Coolier - 新生・東方創想話

Mと沈め/船出の錨を振り切って

2010/08/28 21:25:31
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     告
 さとパル
 地霊殿ストーリー以前です。
 この作品は前作『見知らぬ常連客』からの続き的なものになっています。
 読んでいただければ少しだけお得かと。
 また、過去作から引っ張ってきている要素もあるので、ご注意を。

 了解していただければ、どうぞお楽しみください。











 彼女を見かけたのは地霊殿に向かう途中、旧都の三番街にある団子屋『橘』の店先だった。以前見たときと同じ服装に今日は青のコートを着込んでいた。傍らには空になった皿が積まれていた。最初見たときは酒に溺れていたが、今日は団子のやけ食いらしい。私達の間には数メートルの距離と薄い人の波があって、向こうはこちらに気がつかないようだったが、仮に私達の間に壁がなくとも、彼女が私に気付く気配は、なぜかしなかった。
 彼女の暴食には、いつも柔和な笑みを浮かべていた店主も苦笑いを浮かべるしかなかった。厨房では彼の娘達が休む暇なく団子を作り続けていた。店主の苦笑いは商売が儲かっての表情なのかもしれなかったが、私には分からなかった。彼女は何事も意に介せず、焦点の合っていない瞳で団子を貪り続けていた。
 手元も見ず、かといって遠くを見るわけでもなく、どこも見ていない。唯一、自分の中を見続けている緑色の瞳。
 やはり彼女は、誰かに似ていた。

「どしたの? お腹でも空いた?」と、一緒にいたこいしが私の前に回り込んで聞いた。彼女とはついさっき、地霊殿に向かう途中で一緒になった。
「ねぇこいし、あいつ、見たことある?」
 私が店先を指差すと、こいしは振り返り、鑑定するようにして彼女を見た。どんなときでもこいしが落ち着いて何かを見ることなどなくて、その身体は小刻みにリズムを刻んでいた。
「うーん、見たような見てないような……あ、でもあの人なら見たことあるよ」
 あっち、とこいしは私の目線から少しずれたところを指差した。
「時々買い物してるのとか、宴会に顔出してるのとか」
 久しく見た彼女の姿に気をとられて気付かなかったが、その隣にはもう一人、見た事の無い姿があった。暴食を続ける姿を気に病んでいるようだったが、それを止めたらいいのか迷っているようにも見えた。
 雲のように波打つ紫の髪、濃紺のフードに、隣に座る少女とは違い、清潔にされた白い服。その身なりはこんな街中で団子を食べるよりも、静かな寺の中で精進料理を租借する姿のほうが相応しかった。

 尼の格好の女は何かを言っているようだったが、声は街の声にかき消されて、聞こえなかった。相手は聞いていても聞こえないふりをしてそっぽを向いた。やがて荒々しく席を立つと、金を置き、大股に裏路地に歩いていった。尼の少女はそれを小走りで追いかけて行った。
「ほら、早く行かないと、お姉ちゃんに怒られる」
「え、ええ。分かってるわ」
 言いながらもやはり、私の視線は二人の消えていった闇の中へ向けられていた。
「はーやーくー!」
 結局、こいしに引きずられるようにして、私はその場を離れた。
 私の頭の中からふたりの姿が消えることは無かった。

 暗闇の中。
 何も見えなくなった瞳。
 全てを拒絶したがる心。
 私達が、そこにいた。




 ~Mと沈め/船出の錨を振り切って~




1


 ひとつ、欠伸をした。
 私は彼女を守りきらなければいけなかったが、誰も助けに来ないまま、既に五分が過ぎた。
 ちょっとしたパーティーが開けるほどの広さを誇る地霊殿のエントランスで、私達はふたりきりだった。ステンドグラスが照らす室内は暖色でもあり、寒色でもあった。二階へ通じる螺旋階段を登った先からも、私達の背よりも大きな扉の先からも皆の声を聞くことはできた。しかし、誰も此処まではやってこなかった。たどり着くことが出来ないのだ。いかに動物の運動能力を持ったペット達とはいえ、勇儀やヤマメから逃げ回るので精一杯らしい。
「あと、五分」私は階段の縁に飛び乗って、足をぶらつかせながら、小さく息をついた。さとりは私の足元で膝を抱えながら、床を指先でなぞっていた。
「あんたのペットも大したこと無いわね。十分も時間を貰ってあんたを此処から救い出すこともできないなんて。ま、本物の鬼に鬼ごっこを挑んだ時点で結果は決まってたんだけど」
 それでも捕まって此処に連行されてこないことは評価すべきなのだろう。もっとも、そんなことはこの『助け鬼』には全く関係ないことだった。
 開始前に全力で準備運動をしていたさとりのペット達にとって、なんとも非常な話ではあるが。

 古明地さとりを救い出す。
 それがこの遊戯の特別ルールであり、私の相手側の唯一の勝利条件だった。なんでもいい。現在さとりが拘留されている地霊殿ロビーから、十分以内に彼女を救い出せれば向こうの勝ち。全員が捕まる、または十分経過でこちらの勝ち。負けたチームは宴会の準備を一手に担う。地霊殿チームと旧都チームで始まり、展開に進展のないまま五分が経っていた。皆に言われてこうしてさとりの相手をしているが、私は退屈だった。
 息を吐いてから私は階段から降りて、床を見ているさとりの正面に立った。
「私も捕まえに行ったら、すぐに片付くかしらね」
「囚われの姫を守らなくていいんですか?」言いながらさとりは顔を上げて、首を傾けた。言葉と表情にはまだ余裕があった。
「守るって言うのかしらね、この場合。……ってか、誰が姫だって?」
「他に表現の方法がありますか? 少なくとも今現在は私は貴方に囚われている立場です。いうなれば貴方のもの。自分のものを奪われまいと行動するのならばそれは、守る、という言葉が相応しいでしょう?」
「なら、行かない」
 饒舌になったさとりはなにかを企んでいる。私は床を靴で叩いた。歩くたびに硝子を叩くような音が響いた。
「落ち着きの無い人ですね。橋姫でしょう? 少しは待つことを覚えたらどうですか」あと三分ですよ、そう加えて、さとりは扉の上の時計を見た。
「あんたが余裕なのが気に食わないの。ずっとそうやって座り込んでばっかりで、少しは逃げる用意でもしたらどうなのよ」
「それもそうですね」さとりは立ち上がり、軽くジャンプした。スリッパが乾いた音をたてた。そうして、なにか考えるように唇をなぞった。
「しかし、誰かが助けに来てくれなければどうしようもありません。さて、どうしたものか」
「猫も烏も逃げるので精一杯。頼みの綱のこいしはといえば、」私はさとりを指差した。さとりは頭を落した。
「あの子、逃げるほうが好きですから」
「よね」
 そもそも、まだこの辺りにいるかどうかすら定かではない。こういった遊びによくある禁じ手すらもこいしにとっては関係ない。「なんか、飽きちゃった」今頃旧都を飛び回っている可能性すらもゼロではない。

「そうだわ」分針が動くと同時に、さとりは手を叩いた。そうしてこちらを見た。いい事を考えたと目を大きく開いていた。こういうときのさとりはろくな事を言わない。
「以前、本で読んだことがあります」さとりは指先を立てながら、軽い足取りで階段から離れた。階段からの十メートルは許容範囲だ。
「囚われたヒロイン。両手を拘束され、なす術の無い彼女に悪党はこう言うのです『くへへ、助けなんてくるわけないぜ……さあ、楽しもうじゃねえか姉ちゃん……』と」
 余りに予想通りの言動に、私は重く息を吐いた。「……で?」
「そうですね、服に手を掛けられた瞬間ヒロインは叫ぶんです。『助けて』って。……そうすると現れるんですよ、救いのヒーローが!」
 知っていましたか、とさとりは子供のように目を輝かせながら私の服を引っ張った。
「だから?」私は乾いた笑いを浮かべながら、言った。「なに、私はあんたに襲い掛かればいいの?」
「そうです!」さとりは即答した。
 私はさとりを引き剥がした。また溜息が出た。言葉を続けようとするさとりを制して、静かに一歩、後ろに歩いた。

「時々もの凄く馬鹿よね、あんた」
「失礼な、経験から発生する当然の結果ではありませんか」
「でも、それは現実じゃないでしょう? そんなに甘くなんて無いわよ、実際は」
「それが実体験、ですか」さとりは考える動作をして首を傾げた。
「そういうこと」私はさとりを階段まで戻して、また、最初の位置に戻った。

「助けなんてこない。救いの手だってどうせ間に合わない。ヒーローとかいう奴だって何もできない。そいつは全部奪われて、後悔に打ちひしがれて、やっと気がつくのよ」
 こうしている間にも、残り時間はあと一分しか残されていなかった。
「自分は無力だってね。何も出来ず、なにも救えず、何も守れない。いい気味よ。なんでも出来るって思いあがったやつが絶望に沈むのを見るのは、気分がいいわ」
 それが現実だ。私が言うと、地霊殿の奥から声が聞こえた。誰かが捕まったようだった。「ほら、ね」私は肩をすくめて、鼻を鳴らした。
「それでも、私は信じてますよ」
 さとりは私を見た。私のなにを見ているかは分からなかった。
「こいしを?」
「誰かさんを」

 屋敷の奥からは妙に親父臭い笑い声と、鳥の喚き声がしていた。さとりは一度勢いをつけて立ち上がった。
「まあ、冗談はさておき」そうしてスカートを払うと手を挙げた。降参の動作にも見えるが、そうではなかった。
「私がタッチされてから十秒でしたね。数える準備をしておいてください」
 残り、三十秒。私は一度唇を舐めてから、階段から降り、息を吸った。
「いいわ、付き合ってあげる」
 私達は顔を見合わせて、口元を吊り上げた。
「……いやぁ、これで私達の勝ちだねぇ」
 階段の上から声がした。後ろを見上げると、星熊勇儀が立ちふさがるようにして立っていた。片手に一羽の烏を携えている。それが合図だった。
 今度は拍手のような音がした。振り返ると、既にさとりは逃げ出していた。なにも前触れは無い。こいしがどこかに潜んでいたか、さとりが勝手に逃げ出したかだ。どちらにせよ、私はさとりを見ていなかったから分からないし、どちらでもよかった。
「パルスィ!」勇儀は烏を放って、さとりを追いかけようとした。私はそれを手で制した。ルールを遵守しながら。
「いちにさんしごろくしちはちきゅうじゅう」
 カウントは正確に十秒を数えたわけではないが、さとりはその間に扉に手を掛けることすら出来ないでいた。運動不足の身体にスリッパ、それは予測できた。
「私に任せて、姐さん」
 残り時間は十秒もなかったが、それだけあれば十分だ。
 私は一足飛びにさとりに詰め寄った。
 二十メートルほどの距離はそれだけで無くなった。
 私は手を伸ばした。
 さとりは身を反らして、それを避けた。
「ふふ、貴方の動きなど全てお見通しなのですっ……わわッ」
 動きは読めても、それに身体が付いていかないのが古明地さとりだった。バランスを崩して転びそうになってしまう。今度の動きは無意識だった。 
 虚空に伸ばされたさとりの細腕。
 私はそれを取った。
 そこで、終了の鐘が鳴った。




 古明地こいしがどこからか持って来た物を見た時、誰もが最初は廃棄物だと思っていた。地霊殿の裏に保管されていたというそれは木片にしか見えなかったし、誰もそれを疑わなかった。宴会の準備をサボるためにこいしが隠れていなければ、それは永遠に見つかることも無かっただろう。
 木材、木屑。集まった皆にもそれ以外の呼称は思いつかなかった。ヤマメはそれを両手で掲げ挙げると、舐めるようして見回した。
「さとり、あんた本当に知らないの?」
「ええ。裏手の倉庫といえば私達が此処へやって来る前からあったものですから。閻魔様に壊さないようにと言われていたので、なにか意味のあるものだとは思うのですが」
 さとりは私達の前にそれぞれグラスを置きながら言って、ワインや日本酒を注ぎ、自分も上座についた。主が上座に着くのは当然のことなのだろうが、その主が配膳をするというのはおかしな状況だ。
「でもその倉庫、もうボロボロだったよ。相当古いみたいだったけど」
「その中には他にも何かあった?」
「ううん、それが沢山落ちてただけ。小さい倉庫だったしね、もしかしたら元から何にも入れられてなかったのかも」
 こいしが飛び乗るようにして椅子に座った。それを見てから、私達はそれぞれ好きな場所に座った。
 私達全員を含めてもまだ余裕のあるテーブルは真っ白なテーブルクロスが掛けられて、さとり達の作った料理で埋め尽くされていた。サラダにステーキに卵料理。それぞれが私の座るイスよりも大きな皿に山盛りになっている。隙間を埋めるように小皿が並んでいる。
「どうであれ、なかなか興味深い代物です。今度閻魔様に伺ってみましょうか。彼女ならばそれがなんなのか、知っているかもしれません」
「あんまり関わらない方がいいと思うけどね」私は肘をついて、グラスをなぞった。
「何故です?」
「勘」私は言い捨ててから椅子に背を預けた。
 一瞬だけ私の意見に興味を示したヤマメとさとりだったが、すぐに呆れに変わった。私だって適当に言っただけなのだ。

「なんでもいいから早く食べようよ、お料理が冷めちゃうよ」
 痺れを切らしたこいしは目の前にゆで卵の殻の山を築いて、フォークとナイフを鳴らしていた。
「行儀悪いわよ、こいし」と、さとりが言った。
 私はこいしを横目に見てから、さとりとヤマメを見た。
「とにかく、そんなの後でいいじゃない。始めましょうよ」
 私は空腹だった。朝から何も食べていない。
 さとりはジッと私を見て「まったく」と声を出した。
「なにが全くだ」
「いえ、なんでもありません。でも、そうですね、始めましょうか」
 さとりがワインの入ったグラスを掲げて、私もそれに合わせた。続いて、皆がグラスを掲げた。ヤマメは最後だった。さとりはそれを確認すると、いつもよりも少しだけ威厳を込めた声を出した。

「では、乾杯」
「「かんぱい」」


 一時間ほどが経ち、酔いが回った頃には、誰も木片を気にすることはなくなっていた。猫と烏は仲良く踊り、ヤマメもそれに加わっていた。キスメはどこかへ飛んでいきそうなほどに身体を激しく揺らし、こいしはそれにぶら下がって遊んでいた。勇儀はそんな様子を肴にしながら、空き瓶の山を作っていた。
「食が進んでいませんが、どうかしましたか? お腹、空いてたんでしょう?」
 そんな様子を席に着いたまま眺めていた私の隣に、さとりが座った。覗き込むようにして私を見た。心なしか顔が赤く、呂律も不安定だった。いつもは片付けに備えて控えめにしているというのに、今日はそれをしていないようだ。
 さとりはいまだ山の輪郭を残すサラダの皿を丸ごと持って、私の前に置いた。盛り付けのままの体をなしていた。
「ほら、貴方が食べてくれないと無くならないんですから。特にサラダとかは」
「それならこんなに作らなきゃいいのに」いつも残り物の整理は私達の仕事だ。損な役回りだわと愚痴を言いながら、私はトマトやきゅうりが散りばめられたサラダにたっぷりのドレッシングをかけて、口いっぱいにほお張った。水気も多すぎず、かといって乾燥もしていない。サクサクとした食感がなかなかに心地いい。
「ま、美味しいからいいけど」
 地底でこんな物を食べられるのも、毎年やって来る神様の恩恵だ。ふたりを迎えるのは一年に一度の、私の唯一と言っていいほどの仕事だ。私は数少ない感謝を彼女達に投げた。ほんの少しをさとりにも。

 私は辛口の清酒を飲み込んで、ヤマメの席だった場所に放置されていた木片を持って、席に戻った。手にとって見ても、やはり何の変哲も無い木にしか見えなかった。
「やっぱり貴方も気になってるじゃないですか」
「そういう訳じゃあないんだけど……なんか引っ掛かるのよね」
「でも、勘でしょう?」
「そうよ、勘。……なんか書いてあるわね」
 よくよく見てみると、木目だと思っていた場所に、細かく文字が刻まれていた。筆先の一本の毛で書かれたような細かさに、流すような書体。お経のようにも見えた。
「なるほろ」さとりは私からそれを取り上げると、目を細めて、それを睨んだ。
「木簡の一種でしょうか」
「木簡?」
「ものを書く際に紙を使えなかった頃は、こうして木に文字を彫っていたものです。荷札に名刺など、用途は限られませんが、まぁ、昔の手紙かなにかだと思えばいいかと」
「でも、こんな小さくて汚い文字を読める奴なんていないでしょ?」
 私が聞くと、さとりはもう一度刻まれた文字を読もうとして、すぐに諦めた。「それもそうですけど」
 そうして、トマトをひとつ摘むと、口の中に放り込んだ。
「何の意味も無く封印されるはずもありませんし、わざわざ地霊殿に置かれるはずもありません。なんにせよ、閻魔様に聞いてみないことにはどうにもなりませんね」
「意外とあいつの恥ずかしいものが隠してあったりしてね」
「それならそれで、興味深い」

 さとりは自分の唇をなぞって、意地の悪い笑みを浮かべると、席を立った。
「持って行って街の人たちに聞いてみるのも悪くはないと思いますよ。こいしの話しだとそれひとつしか無い、というわけでもないようですし。旧都には私達よりも昔から此処に居る人たちも沢山居ます。知っている人だって探せば見つかるかも知れません。どうぞ、お好きに」
「私、何も言ってないけど」
 私が身体をずらしてさとりと向かい合うと、覚りの目が私を見て、さとりの目が目の前にあった。横目に、皆がこちらを見ているのが見えた。額にいつもよりも暖かいものが当たって、意識をそちらに向けられた。
「私に隠し事を出来る人だけは、いませんよ」
 さとりの膝が私の膝に当たった。私達は目を細めて、口元を歪ませた。
 アルコールを纏った吐息が鼻先をくすぐって、唇を撫でていった。 
 酔っていたのだ。




 2


 それからしばらくは特に何があるわけでもなく、いつもと変わらない日々が続いた。格好だけでも縦穴の番をして、偶にヤマメと喧嘩交じりに話をした。こいしにひっぱ叩かれて、旧都中を振り回された。勇儀に酒の相手をさせられて、三日間起き上がれなくなった。思い返してみればなんとも騒がしい日々ではあるが、いつの間にかこんな生活が日常になっていた。
 そんな中でも、結局あの日持って帰ってしまった木簡だけは肌身離さずに持ち歩いていた。何人かに話を聞いてはみたが、それの正体を知っている者は見つからなかった。最初にこれを見た奴らの反応は大体同じだった。
 さとりは自分なりに調べていると言っていたが、やはり何も手がかりは残っていなかったらしく、閻魔からも返答は無かった。そもそも、さとりの能力はどこまでも他人に依存している。他者の知っていることを引き出すのは容易くとも、その逆は不可能なのだ。
 その上、ここまで躍起になって調べる必要は全く無い。大人しく諦めて、こんな物は元あった場所に戻してしまうのが一番賢い選択だったはずだった。
 そして、流石にそんな気持ちが強くなってきていた頃だった。
 私が旧都の片隅で、彼女を見つけたのは。


 一度目の遭遇は酔いつぶれていた。二度目は団子のやけ食いだった。飲んで、食べて、その先は決まっていた。もう倒れるしかない。
 彼女は死んでいるようにも見えた。裏路地に少し入ったところにある定食屋『阿木戸』の古びた店先に、彼女は倒れこんでいた。所々服は破れてしまっていて、右肩が剥き出しになっていた。蒼白の肌も、それと正反対の漆黒の髪も、全身が薄汚れてしまっていた。砂塗れの身体には所々赤色が混じっていた。辺りは荒れていて、店の窓から店長の若い鬼が、恐る恐るその様子を覗き込んでいた。
「生きてる?」
 私は彼女の肩を揺すってみたが、反応は無かった。顔色は本当に死んでいるように真っ青だったが、微かに息はしていた。一通り身体を調べてみると、足元から真っ赤な血が流れ続けていた。私は覗き込んでいるだけの彼を見た。「手伝って、早く」
 とりあえずの止血にマフラーを使った。そうしている間にも傷は浅くなっていったので、彼女が人間でないことだけはわかった。
「何があったの」と私は彼女の身体を真っ直ぐに寝かせながら聞いた。彼は怯えたような声で答えた。
「食い逃げが、あったんだ」
「それはご愁傷様」と、私は彼を見ずに言った。
「柄の悪い連中が三人だ。たんまりと食べて、堂々と食い逃げしようとしやがった。でも、止められるなんて思わないだろう? 正直、諦めてたんだが……」
「そうはいかない奴がそこにいた、と」
「そういうことだ。『この屑どもが』って、物凄い形相だったよ。どっちが鬼か分からないくらいにな。それでもこんな小さな身体で三人を相手に出来るわけがなかった。あっという間にのされちまったよ」
「情けないわね。助けてやんなさいよ、男でしょ?」
「面目ない」彼は顔を落した。「とにかく、この子を看病してやらないと」
 彼は力の入っていない身体を背負った。おぶった瞬間に、軽すぎる、と思わず声が漏れていた。
「それなら、私の家に運んでくれる?」と私は言った。
 彼は頷き、私は自分の家の場所を教えた。そこが橋姫の家だということを知らない者はこの街にはいないが、そんなことで驚く者も、もういなかった。
「あんた、この子の知り合いか?」
 私はどういうか少しだけ考えて、結局、素直に言うことにした。
「そんなところ」
 嘘は言っていない。


 私の家のベットで彼女が目覚めるまで、三時間は掛かった。私はその間に彼女の泥だらけの服を着替えさせて、少し迷ってから、それを洗濯した。そうしてから、この家を離れるわけにもいかないので、退屈を紛らわせる為にさとりから借りていた本を開いた。彼女が目覚めるまでにコーヒーを二杯と、紅茶を三杯飲んだ。そうしている間に、随分と遅い時間になった。食欲はまったく沸かなかった。
 目を覚ますと、彼女はまず天井を見て、それから部屋中を見渡した。ここは私の家の二階、洋室側だった。白いベットにくすんだ茶糸の机と回転する椅子。モノトーンの壁紙に囲まれて、明るい色は少ない。飾り気も余り無い。華やかな旧都とも、ステンドグラスで極彩色に輝く地霊殿とも違う静かな部屋。確かに珍しいかもしれない。
「ここは」と彼女は擦れた声で言った。酔っていたからなのだろうか、以前会った時のような、刃物のような鋭さは感じなかった。
「私の家。あんたは倒れてた所を助けられて運ばれた。着てた服は洗濯したわ。もうひとつおまけに言うと、帽子はそこ」
 何かを探すように部屋中を見回しているのがわかって、私は入り口の側の押入れを指差した。そこには真っ白な帽子が乗っている。持ち物を改めさせてもらったが、錆付いた煙管や萎びた煙草に混ざって、それだけが彼女の所有物の中で唯一、清潔に保たれていた。
「大事なものなんでしょう?」
 何も言わずに顔を背けられた。答えないことは分かっていた。彼女は起き上がろうとしたが、起き上がれないようだった。無理も無いことで、人間だったなら死んでいるところだ。
「にしても馬鹿なことしたわね、あんた。三人相手、それも種族鬼よ? 勝てるわけ無いじゃないの」
 煽って反応を待ってみても、やはり何も言わなかった。私はコーヒーを淹れて、ソーサーと一緒に彼女の枕元に置いてやった。「置いたからね、こぼさないでよ、お願いだから」そっぽを向いたままの彼女に言って、椅子に座って、また本を開いた。私の手の中で主人公が尋問されるシーンが再開された。
 しばらくは静かだった。横目でベットの方を見ても、彼女は清潔にされたシーツに包まったまま動かなかった。眠っているようにも見えて、私はカップを下げようと、ベットに近づいた。
「あんたねぇ」
「村紗」
「ひゃ?」予期しない名乗りに変な声が出た。咳払いをする私に、村紗と名乗った少女は続けた。
「村紗水蜜」
 それで自己紹介は終わった。村紗は今度こそ眠ったようだった。
 私はカップをベットから少し離して、下の階に降りて、敷きっぱなしの布団に潜った。街の笑い声と、虫の鳴き声を聞きながら目を閉じた。しばらくそうしていたが、いつまでも眠れなかった。
 私は仰向けになって天井を眺めて、渦巻く木の節目を数えた。そして、その先にいる奴のことを考えてみた。

 彼女は必死にもがいていた。私はこの街にやって来て絶望に沈んだ姿を何人も見てきた。私達がやって来たときはまだそういった者たちの流れも多かった上に、私は何故か番人を受け持つことになったから。だから、そんな姿を嫌というほど見せられてきた。そういう奴はみんな、死んだ目をしていた。
 太陽を失い、緑を失い、生きる意味すらも失って、自分がどうするべきかを見失って、自分には何も無いのだと自棄になっている。そんな姿が街に溢れていた時期があった。現在はそんな人の流れも収まって、活気のある旧都が生まれている。こういうのを安泰といえるのかもしれない。それでも、村紗水蜜の瞳は、それを拒絶し続けている。そんな安泰の地獄に沈みたくないと、もがき続けている。
 彼女がいつこの地に落ちてきたのか、そんなことは私には分からない。
 彼女の想いがどれだけのものなのかも、私には分からない。私は彼女の事を何も知らない。それでも、絶望に沈みきらないその瞳が、私にとっての村紗水蜜だった。



 物音で目が覚めた。どれだけの時間を眠れたかは分からなかった。意識だけが曖昧で、二日酔いのような感覚があった。
 耳を澄ましてみると、見上げた天井が揺れているのを見つけた。今の時間に二階にいるあては何人かいるが、過去にこれほどの大きさを聞いたことは無かった。私はぼんやりと、二階で童子の走り回るような騒音を上げているのが誰かを思い出した。
「なにやってるんだか」
 私はのっそりと起き上がり、いつの間にか脱ぎ捨てていた上着を羽織って階段を登った。すぐに悲鳴交じりの声が聞こえた。私は階段を一段飛ばしにした。
 私は小さくドアを開けて、そこから部屋の中を覗き見た。下で聞いて想像したほどには部屋の中は荒れていなかった。机も椅子も、調度品のどれも変わらずそこにあった。ただ、耳が削げ落ちそうな悲鳴が上がっている。
 村紗はベットから動いていなかった。べットの上からは動けないようだった。頭を抱えて、黒髪を振り乱して、喚き続けていた。私は音を立てずに部屋に入り、村紗の近くにまで行った。
「ちょっと、なにやってんのよほんと」
 ベットの上は汚く塗れていた。いつ食べたか飲んだかも知れない物たちが、あるべき場所から逆流していた。村紗はそれでもその上で、腕に爪あとを残しながら転がりまわっていた。私は自分でも意外なほど冷静にそれを見て、溜息を吐いた。洗濯しても匂いが残りそうだ。
「ごめん、なさい」と、村紗は喉から声を搾り出した。悪夢でも見ているのだろうと、なんとなくそんな気がした。
 シーツぐらいは取り替えたかったが手がつけられなかった。どうにかしようにも私には彼女をどうすることも出来ない。私は村紗が起きてくるまで放置することにして、家の外で本を開いた。

 朝方に吹き込んでくる風は冷たくて頭が冷える。
 ページを開いた瞬間に私の意識は物語の中へ引き込まれて、非情なほどに、二階からの悲鳴も耳に届かなくなる。ページをめくるたびに私は息を呑んだ。
 私の手の中で動き回る男は、どこまでも強かった。他人の考えには決して流されず、自分のルールの中を生きる姿は、鬼のようだった。私はきっと、こうなりたかった。でも、成れなかった。私は橋姫で、嫉妬の妖怪でしかなかった。それでも、以前さとりに読ませてもらってから、私はこの手の本を読み漁っていた。
 所詮はフィクションの話。そうは分かっていても私は、架空の人物であるはずの彼に嫉妬していたのだ。恋とは言わない。それくらいの分別はついているつもりだ。

 不意にページから顔を上げると、白煙と一緒に懐かしい匂いがした。人によって好みが別れる、本当に嫌いな者は吐き気すら覚える、煙草の匂いだった。煙は窓から伸びていた。村紗が窓から少しだけ身を乗り出している。汚くなっていた顔は綺麗になっていて、右手に煙管を持っていた。
「起きたのー?」私は上に向かって呼びかけた。村紗は私を見下ろした。
「煙草、吸うなら降りてきてよねー」
 村紗は顔を引っ込めた。しばらくすると、階段を下りてくる音が聞こえた。一歩一歩、踏みしめるような歩きかただった。
「世話になった。汚したシーツも、悪かった」
 戸から顔を出した村紗はそれだけを言って、そのままどこかへ行こうとした。私は本を閉じて、それを呼び止めた。「待ちなさいよ」
「助けてくれたことには感謝するけど、もう私に関わらないで欲しい」
「ふく」私は村紗を指差して、言った。
 村紗は言われて初めて気がついたように、自分の格好を見た。私の愛用の黒いタンクトップだ。軽くて、動きやすくて、それなりに高かった。さっき汚されてしまったが、そのまま持っていかれるのもそれはそれで困る。「お気に入りなんだけど」
 村紗は難しい顔をして、沈黙した。
「……そんなもの着せないでしょ、普通」
 小さなツッコミを聞いて、私は少しだけ力を抜いた。


 私の淹れる珈琲は甘すぎるといいやがったので私は彼女を一発殴ってやろうかと思ったが、代わりに淹れられたものが余りにも美味しかったものだから、私は何も言えずに握った拳を収めた。お互いブラックで飲んでいたのにこれほど味に差が出るものかと、暖かい息すらも漏れた。
 太陽の無い世界では、洗濯物が乾くのにも相当の時間が掛かった。村紗はあと数時間、橋姫の家に縛りつけられる事となった。
 シーツを洗って外に干してから、村紗はずっと落ち着き無く床や机を叩いていた。一分一秒でもこんな場所にいたくない。そんな感情が溢れていた。
「なにか、話があるんじゃなかったの?」
 窓の外から地底の天井を見ながら、村紗は言った。私は読んでいた本の文字を追いながら、横目で彼女を見た。「別に?」
「言ったでしょ、服が乾くまでここにいればいいわ。というか、どうせあんたは、なに聞いても答えないんでしょ?」
「どうして」
「分かるわよ」私は鼻から息を吐いた。
「あんた、息をするのも面倒なんでしょ。話なんて持っての他。誰にも関わりたくなくて、でも、どうしたらいいのかわからない。私と同じね。間違ってる?」
 村紗は少しだけ考えた。
「同じ、か」そして、静かに首を振った。「違うよ、全然違う」
「私も、最初に貴方を見たときは私に似ていると思った。貴方達がこの街にやってきたときは確実に、私達は似ていたよ。総てを失って地獄に落されたって。正直、私は意味も無く安心してたんだ。同じような奴がいたんだってね。でも、違ったんだ」
 村紗は窓の外、地獄の最奥を見ていた。
「この間の地霊殿の倒壊事件。あれで分かったよ。貴方達は、大切なものと一緒に旧都にやってきた。なにも失ってなんかなかったんだ。そんなだから街の連中に好かれて、心配されて……ッ」
 床を踏んでいる音だと思っていたのは、村紗が歯を噛み締める音だった。しかし、沸騰する寸前に火を吹き消した。
「私にはもう何も無いんだ。大切なものは、何も」
「それで諦めてしまった、すべて」
「仕方が無いでしょ? 封印されて、此処から出ることも出来なくて、妖怪としての力も生かせない。こんなのでどうしろってのよ」
 村紗は肩を竦めて、自嘲した。
 でも、嘘だ。どんなに否定しても、彼女の願いは仕方が無いなんて言葉では片付けられるものではない。私と同じ目をした彼女の想いは、そんなことじゃ受け止めきれない。
 諦めて片がつくのなら、私は人間を捨てることなんかなかったから。

「十分でしょ橋姫。もう会うことも無いかもしれないし、会う必要もないわね」
 そう言いながら生乾きの服に腕を通して、村紗は家から出て行こうとした。
「そうね」気の無い返事をしながらしかし、私は納得なんてしていなかった。似たもの同士だといっても同一人物というわけではない。私達は友人でもなければ恋仲であるはずも無い。村紗の言うとおり、私の懸念は手をつける必要の無いものなのかもしれない。ただ、せめて、と思った。
「最後にひとつ、聞かせて」
 一蹴されるかとも思ったが、村紗はドアノブに掛けた手を止めた。それを確認してから、私はポケットをまさぐって、それを取り出した。
 本当に、ただの勘だった。村紗水蜜はなにかを求めている。届かない想いを抱えて生きている。そして、この木簡というものが手紙の代わりだというのなら、誰かの想いを届けるものだというのならば。たったのそれだけ。

「これ、知ってる?」

 結果だけいえば、私の勘は大当たりだった。
 ただひとつ予想外だったのは、火のついた村紗水蜜が想像以上に荒っぽい奴だったってことぐらいだ。




 3


 頬を叩かれている気配があった。
 私がベットから身を起こしたのは、それから一日ほど経ってかららしかった。小さく頬を叩かれ続けていなければもう少し眠っていられたのかもしれない。私は霞のように覚醒した意識の中で何があったかを思い出して歯を鳴らした。歯車がかみ合う様な音がした。
「こいし、もう起きてますよ。止めてあげなさい」
 遥か遠くに語りかけるようなさとりの声が聞こえて、私は薄っすらと目を開けた。爛爛と輝く瞳が私を見ていた。その先にはいつも見ている、私の家の天井があった。私はベットに寝かされていた。誰が寝かせてくれたのかはわからないが、今この部屋の中にいるふたりのどちらかだろう。
 さとりの姿は見えない。私の目の前にいるのは、私に馬乗りになって、振りかぶったスリッパを落ち着きなく振っているこいしの姿だった。
 彼女にもブレーキは無かった。眠気が吹き飛ぶ音だった。

「大変だったようで」
「まあね」
 私が頭を擦りながらベットから起き上がると、さとりは珈琲を人数分淹れて、机の上に置いた。一口啜ったその味は村紗のものには遠く及ばなくて、舌が痺れるほど甘かった。
「村紗水蜜、ですか。私も彼女に会ったことはありません。おそらく意図的に避けていたのでしょう、そうでなければ私が知らない筈が無い」
 それで、どうしたんですか。今更にさとりは付け足して、ベットに腰掛けた。
「こいしの持ってきた木簡、あれが、あいつにとっての点火剤だったのよ」
 私は事務椅子に腰掛けてから、薄黒い液面を見ながら言った。「村紗水蜜はあれを探していた。きっと私達がこの街にやって来るよりも前から、ずっとね。私が見せた途端に飛び掛ってきたわ。『それを渡せ』って。正直、怖かった。私が言うのもなんだけど……鬼みたいだった」
「何の事だっけ」とこいしは首をかしげた。どうやら数週間前のことなどトンと忘れてしまうらしい。私は手を振った「いいのよ」
「結局あれがなんなのかは分からなかったわ。村紗のやつ、腕っ節ばっかり強くてね。私は抵抗したのよ、でも、ね」
「手刀を一発もらって気絶させられてしまったと」
 さとりの気遣いが心に染みた。「……そうよ、弱くて悪かったわね」
「責めてなんかいませんよ」その言葉の真意なんてものは、私には分からない。

「でもさ」と考える素振りだけしながら、こいしが言った。「それってその、村紗って人がずっと欲しかった物なんでしょ? 渡してあげればいいんじゃないの?」
「私も同感です」さとりはベットの上で床を見ながら、足をばたつかせた。
「何かを成し遂げようとする者の邪魔をするべきではない。それが長年願い続けていた事ならば尚更です。彼女の抱えてきた時間も想いも、否定する権利なんて誰にも無いんですから」
「そうだよ、なんにも悪いことなんかないじゃない」
「それは、そうだけど」
 さとりはジッと私を見た。それから、盛大に溜息を吐いた。
「まぁた勘、ですか」
「せめて予感と言ってよ。私が思いつきで生きてるみたいじゃない」
「違いましたっけ?」
「流石に怒るわよ」
 私は拳を振り上げる動作をした。さとりは壁側に転がって、ベットの上で枕に顔を埋めた。「まぁ、コワイコワイ」

 私は腕を下ろして、椅子にふんぞり返った。開け放たれた窓からは嫌な風が吹いていた。旧都からの声が、今日は妙に静かだった。
 私はこの予感を曲げるつもりは無かった。誰にどれだけ否定されようとも、私は村紗の姿に自分を重ねずにはいられなかった。放っておけば心地よい睡眠は望めなかった。
 でも、私はそれに対してどうすればいいのだろうか。自分に問いかけても、脳は同じ答えを出し続けていた。簡単だ。放っておけばいい。どうせろくに知りもしない他人だ。それがどうなろうと知ったことではない。私はいつものように目を覚まし、いつものように珈琲を淹れて御飯を食べて、適当に縦穴の番をして、いつものように眠ればいい。私は簡単にそうできるはずだった。一度美味しい物でも食べて忘れてしまえばいい。
 でも、それでも、と考えてしまうのだ。

 私は立ち上がって、上着の袖に左腕を通した。そうして、さとりとこいしを見た。二人ともさっきから動きを変えていなかった。さとりは私に背を向けて寝転がったままだし、こいしはスリッパを片手に奇声を上げながら素振りをしていた。
「探してくる」と、私は言い放った。珈琲を一気に飲んで、正面にあるドアまで大股に歩いた。
「どこへ探しに行くんですか? あてはあるんですか?」さとりは動く気が無かった。「せめてあと、十秒待ってください」
「十秒あれば家から出て行けるわよ」私は足を止めなかった。
「果報は寝て待て、ですよ?」
「思い立ったが吉日」
「猫に小判!」
「石橋を叩いて渡る」
「私の橋を叩いたら罰金ね」
「『貴方の』ではないですけどね」
「うーん……笑う門に福きたる!」
 「福」のあたりで私はドアノブに手を掛けた。簡素で銀色な円形の物だ。引こうとしたが、先にドアが開けられた。ブチ破るほどの勢いで。十秒が経っていた。

「村紗がここに来てませんか!?」

 目の前には私が居た。人間だったなら、顔ごと吹き飛んでいた。


 鼻を押さえながらうずくまる私に頭を下げたのは、村紗と一緒に居た女だった。今日はフードを被っていて、前髪までがすっぽりと隠されてしまっていた。彼女は暑さにやられた犬のように大きく息をしていた。ひ弱にも見える体ごとで呼吸を整えていた。ずっと走ってきたらしかった。
 私の隣でスリッパが床を叩く音がした。いつの間に起き上がったのか、さとりが私の隣で、彼女にジットリとした視線を送っていた。あれを向けられると大抵の者は動けなくなる。気味の悪い視線だ。
「雲居、一輪さん」
「は、はい」一輪と呼ばれた女は、驚いたような声を出した。
「時間もそう余裕が無いようですし、お話は歩きながら伺ってもよろしいでしょうか? ここから急いでも二十分ほど掛かりますが……はい、わかりました。では行きましょう」
 さとりは一人で納得して、一輪の横を遮って部屋を出て行ってしまった。残された私達は顔を見合わせた。彼女の瞳は深海を感じさせる深い青色だった。
「あれが覚りなんですね。知ってはいましたけど、いざ会ってみるとやはり……大丈夫ですか?」
「大丈夫、これしき。はは……やりにくいでしょ」
 私は一輪に笑いかけた。泣いてなんていなかった。
 さとりは普段、自分の事を言わない。私にだって時々さとりが何を考えているか分からなくなる。向こうがこちらの事をなんでも見透かしてくるものだからなおさらだ。しかし、慣れてしまった。

「どうしました? 急ぎましょう?」
 自分に付いてきていないことに気付いたのか、さとりがドアから顔を覗かせていた。一輪は疲れている身体を無理矢理動かして、ドアの先に消えていった。私が続こうとすると、こいしが私を跳び箱にして飛び出して行った。私は足元をふらつかせながら、それを追った。


しばらくの間、さとりを先頭に旧都を歩いた。旧都はいつもと変わらない活気を保っているように見えた。大通りを行き交う鬼達は相変わらず年中酔っ払ったような会話をして、それが結果的に笑い声や、時折喧嘩を呼ぶ。この街の第一印象を持つとしたならば、十人中八、九人がそう答えるだろう。
 いつもさとりをいやらしい目で見る酒屋の前を通ったあたりで、ふらふらと付いて来ていたこいしは何かを思い出して、手を叩いた。「忘れてたー!」そうしてあたりを見回して、立ち並ぶ店の間を見ると、一目散に駆けて行った。最後に私達に振り向いて、手のひらでメガホンを作った。
「約束してたんだったー! ごめーん!」
 さとりと私は顔を見合わせて、同時に溜息を吐いた。一輪だけが、なにが起こったかわからないという顔をしていた。
 そうして今度はさとりを挟むようにして歩き出した。私は一輪が話を切り出すのを待っていたが、いつまでも彼女は口を開かなかった。話していいものかと今更になって悩んでいるようだった。そんなものは考えた時点でとっくにバレている。

「聖、白蓮ですか」遂に切り出したのはさとりだった。「それが、貴方たちを救ってくれた人の名前なんですね」
 一輪はずっと小刻みに腰を叩いていた人差し指を止めて、重々しく頷いた。「はい」

「村紗水蜜は彼女に、絶望の底から救い出された。彼女は人間だった。溺れて一度死んで、それでも寂しくて、誰かに居て欲しくて、道行く人々を沈め続けていた。……すべて貴方の記憶からの情報ですが、長い間共にいたのですね。間違いは無いでしょう」
 何故かさとりは私を見て、また溜息を吐いた。「仕方が無い人ですね。全く」
「しかしその聖白蓮は封印されてしまった。貴方達とは別の場所に。魔界、ですか? 行ったことはありませんか、私ももちろんありませんが……そこへ向かうのには相当手間が掛かるようですね」
「はい」と言って、一輪はさとりの言葉を続けた。
「此処から抜け出して、聖を救い出す為に必要なのが飛倉なんです。私達と一緒に封印されていたのは確かに幸運だった。でも、それだけじゃ駄目なんです。村紗が手に入れたのは飛倉の欠片だけ。それじゃあ足りないんです。本来の形でないと、きっとこの地のの結界は破れないでしょう」
「あの子は」と私は言った。「こいしは結界なんて気にせずに地上を行ったり来たりだけど」
 さとりは遠くを見た。
「こいしは特別なんです。というか、結界が反応しないのでしょう。無意識でなければ──意識していては地上と地下を行き来することは出来ない。または、彼女の言うとおり、結界を破るほど力を持つ『何か』があるか」

 旧都の終わりが見え、しばらくのあぜ道の先に地霊殿が見えてきた。今までの話からすれば地霊殿の庭にあった倉がその『飛倉』というものなのだろう。村紗水蜜はそれを求めている。いずれそこまでたどり着き、なんとしてでも手に入れようとする。その先は分からない。ただの予感だった。

 屋敷の入り口の前で、疲れましたと言うので私はさとりをおぶった。私たちは地霊殿のエントランスには向かわずに大きく回り道をして、直接中庭に行った。地霊殿の中庭はちょっとした森林だった。一面に薔薇の花が咲いていて、むせ返りそうだった。赤い花びらとや青い花びらが隣り合っていた。手入れは行き届いていないようで、植物の並びに規則性は無い。しかし、こういうところを好むペットも多いのだった。
 飛倉は中庭に入ってから五分ほど歩いた場所にあった。歩きにくすぎて、どれだけの距離があったかは分からなかった。こいしの表現は酷く誇張されていた。飛倉の大きさは小さな祠のようなもので、赤く塗ってあったであろう屋根は、完全に色落ちしていて、それが塗料なのか泥なのか定かではなかった。
 一輪はその姿を見つけると、じめじめした地面を音を立てながら駆けて、愛しい者との再会のように抱きつき、撫でた。実際そうだった。彼女達にとって、これは自分を救ってくれた恩人の形見であり、道しるべなのだ。

「さとり」私は一輪を見ながら、背中に話しかけた。「ふぇ」と気の抜けた声が聞こえた。
「……なに寝てんのよ」
「あ、ああごめんなさい。昨晩はほとんど眠ってなかったので」
「それはご苦労様」
「はい。寝顔、可愛かったです」
「初めて見たわけでもないでしょうに。……で?」
「へ?」さとりはとぼけた声を出した。
「寝ぼけないで。何で急に乗り気になったかってことよ。あんた、さっきまで私を馬鹿にしてたってこと、忘れたとはいわせないからね?」
 私の首が少しだけ絞まった。耳を食まれそうな距離でさとりは言った。
「馬鹿になんてしていませんよ。貴方が余りに直感的に動くものだからあきれていただけです。でも、状況が変わりました。彼女を見て、私も確信が持てましたから」
 さとりは私の背中から降りた。スカートを払いながら飛倉に近寄って、中を覗いた。私もそれに続いた。
 中には何も入っていなかった。見た目は本当にただのボロ小屋でしかなかった。こいしの持ってきて村紗に奪われた『欠片』が沢山落ちていたが、それは長年の中でペットなんかに壊されて砕けたものが落ちていただけだった。手の平に収まるものや修復が不可能なほどに細かいもの、形も何もかもがバラバラだった。
 ふいに、喜びを溢れさせていた一輪の動きが沈んだ。ゆっくりと飛倉の中をなぞった。埃かなにか分からない物が白い指にたっぷりと張り付いていて、一輪はそれを小さく吹き飛ばした。「やっぱり、足りない」
「足りない?」と私は言った。
「地上にあったときよりも飛倉に宿っている力が弱まっているんです。元々これに宿っていたのは聖の弟、命蓮様の力。それが長年のうちに失われてしまったのかも知れません。正直、予想はしていたんです。まさか、もしかしたらって」
「地上へ向かうだけの力は残されていないと?」さとりは言って、欠片をひとつ持った。
「正直、ここまで壊れて酷くなっていることは予想外でした。姐さんの──聖の封印を説くことはもちろん、地上へなんて、きっとこれでは、無理、でしょう、ね」

 一輪は不思議な表情をしていた。彼女にとってもこの飛倉は長年捜し求めていた物のはずだ。それでも、村紗のような激情を、彼女が見せることは無かった。悲しみに中に色々な物が混ざっているような表情。あくまで私の目から見てではあるが、安心すらしているようだった。私には分からなかった。この一輪という女が、何を求めているのか、が。
 私は欠片をひとつとって、眺めた。
 そして「あんたは」と言いかけて、「パルスィ」さとりにそれを止められた。
「そこから先は、私の台詞です」
 さとりは一輪の顔を真っ直ぐに、正面から見た。小柄なさとりの視線はいつも下からだというのに、なぜか頭上から浴びせられる感覚がある。一輪の舌が彼女の口の中で、落ち着き無く動き回っていた。

「よかった、ですか」と、さとりは嫌味を言うだけで金をもらっている占い師のように言った。
「なぜ? そんなことは」一輪の声は揺れていた。目線を反らそうとして、出来なかった。
「貴方は飛倉の力が失われ始めていたことに安堵を感じています。わかりますよ、これで村紗水蜜は無理なことをできない。諦めてしまうことで、これで彼女がこれ以上苦しむこともない、よかったと、そう思っているのですね。しかし同時に、罪悪感も感じています。無理も無いでしょう、それを願うということは聖白蓮の救出をあきらめるということ。だからこそ貴方は、二人を天秤にかけてしまっている自分に罪を感じている」
 私たちは手にしていた欠片をポケットの中に押し込んだ。
「私達はそれを責めるつもりも、権利もありません。村紗水蜜を危険な目にあわせないようにと心配するのか、それでも聖白蓮を救うために彼女と共に死力を尽くすのか。それを決められるのは貴方だけなのですから」
 中に入りましょうとさとりが言って、私もそれに続いた。一輪は名残惜しそうに飛倉をなでると、小走りで追いついてきた。中庭を出るまでずっと、彼女は振り帰ることを止めなかった。



 私たちが通された地霊殿の客間はほとんど使用されていなかった。宿泊もできるように設置されたベットのシーツは真っ白なままで、調度品にも傷ひとつなく、新品の輝きを残している。しかし同時に、近づいてみればかすかにほこりを被っていた。さとりとペットたちが手入れしてもし切れていないのだった。
 相変わらず落ち着かない一輪を安楽椅子に座らせると、さとりはお茶を淹れに部屋を出て行った。残された私達はどう話をしたらいいものかわからなかった。一輪は床を睨み付けいた。私はベットの上に横になって、天井を見た。
 地上へ向かうためには力が足りないと一輪は言い、彼女はそれに安堵しているとさとりは言った。私はそれに対してなにかを言うことはしなかったが、きっと、村紗にとってそんなことは関係のないことなのだろうと思った。いままでは地上へ出られる希望なんて微塵もなかった。今のままずっと、この地底で生きていかなければならないと考えていた。それでもあんな状態だった。しかし、それに希望の光が灯った。ならばすることはひとつだけなのだ。

「貴方たちはどうして、ここまでしてくれるんですか?」
 唐突に一輪が口を開いた。私は寝転がったままでそちらを見た。彼女は床を見つめたままだった。
「ここまでって、私達は特に何もしてないじゃない? ただ飛倉の在り処を教えてやっただけよ」
「私は、村紗はどこにいますかと聞いただけです。それなのに急に地霊殿に連れてこられて、正直、困惑しているのですよ」
「知らない、の一言で済まされると思っていた?」
「正直なところ、そうです。貴方たちと私達は赤の他人の筈、事情を知ったからといって力になってくれるとは思っても見なかったので」
「そうかもね。でも意外と他人でもないのよ?」
 私は奇妙な模様の天井を見たまま、村紗と初めて出会ったときのことを考えた。
「生まれたときは人間で、妖怪になって、多くの命を奪ってきた。その理由は違う、過程も違う。でも、初めて村紗の目を見たとき、寒気がしたわ。瞳の色が同じだっただけじゃなくて、もっと奥にあるものが私によく似ていたの。きっとなにがあっても村紗は諦めることなんてしないわよ。ずっとそうだったんでしょう? この地獄にやってきてからずっと。あいつは一度手に入れたものを簡単には諦められない。救いを与えてくれた人を絶対に救い出す。一瞬でもそれを忘れたことはないんだって、私は思うんだけど」
 私は体を起こして一輪を見た。彼女は目を丸くして私を見ていた。私はその瞳に向かって、人差し指を向けた。
「あんたはずっとそれを見ていたから、村紗を止められない。そうでしょう?」
「驚いた……自分の事のように語るのね」
「昔ちょっと、似たような経験をしたもんでね。トラウマってやつ。同じことになったら面白くないしね。邪魔してやろうって、それだけよ」
 一輪はしばらく目を伏せた。私はベットから飛び起きて、そばにあった高そうな紫色の壷の中を除いた。蜘蛛が食事中だった。生きるために必要な行為だ。邪魔をしてはいけない。
「私は正直村紗が生きようが死のうがどうでもいいのよ。そもそも此処の結界が出ようとするものにどういう罰を与えるかもしらないしね。でも」
「でも?」
「あいつが私と同じことをしようとしたなら……止めるわ」
 一輪は口元を隠してクスリと笑った。
「橋姫ってもっとひねくれてるのかと思っていたけれど、案外熱血さんなのね」
「そんなことないわよ。私の行動原理はいつだって嫉妬心。ただ、村紗が妬ましくて、気に入らないだけ。自己満足でしかないわ」

 前触れなく私はドアの前まで歩いていって、ドアノブを捻った。扉の先でさとりが人数分の珈琲をトレーに乗せて立っていた。まだ湯気は立ち上ってる。
「紅茶は?」
「切らしてました」
さとりは私の横を通り過ぎて部屋の中へ入り、テーブルの上にカップを置いた。私は一番にそれを手にして一気に半分飲んだ。相変わらずの甘さだった。
「どうぞ」テーブルの向かいでさとりがそうして促すまで、一輪はカップを覗き込むばかりで手をつけなかった。本能的に察したのかもしれない、と考えるとさとりがこちらをじっとりと睨んで言った。「お口に合いませんか?」
「いえ、そんなことはないんだけれど、久しく飲んでいなかったもので」
 一輪はカップを両手で持って、鼻先に香りを漂わせた。さとりがこちらを見ていた。私は雫ほどしか残っていないカップを両手で持った。
「美味しい、ですね」
 一輪はカップから口を離して、なにも考えずにそう言った。しかし、無意識に言葉が詰まっていた。さとりがそれを見逃すはずもなかった。
「そう言ってもらえたのは久しぶりです」さとりは口から放したカップ越しに一輪を見た。睨みつけているようでもあった。その先に見ているのはきっと、雲居一輪の深層だった。
「しかし、村紗の淹れてくれたものの方が美味しい、ですか。それは残念です」
 さとりはその言葉をトドメとした。一輪はうつむいて、顔を上げられなかった。薄黒い液面に雫が落ちた。甘すぎる珈琲は、少しはましになった。

「……久しぶりに、飲みたいな」

 つぶやきでしかないその言葉は、震えていた。
 私は立ち上がって、右手で自分の頭を押さえた。そうしてマフラーを締めなおして、上着の中ポケットを確認した。マッチと、財布と、古びたタバコが入っていた。こういうときに拳銃でも忍ばせられたら格好が付くのかもしれないが、そんなものは持っていなかった。さとりがドアに歩いていって、私もそれに続いた。ドアの前でさとりは一度だけ後ろに気をやった。

「では、ご馳走してもらいましょうか」

 私たちは流れるようにして部屋を出た。
 地霊殿の外で番犬が吠えていた。地震のような感覚が足元に広がった。




 4


 地霊殿のエントランスでお互いの姿を認めて、私達は同時に目を丸くした。村紗はまさか私が出てくることなど夢にも思っていなかった。一歩一歩踏みしめるようにしていた足を止めて、階段の上にいた私を睨んだ。最初に出会ったときよりももっとひどい。その瞳には敵意しかなかった。
 驚いたのは私も同じだった。しかしそれは村紗のそれとは違う。私にとって村紗がここへやってくることなど時間の問題でしかなかった。ならば何に驚いたかといえば、彼女の右手に握られたもののおかげだった。
 錨だ。
 村紗は自分の背丈ほどもある、薄汚れた錨を引きずりながら歩いていた。彼女の後ろには道ができていた。その重量を想像するのは簡単だった。
「遠路はるばるご苦労なことね」言いながら私は一歩、階段を降りた。踏み外しそうになる足をなんとか抑えた。
「よくここがわかったわね」
「橋姫が町中聞いて回ってくれたおかげでね。簡単だったよ、地霊殿に行き着くのは」
「あらまぁ、余計なことしちゃったわ」私は演技じみた動作で仰け反った。
「とぼけないで」と、村紗は言った。「どうして、私に教えた」
「それは飛倉の欠片のこと? それとも本体の場所のこと?」
「両方。どちらも教える必要なんてなかったはず。それをわざわざ教えるような真似をしたことには理由があるはずでしょう?」
 私は階段を三段降りた。残りは十段ほど残っていた。
「さあね」そう言って肩を竦めた私に、村紗は一層の怒りを見せた。「私は街のみんなに聞いて回っていただけよ。これを知らないかってね。それに特別なんてないわ。あんた、自意識過剰なんじゃない?」

 その言葉に村紗はすぐさま反応した。
「私は、こんな街の住人なんかじゃない!」
 村紗の中の何かが爆発していた。喚き声は無駄に広いエントランスに反響して二重にも三重にもなって自身に襲い掛かってくる。それを浴びながら、頭に乗った帽子を押さえて、彼女は叫び続けた。感情が限界の針を振り切ってしまっていた。
「この街は牢獄だ! 罰を受けるためだけに存在する場所だ! こんな場所には何もない! たとえ鬼たちがどれだけ笑っていたって、どれだけ役目を与えられていたって、そんなものはまやかしだ! 私にはそれすらもない! 全てを奪われて、何もない街に縛られて、周りには嘘を吐かない嘘つきしかいない……そんな街の一員になんて、私はなりたくない!」
 村紗は錨を両手で掲げた。怒りと重みで手が震えていた。もう一度、吠える様に叫んだ。同時に錨をタイルの床に落とした。大きく息をした。一層大きなクレーターを自分の目の前に作った。
「でも、それもようやく終わる……誰にも邪魔はさせない。邪魔をするというのならなんとしてでも推し通る。そこを退け橋姫、待ち人を待つ女。……私はずっと、待っていたんだ」
 村紗は真っ白に洗濯された服から、汚れた木屑を取り出した。私から奪い取った飛倉の欠片だった。顔の横でそれをかざして壊れるほどに握り締めた。それを壊せるわけがなかった。
「聖から与えられたものを返すために……最高の力を取り返して、聖を救い出す。……この時を!」
 怒号。飛倉を握り締めたまま、錨を握った。そのまま振り上げた。重量が奪われたようだった。彼女にとって重荷でしかなかったものは、そこで初めて武器になった。
 その瞳が、笑いたくなるほどそっくりだった。

「スペルカード戦ってものを……まぁいいわ」
 ルールに縛られたものに今の村紗が付き合ってくれるはずもなかった。彼女の怒りも願いも純粋なものなのだ。さとりもこいしも言っていた。それを否定することなんて誰にもできない。それでも、その先にあるものはきっと私と同じもの。この街で地上での私のようなことはさせるわけにはいかない。この街を牢獄だと村紗は言った。それならば彼女は罪を償う場所で罪を重ねようとしている。そうすればもう、本当にどこにも行けなくなる。
 私は残りの十段を一気に飛び降りて、頭を抑えて左手を床につけた。肩に掛かったマフラーを払う。向き合った村紗は姿勢を低くして、いつでも飛びかかれるようになっていた。私たちの間には十メートルほどの距離があった。
「あんたを地上に向かわせるわけにはいかない。あんたがどれだけ無理をしてしようが、結果的に死のうが、私にはどうでもいいわ」
 でも、と私は村紗の後ろを、地霊殿の入り口の大扉を見た。
「あんたは泣かせちゃいけない奴を泣かせた。自分には何もないなんて嘘よ。大嘘。……だって、」
 そこで喉が詰まった。言葉を続けるのが辛くなった。握った手は汗で濡れていた。ポケットに突っ込んだ右手は爪が食い込んでいた。反響する言葉は全部自分に返ってきた。自分の口から出る言葉は嗚咽交じりになっていたのかもしれなかった。
「あんたはまだ何も失ってなんかいない。私に言ったわね……大事なものと一緒にこの街にやってきたって。あんたもそうよ、もっと周りを見てやりなさいよ、ずっと一緒にいてくれて、そばにいてくれて……心配してくれてた奴がいるでしょう!?」
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ村紗の動きが止まった。しかし一瞬でしかなくて、感情の糸が振り切れてしまっていた。
「そんなことよりも先にすることがある! 私はもう、止まってなんてやれない!」
「そう、それなら」
 私はうつむいて息を吐いた。ずいぶんと呼吸は楽になった。足元を均した。床にうっすらと映った私は酷く不細工だった。右手に力を込めた。左手を振り上げた。そのまま胸の前で掃った。風を薙いだ。そうして、人差し指を、村紗に向けた。
「あんたはこの街に居る意味がある。この街で見つけなければいけないものがある。それでも前しか見ないって言うのなら、首の骨をへし折ってでも、横を向かせる。私達が、あんたを止める」

 開けっ放しの扉から強い風が吹き抜けた。マフラーがたなびいた。村紗の帽子が飛ばされた。私は目を細める。その先には、ふたりいた。

「「さあ──」」

 帽子が床に落ちて、私たちはそれぞれ五メートルの距離を一気に縮める。同時に村紗は両手で錨を振り上げた。今の彼女にとって、それは竹刀のようなものだった。互いに手の届く距離で村紗は錨を振り下ろした。私は右足で急停止し、体を捻ってなんとかそれを避けた。空振りした錨は再び床にクレーターを作った。衝撃は埃をあげることすら許さなかった。
 私はそのまま村紗の後ろに回りこんだ。後ろで空気を切る音が聞こえた。同時に上に跳んだ。私の立っていた場所を横薙ぎに錨が裂いた。私の後を引くマフラーだけが避けきれずに、錨を撫でていった。

 空中で身体をひねり、私は真上から右足を村紗の頭上めがけて打ち落す。それを村紗は錨で受け止めた。横に薙いだはずのものがそこにあるのは早すぎた。しかしそこにあった。錨の上に立つ形になって、私は肩を竦めた。
「こんなもの?」
 それが気に入らないのか、村紗はわざと大きく舌打ちした。一喝と共に身体ごと弾かれた。私はなんとか階段側に着地して、片手を床について態勢を立て直した。村紗は手のひらで鉄の塊を撫でて、ゆっくりと錨を担いだ。
 服を払いながら、私は言った。
「大した怪力じゃない。女の子がそんなんじゃ、嫌われるわよ」
「そんなことはどうでもいい!」
 村紗が一気に踏み込み、私の目の前に錨が振り落とされる。反射的に身を引くと、村紗は目の前で錨を振り上げる。今度は髪にかすった。数本の金髪が散った。私は仰け反った身体をそのまま倒して、村紗の足を払おうとした。しかし村紗は振り上げの勢いのままに、錨を支点にして後ろに飛んだ。今度は私が舌打ちする番だった。一見して子供がおもちゃを振り回すように錨を扱っているが、その動作には歯車のような正確さと精密さがあった。
 私は彼女の錨を受け止めることなんて出来なかった。いくら補正が掛かっているとはいえ、アレだけの重量と勢いを受け止めきる自信なんてない。後ろに飛び、空振りをすり抜けて、ただひたすらにかわし続けた。間に挟む些細な反撃を村紗は器用にかわし、当たったとしても全く動じなかった。

 飛倉の力とはこういうことらしい。それを持つ者に力を与え、身体能力を一時的に強化する。一輪はその力が衰えているといっていたが、実感は全く感じなかった。それとも本来はこんなものではないということなのだろうか。もしそうだとしても私には関係は無いが。どうせ条件は同じなのだし、これに頼る気も無い。私が頼るべきものは他にある。
 私は一度唇を舐めた。一瞬だけ意識を後ろに向けて瞬きをした。吐いた息は熱い。こんな動きなんて滅多にすることはない。早くも悲鳴を上げ始める自分の身体に悪態をつきながら、ポケットに入れっぱなしになっていた右手をゆっくりと出した。こんなものをずっと持っていたら体がどうにかなりそうだった。
 それを見た村紗は、歯が砕けそうなほどに顔を歪ませた。

「あんたは、これが欲しい」
「ああ」村紗は噛み締めたものを吐き捨てた。
「そんなにその白蓮とかいう奴が大事」
「ああ、何よりもだ。わかるだろう?」
「わかるからよ。何度も言ってるでしょ?」
 私は目を細めて、品定めするようにして欠片を眺めた。
「これはあんたにとっての過去。そんなものは追い求めるものじゃない。持っているもの。そしてあんたが持っているのはこれだけじゃない。それを知っていて、それでもあんたはこんな板切れを求めるのよね」
「滑稽だわ」私は村紗を笑った。でも、きっと笑う資格なんて持っていなかった。溜息を吐いて、言葉を続ける「こんな、木屑みたいなのに」
 私は人差し指を立てて、欠片を見せ付けるように右手を前に突き出した。なにかを警戒したのか、村紗は険しい表情で身を屈めた。私は欠片を一度引き寄せて、軽く振りかぶった
「なら、ずっと見ていなさい」
 そして彼女に向かって、それを投げつけた。

 十分に届くようにして投げつもりだった。それでも村紗が何の警戒も無く駆け寄ってきたのは仕方の無いことで、私の思惑通りのことだった。
 私は右手で視界を覆い隠した。何の前触れも無く、地霊殿のエントランスが閃光に包まれた。村紗は小さく悲鳴を上げた。右手で影を作りながら、彼女が眩んだ目を反射的に押さえるのを見た。霧の中でもがく迷い人だった。右手が決して錨を離そうとしないのは些細なことではあるが、思惑の外でのことだった。
「なにを!……ぁぁあ!」村紗は閃光が収まっても目を押さえたままだった。彼女の問いに私は答えなかった。代わりに、私の背後で階段を踏む音が鳴り響いた。

「……しばらくひとりで相手させてくれ、なんて言った時はひやひやしましたけど、やっぱり駄目でしたね。ボロ負けじゃないですか」
「うっさい。で、あんたは大丈夫なの?」
「なんとか。ただ深くて、凍えそうな記憶でした。見ているだけで窒息してしまいそうな」
 階段を降り切ったさとりは私のすぐ横で、身体を抱きながら呟いた。そうして、細めた瞳と大きく開いた瞳で村紗を見て、言葉を掛けた。
「聖白蓮が占める貴方の記憶の割合は、確かに多い。そうですね、寒くて、暗くて、寂しい場所から救い出してくれた、いわば命の恩人なのですから。……でも、全てではないのですよ」
 収まりかけていた村紗の悲鳴が大きくなった。頭を抱えて、今にも膝をつきそうなほど震えている。さとりの、覚りとしての力。想起を強制されているのだった。どれだけの過去かも知れない地獄のような日々を思い返して、見つめなおせと。
「どんなに小さな希望にもすがりつきたくなるのも分かります。人間の願いというものはそれほどまでに衝動的で、絶対的ですから。清水のように綺麗で、泥水のように醜い。……ですが、あまり急いで走ると転んでしまいます。知ってましたか? 泥のこびりつきって意外と落ちないんですよ」
 淡々とした口調でさとりは村紗に言葉を続ける。しかしそれが村紗に届いているのかは、私には分からなかった。
「泥だらけの姿で恩人との再会なんてしたくないでしょう?」

「五月蝿い!」
 村紗は赤子のように喚き散らす。そして一歩、歩いた。それでも、村紗は歩いていた。また一歩、一歩とよろけながら、どこを見ているのかも分らないままに、しかし確実に私達の方へと歩いた。その後ろには錨の作る道が出来ていた。
「決意を貫いて何が悪い! 願って何が悪い!……どんなに永い時間があったって、私はこうするしかないんだ! これが無茶な事なんて分かりきってる! 飛倉にだって力を感じない! でも、ここにあるんだ! 私を救ってくれるものが私の手の中にあるんだから! 何があったって私は止まれない。……たとえ、この存在が無くなったとしても!」
 村紗は一歩ごとに吠えるような声と共に、過去の全てを蹴り飛ばした。一歩進むごとに後ろには簡単には消えない痕が残っていた。確かに村紗水蜜は決意を貫く強さを持っていた。でも、その瞳の中はずっと、水面のように揺れていた。
 いつしか、村紗は私達に数歩というところまで来ていた。近くで見て初めて、それに気がついた。

「全部振り切って!……私は!」

 そこで、声が消えた。

 風が通り過ぎて、錨を振り上げようとしていた村紗の姿が消える。一瞬のことで何が起こったのか理解できなかった。なにげなく隣を見ると、さとりが小さく笑っていた。
「どこまでいっても、貴方ではなかった。私ではなかった。ということだったんですね。……当然ですけど」
 さとりは右を指差した。その先を見ると、村紗が転がっていた。その横に帽子が落ちていた。錨ごと飛ばされたらしいが、これでも右手は握られたままだった。
 続いてさとりは反対を指差した。その先を見て、私は納得がいった。
 村紗はゆっくりと上半身を起こして口を小さく開けた。一番状況を理解出来ていないのだった。数秒前まで見せていた激昂はなりを潜めて、目を丸くして、エントランスをぐるりと見回して、
「なんで?……なんで、なんで?……どうして!」
 そうしてやっと、見つけた。

 村紗を殴り飛ばした彼女は肩で息をしていた。頭を覆い隠すフードで表情は窺えなかった。殺人を犯して死体を目の前にした犯人のようにも見えた。握り締めていた右手には千輪に似たものが握られていた。きっと、それが凶器だった。
 しばらく誰も動かずに彼女を見ていた。

 結果論ではあるが、所詮私達がどうにかしようとしても、村紗を止められるはずが無かった。どんなに似た境遇であっても、似た境遇であるからこそ、それが分かる。
 私達は他人だった。舞台に横から口を出しているだけの五月蝿い観客だった。そんな声に惑わせれることはあっても、演じることを止める役者などいる筈が無い。だから、観客である私達の言葉なんてものよりも、舞台の上の彼女が一発殴り飛ばした方が遥かに効果的。
 結局、村紗水蜜を止められるのは、ずっと側に居た彼女だけだった。

 村紗は初めて力なく右手を開いて、錨を離した。自由になった右手からは、塵のような物が零れ落ちていった。村紗はみっともなくひざまずいてそれをかき集めようとした。しかし、形を完全に失った欠片は彼女の手の平をすり抜けていった。
「そんな、壊れるわけないのに……嘘だ、こんなの嘘だ……」 
 彼女の喉は震え続けて、嗚咽に似たものを漏らし続けていた。
「村紗、もう止めて」
 一輪はフードを脱いで、へたり込んだままの村紗を見た。私達から見えた彼女は確かに立っていた。きっと、ずっとそれが必要だった。
「飛倉に力が無くたって、姐さんを救い出せないことが決まったわけじゃないじゃない。探しましょうよ、なにか別の方法がある筈だから。私も一緒に探すから。……もう、何があったって一人にしないよ。これまでも、これからも、たとえ何千年掛かったって。二人なら、見つけられるから……だから、村紗、お願いだから」

「いち、りん」村紗は怒っていいのか泣いていいのか、自分でも分からないようだった。口を開いてはそれを閉じる。いくら歯を噛み締めても言葉があふれ出そうとする。

 そうして出た言葉は、ただの勢いだった。。
「あんただけはわかってくれると思ってたのに! 聖に貰った恩義を忘れて、心まで地獄に落ちたのか! 探す? そんなことは必要ないじゃない……ここにあったのよ、此処に!」 
「違う」塵を叩く村紗を寂しそうに見て、一輪は小さく首を振る。
「違わない! 思い返せばいつもそうだった! あんたはいっつも私のすることに横から口出しして、いっつも文句ばっかり言って! いっつも私の邪魔をして!」
 村紗は激情のままに錨を握った。バネのように跳ね起きて、一輪に詰め寄ろうとした。

「いっつも、いっつも、いっつも、いっつも、いっつも……いつだって!」

 でも、動けなかった。
 村紗にずっと引きずってきた錨を振り上げる力は残っていなかった。今度こそ村紗は俯いてしまった。

「いつも……そうだよ、いつもだ」

 錨が落ちる。地霊殿のエントランスに生々しい爪跡を作りだしたものは、最後に一層大きなクレーターを作った。その重さは本物だった。その頑強さも。しかしやはり、彼女一人で扱うには重過ぎる気がした。
 何も言わない一輪の目の前で、村紗は膝をついた。
「私は聖を救わなきゃいけないのに。こんな場所に居る時間なんて無駄なものだった筈なのに。……こんな時間は、偽者だったはずなのに!」

 村紗水蜜は、何も振り切れはしない。
 村紗は自分の時間は聖白蓮に救われた時から始まっていると考えていた。だから、深海に沈んだ心を引き上げた白蓮に盲目的なまでの情愛を注いだ。そしてそれを奪われた村紗は、空っぽになった。
「でも、何もないわけではない」と、隣に立つさとりは私に言った。
「過去は何があっても振り切れない。彼女は一度抜け出した深海に再び囚われたと思い込んだ。それを認めたくなくて、何も見ないふりをして、自分を騙し続けた。だから、彼女は気付けなかった」

「あ……ぁ、ああ………うああぁぁああぁぁ!」

 遂に村紗の感情の咎が外れた。誰かに向けられる事も無い叫びはエントランスどころが地霊殿、地底世界に響き渡るほどで、全て自身へ向かっていた。もう受け止めるほどの力は残っていない。打ちひしがれた村紗は、もう立ち上がれない。

「これで、終わりね」
 結果的に、村紗は再びこの地底に縛り付けられることになる。状況は何も変わらずに、二人はこの街で過ごすことになる。それがどれだけの時間になるかなんてことは誰にもわからない。永遠に封じられたままになる可能性も否定はできない。しかし、その時間はそれほど長くないほうがありがたい。こんなものをずっと見ていると、頭痛がする。
 しばらくの間、村紗の叫びは止まなかった。そんなことをいくら続けても、清算なんて出来るはずもなかった。
 救いの望みの叶わない、無力さに打ちひしがれた精神は溶かされた金属のようだった。頑強だった意思は無残な姿を晒していた。
 私は彼女にただ一言だけ言いたかった。私は最初にそうしたように、左手の人差し指を喚き散らす村紗に指し向けた。泣いている彼女を見ると気分がよかった。だから、たった一言でいい。

 「ザマァ見ろ」、だ。





 5


 私達は寝不足だった。
 旧都の一番大きな宿屋を脇道に逸れて、裏口を横切り、時々聞こえてくる宿泊客の媚声に耳を塞ぎながら更に横道に入る。喧騒を背にしながら、裏手に捨てられている生ごみに鼻を塞ぐ。打ち捨てられたように眠る鬼の姿を何度か認めながら数分歩いて、やっと見つけられる、そんな私のお気に入りの酒場に向かって、ふたりで歩いていた。

 あれからしばらくした後、村紗は一輪に肩を借りて、今度は自分の身体を引きずるようにして地霊殿をあとにした。その間彼女は一言も口を開かなかった。扉を抜けるときに一度だけ、一輪は頭を下げた。
 それから数日が経っていた。私達が村紗達に出会うことは無かった。

「気になってるんだけどな、これ」
 道も半ばというところで私はポケットを探った。そこから取り出したのは村紗の砕いて、私が投げた飛倉の欠片だった。そのはずだった。
 村紗たちが去った後、置き去りにされた錨のそばに落ちていたものだ。それを見たとき、私達は笑いたくなって、しかし呆然と立ち尽くした。
 村紗水蜜を救い出した力の源である飛倉の力。それは身体能力を強化する力を秘めているもの。
 それがただの"ふがし"だなんて、想像できるはずが無い。
「旧都の菓子屋に売ってるやつよね。一個十円くらいで」
「ええ、こいしがお財布空っぽになるまで買い込んできて、しばらく食卓が地獄になったことがあります」
「なんであいつ、こんなもの持ってたんだか」
 もちろん何か特別な物なのかと疑ったが、その様子は無かった。砂のように零れ落ちたはずのものは握りつぶされたものが落ちて行っただけだった。自分の投げた物も同じくだ。違いは包装がその形を成していたか、いなかったかだけだった。
「あの時は確かにこれは木で出来ていた筈なのに、今は紙になった。それも飛倉の力ってやつなのかしら。それとも、誰かがいつの間にか摩り替えたか。……そんな時間は無かったはずだし、もし最初から偽者だったってなら、あんまり面白くないことがあるわ」
 彼女が持っていた錨だけは確かに本物だった。さとりはもちろん、私だって持ち上げるのが精一杯だったし、それを振り回すことなんてとても無理だった。短時間ではあったが、村紗はそれを縦横無尽に扱っていた。
「村紗は何の力も借りずに、それをやっていたってことになる」
 私は乾いた笑いを漏らした。「馬鹿でしょ、あいつ」
「でもきっと、出来てしまったんでしょう」
 さとりは道に寝転がる酔っ払いを眺めながら、はっきりと言った。
「それほどまでに彼女の想いは強かった。根性、というものですか。コンディションが精神状態に左右されるのは、人間も妖怪も同じでしょう?」
「だからって、あれはないわぁ」私は肩を落して、五体満足に感謝した。肉体的な痛みがどれだけ効くのか分からない身体ではあるが、出来れば痛いのは勘弁して欲しかった。
「私だったら、顔が潰れてキリンみたいになってましたね。きっと」
「でしょうね、あんた、鈍いから」
 さとりは口元に指を当てて、上品に笑った。

 話しながら歩いていると何度も通った道のりもずっと短く感じた。気がつけば店先の灰色の看板が見えてきていた。
「あれ、ですか?」さとりは信じられないという表情を隠そうとしなかった。私も同感だ。飾り気の無い外見に、開けようとすれば生意気にも無駄な反抗を決行する引き戸。知らなければ、辺りに立ち並ぶ民家のひとつと言われても何の違和感も抱かないのだ。
「まあ、見かけはこんなんだけど、これで私の眼鏡にかなったんだから中身は本物よ。珍しい物飲ませてくれるし、料理も上手なんだから。妬ましいことにね」
「そんなことは疑ってなんていませんよ。それに、貴方がこうして誘ってくれることなんて珍しいですから、断るなんてしませんけど」
 ふと、さとりの動きが止まった。店先で棒立ちになりながら、唇をなぞった。店の中を透視しているようようだった。実際、似たようなことならば出来てしまう。
「どうしたの? 早く入りましょうよ」
 私が声を掛けるとさとりは小さく身体を跳ねさせた。そして寝起きの表情で私を見た。
「パルスィ、貴方なら」さとりはそこで言葉を切って、私から目線を反らした「……私が泣いてたら、どうしますか」
「は? いきなり何言い出すのよ」
「いえ、なんでもありません。入りましょうか」

 私は怪訝に思いながらも、三度きっちりと引っ掛かる戸をこじ開けた。この店に来るのも一ヶ月ぶりほどかもしれなかった。思い出すようにして訪れるのがこの店に行くときのいつものパターンで、最近はたまたまそんな気分にならなかった。理由はそれだけでしかない。
 久しぶりの店内には変化は無かった。適度に清潔にされたテーブル、壁一面に並べられた洋酒のビン、今日はおばちゃんはカウンターの中に立っていた。私の姿を認めると、盆にだけ帰ってくる孫に会ったような表情をした。彼女は基本的に客が来るのを見て、店の奥から這い出てくる。彼女がいつも何をしているのかは知らないし、詮索する気も無い。

「おや、久しぶりじゃあないかい」
 老いた女性の鬼はそう言って、私が注文するよりも早くカクテルを作る準備を始めた。その途中でやっと、さとりの姿を見つけた。
「あらまあ、パルちゃん、地霊殿とこのさとり様と知り合いだったんだね」そして咳払いして、「……ようこそさとり様、こんな辺鄙なとこにはなにもありませんが、どうぞ楽しんでってくださいな」
 老婆は仰々しくお辞儀する。さとりはそれに返礼して、小さな声でお礼を言った。
「こちらこそどうも。いつも彼女がお世話になっているようで。ご迷惑など掛けていませんでしょうか。彼女、酔ってしまうと面倒でしょう? 大丈夫、ですか? それはよかった。……あら失礼、私としたことが、お土産を用意していませんでした。困りましたね、どうしましょうか」

「さとり」
 私は転がるように喋るさとりの口を止めた。私の手のひらの向こうで口を動かし続けるさとりが面白かったのか、老婆は下駄で走るような声で笑った。
「今日は商売繁盛で嬉しい限りだよ。さあ座りな。パルちゃんはいつものやつでいいかい? さとり様は?」
「ああ、ちょっと待って」私は言葉を手で制して左側の席に座った。さとりはその隣に座った。そして、私達は真正面を見た。
「見かけないと思ったら、こんなとこに居た」

 私がカウンターのテーブルに肘をのせながら言うと、村紗水蜜は気まずそうに何も無い店の中を見た。口元まで来ていた箸と、それに乗せられた炒り卵が村紗の傍を離れていって、彼女はそれを残念そうに見送った。
 彼女の右肩には包帯が巻かれていて、右腕が動かせないようだった。乞食のようだった見た目はそれなりに綺麗になっていた。帽子は被っていない。カウンターの上に乗せられていて、相変わらず汚れは無かった。
「泣き寝入りして、アルバムでも眺めてるのかと思ってたわ」
「まさか」
 私の言葉を村紗は鼻で笑い飛ばした。そしてグラスを持って、半分ほど残っていたギムレットを一気に飲んだ。グラスから離れた顔は酔いから生まれるものとは違う嬉しさを浮かべていた。
「こんなに美味しい酒を飲ませてくれる場所に来られないなんて、耐えらられないじゃない?」
 ねぇ、と村紗は横に声を掛ける。隣に座っていた一輪は何も言わずに、やけくそぎみに炒り卵を村紗の口に放り込んだ。村紗は口いっぱいに詰め込まれた卵を喉に通してから付け足した。「料理も、さ」
 平皿の上に皿が載せられ、更に皿が積まれていた。カウンター裏の洗い場を覗くとそこにもグラスや皿が積まれていた。顔を上げると、皺だらけの顔が苦笑いしていた。彼女は私の耳元で、村紗たちに聞こえないように言った。
「いつもの三倍増しさね。ホクホクだよ」
「それはまた、妬ましいことね」

 そんなことを言っている間にも村紗はまたひとつ、皿を空にした。唯一自由な左手でゆで卵を口に放り込んでおかわり、と言った。しかし掲げられた皿は一輪に下げられる。不満と卵で頬を膨らませる村紗に、一輪は怒気の篭った目線を送った。
「なにするんのさ、一輪」
「それはこっちの台詞でしょ? どれだけ食べる気よ!」
「え?」
「え? じゃないでしょうが! 私達の家にはお金ないのよ? 分かってるの?」
「なんで」村紗は心から不思議そうに言った。その顔が両側に引っ張られた。
「誰かさんが働きもせずに飲みまくって、食べまくったおかげじゃあないかしらぁ?」
「い、痛いよ、一輪、離して……ほら、怒ると可愛い顔が台無しだ」
 村紗は痛みに耐えながら、しかしにこやかな顔で、一輪の頬に触った。本気で笑っているのに、本気かどうだか分からないほどに言葉は軽かった。一輪の表情を変化させるには役不足だった。

 私は音を立てて椅子に腰を落した。彼女達を他人と見違たかと自分の目を疑った。ふたりにあれからいったい何があったのかと考えると、さとりは私の横で顔を覆った。そして首を横に振った。言えないほどのことらしい。
 しかし現在ははっきりしていた。あれが彼女達の普通だったのだろうと思う。地上に居た頃、聖白蓮と共に過ごしていた頃のふたりがそこに居る。聖白蓮がいなくとも、彼女達はふたりだったのだろう。

 固まった一輪の横を通って、新しいグラスが村紗の前に置かれた。以前見たときと同じ、私の飲むものよりも緑色の薄いギムレット。以前聞いた話によると、カクテルの割合が違うらしい。私は軽い嫉妬心と正体不明の劣等感を抱きながら、老婆に注文を言った。
「私は、いつもの」
 老婆は特に反応を見せずにあいよ、と言って、私の配合でギムレットを作り始めた。しかし銀色の容器に氷が入れられたときに、慌てて私はそれを止めた。
 小さく首を傾げた老婆に一度謝り、咳払いをして、私は村紗を見た。カウンターに肘をついて一度口の両端を吊り上げて、それからさとりを見た。さとりは微かに笑って、静かに目を伏せた。

「私たちは、いつもの」

 ギムレットは私のお気に入りだった。私の瞳とは比べものにならないほどに透明な緑色の液面を見たとき、最初私は、不覚にも見惚れていた。だからこれはちっぽけな対抗心だ。何度村紗と自分が似たもの同士だと感じても、これだけは譲れないなんてつまらない嫉妬心。どうでもいい事に子供のような感情を抱く自分を情けないと思った。
 でも、それが私で、水橋パルスィなのだ。
「いいでしょ、さとり」
「ええ、ご自由に」
 
 確かこう言ったはずだと本か何かで見た記憶を辿りながら、私は指を二本立てた。
 こう言えば、村紗のグラスよりも透き通った色のギムレットを用意してくれるはずだった。

「いつもの。ダブルで」

 老婆は悪戯っぽく笑い、さとりはクスリと笑い、村紗は指を三本立てようとして、一輪にそれを折られた。
 カウンターに置かれたほとんど透明なギムレットは苦味しか感じなかった。
 甘さが無いものは私の口には合わないらしかった。
 でもそれを認めたくなくて、私はやけくそに、ほとんどを一気に飲み干した。
 店の中の皆がねじれ曲がって、私はその先の記憶を失った。

 意識が戻ったとき、私達は家の床の上に転がっていた。
 ベットの上ではふたりが、寄り添うようにして眠っていた。
 おまけ

 ~Mと沈め/ムラサのいる街~


「……急に頼みごとなんて珍しいことするなって思ったら、こーゆーこと?」
「そゆこと。いいじゃん、友達の頼みぐらい聞いてよ」
「分かってるけど、私の力は泥棒するためにあるんじゃないよ? あ~あ、これで前科一犯かぁ」
「そう不貞腐れないでって。あとでなんか奢るからさ、ね?」
「なら……いいよ、みんな笑って一件落着だし」
「さっすがぁ、話がわかるぅ」
「でもさ、よかったの? こんなことして」
「いいの。飛倉なんて私にとっちゃ村紗の大切な物、くらいのものだよ。それなら悩む必要なんてどこにも無いじゃない?……だいたいさ、一輪のやつは思いっきりが足りないんだよねぇ。あんなやつ、さっさとぶん殴ってやればよかったのにさ」
「お姉ちゃん達でも、一輪さんでも止められなかったら自分でやってた?」
「もちろん。ただちょっと一輪の奴に華を持たせてやっただけだしね。……まったく、私が動かなかったらどうなってたことか」
「まぁまぁ、終わりよければなんとかってやつだよ。……でも、そっかぁ……へー、ふーん、ほー」
「な、なんだよ、ニヤニヤして……」
「おやぁ、気付いてないのかなぁ?」
「だから何だってのさ!」
「いんやぁ? いっつも自分は大妖怪だー、って粋がってるのに、こういうことは苦手なんだなぁー、ってさぁ。乙女心は複雑なのでした、ちゃんちゃん」
「バ、バカ! そんなんじゃないってば!」
「でも顔真っ赤だよー? そうだよねー、好きな人にはずっと近くにいて欲しいもんねー? でもなかなか素直になれないんだもんねー?」
「だーかーらー!」
「ホッホッホー…………みんなに言ってやろうっと!」
「あ! こら待てこのバカ! うわ、足はや!」
「ほっほー! キューピットこいしちゃんとお呼びぃー」
「待てってば! おいこら! 待ってよ! こいし、こいしぃーー!?」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あとがき

 まずは、読んでいただいた事に感謝を。
 一ヶ月以上ぶりになってしまいました。待っていてくれた方がいたら、申し訳ありません。
 9月になったら私は死んでしまうのではないかと(精神的な意味で)最近不安です。ですが毎年こんなことを言ってるので大丈夫でしょう。
 でももしかしたら、9月からぬえが主人公になっているかもしれません。

 とりあえず、今回はここまでということで。
 鳥丸でした



8/30細かく修正+あとがき追記
 待っていてくれた方が多くて嬉しい限りです。基本続いている私の作品ですが、単独でも面白いものを目指して精進したいものです。

 タイトルの話
 タグについているアルファベット、及び作中タイトルのつけ方は日曜午前八時から。
 その他私の作品ではそこから色々と持ってきてます。


 まぁ、先日終わってしまいましたが……
 
鳥丸
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コメント



0.710簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
新作きたぁ!
格好いいだんか、悪いんだかわからないパルスィが大好きです。村紗との会話も好きです。
ところでこの作品シリーズについているMとかHとかって何か元ネタがあるんですか?わからないんで教えてください。
4.100コチドリ削除
待っていたぜ、作者様。アンタとアンタの物語をな……
つーか待たせ過ぎ! 結構心配したじゃない、このイケズ! スカンタコ!
……ふぅ、罵詈雑言はここらへんでやめておいてお話の感想なのですが、

待った甲斐はあった! うんうん、ありましたよー。

決して万能じゃない、でも自分に出来る精一杯を何だかんだで振り絞るパルスィ。
相変わらず掴みどころがないんだけど不思議な魅力をたたえるさとり様。何気に可愛さアップしてないか?
そしてこの二人が醸し出す絶妙な距離感! 俺は大好きだぜ!

今作のもう一方の主人公、水蜜と一輪。
あがき続けろ、泣き笑いしながら。
どんなに泥に塗れようとあんた達は美しいぜ。

最後にこいしちゃん、君はフリーダム過ぎる。ぬえも加われば更にレベルアップしそうだ。
だが、それでいい!!
6.100名前が無い程度の能力削除
待っていました!
続きがまた楽しみです
10.100名前が無い程度の能力削除
待ってました
このパルスィ大好きお
11.100名前が無い程度の能力削除
新作きてた!ひねくれてはいるけども、主人公らしいパルスィややる事がいちいち可愛いさとり様が素晴らしかったです。

流れ的に、そろそろぬえが出てくるのかな?
16.100oblivion削除
待ってた! もう心配したんだからねっ!
こんなに熱い地霊殿は6面以来ですなうおーあっちー
この泥臭さがたまらない。決してキレイじゃないが、敢えて言えばそう、美しい。
しかしボコりあって解決とはまったく乙女らしくないなぁ。そこがいいのですがw