出来る事では無く、また軽んじられる事でも無いのだ。
皆が眠りに着き、休んでいる合間にも、この自動販売機は、今の私達の様に不意に訪れる者の為に働き続けていたのだ。
「ねぇ、何とかしてあげられないかしら、咲夜、――あぁ可哀想に、こんなに震えて」
「ま、マフラーとか巻いてやったらどうだ、うぅんでも、今夏だしな、マフラーなんて手に入るかが問題だな」
「そうだ、それは名案よッ、なきゃ縫えば良いのよ、私、お裁縫には少しばかり自信があるのよ」
そう告げると、パチュリーはもう走り出していた。
なんて活動的なお姫様だ。
「おい、待てよ、どこ行くんだよ」
「部屋にお裁縫セット取りに行くのよ、それにレミィ達に余ってる毛糸とか無いか聞いてくるから、咲夜は美鈴に訊いといてッ!」
「自分の部屋に戻るなら、そっちじゃ無いだろうッ」
そうだった、と慌ててパチュリーは方向転換する。
「と、とにかくよろしくね!」
「了解」
の言葉が終わる頃には、既にパチュリーの姿は回廊を折れて見えなくなっていた。

あぁ、何て迷惑な事をしているのだろうか、彼女は明日の仕事も早いのだ、そう溜息をひとつ吐きながら、咲夜は目の前の扉をノックした。
だが、思いの外、時間を置かずに返事が返ってくる。
「――はい」
「あぁ、咲夜だ、すまないな、夜分遅くに」
扉を薄っすらと開けて、咲夜の姿を確認すると、美鈴は彼女を招き入れた。
「悪かったな美鈴、もう休んでいただろうに」
「いえいえ、そんな事ありませんよ、大丈夫です」
と、ラフな格好だったのが気になるのか、軽く薄物を羽織ると、にっこり笑って応えた。
どうやら咲夜を気遣っての謙遜などでは無く、本当にまだ眠っていなかった様である。
その証拠に、部屋の中の空気がまだ動いている。
「鍛錬でも積んでいたのか?」
――え、えぇと美鈴は恥ずかしそうに応える。
「そうか、だが、しっかり休む事も仕事の内だぞ」
「はい、分かっています。でも何か動いていないと落ち着かないんですよ、ほら私にはこれしかありませんし」
そう言うと、その拳を咲夜の前へと差し出した。
「パチュリーさんみたいに立派な魔法が使える訳じゃないですし、咲夜さんみたいに瀟洒に振る舞う事だって出来ません。私が紅魔館に貢献出来るのは、この身体を門と化すしか無いんです。だから誰にも負けられないし、簡単に誰かを通す訳にもいかない、そう思うと居ても立ってもいられず、ついつい」
照れた様な表情が、美鈴に浮かぶ。
「まぁ最近は自動販売機のお陰で紅魔館もオープンになっているので、そこまでって感じなんですけどね」
「そうだな」
「でも嬉しいんです、それは誰かの為に努力出来る場所が在るって事ですからね、だから門番と言う務めは私の誇りだし、それを与えて下さったレミリア様の誇りになりたい」
「――あとは、時たま居眠りしているのさえ直せば、完璧だな」
咲夜も、優しく微笑んで、そう声を掛ける。
まったく、この紅魔館の住人達ときたら、誰も彼もが勤勉で頭が下がる思いだ。
これは賭博などに現を抜かしている、自分が馬鹿らしく思えて来るじゃないないか、と咲夜は殊勝にもそう思った。
「そ、その通りですね。お恥ずかしい」
――それで、ど、どうしたんですか、と話を逸らす様に美鈴は問い掛ける。
「あ、あぁそうだ美鈴、何か余ってる毛糸とか無いかな」
「――ありますけど、どうするんですか?」
「パチュリーが盛り上がっててな、マフラーを縫うのさ」
マフラーですかと、幾分訝しげな声に変わる。
――実は自動販売機の奴がなと、咲夜は先程の出来事を美鈴に語った。
「そう言う事でしたか、それなら私のお古のセーターでよければ在りますよ」
「良いのか?」
「えぇ、もう時代遅れのものですからね、お役に立てるのなら、全然構いませんよ」
そう言いながら美鈴は立ち上がると、ごそごそと化粧箪笥を漁り始めた。
美鈴の几帳面な性格故にか、とても綺麗に整頓された箪笥を眺めていると、パチュリーがやって来た。
「こんばんは、美鈴」
「あぁ、パチュリーさん、こんばんは、ちょっと座って待ってて下さい」
「お嬢様達に貰って来たのか?」
手ぶらで戻って来たパチュリーに一応問い掛ける。
「あとで、纏めてここに持って来てくれるって、少し待たせてもらっていいかしら」
と、探し物を続ける美鈴に声を掛ける。
――はい、構いませんよ、と元気な声が返ってきた。
「その割に遅かったじゃないか」
「だって、貴女の所為で無駄に広いんだもん、この館。あまり外に出ないから偶に歩くと迷うのよね」
――ただでさえ、方向音痴だからな、と咲夜はからかう。
「煩いわね、余計なお世話よ、――ふう、それにしても暑いわね」
「ちょっと待っていろ、私が今、冷たい紅茶を淹れてやろう」
そう、ここは泣く子も踊り出す紅魔館。
わざわざ自動販売機まで足を運ばなくとも、どの部屋でも紅茶を楽しめる様になっているのだ。
それは紅魔館主である、レミリアの趣向でもある、そしてこの美鈴の部屋も例外では無い。
「すみません、御もてなしの用意も出来ずに」
セーターを持って戻って来た美鈴が言った。
「いいんだ、こんな時間に勝手に押しかけて来たのはこっちなんだからな、それにこれは私の役目だ」
そう応えて、手際よく、紅茶を注いで行く。
「パチュリーさん、これ」
「うん、ありがとう、これで素敵なマフラーが編めそうだわ」
「どういたしまして」
「――歴史の深淵より、我が意に染めて、その姿顕現せよッ、エクスカリバー!」
パチュリーが唐突に魔法陣を展開して、詠唱を始めて召喚したのは、まぁ常識的に言えば団扇と呼ばれる代物である。
怠けた態度で、「あちぃ」、の台詞と共に煽ぎ始める。
これも例によって、概念的な何かである、って言うか思い込みってやつかな。
要するにこの団扇もエクスカリバーだと思って振れば、通常よりも涼しいのだと、そう言う事なのだと思う。
エクスカリバー自体、果たして、そんなに涼しい物なのかどうかは大きな疑問ではあるのだが、そんな事は概念的な何かの前では塵に等しい事柄である。
三人で紅茶を優雅に啜りながら、談笑を続けていたのだが、一向にレミリアは現れなかった。
「遅いわねぇ、レミィ、何してるのかしら、そんなに衣装持ちでも無いでしょうに」
「お嬢様は何て言ってたんですか?」
クッキーを放り込みながら、美鈴が問い掛ける。
「むにゃむにゃ、後で持ってく、むにゃむにゃ、って言ってたわ」
「完全に寝惚けてるじゃないですか、今頃多分寝てますよ、待ってても来ませんよ、それ」
「そ、そうね、そう言われれば、そんな気がするわ」
ガバッと立ち上がって、パチュリーは美鈴に応える。
「じゃあセーターありがとう、有意義に使わせてもらうわ、さぁ行くわよ咲夜ッ」
そう告げると慌ただしくパチュリーは美鈴の部屋を後にした。
「まったく落ち着きの無い奴だ」
「本当に、でもパチュリーさんがあんなにアグレッシブなのは初めてな気がします、偶にはいいんじゃ無いでしょうか」
「それもそうだな」
二人は同時に苦笑し、それがまた二人を笑いに誘った。
「邪魔したな」
「あっ、いいですよ、片付けは私がしておきますから、そのまま置いておいて下さい」
ティーセットを片付けようと席を立った咲夜にそう告げる。
「そうか、なら甘えさせてもらおう、じゃあおやすみ美鈴、また明日」
「あ、さ、咲夜さんッ」
「ん、何だい?」
「そ、その――」
何だか、言いだしにくそうに、美鈴はじっと咲夜を見ている。
「どうした美鈴、言いたい事があるなら言ってくれ。安心しろ、お前が言い終わるまで、私は動かずにここにいると約束しよう」
その力強い咲夜の言葉に触れて、美鈴はやっと口を開いた。
「あの、その、顔パックを張り付けたまま、館の中を歩くと言うのは――」
それだけ告げると美鈴はもう、俯いてしまっている。
瀟洒が自慢の上司の矜持を何とか傷付けまいと、彼女なりの最大限の気遣いである。
咲夜は自分の顔に手を持っていき、あぁそう言えば、やりっぱなしだわ、と呆けた独り言が漏れた。
「――うむ、善処しよう」
そう瀟洒を保ったまま声を掛けて、咲夜はパチュリーの後を追った。

「おらァ、寝てるのは分かってんだ、出て来いッ」
がしがっし、とレミリアの寝室の扉を蹴っているパチュリーの姿は借金取りのソレそのものである。
こりゃ人事じゃ無いぞと、咲夜の心を寒々しい風が吹き抜けて行った。
「おい、パチュリー、恐喝じゃ無いんだから、もっと穏やかにいこうよ」
「でも幾ら寝惚けてたからって、待ち合わせの約束は約束じゃない、反故にしたのはレミィなんだから、違う?」
「そりゃそうだけど」
羽交い締めにする咲夜を乱暴に振り解くと、また一発強烈な蹴りが扉に撃ち込まれる。
「パチュリー、それが人に物を頼む態度か? 親しき仲にも礼儀ありだ」
「そうね、ごめんなさい」
トントンと、控え目ながらも、しっかり中まで響く、従者の心得を宿したノックを咲夜がする。
「レミリアお嬢様、こんな時間に申し訳ございません、咲夜でございます」
「――むにゃむにゃ、もう起きる、むにゃ、時間、むにゃむにゃ、かしら」
それが功を奏したのか、扉の向こうからレミリアの声が聞こえた。
「やっぱり寝てたし、でも流石咲夜、レミィの扱いなら幻想郷一」
ガチャリと、鍵が開けられ、寝ぼけ眼のレミリアが顔を出したまでは良かったのだが、咲夜と目が合うと、その顔を指差しながら、泡を吹いて仰向けにステーンと倒れてしまった。
「――す、スケキヨ、ぶくぶくッ」
「ちょ、ちょっと咲夜、レミィに何したのよッ」
「ち、違、何もしてないってッ」
「――咲夜、どうすんのよ、これ」
わなわなと、パチュリーは震えている、その唇の色は血の気が引いた様に薄い。
「もう貴女、主殺しの大罪と言う重い十字架を背負って、この幻想郷を彷徨うしか無いわ、ごめんなさい、咲夜、貴女との友情もここまでよ」
大粒の涙を流して、パチュリーは告げた。
「あわわわ、ど、どうしよう、パチュリー」
「とにかく、ベッドに運びましょう、ほら咲夜、ぼうッとしてないで、そっち持って、違うそこじゃ無い、足持って」
うんしょうんしょと、何とか二人掛かりでレミリアを運び終えると、パチュリーは既に肩で息をしている。
喘息持ちの彼女には、たったこれだけの運動であっても、充分に身体への負担となるのだ。
「大丈夫か、パチュリー」
――これぐらい平気と応えて、パチュリーはタオルを濡らして、レミリアの額に持って行く。
「まったく世話の焼けるお嬢様だこと――」
その言葉とは裏腹に、慈しむ様なパチュリーの眼差しに、咲夜は自分が出会う前の、自分の知らない二人の姿を見た様な気がした。
この二人がどうして出会い、歴史を共に歩む事になったのか、詮索したい気持ちを咲夜は何とか抑える。
自分にだって、語れぬ事は在るのだ、それを差し置いて、他人の歩みを暴くなど許される事では無い。
蒸気機関の勃興目覚ましい煤けたあの街を、孤独な夜を引き攣れて彷徨い歩いた、あの頃には戻りたく無い。
下手な詮索の結果、余計な溝が生まれるのは、私の望むところでは無い。
今まで歩んで来た道が仮令どうであれ、今自分は紅魔館の一員として皆と共に生きている、その事実だけで充分では無いか、それ以上何を望むと言うのだ。
運命の袋小路からお嬢様に救い出され、友と、家族と暮らす、それだけで、充分に素敵な事だろう。
今さら、それを失うなど、元に戻るより、辛い事だ。
家族と言うものを知ってしまった分、戻った時のダメージは大きいのだ。
「う、うゥん――」
「大丈夫、レミィ、――咲夜、目を覚ましたわ」
「申し訳ございません、大丈夫ですか、お嬢様」
驚かせてはいけないと、顔パックを剥がしながら咲夜は告げた。
「う、うん、大丈夫、――何だ咲夜だったのね、私はてっきり〈青沼静馬〉の奴が復讐に来たのかと思ったわ」
――誰それ、との言葉が喉から飛び出そうになるのを必死に堪える。
駄目だ、詮索しちゃ駄目だ、耐えろ、耐えるんだ十六夜咲夜。
「心配しなくても大丈夫よ、奉納手形もちゃんと私がしかるべき封印を施して、処分してあるから」
パチュリーが、タオルを取り替えながら、優しく語り掛ける。
何だそれは、アレか、犬神家的なアレか、両足がポーンッと湖から出てるアレか?
「それで、お前達は何をしているのだ、こんな時間に非常識だろう、陽に焼かれ灰になったらどうしてくれる」
「そりゃ捨てるわよ」
予想外に冷たいパチュリーの返事に、レミリアは顎が外れたのか、開いた口が塞がらない。
「――さ、咲夜は?」
慰めの期待を込めて、レミリアは嫌らしく問い掛ける。
「西行妖の上で蒔いたら、立派に咲き誇りそうですわ」
「私は花咲か爺さんかッ!」
――いや、あんたの役目はどちらかと言えばシロの方だろうと、隣のベッドで寝ていたフランは、その言葉を自分の心の中だけできゅっとしてどかーんした。
「まぁ冗談はさておき、どうしたのだ、緊急事態か?」
「違うわよ、レミィ、さっき約束したじゃない、使ってない毛糸があったら頂戴って」
――おぉ、そうだったな、夢なのか現実なのか分からなくなってしまってな、とレミリアは笑った。
「ちょっと待っていろ、私とフランが小さい頃に来ていたセーターがどっかにあったな」
そう声を掛けながら、ちょこちょこと洋服ダンスに向かう。
今でさえ小さいのに、小さい頃とは、どんだけちっさいんだと、そんな疑問が咲夜に浮かんだが、駄目だ、それも詮索しちゃ駄目だ。
「ほら、これで良いか」
と、差し出したセーターには、アンパンを擬人化したかの様なキャラクターが描かれていた。
「何、このだッさいキャラクターは?」
すかさず、パチュリーが喰い付く。
「知らないのか、私が小さい頃に幻想郷で流行った〈短パンマン〉だ」
レミリアの台詞に、良く目を凝らしてみれば、いや凝らさなくても、これ見よがしに短パンを履いてアンパンが仁王立ちしている。
なんで、アンパンマンじゃ無いんだと、また咲夜の頭の中に疑問が生まれる。
あえてアンパンに短パンを履かせたのは何故なのだ。
「それで、こっちがフランの着ていたセーターだ」
ばばーん、と声を出しながらレミリアが広げたセーターには短パンを履いたチンパンジーみたいなのが描かれている。
どうせ、短パンジーとか言うキャラクターだろうと、咲夜は思った。
「こっちは何よ?」
「これは〈短パンジー〉だ」
「ほうらッ、ビンゴッ!」
思わず声を張り上げて、喜ぶ咲夜。
主の前で下品なのは分かっていたのだが、指まで鳴らしてしまった。
「えっ、何、咲夜? えッ、どうしたの、何か怖い」
レミリアとパチュリーは若干引いてる様である。
「それで、どうしたのこれ、まさか貴女が縫ったの?」
――ありえないわ、とパチュリーの眼は口よりものを言っていた。
「あぁ、世話焼きの婆さんがいてな、そいつがくれたんだ、無理矢理な」
「そうだったんですか」
「まぁ貰ってしまった以上着ないと言うのも、勿体無いからな、あまり私の趣味では無かったんだが」
それは嘘だと、パチュリーも咲夜もすぐに分かったのだが、あえて言葉にはしなかった。
大分着古したであろう、くたくたのセーターをレミリアは差し出す。
「いいのかしらレミィ、大切な思い出が詰まっているんじゃ無いの」
「いい、持って行け、私達にとってはもう役目を終えた存在だ。次の世代の為にまた新しく生まれ変わって活躍出来るのなら、このセーターにとっても本望だろう、それに――」
想い出とは、常に心に積るものだ、とレミリアは言った。
「そう、ありがとね」
「礼は結構、それより早く自動販売機の奴にマフラーを作ってやってくれ、頑張るのも程々に、風邪には気を付けろと」
「うん、伝えておくわ」
「――咲夜、いろいろと大変だろうが、あの自動販売機も紅魔館の仲間だ、たまにで良い気を掛けてやってくれ」
「分かっております」
「私はここで、このままマフラー縫っちゃうから、部屋で待ってて」
パチュリーは、そう告げると、近眼用の眼鏡を掛けて、裁縫を始めた。
――了解、ではお嬢様、良き夢を、と告げて、咲夜はパチュリーを残しレミリアの部屋を後にした。
「ふう、咲夜の奴にも、困ったものだな」
咲夜が出て行くと、すぐにレミリアが言った。
「友人として、どう思う?」
――そうね、と縫物から目を離さずに、パチュリーは応える。
「普段、何でも無い時は、瀟洒で頼れるメイド長なんだけど、予期せぬ出来事、特にさっきみたいに貴女がすっ倒れる様な出来事になると、途端に頼り無くなるわね」
「そうだな、だが、それは私の所為でもあるのだな」
「そうね、下手な事して、貴女の不興を買う事を極端に恐れてる、以前の様に孤独に戻る事を怖がっているのよ」
「その割には隠れて煙草を吸っているようだが」
「構って欲しいアピールよ、思いの裏返し」
「だから、命令には忠実に動くけど、緊急事態となると、失敗を恐れて、誰かの命令を待つ、自分で考えて動けない」
――貴女が瀟洒である事を強く望んだ結果でもあるのよ、とパチュリーは言う。
「よかれと思ってした事なんだがな。私は咲夜がいつか一人の女性として、自らの意思でこの館を巣立って、紅魔の誇りを宿したまま、己の家族を作って欲しいと、そう望んでいるのだ」
「吸血鬼にするつもり?」
――そうでは無い、とレミリアは苦笑する。
「分かってる、冗談よ」
パチュリーも同じく、苦笑で応える。
「もう咲夜は、私にとっては家族の様なものだからな、ついつい気を揉んでしまう」
「いい事じゃない」
「でも、だからこそ、接し方を考えてしまう、どうすれば良いのか」
「それが、親ってもんでしょう」
――親、とレミリアは鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔だ。
「もう貴女、充分に母親の顔よ」
「私が、母親だって――」
「吸血鬼だって、変わるものだわ、それに貴女達、生い立ちとかその後の境遇とか、何か似てるもの」
あはは、とパチュリーは愉快そうに笑う。
「幻想郷に来て、すぐに暴れたところとかね」
「――そんな事も、あったな」
レミリアも釣られて、笑顔になる。
「私は間違えてはいないだろうか、咲夜を歪んだ運命に放り込んでは無いだろうか?」
「子育てに、正解なんて無いんじゃないかしら、私は母親になった事は無いから分からないけどね」
「そうか」
「それを決めるのは、私でも貴女でも無い、咲夜自身の生き様が示すの」
「――そうだな、ありがとうパチェ」
どういたしまして、とパチュリーは眼鏡を外しながら応えた。
「完成したのか?」
えぇ、とパチュリーは立ち上がって、出来あがったマフラーを示す。
「見事なものだ」
「ありがとう。邪魔したわね、じゃあ私は行くから、おやすみ、レミィ」
――あぁ、おやすみ、とレミリアはパチュリーを送り出した。

部屋に引き返して、灰皿を吸い殻で埋め尽くそうかと、その一歩手前でパチュリーがやって来た。
「――うっわ、部屋白、そして臭い」
「あぁ、すまんすまん」
慌てて、手で煙を払いながら咲夜は応える。
「じゃじゃーん、完成したわ」
どうよ、凄いでしょうと、誇らしげなパチュリーの顔に、咲夜まで何だか嬉しくなってしまった。
レミリアとフランと美鈴とパチュリーの着古しを使って作られたマフラー、色彩は滅茶苦茶であったが、間違い無くそれはマフラーで、通常より随分と長いが、自動販売機に巻くのだから、これぐらいの長さは寧ろ必要なのである。
「おぉ、意外に器用だな」
――でしょう、と満更でも無い表情である。
「どれ、ちょっと貸してみな」
そう告げて、咲夜はマフラーを受け取ると、さっと何かを施した。
「これで完璧だろう」
パチュリーの手に戻ったマフラーには、紅魔館、とそう刺繍されていた。
「えッ、凄い、どうやったの?」
「ちょっとした奇術ってやつさ」
「そう、素敵な事してくれるじゃ無い、流石メイド長ね」
「じゃあ行こうか――」
銜えていた煙草を灰皿に窮屈そうに押し付けると、二人は自動販売機へと向かった。
「ふう、これで大丈夫、まだまだ暑い日は続きそうだから、これからも頑張ってね」
二人掛かりで何とか、自動販売機にマフラーを巻き終えると、パチュリーは言った。
ぶぅん、と微かに自動販売機が応えた様に聞こえたが、それは気の所為だろう。
「今日はありがとうね、咲夜、何だか大事になっちゃって」
「別にいいさ、楽しかったしな」
「うん、じゃあ、おやすみなさい、また明日」
「あぁ、おやすみ」
そう言葉を交わすと、二人は自動販売機の前で別れた。
部屋に戻り、就寝前の最後の一服をしようと、燐寸を擦る時、ふっ、と咲夜は気付いた。
――結局、自動販売機で買い物してない。
「まぁいいや、明日こそ買い物しよう」
旨そうに煙を吐き出して、咲夜は思う。
何を買おうかな、やっぱり紅茶か、それとも煙草にはやっぱり珈琲か、何だか明日が楽しみだ。



翌日、真夜中の昼食を終えて、咲夜は執務室へと引き上げて、食後の煙草を銜えた。
まぁ、だいたい一日に二箱は吸うのである。
本日の定食は、三色おにぎりセットだった。
おかかとしゃけと梅干のコンビネーションに、わかめの味噌汁、そしてたくわんがそっと彩りを添える、そして食後に薬缶から直接流し込む、きんきんに冷えた麦茶の美味しい事。
パチュリーは歯に海苔が貼り付いたまま図書館に戻ったが、今頃笑いものになっていないか、些か心配である。
せめて、教えてやれば良かったかなと、咲夜は後悔気味である。
それに、レミリアお嬢様が、「私のおにぎり、中身が全部梅干だったんだけど、三色じゃ無いの?」、と酸っぱそうな顔で食堂内の皆に聞いて回っていたのは、一体何だったんだろうか。
そんな事を取り留めも無く考えていると、パチュリーが訪ねて来た。
「咲夜、〈八雲飲料〉が来たわよ」
言ったパチュリーの歯には海苔がびっしり、やっぱり付いたままじゃ無いか。
って言うか、ご飯食べたら歯ぐらい磨けよ。
「――了解、では午後の仕事を始めますか」
「私は図書館に戻るから、立会い宜しくね」
「あぁ、何だ来ないのか、忙しいの?」
「うん、ちょっと魔法の研究が行き詰まっててね、今日は図書館に籠もるから夕飯も顔出せないと思うから、ごめんね」
「そうか、分かった、じゃあ邪魔しない様に他の奴らにも伝えておくよ」
――うん、お願いね、とパチュリーは微笑む。
「でも、眠気覚ましのカフェインたっぷり珈琲の差し入れなら大歓迎よ」
はいはい、と応えて咲夜は煙草を消すと、きりりと表情を引き締めて、仕事の顔へと戻る。
執務室の前で別れて、咲夜は玄関へと向かった。
「ちぃーッす、いつもお世話になっております、八雲飲料営業担当の八雲紫でぇす、ちぃーッす」
と、えらく陽気な声音に、咲夜は迎えられた。
紫色のオーバーオールが、少し油で汚れている。
首に下げられた、白いタオルの間から、魅惑的な胸の谷間が覗いていた。
「ご苦労様です、それにしても暑い日が続きますね、紫さん」
「ホント、そうッすね」
八雲飲料と刻印されたキャップを脱ぎながら、紫は応える。
「ささ、上がって下さいな」
「ちぃーッす、お邪魔しまぁッす」
眩い金色の髪が揺れて、健康的な汗の匂いが、存分に発散されている。
ここまで歩いて来たのだろうか。
「最近、こっちの方はどうっすか」
と、紫は、チップを置く様な仕草をしてみせる。
「――それが、負けっぱなしで」
咲夜は、苦笑で返すしか無い。
ガラガラと、商品を乗せたカートを引きながら、紫も笑った。
「私もっすよ、全然勝てなくて、何かイカサマしてるんじゃ無いっすかね、オーナーの白蓮とか言う奴、絶対胡散臭いですって」
「そうですか?」
「そうすっよ、怪し過ぎますって、この間だって、賄賂のつもりでサザエをたんまり贈ったのにそれからだって、全然勝てませんもん」
「それ、賄賂って気付いて無いんじゃありませんか」
「そうかもしんないっすね」
何かに納得したのか、紫は頬をぽりぽりと掻く。
「でも、賄賂って言って渡すのもどうかと思うんすよ」
――それもそうですわね、咲夜は涼しげに笑う。
「じゃあ紫さん、お願いしますね」
「ちぃーッす」
そう応えて、カートから荷物を降ろすと、手際良く、自動販売機の商品を交換し、補充していった。
ガコンガコン、ともうすっかり馴れた手つきである。
「ご希望通り、紅茶類とか珈琲類とか充実させてますんで、けっこう珍しいものとか、裏の沼から仕入れて来ましたんで、期待しちゃって下さい」
「それは楽しみですわ」
「紅茶とか珈琲ひとつ取っても、もの凄い種類があるんすよ」
「そんなに、種類があるんですか?」
――あるんすよ、と空になった段ボールを器用に潰しながら応えた。
「終わりました、えぇと、じゃあ、確認お願いしまっす」
「はい」
「まず、牛乳っすね、これご希望通り、完全に撤去しましたんで」
咲夜はそれを覗き込んで、しっかりと確認を済ませる。
「はい、結構ですわ」
「ちぃーッす、で、新しく追加した商品なんすけど、数が多いんでこっちに纏めておきましたんで、後で暇な時にでも確認して下さい」
紫は、がさごそとポケットを漁ると、皺苦茶になった書類を差し出した。
後で、執務室に戻って、ゆっくり眼を通そうと、丁寧にたたみ直し、エプロンに仕舞う。
「以上っすね、ではこっちにサインお願いしまっす」
捺印がなされたのを確認すると、紫は再びキャップを被り言った。
「ありがとうございまっす、またのご利用心よりお待ちしておりまぁす、ちぃーッす」
「御苦労様でした」
「あぁ、そうだった、そうだった、忘れるとこっした」
と、振り向きながら紫は呟いた。
「藍の奴が、たまには一緒にカジノに遊びに行こうって言ってたっすよ」
「そうですか、身が空いたらまた連絡しますと、そうお伝え下さい」
ちぃーッす、と身の入らない一礼を残し、紫はカートを抱えて帰って行った。
それと入れ替わる様に、賑やかな一行が、紅魔館に表れた。
「おう、咲夜、遊びに来たぜ」
下品な言葉遣いは魔理沙、その横でこの暑さにも関わらず汗一つ掻いていないかの様に立っているのはアリス、そしてそのちょっと後ろで、面倒臭そうな表情を湛えているのは霊夢である。
まぁ、咲夜にとっては、気の置けない、古い友人達である。
「あぁ、いらっしゃい、どうしんだお前ら?」
「今日から、自動販売機の中身が新しくなるって聞いてな、どうだ一番乗りか」
と、魔理沙は辺りをきょろきょろ見渡す様な仕草をする。
「えぇ、おめでとう、お前達が最初のお客さんだ」
よっしゃあ、と何故だか魔理沙は興奮している。
「あの当てにならない鴉天狗の新聞もたまには正確って事かしら」
アリスが関心した様な声を上げた。
「どうりで早いと思ったら、もう記事にされてるのか?」
「何、もうとっくに取材に来てるんじゃ無いの?」
いや、と咲夜は心当たりが無いと、即答である。
「あの新聞、どうでも良い事は、情報早いのよねいつも」
「それにしても霊夢、どうしたんだ、お前が自動販売機までわざわざ来るなんて」
そう、この幻想郷でパチュリーの他に、自動販売機にあまりよろしく無い感情を持っている残りの一人は、この博麗霊夢なのである。
紅いボディに、白の筆記体と言う自動販売機の組み合わせが、何と無く自分とキャラが被っているからとか、自動販売機の出現のお陰で、ますます賽銭箱が悲惨な事になっているからとか、いろんな憶測が幻想郷内を飛び交っているが、真実は霊夢の中だけに在る。
「いやいや、あれ根も葉も無いデマだから、って言うかあの新聞の内容をそのまま鵜呑みにしないでよ」
「なんだ、そうだったの、じゃあもっと早くに誘えばよかったわ」
と、アリスが霊夢をからかう。
「まぁ確かに、自動販売機に落とす金があるなら、少しは神社にもって思わなくも無いけど、って言うかキャラだって別に被ってないし、えっ、被ってる?」
「いや、誰が見たって、十人が十人被ってませんって応えると思うぞ」
――そうよね咲夜、と安心した様な声で霊夢は言う。
そんな会話を交わす咲夜達を尻目に、魔理沙は次から次へと、大量の飲み物を購入して行く。
「おいおい、魔理沙、そんなに買ってどうするんだ」
当然の疑問が咲夜から発せられた。
「どうするって、これからアリスの家で女子会やるんだよ、それの買い出しに来たんだぜ」
「――そうなのか」
と、アリスに確認すると、その通りだと返事が返る。
「お前も仕事終わったら来いよ、夏の夜に相応しい怪談とか、恋バナとか盛りだくさんだぞ」
「雛とメディも来るわ、そうだ、パチュリーも誘って来なさいよ、歓迎するわ」
「そんなに呼んだら、部屋が狭くなるじゃない」
だったら、いつもみたいにお前んところの神社でやるかと、魔理沙は霊夢に提案する。
「駄目、あんた達いつも騒ぐだけ騒いで片付けしないから」
相手にしませんと、そっぽを向いて抗議する霊夢。
「いいわよ、少し整理すれば何とか、それぐらいの人数なら入るから」
アリスが場を取り成す様に、声を掛ける。
「じゃあ後で、顔を出させてもらうよ、どうせ仕事が終われば今夜は暇だからな」
「そうなの?」
「あぁ、パチュリーが魔法の研究とやらで、図書館に缶詰決め込んでてな」
図書館の方角に視線を向けながら、咲夜は言った。
「あら、そうなの、それは残念ね、彼女が来れば久しぶりに、魔法相撲夏場所を開催しようと思っていたのに」
心から残念そうに、四股を踏みながらアリスは呟く。
「じゃあ、後は妖夢とうどんげにも声掛けなきゃ」
「咲夜、約束だからな、ちゃんと来いよ」
そう告げると、魔理沙達は来た時とは違い、各々がその手に大荷物を抱えて紅魔館から帰路に着いていった。



あぁ、アリスの家に訪れるのに、手土産ひとつ持て来なかったな、また紅魔館のメイドは気が利かないとか新聞に書かれたら嫌だな、とそんな事を考えながら、咲夜はドアをノックした。
部屋の中から聞こえる喧騒に混じって、「はぁい、今開けるから待って」、と普段より少し大きめのアリスの声が聞こえる。
「はい、いらっしゃい、良く来てくれたわ」
頬笑みを湛えて、この家の主が顔を出した。
「すまん、手ぶらで来ちまった」
「そんなの良いわよ、さぁ上がって上がって」
――お邪魔しますと、家に上がれば、もう宴は終盤、先程訪ねて来た三人に加えて、雛とメディも一緒にいた。
「お邪魔します」
「おう、遅いぞ咲夜、どこで油売ってたんだ」
「そりゃ紅魔館でしょう」
と、当たり前の事をアリスが魔理沙に言う。
――久しぶりと、雛とメディが、唐揚げを頬張りながら、咲夜に挨拶した。
「あぁ、久しぶり、何だか皆元気そうで何よりだ」
そう応えて咲夜も唐揚げを摘まんだ。
テーブルの上には、所狭しと並べられた、豪華絢爛な料理の数々。
霊夢が腕によりを掛けて作ったものだろう。
先代の博麗の巫女も、大層料理が得意だったと言うので、どうやらその腕は代々受け継がれるのだろう、とても美味しかった。
「ほらほら、咲夜、駆け付け三杯よ」
アリスはそう告げながら、かき氷を三杯差し出した。
「はぁ、これ喰うの? 三杯も? 私が? 一気に?」
当然と、皆で笑って、咲夜に一気コールを始めた。
それを受けて、負けていられないと、咲夜はぶばばばば、と恐ろしい勢いで、かき氷を頬張り始める。
――うわぁ、本当に喰いやがった、と煽る魔理沙達が寒くなる程に、後先考えない猛攻である。
「ふははは、見事喰ってやったぜ、そして――」
頭めっちゃ痛いと、咲夜は頭を抱えて悶絶している。
「でしょうね」
と、冷静に告げたのは霊夢である。
「私達にもくれよ霊夢、とびきり冷たいやつ」
魔理沙が注文を入れる。
「はいはい」
霊夢は、ぎょっしゃごっしゃと、次々と休む間もなく、捲くったその腕でかき氷機を回していく。
その姿は正に、かき氷製造マシーン、その色合いは正しくいちごミルク。
「さぁ出来たわよ、シロップは何にする?」
その言葉に、
「私はグレープ」
「じゃあ私はレモン」
「宇治金時ある?」
「あるわよ」
「なら私は、坂田金時で」
ふざけて誰かが、そう声を上げる。
「おい、今金太郎が混じってたぞ」
そして別の誰かが、それに突っ込みを入れた、そんな感じで好き勝手に応えて行く。
アリスにグレープ、魔理沙にレモン、雛に宇治金時、そしてメディの前には金太郎飴が用意された。
「えっ、嘘、何であるのよ、金太郎飴なんて」
予想外の展開に、メディから狼狽した声が出た。
「この糞暑いのに、私だけ、この飴をしゃぶれって言うの、えぇ暑苦しい」
「自業自得だぜ」
魔理沙が、慰める様に、メディの肩を叩く。
しゃしゃくと、涼しげにかき氷を平らげて行くのを尻目に、メディは必死に金太郎飴を崩して行った。
「ちくしょう、金太郎消えない、いつまで出てくんのよッ」
とうとうメディは金太郎飴を放り出して、そう叫んだ。
それがどう言う訳か、まぁ角度とかそう言うのが奇跡的に合わさった結果、霊夢の鼻の穴へと綺麗に収まった。
一瞬、何が起こったのか分からずに、凍り付く場の空気。
だが今は猛暑の夏である、その空気はすぐに溶け出した。
「霊夢、お前、それはッ」
「厄いわぁ、めっちゃ厄いわぁ、霊夢ぅ」
と、魔理沙と雛は腹を抱えて笑い転げている。
「ちょ、大丈夫、霊夢、――ぶッ、ぶへへへ」
一応心配そうな顔でアリスは武装していたようだが、駄目だ、無駄だったみたいだ。
その余りにシュールな霊夢の顔に耐えきれなくなって吹き出してしまった。
そんな楽しげな魔理沙達とは対照的に、すっかり血の気の引いた顔で、俯いているのはメディである。
咲夜はと言えば、「ほ、ほんとマジで頭痛い」、と割とヤバめな感じで、まだ唸っている。

閉話休題(少女夢想封印中)

「お、おい、霊夢、何も私まで一緒に御仕置きする事ないだろう」
いくらか頭の痛みが収まった咲夜は、そう抗議する。
「みんな同罪よ」
と、ティッシュを丸めて鼻に突っ込みながら霊夢は応えた。
「それとも、あぁなりたいのかしら」
その視線の先には、パンツ一丁で吊るし上げられた、メディの戦慄すべき憐れな姿。
目が×になっているのが、何だか可愛らしい。
「ま、まさかそんなに血が出るとは思わなかったんだぜ、なぁ皆」
「そ、そうだ、そうだ」
皆は魔理沙の言葉に、徒党を組んで立ち向かう。
「私が博麗の巫女じゃ無かったら、死んでたわ」
「大袈裟だなぁ」
と、言う魔理沙の言葉を遮る様に、また扉がノックされた。
「おい、誰か来たぞ、他にも招待したのかアリス」
――いや、もうこれ以上は呼んで無いわ、と応えながら、アリスは扉に向かった。
咲夜は、何だか嫌な予感がした。
これは大好きなシリアスごっこが出来る、またと無いチャンスである、逃す訳にはいかない。
だから、追い掛けて、肩越しに声を掛ける。
「アリス、私が出よう」
「大丈夫よ、貴女はお客さんなんだから、座ってて」
やんわり断られ、項垂れながら、すごすごと咲夜は部屋へと戻った。
「はぁい、どちら様ですか」
そう言いながら、扉を開けた先に立っていたのは、包丁を構えた鬼三匹であった。
「わりぃごは、いねがぁッ!」、
「わりぃごは、びねがぁッ!」、
「――それお酢じゃんッ!」
「いないわ」
アリスはすぐに扉を閉じると、何事も無かったかの様に、戻って来た。
「おう、早かったな、何だったんだ」
すかさず魔理沙が問い掛ける。
「何でも無いわ、三月精の奴らよ」
ふうと、アリスは溜息をわざとらしく吐いて見せる。
「最近、あの子達の悪戯がエスカレートして来てる様に思うんだけど、何とかならない霊夢?」
「生まれ付きだもん、今さら何ともならんでしょう、――あぁ咲夜、焼き鳥チンして来て」
「はいはい分かりましたよ、ここでぐらい、ゆっくり休ませてもらいたいものだ」
焼き鳥の盛られた皿を受け取ると、よっこらしょと立ち上がり、咲夜は台所に置かれたレンジへと向かう。
チンッ、ほとんど間を置かず、またチンッ、そして、またすぐにチンッ。
「おい、チンチンチンチン言い過ぎだろ、何やってんだぜ、咲夜ッ」
魔理沙の文句と共に、アリスが心配そうに覗き込む。
「す、すまん、アリス、使い方知らなくて」
言い訳する様に、咲夜はもじもじしている。
「そんな小刻みにやってたら、いつまで経っても温まんないわよ」
アリスは、慣れた手付きでレンジの操作を終える。
「分かんないなら、素直に言いなさいよ」
「私これでも、一応、瀟洒が売りだし」
――私達の前でぐらい、そんなの崩しちゃいなさいよ、とアリスは温まった焼き鳥を取り出す。
「さぁ、戻りましょう」
「う、うん、ありがとう」
二人連れ立って戻ると、魔理沙達は何だかニヤニヤしていた。
「それにしてもだ、咲夜、その服のセンスは如何なもんだ?」
「――ん、何かおかしいか」
「若さが感じられないわ、なんかオバサンって感じ」
魔理沙と雛は、好き勝手に咲夜の品評会を始めた。
そんな事は無い筈だと、咲夜は抗議する。
暑い夏に、重さを感じさせない、パステルカラーのワンピース。
その上に羽織った、コーディネートを引き締める藍色の薄いカーディガン。
プライベート用の一張羅である。
さらに季節の先取りをしようと、琥珀色のネックレスが強く主張する事無く、自然体で咲夜の身体を飾っている。
髪だって、いつもの三つ編みお下げを片側に纏めて垂らして、さりげなく大人の女性を演出しているのである。
――おかしなところなど、どこにも見当たる筈が無い。
「それじゃ全ッ然駄目だぜ、知らない様だから教えてやるが、今、幻想郷じゃ〈げろげろすわっぴ〉がお洒落の最前線なんだぜ」
そう言いながら、魔理沙と雛は立ち上がると、スカートを撒くし上げ、これ見よがしにズロースを見せつけた。
若草色の〈げろげろすわっぴ〉が確かに描かれている。
少し遅れて、霊夢も、「仕方無いわね」、と溜息を吐きながら立ち上がり、二人にならって、スカートを上げてズロースを示した。
二人と違って、霊夢は頬を赤らめて俯いたままである。
いや、別に頼んで無いから、恥ずかしいなら無理して見せなくても、と咲夜は声を掛けようか迷っていると、「も、もういいかしら」、と恥辱に耐える様に霊夢の方から言った。
「あ、あぁ」
「どうだ、分かったか咲夜、何だったら私がプレゼントするぜ」
「何がプレゼントよ」
と、アリスが、その言葉に抗議する様に声を上げる。
「どうせ、縫い付けるのは私任せの癖に」
気付けばアリスは、ちくちくと、実に器用に針を繰り、何かを縫っていた。
「何してるんだ?」
――内職よ、とつまらなそうにアリスは応える。
「まったく、幻想郷中から、〈げろげろすわっぴ〉だのを刺繍してくれって、注文が殺到してるのよ」
どうやら、最初から服に描かれている訳では無く、ワッペンみたいのをアリスがひとつひとつ手作業で縫い付けているらしかった。
「守矢神社の下請け、零細企業ってとこか?」
「まぁ、そうね」
「世界に一つだけの、メイドインアリスって事か、お前は手先器用だからな、私も頼もうかな」
「それがいいわ、そしたら、咲夜は美人だから、モテモテ間違い無しよ」
雛は、愉快だと言わんばかりにくるくる回り始めた。
「幻想郷でモテたってしょうが無いでしょう、意識する様な素敵な殿方がいる訳じゃ無いし」
ささっと、座りなおして、霊夢が言う。
「雲山がいるぜッ」
「誰よそれ?」
と、雛が僅かばかり興味を示す。
「寺の、何か見越し入道、かな」
「思わず舌舐めずりしちゃう様な、いい男?」
「いや、漬物みたいな親爺だぜ」
――そんなのこっちから願い下げだわぁ、と雛はますます回転を加速した。
「って言うか、昨日だったかな、私口説かれたぞ、その雲爺に」
「えっ、どうやって?」
「牛乳で」
ぶっ、と霊夢が麦茶を吹き出した。
それを受けてアリスが麦茶を拭き出した。
「口説くのが牛乳って、いつの時代のセンスよ」
雛は、さも呆れたと、そう表情全体で語っている。
「妖夢のとこにも、いぶし銀なのがいるぜ」
「って言うか、それも爺さんだろ」
咲夜が、焼き鳥を頬張りながら言う。
「そう言えば、妖夢とうどんげの奴は? あいつ等にも声掛けたんじゃなかったのか?」
「うどんげは、もう帰ったわ、何だか永遠亭が忙しいんですって」
「そうなんだ、久しぶりに逢いたかったな」
串に残った焼き鳥のタレを丁寧に舐めながら、咲夜は呟く。
「妖夢は?」
「今、白玉楼に不届き者が何匹も来てるから、あぶなっかしくて離れられないって」
みっともないから止めなさい、とアリスは咲夜を窘める。
「って言うか妖夢の奴、頑固者だよね」
「そうそう、頭が固いって言うか、融通が利かないって言うか、爺むさいと言うか」
霊夢が、レバー串を探しながら、声を掛ける。
「この間なんて、ぼぉっと幽霊みたいに辻に立ってたから声掛けたんだぜ、そしたら――」
敬語キャラと、生意気キャラの、どちらが良いのでしょうか、とか言って鍔を鳴らすんだぜ、と魔理沙は実に多彩な表情で喋る。
「無視して、通り過ぎれば良かったじゃ無い」
縫物から目を離さずに、アリスが言う。
「無理無理、私図書館に用事があって行きに見付けたんだけど、その時は急いでたから通り過ぎたんだ。半日ぐらい図書館にいたかな、それで帰り道にふと見たら、まだ立ってたんだよ、妖夢が」
「うっそ、本当に?」
――本当だって、と魔理沙は応える。
「まぁ、それなら思わず声を掛けてしまうな」
挟まった肉片を、焼き鳥の串で、穿りながら咲夜は頷いた。
「だろ、それで、どっちでもいいですって応えて帰ろうとしたら、奇声を上げながら問答無用で斬り掛かって来たんだよ」
と、身振り手振りを交えて、魔理沙は説明していく。
「真剣に考えて下さい、真剣だけに、にへッ」
とか、顔だけは笑ってるんだぜ、と魔理沙は言う。
「そ、それは厄いわねぇ、無闇に彼女に声を掛けるのは控えた方がいいわ」
雛は、心底恐ろしいと言った風情である。
「ねぇ霊夢、なんか憑いてるんじゃ無い、妖夢に。 祓ってあげた方が良いんじゃ無い?」
アリスが心配そうに、顔を上げた。
「大丈夫、妖夢にとっては通常運行よ。それより、脱線してるのは私達、いつの間にか妖夢の話になってるわ」
「――何の話してたっけ」
幻想郷には碌な男がいないって話でしょう、と霊夢は応えた。
「そうだった、そうだった、あぁ、あれだ、お前んとこの裏池にもいたよな」
魔理沙は、霊夢に問い掛ける。
「あぁ、アレの事?」
「誰それ、思わず興奮していろんな汁が溢れて来ちゃう様な、いい男?」
すかさず、雛が喰い付いた。
「いや、こっちも爺さんだけど、って言うか亀だけど」
――爺さんばっかじゃねぇかと、目を回したのか、雛は倒れた。
「あとは霖之助がいるが」
「駄目よ、あの男は。ストライクゾーンは三十代後半、守備範囲は広く見積もっても、三十代前半から四十代後半ってところね」
魔理沙の言葉に、瞬時にアリスが反応する。
「確かに年上好きそうな顔してるわ」
「まぁ、冗談は置いといて、本当にあの男だけは止めておけよ、咲夜」
全てを見透かした様に、魔理沙が告げた。
「ほっておいてッ! 魔理沙に、あの人の何が分かるって言うの」
声を荒げて、咲夜は反論する。
「あの男は死神だ、咲夜を不幸にこそすれ、決して幸せになる事なんて無いぞッ、私はお前が傷付く姿なんて見たく無いんだッ!」
「そんなの分かってる、でも自分の気持ちに嘘は付けないッ」
「お前の愛が、報われ事なんて、一生無いんだぞッ!」
――それだって、構わない、と涙を隠す事無く、咲夜は声を張り上げる。
「あの人が例え私を不幸にしたって、それが私の幸せ――」
咲夜のその台詞が終わる前に、魔理沙は彼女を抱き締めていた。
「私なら、咲夜を不幸になんてしない、絶対に幸せにしてやるッ」
「――魔、理沙」
潤んだ瞳で、咲夜は魔理沙を見返す。
「私と、あの男、どっちを選ぶんだ」
あぁ、きっと愚かな私は、あの男の名を口にしてしまうのだろう、だから、その前に――。
「貴女の唇で、塞いで」
はらはらと涙を零しながら、咲夜は魔理沙の頬に手を当てる。
今、二人は、あまりに悲しい口づけを交わそうとしている。
彼女達の距離が、徐々に縮まり、今ひとつになる、その前に咲夜が口を開く。
「いやいやいやいや、いい加減誰か突っ込んでよッ」
「ほっといたらどこまでやるのかなって思って」
しれっとした顔で、霊夢が応える。
「って言うか、あんた達、意外に演技派ね、女優でもすれば」
と、そのまま訳の分からない提案を繰り出した。
それを証明する様に、アリスと雛は、狐に摘ままれた様な顔で、すっかり呆けている。
毒気に当てられた様に、何となく気恥かしそうに、戸惑っている。
――毒気だって?
慌てて確認するが、大丈夫、大人しく吊るされている。
「霖之助が、死神って、ぶっははははッ、そんな柄じゃ無いぜ」
魔理沙の笑い声に重なる様に、一斉に笑い声が上がる。
何がおもしろくて笑っているのか分からぬが、それも仕方の無い事である、だって箸が転がっても笑えてしまう、そんな年頃なのだから。
「――ぶッ」
「おいッ、今どさくさに紛れて、誰か屁をこいただろう!」
魔理沙が鬼の首をとったかの様な叫び声を上げた。
私じゃ無い、私じゃ無い、と手をぶんぶんと振りながらあちらこちらで声が上がる。
――はいはい、と雛が犯人を名指しする為に挙手をした。
「はい、雛ッ」
「霊夢の腋から、変な音が聞こえました!」
その言葉に、ぐいん、と一斉に霊夢へと視線が向けられる。
「いやいや、私じゃ無いから、百歩譲ってそうだったとしても、腋からは出ないからッ!」
「認めるんだな。霊夢は博麗の巫女としての自覚が欠ける様だ」
咲夜が、今まで見せた事無い様な、厳しい声で告げる。
「百歩譲って、って言ってるでしょうッ」
「勘弁してよ、霊夢ぅ、ここ私の家なんだけど」
と、換気の為に、窓へと向かうアリス。
「私の腋は腸と直通かッ、食べたものどこで消化すんウアk」
もう霊夢は、何だかどうでも良くなってきた。
「厄いわぁ、霊夢ぅ、や――」

閉話休題(少女夢想封印中)

机を囲んで、座る四人の視界の端に、ちらちらと揺れる足が四本。
アリスの邸宅に、また奇妙な果実が、ひとつ増えた。
「な、なぁ咲夜、私の気の所為かも知れないが、何だか、だんだんと集った人数が減っている様な」
「奇遇だな、私も丁度そう思ってたところだ、帰る頃には誰もいなくなるぞ」
「だいぶ、静かになったしな」
「怖いくらいだ」
――このシチュエーションって、完全に怪談のソレだよな。
――そうだな。
――霊夢、大人げ無いよな。
――そうだな、ゴリラみたいな強さだな。
――紅白のゴリラなんているのか。
――幻想郷と言う、未開の密林には何がいたっておかしくないさ。
と、静まり返った空間では、かえって小声のが良く聞こえる法則通り、だだ漏れの会話をしている。
「さて、冗談はここまでにして、そろそろ紅魔館に戻るよ」
「何よ、もう少しいれば良いじゃない」
アリスが人数分に羊羹を切り分けながら、そう声を掛ける。
「明日も仕事だからな、それに、そろそろ煙草が恋しい頃だ」
と、咲夜は微笑んだ。
そのまま羊羹を口へと乱暴に放り込むと、ごちそうさんと応えて、咲夜は帰り支度を始めた。
「待って咲夜、私も一緒に帰るわ、あんなんでも神社を無人にしとく訳にはいかないからね」
「じゃあ、私も帰るとするか」
ぱんぱん、と皺苦茶になったトレードマークの帽子を整えながら、魔理沙も立ち上がる。
「今日は呼んでくれてありがとうアリス、いい息抜きになったよ、今度は紅魔館にも遊びに来てくれ、パチュリーの奴も喜ぶだろう」
「うん、お邪魔させてもらうわ」
「じゃ、私達も行くぜ、悪いな片付け頼んだぜ」
――はいはい、とアリスは軽く応えてみせる。
「雛とメディ、ちゃんとメンテナンスしてあげてね」
「了解、帰り路、気を付けてね」
霊夢は、素っ気無くを装いつつも、そう一言残して、アリスの家を後にした。



騒いだ後の、何とも言えない気持ちの良い倦怠感を纏って、それすら楽しむ様に、ゆっくりと三人は帰路を歩く。
魔理沙は箒に横座りで腰掛けて、ふよふよと超低空飛行、よく見るとちょこちょこと歩いている、横着なのか何なのか。
霊夢は腕を後ろ手に組んで、魔理沙の後ろからゆっくりと歩いて来る。
咲夜は、念願の煙草を取り出して銜えると、燐寸を擦った。
「このまま咲夜と行って、パチュリーに借りてた本でも返すかな」
「何の本だ」
と、魔理沙が手にした本を、咲夜は覗き込む。
それは〈大馬鹿でも分かる、優しい使い魔召喚魔法〉と記された、古惚けた一冊の本。
見覚えがある、これはパチュリーの書いた魔道書だ。
「使い魔の使役だけは苦手でな、どうも上手く行かないんだぜ」
照れを、言い訳で隠す様に、魔理沙は告げた。
「別に良いじゃ無いか、人には得意不得意ってもんがあるものだ、私は、お前にいつか見せてもらった綺麗な星の魔法が好きだぞ」
「ありがとな、星を操るのは、私の得意分野だ。でも苦手なものを克服して、人は成長するんだぜ」
「そうか、で、どうなんだ、少しは出来る様になったのか」
――全然駄目と、魔理沙は、苦笑で返す。
「まぁ、焦る事は無い、まだまだこれからだろう、一に努力、二に努力だよ」
「あぁ、待ってろよ咲夜、いつか私の使い魔で、驚かせてやるからな」
期待してるよ、と告げて、咲夜は燐寸を擦った。
「なんなら私が返しといてやるぞ」
「いや、自分で返すよ、借りたものを人伝で返すってのは、人としてどうなんだ?」
「それもそうだな」
――まぁ、それなら今は止めといた方が賢明だ、と咲夜は燐寸を擦りながら応えた。
「そんなに根を詰めてるのか?」
――あぁ、と燐寸を擦りながら、咲夜は続ける。
「まだ、棺桶の中で眠りに就きたくは無いだろう」
不敵な笑みを零しながら、咲夜は燐寸を擦った。
「おい、燐寸擦り過ぎだろう、何やってんだ」
「い、いや、風が強くて、すぐ消えちまうんだ」
ほら、これ使えよ、と魔理沙はミニ八卦炉を起動した。
――かたじけない、とそう応えて、咲夜はやっと煙を吸い込んだ。
夜明けの澄んだ、空に紫煙が混ざり、そして溶けて、きっと今日も昨日と変わらない、暑い日になるだろう。
「――こうして三人で歩くのも久しぶりだな、春雪異変以来だぜ」
「まぁ、あん時は飛んでたけどね」
霊夢が、道端の石ころを蹴飛ばした。
「それに、一緒と言うか、ばらばらだったけどな」
携帯灰皿に灰を零しながら、咲夜は苦笑した。
何となく、懐中時計の部分に目をやれば、時刻は午前五時三十分、もう空は白んでいる。
「あの頃に比べて、幻想郷は賑やかになったもんだぜ」
「本当にね、あっと言う間に増えたって感じ、時が過ぎるのは早いものだわ」
「そう言えば、お前達に初めて逢ったのも、こんな季節だったな、確か」
――随分と、恥ずかしい台詞で迎えられたもんだぜ、と魔理沙は笑った。
「存分に笑ってくれ、私の黒歴史だ」
咲夜も余裕の笑みで、煙草を吹かす。
「でも、貴女の刃も大分丸くなったもんだわ、前は無条件に触れるものは全て切り裂くって感じだったじゃない」
「そうか?」
「前に遊びに行った時にフランの奴から聞いたぜ、お前最初ここに来た時、レミリアにも斬り掛かったんだって」
「――それも、私の黒歴史だ、ぼろ糞に負かされたよ」
と、煙と共に、苦笑を零す。
「お前のナイフ捌きは人間にしては見事だが妖怪から見れば無駄だらけとか言われて、だいぶへこんだよ」
「そうなのか?」
「あぁ、今の私のナイフ術は、レミリアお嬢様直伝のものさ」
すっと、良く研がれたナイフを取り出して、咲夜は告げた。
「成程、確かに貴女のナイフ捌きは人間離れしてると思った、いろいろあったのね」
――いろいろあったのさ、とナイフを仕舞いながら霊夢に応える。
「まぁそうやって、人は変わるもんさ、別に悪い事だとは思って無い、寧ろ感謝してるぐらいさ」
そう、二人に言った。
「レミリアお嬢様も、フラン様も、パチュリーも、美鈴の奴も変わった、お前らのお陰でな――」
今じゃ本当の家族みたいだ、と咲夜は言う。
「別に、私は何もしてないんだぜ」
「それで良いんだよ、変わる時ってのは、勝手に影響されるもんさ」
咲夜は立ち止った、ここで道が分かれるのだ。
「あまり無理するなよって、パチュリーに言っといてくれ、ただでさえ喘息持ちなんだからな」
「あぁ、伝えておくよ」
「じゃあ、またね、おやすみ」
と、霊夢は大きな欠伸をすると、魔理沙と連れ立って、歩き出した。
それを見送って、咲夜も紅魔館へと足を向ける。
名残惜しく、何となく振り返ると、霊夢達も丁度振り返ったところである、何だか誰からとも無く苦笑が零れた。
照れ隠しの為に煙草を銜えるが、携帯灰皿がもう一杯な事を思い出して、自室に戻るまでの御預けだと、諦めて仕舞い直すと、今度こそ本当に歩きだした。



「――しまった、館の鍵を部屋に置いてきちまったな」
紅魔館入口の扉の前で、茫然と咲夜は立ち尽くしている。
もしかしたら施錠するの忘れてるかもと思い、ドアノブをがちゃがちゃと何度か捻ってみるが、うんともすんとも言わない。
中に連絡しようにも、すでに紅魔館全体が眠りに就いている時間帯である。
そんな迷惑な事は出来ない。
――図書館にはまだ、パチュリーが起きてる筈だと、そう検討を付けて、その下まで行くと、こつんこつんと、窓に小石をぶつける。
また、何か小言でも、ねちねちと文句言われるんだろうなと思うと少し憂鬱であったが、そんな事は構っていられない。
だが、結局反応は無かった。
どうやら、相当に集中して魔法の研究をしているらしい。
それとも彼女も、もう一区切り付けて寝てしまったか。
仕方無いと、裏庭に回り、二階の美鈴の部屋の窓へと向けて、同じ様に投石をしてみる。
今度は、すぐに反応があった。
カーテンが開かれ、その向こうから美鈴が訝しげな表情で覗いていた。
「鍵忘れた、上げてくれ」
と、精一杯の小声で告げると、驚いた様に反応したが、すぐに縄梯子を下ろして招き入れてくれた。
「ありがとう、助かったよ」
――いえいえ、と寝ぼけ眼で美鈴は応える。
空気は完全に止まっていた、彼女も眠っていたのだろう。
「すまなかったな、この事はお嬢様達には内緒だぞ、おやすみ」
そう告げて、咲夜は忍び足で、自室へと向かった。
革張りのソファーに腰を下ろし、煙草に火を灯すと、やっと一息吐けた。
備え付けの時計を見るとも無しに眺めると、午前六時。
もう立派に朝である。
煙草を乱暴に灰皿へ押し付けて、立ち上がると服を脱いで、それにファブリーズを掛ける。
全てを均等に終えると、クローゼットに仕舞い、また新たな煙草を銜えた。
喉が渇いている事に気付き、紅茶でも淹れようとティーセットに向かうが、煙草には珈琲だなと思い直して、財布を取り出した。
「そう言えば、珈琲の差し入れが何とかとか、言ってたなパチュリー」
それを思い出して、買いにいくついでに、差し入れでもしてやるかと、咲夜は自動販売機へと足を伸ばす事にした。
頑張っている友人の為に、なけなしのお小遣いをはたいてご馳走してやるのも偶に良いだろう。

――昨日とは、自動販売機の様子が違った。
それも当然だ、昨日、この自動販売機は内容が最新のものに更新されたのだから。
だが、そう言った意味では無い。
薄暗い廊下、ぼんやりとその明かりに照らされて、何か人のようなものが自動販売機の前で蹲っているのっているのが見えたからである。
最初、咲夜は商品を交換しているのだと思った、深く考えずにそう思った。
もしかすると今補充したばっかりだから、冷たい珈琲は飲めないかもしれないな、なんて事を考えていたと思う。
しかし自動販売機に近づくにつれてその考えを改める事になった。
――こんな時間帯に?
――誰が?
それは、在り得ない。
何よりも蹲ったままのその人は先程から身動き一つしないのでは無いか。
この時になって初めて尋常ならざる出来事が起こっているのでは無いかという考えに至ったのである。
――違う、それは違う。
最悪の状況を何とか、先送りにしようと言うだけの、咲夜の悪足掻きでしか無いのだ。
それは裏を返せば、もう潜在意識の下では、この最悪の状況を認めている事に他ならない。
あんな、トルネコみたいな、ゆったりした縞々の衣装を着ているのは、この紅魔館に於いて、パチュリーしかいないでは無いか!
「おいッ、パチュリー! 大丈夫かッ」
歩み寄りながら、咲夜は声を上げる。
おいッ、おいッ、と段々に無意識の内に声のボリュームが上がり、それに比例して歩いていたのが駆け足となる。
だが、何度呼んでみても、反応が無い。
「クソッ、何で聞こえないんだ」
的外れな文句を、吐き捨てる。
正面に回り込み、咲夜は目を見開いたまま絶句してしまった。

パチュリーの胸には、深々とナイフが突き刺さっていた。

彼女の身体からは、まだ残っていると言わんばかりに、血が溢れ続けている。
「あ、ぁ――」
と、叫びだし、すぐにでも絶叫したいのだが、声が上手く出てこない。
あらゆる音が喉に張り付いて一向に出せなかった。
ヒュー、ヒュー、と喉から言葉になりそこねた音が漏れるばかりである。
自らの胸に、自らの腕に握り締めた銀色のナイフを突き立てる異様な友人の姿。
それは、少なくとも咲夜にとって、許容出来る景色では無かったのだ。
一瞬にして咲夜の立っている、この場所が異界になる錯覚。
日常と非日常の境界、そこにある隙間に取り込まれてしまった、そう思った。
――何とも嫌な、眩暈が襲った。
何だ、この強烈な違和感は。
かろうじて理性を保てたのは、どこからか漂って来る珈琲の香ばしい匂いのお陰である。
その香りは、暗い海原に浮かぶ船を導く灯台であった。
そうなると、ようやく少し冷静さを取り戻し、状況を確認しなくてはと思い至った。
そっと、パチュリーに触れる。
弱々しいが、鼓動を感じる、まだ彼女は死んでいない。
「た、助けなきゃ――」
だが、刺さったナイフにばかり注意が向いてしまい気付かなかった事があった。
むしろそれに気付かない方が幸せであっただろう。
パチュリーの身体を彩るナイフは、一昨日自分がプレゼントした物では無いか。
これは、もしかしたら、想像以上に自分にとって、最悪な状況を示しているのでは、と咲夜は思う。
この状況を考えて見れば、自分が疑われるのは必須、しかも第一発見者を疑えと言うのは定石では無いのか。
パチュリーからは、まだ血が流れているので、ナイフが突き立てられたのは恐らく数分前。
部屋を出てからここまでは見通しの良い廊下が続いているので、不審な人物が走り去った気配も感じなかった。
さらに、追い内をかける、事実が咲夜に迫る。
あの、パチュリーの形相はどうであろうか。
――苦悶の顕在。
苦痛に歪み、何かを憎しみげに見据える開ききった眼、きつく結んだ口からは、今すぐにでも呪詛の言葉が漏れてくるようだ。
無念と恐怖が、複雑に混ざり合った曼荼羅の様な表情。
ナイフを握る手とは逆の手の先には、魔法陣。
いや、咲夜は魔法使いでは無いので、果たしてそれが本当に魔法陣であるかどうかは分からなかったが、そう見えたのだ。
――何者かと、応戦しようとしたのか。
そこに思考が到ると同時に、咲夜自身も新たな恐怖に背中を撫でられた。
ざわざわと背中に厭蟲が這いずるが如く、悪寒が走る。
いる筈だ、まだ近くに潜んでいる筈だ、パチュリーをこんな目に合わせた犯人が。
この幻想郷でも屈指の魔力を誇る大魔女をここまで追い詰める実力を持ちながらも、突然の出現者である咲夜の登場に慌てる事無く、無闇に襲いかからず、様子を窺う為に一時身を隠せるだけの知能を持った存在が。
それが咲夜を組み敷かせると判断できれば、すぐにでも襲い掛らないとも限らないでは無いか。
それがいつ、この紅魔館内の誰かに牙を向かぬ保証など無いではないか。
さらに、何よりもこの場を誰かに見られたら、咲夜が犯人と間違えられ兼ねない。
とにかくこの場所にいてはリスクが多すぎる。

「――咲夜さん、ど、どうしたんですか」
気付けば、咲夜の背後には美鈴が立ち竦んでいた。
「く、来るな、美鈴ッ!」
尋常では無い、咲夜の剣幕に何か感じ取ったのか、美鈴は近寄って来る。
「えっ、それ、パチュリーさん、えっ――」
美鈴の上げた疑問符に埋め尽くされた声は、やがて劈く悲鳴へと変わった。
「――さ、咲夜さん」
と、怯えを隠す事無く、その瞳は恐怖で咲夜から目を離せずにいる。
「ち、違う、私じゃ無い、私じゃ無いッ!」
「で、でもそれ、咲夜さんのナイフ――」
先程、美鈴の上げた悲鳴で目が覚めてしまったのだろうか、妖精メイド達に混じって、レミリア達も起き出して来た。
「おい、どうしたんだ、これはッ」
レミリアが、誰にとも無く叫び声を上げる。
「誰か、答えろッ!」
パチュリーを抱き起こしながら、レミリアは声を荒げた。
「――まだ、息がある、おい、連絡したのか、聞いてるのかッ、咲夜!」
「は、はい、――い、いや、いいえ」
と、咲夜からは、頼り無い返事が在るばかりである。
「もう良いッ、美鈴、永遠亭と、是非曲直庁にすぐに連絡してくれッ」
はいっと、機敏に応えて、美鈴はロビーに設置された電話へと駆け出した。
「フランは、八意達が到着したらすぐに応急処置出来る様に、部屋を空けといてくれ」
「うん、分かった、清潔な部屋が良いよね、私達の部屋で良いかな」
――あぁ、構わんと、その言葉を受け取る前にはフランは去っていった。
それを手伝おうと、妖精メイド達が付き添って行く、残っていても祈る以外は役に立てる事が無いと己で判断し、動いている。
知識の裏付けの無い、下手な医療行為は、逆に危険だと、理解しているからこそである。
「お、お嬢様、私は――」
動くなッ、とすぐに答えが返って来た。
「現場を荒らすな、犯人がいると決まった訳ではないが、一応だ」
そう言われてしまえば、もう咲夜に出来る事など、何も在りはしなかった。
「パチェ、このまま死なせんぞ、お願いだ、生きてくれよ、パチェ」
溢れる血を必死に留めようと、その小さな手を出来る限り広げて傷口を覆う。
だけど、傷口が多すぎて、とてもじゃ無いが、効果は無い。
「血を吸うしか能の無い、この身が呪わしいよ」
幼い運命を嘲笑うかの様に、何本もの赤い川となって、容赦無く流れていく。
「パチェ、まだ互いに運命を別つのは早すぎるだろう、なぁ違うか」
と、少しでも意識を取り戻させ様と、語り掛けながらレミリアは抱き締める。
そんな姿を放心した様な、虚ろな眼差しで眺めていると、喧騒が聞こえた。
「レミリア様、永遠亭の先生が到着しましたッ」
間髪置かず、美鈴が駆け込んで来る。
「これは――」
医療道具一式を抱えて入って来た、永琳ですら、その惨状を目の当たりにして、一瞬言葉を失った。
「部屋は用意してある、どうか宜しく頼む」
「え、えぇ、さぁ、うどんげ、運んで頂戴」
――手伝います、と美鈴や妖精メイド達も協力して、パチュリーを運んで行った。
ふと、気付けば、パチュリーの元に描かれた魔法陣は消えていた。
咲夜が考える事が出来たのは、そんな事だけであった。

パチュリーの手術が始まって、もう何時間だろうか、皆は大広間に集まって、コチコチと無表情に時を刻む時計の音に身を任せていた。
彼女達を心配したのだろう、食堂のおばちゃんが、配膳台に暖かなコーンポタージュを乗せて持って来たのだが、誰もそれに手を伸ばそうとしなかった。
「少しでも腹に入れとくんだよ、あんた達まで倒れちゃ元も子も無いからね」
誰にとも無く、それだけ告げると、食堂のおばちゃんは、部屋から出て行った。
それを見送りながら、動揺を隠せない妖精メイド達を、美鈴が優しく宥める。
この館の主として、取り乱しては、余計に動揺を生むと自覚出来ているレミリアは、落ち着かないその気持ちを、爪を強く噛み締めて、なんとか耐えている。
フランは多少なりとも、治癒魔法が使用出来るので、補助として手術に付き添っていた。
咲夜も煙草が吸いたくて堪らなかったが、親友が戦っているのだ、そう思えばこれぐらい耐えるのは容易い事だと言い聞かせた。
そしてまた、時計を見上げるが、そこには状況を好転させる様な答えは何も無かった。
圧し掛かる沈黙に悲鳴を上げそうになった、その時フランが戻ってきた。
「ふっ、フランッ、パチェはッ」
「大丈夫、一命は取り留めたよ」
フランはそう、疲れ切った笑みを零した。
「――そうか、それで」、「でもね、お姉ちゃん――」
二人の言葉が同時に重なり、混ざり合った。
「ん、何だ」
「その――」
と、言ったきり、上手く言葉が紡げないのか、それきりフランは黙ってしまう。
「いいわ、後は私から説明するから、もう貴女は休みなさい、良く頑張ったわ」
白衣に着替えながら、永琳が大広間に入って来た。
「ありがとう、八意」
「まだ、礼を言われるには早いわ」
どういう事だ、と不吉な不安を混ぜた声をレミリアは発する。
「一応、傷口は全て縫合したわ。見た目よりは傷の具合も、出血の量も少なかったから、外傷の方は問題無い。多少時間は掛るでしょうけど、いずれ癒える。問題は――」
魂の方、と永琳は細く長い、メンソール煙草を銜えながら告げた。
「何かが、彼女の心を覆って、完全に閉ざしてしまっている」
「――それは」
「このままでは永久に目覚めないと言う事よ。どうしてそうなったのか、他者からの恐怖か、それとも己を守る為に自主的にそうしたのか、いずれにせよ、その何かを剥がさない限り、彼女の容体は好転しないわ。それどころか時を置かずして、魂の活動しない肉体は腐敗を始める」
「何か、打つ手は、無いのか」
レミリアは、ぎりぎりの冷静さを纏って問い掛ける。
「いえ、幸い正体不明の何かと言う事は分かっている。だから、それが何かさえ分かれば治療の方針も立てられるわ、でもそれを探す為の時間が無いわ」
紫煙を吐き出しながら、事実を淡々と告げる。
「それが分かっているのなら、強引に剥がす事は出来ないのか?」
――それは、無理と、永琳からすぐに返事がある。
「あれは彼女と一体化していると言って良い、無理矢理に剥がせば、その時点で彼女の魂ごと消滅する事になるわ。だから正体を見極めて、それを排除するしか無いの」
「正体が分からない内は、下手に動くと危険と言う事か」
「そう言う事ね」
「――牛乳だッ!」
黙り込んでいた咲夜が、勢いよく立ち上がり叫んだ。
「八意先生、巣食っているものの正体は牛乳だ、それしか考えられないッ、彼女をそこまで追い詰めるものなんて、それしか無いッ!」
「――残念だけど、それは違うのよ」
ゆっくりと、頭を振りながら永琳は応えた。
「そ、そんな」
「彼女の牛乳嫌いは、私も知ってるわ。つい最近鴉天狗の新聞で読んだからね。だから、それも調べてみたけど違った、彼女を蝕んでいるものの正体は牛乳では無かったわ」
フィルターに口紅の付いた吸い殻を灰皿に放り込みながら、言った。
「このまま魂が戻らなければ、肉体が滅び始める。――猶予は、どれくらいある」
友人として目を瞑りたい事実に、紅魔館主としての仮面を何とか被りレミリアは問う。
「もって、二十四時間、場合によっては、それよりも短くなると覚悟しておいた方が良いでしょう」
その永琳の言葉に、妖精メイド達が、また、「ひッ」、と嗚咽を上げた。
美鈴でさえ、もう憚る事無く俯いてしまっている。
誰も口にはしないが、既に己が絶望の中に放り込まれている事を理解していた。
パチュリーと最も親しいと言える、レミリアと咲夜にすら心当たりが無いと言うのだ、探す為に残された時間は、あまりに少ない。
「牛乳の線が無いとすると、打つ手無しか」
レミリアが悲痛な呟きを洩らす。
「――取り込み中のとこ、すまんね」
黒革の手帳を示しながら、新しく女がまた広間に姿を現した。
「是非曲直庁捜査一課の小野塚小町だ、咲夜ちょいと話を聞かせてくれないか」
「こ、小町」
「何、すぐ終わるさ」
「――私が、容疑者と言う事か」
「いんや、これは任意だ。だがな、拒めば余計な疑惑を生むぞ」
「違う、私はやっていないッ、レミリアお嬢様、私はやっていません、紅き血に誓ってッ!」
だがレミリアは、感情を感じさせない顔で、咲夜を静かに見返すだけである。
「さぁ、行こうか」
小町は告げると、しょんぼりと肩を落とした咲夜に連れ添うように、紅魔館から出て行った。



是非曲直庁内の取調室は、小町の煙管から吐き出される煙で、噎せ返りそうな澱んだ空気を作り出している。
「ほら、お前さんも吸ったらどうだ、どうせ誰も見ちゃいない」
そう言って、煙草の箱を、机の向いへと座る咲夜に滑らした。
「あたいは別に、お前さんを疑っちゃいない、だが、こうして要請があった以上仕事だ、捜査一課の小野塚として、お前さんを取り調べなきゃならん、許せ」
「いいんだ、それが仕事だろう。それより、火を貸してくれないか」
無言で頷くと、燻ったままの煙管を差し出した。
「それで、大方話は聞かせてもらったが、本当に不審な人物は見なかったんだな」
――本当だ、と煙草を取り出して銜えた。
「他に、何か普段と違う様子は無かったか、パチュリーに?」
「分からない、別にいつも通りだったと思うが、そうだ、パチュリーは何かの研究に行き詰まっていたみたいだ」
――あぁ、それは関係無いと思うぞ、と小町は言った。
「何の研究だったんだ?」
「太陽を、月として活用出来ないかと、そんな内容だ」
――そうか、それは関係無いだろうな、と咲夜は溜息を吐く。
「小町ちょっと――」
小町の上司である、四季映姫が顔の上半分だけ覗かせて、呼びかけた。
ちょっと、外すよと告げて小町は、扉の向こうへと消えた。
何だか声が漏れ聞こえて、鏡がどうとか、それのが手っ取り早いだとか、真実がそうだとか、そんな話が聞こえてくる。
そして、銜えた煙草が全て灰になる頃に、小町は戻ってきた。
良く冷えた珈琲をトレーに乗せて、飲めよと言って、コトリと咲夜の前へと置いた。
礼を言って、咲夜はグラスを受け取った。
もともと珈琲が飲みたくて図書館の横にある自動販売機を目指していたんだ、その事を咲夜は思い出していた。
結局、また自動販売機で買い物は叶わなかった訳だ。
「あぁ、咲夜、気を悪くしないでくれよ。この鏡で調べさせてもらうぞ」
「構わないよ、私に疚しい事なんて何も無いからな」
「あたいは、この遣り方は味気無くて、あまり好まんのだがね、まぁ仕方無い、友人の無実を晴らす為と思えば、何とも無いさ。失礼――」
そう言いながら、小町は今受け取ったばかりの鏡を翳した。
「――咲夜、お前さん、なんつう色気の無い下着を履いてるんだ」
「お前は何を覗いてるんだ」
冗談だよ、そう言って小町はもう一度鏡を翳す。
「うん、良し大丈夫だ、お前さんの証言に間違いは無いようだ。疑いは完全に晴れたよ、無罪放免だ」
「当然だ」
そうなると安心したのか、小町は饒舌に、今分かっている事を、咲夜にぶち撒けた。
パチュリーを助ける為に、少しでも手掛かりをと言う、小町なりの気遣いであろう。
咲夜の疑いが晴れた今、自分の出来る精一杯の協力を申し出ようと、そう言う事なのだ。
「おい、小町、職務上知り得た事実を、第三者に漏らすのは職務規定違反だろう」
「実を言うとな、状況から少しお前さんの事を疑ってた。だが考えてみれば、お前さんがパチュリーを襲う訳なんて無いんだよな、――そのせめてもの、罪滅ぼしだ」
「そうか、ありがとう」
「だが、ここであたいから聞いたとは誰にも言わないでくれよ」
――分かっていると、力無く笑って、咲夜は応えた。
「じゃあ、あたいは映姫様に、鏡で見た事を報告してくる、すぐに紅魔館にも伝える様に言っておこう」
「あぁ、よろしく頼む、あぁ、それから下着の事は言うなよ」
「分かってる、余計な事は言わんさ――」
ほら、火なら、これを使えよと、燐寸を放り投げて、小町は取調室を出て行った。

小町がいなくなると、張り詰めていた緊張感は開放された。
そのお陰で意識は冴えきっていたが、度重なる不慣れな出来事の所為で、身体はとっくにまいってしまっていたようだ。
眠気が頭を擡げ、うとうとして来る。
だが、寝ている暇など無い。
十六夜の名に泥を塗り、この私に恥を掻かせた、その憎むべき犯人を炙り出さなければならない。
頭の中に渦巻く疑問符を一つでも減らし、重く鈍くなった思考を活性化させるために、現場の状況を頭の中に思い描く。
停滞していた頭の回転が戻って来たのを、咲夜は感じた。
そもそもこれは、殺人なのだろうか、それとも自殺になるのだろうか?
是非曲直庁は、二つの線で動いているらしいから、どちらにせよ可能性は残っている。
もし、殺人であれば、それを実行した犯人の存在が絶対にある筈だ。
それなら犯人は、私が駆け付けた時、近くにまだ潜んでいたのでは無いだろうか?
何食わぬ顔で、館の中を闊歩していた可能性だってある。
そう、その方が可能性は余程高いのだ。
だが、彼女は誰かから恨みを買う様な人物では無いし、特定の男や女の影がちらついた事だって無いのだ。
後は、金銭トラブルが考えられるが、彼女に限って言えば、それは無いだろう。
目ぼしい動機はまだ出ていないと、小町も言っていた。
小町の話によると、犯行時間は午前五時半から、私が駆け付けるまでの午前六時までの間らしい。
パチュリーは三十分毎に、研究の進捗を小まめに記録していた為に、それが分かったのだ。
一応、偽装工作の線も疑い、記録自体も調べたらしいが、怪しい細工の跡も見付からず、この事実には信憑性があると言えるだろう。
午前五時半と言えば、私が魔理沙や霊夢と一緒にアリスの家から丁度、帰ろうとしていた時間帯だ。
その時間になれば、館はもう寝静まっていた頃だろう。
起きていたのは、恐らく、研究を続けていたパチュリーだけだ。
紅魔館の妖精メイド達は規則正しく、躾が行き届いているので、間違い無いだろう。
そもそも、妖精メイドがもし犯行を行おうとしても、申し訳無いが彼女達が全て襲い掛ったとしても、パチュリーの奴に傷一つ付ける事は叶わないだろう。
それに、パチュリーは殆ど、応戦をしていなかった様である。
つまり、完全に実力の差がある人物と対峙したか。
もしくは、非常に親しい間柄の誰かに襲われたのだと言う事だ。
そんな人物は、この幻想郷に於いて、数える程しかいないだろう。
だが、外部犯の犯行とは考えにくい。
紅魔館正面の扉は完全に錠が下りていた、それは私も確認している。
あの扉は、パチュリーの奴が外の世界から仕入れて来た〈ベルリンの壁〉と呼ばれる、障壁の一部を用いて作られた、文字通りの絶対の壁なのだ。
あらゆる魔法を弾き、紅魔館とそれ以外を隔てる、正真正銘の境界なのだ。
それは、あの境界を操る八雲紫でさえ越える事の出来ない代物なのだ。
彼女自身それを認めているし、その為に、紫さんは、この紅魔館に一定の敬意を払い接してきているのだ。
オープンな昼間ならまだしも、あの閉ざさたれた時間帯に他の場所から侵入するのは無理だ、入り込んだとしも、誰かしらが気付く筈である。
だが、誰もそんな証言はしていない。
鍵は、普段から外に出る、私と美鈴と、パチュリーとお嬢様達が持っているだけである。
小町は、それぞれ所持を確認したと言う。
紛失した鍵は無い、それどころか、これはパチュリーの魔法によって、鍵と所持者が共に認証されて開く仕組みなのである。
例え他者が、鍵を手に入れたところで、まるで意味が無いのである。
いや、そもそも侵入して来たと言うのが間違いなのか、もともとこの日の為に、何日も前から準備を整え、昼間の内に忍び込み天井裏にでも隠れていたのか。
それなら他者となって、パチュリーが応戦しなかったのが疑問になる。
やはり、巨大な力を持った何者かであろうか。
もし何らかの方法で、紫さんが、侵入したとしよう、彼女の実力であれば、間違い無くパチュリーを屠れるだろう。
しかし、そうなると新たな疑問が生まれるのだ。
紫さんに限らず、それだけの実力が在るのなら、何故あえてパチュリーの持っていたナイフで襲わなければならなかったのか、と言う疑問である。
彼女の傷は全て、そのナイフで付けられたものだと、八意先生の証言である。
他のものによって齎された傷は無いのだ。
それは、どうしても不自然に思えてしまう。
だから、この状況を総合的に判断すると、どうしても内部犯の犯行だと言う結論を避ける事が出来ないのだ。
そんな事は考えたくも無いのだが、もしそれが真実であった場合、もう一度パチュリーを襲わないとも限らない、彼女はまだ生きているのだ。
だが、美鈴は犯行時刻、部屋にいた、寝ていた筈だ、入った時たしかに、空気は止まっていた。
起きていた気配は無い。
しかし、美鈴にパチュリーをどうにか出来るかと言えば、甚だ疑問である。
隙を突けば何とか言ったところであろうか、それでも多分に幸運を味方に付ける必要がある。
なら、レミリアお嬢様かフラン様か、彼女達であれば、パチュリーよりは強い。
だが、現場は少しも荒れていないのだ、暴れた痕跡はどこにも無いのだ。
それに、こちらも同じ疑問が生まれる、何故、ナイフを使って犯行に及んだのであろうか?

ならば、パチュリーの自殺であろうか。
あのナイフから検出された指紋は、パチュリーのものだけである。
ならば、自殺と考えるのが一番相応しい様に思える。
それにしては、どこか死ぬ事を急いでいる様に思えてならない。
追い詰められた末の自殺、どうしてもその考えが拭えないのだ。
彼女が忌諱する、牛乳を飲んでしまった為に、発作的に自殺したとも思ったが、どうやらその可能性は零である。
そもそも自動販売機からは牛乳は撤去されている。
紫さんが、交換していったのだ、うっかり牛乳が紛れ込んでいたとしても、パチュリーなら買う前から気付く筈だ、遠く離れていたって、牛乳の臭いを嗅ぎ取る程に嫌悪しているのだから。
なら、紫さんが故意に残しておいたのかと言えば、それも違うと言わざるを得ない、私自身その動作を見ていたが、怪しい動きは無かったと断言出来る。
それにくどい様ではあるが、パチュリーを亡き者にしたいのであれば、彼女ならそんな回りくどい方法を採らなくても、いくらでもやりようはあるのだ。
あの自動販売機には、曰く付きの話でもあるのだろうか。
過去に何度も、あの自動販売機の前で自殺者が相次ぎ、その為にあの自動販売機は幻想入りする事になった、その事実を知らずにレミリアお嬢様が拾ってきてしまった。
その結果、自動販売機の持っていた負の連鎖にパチュリーは巻き込まれた。
そう考えてみると、あの自動販売機が、どこか禍々しい空気を纏っているような気がした。
いや、ナンセンスだ、たかが自動販売機である。
――それに、あのパチュリーの表情はどうだろうか。
あれは自殺を覚悟した人間の顔じゃない、殺された人間の顔だった。
殺意によって齎された、無念と怒りと悲しみが複雑に混ざり合った表情だ。
さらに自殺で、あそこまで出来るはずが無い。
自殺であれば、胸を一突きすれば良いだけだ。
心臓を一突き、それで終わりだ、綺麗に終わる。
自殺であり、その凶器をナイフと選んだ以上、なるべく苦しまずに自殺する方法はそれが一番だ。
なのに、パチュリーはその方法を採らなかった。
一突きで終わらせること無く、何度も何度も自分の身体を刺したようだ。
刺したというよりは、何度も抉ったと言った方が正確か、とにかく喉から腹にかけて尋常な数ではない傷跡があり、それは実に凄惨なものであったではないか。
一体、何がそうさせたのだろう、そんなに自分が許せなかったのだろうか、よっぽど高潔な意志をもって望んだ自殺なのか、果たして、そんな自殺の動機があるのだろうか。

それに、あの魔法陣の様なものは何であろうか?
何者かに襲われ、それに対抗しようと描いたものであろうか。
すぐに消えてしまったが、あれは確かに、あの場所に描かれていた。
皆が集って来た時には、すでに薄くなっていたので、誰も気に留めなかったのだろう、あまり気にしている様子は無い。
あれは、もしかしたらダイイングメッセージだろうか?
死にゆく者が、犯人を示すために残す、最後の抵抗。
いや、そんなはずは無い、ダイイングメッセージは小説の中だけで機能するシステムであり、現実には、まずあり得ない。
ダイイングメッセージを書き残す時間があれば助けを呼ぶだろうし、何よりも、死の間際、そんな冷静に考えて、メッセージを残せる訳が無い。
犯人の目を気にして暗号化しなければならないのなら、なおさら無理である。
前もって犯人を知っていて、残すメッセージの暗号化を考えていたのなら分かるが、状況を見るに不意打ちであり、そんな時間は無かった筈だ。
そんな暇があれば、もっと他にするべきことがある筈だ。
むしろ犯人に危害を加えるといったほうが、よっぽど納得がいく。
見たところ、私にはただの図形にしか見えない。
とても犯人の名前が書いてあるようにも、犯人を示す手掛かりが書いてあるとも思えない。
その複雑怪奇な図形は、私にとっては出口の見えない迷宮そのものである。
――重要なのは、誰に宛てて書いたのかと言う事だ。
暗号化されている以上、普通の人には解けないように出来ている筈だ。
私にしたところで、さっぱり理解出来ない。
それに、そんな急ごしらえで、魔法陣に暗号を混ぜて描く事など出来るのだろうか?
詠唱とか、何かそう言ったものも必要だろう。
助けを呼んだ気配は無いのだから、詠唱するなど以ての外である。
それとも、声が出せないからこそ、魔法陣に何かを託したのか。
彼女は魔法使いである、だから、同じ魔法使いである、魔理沙やアリスに聞けば何か分かるだろうか。
――それとも真犯人が、偽の手掛かりを与えるために書き残したのか?
捜査を間違った方向に持っていく為に、そう考える事も可能だ。
いや、それこそ真犯人には、そんな時間は無かっただろう。
そんな暇があればさっさと逃げた方が良い。
誰かに見つかるリスクをおってまで、ダイイングメッセージを残すことが重要だとは思わない。
確実に間違った方向に持っていけるのならいいが、下手したら、ただの落書きだとして無視されるかもしれないし、見つけてもらえないかもしれない。
どちらにせよ、今のままじゃ、どんな状況だって考えられる、情報が少なすぎる。
自殺か、他殺か、そして残された魔法陣の意味は。
誰よりもパチュリーの近くにいたと思っていた咲夜は、実はそんな事は無かったのだと言う事を嫌でも思い知らされた。
魔法陣にしたって、咲夜には何も分からないのだ。
彼女を追い詰める存在が、牛乳以外にあるなんて、咲夜の知らない事である。
彼女の隣で歩んで来たと言うのは、自分だけの幻想にすぎなかったのだと、咲夜の心は絶望にも似た感情を咲かせていた。

「伝えて来たよ、咲夜、もうすぐにでも迎えが来るだろう」
煙管に新たな草を詰めながら、小町は戻って来た。
「――あぁ、ありがとう。なぁ小町、ちょっと聞きたい事があるんだが」
「ん、何だ?」
咲夜は、魔法陣の事を問いただした。
「あぁ、あれか、お前さんの証言を元に、一応魔理沙とアリスの二人に確認してもらったが、詳しい事は分からなかった。いかんせん、情報がお前さんの書いた物しか無く、随分と曖昧だったからな。それにあの二人にしたところで、全ての魔法陣を網羅している訳では無いからな、その相手が知識の魔女であるパチュリーの魔法陣なら猶更だろうよ」
「そうか」
「でも、あの二人が言うには、どうやら転送魔法の一種では無いか、と言う事だ」
「転送魔法――」
「何かを送ったか、それとも、何かを引き寄せたか、どちらにせよ、術者があの状態だからな、魔力の跡を追うのは無理だ」
「小町、ちょっと――」
また、四季映姫が、顔から上半分を覗かせて、小町を手招く。
「はいはい、何ですか」
そう立ち上がると、何かを喋り始めた。
言い辛い、私から伝える、とか何とか聞こえて来る。
「あぁ、すまないな、あの人、ちょっと人見知りでな、あまり知らない人の前に出たがらないんだ、悪気は無いからな、勘弁してやってくれ」
「それは、構わないんだが――」
「紅魔館から返答があった」
咲夜の言葉に被さる様に、小町は告げた。
「咲夜、お前さんは今日付けで、その、なんだ、紅魔館から暇を出された」
手にした書類に目を落としながら、小町は少し閊えながら、そう告げた。
それを咲夜は、引っ手繰る様に乱暴に奪い取る。
眼に飛び込んで来たのは、
――これより、十六夜咲夜は、紅き眷属の外とする。
――これより、紅魔館への立ち入りを固く禁止する。
――これより、我が眷属に接触する事は固く禁ずる。
そして、レミリア・スカーレットの署名。
「――すまないな、小町、お前にまで気を使わせて」
奪った書類を返しながら、咲夜は言う。
それに返す言葉を、小町は持ち合わせていなかった。
分かっていた、こんな事になるのではと、咲夜はもうとっくに覚悟していた。
いくら鏡を使って無実が証明されたとしても、一度芽生えた疑惑は簡単に消えるものでは無いだろう。
永遠亭や是非曲直庁に連絡するのだって、レミリアお嬢様は私では無く美鈴に頼んだのだ。
誇り高き紅魔館に、この十六夜咲夜が泥を塗ってしまったのだ。
パチュリーがあぁなってしまったのだって、館の管理を任されたメイド長である、この私の責任である。
もう、あの時から、この結末は約束されていたのだ。
接触を禁ずる、それ即ち、もうパチュリーを救う事すら、私には許されないのだ。
予定調和の運命である。
今なら、あのナイフの意味が分かる、自殺ならきっとパチュリーは私への抗議として、あのナイフを選んだのだろう、咲夜さえしっかりしていれば、自分はこんな目に遭わずにすんだのに、と。
そして、他殺なら、私へとその罪を着せようとして、わざわざあのナイフを使用してパチュリーを襲ったのだ。
パチュリーの殺害は手段であって、決して目的では無かったのだ。
私を苦しめ、追い詰めるその駒に選ばれたに過ぎないのだ。
それなら、彼女を殺してしまったのは私だ。
誰かから怨みを買う様な覚えは無い、だがそれは私の主観に過ぎず、いつどこで恨みを買う事だって充分にあり得るのだ。
そう、全て私の責任だ。
それが理解出来ているからこそ、レミリアお嬢様は私を館から放逐したのだ、そんな私をこれ以上館に置いておけば、パチュリーだけで無く、他の眷属にまで魔の手が迫る可能性だってあるのだ、それならこの判断は当然の事だろう。
「――大丈夫か」
「あぁ、こう言われなければ、自分から辞任を申し出ようと思っていたところだ」
「どうする、あたいとここで働くか? 今なら空きがあるぞ」
と、小町は煙管を吹かす。
「少し、何も考えずに、休もうかと思う」
「――宛てはあるのか?」
――何とかなるさと、咲夜は呟いて、煙草を銜えると、出口へと向かった。
紅魔館から届けられた、小さく纏められた、咲夜の荷物。
焦げ茶の革張りのトランクを小町は渡した。
「世話を掛けたな」
「疲れた時は、いつでも寄ってくれ」
その言葉を背に受けて、咲夜は、孤独な迷宮へと足を踏み入れた。



西行妖は葉桜で、とてもじゃ無いが、死を齎してくれそうも無かった。
「――随分と、残念そうな顔をするじゃ無いか」
下駄を履いた鬼が、華の杯片手に、その葉桜の麓に座り、咲夜に声を掛けた。
「当然さ、ここに死に場所を求めて足を運んだんだからな」
「なら、諦めろ」
「それなら、亡霊の姫様にでも頼むさ」
紫煙を吐き出しながら、咲夜は言って退けた。
「そう死に急ぐな、旨い酒の味も知らずに死ぬなど、あまりに憐れだ」
「酒なら、もう存分に味わったさ、たいして旨いとも思わなかったがな」
そりゃ本当の酒の楽しみ方を知らんからだ、と鬼は豪快に笑った。
「酒ってのは、友と同じ、古くなって初めて旨く呑めると言うものだ」
「――古くなる前に、瓶が割れちまったら、もうどうしようも無い」
「まだ、割れちゃ無いだろう」
「割れたも同然さ、もう皹が入って、決壊寸前だ」
「ならば、器を換えて、気長に待てば良い」
「もう、そんな時間は残されちゃいないのさ」
「――ならば、何の為にお前は死ぬ?」
運命の気紛れな悪戯か、何の因果か、一時紅魔館で交差した私と彼女達の運命。
だが、それは本来間違っていたのだと、そう、それだけの事だ。
今私が置かれたこの境遇は当然の結末であり、これこそが本来進むべき道だったのだ。
「ねじ曲がっていた運命を正す為さ――」
――鬼のあたしにゃあ、嘘は通じないよ、と杯を呷りながら告げる。
「言葉を飾ったところで、逃げたいだけだろう」
「――もう、疲れちまったのさ」
そう呟いて、トランクを抱え直して、咲夜は白玉楼へと向かった。
「どうしたんですか、咲夜」
迎えた妖夢は、突然の訪問者に戸惑いながら対応している。
「妖夢、お前んとこの姫様はいるか?」
「――何の用ですか? 今は出掛けていますが」
「ちょっと、殺してもらおうと思ってな、あの人なら痛みも無く、楽に死なせてくれると思って」
――ふざけないで下さい、妖夢は静かな怒りを瞳に宿した。
「幽々子様を、自殺の為の道具に使うなど、許せる事ではありません」
「なら、お前が斬ってくれよ」
「死にたがりなど、刀の錆にする価値すら無い」
「駄目か」
「それに、こんな時に、貴女が自殺なんてすれば、自分が犯人だったと言っている様なものですッ」
――そうかもな、と、そう告げて再びトランクを引き摺る様に咲夜は去る。
「咲夜、私にはどうしても斬れないものが在りますッ」
「――どうせ、運命とか言うんだろう」
振り向きもせず、つまらなそうに咲夜は応えた。
「そ、それは」
「説教なら、間に合ってるよ」
後ろ向きのまま、手を振ると咲夜の姿はだんだんと小さくなって、やがて視界から消えた。
妖夢は、こんな時どんな言葉を掛ければ良いのか、自分の圧倒的な経験の無さを悔やんだ。

香霖堂の扉には〈準備中〉の文字を湛えた看板が、無情にも風に揺れていた。
「こりゃ、本格的に天に見放されたな」
立ち尽くしたまま、咲夜はそう、ぼやいた。
「どうりで、ここのところ何をやっても勝てない訳だ、ギャンブルなんて以ての外だ」
トランクを尻に敷いて、そのままドカッと、座り込むと煙草を銜えて火を灯す。
風に乗って、無様な格好に折れた新聞が飛んで来て、顔に貼り付いた。
面倒臭さそうにそれを、剥がすと、「紅魔館の惨劇、犯人は元メイド長か」、との記事が目に入る。
「好き勝手書きやがって、文の野郎、今度会ったらただじゃ済まさんぞ」
新聞を乱暴に丸めると、吹き付ける風に向かって放り出したが、それが風に戻され顔に当たり、さらに咲夜を苛立たせた。
そのまま何を考えるでも無く、何本目かの煙草を灰にした頃、ぽつり、ぽつりと、夏とは思えぬ、冷たい雨が落ちてきた。
「――なんだよ、容赦無いな、運命の奴も」
煙草ぐらいゆっくり吸わせろよ、そう吐き捨てると、トランクを頭の上に翳して、雨を避ける為に、また宛てど無く歩き始めた。
そうして避ける場所を探す内にも、雨は咲夜の身体を確実に濡らしていき、そうなると、何だかもう、こうして雨を避けて歩くのも馬鹿らしく思えて来る。
その果てには、どうでも良くなってしまい、雨に打たれるままに、開き直ってそれを楽しむ様に、雨とダンスを始めたのだ。
ばしゃばしゃっと、軽やかにステップを踏みながら、気付けば、足でも縺れたのか地面に転がっていた。
降り付ける雨さえ、己を責めているかの如く思い、自然と訳の分からない笑みが零れた。
「このまま、ここで寝転がっていれば死ねるだろうか――」
だが、当然、答えが返る訳は無い。
「――あと、十二時間か」
懐中時計を取り出して、咲夜はぼそっと呟く。
「せめてもの償いだ、私も一緒に行くぞ、パチュリー」
煙草を取り出すが、既に役立たずの塵になっていたそれを、口汚い罵りと共に投げ捨てる。
天に向かって唾を吐き捨てると、もうどうにでもなれと、そのまま目蓋を下ろした。
――耳障りな音だけは変わらずに聞こえているのに、雨が止んだ。
「霊夢――」
その事実に、目を開くと、見慣れた紅白が立っていた。
何も言わなくて良いと、傘を差したまま、顔を振ると、霊夢は起きるように促した。
そうして、力無い足取りで二人して、雨の道を歩いた。
かつては艶やかな朱を誇っていたであろうが、今はそれがところどころ剥げた、巨大な鳥居の前にまで来ると、泥だらけの己の姿が酷く滑稽に思えた。
そんな寂びれた鳥居を潜りながら、咲夜は、自分は何をしているのだろうと、そんな事を必死に考えていた。
無言で、階段を上がって行くと、久しぶりに見る博麗神社の境内と拝殿が目に入る。
「妖夢から連絡貰って、そろそろ、来る頃かと思ってね、魔理沙とアリスも来てるわ」
居住区まで来て、それだけ告げると、霊夢は奥へと行ってしまった。
立てかけられた傘から流れる水滴を眺めていると、アリスと魔理沙が顔を出した。
「ほら、上がりなさいよ、風邪引いちゃうわよ、どうせ何も食べないで煙草ばっか吸ってたんでしょう、お粥とか用意してるから」
アリスの言葉に、どうしても素直に咲夜は従う事が出来なかった。
紅魔館こそが私の居場所であると言う未練が、この期に及んでも残っている事は否定しない。
それよりも、居場所が無くなれば、霊夢達に縋れば良いと、その自分の替わり身の速さが許せなかった。
都合良く霊夢達を利用している様で、自分自身に吐き気を覚えるのだ。
「――ふう、まったく仕方無いわね、魔理沙手伝って、こっちに運ぶから」
アリスは溜息を吐きながら、それでもちっとも嫌そうな素振りを見せずに言う。
分かったと、そう告げて魔理沙は準備を始めた。
「皆――」
「私達の前でぐらい、格好つけるの止めなさいって言ったじゃない」
そう言って、アリスは微笑んだ。
その姿に、咲夜を押し留めていた何かが、堰を切って溢れだした。
その場に崩れて、流れる嗚咽を何とか噛み締めて堪える。
戻ってきた霊夢が、そっと咲夜を抱き締めた。
「大丈夫よ、大丈夫、ここには私たちしかいないから、好きなだけ、ね」
霊夢は、泥を気にする事無く、音も無く泣き崩れる咲夜をただ静かに抱き止めている。
「――私は、私はッ」
だが、咲夜の思いは言葉にならなかった。
「どけッ、霊夢――」
咲夜の胸倉を掴んで、魔理沙は力一杯引き摺り上げる。
「手前ぇ、咲夜ッ、お前なんの為にここに来たんだッ!」
ちょっと、魔理沙、とアリスが言うが、彼女は構う事無く、それを遮る。
「黙ってろ、アリス。いいか良く聞けよ、あれからレミリアもフランも昼夜問わずパチュリーを襲ってくる奴がいないか病室の前で番をしてる、美鈴だってお前ひとりに責任を押し付ける様な真似をしてしまったと言って、ずっと門を守ってる。妖精メイド達だって、パチュリーに巣食うものの正体が何か掴めないかと走りまわってる。それだけじゃ無い、八雲一家も責任を感じて牛乳が混じっていなかったか確認している、永琳達は全力で延命に臨んでいるし、小町達だって全力で捜査してる、幽々子も、早苗達も、さとり達も、命蓮寺の奴らだって、皆、パチュリーの為にと必死に動いてるんだッ! 私達だって、別にここでお前が来るのを待ってた訳じゃ無い、ついさっきまで、あの魔法陣が何なのか調べてたところだッ!」
――それなのに、お前と来たら、と魔理沙は叫んで続ける。
「泣きじゃくるばかりじゃ無いか、ちゃちなプライドぶら下げて、悲劇のヒロイン気取って、さぞ気持ちの良いことだろうな、えぇ、良い身分じゃねぇかッ!」
「そんな事、そんな事、私だって、分かって――」
「分かってたら、嘘でも、自殺の真似なんてしねぇだろうがッ」
そう叫んで、魔理沙は咲夜を思い切り殴りつけた。
「分かるもんか、お前なんかに分かるもんかッ、私の所為で家族を失って、家族に疑われて、その揚げ句の果てに家族に捨てられた、私の気持ちが分かるもんかッ――」
そう叫んだ、咲夜をまた魔理沙は殴る。
「――ッ、魔理沙ッ、遣り過ぎよ!」
引っこんでろ霊夢ッと、魔理沙はあらん限りの声を張り上げる。
「失っただぁ、ふざけんじゃねぇ、まだ失っちゃいねぇだろッ、パチュリーはこうしてる間にも孤独に闘ってるんだ、家族ってんなら、お前も一緒に戦ってやらなくてどうすんだッ、誰よりも隣にいたお前がッ」
「隣にいただけだ、それだけだ、私はパチュリーの事なんて何も分かっちゃいなかった、家族なんて偉そうに言ったところで、その程度なんだよ、私達はッ!」
「そう思えれば楽か、そうやって責任感じてるフリすれば満足か、勝手にパチュリーの気持ちまで決め付けるんじゃねぇッ」
――お前が来てくれるのを、待ってるんだろうが、魔理沙は胸倉を掴んで、また咲夜を立たせる。
「そんな訳無いだろう、私はもう見捨てられたんだ、お嬢様の命令は絶対だッ」
「お前の言う家族ってのは、言葉ひとつで断ち切れちまうもんなのか、そんなに脆いもんなのかッ」
「煩いッ、分かるもんかッ、家族も持たずに、孤独に気侭に振る舞うお前ら何かに、分かるもんかッ」
きっ、と魔理沙を見据えて、咲夜は嗚咽塗れの叫びを上げる。
「分かるかよ、そんなもん分かりたくもねぇッ」
――そんな安っぽい台詞でも言うと思うか、と咲夜の視線に負ける事無く、目を逸らさずに、魔理沙も叫ぶ。
「分かるよ、全部分かっちまうよッ、だだ分かりだよッ、紅魔館なんて関係ねぇッ、私達は幻想郷ッつう、でっかい家族だろうがッ」
そう告げて、胸倉を掴んだまま、咲夜を揺さぶる。
「だから皆、パチュリーの為に、自分の出来る全力で戦ってるんだろうがッ」
「煩い、煩い、分かるもんか、分かるもんか――」
弱々しく、そう反論すると、咲夜は外へとふらふらと出て行った。
アリスが、その後を追おうとするのを、遮って魔理沙は言った。
「行くんじゃねぇ、時間の無駄だ、私達は魔法陣の解析を続けるぞ」
そう残すと、魔理沙は部屋へと戻っていった。

結局、その後咲夜が足を運んだのは、香霖堂であった。
幸い、準備中の看板は外され、店は開いていた為に、逃げる様に飛び込んだのだ。
カウンターの端に、いつも通りの親爺が座っているだけで、他には誰もいない。
「随分と酷い顔をしているじゃ無いか、咲夜」
別段驚きもせず、霖之助は、そう声を掛けた。
「殴られたよ、魔理沙の奴に。家族とか言われてな――」
でも、家族と言うなら、こんな乱暴するか、と咲夜は応える。
「さぁ、ずぶ濡れで、冷えただろう、アイリッシュコーヒーだ、飲みなさい」
ウィスキーを少量垂らし、温かそうな湯気を立てる珈琲を差し出した。
それを一口飲むと、やっと一息付いたのか、咲夜は薄く笑った。
殴られた傷が痛むのか、少し引き攣った顔である。
「ありがとう、心に沁みるよ」
「どういたしまして、温かいものは沁みるだろう」
「えっ」
「――何も優しくする事だけが家族じゃ無い、と言う事さ」
咲夜はその言葉を受けて、無意識に頬に手を遣ると、微かな熱を帯びていた。
ぎい、ばたんばたん、と音を立てて、新たな客が現れた。
香霖堂を訪れるなど、非常に珍しい人物である。
「私を探していたんですって」
雨に濡れた、艶やかな桃色の髪をたくし上げながら、咲夜の隣に腰掛けた。
「――まだ、私に用があるかしら?」
その言葉に、微かに頷くと、咲夜は口を開いた。
「私に出来る事は、もう一緒に逝ってやるぐらいしか無いからな、私はパチュリーを救ってやる資格も剥奪された、私にはもう、何の価値も無い、これ以上無様に生き恥を晒すのは御免だ」
――確かに醜いわね、と受けた女は笑った。
「私に出来る事は無い、私には資格が無い、私には価値が無い、私には、私には――」
貴女、自分の事ばかりじゃ無い、と女は厳しい声で告げる。
「少しは、考えられないのかしら? もしパチュリーが目を覚ました時に、隣に貴女がいなかったらどう思うか、どれだけ悲しむか、それぐらい考える事は出来ないの?」
「それは――」
「幸い、貴女は私と違って、まだ生きてるじゃない。だったら無様に足掻いてみせなさいよ、泥を啜ってでも戦いなさいよ、命を燃やし尽くしてみせなさいよ」
注文を取りに来た霖之助に、すぐ帰るからと告げながら、女は咲夜に突き付ける。
「生き恥だっていいじゃ無い、それだって生きてればこそ、泥塗れの貴女の顔、今まで見た中で一番素敵よ」
女の顔が、ぱァっと、爛漫の春が咲いた様。
「――私は」
「命を燃やし尽くし、それでもまだ死に切れなかったら、また訪ねて来なさい」
――その時は、私が優しく殺してあげるから。
とても流暢で、柔和な言葉。
微笑んだまま、そう告げると、桃色の女は立ち上がった。
去ろうとする、女に礼を言おうと開きかけた咲夜の口を先回りして、己の台詞で遮った。
「礼は結構よ、これは私のわがまま、私のエゴだから」
「わがまま?」
えぇ、と後ろ向きのまま、女は頷く。
「私もね、遠い遠い昔、貴女と同じ様に自分勝手で、貴女と違って、自ら命を絶った。私を友達と言ってくれた彼女の気持ちなんて、これっぽっちも考えずに、ね」
だから、と女は続ける。
「貴女には、そうなって欲しくは無いと言う、私のわがまま、今の貴女に、かつての自分を投影してるだけ、私があの日の私に告げたかった言葉を伝えているだけ、だから礼はいらない」
「――はい」
「もう、何を成すべきか、分かっているわね」
咲夜の返事を聞くと、満足した様に、女は扉に向かった。
だが、あぁ、と顔を半分だけ見返り美人。
「私が、本当はこんな風に思っているなんて、紫には言わないでね、一応記憶が無いって事になっているから」
扇で口を隠して、慎ましく微笑すると、女は傘も差さずに、外へと消えた。
その余韻を掻き消す様に、なら漬け親爺は備え付けの受話器に向かい、誰かと喋り始めていた。
「あん、料金? いいから、さっさと来いッ」
と、何やら喧嘩腰である。
「霖之助、景気付けに一杯、そうだなギムレットを貰えるか」
「これから、どうするんだい?」
注文を無視して、霖之助は咲夜に問い掛ける。
「探偵になるよ、パチュリーに巣食うものの正体を暴く、探偵に。私にしか務まらない仕事だ、彼女の一番の親友である、この私の」
「あぁ、君なら、立派な探偵になれるさ」
グラスを拭きながら、霖之助は言った。
「ありがとう、で注文を頼んだが」
――おやおや、と霖之助は惚けてみせる。
「ただでさえ、時間をロスしてるんだ、カクテルを味わってる暇など無いだろう」
「そうか、そうだな――」
「ギムレットには早すぎる」
「えっ?」
「探偵とはそう言うものさ」
霖之助は、微笑んで、代わりにと新しい煙草の箱を放ってよこした。
「良く分からないが、覚えておくよ。すまないが、傘を貸してもらえるかな」
それにも応える事無く、霖之助は顎で後ろと、そう示してみせた。
「咲夜さん、御迎えに来たですよッ」
「――お燐ちゃん」
「行先は、紅魔館で宜しいですね」
お燐は、それ以外に無いだろうと、自信に溢れた声である。
「――えぇ、お願い出来るかしら」
「勿論ですッ」
と、応えて、咲夜を促して、二人は香霖堂を後にした。
「雲山、君も偶には洒落た事をするじゃないか」
「何が、洒落た事だ、お前の方こそ何が口下手だ、ふざけんじゃねぇぞ、チクショウめッ」
「君こそ、良く口説かなかったじゃないか、女性を口説くなら、傷心したところを狙え、それが定石だろうに」
「ふん――」
そんなの男のする事じゃねぇ、と焼酎を呷った。
「君は、思ったよりいい男なのかもしれないね」
「なら、あの桃色の婀娜っぽい、お姉さんを紹介してくれよ」
一つ、苦笑すると、何事も無かったかの様に、霖之助は、次に来るだろう客の為の準備を始めた。



第四章 十六夜探偵行

私は、一体何をしていたのだ、これ以上、まだ遠回りを続けるのか。
自分を自分で慰めて、許して、何かと理由を付けては、目を逸らして。
迷宮に入り込んで、迷って、出口は無いと喚いた、滑稽な道化師では無いか。
当然だ、迷宮を作っていたのは、自分自身の臆病さに裏付けられた心の弱さだったのだから。 
私がすべきだったのは、初めから一つ、パチュリーの為に動く事しか無いのだ。
友人だ、彼女は私の誇るべき友人で、愛すべき家族だ。
ならば、その彼女が苦しんでいる時に、支えてやるのが、私の勤めでは無かったか。
彼女を守る騎士になると、私は確かに告げたでは無いか。
なのに、私がした事と言えば、自分が失われる事を恐れて、保身に走った。
――私では無い、私では無い、とそれだけを繰り返して。
その揚げ句の果てに、愛すべきと宣言した、その家族すら疑った。
自らの居場所を守る為に、彼女の為にした事など、一つも無かったではないか。
認めろ、十六夜咲夜、認めて向き合え、自信の脆さと、醜さを。
苦しいだろう、情けないだろう、だけど、この迷宮の出口は、その先にしか開かれない。
恐がる事は無い、その現実を受け止め、そして幻想にしてやれ。
決着を付けろ。
私に、何が出来る。
私には、彼女を救える、パチュリーを救ってみせる。
パチュリーを責め立てるものの秘密を暴く探偵になる事こそが、私の運命だ。
誰よりも、近くにいたのは、私だ、だから私には分かる筈だ、彼女に巣食うものの正体が。
考えろ、彼女を、あそこまで追い詰めるものは、一体何だ。
思い出せ、何気ない彼女の行動を、何気ない会話を、幾度無く繰り返して来た、ありふれた彼女との日常を。
その中に、答えは必ずある筈だ、私達は家族じゃ無いか、それなら同じ時間を、空間を、歴史を歩んでいる筈だ。
分からない訳が無い。
考えろ、考えろ、もう一度、あの事件を冷静に思い描け。
あの日、あの事件があった時、私は何を見た?
実際に、この眼で見た出来事はなんだ?
あの日、あの事件があった時、起こったのは何だ。
確実に起こったと、断言出来る現象は何だ?
冷静に考えろ、咲夜。
自分から迷宮に入ろうとするな、常に一歩引いて観察しろ。
どんな些細な事でも、全力で観察するんだ。
そして摘出しろ、事件から現実だけを摘出し、余計な物は幻想に葬れ。
あの場で、私が見たものは何だ。
犯行が行われたのは、私が到着する、ほんの少し前。
しかし、私は不審な人物はおろか、不審な物音さえ聞いていない。
紅魔館内の、他の者達も、誰も何も気付かなかったと言う。
幾ら寝ていると言い、強大な魔力を誇るレミリアお嬢様に気付かれず、パチュリーを襲うなど何人にも不可能である。
ならば、それこそが現実だ。
この事件の登場人物は、私と、パチュリー、自動販売機だけなのだ。
姿の見えぬ犯人など、初めからどこにも存在しなかったのだ。
第三者による、パチュリーの殺害など、ただの幻想に過ぎない。
本当にそうであろうか、あの魔法陣は、パチュリーが応戦した跡であり、それはパチュリー以外の誰かがいた事を証明するものでは無いか。
――再び、迷宮が、その大きな顎を開いて、私を誘う。
踏み込むな咲夜、視点を変えろ、一歩引いたまま、立ち位置を変えるんだ。
私は、何を見た?
魔法陣?
違うだろう、私が見たのは、魔法陣では無く、魔法陣の様に見える何かだ。
そう、あれは唯の染みだ、絨毯に染み込んでいた、液体が偶然模様を描き、それを私が魔法陣だと、取り違えてしまったに過ぎない。
偶然が重なっただけの、取りに足らない出来事である。
よって、あの事件には、何の関係も無いのだ。
自動販売機の前である、缶から中身が零れる事もあるだろう。
そして、丁度、事件が起こる頃に、蒸発を始めたために、私は珈琲の匂いを感じ、完全に気化した為に、あの染みは姿を消したのだ。
魔理沙やアリスが、分かったと断言出来ないのも当然である、魔力の後を追っても、何がなされたのか分からないのも当然である。
あれは、ダイイングメッセージはおろか、魔法陣ですら無い、すなわち魔法など何も発動していないのだから。
私が勘違いして、魔法陣だと騒いでいただけなのだ。
観客のいない舞台で、誰に望まれもしない、不格好なダンスを踊っていたに過ぎないのだ。
そう、だからあの現場に最初に駆け付けた美鈴が、私を疑ったのも無理のない事である。
だが、私の無実は、四季映姫の鏡によって保障されているので、探偵が実は犯人と言うケースも当て嵌まらない。
ならば、可能性として残るのは、パチュリーの自殺である。
いや、パチュリーが自殺等しない事は、私は良く知っている筈だ。
まして、私が贈ったあのナイフを使って、自殺等する筈が無いではないか。
私は、パチュリーを信じる、その先に迷宮の出口はあるのだ。
運命よ、引き裂けるのなら引き裂いてみろ、私達の絆を。
あのパチュリーの表情が全てを語っているではないか、あれは自殺を覚悟した者のとる顔では無い。
誰かによって殺害が成されたと、最初からパチュリー自身が如実に語っていたでは無いか。

以上の事柄から、登場人物である、私とパチュリーは舞台から降りた。
残ったのは、自動販売機。
そう、私が真に調べるべきだったのは、あの自動販売機だったのだ。
初めから、最大の手掛かりは私の目の前に、何食わぬ顔で佇んでいたのだ。
あまりに自然と存在していたから、完全に見落としていた、思考の盲点に入っていたのだ。
自動販売機が、パチュリーを襲うなど、誰が考え付くであろうか。
疑問を持つべきだったのは、誰が殺したか、何故自殺したのか、等では無く、何故あの場所で事件が起こったのかという事だったのだ。
事件の起こった場所に、幻想郷で唯一の自動販売機が置かれていたのは、果たして偶然だろうか。
いや、そんな偶然はあり得ない、あの自動販売機の中に人が一人隠れられるぐらいの空間があり、そこに刃物を構えた犯人が潜んでいた可能性もある。
だが、それは恐らく違うだろう。
今なら胸を張って、断言出来る、パチュリーの心を蹂躙するものは牛乳以外に考えられない。
しかし、牛乳では無いと言う、矛盾。
ならば、何か仕掛けがある筈だ、何か秘密が仕掛けられている筈だ、あの自動販売機に。
それを暴いてやれ、咲夜。
パチュリーは生粋の魔法使いである、つまり概念的な何かの影響を受けやすい。
何か他の飲み物を牛乳と思い込まされている可能性があるのだ。
私は今、パチュリーと言う、一人の少女の密室を開けるための鍵を手に入れた。
後は自動販売機と言う、鍵穴にそれを差し込むだけだ。
その為に、私は今一度、紅魔館へ足を踏み入れなけらばならない。
最早、私にとっては禁断の地となった、あの館へ。
侵入者として、排除されるだろうか、今再びレミリアお嬢様と刃を交える事になるのだろうか。
激しく打ち付ける雨音と、カッチカッチと規則的に刻むハザードランプの音に、咲夜の思考は現実に引き戻された。

「着きました、咲夜さん」
お燐は、運転席から前を向いたまま、そう告げた。
時折、ワイパーが雨粒を払うが、それもあまり意味を成さない程に、外は土砂降りに変わっていた。
「どうするですか、このまま門を強行突破も可能ですよ」
「いや、ありがとう、ここで大丈夫」
と、咲夜はお燐の提案をやんわりと断った。
幾ら格好を付けたところで、もう私の仮初の瀟洒など、とっくに剥がれしまっている。
ここまで、足を運べたのだって、皆の想いがあったからこそだ。
私一人であったら、きっとあのまま、醜態を晒して、それも死にきれず、幻想郷内を幽鬼の様に彷徨い歩いていた事だろう。
でも、だからこそ、ここからは私は自分自身の意志で歩いて行かなければならない。
私は新しく生まれ変わり、本当の意味でパチュリーの家族となるのだ、紅魔館の家族となるのだ、幻想郷の家族となるのだ。
だから、その為の第一歩は、己の足で踏み出さなければならない。
お燐の申し出をありがたく、胸に刻むと、咲夜は覚悟を決めた。
「料金は――」
と、財布を取り出しながら、咲夜は驚愕の事実に気付いた。
この財布事情が火の車の私が、タクシー料金など払える訳が無いではないか。
その咲夜の狼狽ぶりを、すでに見透かしていた様に、お燐は告げた。
「お代は結構でございますよ」
「で、でも」
「あたいは、パチュリーさんに、返しても返し切れない程の恩があるですよ」
強い意志を宿した瞳で、お燐は言う。
「あたいもね、今の咲夜さんと同じだったんでございます」
――覚えていませんか、そう少し照れながら、お燐は苦笑した。
「親友が大変な事になって、あたいひとりではどうしようも無くなった時、パチュリーさんは喘息の身体をおしてまで地底にまで来てくれたです、いえ、彼女だけではありません、幻想郷中から、駆け付けてくれたです」
――そりゃ、涙が出る程、嬉しかったです、とお燐は続ける。
「あたいも、こんな素敵な幻想郷の家族の一員になりたいと、そう思ったです、お空もさとり様もこいし様も一緒に、あの時の事があったから、こうして私は皆と離れていても頑張れる、だから――」
お代は結構です、ともう一度告げた。
「さぁ行って下さい、行ってパチュリーさんを助けてあげるですよ、今度は私が、私達がパチュリーさんを助ける番です」
「ありがとうね、お燐ちゃん」
そう言って、咲夜はお燐の頭を軽く撫でる。
「あたいは、こんな事しか出来ないです、でも、一緒には行けません、まだ、あたいなりにパチュリーさんの為に出来る事を探します。だから気持ちだけ咲夜さんに預けるです」
頷くと、咲夜はタクシーを降りて、森の中に幽玄と佇む、紅魔館を見上げた。
家族では無いと言い渡される予感に、一瞬咲夜の心は震えたが、すぐにそれを振り払う。
先程、お燐の言葉に、確かに私は頷いた、勇気を貰ったでは無いか。
さぁ、歩き出そう、と発破を掛ける様に、先程霖之助に貰った煙草の封を開けた。
だが、当然、この嵐の様な雨の中で、火が灯る筈が無い。
「咲夜さんッ」
と、お燐もタクシーを降りて、咲夜の後をついて来た。
――これ、と差し出したのは、草臥れたアイボリーのトレンチコート。
「どうしたんだい、これ?」
「以前に乗せた、天狗のお婆さんが忘れていったですよ、このままにしとくのも勿体ないので、使って下さい、探偵には、これですよ」
目を輝かせて、お燐は言った。
礼を言って、受け取ると、すぐさまそれを咲夜は羽織る。
瀟洒な仕草で襟を立てて、煙草を銜えると、今度は見事に火が着いた。
都合が良いなと思うだろうが、これこそトレンチコートの襟を立てた、探偵のみに許された特権である。
その姿を見送ると、お燐は、タクシーを駆って、元来た方へと戻って行った。



ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩いて行くと、やがて姿を現す見慣れた門に、こちらも見慣れた紅の髪を風に靡かせている門番。
魔理沙の言っていた通り、私が連行されてからずっと、この門の前に立ち尽くしていたのだろう。
自慢の長い髪は、すっかりぼさぼさで、雨に濡れて悲惨な有り様を示している。
それだけでは無い、服も、靴も汚れて、そのやつれた顔に彩りを与えているでは無いか。
それでも、なお彼女は、立っているのだ。
誰をも通さぬと、その強靭な意志を内に秘めて。
既にこの身は、紅魔の眷属では無くなっている。
だから、彼女にしてみれば、この私は今、排除すべき侵入者になるのだろう。
ぐっと、コートを羽織り直し、ナイフの具合を確かめて、咲夜は美鈴へと向かった。
――馬鹿野郎が。
――こんな、嵐の中、立ったまま居眠りする奴があるか。
――下手くそな、狸寝入りしやがって。
――私が今まで、どれだけ、その居眠りを起こして来たと思っているのだ。
――嘘か、本当かぐらい、簡単に見分けがつくんだよ、糞が。
――今だけ、都合良く見て見ぬ振りをしろと言うのか。
――さんざん、叱って来たのに、ここだけ自分の都合良く無視しろってのか。
――ふざけやがって、そんなに十六夜咲夜に恩を着せたいか。
「だが、恩に着る――」
唇だけ、そっと動かして、咲夜は、再び紅魔館へと舞い戻った。
通り過ぎる時、美鈴の唇が、「おかえりなさい」、とそう動いた様な気がした。
紅魔館へと入ると、そこにあったのは不自然な静寂。
雨の音と、風が窓を揺らす音だけが、そこかしこに反射しているだけである。
レミリアお嬢様達はどうしているのだろう、パチュリーはどうしているだろうと、病室に足を向けたいと言う思いが頭を擡げるが、何とかそれを鎮める。
私が次にパチュリーに会うのは、彼女が元気になった、その時だ。
今すべきは、自動販売機が封じる秘密を、探偵として暴く事である。
あの日と変わらず、自動販売機は淡い灯りを宿して、ぼんやりと廊下に佇んでいた。
目を逸らさずに、咲夜は正面から対峙した。
今こそ、真実をその取り出し口から引き摺り出す時である。
パチュリーとの再会の為の、記念すべき第一歩を踏み出せ咲夜。
財布を取り出して、小銭を確認していく。
タクシー代は払えないとしても、ジュース一本ぐらいの小銭なら、この咲夜だって持っているのである。
冷静に焦らず、小銭を数えて行く。
――手の中に握られた小銭は、九十円、どう数えても、あと十円足りなかった。
どうやら、もう取り返しの付かない程、運命に嫌われてしまったらしい。
跪き、神に嘆きを上げようかと、膝を折ろうとした、その直前、背後から声が聞こえた。
聞きなれた、威厳を纏った、その声が。
「――咲夜」
「レミリア、お嬢様――」
「ひとつだけ、問おう、自らの意志で、戻って来たのだな」
互いに目を逸らさずに、見つめ合った後、咲夜は頷いた。
「そうか、ならばもう、何も言うまい」
そう告げて、レミリアは携えて来た、ブタさんの貯金箱を、おもむろに壊した。
「運命など、ぶち壊してやれ」
レミリアは不敵に笑うと、コインを投げ渡す。
「――お嬢様、これは」
「お前が独り立ちする時に渡そうと、コツコツ貯めていたものだ、少し早いが渡しておこう。もうお前のものだ、好きに使え」
今、咲夜の手には新たに十円が握られた、合わせて百円、舞台は整った。

あの日の、事件現場でのパチュリーの行動を正確に思い描くんだ。
私になら、分かる筈だ、生きた現場を知っているのは、私だけなのだから、より純度の高い再現が可能な筈。
目を瞑って、脳裏に、あの日見た光景が、正確に再生を始める。
パチュリーは魔法の研究に行き詰まり、ずっと図書館に閉じこもっていた。
そして三十分おきの記録を取り終えて、彼女は一息付いた筈だ。
――私なら、どうする。
作業がひと段落した、その時に何をする。
間違い無く、私なら煙草を吸う筈だ、けど彼女は喫煙者では無い。
ならば、どうする。
そう、何か飲み物が欲しくなる筈だ、図書館を出ればすぐ自動販売機があるのだ、絶対にそこに足を運ぶ筈。
そして、彼女は珈琲を購入したに違い無い。
何故なら、私が駆け付けた時、まだあの場には微かだが、珈琲の匂いが漂っていたのだから。
だから、彼女は自動販売機の前で倒れていたのだ。
何があったのかは、まだ分からない。
でも、ここまでのパチュリーの行動のトレースは間違っていないだろう。
「ちょっと眠くなって来たわね、よし珈琲でも飲みましょう。出来れば自室で飲みたいけど、この際贅沢は言ってられないわ、ここで我慢しましょう、うひひ」
と、言いながら、財布を持って、勇んで自動販売機に向かうパチュリーの姿が、幻視される。
「よっしゃ、牛乳は無くなってるわ」
前方宙返りを華麗に決めて、ガッツポーズをする姿が浮かぶ、幻視は続く。
「ふぅん、珈琲って言ってもいろんな種類があるのね、まぁ何でもいいわ、早く飲みたいッ」
そう癇癪を起す、パチュリーの姿を認めると、咲夜の幻視は終わった。
再び目を開き、自動販売機を睨みつける。
見付けた、暗澹たる絶望の中に、煌めく一筋の光を。
掴む、彼女を救う道標となる、細く、しかし強靭な糸を。
十六夜咲夜、今その身をアリアドネと化せ。
パチュリーを迷宮から導く、その奇跡の糸へと。
珈琲を購入しろ、あの日のパチュリーと同じ様に珈琲を購入するんだ。
それが、突破口になる筈だ。
気付けば、小銭を握っていた掌がじっとりと汗ばんでいる。
最早、この手さえも、夏の嵐に犯されている様だ。
だが、臆する事無く、それをトレンチコートの裾で軽く拭き取る。
「この手に伝わる確かな小銭の感触、この機会を逃す訳にはいかない、今こそ珈琲をこの手に収める刻、さぁ――」
踊りましょう、と貴婦人の様に優雅にステップを踏みながら咲夜はコイン投入口に小銭を滑らせる。
――えぇ、喜んで、と自動販売機は赤く力強い光を纏い、起動した。
十六夜咲夜と自動販売機の一騎打ち、その幕が火蓋を切って降ろされた。
その堂々たる姿に、咲夜は軽く圧倒される。
何と言う緊張感、かつてレミリアお嬢様と対峙した時と同じか、いや、下手な謙遜はいらぬ、間違い無く、それ以上の脅威を、この自動販売機は纏っている。
だが、私とて、あの頃のままでは無い、あれから私は変わった、強く変わった。
「――相手にとって不足無し、この身、不可侵の夜と化し、見事咲いて見せよう」
告げると同時に、時の流れを感じさせぬ、流麗な動きで小銭を投入していく。
だが、それに一切怯む事無く、自動販売機は小銭を飲み込み、当然と言った表情で、その巨大な胃袋に収め終える。
不敵な笑みを浮かべ、購入を決定させるべく、赤い光を商品の下に点滅させた。
「買エルモノナラ、買ッテミロ」
これは嘲笑では無い、自動販売機からの誇り高き挑戦の声である。
最早、誰も対峙した二人を阻む権利も機会も、持ち合わせていない。
先制の一撃は、十六夜の名の下に。
彼女の左眼に仕込まれた、〈月時計〉が発動する。
その色の変化した左眼を使って、まずは商品を目視で確認する。
素早く、しかし的確に商品の羅列を確認して行く。
最早、彼女の眼に晒された自動販売機はもう裸も同然である。
まずは上段、眼に入るのはスポーツドリンクとミネラルウォーター、その隣にはオレンジやリンゴといったフルーツジュースが並んでいる。
それらに一切、惑わされる事なく、目標である珈琲が無い事を確認すると、咲夜は叫ぶ。
「〈プライベート・スクエア〉ッ!」
上段に設置された飲み物達が、瞬間、牢に囲われ、身動きとれず、簡単に閉じ込められた。
「全部終わったら購入してやるからな、それまで、そこで大人しく待っててくれ」
そう告げ終える前には、迅速に次の段に眼を走らせている。
容赦無い、鋭利な刃の様な視線が、自動販売機を切り裂いて行く。
眼を転じて次に姿を現したのは、健康的な色をした野菜ジュースの群れ。
そう言えば、最近あまり野菜を取っていないな、不摂生な環境だったなと、そんな事を思い、反射的に野菜ジュースの下で点滅しているボタンを押しそうになる。
しかし、その腕を、もう片方の腕がすんでのところで掴んで、何とかその危機を脱する。
月時計を完全開放し、速度を極限まで絞り込む。
先程、滲んだ汗を拭っておいたのが正解だった。
もし拭っていなければ、手が汗で滑り、それが命取りになり、嘆きの鐘を轟かせながら、今頃野菜ジュースを購入していた事だろう。
それは、私の敗北であり、またパチュリーの終焉を意味する。
「やっと仕掛けてきたか、だが勝負を焦ったな。もう自動販売機に残された選択肢はほとんど無い筈――」
咲夜は、笑った、踊るのが楽しいと、表情が語っている。
ここまで見て来た商品には圧倒的にカフェイン飲料が不足している。
だから、次に姿を現すのはカフェインを含む飲み物の筈だ。
だがスポーツ飲料やジュースから、珈琲や紅茶への移行は難易度が高い。
喉の渇きを潤す事を目的とした飲み物から、休息や一服のお供に嗜む飲み物への移行は違和感があるし、落差が激しすぎる。
水分補給と嗜好品、求められている役割が違うのだから当然だ。
だから、そこに大きな隙間が出来る。
人の手に寄らない、自動販売機如きには高難度な、この移行は無理だ。
よって、殆ど、いや全ての自動販売機はその間にワンクッション置く事で、何とかその状況を克服するのだ。
そして、尚且つカフェインの不足。
次に来るのは、どちらの条件にも耐える事が出来る、隙間の飲み物。
「そう、導き出される答えは一つ、お茶だッ」
はたして、その言葉通り、次に姿を現したのはお茶の群れであった。
日本茶に玉露、濃いお茶に麦茶やプーアル茶など、実に様々なお茶達が並んでいる。
しっかりと珈琲、紅茶に備えて、カフェインと言う伏線を張る、その光景は壮観ですらあった。
だが、するすると咲夜の視線は綺麗にそれらを避けて行った。
当然だ、予測が付いているのだから、避ける事は容易い。
だから、その動きに躊躇う仕草など見られない。
「この段にはカフェインを多く含む飲み物はあったが、珈琲は無かった。上手く配置した様だが、所詮、自動販売機にはここら辺が限界だ。さぁ、珈琲を購入させてもらうぞッ」
そう宣告し、最後の段に在る筈の珈琲を購入する為、呼吸を整える。
そして眼に飛び込んで来た“コーヒー”の四文字、待ち焦がれた、その四文字。
固唾を飲んで見守っていたレミリアも、喜びの拍手をして、飛びだし抱き付く準備をしている。
そう、これは勝利を確信しても良い状況、雄叫びの一つも上げたくなるもの。
だが咲夜は、それを理性で押し留める。
――何か腑に落ちない、何かが引っ掛かる。
何だ、この違和感は。
――事が、上手く運び過ぎてはいないか?
途中、野菜ジュースに惑わされそうになったけど、こんな簡単に珈琲を購入出来るものなのか?
「いや、そもそも珈琲を購入する事は、それほど難しい事では無いのかもしれない。しかし――」
しかし、この違和感はなんだ。
咲夜の中で芽生えた小さな疑念が、むくむくと音を立てて肥大して行く。
考えろ、考えるんだ、どんな状況でも探偵は考える事を放棄した次点で、敗北する。
私には、絶対敗北は許されない。
もう一度考えろ、何か重要な事を忘れているんじゃ無いのか。
咲夜の記憶の中に在る、パチュリーの笑顔を掴んで引き寄せる。
このまま珈琲を購入出来てしまえば、それはすなわち自動販売機の無罪を証明する事になる。
彼女を追い詰めている、犯人探しはまた、ふりだしに戻る事になる。
もう、そんな、時間等無いのだ。
そして、絶対に、この自動販売機に何か秘密があるのだ。
探せ、それを探し出し、暴いてみせろ、咲夜。
違和感だ、思い出せ、私は何に違和感を感じた。
確かに、最下段を覗いたとき、私の眼には“コーヒー”の四文字が映っていた。
だが、その文字は、本当に信用出来るのか?
そもそも缶珈琲とは、それ自体が独立した存在を認められた物である、と香霖堂で仕入れた本に書いてあった。
他の飲み物の様に、喉の渇きを潤す事を目的に作られたのではなく、身体に休息を与えるために作られた殆ど、唯一の飲み物だ、と。
缶のサイズが、他の飲み物に比べて小さいのも特徴的だ。
だからわざわざ缶の表面に目立つ様に、“コーヒー”と書く必要など無いのではないか?
表記しなくても、その姿、名前で判断出来る様になっているのだから、“コーヒー”と記す必要は無い筈だ。
つまり、“コーヒー”と書かれた飲み物は、珈琲では無い、と言う可能性が在る。
月時計を使用し、もう一度、“コーヒー”と書かれた缶を見詰める。
――そうか、そういう事だったのか。
何と言う事だ、これは偶然と言うには、あまりに禍々し過ぎる。
これは、なんて残酷な、配置なのだ。
この自動販売機は、一体どれだけの人妖を餌食にして来たのだ。
一体、どれだけの珈琲好きを喰らって来たのだ。
――悪魔だ、これではまるで、悪魔じゃないか!
この自動販売機は、紅き眷属どころでは無い、正真正銘の紅き悪魔だったのだ。
自動販売機が、憮然とした態度で笑い、咲夜を見下ろしている。

珈琲を扱っていない自動販売機など、絶対にこの世には存在しない。
そして、一段目、二段目に珈琲を配置出来るような場所は無かった。
その連立方程式から導き出される答えはひとつ。
つまりこの自動販売機に珈琲を置くなら、最後の三段目しかあり得ない。
そして三段目に視線をやって、最初に眼に入ってくる、“コーヒー”の四文字。
普通この流れならば誰も疑わない、それが珈琲であると言う事を。
当然の様に、珈琲がそこに在ると思い込んで、購入ボタンを押すだろう。
そう、パチュリーもきっと、こうして珈琲を購入したのだ。
しかし、それこそが自動販売機に仕掛けられた悪魔だったのだ。
いや、一般人にとっては悪魔などでは決して無く、ましてや、何の効果も無いだろう。
別に自動販売機がその様に配置した訳ではないし、商品を交換した〈八雲飲料〉だって、こんな事を想定して商品を設置した訳では無いだろう。
ただ、意地の悪い偶然が、悪魔の味方をしただけなのだ。
悪意など、誰も持っていなかった。
珈琲を一段目、二段目に配置しない事によって、心理的に珈琲の場所を先回りさせ、限定させる。
珈琲を一段目、二段目で見せない事によって、三段目を確認させる前に、三段目には珈琲が必ず在る筈だと思わせる。
実際に自分の眼で確認させる前に、事前に、その存在を頭の中に刷り込んでおく。
――それは、錯覚。
――最後の三段目には、珈琲が必ず在ると言う幻想。
幻想を抱くのは必然、何故なら、もうそこにしか珈琲は存在出来ないのだから。
そして、知らず知らずの内に、珈琲があると信じ込まされたパチュリーは、自分が幻想に囚われているなど夢にも思わず、三段目に視線を走らせ、“コーヒー”の四文字を見つけてしまう。
そして、それを以って、完全に珈琲の存在を認めてしまったのだろう。
幻想が、偽物の現実になったのだ。
これは、普段冷静に考えれば気付ける事だ、だが、既に幻想の住人になっていた彼女には無理だった、そして誰も彼女を責める事は出来ない。
パチュリーは満足そうに、購入ボタンを押しただろう、それは当然の流れ。
転がり出した運命は、只管に勢いを増して、ただ落ちるしか無い。
珈琲を買いに来たのだ、珈琲を買うのは当然では無いか。
在る筈だと考えていた物が、在る筈の場所に、実際に在ったのだ、何も疑問に思うはずが無い。
一段目、二段目と通過して珈琲が無い事を確認すると共に、三段目には珈琲が必ず在る筈だと先回りして考える、考えてしまう。
そして、“コーヒー”の四文字を見たのだ、疑問を挟む方が難しい。
パチュリーはそのまま、“コーヒー”の四文字に誘われて、一気に購入を決め、小銭を投入すると購入ボタンを押した。
――それが本当に、珈琲であるかを確認しないままに、だ。
珈琲が在る筈だという幻想に囚われたまま、“コーヒー”の四文字を見てしまった為に、それが珈琲であるか、“コーヒー”であるのかの判断が出来なかったのだ。
それに拍車を掛けたのが、パチュリーの早く珈琲を購入したいと言う焦りだろう。
一段目、二段目と焦らされた事により、冷静な判断が出来なくなっていたのだ。
珈琲を少しでも早く飲みたいと言う、彼女の願望が裏目に出たのだ。
そう、パチュリーが購入したのは、珈琲では無く、あくまでも、“コーヒー”だったのだ。

そもそも缶珈琲は種類が豊富な飲み物だと、断言出来る、と香霖堂の本に書いてあった。
今や缶珈琲市場は開拓され尽くしたと言ってもいいほど、多種多様な品揃えになっている。
値段は他の飲み物と同じなのに、一回り小さなサイズ。
そして、それぞれ独特な名前を称されているのが、缶珈琲の特性。
――そう、細分化された缶珈琲業界では普通、缶珈琲の名前は商品の持つ香り、使われている豆の種類、または摘出する製法などを商品の名前に宛てる傾向が強いのだ。
最近では、最も主張したい部分を名前にするのが流行っている様だ。
何故なら、そうしなければ、かなりの種類の缶珈琲が一斉に並べられた時に、他の会社の商品と差別化出来ないからだ。
だから、普通に考えれば、缶珈琲に、“コーヒー”と言う商品名は付けない筈である。
店頭に並ぶ時、自動販売機に並べられる時、既にその時には珈琲である事が前提で並べられる。
だから、商品開発の時点で重要なのは、その珈琲の備える属性と言う事になる。
つまり前提がそうであるから、珈琲として、何を一番主張したいのか、そしてその部分こそが商品名になるのだ。
珈琲である事を前提に名前が付けられるので、今さらあえて、商品に対して、“コーヒー”という名は絶対に付けられない、付ける筈が無いのだ。
と、いう事は、“コーヒー”と書かれた、この自動販売機の中の飲み物は、珈琲では無いという事になる。
しかし、珈琲では無いが、存在している以上、“コーヒー”と言う飲み物ではあるという事だ。

① “コーヒー”と書かれた飲み物は珈琲ではあり得ない。
② それは珈琲では無いが、“コーヒー”という飲み物ではある。

この二点から、“コーヒー”の正体を炙り出せる筈だ。
一見、自己矛盾している様にも思える、“コーヒー”の正体。
果たして、この不可能にも思える条件を満たす飲み物など、存在するのだろうか。
迷宮に自ら足を踏み入れるな、探偵の基本だ、一歩引いて考えろ、それで駄目なら視点を変えろ。
そうだ、何も、“コーヒー”が商品名と決まった訳では無いではないか。
この飲み物の主張したい事こそが、“コーヒー”なのだ、そう考えれば矛盾は消える。
で、無ければ、商品の名前に、“コーヒー”と付ける訳が無いし、必然性も無い。
以上の事を踏まえると、答えは自ずと見えてくる。
“コーヒー”が矛盾せず、存在する為には、次の様に考えれば説明がつく。
“コーヒー”という飲み物は、コーヒー味ではあるが、決して珈琲では無い飲み物という事だ。
飲み物の中で唯一、“コーヒー”の味を持つ事を許された孤高の存在。

「パチュリーが購入し、彼女を苦しめている物の正体、それは、“コーヒー牛乳”だッ」
そう高らかに告げると、咲夜は、“コーヒー”の購入ボタンを押した。
ガラガラと大きな音を立てて飛び出して来る、“コーヒー”と刻印された冷たい缶。
よく眼を凝らしてみれば、コーヒーの文字の後に、小さく牛乳と確かに刻印されていた。
――この事実が、あの日の事件の引き金となったのだ。
パチュリーはやはり、間違い無く牛乳を摂取していたのだ。
“コーヒー牛乳”はあくまでも、彼女の中では牛乳として処理されたのだ。
パチュリーは牛乳嫌いではあったが、ミルクティーは好んで飲んでいた。
つまり、ミルクティーはあくまでも、ミルク味の紅茶として彼女は捉えていた事に他ならない。
だから、パチュリーはミルクティーを飲む事が出来た。
逆説的ではあるが、それが“コーヒー牛乳”を牛乳として摂取してしまった事を証明するだろう。
彼女にとって、“コーヒー牛乳”は、あくまでもコーヒー味の牛乳だったのだ。
パチュリーの概念的な何かは、そう判断し、処理したのだ。
――そして、牛乳を飲んだと考えてしまった、パチュリーはどうしたか。
言っていたでは無いか、体内に牛乳が入れば、自らの身体が牛乳に侵食されてしまうと。
それだけは、絶対に嫌だと。
そう、パチュリーは牛乳を摂取した事により、ミノタウロスになってしまったのだ。
――だから彼女は自殺したのでは無い、自分を殺したのでは無い。
彼女が殺したのはパチュリー・ノーレッジでは無く、ミノタウロスだったのだ。
それは当然の答えだ、だってパチュリーに渡したナイフはお守りであって、決して人を傷付けるものじゃないと、彼女は約束してくれたじゃ無いか。
あのナイフが傷付けるのは、初めからミノタウロスだけだと、そう宣言していたでは無いか!
これが、あの日に起こった事件の真相だ。
ミノタウロスになってしまうと言う、牛乳に対する恐怖はパチュリーの中だけで決定され、彼女の中だけで強化されて行った。
そこに本来の牛乳の思いは介入しない、何故なら元より牛乳に意思は無いからだ。
よってパチュリーの牛乳に対する恐怖が、彼女の中の牛乳を定義付ける。
つまりパチュリーにとって牛乳は、他人がどの様に評価しようと、恐怖の対象にしかなりえないのだ。
彼女がその様に牛乳を定義付けたのだから、パチュリーの世界の中では、恐怖という属性だけを持って、牛乳は存在出来るのだ。
――だけど、彼女は強かった。
彼女は、私なんかとは違って、決して逃げなかったのだ。
自らの不注意で“コーヒー牛乳”を飲んでしまい、まもなくミノタウロスとなってしまう自分の不甲斐無さを受け入れた。
牛乳に侵食され身体が、ミノタウロスになって行く過程で彼女は決断した。
残り少ない命、残り少ない魔女でいるうちに何が出来るかを、自らの運命に屈する事無く向き合えるかを。
そしてパチュリーは自らの不注意が生み出した、ミノタウロスを倒す事に決めた。
それが、運命に抗う唯一の事であると信じた。
だから彼女は、只管に迷宮を進んだ、運命と言う迷宮の奥に待つミノタウロスを屠る為に。
その手には、私が贈った、テセウスのナイフを握り締めて。
ナイフを、己の胸に突き刺すたびに彼女は迷宮を進んだ。
痛かっただろう、苦しかっただろう、幾らミノタウロスと化したと言っても、元を質せば自分なのである。
だが、彼女は逃げる事無く、正面から堂々とミノタウロスと対峙したのだ。
はたから見れば、自らの胸を刺し抉っている様にしか見えないだろう。
――自殺。
だがそれは違う。
彼女は必死に戦っていたのだ、ミノタウロスに侵食されるという運命に決して屈さなかったのだ。
あの夜、私が馬鹿騒ぎしている頃、彼女は誰に誇るでも無く、孤独に戦ったのだ。
己の命と引き換えに、パチュリーはパチュリーであると言う事を守ったのだ。
その瞬間、紛れも無く彼女は、魔女パチュリー・ノーレッジであった。
彼女はミノタウロスを葬る事で、己を守りきったのだ。
これが、自殺でなどある訳が無い。
答えは初めから提示されていたでは無いか、何故気付けなかったのだ、私は全ての答えを持ち合わせていたと言うのに。
駆け付けたあの時、私は確かに珈琲の香りを嗅いだでは無いか。
何故、その瞬間すぐに、思い到らなかったのだ。
――そう、それは在るべき筈のものが無かったからだ。
確実に珈琲の香りは嗅いだ、しかしあの場には、それが入っていたであろう、缶がどこにも見当たらなかったのだ。
だから、私は見落としてしまったのだ。
パチュリーが購入した、“コーヒー牛乳”の缶はどこへ消えたのだ。
私が唯の染みと推理したのは、本当に魔法陣だったのでは無いか。
確か、転送魔法らしいと言っていたでは無いか、それを使って、証拠となる缶をどこかへ飛ばしたのだ。
――何の為に?
隠す為、自らの不注意で起こった事象から、自動販売機を守る為に。
薄れ行く意識の中にあってもなお、他者に迷惑を掛けぬ様に、自動販売機と言う紅魔の眷属を守る為に、彼女は魔法を発動したのだ。
何と言う生き様であろうか、何と誇り高き、彼女の想いであろうか。
咲夜は己の推理を、探偵として、開示した。

「――それが、真相なのか」
レミリアが、そっと問い掛ける。
「はい、間違いありません」
「だが、何故自分の魂が囚われる事になろうと、そこまでパチュリーは庇うのだろうか。そんな暇があれば、いち早く回復して、事情を説明した方が余程良いと思うが」
「それは――」
「そして、己が無実だと言うのなら、何故真実が明かされる事に、自動販売機は抗ったのか」
レミリアは、次々と疑問を挙げて行った。
咲夜は購入した“コーヒー牛乳”を開けると、おもむろに喉に流し込む。
そして、煙草を銜えると、燐寸を擦った。
立ち昇る煙の向こうに、寂しそうに微笑むパチュリーが見えた気がした。
「――いるのか、そこにいるのか、パチュリーッ」
「見事な、探偵ぶりだったわ、咲夜」
何日かぶりに聞く、懐かしき親友の声であった。
「パチェッ、どこだ、どこにいるッ!」
――ここよ、と光を湛えた自動販売機の中から、声が響いた。
「お前、何でそんなところに」
「驚かないで聞いてね――」
――爆発を、抑えてるのよ、と厳かな声で、パチュリーは告げた。
「爆発、だって? それはどう言う――」
「この自動販売機は、購入者の意志に逆らってしまった場合、強制的に自爆する様にプログラムされているの」
レミリアの言葉を遮って、パチュリーは続ける。
「外の世界で、最高のサービスを目指して製造されたのだけど、遣り過ぎよね、当然造られた後に危険視され、晴れて幻想入りしたって訳」
「どう言う事なんだ、何に逆らって、爆発なんてしなければならないんだ」
いきなりの超展開に、何とか付いて行こうと、咲夜は声を掛ける。
「私が珈琲を買いに来たと言う事は、百戦錬磨の自動販売機にはすぐに理解出来た、だけど、実際私が購入したのは“コーヒー牛乳”だった、だから起爆装置が発動したの」
「――そんな」
流石のレミリアも、絶句している。
「でも、悪いのは私、だって“コーヒー牛乳”の購入ボタンを押されてしまっては、後はプログラム通りに商品を出すしか無いんですもの、それしか自動販売機には出来ないのよ」
「パチュリー」
「それで、何とか爆発を防ごうと頑張ってみたんだけど、やっぱり駄目ね、私じゃ無理みたい」
彼女の声が、少し滲む。
「どちらにせよ、もう私は助からない、だから私の全魔力を使って爆発を抑え込むつもりだったんだけど、とんだ計算間違い、だから、御免ね、凄く勝手なお願いだって事は分かってる、とんでも無いわがままだって、だけど、レミィ、咲夜、――どうか、私を助けてッ」

「――何か、在るとは思ってたけど、そう言う事」
応えたのは、別の女。
無数の眼球が現れて、閉じたかと思うと、また開いて、そこから見知った顔達が姿を現した。
「――八雲、紫」
レミリアは目を見開いて、そう呟いた。
「水臭いわねパチュリー、間欠泉騒動の時は、いの一番に、私の所に相談に来たくせに」
「紫」
彼女の登場に、少なからずパチュリーも驚いた様だ。
「今さら他人行儀なんて、通用しませんよ」
控え目に扇を繰ると、紫は微笑んだ。
「後、どれぐらい持つの?」
「正直に言うと、今すぐにでも」
「――それで、爆発の規模は?」
パチュリーの返答を受けて、紫に伴って来た藍が計算を始める。
「紫様、この様な計算結果になるかと」
素早く、算盤を叩くと、藍は告げる。
「――わおッ、軽く幻想郷が吹き飛びそうね」
くすくすと、紫は愉快そうに、笑うばかり。
「おい、紫、笑い事じゃ無いだろう」
と、進み出たレミリアの肩を柔らかく掴んで、自動販売機へと向き直させると、紫はそっと呟いた。
「さぁ、レミリア、彼女が助けてくれと言っているのよ、どうすべきか応えてあげなさい。この幻想郷が、こんな時どう在るべきかを」
とんっ、と背中を押した。
おずおずと、進み出ると、くん、と紫に頷き、レミリアは覚悟を決めた。
「パチェ、お前も自動販売機も、我が愛すべき眷属だ、だから受け入れよう、例え消し飛ぶ程の爆発だって、この幻想郷は全てを受け入れるッ」
――そうだろうと、レミリアは言うと、良く出来ましたと、紫は誇らしげに答えた。
「紫さん、何とかパチュリーを助ける方法は無いのですかッ、この幻想郷が消し飛ばずに済む方法はッ」
咲夜が縋る様な視線を、向ける。
「在るわよ、だから、こうして参上したんじゃ無い」
いつの間にか導師服に着替えた紫は、嫣然と告げた。
「ここで生まれた力は所謂幻想、この幻想郷だけで通じる力。だから外の世界に向かえば、その途中で幻想部分は剥がれ落ちて、向こうに到着する頃には無害なものになっている筈」
「つまり、幻想郷と外の世界の境界線に近い場所で爆発させ、外に送り出す事で、その規模を境界で擦り減らすと言う事ですね」
「そうよ」
「それは、どうすれば――」
方法は二つ、と紫は指を立てて応える。
「まずはお馴染みの博麗神社を通過する方法、でもこれは駄目、稀に外からのものが入って来てしまう様に、通じやすい事は、通じやすいんだけど、その分境界が緩くなっていて、幻想を削ぎ落とす力が弱いの。だから、使うなら厳格な境界線を持つ月――」
月の裏側を通過させるのが、今の時点で最も可能性が高い方法だわ、と紫は言った。
「それが上手く行けば、パチェは助かるのか」
「必ずと、そう保証は出来ない。でも、無事に幻想を剥がせられれば、パチュリーは外の世界で新しく、外の世界の住人として迎え入れられる筈」
「――幻想郷には戻って来られ無いのですか?」
咲夜が、少し落胆した様な声を洩らす。
「外の世界に出た時、転生した魂に、少しでもパチュリーの記憶が残っていれば、それを頼りに博麗神社を通って戻ってくる事は可能でしょう。でも、そうなるかは運次第、それに転生自体上手く行くかは未知数」
「それでも仮令、形を変えたとしても、パチュリーの魂は生きられるのだな」
レミリアの問いに、紫は、厳かに頷いた。
「勝率は?」
「まぁ、多めに見積もっても、このままなら、五分五分ってところかしら」
負け続きの、今の私にとっては、あまり多くは無い可能性だなと、咲夜は思った。
「問題は、それだけじゃ無いの」
追いうちを掛ける様に、紫は言葉を紡ぐ。
「少しでも方向がずれて、月の裏側に向かわなかったら、その時点で終わり。だから確実に向かって、もしずれても方向を修正出来る様に、パチュリーの魂はこのまま道標として、自動販売機に残して、弾頭と化す事で何とか対処出来る、問題は爆発の規模が大きすぎて、パチュリーの魔力だけでは、その爆発力の拡散を防げない事」
レミリアと咲夜を、しかと見据えて紫は続ける。
「無理に抑えつける反動で、拡散しようとその力自体が暴れると言う事か」
――その通り、レミリアに応える。
「だから、そうならない様に、爆発の力を一箇所に纏めたいの、それが出来れば、後は私の能力を使って、自動販売機の周りと、それ以外の空間を遮断出来る」
「――お姉ちゃん、私に任せて」
虹色の翼を、静かに広げて、幼き、可憐なもう一人の吸血鬼が姿を現す。
「フラン」
「きゅっとして、どかーんすればいいんでしょう?」
「いや、どかーんはしちゃ駄目だ、そうだろう、紫――」
「そうね、どかーんは困るわ」
と、問われた紫は苦笑で応えた。
「分かった、ぎゅっとして離さない、パチュリーの想いをぎゅっと抱き締めておくよ」
極彩色の笑顔を振りまいて、フランは力強く宣言した。
「次は、これだけの爆発を一気に起こせば、パチュリーの魂は粉々になってしまう。だから何段階かに分けて、爆発させたいんだけど」
そう言いながら、振り返った紫の視線の先に、黒く艶やかな、とても長い髪が揺れている。
「そんなん出来るの、この私をおいて他にいないでしょう」
莞爾と微笑んで、輝夜は告げた。
「爆発力を、須臾に分解してあげるわ。でも流石にこれだけの規模となると、あまり細かくは分けれないと思う」
「――出来るだけで、結構よ」
と、紫は満足そうに頷いた。
「ほら、吸血鬼姉、電源はどこにあるのよ」
「ん、あぁ、えっ、電源?」
輝夜に問われたレミリアは、そんなのどこにあったっけと、咲夜に訊き返す。
「――地下に在ります、でも何で」
咲夜は応えながら、そう問う。
「自動販売機に送られる電力も分解出来れば、それだけ規模を抑えられるじゃ無い」
「ならいっそ、電源を落としたらどうでしょうか」
「――その瞬間、ばーんッ、よ」
と、扇を開いて、紫は咲夜に言う。
「それから、到達させる確率を少しでも上げる為に、月をもう少し近づけられると嬉しいのだけど」
「そんな、無茶な――」
言った咲夜の目の前に、大振りな鎌が振り下ろされた。
「――それは、あたいが、何とかしよう」
「小町ッ」
言って、咲夜は目を見開いたまま、続ける。
「お前、そんな派手な事したら、職権濫用で懲戒免職じゃ済まないぞ」
――大丈夫さ咲夜、上司の許可は貰ってあると、ニヒルに煙管を吹かしながら、小町は言った。
「責任は全て、八雲紫が取ると、ね」
立ち昇る煙の向こうで、小町と紫が笑ったのが見えた。
「――くっく、私が責任を取るですって」
「どうした、怖気づいたかい、八雲さん」
「馬鹿言わないで頂戴、俄然燃えるに決まってるじゃ無い、責任を取らせてくれるですって、それだけ映姫から、私が幻想郷の主として信頼されてるって事じゃ無い、映姫の分まで、きっちり白黒付けてあげますわッ」
――そうかい、そりゃ良かった、いい返事が聞けて、あの人も満足だろうと、小町は告げた。
「良かったな、咲夜、ここが幻想郷で、まったく月を近づけるなど、化け物揃いじゃ無いか」
と、レミリアが、咲夜に優しく言葉を掛ける。
「月の件はクリア、次は、これだけ巨大な力を月に向かって撃ち出せる力が必要ね、それだけで無く、爆発が尽きるまで照射し続けられる、強靭な力が――」
「――それは、きっと私達の役目でしょう、ね」
三つ目の少女が、その家族を引き攣れて、その姿を晒した。
「咲夜さん」
そう告げて、さとりは一歩、彼女の前へと進み出る。
「御迷惑をお掛けしましたね、――空けた穴を、埋めに参りました」
「さとりさん」
「さぁ、お空、出来るわね」
「うにゅうッ」
と、はち切れんばかりの元気な声が返る。
「私とお燐の為に、頑張ってくれたパチュリーさんの為に、今度は私達が頑張るッ」
――だから、任せて下さい、とお空は咲夜に向かって、微笑む。
「ありがとう、お空ちゃん」
「さぁ、あたいが幻想郷の天を七分割する、それを越えればもう月はすぐそこだ、だが天と天の継ぎ目を通過する時に、僅かばかり隙間が生じる、それを抑え込む為の結界を用意してもらいたいのだが」
小町が、紫に視線を向ける。
「そうね、第一天は」
――私達が引き受けます、とさとりが告げた。
「お空を発射台に、そのまま、私と、こいしで結界を張ります、それで問題は無いでしょう」
「えぇ、お願いしますね」
「第二天は、私達が何とかしよう、いけるな、美鈴ッ」
威厳を宿した、レミリアの声が響き、待機していた、頼れる門番がやって来る。
「お任せを」
そう告げて、美鈴は跪いた。
「外はこの豪雨だ、私は大した貢献は出来ん、一人で心許無いだろうが――」
「いえ」
立ち上がった、美鈴の後ろに、紅魔館から溢れんばかりの数の、妖精メイド達が立っていた。
そのどれもが、私も戦わせて下さいと、闘志を瞳に燃え上がらせている。
更に、集った妖精メイド達を掻きわける様に、巨大な存在感を纏った女がやって来た。
「この私を忘れてもらっちゃ困るよ、レミリア」
でっぷりした、その声は、何故か皆を不思議と安心させた。
「食堂のおばちゃんッ」
驚愕の表情を浮かべたレミリアの声を受けたのは、フライパンを凶器の様に携えた、紅魔館大食堂の主である。
「幸い、私は一人では無いようなので」
美鈴は不敵に微笑んだ。
「そうか、そうだったな、では、宜しく頼むぞ」
レミリアは告げると、一斉に妖精メイド達は頷いた。
食堂のおばちゃんは、何故かとても誇らしげで、とても柔らかな笑みを浮かべていた。
「第三天は――」
紫の声が、一段と厳しさを増している。
それもそうだろう、月に近づくにつれ、分割している小町から離れる為に、小町の能力が徐々にだが緩んで行く。
つまり、それだけ上の天になれば、より強力な結界が必要になると言う事である。
さらに、恐らく人間であれ、妖怪であれ、生身で耐えられるのは第五天までが限界であろう。
それを上手く割り振るだけの、時間は残されていないのだ。
奇跡的にここに集った面子は、既に役割を振られているのだ。
ここから先は、もう未知数、何とかここにいるメンバーの力を分散して、乗り切るしかないのだ。
今から、新たに人を集めるなど、時間が許してはくれない。
「結局、最後は博打か――」
その言葉を否定する様に、咲夜の肩に、ぽんっと、手が置かれた。
「――アリス、お前ら、何で」
その後ろには、雛と、メディまで、立っているでは無いか。
「腕の良い魔法使いが必要、そうでしょう?」
あの日、格好付ける必要は無いと言ってくれた笑顔そのままに、眩しい程の笑顔が咲夜を照らした。
「貴女の厄、しっかり、私が祓って上げるわ」
「毒も、使い方によっちゃあ、薬にもなるって事」
雛と、メディも、勇気付ける様に、それぞれ、咲夜の肩を叩いて行く。
「その変わり、全部終わったら、いい男ばかりの、合コンをセッティングして頂戴ね」
悪戯っぽく言うと、雛は、陽気にメディと回り始めた。
「魔理沙の奴は――」
醜態を晒したのだ、もう私など見捨てられていて当然だと咲夜は思ったが、未練が、そう問わせた。
「何か、まだやる事があるって、まぁ、その内来るわよ」
「――そうか」
「第三天と第四天は、魔法使いの名誉に掛けて、このアリスが引き受けるわ、それで良いでしょう」
紫に向き直り、アリスは言う。
「二天も、大丈夫かしら?」
「パチュリー程では無いけど、彼女にも引けを取らない魔女だと自負してるわ」
――それに、と示し、紫に翳したのは、一冊の本、あれはパチュリーの魔道書だ。
「彼女も一緒よ、これでも、ご不満かしら?」
「――いえ、宜しくお願いしますね」
その答えに満足そうに、アリスは頷くと、雛とメディに何か、指示を出し始めた。
「それにしても、良くもまぁ、こんなに都合良く、皆が集まって来るものです」
「えぇ、本当に」
紫と咲夜の疑問に、にやにやと煙管を吹かしながら小町が答えを示す。
「お前さん方、これだけ幻想郷で暮らしておきながら、幻想郷最速を忘れたとは言わせんぜ」
そう言って、小町が差し出したのは、一枚の薄汚い紙。
号外、とでかでかとした見出しに続き、先程示したばかりの咲夜の推理と、事の顛末が既に記されているでは無いか。
そして、「大至急、紅魔館にて、求む絆!」、の文字が躍っている。
「もうとっくに、文と、はたての奴が、幻想郷中にばら撒いてるよ」
「ちくしょう、くそったれがッ、これじゃ一生購読してやらなきゃならねぇじゃねぇかッ!」
――そうしてやってくれ、あいつも喜ぶだろうよ、と小町は笑う。
「後は、無事外の世界に転生した時に、彼女の魂の情報が削られない様に――」
「パチュリーの魂の純度を保つ為、魂に巣食う異物を排除する、でしょう」
紫の言葉を、引き取って、白衣を翻しながら現れた永琳は告げた。
「八意さん」
「私に任せておきなさい、異物の正体は“コーヒー牛乳”で間違い無いのでしょう?」
咲夜に向き直り、永琳は問う。
「はい、間違いありません、どうか、パチュリーの事、宜しくお願いします」
「それなら、外科手術でどうにでも対応出来るわ、さぁ、緊急手術の準備よッ」
そう告げて、華奢な煙草を銜えると、うどんげと、てゐを引き攣れて永琳はパチュリーの眠る部屋へと向かった。
「これで、今採れる最善の対応は施したわ。最後は、パチュリーの魂が開いてくれる月の裏側への道が通じたら、残っている爆発力と彼女の魂を、貴女の能力で加速させ――」
しっかり送ってあげるのよ、と紫は咲夜の眼を見据えて告げる。
「はい、ですが、第五天より、上の結界は」
頷きながらも、咲夜は問う。
「大丈夫よ、まだここに集っていない奴等に、伝えるから」
「どうやって、今から新しく新聞を刷ってる暇なんて――」
貴女が伝えるのよ、と紫は閉じた扇を、咲夜に突き付ける。
「どっかの碌でも無い神様が〈げろげろすわっぴ〉なんて訳の分からないものを流行させてくれたお陰で、この幻想郷中、それだらけ。猫も杓子も身に付けてるじゃ無い、だから――」
それを媒介にして、通信機能を付けておいたわ、そう紫は告げる。
「まったく、都合の良い、安っぽい奇跡だ事」
「――えぇ、本当に」
咲夜は、少し俯いたまま応える。
「これでも、まだ心配かしら?」
紫の言葉に俯いたままの、咲夜の肩を、藍が優しく包み込んだ。
「咲夜さん、私は貴女達が勝つ方に、全財産賭けますよッ」
「――藍さん」
「これまで、さんざん負けて来たのです。だから」
――そろそろ、勝ってもいい頃です、と満面の笑みを湛えて、藍は告げる。
「ありがとう、ございます」
「覚悟は決まったわね」
そう言って、紫は〈げろげろすわっぴ〉の描かれた扇を咲夜に、差し出した。
「――皆さんッ」
今、咲夜の声が、幻想郷中に響き渡る。
「――どうかッ、想いを紡ぎ、パチュリーを導くアリアドネとなって下さいッ」
「おうッ」、と、〈げろげろすわっぴ〉を通して、幻想郷中の声がひとつに重なった。



第五章 ラストダンス

打ち上げに備えて、自動販売機は今、紅魔館の中庭に移された。
強く雨が降りしきり、分厚い雲が垂れこんでいる。
だが、小町の能力で引き寄せられた月は、覆う雲など関係無いと、強大な眼球かと思わせる様な存在感を放ち、地上から見上げる者達を射竦めている。
そして、自動販売機は、その外装を剥がされた。
地下に赴いた、輝夜が須臾と分解している為に、思いの外小さく見えるが、フランが結晶化している、その物体は実に禍々しい光を湛えて、今にも解き放たれようと、暴れている様に見えた。
「お、お姉ちゃん、そろそろ限界かも」
雨が、容赦無くフランに降り注ぐ、吸血鬼である、彼女は流れる水に耐えられないのだ。
「よし分かった、皆、準備はいいか?」
レミリアの言葉に、集った者達は頷いた。
「パチュリー」
と、咲夜が、光となった彼女に声を掛けた。
「ただでさえ、湿っぽいのに、これ以上湿っぽくなるのも嫌だから、ね」
「あぁ、そうだな」
「大丈夫、絶対に上手く行って、見事、幻想郷に帰還してみせるから」
そう告げた、パチュリーの声は笑っていた。
「だから、ね、私が戻って来るのを待ってて」
「うん、パチュリー、約束だ」
そう頷くと、咲夜は、紫に視線を向けた。
「パチュリー、貴女にほんの僅かだけど、私の力を分けておいたわ、これで少しだけど外の世界から、幻想郷に戻り易くなるでしょう」
「うん」
「間違わないで、博麗神社を探すのよ」
そう告げて、紫は空に視線を向けた。
それを受けて、彼女は進み出る。
そして、その左手に、パチュリーの魂を宿した、光源を備え付けた。
それを確認し、紫は声を張り上げた。
「これが全て上手く運んだとしても、完璧では在りません、何よりも彼女を忘れない事、この出来事を忘れない事、立ち合う私達が忘れなければ、自然とその想いが、パチュリーを幻想郷に呼ぶ事でしょう、宜しいですねッ」
はいッ、と小気味よい返事が聞こえる。
「行きますよッ!」
お空は、今その腕を砲身と化し、脚を発射台に月へと左手を掲げた。
「お燐、見ててね、私はもう、絶対に間違わないからッ」
咲夜の合図と共に、お空の腕から、轟音を伴って、パチュリーの魂は発射された。
すかさず、先回りして準備していた、さとりとこいし、が結界を張り、その中を苦も無く、打ち上げられたパチュリーの魂は通り過ぎて行った。
第一天〈ステージ〉クリア!



幻想郷内を猛スピードで駆け抜ける、一台の真っ黒なタクシー。
運転手のお燐の他に、後部座席には、慧音と阿求が乗っていた。
「お、おい、お燐、随分運転が荒いじゃ無いか、こいつは身体が弱いんだッ」
揺れる車内で、阿求を支えながら慧音は声を張り上げる。
「紅魔館まで、急ぎって言ったじゃねぇですかッ」
ごつごつと、整備されていない道を、器用にハンドルを操作しながら、お燐は応える。
「そ、そうだけど」
「お燐さん、私なら大丈夫ですから」
「まだまだ揺れるですからね、しっかり掴まってて下さい」
前方を見据えたまま、お燐は告げた。
「あまり、無茶しないでくれよ」
と、慧音の口から弱気な声が漏れる。
「ここで、もたもたしてる暇はありません、私の探している答えが、それが見つかるかもしれないのですッ、だから全力で飛ばして下さいッ」
阿求の言葉に、お燐は、にっこり微笑んで、アクセルを踏み込んだ。
だが、一瞬視線を後ろに注いだのが悪かった、何かを思いっきり撥ね飛ばしてしまったのだ。
お燐は慌てて急ブレーキを踏むと、砂埃を巻き上げて、タクシーは急停止した。
「お、おい、誰か撥ねたぞ、こりゃ洒落にならんぞ!」
慧音は血の気の引いた、青白い声である。
服まで青白い!
「あわわわ」
と、お燐はとんでもない事を仕出かしてしまったと、もう泣きそうだ。
「お、お空ぁ、あたいはとんだ間違いを犯してしまったですぅ」
「と、とにかく確認しなくてわ」
阿求が、そう告げて、車の外に出ようとした瞬間、ばんっ、とフロントガラスに掌が叩きつけられた。
「ひっ、ひぎぃッ!」
車内の三人の悲鳴が、一斉に重なる。
豪雨に晒されてなお、尽きる事の無い、焔が立っていた。
そのまま、何事も無かったかの様に運転席に回り込むと、窓をこつこつ、と叩いた。
お燐が、おずおずと、窓を開けると、いきなり怒号が響いた。
「馬鹿野郎ッ、ちゃんと前見て運転しろッ!」
の、台詞と共に、雨が車内に吹き込んで来る。
「す、すんませんッ」
と、お燐の背筋が、しゃんと伸びる。
「私が蓬莱の身でなければ、今頃お前は映姫のとこで裁きを受けてる事だろうよ」
それだけ告げると、燃え盛る女は何食わぬ顔で、助手席に乗り込んだ。
「へっ、あ、あの――」
お燐は、戸惑っているが、お構い無しである。
「お詫びに乗せてくれたって、罰はあたらんだろうさ」
「そりゃ、構いませんが」
「どうせ、お前らも紅魔館へ行くんだろう、ついでだ」
そう言いながら、妹紅は後ろに座る慧音に向き直る。
「よお、夏休みは白玉楼で過ごすんじゃ無かったのかい、お二人さん」
「もう充分休んださ、それにこいつも飽きちまったみたいで」
と、慧音はぽふんぽふん、と阿求の頭を叩く。
「そうかい、そうかい、よしッ、阿求ちゃん、慧音に飽きたら、私のところにおいで、可愛がってあげるから」
言って、踏ん反り返る妹紅。
「い、いえ」
と、阿求は困惑顔である。
「からかわないでくれたまえ、妹紅、この娘、純情なんでな」
涼しい声で、慧音も言って退ける。
「まぁ、冗談は置いといて、阿礼乙女の身には、少し危険すぎるだろう、今日の紅魔館は」
「大丈夫です、ここで行かなければ、私は後悔したまま、この生を終える事になるのです、それは絶対に嫌」
と、揺らぐ事無い、意志を瞳に宿して、阿求は告げる。
「そうかい」
愉快そうに、妹紅は応え、そのまま問い掛けた。
「何を求めて、お前らは向かうのだ?」
「夏休みの自由研究さ、幻想郷の歴史とは、一体なんぞや」
慧音は、おどけて、そう応える。
「そいつは、難儀な事だな、いや、大義と言うべきか」
「お前こそ」
と、慧音は、妹紅に言う。
「私には、そんな大義名分は無いさ、そうだな、あえて言えば――」
罰ゲームかな、と妹紅は言った。
「あっはっは、何だい、それは、もうちょっとマシな答えは無いのか、妹紅ッ」
「煩せぇッ」
そう応えると、妹紅はお燐に向き直る。
「おい、もっと急いでくれよ、早くしないと終わっちまうぞ」
「了解ッ!」
三人の想いを乗せて、お燐タクシーは加速した。



雨粒に晒されて、打ち上げられた魂を見上げていた者達に、紫が声を掛けた。
「さぁさぁ、皆さん、これで終わりでは在りませんよ、少しでも彼女が帰って来られる可能性を上げる為に動きましょうッ」
艶やかに扇を繰って、紫は告げる。
「そうね、さぁ紫、ここは私に任せて、貴女は行って頂戴な」
紫と色違いの、だけど同じ柄の〈げろげろすわっぴ〉が描かれた扇を開いて幽々子は言った。
「えぇ、お願いね、幽々子。もう自動販売機の境界は、外と離してあるから、後は維持するだけで結構よ」
「分かってる、任せなさいな。それに――」
彼女もいるから、と妖艶な蝶が舞うと、その中から、少女が現れた。
眼光鋭く、一文字に切れ上がった、意志の強そうな瞳。
「幽々子様は、必ずや、私が守ります」
ふふ、頼りにしてますわ、と紫は微笑むと、開かれた隙間の向こうへと姿を消した。
「さぁ、妖夢、しっかりとその眼に焼き付けておきなさい、滅多にお目に掛れるものじゃ在りませんからね」
「はい」
「これが、彼女の魂の色、命の燃える温度よ」
月へと立ち昇る、光柱を見上げて、幽々子は、そう妖夢に告げた。



第一天を越えて、昇り来る、その魂を美鈴は確かに、その眼に捉えた。
「さぁ、いっちょやってやろうかね」
その隣には、腕捲くりをし、悠然と微笑む食堂のおばちゃんが浮いている。
「結界だかおっぱいだか何だか知らないけど、張ってやろうじゃ無いかッ!」
――まぁ、張る様なおっぱいなんて、もう無いんだけどね、と食堂のおあばちゃんは微かに恥じらいながら続ける。
「ほら、こんなに垂れちゃって」
「は、はぁ」
いやだねぇ、ばしんばしんと、肉で膨れた大きな手で、美鈴の背中を叩く。
これは絶対に後で、手の平の形に痕が付くだろうと言う勢いである。
「笑っとくれよ、恥じらいなんて、とっくの昔にどこかに置いて来ちまってるよ」
「は、はぁ」
美鈴は完全に、食堂のおあばちゃんのペースに呑み込まれていた。
呑み込まれたついでに、どうしても食堂のおばちゃんに聞きたい事があった。
美鈴は思い切って、その問いをぶつけた。
「あ、あの、それは、一体何に乗って浮かんでるんでしょうか?」
「これかい? 何ってこれは亀さ、見て分からないかい?」
食堂のおばちゃんは当たり前だろう、と言う表情である。
「は、はぁ、で、では、その衣装は、何でしょうか?」
いつの間に着替えたのか、食堂のおばちゃんは霊夢のコスプレをしていたのだ。
ちゃんと、腋だって開いている、本物そっくり。
霊夢とは違い、ぱんぱんに膨れて、サイズは十倍ぐらいだけど。
「何って、昔着ていた、私の勝負服さ」
「へッ?」
――知らないのかい、と食堂のおばちゃんは挑戦的な笑みを美鈴に向ける。
「その役目を引き継ぎ終えた博麗の巫女は、食堂のおばちゃんになるのさ」
「う、嘘ですよね?」
「嘘かどうかは、その眼で確かめるんだね」
そう告げると、食堂のおばちゃんは妖精メイド達に向き直り、声を張り上げた。
「さぁ、皆、来るよッ、しっかり気張んなッ!」
妖精メイド達は、食堂のおばちゃんの言葉に、すぐに反応し、手を繋ぎ、巨大な環となると、一斉に魔力を解放し、結界を造り出す。
個々の力は微々たる物であろう、しかしこれだけの人数が集まった今、既に容易く破れる代物では無い。
「上等だよ、これだけ張れりゃあ充分だ」
にこっと笑うと、食堂のおばちゃんは祝詞を上げ、妖精メイド達の展開する結界とは比べ物にならない程、強靭な結界を張る。
そして、それを以って、妖精メイド達の結界の外側から包み込む様に、覆った。
「ここから外にゃあ出さないよ、――夢想封印ッ!」
その声が響き渡ると同時に、ぐっと結界が引き締まる。
呆けた顔で、それを眺めていた美鈴は、はっと我に返った。
そして、練っておいた気を全て、その手に集約した。
「美鈴、少しズレた、修正は可能か」
と、地上で待機する、咲夜から、帽子に縫いつけられた〈げろげろすわっぴ〉を通して、通信が入ったからだ。
「大丈夫です、行けますッ」
「頼んだぞッ」
咲夜の焦りの滲んだ声に、美鈴は視線を地上にやる。
だが、もう第二天ともなれば、地上は遥か下、顔を確認するなど、とても出来る事では無い。
「咲夜さん」
「――なんだ」
手に移した気を、さらに練り込めながら、美鈴は声を掛ける。
「私、咲夜さんの事、疑ってしまって」
「それなら、お相子だ」
と、咲夜は苦笑した、一緒に燐寸をする音が聞こえる。
「食中毒を起こした店に、懲りずにまた食中毒を起こすだろうと考えて二度と足を運ばないか、反省してもう二度と食中毒を起こさないと考えるから、安心して足を運べるか――」
――私なら後者だろうな、と煙を吐き出す音がする。
「私も、そうでしょうね」
そう告げると、美鈴のすぐ下で、光が明滅しているのを確認した。
緊張からか、固く握りしめた拳が、微かに震える。
「大丈夫さ、落ち着いて、自分を信じてやるんだよ」
「――はいッ」
そう掛けられた、食堂のおばちゃんの声に、美鈴は心が奮い立つのを感じた。
僅か、ほんの僅か触れるだけで、良い、それで方向は修正出来る。
私が、紅魔館に対し、貢献出来るのは何だ、己に科した厳しい鍛練を思い出せ。
さぁ、紅美鈴、今こそ、その身を何人をも通さぬ、絶対の門と化せッ!
第二天〈ステージ〉クリア!



咲夜の声が、幻想郷に響き渡っている頃、風見幽香は、茶屋の中で、じゃぶじゃぶと皿を洗っていた。
先日払えなかった、かき氷代の埋め合わせの為である。
「ちくしょう、小傘の野郎、覚えてろよ、絶対に痛い目に合わせやるからな」
とか何とか、ぶちぶち、言いながら、皿を洗っていると、声が掛った。
「――もう、その辺でいいぜ」
解れた古畳を植えた様な髭面に、折れた煙草を銜えた、茶屋の主人である。
「まだ、大分、残っているが」
洗い物から視線を外して、幽香は応えた。
「お前さん、花を咲かすのが使命なんだろう」
ほとんど残っていない、白髪を撫でながら、そう問い掛ける。
「――あぁ、そうだが」
「見てみぃ、外はこの雨だ」
と、主人は眼で外を指す。
「この暴風雨で、咲けねぇ、咲けねぇ、と困ってる花も在ろうよ」
「それが?」
「あなぁ、自動販売機な、本当は、俺んとこに初めはあったんだ、だけど、薄気味悪がって村人は近寄らねえし、その内俺も怖くなってよ、結局捨てちまったのよ、それを紅魔んとこの嬢ちゃんが拾ってってくれたのよ」
「そうだったのか」
幽香は、主人から目を逸らす事無く、言葉を掛ける。
「だから、今さら俺如きが頼めた義理じゃあねぇのは分かってる、でも何とか咲かせてやっちゃあくれねぇかい、あの自動販売機の花を」
そう言って、茶屋の主人は、地に額を付けて、頭を下げた。
「俺ァ、幻想郷に来て、良くしてもらってる、感謝だってしてる。でもだからこそ、この幻想郷が完璧じゃねぇって事も知ってる。全てを受け入れると、言ったって、どうしたって、弾き出されちまう存在は生まれる、人間如きが生意気なと思われるかもしれんが、それが真実だッ」
――だからよ、と主人は頭を下げたまま、続ける。
「どうせ弾かれるってんなら、そんな存在にもよ、でっけぇ花束を持たせてやってくれよ。老い先短い爺の願いだと思って、聞き届けちゃあくれんか」
幽香はしばらく黙り込み、雨の音に何かを考えていたが、やがて静かに問い掛けた。
「お前さん、名は?」
「――龍神牙男」
「立派な名前じゃないか」
名前だけさ、と顔を上げ、何とも言えぬ卑屈な様な、寂しい様な表情で応える。
「身受けした自動販売機の面倒も碌に見てやれず、己で責任も取れず、こうして頭を下げて頼むしかねぇ、情けねぇ男よ」
「頭を下げるのは別に恥じる様な事でも無いだろう、それとも、そんな下らない事を頼むと言うのか、この風見幽香に?」
静かだが、凛と張り詰めた幽香の声。
「違げぇ、これが俺の守るべき精一杯の矜持だ」
「ふんッ、――かき氷、二人前だ」
「へっ」
――依頼料さ、と幽香は言った。
「それが、用意出来るってんなら、引き受けてやる」
「あぁ、飛びきり冷たい奴を、用意して、待ってやすぜ」
その返事に、満足そうに頷くと、自慢の傘を広げて、幽香は茶屋を後にした。



パチュリーから、“コーヒー牛乳”を取り除く、その手術は難航を極めていた。
正体は判明したのだが、時間が立ち過ぎていた為に、パチュリーの身体との融合が思っていたよりも早く進んでいたのだ。
「うどんげ、心拍数はどう? 血は足りてる?」
視線をメスから離す事無く、永琳は問い掛ける。
「大丈夫です、まだ安定してます、でも――」
血が足りません、とうどんげは叫んだ。
「持って来た輸血用の予備は」
「もう、とっくに使っているよ」
と、すぐにてゐから返事が返ってくる。
血が足りないのなら、少しでも早く、コーヒー牛乳を取り除けばいいだけの事と、永琳は己に言い聞かす。
だが、焦りと、緊張からか、永琳の頬を、一筋の汗が流れて行く。
拭わなくては、もしもパチュリーの身体にでも入ってしまえば取り返しのつかぬ事になってしまう。
本来ならうどんげや、てゐが拭ってくれるのだが、今は二人にもそんな暇は無い。
必死に己の出来る事を、しているのだ。
永琳にしたところで、手を休めるのが例え一秒であろうと、惜しい事である。
「――まったく、何もかも足りないわ」
つうっ、と滑った汗を、眩い金色の髪を携えた女が、そっと拭った。
「――あら、ありがとう、八雲さん」
「どう致しまして、八意さん」
二人の女は、視線を合わす事無く、挨拶を交わす。
「もう、向こうは良いのかしら?」
「えぇ、今はここに必要、そうでしょう?」
「助かるわ」
「パチュリーの身体と、コーヒー牛乳の境界を明確にすれば良いのね」
「出来る?」
と、永琳は問い返す。
「勿論、私を誰だと思っているの」
その返答を聞いて、この日、初めて永琳の顔に笑みが浮かんだ。



「さぁ、来たよ、アリスッ、メディッ」
――私達の出番よ、と雛は叫んだ。
「まったく、どんな厄背負い込んでるのよ、パチュリーの奴」
と、雛は頬を膨らませている。
「こうなる、もう少し前に言ってくれればよかったのに」
アリスは、そう呟いた。
「まぁ、過ぎた事を言っても始まらない、私達は今出来る精一杯をやろうッ」
メディが、皆を励ます様に、声を掛けた。
「さて、二人とも、さっきは大見え切っちゃったけど、どう、いけそう?」
「流石に第三、と第四を受け持つのは厄いわねぇ」
と、言葉とは裏腹な笑顔で雛は応えた。
その表情は、やってやると、そう語っている。
「ちょっとぐらい無理したって、アリスがちゃんとメンテナンスしてくれれば問題ないよ」
メディは、アリスに向き直り言う。
メンテナンスじゃ、済まないわよ、と内心、アリスは思っていた。
第一天を越える時に、僅かズレた事が災いしたのか、既に第三天にて、予定よりも早く、爆発力の拡散をアリスは感じていた。
パチュリーの魔道書をアリスが使えば、第三天の結界は安定出来ると言う確信はある。
だが、それが第四天までとなると、もう疑問である。
予定通りに行けば、何とかなる筈だった。
しかし、もうその予定など、とっくにどこかに消え失せてしまっている。
だが、ここまで繋いだ想いを、ここで断ち切らせる訳には行かない。
魔法使いのみに許された、禁忌〈捨魂の法〉を用い、その魂を結界と化し封じると言う方法も在るには在る。
だが、それでは本末転倒だ。
何も、己の命が惜しいと言う訳では無い、友を救えると言うのなら、苦渋の決断の後、実行する事も止むを得ない、とアリスは思う。
けど、救う為に己の命を捨てると言うのであれば、それは以前の咲夜のした事と、意味的には変わりが無いのだ。
そんな事をしても、パチュリーが喜ばないのは分かり切っている事。
後は、先程の通信が、届き、誰かが駆け付けてくれる事を祈るのみ。
奇跡に縋るしか無いのだ。
瞑っていた眼を開いて、アリスは覚悟を決める。
これ以上考えても無駄だ、今はとにかく出来る事をやるのみ。
「――ひとつ積んでは、酒の為ッ」
そのアリスの想いに応える様に、奇跡が声を上げた。
声は遠い、その発生源は、まだアリス達からは見えていない。
「えっ、何、この声」
と、雛とメディも、きょろきょろ、と辺りを窺っている。
「――ふたつ積んでは、鬼の為ッ」
だんだんと、聞こえる声が大きくなり、やがて、その姿をアリス達の前に晒した。
先頭には星熊勇儀、その後ろには伊吹萃香、その隣には水橋パルスィと黒谷ヤマメ、その後ろから控え目に転がって来たのはキスメだ、その遥か後ろまで、地底の怨霊達が続いているではないか!
――そう謳う様は、まさに奇景を越えて絶景。
――その練り歩く様は、まさに地獄から湧き出た、百鬼夜行。
「貴女達――」
「なに、死にたがりのお嬢さんに、旨い酒の呑み方を教えてやろうと思ってな」
その姿に軽く圧倒されていたアリスに、星熊は、にっ、と笑って見せた。
「まずは、何より酒に感謝だ、これだけで、充分酒は旨くなる。次は鬼に乾杯、これで己の名誉と誇りによって、酒はますます旨くなる、そして、最後は――」
「――みっつ積んでは、友の為ッ」
一斉に、鬼達の合唱が天に轟いた。
「そう、それが、酒を旨くする、最高の肴さ」
そう告げて、鬼の行列は第四天を目指し、一心に昇って行った。
負けていられないと、アリスはパチュリーの魔道書を展開し、そこから魔法陣を次々に展開していく。
その腕を雛が、雛の腕をメディが掴んで、結界が発動した。
第三天〈ステージ〉クリア!
第四天〈ステージ〉クリア!



「お師匠様、駄目ですッ、パチュリーさんの脈が乱れて来ました、もう血が足りませんッ」
うどんげが、悲壮な声を上げる。
「――分かってるわ」
素早く、だけど、どこまでも慎重にコーヒー牛乳を取り去りながら、永琳は応える。
「永琳、私の血は使えないの」
と、てゐが提案したが、永琳はすぐに、それを却下した。
「今は医療行為が出来る者が、一人でも惜しいのよ」
きつく歯を噛みしめながら、永琳は言う。
「八雲さん、何とかならないかしら――」
その言葉に頷くと、紫は、「藍ッ」、と声を掛けた。
眼球だらけの隙間が開いて、呼ばれた藍が頭を出した。
「はいはい、何でしょうかッ」
「大至急、血の気の多そうな、もの凄く余ってそうな奴等をここに引っ張って来て頂戴ッ!」
「がってん承知――」
言葉の余韻を残しながら、藍は隙間の向こうに消えて行った。
「もう少しよ、もう少し耐えて頂戴、うどんげッ、てゐッ、すぐに輸血の準備をッ」
二人は耳を大きく揺らして、頷いた。
「どれぐらい必要なのかしら?」
「あればあるだけ、ありがたいわ」
取り除いたコーヒー牛乳を、特殊なビンへと封印しながら、永琳は応えた。
「もう、大分、取り除けた様に見えるけど」
紫は、そう言う。
「えぇ、もう少しなの、でもここで焦って事を運んでは、これまでの頑張りが台無しに成りかねない。医療行為に焦りは禁物、常に余裕を残して――」
再び、隙間が開き、賑やかな声が聞こえて来た。
それはもう、立派な喧騒である。
「血が必要なんだってな、それなら、あたいの血を使ってくれ、ちょっぴり冷たいかもしんないけどなッ!」
チルノである。
「私のは、いろんな人達のが、混ざってるかもしれないけどなッ!」
ルーミアである。
「私のは、多分緑色だけどなッ!」
リグルである。
「にゃごにゃごんろにゃごろんにゃごッ!」
興奮から、ネコ語が飛び出している橙である。
「好きなだけ使ってくれ、悪戯するだけが能じゃ無いのさッ!」
三月精である。
「私は、応援歌を奏でるよッ!」
「じゃあ、私達が伴奏するッ!」
ミスティアと、プリズムリバー三姉妹は、ずどどど、と演奏を始めた。
お前ら、何しに来たんだ、とうどんげは思ったが、何だか楽しかったので、何も言わなかった。
「おっと、私を忘れてもらっちゃ困るよ、私の血も冷たいかもしんないけど、てへッ!」
レティである。
「わ、私のも多分、冷たいです、てへッ!」
リリーホワイトである。
びしっと、敬礼を残して、現れた二人は告げた。
冷たいの多いな、とうどんげは思った。
でも、今は夏だし、丁度好いかと思い直した。
「私の血を、どうか吸って下さい」
と、身をくねくねと捩じらせて、頬を赤く蒸気させているのは天子だ。
「私だって、協力しますよッ!」
頭に包帯をぐるぐる巻きにして、その間から髪の毛が飛び出ている、パイナップルみたいな女性は衣玖さんである。
って言うか、貴女は永遠亭の病室で安静にしてなくちゃ駄目だろうと、うどんげは思った。
勝手に動きまわったら、回復に差し障るよ。
「私の血は芋臭いぜぇ」
と、不敵な笑みを零しているのは、秋姉妹の姉、静葉である。
「お姉ちゃんと違って、私の血は高貴な葡萄の味よ」
姉を押しのけて、登場したのは、妹の穣子である。
「ちょっと、穣子、貴女、それ本当――」
と、言ったきり、静葉は絶句してしまった。
「えっ、何が?」
「血が葡萄って」
「本当よッ」
「貴女、それじゃまるで――」
キリストじゃない、と静葉は、妹に告げた。
「――キリスト」
告げられた穣子は、最早復唱する事でしか、その現実を認められなかった。
「そうよ、貴女、キリストだったのよッ、凄いわ、穣子ッ!」
興奮して、姉は妹に語り掛ける。
「そ、そうかもお姉ちゃん! 私達、日頃から神にしては幻想郷での扱いが低いと思ってたけど、それは、異国の神様だったからなのよッ」
突如明かされた、驚愕の事実に、この場に集まっている者達は、目をまん丸くして、穣子をみつめている。
その視線を受けて、おずおずと穣子は、一歩前に進み出た。
そして、親指、人差し指、中指を立て、天に向けて掲げる。
「マタイによる福音書第十二章第七節――主は仰いました、隣人が愛しくて堪らない、ハァハァ、と」
「ほ、本当ですかッ」
誰かが代表して、そう問い掛ける。
「本当です、ですから、全力で愛しましょう――」
隣人を、と威厳を湛えた声で、穣子は力強く告げる。
――愛しましょう、愛しましょう、と各々勝手に囁いていたものが、やがて一つになって、愛しましょうの大合唱に変わる。
もう、パチュリーの病室はミサの様な大盛り上がりである。
「貴女達ッ、病人の前ですッ!」
永琳の一喝で、マックスだったテンションが一気に下がった。
「気持はとてもありがたいです、でも、そうね、ええと、そうね、あれだわあれ、そのあれよ、えぇと、静かに、祈ってて頂戴」
何だか、もの凄くオブラートに包まれた永琳の言葉に、天子を残して、他のメンバーは隙間へと、すごすごと戻って行った。
「――藍、ミスキャストだわ」
紫から、呆れた様な声が掛る。
「なに、間違いなもんですか、紫様。これからです、まだまだこれからですよ」
そんな声に、構う事無く、藍は不敵な笑みを残すと、去って行った。



皆がそれぞれの想いを秘めて、奮闘たる、激戦を繰り広げる中、雲山は相も変わらず、香霖堂で酔い潰れていた。
どれだけ喰らったのか分からないが、その顔はもう、真っ赤を越えて、若干どす黒くなって来ている。
「――ほら、雲山、いつまで、ここで潰れてる気だい?」
と、霖之助は、雲山を揺するのだが、山の様な、この男はビクとも動かない。
「君を必要としている、人達が待ってるんじゃないのかい、いいのかこのまま、ここでぐだぐだしてて、取り返しの付かない事になっても」
――煩せぇ、とカウンターに突っ伏したまま、声だけで応える。
「親爺なら親爺なりの生き様ってもんが、あるだろうに」
「ねぇよ、そんなもん、どこ探したってありゃしねぇよ」
――俺なんかどうせ、俺なんかどうせ、とねちねちと雲山は拗ねるばかり。
これはもう、どうしようも無いなと、救いを求める様に、入口に視線をやると、新たな客が入って来るところであった。
霖之助の待っていた、恐らく本日最後の客である。
「無駄だよ、霖の字、止めときな。その男は昔っから、頑固でねぇ、人の話など聞きゃあしないのさ」
「いらっしゃい、天魔さん、お待ちしておりましたよ」
霖之助は慇懃に言って退け、客を迎えた。
そのやり取りに、何と無く投げ遣りな態度で雲山は顔を上げた。
「――何だ、天魔の婆ァかよ」
「煩いよ、雲山の爺ィ」
口の減らない婆さんだ、と雲山はつまらなそうに呟いた。
「今頃どうしたよ、まさか俺と縁りを戻しにでも来たか?」
かっはっは、と天魔は大声で笑う。
「冗談言うんじゃ無いよ、このタコ! 今さら、あんたにゃあ、これっぽちの未練だって残っちゃないさ」
涼しい顔で、天魔は応える。
「俺だって、同じだよ、馬鹿が、さっさと消えろ」
「ほっといてくれ、あたしゃあ、霖の字に用が在るのさ」
と、告げて、天魔は霖之助に向き直る。
「頼んどいたアレ、用意出来てるかい?」
――えぇ、と頷くと霖之助は頷くと、裏へと消え、戻って来た時には渋い光沢を放つ、アタッシュケースを携えていた。
「御依頼の品は全て、揃えておきました」
霖之助が商品を示すと、天魔はひとつひとつ手に取って、じっくりと眺め始めた。
そして、それに満足したのか、天魔はニヤリと笑った。
ごとり、と重い音を残して、手にしていた、それを置く。
「流石、香霖堂、あんた程の武器商人、この幻想郷中探したって、他に見つかりっこ無いね」
「ありがとうございます、残りは外に出してありますので」
「分かってる、さっき見て来た、上等さ、あれが私の新しい翼だ」
「ですが、良いのですか、本当に――」
「おいおい、物騒だな婆ァ、一人で戦争でもおっぱじめようってのか?」
霖之助の台詞を遮って、雲山が声を掛ける。
「その通りさ」
そう告げて、天魔は纏った、黒いロングコートを、そっと開いて見せた。
「ご覧の通り、どの道もう、長くは無いのさ。自分で言うのもなんだが、こうして動いてるのが不思議なくらいさ、魂を奮い立たせて何とかもってるとこ、中身はとっくに伽藍堂さ」
そう自嘲気味に、天魔は笑う。
「だから、この命、愛しい子供達の為に散ったとしても、ちっとも惜しくは無いのさ」
「――そうかい」
目を逸らして、雲山は応えた。
「文から、紅魔館への招待状が届いたのさ。この老い耄れの最期を飾る為の、晴れ舞台が用意されたってね」
これは嬉しい事さ、と天魔は続ける。
「紫の奴にはまだしも、レミリア達には嫌われてるもんだと思ってたからね、いや、それは変わらないか、それでも、この婆ァにも出来る事が、まだ在ったのさ」
――わたしゃ、あんたとは違うよと、天魔は雲山に突き付ける。
「あん、何だと」
「あたしは踊るのさ、私だけに用意された、あの舞台で、人生のラストダンスを、ね」
嬉々として、天魔は言う。
「頭の方も、とっくに惚けちまってるみてぇだな」
「少々、危険が伴うからね、私にしか務まらない舞台なのさ、その舞台に勝手に上がって怪我しない様に、子供を一人置いて来たところさ」
そう言い終わると、天魔は霖之助にカクテルの注文をした。
「――そうだね、サイドカーでも貰おうかね」
「縁起でもねぇな、止めとけよ」
そう、突っ掛かり、出されたカクテルを奪うと、雲山は一気に飲み干した。
「何すんだいッ、この酔っぱらいがッ! 置いて来たと言っただろうよ、今さら危険に晒す様な同乗者はあたしには無いのさ、独りで行くんだからねッ」
「おいおい、本当に惚けちまったのかよ」
「あん、何て言ったッ」
「迎えが来てる事に気付けない程、耄碌しちまったのかって、言ってんだよッ!」
雲山は、そう吠えると、顎で店の入り口を差した。
天魔が視線を向けた先に、大きなりリュックサックを背負ったにとりが立っていた。
「にとり、何で――」
呆けた声が、天魔から漏れる。
「――こんの、クッソ婆ァッ、危うく騙されるとこだったぞ、馬鹿野郎ッ!」
そう叫ぶと、ずかずかとにとりは店に入って来て、天魔の前に立ち塞がる。
「今まで、さんざん私の人生に喰い込んでおいて、今さら見捨ててくれなんて、虫が良すぎんだよ、えぇ、そうだろうッ、婆ァッ!」
天魔のコートの襟を掴んで、にとりは叫ぶ事を止めない。
「これからも一緒に歩んでくれと、一緒に戦ってくれと、何でそう言えないんだよ、この頑固者がッ!」
にとりの、その言葉に、何故か雲山と霖之助は、笑みを零している。
「そ、そんな事――」
と、先程までの威勢の良さが嘘の様に、天魔は戸惑った声を上げる。
「私達は家族だろうッ、同じ幻想郷に生きる家族じゃ無いのかよ、その為に戦って死ねるなら、本望なんだよッ」
「――それだけは駄目だ」
「何で――」
「しっかり、援護しとくれ、あたしが死なぬ様に、な」
「えっ」
――これからも、共に歩いてくれるのだろう、と天魔はにとりを、確かに見据えて告げた。
「了解したぜ、婆ァッ! 早く来いよ、外で待ってるからなッ」
威勢よく、そう告げると、にとりは走り去って行った。
「そう言う訳だ、世話になったな、霖の字、こりゃあ、お代だよ」
言って、天魔はくしゃくしゃのお札の束を、霖之助の胸ポケットへと突っ込んだ。
「――天魔さん、これじゃ僕が貰い過ぎですよ」
去ろうとしていた天魔の背中に、霖之助は声を掛ける。
「どうせ、その親爺はこれからも入り浸るだろうからね、その分も先に払っといてやるよ」
雲山に背を向けながら、天魔は言って退けた。
「――余計な真似すんじゃねぇよ」
余計ついでに、もう一つだけ、と天魔は向き直って言った。
「もう二度と逢う事も無いだろうから、言っとくよ、雲山、昔のあんたは間違い無く、良い男だったよ」
「あん?」
「――黙って俺について来い、その背中に痺れたもんさ、完全に参っちまってたんだね」
くくく、と天魔は笑う。
「まぁ、今のあんたにゃ、あの頃の面影なんて、どこにもありゃしないけどね」
「御世辞なら、結構だよ、糞が――」
世辞なもんかと、ひょうひょうとした顔で天魔は応える。
「この天魔様が、唯一惚れた男さ、世辞な訳あるもんかい」
また、ひょうひょうと笑い、そう言うと、天魔は立ち去ったが、扉の前で、背を向けたまま、もう一度だけ振り返った。
「もう一つだけ」
天魔の、悪戯っ子の様な、笑顔と声。
「あんたが命蓮寺の奴等をどれだけ大切に思ってるか、私は知ってるつもりだ、でもね、勘違いするんじゃ無いよ、あんたにはあんたのやり方ってもんがあるだろう、あんたは命蓮じゃ無いんだ、あんたに自分の代わりになって欲しいなんて、命蓮の奴だって望んじゃないだろうさ」
――あんたにしか出来ない、親爺なりの生き様ってもんを忘れるんじゃ無いよ。
「煩せぇ、そんな事ァ、分かってるよ、――俺ァ、俺だ」
「どの道、その顔じゃ命蓮にはなれないさ、あっはっはッ」
それだけ告げると、満足したのか、レザーコートを颯爽と翻して、天魔は香霖堂を去って言った。



人の身で、到達出来る天は、もうすでに突破している。
これから先の天は、人外の領域。
ならば、第五天の結界は、彼女達が張る事こそ、相応しいだろう。
厳然たる、神の身である、彼女達が。
「さぁ、おいでなすったよ、幻想郷に見せつけてやるよ、奇跡の価値って、やつをねッ」
神奈子はそう告げて、昇り来る魂の為、巨大な注連縄を結界として展開する。
「しんどいねぇ、これっぽっちの信仰で、果たしてどこまで出来るか」
奮い立つ神奈子の声とは反対に、諏訪子の声には不安が混ざっていた。
「おいおい、諏訪子、縁起でも無い事言わないどくれよ」
「――だって、本当の事じゃ無いか、一応来てみたけど、私達だけで、この天を抑えるのは至難の業だろう、それこそ奇跡が必要さ」
その言葉通り、三人で結界を用い、何とか抑え込んでいるものの、その外へと漏れ出そうという力は凄まじい。
結界がびりびりと震え、今に割れそうである。
「だ、大丈夫さ、奇跡を起こすのは、早苗の十八番だよ」
なぁ、と神奈子は余裕ぶって、早苗に向き直る。
吹き荒ぶ、雨霰に晒されて尚、早苗は笑っていた。
「ほらほら、あたし達の女神様は笑ってらっしゃるよ」
神奈子は嬉しそうに、諏訪子に告げる。
「そうかい、なら、さっさと奇跡を起こして欲しいもんだい、流石に、これ以上はきついよッ」
悲鳴にも似た、諏訪子の呻きにも、動ずる事無く、早苗は微笑んだままである。
ぴしり、ぴしり、と結界の緩んだ部分から、徐々にだが、確実に崩壊を始めていた。
「さぁて、どうするかね、奇跡の巫女さんよ」
と、神奈子は、泣いてる様な笑顔を、二人に向けた。
「お二人はまだ、気付いていらっしゃらないのですね」
そう、早苗が口を開いた頃には、ぶちぶちと、耐えられなくなった注連縄が、解れて行く。
「あん、何だってッ」
豪雨に掻き消され無い様、神奈子はもう叫び声である。
「奇跡など、必要ではありません――」
厳粛とした、早苗の声が、この天に響き渡った。
「――何故なら、私達は今、奇跡の中にいるのですから」
これは、早苗の湛えていた、笑顔の答えである。
――はっはっは、と神奈子と諏訪子の笑い声が重なった。
「そうかいそうかい、そう言う事かい、常識に縛られちゃあ分からない訳か、どうりでさっきから心地良いと思ってたところさ」
「後は、この奇跡を享受するだけってか」
神奈子と諏訪子は、互いに何か納得した様な雰囲気である。
「さぁ、新たな奇跡が到着した様ですよ」
告げた早苗の視線の先に、すっと空間が裂けていた。
そこから、ぬろぬろと出て来たのは、茨の冠を被り、聖書を携えた、穣子達である。
三本の指を天に向けて掲げると、穣子は静かに口を開いた。
「マタイによる福音書第十五章第三節――主は仰いました、例え、遠回しに邪魔だと言われても、決してめげる事無く、変わらずに隣人を愛せ、と」
隣人を愛せと、声を一つに叫び、浮いているのは、さきほど永琳の元を追い払われた、者達である。
神奈子達の結界を外から囲む様に、手を繋いで輪になる。
解れた、注連縄が、あっと言う間に修復され、より強靭な結界へと縫い直された。
「たまには、こう言うのも悪くありませんね」
早苗の笑顔に、神奈子と諏訪子は頷くと、輪に加わって行った。
第五天〈ステージ〉クリア!



「――何よ、これ、こんなの聞いてないわッ」
急遽設けられた手術室を、永琳の絶句が瞬く間に埋めて行った。
永琳の焦燥の浮かんだ言葉に、紫は、はっと息を呑む。
そして、すぐに、彼女の視線を追った。
その先には、開かれたパチュリーの身体、そこから覗く鈍い色の臓物に混じり、眩いばかりの輝きを放つ存在が、紫の目を捉えた。
「こ、これは――」
「――多分、賢者の石、彼女はそれを、身体の中に隠し持っていたのね」
目を見開いた紫に、幾らか冷静さを取り戻した永琳が声を掛ける。
「聞いた事あるわ、賢者の石は製造よりも、その管理保存が難しくて、誰も手を出せないのだって」
「えぇ、その通り、賢者の石は大気中に晒すと、すぐに風化して崩れさってしまうの。でも、彼女はそれを体内に宿す事で防いでいたのね、流石、幻想郷の大魔女と言ったところかしらね」
「でも、これはどう言う事なの?」
どくんどくん、とパチュリーの心臓と呼応するかの様に、賢者の石も共に、どろりと蠢く。
紫の視線の先で、賢者の石が、まるで意志を持ったかの様に、鼓動を始めている。
「恐らく、コーヒー牛乳だと思う」
「えっ」
頼り無下げな永琳の声に、紫は思わず顔を挙げて、問い掛ける。
「――どう言う事かしら」
その紫の台詞を遮って、何かがパチュリーから飛び出すと、あっと言う間に駆け出して、手術室を出て行ってしまった。
「お、お師匠様、今のはッ」
恐れを纏った、うどんげの悲鳴が瞬時に駆け巡る。
「――ミノタウロス」
とても渇いた永琳の声が、最悪の事態に、状況が進展したと伝えていた。
「八意さん、どう言う事なんですか、説明してッ」
と、普段からあまり取り乱した事の無い紫が、焦った様に永琳の肩を掴んで、揺さぶる。
「牛乳を摂取した事によって、彼女の中の概念的な何かが、過剰に反応しているのよ」
「賢者の石が、活性化されていると言う事、ですか」
うどんげが、そう問うた。
「そう、パチュリーの、彼女の牛乳への畏怖の心が、賢者の石と結び付き、共鳴し、具現化してるのよッ」
とうとう、永琳は叫んだ。
「止めなきゃ、拙いですわッ」
「えぇ、このままじゃ――」
紫の言葉に頷こうとした、永琳は再び絶句する、すでに遅かったのだ。
パチュリーに埋め込まれた賢者の石から、次々とミノタウロスが生み出されて行く。
その数は、ゆうに数百体を越えているだろう、白いミノタウロス〈アルベド〉、黒いミノタウロス〈ニグレド〉。
そのどれもが鋼の様な筋肉を纏い、巨大な斧で武装している。
ぶふぉおう、ぶふぉおう、と獣臭い、荒い鼻息が湯気となって漂う。
それらは、産まれ落ちた瞬間、己の使命を悟ったのか、もの凄い速さで、外へと駈け出して行く。
「どこへ向かっているのッ!」
ミノタウロス達の雄叫びに混じって、紫の悲鳴が部屋を劈く。
「ミノタウロスは、パチュリーの恐怖の象徴、彼女の恐怖を実現させようとしているわッ!」
――自動販売機を今すぐにでも、爆発させるつもりよ、と永琳はあらん限りの声を絞り出す。
「それだけは、絶対に阻止しますわッ」
裂けた空間から、一振りの日傘を取り出すと、紫はそれを突き刺す様に構え、すっ、と群れをなすミノタウロスの前に立ち塞がる。
その、開戦の一撃を放とうとした、紫の腕を、一匹のミノタウロスが掴む。
他のミノタウロス達よりも、一際巨大な存在感を示す、赤いミノタウロス。
鋭く、重い拳骨が、紫に振り下ろされた。
「――ごぶッ」
頭頂部に大きなたんこぶを作って、紫は舌を出したまま、気絶した。
「お、お師匠さまぁ」
と、うどんげと、てゐが永琳の後ろへと、素早く回り込む。
「あの赤い姿、ミノタウロス本来のものでは無いわね。紅魔館で暮らす内に、紅魔の意志まで吸っていたか――」
観念したかの様に、永琳は、細めの煙草を取り出し、銜えた。
「あ、あれは、何ですか」
怯えを隠しもせずに、うどんげは、そう喚く。
――敢えて言えば、ミノタウロス完全体〈ルベド〉よ、永琳は応えた。
「に、逃げなくちゃ――」
うどんげは、そう呟くと、すぐにてゐと、永琳の手を引っ張って、部屋から出て行こうとする。
だが、その手を、永琳は優しく解いた。
「私は医者です、ここで、患者を放ってしまう訳には行きません」
淑とした声で、永琳は告げた。
「皆、戦っているのです。それは何よりもパチュリーが戦っているからです。家族の為にと」
そう言って、永琳はうどんげに向き直る。
「そして、私達は今、その最後尾で戦っています。つまり私達の敗北は、皆の敗北に繋がります、私達が諦めた瞬間、全ては終わります――」
私達は、最後の砦なんですよ、と誇りを宿した、永琳の声。
「だから医者である私達は、何があっても決して諦めて――、ごぶッ」
永琳の頭頂部に、赤いミノタウロスの容赦無い拳骨が炸裂した。
大きなたんこぶを作って、永琳は崩れ落ちたが、まだぎりぎりのところで、何とか意識を保っている。
うどんげが駆け寄って、すぐに抱き起こす。
「お、お師匠様ッ」
「う、うどんげ、無理しないで、もし恐かったら逃げなさい。でも、もし、戦えると言うのなら、存分に誇りを持って戦いなさい――」
――医者としての腕なら、もう私よりも上なのだから、それだけ告げると、永琳は舌を出したまま気絶した。
紫と永琳と言う、二人の強大な賢者を倒した事によって、己の邪魔をする驚異は去ったと判断したのか、赤いミノタウロスは、二匹に分裂すると、うどんげとてゐに構う事無く、その場を後にした。
うどんげとてゐは小さく抱き合って、ただそれを震えながら見送るしかなかった。



「幽々子様――」
不安を存分に孕んだ、妖夢の声である。
ミノタウロスが誕生した事による、紅魔館内の空気の変化に、いち早く気付いたのだ。
びりびりと迸る、ミノタウロス達の咆哮が聞こえているかの様だ。
「――えぇ、どうやら不測の自体の様ね」
若干の困惑顔で、幽々子は応える。
「私は――」
そう言って、妖夢は刀を構えると、鍔を凛と鳴らした。
「うん、行ってらっしゃい、もう結界も安定してるし、ここは私に任せておいて頂戴な」
「ですが」
――心配しなくても、大丈夫よう、と舞う様に笑う。
「私を誰だと思ってるの、ねぇ妖夢」
と、黒い蝶を、その細い指に這わせながら、言葉を紡ぐ。
「ここらで、斬ってみるのも悪く無い選択よ、運命をね」
「――運命ですか」
「そうよ、全てを斬る為には避けては通れない道、少しでも妖忌に近付きたいのなら、ね」
――爺様、と妖夢は呟いた。
「あの人は、見事斬ってみせたわ、私の眼の前でね」
ふふ、と恋する少女の様に、幽々子は微笑む。
「さぁ、行ってらっしゃいな、私達亡霊には、命あるモノの様に、綺麗に燃える事は出来ない、熱は持たない、でも」
気にする事は無い、気遅れする必要だって無いのだと、幽々子は続けた。
「魅せて、見付けてくるの、貴女の熱を、ね」
そう言って、妖夢を送り出す。
「はいッ、では魂魄妖夢、行って参ります」
閃く瞳、一筋残し、妖夢は駆け出した。



「さぁ、もう今日は店仕舞いだ」
雲山の前に、まだ少し残っていた焼酎を取り上げながら、霖之助は言った。
「あぁ、なんだ、今日はやけに早いじゃねぇか。ふざけた事を抜かすんじゃねぇ、夜はまだこれからだ」
そう言って焼酎を取り戻そうと、伸ばした雲山の手は虚しく、宙を切る。
「店を開けたままじゃ、いつまで経っても君は動かないじゃ無いか」
「おいッ、返せよ、金は払ってんだろう、天魔の婆ァがッ」
「君を独りで呑ます為に貰った訳じゃないんだけどな」
と、霖之助は苦笑を零す。
「煩せぇ、これまでも、これからも呑む時は独りだ」
つっけんどんで、とりつくしまも無い。
「僕は、本業で骨董屋をやってるのは、君も知っているだろう?」
急に話が飛んで、雲山は訝しげな表情を作る。
「それが、何だって言うんだ」
雲山はぶっきら棒に応えた。
「君は自分には、古い物には価値が無いと言う。では何故、古い物の代名詞の骨董品なんぞを人妖達は買っていくのだろう、必要とするのだろう?」
自らにギムレットを作りながら、霖之助は、そう言う。
「そりゃ趣味で鑑賞したり、名の在る銘が打って在る為の希少価値を求めてだろうよ」
――それは違うよ、と霖之助は応えた。
「外の世界ではそう言う事も在るのかもしれない、でも僕の店じゃ、そんな高価なものは扱っていないし、希少な銘が掘って在る様なものだって扱ってない。ならば何故に求めるのか――」
己の歩く道を支える為なのさ、と霖之助は言った。
「――己の道だぁ?」
「そうさ、道ってのは勝手に始まるもんじゃ無い、偉大なる先人達が拓いて来た道の延長に僕達の道は続いている。そして、それを次の世代まで途切れる事無く歩き、引き渡すんだ。でもこれは簡単な事じゃ無い、時に道に迷う事だってあるだろう、じゃあ、そんな時どうすれば良い、君ならどうする」
と、雲山に問い掛ける。
「さぁな――」
後ろを振り返るんだ、と霖之助は、しゃんと告げた。
「そこには先人達が立っている、後ろから支えてくれているんだ、だから安心して進めと。ねぇ、雲山、骨董特有の、あの輝きは何で出来ているか、君は知らないだろう」
「俺は骨董屋じゃねぇ、知るかよ、そんな事」
「――脂さ、それを手にした人、妖怪全ての、ね」
「脂ァ?」
――そうさ、と霖之助はギムレットを、喉に滑らす。
「人間も妖怪も関係無く、手には微量の脂が付着している。まずは製作者の脂、次は購入した者の脂、そうして次々と持ち主を転々として刻まれて行く、様々な者の脂、それがあの独特な輝きを生み出しているんだ」
その言葉に、雲山は己の大きな手を開いて、じっと見つめた。
「骨董の贋作者が一番神経を使うのが、その脂の具合さ、新しい物には決して帯びる事の出来ない輝きだからね。骨董に限らず、この店の扉や机だってそうさ」
そう言いながら、霖之助は、視線を店の中を巡らす。
釣られて、雲山も首を動かした。
「どれも、渋く、素晴らしい輝きを放っているだろう、この輝きは刻まれた歴史と言っても良い。僕の今まで歩いて来た道そのものさ」
とても誇らしげな、男の声。
「君だって、僕の歴史に負けぬ程の、立派な輝きを放っているじゃないか、少し皺が多いけれどね」
そう言って、脂の浮かんだ雲山の額を、ぺしぺしと叩く。
「おい、止めろッ」
と、飛び回る蠅を追い払う様に、霖之助の手を払う。
「骨董と言うのは、普通持ち歩かない、家にどんと、飾っておくものだ」
「あぁん?」
これは大黒柱さ、と霖之助は笑った。
「あん、意味が分かんねぇよ」
「帰るべき場所に、進むべき道の後ろに堂々と立って、どんと構えてるものなのさ。古い物には、そうしてやれるだけの価値がある」
「俺は――」
「確かに新しい何かを示してあげる事は出来ないかも知れない、でも後ろからそっと見守ってあげる事は出来る、新しい者達が迷わずに歩ける様に、そっと支えてあげる事が出来る」
――古い者には、そう伝えられるだけの歴史があるんだ、これは新しい者達には決して真似出来ない事だ、と霖之助は告げた。
「仮令、そうだったとしてもだ」
微かな諦めを滲ませて、雲山は反論する。
「口が達者なお前と違って、俺には今さら伝えてやれる様な事は何もねぇんだよッ」
その言葉に、霖之助は溜息を吐きながら、眼鏡を外した。
そして、ぐっと、雲山を覗き込む様に、睨みつけると、口を開いた。
「男なら、黙って行動で示しゃあいい」
普段から穏やかな、霖之助とは思えぬ乱暴な言葉に、雲山は目を見張る。
「いつかの、君の言葉だ」
何事も無かった様に、またいつも通りの霖之助の声。
「雲山よ、男なら己の言葉に責任を持つべきじゃないかい?」
「霖之助、お前と喋ってるとよ――」
命蓮の奴を思い出すよ、と雲山は言った。
その台詞に被さる様に、店の外で車が停車する音が聞こえる。
本日最後の客を乗せる為、迎えに来たのだろう。
「済まねぇが、何でも良い、花束と線香、それからカップ酒あるか?」
「――今、持ってくるよ」
そう応えて、霖之助は店の裏へと向かった。
「〈ビジョザクラ〉だ、花言葉は必要かい――」
「いや、そんな洒落たもん、俺にゃあ似合わねえよ、これだけで結構」
線香とカップ酒と共に差し出された花束を受け取ると、雲山は無言で立ち上がり、背を向けた。
「世話になったな、霖之助」
グラスを拭き始めている霖之助に、背中越しに声を掛ける。
「次は、命蓮寺の皆でおいで、極上のカクテルと料理で歓迎するよ。その時まで、このお金は僕が与っておくから」
霖之助の言葉を背に受け、雲山は静かに歩き出した。
時代親爺の踊る、時代遅れで、黴臭い、滑稽で無様で不器用なラストダンスを踏む為に。



パチュリーの賢者の石から解き放たれたミノタウロス達は、紅魔館を蹂躙しようと、暴れ回っていた。
彼女の恐れに呼応し、今すぐにでも、自動販売機を爆発させようと、紅魔館内を駆け回っているのだ。
そして、とうとう、その標的たる自動販売機を見付け、次々とミノタウロス達が集まっている。
自動販売機の周りで、その時を待っていた咲夜、フラン、小町、お空、また第一天の結界を張っていたさとりと、こいしはミノタウロスの登場に驚き、うろたえた。
当然だ、こんな事象は予定に入っていない。
それに、今、この状況でそれぞれの持ち場を離れる訳には行かないのだ。
それは結界が崩れる事を意味していた。
だが、どう見ても、ミノタウロスは臨戦態勢を整え、荒い息を吐き出している。
「――私が、時間を稼ぐ」
そう言って持ち場を離れようとした咲夜の肩を、小町が掴む。
「駄目だ、お前さんがこの作戦の締めだ、もしお前さんの身体に何かあったら、ここまで紡いだ糸が無駄になるぞ」
厳しい顔で、小町が告げる。
「だが、このままじゃ――」
今にも振り解き、駆け出そうとあがく咲夜に、まずは標的を定め、ミノタウロス達が一斉に襲い掛かる。
最初の一撃が咲夜に命中するかと、その一歩手前で、襲いかかったミノタウロスが音も無く崩れ落ちた。
その後ろから、咲夜の眼に飛び込んで来たのは、眼光を鋭く沈めた半霊少女。
咲夜達を守る様に、向き直り、立ち塞がる。
「この程度の運命、私が斬り伏せましょう」
態勢低く構え、そのまま鯉口を切る。
「――妖夢」
そう咲夜が声を掛ける頃には、すでに妖夢はミノタウロスの群れに向かって駆け出していた。
仲間が倒された事で、興奮しているのか、ミノタウロスも妖夢に標的を変え、彼女目掛けて、突進して行く。
だが、素早くその中心に潜り込むと、妖夢は縦横無尽にミノタウロス達を斬り伏せて行く。
斬られた端から、びしゃびしゃと牛乳になって、ミノタウロスは飛び散って行くが、時を置かず、すぐに再生を始めては、妖夢に向かって行く。
だが、それらに構う事無く、その身を蒼く燃える刃と化し、次々と容赦無く薙いで行く。
亡霊である、妖夢の魂の色である。
しかし、際限無く再生するミノタウロスの勢いに押され始めたのか、妖夢に、ミノタウロスの繰り出す攻撃が徐々に当たり始めた。
ミノタウロスはすぐに再生出来るので、仲間に当たる事も構わず、全方位から妖夢を狙う。
「この程度、斬れなくて、私に何が斬れると言うのかッ」
裂帛の気合と共に、一閃。
前方のミノタウロスを捉えると同時に、背中に激痛が走るのを妖夢は感じた。
ここからは防戦一方、背後からの攻撃に備えなければならず、とても攻撃にまで手を回せない。
ならば、せめて、この戦いが終わるまでミノタウロスを己に引き留めておくのが勤めと、妖夢は思い直していた。
しかし、その気配を感じ取ったのか、ミノタウロス達は少しずつ妖夢と距離を取り始め、中には咲夜達目掛けて、その矛先を変更している奴らまでいる。
これは、いけない、何とか食い止めなくては、と気持は焦るのだが、対峙するミノタウロスで精一杯であり、とても手が回せない。
――せめて、せめて、背後からの攻撃が止めば。
そう思った時、自分の体が僅かに軽くなるのを、妖夢は感じた。
違う、背後からの攻撃が止んだのだ、今までそれを打ち払っていた分、軽くなったと錯覚したのだ。
前から襲い来るミノタウロスの攻撃を器用にいなしながら、妖夢は視界の端々にちらちらと、緋色の剣が踊っているのが、見えた。
「とても純粋な蒼、惚れぼれしそうな程、綺麗な気質ですね――」
「――貴女こそ、なんて眩しい緋色」
互いの剣を繰る手を休める事無く、背中越しの会話。
「少し、血を抜かれちゃったから、あれだけど、貴女の背中ぐらい守るよ」
「かたじけない、お陰で背中が軽くなりました、まるで羽根が生えた様、貴女まるで――」
――天使の様です、と妖夢の台詞に、緋色の少女は笑った。
「よく、言われる」
「でしょうね」
言葉で笑って、それだけ交らせて、二人の少女は剣を絆に、踊る。



蒼と緋の共演、その絢爛な乱舞に、阿求は魅せられていた。
いや、魅入られていたのだ、一瞬たりとも目を離せぬ程に。
――なんと美しい事か。
――命を燃やす色の、なんと艶やかな事か!
彼女達だけでは無い、外ではパチュリーと自動販売機が、その生命を燃やし、この夏に負けぬ熱を放っている。
次々と現れては群れをなし襲いかかるミノタウロス、対峙する二人の剣士。
パチュリーの魂を昇らせる為、己の生き様を示す結界組。
――なんと気高い美しさであろう。
――この景色の中にあっては、襲い来るミノタウロスさえ美しい。
そう、奴らとて、その生を全うしようと、あらん限りの魂を燃やしているのだ。
――私には、私には何が出来る。
――何が出来る、この美しい景色の中で何が出来る。
――この景色の一部になりたい、切にそう思う、そうだろう稗田阿求!
呆けた様に、その景色に惚れたと言わんばかりに、一心不乱に見続ける阿求にも、ミノタウロスの魔の手が迫る。
だが、決してミノタウロスの手が彼女に触れる事は無い、彼女の前には常に慧音がいるからだ。
三種の神器を取り出し、阿求を守る様に見事に応戦している。
「慧音さん――」
「なんだい?」
神器の内の剣で、迫り来るミノタウロスを払いながら、慧音は応える。
「これが、異変、ですよね?」
噂では幾らでも聞いていた、幻想郷では割と頻繁に異変と呼ばれる事象が起こるのだと。
だが、あくまでも人の身である阿求は、その当事者になった事など一度も無いのだ。
だから、異変とは、常に書物の中で語られる、言わば彼女にとっては一つの幻想に過ぎなかった。
けど、今は違う、それが阿求の目の前で、間違い無く、繰り広げられているのだ。
「異変と言うのは、もっと苛烈で、大変なものだと思っていました」
「まるで、そうじゃ無いみたいな物言いをするじゃないか」
また一体ミノタウロスを刻むと、慧音は皮肉な笑みを浮かべた。
「えぇ、だって何だか――」
――とても、楽しいのです、と阿求は言う。
「そうかい、そう言えば阿求は異変に遭遇するの初めてだったな」
「はいッ」
「覚えておくんだな、いつだって異変ってのは、楽しいものさ」
にっ、と笑うと、慧音は鏡を翳す、己達を囲んでいたミノタウロス達を一気に滅ぼした。
「私は分かりました、異変こそが、この幻想郷の歴史になるのですねッ!」
阿求は、嬉しそうに叫んだ。
「それが正解かどうかは私には何とも言えない、だが――」
面白い、と慧音も嬉しそうに叫ぶと、またわらわらと這い出て来るミノタウロスに向かって駆け出した。
「夏休みの自由研究はそれで行こうじゃないか、阿求! 幻想郷の歴史とは異変であるか、これで決まりだッ」
「はいッ!」
「ならば、証明を、その仮説を証明するのだッ」
その慧音の言葉に頷くと、携えた鞄の中から、紙と筆を取り出すと、阿求は、その場に正座する。
――私は間違っていない筈。
この幻想郷は、異変が起きる度に、絆を確かめる様に、様々な人妖が集う。
そして、異変が終わる度に、新たな仲間が、家族が増えて行くでは無いか。
その積み重ねが、この幻想郷を形成し、時が経ち、やがて歴史となるのだ。
この短命な稗田の身であっても、それは変わらない。
それは幻想郷の歴史であると同時に、稗田の歴史でもある。
だから、証明するのだ、この稗田阿求が記す異変が、歴史になる事を。
きっと、私には、この異変が歴史になる瞬間には立ち会えないだろう。
だが、それでも一向に構わない。
己の置かれた状況が歴史になる瞬間等、普通は見られぬものだ。
だが、長生きな、幻想郷の妖怪達なら、それが出来るかもしれない。
だから、記す事で、彼女達に託すのだ、私の歴史を見届けてくれと。
記した物が、幻想郷の歴史に組み込まれる瞬間を代わりに見届けてくれ、と。
「ならば、記せ、阿求ッ!」
慧音の言葉に、心を奮い立たせ、阿求は筆を取り、墨を付けた。
そのまま、真摯と、紙に向き合う。
彼女達の様に、私の脆弱なこの身では共に戦う事は出来ない。
ミノタウロスを倒す事など、叶わない。
しかし、この細く華奢な腕でも筆は握れる、今までだって、この腕は、大切に筆を抱き締めて来たのだ。
これから記す文字ひとつひとつが、私の血であり肉である。
それはやがて、意味を持った文章となり、私の記憶を伝えてくれる。
それは私の関わった者達の中で、私が消えた後でも、思い出として積み重なり、やがて歴史となるのだ。
語り継がれる事、即ち忘れぬ事、私が記す歴史の中で、パチュリーさんも存在し続けるのだ。
彼女が帰って来る、その日まで、私の文章が、それを守るのだ。
彼女の存在した歴史を、この私が保証するのだ!
忘れぬ、決して忘れぬ、忘れぬ忘れぬ忘れぬ、どれだけの時が経とうと、決して忘れぬ。
だから、臆する事無く、書き殴れ。
子供染みた、日記みたいな、無様な書き物だって構わない、それが等身大の私だ。
幻想郷の歴史に、背延びなど、必要では無い!
――ここは、全てを受け入れる楽園では無いか。
今までは人伝に聞いた異変の概要を記すだけであった、だが今回は違う。
己の瞳で見た、正真正銘の異変である、誰の物でも無い、この私が異変の中にいるのだ。
だから、今までとはまったく違うものが書ける筈だ。
借り物では無い、まごう事無き、稗田阿求の文章が!
阿求は、最初の一文字を記す為、覚悟と共に筆を滑らした。

もう彼女の意識は、筆と紙にしか向かっていない。
だから今まで以上に、気を張り詰めて、阿求を守らなければと、慧音は決意を新たにする。
だが、斬っても斬っても、湧いて来るのだ、ミノタウロスは。
もっと根本から消し去れる様な、そんな絶対な力が必要だと思った。
そんな事を考えていたのが仇になったのか、咲夜の叫び声が聞こえる頃には、すでに致命的な距離にまで詰められていた。
「慧音ッ!」
「――ぐッ」
何とか攻撃を避けようと、逃げ場を探すが、ミノタウロスは全てを見切っていると見え、もし慧音が避ければ即、阿求が危険に晒される状態にまで追い詰められていた。
ならば、この身を盾にするのみ、そう覚悟を決めた、次の瞬間。
紅魔館内に、一際甲高い、雷鳴が轟いた。
白無垢な雷を浴びたミノタウロスは、再生の気配さえ見せず、完全に塵と化していた。
「――衣玖さん」
「はいはい、衣玖さんですよ」
ふふん、と包帯だらけの顔で、笑ってみせる。
いや、多分、笑ったのだろうと、そう慧音は思った。
「すまない」
「いえいえ」
何と言う、気持の良い謙遜であろうか、と慧音は思った。
「すまないついでに、もう一つ、謝らなきゃならない事がある」
「えっ、何ですか?」
――その頭の怪我の原因を作ったのは私なんだ、と意を決し、慧音は告げた。
「そうなんですか?」
「あ、あぁ、でも決して故意にじゃ無いんだ、あれは事故と言うか、何と言うか」
身振り手振りを交えた、しどろもどろの慧音である。
分かりました、分かりましたから、と衣玖は応える。
「じゃあ、次からは気を付けて下さいね」
「そ、それだけか」
拍子抜けした様な声が、慧音から漏れた。
その言葉に、うーん、と可愛らしい唸り声を上げると、「めっ」、と言って、慧音の頭を優しく、ポフンと叩いた。
「これで、お相子です」
今度は、本当に笑っているのだと、慧音は確信出来た。
「それじゃあ、あんた、あんたまるで、天使じゃ無いか――」
「それは、私じゃありませんよ」
「――だろうな」
慧音と衣玖は、互いに愉快そうに笑った。



輝夜は、紅魔館の地下電源室で、一人戦っていた。
自動販売機の抗う力が思いの外強く、それを分解するのがやっとで、ミノタウロスの出現に対し、対応が遅れた。
ミノタウロスは他のミノタウロス達と経験を共有でもしているのか、生まれてから短時間で、知識を身に着け始めている。
その他のミノタウロス達よりも賢い奴らは、この電源室に目を付けて、わらわらと集って来ているのだ。
そう、この電源さえ、引き千切ってしまえば、すぐにでも自動販売機を爆発させられるのだ。
それこそがミノタウロスの悲願であり、それは幻想郷の消滅を意味している。
「――月の姫君、絶対絶命、かしら」
次々と現れるミノタウロスを睥睨しながら、輝夜は呟いた。
そして、――はぁ、と気の抜けた様な溜息を洩らす。
「天殿人さえ誑かした、私の美貌も、牛相手じゃ通用しないか」
そう言って、輝夜は薄く笑った。
「あんた達、私の牛車にならない?」
おどけて、そんな言葉を掛けるが、一向に反応は無い。
「――まぁ、つれない殿方な事」
艶と濡れた唇から、輝夜の言葉が発せられると同時に、ミノタウロスは襲いかかった。
――さて、どうしたものかと、輝夜は考える。
この蓬莱の身、仮令どれだけの攻撃に晒され様と、痛みはあれど、滅してしまう事など、在り得ない。
だが、傷付いた身体が再生する時に、僅かだが、隙が生じる。
この場に於いてそれは、即、命取りとなるのだ。
須臾に分解する力が一時でも遮られれば、抑えていたものが一気に繋がり、連鎖的に爆発し、全ては終わる。
その為ここからは動けぬし、それにもし電源に手を出され、引っこ抜かれてしまえば、それはそれで終わりなのだ。
果たしてミノタウロスはその事実に気付いているのだろうか、天に祈るしか無いのか。
もう、諦めるしか無いのか。
――何を言う、輝夜。
「そんな選択肢、私には存在しない」
そう呟いて、輝夜はポケットに片手を滑り込ませる。
そして、ぐっと握ったのは、あの日、妹紅に返し忘れた百円玉。
そう、分かったのだ、あの日、妹紅が何故、あれほど怒っていたのか。
その答えが、あの時の輝夜には分からなく、今なら分かるのだ。
たかが百円、されど百円。
この身の永遠に比べれば、これっぽっちの価値さえ持っていない薄っぺらなコイン。
だが、その薄っぺらに、全力の誇りを賭けて生きて来た存在。
鴉天狗の号外に書いてあったでは無いか、あの自動販売機は客との信頼を裏切った為に自爆しなければならない運命だと。
始まりは一枚のコインであっただろう、だがそれが積み重なる事で、自動販売機と客との信頼が深まり、それはやがて切れぬ絆となり、客は安心して、自動販売機から飲み物を買える様になるのだ。
望んだ飲み物を提供してくれる、親切な自動販売機として、皆から愛され。
その信頼に応えようと、自動販売機は誇りを持って働いて来た。
確かな絆が紡がれた結果である。
そして、培って来た強靭な信頼を裏切ってしまった為に、己の命を以って責任を取る。
何と馬鹿げて、何と誇りに満ちた生き様であろうか。
――そして、それを受け入れた幻想郷の懐の深さ。
これも始まりは、私が薄っぺらと称する百円なのだ。
その積み重ねが、今私の運命と交差し、私をこの場に立たせているのだ。
永遠を生きる、この私こそ、いち早く、その事実に気付かなければならなかったのだ。
全ての始まりは、小さいものから始まる、当然の事では無いか。
小さな絆が積もり積もって、やがて紡がれ、太く長い絆となって行くのだ。
須臾の時が紡がれて、永遠となるのだ、そんな事、私は初めから知っていたでは無いか。
そして――。
「――そして、それを忘れてしまった時こそ、私は本当の化け物になる」
迫り来るミノタウロスから、一時も目を離さずに、自分に言い聞かす様に言う。
蓬莱の身となって彷徨う私は、充分に化け物だろうと、笑うだろうか。
ふふ、と自嘲する様に輝夜は笑う。
――否、断じて否、この身は人である、私は人で在る事を強く望む。
この永遠を化け物として歩くなど、私の望むところでは無い!
だから、蓬莱の身となった、今でも、人の形に縋り付いているのだ。
これから先も、人として、蓬莱山輝夜と言うひとりの人間として、幻想郷を歩んで行くのだ。
――だから。
「私は、ここで諦める訳には行かないッ」
叫んで、輝夜は掴んだ百円をミノタウロスの群れへと放った。
さぁ、百円よ、お前は私にどんな答えを示してくれる、どんな絆を繋いでくれる、どんな須臾を紡いでくれる、どんな永遠を魅せてくれる!
――次の瞬間。
突進を続けていた、ミノタウロスの後ろから、赤よりも紅い気配が、ゆらり陽炎の様に立ち昇る。
放たれた百円玉を、狂い猛る炎が確かに掴んだ。
「あら、どちら様かしら――」
皮肉を声に乗せて、輝夜は笑う。
「――なに、ただの掃除屋さ」
不尽の焔が、ふわりと揺らめいた。
紅蓮を纏った腕を振るうと、ミノタウロス達は瞬く間に炎に包まれ、牛乳となって蒸発して行く。
だが気体となってなお、寄り集まってはミノタウロスとして再生を始めた。
「おい、輝夜、罰ゲームはここじゃ無かったよな」
「えぇ、でも紅魔館に変更よ」
「――了解」
妹紅も再び、その身の紅蓮を纏い直す。
「あいつ等、すぐに再生するからッ」
「――あぁ、灰すら残さず、綺麗にしてやんよッ」
蜃気楼の様な笑みを輝夜に残し、ミノタウロスを滅ぼすべく睨みつけ、妹紅はその足を踏み出した。



「あぶないッ」
叫んで、こいしは、荒れ狂うミノタウロスからフランを庇う様に、その身を投げ出した。
無意識の行動ではあっただろうが、懸命な判断だと言えた。
ぎゅっとしているフランのバランスが崩れれば、取り返しの付かない事になっていただろう。
しかし、正面からミノタウロスの攻撃を喰らってしまった為に、こいしは昏倒してしまった。
それを目敏く見付けると、まずは邪魔者を一人確実に消しておこうと、こいしに容赦無く畳み掛ける。
「こいし様ッ!」
照射台の上から、お空が叫ぶ。
素早く妖夢と天子が迎撃に向かうが、その足がピタリと止まった。
襲い掛かった、その内一匹のミノタウロスは何を思ったのか、その身を牛乳と化すと、瞬く間にこいしの身体の中へと侵入して行ったのだ。
「――こいしッ」
「ここの結界は、私が代わりに張るッ!」
さとりの悲痛な叫びに、慧音が応えた。
それに頷くと、さとりは、すぐに妹の元へと近づいて抱き起こした。
「さとり様ッ」
と、心配そうな声が、お空から掛かる。
「大丈夫です、鼓動は聞こえています、しかし――」
さとりの応えに、微かな絶望が芽吹いていた。
「早く助け無いと、このままじゃパチュリーの二の舞になるぞッ」
ぐっと歯を噛み締めて、状況を見守っていた咲夜が叫ぶ。
「えぇ、それに、多分こいしの心に巣食う恐れは、彼女の比では無い」
淡々と、さとりは告げた。
「それが結び付いて、今解き放たれたら、もう収集が付かなくなるぞッ」
小町が、銜えた煙管の灰を捨てようと、乱暴に床に叩きつける。
「私が、この能力を使って、必ず助け出すわ、だから――」
この場をお願いします、と第三の眼を解放して、さとりは言った。
「彼女の恐れを取り除くあては、あるのかい?」
小町の問いに、さとりは厳かに頷いた。
「こいしの恐れは、多分、私――」
その台詞を遮る様に、慧音は三種の神器の剣を、さとりの眼前へと放る。
「持って行け、何かの役に立つだろう」
幸運を祈ると、そう言うとすぐに慧音は結界に向き直る。
礼を言うと、さとりは剣をきつく握り締め、こいしへと意識を同調させる。
「私も連れてって――」
お願い、私の意識も一緒に、とフランがさとりに言う。
「ありがとうフランちゃん、その気持ちだけで、私は百人力だわ」
しっかりと、フランの瞳を見据えて、さとりは告げる。
こいしとフラン、深層心理では互いに似た者同士だと意識していたのだろう。
だからこそ、無意識であってもこいしはフランを庇い、フランもまたこいしを助けたいと、本心から願っている。
その事実だけで、さとりは充分に嬉しかった。
「無事に戻ってきたら、あの子と遊んであげてね」
「でも――」
と、フランは食い下がる。
「フランちゃんは、お姉さんの事、信頼してるでしょう?」
優しく諭す様に、さとりは問い掛ける。
「えっ、うん、まぁ、頼り無いなって思う事もあるし、この野郎って思う事も多々あるけど、まぁ信頼してるかな」
若干、首を捻りながらフランは続ける。
「昔は私の事、聞き訳の無い子供だって、勝手に決め付けて、地下室に閉じ込められたりしてたけど、今は妹として、私個人として、対等に接してくれてる、お姉ちゃんと分かり合える日なんて、永久に訪れないと思ってたけど、案外そんな事無くて、あっけなくその日は訪れた、ね、咲夜」
「フラン様――」
感極まった様に、咲夜は声を滲ませている。
「咲夜達にも、うんと迷惑掛けて来たと思う、でも、もう私はあの日の私じゃ無い、私は変わった。今じゃ、この為にお姉ちゃんがわざと異変を起こしてくれたんじゃ無いかって思うぐらい。それで幻想郷が動いて、お姉ちゃんが変わって、皆が変わって、私も変わった」
「――私もです、フラン様」
と、咲夜が続いた。
「うん、そして、今こうして私を信頼して、この場を任せてくれてる。それは私の信頼の裏返しでしょう、だから、うん、信頼してるッ、そして、それに応えたいと思う私がいるッ!」
力強い、フランの宣言である。
「そうね、――だからこそ、私を信じて、私に任せて」
「えっ」
「私はこいしの姉ですッ」
妹を救うのだと、さとりは言う、フランにとって、これ以上説得力を持った言葉は無いだろう。
「分かったよ、こいしとは良い友達になれそうだからね、必ず、ね」
「えぇ、ありがとう」
と、さとりは、もう一度、そう呟いた。
フランの心に触れて、次に変わるのは私、そして、その私がこいしを変える、変えて見せる。
この場に集った皆に、ひとつ頷くと、ミノタウロスを追って、さとりはこいしの意識の中へと潜って行った。

まず、さとりの視界に入って来たのは、こいしの表層部分に蓄積された、彼女の記憶である。
ここには、産まれ落ちた瞬間から、今までの、全てが詰まっているのだ。
押し寄せる曼荼羅の様な、記憶の渦に、さとりは眩暈を覚えた。
――だが、こんなところで、立ち止っている暇など、どこにも無いのだ。
――これは、迷宮。
迷宮を進む者は、まず、己の過去と正面から向き合わされる。
だから、これは私に課された試練でもあるのだ、逃げる事は許されない。
――認めるのだ、私の過ちを。
この迷宮を形成し、その最深部にこいしの魂を閉じ込めたのは、この私に他ならないではないか。
こいしよりも早くに、覚として覚醒していた私は、覚と言う種族が、どの様に残酷な扱いを受けるか、身を以って知っていた。
だからこそ、先回りし、こいしの心を守ろうと、自分から心を閉ざす様に仕向けたのだ。
私は、全てを諦め、絆を紡ぐ事を放棄する事で、なんとか自我を保つ事が出来た。
だが、同じ境遇に落ちた時、こいしが私と同じ様に、上手く立ち回れる訳が無いと、私は勝手に決め付けたのだ。
こいしの意志など無関係に、私が勝手に決定し、彼女の心を縛ったのだ。
それに、こいしも私と同じ状況になった時、全てを諦めてしまえば、私達の絆は完全に途切れてしまう。
もう、そうなってしまえば、姉妹などでも何でも無い、繋がりも何も無い、ただの他人である。
そして、それは私が完全に孤独に陥る事を意味している。
そうなってしまう事が、私には耐えられなかったのだ。
――そう、私が、耐えられなかったのだ。
全てを諦めると言った、私でも、何かしらの絆だけは失いたく無かったのだ。
たった一つで良い、私は何か繋がりが欲しかったのだ。
勝手に絆だと思えるもので良い、仮令どんなに細くとも、それに縋りたかった。
だから、私の一方的な絆を保つ為に、身勝手にこいしを閉じ込めて、この手の届く中で、愛でていたのだ。
仮初の母親代わりを演じ、その偽物の子宮の羊水の中で、決して生まれぬ様にと、緩やかに溺死させようと、していたのだ。
決して、こいしが覚醒し、私の元を去ってしまわない様にと、ねとりねとり、と絡め取って来たのだ。
だが、それは間違いだった、今なら、そう断言出来る。
間違いだったのだから、私は愚かだった。
――そして、愚かだったと、胸を張って言えるのだから、変われる!
私は、そんなに弱くは無いし、こいしだって、覚と言う種族に簡単に押し潰されてしまう様な、弱い子では無い。
姉妹の絆など、そんなに簡単に切れないのだと、今なら簡単に理解出来る。
もし、第三の眼を解放し、こいしが覚として覚醒したとして、そしてそれに耐えられず、運命に屈しそうになっても、この私が支えてやれば良い。
こいしが絆を放棄したとしても、この幻想郷の住人が放っておく訳が無いでは無いか。
――そうだ、私達は孤独では無い。
――この幻想郷の中に於いて、もう私達はひとつの家族なのだと、教えてくれたでは無いか。
――それを証明するかの様に、今幻想郷はひとつになって、戦っているでは無いか。
そして、戦いはまだ終わっていないのだ、すぐにでも駆け付ける必要がある。
こいしを縛る鎖を引き千切り、この迷宮の壁をぶち壊し、こいしの手を取って、あの子の笑顔を引き攣れて凱歌を、響かせるのだ、この幻想郷に。
本当の意味で、こいしと姉妹になるのだ、家族になるのだ。
――私は、それを望む。
あの子は、私の真実を知れば、私を拒絶するかもしれない。
でも、そんな事は関係無い、動かなければ、何も変わらない。
そして、謝り、話そう。
お互いに分かり合える、その日まで、根気強く。
挫けそうな日もあるだろう、絶望に暮れる日もあるだろう。
そんな日は、この幻想郷に、少しだけ甘えて見るのも悪く無いだろう。
きっとここのお人好し共が、多くを語らずとも手を差し伸べてくれるだろう。
――そして、その時は、心からありがとう、と伝えるのだ。
「大丈夫、私は変われる、そしてこいしを変えられる――」
ねぇ、そうでしょう、フランちゃん、とさとりの独り言を支える様に、迷宮内に虹色の光の筋が駆け抜けて行った。
まるで、進むべき道を示すかの様に。

――さとりは、迷宮を抜け、その最深部へと降り立った。
対峙したのは、虚ろな表情を湛えて、立ちつくすこいしと、もう一人のこいし。
二人のこいしが、じっと、さとりが来るのを待ち、今見据えている。
――「お姉ちゃん」、「お姉ちゃん」――
と、二人が一斉に、同じ声で、口を開いた。
姿形は言うまでも無く、声も仕草も同じ。
二人を見分ける為に第三の眼を解放しても、無駄である。
ここはもう心の中、これ以上、深く読めるものなど、さとりには無かった。
――「助けて、お姉ちゃん、こいつが偽物だよ」、と声が重なる。
「――こいし」
さとりの呟きにも、同時に、「私がこいしだよッ」、と応える。
これは、どちらかがミノタウロスが擬態した姿であろう事は、さとりは理解していた。
そして、自分には、その姿がこいしに見えている事も。
きっと、パチュリーさんには、ミノタウロスとして映っていたのだろう。
だが、迷宮の奥に待ち受けているのは、己の向き合わなければならない過去、そして己の抱えるトラウマ、それを乗り越える為に、迷宮は存在し、そこから戻る事で、新しく生まれ変わるのだ。
そうだ、子宮とは生み出す場所、閉じ込める為に用いるなど、間違っているのだ。
だからこそ、今私が向き合っているのは、私のトラウマそのもの。
この偽物のこいしは、私の恐れが生んだものに過ぎない。
だから、私が恐れずに向き合いさえすれば、決して、怖い物では無いのだ。
逃げようとする者だけに、ミノタウロスは牙を剥く。
――逃げるな、怖れるな、戦え、古明地さとり!
「こいしッ、安心して、一緒に帰りましょうッ!」
ちゃり、と慧音から預かった、剣を、さとりはおもむろに構えた。
――「間違わないでよ、お姉ちゃん」、と二人のこいしは互いに相手を糾弾する。
「えぇ、大丈夫、私を信じてッ!」
そう叫んで、さとりは、剣を振り上げた。
「うん、信じてる」
と、ひとりのこいしは、その目を静かに瞑った。
「うん、信じてる」
と、ひとりのこいしは、莞爾と微笑んだ。
――思い出せ、さとり、私は何を望む。
――彼女の、こいしの笑顔をもう一度見る事こそが、私の悲願。
――ならば。

さとりは、微笑みを浮かべた、こいしに向け、その剣を振り下ろした。
「な、なんで、お姉、ちゃん――」
額に剣を受けて、完全なる笑みを湛えていたこいしは崩れ落ちた。
「私の妹は、そんな不細工な顔で笑わないわ」
満面の笑みを浮かべて、さとりは言い放った。
思い出したのだ。
――そう、今までだって、私はこいしの笑顔など、一度も見た事が無いではないか。
――そして、それはこれからも変わらない。
――この、こいしは私の身勝手が生んだ幻影に過ぎない。
――だから、このこいしの笑顔は、私が望む、私の強制する笑顔でしか無い。
私が見たいのは、そんな偽物の笑顔では無い。
こいしが、己の意志で浮かべる、その笑顔が見たいのだ。
「さようなら、幼い私」
そう告げて、さとりは剣を引き抜くと、ばしゃりと、こいしだったものは、牛乳となって、床にぶちまけられた。
「見付けてくれて、ありがとう――」
お姉ちゃん、その言葉に、静かに頷くとさとりは妹の手を引いて、出口へと向かった。
無事に、迷宮から帰還を果たし、皆が迎えてくれる。
「さとり様ッ、こいし様ッ!」
大丈夫よ、とさとりが声を掛けなければ、お空とフランは、すぐにでも駆け寄って来そうな勢いである。
「ちったぁ、いい顔になったじゃないか」
と、慧音は返された剣を受け取りながら、さとりに言う。
「ありがとうございます」
「その割には、随分と、険しい顔をしてる様だが」
そう応えた、さとりに、小町が煙管を吹かしながら、茶々を入れた。
「――お空、私達がどう笑うか、教えて差し上げて」
「うにゅうッ!」
そう元気良く返事をすると、お空は小町達に向き直り、口を開いた。
「さとり様と、こいし様は、心で笑うのですッ!」
――だから、顔に笑みを貼り付ける必要など、どこにも無いのです、と続けた。
「そうかい、それで、これは笑ってるのかい?」
「はい、私はさとり様達の様に心を読む事は出来ませんが、分かります、もともと心の動きには敏感な動物ですから」
「慣れるまで、少しばかり時間が掛りそうだ」
そう言って、小町達は楽しそうに笑った。
「――お空、お空ッ」
「お燐ッ!」
紅魔館に、お燐の、少し不鮮明な声が響き渡る。
お空の胸に縫いつけられた〈げろげろすわっぴ〉を通して、お燐タクシーから通信が入ったのだ。
「どうですか、そっちは」
「大丈夫だよ、皆無事で、頑張ってるよ、そっちは大丈夫、お燐」
――大丈夫ですだよ、と張りのあるお燐の言葉が返ってくる。
「これから、最後の客を乗せて、第六天に向かうですよッ! もう少し、もう少し堪えてくだせぇです」
「うにゅうッ!」
「――ごめんですね、お空。あたいは、大事な時いつも一緒にいてやれねぇです」
ほんの僅か暗く沈んだお燐の声に、そんな事無い、とお空は返す。
「皆、自分の出来る精一杯で戦っている、私はここで、お燐は、そのタクシ―で」
「お空――」
それに、とお空はさとりとこいしに視線を向けてから、告げた。
「仮令、離れていたって、心はひとつ、うにゅうッ!」
お空の照れの滲んだ言葉に、ありがとう、と残すと、お燐は通信を切った。
そして、降りしきる雨に煙る、丘の上に目を凝らす。
最後の客を第六天に運ぶ前に、どうしても拠りたいところがあると言われ、今その帰りを待っているのだ。



雲山は携えた花束と線香を手向けると、目を瞑り、静かに手を合わせた。
どれだけの時間、黙祷を捧げていただろうか、眼を開くと雲山はやっと、口を開いた。
「なぁ、命蓮、覚えてるか、俺ァ、言ったよな、命蓮寺は俺が責任持って守るからよ、安心して眠ってくれって」
だが、語り掛けられた墓標は、応えるべくも無い。
「お前の代わりになろうと、口煩く何とか頑張ってみたけどよ、どうやら俺ァ、間違っちまったらしい、これじゃあよ、安心して眠れんかっただろうな」
ひとり、雲山は苦笑する。
雨粒が、その禿げ上がった額を滑り落ち、髭を濡らしている。
「どうやったって、俺ァ、俺にしかなれねぇのにな、お前になろうとしちまったんだ、でもよ――」
もう大丈夫だと告げて、雲山は立ち上がった。
「もう間違えねぇよ、俺ァ、俺の生き様を晒すまでよ、だから、今度こそ」
――安心して眠ってくれや、そう言って浴びせる様に、カップ酒を墓標に注いだ。
そして、こつんと、墓標に拳を合わす。
「まぁ、不器用なりに頑張って再出発してみるからよ、見守っててくれや」
その言葉に応える様に、墓の周りの草木が揺らめいた。
「今度のお彼岸にゃあ、皆で来るからよ」
それだけ告げ、雲山は、お燐タクシーへと戻る為、踵を返した。

「もう、良いですか、爺ィ?」
「おい、燐、爺ィ言うんじゃねぇ、親爺と言え、親爺と」
後部座席に戻った雲山から、鬱陶しい声が、お燐に掛る。
「分かったですよ、爺ィ」
分かってねぇじゃねぇか、とまだ酒が存分に残っている雲山の声である。
「まだ、呆けちゃねぇですね」
と、お燐はハンドルを握ったまま、けらけらと笑う。
「当たり前ぇよッ」
雲山の声は、まるで怒鳴っているかの様に、大きい。
別に、特別に不機嫌だとか、ましてや、お燐に怒っているとか、そう言う事では無い。
第六天に向かう内に、どんどんと雨脚は強まり、第五天を越えてからは、巨大な台風の様を呈していた。
ぎしぎしと、お燐の繰るタクシーも、鈍く錆び付いた様な悲鳴を上げ始めている。
もう、ばちばちと、容赦無く叩きつける雨の音に、声を張り上げ無ければ対抗出来ないのだ。
「――さぁ、燐。ここらで充分だ、もう引き返せ、これ以上進めば、おめえさんも無事にゃあ帰れなくなる」
「あたいは、大丈夫ですよ」
その言葉に、燐、と頑固な声が飛ぶ。
「おめえには、帰りを待ってる奴等がいるだろ。もしもの事があったら、俺ぁ、申し訳が立たんのよ、帰って、元気な顔を見せてやんな」
ぽふん、と大きなその手を、お燐の肩に置く。
「――爺ィ」
「そんな悲壮感漂わせた眼で見んじゃねぇよ、何の取り柄もねぇ俺だけどよ、身体だけは丈夫に出来てるからよ」
と、豪快に雲山は笑った。
「どうだ、燐、無事に戻ったら、俺の嫁にならねぇか」
「そりゃ、謹んでお断り申し上げるですよ」
お燐の即答に、かっはっは、と唾を四方八方に飛ばしながら、雲山はさらに笑った。
「ありがとよ、これで綺麗さっぱり、未練無く行けるってもんだ」
そう言うと、雲山は短パンのポケットに入っていた、なけなしのお金を取り出して、お燐へと渡した。
「足りねぇ分は、霖之助に貰ってくれ」
「――お代は、結構でございますよ」
タクシーを降りようとしていた雲山は、少しだけ振り返った。
「あん、今日はやけに優しいじゃねぇか」
「勘違ぇするじゃねぇです、後払いで結構です、って意味です」
「そうかい――」
つまらねぇ、未練を残してくれるじゃねぇか、と雲山は毒吐いた。
「無賃乗車は許さねぇですよ」
「おうよ」
そう応えると、雲山は、吹き荒れる嵐の中へと、その身を投じた。



第二天の結界に於いて、レミリアは隙間無く降り注ぐ、雨粒の弾丸に晒されていた。
彼女の皮膚に触れた場所から、焦げ出し、吸血鬼であるその身は気化を始めている。
この絶える事無き雨霰は、確実にレミリアの生命を削っていた。
この叩きつける雨がいつもの弾幕であれば、彼女にとっては避けるのは容易い事。
だが、この嵐は弾幕のそれでは、無い。
人工では無く、自然が本来備えている、凶暴な面が襲い掛っているのだ。
畢竟、この雨は、彼女にとって弾幕から美しさを取り払った、唾棄すべきものでしか無かった。
だが、レミリアは、この場を離れようとしなかった。
それどころか、身動き一つせずに、事の成り行きを、全て、その瞳に焼き付けようと、眼を見開いているのだ。
この場で、レミリアは何をしている訳では無い。
結界を張る訳では無いし、何か、具体的な指示を出している訳でも無いのだ。
だが、立ち尽くす、レミリアの姿が、皆を鼓舞し、士気を上げているのは、火を見るより明らかであった。
それが理解出来ているから、彼女は決して、その場を離れない、眼を離さないのだ。
それに外は、この嵐である、屋内ならまだしも、これでは吸血鬼である彼女に出来る事など無いのだ。
だが、だからと言って、己には出来る事が何も無いと絶望する程、彼女の器は小さくは無かった。
何よりも、これは誇るべき友の、家族の旅立ちの船出であるのだ。
それを、このレミリア・スカーレットが見送らず、誰が見送ると言うのだ。
しかし、彼女に襲い掛かる運命は、過酷であった。
この雨に耐えるだけで、精一杯であるのに、紅魔館から、わらわらとミノタウロス達が湧き出て来て、手薄なこの第二天に目を付けたのである。
その数が増える速度に、紅魔館に駆け付けた仲間だけでは、すでに対応出来なくなっていたのだ。
下から昇り来る、ミノタウロス達を侮蔑の表情で以って、睥睨し、迎える為に、レミリアは、その象徴たる翼を広げた。
だが、突き射す様な、雨に晒され、瞬く間に翼に穴が穿たれて行く。
「――この程度か、レミリア・スカーレット。私は、この程度の運命に屈するのか」
きつく拳を握りしめ、その声を天に張り上げる。
「家族の船出である、誰にも邪魔はさせぬッ」
宣言と共に、ミノタウロスの群れにレミリアは突っ込んだ。
だが、翼に穴が開いた事により、酷くバランスの悪い対空姿勢となり、その隙をついて、ミノタウロス達は一斉に襲い掛かる。
生まれ持った天性の戦闘センスと、吸血鬼の身体能力で、何とか迎撃するのだが、この天候がミノタウロスに味方している以上、彼女が追い詰められるのに、然程の時間は掛らなかった。
そして、致命的な一撃がミノタウロスから振り下ろされると同時に、雨に晒されたレミリアの翼は、その意味を失った。
墜落し、レミリアは無様に、地べたに転がった。
雨に溶かされた、泥が容赦無く、彼女の口の中へと入り、酷く噎せる。
――こんな惨めな感触は、私が最初に起こした異変以来だなと、苦笑いを浮かべて顔を上げれば、追撃のミノタウロスは、もうすぐそこにまで迫っている。
「運命に行き詰まった時は、初心に還る事も悪く無い――」
そう言えば咲夜の奴も、泥だらけだったな、とレミリアは愉快そうに笑う。
「やはり、似た者どうしかもな、パチェ」
その台詞を引き摺ったまま、レミリアはミノタウロスを迎え撃つ。
その腕を、無慈悲な魔槍と化して、次々とミノタウロスを貫いていくが、やはり、再生が早く、追い撃ちを掛ける様に、さらに雨の勢いは増して行く。
ミノタウロスの構えた斧が、徐々に、レミリアに掠り始め、やがて、その肩口に喰い込んだ。
「――実に、呪わしい雨だ、いや呪わしいのは、この身体か」
自嘲気味な笑みは、彼女に刻まれた痛みを孕んでいた。
その痛みを振り払う様な、勇ましい音がレミリアの耳に飛び込んで来たのは、喰い込んでいた斧で向かい来るミノタウロスを粉砕し、そのミノタウロスが再生した時であった。

ばらららら、と勇ましい声を挙げて、東の空から姿を現したのは、一機のプロペラ戦闘機。
第二天への援軍の到着である。
操縦桿を握っているのは、河城にとり、その後ろで機関銃を握っているのは天魔だ。
轟音と共に、天魔の手に在る銃が、火を噴いた。
レミリアに襲い掛かっていたミノタウロス目掛けての、一斉掃射。
群れていたミノタウロスを次々と、撃ち抜いて行く。
不様なダンスを踊ると、糸の切れた人形の様に、ミノタウロス達は次々と倒れていく。
「ほう、この天魔と幻想郷の制空権を奪い合おうってのかい、いい度胸だよッ!」
にとりの操縦するプロペラ機目掛けて、ミノタウロス達は飛び込んで行く。
だが、天魔は器用に、かつ豪快に機関銃を繰って、それらを撃ち落とす。
だらららら、と次々に薬莢が吐き出されて行く。
誤って天魔が振り落とされぬ様に、にとりは細心の注意を払いながらも、大胆に進路を取る。
そして、そのまま突っ込み、かなり低空、レミリアのすぐ上を過ぎて、旋回し、すぐに向き直った。
下ろしたゴーグルの奥で、笑う天魔の顔を、レミリアは確かに見た。
「さぁ、どけどけどけどけェッ、婆ァだと思って甘く見ると、火傷じゃ済まないよッ」
そう叫ぶと、天魔は開いた傘を、パラシュートよろしく広げ、プロペラ機から飛び降りた。
着地とほぼ同時、爆炎が紅魔館の庭に立ち昇る。
天魔が手にした手榴弾を、ミノタウロス達目掛けてばら撒いているのだ。
激しい爆音と共に、あちこちで、火柱が上がり、抉られた地面が、次々と天に放り出される。
その間を器用に縫って、天魔はレミリアを救い出すべく、彼女の元へと一心に駆け出している。
天魔が進む道を拓く様に、プロペラ機からは、器用に狙いを定めた援護射撃を、にとりが行っている。
手持ちの手榴弾が底をついたのか、天魔は大振りで武骨なナイフに持ち替えていた。
戦場に放たれた一匹の獣、戦場に吹く一陣の黒き風。
ナイフを構え、黒のコートを、吹き荒ぶ風に任せ疾駆する、彼女の姿は正にそれであった。
群れを成し、襲い来るミノタウロスの頸動脈を、寸分の違いも無く、まるで滑らす様に、裂いて進む。
――その姿を、レミリアは戦慄と共に込み上げてくる、懐かしさと共に眺めていた。
天魔からレミリアへ、レミリアから咲夜へと連綿と受け継がれる、そのナイフ捌きである。
――そう、あの日も、この婆さんは、こうだった。
レミリアが時に畏怖し、時に憎しみ、時に憧れ、追い続けて来た、その姿がそこに在った。
ばしゃッ、ばしゃッ、牛乳となり、次々と屠られるミノタウロスは、地面に溜まった泥水と合わさり、何故か再生を始めない。
一度も振り返る事無く、駈けて来た天魔は、レミリアへと辿り着く。
レミリアの眼前で散ったミノタウロスの後ろから、にっ、と笑う顔が覗いた。
「相変わらず、無茶する子だねぇ」
呆れた様な声である。
「こんな雨に濡れちゃァ、身体に毒だ」
そう告げると、天魔は携えた傘を、レミリアへと差し出した。
「済まないな」
「おやおや、今度は素直に受け取ってくれるんだねぇ」
と、天魔は大袈裟に、驚いたと言った表情を作る。
「――あの頃より少しは、私も大人になっただろう」
「あぁ、素敵なレディになったねッ」
レミリアの顔に張り付いた泥を、愛おしそうに、そっと天魔は拭う。
そして、再び迫り来るミノタウロスから、レミリアを守る様に、そのコートを広げ立ち塞がった。
「レミリア――」
「なんだ」
「あんたが、この作戦の精神的支柱だ、そこに大人しく立って、堂々と観ているんだ」
「あぁ」
「フランと、喧嘩すんじゃないよ、これからも仲良くね」
「あぁ」
――それから、と天魔は付け加えた。
「あんま無茶して、風邪、引くんじゃないよッ」
そう告げると、
「婆ァ、忘れもんだッ」
と、上空からにとりが、アタッシュケースを放り投げる。
天魔は受け取ったアタッシュケースから、二丁のリボルバーを取り出すと、構えた。
にっ、と雨に張り付いた髪を払い、皺苦茶な笑顔を一つ残すと、天魔は再び駆け出した。
眼にも止まらぬ射撃と、装填速度で、正確無比に、ミノタウロスの額を撃ち抜いて行く。
霖之助によって、対牛乳幻想を付加された弾丸は、容赦無くミノタウロスを葬り、再生を許さない。

「――レミリアお嬢様ッ」
紅魔館から飛び出して来たミノタウロスを追って、咲夜達が駆け付けて来る。
「そっちは、もう大丈夫なのか」
はいッ、と咲夜は応えた。
「中のミノタウロスは大方片付けました。後はこっちに取りこぼした奴らだけ、です」
続けてレミリアに告げた。
「そうか、手数を掛けた、すまぬな」
「それより、お嬢様、大丈夫ですかッ」
と、咲夜は、泥だらけのレミリアの惨状に、狼狽している。
「私は大丈夫だ、これしき何でも無い」
「じゃあ、あたい達は、あの婆さんの加勢に向かうよッ」
ぷっと、銜えた煙管を吹かす小町に、その必要は無い、とレミリアは告げた。
「えっ――」
差した傘の下で、レミリアは薄く笑うと、見てみろと、視線で咲夜や小町達に告げる。
そのレミリアの視線を追った先に、築き上げたミノタウロスの亡骸の上で、凛と立ち尽くす天魔の背中。
握られた二丁のリボルバーからはまだ、硝煙が燻り、コートが風にはためいている。
「何者なのですか、あのお婆さん、は――」

「我、この世の大魔縁と謳われし、天魔也――」
骸の上から、そう告げた天魔に向けて、残っていたミノタウロス達は一斉に、斧を投擲した。
全方位からの、慈悲無きそれは、当然弾幕と呼べる代物では無い。
避けるべき隙間など、どこにも無いのだ。
だが、不敵な笑みを浮かべたまま、天魔は動かない。
まるで、それらが、決して己の元へと届く事が無いと、確信しているかの様に。
そして、その確信は、現実に成る。
天魔のいる、遥か上空から、フライパンの群れが降り注いだ。
そのフライパンの嵐が天魔を守る盾となり、向い来る斧を全て払い落したのだ。
「ぐ、ぐぬぬ、お、重い」
「情けない声出すんじゃないよ、ほらッ玄爺ッ、気合い入れな、こんなんじゃ、霊夢の奴に笑われちまうよッ!」
よろよろと、亀に乗って、天魔の元へと飛んで来たのは、食堂のおばちゃんだ。
「長生きをしてみるものだな、まさか、また、お前とこうして肩を並べて戦う事になるとは、な」
愉快だと、込み上げて来る笑いを噛み締めながら、天魔は告げる。
「お互いに、あの頃の様に、縦横無尽に空を舞うって訳には行かないけどね」
巫女衣装から、大分はみ出した、お腹回りの贅肉を摘まみながら、食堂のおばちゃんは応える。
「その自由奔放な性格は変わってない様だな、――」
「やめとくれ、もうあたしは博麗の巫女じゃ無い、今はただの食堂のおばちゃんさ」
「よく言う」
――なら、その衣装は何だと、天魔は思いっきり笑った。
「可愛い幻想郷の子供達の為に人肌脱ぎましょうってんだ、心を鼓舞する為の概念的な何かさ、あんただって同じだろうに」
「ん?」
と、天魔は僅かに首を傾げた。
「その死ぬ死ぬ詐欺は、自分を追い詰めて限界以上の力を引き出そうっつう、概念的な何かだろう? 違うかい?」
「――何だい、バレちまってたかい」
上手くやったつもりだったんだけどね、と天魔は苦笑した。
「当たり前でしょう、あたしとあんた、何百年来の付き合いだと思ってるんだい、若い子達は騙せても、このあたしゃあ、騙せないよッ」
それに、と食堂のおばちゃんは続ける。
「毎日毎晩、あたしの手料理を配達してやってるんだ、健康に決まってるじゃ無いか」
「最近、少し全体的に味気無いぞ」
「煩いねぇ、いろいろ栄養のバランス考えてやってるんだい、文句言うんじゃないよッ」
「文句じゃないさ、偶には、面と向かって食事でもしようと、そう言ってるんだよ」
「そうかい、そうだねぇ、それも悪く無いねぇ、なら――」
食堂のおばちゃんの声と共に、天魔はミノタウロスの群れに向き直る。
「さっさと、終わらさないと」
かつての幻想郷の暴れ馬と、かつての博麗の巫女の姿は今以って、並べば壮観であった。
そして、その姿に怯え一つ見せず対峙するミノタウロス達もまた、見事であった。
群れの奥から、巨大な斧を構え、のそりと姿を表した、赤いミノタウロス。
その存在が、ミノタウロス達を奮い立たせ、士気を上げているのだ。
「さぁ、来たよ、あの赤いのが、あいつ等の頭だッ」
「加減出来ないからね、怪我しない様に、首引っ込めてなよ、玄爺ッ」
その声に、慌てて、玄爺は頭を甲羅の中に仕舞う。
それを見届けると、食堂のおばちゃんは、今までよりも、大振りなフライパンを取り出し、構えた。
「昔の様にやるよ、忘れちゃないだろうッ」
素早く弾を装填すると、二丁のリボルバーをミノタウロスの群れに向け、天魔は続ける。
「弾幕は私が張ってやる、雑魚は気にせず、突っ込みなッ!」
その台詞が終わる前に、食堂のおばちゃんを乗せた玄爺は、とっくに飛び出している。
天魔の張る弾丸の嵐を背に、食堂のおばちゃんは、赤いミノタウロス目掛けて、さらに加速した。

「悪夢、ですわ――」
畏怖よりも、呆けが前に出た、咲夜の言葉である。
そう零す間にも、天魔から放たれた弾丸は、次々にミノタウロスを滅して行く。
「悪夢過ぎだろう」
火を点けた煙管を吸う事すら忘れ、小町は、食堂のおばちゃんが巨大なフライパンを振り回し、赤いミノタウロスを追い詰める様を、開けた口を閉じる事無く見ている。
「何なのですか、あのお婆さん達は?」
咲夜は、その様子から目を離す事無く、レミリアに問い掛ける。
「――かつて、私が幻想郷に来てすぐに起こした異変を解決したのが、あの婆さん達さ」
彼女達が、と咲夜は目を丸くし応えた。
「そうさ、この私の人生に、初めて敗北と言うものを刻みこんだ、憎き婆ァ共、だ」
と、レミリアに在るのは、満面の笑みである。
「あの二人は、今の魔理沙と、霊夢の様な関係だったな」
「――そうだったのですか、私はてっきり、紫さん辺りがお嬢様を抑えたのだと、そう思っておりました」
紫が? そんな訳ないだろうと、口を尖らせてレミリアは反論した。
「私は、紫の奴に負けた事など、一度も無い。何故なら、ちゃんと戦った事も無いからな」
「そう、なんですか?」
そうに決まってるだろ、と不服そうなレミリアの声である。
「あの女は、意気揚揚と幻想郷に来て、無様に敗北した私を慰め、のらりくらりと言い包め、お互いに損の無い様に、気付けば変な条約を結ばされていた、と言う訳だ、それにあいつも私がここに来た頃は、まだ可愛らしい少女だったぞ――」
昔日を想う、そんな哀愁を漂わせる、レミリアの表情。
「まぁ、これから幻想郷でどうするか、と身の振り方などは紫に世話になったのは間違いないがな」
「じゃあ、紫さんは、お姉さんと言ったところでしょうか?」
――そうだな、と八重歯の様な牙を、見せてレミリアは笑った。
「そうだったんですね、お嬢様がかつて起こした異変の事、詳しく知らなかったので、何だか不思議な感じです」
「そして、お前が起こした異変を、今度は私が解決したと言う訳だ」
「そうですね、コテンパンにやられましたわ」
返って来たのは、咲夜の飾る事無い、苦笑である。
「時代や世代が代わっても、あまり歴史の中身自体は変わら無いのかも知れないな」
そう言って、レミリアは咲夜の身に付けているコートを指差す。
「それだって、あの婆さんのコートだ。意志は繋がり、絆はこの先も紡がれるのだろう、幻想郷と言う家族の元で」
その為に、とレミリアは今までよりも落ち着いた声で告げた。
「もう少し、頑張らなければならない。幻想郷に於ける強さとは、君臨するものでは無く、包み込む優しさだと教えてくれた、あの婆さん達の為にも、な」
そう言って、託された傘を大事そうに、ぎゅっと、レミリアは握り直した。
その視線の先に、力強いハイタッチを交わす、天魔と食堂のおばちゃんの姿が映った。



幻想郷の遥か上空。
人の身で到達する事は、決して叶わず、妖怪の身を以ってなお、到達は叶わない、まったく次元の違う、別の幻想。
――そう、ここは第六天。
何人も存在する事を許されぬ、絶対の禁足地である。
だが、空である事に変わりは無い、人で駄目なら、妖怪で駄目なら、生命持たぬ身で参れば良いだけ。
そう、この幻想郷には、空に浮かぶ船があるのだ。
仏の加護を身に纏った、実に徳の高い、その船が。
第六天に於いて、パチュリーの魂を迎え、結界を張るのは〈聖輦船〉を於いて、他に無し。
「――来ましたよッ」
舵を握る村紗に、星が緊張を孕んだ声を掛ける。
「わ、分かってる――」
応えた村紗の声は、降り注ぐ雨の音に掻き消された。
「村紗、船が傾いていますッ、持ち直して下さいッ」
顔に貼り付く髪に構う事無く、白蓮も悲鳴の様な声を張り上げている。
そう第六天に至り、すでに台風並みの豪雨は、雷鳴を伴う、神の怒りそのものと化していた。
ばちりばちり、と硬質な音を伴って、雨粒が矢の様に甲板に打ち付けている。
さらに荒れ狂う風に晒されて、彼女達を乗せた船は傾き、こうして浮いていると言うのが、最早限度であった。
この船は白蓮の法力で浮いてと言って、この様な状況を想定し、建造された訳では無い。
ましてや、第六天などと言う、常識外れの空など、以ての外である。
しかも、もう、このすぐ上は月に繋がっているのだ、気を抜けばすぐにでも引っ張られてしまう、それだけで充分馬鹿げていると言うのに、この暴風雨である。
封獣ぬえの協力で、彼女の莫大な妖力を疑似動力〈ねえンジン〉と化し、船に積み、何とか騙し騙し、ここまでやって来たのだ。
だが、それも、もうとっくに限界であるのは、誰もが理解していた。
「ぬぇぇんッ」
と言う悲惨な声と共に、エンジンの積まれている、船尾からは黒煙が上がっているのだ。
もう簡単に目視で確認出来る程に、それはもう見事に煙を吹いている。
「危ない、掴まってくれ、皆ッ!」
悲痛な村紗の声が掛かると同時に、巨大な突風が船の中を駆け抜けて行った。
反応が僅か遅れ、その衝撃を正面から受けた、ナズーリンが吹き飛ばされ、船から振り落とされそうになる。
それを何とか、星が掴んで引き込む。
「だ、大丈夫ですか、ナズッ」
すでに、長い時間、雨に晒された事で、皆体力を奪われているのだ、星も呼吸が乱れている。
「ご、ご主人」
「いくら私だって、貴女だけは失くしませんよ」
放り出され、本当に怖かったのだろう、ぐっとしがみ付くナズーリンを優しく抱きとめながら、星が告げる。
船の下には、乱れた気流が渦を巻いて、落ちて来たものを容赦無く喰らってやろうと、大口を開けて笑っているかの様である。
空を飛べる程度ではどうにもならない、だから、この船こそが、彼女達の生命線なのだ。
だが、それでどうなると言うものでも無い、船は未だ傾いたままなのだ。
ひと際大きな、稲光が灯ったかと思うと、劈く様な雷鳴が響き渡った。
そして、さらに大きな衝撃が、船を襲う。
振り落とされまいと、皆は何とか踏ん張る。
だが、動力室にでも雷が落ちたのか、甲板も含め、船内の明かりが一斉に落ちた。
もう互いの安否を確認するのは、声しか無く、それさえも雨と雷の音に掻き消されると言う、最悪の状況に〈聖輦船〉は放り込まれていた。
時折明滅する、白い雷の明かりだけが、場面を切り取ったかの様に、気紛れに船内の様子を写す。
互いに、互いを探しながら、声を掛けながら、這ったまま船内を進む。
最早、自ら意志を持った様に暴れまわる舵を、必死に抑えながら村紗は何とか体制を立て直そうとする。
だが、次の落雷で、その希望は完全に潰えた。
めきめきと、船が呪詛とも、怨嗟とも言えぬ音を発したのだ。
それは、舵を握る村紗への、船からの糾弾でもあった。
がくん、と今まで以上に、船が傾き、このままでは時を置かずに沈没し、あの渦へと呑み込まれ、幻想郷の空の藻屑と消えるだろう。
「くッ――」
歯を噛み締めて、村紗は耐えるが、最早舵操作でどうにかなると言う次元を超えてしまっているのだから、どうし様も無い。
「どうしましたか、村紗ッ!」
白蓮が、すでに悲鳴となった、その声を張り上げる。
「竜骨がやられましたッ、聖ッ、船を放棄し、すぐにでも避難するべきですッ!」
そう、それは船の中心、船を支える、その部分が壊れたのだ。
――今、〈聖輦船〉は、大黒柱を失ったのだ。
そうであるから、村紗の提案は当然の事である。
船が崩れた以上、ここに残っても何も出来ないのだ、船が健全な状態でなければ、この第六天に於いては結界を張る事だって出来ない。
――だが、ここで、私達が諦めてしまっていいのか、という思いが皆の中に渦巻いていたのも事実だ。
必死に紡いで来た糸を、ここで私達が途切れさせて良いのか?
――良い、それが正解である。
パチュリーはきっと、そんな結果は望まない。
だから、すぐにでも逃げ出すべきであった。
だが、彼女達は動かなかった、逃げろと言った村紗にしたところで同じである。
仏に仕える身であるから、困っている人を見捨てられないとか、そう言った高尚な思いからの行動では無い。
彼女達にしたところで、何だかよく分かってはいないのだ。
でも、何故だか、ここで逃げ出してはいけない様な気がした。
逃げ出す必要など、どこにも無いではないかと、根拠の無い自信を浮かべている者だっていたのだ。
どうしても、逃げるのは嫌だった。
まだ戦える、まだ戦える筈だと、皆が思っていた。
「――私が、行こう」
その想いを、一番に表明したのは、今まで沈黙を守っていた一輪であった。
「おい、お前――」
「私が下に降りて、そこから船を支える、それで解決だろう」
村紗の言葉を強引に遮って、一輪は続ける。
「駄目です、そんな事をしては、貴女がッ」
星がそう、一輪を引きとめる。
「なら、どうしろと言うのだ、この状況を見てみろッ、他にもう、この状況を打破するには、誰かが砕け散った竜骨の代わりに船を支えるしか無いだろう、無事に生き延びて、結界も張るには、もうそれしか方法は無いんだよ、このままじゃ全員犬死だ、全滅だ、――神はサイコロを振らんぞッ」
それなら、私が、と一輪の言葉を否定する様に、白蓮が進み出る。
「私の方が、法力は在ります、だから生存の可能性は私の方が――」
馬鹿野郎、と一輪は白蓮を突き飛ばす。
「あんたがいなきゃ、この船は浮いてられんだろうがッ、それに結界はあんたが中心に張るんだ、役目を履き違えんじゃねぇッ!」
「い、一輪」
この役は、私のものだ、と眼光鋭く、一輪は叫んだ。
「私は、ぬえの様に可愛く無いし、ナズ公の様に探し物が得意な訳じゃ無い、星の様に毘沙門天様の加護が得られる訳でも無い、法力だって聖には劣る、そして村紗――」
お前の様に、船を繰る事だって出来やしねぇ、と村紗に向き直り、一輪は告げた。
「私には何もねぇ、聖の為にと、頑張って来たが、結局、聖の為にしてやれる事なんて、何もねぇんだ。だから、ずっと羨ましかったよ、お前達が。自分の出来る事で、この命蓮寺に貢献出来るお前らが。そんで、このもやもやした気持ちを、一番ぶつけ易いお前に、ぶつけてたって訳なんだよ、村紗――」
悪かったな、と一輪は寂しそうに笑った。
「ふざけんなよ、手前ぇ、何勝手に謝ってんだ、こら、謝られる筋なんてねぇだろうがッ、ふざけんじゃねぇぞ、こらッ」
村紗が、一輪の言葉に噛み付く。
「お前がいなくなったら、これから私ぁ、誰と喧嘩すれば良いッ、虫の居所が悪いときゃ、誰と殴りあえば良いッ! 手前ぇに出来る事なんて、山と在るだろうがッ」
「ありがとな、村紗、その言葉だけで、もう充分だ――」
言葉の余韻を引き摺って、進むべき道へと、一輪は向き直る。
「私はずっと、お前らが大嫌いだったよ、でもな、今じゃあ――」
――だけど、お前らに生きて欲しいと思う私がいる。
――だけど、お前らを助けたいと思う私がいる。
――だけど、お前らが堪らなく愛しいと思う私がいる。
――だから。
――さぁ、行こう、雲居一輪、この命を燃やすのだ。
――私には、皆の様に誇れる能力は無い。
――でも、見付けたのだ、誰にも負けないと胸を張れる事を。
――心の底から、偽る事無く、誇れる事が私にもあったのだ。
――だからこそ、私は、皆を支える大黒柱になれる、誰にも負けない、皆を守るその柱に。
「ぬえ、ナズ公、星、聖、そして村紗、――私は、お前らが大好きだって事じゃあ、誰にも負けんよッ」
――それに、親爺もな。
そう告げて、駆け出そうとする一輪を止めようと、皆は一斉に手を伸ばした。
だが、その手は、どれもが紙一重の差で、宙を切った。
ここからは、全ての場面が、スローモーションの様に映った。
皆の手を擦り抜けて、一輪は僅かの間、己の過去を反芻する様に目を瞑った。
「――ふざけんじゃねぇッ!」
村紗の声を背に、その言葉を追い風に、目を開き、一輪は駆け出した。
劈く様な雷鳴と共に、船のすぐ横を、一際強烈な雷が通り過ぎた。
その灯りに、一瞬、船内が照らされた。
明滅する白黒の順ぐりの所為で、まるで切り取られた静止画の様。
一輪の名を叫ぶ、村紗達の眼に、尻もちをついて倒れる一輪の姿が浮かんだ。
突然現れた何かにぶつかったかの様に、無様な倒れ方であった。
何が起きたのかと、確認する様に視線を上げた先にあったのは。
――背中。
――とても大きな、男の背中。
それが、一輪の進む道を阻む様に、聳えていた。
次の瞬間には、もう暗闇に戻り、それは消えていた。
それは雷の見せた、一瞬の幻であったかも知れない。
都合の良い夢であったかも知れない。
――だが、それは違うと、そう証明する様に、傾いていた船が、体勢を立て直し始めたのだ。
誰かが、支えているのだ、下から、この船を!
「――神は、サイコロを振った様ですよ」
そう言いながら、白蓮は、倒れていた一輪に、その手を差し伸べる。
「こうするのは、二度目ですね、一輪」
――三度目は、無しにして下さいね、と白蓮は暖かく笑った。
「聖――」
「馬鹿野郎、早く戻って来いッ」
と、村紗が叫んでいるのが、やっと一輪の耳に入った。
「さぁ、皆さん、振られたサイコロが、どの様な目を出すのか、見届けようではありませんか」
白蓮の声に、彼女達は輪となり、結界を展開する。
「いざ――」
南無三ッ、皆の声が轟く雷鳴を掻き消して、ひとつとなった。
第六天〈ステージ〉クリア!



赤いミノタウロスの出現に、すっかり怖じ気づき、抱き合いながら放心していたうどんげとてゐは、はっと、我に返った。
固い拳骨をもらい、気絶していた、永琳と紫の身体に、変化が現れたからだ。
二人の身体は徐々に、その姿を変じ、ミノタウロスに近づいていた。
この床に散ったミノタウロスの体液たる牛乳と、赤いミノタウロスが纏っていた瘴気の様なものが混ざり合って、空間ごと侵食を始めているのだ。
この手術室ごと、ミノタウロスと化そうと、汚染された空気が蠢き始めたのだ。
このまま、放っておけば、いずれ時を置かずして、二人はミノタウロスになってしまうだろう。
その証拠に、永琳と紫の胸は、もうホルスタインかと言わんばかりに膨らみ、ぷにぷにと触れれば、今にもはち切れそうである。
その事実に顔を見合わせた、うどんげとてゐは、さらに、その顔を引き攣らせる事となる。
互いの顔が、すでに徐々にだが、牛の様な形相に変化していたのだ。
「て、てゐ、貴女、耳が――」
「う、うどんげこそ」
互いに、声が尋常では無い程に、震えている。
どちらからとも無く、逃げなきゃと言う、呟きが漏れた。
のろのろと立ち上がると、やがて機敏な動きとなって、それぞれ、永琳と、紫を抱えて、急ぎ出る準備をする。
汚染されているのは、とりあえずは、この部屋だけである。
だから、今からこの部屋さえ出れば、何とかミノタウロス化は防げる筈である。
すっかり、逃げる準備をし、部屋を出ようとした、うどんげの瞳に、手術台で眠るパチュリーの姿が映った。
何故だかそれが、かつて月から逃げる時に見捨てて来た、仲間の姿と被った。
「何してんの、早くしないと牛になっちゃうよ、私達は誇り高き兎だろうッ」
紫を担いだ、てゐから、切羽詰まった声が発せられる。
「――ごめん、てゐ、私、行けない」
震えた声ではあった、だが、とても真っ直ぐな言葉であった。
「な、何言って――」
「私は、医者ですッ!」
真っ赤な眼が、てゐを捉えた。
「医者である以上、患者を見捨てる訳にはいかないッ」
そう言うと、うどんげは永琳を下ろして、てゐに託した。
「な、なら私だって」
「駄目ッ」
と、戻って来るてゐに、厳しい声で告げる。
「貴女は、お師匠と、紫さんを連れて、ここから一刻も早く去って。もし私が牛になったとしても、お師匠様さえ無事なら、何とかしてくれる。でも今、パチュリーさんには私しかいない、だから私が戦わなければならないッ!」
――お願い、てゐ、早く逃げて、とうどんげは声を荒げた。
わかったよ、と応えて、てゐは二人を背負った。
「牛なんかになったら、許さないから」
それだけ言うと、てゐは駆け出して行った。
それを見送り、うどんげは消毒済みの手袋を嵌めると、その手にメスを握った。
そして、パチュリーに巣食う、コーヒー牛乳を切除する為、向き直る。
――もう、逃げ出すのは止めなくちゃ。
――それで、今さら、私の罪が綺麗に消えるとは思わない。
――今さら、見捨てて来た仲間が、助かる訳では無い。
でも、無駄な事だとは思わない。
まだ、私はやり直せる筈だ。
ここでも逃げたら、もう私は、あの人の事を二度と師匠とは呼べない。
もう二度と、皆の家族として、この幻想郷の土を踏む事は出来ない。
そんなのは、絶対に嫌だ。
大丈夫、私にだって出来る筈だ。
咲夜さんだって、押し潰そうと迫る運命から逃げだし、足掻き、苦しみ、それでも舞戻って、今戦っている。
それは、素直に、凄いと思える。
思えたのなら、自分もそう生きて行きたい。
そうでなければ、嘘だ。
――もう、逃げるのはうんざりだ!
こんな私を、認めてくれたお師匠様が誇れる、私になる為に。
うどんげは、どこまでも正確に、牛乳を切り取って行く。
紫の境界サポート無しにも関わらず、パチュリーとコーヒー牛乳を隙間無く分けて行く。
彼女の潜在能力故か。
だが、その間にも、容赦無くうどんげの身体は、ミノタウロスに近づいて行く。
焦る気持ちを必死に抑え、うどんげは牛乳を取り除く。
だが、ミノタウロス化と言う現実との戦いをしながらの手術は、うどんげの集中力をどんどん剥いで行った。
それはやがて小さなミスを生み、それが新たな焦りとなって、やがて恐怖に呑まれ、それは手の震えとなって、うどんげに襲い掛かる。
それは当然の事ではあった。
彼女は今まで、一度とて、正面から物事と向き合った事など無いのだから。
そう言う場面が訪れる度、何かと理由を付けては逃げて来たのだ。
そのツケが回って来た、それだけの事だ。
もうコーヒー牛乳は殆ど取り除いた、あと少し、あと少し、それで終わる。
だが、そのあと少しが、とても遠い。
己の眼で確認出来る範囲が、ミノタウロスと化してからは、その焦りが加速し。
それに比例し、震えは大きくなるばかり。
あと少し、あと少し、己を鼓舞する為の言葉は、すでに呪いとなっていた。
震えが止めば、この震えさえ止めば。
切に願う程、その願望は遠退いた。
震えを抑え込もうと、メスを繰る手を休め、俯いた途端、張り詰めていた強い意思が、ぷつん、と音を立てて千切れた様な気がした。
――優曇華。
それは三千年に一度咲くと言われる、花の名前。
裸一貫で逃げ出して来た、私が最初に手に入れたもの。
お師匠様に貰った、大切な私の宝物。
三千年など、私には程遠い。
精々が、その十分の一程度しか生きていない私が、その花を咲かせるなど、所詮都合の良い事だったと言うのか。
――もう良くやった、私は良く戦ったよ。
――だから、もう逃げても良いんじゃない。
弱い自分の声が、頭の中に木霊する。
――逃げないよ、うん、絶対に逃げない。
強く変わった、私の声が、すぐに響き渡る。
ならば。
十分の一程度の、無様な花で良いではないか。
矮小なその花を、咲かせてやれ、うどんげ!
顔を上げ、再び、パチュリーと向かい合ったうどんげの背中に、温かいものが触れた。
「てゐ、貴女、何で――」
「さぁ、何でだろうね、こんな時、容赦無く逃げるってのが、私のキャラなんだけどねぇ」
うどんげが見たのは、どうしようもない、てゐの泣き顔である。
「あんたの眼に、すっかり狂わされちまったかねぇ」
震えた声で、てゐは応えた。
「そんなに、牛になって、早く逃げてッ」
そのうどんげの言葉通り、てゐの身体はすでに半分以上がミノタウロスに変化している。
「今まで、何千年も健康に気を使って生きて来て、今さら牛なんかにゃあ、なりたくないよ」
もうすっかり、輪郭を失った、涙交じりの言葉である。
「なら、早くッ」
「でもね、あんたは医者だと言う、なら、私は――」
詐欺師さ、と精一杯笑った様な表情を、てゐは作った。
「一流の詐欺師ってのはねぇ、恐怖で震える、己の心さえ騙すのさッ」
そう叫んで、きつく、ぎゅっと、うどんげの背中を抱き締めた。
ぴたり、不思議と、うどんげの震えが止まった。
一瞬浮かんだ、その光景は、まるで泥に塗れた花が咲いた様であった。



多々良小傘は、相棒の唐傘をぶんぶんと振り回し、ミノタウロス達と対峙していた。
ここは、紅魔館の裏に設けられた花園である。
打ち上げの舞台が、紅魔館の中庭に設定されている以上、この場所が、皆の死角になると踏んで、見事その読みは的中していた。
幽香に付いて、何度もここへは花の具合を確かめに赴いているので、紅魔館とどう言う位置関係にあるのか、小傘は把握していたのだ。
多少なりとも、知恵を付けたミノタウロスは、裏を欠く為に、必ず、この場所を通るだろうと、先回りし、構えていたのだ。
だが、的中したのは、そこまでであった。
まだまだ、わっちは半人前、ここらで影となり獅子奮迅の活躍をして名を上げようと、少しは思っていた。
これで幽香姐さんも、わっちを見る眼が変わるだろうと、そんな甘い憶測も交じったりしていた。
しかし何よりも、小傘が思っていたのは、ここをわっちが抑えて、パチュリーさんの魂と言う花を絶対に咲かせて上げたいと言う事であった。
その為には、一人でも多く、自動販売機の元へと駆け付けてもらいたいのだ。
「幽香姐さんは、ちゃんと向かったでありんしょうか」
だが、どうにかなると考えていたミノタウロスの実力は、完全に小傘の想像を越えていたのである。
かなり、手強いのだ。
なるほど、弾幕の無い戦いでは、わっちはまだまだ、こんなもんでありんすか、と意外に冷静ではあった。
そう、何故だか、小傘は楽しかったのだ。
理由は分からぬが、何だか、とても愉快だったのである、この戦いが。
それは、もしかしたら、ミノタウロス達も楽しそうにしているからかもしれなかった。
その証拠に、さっさと私など、倒し、踏み越え、自動販売機の元へと向かえば良いのである。
だが、そうはしない、遊んでいるのだ。
わっちと戦う事を、そう小傘は感じ取っていた。
弄んでいると、そう言う感じでは無い。
新しい遊びを覚えた、子供の様に、ただ無邪気に戯れているだけの様な気がした。
ミノタウロスが力任せに、薙いだ斧の柄が、小傘に炸裂し、その軽い身体は簡単に吹き飛ぶ。
そう、きっとこのまま倒れていれば、この遊びは終わる。
終われば、この場を後にして、ミノタウロスは自動販売機へと向かうのだろう。
――だけど、それは惜しい様な気がしたのだ。
――とても残念そうな、ミノタウロスの顔が浮かんだのだ。
だから、相棒を杖に、小傘は立ち上がる。
「よござんす、よござんすよ、何度でも立ち上がりんしょ、ぬし達が望むならッ」
その姿を確認し、嬉しそうに突進するミノタウロス。
咆哮を上げながら向って来る、ミノタウロスの心臓目掛けて、鋭利に変化した相棒を突き射す。
刺さった場所から、ばしゃんばしゃん、と牛乳と化し、飛び散った。
「黙って、やられる訳には、いかんでありんすがねぇ」
ぺろり、とその紅い舌を出して、微笑む。
雨に濡れた、その顔の、何と綺麗な事。
だが、その表情は、別たれた、もう一匹の赤いミノタウロスの登場と共に、消し飛んだ。
――そう、小傘は知っていた。
――圧倒的な強さを持つ者は、常に笑顔なのだと。
現れた赤いミノタウロスは、確かに笑い、そして、わっちの顔は今、確かに引き攣っているのだろうと、確信出来る程に、その実力差は深い。
こうして対峙しているのが、やっとである。
何と強靭な牛乳圧であろうか。
斧を構え、暴風の様な、乱舞が小傘に襲い掛かった。
それを受ける度に、小傘の相棒が痛々しい悲鳴を上げる。
それに一瞬気を取られた隙に、唐傘は払い飛ばされ、小傘の手を離れてしまった。
圧倒的な力の差に、あっと言う間に、小傘は追い詰められたのだ。
じりじりと距離を縮める赤いミノタウロスから、何とか距離は保とうと後ずさる、小傘。
だが、その後退は、背中が紅魔館の壁に触れ、途絶えた。
逃げ場を失った小傘に、止めの一撃を見舞おうと、赤いミノタウロスの斧が、空気を引き裂く音を引き攣れて、振り下ろされた。
と、同時に、
――小傘の後ろに聳える壁が崩れ、姿を現したのは、もう見飽きる程に見て来た、一振りの日傘であった。
その日傘は、振り下ろされた斧を、簡単に弾いてみせた。
華やかな瘴気を纏った、誇り高き花が、凛と、雨に咲いていたのだ。
「派手にやられたねぇ、小傘――」
「幽香、姐さん」
「まぁ、この私に皿洗いさせた、報いだねぇ」
赤いミノタウロスから、目を離さずに告げる。
そのまま、そっと小傘の肩を叩くと、幽香は続けた。
「でも、その傷は確かにあんたの血となり肉となるよ、この先、己の道に迷った時、背中を押してくれるものさ」
――だから、存分に誇りな、と言った、幽香の声は愉快そうに弾んでいた。
その言葉に応える様に、ずい、と傷だらけの身体を推して、小傘は進み出た。
「わっちには、まだまだ勿体のぉ、お言葉でありんすよ」
そう言って、小傘は再び、相棒を拾い直し、構える。
「姐さんは自動販売機に向かって下さいな、パチュリーさんの花を咲かせる為にッ」
「愛弟子をここで、終わらせる訳にはいかんだろう」
「それでも――」
そう、あの赤いミノタウロスと、自分の実力の差を考えれば、どう転がったとしても、勝てはしないだろう。
――それでも。
「多少の時間は稼げるでありんす、パチュリーのさんの花を咲かせるぐらいの時間は稼いでみせるでござんすッ、だから、姐さんは早く、その花を咲かす為に、行って下さいましッ!」
「強情だねぇ」
はぁ、と幽香は、大袈裟に溜息を吐いて見せた。
「お前にしたところで、この場を離れるのが、心残りなんだろう?」
小傘は、眼で頷いた。
「惜しいねぇ、小傘。そこまで分かっていながら、何で、この私も同じ気持ちになっているんだと理解出来ないんだい、あんたの自慢の師匠だろう――」
まぁ、それが理解出来れば、もう幻想郷の花を咲かす、免許皆伝なんだけどね、と幽香は言った。
「大丈夫、安心しな、パチュリーの花は、もう放っておいたって勝手に咲くさ。幻想郷中の名立たる面子が揃ってるんだ、これで咲かない訳が無いだろう」
確信に満ちた、張りのある幽香の声。
「――でも」
と、小傘は、芽生えた何とも言えぬ気持に、上手く答えを当て嵌める事が出来ず、幽香に喰い下がる事で、何とか、その答えを見出そうとしていた。
「私達が、咲かせてやりゃなぁ、いけない花は、ここに在るのさ」
そう言って、幽香は日傘を、赤いミノタウロスに向けた。
「結局、こんな風になっちまったけどね、もっと別の出逢い方をしてれば、このミノタウロスにしたところで、この幻想郷の一員になっていた筈さ。私達の新しい家族にね」
――でも、自動販売機を、パチュリーの生き様を受け入れると、決めちまった以上、こいつらは幻想郷で存在する事を許されはしないのさ、と少し苦い声音。
「幻想郷は全てを受け入れると言ったところで、こう言う場面に出くわせば、絶対に弾かれる存在は生まれる、でも、だからこそ――」
だからこそ、私達がいるのさ、と溢れんばかりの誇りを湛えて、幽香は告げた。
「姐さん」
「こいつらはね、訳の分からぬ内に生まれて、訳の分からぬ内に死んで行く」
その幽香の言葉に、揺らぎは無い。
故に、一片の慈悲も無い。
その証拠に、先程まで、小傘に向けていた笑みが、赤いミノタウロスからは消え、幽香には、満面の笑みが浮かんでいるでは無いか。
訳の分からぬ内に死んで行く、その幽香の言葉は、既に避ける事の出来ない運命であり、それを幽香は確信し、赤いミノタウロスは受け入れているのだ。
「ならば、生命の集大成である死の瞬間に於いて、でっかい花を咲かさせてやろうじゃ無いか、私達からの餞さッ」
赤いミノタウロスに向けていた日傘を、さっと振るうと、そのまま己の肩に乗せる。
さぁ、掛って来なと、前に出した手をくいッくいッ、と優雅に動かす。
「手加減なんていらないよ、全力でおいでッ、全身全霊を以って、その命を燃やしなッ、あんたらの花は、この風見幽香が、きっちり咲かせてやるッ!」
――咆哮。
誰に憚る事無き、歓喜の咆哮。
雄叫びを上げながら、涙を流す、赤いミノタウロスの姿に、小傘は、ひとつの答えを見た様な気がした。
流した涙を拭う事もせず、赤いミノタウロスはぎゅっと柄を握り、斧を構える。
そして、そのまま、幽香の笑顔に魅了された様に、じっとその顔を見詰める。
「――姐さん」
「何だい――」
淑とした視線を赤いミノタウロスに向けたまま、幽香も応える。
「わっちゃあ、幽香姐さんに惚れて、ほんによかったでありんすッ!」
「そうかい、しっかり、見ておきな、瞬きすんじゃないよッ」
「あいッ!」
小傘の返事に満足そうに頷くと、幽香は駆け出した。
「花を咲かせるのは、いつだって、この私さッ」
幽香の言葉に応える為、赤いミノタウロスも駆け出した。
共に駆け出した二人は、その誇りを刃に、今交らせた。



〈聖輦船〉から、第六天突破の通信が入った事で、下で結界を張っていた咲夜達から、一斉に歓声が上がった。
横になっていた絆創膏だらけのレミリアも、むくりと起き上がると、一緒に騒ごうとするのだが、看病をしている美鈴に止められた。
その喜びの声に追い風となる様に、また新たな報告が齎される。
咲夜達の前に姿を現したのは、パチュリーの牛乳除去手術にあたっていた、うどんげ達である。
「パチュリーさん、手術無事終わりました、牛乳は完全に体内から除去しましたッ」
うどんげは、それだけ告げると、てゐと共に倒れ込んだ。
抱き起こす為に、すぐに妖夢と、咲夜が駆け寄る。
「大丈夫か、それにしても良くやってくれた、ご苦労様」
と、咲夜はうどんげを、抱き締めた。
「――いえ、頑張れたのは咲夜さんのお陰です」
弱々しくも、力強い笑顔で、うどんげは応えた。
「紫様達は――」
てゐの看病をしながら、妖夢が顔を上げて、問うた。
その言葉に、そう言えばと、集っていた者達は辺りを見回した。
「――あの、お二人は」
涙の滲んだ、うどんげの声に、場は一瞬にして、静まり返った。
そして、再び、歓声に包まれたのだ。
心配された、その二人、紫と永琳が、扉を開けて、その姿を現したのだ。
互いに肩を貸し合って、よたよたと歩いて来るその姿が、今まで置かれていた状況の熾烈さを伝えていた。
「大丈夫か」
と、松葉杖片手に、よたよた駈け寄るレミリアに、大丈夫だと、共に親指を立てて応え、にっと笑って見せる。
「貴女も、酷い在り様」
そう言って、紫と永琳は笑った。
むすっとしたのもつかの間、レミリアもすぐに破顔した。
そして、状況は、と紫が誰にとも無く、問うた。
「すごい、巨乳になったな」
と、レミリアは呆れた様な表情で、二人に視線を這わせる。
「羨ましいかしら」
「いや、この身体にはアンバランスだからな」
そう応えたレミリアは、もう興味が無い様であった。
――その姿を眺めて、それで状況は、と再度紫は問うた。
「パチュリーは無事に、第六天を越えた、後は第七天を残すだけさ」
煙管に、新たな葉を詰めながら、小町が応えた。
もう昇った魂は、月に到達する目前、皆にも大分余裕が出てきた様であった。
「そう、上出来ね、後は月の裏側が開くのは僅かな時間だけ、咲夜、爆発を加速させる準備に入って頂戴」
「――はい」
と、紫の言葉に、咲夜は頷いた。
そして、レミリアの前に進み出ると、膝を付いて、咲夜は厳かに告げた。
「お嬢様、私はパチュリーと共に、行こうと思います」
その台詞に、誰もが眼を見開いた。
ただ、レミリアだけが、そうか、と静かに応えた。
「こうなった、責任を取るだとか、そんな馬鹿な事を考えているのでは無いな」
「はい」
跪いたまま、咲夜はたんたんと、その意志を伝える。
「咲夜さん」
その意志に触れて、背中越しに美鈴が声を掛ける。
声を掛けたのは美鈴だけであるが、そうして咲夜を引き留めたいと思っているのは、彼女だけでは無かった。
ただ、ここで声を掛けるに相応しいのは、美鈴であろうと、それだけの事である。
「咲夜さんまで、そんな危険を冒す必要は無いです、そんな事パチュリーさんだって望みませんよ、それに無事、パチュリーさんが戻って来た時に、咲夜さんがいなかったら――」
「お前も、知っているだろう」
咲夜は、そう零した苦笑で、美鈴の言葉を遮った。
「パチュリーの奴、重度の方向音痴でな、紅魔館だけでもそうなのに、外の世界なんかに行った日にはどこに行くか分かったもんじゃ無い、幻想郷に帰って来るなんて、以ての外だ」
とても愛おしそうな、咲夜の声。
「だから、外の世界で迷子になっても良い様に、私が手を引いてやらないとな。それに右も左も分からない外の世界で、帰り路を探すなら、一人より二人だ」
少し戸惑いの表情を浮かべた後、美鈴は力一杯頷いた。
「私とパチュリーがいなくなったら、何かと初めは大変だろうが、お嬢様達を頼んだぞ、美鈴。今のお前なら、安心して任せられる」
――大丈夫、心配するな、すぐに帰ってくるさ。
俯く美鈴の肩を、そう言ってぽんと、優しく叩くと、咲夜は続ける。
「二人なら、例えどちらかが記憶を失っていたとしても、片方が覚えていれば、互いに導ける、確率はぐんと上がるさ」
はい、とぐしゃぐしゃに歪んだ顔を上げて、美鈴は告げた。
「お二人が戻る、その日まで、この紅美鈴が、紅魔館を守り切ってみせますッ」
帽子を脱いで、目を逸らす事無く、咲夜に言う。
「あぁ、頼んだぞ」
咲夜はそう応えて、その綺麗な赤い髪を撫でた。
その二人の姿を、少し辛そうに眺めながら、小町が口を開く。
「二人とも、記憶を失っていたら?」
煙を吐き出しながら、小町は問い掛ける。
また苦笑を漏らすと、咲夜は言った。
「その時は――」
「――その時は、私が迎えに行ってやるぜ」
咲夜の戸惑いを孕んだ声を引き取ったのは、白黒の魔法使い。
「魔理沙、お前」
その咲夜の言葉を無視して、魔理沙はトレードマークの黒い帽子を脱ぐと、咲夜へと無造作に放って渡した。
「迎えに行った時、お前らを見付ける目印に、貸しといてやるぜ」
「ありがとう」
そう応えて、咲夜は帽子を手に取ると、そこには〈げろげろすわっぴ〉が新たに縫い付けられていた。
先程、博麗神社であった時には無かったものだ、きっと急いで縫って来たのだろう、ところどころ解れているのが、器用なアリスが縫ったもので無い事を良く伝えていた。
「私のお気に入りだからな、帰って来たら、ちゃんと返すんだぜ」
「――プレゼントしてくれるんじゃ無かったのか」
「帰って来たらな」
ぶっきら棒に、魔理沙は応えるだけである。
「咲夜、煙草、一本貰えるか」
その台詞を受けて、咲夜は無言で煙草を差し出した。
魔理沙も無言で受け取ると、ミニ八卦炉を起動して、火を点け、深く吸い込んだ。
ゆっくり、静かに煙を吐き出すと、紫煙が魔理沙の周りに漂う。
「私、さっきは酷い事、言ってしまって」
「仲直りも、帰って来たらだ」
そうか、と咲夜は穏やかに笑った。
「じゃあな、どうせウスラトンカチなお前らの事だからな、自力じゃ帰ってこれねぇ」
――だから、今から、準備しといてやるぜ、少し滲んだ声で魔理沙は告げた。
そして、足早に去ろうとする、魔理沙に、咲夜は無言でハンカチを差し出した。
「いらねぇぜ、ちょっと煙が沁みただけだッ」
「――魔理沙が迎えに来てくれた時の目印に」
引っ手繰る様にハンカチを奪うと、駆ける様に、魔理沙は紅魔館を後にした。
その寂しげな背中を皆で見送ると、咲夜は紫に声を掛けた。
「お願いします、私の肉体と魂の境界を切り離して下さい」
パチュリーと一緒に、外の世界で転生を果たす確率を少しでも増やす為、共に爆発の軌道に乗る必要があるのだ。
「本当に良いのね、と訊ねたところで、返ってくる答えはもう決まってるわね」
紫は確かめる様に視線を向けると、その通りだと、咲夜の瞳には浮かんでいた。
「良いわ、行ってらっしゃい、必ず二人で帰って来るのよ。まぁ、パチュリーにも、私の力を少しばかり分け与えておいたから、何とかなるでしょう」
そう告げて、紫は肉体と魂の境界線を引く為の、式を練り込め始める。
その合間に、レミリアは咲夜の両手をとると、僅かの間、目を瞑り、握っていた。
「――お嬢様」
「うん、大丈夫だ、私達の運命はまだ終わらない。いずれまた、交差する事だろう、この場所でな、それがこの私の運命であり、咲夜、お前の運命だ」
眼を開けて、レミリアは言った。
「いつかまた、逢おう、この紅魔館で」
握っていた手を離して、レミリアは、万感の想いを込めて言い放った。
「――はい、それでは十六夜咲夜、行って参ります」
魂分離の為の、紫の式が発動し、パチュリーの魂に沿う様に、咲夜の魂は遥か、月の裏側を目指し、一心に昇って行った。



既に、運命を嘲笑うかの様に吹き荒れていた、嵐は収まり、新たな旅立ちの門出を祝う様に、凪いだ温く優しい空が、第七天には広がっていた。
その姿を堂々と表した、天に掛る、満天の月。
よもや、こんな近くで月を見る事になるとは、いくら幻想郷の住人だからと言って、驚かない訳が無い。
ここはもう、月天心。
それに、幾ら嵐が収まったところで、ここは第七天、幻想郷に於ける頂点と言っても良い場所である。
並の人妖どころか、力ある大妖でさえ、この距離では月の影響を受けてしまい、存在する事すら許されない、ここに至り、すでに境界の外である。
そして、また新たな境界の入口でもあるのだ。
ここは天であり、天では無く、幻想郷であり、幻想郷では無いのだ。
ならば、この場に結界を張るのは、彼女を於いて、他には無いだろう。
この幻想郷と外の世界を隔てる結界を張り、この幻想郷の空を、誰よりも高く飛ぶ事を許された彼女を於いて。
幻想郷を等しく愛し、見守る為に、遮るもの無く、空を飛べる程度の能力を持った彼女。
昇り行く、魂となった咲夜の先に、麗しの紅白が翻った。
「――やっぱり、こう言う結果になったわね」
「パチュリーの奴は?」
もう行ったわ、と霊夢は告げた。
「月の裏側の入口で、貴女を待つ様に言ってあるから、早く行ってあげなさい」
「なんでも、お見通しか、お前には敵わないな」
多分、苦笑したであろう、咲夜の声。
「当たり前でしょう、博麗の霊夢様よ」
何でも無いと言った、そんな調子である。
「これだからね、後片付けは嫌なのよ」
時折吹く、穏やかな風に、髪を靡かせながら、霊夢は続ける。
「なまじ宴が楽しかったものだから、その後の片づけは余計に寂しいのよ、私はそれが嫌いなの、分かる、片付ける者に、その寂しさは全部圧し掛かるのよ、重力を放棄出来る、私じゃなきゃ耐えられないわよ」
「済まなかったな」
「良い、咲夜、帰りは外の世界の博麗神社から帰って来るのよ」
「分かってる、忘れないよ」
――それは、別に忘れても良い、と霊夢は言った。
「何だ、それ」
「戻って来たら、私は貴女に、おかえりなさい、とそう言うわ」
そしたら――。
「あぁ、分かった――、だから、さよならは要らないな」
えぇ、と霊夢は微笑んだ。
「さぁ、お姫様が待ってるわ」
咲夜の魂の背を押す様に、玉串を振り、祝詞を上げ、霊夢は彼女を送り出した。
パチュリーを追って、咲夜の魂は、月の裏側へと加速して行った。
第七天〈エクストラステージ〉クリア!

「パチュリー」
「――咲夜」
触れられないのが、抱き締められないのが、何だかとても歯痒かった。
「何で来ちゃったのよ、って一応先に言わせて」
「あぁ」
「でも、凄く、心細かった、だから来てくれてありがとう、本当にありがとうッ」
「どう致しまして」
魂だって、涙を零すのだ。
「仮令、外の世界がどんな迷宮だったとしても、私達二人なら乗り越えられる、そして幻想郷に帰って見せる、私はお前を導くアリアドネだからな」
二人の魂は、きっと仲良く手を繋いで、月の裏側を通過した事だろう。
だからきっと、二人は仲良く、外の世界に転生を果たした事だろう。
それならば、二人が幻想郷に帰って来る日は、そう遠い日の事では無いだろう。

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