※キャラ崩壊がありありと出ております。苦手な方はご注意を。
――――夢を、観る。
浅く、淡く、白く。
少女が一人、歩いていた。
夢の中を、静かに、静かに。
金の髪を揺り動かして進んでいく。
森を越えて、湖を越えて。
躊躇いもなく、迷いもなく、行く。
そんな私と同じ姿の少女を見下ろすように見つめていた。
けれど、見ている物は彼女と同じ。
私は、彼女の主観を重ねて夢の世界を渡っていた。
……夢?
……ああ、そうか。
だから、こうして見ている風景は主観だけれど、私のもののように感じられないんだ。
私と同じ姿をした、私とは違うアリス。
彼女が見ている夢を追いかけているだけ。
じゃあ、この流れる風景は私が体験しているわけじゃない。
蜃気楼のような、幻想のような、偽物なんだろう。
……偽物。
上から見下ろすような、感情。
私らしくもない、冷めた、熱の無い感情で、風景は流動し続けていった。
…………。
……でも。
でも、偽物だったとしても……。
映像は私の心を……わずかに踊らせていた。
そうして、進む……。
進んでいく……。
やがて辿り着いたのは、紅いお屋敷の図書館。
彼女は重厚な扉を躊躇うこともなく、押し開けていった。
軋んだ音と共に扉の隙間が広がって室外からの光が内部を照らしだす。
うっすらと姿を現したのは、本棚の群れ。
すっかり見慣れた本の森は、きっちりと整列させられていて扉同様に重々しかった。
コツ。
そこに、足音がひとつ。
軽快な音が耳にとけて、そしてまた、コツ。
図書館の中に響き渡る足音は、消える間も無く響いては鼓膜を揺らす。
くすっ。
私が進むことで作られた音なのに、自分の中に戻ってくるなんて。
そんな風に思いながら、俯瞰から偽物を見つめていた。
コツ、コツコツ。
私の思いも気にせずに、彼女は前へとゆっくりと進んでいく。
反響する足音は数を増して、波のように広い空間へと振動していった。
けれど、振動は反響することもなく、ただただ広がって、吸い込まれるように消えていく。
後には、空間と同じようにほんのりとした暗さが残るだけだった。
広大な図書館はどこまで行っても静まり返っていて、ほんのりと暗いまま。
奥へ進めば進むほど、ランプの明かりだけが頼りになってしまっていた。
空間を覆う空気は、冷やされ、低く沈み、絨毯の上で息を潜めて流れているようだ。
そんな流れよりも早く、一定の足取りを保ったまま歩を進める。
迷ってしまいそうな本棚の間を進む様はなんともスムーズだ。
流れるように足音を引き連れて、そのまま、開けた空間へと辿り着いた。
そこは、なぜだか温かな光が満ちていた。
光源らしい物は見当たらず、あるのは長方形の長いテーブルがひとつだけ。
無機質な感じで置かれているけれど、他と違って柔らかな印象がそこにはあった。
無駄に大きなテーブルの各一辺に一つずつ設置された、計四つの椅子が、来客を待っているようにも見受けられる。
いや、正確には四つではなく三つ。
四つの椅子の内、一つはすでに薄紫色を着込んだ女性が座っていたのだ。
彼女は図書館の主で、その椅子が定位置。
いつもと変わらず、彼女はそこにいた。
違うと言えば、本を広げるでもなく、研究をするでもなく、ただただ粛々と座っているくらい。
いいえ、うつらうつらと頭を前後に揺らして。
くすっ。
偽者の私は…………たぶん笑ったんだろう。
視界の端がわずかに下がった。
うん、やっぱりそうだ。
温かな空気がそうさせるのかはわからないけれど、確かに偽者は柔らかく微笑んでいるようだった。
私もそんな感情に揺り動かされて、触れたいような、眺めていたいような感覚を覚えていた。
「よいしょ」
けれど、そんな感傷も束の間に、彼女は隣の席にあっさりと腰を下ろしてしまった。
目線がすとんと落下して、眠る彼女と一緒の高さへ。
今は伏せられているけれど、紫色のすっとした瞳がそこにはあった。
うつらうつら。
前髪が薄いカーテンのようにゆらり、ゆらり。
その奥には、羽のようにふんわりとしたまつ毛が閉じた瞳を柔らかく讃えていた。
夢でも観ているんだろうか。
彼女は眠る。
お姫様みたいになって、彼女は静かに眠っていた。
それは本当に、神秘に満ちたお姫様のようだった。
うつらうつら。
頭が揺れて、カーテンも揺り動く。
ゆっくりと瞳も体動を始めようとしていた。
けれど、それだけ。
お姫様はまだ眠りの中に囚われたまま。
くすくすっ。
アリスという少女は……いいえ。
……私は。
その様子を眺めて、再び笑みをこぼした。
花のように可愛らしく、凛とした美しさを湛えたお姫様。
言葉数は少ないし、行動も少ない。
けれど、そんな彼女の隣の席はなんとも……なんとも心地が良くって。
うつらうつら……。
頭が揺れる。
前へ、後ろへ。
揺り籠みたいになって、ゆったりと。
私の視界は、だんだんとまどろみを見せて、黒い幕が降りてきた。
空気みたいに、揺り籠みたいに、彼女みたいにゆったりとした闇。
それに包まれて、思う。
これは……夢……なんだと。
うつらうつら。
彼女の隣で。
…………うっすらと、私はもう一度、笑ったような気がした。
うつら……うつら。
…………。
――――夢を、みる。
浅く、淡く、白い……夢。
近くて、遠い、隣同士で、二人きりで。
言葉も無く、ただいるだけ。
私は…………。
私を夢に……残したまま…………揺り籠のように揺らめいていった…………。
◇ ◆ ◇ ◆
ポーンと小さく柱時計が鳴った。
続けて、ポーン。
静寂に包まれた広い図書館の中を振動していく。
ちょっと高音だけれど、その音はなんだか可愛い。
最近では小さな動物の鳴き声のように思えなくもない。
私は、その行く先を探すように目を向けていた。
小さな動物、なんて。
いつもと変わらずに鳴く時計にそんな風に思って、口元を緩めた。
ポーン。
最後にもう一度、時計は鳴いた。
もうすっかり聞き慣れた時報は、聞き慣れすぎて飽きてしまうくらい。
けれど、さっきので最後だと思うと、なんだか寂しい。
なんだかんだで、私は待ちわびているんだと、いつものように思わされた。
柱時計は口を閉ざすと、チクタク、チクタク。
いつもと変わりなく、気もなしに振り子を揺らし始めるだけだった。
……小さな動物、なんて。
そんなものは気のせい。
だって、それはただの時計で一定通り。動き出すなんてことは決してないんだから。
…………。
それはそうだけど、行動し始めるような不思議があっても、たまにはいいんじゃないかな、なんて思ってしまう。
私の思惑も知らずに、時計はチクタク。
同じように。
いつものように。
チクタク、チクタク。
――――カタン。
別の音が小さく混ざった。
長いテーブルの向かいに座っていた彼女が、いつものように椅子から立ち上がったのだ。
「……お茶にしましょうか」
薄い表情のまま、いつもの通りに。
時計が鳴り終わってから、彼女は必ずそう言う。
「ええ、お願いするわ、パチュリー」
だから私も、いつものように言葉を返した。
パチュリーは、軽く頷いて踵を返すと、図書館の奥へと歩を進め、
「――――あぁ、砂糖はいらないんでしょう?」
一歩を踏み出して首だけを向けた。
「ええ、大丈夫」
私はにこりと笑って返事をしてみせた。
彼女は確認したかしないか、そうして図書館の奥―――恐らく簡易のキッチンなんかがあるところへ、姿を消していった。
「…………」
あの時報は、私たちの動き出す合図のようだった。
約束もなく集まるのに、じっと鳴る音を待って、耳を傾けている。
待つ必要なんてどこにもないはずなのに。
けれど、それが無ければ、私たちは止まったままでいるに違いない。
そんな二人のやり取りは、微妙な距離を保ちつつ、日課のようにいつもと同じだった。
もう何年も変わりがないような錯覚さえする程だ。
「…………はぁ」
声もなくなった空間で、柱時計だけがぶらぶら揺れる。
それだけ。
それだけの、空間だった。
もう今日は、あの可笑しくも可愛らしい時報を聞くこともないだろう。
「……ふぅ」
再び短く息を吐き出して、そんな風に思った。
そもそも、時計の音なんてものを意識し始めたのは、どうしてだっただろうか。
二人でティータイムを始めてからだったのは確かだった気がしたけれど、どちらが言い出したのかも、はっきりと思い出せなかった。
ただ言えるのは、短針が後二つも進めば、私はいつものように帰らなければないということだ。
時を告げる柱時計は、私達に動き出すきっかけを与えてくれる。
それと同時に、今日という日の残り時間が少ないことを無言で押し迫ってもいるのだった。
「…………そんな決め事もないんだけどね」
今度は先程よりも、長い溜息が溢れでた。
決め事なんかない。
でもそれは、暗黙のルールのような、私達の不器用さというかなんというか。
今の二人の現状を表しているようだった。
決め事もできていないならば、進歩もなし。
私にとっても彼女にとっても、同じ魔法使いという同族の仲間に過ぎないのかもしれない。
…………あ、仲間と呼べるだけ進歩があったとも言えるわね……なんて。
小さな発見に私は、くすっと笑ってしまった。
そんな些細なことでも彼女と繋がっていると思えると嬉しい。
どうにもこうにも、私はあの口数の少ない、日陰の似合う彼女のことが気に入ってしまっているのは確かなのだ。
「なにか面白いことでもあったのかしら?」
「――――ぅわぁっ」
急にパチュリーの声がして、全身がびくりと跳ね上がった。
正面を見てみれば、パチュリーがいつものようにティーポットとティーカップ、小物なんかを乗せたトレイを両手で持って立っていた。
「……どうかしたの?」
「え?あ、ううん、なんでもっ、なんでもない」
「……そう」
慌てる私に彼女は嘆息して、テーブルにトレイを置いた。
そのまま、何事もなかったかのように規則的に紅茶を入れていく。
カップを温め、茶葉を蒸らし、お湯を注ぐ。
どこかぎこちないように見えるその動きが、なんだか可愛らしくて、私は再び小さく笑ってしまった。
「やっぱり何かあるのかしら?」
「あ、う、うん。そうだったわ」
彼女の言葉に私は再び小さく慌てた。
笑うばかりで、お茶会用のクッキーを出すのをすっかり忘れていたのだ。
私は手提げのバスケットから包みを取り出して、クッキーを二人分並べてみせた。
「はい、クッキー」
「…………」
「あ、あれ?」
「……そういうことではないのだけど」
彼女は小さくつぶやくと、ティーポットへと目を向けなおしていた。
え、えっと、何かあるっていうのは、お菓子の事ではなかったの……かな。
正直、急に言われてびっくりしてしまったのは事実だったけれど。
「……ち、違った?」
「……別に間違っていないこともないわね。次に言おうとしたことを先にされただけだから」
声の起伏は特に変化がない。
けれど、どこかふてくされたような感じだ。
しかし、彼女はそれ以上、何も言うことはなかった。
じっとティーポットを眺めるばかり。
もう私のことなんか気にしていないようだった。
「お、怒ってる?」
「……怒っているように見えるかしら?」
私の質問に彼女はちらりと視線を向けた。
「えっと、その……」
彼女はやっぱりいつもと変わりのない薄い、感情を掴むことが難しい表情のままだ。
それでも、彼女の視線や雰囲気は表情よりも言葉よりも、ものを言うことが多いと私は知っている。
決めつけることはできないけれど、
「……見えない、かな」
彼女が怒っているようには到底見えなかった。
それが私の勝手な思い込みでなかったとして、だけれど。
「そう」
私の問いかけるような視線に意識も嘆息もせず、パチュリーは短く言った。
「……」
本当は怒っていたのだろうか。
私の楽観的な物言いに呆れ返っていると見受けられる反応だ。
ビクビクしながら、すがるようにこっそり目を向けて、彼女の次の動向を待った。
「…………」
会話のなくなった空間。
再び、柱時計だけが針を鳴らしていた。
……チクタク……チクタク。
耳に溶ける音は、鼓膜を超えて脳へ。
そうして、私とリンクするように重なっていく。
チクタク……チク……タク。
まるで時を図る時計そのものになったような感覚を抱いて待ち続けた。
一体いつ、彼女は動き出してくれるんだろう。
そう思った矢先。
パチュリーは、ティーポットをすっと持ち上げて、カップへと薄紅色の紅茶を注いでいった。
カップがふわりと染まって、湯気が踊る。
揺らめく空気の向こう側で、彼女は尚も視線を伏せたままだった。
そうして、入れ終えた紅茶を私の前まで運んで、ようやく顔を上げた。
「――――そうよ、怒っていないわ」
持ち上げられた表情を追って、サラっとした長い髪が揺れてみせた。
「…………」
気がつけば、深い紫の瞳が私を捉えている。
いつもと変わらない、けれど、少しイタズラそうな色を孕んだ視線に、私は思わず言葉を失った。
「…………」
その表情があまりに綺麗でいて、それで……。
「……なに?」
「えっ?」
はっと我に返ると、先程までの彼女の表情はどこにもなかった。
今は口を尖らせたような疑問を載せた様相がそこにある。
ちょっと、……ざんねん。
そんな風に思いながらも、それはそれで悪くなかった。
むしろ。
「……くす」
私は思わず微笑してしまった。
一度溢れた笑みは途切れず、何度も私の口を割って漏れていく。
「……なに?」
パチュリーは同じように聞いてきたけれど、その問は先程と違っていた。
私に対しての疑問ではなくて、彼女自身に起こっているであろう疑問に向けたものだろう。
それがなんだか、やっぱり可笑しくって、私はまたまた微笑を浮かべた。
「一体全体、どうしたのかしら?」
「あ、ごめ、ごめん。だって、なんだか可笑しくって」
「可笑しいことなんて、どこにあったのかしら」
「ふふっ、それはもう、そこら中」
「……変ね。そんなはずないのだけど」
私の笑いは止まらなかった。本当にわからないといった様子で首を傾げる彼女が可愛らしく、可笑しかったからだ。
「本当にごめんなさい。変、ということではないのよ」
「……」
じっとりとした二つの瞳に答えようと、私は言葉を探してみた。
う~ん、なんて説明したらいいかな。
「えっとね、意外だった……って言えばいいのかな」
「……意外?」
「そ、そう。えっと、その……貴女もそんな風にイタズラするなんて思わなくって」
「別にイタズラなんてした覚えはないけれどね」
冷めた目で彼女は言ってみせる。
あ、ち、違うっ。
「え、あ、えっと、その、イタズラというか、その……なんというか」
「……貴女はよくあたふたするから、面白いわね」
そうして今度はまたイタズラそうに私を瞳に映すばかり。
「え?あ、の、そんな、こんな感じばっかりじゃなくて」
「まぁ、いいわ。それならそれで」
「う、うん」
あたふたする私を他所に、彼女はすっと会話をたたんで、向かいの席に戻っていった。
「あ」
思わず頷いてしまったけれど、何も説明できていないんじゃないだろうか。
いや、その前に自分はなんて彼女に言っていただろうか。
誤解されたのか、からかわれたのかが混ざって正確に思い出せない。
そう思うと、自分の考えの足りなさがより際立って恨めしくて、言及なんてできるはずもなかった。
「……?」
「な、なんでもないわ。はい」
彼女が忘れていったクッキーを彼女の元へと運ぶのが精一杯。
ありがとうなんて彼女は小さく言ったけれど、その言葉にもなんて返事をしたらいいのか思いつかなかった。
思考が混線したまま元の席へ。
彼女はそんな私の動きを確認して目を閉じた。
「さぁ、冷めないうちにいただきましょうか」
パチュリーは再び私の思考を中断させると、ティーカップを口元へと運んだ。
その様は先ほどの紅茶を淹れるぎこちなさなんてなくって、流れるようでなんとも優雅だった。
彼女特有の物静かな、けれど清々とした流れ。
その時間の動かし方は、この図書館のようで、またその中にある柱時計のようで。
再び考え込んでいた私は慌てて、けれどそれが表に現れないようにしながら、彼女を真似てティーカップを持ち上げた。
カップが視線に近づくと、紅茶になった水が不思議に光を反射している。
紅色のような、茶色のような、透けるような液体。
手の動きに律動して紅茶が揺らめいた。
薄紅色の液体はカップの中で、ゆっくりと、くらりと揺れる。
それに合わせるように淡い柑橘の香りが花開いた。
少し目の覚めるような、それでいて甘い香り。
色からは想像もできないけれど、手に伝わるその温度も鼻孔をくすぐる香りもどこか柔らかかった。
ぼんやりと、そんなことを思う。
カチャ。
……あ。
彼女がカップをソーサーに戻したのだろう。
目を向けると案の定、パチュリーは陶器を持ったまま固まっていた。
半開きの眠そうな瞳が、ぼんやりと紅茶を見つめているけれど、
「…………やっぱり、苦いわね」
いつものようにつぶやいて、彼女はカップの隣に置かれたクッキーを摘み取った。
私はその様子を眺めながら、どんどん遅れながら紅茶を口に含ませていった。
◆ ◇ ◆ ◇
「はぁぁぁぁ」
私は自宅に帰り着くなり、溜りに溜まった息を吐き出した。
それはもう際限なく全身から抜けていくような感じだ。
膨らんだ風船がぺしゃんこになるくらいになって、ようやく息を吸うけれど、その空気もまたすぐに外へと排出されていく。
無駄な空気は次々に量産されては、決まって下に落ちていった。
もし目に見える形で残るのだったら、この玄関は溜息の空気袋で溢れかえっているんじゃないだろうか。
「う~~~」
そればかりでは何も始まらない。
思い切ってうだるようにうめいてみたけれど、やっぱり何も始まらなかった。
「はぁ」
どうしようもないなぁ。
ぐるぐる思考が回る。
同じ所をぐるぐるぐるぐる。
そして、最後には溜息みたいに決まって同じ地点に流れついてしまっていた。
本当に、自分に呆れてしまう。
帰ってきてから一歩として動いていないのに、この有様なのだ。
彼女が居たのなら、「非生産的もいいところね」なんて言われかねない。
「……はぁ」
……もう。
いい加減、玄関のドアにへばりついている身体を剥がそう。
べったりとした感覚で、身体の重心を前へ。
腰から浮き上がったところを無理矢理に動かして、ようやく家の中へと上がりこんだ。
いつになく重いブーツを引きずりながら、けれど鳴らさないようにしてリビングへ進む。
そうして、テーブルから少し引き出されたままの椅子に腰を下ろした。
…………。
「う~~」
しかし、それだけでは飽き足りずに、私はテーブルに伏して更にうめき声を漏らしていた。
思うのは言うまでもなく、今日の図書館でのことだ。
もっと言えば、彼女との会話、やり取りだけれど。
一人で笑っていたり、急に笑い出したり、焦ったり、ぼんやりしていたり。
どこからどう見ても、変な風に思われたに違いない。
自分で振り返ってみてもそう思うのだ。
あのやり取りだけ、なかったことにしてしまいたいくらい。
「も~~~」
足をバタバタと動かしてみても、その事実が変わることはなかった。
……。
……あ~、もう。
どうして、いつもいつも上手くいかないんだろう。
声をかければ引っかかって、かけられれば慌ててしまって……。
今日のだって、本当にちょっとぼんやりしちゃっていただけなのに。
それを素直に繋ぐ言葉も見つからないなんて。
……もっと、自然に話をしたりして過ごしたいだけなのになぁ。
「…………はぁ」
自然に、か。
そんな言葉は、霞んで見える程度。
未だに二人のやり取りはどこかぎこちないのだ。
特に話しのきっかけなんて、それ。
きっかけを探す方に労力がいって、じゃあ中身はといえば、毎回同じ。
加えてわざとらしいというか……。
寸劇でもしているみたい。
手を動かすことすら意識してしまって、機械仕掛けのような身体はぎしぎし音を立てないかと心配してしまう。
「…………」
お互い外へ出ることも少ないからだろうか。
社交性の低さにびっくりしてしまう。
不幸中の幸いなのは、上辺の付き合いでないということが、辛うじて分かるくらい。
……私の勝手な思い込みじゃないのなら、だけれど。
そんな関係だからこそ苦痛はないし、無理に変化させることでもない。
けれど、いつになったら肩肘を張らずにやり取りができるのだろう。
「……そもそも、自然ってなに~?」
疑問符がぴょんと宙を舞っていった。
どこに向かって放たれた言葉なのかもわからない。
そんな方向も定まらない言葉の答えなんか誰も教えてくれなかった。
「………………はぁ」
そんなこともいつものこと。
諦めるように俯いていた顔を横に向ける。
頬がテーブルについて、ひんやりと出迎えられた。
目の覚めるような温度に内心驚きながらも、声は上げない。
それも次第に慣れてしまうだろうから。
……ほら。
もう驚きすらなくなってしまったし。
「……はぁ」
そんな慣れを二人に重ねてしまう。
私は心底がっかりして、息を吐き出した。
慣れてしまったのと同じに二人の関係は一定のまま。
あのチクタクとした空間で、いつもと同じに過ごしていく。
それを不毛とは言いたくないけれど……。
視線を彷徨わせてみると、テーブルの上の紫の塊に目が止まった。
「……あ、そっか」
それは、作りかけの人形だった。
三十センチくらいの身長の人形は、少し大きな頭で、真ん丸の顔に目はボタン、口は一本の糸を引いただけ。
関節なんかもなくて、子供向けのぬいぐるみみたいな物だ。
実用的な物を作ることが多い私としては珍しいと思う。
それもそのはず。
自立式の人形の研究とは全く関係なく、本当に気まぐれで作っているだけなのだ。
そういえば、出かける前にここで服を縫ったりしてたんだっけ。
そのままの姿勢で手を伸ばす。
人形の布地に触れると、テーブルの温度に晒されていることがよくわかった。
わずかに冷たい人形を引き寄せて、目の前へ。
今度は両手で立ち上がらせてみるけれど、身体だけ支えられた人形は、首をこてんと下げてしまった。
「…………」
そんな様を、ただなんとなく、じっと見つめ続けた。
黙ったまま顔を俯かせている人形は図書館の彼女みたいだ。
……まぁ、彼女を模して作っているんだからそれもそうか。
それでも、その表情は彼女とは打って変わってニコリとしていた。
真ん丸いボタンのくりくりとした目とU字を描いた口の糸は、彼女と違った愛嬌を見せている。
こんな可愛らしいのでは、彼女は心外だろうか。
……結構、似合ってると思うんだけどな。
「もうちょっと、か……」
あとは小物を作るくらいで完成だった。
帽子に、本にと彩るものが残っているくらいだ。
細かいからこそ時間を要するけれど、二、三日もあれば全て作ってしまえるだろう。
「…………」
「……なんで作ったんだろ」
ふと疑問に思ったけれど――――あぁ、そうか。
どうにもうまくいかない腹いせだったように思う。
彼女の考えていることがわからない~なんて、言って。
今と同じようにしていた気がする。
あの時もジタバタしていた自分を思い出して、なんだか笑ってしまった。
だからつい、人形の手なんか動かしてみた。
ピコピコと擬音を鳴らして動いているような、そんな小さな動きを繰り出してみる。
ピコピコ、ピコピコ。
私に向かって、手を伸ばすように、差し出すように人形は動く。
「…………」
彼女とはまるで違う人形は、動かしてみるとより、彼女らしくなかった。
けれどなぜか。
どうしてか、私は彼女を思い描いて、ぼんやりと見つめていた。
「……ねえ」
…………。
「貴女は、どう思ってくれてる?」
………………。
「……私はもっと……色んな貴女が知りたいわ…………」
なんて。
どっちが、どっちに言っているのか。
どっちが、どっちに言いたいのか。
操りながら、そんな風に思いを馳せた。
…………。
「はっ」
なんか今、とっても恥ずかしいことをしていた気がする。
気がついてみたら、とてもじゃないけど彼女のことを考えていられなかった。
私はテーブルに顔を埋めるようにすると、今度こそ声も出せずに悶えていた。
テーブルに触れる額が先程よりも冷たくって、顔が火照っているのを指摘されているみたいだ。
あ~、なんでこんな……。
人形たちを毎日見ているから?
……習慣って、こわいなぁ。
そんな風に思って、未練も後悔も引き連れて、悶えていた。
無言のままの身じろぎは、もがいているよう。
バタバタと身体を動かして抵抗するけれど、なんの効果も期待できなかった。
それでも、そのまま息が途切れるくらいになるまでは、そうしていた。
「…………は――――」
私は息を吐き出しかけて、呼吸を止めた。
先走って抜け出た空気が見事に隙間から流れていく。
それがなんだか、物悲しくて、女々しく思えた。
だから、口から抜け出るよりも早く、空気を飲み込み直してみた。
代わりに吐き出すのは、
「このままじゃ、ダメね」
そんな虚勢。
言葉の勢いとは裏腹に、のそのそと身を起こすだけだった。
考えてもだめ。
行動しても、うまくいかない。
一体全体どうしたらいいのだろう。
足掻いた果てには、やっぱり四方も八方も壁があった。
でも、動かない訳には行かなかった。
「……お腹も減ったし」
なんて。
確かに帰ってきてからまだ何もしていないのだ。
まだまだやれることも、やるべきこともいっぱい。
だったら、失敗してでも行動しないと。
そう決めつけるように小さく誓いを立ててみせた。
それは小さな抵抗を一つ重ねたに過ぎないけれど。
うん、明日も彼女に会いに行こう。
私は更に抵抗を一つ重ねてやった。
そうして、今度こそ、勢いをつけて立ち上がった。
周囲に目を向けてみれば、人形たちも私を待っているようだ。
……そうだ。私自身がやらなきゃ。
私は深呼吸して一歩。
「さぁ、みんな、手伝ってね」
台所へと足を運びながら声をかけ、一斉に人形たちを揺り動かした。
「あ」
……習慣って、やっぱりこわいんだなぁ。
後ろを見やる。
ちょこちょことついてくる上海人形や蓬莱人形などなど。
私は思わず、くすっと笑みをこぼした。
「お願いね」
一人一人の人形たちに目配せをして、壁にかかるエプロンを手に取った。
◇ ◆ ◇ ◆
ドンッ、ドンドンッ。
扉が強く叩かれる音で私は目を覚ました。
眠い目を擦りながらカーテンを少し開けると、外はもうすっかり朝日が満ちている。
ドンドンドンッ。
清々しい晴れ模様と相反して、扉は怒っているかのように打ち鳴らされたまま。
寝室まで聞こえるのだから、余程、力加減を知らないのか、無遠慮なのか。
もう、一体誰……。
寝起きの頭でぼんやりと思う。
けれど、そんな事をしてくるのは、一人くらいしかいなかった。
まだ重みを残した頭を抱えながらベッドを降り、玄関へ。
未だに激しくノックされて揺れるドアに向かって声をかけた。
「どちら様?」
「おー、私だぜ」
声の主はやはりというか、なんというか。
予想を覆さない声で、活発な友人が返事をしてきた。
強打のことなんてなかったかのような、あっけらかんとした物言いだ。
「というわけで、開けてくれ」
「……なにが、というわけなのよ、まったく」
続けて言うことが、これである。
呆れて返す言葉もない。
しかし、放っておいても良い事がないのは明白だった。
ドアが壊されたとして、それを補償してくれる人物も直してくれる優しい人物もいないのだ。
私は、「はぁ」と溜息をつきながら、ゆるゆるとドアを開いた。
弱い陽光が差し込み、同時にノックの主の姿も現れていく。
白い光とは真逆の真っ黒な格好をして、片手に箒。
私の表情を確認すると、友人は満足気に歯を見せて笑ってみせた。
「おう、アリス。そんなんじゃ、幸せが逃げてくだけだぜ」
「……なによ、それ」
「ん、知らないのか?溜息をつくと、一回ごとに幸せが逃げていくらしい」
「じゃあ、私の幸せはもう残っていないかもしれないわね」
「ま、迷信だけどな」
黒い格好の友人は、言うだけ言って、ずかずかと家へと上がりこんだ。
「ちょ、ま、魔理沙?なにか用があるなら、……もう」
静止しようにも遅かった。
彼女は、馴染んだようにどっかりとテーブル席に腰をかけていた。
「アリス~、なんかないのか~」
そうして、すっかりくつろぎながら、催促してくるのだ。
時々、急にやってきては毎回そんな感じなんだから、もう呆れるのも今更だった。
「……はぁ、わかったわよ。今、お茶を淹れるから待って」
私は更に幸せを逃すと、魔理沙を通り越して台所へと向かう。
…………あ、そうだ、人形はしまっておかないと。
見つけられたら、何を言われるかわかったものではない。
私は先程の足取りとは打って変わって、テキパキとお茶の用意を始めた。
お茶を入れた後、身支度と簡単な片付けをすませてリビングに戻る。
片付けや身支度なんかは半分建前。
問題のあの人形を作業場へと移動させることが本当の目的だった。
リビングの片隅に置いてあったことには、大変焦ったもののなんとか持ち去ることに成功していた……はず。
素知らぬ顔をしてリビングへ入ると、魔理沙はだらけたようにテーブルに顎を付けていた。
そんなに時間はかけてないと思うんだけど。
友人の自由さに頬を掻きながら、彼女の対面に腰を下ろした。
「……」
何も言わずにいる友人の様子を改めて眺めてみる。
お菓子の山を前にして、テーブルに顎を乗せる姿はお腹いっぱいになってしまった子供みたい。
でも、気が抜けてだらけるようにしながらも、子供のように私を待ってくれていたのだろう。
「お待たせ」
「お~」
声をかけると、ようやくといった感じで声を上げた。
やっぱり気のない感じの魔理沙だった。
空になっているティーカップに紅茶を注いであげると、彼女は身体を起こしてコクコクと飲み干していく。ずずっと最後の一滴まで吸い上げ終えてから、満足気に息を吐き出した。
ティーカップを戻してから、一呼吸、
「なぁ、アリス。最近よく図書館に行ってるのか?」
「え?」
お菓子の山を見つめながら、魔理沙は急に言った。
「ど、どうして?」
「ん~、最近こっちに来てもいないことがあったからさ」
「そ、そう……。ぐ、偶然じゃないかしら」
「そうかぁ~?」
見つめ続けたお菓子の山の中から、星型のクッキーを選んで摘み、大きく口を開ける魔理沙。
頬張る姿は、なんだか男の子みたいだった。
時々見える八重歯と悪戯な表情を乗せて、くりっとした瞳が私を見ていた。
「そ、そうだと思うけど」
私はその好奇心に溢れた瞳をやり過ごしながら、それでも彼女の様子を眺めていた。
ちょっとくらい上品に小さくかじっていれば、絵本の中の少女のようなのに。
ぷくっとした柔らかな頬と錦糸のような長い金の髪を見てぼんやりとそんな風に思った。
その間にも、彼女は口の周りにクッキーの食べかすを増やしながら、また一つ星型のクッキーを手に取っていた。
「最近って……そういえば、魔理沙に会うのは久しぶり……かぁ」
「んおぅ、来てほ、ひなかったから」
「……食べて終えてから喋りなさいよ」
「ん~」
頬杖を着いて魔理沙を見やると、彼女はコクリと音を立ててクッキーを飲み込んでいた。
確かに彼女と話をするのは本当に久しぶりだったような気がする。
外出していることが増えたからだろうか。
平穏と言えば平穏だけれど、周囲の情報や新しい話題を耳にしていないことも事実だった。
私の情報の多くは、彼女の持ってくる話題で構成されている。
偏りや彼女独自の意見や主観が混じっているものの、彼女の持ってくる話題はいつも目新しくて面白い。
彼女が話し上手だからだろうか、小さなことでも面白おかしく話が膨らむ。
話を始めれば、夕方になってしまうことも多々あるほどだ。
もっとも、お互いの話になれば話題は尽きることはなく、いつまでも話をしていられそうだけれど。
彼女は私の知る魔法に、私は彼女の知る外の世界や考え方に興味がある。
魔法使いとはまるで違う彼女の考えは、とても面白いのだ。
話し相手としては申し分ないのだけれど。
「……もう、お茶のおかわりない?」
こうやって、物をねだらなければ本当に良いと思ってしまう。
私はもう一度ティーカップに波々と紅茶を注ぐと、再び頬杖を着いて彼女を見ていた。
「あ、そうそう、さっきのことなんだけどな」
「うん?」
紅茶をすすりながら、魔理沙は思い出したように言った。
思わず返事をしてしまったが、なんのことだっただろうか。
「最近、家にいないって話」
「あ、あ~、そのこと」
「……他に何があるんだか」
魔理沙は紅茶をテーブルの置くと、やれやれといった表情を私に向けた。
「べ、別に、聞いてなかったわけじゃないわ」
「あ~、わかってる。心ここにあらず、みたいだけどな」
「もう、茶化さないでよ」
少し怒ってみせると、彼女ははぐらかすようにカラカラ笑った。
「時間を潰せて頻繁に行けるとなると、図書館くらいなもんだろうと思ってな」
「……アンタは、あそこを何だと思ってるのよ」
「ん?もちろん図書館だぜ?」
「……そう」
本当に不思議そうに答える彼女に、頭が上がらない。
無断で本を持ち出す犯人がこんな顔をしていると知って、パチュリーはどんな顔をするのやら。
眉根を寄せて額を抑えている姿が思い浮かぶ。
しかし、最近、行っていないとなると、その気苦労も軽いのかもしれない。
「ふふ」
「んぁ~?」
クッキーを頬張るのを続けながら、彼女は疑問符を向けてきた。
「魔理沙が来ないと本も少なくならなくて安心かもって思ってね」
「あ?なんだ、それ。私は借りてるだけなんだがな」
「はいはい、そうね」
「……借りてるだけなんだがな……」
魔理沙は興味なさそうにふいと横を向いて、更に一つクッキーを口に詰め込んだ。
頬がぷくっと膨らんで、もごもご。
小さなリスか何かみたいに見えて、私はまたくすくすと笑ってしまった。
「……ま、いいけど。それでさ」
「うん?」
「パチュリーが気になるのか?」
「え゛?」
あまりに突然の言葉に、私は瞬間冷凍されたみたいに固まってしまった。
くすくすと笑っていたのが嘘のように口が半開きのまま。
それ以上、閉じることも開けることもできずにいるだけだった。
たらっとした汗なのか何なのか、額の辺りから滑り落ちるけれど、それを隠すこともできないで、身体だけ静止していまっている。
友人はそんなこと気にも留めないで、軽く指を指してみせた。
「だって、アリスが頻繁に外出してるのなんて見たことなかったし」
半開きの意地悪な瞳で私を突き通してくるのだ。
それが、芯にでも触れたのだろうか。
固まった身体はだんだんと解凍されていく。
ようやく表情の変化も起こせるくらいになって、安堵したものの、それも束の間。
身体はある一定のところから、急激に温度を上げ始めた。
「え、え、え……っと、まぁ…………その」
思考も呂律も回らない。
何より、魔理沙の視線がずっと正面にあるのだ。
その視線は、もう全部知っているかのようだった。
……どのみち、魔理沙には誤魔化しきれない、かぁ。
それだけ思い浮かぶと、私は小さく首を縦に振った。
「………………うん」
上から下に視線も流れる。
返事をしようと決めたけれど、正直に答えたら、顔からは火が出るようだった。
「へぇ。やっぱりなんて思うけど、なんか意外だ」
「そ、そうかな?」
魔理沙は、驚き半分というように答えてみせた。
彼女の様子を見て取れない私は、その表情を想像することしかできない。
でも、その口ぶりから、実際に意外だったようだ。
「ああ。だって、二人じゃあんまり合わなそうだからな」
「そ、そんなこと……」
だから、こんなにもストレートに彼女は言い放ってくるんだろう。
普通なら言い難いようなことも、魔理沙はズバッと言ってのける。
わかってか、わかっていないのかは知れないけれど、毎回それが的を得ているのだから堪らない。
今だって、そんなこと考えたこともなかったのだ。
改めて考えてみる。
物静かでなんでもできそうな彼女は、どこか大人びていて、どんなことでも難なくこなしてしまいそうだ。
一方の私と言ったら、見通しが甘いというか詰め切れないというか、押しきれないというか……。
考え方だって違うんだろうなぁ。
見えている風景さえ違うかもしれない。
「…………う~、合ってないのかも」
あまりの差に思いがけず気付かされてしまった。
私は、頭を抱えるようにして机に突っ伏すと昨日と同じようにうめき声を上げた。
もうこれは相性ではないくらいの決定的な壁が見えた気がした。
「ま、まぁ、いいんじゃないか。それにきっと、パチュリーも悪い気はしてないと思うぜ」
「…………そうかな」
恨めしそうに魔理沙を見上げると、彼女は苦笑いしたように言葉を続けた。
「ああ。私が行くと平たい目で、じーっと見てくるしな。無言だけど、帰れって言われてるようなもんだ」
「それは、日頃の行いが悪いからでしょう」
「はは、そんなことないぜ」
魔理沙はうそぶくようにして視線を宙へと泳がせた。
両手を頭の後ろにやる素振りで、今にも口笛を吹き鳴らしそう。
私は上体を起こすと、今ここにはいない紫の友人に代わって、黒いヤツをじっとした視線で捉え続けた。
「…………」
「…………」
魔理沙は次第に視線を落とすと、ちらちと私を盗み見みた。
「反省は?」
すかさずに告げる。
こうでもしないと何時まで経っても、はぐらかしてしまうだろうし。
逃げ場のなくなった魔理沙は案の定、帽子を目深にかぶって顔を隠した。
「……あー、あ、こほん。……悪気ばっかじゃないんだけどな」
本当に素直じゃないんだから。
あの帽子の下では、相当バツの悪い顔をしているに違いない。
拗ねた魔理沙の表情を想像して、私は噴きだすように嘆息してしまった。
「よろしい。その旨は伝えておいてあげる」
「…………別にどっちでもいいけどな」
「はいはい」
くすくすっ。
もう堪えられないと、私は小さく笑っていた。
口元に当てた手の甲も効果無く、くすくすと笑いは溢れに零れていく。
それはとても自然で意識もしないものだった。
「……」
自然で……普通な……。
「どうかしたか?」
「……あ、えっと……」
彼女の言葉が、私の意識を引き戻した。
こうして魔理沙と話をしている感じが自然なんだろうと思ってしまっていたのだ。
肩肘も張らずに、意識することもなく話して笑う。
とても簡単なことのように思えた。
けれど、そんな意識もせずにしていることが、パチュリーに対してどうしてできないんだろう。
「…………自然に話をするってこういう感じなのかなって思って」
「ん~、まぁ、そうなんじゃないか」
「……そうよねぇ」
私は無意識に下がってしまっていた視線をほんの少し持ち上げた。
「なんだ?パチュリーとはうまく話せないのか?」
やっぱり彼女は鋭い。
誰とか、そんなこと言っていないのに彼女は言うのだ。
「う~ん……、こういう風に話せてはいないかなぁ」
だからといって、うまく話せていないかと言われれば、そうでもない気もする。
私と彼女は、あの座席の距離みたいに中途半端で、曖昧なんだろう。
「もっとお話して、知りたいなって思うんだけど、ね」
なんだかもどかしくなって、私は両手の指たちを先端でもって合わせた。
押したり引いたり。
自由に動いてくれる指を弄ばせて、溜息をついた。
「……変かな」
「いんや、ちっとも、全然」
魔理沙は気のないような言葉で返事をしたけれど、私から目を反らすことはなかった。
どこまでも真っ直ぐな瞳が私を見つめていた。
「……」
それがなんだか、嬉しくもあり、頼もしくもあり……羨ましくも……ある。
それがあったら、こんな風に思い悩むこともないのかもしれない。
「むしろ、いいんじゃないか」
私のそんな勝手な思いも知らずに、魔理沙はにこりと微笑んで見せた。
「…………」
それがあんまりに純粋すぎるから。
「…………どうかしたか?」
「……あ、ううん、なんでも……なんでもない」
私の心の虫なんて、ちっぽけに思えてしまうくらいだった。
「……ありがとう」
私はようやく返事をしたけれど、彼女の言葉を素直に喜べる自信はどこまでもなかった。
どこまでも、パチュリーとの差を意識してしまうんだろう。
だから…………どこまでも私は言葉を繋げることができないでいた。
「……」
「……」
ぼんやりと俯いて、ぼんやりと瞳が手や膝を捉えるばかり。
……ぼんやり。
はっきりとしない視界は、だんだん滲んでいくようで。
「――――知ってるか」
「え?」
滲んだ景色を友人の声が遮った。
パッと顔を上げてみると、頬杖をついた友人が私を覗き込んでいた。
少しまどろんだような緩やかな、はにかんだような表情で私を見る。
眠たそうな瞳が向きあうと、彼女はゆっくりと眠るように瞳を閉じた。
「…………私の世界を変えるのはいつだって貴方で」
「?」
彼女はそのまま、緩やかに言葉を続けた。
「自分だけで作り上げた世界は簡単なんだ。妥協も限界も決めれるからな。ある意味カンペキ。でもカンペキじゃない。小さくて狭いって言うのかな。それはきっと、先も短くて、壁まであるんだろ。ただ、そこに貴方という人物が加わったら、それはどこまでも広がる可能性を見せてくれる」
夢を語るように、夢の中にいるように、彼女の言葉は響いた。
説明をしただけの言葉は、そう長くないはなかった。
ほんの数秒の言葉だったはずだ。
けれど、彼女が語った言葉は一冊の物語のように感じられた。
「……なんだかすごいわね」
膨大な量の一片を垣間見たように、私は思わず感嘆の言葉を漏らしていた。
「…………他人ごとみたいだな」
「え?」
私の言葉を合図に、彼女は夢からすっかり覚めてしまったようだった。
呆れたように半眼を向けると、はぁ、とため息を浮かべる。
「……あー、いや、なんでもない。それで、だ。この言葉の最後の『貴方で』の『で』ってなんだと思う?」
「え?えっと……それで、終わりではないっていうことかしら……」
私の返答に彼女はニヤリとしていた。
ただで答えを教えるつもりじゃないんだろう。
「さて、な」
ほら、やっぱり。
魔理沙は満足気な表情を浮かべて、上体を起こした。
そうして、クッキーを一つ。また星型のを摘み上げた。
まばらに残るのは三日月と人形型と。
「…………私のとっておきだぜ」
少なくなっていくクッキーを眺めていると彼女はポツリと言った。
独り言のように浮かべられた言葉は……。
「とっておきの受け売り、さ」
やっぱり、独り言だったのかもしれない。
この友人が、こんなにも素直で優しいわけないのだ。
彼女は懐かしむように瞳を遠くへ向けた。
そうして、思い出したように恥ずかしそうに可愛らしく頬を弛緩させた。
彼女を眺める私も、きっと彼女と同じような顔をしているに違いない。
こうして眺めているのも悪くないなぁ、なんて。
しかし、その様子をしばらく瞳に映していた私は、少し意地悪してみたくなった。
「ねぇ、さっきのどういうこと?」
「さっきの?」
「他人ごとみたいだなって」
なにか得も言われぬことを言われていた気がしていたのは確かだったし。
私の問に、彼女はぽりぽりと頬を掻いて、宙を見やった。
「……アリスはアリスで大変なんだろ」
「ねぇ、どういうこと?」
「ま、ちゃんと言葉にしなきゃダメなんだぜ」
「……え、あ、う、うん」
追求しようと試みたものの、あっさりと返されてしまって私は言葉を詰まらせた。
むむ、毎回こんな感じじゃ、押しが弱いって思われちゃ……。
「……その感じじゃ全然ダメそうだな」
「えっ!?」
魔理沙は大きく溜息を付いたけれど、とても楽しそうに笑った。
「そ、そうかな」
思考を遮られて、慌てながら言葉を探す。
簡単なはずなのにいつまで経っても、見つからない言葉たち。
そもそも、彼女はなぜ、言葉にしなきゃなんて言ったんだろうか。
「はは、アリスっぽいな」
「ふぇ?」
そう言って、彼女は悪戯そうに歯を見せて笑った。
本当に楽しそうに彼女は笑っていた。
「……はぁ」
まだまだ私の言葉はでてきそうもないのだ。
私は自分にため息をついて、考えるのをやめた。
こういう時は、焦っても慌ててもしょうがない。
少し頭を冷やしてみるべきなんだ。
「………………くす」
そう思ったら、なんだか可笑しくって。
私は笑いをこらえながら、魔理沙を見やった。
彼女はやっぱり楽しそうだ。
遠慮なく剥き出しにした歯に、柔らかに瞳を曲げる。
黒い服装の友人はどこまでも明るくそんな風に笑った。
それは、とても魅力的なのだ。
彼女の日頃の行いもなんのその。その笑顔で補ってあまりあるような。
真っ直ぐな彼女。
そんな風に素敵に私もなれたらいいな、なんて。
くすっ。
私は歩大杖をついて、再び美味しそうにクッキーを頬張り始めた友人をみて、小さく笑っていた。
◆ ◇ ◆ ◇
「――――魔理沙っ!!」
私は怒鳴ると同時に、図書館の扉を弾くように押し開けた。
絵に描いたような音を立てて両開きの扉が開け放たれ、空間に残響する。
その衝撃音が鳴り止まぬまま、大股で室内へ侵入を開始した。
荒い足音が混ざって響き渡り、一人なのに行列をなしているかのような錯覚を起こしそうだった。
いや、行列には違いなかった。
私の後ろには繰り出す糸によって連れられた人形の軍勢が、同じようにして歩いてきているのだ。
金属類の武器や防具を持った人形たちは、時折擦れるようにぶつかり合って、硬質な摩擦音も形成していた。
私は、がちゃがちゃとした音も気にせずに図書館の中を乱暴に歩き回った。
探しているのはもちろん、霧雨魔理沙ただ一人だ。
「魔理沙っ、いるんでしょう!?見たという人がいるんだから、居るのはわかっているわっ!!観念して出てきなさい!」
返事を待つこともなく、尚も歩き回るけれど、姿形も返事も、気配すらそこにはなかった。
……どこに逃げ込んだのかしら。
一度立ち止まって、注意深く周りを見回す。
しかし、図書館には私たち以外の物音もなく、黒いヤツの姿はどこにもなかった。
周囲に張り巡らせた人形たちも目標を察知できぬまま、目を光らせるように警戒を厳にしているだけだ。
「……」
まったく、なんてことをしてくれたのだろうか、魔理沙は。
積もりに積もった苛立ちを抑えきれず、私は、息を吐き出した。
目を閉じて思考を回そうにも、思い浮かんでくるのは朝方のことばかりだった。
そう、事の発端は今朝だ。
目覚めてみれば、家の中は散らかり放題になっていたのだ。
玄関の靴は吹き飛んだようにバラバラだったし、リビングのテーブルは激突したんじゃないかというように壁に立てかかる変容ぶり。
警備用に設置しておいた人形たちは、破損こそしていなかったものの、文字通り糸が切れて至る所に倒れている惨状を見せていた。
そして、最悪なのはその先。
昨日の夜中まで、作業を行なっていた部屋へと私は向かった。
そこは人形の制作などを行う、私にとって心臓とも言える部屋だ。
扉には厳重に鍵や細工を施しているものの、何かあっては一大事どころでは済まない。
焦りを伴いながら、部屋につくが、そこは他とは異なり異常は見当たらなかった。
掛かったままになっている鍵にも内心ほっとしながら、部屋の中へ。
作業場は、やはり平穏そのものだった。
少しばかり物が散乱しているが、いつもの風景と変わりない。
しかし、もう一度、安堵したところで、一枚の紙切れが置かれていることに気が付いた。
それは、とにかく書き殴った字。
『ちょっと借りてくぜ』
魔理沙の最悪な書き置きだった。
書き置き自体が悪報なのに、よりにもよって持っていったものはパチェリー人形という最悪さ。
持っていかれたことに気が付いた時には、目眩すら起こして倒れてしまいそうなくらいだった。
久しぶりの彼女の悪癖に言葉が無い。
あの人形を持っていくとは本当に命知らずなんじゃないかなんて思ってしまった。
何時もならば、怒りを通り越して呆れてしまう。
しかし、今回ばかりは怒りを通り越して呆れへ。そのまた呆れを通り越して怒りまで到達している状況だ。
胸中穏やかでなかったものの、彼女を早急に捕まえなければならないということだけは、はっきりしていた。
特にあの人形が模した本人に知れることは、どうしても避けたい。
私は周りの被害状況に目もくれず、回りきらない思考のまま行動開始した。
そうして、情報を頼りにここまで辿り着いたわけだけど……。
「魔理沙、出てきなさいっ!!」
お尋ね者の所在は未だに明らかにならない。
再び、等間隔に整列した本棚を進む。
前方、左右、後方全てに人形たちを配置して索敵は完璧。
どんなにうまく本棚の陰に隠れていようとも逃れることはできないはずだ。
それに、もしものために出入口には武装した強固な人形たちを守備にあたらせているから、足の早い魔理沙でも簡単には突破できないだろう。
図書館は完全に包囲している。
逃げ場も確実に狭めていっているはずである。
それでも、私の歩調は早いままだった。
意識だけが前へ前へと独り歩きしていくように私は進む。
「――――魔理沙っ!!!」
聞き耳を立て、本棚をひとつ越えては視認を行って、それはもう徹底的に。
そして、尚も、声を荒げながら黒い魔法使いを探していった。
けれど、やがて。
図書館の果てにぶつかった。
結局、無機質な壁にしか遭遇できなかったのだ。
「……」
のっぺりとした白とも黒ともとれない壁が、なんとも重圧にそそり立っているだけ。
視認できる天井はほんのり暗く、壁と同じように浮かんでいた。
……これはどういうことだろう。
確かに入り口から隈無く探索しつつ進んできたはずだ。
人形たちも完璧な動きをしてくれている。
つまり、はじめからここにいなかったのだろうか。
「……確かに、美鈴さんが来たと言っていたのに」
情報提供者が彼女なら、嘘を言ったとは考えにくい。
では、なぜ魔理沙はここにいないのか……。
首を捻ってみたけれど、その考えは一向に答えに向かおうとしてくれない。
しばらくそうしていたものの、結局ラチが開かなかった。
「…………はぁ」
私は重たい息を吐き出した。
全身にこもったモヤが抜けていくような感覚を覚えながら、更に吐き出す。
吐いて、吐いて、そのうち、揺らぐような目眩を覚えて、息を止めた。
「…………」
呼吸を止めると、ぴたりと停止した空間が広がっていた。
物音も無い、広い空間。
その空気に溶け込むように目を閉じて、息を吸う。
この空間と一体になってしまえば、感触だって得られるんじゃないだろうか。
…………。
けれど、一体になんかなれるわけもない。
ましてや、感触なんてものもあるはずなかっただろう。
それでも、なぜか。
なぜか、私はこの場に、魔理沙がいないということを悟った気がした。
ここまで来てようやく、諦め半分、焦り少々と思考をやや落ち着かせて、目を開ける。
…………ほら、のっぺりとした壁があるだけ。
とにかく、もうこうなっては仕方ない。事実、彼女はこの場にいないのだ。
早急に違う場所を探すだけだ。
私は意識を切り替えて、大きく息を吸い込んだ。
そう、それでも尚、確認のため、というか、なんというか。
大きな声を出しておきたかった。
「――――――――魔りっ」
「図書館では静かにしてくれないかしら」
「!?」
しかし、私の声は口から広がろうとした途端に掻き消されてしまった。
上書きしていったのは、静かな凛とした一言。
後方から飛んできたその声音に、私は驚いて振り返った。
そこには、紫の影がぽつり。
図書館の主であるパチュリーが佇んでいた。
「図書館では、静かにしてもらいたいのだけれど」
「あ、ご、ごめんなさいっ」
どうやって人形たちの包囲に気付かれずに、という疑問を抱くよりも前に、私の口はそんな言葉を発していた。
「……わかってくれればいいわ」
彼女は短く告げると、踵を返して歩き出した。
「あっ、待って」
なぜだろう。
私は無意識のまま、慌てて彼女の後を追いかけていった。
彼女は足音も無く、目印の無い本棚の列を進んでいく。
「…………」
少し怒っているのだろうか。
何も言わずに進む彼女からは感情を読むことはできなかった。
顔を合わせているわけではないのだから当然といえば当然だれけど。
私は人形たちの操作を解除して、おずおずと彼女の背中を追うことしかできないでいた。
曲がっては進み、また曲がって、曲がって……。
軽やかに彼女は進む。
歩調は早いわけではない。
それなのに、ついていくのがやっとだった。
パチュリーはそのまま迷うこともなく、いつものテーブルの場所にたどり着くと、定位置の椅子へと腰を下ろした。
「…………」
「座らないのかしら?」
「えっ!?」
「……図書館に用事ではないのかしら?」
ぼんやりと立ち尽くしていた私に、彼女は不思議そうに目を向けた。
「え、えっと、そ、その…………」
用があるといえばあるけれど、図書館にというわけではない。
しかし、魔理沙を探していることを伝えるのは、なんとなく切り出しにくかった。
私は返答もできずにただあたふたとしていた。
口を開いたり閉じたり、彼女を見たり見なかったり。
伝えようと試みてみるけれど、自分自身で無駄な情報を振りまきかねない。
結局、その返答をすることもなく私は黙っていつもの席に座り込んだ。
「…………」
「…………」
パチュリーは私が席についたのを一瞥して確認したようだった。
そうして今度は本に目を落として、ただただ、そのまま。
ゆっくりとページを捲る。
「…………」
私も、ただただ、そのまま。
彼女のそんな動作を眺めていた。
「…………」
そのまま、じっと。
彼女は微動もない。
自動的に本のページだけがめくれていくようだった。
……チク、タク……。
チク……タク。
ふと、音が浮かび上がった。
いつもの規則的な柱時計の音。
それは、いつの間にそこにあったのだろうか。
そんなこともわからないくらい、ぼんやりと彼女のことを見つめていた。
そう。
図書館に来た目的も忘れるほどになって。
「……魔理沙なら」
「………………え?」
だから、彼女の言葉にひどく遅れて返事をしていた、ように思う。
返事は、自分で思うくらい間の抜けた声だった。
私は完全に意表を突かれて、彼女を見やった。
「さっきまでいたわ」
「あ」
そうだ。
私は魔理沙を探して、ここまで追いかけてきたんだった。
……だから急いで探さない…………と。
そう思って、彼女の隣に置かれた椅子が目に入った。
わざわざ近くに動かされた椅子の主は不在。
けれど、きっと魔理沙が座っていたんだろう。
戻されてもいない乱雑な向きになった椅子を見て思う。
きっと、ここにいたんだ、と。
「…………」
音も無くどこかから息が漏れた。
それは、あの人形がパチュリーの近くにないという安堵か、はたまた…………。
……チク、タク……チク……タク。
針の音は遅く、早く。
規則的なはずなのに感覚を狂わせるように鳴っていた。
鼓膜は音を捉えたまま。
視線は空っぽの椅子を捉えたまま。
じっと、私は停止していた。
見つめ続けていても、椅子の距離が変わるわけはない。
それが、より一層、恨めしくって。
……………………いじわる。
ここであったであろう全ての出来事が、そう思えてならなかった。
「……貴方でも」
「……」
私は今度こそ彼女の言葉に反応することができなかった。
……チクタク。
音が一拍通り過ぎて、
「……貴方でも、怒ることがあるのね」
彼女は繰り返すように告げた。
「…………」
彼女はポツリとだけ言って、私に視線を向けた。
少し眠たそうな紫の瞳と真っ直ぐに出会う。
私は、なんだか下を俯いてしまった。
視線を合わせるのなんて、普段なら当たり前にしているはずなのに。
「…………」
……貴方でも、怒ることがあるのね。
そんなたった一言が、なんだか恥ずかしくって、それはそうだろうとちょっと引っかかって……胸がキュッと締め付けられるようだった。
見透かされてしまいそうな瞳に…………私はどう映っているだろう。
また、胸が締め付けられた気がした。
それは肩に手を添えたくらいの感覚だったかもしれない。
とても小さな触れるような感覚。
けれど、それは伸し掛かっていくようだった。
少しずつ、少しずつ、私の心を締め付けていく。
そうして、まるで絞り上げてしまうくらいだった。
息をどこに吐けばいいのだろうか。
いや、どうやって息をつけばいいのだろうか。
そんな思いも知らず、無遠慮に力は込められて、心が押される。
キュッと、ギュッと。
逃げ場もなく、そうされていた。
…………その圧力に、心が先に音を上げたんだと思う。
「…………へ、変……かな?」
私は思わず、口に手を当てた。
俯いたままで、その言葉自体、彼女に届いたかは疑問だけれど。
でも、私の中から漏れ出た言葉は、その後も止めどなく溢れてしまいそうだった。
そんな風に感情のまま言葉を漏らすなんてこと、したくはなかった。
「…………」
「…………」
けれど、きっと期待していたんだと思う。
私の意思とは関係無く溢れた言葉だったけれど、その言葉に彼女はなんと言ってくれるだろう。
チク……、タク……。
……チク…………、タク…………。
「別に、可笑しくなんてないわ」
………………ちく。
時計の針の音に紛れて、そんな……。
「…………そう……かな?」
彼女の変哲もない、無表情な返答。
いつもの彼女と変わりない言葉だ。
変わりない……はずなのに。
そんな日常的なことが、なんだかとても、とてもとても、胸を刺していた。
「…………」
私は何を期待したんだろう。
紛れも無い私の言葉は、今はもう床にへたり込むようになって、ずるずる尾を引いていた。
尾というよりも頭部のようで、それはもう私を下へ下へと引っ張っていく。
こんなのじゃ、彼女の意思も確認できないじゃない…………。
自分自身の後悔を振り返ることしかできなそうだった。
けれど、私を引き上げたのは、パチュリーの本当に小さなつぶやきだった。
「…………私だってそうよ」
「え?」
「私だって、よく怒るわ」
彼女は言って、軽く髪を掻きあげながら、ぷいっと横を向いた。
「……特に、レミィには困ったものだから」
表情こそ変わっていないけれど、少し口を尖らせ、恥ずかしそうにしているようだ。
なんだか言い訳をする子供みたい。
いつもの大き目の服も相まって、どこか背伸びした印象がそこにあった。
「……」
怒った彼女を私は知らなかった。
今みたいに、言い訳をする彼女も初めて見たのだ。
私の知らない彼女。
それを垣間見たことがなんだか嬉しくて。
でも、私の知らない彼女いることが、どこか切なかった。
私は言葉の重みからは開放されたものの、胸はそのまま。
そのまま締め付けられて、痛みを伴ったまま、じわりと滲んでいるようだった。
「……そ、そうなんだ」
「……ええ、そうよ」
「…………そ、そうだよね、怒らない人なんていない……し」
「……あまり想像つかないかしら?」
パチュリーは訝しむような口調だった。
よくよく見れば、先程とは打って変わって、眠たげな瞳が私を捉えている。
「え、えっと、そ、そうかも」
私は誤魔化すように笑みを浮かべて身をよじった。
これ以上の返事は、もう、できそうになかったから。
もしかすると、再び言葉が溢れてしまうかもしれない。
私は小さく口を閉じると、視線をわずかに反らしていた。
じっと、彼女の瞳が向いているのがわかる。
けれど、やっぱり視線を合わせることができなかった。
やがて彼女は、考えこむようにして右を向いて、下を向いて、そうして宙を見やった。
顎がくっと上ると、重力を乗じた髪が重さなんてないくらいにさらりと落ちる。
ふとした視線の先は何もないはずだ。
図書館の白とも黒ともつかない天井が遠くにあるだけ。
ぼんやりと彼女はそうしながらも、口唇を動かした。
「……そうよね。そういったことを見る機会なんて、なかなか無いでしょうし」
落胆ともつかない、呟きが漏れる。
それは次第に小さくなりながら、
「…………だからこそ私は……、そんな怒った貴方を見れたことが、とても嬉しいのだけれど…………ね」
ポツリ、と。
私は耳を疑った。
彼女から発せられたのは、彼女らしからぬ言葉だった。
思っていても、きっと口に出さないであろう言葉は「とても」なんて付け加えられていた気がする。
私の少し大きく開かれた瞼と同様に、開いた口元はうまく閉じてくれないでいた。
膝に置いた手だけが汗ばんで、鼓動に呼応するように力が入るばかりだった。
私は過ぎ去った彼女の言葉を拾うように、食い入るように正面を見つめていた。
「……」
「……」
すると、彼女は視線だけ私に向ける。
見下ろすようになった視線は、やはりぼんやりと。
しかし、瞳を隠すはずの紫の髪は左右に別れるように真っ直ぐ下に降りていて、その双眸をはっきりとさせていた。
半開きの眠たげな瞳が私を映している。
「……」
「……」
彼女の言葉。
それだけを私は待った。
繰り返しではなく、続きでなく、何の変哲もない言葉を。
……チク……タク。
チク……タク……。
消えかけていた時計の振動が再び浮かんで、私達を包んでいた。
いや、それは、私にだけかもしれない。
…………チク……タク……。
チク…………タク。
……チク……。
………………たく。
パチュリーは、きっとまた何かつぶやいたんだと思う。
唇に動きはなかったけれど。
……ただ、そう思った。
彼女の瞳が本当にわずかに細められていって、私を見やる。
ゆっくりと閉じる瞳の速度に合わせて、首も下へ。
徐々に真っ直ぐになって、それから更に……視線が落ちて――――、
「――――ああっ!!」
突然の大声に彼女は驚いて正面を向き直った。
今までの動きが嘘のように早い動作になり、ぴっとした姿勢で私を直視していた。
声の発生源は今までテーブルにしっかりと腰をかけていたはずの私からのものだった。
声もさることながら同時にテーブルに乗り出した身体が恨めしい。
しかし、これが、そうしないでいられるだろうか。
今まで、どうして気が付かなかったのだろうか。
それは、彼女の膝の上。
座っていても本当にわずかに帽子が見え、こうして身を乗り出せば、その胴体までだって優に見て取ることができていた。
そこには、あの、例の、彼女を模した人形が行儀よく座って顔を覗かせていた。
それはもう、奥ゆかしく、ボタンの瞳で本を読んでいるようだ。
あれだけ彼女に目を向けていたというのに、どうして気が付かなかったのだろうか。
本当に、本当にわからなかった。
「あ……えっと、その……あ、あはは」
思わず大きな声を上げてしまったけれど、ここで慌てるわけにはいかない。
なにせ、彼女にばれないようにするために急いで魔理沙を探していたんだから。
さり気なく……さり気なく……。
私は硬くなった頬にムチを打ってにこやかに微笑んで見せた。
「あ、あの、それって……どうしたの?」
「それ?」
彼女は眉根を寄せながら、私の視線を追いかけた。
膝の上を占拠する人形を指しているのだとわかると、彼女は短く息を吐き出した。
「……あぁ、この人形かしら。魔理沙が置いていったのよ。何冊か本を返していって、ついでにこれを預かってくれって」
「そ、そう」
「……お詫びのつもりなのかは、はっきり言わないものだから、なんともだけれどね。…………でも、私としては…………案外気に入っているわ」
彼女は本当に満更でもない様子で、人形を抱いていた。
薄い表情がほんのりと赤く染まったように見えなくもない。
きっと、彼女はその人形も表情も、誰にも見せる気なんてなかったのだろう。
私も思わず頬を緩め…………あれ?
「……頬がピクピクしているけれど、大丈夫?」
「え?そ、う……かな」
「ええ。もうまるで痙攣しているみたいに」
うまい具合ににこやかにしていたと思っていたけれど、そんなこともなかったみたいだった。
手を当ててみれば――――本当だ。
ぴくり、ぴくりと大きく震えている頬があった。
私は収まりのつかない頬を、きゅっと摘んでみせる。
ぴくり、ぴくり……。
そうして、やっといつものように落ち着きを取り戻した。
「……そ、それなんだけど……」
「この人形のことかしら?」
「えっと……その」
何と言ったらいいのだろう。
こういう時にも言葉はでないものだった。
「……」
彼女はぼんやりと私の様子を見やっていたけれど、ふぅと吐息を漏らして手を動かした。
ゆっくりと人形の胴に両手をかけ、胸くらいまで持ち上げてみせる。
そうして、ピコピコと手を動かして、
「…………や、やぁ……アリス。……今日は……いい天気、ね」
腹話術を真似て、人形を操った。
しかし、彼女の口は半開きどころか、普通に動いてしまっていた。
彼女は一言だけ言い終えて停止したが、反して、人形はピコピコと動きを続けていた。
合計四つの目がじーっと直視してきている状況に、私は押され気味な笑みを浮かべることしかできなかった。
ピコピコと休むことを知らないパチュリー人形はいつまでもそうしていそうだった。
あまりのパチュリーの無表情さと、人形の動きの可愛らしさにどう反応したものかと考えるばかり。
それに、どうやって人形の回収をしたら良いのか、なんて思いが頭を何度もよぎって考えを遮っていた。
そうこうしているうちに、パチュリーは急に人形の行動を辞めさせた。
無表情のだけれど、ムーっと結んだ口元から諦めるような溜息が抜け出ていった。
「……うまくできないわね」
彼女はつぶやいて、向き合うように人形をぽすっと机に座らせた。
それと同時に、背中を丸めて人形を見やる。
不思議なものを観るようにマジマジと人形を覗き込む仕草は、恥ずかしさを隠しているように見えなくもない。
けれど、そんな彼女の表情を確認するより先に前髪が降り重なって、表情を隠してしまった。
彼女はそうして動きを小さくしていた。
人形に向かって、近づいたり離れたり。
じっと見ているからか、その動きは緩慢だ。
そんなゆっくりであっても、人形と紫の髪に遮られた表情はやっぱり見て取れない。
彼女は、どんな顔をしているんだろう……。
少し横に動けば見えるかもしれない。
少し覗き込めば見えるかもしれない。
けれど、この場所から動かなければ、彼女を確認する術はどうにもない。
わかっていても、私は動くこともなく、彼女のことを見つめていた。
…………。
彼女は、やっぱりずっとそうしていた。
頭だけが、前後にゆっくりと揺らめいたまま。
動きは、やっぱり小さくて……。
その様子は、なんだか…………夢で見た、居眠りしていた彼女を思い出させた。
「…………」
さらりとした髪が、カーテンみたい。
俯いた瞳をわずかに透けるように隠しているのだ。
瞳を閉じているのか、下を向いているのからなのかは定かではないけれど……。
目に映る光景は、あの時見た夢の中のようだった。
柔らかい明かりの元で、ウトウトとしているような彼女はやっぱり神秘的に映る。
私はその様子を呆然と見つめることしかできなかった。
…………夢の中の私だったとしたら、動くことができたかな。
数歩進めば届く距離に彼女はいる。
うつらうつらとした様子で、行動は止まったまま。
けれど、私はやっぱり、夢のようには動き出せなかった。
あの時だったら、空気よりも軽く足は動いたんだろう。
意識もせずに、流れるままに歩いていける気がする。
それが今は、どうしても動き出せないでいた。
「……」
寝ても覚めても見ていた夢の風景には、どうしても近づけない。
今までと同じように、近くから、遠くから、ねだるように眺めているのが精一杯で……。
ゆらりと、カーテンが揺れて、彼女の瞳も揺れた。
カーテンからわずかに露わになった瞳は、少し上目遣いで、確かに私を見つめていた。
伺うような、求めるようなそれは、どこか見覚えがあった。
「……」
それは……鏡に映った私みたいだった。
貴方には、どう伝わっているだろう。
貴方に、どう伝えたらいいんだろう。
そんな、疑問ばかりの心細い思い。
黙ったまま、いえ、言い出せないままの物憂げな瞳は、溢れるように、滲むようにあやふやな想いを孕ませているようだった。
「…………」
そうして、彼女は何も言わずに瞳を隠した。
また、うつらうつら。
頭を揺らして、人形と向き合う。
……同じなの……かな。
私たちはそんな風に止まっているのかもしれなかった。
同じように思って、同じように相手を向いている。
きっと…………、そうだ。
けれど、それがわかったとしても、決して動き出そうとしない自分自身がいた。
動き出すためのきっかけ。
それが、どこにも見当たらない。
何か一つでもあったなら、私はきっと……。
こんなときには、柱時計が鳴ってくれることもなかった。
…………私は……きっと……動き…………出せる、のに。
………………ううん、…………きっと、これは言い訳なんだ。
動き出せない理由を何かのせいにしているだけ。
だって、そうすれば、きっかけがなかったとしても……タイミングがなかったなんて。
…………諦めきれる……から。
そうやって、諦めてきたものも、たくさんあった気がする。
けれど。
今、目の前に展開されている光景は……。
夢の続きを、夢の先を滲ませている。
このままで、いいの?
もし、ここで何かきっかけが起こって動き出しても……私が得たものは……。
得るという意味では代わりがない。
でも、それは、本当の意味では無いんじゃないだろうか。
毎回のように何かを、誰かを待っている私は、本当は何も得ていないんじゃないかとどこかで思った。
同時に、私へ差し伸べられた、けれど、見過ごしていしまっていた言葉を思い出した。
さっきだってそうだ。
パチュリーは、あんなに声をかけてくれていたのに。
普段なら取らない行動や話をして、私に一歩近づいてきてくれていたはずだった。
そんなことに微塵も気が付かずに私はいた。
彼女からしたその一歩は、どれほど勇気のいることなのかは計り知れない。
けれど、私では、その一歩を到底踏み込む勇気が……ない。
そんな私を、私は射抜くように見つめていた。
…………なんて臆病なんだろう。
卑怯で……………何よりも弱くて…………。
…………。
こんなのでは、自然に接するなんて夢、叶うわけもない。
ましてや、あの友人のように笑うことなんてできるわけもない……。
ちらりと、空白の椅子へと目線がいった。
あの魅力的な笑みを浮かべる友人の痕跡が残った空間。
……もし、彼女がここにいてくれたら…………。
…………また、だ。
嫌気が差すくらいの私の悪癖。
それが、止めどもなく溢れてきていた。
本当は、私にはなんの力も無かったんじゃないか。
ここまで来れたのは、誰かが必ず手を引いてくれていたからで。
得たものもなかったけれど、力までない。
そう思えて仕方がなかった。
私は俯いて、押し潰してしまうくらいの力で瞳を閉じた。
自分自身への無力が嫌で、苦しくて、呆れ返るほど馬鹿馬鹿しくて。
でも……それでも、夢を見てしまう自分が……悔しい。
閉じた視界はどんどん暗くなっていく。
瞼の上から差す光も届かないくらい、黒く、黒く……。
そこは、ひんやりとしていて、心細くて。
……誰か…………。
…………。
いつものように、誰も答えてなんかくれなかった。
それも当然。
こんなに叫んでしまいたいはずなのに、声も出せない自分がいるだけだったから。
…………。
………………こんなになっても、誰かを呼んでしまうなんて…………。
暗闇の中は、とても静かでどこまでも沈んでいけそうな程。
けれど、沈み行く所々に様々な私の記憶が浮かぶ。
それらはやっぱり、誰かと一緒にいる自分だった。
一人のものもあるけれど、それは築き上げられた環境に一人でいるだけだ。
…………私が、持っていたものは全部、幻だったのかな。
何もかも、幻のようで、夢なんて一つもない。
私は魅せつけられながら、暗い中へと。
そんな真っ暗な中で、一瞬だけ。
――――ちょっと借りてくぜ。
一瞬だけ、閃光のような光が私の手を取った。
それは、気のせいかもしれなかったけれど。
けれど、私は目を見開いた。
開けた視界には暗闇なんてなかった。
いつもと同じように、ただただ空間が広がって、パチュリーが正面にいるだけ。
暗闇の中で響いた声は、確かにあの……黒い友人の声。
彼女の悪癖で……口癖で……私を引っ張ってくれていた言葉だった。
それは、私と魔理沙が初めて出会った、いいえ、魔理沙が初めて現れたときと同じ言葉。
私を突き動かした一言だった。
結局、きっかけではあったけれど。
あの時、私は彼女を追いかけて、追いかけて――――言ったはずだ。
『貴方は、なに?』
彼女を捕らえて、根掘り葉掘り聞いたりして。
それがなかったら、きっと、魔理沙とは一緒にいることはなかったと思う。
きっと……パチュリーともこうして居ることもなかっただろう。
唯一、私が胸を張って、本当に得たと言えるもの、かもしれない。
…………自信なんてないけれど。
魔理沙は、全部知っていたんだろう。
だから、私が怒ると知ってまで人形を持っていた。
そうまでして……。
『……知ってるか?』
あの言葉だってそうだ。
受け売りでもなんでも、私を後押ししてくれいた。
『……私の世界を変えるのはいつだって貴方……』
笑った彼女を真似て、私は思わず、
「…………で」
…………ポツリ。
彼女の言葉は、不思議に私を包むようだった。
……どこまで行っても、他力本願だけれど。
でも……、私自身が動こうとしなければ、どこまで行っても意味が無い。
パチュリーの言葉も魔理沙の言葉も、全部、意味を無くしてしまう。
今更も今更、私はようやくそのことに気が付いた。
ふっと顔を上げた。
そこには、先ほどと変わらずパチュリーがいた。
目線は同じ高さで、お互いを一望できる距離にいる。
けれど、目を凝らさなくても、仕草も癖も一つ一つを見て取れた。
もちろん、声だってはっきり聞こえるはずだ。
ようやく私は、こんな長いテーブルを挟んで彼女と出会ったのだろう。
今は借り物の言葉しか持っていないけれど……。
「…………私の世界を変えるのは……」
唇が震える。
たった一言、呪文を唱えるように。
「…………いつだって……」
言葉に意味なんて無いのに、それを意味のあるものにしたかった。
「…………貴方で」
そんなただのなんの意味もないはずの言葉が繋がって。
彼女は、少し目を開くようにした。
合言葉を聞かされたように。
そうして、身体を起こして、真っ直ぐに、真っ直ぐに私に瞳を向けていた。
そうだ。
あの時とは違っている。
彼女は夢の中とは違って、ウトウトともせず、私に瞳を向けているんだ。
「……」
彼女のその瞳は、言葉よりも意思があることを…………私は知っている。
カタン。
私が立ち上がると、引いた椅子がテーブルに当たって、軽やかな音を立てた。
軽快な音は一つ鳴って、すぐに……。
そうして、いつもの音のない図書館。
時計の音だけが鳴るんだろう。
そこにはいつも、切れてしまいそうな、遮られてしまいそうな声があって……。
…………チク……タ。
――――そうは、ならなかった。
音が消えてしまうよりも先に足音を立てたからだ。
一歩、踏み込んだ足のせいで真っ赤な絨毯がたわんで、サクッと小気味良い音を立てた。
耳をくすぐったはずの音は、本当に聴覚に訴えているのかはわからなかったけれど。
私は一歩一歩、リズムを刻むようにゆっくりと、けれど、音が消えないようにして歩を進めた。
そんな数歩は、近いようで、でも、やっぱり遠くて……近かったんだなぁ、なんて。
私は彼女の隣の椅子へと辿り着いた。
あっさりと辿り着いてしまったような、途方も無い長い道を来たみたいなズレた感覚。
どっちが本当かもわからないけれど、思い出したかのように息をつく。
すると、驚くくらいの鼓動の音に気が付いた。
トクン、トクン、と。
少し早く、少し強く。
じんわりと響く体温みたいな振動を抱きながら、私の視線は彼女と交わった。
トクン――――ドクン。
「隣、いいかな?」
私は椅子の背もたれに手をやって、言葉を紡いだ。
たった一つの、そんな些細な動作だったはずなのに。
鼓動は、耳に直接響くように跳ね上がっていた。
返事を待つ私は、比例して小さくなったような手に、きゅっと力を込めていた。
こんなのは……夢の中とは大違い。
夢の中の私たちは力の抜けた自然な二人だった。
動作だって、音だって、無意識に流れて過ぎ去っていく。
甘い、蕩けるような一時。
まどろむには、心地の良すぎる世界だ。
こんな胸の鼓動も焼け付いてしまいそうに火照った頬も、捉えて離さない視線も、必要ない。
ましてや、声を発することもなくていいんだろう。
そんな夢はなんとも心地が良いけれど……。
けれど…………。
でも……うん。
こんなに、はっきりと彼女が見える世界には及ばないだろうな。
私は、静かに彼女の返事を待った。
鼓動は気分のままに跳ねる。
強く、小さく、けれど、私の中で暴れたまま。
錯覚を起こしたままの時計の針音のように、本当に一定なんかじゃない。
そんな心音が鳴ることに、私は、私だけが感情を抱いていた。
ドクン、トクン――――ドクン。
……彼女が、ゆっくりと動き出した。
あの紅茶を入れる時みたいにぎこちなく、ゆっくりと、ゆっくりと口元がほころんでいく。
小さくて、止まってしまいそうな唇の動きを私は確かに追いかけていた。
やがて口唇が緩やかなカーブを描き、声帯がふわりと上に。
そうして。
「――――――――――ええ」
にこやかに彼女は笑った。
それは、眠ってみた夢よりも、思い描いていた夢よりもずっと綺麗だった。
想像もつかないくらい素敵な素敵な彼女がそこにいる。
私の世界に現れた彼女は、そんな風に佇んでいた。
……私は、うまく笑えるかな。
彼女の世界の私は素敵なんだろうか、なんて。
揺らぐように思う。
けれど、そんなことは考えるのをやめた。
私の言葉は、まだない。
こうしていられるのも、やはり誰かがいてくれたからだ。
私がここにいて、立っていられるのは、誰かの言葉のお陰。
今はまだ、それを返すことも、言葉を紡ぐこともできないから。
だから、せめて。
……笑おう。
先ほどまでの硬くなった意識のことなんか忘れて、私も笑ってみた。
鼓動が鳴る。
私の想いに動かされて。
彼女の言葉に呼応して。
そうして、鼓膜は、内から外から振動を感じたままだ。
それは、鮮やかで、柔らかくて、いつまでも続いて行きそうなほど。
どこまでも、どこまでも、夢の先まで続いて行きそうなほどに――――。
終
――――夢を、観る。
浅く、淡く、白く。
少女が一人、歩いていた。
夢の中を、静かに、静かに。
金の髪を揺り動かして進んでいく。
森を越えて、湖を越えて。
躊躇いもなく、迷いもなく、行く。
そんな私と同じ姿の少女を見下ろすように見つめていた。
けれど、見ている物は彼女と同じ。
私は、彼女の主観を重ねて夢の世界を渡っていた。
……夢?
……ああ、そうか。
だから、こうして見ている風景は主観だけれど、私のもののように感じられないんだ。
私と同じ姿をした、私とは違うアリス。
彼女が見ている夢を追いかけているだけ。
じゃあ、この流れる風景は私が体験しているわけじゃない。
蜃気楼のような、幻想のような、偽物なんだろう。
……偽物。
上から見下ろすような、感情。
私らしくもない、冷めた、熱の無い感情で、風景は流動し続けていった。
…………。
……でも。
でも、偽物だったとしても……。
映像は私の心を……わずかに踊らせていた。
そうして、進む……。
進んでいく……。
やがて辿り着いたのは、紅いお屋敷の図書館。
彼女は重厚な扉を躊躇うこともなく、押し開けていった。
軋んだ音と共に扉の隙間が広がって室外からの光が内部を照らしだす。
うっすらと姿を現したのは、本棚の群れ。
すっかり見慣れた本の森は、きっちりと整列させられていて扉同様に重々しかった。
コツ。
そこに、足音がひとつ。
軽快な音が耳にとけて、そしてまた、コツ。
図書館の中に響き渡る足音は、消える間も無く響いては鼓膜を揺らす。
くすっ。
私が進むことで作られた音なのに、自分の中に戻ってくるなんて。
そんな風に思いながら、俯瞰から偽物を見つめていた。
コツ、コツコツ。
私の思いも気にせずに、彼女は前へとゆっくりと進んでいく。
反響する足音は数を増して、波のように広い空間へと振動していった。
けれど、振動は反響することもなく、ただただ広がって、吸い込まれるように消えていく。
後には、空間と同じようにほんのりとした暗さが残るだけだった。
広大な図書館はどこまで行っても静まり返っていて、ほんのりと暗いまま。
奥へ進めば進むほど、ランプの明かりだけが頼りになってしまっていた。
空間を覆う空気は、冷やされ、低く沈み、絨毯の上で息を潜めて流れているようだ。
そんな流れよりも早く、一定の足取りを保ったまま歩を進める。
迷ってしまいそうな本棚の間を進む様はなんともスムーズだ。
流れるように足音を引き連れて、そのまま、開けた空間へと辿り着いた。
そこは、なぜだか温かな光が満ちていた。
光源らしい物は見当たらず、あるのは長方形の長いテーブルがひとつだけ。
無機質な感じで置かれているけれど、他と違って柔らかな印象がそこにはあった。
無駄に大きなテーブルの各一辺に一つずつ設置された、計四つの椅子が、来客を待っているようにも見受けられる。
いや、正確には四つではなく三つ。
四つの椅子の内、一つはすでに薄紫色を着込んだ女性が座っていたのだ。
彼女は図書館の主で、その椅子が定位置。
いつもと変わらず、彼女はそこにいた。
違うと言えば、本を広げるでもなく、研究をするでもなく、ただただ粛々と座っているくらい。
いいえ、うつらうつらと頭を前後に揺らして。
くすっ。
偽者の私は…………たぶん笑ったんだろう。
視界の端がわずかに下がった。
うん、やっぱりそうだ。
温かな空気がそうさせるのかはわからないけれど、確かに偽者は柔らかく微笑んでいるようだった。
私もそんな感情に揺り動かされて、触れたいような、眺めていたいような感覚を覚えていた。
「よいしょ」
けれど、そんな感傷も束の間に、彼女は隣の席にあっさりと腰を下ろしてしまった。
目線がすとんと落下して、眠る彼女と一緒の高さへ。
今は伏せられているけれど、紫色のすっとした瞳がそこにはあった。
うつらうつら。
前髪が薄いカーテンのようにゆらり、ゆらり。
その奥には、羽のようにふんわりとしたまつ毛が閉じた瞳を柔らかく讃えていた。
夢でも観ているんだろうか。
彼女は眠る。
お姫様みたいになって、彼女は静かに眠っていた。
それは本当に、神秘に満ちたお姫様のようだった。
うつらうつら。
頭が揺れて、カーテンも揺り動く。
ゆっくりと瞳も体動を始めようとしていた。
けれど、それだけ。
お姫様はまだ眠りの中に囚われたまま。
くすくすっ。
アリスという少女は……いいえ。
……私は。
その様子を眺めて、再び笑みをこぼした。
花のように可愛らしく、凛とした美しさを湛えたお姫様。
言葉数は少ないし、行動も少ない。
けれど、そんな彼女の隣の席はなんとも……なんとも心地が良くって。
うつらうつら……。
頭が揺れる。
前へ、後ろへ。
揺り籠みたいになって、ゆったりと。
私の視界は、だんだんとまどろみを見せて、黒い幕が降りてきた。
空気みたいに、揺り籠みたいに、彼女みたいにゆったりとした闇。
それに包まれて、思う。
これは……夢……なんだと。
うつらうつら。
彼女の隣で。
…………うっすらと、私はもう一度、笑ったような気がした。
うつら……うつら。
…………。
――――夢を、みる。
浅く、淡く、白い……夢。
近くて、遠い、隣同士で、二人きりで。
言葉も無く、ただいるだけ。
私は…………。
私を夢に……残したまま…………揺り籠のように揺らめいていった…………。
◇ ◆ ◇ ◆
ポーンと小さく柱時計が鳴った。
続けて、ポーン。
静寂に包まれた広い図書館の中を振動していく。
ちょっと高音だけれど、その音はなんだか可愛い。
最近では小さな動物の鳴き声のように思えなくもない。
私は、その行く先を探すように目を向けていた。
小さな動物、なんて。
いつもと変わらずに鳴く時計にそんな風に思って、口元を緩めた。
ポーン。
最後にもう一度、時計は鳴いた。
もうすっかり聞き慣れた時報は、聞き慣れすぎて飽きてしまうくらい。
けれど、さっきので最後だと思うと、なんだか寂しい。
なんだかんだで、私は待ちわびているんだと、いつものように思わされた。
柱時計は口を閉ざすと、チクタク、チクタク。
いつもと変わりなく、気もなしに振り子を揺らし始めるだけだった。
……小さな動物、なんて。
そんなものは気のせい。
だって、それはただの時計で一定通り。動き出すなんてことは決してないんだから。
…………。
それはそうだけど、行動し始めるような不思議があっても、たまにはいいんじゃないかな、なんて思ってしまう。
私の思惑も知らずに、時計はチクタク。
同じように。
いつものように。
チクタク、チクタク。
――――カタン。
別の音が小さく混ざった。
長いテーブルの向かいに座っていた彼女が、いつものように椅子から立ち上がったのだ。
「……お茶にしましょうか」
薄い表情のまま、いつもの通りに。
時計が鳴り終わってから、彼女は必ずそう言う。
「ええ、お願いするわ、パチュリー」
だから私も、いつものように言葉を返した。
パチュリーは、軽く頷いて踵を返すと、図書館の奥へと歩を進め、
「――――あぁ、砂糖はいらないんでしょう?」
一歩を踏み出して首だけを向けた。
「ええ、大丈夫」
私はにこりと笑って返事をしてみせた。
彼女は確認したかしないか、そうして図書館の奥―――恐らく簡易のキッチンなんかがあるところへ、姿を消していった。
「…………」
あの時報は、私たちの動き出す合図のようだった。
約束もなく集まるのに、じっと鳴る音を待って、耳を傾けている。
待つ必要なんてどこにもないはずなのに。
けれど、それが無ければ、私たちは止まったままでいるに違いない。
そんな二人のやり取りは、微妙な距離を保ちつつ、日課のようにいつもと同じだった。
もう何年も変わりがないような錯覚さえする程だ。
「…………はぁ」
声もなくなった空間で、柱時計だけがぶらぶら揺れる。
それだけ。
それだけの、空間だった。
もう今日は、あの可笑しくも可愛らしい時報を聞くこともないだろう。
「……ふぅ」
再び短く息を吐き出して、そんな風に思った。
そもそも、時計の音なんてものを意識し始めたのは、どうしてだっただろうか。
二人でティータイムを始めてからだったのは確かだった気がしたけれど、どちらが言い出したのかも、はっきりと思い出せなかった。
ただ言えるのは、短針が後二つも進めば、私はいつものように帰らなければないということだ。
時を告げる柱時計は、私達に動き出すきっかけを与えてくれる。
それと同時に、今日という日の残り時間が少ないことを無言で押し迫ってもいるのだった。
「…………そんな決め事もないんだけどね」
今度は先程よりも、長い溜息が溢れでた。
決め事なんかない。
でもそれは、暗黙のルールのような、私達の不器用さというかなんというか。
今の二人の現状を表しているようだった。
決め事もできていないならば、進歩もなし。
私にとっても彼女にとっても、同じ魔法使いという同族の仲間に過ぎないのかもしれない。
…………あ、仲間と呼べるだけ進歩があったとも言えるわね……なんて。
小さな発見に私は、くすっと笑ってしまった。
そんな些細なことでも彼女と繋がっていると思えると嬉しい。
どうにもこうにも、私はあの口数の少ない、日陰の似合う彼女のことが気に入ってしまっているのは確かなのだ。
「なにか面白いことでもあったのかしら?」
「――――ぅわぁっ」
急にパチュリーの声がして、全身がびくりと跳ね上がった。
正面を見てみれば、パチュリーがいつものようにティーポットとティーカップ、小物なんかを乗せたトレイを両手で持って立っていた。
「……どうかしたの?」
「え?あ、ううん、なんでもっ、なんでもない」
「……そう」
慌てる私に彼女は嘆息して、テーブルにトレイを置いた。
そのまま、何事もなかったかのように規則的に紅茶を入れていく。
カップを温め、茶葉を蒸らし、お湯を注ぐ。
どこかぎこちないように見えるその動きが、なんだか可愛らしくて、私は再び小さく笑ってしまった。
「やっぱり何かあるのかしら?」
「あ、う、うん。そうだったわ」
彼女の言葉に私は再び小さく慌てた。
笑うばかりで、お茶会用のクッキーを出すのをすっかり忘れていたのだ。
私は手提げのバスケットから包みを取り出して、クッキーを二人分並べてみせた。
「はい、クッキー」
「…………」
「あ、あれ?」
「……そういうことではないのだけど」
彼女は小さくつぶやくと、ティーポットへと目を向けなおしていた。
え、えっと、何かあるっていうのは、お菓子の事ではなかったの……かな。
正直、急に言われてびっくりしてしまったのは事実だったけれど。
「……ち、違った?」
「……別に間違っていないこともないわね。次に言おうとしたことを先にされただけだから」
声の起伏は特に変化がない。
けれど、どこかふてくされたような感じだ。
しかし、彼女はそれ以上、何も言うことはなかった。
じっとティーポットを眺めるばかり。
もう私のことなんか気にしていないようだった。
「お、怒ってる?」
「……怒っているように見えるかしら?」
私の質問に彼女はちらりと視線を向けた。
「えっと、その……」
彼女はやっぱりいつもと変わりのない薄い、感情を掴むことが難しい表情のままだ。
それでも、彼女の視線や雰囲気は表情よりも言葉よりも、ものを言うことが多いと私は知っている。
決めつけることはできないけれど、
「……見えない、かな」
彼女が怒っているようには到底見えなかった。
それが私の勝手な思い込みでなかったとして、だけれど。
「そう」
私の問いかけるような視線に意識も嘆息もせず、パチュリーは短く言った。
「……」
本当は怒っていたのだろうか。
私の楽観的な物言いに呆れ返っていると見受けられる反応だ。
ビクビクしながら、すがるようにこっそり目を向けて、彼女の次の動向を待った。
「…………」
会話のなくなった空間。
再び、柱時計だけが針を鳴らしていた。
……チクタク……チクタク。
耳に溶ける音は、鼓膜を超えて脳へ。
そうして、私とリンクするように重なっていく。
チクタク……チク……タク。
まるで時を図る時計そのものになったような感覚を抱いて待ち続けた。
一体いつ、彼女は動き出してくれるんだろう。
そう思った矢先。
パチュリーは、ティーポットをすっと持ち上げて、カップへと薄紅色の紅茶を注いでいった。
カップがふわりと染まって、湯気が踊る。
揺らめく空気の向こう側で、彼女は尚も視線を伏せたままだった。
そうして、入れ終えた紅茶を私の前まで運んで、ようやく顔を上げた。
「――――そうよ、怒っていないわ」
持ち上げられた表情を追って、サラっとした長い髪が揺れてみせた。
「…………」
気がつけば、深い紫の瞳が私を捉えている。
いつもと変わらない、けれど、少しイタズラそうな色を孕んだ視線に、私は思わず言葉を失った。
「…………」
その表情があまりに綺麗でいて、それで……。
「……なに?」
「えっ?」
はっと我に返ると、先程までの彼女の表情はどこにもなかった。
今は口を尖らせたような疑問を載せた様相がそこにある。
ちょっと、……ざんねん。
そんな風に思いながらも、それはそれで悪くなかった。
むしろ。
「……くす」
私は思わず微笑してしまった。
一度溢れた笑みは途切れず、何度も私の口を割って漏れていく。
「……なに?」
パチュリーは同じように聞いてきたけれど、その問は先程と違っていた。
私に対しての疑問ではなくて、彼女自身に起こっているであろう疑問に向けたものだろう。
それがなんだか、やっぱり可笑しくって、私はまたまた微笑を浮かべた。
「一体全体、どうしたのかしら?」
「あ、ごめ、ごめん。だって、なんだか可笑しくって」
「可笑しいことなんて、どこにあったのかしら」
「ふふっ、それはもう、そこら中」
「……変ね。そんなはずないのだけど」
私の笑いは止まらなかった。本当にわからないといった様子で首を傾げる彼女が可愛らしく、可笑しかったからだ。
「本当にごめんなさい。変、ということではないのよ」
「……」
じっとりとした二つの瞳に答えようと、私は言葉を探してみた。
う~ん、なんて説明したらいいかな。
「えっとね、意外だった……って言えばいいのかな」
「……意外?」
「そ、そう。えっと、その……貴女もそんな風にイタズラするなんて思わなくって」
「別にイタズラなんてした覚えはないけれどね」
冷めた目で彼女は言ってみせる。
あ、ち、違うっ。
「え、あ、えっと、その、イタズラというか、その……なんというか」
「……貴女はよくあたふたするから、面白いわね」
そうして今度はまたイタズラそうに私を瞳に映すばかり。
「え?あ、の、そんな、こんな感じばっかりじゃなくて」
「まぁ、いいわ。それならそれで」
「う、うん」
あたふたする私を他所に、彼女はすっと会話をたたんで、向かいの席に戻っていった。
「あ」
思わず頷いてしまったけれど、何も説明できていないんじゃないだろうか。
いや、その前に自分はなんて彼女に言っていただろうか。
誤解されたのか、からかわれたのかが混ざって正確に思い出せない。
そう思うと、自分の考えの足りなさがより際立って恨めしくて、言及なんてできるはずもなかった。
「……?」
「な、なんでもないわ。はい」
彼女が忘れていったクッキーを彼女の元へと運ぶのが精一杯。
ありがとうなんて彼女は小さく言ったけれど、その言葉にもなんて返事をしたらいいのか思いつかなかった。
思考が混線したまま元の席へ。
彼女はそんな私の動きを確認して目を閉じた。
「さぁ、冷めないうちにいただきましょうか」
パチュリーは再び私の思考を中断させると、ティーカップを口元へと運んだ。
その様は先ほどの紅茶を淹れるぎこちなさなんてなくって、流れるようでなんとも優雅だった。
彼女特有の物静かな、けれど清々とした流れ。
その時間の動かし方は、この図書館のようで、またその中にある柱時計のようで。
再び考え込んでいた私は慌てて、けれどそれが表に現れないようにしながら、彼女を真似てティーカップを持ち上げた。
カップが視線に近づくと、紅茶になった水が不思議に光を反射している。
紅色のような、茶色のような、透けるような液体。
手の動きに律動して紅茶が揺らめいた。
薄紅色の液体はカップの中で、ゆっくりと、くらりと揺れる。
それに合わせるように淡い柑橘の香りが花開いた。
少し目の覚めるような、それでいて甘い香り。
色からは想像もできないけれど、手に伝わるその温度も鼻孔をくすぐる香りもどこか柔らかかった。
ぼんやりと、そんなことを思う。
カチャ。
……あ。
彼女がカップをソーサーに戻したのだろう。
目を向けると案の定、パチュリーは陶器を持ったまま固まっていた。
半開きの眠そうな瞳が、ぼんやりと紅茶を見つめているけれど、
「…………やっぱり、苦いわね」
いつものようにつぶやいて、彼女はカップの隣に置かれたクッキーを摘み取った。
私はその様子を眺めながら、どんどん遅れながら紅茶を口に含ませていった。
◆ ◇ ◆ ◇
「はぁぁぁぁ」
私は自宅に帰り着くなり、溜りに溜まった息を吐き出した。
それはもう際限なく全身から抜けていくような感じだ。
膨らんだ風船がぺしゃんこになるくらいになって、ようやく息を吸うけれど、その空気もまたすぐに外へと排出されていく。
無駄な空気は次々に量産されては、決まって下に落ちていった。
もし目に見える形で残るのだったら、この玄関は溜息の空気袋で溢れかえっているんじゃないだろうか。
「う~~~」
そればかりでは何も始まらない。
思い切ってうだるようにうめいてみたけれど、やっぱり何も始まらなかった。
「はぁ」
どうしようもないなぁ。
ぐるぐる思考が回る。
同じ所をぐるぐるぐるぐる。
そして、最後には溜息みたいに決まって同じ地点に流れついてしまっていた。
本当に、自分に呆れてしまう。
帰ってきてから一歩として動いていないのに、この有様なのだ。
彼女が居たのなら、「非生産的もいいところね」なんて言われかねない。
「……はぁ」
……もう。
いい加減、玄関のドアにへばりついている身体を剥がそう。
べったりとした感覚で、身体の重心を前へ。
腰から浮き上がったところを無理矢理に動かして、ようやく家の中へと上がりこんだ。
いつになく重いブーツを引きずりながら、けれど鳴らさないようにしてリビングへ進む。
そうして、テーブルから少し引き出されたままの椅子に腰を下ろした。
…………。
「う~~」
しかし、それだけでは飽き足りずに、私はテーブルに伏して更にうめき声を漏らしていた。
思うのは言うまでもなく、今日の図書館でのことだ。
もっと言えば、彼女との会話、やり取りだけれど。
一人で笑っていたり、急に笑い出したり、焦ったり、ぼんやりしていたり。
どこからどう見ても、変な風に思われたに違いない。
自分で振り返ってみてもそう思うのだ。
あのやり取りだけ、なかったことにしてしまいたいくらい。
「も~~~」
足をバタバタと動かしてみても、その事実が変わることはなかった。
……。
……あ~、もう。
どうして、いつもいつも上手くいかないんだろう。
声をかければ引っかかって、かけられれば慌ててしまって……。
今日のだって、本当にちょっとぼんやりしちゃっていただけなのに。
それを素直に繋ぐ言葉も見つからないなんて。
……もっと、自然に話をしたりして過ごしたいだけなのになぁ。
「…………はぁ」
自然に、か。
そんな言葉は、霞んで見える程度。
未だに二人のやり取りはどこかぎこちないのだ。
特に話しのきっかけなんて、それ。
きっかけを探す方に労力がいって、じゃあ中身はといえば、毎回同じ。
加えてわざとらしいというか……。
寸劇でもしているみたい。
手を動かすことすら意識してしまって、機械仕掛けのような身体はぎしぎし音を立てないかと心配してしまう。
「…………」
お互い外へ出ることも少ないからだろうか。
社交性の低さにびっくりしてしまう。
不幸中の幸いなのは、上辺の付き合いでないということが、辛うじて分かるくらい。
……私の勝手な思い込みじゃないのなら、だけれど。
そんな関係だからこそ苦痛はないし、無理に変化させることでもない。
けれど、いつになったら肩肘を張らずにやり取りができるのだろう。
「……そもそも、自然ってなに~?」
疑問符がぴょんと宙を舞っていった。
どこに向かって放たれた言葉なのかもわからない。
そんな方向も定まらない言葉の答えなんか誰も教えてくれなかった。
「………………はぁ」
そんなこともいつものこと。
諦めるように俯いていた顔を横に向ける。
頬がテーブルについて、ひんやりと出迎えられた。
目の覚めるような温度に内心驚きながらも、声は上げない。
それも次第に慣れてしまうだろうから。
……ほら。
もう驚きすらなくなってしまったし。
「……はぁ」
そんな慣れを二人に重ねてしまう。
私は心底がっかりして、息を吐き出した。
慣れてしまったのと同じに二人の関係は一定のまま。
あのチクタクとした空間で、いつもと同じに過ごしていく。
それを不毛とは言いたくないけれど……。
視線を彷徨わせてみると、テーブルの上の紫の塊に目が止まった。
「……あ、そっか」
それは、作りかけの人形だった。
三十センチくらいの身長の人形は、少し大きな頭で、真ん丸の顔に目はボタン、口は一本の糸を引いただけ。
関節なんかもなくて、子供向けのぬいぐるみみたいな物だ。
実用的な物を作ることが多い私としては珍しいと思う。
それもそのはず。
自立式の人形の研究とは全く関係なく、本当に気まぐれで作っているだけなのだ。
そういえば、出かける前にここで服を縫ったりしてたんだっけ。
そのままの姿勢で手を伸ばす。
人形の布地に触れると、テーブルの温度に晒されていることがよくわかった。
わずかに冷たい人形を引き寄せて、目の前へ。
今度は両手で立ち上がらせてみるけれど、身体だけ支えられた人形は、首をこてんと下げてしまった。
「…………」
そんな様を、ただなんとなく、じっと見つめ続けた。
黙ったまま顔を俯かせている人形は図書館の彼女みたいだ。
……まぁ、彼女を模して作っているんだからそれもそうか。
それでも、その表情は彼女とは打って変わってニコリとしていた。
真ん丸いボタンのくりくりとした目とU字を描いた口の糸は、彼女と違った愛嬌を見せている。
こんな可愛らしいのでは、彼女は心外だろうか。
……結構、似合ってると思うんだけどな。
「もうちょっと、か……」
あとは小物を作るくらいで完成だった。
帽子に、本にと彩るものが残っているくらいだ。
細かいからこそ時間を要するけれど、二、三日もあれば全て作ってしまえるだろう。
「…………」
「……なんで作ったんだろ」
ふと疑問に思ったけれど――――あぁ、そうか。
どうにもうまくいかない腹いせだったように思う。
彼女の考えていることがわからない~なんて、言って。
今と同じようにしていた気がする。
あの時もジタバタしていた自分を思い出して、なんだか笑ってしまった。
だからつい、人形の手なんか動かしてみた。
ピコピコと擬音を鳴らして動いているような、そんな小さな動きを繰り出してみる。
ピコピコ、ピコピコ。
私に向かって、手を伸ばすように、差し出すように人形は動く。
「…………」
彼女とはまるで違う人形は、動かしてみるとより、彼女らしくなかった。
けれどなぜか。
どうしてか、私は彼女を思い描いて、ぼんやりと見つめていた。
「……ねえ」
…………。
「貴女は、どう思ってくれてる?」
………………。
「……私はもっと……色んな貴女が知りたいわ…………」
なんて。
どっちが、どっちに言っているのか。
どっちが、どっちに言いたいのか。
操りながら、そんな風に思いを馳せた。
…………。
「はっ」
なんか今、とっても恥ずかしいことをしていた気がする。
気がついてみたら、とてもじゃないけど彼女のことを考えていられなかった。
私はテーブルに顔を埋めるようにすると、今度こそ声も出せずに悶えていた。
テーブルに触れる額が先程よりも冷たくって、顔が火照っているのを指摘されているみたいだ。
あ~、なんでこんな……。
人形たちを毎日見ているから?
……習慣って、こわいなぁ。
そんな風に思って、未練も後悔も引き連れて、悶えていた。
無言のままの身じろぎは、もがいているよう。
バタバタと身体を動かして抵抗するけれど、なんの効果も期待できなかった。
それでも、そのまま息が途切れるくらいになるまでは、そうしていた。
「…………は――――」
私は息を吐き出しかけて、呼吸を止めた。
先走って抜け出た空気が見事に隙間から流れていく。
それがなんだか、物悲しくて、女々しく思えた。
だから、口から抜け出るよりも早く、空気を飲み込み直してみた。
代わりに吐き出すのは、
「このままじゃ、ダメね」
そんな虚勢。
言葉の勢いとは裏腹に、のそのそと身を起こすだけだった。
考えてもだめ。
行動しても、うまくいかない。
一体全体どうしたらいいのだろう。
足掻いた果てには、やっぱり四方も八方も壁があった。
でも、動かない訳には行かなかった。
「……お腹も減ったし」
なんて。
確かに帰ってきてからまだ何もしていないのだ。
まだまだやれることも、やるべきこともいっぱい。
だったら、失敗してでも行動しないと。
そう決めつけるように小さく誓いを立ててみせた。
それは小さな抵抗を一つ重ねたに過ぎないけれど。
うん、明日も彼女に会いに行こう。
私は更に抵抗を一つ重ねてやった。
そうして、今度こそ、勢いをつけて立ち上がった。
周囲に目を向けてみれば、人形たちも私を待っているようだ。
……そうだ。私自身がやらなきゃ。
私は深呼吸して一歩。
「さぁ、みんな、手伝ってね」
台所へと足を運びながら声をかけ、一斉に人形たちを揺り動かした。
「あ」
……習慣って、やっぱりこわいんだなぁ。
後ろを見やる。
ちょこちょことついてくる上海人形や蓬莱人形などなど。
私は思わず、くすっと笑みをこぼした。
「お願いね」
一人一人の人形たちに目配せをして、壁にかかるエプロンを手に取った。
◇ ◆ ◇ ◆
ドンッ、ドンドンッ。
扉が強く叩かれる音で私は目を覚ました。
眠い目を擦りながらカーテンを少し開けると、外はもうすっかり朝日が満ちている。
ドンドンドンッ。
清々しい晴れ模様と相反して、扉は怒っているかのように打ち鳴らされたまま。
寝室まで聞こえるのだから、余程、力加減を知らないのか、無遠慮なのか。
もう、一体誰……。
寝起きの頭でぼんやりと思う。
けれど、そんな事をしてくるのは、一人くらいしかいなかった。
まだ重みを残した頭を抱えながらベッドを降り、玄関へ。
未だに激しくノックされて揺れるドアに向かって声をかけた。
「どちら様?」
「おー、私だぜ」
声の主はやはりというか、なんというか。
予想を覆さない声で、活発な友人が返事をしてきた。
強打のことなんてなかったかのような、あっけらかんとした物言いだ。
「というわけで、開けてくれ」
「……なにが、というわけなのよ、まったく」
続けて言うことが、これである。
呆れて返す言葉もない。
しかし、放っておいても良い事がないのは明白だった。
ドアが壊されたとして、それを補償してくれる人物も直してくれる優しい人物もいないのだ。
私は、「はぁ」と溜息をつきながら、ゆるゆるとドアを開いた。
弱い陽光が差し込み、同時にノックの主の姿も現れていく。
白い光とは真逆の真っ黒な格好をして、片手に箒。
私の表情を確認すると、友人は満足気に歯を見せて笑ってみせた。
「おう、アリス。そんなんじゃ、幸せが逃げてくだけだぜ」
「……なによ、それ」
「ん、知らないのか?溜息をつくと、一回ごとに幸せが逃げていくらしい」
「じゃあ、私の幸せはもう残っていないかもしれないわね」
「ま、迷信だけどな」
黒い格好の友人は、言うだけ言って、ずかずかと家へと上がりこんだ。
「ちょ、ま、魔理沙?なにか用があるなら、……もう」
静止しようにも遅かった。
彼女は、馴染んだようにどっかりとテーブル席に腰をかけていた。
「アリス~、なんかないのか~」
そうして、すっかりくつろぎながら、催促してくるのだ。
時々、急にやってきては毎回そんな感じなんだから、もう呆れるのも今更だった。
「……はぁ、わかったわよ。今、お茶を淹れるから待って」
私は更に幸せを逃すと、魔理沙を通り越して台所へと向かう。
…………あ、そうだ、人形はしまっておかないと。
見つけられたら、何を言われるかわかったものではない。
私は先程の足取りとは打って変わって、テキパキとお茶の用意を始めた。
お茶を入れた後、身支度と簡単な片付けをすませてリビングに戻る。
片付けや身支度なんかは半分建前。
問題のあの人形を作業場へと移動させることが本当の目的だった。
リビングの片隅に置いてあったことには、大変焦ったもののなんとか持ち去ることに成功していた……はず。
素知らぬ顔をしてリビングへ入ると、魔理沙はだらけたようにテーブルに顎を付けていた。
そんなに時間はかけてないと思うんだけど。
友人の自由さに頬を掻きながら、彼女の対面に腰を下ろした。
「……」
何も言わずにいる友人の様子を改めて眺めてみる。
お菓子の山を前にして、テーブルに顎を乗せる姿はお腹いっぱいになってしまった子供みたい。
でも、気が抜けてだらけるようにしながらも、子供のように私を待ってくれていたのだろう。
「お待たせ」
「お~」
声をかけると、ようやくといった感じで声を上げた。
やっぱり気のない感じの魔理沙だった。
空になっているティーカップに紅茶を注いであげると、彼女は身体を起こしてコクコクと飲み干していく。ずずっと最後の一滴まで吸い上げ終えてから、満足気に息を吐き出した。
ティーカップを戻してから、一呼吸、
「なぁ、アリス。最近よく図書館に行ってるのか?」
「え?」
お菓子の山を見つめながら、魔理沙は急に言った。
「ど、どうして?」
「ん~、最近こっちに来てもいないことがあったからさ」
「そ、そう……。ぐ、偶然じゃないかしら」
「そうかぁ~?」
見つめ続けたお菓子の山の中から、星型のクッキーを選んで摘み、大きく口を開ける魔理沙。
頬張る姿は、なんだか男の子みたいだった。
時々見える八重歯と悪戯な表情を乗せて、くりっとした瞳が私を見ていた。
「そ、そうだと思うけど」
私はその好奇心に溢れた瞳をやり過ごしながら、それでも彼女の様子を眺めていた。
ちょっとくらい上品に小さくかじっていれば、絵本の中の少女のようなのに。
ぷくっとした柔らかな頬と錦糸のような長い金の髪を見てぼんやりとそんな風に思った。
その間にも、彼女は口の周りにクッキーの食べかすを増やしながら、また一つ星型のクッキーを手に取っていた。
「最近って……そういえば、魔理沙に会うのは久しぶり……かぁ」
「んおぅ、来てほ、ひなかったから」
「……食べて終えてから喋りなさいよ」
「ん~」
頬杖を着いて魔理沙を見やると、彼女はコクリと音を立ててクッキーを飲み込んでいた。
確かに彼女と話をするのは本当に久しぶりだったような気がする。
外出していることが増えたからだろうか。
平穏と言えば平穏だけれど、周囲の情報や新しい話題を耳にしていないことも事実だった。
私の情報の多くは、彼女の持ってくる話題で構成されている。
偏りや彼女独自の意見や主観が混じっているものの、彼女の持ってくる話題はいつも目新しくて面白い。
彼女が話し上手だからだろうか、小さなことでも面白おかしく話が膨らむ。
話を始めれば、夕方になってしまうことも多々あるほどだ。
もっとも、お互いの話になれば話題は尽きることはなく、いつまでも話をしていられそうだけれど。
彼女は私の知る魔法に、私は彼女の知る外の世界や考え方に興味がある。
魔法使いとはまるで違う彼女の考えは、とても面白いのだ。
話し相手としては申し分ないのだけれど。
「……もう、お茶のおかわりない?」
こうやって、物をねだらなければ本当に良いと思ってしまう。
私はもう一度ティーカップに波々と紅茶を注ぐと、再び頬杖を着いて彼女を見ていた。
「あ、そうそう、さっきのことなんだけどな」
「うん?」
紅茶をすすりながら、魔理沙は思い出したように言った。
思わず返事をしてしまったが、なんのことだっただろうか。
「最近、家にいないって話」
「あ、あ~、そのこと」
「……他に何があるんだか」
魔理沙は紅茶をテーブルの置くと、やれやれといった表情を私に向けた。
「べ、別に、聞いてなかったわけじゃないわ」
「あ~、わかってる。心ここにあらず、みたいだけどな」
「もう、茶化さないでよ」
少し怒ってみせると、彼女ははぐらかすようにカラカラ笑った。
「時間を潰せて頻繁に行けるとなると、図書館くらいなもんだろうと思ってな」
「……アンタは、あそこを何だと思ってるのよ」
「ん?もちろん図書館だぜ?」
「……そう」
本当に不思議そうに答える彼女に、頭が上がらない。
無断で本を持ち出す犯人がこんな顔をしていると知って、パチュリーはどんな顔をするのやら。
眉根を寄せて額を抑えている姿が思い浮かぶ。
しかし、最近、行っていないとなると、その気苦労も軽いのかもしれない。
「ふふ」
「んぁ~?」
クッキーを頬張るのを続けながら、彼女は疑問符を向けてきた。
「魔理沙が来ないと本も少なくならなくて安心かもって思ってね」
「あ?なんだ、それ。私は借りてるだけなんだがな」
「はいはい、そうね」
「……借りてるだけなんだがな……」
魔理沙は興味なさそうにふいと横を向いて、更に一つクッキーを口に詰め込んだ。
頬がぷくっと膨らんで、もごもご。
小さなリスか何かみたいに見えて、私はまたくすくすと笑ってしまった。
「……ま、いいけど。それでさ」
「うん?」
「パチュリーが気になるのか?」
「え゛?」
あまりに突然の言葉に、私は瞬間冷凍されたみたいに固まってしまった。
くすくすと笑っていたのが嘘のように口が半開きのまま。
それ以上、閉じることも開けることもできずにいるだけだった。
たらっとした汗なのか何なのか、額の辺りから滑り落ちるけれど、それを隠すこともできないで、身体だけ静止していまっている。
友人はそんなこと気にも留めないで、軽く指を指してみせた。
「だって、アリスが頻繁に外出してるのなんて見たことなかったし」
半開きの意地悪な瞳で私を突き通してくるのだ。
それが、芯にでも触れたのだろうか。
固まった身体はだんだんと解凍されていく。
ようやく表情の変化も起こせるくらいになって、安堵したものの、それも束の間。
身体はある一定のところから、急激に温度を上げ始めた。
「え、え、え……っと、まぁ…………その」
思考も呂律も回らない。
何より、魔理沙の視線がずっと正面にあるのだ。
その視線は、もう全部知っているかのようだった。
……どのみち、魔理沙には誤魔化しきれない、かぁ。
それだけ思い浮かぶと、私は小さく首を縦に振った。
「………………うん」
上から下に視線も流れる。
返事をしようと決めたけれど、正直に答えたら、顔からは火が出るようだった。
「へぇ。やっぱりなんて思うけど、なんか意外だ」
「そ、そうかな?」
魔理沙は、驚き半分というように答えてみせた。
彼女の様子を見て取れない私は、その表情を想像することしかできない。
でも、その口ぶりから、実際に意外だったようだ。
「ああ。だって、二人じゃあんまり合わなそうだからな」
「そ、そんなこと……」
だから、こんなにもストレートに彼女は言い放ってくるんだろう。
普通なら言い難いようなことも、魔理沙はズバッと言ってのける。
わかってか、わかっていないのかは知れないけれど、毎回それが的を得ているのだから堪らない。
今だって、そんなこと考えたこともなかったのだ。
改めて考えてみる。
物静かでなんでもできそうな彼女は、どこか大人びていて、どんなことでも難なくこなしてしまいそうだ。
一方の私と言ったら、見通しが甘いというか詰め切れないというか、押しきれないというか……。
考え方だって違うんだろうなぁ。
見えている風景さえ違うかもしれない。
「…………う~、合ってないのかも」
あまりの差に思いがけず気付かされてしまった。
私は、頭を抱えるようにして机に突っ伏すと昨日と同じようにうめき声を上げた。
もうこれは相性ではないくらいの決定的な壁が見えた気がした。
「ま、まぁ、いいんじゃないか。それにきっと、パチュリーも悪い気はしてないと思うぜ」
「…………そうかな」
恨めしそうに魔理沙を見上げると、彼女は苦笑いしたように言葉を続けた。
「ああ。私が行くと平たい目で、じーっと見てくるしな。無言だけど、帰れって言われてるようなもんだ」
「それは、日頃の行いが悪いからでしょう」
「はは、そんなことないぜ」
魔理沙はうそぶくようにして視線を宙へと泳がせた。
両手を頭の後ろにやる素振りで、今にも口笛を吹き鳴らしそう。
私は上体を起こすと、今ここにはいない紫の友人に代わって、黒いヤツをじっとした視線で捉え続けた。
「…………」
「…………」
魔理沙は次第に視線を落とすと、ちらちと私を盗み見みた。
「反省は?」
すかさずに告げる。
こうでもしないと何時まで経っても、はぐらかしてしまうだろうし。
逃げ場のなくなった魔理沙は案の定、帽子を目深にかぶって顔を隠した。
「……あー、あ、こほん。……悪気ばっかじゃないんだけどな」
本当に素直じゃないんだから。
あの帽子の下では、相当バツの悪い顔をしているに違いない。
拗ねた魔理沙の表情を想像して、私は噴きだすように嘆息してしまった。
「よろしい。その旨は伝えておいてあげる」
「…………別にどっちでもいいけどな」
「はいはい」
くすくすっ。
もう堪えられないと、私は小さく笑っていた。
口元に当てた手の甲も効果無く、くすくすと笑いは溢れに零れていく。
それはとても自然で意識もしないものだった。
「……」
自然で……普通な……。
「どうかしたか?」
「……あ、えっと……」
彼女の言葉が、私の意識を引き戻した。
こうして魔理沙と話をしている感じが自然なんだろうと思ってしまっていたのだ。
肩肘も張らずに、意識することもなく話して笑う。
とても簡単なことのように思えた。
けれど、そんな意識もせずにしていることが、パチュリーに対してどうしてできないんだろう。
「…………自然に話をするってこういう感じなのかなって思って」
「ん~、まぁ、そうなんじゃないか」
「……そうよねぇ」
私は無意識に下がってしまっていた視線をほんの少し持ち上げた。
「なんだ?パチュリーとはうまく話せないのか?」
やっぱり彼女は鋭い。
誰とか、そんなこと言っていないのに彼女は言うのだ。
「う~ん……、こういう風に話せてはいないかなぁ」
だからといって、うまく話せていないかと言われれば、そうでもない気もする。
私と彼女は、あの座席の距離みたいに中途半端で、曖昧なんだろう。
「もっとお話して、知りたいなって思うんだけど、ね」
なんだかもどかしくなって、私は両手の指たちを先端でもって合わせた。
押したり引いたり。
自由に動いてくれる指を弄ばせて、溜息をついた。
「……変かな」
「いんや、ちっとも、全然」
魔理沙は気のないような言葉で返事をしたけれど、私から目を反らすことはなかった。
どこまでも真っ直ぐな瞳が私を見つめていた。
「……」
それがなんだか、嬉しくもあり、頼もしくもあり……羨ましくも……ある。
それがあったら、こんな風に思い悩むこともないのかもしれない。
「むしろ、いいんじゃないか」
私のそんな勝手な思いも知らずに、魔理沙はにこりと微笑んで見せた。
「…………」
それがあんまりに純粋すぎるから。
「…………どうかしたか?」
「……あ、ううん、なんでも……なんでもない」
私の心の虫なんて、ちっぽけに思えてしまうくらいだった。
「……ありがとう」
私はようやく返事をしたけれど、彼女の言葉を素直に喜べる自信はどこまでもなかった。
どこまでも、パチュリーとの差を意識してしまうんだろう。
だから…………どこまでも私は言葉を繋げることができないでいた。
「……」
「……」
ぼんやりと俯いて、ぼんやりと瞳が手や膝を捉えるばかり。
……ぼんやり。
はっきりとしない視界は、だんだん滲んでいくようで。
「――――知ってるか」
「え?」
滲んだ景色を友人の声が遮った。
パッと顔を上げてみると、頬杖をついた友人が私を覗き込んでいた。
少しまどろんだような緩やかな、はにかんだような表情で私を見る。
眠たそうな瞳が向きあうと、彼女はゆっくりと眠るように瞳を閉じた。
「…………私の世界を変えるのはいつだって貴方で」
「?」
彼女はそのまま、緩やかに言葉を続けた。
「自分だけで作り上げた世界は簡単なんだ。妥協も限界も決めれるからな。ある意味カンペキ。でもカンペキじゃない。小さくて狭いって言うのかな。それはきっと、先も短くて、壁まであるんだろ。ただ、そこに貴方という人物が加わったら、それはどこまでも広がる可能性を見せてくれる」
夢を語るように、夢の中にいるように、彼女の言葉は響いた。
説明をしただけの言葉は、そう長くないはなかった。
ほんの数秒の言葉だったはずだ。
けれど、彼女が語った言葉は一冊の物語のように感じられた。
「……なんだかすごいわね」
膨大な量の一片を垣間見たように、私は思わず感嘆の言葉を漏らしていた。
「…………他人ごとみたいだな」
「え?」
私の言葉を合図に、彼女は夢からすっかり覚めてしまったようだった。
呆れたように半眼を向けると、はぁ、とため息を浮かべる。
「……あー、いや、なんでもない。それで、だ。この言葉の最後の『貴方で』の『で』ってなんだと思う?」
「え?えっと……それで、終わりではないっていうことかしら……」
私の返答に彼女はニヤリとしていた。
ただで答えを教えるつもりじゃないんだろう。
「さて、な」
ほら、やっぱり。
魔理沙は満足気な表情を浮かべて、上体を起こした。
そうして、クッキーを一つ。また星型のを摘み上げた。
まばらに残るのは三日月と人形型と。
「…………私のとっておきだぜ」
少なくなっていくクッキーを眺めていると彼女はポツリと言った。
独り言のように浮かべられた言葉は……。
「とっておきの受け売り、さ」
やっぱり、独り言だったのかもしれない。
この友人が、こんなにも素直で優しいわけないのだ。
彼女は懐かしむように瞳を遠くへ向けた。
そうして、思い出したように恥ずかしそうに可愛らしく頬を弛緩させた。
彼女を眺める私も、きっと彼女と同じような顔をしているに違いない。
こうして眺めているのも悪くないなぁ、なんて。
しかし、その様子をしばらく瞳に映していた私は、少し意地悪してみたくなった。
「ねぇ、さっきのどういうこと?」
「さっきの?」
「他人ごとみたいだなって」
なにか得も言われぬことを言われていた気がしていたのは確かだったし。
私の問に、彼女はぽりぽりと頬を掻いて、宙を見やった。
「……アリスはアリスで大変なんだろ」
「ねぇ、どういうこと?」
「ま、ちゃんと言葉にしなきゃダメなんだぜ」
「……え、あ、う、うん」
追求しようと試みたものの、あっさりと返されてしまって私は言葉を詰まらせた。
むむ、毎回こんな感じじゃ、押しが弱いって思われちゃ……。
「……その感じじゃ全然ダメそうだな」
「えっ!?」
魔理沙は大きく溜息を付いたけれど、とても楽しそうに笑った。
「そ、そうかな」
思考を遮られて、慌てながら言葉を探す。
簡単なはずなのにいつまで経っても、見つからない言葉たち。
そもそも、彼女はなぜ、言葉にしなきゃなんて言ったんだろうか。
「はは、アリスっぽいな」
「ふぇ?」
そう言って、彼女は悪戯そうに歯を見せて笑った。
本当に楽しそうに彼女は笑っていた。
「……はぁ」
まだまだ私の言葉はでてきそうもないのだ。
私は自分にため息をついて、考えるのをやめた。
こういう時は、焦っても慌ててもしょうがない。
少し頭を冷やしてみるべきなんだ。
「………………くす」
そう思ったら、なんだか可笑しくって。
私は笑いをこらえながら、魔理沙を見やった。
彼女はやっぱり楽しそうだ。
遠慮なく剥き出しにした歯に、柔らかに瞳を曲げる。
黒い服装の友人はどこまでも明るくそんな風に笑った。
それは、とても魅力的なのだ。
彼女の日頃の行いもなんのその。その笑顔で補ってあまりあるような。
真っ直ぐな彼女。
そんな風に素敵に私もなれたらいいな、なんて。
くすっ。
私は歩大杖をついて、再び美味しそうにクッキーを頬張り始めた友人をみて、小さく笑っていた。
◆ ◇ ◆ ◇
「――――魔理沙っ!!」
私は怒鳴ると同時に、図書館の扉を弾くように押し開けた。
絵に描いたような音を立てて両開きの扉が開け放たれ、空間に残響する。
その衝撃音が鳴り止まぬまま、大股で室内へ侵入を開始した。
荒い足音が混ざって響き渡り、一人なのに行列をなしているかのような錯覚を起こしそうだった。
いや、行列には違いなかった。
私の後ろには繰り出す糸によって連れられた人形の軍勢が、同じようにして歩いてきているのだ。
金属類の武器や防具を持った人形たちは、時折擦れるようにぶつかり合って、硬質な摩擦音も形成していた。
私は、がちゃがちゃとした音も気にせずに図書館の中を乱暴に歩き回った。
探しているのはもちろん、霧雨魔理沙ただ一人だ。
「魔理沙っ、いるんでしょう!?見たという人がいるんだから、居るのはわかっているわっ!!観念して出てきなさい!」
返事を待つこともなく、尚も歩き回るけれど、姿形も返事も、気配すらそこにはなかった。
……どこに逃げ込んだのかしら。
一度立ち止まって、注意深く周りを見回す。
しかし、図書館には私たち以外の物音もなく、黒いヤツの姿はどこにもなかった。
周囲に張り巡らせた人形たちも目標を察知できぬまま、目を光らせるように警戒を厳にしているだけだ。
「……」
まったく、なんてことをしてくれたのだろうか、魔理沙は。
積もりに積もった苛立ちを抑えきれず、私は、息を吐き出した。
目を閉じて思考を回そうにも、思い浮かんでくるのは朝方のことばかりだった。
そう、事の発端は今朝だ。
目覚めてみれば、家の中は散らかり放題になっていたのだ。
玄関の靴は吹き飛んだようにバラバラだったし、リビングのテーブルは激突したんじゃないかというように壁に立てかかる変容ぶり。
警備用に設置しておいた人形たちは、破損こそしていなかったものの、文字通り糸が切れて至る所に倒れている惨状を見せていた。
そして、最悪なのはその先。
昨日の夜中まで、作業を行なっていた部屋へと私は向かった。
そこは人形の制作などを行う、私にとって心臓とも言える部屋だ。
扉には厳重に鍵や細工を施しているものの、何かあっては一大事どころでは済まない。
焦りを伴いながら、部屋につくが、そこは他とは異なり異常は見当たらなかった。
掛かったままになっている鍵にも内心ほっとしながら、部屋の中へ。
作業場は、やはり平穏そのものだった。
少しばかり物が散乱しているが、いつもの風景と変わりない。
しかし、もう一度、安堵したところで、一枚の紙切れが置かれていることに気が付いた。
それは、とにかく書き殴った字。
『ちょっと借りてくぜ』
魔理沙の最悪な書き置きだった。
書き置き自体が悪報なのに、よりにもよって持っていったものはパチェリー人形という最悪さ。
持っていかれたことに気が付いた時には、目眩すら起こして倒れてしまいそうなくらいだった。
久しぶりの彼女の悪癖に言葉が無い。
あの人形を持っていくとは本当に命知らずなんじゃないかなんて思ってしまった。
何時もならば、怒りを通り越して呆れてしまう。
しかし、今回ばかりは怒りを通り越して呆れへ。そのまた呆れを通り越して怒りまで到達している状況だ。
胸中穏やかでなかったものの、彼女を早急に捕まえなければならないということだけは、はっきりしていた。
特にあの人形が模した本人に知れることは、どうしても避けたい。
私は周りの被害状況に目もくれず、回りきらない思考のまま行動開始した。
そうして、情報を頼りにここまで辿り着いたわけだけど……。
「魔理沙、出てきなさいっ!!」
お尋ね者の所在は未だに明らかにならない。
再び、等間隔に整列した本棚を進む。
前方、左右、後方全てに人形たちを配置して索敵は完璧。
どんなにうまく本棚の陰に隠れていようとも逃れることはできないはずだ。
それに、もしものために出入口には武装した強固な人形たちを守備にあたらせているから、足の早い魔理沙でも簡単には突破できないだろう。
図書館は完全に包囲している。
逃げ場も確実に狭めていっているはずである。
それでも、私の歩調は早いままだった。
意識だけが前へ前へと独り歩きしていくように私は進む。
「――――魔理沙っ!!!」
聞き耳を立て、本棚をひとつ越えては視認を行って、それはもう徹底的に。
そして、尚も、声を荒げながら黒い魔法使いを探していった。
けれど、やがて。
図書館の果てにぶつかった。
結局、無機質な壁にしか遭遇できなかったのだ。
「……」
のっぺりとした白とも黒ともとれない壁が、なんとも重圧にそそり立っているだけ。
視認できる天井はほんのり暗く、壁と同じように浮かんでいた。
……これはどういうことだろう。
確かに入り口から隈無く探索しつつ進んできたはずだ。
人形たちも完璧な動きをしてくれている。
つまり、はじめからここにいなかったのだろうか。
「……確かに、美鈴さんが来たと言っていたのに」
情報提供者が彼女なら、嘘を言ったとは考えにくい。
では、なぜ魔理沙はここにいないのか……。
首を捻ってみたけれど、その考えは一向に答えに向かおうとしてくれない。
しばらくそうしていたものの、結局ラチが開かなかった。
「…………はぁ」
私は重たい息を吐き出した。
全身にこもったモヤが抜けていくような感覚を覚えながら、更に吐き出す。
吐いて、吐いて、そのうち、揺らぐような目眩を覚えて、息を止めた。
「…………」
呼吸を止めると、ぴたりと停止した空間が広がっていた。
物音も無い、広い空間。
その空気に溶け込むように目を閉じて、息を吸う。
この空間と一体になってしまえば、感触だって得られるんじゃないだろうか。
…………。
けれど、一体になんかなれるわけもない。
ましてや、感触なんてものもあるはずなかっただろう。
それでも、なぜか。
なぜか、私はこの場に、魔理沙がいないということを悟った気がした。
ここまで来てようやく、諦め半分、焦り少々と思考をやや落ち着かせて、目を開ける。
…………ほら、のっぺりとした壁があるだけ。
とにかく、もうこうなっては仕方ない。事実、彼女はこの場にいないのだ。
早急に違う場所を探すだけだ。
私は意識を切り替えて、大きく息を吸い込んだ。
そう、それでも尚、確認のため、というか、なんというか。
大きな声を出しておきたかった。
「――――――――魔りっ」
「図書館では静かにしてくれないかしら」
「!?」
しかし、私の声は口から広がろうとした途端に掻き消されてしまった。
上書きしていったのは、静かな凛とした一言。
後方から飛んできたその声音に、私は驚いて振り返った。
そこには、紫の影がぽつり。
図書館の主であるパチュリーが佇んでいた。
「図書館では、静かにしてもらいたいのだけれど」
「あ、ご、ごめんなさいっ」
どうやって人形たちの包囲に気付かれずに、という疑問を抱くよりも前に、私の口はそんな言葉を発していた。
「……わかってくれればいいわ」
彼女は短く告げると、踵を返して歩き出した。
「あっ、待って」
なぜだろう。
私は無意識のまま、慌てて彼女の後を追いかけていった。
彼女は足音も無く、目印の無い本棚の列を進んでいく。
「…………」
少し怒っているのだろうか。
何も言わずに進む彼女からは感情を読むことはできなかった。
顔を合わせているわけではないのだから当然といえば当然だれけど。
私は人形たちの操作を解除して、おずおずと彼女の背中を追うことしかできないでいた。
曲がっては進み、また曲がって、曲がって……。
軽やかに彼女は進む。
歩調は早いわけではない。
それなのに、ついていくのがやっとだった。
パチュリーはそのまま迷うこともなく、いつものテーブルの場所にたどり着くと、定位置の椅子へと腰を下ろした。
「…………」
「座らないのかしら?」
「えっ!?」
「……図書館に用事ではないのかしら?」
ぼんやりと立ち尽くしていた私に、彼女は不思議そうに目を向けた。
「え、えっと、そ、その…………」
用があるといえばあるけれど、図書館にというわけではない。
しかし、魔理沙を探していることを伝えるのは、なんとなく切り出しにくかった。
私は返答もできずにただあたふたとしていた。
口を開いたり閉じたり、彼女を見たり見なかったり。
伝えようと試みてみるけれど、自分自身で無駄な情報を振りまきかねない。
結局、その返答をすることもなく私は黙っていつもの席に座り込んだ。
「…………」
「…………」
パチュリーは私が席についたのを一瞥して確認したようだった。
そうして今度は本に目を落として、ただただ、そのまま。
ゆっくりとページを捲る。
「…………」
私も、ただただ、そのまま。
彼女のそんな動作を眺めていた。
「…………」
そのまま、じっと。
彼女は微動もない。
自動的に本のページだけがめくれていくようだった。
……チク、タク……。
チク……タク。
ふと、音が浮かび上がった。
いつもの規則的な柱時計の音。
それは、いつの間にそこにあったのだろうか。
そんなこともわからないくらい、ぼんやりと彼女のことを見つめていた。
そう。
図書館に来た目的も忘れるほどになって。
「……魔理沙なら」
「………………え?」
だから、彼女の言葉にひどく遅れて返事をしていた、ように思う。
返事は、自分で思うくらい間の抜けた声だった。
私は完全に意表を突かれて、彼女を見やった。
「さっきまでいたわ」
「あ」
そうだ。
私は魔理沙を探して、ここまで追いかけてきたんだった。
……だから急いで探さない…………と。
そう思って、彼女の隣に置かれた椅子が目に入った。
わざわざ近くに動かされた椅子の主は不在。
けれど、きっと魔理沙が座っていたんだろう。
戻されてもいない乱雑な向きになった椅子を見て思う。
きっと、ここにいたんだ、と。
「…………」
音も無くどこかから息が漏れた。
それは、あの人形がパチュリーの近くにないという安堵か、はたまた…………。
……チク、タク……チク……タク。
針の音は遅く、早く。
規則的なはずなのに感覚を狂わせるように鳴っていた。
鼓膜は音を捉えたまま。
視線は空っぽの椅子を捉えたまま。
じっと、私は停止していた。
見つめ続けていても、椅子の距離が変わるわけはない。
それが、より一層、恨めしくって。
……………………いじわる。
ここであったであろう全ての出来事が、そう思えてならなかった。
「……貴方でも」
「……」
私は今度こそ彼女の言葉に反応することができなかった。
……チクタク。
音が一拍通り過ぎて、
「……貴方でも、怒ることがあるのね」
彼女は繰り返すように告げた。
「…………」
彼女はポツリとだけ言って、私に視線を向けた。
少し眠たそうな紫の瞳と真っ直ぐに出会う。
私は、なんだか下を俯いてしまった。
視線を合わせるのなんて、普段なら当たり前にしているはずなのに。
「…………」
……貴方でも、怒ることがあるのね。
そんなたった一言が、なんだか恥ずかしくって、それはそうだろうとちょっと引っかかって……胸がキュッと締め付けられるようだった。
見透かされてしまいそうな瞳に…………私はどう映っているだろう。
また、胸が締め付けられた気がした。
それは肩に手を添えたくらいの感覚だったかもしれない。
とても小さな触れるような感覚。
けれど、それは伸し掛かっていくようだった。
少しずつ、少しずつ、私の心を締め付けていく。
そうして、まるで絞り上げてしまうくらいだった。
息をどこに吐けばいいのだろうか。
いや、どうやって息をつけばいいのだろうか。
そんな思いも知らず、無遠慮に力は込められて、心が押される。
キュッと、ギュッと。
逃げ場もなく、そうされていた。
…………その圧力に、心が先に音を上げたんだと思う。
「…………へ、変……かな?」
私は思わず、口に手を当てた。
俯いたままで、その言葉自体、彼女に届いたかは疑問だけれど。
でも、私の中から漏れ出た言葉は、その後も止めどなく溢れてしまいそうだった。
そんな風に感情のまま言葉を漏らすなんてこと、したくはなかった。
「…………」
「…………」
けれど、きっと期待していたんだと思う。
私の意思とは関係無く溢れた言葉だったけれど、その言葉に彼女はなんと言ってくれるだろう。
チク……、タク……。
……チク…………、タク…………。
「別に、可笑しくなんてないわ」
………………ちく。
時計の針の音に紛れて、そんな……。
「…………そう……かな?」
彼女の変哲もない、無表情な返答。
いつもの彼女と変わりない言葉だ。
変わりない……はずなのに。
そんな日常的なことが、なんだかとても、とてもとても、胸を刺していた。
「…………」
私は何を期待したんだろう。
紛れも無い私の言葉は、今はもう床にへたり込むようになって、ずるずる尾を引いていた。
尾というよりも頭部のようで、それはもう私を下へ下へと引っ張っていく。
こんなのじゃ、彼女の意思も確認できないじゃない…………。
自分自身の後悔を振り返ることしかできなそうだった。
けれど、私を引き上げたのは、パチュリーの本当に小さなつぶやきだった。
「…………私だってそうよ」
「え?」
「私だって、よく怒るわ」
彼女は言って、軽く髪を掻きあげながら、ぷいっと横を向いた。
「……特に、レミィには困ったものだから」
表情こそ変わっていないけれど、少し口を尖らせ、恥ずかしそうにしているようだ。
なんだか言い訳をする子供みたい。
いつもの大き目の服も相まって、どこか背伸びした印象がそこにあった。
「……」
怒った彼女を私は知らなかった。
今みたいに、言い訳をする彼女も初めて見たのだ。
私の知らない彼女。
それを垣間見たことがなんだか嬉しくて。
でも、私の知らない彼女いることが、どこか切なかった。
私は言葉の重みからは開放されたものの、胸はそのまま。
そのまま締め付けられて、痛みを伴ったまま、じわりと滲んでいるようだった。
「……そ、そうなんだ」
「……ええ、そうよ」
「…………そ、そうだよね、怒らない人なんていない……し」
「……あまり想像つかないかしら?」
パチュリーは訝しむような口調だった。
よくよく見れば、先程とは打って変わって、眠たげな瞳が私を捉えている。
「え、えっと、そ、そうかも」
私は誤魔化すように笑みを浮かべて身をよじった。
これ以上の返事は、もう、できそうになかったから。
もしかすると、再び言葉が溢れてしまうかもしれない。
私は小さく口を閉じると、視線をわずかに反らしていた。
じっと、彼女の瞳が向いているのがわかる。
けれど、やっぱり視線を合わせることができなかった。
やがて彼女は、考えこむようにして右を向いて、下を向いて、そうして宙を見やった。
顎がくっと上ると、重力を乗じた髪が重さなんてないくらいにさらりと落ちる。
ふとした視線の先は何もないはずだ。
図書館の白とも黒ともつかない天井が遠くにあるだけ。
ぼんやりと彼女はそうしながらも、口唇を動かした。
「……そうよね。そういったことを見る機会なんて、なかなか無いでしょうし」
落胆ともつかない、呟きが漏れる。
それは次第に小さくなりながら、
「…………だからこそ私は……、そんな怒った貴方を見れたことが、とても嬉しいのだけれど…………ね」
ポツリ、と。
私は耳を疑った。
彼女から発せられたのは、彼女らしからぬ言葉だった。
思っていても、きっと口に出さないであろう言葉は「とても」なんて付け加えられていた気がする。
私の少し大きく開かれた瞼と同様に、開いた口元はうまく閉じてくれないでいた。
膝に置いた手だけが汗ばんで、鼓動に呼応するように力が入るばかりだった。
私は過ぎ去った彼女の言葉を拾うように、食い入るように正面を見つめていた。
「……」
「……」
すると、彼女は視線だけ私に向ける。
見下ろすようになった視線は、やはりぼんやりと。
しかし、瞳を隠すはずの紫の髪は左右に別れるように真っ直ぐ下に降りていて、その双眸をはっきりとさせていた。
半開きの眠たげな瞳が私を映している。
「……」
「……」
彼女の言葉。
それだけを私は待った。
繰り返しではなく、続きでなく、何の変哲もない言葉を。
……チク……タク。
チク……タク……。
消えかけていた時計の振動が再び浮かんで、私達を包んでいた。
いや、それは、私にだけかもしれない。
…………チク……タク……。
チク…………タク。
……チク……。
………………たく。
パチュリーは、きっとまた何かつぶやいたんだと思う。
唇に動きはなかったけれど。
……ただ、そう思った。
彼女の瞳が本当にわずかに細められていって、私を見やる。
ゆっくりと閉じる瞳の速度に合わせて、首も下へ。
徐々に真っ直ぐになって、それから更に……視線が落ちて――――、
「――――ああっ!!」
突然の大声に彼女は驚いて正面を向き直った。
今までの動きが嘘のように早い動作になり、ぴっとした姿勢で私を直視していた。
声の発生源は今までテーブルにしっかりと腰をかけていたはずの私からのものだった。
声もさることながら同時にテーブルに乗り出した身体が恨めしい。
しかし、これが、そうしないでいられるだろうか。
今まで、どうして気が付かなかったのだろうか。
それは、彼女の膝の上。
座っていても本当にわずかに帽子が見え、こうして身を乗り出せば、その胴体までだって優に見て取ることができていた。
そこには、あの、例の、彼女を模した人形が行儀よく座って顔を覗かせていた。
それはもう、奥ゆかしく、ボタンの瞳で本を読んでいるようだ。
あれだけ彼女に目を向けていたというのに、どうして気が付かなかったのだろうか。
本当に、本当にわからなかった。
「あ……えっと、その……あ、あはは」
思わず大きな声を上げてしまったけれど、ここで慌てるわけにはいかない。
なにせ、彼女にばれないようにするために急いで魔理沙を探していたんだから。
さり気なく……さり気なく……。
私は硬くなった頬にムチを打ってにこやかに微笑んで見せた。
「あ、あの、それって……どうしたの?」
「それ?」
彼女は眉根を寄せながら、私の視線を追いかけた。
膝の上を占拠する人形を指しているのだとわかると、彼女は短く息を吐き出した。
「……あぁ、この人形かしら。魔理沙が置いていったのよ。何冊か本を返していって、ついでにこれを預かってくれって」
「そ、そう」
「……お詫びのつもりなのかは、はっきり言わないものだから、なんともだけれどね。…………でも、私としては…………案外気に入っているわ」
彼女は本当に満更でもない様子で、人形を抱いていた。
薄い表情がほんのりと赤く染まったように見えなくもない。
きっと、彼女はその人形も表情も、誰にも見せる気なんてなかったのだろう。
私も思わず頬を緩め…………あれ?
「……頬がピクピクしているけれど、大丈夫?」
「え?そ、う……かな」
「ええ。もうまるで痙攣しているみたいに」
うまい具合ににこやかにしていたと思っていたけれど、そんなこともなかったみたいだった。
手を当ててみれば――――本当だ。
ぴくり、ぴくりと大きく震えている頬があった。
私は収まりのつかない頬を、きゅっと摘んでみせる。
ぴくり、ぴくり……。
そうして、やっといつものように落ち着きを取り戻した。
「……そ、それなんだけど……」
「この人形のことかしら?」
「えっと……その」
何と言ったらいいのだろう。
こういう時にも言葉はでないものだった。
「……」
彼女はぼんやりと私の様子を見やっていたけれど、ふぅと吐息を漏らして手を動かした。
ゆっくりと人形の胴に両手をかけ、胸くらいまで持ち上げてみせる。
そうして、ピコピコと手を動かして、
「…………や、やぁ……アリス。……今日は……いい天気、ね」
腹話術を真似て、人形を操った。
しかし、彼女の口は半開きどころか、普通に動いてしまっていた。
彼女は一言だけ言い終えて停止したが、反して、人形はピコピコと動きを続けていた。
合計四つの目がじーっと直視してきている状況に、私は押され気味な笑みを浮かべることしかできなかった。
ピコピコと休むことを知らないパチュリー人形はいつまでもそうしていそうだった。
あまりのパチュリーの無表情さと、人形の動きの可愛らしさにどう反応したものかと考えるばかり。
それに、どうやって人形の回収をしたら良いのか、なんて思いが頭を何度もよぎって考えを遮っていた。
そうこうしているうちに、パチュリーは急に人形の行動を辞めさせた。
無表情のだけれど、ムーっと結んだ口元から諦めるような溜息が抜け出ていった。
「……うまくできないわね」
彼女はつぶやいて、向き合うように人形をぽすっと机に座らせた。
それと同時に、背中を丸めて人形を見やる。
不思議なものを観るようにマジマジと人形を覗き込む仕草は、恥ずかしさを隠しているように見えなくもない。
けれど、そんな彼女の表情を確認するより先に前髪が降り重なって、表情を隠してしまった。
彼女はそうして動きを小さくしていた。
人形に向かって、近づいたり離れたり。
じっと見ているからか、その動きは緩慢だ。
そんなゆっくりであっても、人形と紫の髪に遮られた表情はやっぱり見て取れない。
彼女は、どんな顔をしているんだろう……。
少し横に動けば見えるかもしれない。
少し覗き込めば見えるかもしれない。
けれど、この場所から動かなければ、彼女を確認する術はどうにもない。
わかっていても、私は動くこともなく、彼女のことを見つめていた。
…………。
彼女は、やっぱりずっとそうしていた。
頭だけが、前後にゆっくりと揺らめいたまま。
動きは、やっぱり小さくて……。
その様子は、なんだか…………夢で見た、居眠りしていた彼女を思い出させた。
「…………」
さらりとした髪が、カーテンみたい。
俯いた瞳をわずかに透けるように隠しているのだ。
瞳を閉じているのか、下を向いているのからなのかは定かではないけれど……。
目に映る光景は、あの時見た夢の中のようだった。
柔らかい明かりの元で、ウトウトとしているような彼女はやっぱり神秘的に映る。
私はその様子を呆然と見つめることしかできなかった。
…………夢の中の私だったとしたら、動くことができたかな。
数歩進めば届く距離に彼女はいる。
うつらうつらとした様子で、行動は止まったまま。
けれど、私はやっぱり、夢のようには動き出せなかった。
あの時だったら、空気よりも軽く足は動いたんだろう。
意識もせずに、流れるままに歩いていける気がする。
それが今は、どうしても動き出せないでいた。
「……」
寝ても覚めても見ていた夢の風景には、どうしても近づけない。
今までと同じように、近くから、遠くから、ねだるように眺めているのが精一杯で……。
ゆらりと、カーテンが揺れて、彼女の瞳も揺れた。
カーテンからわずかに露わになった瞳は、少し上目遣いで、確かに私を見つめていた。
伺うような、求めるようなそれは、どこか見覚えがあった。
「……」
それは……鏡に映った私みたいだった。
貴方には、どう伝わっているだろう。
貴方に、どう伝えたらいいんだろう。
そんな、疑問ばかりの心細い思い。
黙ったまま、いえ、言い出せないままの物憂げな瞳は、溢れるように、滲むようにあやふやな想いを孕ませているようだった。
「…………」
そうして、彼女は何も言わずに瞳を隠した。
また、うつらうつら。
頭を揺らして、人形と向き合う。
……同じなの……かな。
私たちはそんな風に止まっているのかもしれなかった。
同じように思って、同じように相手を向いている。
きっと…………、そうだ。
けれど、それがわかったとしても、決して動き出そうとしない自分自身がいた。
動き出すためのきっかけ。
それが、どこにも見当たらない。
何か一つでもあったなら、私はきっと……。
こんなときには、柱時計が鳴ってくれることもなかった。
…………私は……きっと……動き…………出せる、のに。
………………ううん、…………きっと、これは言い訳なんだ。
動き出せない理由を何かのせいにしているだけ。
だって、そうすれば、きっかけがなかったとしても……タイミングがなかったなんて。
…………諦めきれる……から。
そうやって、諦めてきたものも、たくさんあった気がする。
けれど。
今、目の前に展開されている光景は……。
夢の続きを、夢の先を滲ませている。
このままで、いいの?
もし、ここで何かきっかけが起こって動き出しても……私が得たものは……。
得るという意味では代わりがない。
でも、それは、本当の意味では無いんじゃないだろうか。
毎回のように何かを、誰かを待っている私は、本当は何も得ていないんじゃないかとどこかで思った。
同時に、私へ差し伸べられた、けれど、見過ごしていしまっていた言葉を思い出した。
さっきだってそうだ。
パチュリーは、あんなに声をかけてくれていたのに。
普段なら取らない行動や話をして、私に一歩近づいてきてくれていたはずだった。
そんなことに微塵も気が付かずに私はいた。
彼女からしたその一歩は、どれほど勇気のいることなのかは計り知れない。
けれど、私では、その一歩を到底踏み込む勇気が……ない。
そんな私を、私は射抜くように見つめていた。
…………なんて臆病なんだろう。
卑怯で……………何よりも弱くて…………。
…………。
こんなのでは、自然に接するなんて夢、叶うわけもない。
ましてや、あの友人のように笑うことなんてできるわけもない……。
ちらりと、空白の椅子へと目線がいった。
あの魅力的な笑みを浮かべる友人の痕跡が残った空間。
……もし、彼女がここにいてくれたら…………。
…………また、だ。
嫌気が差すくらいの私の悪癖。
それが、止めどもなく溢れてきていた。
本当は、私にはなんの力も無かったんじゃないか。
ここまで来れたのは、誰かが必ず手を引いてくれていたからで。
得たものもなかったけれど、力までない。
そう思えて仕方がなかった。
私は俯いて、押し潰してしまうくらいの力で瞳を閉じた。
自分自身への無力が嫌で、苦しくて、呆れ返るほど馬鹿馬鹿しくて。
でも……それでも、夢を見てしまう自分が……悔しい。
閉じた視界はどんどん暗くなっていく。
瞼の上から差す光も届かないくらい、黒く、黒く……。
そこは、ひんやりとしていて、心細くて。
……誰か…………。
…………。
いつものように、誰も答えてなんかくれなかった。
それも当然。
こんなに叫んでしまいたいはずなのに、声も出せない自分がいるだけだったから。
…………。
………………こんなになっても、誰かを呼んでしまうなんて…………。
暗闇の中は、とても静かでどこまでも沈んでいけそうな程。
けれど、沈み行く所々に様々な私の記憶が浮かぶ。
それらはやっぱり、誰かと一緒にいる自分だった。
一人のものもあるけれど、それは築き上げられた環境に一人でいるだけだ。
…………私が、持っていたものは全部、幻だったのかな。
何もかも、幻のようで、夢なんて一つもない。
私は魅せつけられながら、暗い中へと。
そんな真っ暗な中で、一瞬だけ。
――――ちょっと借りてくぜ。
一瞬だけ、閃光のような光が私の手を取った。
それは、気のせいかもしれなかったけれど。
けれど、私は目を見開いた。
開けた視界には暗闇なんてなかった。
いつもと同じように、ただただ空間が広がって、パチュリーが正面にいるだけ。
暗闇の中で響いた声は、確かにあの……黒い友人の声。
彼女の悪癖で……口癖で……私を引っ張ってくれていた言葉だった。
それは、私と魔理沙が初めて出会った、いいえ、魔理沙が初めて現れたときと同じ言葉。
私を突き動かした一言だった。
結局、きっかけではあったけれど。
あの時、私は彼女を追いかけて、追いかけて――――言ったはずだ。
『貴方は、なに?』
彼女を捕らえて、根掘り葉掘り聞いたりして。
それがなかったら、きっと、魔理沙とは一緒にいることはなかったと思う。
きっと……パチュリーともこうして居ることもなかっただろう。
唯一、私が胸を張って、本当に得たと言えるもの、かもしれない。
…………自信なんてないけれど。
魔理沙は、全部知っていたんだろう。
だから、私が怒ると知ってまで人形を持っていた。
そうまでして……。
『……知ってるか?』
あの言葉だってそうだ。
受け売りでもなんでも、私を後押ししてくれいた。
『……私の世界を変えるのはいつだって貴方……』
笑った彼女を真似て、私は思わず、
「…………で」
…………ポツリ。
彼女の言葉は、不思議に私を包むようだった。
……どこまで行っても、他力本願だけれど。
でも……、私自身が動こうとしなければ、どこまで行っても意味が無い。
パチュリーの言葉も魔理沙の言葉も、全部、意味を無くしてしまう。
今更も今更、私はようやくそのことに気が付いた。
ふっと顔を上げた。
そこには、先ほどと変わらずパチュリーがいた。
目線は同じ高さで、お互いを一望できる距離にいる。
けれど、目を凝らさなくても、仕草も癖も一つ一つを見て取れた。
もちろん、声だってはっきり聞こえるはずだ。
ようやく私は、こんな長いテーブルを挟んで彼女と出会ったのだろう。
今は借り物の言葉しか持っていないけれど……。
「…………私の世界を変えるのは……」
唇が震える。
たった一言、呪文を唱えるように。
「…………いつだって……」
言葉に意味なんて無いのに、それを意味のあるものにしたかった。
「…………貴方で」
そんなただのなんの意味もないはずの言葉が繋がって。
彼女は、少し目を開くようにした。
合言葉を聞かされたように。
そうして、身体を起こして、真っ直ぐに、真っ直ぐに私に瞳を向けていた。
そうだ。
あの時とは違っている。
彼女は夢の中とは違って、ウトウトともせず、私に瞳を向けているんだ。
「……」
彼女のその瞳は、言葉よりも意思があることを…………私は知っている。
カタン。
私が立ち上がると、引いた椅子がテーブルに当たって、軽やかな音を立てた。
軽快な音は一つ鳴って、すぐに……。
そうして、いつもの音のない図書館。
時計の音だけが鳴るんだろう。
そこにはいつも、切れてしまいそうな、遮られてしまいそうな声があって……。
…………チク……タ。
――――そうは、ならなかった。
音が消えてしまうよりも先に足音を立てたからだ。
一歩、踏み込んだ足のせいで真っ赤な絨毯がたわんで、サクッと小気味良い音を立てた。
耳をくすぐったはずの音は、本当に聴覚に訴えているのかはわからなかったけれど。
私は一歩一歩、リズムを刻むようにゆっくりと、けれど、音が消えないようにして歩を進めた。
そんな数歩は、近いようで、でも、やっぱり遠くて……近かったんだなぁ、なんて。
私は彼女の隣の椅子へと辿り着いた。
あっさりと辿り着いてしまったような、途方も無い長い道を来たみたいなズレた感覚。
どっちが本当かもわからないけれど、思い出したかのように息をつく。
すると、驚くくらいの鼓動の音に気が付いた。
トクン、トクン、と。
少し早く、少し強く。
じんわりと響く体温みたいな振動を抱きながら、私の視線は彼女と交わった。
トクン――――ドクン。
「隣、いいかな?」
私は椅子の背もたれに手をやって、言葉を紡いだ。
たった一つの、そんな些細な動作だったはずなのに。
鼓動は、耳に直接響くように跳ね上がっていた。
返事を待つ私は、比例して小さくなったような手に、きゅっと力を込めていた。
こんなのは……夢の中とは大違い。
夢の中の私たちは力の抜けた自然な二人だった。
動作だって、音だって、無意識に流れて過ぎ去っていく。
甘い、蕩けるような一時。
まどろむには、心地の良すぎる世界だ。
こんな胸の鼓動も焼け付いてしまいそうに火照った頬も、捉えて離さない視線も、必要ない。
ましてや、声を発することもなくていいんだろう。
そんな夢はなんとも心地が良いけれど……。
けれど…………。
でも……うん。
こんなに、はっきりと彼女が見える世界には及ばないだろうな。
私は、静かに彼女の返事を待った。
鼓動は気分のままに跳ねる。
強く、小さく、けれど、私の中で暴れたまま。
錯覚を起こしたままの時計の針音のように、本当に一定なんかじゃない。
そんな心音が鳴ることに、私は、私だけが感情を抱いていた。
ドクン、トクン――――ドクン。
……彼女が、ゆっくりと動き出した。
あの紅茶を入れる時みたいにぎこちなく、ゆっくりと、ゆっくりと口元がほころんでいく。
小さくて、止まってしまいそうな唇の動きを私は確かに追いかけていた。
やがて口唇が緩やかなカーブを描き、声帯がふわりと上に。
そうして。
「――――――――――ええ」
にこやかに彼女は笑った。
それは、眠ってみた夢よりも、思い描いていた夢よりもずっと綺麗だった。
想像もつかないくらい素敵な素敵な彼女がそこにいる。
私の世界に現れた彼女は、そんな風に佇んでいた。
……私は、うまく笑えるかな。
彼女の世界の私は素敵なんだろうか、なんて。
揺らぐように思う。
けれど、そんなことは考えるのをやめた。
私の言葉は、まだない。
こうしていられるのも、やはり誰かがいてくれたからだ。
私がここにいて、立っていられるのは、誰かの言葉のお陰。
今はまだ、それを返すことも、言葉を紡ぐこともできないから。
だから、せめて。
……笑おう。
先ほどまでの硬くなった意識のことなんか忘れて、私も笑ってみた。
鼓動が鳴る。
私の想いに動かされて。
彼女の言葉に呼応して。
そうして、鼓膜は、内から外から振動を感じたままだ。
それは、鮮やかで、柔らかくて、いつまでも続いて行きそうなほど。
どこまでも、どこまでも、夢の先まで続いて行きそうなほどに――――。
終
良かったです