「お姉ちゃんのばかぁ! わたしよりもそんな顔の白い男がいいのね!?」
そう叫んで、こいしは泣きながら部屋から飛び出していった。あとには引きとめようとした手を、宙ぶらりんにしたさとりが残された。むなしく空を切る手。ある意味で、これは悲劇だった。
そして、地霊殿では一つの噂が流れ始めた。
さとり様は白い顔の男のことが好きであり、また妹とアレな関係にある、という噂だ。
心が見えてしまうさとりは、廊下をあるけばひそひそと話されるのや好奇の視線に耐え切れなくなって、逃げ出した。地霊殿から走っていった。行き先は考えなかった。考えたくなかった。
ただ遠くへ行きたかった。自分の過ちを見返し、反省するために。そのために、半べそかいて走った。
まぁ、実際は妹と顔が合わせづらいだけなのだが。
▼――さとりと無意識、無意識さとって――△
「あのさぁ」
と、水橋パルスィは腕組みしながら目の前でぶっ倒れてる古明地さとりに話しかけた。
さとりは橋の上に細い手足を投げ出して、見事に倒れている。額を橋にくっつけて起き上がる気力さえないようだ。
なんとなくしゃがみこんで突っついてみると、ぴくぴくと反応したので、どうやら生きてはいるようだ。
「どうしてあんたがここにいるのよ?」
さとりは答えない。
つんつん。ぴくぴく。動かない。動く力もない。パルスィが顔を近づけると、しくしくと泣いているような声が聞こえた。というか泣いていた。
パルスィはため息を吐いた。
ここにいられると、迷惑なんだけど……。
「ねぇ」
つんつん。ぴくぴく。
「こっから落っことしてもいい?」
その瞬間、さとりの手が伸びて、パルスィの腕を掴んだ。余りの早業に対応できなかった。いや、運動不足なだけともいうが。ともかく、パルスィの腕を、がっしと掴んで離さない。
引っ張ってもとれないので、ずるずると引きずってみた。ちっとも離れない。
仕方がないので、橋の下の自宅に連れて行くことにしたのだ。
自宅といってもテントなのだが。
「とりあえず、事情とか聞かなきゃならないのかなぁ? これ」
そう言ったとき、大きなお腹の音が、そう広くもない橋の上に響いた。
ちら、とさとりを見ると、髪の隙間から見える耳が、真っ赤に染まっていた。
まずはご飯かなぁ、とパルスィはなんとなく思った。
▼
小さな机の前に座って、大盛りのご飯をがつがつと普段の彼女から想像もできない様子で、食べていくさとり。どうやら相当にお腹が減っていたらしい。
パルスィは、目の前の川で釣った魚を焼いていた。傍らには釣竿が一本。
テントの前で、ちょっとしたピクニックみたいな感じ。このテントが自宅であるということを除けば。私も家が欲しいわぁ、とパルスィからは少しばかり嫉妬が湧き出てきた。
しかし、ご飯を食べているさとりに目を移して考える。
こいつはいったいどうして、あんな所で倒れていたのだろうか。確か地霊殿という立派な家があったはずではないか。ならばどうして?
追い出された……わけないしなぁ。
さとりが突然のどを押さえた。……詰まらせたか。
机の下に敷いたビニールシートの上で激しくもがくさとり。机の足に、脛をぶつけて、おとなしくなった。ああ、いや、まだのどを押さえてる。詰まったまんまだ。
パルスィはやれやれとため息を吐きながら、川の水をコップにすくった。……一応きれいなはず。まぁ死にゃしないだろう。仮に身体に悪いとしても、ご飯をのどに詰まらせて窒息死よりは随分マシになるだろう。きっと。
渡してやると、ごくごくとすごい勢いでさとりは水を飲み干した。そして気管に入ったのか、今度はむせ始めた。忙しいやつだな、とパルスィは小さく笑みを浮かべる。
そうしてからしばらくして、さとりはまたご飯を食べ始めるのだった。
「ほんっとうに助かりましたぁ!」
ぱしん、とさとりは手を合わせて頭を机にこすり付けるくらいに下げた。
パルスィはお茶を飲みながら、片手をひらひらと振って、言う。
「いいわよ、こんくらい。どうってことないしね」
「そう言ってくれると助かります。たとえ聞こえていたとしても」
そして湯呑に手を伸ばす。ちったぁ遠慮しろよ、とか思わないでもなかった。けど思わないことにしたパルスィだったり。
それにしたって気なる。どうしてああなってたのとか、地霊殿でなにがあったのか、とか。
「ふむ、なにがあったのか気になっている様子で」
「うん。ちゃっちゃと話してくれるとうれしいな」
するとさとりは思案顔で口元に手を当てた。その表情からは、思い出したくもないものを思い出しているような感じを受ける。
じっと考え込んで、さとりは言った。
「いいでしょう。教えてあげます。あの夜に、いったいなにがあったのか。そして私が餓死しかけていたことに対する答えを」
さとりはごくりとお茶を飲んだ。
熱かったのか、湯呑を持ったまま涙ぐんだ。
▼
その夜、さとりは自室のベッドの上でもがいていた。
枕を抱きしめて、ばたばたと悶えていた。
そう、さとりはやりたかったのだ。あのポーズを。こいしがいつも無意識のうちにやっているあのポーズを。そこいらではぐりこぐり言われているポーズだが、さとりは純粋にそれがやりたかったのだ。
じっとベッドの隅に置かれた赤い箱を見つめる。
そのパッケージには、あのポーズを華々しく決めた白い男が微笑んでる。天高く掲げられた両腕や、太ももまであがる逞しい脚。
それがやりたかったのだ。
だから、その日は早くに部屋に入った。
誰も来ないように、さりげなく、自然に部屋に入ったのだ。こいしは外出していていないし。
さとりはその赤い箱を手に取る。白い顔と目が合った気がした。
立ち上がり、ドアを開けて、左右の確認をささっと済ませる。誰もいないことを再確認。
そして、部屋の入り口近くに鎮座する姿見の前に立つ。
いつもの通り、若干悪い顔色。もしかしたら、これでなにかが変わるかもしれない。
そう思って、さとりは意を決した。
「せぁー!」
両腕を天に突き出し、雄々しく立ったその姿。まさしくこいしのポーズそのものだった。さとりは鏡の中の自分に驚いた。どうしてこんなに自然にできているのだろうか。
いや、私はこのポーズをするために生まれてきたのだ。
そう思えた。
片足が震えてきたのが分かる。脚をいったん休ませて、再度ポーズをとった。
なんというか、開放感をさとりは味わっていた。あのポーズをとることで、自分の中の抑圧された全てが開かれていくのがわかった。
なんということだろうか、こいしはずっとこのような気持ちを味わっていたのか。
そう、さとりが思った瞬間だった。
「お姉ちゃーん。いるー?」
誰も来ないようにしたはずの部屋が開かれたのだ……!
「こい……し?」
さとりは油の切れたブリキ人形みたいなぎこちない動きで、こいしのほうを向いた。固まったままのこいしの目が、必死になにかを訴えてくるのがわかる。閉じた瞳を通り抜けて、聞こえてくる心が。
「お、姉ちゃ……ん?」
胡乱なこいしな瞳が、さとりの持っている赤い箱を捉えた。
「ち、違うのよこいし。これは違うの!」
さとりは必死に弁解をしようとし、思わず座り込んでしまうのだった。
「違うのよ、別にあなたのをとったわけじゃ……」
「……ゃんは」
「はい?」
帽子で陰になって見えない目。震えながら、こいしは小さく呟くように言った。
「お姉ちゃんは、そのポーズを真似たって言うの?」
指差された赤い箱。
そのまま思わず頷いてしまうさとり。こいしの目が、見開かれた。
「お、」
「お?」
「お姉ちゃんのばかぁ! わたしよりもそんな顔の白い男がいいのね!?」
うぁーん、と叫びながらドアをぶっ壊して行ってしまうこいし。思わず引き止めるように差し出した手がむなしく空を切った。
「違……う、の」
さとりは泣いた。赤い箱の白い男は、にっこり笑ってさとりを慰めているように見えた。
▼
「で、次の日からペットたちに噂されるわ、妹は引きこもるわ、で家出した、と」
「概ねその通りです」
ずずー、とお茶をすする。ぼりぼりとお茶請けの煎餅を食べる。ついさっきコンビニで買ってきたものだ。代金はパルスィ持ち。あとで払うから、とか言ってるけど大丈夫だろうか。
それにもう少し遠慮しろよ。
「とりあえずさぁ」
「はい」
「帰れば?」
「ば、かな。あなたはあの苦しみを知らないからそんなことが言えるんですよ!」
「ほう」
「勝手に見えてしまう心の中。ペットたちは白い男のことをしらない。だから、肌の白い誰かと私がごにょごにょなことを想像されるんですよ? それ、見えるんですよ。帰りたくないです」
顔が赤いのは気のせいだろう。
「そいつぁ辛そうね」
「それに、こいしとのごにょごにょとかも」
「きっともう、忘れてるわよ、それ。動物だし。そもそも、その夜っていったいいつのことよ?」
「一週間くらい前ですが……」
「よし、じゃあ帰れ」
さとりは目を見開いて叫ぶ。
「そんな殺生な! 人の噂は七十五日って言うじゃありませんか」
「そんなにいる気なの!?」
「だめ、ですか?」
「か・え・れ」
「う、」
目の端に、うるっと涙が浮かぶ。小動物のようにしてパルスィを見上げるさとりに対して、パルスィは親指でテントの出口を指した。
にっこり笑顔。でもさとりにはその心が見えてしまう。
帰れ、と連呼されているように見えた。
「じゃあ帰りますよぅ」
うな垂れながら、てこてこと出口に向かう。そうして出口を潜るときに、振り向いて、
「じゃあ、ご飯、美味しかったです。ごちそうさまでした」
と、言って出て行った。
▼
「どうやって顔を合わせればいいんですかぁ?」
さとりは小さく呟いた。
家に帰る道をせっせと歩きながら、だ。
そういえば盲点だった。確かにもう飽きてそうな話題のことだ。しかしそれは問題ではない。
問題はこいしだ。
いったいどうして、あの日、あの娘は泣いて飛び出したのだろうか。
そういえば、とさとりは回想する。
あのときこいしはなんと言った?
――わたしよりも、あんな――
そのとき、さとりの頭脳は一つの答えを導き出したのだ。
そうか、つまり、あの娘は――――
「お姉ちゃん……?」
「こいし?」
道の向こう側から歩いてくる人物。それは、こいしだった。さとりを確認すると同時に、その速度をあげて走る。こいしは泣き腫らした目に涙を溜めて、さとりに飛びついた。
押し倒されるように、草むらに倒れた。
「どこ行ってたのよ! みんな探したんだからね!」
「こいし……」
さとりはこいしの頬に手を伸ばして、涙を拭ってやった。
心配してた、とその表情は語っている。だからだろうか、素直にその言葉が口から出た。
「ごめんなさい、迷惑かけて」
「いいよ。お姉ちゃん、帰ってきたんだから」
「そう、ですか」
こいしの背中に手を回す。小さな背中がやけに暖かく感じた。
「あのね、お姉ちゃん。わたしも謝んなくちゃならないの?」
「どうして?」
「あの日のことが、気になって、お姉ちゃん出て行っちゃったんでしょ?」
「うん」
「だったらさ、わたしも悪いじゃん。……あのあとね、お燐たちに聞いたんだ。お姉ちゃんがずっとわたしのアレをやってみたいって、ずっと呟いてたってこととか」
聞いてたのかよ、とさとりは声に出さずに呟いた。
「だから、さ。勘違いしたわたしも悪かったの。ごめんなさい」
「いいのよ」
背中を撫でながら、答える。
「謝らなくても、いいの」
そうして、静かに涙を流した。
「ほら、帰りましょう。こいし、随分と汚れてしまってるじゃないの」
「お姉ちゃんだって」
「これは……帰ったらお風呂に入る?」
「そうしよっか」
少し赤い目を隠すこともなく、彼女たちは帰路を歩く。
手を握り合って、互いに離さないように、ぎゅっと握り締めた。
[了]
最後のパルスィに悶えたw
ここに最強のさとり様が誕生した。
あと、パルスィがとってもいい橋姫。
……これでお酒さえ入らなければ。
この一文でひどく悶えたw