「せーがー」
いつぞやの異変と呼ばれる騒ぎからどれほどの月日が経ったか。まあ、そこまで経ってはいないのだが、季節は冬。神社、山、館と雪は降り注ぎ、それはこの祀廟においても例外ではない。
空気までも凍りつき、肌を刺激している。そう感じさせる朝。昨夜深々と降り積もった雪は、味気ない地面を上質なソファーの如く彩っていた。
「ざっくざくするぞーざっくざくー」
宮古芳香は降り積もった雪の上でぴょんぴょんと跳ねながら、足跡の残る雪の感触を楽しんでいた。
「あらあら、去年も雪は楽しんだでしょう?」
「そうだったかー?」
そんな彼女の様子を、邪仙、霍青娥は縁側に腰掛けながら、ホクホク顔で楽しんでいた。
芳香はキョンシー。死体。故に腐っている。無論彼女の脳も例外ではない。彼女は物覚えが悪く、物忘れも酷い。
だからこそ、育て可愛がり甲斐のある子だ。少なくとも青娥はそう思っていた。手が掛かるからこそ世話を焼く。柔軟をさせる。
最近では物忘れをしないように、青娥は彼女に日記を書かせるようにしていた。無論日記を書くのを忘れることが多いのだが、文字と文法を覚えきれていない芳香の拙い日記を読むことは、彼女のちょっとした楽しみの一つとなっていた。
「なーなーせーが」
「ん? どうしたの芳香?」
ふと思い出したように、芳香はちょっと大きく目を開きながら青娥に跳ね近づく。青娥は知っている。この顔は、最近新しいことを覚えた顔だ。
「後ろ向いてちょ」
(ちょ?)
どこかの誰かの口癖を覚えたのだろう。変なところで吸収が良いのも、芳香の面白いところだと青娥は思っている。兎にも角にも、芳香は私に何かをしたいらしい。青娥は素直に芳香に背を向ける。そして青娥が感じたものは、肩にかかる軽い振動だった。
(あらあら……♪)
曲がらない肘をピンと伸ばし、芳香は青娥の肩をポンポンと叩いていた。
「カタタタタタタキって言うらしいぞー」
「肩叩きね」
柔和にそれを訂正してやる。
「んーとな、こーすると『ババーガヨロコブ』らしいぞー」
「……」
流石に少しグサっとくる。長生きをしている自覚はあるものの、そこまで年を取った覚えはない。とりあえず芳香を責めはしない。でも芳香に肩叩きを吹き込んだ輩の肩関節を外してやろうとは思った。
「芳香、ババーガヨロコブは間違いよ?」
「んー?」
「私が喜ぶのよ」
「おおっ? ならば毎日カタカタキするぞー!」
芳香の行動のベクトルは、いつも青娥に向けれられている。それが青娥には何よりも嬉しかった。だからこそ芳香のちょっとした間違いや失言を、青娥は広い心で受け入れていたのだ。
「ところで芳香、今日はいつものアレはしないのかしら?」
「あれ?」
肩を叩きながら、芳香は首を傾げる。どうやらまた忘れているらしい。
「さ・ん・ぽ」
「おおっ」
芳香には柔軟体操の他にもう一つの日課がある。それが散歩だ。家に閉じこもるという行為が如何に危険な行為であるかを、青娥は知っている。
人間に限らず生まれたばかりの生物の大半は、視覚からあらゆるものを学ぶ。才児を育てたいのであれば、早いうちから我が子を抱き抱えて外を歩き回ることが一番いい。屋根のついた乳母車など愚の骨頂だ。赤ん坊の視界が狭まってしまう。凡人は赤ん坊を守るため閉じ込めたがるがそれは違う。本当に子を想うのであれば、早いうちから適度に刺激せねばならないのだ。餅も鰹も叩くから美味しいのだ。青娥はそれを知っている。
視覚ほど優れた脳への刺激はない。だから青娥は芳香に散歩をさせるのだ。既に腐っている芳香の脳を腐らせないために。
尤も墓地周辺しか彼女は周らないのだが、それはそれで悪くない。墓地も季節ごとに変化は訪れる。それに不審者が現れたならば、芳香はそれを全力で追い払うであろう。この散歩は芳香のためでもあり、この祀廟を守るためでもある。
「おいじゃー。散歩に行ってくるぞー」
両手をぐばっと上げ、芳香は意気揚々と宣言する。こんな時は、芳香の気分が高揚している時だ。
「行ってらっしゃい芳香。今日も沢山勉強するのよ?」
「おお? 今日も死ぬまでざんぎょーするぞー」
過労死はいただけない、死んでても。とはいえ、芳香の行動に変化はないだろう。だから心配する必要はない。それでも、芳香は何かを学んでくる。時折妙な喋り方や新しい単語を使うのはその証拠だ。
(ふふ、今日は何を勉強してくるのかしら?)
今日もまた、散歩から帰ってくる芳香の変化が楽しみだ。
「ういじゃー、今日もニャンニャンとワンワンしに行くかー」
「……ん?」
いつも以上に聞きなれない言葉を、青娥は耳にした。
(ニャンニャンと……ワンワン?)
ひと跳び5メートル程の勢いで、芳香は遥か遠くへと小さくなっていく、そんな彼女を無言で見送りながら、青娥は妙な不安に駆られた。
「ニャンニャンとワンワン……」
青娥娘々の通称はあるものの、恐らくこの場合のニャンニャンはそれを指さないだろう。もしそうならば、芳香はこの場で青娥と『ワンワン』するはずだ。
「……」
一瞬、とても淫靡な想像をしてしまった。いやいやそんなはずがない。自分が愛する可愛い死体に限って、そんな高レベルなことが出来るわけがない。青娥はぶんぶんと首を横に振り、そんな汚らわしい想像を吹き飛ばした。
(そういえば、今日は日記を読んでなかったわね)
もしかしたらそこに何かが書かれているかもしれない。最近覚えたワードならば、『ニャンニャン』のことが書かれている可能性も高い。
異変後に開催された宴会で、幻想郷の引っ越し祝いにどこぞの道具商から贈られた木製の机がある。確かちゃぶ台と言ったか……芳香の日記の定位置はそこにあった。
僅かに高鳴る胸の鼓動。ほんのりと纏わりつく不安感。青娥はごくりと唾を飲み、芳香の日記を開いた。
『○月×日 目曜日 天気 あぬ
せーが、私をすわらせる。
ちくちくしたやつで、私の髪をスースーしてきた。ぶらっしんぐなんだって?
ぶらっしんぐは気持ちいいぞ。
今日も、さんぽした。
ぼちでニャンニャンがいた。
なんかニャンニャンがすりすりしてきた。
さいしょはいやだったけど、なんかだんだん気持ちよくなったから一緒にワンワンした。
気持ちよかったし楽しかた。
ニャンニャンは男』
「ニャンニャンは男ォ!?」
思わず日記を引き千切らん勢いで立ち上がってしまった。青娥は芳香を信頼している。青娥は芳香を溺愛している。だからこそこんな文章を見せられては戦慄を覚えずにはいられない。『気持ちよくなった』などというワードが組み込まれているならなおさらである。
(落ち着け青娥、私の芳香に限ってそんな不束……じゃないふしだらなことはするはずがないわ。あの子は純粋なのよ! いや……純粋だからこそあの子がニャンニャンとかいう男に誑かされた可能性は大いに考えられる……ましてやあぬ(雨)の日に! 墓場で! 嫌がる芳香を! 強引に! 快楽の地獄へ引き込もうなど! 墓場で夜の運動会だなんてなんて不健全な!!)
「あ、青娥いたのか。さっきお前のキョンシーに肩叩きを教えてやったぞ? やってもらえたか?」
「おのれニャンニャン!!」
コキャッ
「ぬわー!?」
近付いてきた布都の肩関節を華麗に外し、青娥は墓地へと飛び出したのだった。
墓地にも雪は降り積もる。墓標に積もった白い塊は、さながら白い鬘を被ったトーテムポールのように剽軽(ひょうきん)で愛らしい。そんな剽軽トーテムの陰に隠れる邪仙が一人。そして彼女の見つめる先には、ざっくざっくと雪を踏み荒らすキョンシーの姿があった。
「おっほ、おっほ……ざっくざくー」
幻想郷の鴉は、カメラという、現実を絵にする不思議な機械を持っているらしい。もし今度鴉に会ったらそいつの肩関節を外してカメラを頂こう。青娥は満悦顔で雪の感触を楽しんでいる芳香を眺めながらそう思った。
幻想郷の墓地は広い。幻想郷では死体が生まれ易いからだ。妖怪に喰われる者もいれば、妖怪を退治しようとして喰われる者もいる。幻想郷の歴史は、妖怪と人間の歴史と言ってもいい。人通りの少ない場所では喰って喰われ、宴の席では飲んで飲まれる。いい具合に狂っている。だからこそ楽園なのだろう。
なんてことを思ってる間に、ざくり、ざくりとを雪を踏み、健気に頭を上げた霜柱を轢き殺す音。青娥の視界に映ったのは、若い人間の男だった。
(まさか奴がニャンニャン……)
芳香は、その男に気付いた。男もまた、芳香に気付いたようだ。芳香は表情を変え、ゆっくりと男に近付いていく。
もしもこいつがニャンニャンだったならば、体中のありとあらゆる関節を外してからこの世のものとは思えぬ柔軟体操を味わわせてやる。青娥はそう思ったが、
「ちーかーよーるーなー!!」
「うおぉ!? な、なんだぁ!?」
芳香は血走った表情で男を睨み付け、跳びかかった。男は本能的に飛び退いたが、男が先ほどまで立っていた地面はスプーンですくわれた蒟蒻ゼリーが如く抉れ、ヒビの入った石畳を露わにしていた。
「男は……嫌い!!」
「ひ……ひいぃぃぃ!!」
尋常ではない程に殺気立った芳香に圧倒され、男は油虫の如く逃げ去って行ってしまった。どうやら男はただの墓参りだったらしい。
「フー! フー!」
男が視界から消え去るまで、芳香は息を荒げてその方向を威嚇していた。
「……」
驚いたのは青娥だ。今の芳香の行動は、青娥の予想を遥かに超えたものだった。
侵入者に対し襲い掛かるのは、芳香の通常の動作である。しかし芳香の今の反応は、明らかに「男」に対して只ならぬ嫌悪感を抱いた動作に他ならなかったのだ。
青娥は、ちゃぶ台を道具商から受け取った時のことを思い出していた。当然その場に芳香はいた。その時の芳香は、華やかな宴の場であるにも関わらず、一言も喋らなかった。
(そうなんだ……)
青娥は理解した。芳香は、その時我慢していたのだと。芳香は、男が嫌いなのだと。
その原因が何かは分からない。もしかしたら芳香は、異性に対し強いトラウマを抱いたまま生涯を閉じていたのかも知れない。
(参ったわねこれは)
「ふんす!」
未だ興奮冷め止まぬ芳香を眺めながら、青娥は小さく溜息を吐く。芳香の主でありながら、自分は今まで、そんな彼女の秘密を知ることが出来なかったのだ。
従来、キョンシーというものは主に懐くものだ。しかし芳香の場合はそれが強い。主従ではなく、主である青娥を親であるかのように、芳香は青娥に寄り添っている。そんな彼女の習性は、もしかしたらそんなところから来ているのかもしれないと、青娥は思った。
(あれ、それじゃあ……)
ここで浮かび上がる一つの疑問。『ニャンニャン』とは一体何者なのか。
人間の男では無いことは確実だ。それは芳香の今の行動が如実に物語っている。
(一体何なの……ニャンニャンとは一体……ワンワンとは一体……!)
青娥は耐えていた。墓標に爪を深くめり込ませ、この苦悩に悶え苦しむのを耐えていた。
ピシッ。
「お?」
そして耐えるあまり掴んだ墓標にヒビが入ってしまったのは、青娥のミスだった。その音に気付き、芳香は振り返る。
「お、せーが!」
先程とは打って変わって満面の笑みを浮かべ、芳香は青娥に跳び寄る。ああもうこの場で抱きしめてもいい。あるいは跳び過ぎた芳香のボディープレスを直に食らっても構わないとちょっと思った青娥は、もしかしたら自分は危険な思想の持ち主なのではないかと思ったため、自分の太ももを軽くつねった。
「せーがも散歩かー?」
「え、ええ、たまにはね」
思わず少し焦ってしまったが、焦る必要はない。芳香は青娥の言うことなら何でも信用する。
「じゃあせーがと散歩かー」
血の通わない頬をほんのり染め、芳香は笑う。思わず頭を撫でてやろうと青娥が思った時、芳香の瞳が何かを捉えた。
「おお……?」
墓と墓の間から、小さな生き物が顔を覗かせていた。それはどこにでも見かけそうな、一匹のトラ猫だった。
「おー……お? ニャンニャンだ」
「ニャン……ニャン?」
芳香はその猫を、『ニャンニャン』と呼んだ。そのトラ猫はてしてしと小さな足跡を雪に残し、芳香に歩み寄ってきた。
「おー……おー? ちーかーよーるーのーか?」
首を傾げその猫を観察する芳香の脛(スネ)に、猫は軽く頭を押し付けた。
「おおぅ? なんだぁ?」
戸惑う芳香に関わらず、猫は何度も柔らかい頭突きを繰り返す。
「んぉう、やめろー……やめるのだニャンニャン」
しかし猫は構わず、芳香の足に尻尾を巻きつかせる。
「んー……んふ、くすぐったいぞーニャンニャン」
耐えきれなくなった芳香はぴょんと半歩後退し、片足立ちで猫に右足を押し付けた。
「にゃー」
するとどうだろう。芳香のつま先を玩具だと思ったのか、猫は彼女の爪先をツンツンと触りだしたのだ。
「お? おお?」
右足、左足。芳香はその猫の生態を観察するかのように、交互に足を突き出す。それに刺激され、猫は次第に彼女の足に執拗にパンチを繰り出し始めた。
「おっおっ……おお? おほ♪」
戸惑いを見せていた芳香の表情が、次第に和らいでいく。青娥の目の前で繰り広げられたそのやり取りは、次第にキョンシーと猫の小さな拳(脚?)闘になっていた。
(なるほど……)
そういうことか。青娥は納得した。
芳香が右足を差し出せば猫は左、左を差し出せば右で応戦。宛ら人間が飼い犬に芸を教え込ませようとしている構図に見えなくもない。
(と、なると……)
ひょいと、青娥はその猫を抱き上げる。なるほど立派な雄の証拠が、そこにはあった。
芳香は確かに、『男のニャンニャン』と『ワンワン』していたのだ。
「んーどうしたせーが?」
急に猫を取り上げられた芳香は、自分が何か間違ったことをしたのではないかと不安な顔で青娥を見つめる。青娥は少しだけ苦笑しながら蒼天を仰ぎ、芳香を見つめた。
「これは猫よ?」
「おー? 猫はニャンニャンだろ? 知ってるぞー?」
「そう、お利口さんね芳香は」
「でへへ」
無邪気な顔ではにかむ芳香に、青娥は猫を返してやる。『ワンワン』を再開する元気な死体を見つめながら、青娥は思った。 きっと彼女は、生前動物が好きだったに違いない。そうでなければ死んでまでも、血の通った野生と通じることが出来るわけがない、と。
「ねえ芳香」
「なんだーせーが?」
数分戯れた後、猫は飽きたのかどこぞへと消えていった。
きっと、これは芳香の日課。でも、芳香は毎日忘れている。だから彼女がちゃんと覚えるまでは、『男のニャンニャン』と『ワンワン』するのが彼女の初体験であり続けるのだろう。
「帰ったら、またブラッシングしましょうか」
「ぶらっしんぐー?」
「髪をスースーするのよ」
「おおっ、せーがにぶらっしんぐされるのは気持ちいいから好きだぞー」
芳香は少し欠けた前歯を見せ、生き生きと笑って見せた。
『○月△日 もつ曜日 天気 ほれ
今日も、さんぽした。
ぼ地でニャン猫がいた。
なんかニャン猫がすりすりしてきた。
さいしょはいやだったけど、なんかだんだん気持ちよくなったから一緒にワンワンした。
気持ちよかったし楽しかた。
ニャン猫は男ス。
今日はせーがといっしょにワンワン。せーが楽しそう。うれしい。
帰ってせーがにぶらっしんぐされた。
ぶらっしんぐは気持ちいいぞ。
せーがの手はやわらかい。せーがの手好き。
手好きだから気持ちいいんだなたぶん。
じゅーなんがんばるぞて決めた。
手、まがったら
私がせーがにぶらっしんぐするんだ』
~終~
芳香ちゃんはにゃんにゃんとにゃんにゃんすればいいんだよ!
赤ん坊は抱いて散歩させるべしという辺りの説得力に感心しました