この話は作品集121にある「赤髪の彼女たち」の続きとなっております。
こちらだけ読んでも分からない点があると思うので、先にそちらを読んでいただくと光栄です。
それでは以下より「緑髪の私」、スタートです。
~ ~ ~
症状その一
他の人なら大丈夫なのだが、自分の部下に会うときだけ心臓はうるさいほど高鳴る。直視することも話しかけることもためらいが生じてしまうのに、誰よりも会いたいと願ってしまう。
症状その二
説教という名分で言葉を送れるだけでうれしさを感じる。まして相手から話しかけてくれると、表情には表わさないもののその日はずうっと機嫌が良く過ごせる。
症状その三
一人でいる時も彼女のことが浮かんでしまう。自分でも制御できないほどの無意識に。そしてその映像の粘着性は強いようでなかなか頭から離れてくれない。それは仕事という大きな存在でこのビジョンを押しつぶすしか方法がないほどに。
私は重度の精神病にかかってしまったのだと思う。
本当なら性格と能力上「のだと思う」なんていう曖昧な表現は使いたくない。しかしこれらの経験は今まで生きてきて初めてなので、仮説の域を出ることができないのだ。
なら誰かに聞けばいい、きっと皆が皆そう思うだろう。現に私の中に最初に出てきた案がそれである。なのにまだこの現象を仮説で留めている理由としては、自分で言うのも悲しいのだが仲がいい相手は仕事仲間ぐらいしかいない。つまり話を聞く相手は自動的に同僚あたりに絞られてくるわけだ。しかし内容が内容である。周りから痛い子と認識されてしまえば、正直今の職場で働いていく自信は皆無である。だから私はこれを重度の精神病と仮定するしかないのだ。
だが所詮は無理やり丸めこんだ主観的な予測である。そんなもので折り合いも踏ん切りもつくわけがなく、むしろ強制的に内に秘められた奇病への不安は、日に日に自分の中で増える一方であった。
そんなある日、休日の時に人里をぷらぷらしていると知人に会った。その相手とは人里でたびたび会うぐらいしか接点がないが、何度も会ううちに世間話を多少するようになった程度の仲である。
そこで関わりのあまりない知人に玉砕覚悟で自分のことを思い切って話してみた。
だというのにリアクションは想定外のものだった。相手は引くのでもなく心配するのでもなくただ呆れ顔を浮かべるばかり。戸惑う私にしょうがなさそうに口を開きその正体を教えてくれた。
あなたの病気は『恋煩い』だと。
あなたは自分の部下が『好き』なのだと。
予期せぬ言葉にかなり驚いたが、それが自分にとって重症には変わりなかった。だから私はそれをあわてて否定した。そんなことはありえない、彼女に特別な感情なんて抱いていない。
認めたくなかったのだ。自分が部下に恋をしたことを。
認めてしまえば、私は部下と恋仲になることを真剣に望んでしまう。だけどそんな関係になることはできないとわかっていた。相手が説教ばかりする上司に惚れるわけがないからだ。
そんなバッドエンドにしかなりえない、運命を受け入れたくなかった。
しかし論拠を並べて知人の意見を否定しようとしても、呆れ顔の相手にことごとく論破され恐れていることがどんどん現実味を帯びてしまう。
悔しくて躍起になりながら自分はどうなのかと聞いたところ、私の知人は顔を真っ赤に染め時を止めてどっかに行ってしまった。
あとに残った私は一人で、さっき言われていたことを噛みしめていた。もう並べる論拠もないというのにずっと頭の中で否定ばかりをする。暴論だらけで固められた自分の意見を正当化し続ける。
でもそんなのうわべだけでもうわかっていたのだ。さっきのことは認めざるを得ないことぐらい。
今やってることは臆病な自分を守るため、へたくそな嘘を上塗りをしているだけと心のどっかで気が付いていた。
暴走を止められぬ自分を哀れみ、大きなため息を一つ吐いて目を閉じる。
期待をしても同じこと。いくら望もうと本心には一つのゆるぎない真実しか存在していないのだから。
あるのは『私は小野塚小町が好き』、という真実だけなのだから。
緑髪の私
* * *
夜という設定を覆してしまうほどに、丸みをつけた月は幻想郷を明るく照らしている。すべてのものに平等に降り注ぐ月光は私、四季映姫にも例外なく注がれていた。おかげで周りの物の輪郭はしっかりと見え、転ぶ等のアクシデントと出会うことはなかった。
それなのに私の足はまるで暗闇の中を歩いているように、ゆっくりでそれでいておぼつかない。今日の出来事の想起が相手への罪悪感、自分への嫌悪感、発言への後悔……、そんな感情だけを湧かせ、それらが抽象的な重さをつくりだし私の歩きを拙いものにするのである。
しかし音の有無は夜という設定を忠実に守っているらしく、存在している音は虫や鳥の鳴き声と三途の川方面へと歩みを進める私の足音ぐらいだった。無論その静けさが私をよりセンチメンタルにしているのは、虫も鳥も知らないだろう。
「はぁ…」
夜道に静かに鳴っている音のレパートリーに、自分の大きな嘆息音を追加させる。
不意に「ため息を吐くと幸せが逃げる」なんていうことをだれかから聞いたことを思い出したが、そんな迷信鼻で笑い飛ばしてやった。そもそもこの考え方はおかしいのだ。ため息と言う物は大抵が絶望したから吐くもの。だから吐いたところで逃げる分の幸せなんていうものはありはしない。まさしく今の自分のように。だから本当は「幸せが逃げたからため息を吐く」と言ったほうが正しいだろう。
なんて変なことを論じている自分に気が付き、自嘲めいた笑みを浮かべる。ため息で幸せじゃなくて不幸が逃げてしまえばいいのに、なんて自分勝手な願いをしてみるもののそんな思いはあっさり却下されたらしく、不幸はあいも変わらず居座り続け私を悲しみのどん底に突き落とす。続く悪夢にいらだちすら覚え珍しく感情的に頭をかきむしった。
もやもやする頭の中で自然と会議の準備がされていた。内容がどんなものなのかはもう知っている。なんせ本日の議題はずっといっしょなのだ。
当然今回も『昼間の反省』、それであった。
いつものことだった。小町が仕事中に寝ることなんて。だから私がいつも通りの説教を彼女にしていれば、今日という日も私が今まで過ごした日々と変わりなく終わるはずだったのだ。
しかし、イレギュラーが発生してしまった。小町が説教中に寝たこと、私が彼女に理由を聞いたこと……どれをイレギュラーと言い切ればいいのか分からないが、確実に今日は『いつも通り』から逸脱してしまった。
その中でもわかるのは、こんなことが起こった大きな原因は私が感情的になってしまったということである。
小町は質問の返答で「説教がなければ」と言った。しかし私にとって説教とは、唯一彼女に会える理由なのである。その否定が、会うこと自体の否定に思えたのだ。しかも気が動転してしまい、それを私の存在否定にもつなげてしまったのである。今思い返すと心底馬鹿らしい解釈と思えるが、恋愛関係のことになってしまうといつものような冷静さは自分の中から消えてしまうのが約束事になっていた。本日も悲しきことにその約束が適用されてしまった。
そして私は湧きあがる悲しみを理不尽な怒りへと変え、小町にへと突き立てたのだった。
「はぁ~」
再び夜道にため息を響かせた。何度思い返しても感じるのは自責の念だけである。それが大きすぎて反省会と銘打っておきながら反省と呼べるようなことは何一つできやしない。
とりあえず小町には謝らないといけないのは分かるのだが恥ずかしい話、人に謝ることに大きな抵抗を感じておりこのまま逃げてしまいたいと思っている。それでも自分の良心で邪念を押し殺し、三途の川へと歩くことを続けていた。
一日を通して憂いにまみれた気持ちに嫌気がさし上空で輝き続ける月を見てみたが、美しいと思うことはまったくできなかった。
その後もしばらく歩いていると自分の視界に誰かが映った。それが歩行への抑止力となり私の足は止まった。
距離が離れているせいでぼやっと輪郭だけしか見えず、詳しい動作がわからない。だがその誰かは前にある大きなため池を覗き込んでいるように思えた。三途の川付近に大きなため池があることに初めて気が付いたが、今はそれを問題として取り上げはしなかった。
今の問題はそれが誰なのか、ということだけである。もう死神たちの職務は終了している時間だし、外部の者がここまで来るのも納得がいかない。しかもその者はただひたすらにため池の前にただずんでいる。
私は訝しげな目つきに切り替え、息を殺した。全身に変な力が入っていて、心はいつの間にか警戒心の塊となっていた。それでも私の足が静かに歩き始めたのは、不自然要素しか積まれていない不審者の正体を知りたい、という小さな好奇心が心の片隅にあったからなのだと思う。
…………
再び足が止まった。
距離を縮めたことによって輪郭だけではなく、その者の全貌が見えた。目に映ったのは見慣れた髪型に見慣れた横顔、見慣れた服装。それらのおかげで分かったのは、その者を不審がる要素は何もなかったということ。
私が先ほどまで警戒していた者は自分の部下、小野塚小町だった。
ふうっ、と安堵の息をもらし全身の力を抜く。固まっていた警戒心をゆっくりと解きほぐし、表情を崩した。
身構える必要などなかった。相手は自分の部下、それだけで不安要素はすべてぬぐいきれたのだから。もう心配することなんて何もないのだ。
大きな安心感が生まれ、私は彼女に近づくため軽やかに足を一歩踏み出した。
…のだがそれ以上踏み出すことはできなかった。
ついつい正体がわかった安堵が大きすぎて忘れていた疑問を思い出したからだった。
彼女は何をしているのだろう。
さっき解きほぐしたはずの警戒心がまた固まり始めた。そして一歩リードしている右足を元の位置に戻し、目を細める。
そこで気が付いたのだが、小町の横顔は普段の仕事中では見せない真剣な表情であった。そこから詳しく喜怒哀楽を読み取ることはできなかったが、何か重大な考え事をしているように見えた。大きな決断をする直前という感じ、例えるなら自殺志願者が自殺をしようか悩んで……
自分の肩が大きく揺れた。まるで雷が落ちたような衝撃が全身を駆け巡り目は見開かれ、呼吸をすることさえ忘却の彼方へ押しやられる。
例えとして考えた物が仮説に変わり、それが自分の中での一番の有力説へと変わっていた。
一歩踏み出して彼女の行動におかしさを感じる。小町はこんな夜に皆が進んで近寄ろうとしない場所に一人でいて、苦悩しながらため池を見ている。そうだ、これは明らかに不審すぎる。自分の部下だからと言って今の彼女から不安をぬぐい切ってはいけなかったのだ。
もう一歩踏み出して数日前に裁いた魂のことを思い出す。確かその者は仕事をクビにされたショックで自殺をした。一人悩んだあげく夜の人が少ない時に池へ飛び込んだらしい…
静かに一歩一歩と踏み出される足は小町を目指し、ゆっくりと歩いていた足のスピードは速くなり、気が付くとそれは自分の全力疾走となっていた。
数日前の魂と状況が重なってしまうのである。クビにされたことから今やっていることまで。
そのせいで昼の時と同じく冷静な判断などはさむこともできず、もう嫌な想像だけが頭を満たした。
「小町!!駄目です!!」
大きな声を出しすぎて喉が少し痛くなる。
この声でこちらに気が付いた小町は目をまん丸にしていた。いきなりの上司に出現に心底驚いているようだが、こちらとてそんな事を気にしている暇はない。
なんとかせねば、そんな思いで私は痛む喉を無視してまた大声を出した。
「自殺は……自殺は、いけません!!」
「は、はい~~!!?」
ずいぶんと間抜けな声をあげたものだ。これから自殺をしようと考えていた者とは思えない。それでも私は足のスピードを下げない。自殺志願者とは何をするか分からないからだ。
鳩が豆鉄砲を食らったような表情の小町が大きくなっていく。それは自分と相手の距離が縮まっている証拠であった。
二人の距離残り十メートル…七メートル…五メートル…三メートル…そして……
等身大の彼女が目に映った時、私は息を切らしながら抱きついた。
がっしりと腰にまわした腕をほどけないようにしっかりと結び合わせる。普段の自分ならこんなことをした時点で即ゆでダコ状態だが今は命がかかっているのだ。気にしている暇などない。
自殺を止められたせいで気が動転したのだろうか、小町は腰にまわされた腕を引きはがそうとしたり、大きく体を揺らしたりした。身長差の問題で小町の胸しか見えないので、どんな表情をしているか分からない。しかも何か言っているようだが自分の喉からひねり出される掛け声がうるさくていまいち聞き取れない。それでも私は抵抗する彼女から腕は意地でも離さなかった。離すことに恐怖すら感じていた。
「い、いきなりどうしたんですか!?」
「離しません!!死んでも離しません!!だから死なないでください!!」
「な、何を言っているんですか!?」
「死なないでください!!あなたが死んでしまうと困ります!!」
「四季様、落ち着いてください!」
もう頭にあるのは目の前の人物を救いたい、ということだけ。そのせいで相手の言葉は耳に入らず会話の定義を何一つ守っていない言葉の応酬を続ける。回した腕に力をもっと入れ彼女の抵抗に必死に耐え抜く。
「あっ…」
しばらくもみ合っていると小町がそんな声をあげた。
それと同時に自分の体が重力を受けなくなったのを感じる。まるで空を飛んでいるような錯覚を起こした。というより飛んでいるらしい。足が地面についていないのだから。見慣れた世界が大きく傾く。いや、正確には傾いたのは私たちのようだ。さっきまで下にあったため池が横側に見える。
そして空中浮遊中の意識が途切れる寸前、小町が私とため池の間に入ってくれたのを感じた。そして次に意識が戻った時には…
バシャーーン
大きな音と水しぶきを上げ、向かい合いながら二人で池に落ちていた。
* * *
「すいませんでした!!」
「あ、頭をあげてください!あたい気にしてませんから!」
「本当にすいません…」
九十度以上曲げていた腰をゆっくりと元に戻した。小町への申し訳ない気持ちと勘違いをしてしまった恥ずかしさが休むことなく私の胸を絞め続ける。ここに来るまでは抵抗を感じていた謝罪はいつのまにかこの場の定型文になってしまうほどに。
そこで目に入るのは月に照らされながら髪の毛や着ている服から水を滴らす自分の部下、小野塚小町であった。
目に映った彼女の状態がより一層絞めつける力を強くする。罪悪感で小町を直視することができない私は、目を斜め下に向け再び決まり文句を呟くことしかできそうにない。
「本当にすいません…」
落ちたため池は見た目の割にとても浅く、私たちが溺れることはなかった。だけど小町は私をかばってくれて彼女は背中から落ちた。浅いといえどもその量はかばい人の全身を濡らすぐらいはあり、それでも浅きゆえにかばわれた私は濡れることはなかった。それが逆に恨めしいのだが。
ため池の中で向かい合っていると私の頭に上っていた熱がだんだんと下がり、いつもの冷静さを取り戻した、がそれがよくなかった。クールな頭は一瞬にして今の状況を理解してしまい再びホットな頭へと逆戻り。興奮状態へと陥りまたしばらく暴れてしまった。声すらまともにかけられない相手と、間近で見つめ合ってしまったら必然的な結果だろう。そんな私は何発かいいパンチを小町の顔やらボディーにいれ、苦しむ彼女に強制的に池の外に連れ出してもらった。暴走した思考に冷静さが現場復帰したころ、私は自殺の真相を問いただしてみた。すると、ただ単にため池を見ながら今日会ったことを反省していただけと教えてくれた。その時私に訪れたのは目の前にいる人への多大な申し訳なさ。こちらの言い分を少し説明しひたすら謝り続けていたのだった。
「そんなに気にしないでください。だれにもミスはあるもんですよ。あたいだって四季様にはいっぱい迷惑をかけてますすし」
罪悪感で窒息死しそうな私におどけた笑顔で小町は言う。その言葉は自分が被害者ということを誇示するものではなく、むしろ加害者である私を心配させまいとする彼女の気遣いだけで構成されていた。
それがやっぱり申し訳なくて、でもそれがたまらなくうれしくて心が温かさに包みこまれる。だから私は『ありがとう』を伝えた。今の気持ちを精いっぱい混ぜ込んだ『ありがとう』を。
「そ、それに…」
なのにいつのまにか顔を少し赤らめはにかんでいる。視線はさっきの私同様斜め下にくっついたまま動かない。いきなりの変わりように少し驚きながら、次に紡ぎだされる言葉に興味を感じながら彼女の目を見据えた。
「…四季様にお怪我がなくて何より……です…」
…なぜこのタイミングでこの言葉なのだろうか。気持ちを打ち明けるのはいいがもう少し考慮してほしいものだ。
おかげで落ち着きを取り戻しつつあった心は大きく掻き回され、うれしさと恥ずかしさが自分の中で大暴れする。
照れ笑いを続ける小町を前に私は赤く染まった顔を下に向けることしかできない。『困った部下を持ったものだ』などと心で少し悪態をついてみた。
「くしゅんっ!」
とその時、音の消えていた世界に可愛らしいくしゃみの音が鳴る。
うつむく顔を正面に向けると小町が鼻をすすっていた。まあ、当たり前のことだろう。肌寒い夜に濡れた服を着ながらいたら体だって寒さを訴える。
「風邪をひいてしまいますから、部屋に戻りましょう」
提案をしながら彼女に近づく。体をふくことはできないがそばで労わるぐらいのことはしたいのだ。
「大丈夫です、実はあたい風邪をひいたことないんですよ。むしろ病気にでもかかって仕事を休みたいぐらいですよ」
おどけた顔で今度は休養願望を言ってみせた。
ため息一つ吐き、呆れ顔を携えて足を止める。本当はもう少し近づきたかったのだが、距離を縮めると鼓動が速くなり苦しくなるので、それ以上進めなかった。
「あなたは本当に不真面目すぎる。もう少しまじめに取り組んでください」
「四季様が頑張りすぎなんですよ。あたいだって最初のころは頑張っていましたよ」
「へぇ~、顔合わせの時遅刻したのは誰でしたっけ?」
いつのまにか思い出の詰まった箱を開けていた。そこから出てくるのは小町との過去の出来事。
「そ、そうでしたっけ…? で、でも次の日からは…」
「仕事ぶりを見に行ったら気持ち良さそうに寝ていましたね」
なんていう名前かはわからない。でも不思議な感情が湧きあがってきた。
「あの時は魂が少なくて暇でして…」
「あと他の死神と殴り合いをしたり…」
「あれは相手からしかけてきたんです! それに四季様だって…」
「それは小町のためです。だけどあの後…」
「そうですよ。あの時は四季様とっても優しくて…」
「次の日からはあなたも珍しく頑張っていて…」
「と思ったら後日すごく怒られて…」
「自分でも少し反省して…」
「それから…」
「あとあの日も…」
「それで…」
………………………………
いつの間にか始まっていた過去巡り。
発掘されるのは懐かしくて、うれしくて、でも時折恥ずかしくて、けれどやっぱり楽しい思い出ばかり。
何百年と呆れあい、悲しみあい、笑いあった部下と上司とでしか果たせぬ悠久の旅。
彼女と話すのにいつも感じる抵抗はまったくない。それほど自分の中の不思議な感情は大きくなっていた。
共有し合った時間を噛みしめあうこの瞬間。
今がずうっと続けばいいのに、なんていうわがままを考えてみる。
自分の中で大きくなった不思議な感情、今の永遠を望んでしまう理由。
心から笑っている小町の顔を見て、それらの名前が分かった。
これらを人々は『幸せ』と呼ぶのだろう。
* * *
「くしゅんっ」
楽しかった時間に終わりを告げるように、または忘れていた現実に引き戻すようにくしゃみが鳴った。音源はさっきと同じく小町であった。
「あっ、すいません。忘れていました」
たったひとつの何げない音だけで浮かんでいた過去話は散漫となり、今の現状が頭の中で再構築される。
そうだ、彼女が風邪を引かないように着替えさせないといけないんだ。
思い出された使命は残酷なぐらいに今までの気持ちを切り替えた。
「…風邪を引くと悪いのでそろそろ各々の部屋に戻りましょうか」
「そうですね。 …いやぁ~、今夜は四季様と話ができて楽しかったです。また今度しましょうね」
わかりました、と短く言い彼女から目を逸らした。
返した言葉と行動が少し冷淡になってしまったのは、楽しい時間が終わってしまうことに寂しさを感じたのと、それでも一番の原因は持病の症状がまた発症してしまったことだった。
ドクンドクン、と大きな音を出す自分の心臓に手を添える。先ほどまでは話をすることに夢中であったが、魔法のようにそれが終わるといつもの自分へと戻ってしまった。
「では、そろそろお開きにしましょうか。四季様もお体に気を付けてくださいね。あたいは明日風邪を引くように願掛けしてから寝ます」
小町は憎まれ口をたたき、豪快に笑いながらウィンクを私に飛ばす。
きっとこの行動は別れを告げる意味しかないのだろう。これといった理由も意味もないに違いない。
なのに美しいと思った。
空に輝く月に照らされた彼女の屈託ない笑顔。ただそれだけのことに私は大きく心を打たれた。息をすることも思考することさえも体は止めてしまう。
まるで時間が止まったように。
再び脳が活動し始めた時に感じたのは諦めだった。
もう認めるしかない。
私の病気が始まったのはいつか今と同じく彼女の笑顔を見た時だった。その時から私は彼女を正視できなくなり、そして知人に正体を教えてもらった時から自分の本心と向かい合えなくなった。
何もかもが唐突で臆病な私は逃げることを選択したのである。
だけど小町の笑顔から始まった逃避行は、不思議なことに同じく彼女の笑顔で今終わりを迎えた。
しょうがない。私の胸は大きく高鳴り、こんなにも小町が愛おしいと思ってしまったのだから。
いつものように暴論を並べることさえ、心から無意味に思える。
結局、気持ちはずうっと何一つ変わってはいなかったらしい。
私はやっぱり小町のことを……
「こ、小町!」
気が付いたら名前を呼んでいた。だというのに……いや、だからこそ頭の中は真っ白という最悪のコンディション。
驚き顔の相手の視線がより私を慌てさせる。何かを言わなくては、と思えば思うほど次の言葉が見つからない。それでもこの空気を打破するために、何か話のタネになりそうなものを記憶の中から無我夢中にかき集めた。
「どうしたんですか?」
探すんだ。話が紡げれば何でもいい。何でもいいから…浮かんで……
「……ひ、昼間は言いすぎました」
………助かった。
自然な話題が記憶の片隅にあった。それは数々のことがあったせいで自分の中でとても小さくなっていて、だけど大事なことだった。
本当はもっとしっかりと言いたかったのだがしかたない。今度から無意識の行動にはもっと気をつけようと自分を戒める。
「昼間…? 何か…」
「あなたにひどいことを言ったやつです。覚えていないのですか?」
「えーと…あ、思い出しました!」
「今頃ですか!? …とにかくあれは私が感情的になってしまっただけなので、クビの話も気にしないでください」
「あ、ありがとうございます! あと、あたいもすいませんでした」
一件落着、と言うべきか。まさか彼女がここまで忘れていたとはびっくりである。まあ、私もついさっき思い出した身なので人のことは言えないのだが。とにかく今日起こった問題ごとはこれにて全て解決ということでいいだろう。
…そうこれで全てなんだ。 ……心残りなんてないんだ…
そう心の中で繰り返す。何かをごまかすように。
「一つ聞いていいですか?」
「なんですか?」
「どうして四季様はあたいに何百年と説教をしてくれるんですか? …あ、もちろん不服を言いたいわけではありませんよ! むしろ感謝しています。あたいはたとえ何があろうと四季様を尊敬し続けます! だけどなんで諦めもせず続けてくれるのか分からなくて。まあ、不真面目を正すためだけ、と言われたらそこまでなんですけどね」
「……」
「な、なにかほかに理由でもあるのですか…? こうなんというか、私情が絡んでいたり…?」
少し照れながら何かを期待するように小町はこちらを見ていた。
彼女の言っていることは正解なのだ。ただ公正を願ってのことだけじゃない。会うためだ。彼女に会いたいからだ。そう言ってしまおうか。「説教なんてあなたに会う理由づけです」と。そうすれば…
…いやできない。今まで自分の気持ちからも逃げてきた臆病な私には言うことができない。それが悲しくて悔しい。自分の臆病虫が恨めしい。
「…ただ仕事に支障の出ないように叱っているだけです」
「……そ、そうですよね… 仕事ですもんね。変な質問してしまってすいませんでした… おやすみなさい」
やっぱり言えなかった。小町がどんな回答を期待していたかは分からないけど、反応を見ただけで傷つけてしまったのはわかる。
背を向け歩きだした彼女の姿は寂しそうだった。でもこれでよかったんだ。気持ちを伝えて関係がぎくしゃくするよりは今のままでいたほうがましだ。だからこれでよかったんだ。
これで…よかったんだ。
これで……………よかったのか?
私はもう認めてしまった。自分が彼女のことを好きなんだと。つまり明日からは今まで以上に苦しい日々となるだろう。本当の気持ちに蓋をし続けなければいけないのだから。
きっと私は仕事どころではなくなってしまう。もしかしたら本当におかしくなってしまうかもしれない。でも…でも臆病な私には告白することさえできない。
『もう少し素直になったほうがいいわ』
今日幽香に言われた言葉が脳裏をよぎる。
言われなくても知っている。私だって好んで仮面を着けているわけではない。…怖いだけなのだ。私の気持ちを伝えたら軽蔑されそうで、片思いだった時は彼女に嫌われて今の関係性さえも崩れてしまいそうで、考えると恐怖で体が満たされてしまう。だから…私には…
『たとえ何があろうと四季様を尊敬し続けます!』
次に頭に浮かんだのはこの言葉だった。さっき小町が言ってくれたこと。さりげなく伝えてくれた彼女の意思。
それは不思議なものだった。たった一言彼女の言葉を思い出しただけで悩みが馬鹿らしくなった。広がった不安がちっちゃいものに感じられる。
私の思いが片思いだとしても今の関係は崩れない、彼女はそう保証してくれたのではないか。今抱えている思いは杞憂だと遠回しに教えてくれたではないか。ならもう心配も問題もありやしない。もっと早く気付くべきだった。彼女はそんな小さい奴なんかじゃないということに。
随分と時間がかかってしまった。だけどやっとこの時を迎えられるらしい。それでも拭いきれぬ緊張は私の手を強く握らせ足をせわしく震わす。瞼さえも閉ざしてしまう。だから今の自分にいつもの威厳なんていうものはない。
それでもいいんだ。これが素直な自分なんだ。だからお別れを告げよう。
「私はあなたなんか大っきらいです!」
逃げ回るばかりの臆病な自分に。
* * *
彼女は今どんな顔をしているだろう。目を閉じているから分からない。でもそんなのどうでもよかった。
「いつも気が付いたらあなたのことばかりを考えている。それなのに実際に会おうとするととっても緊張するんです!」
私は今どんな顔をしているだろうか。いやそれもどうでもいい。
「何気ない会話ができただけでとってもうれしくて、またしたいなって思ってしまう」
彼女は今どんなことを思っているのだろう。やはりこれもどうでもよかった。
「病気だと思って人に聞いたら私があなたに恋をしているって言うんですよ」
私は今どんなことを思っているだろうか。
「そんなの信じられますか!? 自分の部下に恋をしていたなんて」
その答えは知っている。
「なのに今日私は認めてしまいました。あなたの笑顔がたまらなく美しくて、愛おしかったから。こんなにも上司の気持ちを振り回すあなたなんて…」
私は思っているはずだ。
「大っきらいです!」
あなたが大好きだと。
返答はまだ来ない。思いをすべて伝えた今彼女は何を思っているのだろうか。そして何を言うのだろうか。
拒絶の言葉を相手は送ってくるかもしれない。「ごめんなさい」と一言言われてしまえばこの恋は実らぬものと証明されてしまう。
それでも待とう。どんな返事も受け入れよう。素直になれたんだから。私は勇気ある一歩を踏み出せたのだから…
「四季様」
何か柔らかいものが全身を包んだ。驚いて目を開けると小町が私を抱きしめていたことが分かった。それだけで私の声は震えてしまう。
「あなたなんか嫌いです…」
「四季様…?」
「大…嫌い……です」
「あたいも四季様のこと大好きですよ?」
完全に素直になれなかった。好きなのに嫌いとしか言えなかった。だけど小町は私のそんなところもしっかりと受け止めてくれたらしい。彼女は『あたいも』と言ってくれたのだから。
「小町?」
「なんでしょう?」
「私も…あなたのことが大好きです」
たくさんの感情が私の本心を言葉へと変え、そして涙に変える。その後はしゃべることができなくなったので、残りの気持ちはすべて涙へと変換されることになった。
小町はずうっと強く抱きしめ続けてくれた。私は彼女を弱く抱きしめ返し、ただただ泣くことしかできなかった。
「帰りましょうか…」
「そうですね」
涙が尽きた頃、私はそう言い放った。本当はもっとこうしていたいのだが、夜もだいぶ更けてきたので切り上げることを選んだ。
名残惜しそうにゆっくりと体を離すと、彼女と目があった。月に照らされているその顔は赤く染まりながらうれしそうに笑っていた。それを見たとたん照れくさくなって急いで目を逸らす。その時に遅れながら彼女と恋仲になれたことを思い出し、うれしくなった。
「なにを笑っているんですか?」
「わ、笑ってなんかいません」
ついつい反論してしまう。横目で彼女がおかしそうに笑っているのが見える。
「それでは四季様」
それを合図にしたように私は視線を戻した。別れの挨拶を交わすために。
「今日最後の部下の無礼をお許しください」
いたずらっぽく赤い顔でウィンクを飛ばす。その発言と行動に驚いていると小町はゆっくりと顔を近づけ…
気が付いたら自分の唇と彼女の唇が重なっていた。
この感情を人々は何と呼ぶか知っている。どんなものなのかも知っている。なんせ今日経験したから。
その証拠だってある。
今がずうっと続けばいいのにな、なんていうわがままを私は考えているのだから。
こちらだけ読んでも分からない点があると思うので、先にそちらを読んでいただくと光栄です。
それでは以下より「緑髪の私」、スタートです。
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症状その一
他の人なら大丈夫なのだが、自分の部下に会うときだけ心臓はうるさいほど高鳴る。直視することも話しかけることもためらいが生じてしまうのに、誰よりも会いたいと願ってしまう。
症状その二
説教という名分で言葉を送れるだけでうれしさを感じる。まして相手から話しかけてくれると、表情には表わさないもののその日はずうっと機嫌が良く過ごせる。
症状その三
一人でいる時も彼女のことが浮かんでしまう。自分でも制御できないほどの無意識に。そしてその映像の粘着性は強いようでなかなか頭から離れてくれない。それは仕事という大きな存在でこのビジョンを押しつぶすしか方法がないほどに。
私は重度の精神病にかかってしまったのだと思う。
本当なら性格と能力上「のだと思う」なんていう曖昧な表現は使いたくない。しかしこれらの経験は今まで生きてきて初めてなので、仮説の域を出ることができないのだ。
なら誰かに聞けばいい、きっと皆が皆そう思うだろう。現に私の中に最初に出てきた案がそれである。なのにまだこの現象を仮説で留めている理由としては、自分で言うのも悲しいのだが仲がいい相手は仕事仲間ぐらいしかいない。つまり話を聞く相手は自動的に同僚あたりに絞られてくるわけだ。しかし内容が内容である。周りから痛い子と認識されてしまえば、正直今の職場で働いていく自信は皆無である。だから私はこれを重度の精神病と仮定するしかないのだ。
だが所詮は無理やり丸めこんだ主観的な予測である。そんなもので折り合いも踏ん切りもつくわけがなく、むしろ強制的に内に秘められた奇病への不安は、日に日に自分の中で増える一方であった。
そんなある日、休日の時に人里をぷらぷらしていると知人に会った。その相手とは人里でたびたび会うぐらいしか接点がないが、何度も会ううちに世間話を多少するようになった程度の仲である。
そこで関わりのあまりない知人に玉砕覚悟で自分のことを思い切って話してみた。
だというのにリアクションは想定外のものだった。相手は引くのでもなく心配するのでもなくただ呆れ顔を浮かべるばかり。戸惑う私にしょうがなさそうに口を開きその正体を教えてくれた。
あなたの病気は『恋煩い』だと。
あなたは自分の部下が『好き』なのだと。
予期せぬ言葉にかなり驚いたが、それが自分にとって重症には変わりなかった。だから私はそれをあわてて否定した。そんなことはありえない、彼女に特別な感情なんて抱いていない。
認めたくなかったのだ。自分が部下に恋をしたことを。
認めてしまえば、私は部下と恋仲になることを真剣に望んでしまう。だけどそんな関係になることはできないとわかっていた。相手が説教ばかりする上司に惚れるわけがないからだ。
そんなバッドエンドにしかなりえない、運命を受け入れたくなかった。
しかし論拠を並べて知人の意見を否定しようとしても、呆れ顔の相手にことごとく論破され恐れていることがどんどん現実味を帯びてしまう。
悔しくて躍起になりながら自分はどうなのかと聞いたところ、私の知人は顔を真っ赤に染め時を止めてどっかに行ってしまった。
あとに残った私は一人で、さっき言われていたことを噛みしめていた。もう並べる論拠もないというのにずっと頭の中で否定ばかりをする。暴論だらけで固められた自分の意見を正当化し続ける。
でもそんなのうわべだけでもうわかっていたのだ。さっきのことは認めざるを得ないことぐらい。
今やってることは臆病な自分を守るため、へたくそな嘘を上塗りをしているだけと心のどっかで気が付いていた。
暴走を止められぬ自分を哀れみ、大きなため息を一つ吐いて目を閉じる。
期待をしても同じこと。いくら望もうと本心には一つのゆるぎない真実しか存在していないのだから。
あるのは『私は小野塚小町が好き』、という真実だけなのだから。
緑髪の私
* * *
夜という設定を覆してしまうほどに、丸みをつけた月は幻想郷を明るく照らしている。すべてのものに平等に降り注ぐ月光は私、四季映姫にも例外なく注がれていた。おかげで周りの物の輪郭はしっかりと見え、転ぶ等のアクシデントと出会うことはなかった。
それなのに私の足はまるで暗闇の中を歩いているように、ゆっくりでそれでいておぼつかない。今日の出来事の想起が相手への罪悪感、自分への嫌悪感、発言への後悔……、そんな感情だけを湧かせ、それらが抽象的な重さをつくりだし私の歩きを拙いものにするのである。
しかし音の有無は夜という設定を忠実に守っているらしく、存在している音は虫や鳥の鳴き声と三途の川方面へと歩みを進める私の足音ぐらいだった。無論その静けさが私をよりセンチメンタルにしているのは、虫も鳥も知らないだろう。
「はぁ…」
夜道に静かに鳴っている音のレパートリーに、自分の大きな嘆息音を追加させる。
不意に「ため息を吐くと幸せが逃げる」なんていうことをだれかから聞いたことを思い出したが、そんな迷信鼻で笑い飛ばしてやった。そもそもこの考え方はおかしいのだ。ため息と言う物は大抵が絶望したから吐くもの。だから吐いたところで逃げる分の幸せなんていうものはありはしない。まさしく今の自分のように。だから本当は「幸せが逃げたからため息を吐く」と言ったほうが正しいだろう。
なんて変なことを論じている自分に気が付き、自嘲めいた笑みを浮かべる。ため息で幸せじゃなくて不幸が逃げてしまえばいいのに、なんて自分勝手な願いをしてみるもののそんな思いはあっさり却下されたらしく、不幸はあいも変わらず居座り続け私を悲しみのどん底に突き落とす。続く悪夢にいらだちすら覚え珍しく感情的に頭をかきむしった。
もやもやする頭の中で自然と会議の準備がされていた。内容がどんなものなのかはもう知っている。なんせ本日の議題はずっといっしょなのだ。
当然今回も『昼間の反省』、それであった。
いつものことだった。小町が仕事中に寝ることなんて。だから私がいつも通りの説教を彼女にしていれば、今日という日も私が今まで過ごした日々と変わりなく終わるはずだったのだ。
しかし、イレギュラーが発生してしまった。小町が説教中に寝たこと、私が彼女に理由を聞いたこと……どれをイレギュラーと言い切ればいいのか分からないが、確実に今日は『いつも通り』から逸脱してしまった。
その中でもわかるのは、こんなことが起こった大きな原因は私が感情的になってしまったということである。
小町は質問の返答で「説教がなければ」と言った。しかし私にとって説教とは、唯一彼女に会える理由なのである。その否定が、会うこと自体の否定に思えたのだ。しかも気が動転してしまい、それを私の存在否定にもつなげてしまったのである。今思い返すと心底馬鹿らしい解釈と思えるが、恋愛関係のことになってしまうといつものような冷静さは自分の中から消えてしまうのが約束事になっていた。本日も悲しきことにその約束が適用されてしまった。
そして私は湧きあがる悲しみを理不尽な怒りへと変え、小町にへと突き立てたのだった。
「はぁ~」
再び夜道にため息を響かせた。何度思い返しても感じるのは自責の念だけである。それが大きすぎて反省会と銘打っておきながら反省と呼べるようなことは何一つできやしない。
とりあえず小町には謝らないといけないのは分かるのだが恥ずかしい話、人に謝ることに大きな抵抗を感じておりこのまま逃げてしまいたいと思っている。それでも自分の良心で邪念を押し殺し、三途の川へと歩くことを続けていた。
一日を通して憂いにまみれた気持ちに嫌気がさし上空で輝き続ける月を見てみたが、美しいと思うことはまったくできなかった。
その後もしばらく歩いていると自分の視界に誰かが映った。それが歩行への抑止力となり私の足は止まった。
距離が離れているせいでぼやっと輪郭だけしか見えず、詳しい動作がわからない。だがその誰かは前にある大きなため池を覗き込んでいるように思えた。三途の川付近に大きなため池があることに初めて気が付いたが、今はそれを問題として取り上げはしなかった。
今の問題はそれが誰なのか、ということだけである。もう死神たちの職務は終了している時間だし、外部の者がここまで来るのも納得がいかない。しかもその者はただひたすらにため池の前にただずんでいる。
私は訝しげな目つきに切り替え、息を殺した。全身に変な力が入っていて、心はいつの間にか警戒心の塊となっていた。それでも私の足が静かに歩き始めたのは、不自然要素しか積まれていない不審者の正体を知りたい、という小さな好奇心が心の片隅にあったからなのだと思う。
…………
再び足が止まった。
距離を縮めたことによって輪郭だけではなく、その者の全貌が見えた。目に映ったのは見慣れた髪型に見慣れた横顔、見慣れた服装。それらのおかげで分かったのは、その者を不審がる要素は何もなかったということ。
私が先ほどまで警戒していた者は自分の部下、小野塚小町だった。
ふうっ、と安堵の息をもらし全身の力を抜く。固まっていた警戒心をゆっくりと解きほぐし、表情を崩した。
身構える必要などなかった。相手は自分の部下、それだけで不安要素はすべてぬぐいきれたのだから。もう心配することなんて何もないのだ。
大きな安心感が生まれ、私は彼女に近づくため軽やかに足を一歩踏み出した。
…のだがそれ以上踏み出すことはできなかった。
ついつい正体がわかった安堵が大きすぎて忘れていた疑問を思い出したからだった。
彼女は何をしているのだろう。
さっき解きほぐしたはずの警戒心がまた固まり始めた。そして一歩リードしている右足を元の位置に戻し、目を細める。
そこで気が付いたのだが、小町の横顔は普段の仕事中では見せない真剣な表情であった。そこから詳しく喜怒哀楽を読み取ることはできなかったが、何か重大な考え事をしているように見えた。大きな決断をする直前という感じ、例えるなら自殺志願者が自殺をしようか悩んで……
自分の肩が大きく揺れた。まるで雷が落ちたような衝撃が全身を駆け巡り目は見開かれ、呼吸をすることさえ忘却の彼方へ押しやられる。
例えとして考えた物が仮説に変わり、それが自分の中での一番の有力説へと変わっていた。
一歩踏み出して彼女の行動におかしさを感じる。小町はこんな夜に皆が進んで近寄ろうとしない場所に一人でいて、苦悩しながらため池を見ている。そうだ、これは明らかに不審すぎる。自分の部下だからと言って今の彼女から不安をぬぐい切ってはいけなかったのだ。
もう一歩踏み出して数日前に裁いた魂のことを思い出す。確かその者は仕事をクビにされたショックで自殺をした。一人悩んだあげく夜の人が少ない時に池へ飛び込んだらしい…
静かに一歩一歩と踏み出される足は小町を目指し、ゆっくりと歩いていた足のスピードは速くなり、気が付くとそれは自分の全力疾走となっていた。
数日前の魂と状況が重なってしまうのである。クビにされたことから今やっていることまで。
そのせいで昼の時と同じく冷静な判断などはさむこともできず、もう嫌な想像だけが頭を満たした。
「小町!!駄目です!!」
大きな声を出しすぎて喉が少し痛くなる。
この声でこちらに気が付いた小町は目をまん丸にしていた。いきなりの上司に出現に心底驚いているようだが、こちらとてそんな事を気にしている暇はない。
なんとかせねば、そんな思いで私は痛む喉を無視してまた大声を出した。
「自殺は……自殺は、いけません!!」
「は、はい~~!!?」
ずいぶんと間抜けな声をあげたものだ。これから自殺をしようと考えていた者とは思えない。それでも私は足のスピードを下げない。自殺志願者とは何をするか分からないからだ。
鳩が豆鉄砲を食らったような表情の小町が大きくなっていく。それは自分と相手の距離が縮まっている証拠であった。
二人の距離残り十メートル…七メートル…五メートル…三メートル…そして……
等身大の彼女が目に映った時、私は息を切らしながら抱きついた。
がっしりと腰にまわした腕をほどけないようにしっかりと結び合わせる。普段の自分ならこんなことをした時点で即ゆでダコ状態だが今は命がかかっているのだ。気にしている暇などない。
自殺を止められたせいで気が動転したのだろうか、小町は腰にまわされた腕を引きはがそうとしたり、大きく体を揺らしたりした。身長差の問題で小町の胸しか見えないので、どんな表情をしているか分からない。しかも何か言っているようだが自分の喉からひねり出される掛け声がうるさくていまいち聞き取れない。それでも私は抵抗する彼女から腕は意地でも離さなかった。離すことに恐怖すら感じていた。
「い、いきなりどうしたんですか!?」
「離しません!!死んでも離しません!!だから死なないでください!!」
「な、何を言っているんですか!?」
「死なないでください!!あなたが死んでしまうと困ります!!」
「四季様、落ち着いてください!」
もう頭にあるのは目の前の人物を救いたい、ということだけ。そのせいで相手の言葉は耳に入らず会話の定義を何一つ守っていない言葉の応酬を続ける。回した腕に力をもっと入れ彼女の抵抗に必死に耐え抜く。
「あっ…」
しばらくもみ合っていると小町がそんな声をあげた。
それと同時に自分の体が重力を受けなくなったのを感じる。まるで空を飛んでいるような錯覚を起こした。というより飛んでいるらしい。足が地面についていないのだから。見慣れた世界が大きく傾く。いや、正確には傾いたのは私たちのようだ。さっきまで下にあったため池が横側に見える。
そして空中浮遊中の意識が途切れる寸前、小町が私とため池の間に入ってくれたのを感じた。そして次に意識が戻った時には…
バシャーーン
大きな音と水しぶきを上げ、向かい合いながら二人で池に落ちていた。
* * *
「すいませんでした!!」
「あ、頭をあげてください!あたい気にしてませんから!」
「本当にすいません…」
九十度以上曲げていた腰をゆっくりと元に戻した。小町への申し訳ない気持ちと勘違いをしてしまった恥ずかしさが休むことなく私の胸を絞め続ける。ここに来るまでは抵抗を感じていた謝罪はいつのまにかこの場の定型文になってしまうほどに。
そこで目に入るのは月に照らされながら髪の毛や着ている服から水を滴らす自分の部下、小野塚小町であった。
目に映った彼女の状態がより一層絞めつける力を強くする。罪悪感で小町を直視することができない私は、目を斜め下に向け再び決まり文句を呟くことしかできそうにない。
「本当にすいません…」
落ちたため池は見た目の割にとても浅く、私たちが溺れることはなかった。だけど小町は私をかばってくれて彼女は背中から落ちた。浅いといえどもその量はかばい人の全身を濡らすぐらいはあり、それでも浅きゆえにかばわれた私は濡れることはなかった。それが逆に恨めしいのだが。
ため池の中で向かい合っていると私の頭に上っていた熱がだんだんと下がり、いつもの冷静さを取り戻した、がそれがよくなかった。クールな頭は一瞬にして今の状況を理解してしまい再びホットな頭へと逆戻り。興奮状態へと陥りまたしばらく暴れてしまった。声すらまともにかけられない相手と、間近で見つめ合ってしまったら必然的な結果だろう。そんな私は何発かいいパンチを小町の顔やらボディーにいれ、苦しむ彼女に強制的に池の外に連れ出してもらった。暴走した思考に冷静さが現場復帰したころ、私は自殺の真相を問いただしてみた。すると、ただ単にため池を見ながら今日会ったことを反省していただけと教えてくれた。その時私に訪れたのは目の前にいる人への多大な申し訳なさ。こちらの言い分を少し説明しひたすら謝り続けていたのだった。
「そんなに気にしないでください。だれにもミスはあるもんですよ。あたいだって四季様にはいっぱい迷惑をかけてますすし」
罪悪感で窒息死しそうな私におどけた笑顔で小町は言う。その言葉は自分が被害者ということを誇示するものではなく、むしろ加害者である私を心配させまいとする彼女の気遣いだけで構成されていた。
それがやっぱり申し訳なくて、でもそれがたまらなくうれしくて心が温かさに包みこまれる。だから私は『ありがとう』を伝えた。今の気持ちを精いっぱい混ぜ込んだ『ありがとう』を。
「そ、それに…」
なのにいつのまにか顔を少し赤らめはにかんでいる。視線はさっきの私同様斜め下にくっついたまま動かない。いきなりの変わりように少し驚きながら、次に紡ぎだされる言葉に興味を感じながら彼女の目を見据えた。
「…四季様にお怪我がなくて何より……です…」
…なぜこのタイミングでこの言葉なのだろうか。気持ちを打ち明けるのはいいがもう少し考慮してほしいものだ。
おかげで落ち着きを取り戻しつつあった心は大きく掻き回され、うれしさと恥ずかしさが自分の中で大暴れする。
照れ笑いを続ける小町を前に私は赤く染まった顔を下に向けることしかできない。『困った部下を持ったものだ』などと心で少し悪態をついてみた。
「くしゅんっ!」
とその時、音の消えていた世界に可愛らしいくしゃみの音が鳴る。
うつむく顔を正面に向けると小町が鼻をすすっていた。まあ、当たり前のことだろう。肌寒い夜に濡れた服を着ながらいたら体だって寒さを訴える。
「風邪をひいてしまいますから、部屋に戻りましょう」
提案をしながら彼女に近づく。体をふくことはできないがそばで労わるぐらいのことはしたいのだ。
「大丈夫です、実はあたい風邪をひいたことないんですよ。むしろ病気にでもかかって仕事を休みたいぐらいですよ」
おどけた顔で今度は休養願望を言ってみせた。
ため息一つ吐き、呆れ顔を携えて足を止める。本当はもう少し近づきたかったのだが、距離を縮めると鼓動が速くなり苦しくなるので、それ以上進めなかった。
「あなたは本当に不真面目すぎる。もう少しまじめに取り組んでください」
「四季様が頑張りすぎなんですよ。あたいだって最初のころは頑張っていましたよ」
「へぇ~、顔合わせの時遅刻したのは誰でしたっけ?」
いつのまにか思い出の詰まった箱を開けていた。そこから出てくるのは小町との過去の出来事。
「そ、そうでしたっけ…? で、でも次の日からは…」
「仕事ぶりを見に行ったら気持ち良さそうに寝ていましたね」
なんていう名前かはわからない。でも不思議な感情が湧きあがってきた。
「あの時は魂が少なくて暇でして…」
「あと他の死神と殴り合いをしたり…」
「あれは相手からしかけてきたんです! それに四季様だって…」
「それは小町のためです。だけどあの後…」
「そうですよ。あの時は四季様とっても優しくて…」
「次の日からはあなたも珍しく頑張っていて…」
「と思ったら後日すごく怒られて…」
「自分でも少し反省して…」
「それから…」
「あとあの日も…」
「それで…」
………………………………
いつの間にか始まっていた過去巡り。
発掘されるのは懐かしくて、うれしくて、でも時折恥ずかしくて、けれどやっぱり楽しい思い出ばかり。
何百年と呆れあい、悲しみあい、笑いあった部下と上司とでしか果たせぬ悠久の旅。
彼女と話すのにいつも感じる抵抗はまったくない。それほど自分の中の不思議な感情は大きくなっていた。
共有し合った時間を噛みしめあうこの瞬間。
今がずうっと続けばいいのに、なんていうわがままを考えてみる。
自分の中で大きくなった不思議な感情、今の永遠を望んでしまう理由。
心から笑っている小町の顔を見て、それらの名前が分かった。
これらを人々は『幸せ』と呼ぶのだろう。
* * *
「くしゅんっ」
楽しかった時間に終わりを告げるように、または忘れていた現実に引き戻すようにくしゃみが鳴った。音源はさっきと同じく小町であった。
「あっ、すいません。忘れていました」
たったひとつの何げない音だけで浮かんでいた過去話は散漫となり、今の現状が頭の中で再構築される。
そうだ、彼女が風邪を引かないように着替えさせないといけないんだ。
思い出された使命は残酷なぐらいに今までの気持ちを切り替えた。
「…風邪を引くと悪いのでそろそろ各々の部屋に戻りましょうか」
「そうですね。 …いやぁ~、今夜は四季様と話ができて楽しかったです。また今度しましょうね」
わかりました、と短く言い彼女から目を逸らした。
返した言葉と行動が少し冷淡になってしまったのは、楽しい時間が終わってしまうことに寂しさを感じたのと、それでも一番の原因は持病の症状がまた発症してしまったことだった。
ドクンドクン、と大きな音を出す自分の心臓に手を添える。先ほどまでは話をすることに夢中であったが、魔法のようにそれが終わるといつもの自分へと戻ってしまった。
「では、そろそろお開きにしましょうか。四季様もお体に気を付けてくださいね。あたいは明日風邪を引くように願掛けしてから寝ます」
小町は憎まれ口をたたき、豪快に笑いながらウィンクを私に飛ばす。
きっとこの行動は別れを告げる意味しかないのだろう。これといった理由も意味もないに違いない。
なのに美しいと思った。
空に輝く月に照らされた彼女の屈託ない笑顔。ただそれだけのことに私は大きく心を打たれた。息をすることも思考することさえも体は止めてしまう。
まるで時間が止まったように。
再び脳が活動し始めた時に感じたのは諦めだった。
もう認めるしかない。
私の病気が始まったのはいつか今と同じく彼女の笑顔を見た時だった。その時から私は彼女を正視できなくなり、そして知人に正体を教えてもらった時から自分の本心と向かい合えなくなった。
何もかもが唐突で臆病な私は逃げることを選択したのである。
だけど小町の笑顔から始まった逃避行は、不思議なことに同じく彼女の笑顔で今終わりを迎えた。
しょうがない。私の胸は大きく高鳴り、こんなにも小町が愛おしいと思ってしまったのだから。
いつものように暴論を並べることさえ、心から無意味に思える。
結局、気持ちはずうっと何一つ変わってはいなかったらしい。
私はやっぱり小町のことを……
「こ、小町!」
気が付いたら名前を呼んでいた。だというのに……いや、だからこそ頭の中は真っ白という最悪のコンディション。
驚き顔の相手の視線がより私を慌てさせる。何かを言わなくては、と思えば思うほど次の言葉が見つからない。それでもこの空気を打破するために、何か話のタネになりそうなものを記憶の中から無我夢中にかき集めた。
「どうしたんですか?」
探すんだ。話が紡げれば何でもいい。何でもいいから…浮かんで……
「……ひ、昼間は言いすぎました」
………助かった。
自然な話題が記憶の片隅にあった。それは数々のことがあったせいで自分の中でとても小さくなっていて、だけど大事なことだった。
本当はもっとしっかりと言いたかったのだがしかたない。今度から無意識の行動にはもっと気をつけようと自分を戒める。
「昼間…? 何か…」
「あなたにひどいことを言ったやつです。覚えていないのですか?」
「えーと…あ、思い出しました!」
「今頃ですか!? …とにかくあれは私が感情的になってしまっただけなので、クビの話も気にしないでください」
「あ、ありがとうございます! あと、あたいもすいませんでした」
一件落着、と言うべきか。まさか彼女がここまで忘れていたとはびっくりである。まあ、私もついさっき思い出した身なので人のことは言えないのだが。とにかく今日起こった問題ごとはこれにて全て解決ということでいいだろう。
…そうこれで全てなんだ。 ……心残りなんてないんだ…
そう心の中で繰り返す。何かをごまかすように。
「一つ聞いていいですか?」
「なんですか?」
「どうして四季様はあたいに何百年と説教をしてくれるんですか? …あ、もちろん不服を言いたいわけではありませんよ! むしろ感謝しています。あたいはたとえ何があろうと四季様を尊敬し続けます! だけどなんで諦めもせず続けてくれるのか分からなくて。まあ、不真面目を正すためだけ、と言われたらそこまでなんですけどね」
「……」
「な、なにかほかに理由でもあるのですか…? こうなんというか、私情が絡んでいたり…?」
少し照れながら何かを期待するように小町はこちらを見ていた。
彼女の言っていることは正解なのだ。ただ公正を願ってのことだけじゃない。会うためだ。彼女に会いたいからだ。そう言ってしまおうか。「説教なんてあなたに会う理由づけです」と。そうすれば…
…いやできない。今まで自分の気持ちからも逃げてきた臆病な私には言うことができない。それが悲しくて悔しい。自分の臆病虫が恨めしい。
「…ただ仕事に支障の出ないように叱っているだけです」
「……そ、そうですよね… 仕事ですもんね。変な質問してしまってすいませんでした… おやすみなさい」
やっぱり言えなかった。小町がどんな回答を期待していたかは分からないけど、反応を見ただけで傷つけてしまったのはわかる。
背を向け歩きだした彼女の姿は寂しそうだった。でもこれでよかったんだ。気持ちを伝えて関係がぎくしゃくするよりは今のままでいたほうがましだ。だからこれでよかったんだ。
これで…よかったんだ。
これで……………よかったのか?
私はもう認めてしまった。自分が彼女のことを好きなんだと。つまり明日からは今まで以上に苦しい日々となるだろう。本当の気持ちに蓋をし続けなければいけないのだから。
きっと私は仕事どころではなくなってしまう。もしかしたら本当におかしくなってしまうかもしれない。でも…でも臆病な私には告白することさえできない。
『もう少し素直になったほうがいいわ』
今日幽香に言われた言葉が脳裏をよぎる。
言われなくても知っている。私だって好んで仮面を着けているわけではない。…怖いだけなのだ。私の気持ちを伝えたら軽蔑されそうで、片思いだった時は彼女に嫌われて今の関係性さえも崩れてしまいそうで、考えると恐怖で体が満たされてしまう。だから…私には…
『たとえ何があろうと四季様を尊敬し続けます!』
次に頭に浮かんだのはこの言葉だった。さっき小町が言ってくれたこと。さりげなく伝えてくれた彼女の意思。
それは不思議なものだった。たった一言彼女の言葉を思い出しただけで悩みが馬鹿らしくなった。広がった不安がちっちゃいものに感じられる。
私の思いが片思いだとしても今の関係は崩れない、彼女はそう保証してくれたのではないか。今抱えている思いは杞憂だと遠回しに教えてくれたではないか。ならもう心配も問題もありやしない。もっと早く気付くべきだった。彼女はそんな小さい奴なんかじゃないということに。
随分と時間がかかってしまった。だけどやっとこの時を迎えられるらしい。それでも拭いきれぬ緊張は私の手を強く握らせ足をせわしく震わす。瞼さえも閉ざしてしまう。だから今の自分にいつもの威厳なんていうものはない。
それでもいいんだ。これが素直な自分なんだ。だからお別れを告げよう。
「私はあなたなんか大っきらいです!」
逃げ回るばかりの臆病な自分に。
* * *
彼女は今どんな顔をしているだろう。目を閉じているから分からない。でもそんなのどうでもよかった。
「いつも気が付いたらあなたのことばかりを考えている。それなのに実際に会おうとするととっても緊張するんです!」
私は今どんな顔をしているだろうか。いやそれもどうでもいい。
「何気ない会話ができただけでとってもうれしくて、またしたいなって思ってしまう」
彼女は今どんなことを思っているのだろう。やはりこれもどうでもよかった。
「病気だと思って人に聞いたら私があなたに恋をしているって言うんですよ」
私は今どんなことを思っているだろうか。
「そんなの信じられますか!? 自分の部下に恋をしていたなんて」
その答えは知っている。
「なのに今日私は認めてしまいました。あなたの笑顔がたまらなく美しくて、愛おしかったから。こんなにも上司の気持ちを振り回すあなたなんて…」
私は思っているはずだ。
「大っきらいです!」
あなたが大好きだと。
返答はまだ来ない。思いをすべて伝えた今彼女は何を思っているのだろうか。そして何を言うのだろうか。
拒絶の言葉を相手は送ってくるかもしれない。「ごめんなさい」と一言言われてしまえばこの恋は実らぬものと証明されてしまう。
それでも待とう。どんな返事も受け入れよう。素直になれたんだから。私は勇気ある一歩を踏み出せたのだから…
「四季様」
何か柔らかいものが全身を包んだ。驚いて目を開けると小町が私を抱きしめていたことが分かった。それだけで私の声は震えてしまう。
「あなたなんか嫌いです…」
「四季様…?」
「大…嫌い……です」
「あたいも四季様のこと大好きですよ?」
完全に素直になれなかった。好きなのに嫌いとしか言えなかった。だけど小町は私のそんなところもしっかりと受け止めてくれたらしい。彼女は『あたいも』と言ってくれたのだから。
「小町?」
「なんでしょう?」
「私も…あなたのことが大好きです」
たくさんの感情が私の本心を言葉へと変え、そして涙に変える。その後はしゃべることができなくなったので、残りの気持ちはすべて涙へと変換されることになった。
小町はずうっと強く抱きしめ続けてくれた。私は彼女を弱く抱きしめ返し、ただただ泣くことしかできなかった。
「帰りましょうか…」
「そうですね」
涙が尽きた頃、私はそう言い放った。本当はもっとこうしていたいのだが、夜もだいぶ更けてきたので切り上げることを選んだ。
名残惜しそうにゆっくりと体を離すと、彼女と目があった。月に照らされているその顔は赤く染まりながらうれしそうに笑っていた。それを見たとたん照れくさくなって急いで目を逸らす。その時に遅れながら彼女と恋仲になれたことを思い出し、うれしくなった。
「なにを笑っているんですか?」
「わ、笑ってなんかいません」
ついつい反論してしまう。横目で彼女がおかしそうに笑っているのが見える。
「それでは四季様」
それを合図にしたように私は視線を戻した。別れの挨拶を交わすために。
「今日最後の部下の無礼をお許しください」
いたずらっぽく赤い顔でウィンクを飛ばす。その発言と行動に驚いていると小町はゆっくりと顔を近づけ…
気が付いたら自分の唇と彼女の唇が重なっていた。
この感情を人々は何と呼ぶか知っている。どんなものなのかも知っている。なんせ今日経験したから。
その証拠だってある。
今がずうっと続けばいいのにな、なんていうわがままを私は考えているのだから。
四季様が可愛すぎて眠れないww
確かにこまえーきタグはもっと増えるべき。