Coolier - 新生・東方創想話

彼女たちが夢見た妖怪

2017/06/18 00:06:23
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 今となってはとうの昔の話である間欠泉騒ぎからこちら、地底と地上を行き来する妖怪の数は日増しに増えていた。
 わけても地底の入り口付近に生息する土蜘蛛などは、もはや地上の妖怪と呼んで差し支えないほどの頻度で地上に姿を見せている。
 黒谷ヤマメもそうした輩のうちの一匹であり、今日も呑気に鼻歌など歌いながら太陽の下を闊歩していた。彼女は今まさに地底を這い出て、妖怪の山から麓へ至る道を下っているところだったのだ。

「んふふ〜。今日もお仕事に精を出そうかねえ。季節の変わり目は仕事がしやすくて良いわあ」

 ヤマメには人間を病気にする能力がある。その能力を駆使して人を弱らせたうえで、一気に食らってしまうのが彼女のやり口だった。
 問題はどこで人間を捕まえるかである。人間は人里に多く生息しているのだが、いかんせん地上においては、妖怪は人里で人間を襲ってはいけないというルールがある。もしそれを破れば、人間だけでなく妖怪からも手酷い制裁を受けることになるはずだ。
 したがって、もし地上で人間を襲いたいなら、人里に近い霧の湖のほとりを周回するか、博麗神社へ続く道などで待ち伏せするくらいしかないだろう。
 などと作戦を練りつつぼちぼちと山の獣道を下っていると、路端の石の上に腰掛け休む影がヤマメの目に留まった。
 ヤマメはしめしめと思いつつその影に近づき、躊躇なく声をかけた。彼女はそれが人間だと思っていたのだ。

「やあ、良い日和だね」
「あん? どこがだよ、こんなに日が燦々照ってやがるのに」
「うん?」

 その言動もさることながら、覗き込んでみた相手の目の色の中にヤマメは妖しい気配を感じ取った。それは同業者の醸す気配だった。

「なんだ、あんた妖怪じゃないか」

 いかにもがっかりしたふうにヤマメは口元をへの字に曲げてみせた。実際、今日は運がいいなどと思っていたところなので、出鼻をくじかれた格好だった。
 彼女が声をかけたのは、紛れもなく妖怪だった。頭に二本の角を持ち、緋色の瞳を持つ妖怪……おそらくは鬼の類だろう。
 落胆するヤマメを気遣う様子もなく、妖怪は小馬鹿にしたようにひとつ鼻を鳴らした。

「こんなところに人間がうろついてると思うのか?」

 こんなところとは当然妖怪の山のことだ。その名の通り数多くの妖怪が根城としている魔山だが、妖怪同士で縄張りを守り合う限りにおいては、わりあい平和な場所でもあった。
 相手の言葉の端に引っかかるものを感じつつも、ヤマメは努めて明るく対応する。

「ああ、私は地底の田舎者なんでね! 地上のことはよく慣れていないのさ」
「ふーん。ま、どうでもいいけどね」

 いちいち癪に障る言い方である。それに、話し始めてからこのかた一度も自分の方を見もしない。さしものヤマメもむっとして声を荒げる。

「あんた、なんだか癇に障る奴だねえ。友達いないだろ?」
「お前には関係ないだろ、そんなこと」

 やる気なさげにため息を付いた後、妖怪はふと何かを思い立ったようにその目を光らせた。
 彼女はヤマメを見上げ、初めて目を見てものを尋ねてきた。

「お前、土蜘蛛だろ? 人間を病気にしたりできるんだっけ?」
「そうだね、頑張れば人間だけじゃなく妖怪だって病気にできるだろうさ」

 ヤマメはちょっと意地悪をするつもりでうそぶいてみたものの、相手にはどうやら通用しなかったらしい。ヤマメの心を見透かしたような薄ら笑いを浮かべながら彼女は聞き返す。

「おばけは死なないし病気もなんにもないんじゃなかったっけ?」
「そこはそれ」
「なんだそりゃ」

 しようもない軽口を一段落させ、妖怪は短く息を吐いた。面の表に浮かんでいた薄ら笑いを引っ込め、
「……まあいいや、新しいチカラの実験台には悪くないかもしれないね」

 彼女はこうひとりごちた。
 妖怪の口から漏れた不穏な単語をヤマメは聞き逃さなかった。彼女は眉間にしわを寄せつつ妖怪の言葉をオウム返しにして問うた。

「新しいチカラ? 実験台だって?」

 声の中に自然と戸惑いが滲んでしまう。ヤマメは心のなかで舌打ちをした。
 眼下に座っていた妖怪のおもさしに、不敵な色がみるみる広がる。そして、彼女はこの場を支配するのが誰なのか思い知らせようとでもするかのように威勢よく立ち上がった。

「申し遅れたな。私は鬼人正邪。天邪鬼だ。能力は『何でもひっくり返す程度の能力』。その真のチカラを引き出しきれず、こんにちまでうだつの上がらない日々を送ってきたが、これからは違う! 小槌の助けにより、私はついに究極のチカラを手に入れることができたのだ!」
「……ええっと……言ってる意味が半分もわからないんだけどさ」

 思わず一歩後ずさったヤマメのつま先を追って、正邪と名乗る妖怪の足が二歩進む。
 正邪は圧するようにヤマメの鼻先まで顔を近づけ、低く邪悪な響きでもって囁いた。

「わからなくても仕方なかろう。哀れなお前のために、今、見せてやるさ。究極のチカラというやつを……」

 燦然と輝く太陽の下、ヤマメは己の視界が暗転していくのを感じた。





 ***





 本居小鈴は異変を待っていた。
 異変と言っても、べつに妖怪の起こすような大掛かりなものでなくとも良かった。いや、妖怪の起こすものならばなお良いが、そうでなくても良い。さらに言えば、小鈴の力で解決できる程度のものならなお良い。
 小鈴には夢がある。淡い夢だ。
 ――霊夢さんや魔理沙さんのように、妖怪と対等に交流できるようになれたら。
 小鈴ほどの歳の娘が抱くには僅かに子供じみた願望だったが、本人はわりあい本気でそんな望みを抱いていた。
 どうすればその願望を満たせるのか、その手段すら小鈴は把握していない。しかし、聞くところによると、霊夢らのようになるには、ある程度大きな代償を支払わなければならないらしい。そのような不穏な状況は、できれば勘弁願いたいとも小鈴は思っていた。都合のいい話である。
 結局、力のない自分でも危険にならなさそうな簡単な異変に関わっていく中で、少しずつ実績を積んでいく、というのが妥当な道のりということになりそうだった。
 しかし、そのようなお手頃な異変なぞ、そこらへんの草むらにコロコロ転がっているわけもなく、つまるところ、小鈴は今、大変に暇をしていた。

「やっぱり、本を読んでるだけじゃだめなのかなあ。でも、店番もあるし……」

 などと言い訳をしつつ、結局今日も店の中で本を読む。
 朝一番に少しばかり時間を取って夢を想う。それだけで、日常の味わいが大きく変わる。小鈴にとって夢とは、日常を退屈にしないための一種の香辛料にすぎなかったのだ。
 そういうわけで小鈴は今日もいつも通り、机の上に広げた外来本の上っ面を撫でるように眺めて過ごしていた。
 そんな折、外回りをしていた小鈴の父が店に戻ってきた。ひと目見た瞬間、小鈴は父の異変に気づいた。
 顔面蒼白である。小鈴と目が合うと、彼は露骨に難しい顔になった。小鈴の父は、昔から嘘のつけない人だったのだ。
 父親は神妙な顔つきで小鈴の正面まで歩いてくると、ゆっくりと噛んで含めるような調子で言った。

「……小鈴。さっきそこで聞いた話なんだが……落ち着いて聞いてくれ……」

 お待ちかねの非日常は、おあつらえ向きに自分から小鈴の元に転がり込んできた。
 ただし、それはどうやら、小鈴が望むようなお気楽な事態というわけではなさそうだった。





 ***





 ヤマメが目を覚ましたとき、最初に感じたのは燃えるような痛みだった。こらえるという考えが浮かぶ暇もなく、彼女は獣のような悲鳴を上げた。
 しばらくの間悶え苦しんだ後、彼女は徐々に自分の置かれている状況を飲み込み始めた。
 水の流れる音が耳朶を揺らす。六角形の石の敷き詰められた見覚えがある河原……玄武の沢だ。彼女の下半身は川の流れの中に浸かっており、全身は打ち身を負っているようだった。
 混濁する意識の中で、ヤマメは状況を確かめるべく必死に記憶を反芻した。どうやら、例の鬼もどきになにがしかやられて気を失った直後、沢に落ちてそのまま流されたらしい。
 妖怪に肉体の死は存在しないものの、ヤマメの場合、根は一介の蜘蛛に過ぎない。打たれれば痛いし怪我もする。しばらく休めば怪我は自然と治るが、それまでは苦痛に耐え続けなければならない。
 かような難儀を背負い込み、いつものヤマメならば愚痴か悪態の一つもついてから善後策を講じるところだった。しかし、彼女はあろうことか、自らの身に降り掛かった不幸を嘆いてさめざめと泣き始めた。それが彼女らしからぬ振る舞いであると、彼女自身全く自覚していなかった。
 そして、今のヤマメにはのんびりと泣いている暇などなかった。

「おや……?」

 視野の外からの声が、ヤマメの耳を突き、心臓を跳ね上げた。――人間の声だ。
 本能が、生命の危機を喚き立てる。その警告に従い、その場を離れようと思わず身体をよじったが、その瞬間、再び彼女の全身に鞭打つような激痛が走った。生きるか死ぬかがかかっているこの状況で、肉体の痛みごときにかかんずらってはいられないが、いかんせん身体が言うことを聞かない。
 人間に捕らえられた挙句、正体を暴かれ妖怪生命を絶たれる。そんな光景がヤマメの脳裡を掠めた。しかし、続けて聞こえてきた人間の声は存外穏やかだった。

「待て、待ちなさい。怪我をしとるじゃないか。動いたらいかん。わしは怪我に効く薬を持っておる。今から治してやるからじっとしとれ」

 しわがれた声。どうやら老人のようだ。ヤマメはおののきつつ、声の主を探して目を泳がせた。人間の頭が見えたが、逆光で表情は見えなかった。
 ヤマメはおずおずとその人間の顔を見上げ、問うた。

「わ、私は妖怪ですよ……?」
「そんなもん、見りゃ判る。だが妖怪だからと見過ごすわけにもいかんじゃろ」

 老人はかがみ込んでヤマメの腕を取った。たったそれだけで全身に痛みが響き、ヤマメは短い悲鳴を上げる。しかし、老人は構わず、その肌に何やら軟膏のようなものを滑らせ始めた。するとどうだろう、金槌で叩き続けられるような痛みが、一瞬にして霧散したではないか。裂傷、青あざ、その他無数についていた傷も、老人が指でなぞる側から布巾で拭き取るように消えてしまった。
 人間にこのような力があるとは思えない。おそらく彼の塗る軟膏に不思議な力があるのだろう。
 しかし、それはどう考えても、人間にとっては貴重な薬に違いなかった。
 ヤマメは、治してもらったその腕を力なく動かして、老人の手を退けた。

「大丈夫です。放っておけばそのうち治りますから……」
「そうは言ってもずっとこんな場所に寝とるわけにもいかんじゃろう。ほれ、右の腕はもう大丈夫じゃて、もう片方も出しなさい」

 そう言って、人間の老人はヤマメのもう一方の腕をとり軟膏を塗り始める。
 ヤマメの胸の奥から熱い何かがせり上がってきた。如何ともしがたい感情の波だった。彼女は口をへの字に結んで、喉元までせり上がってきた情動をこらえていたが、虚しい抵抗だった。やがて、押さえつけるような嗚咽がヤマメの喉から漏れ、二つの眼から涙が玉となってこぼれ出した。老人はそれを見ると低くうなり、心配そうに眉を寄せた。

「痛むのかね? すまんがもう少し辛抱しなさい」
「いえ……そうではなく……有難くて……申し訳なくて……」
「なんじゃ、そんなことなら気にするな。困った時はお互い様じゃ。それに、元々この薬は妖怪からもらったものじゃしのう」

 ヤマメの両腕が動くようになると、老人はその手のひらに陶器の小皿をのせた。「後は痛むところに自分で塗りなさい」と言いおいて、老人はヤマメに背を向け歩き出した。
 その背に向け、ヤマメは身を振り絞るように叫んだ。

「あ、あのっ……お名前を……! こ、このご恩、必ずお返しします……!」
「そんなもの、すぐ忘れなさい。あんたは妖怪、わしは人間。貸し借りなんぞ抱えとったらお互い不幸になるだけじゃて」

 既に視界から消えつつある老人の声が、乾いた空気の中から途切れ途切れに聞こえてきた。
 ヤマメは、再びせせらぎの音のただ中に取り残された。しかし、目覚めた時に比べると状況は驚くほど好転していた。

「必ず……必ず……。お約束します……」

 決然とつぶやきながら、ヤマメは小皿の上に指を滑らせた。
 今や、地底の土蜘蛛・黒谷ヤマメはこの世から存在を消していた。





 ***





 稗田阿求は死にかけていた。
 御阿礼の子の寿命は短く、三十路に至れば長命とすら言われる。短い寿命の理由は、転生の秘術によって得られる肉体が一般的な人間のそれより脆弱であるためだ。
 その脆弱な肉体を今、原因不明の病が蝕んでいた。一般的な人間でさえ、ちょっとした風邪でもこじらせれば命に関わることがある。子供や老人ではより一層その危険は増す。そして残念ながら、阿求は子供や老人程度の免疫力しか有していなかった。
 当主が病に倒れたということで、稗田家は今や蜂の巣をつついたような有様だった。本来何年もかかる転生の秘術の準備を、下手をすれば数日で済まさなければならないのだから仕方がない。
 そんな火事場のような稗田家に、本居小鈴はおっとり刀で駆けつけた。小鈴は当初、主に忙しさを理由に家人から面会謝絶を申し入れられた。しかし、友人の往訪を耳にした当主の計らいにより、辛くも門前払いは避けられた。
 家人の説得に役立ったのは、「これっきりだから」という阿求の一言だった。この言葉はつまるところ、今ここで小鈴に会っておかなければ次がないという抜き差しならない状況を示唆していた。

「悪いわね、バタバタしてて……。死ぬときはだいたいこうなのよ。人間、いつ死ぬかなんてわからないからね……。阿弥の時も、阿七の時もこんな感じだったと思う……」

 寝室の布団の上で青息吐息の阿求が、小鈴を視界に収めて最初に放った言葉がこれだったものだから、小鈴の眼前は真っ暗になった。阿求は自らの死を前提として話をしようとしている。

「ちょっ……そっ……! ふええ……」などとひとしきり言葉にならない言葉を吐いたのち、小鈴はやっとのことで言葉を紡いだ。

「……冗談……じゃないの?」
「今のままだと、冗談じゃなくなりそうね……」
「だっ、だって……き、昨日までは、あんなに元気だったじゃない!」
「そうね……。昨日は……あんたが子どもたちに読み聞かせをして……私は隅っこでそれを聞いていて……。今だから言うけどね、私、あんたの読み聞かせ、わりと好きだったわよ……。ああ、それから霊夢さんと、例の外の世界マニアのお姉さんもやってきて……。かちかち山の解釈をめぐってあの二人が大げんかを始めちゃって……私とあんたで頑張って仲裁したっけね。ふふ……あれは可笑しかったわ……」

 そう言って笑って見せようとした阿求は、胸苦しさを覚えて強く咳込んだ。小鈴は慌てて阿求の枕元においてあった硝子のコップに水差しから水を注ぎ、阿求の頭を慎重にもたげつつその口元に水を運んだ。

「……小鈴……?」

 コップを持つ小鈴の手が、ひどく震えていた。阿求が目を上げると、小鈴の両目から大粒の涙が今まさに溢れてこぼれ落ちていた。
 水を喉に通した阿求は、再び床に収まると、小鈴から目を背けて押し黙った。まだ死ぬと決まったわけでもないのに、少し別れを焦りすぎたかも知れない。だが、本当に人間というのはいつ死ぬかわからない。別れを言いそびれて彼岸で後悔したくなかったのだ。
 短い嗚咽を交えつつ啜り泣いていた小鈴が、ようやっと振り絞った声は涙で濡れていた。

「ち、竹林の医者が……彼女なら……」
「……家の者に使いに行かせたんだけどね。今は無理だって……それどころじゃないから手が離せないって……」

 実はこの時、間の悪いことに幻想郷も危篤状態に陥っていた。月の都の遷都計画である。
 空に浮かぶあの月に住まう者たちは、ある事情により月の都からの移住を検討せざるを得ない状況に陥っていた。移住先の候補地として、彼らは身勝手にも幻想郷を選んだ。当然、その計画の中には、原住民への配慮など一切盛り込まれていない。もし計画が本格的に実行されれば、幻想郷に生きるあらゆる生命は一瞬のうちに消滅せしめられるだろう。
 計画をいち早く察知した竹林の医者・八意永琳は、この目論見に対抗するための秘策を編み出すために今まさに奔走していたのである。
 幻想郷消滅の危機と、一人の転生可能な少女の死を天秤にかけた場合、どちらを優先すべきかは明らかだった。
 小鈴の眼の奥に、鈍い怒りがにじむ。

「手が離せないって……そんな……」
「……いいのよ、小鈴。……もし死んだら、それが私の寿命ということだから……」
「そ……そんな……!」

 十年そこそこしか生きていないのに、親しい友人との死別を経験しなければならないというのは酷なことだろう。遅かれ早かれそのような日がくるにせよ、それはもっと未来のことだと小鈴は思っていたはずだ。現実を受け入れるには時間がかかるだろう。だが、生きているうちに言葉を尽くしてその現実を説明してあげれば、きっと立ち直りも早くなる。阿求はそう考え、朦朧とする意識の中で、尽くすべき言葉をひねり出した。
 そして、その言葉はさして厳密な検討もされずに阿求の口元から放り出された。

「……小鈴。もしものことがあったら……生まれ変わった私宛に手紙を書いてよ。この稗田の阿求の……この時代の友達として……次の御阿礼の子に向けて……。きっと私はあなたのことを覚えてる。万が一忘れたとしても、あなたの手紙で思い出せる」

 阿求の言葉を聞いた途端、小鈴の顔にさっと赤みが差した。彼女は畳を蹴って立ち上がり、ほとんど悲鳴に近い声で叫んでいた。

「私の友達の稗田阿求はあなた一人よ! 次なんて知らない!」

 言って、小鈴は部屋を出ていった。ばたばたと乱暴な音を立てて遠のいていく小鈴の足を、阿求はぼんやりと見送っていた。

「あー……そうよね。私って馬鹿だわ……」

 そう独りごちた後、阿求は最後に見た小鈴の表情を思い出して軽く首を振った。いまわの際に見る友の顔にしてはいささか痛ましすぎる。
 阿求は記憶の中から一番素敵な表情の小鈴を反芻しようと試みた。そして、いつだったか寺子屋の怪事件を解決した時の表情が一番だったという結論に達した。
 ようやく満足し、大きくため息をつく。
 これで思い残すことはないだろう。
 もしかすると、先ほどの言葉が友人に対する今生最後の言葉になるかもしれない。あるいは、この眠りが今生最後の眠りになるかもしれない。そう思いながら、阿求は静かに目を閉じた。





 ***





 大通り沿いに呉服屋を構える権次という男は生来身体が弱く、季節の変わり目になると毎年のごとく風邪を引き一週間は熱にうなされる。今年も例年通りに熱病を引っ張ってきたので、彼は店番を店子に任せて自宅の寝室に寝込んでしまった。
 ただ、例年と違ったのはこの店子が先月入ったばかりの新人だったことだ。そしてこの新人、どうにも要領がよろしくなかった。釣り銭を間違うなどというのは当たり前で、売り物の櫛を取り落として歯を欠けさせたり、客から預かった一点ものを汚してしまったりと、およそこの手の商売に向いていないことは明らかだった。これに対して、里人は口々に『はやく店主によくなってもらいたいものだ』と言って頷きあったものだった。
 里人がそんな噂を囁きあったその夜。権次の病はいよいよ悪くなり、人々が寝静まった深夜に至っても満足に眠ることができず、唸り声をあげながら布団の上でのたうっていた。
 そんな中、ふいに、ばり、という音が、天井の方から聞こえてきた。
 目を開いて天井の方を見やるも、なにぶん真夜中のことだから視界に映るのは墨で塗ったような闇ばかり。意識は朦朧とし、今自分が目を覚ましているのか眠っているのかも判然としていなかったため、聞こえたと思った音は夢の中のそれだったのかもしれない。ひとまずそういうことにして権次は再び眠りにつこうとしたが、それを妨げるように、またも異音が権次の耳をかすめた。今度は畳の上をカサカサと動く虫の足音のようだった。
 足音は漸進を繰り返しつつ、まっすぐに権次の枕元に近づいているようだった。――これは蜘蛛か何かだな、と、権次は直感した。夜に蜘蛛を殺すべきだったかそうでなかったか、権次はほんの一瞬だけ思い出そうと腐心したが、判断することすら難儀だったのですぐに放置を決め込んだ。
 足音は権次の耳元まで近づいたのち途絶えた。寝付けぬ暇を潰すためなんとなしに枕元に目を落としてみたものの、見えるのは闇ばかりだったので、足音の主を捉えることは諦め、顔に登ってこないようにと祈りつつ権次は寝返りを打った。
 その時だった。横向きに寝相を変える瞬間を狙っていたかのように、権次の口元をなにかががばりと塞いだ。

「……!」

 叫ぼうとすれど、口を塞がれているのだから当然声の出しようがない。身体を動かそうにも、なにか硬い紐で縛られたように動かない。混乱する頭に考える隙も与えず、今度は権次の喉元をなにか冷たいものが触れた。
 それは人の手のようだった。それも随分と小さい、子供の手のようだ。
 妙なことに、その手に触れられた途端、権次の心の中から焦りや恐怖といった感情が、あたかも風船から気の抜けるように霧散していった。同時に、つかえるようだった胸の苦しさや、身体全体を覆っていた気だるさも波のように引いていった。朦朧としていた意識は冴えはじめ、元気というものが身体の芯にしっかりと根を下ろしつつあることもまた明瞭に感じ取れた。
 権次が意を決し、己の首元に触れる手をはっしと掴むと、その手はびくりと震えた。闇の奥から衣擦れのような音と、僅かに乱れた呼吸の音が聞こえた。おそらくそれが、今掴んだ手の持ち主の気配なのだろう。
 彼は闇の向こうに向かって尋ねた。

「お前は誰だ……俺に、何をした?」

 闇の向こうの者はすぐには答えなかった。権次の握る手はずっと小刻みに震えていたが、決して権次の喉元から離れようとはしなかった。
 やがて闇の底から細々とした声が聞こえてきた。至極気弱そうな、少女の声だった。

「……貴方様の体内に潜む病の原因のうち、主要なものを全て殺しました。じきに熱も引くでしょうが、体力は落ちていますので明日一日は安静になさってください」

 唖然として少女の言葉を聞く権次の手の中で、少女の手が凄まじい勢いで萎んでいき、ついには完全に消え失せた。気を取り戻した時に彼が掴んでいたのは、己の頸ばかりだった。
 ――人間の所業ではない。
 がばりと上体を起こす。身体は驚くほど軽かった。耳を澄ますと、畳の上を歩き去る多足生物の足音が聞こえた。権次は慌ててもう一度問うた。

「あんたは、妖怪なのか? なぜ俺を助けてくれた?」

 しん、と、静寂が耳を刺した。僅かの間息を詰めて待ったが、答えの返ってくる気配がない。権次は小さくため息をついて、再び寝床の上に身を横たえた。
 するとその直後、再びあの少女の声が耳に届いた。声は、天井の板張りの向こうから聞こえてきた。

「……ご主人がいなくて、人間の皆さんが困っていると耳にして……。皆のために早く良くなってほしいと思い、差し出たこととは存じましたが……。どうか、ご養生ください……」

 そう言い残して立ち去ろうという気配だったので、権次は慌ててそれを引き止めた。

「待て! 何か礼がしたい! この恩をこのままにはできん」
「……お気持ちだけ、頂戴いたします……」

 以降、権次が呼べど待てど、謎の少女の声が返ってくることはなかった。





 ***





 久々に人里での法事を済ませた折のこと。白蓮は、喪主の家の門前で人間の檀家の一人からこう切りだされた。

「住職、面白い妖怪の話を耳にしましたよ」

 たったこれだけの言葉で関心を引けるのだから、この聖白蓮というのはちょろいものだ。本人としては「あら」などと気取ってみせたつもりだったが、どうしても頬が緩んでしまう。
 この人間が悪意を持った者ならやっかいなことになっていたかもしれない。だが、幸いなことに彼は普段から白蓮と懇意にしている善良な性質の人間であり、ただひとえに白蓮に喜んでもらえるだろうという思惑からこの話を始めたのだった。

「……病気を治す妖怪、ですか」

 檀家からひとわたりの話を聞き終えた白蓮は、興味深げに呟いた。

「ええ。今のところ特に悪さをするわけでもなく、それどころか人に益することを好んでやる性格のようなので、それほど警戒しなくても良いかと思っているのですが、なにぶん正体がよくわかっていなくて。妖怪にお詳しい住職ならその妖怪について何か知見があるのではないかと」
「なるほど。人を病気にする妖怪はごまんといますが、確かに病気を治す妖怪というのは珍しいですね。時に山伏や天狗が病気を治すこともありますが、それは加持祈祷の賜物でありますので、病を治す能力というのとは違う。本当に珍しい……ちょっと会ってみたいものですね」
「そうおっしゃると思いましたよ。最近では彼女の評判も上々なようでして、里の外れに放棄されていた小屋に住まわせてもらう代わりに里人の病気を治しているようですよ」

 白蓮が檀家から教わった場所に足を向けると、話のとおり、里から僅かばかり離れた場所に朽ちかけた小屋が一つ建っていた。どうやらくだんの妖怪の噂は里でも有名らしく、小屋の入り口から、老若男女がずらりと列をなしていた。列の最後尾にいた老婆に、ここに例の病気を治す妖怪が住んでいるのかと問うと、そうだと答えたので、白蓮は彼女の後ろについて並ぶことにした。
 やがて列が捌け、白蓮の順が回ってきたので、彼女は小屋の中にそろりと足を踏み入れた。見ると、ほんの二畳ほどの小さな小屋の壁際に床几が据え付けられており、そこに小さな妖怪がちょこんと座っていた。
 その姿を目に収めた途端、白蓮の瞼は裏返りそうなほど跳ね上がった。

「ヤマメさん!?」
「あっ……住職……」

 客の姿が命蓮寺住職のそれであると見るや、ヤマメはひどくよそよそしい様子で立ち上がり、お辞儀をしようとして白蓮の顎に頭をぶつけてしまった。声にならない悲鳴を上げたのはヤマメの方で、頭を抑えて蹲る。それを見た白蓮は慌てて彼女の傍らに跪き、わずかに逡巡した後、その頭部をさすってやった。逡巡したのはもちろん、病の感染を思慮しての事だった。
 ここで知り合いに会えるとは想像だにしていなかった白蓮は、困惑の色を隠さず問うた。

「……ここに人間の病気を治す妖怪がいると聞いたのですが、もしやヤマメさんだったのですか?」
「えっと……はい……たぶん、そうです……」

 白蓮の記憶が正しければ、土蜘蛛の黒谷ヤマメはここにいるはずのない妖怪だった。それには二つの理由がある。
 まず、彼女は地底を住処としている妖怪だ。地底は荒くれ者が集う場所で知られている。ことに、彼女のような土蜘蛛は、人間からするとかなりたちが悪い。本来ならば、彼女は人里にほど近いこのような場所にいるべきではない妖怪だった。
 そして、もう一つの理由。それを今まさに白蓮がヤマメに問いかけようとしていた。

「でも、ヤマメさんの本領は人間を病気にすることだったはずでは……」

 そこまで言って白蓮の心に不意に蔭が差した。白蓮の心胆を寒からしめるに足る、ある一つの可能性に思い当たったのだ。怨霊による憑依である。
 しかし、白蓮は即座にその考えを否定した。ありえないことだ。怨霊はおしなべて人間を含む他者を憎んでいる。他の存在に憑依するのも、肉体を手に入れることで現世に物理的な害を成したいという理由からだ。
 ひるがえって、目の前の妖怪の様子からはそのような邪悪な気配を微塵も感じない。それどころか、以前会った時には彼女から感じられたガツガツした生命力すらも、いまやなりを潜めている。その代わりというにはあまりに質量の少ない、瞬きの間に消え去りかねない儚さだけが彼女の周囲を漂っていた。
 いまだかつて一度も見せたこともない穏やかな微笑みと共に、ヤマメは白蓮を見上げた。

「はい、そのはずだったんですが、最近親切な妖怪に出会いまして……。たしか、『何でもひっくり返す程度の能力』とその妖怪は仰っていましたが、その力で、私の忌まわしい力を取り替えてもらったのです……」

 ――鬼人正邪か……。
 ヤマメのこの短い話から、白蓮はおおかたの状況を把握した。幻想郷のお尋ね者にして、史上稀なる叛逆者。あらゆる掟破りを繰り返し、幻想郷中の人妖の追及を逃れ続けているあの天邪鬼が、何らかの方法で彼女の正体をまるごと作り変えてしまったのだろう。能力だけでなく性格までも。
 新たに芽吹いた頭痛の種に、白蓮は嘆息せざるを得なかった。

「人を病気にする能力が逆転して、人の病気を治す能力に変わったと。そして、同時に貴女は性格も逆転したというわけですね。今の貴女は、以前とはまるで別の妖怪のようです」
「そうですね……。今にして思えば、私はなんて残虐な妖怪だったのだろうと思います。人間を食べるなんて……。鬼人正邪、でしたね。彼女には感謝しているんです。私、今、とても幸せです。優しい人間の方々に助けていただいて、こうして人間と交わって生活することができているんですから……」

 その発言に、白蓮は素直に頷くことができなかった。
 白蓮には、ヤマメが近い将来どのような末路をたどるのか、おおよその察しが既についていた。他者から与えられた変化は身につかないのが道理だ。正邪は道具の力を頼ってその場限りの力を弄んでいるだけだろう。そして、道具の力は、モノ由来であるかぎり有限だ。
 再び眼下の小さな妖怪を見やる。気弱そうではあるが純朴な視線が、おずおずと白蓮を見返してくる。
 彼女の変化は決して悪いものでないように見える。それだけに、この状態がそう長く保たないだろうことが、白蓮には残念で仕方なかった。
 一方のヤマメは、白蓮の心配をよそに、微笑みすら浮かべながら静かに言葉を継いだ。

「住職、私ね、いままではその日を楽しく生きられればいいやって、それくらいしか考えてこなかったんです。……でも、今は違う。今の私には、夢があるんです」
「夢?」

 白蓮の胸の裡に、期待とも不安ともわからない何かが首をもたげていた。性格の反転したヤマメの遠慮がちなしぐさや弱々しい声は、あんばいよく白蓮の保護欲をくすぐったようだった。白蓮は自分の心の中で、彼女への好意が無視できないほど大きく萌え芽生えていくのを感じ取っていた。
 ヤマメはほんの僅かに頬を紅く染め、ひとしきりもじもじしたのち、あたかも内気な子供が誕生日に欲しいものを親に告げるような風情で呟いた。

「……笑わないでくださいね。……私、人間と友達になりたいんです」

 控えめに瞳を輝かせてそう語るヤマメの姿を見た瞬間、白蓮の頭の奥で何かがプツリとちぎれる音がした。
 一瞬の前後不覚ののち、気づいたときには、白蓮はヤマメの手を両手で握り、今にも抱きしめんばかりの勢いで彼女に身を寄せていた。

「……素敵な夢だと思います。私にもその夢のお手伝いをさせてください……! ヤマメさん、貴女は今、毎日地底からここまで通っているのですか?」
「えっ……? あっ……その……はい」

 突然の申し出に加えて矢継ぎ早に質問されたため、ヤマメは目を白黒させているうちに最初の申し出に答える機会も逸してしまった。あの押しの強い――悪く言えば図々しい性格だった頃のヤマメとは、性格がまるきり正反対だった。

「毎日あんな遠くから通うのは大変でしょう。よければ、私の寺においでなさい。私の寺は人里の近くにあるから、貴女にとってなにかと都合がいいはずです」
「で、でも……」
「あ、心配しなくとも、べつに貴女を寺に勧誘しているわけではありませんよ。あくまで、居候として、ね。貴女が人間と友達でいたいと願う限り、いつまで居ても構いません」
「いえ、そうではなくて……あの、ご迷惑では……」
「貴女のような妖怪の為に立てた寺です。迷惑なんてとんでもない。歓迎しますよ」

 もとより白蓮は妖怪が好きで好きで仕方がなかったのだが、それと同じくらい、彼女は人間のことも愛していた。その思いが人妖の相互理解という理想につながっていったのは、自然な心の動きと言えるだろう。
 人間と妖怪の平和裏な共存――。
 彼女は人間に裏切られたとはいえ、今でもその理想を捨ててはいなかった。
 人と友達になりたいという今のヤマメの言葉は、まさに白蓮の理想そのものだったのだ。
 ヤマメはしばらくの間逡巡した様子だったが、やがて意を決したように白蓮に目を向け、それから深々と頭を垂れた。

「本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしますが、しばらくの間ご厄介になります……」





 ***





 人間に益する妖怪としてかつて里の一部で噂になっていた妖怪は、命蓮寺に拠点を移した結果、寺の在家信者などの中から生き仏と呼ぶ者が現れるほどの尊敬も集めつつあった。
 しかしながら、当の妖怪であるヤマメ自身は、そのような噂の存在に大きな関心を抱いてはいなかった。彼女にとって大切だったのは日々の一期一会であり、彼女の頭の中を埋めていたのは、より多くの人間と会ってみたいという思いだけだった。
 今、彼女の眼前には人里からやってきた親子が座っている。子供のほうが重い喘息を持っていて、その治療のために訪ねてきたのだ。子供は今まさに発作を起こしており、その喉奥から冬の隙間風のようなうつろな音を響かせていた。
 そこでヤマメが子供の方にいざり寄り、優しくその背を撫ぜると、子供の呼吸は徐々に穏やかなものに変わっていった。
 ヤマメにとっては朝飯前の労働だったが、人間の親の方はどうやらヤマメほど気軽ではなかったらしい。小庵の畳の上にひれ伏さんばかりの勢いで感謝しだしたので、ヤマメは慌てて遠慮してみせた。人間との間に上下関係を持ちたくなかったのだ。
 気恥ずかしさを誤魔化すように、ヤマメは子供の方に微笑んだ。

「さっちゃん、だいぶん顔色がよくなってきたね」
「えへ……」

 このサチという名の人間の少女とその親は、既に幾度かヤマメの世話になっていた。最初の頃は相手が妖怪ということで、二人共全身をこわばらせていたものだ。だが、今は随分慣れてくれているようで、ヤマメの愛想にも笑顔を返すまでになっている。
 ヤマメは、この人間の笑顔というものが格別好きだった。好意の交換手段として、これほど繊細でこれほど多幸感を促すものは他にないとさえ思っていた。
 だからかは知れないが、屈託のない笑顔を見せてくれる子供の方に比べると、なかなか笑顔を見せてくれない親の方をヤマメは少し苦手にしていた。
 その親の方は今、額に汗しながらやっとのことで感謝の言葉を吐き出している。

「貴女のところに通い始めてから、この子の喘息もだいぶん良くなってきて……。本当に感謝の言葉もありません……」
「良いんです……私にはこれしかできないんですから」

 平身低頭する人間の女の姿に、ヤマメは内心わずかばかり落胆していた。
 何に対してか。その距離感にだ。
 人間と友達になるのが夢だと住職には宣言してみせたものの、やはり妖怪と人間の間には埋めがたい溝があるのだとヤマメは考えていた。
 そんなヤマメの憂鬱を知ってか知らずか、子供の方がふいにその饅頭のような手をヤマメの方に差し出してきた。手首が返され指が開かれると、その楓の葉のような掌の上に、小さな硝子の小片が数個載っていた。

「これは何?」ヤマメが問う。

「……これはおはじきっていうの。いつものお礼がしたくて……」

 サチは細い声でそう呟いた。彼女は内向的な上無口な性質で、これでも今日は多弁な方だった。
 サチの掌から硝子片を拾い上げると、ヤマメはそれを窓から差す光に透かせて眺めた。
 ヤマメの指の間から色づいた光が流れ落ちてくる。甘い若葉の色の奥に、空色が薄く漂っていた。
 それは春の光を思い起こさせるものだった。

「ああ……綺麗……。ありがとう」

 親の方が、何か言いかけて口をつぐんだ。おそらく、このおはじきはこの娘にとって大切なものなのだろう。喘息持ちで篭りがちな子供にとっての数少ない娯楽がおはじきだったのかもしれない。
 人間から譲ってもらった宝物をその手に握りしめると、手の中からじんわりと温度が伝わってヤマメの身体中を満たしていった。
 自然と頬がほころぶ。すると、サチの方もヤマメの笑顔につられて柔らかく笑んだ。
 ヤマメは人間が好きだった。特に、人間の笑顔が大好きだった。その笑顔が見たくて、人間と関わっていると言っても過言ではなかった。
 ましてや、喜びの共感の中で生まれた笑顔はこの上ない。
 だものだから、彼女は今、とろとろとやさしい無上の幸福の中に浮かぶ泡のようになっていた。
 しかし、彼女がその幸せを十分に味わういとまはなかった。新たな厄介事がヤマメの小庵に転がり込んできたのだ。
 人間の親子と会話をしている最中、小庵の外から聞こえる切羽詰まった声がヤマメの耳を煩わせていた。それがしばらくすると、声の主らしき者の忙しない足音がこの小庵めがけて近づいてきた。
 果たして新しい客人は猛烈な勢いで玄関の戸を叩きつつ、戸の外から声を張り上げた。

「すみません! すみません、こちらにヤマメさんという方はいらっしゃいますか!?」

 声は若い娘のそれだった。彼女はどうやら最低限の礼儀はわきまえているようで、いきなり玄関の戸を引き開けて小庵に踊り込むような真似こそしなかった。しかし同時に、それ以上の気遣いができないほどには追い詰められているようだった。
 おそらく新たな患者が来たのだろう。先客である人間の母親は、即座に状況を察した。彼女はヤマメにもう一度感謝の言葉を告げると子供の手を引き、小庵から辞するために玄関の戸を開けた。
 戸の外に立っていたのは、年の頃にして十五にも満たない程度の少女だった。走ってここまでやってきたらしく肩で大きく息をしており、大量に吹き出した汗により額に髪の束が張り付いていた。
 余程差し迫っているのか、その表情には鬼気迫るものがあった。
 彼女は女を見上げると、だしぬけに叫んだ。

「どんな病気も治すって本当ですか!?」

 目的の相手を履き違えている。母親はたじろいで身を引いた。

「い、いえ、私は里の人間です。先生はあちらに……」

 女の指し示す先で、ヤマメは泰然と座ったまま両手を広げて見せていた。相手を落ち着かせることが第一と考え、彼女は穏やかな微笑みを見せて自分の膝下を指差した。

「ご病気ですか? では、どうぞこちらに横になってください。すぐに治して差し上げますから……」
「あっ、病気なのは私じゃなくて、その、私の友達の方なんです」
「……?」
「ごめんなさい! 失礼とは思いますが、とにかく私と一緒に来てほしいんです! こうしている間にも彼女は……」

 そう言って、少女は口ごもった。その様子はまるで、口に出してそれが現実になることを恐れているようだった。
 おそらく危篤の病人がいるのだろう。
 ヤマメは無言で頷くと走るように立ち上がり、その友人の元に案内するよう少女に目で促した。





 ***





 少女が自らの名を本居小鈴と名乗ったのは、危篤の友人である稗田阿求がヤマメの施術の甲斐あって峠を越えた後だった。
 阿求はいまや小鈴とヤマメが見守るなか、ごく穏やかな寝息を立てていた。この部屋に上がった当初とは打って変わって顔色に生気もある。ひとまずは安心しても良さそうだった。
 ヤマメの見立てでは、病原自体は悪性のものではなかった。だが、阿求の容体に関しては、今まで看てきたどの患者よりも重篤だった。それはつまり、この稗田阿求という娘の体力が常人より並外れて低いことを意味していた。
 たとえこの場で難を逃れたところで、別の病原に冒されれば元の木阿弥になってしまう。こんな虚弱な人間が今までよく生きてこられたものだと、ヤマメはそのことが不思議に思えた。
 この疑問については小鈴が説明してくれた。

「いつもは竹林の医者から色々な薬を貰っていて、それで病気を予防しているらしいの。でも、今はその医者、別件で忙しいらしくて……」

 ――危篤の患者の相手もしないくせに、なぜ医者などやっているのだろう。ヤマメの腹の底で、小さな怒りが首をもたげた。
 しかし、その怒りは大きく成長することなく霧散した。患者に変化が見えたからだ。
 小鈴が、あっ、と短く叫んだ。寝床に視線を落とすと、糸のように細く閉じられていた阿求の瞼が、今まさに開こうとしていた。

「阿求! 阿求、わかる!? 私、私よ、小鈴よ!」
「……こすず……」

 阿求の喉の奥からかすれた声が漏れた。その声は、友人を認識したために発せられたというよりは、単に小鈴の言葉をおうむ返しにしただけのようだった。
 薄く開かれた瞼の奥で、黒い瞳が焦点を定めることなく彷徨っている。目が覚めたばかりで意識がはっきりしていないのだろう。
 取り乱す小鈴とは対照的に、ヤマメは黙して動かなかった。今はただひたすら、患者の意識がはっきりするまで待つしかない。数多くの人間の治療をしていくうちに、彼女の内には自分の仕事に対する確たる自信が蓄積しつつあった。
 阿求が意識を回復するまで、さほどの時間はかからなかった。彼女は何度か目をしばたたかせると、枕の上で首を動かし、輝きの戻った瞳で小鈴を見た。そして、今度こそはっきりと呼びかけるようにその友の名を呼んだ。

「小鈴」

 歓喜と安堵がないまぜになった不思議な悲鳴をあげて、小鈴は阿求にすがりついた。次いで罵倒だか祝福だかよくわからない言葉が彼女の小さな唇の奥から吐き出された。親友の目まぐるしい感情の変化を、阿求は苦笑しつつ受け入れた。

「小鈴。心配させてしまって、ごめんね」

 阿求からそんな言葉をかけられつつ、背を撫でられ髪を撫でられた末に、小鈴はようやっと落ち着きを取り戻したようだった。
 彼女は「そうだ」と小声でつぶやいた後、震える手を離れたところに座るヤマメに向けた。

「あ、あの……あの方が、あんたを救ってくれたのよ。見える? あの方が居なかったら、あんた、ほんとに……」
「あら、それは……」

 恩人の姿を視界に収めようと首をめぐらせたその瞬間、阿求の表情が一変した。
 彼女は勢い込んで上体を起こすと、ヤマメの姿を直視した。そしてすぐ、その視線を小鈴の方に滑らせた。
 ヤマメを見据えた時の阿求の面持ちは、はっきりとこわばっていた。対して、今小鈴を見る阿求の瞳の中には、明らかに怒りの色が差していた。
 この後の展開はヤマメにも容易に想像できた。すくなくとも、愉快で穏便なものにはなりそうもない。ヤマメは心のなかで密かにため息をついた。

「阿求、まだ起きちゃダメよ!」
「小鈴! あんた……!」

 床に押し戻そうとする小鈴の腕を払って、阿求は叫んだ。

「あんた、何故妖怪と一緒にいるの!」

 悲痛な声だった。

「な、何故って……あんたを治すために決まってるじゃない! 彼女は……」
「小鈴、まさか、貴女妖怪と取引したの!?」

 凄まじい剣幕で阿求が言葉を被せる。小鈴の目つきがにわかに険しくなった。こうなったらもう売り言葉に買い言葉である。

「そうよ! 彼女ならあんたの命を救えるんじゃないかって思って。だから、無理言って、わざわざここまで来てもらったの!」

 そう言って得意気に胸を張る小鈴を、阿求は一喝した。

「バカ! あんた、何を考えているの! 人間の方から妖怪に取引を持ちかけるなんて!」
「どうして!? あんただって、たくさんの妖怪と関わっているじゃない! いまさら、私が妖怪と取引しようが……」
「私はあんたと違って特別な義務を負っているのよ! あんたには、普通の人間として幸せな人生を送る権利があるの! 何故あんたはそれを自分から捨てようとするのよ! あんた……あんた、私の気持ち分からないの!? 私はあんたが心配だから……」
「あんたこそ……っ、……ううん、もういい!」

 言いかけた言葉を飲み込んで、小鈴は猛然と立ち上がった。彼女はそのまま阿求に背を向けると、一顧だにせず部屋を出て行った。
 部屋には阿求とヤマメの二名ばかりが取り残された。静寂が場に満ちるにつれ、気まずさがいや増す。
 阿求の妖怪に関する発言を、ヤマメはとりたてて気にしていなかった。言ってしまえば、この手の状況には既に慣れきっていた。数えきれないほどの人間を治療していく中で、不愉快な経験も数えきれないほどしてきた。
 招かれて人里に足を伸ばしたのに、妖怪だと知れた途端、怯えて戸口に閂をかけられたりした。
 治療され意識を取り戻した患者から、あしざまに罵られたこともあった。
 だが、そのような仕打ちを受けてもなお、ヤマメが人間を嫌いになることはなかった。これらの行動は、全て先入観や思い込みから来るものだと、ヤマメはちゃんと理解していたのだ。
 ならば成すことは簡単だ。時間をかけて、自分が何者かを、自分の行動を通して伝えてゆくだけでいい。そうしていくうちに、少しずつ誤解が解けていけばいい。ヤマメはそう考えていた。
 ヤマメは先ほどのお返しとばかりに、阿求に対して真っ直ぐな視線を向けた。この稗田阿求という娘はどうやら、妖怪に多少の理解があるらしい。そして、妖怪と人との関わり方に神経質にならざるをえない立場でもあるようだった。
 阿求はヤマメの正視から逃れるように目を伏せた。その表情から本心を読み取ることはついにできなかった。人間の心は想像以上に複雑に出来ている。それはヤマメも重々承知していた。
 いずれにせよ、あれだけ元気に口論できれば、もう具合の心配をする必要はないだろう。ヤマメはそう考え、早々にこの場を退散することにした。彼女は阿求に向けて一つおじぎをすると、いそいそと立ち上がった。
 部屋から出ようとするヤマメの背中に、阿求の弱々しい声が届いた。

「……。助けていただいて、ありがとうございました。でも、もうあの娘とは関わらないで。ご存知とは思いますが、人間と妖怪は、敵同士でなければいけないんです。少なくとも、この幻想郷では……」

 ヤマメは、今聞いた言葉を即刻忘却の淵に放り捨てることにした。
 感謝など不要だった。能力があるから、それを行使したまでのことだ。
 そして、あの小鈴という娘とは、きっとこれからも関係を保ち続けるだろう。
 彼女にはなにか、自分と響きあうものがある気がする。ヤマメは、ただ本当になんとなく、そんな気がしていた。





 ***





 稗田家の門を出たヤマメは、驚きとともに僅かに眼を見開いた。先ほど別れたはずの小鈴の姿を門前に認めたためだ。
 彼女はどうやらヤマメを待っていたようで、その姿に気づくや笑顔と共に駆け寄ってきた。

「ヤマメさん、今日は本当にありがとうございました!」

 小鈴はそう言って深々と頭を垂れた。それからぴょこんと身を起こすと、口の端を上げて微笑んだ。その笑顔はどこかぎこちない。しかし、それは無理も無いことだった。普段は里で暮らしている普通の人間なのだから、妖怪と相対して平静を保てる方が尋常ではない。
 一方のヤマメはというと、実際のところ人間の笑顔の微妙な機微を正確に識別できていなかった。なので、彼女は小鈴の笑顔を見て、それを素直に友好の印として受け止めた。

「あっ、いえ……どういたしまして」

 まさか向こうから話しかけてくれるなどと思っても居なかったので、ヤマメは少しだけ気圧されてしまった。彼女は小鈴につられてぺこりとお辞儀をしてみせた。
 そのヤマメの物腰が緊張を解いたのか、小鈴の表情の中に安堵の色が広がった。また、同時に舌も滑らかになったらしい。彼女は口を開くと興奮気味に話し始めた。

「本当に、私ったら失礼でしたよね。いきなり押しかけていって、説明もあまりしなくて……。でも、あの時はなりふり構っていられなくて……。本当に、あの子死んじゃうんじゃないかって……。でもでも、貴女がいい人で本当に良かったわ〜。あっ、ごめんなさい、人……じゃないですよね!」

 元気よく一人でまくし立てる小鈴を、ヤマメはしばし呆気にとられて見つめていた。それから、ふと懸念していたことを思い出し、彼女は小鈴に尋ねた。

「あ、あの、それより……良いんですか?」

 ヤマメはやや緊張した面持ちで、ちらと門の方を見た。先ほどの小鈴と阿求の喧嘩別れのことを気にしていたのだ。
 すると、小鈴の表情がにわかに険しくなった。コロコロとよく表情の変わる子だな、とヤマメは思った。小鈴は頬をふくらますと、吐き捨てるように言った。

「いいのよ、あんなわからず屋!」

 隠すつもりもない苛立ちが小鈴の声を尖らせていた。彼女は拳を握り固め、わなわなと震えながら言葉を継いだ。

「阿求には御阿礼の子としての立場があるってことくらい、私にもわかってる。でも、立場なんかより命のほうがずっと大事なのに、あいつったら……私の気持ちなんか、何もわかってないんだわ……!」

 言葉の最後の方は、ほとんど涙声だった。小鈴は口をへの字に曲げて、泣きそうになるのを危うくこらえていた。
 彼女の態度は紛れもなく、阿求に対する動かし難い友情の裏返しだった。大切な友達だからこそ、失いたくない。その気持が、彼女を激情に駆り立てていたのだ。
 ――羨ましいな……。
 ヤマメの小さな胸の奥が、刺すような痛みと共に疼いた。

(だめだ、私、嫉妬してる……)

 自分の内に育ちつつある感情を、ヤマメは手早く腑分けした。
 嫉妬についてはその道の大家を知っているが、一利はあれど百害誘う感情である。ヤマメは自らの心の中からその鈍色の感情を追いだそうと試みた。
 彼女は控えめな笑顔を作り、激する少女を落ち着かせるため言葉を選んだ。

「……大切なご友人なんですね。話されている感じから、それがよくわかります」

 語尾が若干震えてしまったが、どうやら小鈴には気づかれなかったようだ。彼女はヤマメの言葉にさっと頬を染め、そしてその顔を隠すようにそっぽを向いた。

「腐れ縁ですよ……!」

 うそぶく小鈴の声の奥には、まんざらでもないという響きが感じとれた。その様子がまたヤマメの胸を締めつけたが、これも小鈴に悟られることはなかった。
 小鈴は気を取り直すように笑顔を作り直すと、さりげなく話題を変えた。

「それより、ヤマメさんはどうして人間の病気を治しているんですか?」
「最初のきっかけは、人間に助けられたから、その恩返しがしたくて……。私、これしか取り柄がないので……。でも今は、純粋に人と触れ合うのが楽しみで……。私、もっと人間と仲良くなれたらなあって思ってるんです」
「そ、そうなんですか……!」

 小鈴は神妙な面持ちでヤマメの話にうなずいていた。それから彼女は胸に手をやり、わずかに逡巡した後、何かを腹に決めたようにもう一度ほんの小さくうなずいた。
 彼女はヤマメに触れるほどのところまで近づくと、人目をはばかるように一度周囲に目を配った。そうして周りに人の居ないことを確認すると、彼女は小声でこう囁いた。

「実を言うと、私も妖怪ともっと仲良くなれたらいいなって思ってたんです……!」
「えっ……本当ですか!?」

 小鈴の言葉に、ヤマメは思わず身を乗り出して聞き返していた。しかし、その所作が若干ながら不用意だったので、ヤマメは危うく鼻の頭を小鈴の顔にぶつけそうになってしまった。
 ヤマメは山茶花もかくやというほど赤面し、口の中で謝罪の言葉をささやきながら、もじもじと後じさった。引っ込み思案な性根が出たらしい。
 その一方で、ヤマメは心の中で密かに小躍りしていた。やはり自分の見立てに狂いはなかった、と。
 状況が状況だったとは言え、小鈴は出会った当初から妖怪に対しても物怖じせずに交渉してみせていた。さらに、彼女が妖怪との関係を築きたいと思っていることも、阿求との会話から察せられた。
 そして何より、これが一番重要なのだが、彼女からはそこはかとなく妖怪の好む『におい』が香ったのだ。それがヤマメをいやおうなく惹きつけていた。
 その『におい』の正体は実際のところ、彼女の所有する大量の妖魔本から放たれた妖気だった。長いこと妖魔本に囲まれて生活するうち、その妖気が彼女の身体に染み付いてしまったのだ。だが、さすがにそのような事情をヤマメが知る由もなかった。
 ヤマメは、無意識のうちに誤解していたのだ。小鈴の普段の交友関係の中に妖怪の存在が混じっているのではないかと。この『におい』は、そうした交わりの中で燻らせたものなのではないかと。
 しかし、小鈴が次に続けた言葉は、そんなヤマメの希望を若干ながら曇らせた。

「でも、やっぱり難しいかなって最近思ってて……。ヤマメさんは違うかもしれませんけど、妖怪の中には人を食べたり傷つけたりするのもいますし……。そういう輩がいると、どうしても心の底からは信用できなくなるんですよね……。笑顔で近づいてきても、本当は違うことが目的なんじゃないかって疑ってしまったり……。頑張っても知り合いくらいにしかなれないのかなって……」
「…………」

 ヤマメは落胆を隠せず、口をへの字に曲げた。人間の心の中から決して除くことのできない、妖怪に対する心の壁。その存在が、今小鈴の口からほのめかされたのだ。
 同族同士だからこそ築き上げることのできる絆というものがある。無償の気遣いや、無条件の信頼。小鈴と阿求の足元には、そうした類の確固たる礎が横たわっているのだろう。
 そこに他者の立ち入る隙はない。ましてや、異種たる妖怪などが――。
 耳の奥に、先ほどの阿求の声が響く。
 ――人間と妖怪は……。

「……人間と妖怪は、友達にはなれないんでしょうか……?」

 ヤマメは我知らず呟いていた。

「えっ?」
「人間と妖怪は……」

 独語するように呟いた後、ヤマメはその言葉の呪縛から逃れるように頭を振った。
 あれは、信じてはいけない言葉なのだ。少なくとも、ヤマメがその夢を追いかける限りは。
 彼女はうつむき加減になりながら、ほとんど呻くような声で言葉を絞り出した。

「あのご友人……阿求さんがおっしゃっていました。人間と妖怪は敵同士だって。でも、私はそんなことないと思うんです……!」

 自分自身が放った言葉だったが、思いがけずそれはヤマメの心を奮い起こした。彼女は毅然として顔を上げると、おし固めるような強い語調で物言った。

「人間と妖怪だって、きっと分かり合えるし、友達にだってなれると思うんです!」

 己の理想を臆面なく吐露する妖怪の姿を目の当たりにしても、小鈴は笑わなかった。ヤマメはなおも続ける。

「もちろん、妖怪が信用出来ない気持ちもわかります。妖怪というのは、本来人間の敵だということも……。でも、どんなことにだって例外はあります」

 小鈴は丁寧にうなずきながら、ヤマメの言葉に耳を傾けていた。その真摯な姿勢に、ヤマメはすっかり心を動かされてしまった。じいんと全身に熱い血がめぐるのを感じながら、ヤマメは一つの思いを胸に定めた。
 言ってしまおう。今。ここしかない。

「た、たとえば、私だって、貴女と、友達になれるかも知れませんし……」

 なけなしの勇気を振り絞って出した声は、自身で驚いてしまうほど震えていた。
 しかしながら、ヤマメが本当に伝えたかった言葉は、喉元に引っかかって出てこなかった。
 こんな弱い言葉では伝わらない。いま一歩踏み出した言葉でなければ。
 心臓が早鐘を打ち始めた。頭の中をぐるぐると、色々な想念が駆け巡る。
 何かおかしなことを口走りはしないか? これを言ったら、この子は気を悪くするのでは? ここで会話を切り上げて退散した方が良いのでは?
 急に周囲の空気が冷たくなったように感じられた。膝が笑う。歯の根が合わない。唇が、抑えがたくわななく。心臓の音だけが妙に大きく耳に響く。前後不覚。思考が定まらない。到底まともではない。その自覚はあった。
 それでもヤマメは、欠くことのできない最後のひと押しを、逃げずに果たした。

「と……友達に、なってくれませんか……? 私と……」

 ――。
 小鈴は戸惑った様子で眼を泳がせていた。至極当然のことだった。

「妖怪と、友達に」

 彼女は口の中で、ヤマメの言葉を客観的な言葉で言い直した。これに対してヤマメは首を横に振る。

「私と、友達に、です」

 小鈴は自分のつま先に眼を落として押し黙った。
 やがて、彼女は消え入りそうなかすれ声で呟いた。

「……里の人が知ったら、なんて言われるか……」

 ヤマメはさらなる言葉を口に出しかけて、やめた。
 小鈴のぐるりには彼女が今まで過ごしてきた日常がある。妖怪と友達になったとあればその状況はいずれ醜聞に変わり、彼女の日常を少なからず破壊することになるだろう。そんなことは、ヤマメの望みではなかった。
 だが、小鈴ならそのような問題も意に介さず、快諾してくれるかもしれないという淡い期待があったのだ。その期待にヤマメは賭けた。そして――。
 性急過ぎた。ただそれだけだった。

「そう……ですよね……」

 なんとなく物分りの良さそうな返事を、ヤマメはやっとのことで吐き出した。
 ヤマメはこの結果を、無論想像していないわけではなかった。むしろ、こうなる可能性の方が高いだろうとは思っていた。
 が、彼女の心がこうむった落胆は、想定外に大きかったらしい。
 心構えの暇もなければ、我慢の暇もなかった。感情の大きな揺り戻しが津波のように一瞬でヤマメの心を飲み込んでいった。
 瞼の縁から大粒の涙がこぼれ落ちた。気づいたヤマメは、慌てて頬を拭った。しかし、涙は後から後から溢れてくる。しまいには喉の奥から嗚咽まで漏れ始めた。

「ご、ごめんなさい……! ごめんなさい……」

 こんな醜態を晒していては、小鈴に気まずい思いをさせてしまう。ヤマメは何度も何度も謝罪の言葉を吐きながら、その場を立ち去ろうとした。
 ヤマメはきびすを返して駆け出そうとした。ところが、その袖を、小鈴がはしと掴んでいた。

「あのっ! 待ってください!」

 小鈴が短く叫ぶ。だがその口から二の句が続かなかった。考えるより先に手が出たらしい。小鈴は刹那、続く言葉を探して眼を泳がせたが、すぐに妙案をひらめいたようで眼を輝かせた。

「ヤマメさんは今、そう、命蓮寺にいるんですよね? あそこなら、人里じゃないし……。私の方から遊びに行くくらいなら……! うん、きっと、大丈夫だと思うっ!」
「……いえ……哀れみや同情で無理をさせてしまっては、悪いです……。本当に、ごめんなさい」
「そんな、哀れみなんかじゃないんです! ただ、私に勇気がなくて……。いきなりで、びっくりしてしまったんです」

 ヤマメはかぶりをふった。涙を見せてしまったら、そこでおしまいなのだ。たとえ相手が否定していても、心の何処かには負い目を与えているかもしれない。
 しかし、小鈴は引き下がらなかった。ヤマメの袖を掴む手に力が入る。

「私の言った言葉が気になっているんでしょう? ……そりゃ、妖怪は怖いですよ。それ以上に、人の噂も怖いですよ! でも……!」

 小鈴はそこで一度つばを飲み込んだ。

「でも、ヤマメさんとなら大丈夫ですよ! 話してみてわかりました! なれますよ、私たち、友達に!」

 理屈もへったくれもなくがむしゃらに話す小鈴の手を、ヤマメは静かに握った。この人間の少女の思いやりに感謝の気持ちを込めて。
 それから、その手を自分の袖口からそっと引き離した。
 ヤマメは深くお辞儀をすると、小鈴に背を向け逃げるように駆け出した。
 走り去るヤマメの背中に向かって、喉がはちきれんばかりの大声で小鈴が叫んだ。

「私は本気ですよ、ヤマメさん!」

 ヤマメの耳にその声は届いていた。しかし、彼女はもう振り返らなかった。





 ***





 ヤマメが御阿礼の子の命を救ったという話は、彼女の武勇伝の一つに加えられた。
 ヤマメは『病を治す』という自らの能力を行使するにあたって、これまで一切の見返りも求めなかった。
 人間は現金なもので、ただで貰えるものは犬の毛でもとりあえずは懐に収めるという習性をもっている。そして、それが彼らにとって価値の無いものだとわかれば、往来に放り捨てて意識の中から即刻排除しようとする。
 果たしてご多分に漏れず、ヤマメの評判がいや増すにつれ、しようもない理由で彼女を訪ねる人間も増えた。高血圧で頭痛に悩まされているなどというのは全くましな方で、やれ小指を箪笥にぶつけたから治せだの、やれ鼻の形をよろしく変えてくれだの、そういう手合がヤマメの客の中に混ざり始め、その数は日に日に増えていった。
 ヤマメはそうした人間の俗っぽい振る舞いについて、これといって悪感情を抱いてはいなかった。その一方で、彼女には別の心配事があった。彼らのような軽微な症状の人間を相手している間に、本当に重大な病を抱える人間の治療が遅れてしまうのではないか。ヤマメにとってはそちらの方が気がかりだった。
 そんなヤマメの心配は正鵠を得たものだったが、ある者の助力により、問題が表面化する前に杞憂に化けた。
 化けるといえばこの妖怪の十八番である。

「おう、こいつか、噂のなんとやらは」

 化け狸の二ッ岩マミゾウは、命蓮寺境内の一角に尋常でない長蛇の列が生じているのを見て、呟いた。
 彼女がわざわざここまで足を運んだことには、単なる好奇心ではなくそれなりの理由があった。噂のヤマメに用があったのだ。

「おや、あんた土蜘蛛かい」

 小庵に足を踏み入れたマミゾウは、部屋の奥に鎮座する妖怪の正体を一瞥にして喝破した。
 他方、ヤマメはこの不躾な訪問者に目を丸くすることしかできないでいた。しかしながら、と彼女は考える。一目で己の正体を暴くほどの者だ、ひとかどの妖怪であろうことは想像に難くない。彼女は上目遣いでマミゾウを見上げつつ、おずおずと尋ねた。

「あ、あの……貴方様は……?」
「ふむ? 『あなたさま』とはまた、土蜘蛛にしてはずいぶんとしおらしいもんじゃな。わしの知っとる土蜘蛛は、もっとこう、図々しくて根拠の無い自信に満ち溢れとったもんじゃが」
「あの……」
「いや、すまんの、独り言じゃ。わしは二ッ岩マミゾウといってな、ここでは化け狸どものまとめ役をやっとる」
「二ッ岩! もしや、佐渡の二ッ岩様でございますか……?」
「いかにも、それじゃよ」
「さ、左様ですか……。お噂はかねがね……」

 妖怪狸の正体を知るや、ヤマメはひたすらに恐れ入って身を縮め、畳の上に両手を衝いた。その様子を見て、マミゾウは首をかしげた。
 ――やはりどうもおかしい。この妖怪、姿形は土蜘蛛だが、中身は全く別物のように見える。

「それで、本日はどのような……」
「……ん? うん。いやさ、お主の噂を方々で耳にしとってな。ちょっと様子を見に来たんじゃ。お主、人間の病気を治しとるそうだが、本当かい?」
「は、はい……」
「ほうほう、そりゃあまたなぜ」
「私は『病気を治す能力』を持っています。その能力を活かし、人里の人間と友好を深めることができればと思い、こうして日々精進しております」
「それはまた殊勝な心がけじゃが、しかし解せぬのう。土蜘蛛は元来人間に害なす存在だったはず。種の気質に反する行動を取るというのはいささか不可思議に感じるな」
「人間にも妖怪の味方になるものと仇なす者がいるでしょう。妖怪とてそれは同じではないかと……」
「ふむ……」

 ヤマメの答えに対し、マミゾウはとりたてて反論することもなく口を結んだ。
 人間と妖怪は敵同士、というのが、幻想郷での建前ではある。しかし、建前はしょせん建前。現実には、人間と妖怪の間に生ぬるい交流が連綿と続いているのだ。
 この幻想郷は種々雑多な妖怪の集まる場所だ。中には彼女のような変わり種の一匹や二匹うろついていても不思議なことではないのかもしれない。いかんせん、彼女はまだ幻想郷では新参者であり、ここでの常識というものをあまりわきまえていないという自覚があったのだ。

「……まあ、いいじゃろ。この寺の住職はそれこそお主の言う妖怪に味方する元人間なわけじゃし、お主の考えはこの寺の方針と近しいものがあるのかもしれんな。そこを気にしても詮無いか」
「はあ……」
「しかし、じゃ」

 気の抜けたような返事をするヤマメの鼻先に、マミゾウは指先を突きつけた。

「おぬし、知っておるか? お主の行いによって、不利益を被っている人間もおることを」
「私の行いが、人間の不利益に……?」
「うむ。お主は善意で人の病を治しているのじゃろうが、その行いで知らず知らずのうちに迷惑を被っている人間もおるということじゃよ」
「そ、それは、どのような方でしょう……?」
「わからんか? まあ人間社会について疎かろうしな。――要は、人里の医者がお主の行いで食い上げているってことさ」
「あっ……」

 ヤマメは短く叫んで口元を抑えた。マミゾウの言うような事態を、彼女はまったくもって想定していなかったのだ。しかし、考えてみれば十分あり得ることである。ヤマメがすべての病気を治してしまえば、それまでその病気を看ていた医者の仕事はなくなってしまう。当然、人里の医者の間に不満も湧くことだろう。今までその不満が表出しなかったことが不思議なほどだ。
 頭の端になかったこととは言え、そして、たとえ悪意がなかったとしても、自らの行いの結果不幸せになる人間がいるというのは、ヤマメにとっては不本意な話だった。

「それは……申し訳ないことをしました。しかし、かといって私の元を訪れてくれる人間たちを無下に扱うわけにも参りません。私は、どうすればいいでしょう」

 不安げに尋ねるヤマメに対し、マミゾウは不敵な笑みをもって答えた。

「大丈夫じゃ、心配するな。わしはこの手のごたごたの示談には慣れとる。わしに任せれば、まあ万事うまくいくじゃろう」
「そ、それはそれは……。お力を貸していただけるなら感謝の言葉もありませんが、しかし、どうやって……?」
「そうじゃな、わしの力を借りるかどうかは、わしの策を聞いてからでも遅くはないじゃろうて。まあ聞くがいい――」

 マミゾウがヤマメに対して提案したのは、人間から対価を取ることだった。しかも、ただ対価を取るのではなく、症状の軽微な者ほど割高な料金をふっかけるというのだ。
 無論、ヤマメはこの提案に明らかな難色を示した。それまでの気弱な態度を引っ込め、彼女は毅然とマミゾウを睨みつけ言った。

「私が対価のために働いているような印象を持たれるのは心外です。私の目的は人間との友好が第一なのです。法外な対価を要求することで被る醜聞は、私の目的を著しく阻害するでしょう」
「それは話の持って行き方でどうとでもなろう。只より恐ろしいものはない。おぬしの行動は遅かれ早かれ、人間の疑心暗鬼を呼び起こすことになるじゃろうよ。なぜあの妖怪は見返りもなしに人間の手助けをしているのか、下心があるのではないか、とな」
「それは……そうかもしれませんが……」
「野次馬根性だけで大した病気でもないのに押しかけて、本当に困っている人間の邪魔をするような輩は、適当にあしらうのが一番じゃよ。おぬしは難しい病気だけを担当するとはっきり宣言してしまえばいいんじゃ。命に関わるような病気を持った人間を優先するために仕方なくこの価格設定にしたといえば、許さざるをえないのが人情というもんじゃろ」
「……そんなものでしょうか……」
「そうじゃよ。まあわしに任せておきなさい。万事うまくやってみせようて」

 マミゾウは片目を閉じて不敵に笑うと、いまだ釈然としない顔のヤマメを残して、颯爽とその場を立ち去った。
 実のところマミゾウは、人里の医者との間で事前に根回しをしていた。新しくやってきた商売敵から客を奪い返す妙案があるだのと舌も軽やかに交渉し、見事仲介役という立場を獲得したうえで、したたかにも彼らから仲介料をせしめていた。
 さらに、よりつまらない問題には、自分の部下の狸を人間の医者に化けさせて対応に当たらせた。当然、その狸からの上がりもマミゾウの懐に入った。
 誰にも損をさせず、かつ自分の懐も温める。さすがに二ッ岩を名乗るだけあって、凡百の妖怪とは一味違う働きぶりだった。
 ヤマメを訪れる人間の数が落ち着いてきた頃を見計らって、マミゾウはさらなる方針を提案した。
 定休日を設定すべきというのだ。これもまた、過当競争を防ぐために人里の医者との間で取り決めたことだった。
 この提案にもヤマメは大いに難色を示したが、すったもんだの末、結局最後にはヤマメが折れた。
 かくして、ヤマメは週に一日の頻度で休みを取ることになったのだった。





 ***





 早朝、小庵の畳の上で眼を覚ましたヤマメがあくびをしつつ外に出てみると、玄関の横に自分の身長を超える立て看板が立っていた。
 看板には猛々しい文字で『本日定休日』と大書してあった。一文字一文字がヤマメの顔より大きい。おそらくマミゾウがこしらえたものなのだろうが、なにもここまで大々的に宣言せずともよかろうにとヤマメは苦笑した。
 掲げた看板のおかげか、はたまたマミゾウが陰で喧伝したかは定かでないが、普段は人間たちで芋を洗うようだった小庵の周囲が今日に限って閑散としている。久々に境内の風景をゆっくりと眺めることができ、ヤマメは僅かばかり嬉しくなった。人間に囲まれて生きるのも良いが、こうして閑静な空間に一人でいるのもたまには良いものだ。
 空を見上げると、楠の葉の隙間から、群青が眼に飛び込んでくる。休みの日のためにあつらえたような好天だった。
 しかし、晴れていたところで特にどこかに出かける予定も用事もない。すぐにヤマメは手持ち無沙汰になった。彼女は寺から箒を借りると、小庵の周りをのんびり掃除し始めた。
 一陣の風が吹き、葉ずれの音が波のように押し寄せ引き去っていった。どこかの梢に小鳥が鳴いている。遠くに大工の釘打ちの音が聞こえる。
 乾いた土の臭がする。地底の湿った土の匂いとは僅かに違う。
 陽の光が、頬に柔らかく触れる。
 生きているという実感が、ヤマメの全身に満ちていた。
 ――私は、ここにいる。
 ふと、ヤマメはそう思った。
 彼女の思う『私』とは、人間を恋い焦がれ、彼らに尽くす奇癖を持った妖怪としての『私』だった。かつて地底で活計し、人間を食うことしか頭になかった黒谷ヤマメではない。その二つのヤマメの間に、魂の同一性は皆無だった。ただし、記憶だけは、まるで幻燈のごとくおぼろげに、かつての情景をヤマメの心に投影させていた。
 今ヤマメの五感が受け取っているもの――眼で見えているもの、耳で聞いている音、肌に感じる熱。その全て、どれをとっても明瞭極まりない。
 なのに、自分の魂は、過去からの連続性も確からしさも持たないまま、不明瞭な暗闇の中に漂っている。
 それが怖くてたまらず、今度は口に出して自分を確かめた。

「私は、ここに居ますよ……」

 言葉は寒風の中に虚しく混ざって消えた。
 と、そんなヤマメの言葉に応ずるかのように、軽妙洒脱な少女の声が風を切って飛んできた。

「はいはい、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、わたくし人里は鈴奈庵の本居小鈴と申す者。こたびは浮世の憂さ晴らし、夢の世界にご案内! とっておきの紙芝居、ひとつためしにご覧あれ!」
「……何をなさっているんですか、小鈴さん?」

 袖から手製と思われる紙人形を取り出して器用に動かす小鈴を見て、ヤマメはいぶかしげに首をひねった。小鈴はさも当然というふうに、「何って、見りゃ分かるでしょ。紙芝居ですよ」と答えた。

「……お客さん、誰も居ませんよ?」
「居るじゃないですか」

 小鈴は満面にこぼれるほどの笑顔をのせてそう答えた。
 ヤマメはなおも当惑した表情を見せていたが、対する小鈴の視線はあくまで優しかった。

「私も色々考えたんですけどね。でも、友達になるのに、理由なんてどうでもいいじゃないですか」
「……」
「私は、やっぱり、ヤマメさんと友達になりたいんです。一目見た時から、そう思ってたんです。だからその、結局のところ、とどのつまりは……」

 言葉の続きを探し出せず、小鈴は押し黙った。
 浮世に生きていると、目に見えない力を感じる時がある。分かれ道をどのように歩もうと、結局同じ場所に行き着いてしまうような、そんな不思議な力だ。
 今、ヤマメはまさに、その力のいざないを感じていた。どうしたところで、結局こうなる運命だったのだ。
 そう思った途端、感情の波が、どっとヤマメの心を押し流した。気づいたときには、ヤマメの頬には幾筋もの涙がこぼれ落ちていた。

「ごめんなさい……私、泣き虫で……。でも、嬉しくて……」

 突然の感情の奔流に自分でも驚いて、ヤマメは泣きながら笑ってしまった。
 小鈴も、それを見てくすぐったげに微笑んだ。
 あとはもう、頷くだけでいい。
 今度は、勇気など要らなかった。

「私も、小鈴さんと友達になりたいです……!」





 ***





 その夜、ヤマメは白蓮の部屋を訪ねた。
 白蓮はヤマメに対して常日頃から、どんなことでも遠慮せずに話してほしいと乞うていた。だが、ヤマメの方が遠慮して、今日までその機会が生じることはなかった。
 しかし、今日は違った。ヤマメが初めて手に入れた休日は、ヤマメに多くをもたらした。そしてそれらは、ヤマメの胸の中だけで捌ききるには若干量が多すぎた。

「住職……」

 ヤマメは座礼しつつ、たのみの相手を呼ぶ。
 部屋の中で白蓮住職は障子に背を向け座り、文机の上の巻物に目を落としていた。ヤマメの声を受けて、彼女は僅かに首を動かす。
 住職の姿をひと目見て、ヤマメはわずかに目を見開いた。彼女の羽織る袈裟には無数の弾痕が刻まれており、それに驚かされたのだ。十中八九、弾幕勝負でできたものだろう。
 忙しいという話は聞いていたが、昼に決斗、夜に勉学とはなかなか苛烈な生活をしているな、と、ヤマメはそんな風にぼんやり考えていた。
 白蓮が自分の方に向き直り、姿勢を正すのをヤマメは待った。そして、おもむろに口を開いた。

「私、もしかしたら友達ができるかもしれません。――人間の友達です」
「そう……」

 わずかに首を動かして、白蓮は頷く。驚いた様子はつゆほどもなかった。
 静かな問答が始まった。

「ヤマメさん、貴女は、人間が本当に好きなのですね」
「はい」
「怖くはありませんか? 人間から裏切られたり、傷つけられたりするかもしれませんよ……? 人間との友情を、真実のものだと信じることはできそうですか?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問には、白蓮の個人的な感情が多分に含まれていた。
 魔界に封じられて以降、白蓮は心から人間を信じることができないでいた。幻想郷に越してきて知人といえる人間こそ増えたものの、友人と呼べる人間は未だ一人としていなかったのだ。それというのも、千年以上前に人間から裏切られた記憶が、未だに白蓮の心の中にトラウマとして残っているからだった。
 そんな白蓮の個人的な事情を知ってか知らずか、ヤマメは瞼を伏せ、やや遠慮がちに答えた。

「……怖くないといえば、嘘になってしまいます。でも、裏切られることより、私が彼女の信頼を裏切ることの方がずっと怖いです。……誰かを裏切り傷つけるくらいなら、裏切られた方がずっとましです」
「……ずっとその人の友達でいたいと思いますか?」
「はい」
「しかし、ヤマメさん、貴女は……」
「そう長くは保たない……」

 言い淀む白蓮の言葉を、ヤマメが途中から引き取った。

「住職は、心配してくださっているのですね。私が元の妖怪に戻ってしまうことを……」
「気づいていましたか……」

 白蓮は眉間にしわを寄せ、痛ましげに両の瞼を深々と閉じた。
 鬼人正邪の能力の切れ目が、すなわちヤマメの命の切れ目。
 ヤマメと初めて出会った時点で、その懸念は白蓮の中にあった。しかし、よもやヤマメ自身がこうも早くそのことに気づくとは。
 一連の問答の中で、白蓮はひとつの確信を得るに至った。
 ――今、白蓮の目の前にいる小さく儚い妖怪こそ、彼女が長年夢見てきた理想の妖怪の姿なのだ。聡明で思慮深く、他者の不幸を嘆きその幸せを願う、彼女のような妖怪こそが。
 しかし、そんな理想の妖怪は、文字通り致命的な問題を抱えている。このまま術策を弄さず捨て置けば、同じような妖怪は二度と白蓮の前に現れないかもしれない。それが白蓮住職には惜しくてたまらなかった。
 だが、白蓮はかような胸中を露わにするようなことはせず、あくまで淡々と現状を説明し始めた。

「貴女の性質を今のように変えた原因であるあの鬼人正邪なのですが……。彼女の第二次討伐依頼が私のところに来ています。私のところに来ているということは、他の有力者たちのところにも来ているでしょう。遅かれ早かれ彼女は討たれる。そして、遅くともその時には、貴女は元の土蜘蛛ヤマメに戻ってしまうことでしょう」

 白蓮の話を聞いて、ヤマメは青ざめた。彼女が想像していた以上に、事態は差し迫っていたのだ。
 ヤマメは俯き、震える声で白蓮に尋ねた。

「……早晩消える定めとするなら、今の私はいったい何なのでしょうか……?」

 この質問こそ、ヤマメが今夜白蓮にどうしても訊いておきたいと思っていたことだった。彼女は言葉を続ける。

「今の私にとって、かつての私は、まるで夢の中の私のように思えるのです。地底の食人妖怪・黒谷ヤマメは本当に存在していたのか……。住職……私は……私でなくなることが怖いです。せっかく人間のお友達ができそうなのに……」

 自分が自分でなくなるということ。それは、つまるところ死ぬことと同じ。
 ヤマメは妖怪であるにも関わらず、今、死の恐怖に怯えているのだった。
 哀れな妖怪の質問を受け、白蓮は目元に気遣わしげな色をにじませつつ、彼女なりの答えを口にした。

「……かつてのヤマメさんが貴女にとっての夢だったのならば、今生きている私も、貴女も、夢のようなものなのかもしれません」
「夢……」

 握っていた手をヤマメが開くと、汗が掌をびっしょりと濡らしていた。ヤマメは虚ろな目で、その手をじっと見ていた。
 そしてやにわに彼女は何かを振り切るように顔を上げ、すがるような瞳で白蓮を見た。

「住職、私、自分のことを夢や幻だなんて思いたくないんです。私は確かにここにいるし、ちゃんと考えてちゃんと意思も持ってる……! 手で触れれば感触があるし、匂いを嗅げば香りを感じる……! なのに、この私の感じる全ては、幻だというのですか……!? それじゃあ、私は……。私は……!」

 ヤマメは言葉を切り、胸元を抑えて苦しそうに喘いだ。
 ――納得できない。
 死を前にしたヤマメの心を支配していたのは、命の理不尽さに対する苛立ちだった。
 今のままでは自身の存在が幻なのか否か、腹に落とす間もなく、この世から消滅してしまうことだろう。ヤマメには、それがどうしても我慢ならなかった。
 たとえ、自分の根拠が嘘や幻だと確定しているにしても、出来る限りあがいてみたかった。自分を確かなものに近づけてみたかった。
 己の中で、熱く滾るものがふつふつと沸き立ってくるのをヤマメは感じていた。それは、感情に起因する何かではない、純粋な生への欲望に他ならなかった。
 ヤマメは断然と顔をあげると、身の底から声を絞り出した。

「……私には、住職の言葉に納得することができません。……私は、私自身が夢や幻だなんて信じたくないです。私は、ただ、ひたすらに、自分を確かなものにしたい……!」

 切なる願いの声だった。
 それまで微動だにせずヤマメの様子を見守っていた白蓮は、その声を聞き、大きく頷いた。

「……本来妖怪というものは、人間がその存在を信じて初めて生じ、人間に存在を忘れられて初めて滅するものです。通常の妖怪であれば、人間によってその存在を信じられている限り、存在を保っていられる。しかし、貴女の発生は知っての通り元来の妖怪のそれとは異なるものです。……ですので確かなことは言えませんが――。貴女が妖怪としての確固たる足場を得るには、貴女を一個の妖怪として信じる人間の存在が不可欠になるかと思います」
「しかし、それでも正邪の能力が解ければ……」
「はい。結局元に戻る可能性が高い。貴女のその自我を、どうにか繋ぎとめることができないか、私も今文献を漁っているところなのです」

 ヤマメは、はっと息を飲んで白蓮の背後に視線を投げた。ヤマメが部屋にやってきたときに、白蓮は巻物を読んでいた。それは、ヤマメのためにしていたことなのだ。
 ヤマメの頬が、耳が、みるみる赤くなった。

「何もかもお見通しでしたか……。……私は、恥ずかしいです……私は住職のお役に立てないのに、住職のお力は借りようだなんて、虫の良いことを……」
「構いませんよ。貴女のような妖怪を助けるのも、私の役目ですからね。――それに」

 言葉を切って、白蓮は表情をふっと緩めた。あらゆる人妖を包み込むような、柔らかな表情だった。だが、その目には金剛によっても打ち崩しようのない、強い意志の光が宿っていた。
 彼女は静かに、しかし、確かな声で言った。

「貴女は信じていないかもしれませんが、貴女は誰よりも立派な妖怪になれる。私は、そう信じています。だから、私は私の信念に従って行動しているだけ。負い目に感じる必要などありませんよ」

 この夜の二人の問答は、これで終いとなった。





 ***





 白蓮との問答の結果ヤマメが得たものは、死への忌避感と生への強い欲求だった。
 しかし、生き死にを考えることは、あるいは、巨大な底なしの空洞を覗き続けるようなものなのかもしれない。今のヤマメにしてみると、そこに安らぎなどありはしない。ただ、虚無の冷たい風が胸中に吹き抜けるばかりだった。
 彼女はその虚無を振り切るため、翌日から身を粉にして働いた。働いている間は、目の前の問題だけで頭の中がいっぱいになる。それに、人間の笑顔を見たり、感謝の言葉を聞いたりすれば、幸せな気持ちでその小さな身がいっぱいになる。
 もしかすると彼女は、労働の中に生の実感を求めていたのかもしれない。
 そうやって充実した時間に満たされて眠る日々を送るうち、気づけば次の休日がやってきてしまった。
 ヤマメはその日起きてからしばらく、今日が休日であることを忘れていた。うきうきとした様子で身支度を整え、少庵の玄関を開けようとした瞬間、そういえば今日は客が来ない日だということを思い出した。そして大いに落胆した。ヤマメにとっては、日々の労働が何よりの幸福だったのだ。
 しかし、休みと決めたからにはその決め事は守らないといけない。ヤマメはすごすごと座敷に戻るしかなかった。
 さて、時間があるならば無為に過ごすべきではない。なにしろ残された時間は少ないのだ。
 鬼人正邪の術が解ければ、今のヤマメの意識は、消えてしまう可能性が高い。今後も自分を自分たらしめるためには、今の意識を残す手段を探す必要がある。
 ありがたいことに、白蓮住職がその手段を探ってくれているようだ。しかし、自分のことを他者任せにするというのは、ヤマメにしてみればどうにも気に入らなかった。
 ここは、自分でも情報を集めてみるべきだろう。
 ――そうだ、それが良い、是非そうしよう。ヤマメは大きく何度も頷くと、やる気に目を輝かせながらすっくと立ち上がった。
 その時、突然、小庵の外から激しく門を叩く音が聞こえてきた。小さなヤマメの心臓は、その音で一寸ほど飛び上がった。
 半ば目を回しながら玄関を開けてみると、そこに異様な光景が広がっていた。
 やってきたのは一組の男女だった。女の方は真っ青な顔をして、拳を振り上げている。扉を叩いていたのはこちらだ。
 そして、もう一人のほうなのだが、これが明らかにおかしい。両手を地面について逆立ちをしながら、膝頭をこちらに向けて立っている。男は憮然とした表情を逆さまにぶら下げ、下の方からヤマメの顔を覗き込んでいた。

「きっ、休日というのは、重々承知しているんですが、み、見ての通り、旦那がおかしくなっちまって……」

 女のほうが、ガタガタと震えながらそう訴えた。だが、男の方は半ば憤然と反駁した。逆立ちしたままで、だ。

「なに言ってやがる、おかしいのはお前の方じゃないか。ヤマメ先生。見ての通り、うちのかみさんがどうも錯乱しちまってるようで……すみませんが診てやってくれませんか」

 同時にやってきた二人の人間は、それぞれ相反する依頼をヤマメに突きつけていた。
 ヤマメは女の方に近寄り、小声で尋ねた。見た限り、こちらの方が比較的まともそうに思えたのだ。

「あの……私も不勉強でよくわかっていないのですが、人間というのはこういう歩き方もするものなのでしょうか……?」
「バカ言っちゃいけないよ。大道芸人だって普段は足使って歩くさ」
「ですよね……」

 ヤマメはしばし思案したのち、二人を小庵の中に招き入れた。
 休日ということで依頼を断ることもできたが、ヤマメはそうしなかった。心のなかで彼女は、人間と触れ合う口実ができたことを喜んでいたのだ。
 ヤマメは男の方をなだめすかしつつ、部屋の中央に敷かれた床に横たわらせた。そして、診る。というより、診ながら治す、というのが正確だった。彼女の掌には、人体に触れたそばからその病気の源を正常に戻す力があった。
 ひとしきり男の身体をまさぐったのち、ヤマメは小首をかしげた。

「……これは……」
「何か判るかい!?」
「い、いえ。これは、病気ではありませんね。旦那さんの身体はいたって正常です」

 詰め寄る女をゆるゆると押し返しつつ、ヤマメはそう説明した。当然、女はその説明に納得などしなかった。
 むしろ、確信を深めたように目を見開き、決めつけるようにこうつぶやいた。

「じゃあ、やっぱり頭が……」
「うーん……頭の方も正常に見えますね……」

 と、ヤマメ。すると、男の方が嬉々とした表情で床から起き上がり、女の方に指を突きつけながら喚いた。

「ほら見ろ! 俺はまともなんだ! さあ、次はお前が診てもらえ!」
「なんで私が診てもらわなきゃならんのさ!」
「おーい、今日は休日じゃとここに書かれとろうが」

 すわ、始まるか夫婦喧嘩、といったところに、都合良く次の来訪者が現れた。マミゾウである。
 彼女は玄関先に肘をもたせ掛けながら、もう一方の手で外にかかっている看板をキセルで叩いていた。無論、その姿は妖怪のそれではなく、人間に身をやつしている。
 ヤマメは慌てて立ち上がり、マミゾウを出迎えた。

「す、すみません……でも、緊急の患者さんがいらっしゃいまして……」
「ふむ?」

 マミゾウは、ヤマメの背後の人間らを見た。彼らは今しも第一ラウンドを始めんばかりだ。片や立ち姿で腕を構え、片や床に寝そべりながら蹴り上げの体制を取っている。やや昔、マミゾウはその様子を外の世界のテレビで見たことがあったが、今はどうでも良い話である。
 妖怪狸の大親分は、問題の本質を一瞥のうちに見切った。

「いや、これは病気ではないな。妖怪の仕業じゃよ」

 言って、マミゾウはキセルをふかす。言われて、ヤマメも気がついた。あっと息を呑み、口元を抑える。
 ――鬼人正邪の仕業だ。
 ついに、彼女は人間にまで手を出し始めたのだ。
 ヤマメは、男の方に再び目を向けた。彼は器用に両手を使って身を跳ね起こし、畳の上に逆立ちしていた。
 この程度の変化ならば、たちの悪いイタズラといえなくもない。しかし、正邪には、少なくとも、妖怪の性質まで逆転させる力がある。それが人間に行使されたらどうなるだろう? あるいは、もっと恐ろしい力を正邪が秘めているとしたら?
 幻想郷の有力者に向け、正邪の討伐令が出たと白蓮住職は話していた。なるほど、この状況を見るに納得せざるを得ない。正邪の行動がエスカレートする前に懲らしめる必要はあるだろう。
 しかし、それは――。
 ヤマメは頭を抱えていた。自身の生死と、人間の平安を秤にかけざるをえない状況は、ヤマメの望むところではない。
 一方、懊悩するヤマメをよそに、マミゾウは淡々と眼前の問題を処理し始めた。

「おぬし」と、マミゾウは男を指差し、説明を始める。

「おぬしは鬼人正邪という妖怪に化かされ、天地逆転して認識するようになってしまったようじゃ。正邪の能力は、あらゆるものを逆転させる能力のようでな……。目下、きゃつには幻想郷中の手練が差し向けられておる。打ち倒されるのも時間の問題じゃろう。その頃には、おぬしの術も解けているじゃろうて。――いずれにせよ、おぬしらはここにこれ以上いても益はないぞい。この場合、稗田家をたのんだほうがよかろうて」
「稗田様なら、このおかしな状態を治すことができるということかい?」

 女が訝しげに訊く。マミゾウはかぶりを振った。

「そうは言っとらん。少なくとも、現状、おぬしの旦那を戻す術はない。原因となる妖怪を退治する以外にはな。そこは、博麗の巫女あたりに任せるしかなかろう」
「そんな……!」

 不満をぶちまけようとする女をたしなめるように、マミゾウは人差し指を女の眼前にちらつかせた。

「しかし、じゃ。同じような被害に遭っとる人間が稗田の家に集っておるから、情報交換はできるじゃろうて。被害者には、稗田から支援もあると聞いとる。今のところ、それで手を打ち、耐えて待つがよし、じゃろうな」

 女はなおも承服しかねる様子で唸っていたが、旦那の方はその点物分りが良かった。足の裏で女房の後頭部を叩くと、
「ぐだぐだ言っていても仕方ねえ。ひとまずこの人の言うように、稗田様のところに伺ってみようぜ。妖怪の仕業ってんならそれが妥当だろうよ」

 そう言って、さっさと少庵を出ていってしまった。慌てて女の方が旦那の後について出ていき、ヤマメとマミゾウも二人の人間を見送るために小庵を出た。
 帰りしな、男は済まなそうに言った。

「お休みのところお騒がせして悪かったな、先生。ごたごたが済んだら、改めて詫びに来るから」
「いえ、お気遣いなく……」

 嵐のような夫婦がいなくなると、境内に本来の静けさが戻ってきた。
 マミゾウは煙草の煙を勢い良く曇天に向けて吐き出すと、苦々しげな顔をヤマメに向けた。

「やれやれじゃな、まったく。……おぬし、あんまり安請け合いしてはいかんぞ。びじねすはびじねす、ぷらいべえとはぷらいべえと、ちゃんと区別せんといかん。休みの日はきちんと休む。それができねば、いたずらに人間の敵意を買う事になりかねん」
「すみません……気をつけます……」

 ヤマメは素直に頭を垂れた。一部よく分からない言葉があったが、マミゾウの言わんとしていることは概ね理解できた。
 無論、彼女の態度は形だけであり、さほど反省はしていなかった。それを悟られる前に、ヤマメはそれとなく話題を変えた。

「……鬼人正邪が動き始めましたね」
「まだ数人というところだが、人間にも実害が及び始めたとなると厄介じゃな……。住職もそろそろ博麗の巫女を抑えきれなくなるじゃろうし……」

 初めて耳にする話に、ヤマメは眉を吊り上げた。

「住職が……。どういうことですか……?」

 マミゾウは、明らかに狼狽した様子でヤマメから目をそらした。どうも、話してはならない内容を口走ってしまったらしい。
 問い詰めようとヤマメが口を開きかけたその瞬間、脳天気な声が山門の方から聞こえてきた。

「こんにちはー!」
「おっと……千客万来じゃな」

 思わぬところから助け舟を得て、マミゾウは口元に笑みを浮かべた。
 寺の石段の下から姿を見せたのは、人里の古本屋の娘、本居小鈴だった。彼女はヤマメの姿を認めると、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

「おはよう! ヤマメは、今日はお休みでしょ? 遊びにきちゃった」
「わ、わざわざ来てくれたの……!? 私のために?」

 随分おおげさね、と、小鈴は可笑しそうに声を出して笑った。その一事だけで、ヤマメの胸は感情で溢れてしまう。泣きそうになるのをぐっとこらえ、ヤマメも笑い返した。
 小鈴は肩に風呂敷包みを下げており、それがヤマメの目に留まった。小鈴はヤマメの興味を察し、先回りして答えた。

「今日はね、ウチにある本を幾つか持ってきたんだ。一緒に読めれば良いなって思って。取っておきのもあるのよ!」
「ありがとう! すごく、楽しみ……! じゃあ、じゃあ、早速、中で……」

 小鈴を小庵に招き入れようとしたヤマメは、大事なことを思い出して立ち止まった。

「あっ、でも、マミゾウさんが……」

 今までほったらかしていたが、マミゾウも大事な客に違いなかった。慌ててマミゾウの方に顔を向ける。

「……あら?」

 ヤマメが振り向くと、先程までそこにいたはずのマミゾウの姿が消えていた。おそらく、二人に気を使って立ち去ったのだろう。

「ヤマメ、どうかした?」
「ううん、なんでもないの。それより、中に入りましょう? ここにいると風邪を引いちゃう」

 ヤマメは小鈴の手を取って小庵の中にゆるゆると引き入れる。
 初めて触れた小鈴の手は、柔らかく、暖かかった。





 ***





 寒風吹きすさぶ博麗神社の境内に、絢爛華麗な弾幕が咲いていた。競い合う相手は、片や聖白蓮、こなた博麗霊夢。
 空中戦だった。境内に両名以外の姿はない。双方、普段は見せることのない殺気立った表情でしのぎを削っていた。互いの放った弾幕が衝突して火花を散らす。もしも鑑賞者がいたならば、そこに動的な芸術性を見出していたかもしれない。そんな壮麗な弾幕戦だった。
 闘いはその激しさの割にひどく長く続いた。しかし、決着はあっけなかった。
 白蓮の展開した濃密な弾幕空間の中を霊夢は泳ぐようにすり抜け、白蓮の死角に飛び込むと、ここぞとばかりにスペルカードを引いた。どこから湧いて出たのか陰陽玉が津波のように押し寄せ、白蓮の弾幕をことごとく打ち消していく。
 霊夢の放った陰陽玉に死角はほぼなかった。避けきれないと悟った白蓮は、スペルカードでしのごうと懐に手を差し入れた。だが、彼女の懐に、もはやスペルカードは残されていなかった。打ち止めだった。
 陰陽玉の一つが白蓮の懐に勢い良く潜り込んできた。軽々跳ね回っているように見える陰陽玉だが、ひとたび白蓮の身体に取り付くと、途端に凄まじい重量を持ち始めた。飛び続けることもままならず、白蓮は境内の石畳の上に叩きつけられる。
 したたかに腰を打ち付けられ、白蓮は目の端に涙をにじませた。魔力で肉体を強化していようが、痛いものは痛いのだ。
 彼女は石畳の上にへたり込み、片手を挙げて降参の意思を示した。

「いたた……。無念です……」
「よ〜〜〜〜やく、私の勝ちね! 一回休みは飽き飽きしてたところよ」

 霊夢はゆっくりと石畳の上に降り立ち、一歩一歩白蓮に近づいた。彼女は顎を見せつけるように白蓮を見下ろすと、冷たい声で白蓮に問うた。

「……さて、聞かせてもらおうかしら。あんたはなぜ正邪を庇っていたの? 何を企んでいるわけ?」
「べつに鬼人正邪に義理はありませんよ。庇っているわけでもありませんでした」

 白蓮はそう答える。
 言い訳の続きを霊夢は目で促したが、次に白蓮の口から出てきた言葉は、霊夢の想定していた種類のものではなかった。

「――ときに、貴女は正邪が新たな魂を産んだとしたら、どう思います?」
「質問しているのはこっちなんだけど」

 霊夢のこめかみがいらだちに痙攣する。対する白蓮は落ち着き払った態度で応じる。

「貴女の質問にお答えするために質問しているのです」
「ああ――?」

 霊夢を見上げる白蓮の目には、やましいところなど無いように見えた。ただ、何か一つの目的に邁進する殉教者のような迫力が、その瞳の奥底からほとばしり出ていた。
 霊夢はこの白蓮の目が苦手だった。霊夢も白蓮も、宗教は違えど同じ宗教者だ。しかし、信仰というものへの向き合い方は両者真逆だった。片や白蓮は、自己解釈に偏りすぎる嫌いはあれど、自らの信じる教えに対して真摯である。一方の霊夢は、宗教を金儲けの手段として考えている節があり、あまり信教に真面目とはいえない。
 宗教家としてどちらが正しい姿かと自らに問いかけた時、霊夢は自信を持って自分を推すことができなかった。
 白蓮の真っ直ぐな目に見つめられると、そんな自らの心情を見透かされているように錯覚し、どうしても霊夢は腰が引けてしまう。
 霊夢は白蓮から目をそらし、ぶっきらぼうに答えた。

「……妖怪が産んだ魂なんて、結局妖怪変化の類いでしょ? どうもこうもないわよ、有害なら滅するだけね」
「では、それが有益な妖怪ならば?」
「……」

 霊夢の目つきが変化した。彼女は勘が良かった。

「……なるほどね、話が見えてきたわ。つまり、こういうこと? 鬼人正邪が能力を使った結果、意図的か偶然かわからないけど新しい妖怪が産まれてきた。その妖怪は善良な奴なのであんたは守りたいと考えた。だけど、鬼人正邪が退治されれば能力も解除され、産まれてきた魂は消えてしまう。あんたはそれが嫌だから、鬼人正邪の討伐依頼を妨害してきたのね」
「妨害するというと若干語弊がありますが、結果的にはそうなりますね。一応、私も正邪討伐には参加したわけですし」
「それでわざと負けてたんなら、立派な妨害よ! 挑戦者があんた一人になるまで、挑戦権をかけた決闘をふっかけまくってたのもそれが理由ってことなの!?」
「はい、そのとおりです」

 霊夢の詰問に、白蓮は悪びれもせず首肯した。
 紅白の巫女が語る話の経緯はこうだ。
 正邪が小槌の力を濫用し暴れ始めてからほどなくして、幻想郷の有力者たちの間で正邪滅すべしの声が上がり始めた。いつもならば、妖怪退治など早い者勝ちであるところだったのだが、そこで白蓮が奇妙な行動に出た。正邪挑戦権などというものをでっち上げ、彼女と戦う権利をかけて幻想郷の有力者たちに弾幕勝負を仕掛け始めたのだ。見事挑戦権を得て勝利すればその名声を独り占めできる。その誘いに、有力者たちのほとんどが「乗った」。
 そして、白蓮はその勝負にことごとく勝った。それはまさしく執念のなせる業だった。ヤマメをこの世に残したい、その一念だけが、白蓮を衝き動かしていた。
 彼女の目的はただ一事、『時間を稼ぐ』。これだけだった。そのため、彼女は正邪と相対こそしたものの、決して勝とうとはしなかった。
 霊夢は呆れたように目を見開き、首を振った。

「いけしゃあしゃあとまあ……。でも、私が勝ったからには、もうあんたの妨害工作はおしまいよ。何回休みだかもう忘れたけど、やっとコマを進められるわ」
「仕方ありませんね。人間に被害が及び始めましたし、これ以上は時間稼ぎも難しいでしょう」
「私にもわざと負けたって言いたいわけ? 気に入らないわね〜」
「いえ、貴女に負けたのは純粋に実力差ですよ……。言い訳するならば、連日の決闘で魔力が若干落ちていた。それが敗北に繋がったのかもしれません」

 白蓮はゆるゆると立ち上がり、服に付いた埃を払った。その脇を、霊夢が早足で歩み去る。
 通り過ぎざま、冷たく押し殺した声が白蓮の耳に届いた。

「早速正邪を懲らしめに行くわ。いいのよね、あんたもそれで」
「……ええ」

 石畳から響く霊夢の足音が、ある瞬間ふっと消えた。おそらく鳥居の向こうに飛び去っていったのだろう。
 白蓮の意識はすでに霊夢から離れ、新しい来訪者の方に向けられていた。
 参道脇、茂みの陰から現れた影は、白蓮の姿を認めると意地悪く破顔した。

「住職。今のは無様じゃったな」
「マミゾウ」

 協働者の名を呼ぶ白蓮の瞳は、重く沈んでいた。





 ***





「じゃーん! 見て、見て! これなんか、外の世界の本なの! 最近手に入ったもので、すごく貴重なんだから。あと、これは小説ね。人間が何を考えてるか知りたければ、やっぱりこういう叙情的なものも読まないとね」

 風呂敷の中から取り出した書物や巻物を、小鈴は一つ一つ取って見せて熱心に説明する。その様子を、ヤマメは楽しげに眺めていた。

「小鈴は、本当に本が好きなのね」
「そりゃ、貸本屋の娘だもん。好きじゃなきゃ、きっとやっていけないわ」

 畳の上に並べられた本の一冊を、ヤマメは手に取って開いた。古い本らしく、少し開いただけでメシメシと不穏な音を立てる。ヤマメは本を壊さないように、ゆっくりと慎重に頁をめくる。
 紙の上に並ぶ文字をひと目見て、ヤマメは首を傾げた。

「なんて書いてあるのかな?」
「そっか、貴女妖怪だったもんね……。あっ、じゃあ、私、読み聞かせしてあげる」

 小鈴はヤマメの側にいざり寄ると、「貸して」とヤマメから本を引き取った。
 肩と肩が一瞬触れ合い、ヤマメはビクリとして身を引いた。
 それを見咎めて、小鈴が頬をふくらます。

「もうっ、なんで逃げるの? 一緒に読みましょ?」

 言われてヤマメはおずおずと小鈴の側に近づき、小鈴に触れるか触れないかというところにちょこんと座った。そこに小鈴が更に僅かばかり身を寄せて、二人の腕がそっと触れ合う。
 小鈴の髪の花のような香が、ヤマメの鼻腔をくすぐる。陽のように熱い体温が、はっきり肌に感じられる。

(あ――)

 頭の奥の方からじんとした感覚が染み出してくる。その甘い感覚に、ヤマメの鼓動が駆け足になってゆく。
 幸せに感触があるなどという話をヤマメは聞いたことがなかった。それは、きっと大事なことなので、世間では秘されているのだろう、とヤマメはぼんやり考える。
 小鈴の朗読が始まった。無意識のうちに、ヤマメの視線は紙面の上から小鈴の唇の動きに移っていく。木苺のように赤くみずみずしい唇が、躍動して言葉を紡ぐ。それは間近で見てみると、不思議な美しさでもってヤマメの目だけでなく心も奪い去ってゆく。

「……故郷に留め置き給いし幼き人々の……ほら、ヤマメ、私を見るんじゃなくて文字の方を見なきゃ。今、私が指を置いてるとこ」

 小鈴はヤマメの頭の天辺を片方の手で押さえつけ、無理矢理に本の方に向き直させた。ヤマメは耳まで真っ赤に染めて、
「ごっ、ごめんなさい……」

 と呟き、縮こまった。せっかく小鈴が本を読んでくれているのに、本そのものに興味ないかのような素振りを見せてしまったのは失態だと思ったのだ。
 歌うような朗読の声が、庵室の中に響く。
 しばらくの間小鈴の朗読を聞いていたヤマメの意識が、ふいに、突風に攫われるように遠くなった。
 眠りに就く瞬間のような感覚が、一瞬だけヤマメを支配した。突如として沸き起こった不可思議な感覚はすぐに去ったものの、そのときにはもう、ヤマメは思考の自由を失っていた。

「……? ヤマメ? ねえ、大丈夫? 顔色が変よ?」
「……あっ……?」

 小鈴に肩を触れられ、ヤマメは我に返った。

「だ、大丈夫……。なんだかぼんやりしてた。どうしたのかな……」
「朗読聞いてたら、眠くなっちゃった?」
「ううん、そうじゃないの。なんだろう、よくわからない……。でも、今は大丈夫。だから、続きを聞かせて、ね」

 袖の端を遠慮がちにつままれ、子供のようにねだられてしまうと、小鈴もそれ以上話を横道に逸らす気にはなれなくなった。
 小鈴がヤマメに語って聞かせた物語は、平安時代の武士と平民の娘との間の身分違いの恋を描いたものだった。若い二人は互いに懸想していたが、いざ結婚しようという段になると家の者が許さなかった。結局二人の結婚は叶わず、女は憔悴して死に、男は出家して果てた。
 小鈴は本を閉じ、長々とため息をついた。

「……しがらみだとか、枠組みだとか気にせず、好き同士なら駆け落ちでもしちゃえばいいのに」
「その枠組があるからこそ、成り立っていた社会というのもあったのでしょう。そう、それこそ、この幻想郷の人里のように……」

 ヤマメは神妙な面持ちで呟いた。
 しばしの沈黙が場に淀む。
 その静寂は、小鈴の苛立たしげな声により打ち破られた。

「私たちが友達になることって、いけないことなのかな? こうしている分には、何も悪いことなんてしていない気がするんだけどなあ」
「いけないことなんて、そんなことないわ! だって、私は今こんなに幸せだもの――」

 そこまで言って、ヤマメは余計なことを口走ったかもしれないと思い、思わず目を伏せた。
 上目遣いにおそるおそる小鈴を見やると、彼女は『何もおかしなことはない』とでも言うように、まっすぐに小鈴を見据えていた。
 そして、どちらともなく、ぽつり呟いた。

「――そんなしがらみ、なくなってしまえばいいのに」

 小鈴は勢い込んで立ち上がり、拳を握りしめて熱く語りだした。

「実績を作っちゃえばいいのよ! 私たち二人で! 実際私たちが仲良くなったくらいで、それですぐ幻想郷に何か起こるってわけでもないんじゃないかな? もしかしたら、何も起こらないかもしれないじゃない?」
「うん」
「それで里じゅうの人間が妖怪と仲良くなってしまえば、私たちのことをとやかく言う人もいなくなるんじゃないかしら」

 阿求のことを言っているのだな、と、ヤマメは小鈴の虚弱な友の顔を思い浮かべた。

「私たち二人が、その先駆けになるということ?」
「そう、そうよ!」

 ヤマメは想像してみた。人と妖怪が屈託なく笑い合える世界を。恐怖や不安に凍える平和ではなく、共感と希望で彩られた平和を。
 遠くを見るように目を細め、ゆっくりとヤマメはうなずいた。
 否。うつむいた、と言い換えた方が良いかもしれない。

「――うん。そうなれば、きっと素敵ね。きっと、みんな、私と同じように暖かい気持ちになれるかもしれない」

 肯定の言葉の向こうに淡い悲観が見え隠れしていたが、小鈴はそれに気づかなかった。
 彼女はヤマメの肩に手を置いて、はにかみむように微笑んだ。

「私たち、だよ」

 釣られて、ヤマメも笑う。柔らかく、真心あふれる笑顔だった。
 ヤマメの肩を触れる小鈴の指に、わずかに力が入る。
 あの日、初めてヤマメと出会った日。勇気を出したのは、ヤマメの方だった。その勇気が今日を導いてくれたのならば。
 ――次は、私の番だ。
 小鈴の唇が、彼女自身の心の求めに突き動かされ、開いた。

「ねえ、ヤマメ。次は、人里に遊びに来て。私の店には、外に持ち出せない面白い本もたくさんあるし。それに、里の中を歩くのは、結構楽しいのよ!」

 何気ない調子で小鈴はそう言った。実際、小鈴は、自分の発言に問題があるなどとは露ほども思っていなかった。
 人間と妖怪は敵同士でなければならない。阿求からは口を酸っぱくしてそう言われていた。だが、現実を見ればどうだろう。
 里の人間は、里に寄り来る妖怪を本当に敵として扱っているだろうか?
 人里に買い物に来る妖怪もいるし、里の中で弾幕勝負まで始める妖怪もいる。そうした妖怪たちに、里の人間はおおむね友好的に接してきたはずだ。あまつさえ、弾幕勝負を酒の肴にしたり、賭けの対象にしたりする人間さえいたと聞く。
 これらのことから、ヤマメが人里を訪れる点に関していえば、小鈴の心理的障壁は少なかった。
 だが、小鈴にも一つだけ不安があった。
 『わざわざ人里に妖怪を招き入れた人間』。小鈴はこれからそういう類の人間になるが、そのような人間がいたという話を小鈴は聞いたことがなかった。また、もしそのような人間がいたとして、その人間がどうなったかという話も当然耳にしたことがなかった。
 幻想郷には、里の人間が知らない暗黙のルールが無数に存在する。知らなければ命にかかわるようなルールすら、一部の人間しか知らない、ということもあるかもしれない。
 もしかすると、今、自分は越えてはいけない一線を越えようとしているかもしれない。そんな感触が、小鈴の心の臓を撫でていた。
 一寸先の闇の中にあるのは、希望の園か、奈落の淵か。
 足を一歩踏み出してみなければ、それはわからなかった。
 小鈴の言葉に、ヤマメは不安そうな表情を浮かべる。

「……お誘いは嬉しいけど、でも、大丈夫かな……? 妖怪は人里にあまり近づいちゃいけないって、マミゾウさんが……」
「マミゾウさん?」
「あっ、ううん、その、住職とか、色んな方から止められてて……」
「大丈夫よ。悪ささえしなければ。今までも、何度か妖怪が人里に来てたみたいだけど、それで何か起こるってわけでもなかったし。何か起きたら、霊夢さんがきっとなんとかしてくれるはずだし! そもそも、ヤマメはべつに悪さなんてしないでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」

 強引とも言える小鈴の誘いに引きずられるように、ヤマメは同意の言葉を漏らした。だが、ヤマメの心はわずかに逡巡していた。
 ここは押しの一手とばかりに、小鈴がさらに畳み掛ける。

「里にはね、いろんな人がいるんだよ。ヤマメが今まで会ったことのない人もいるかもしれないし、もう一度会いたい人に会えるかもしれない」
「もう一度会いたい人……」

 ヤマメの瞳がキラリと光った。誰か意中の人間でもいるのかもしれない。もうひと押しと見て、小鈴はダメ押しの切り札を使う。

「それにね、いろんなお店があるの。甘味処のきんつばを、ヤマメに食べさせてあげたいなあ……!」
「きんつば……」
「うぐいす餅も美味しいよ? 中の餡子がね、とっても甘いんだよ。ほっぺたが落ちちゃうよ」

 胃袋に訴えかけられると弱くなるのは人間も妖怪も一緒らしい。ヤマメが口を開こうとした瞬間、お腹の方が先に返事をしてしまった。
 ヤマメは頬を朱に染めて、照れ笑いを浮かべた。もうどんな難色を示しても嘘になるだろう。彼女は観念したようだった。

「……えへへ……。そうだね。私も本当は興味があったし、行ってみようかな……」
「決まりね! なら、思い立ったが吉日、早速行ってみましょ!」

 そう言って、小鈴はヤマメの腕を取った。ヤマメは目を丸くして小鈴を見上げる。

「えっ!? 今から?」
「だって、後日改めて、なんて、そんなたいそうな話じゃないでしょ。人里なんてここから目と鼻の先だし、まだ昼前だから時間はたくさんあるわ」
「う、うん……でも、心の準備が……」
「だから、そんなたいそうな話じゃないって。ほら、行きましょっ」

 ぐずぐずするヤマメを無理やり立ち上がらせると、小鈴は強引にその腕を引っ張って小庵の外に連れ出した。
 開け放しっぱなしになりかけた玄関の戸を、ヤマメが慌てて引いて閉める。
 後に残されたからっぽの部屋には、欠落した生の気配を埋めるように静寂が積もっていった。





 ***





 藪を踏みしめ歩み出てきた化け狸の親分の目を、白蓮はじっと見据えていた。見返すマミゾウの鳶色の目は暗く、普段の軽佻浮薄な雰囲気を微塵も残していなかった。
 見つめ合う二人の顔つきは、喪主のように沈んでいた。
 マミゾウは重苦しい空気を払うようにキセルの煙を口の端から吹き出し、それから改まって用件を伝えた。

「住職から言われた策、準備はできとるよ。あとは、あやつが不安定になる頃合いを見計らって術を施すだけじゃ」
「ありがとう、マミゾウ」

 マミゾウの用件はその一言で済んだ。だが、彼女は早々に立ち去ることをしなかった。白蓮の背後の灯籠に歩み寄り、それに背をもたせかけると、キセルをゆっくりふかし始めた。
 彼女は、白蓮の言葉を待っていた。苔に付いた朝露が雫となって落ちるのを待つがごとく、ただじっと、その時を待った。
 境内を取り巻く木々に木枯らしが吹き付けざわめく。白蓮が何を話そうと、マミゾウ以外に聞ける者はいないだろう。
 一服目の燃えさしを灯籠の脇にはたき落とし、二服目を詰めようとする頃になって、白蓮は口を開いた。

「……限られた時間の中で考えついた手段は、一つしかありませんでした……。この手を使えば、時間をかせぐことはできるかもしれない。でも、もしかすると、彼女の命はこれっきりになるかもしれない……。だから、せめて……せめて、今この時間を充実したものにしてもらいたくて……」

 それは、明らかに懺悔の言葉だった。
 マミゾウは、目の端で白蓮の背中を見た。華奢な肩が、小さく震えていた。
 視線をやや下に落とす。固く握りしめられた指の隙間から暗い色の血がとめどなく流れ落ち、石畳を赤黒く染めていた。
 目をそらし、マミゾウは煙草の煙を天に向かって一吹き吐いた。

「……あまり自分を責めるな」

 簡素な台詞だが、それ以外に、かけられる言葉がなかった。
 重苦しい空気を払ったのは、めでたい色の装束を着けた、めでたい巫女の声だった。

「あらっ? あんた、まだいたの? それに化け狸までいるし!?」

 霊夢は神社の上空から颯爽と石畳の上に降り立つと、訝しむような目で白蓮とマミゾウを交互に睨め据えた。
 白蓮は柔らかく相好を崩して霊夢を迎えた。

「……早かったですね」
「――。逃げられたわ。正邪のやつ、とにかくあの手この手と小癪な手をつかってくるから厄介ね。でも、私の御札をだいぶん浴びせてやったから、彼奴もただでは済んでいない筈よ」

 傲然と霊夢が言い放つ。白蓮の目元が赤く腫れ上がっていることに彼女は気づいていたが、その事には敢えて触れなかった。
 僅かに芝居がかった身振りで大幣を振り回しつつ、霊夢は口から泡を飛ばした。

「すぐにでもリベンジしてやるわ! 草の根をかき分けてでも探し出して、必ずギャフンと言わせてやるんだから!」

 正邪が倒される時。それはすなわち、人間の友であるあの小さな妖怪の命が消える時だった。
 ヤマメに残された時間は、いよいよ尽きようとしていた。





 ***





 よく晴れた朝の人里の目抜き通りは、いつもながらの活気に満ちあふれていた。店の主人は威勢よい掛け声で呼び込みし、道行く人は笑顔で店先を物色する。
 人間世界の営みがそこかしこで行われているのを間近に見ながら、小鈴とヤマメの二人の少女は往来を練り歩いていた。
 といって、自信満々胸を張って歩く小鈴に対し、ヤマメの方は終始不安そうな眼差しでキョロキョロとあたりを伺っており、大変に落ち着きがない。
 震える小声でヤマメが囁く。

「こ、小鈴、大丈夫かな……? 私、目立ってない……? おかしなところとか、ないかな……?」
「そんな怯えなくても大丈夫よ。というか、そんなにキョロキョロしてたら逆に目立つんじゃない?」

 おのぼりさんのように怯えるヤマメを、小鈴は半ば呆れたようにたしなめる。さすがに小鈴の目からもヤマメは挙動不審に見えた。
 とは言え、逆の立場ならどうかと考えると、ヤマメの気持ちも分からないではない。自分が深夜丑三つ時に妖怪の山などに招待されたと考えると、たとえ案内役がついていても正常ではいられないだろう。
 しかし、妖怪が人間にここまで怯えるというのもおかしな話だ。小鈴は心の中で苦笑する。そして、こう考えた。ヤマメは妖怪の中でも変わり者なのだ。臆病で、人間が大好きで、人間のためになることをするのが生きがいの、たいへん変わった子なのだ、と。
 そして、それは、妖怪と仲良くしたいと考えている自分と大差ない、とも、小鈴は思った。彼女もまた、人間の中では相応に変わり者なのだ。
 友達の不安を和らげるにはどうしたら良いかと思案した結果、小鈴は結局、至極単純な解決策を選んだ。

「ヤマメ、ほら」

 彼女はヤマメに掌を見せて、その手を取るよう促したのだ。
 ヤマメは微笑みでもって小鈴のやさしさに応えた。おずおずと伸ばされたヤマメの手が、しっかりと小鈴の手を握りしめる。小鈴はその手を軽く引いて、ヤマメの身体を自分の脇に引き寄せた。
 その手を何度も握り直しながら、小鈴が首をかしげた。

「ヤマメの手って、なんだかざらざらしてるよね」
「ね、根が蜘蛛だから……。その気になれば、この姿のまま、壁とかにも登れるのよ」
「ほんとに!? すごいね、忍者みたい! ……でも、『この姿』ってことは、ヤマメは変装してるってこと?」
「うん……本当は大きな蜘蛛の形をしてるの。身体だけでも、今の私と同じくらいの大きさかな……。でも、人間が怖がるといけないので、普段は人間に似せて姿を変えてるの」
「なるほど……」

 小鈴はヤマメが蜘蛛に変化したところを頭のなかで想像してみた。何しろ指の長さほどの蜘蛛の姿でも十分恐ろしいというのに、人と同じほどの巨躯を持った蜘蛛となると、そのおぞましさたるやいかほどだろうか。小鈴は思わず身震いする。
 指を通して小鈴の震えが伝わったのか、ヤマメは寂しそうに顔を伏せた。

「やっぱり、怖いよね……」
「……そりゃ、怖くないって言ったら、嘘になるよ。夜中、枕元に人間大の蜘蛛がいたら、腹式呼吸で悲鳴を上げる自信があるわ。もしかしたら失神しちゃうかも」

 小鈴はあけすけに言って空を仰いだ。自分の言葉の内容を想像して、もう一度身震いする。
 でも、と、小鈴は続けた。

「でも、それが貴女だって気づいたら、きっと脱力して安心するよ。その後すっごい怒ると思うけどね、脅かすなって」

 そう言って、小鈴は微笑んだ。ヤマメもつられて笑う。
 小鈴の言葉を噛みしめるように心の奥で反芻し、ヤマメは繋いだ手をぎゅっと握る。

「……ありがと。そう言ってもらえて、ちょっとだけほっとした。――じゃあいつか小鈴のこと、脅かしにいこうかな」
「ちょ、やめてよ!」
「えへへ、うそだよ」

 舌を出すヤマメを見て、小鈴は頬を膨らませ、肘で相手の脇腹を小突く。それから二人して顔を見合わせ、弾けるように笑った。
 暫くの間二人は大通りをそぞろ歩いていたが、一軒の店の前を通りかかった時、小鈴が小さく叫んでヤマメを引き止めた。

「あっ、見て!」

 小鈴の指し示した先にヤマメは目を向ける。そこは小さな呉服屋で、小鈴は店先に並べられた髪飾りなどの装飾品に興味を持ったようだった。
 彩り鮮やかな石をあしらった簪や、上品な黒漆塗りの櫛が、棚の上に所狭しと並べられている。それら一つ一つを、小鈴はうっとりとした目で眺め回していた。

「いいなあ……こんな髪飾り、一度はつけて歩いてみたいなあ」
「ここにあるものは買えないの?」
「無理無理、買えないよ! これ、すごく高いんだから」

 小鈴が顔の前でぶんぶんと手を振る。
 正直、ヤマメはそうした装飾品にそれほど心動かされていなかった。そもそも、人間が己の装いを飾るのは、彼ら同士で互いの評価を気にしているからだ。それは妖怪には縁のないしがらみだった。加えて、妖怪のヤマメならば、見た目を良くしたければそう化ければ良いだけの話なのだ。
 小鈴たちが店の中を冷やかしていると、彼女らの声を聞きつけたのか店主が奥から出張ってきた。
 その男の姿を見た瞬間、ヤマメの顔に僅かな驚きの色が浮かんだ。ヤマメは彼を知っていたのだ。逆に、店主の方はヤマメの姿を見ても何ら動揺していない。当然ではある。人間の姿でヤマメが人里にやってきたのは、これが初めてなのだから。
 店主はヤマメの様子に気づくことなく、気さくな笑顔を二人に向けて投げかける。

「おっ、いらっしゃい。嬢ちゃんたちはお使いかい?」
「いえっ、冷やかしですっ!」

 即答する小鈴に、店主は苦い顔を見せる。

「そうはっきり言うなよ……。まあ、ここにあるものは嬢ちゃんたちにはちょっと手が出しづらいかもしれんな。こっちの髪留めなんてどうだい?」

 小鈴と店主の世間話は、ヤマメの耳に届いていなかった。ヤマメの今の興味は、別にある。それは、店主の身体の中で起きていることだった。
 ひと目見てわかった。この人間は、『また』風邪を引いている。
 己の方を真剣な眼差しで見つめるヤマメに、店主はようやく気づいたらしい。彼は笑み浮かべたままヤマメの方に顔を向けた。

「うん? 嬢ちゃん、俺の顔に何かついているかい?」
「いえ……」

 ヤマメは僅かの間逡巡した後、意を決したように店主の側に近寄っていった。

「ん? おい……?」
「すみません、ちょっと失礼します」

 言って、ヤマメはその小さな手を店主の胸元にかざした。
 最初は当惑して頭を掻いていた店主だったが、すぐに自らの身体の中で起きている変化に気づいた。
 ヤマメが施術を済ませ手を下ろすや、店主はヤマメの肩を掴み、震える声で問うた。

「……おい、あんた……今のは、あんたがやったことなのか?」

 ややきつい、ともすると詰問ぎみの質問に、ヤマメは答えることができず口をつむぐ。他方の小鈴は、何が起きているのかもわからず、ただ不穏な空気を感じ取っておろおろと狼狽するばかりだった。
 うつむいて黙りこくるヤマメを見て店主は何かを悟ったらしい。「ちょっと待ってくれ」と一言言い残し、店の奥に引っ込んでいった。

「……ヤマメ、何かやらかしたの?」
「う、ううん……。あの方、風邪を召していたようなので、治してあげようと思って……」
「それで能力を使ったの? それは……」

 感心しないというように小鈴が眉をひそめた。さすがに、人里でみだりに能力を使うといらぬ騒ぎを招きかねない。
 小鈴が言を継ごうとしたその時、店の奥から店主が慌てた様子で戻ってきた。
 彼は真摯な表情の中に眼だけ輝かせて、まっすぐにヤマメを見ていた。そして、場違いなほど神妙な声でもって問うてきた。

「あんた、あの時の蜘蛛の妖怪だろう?」

 店主のただならぬ様子に、ヤマメの蚤の心臓が破裂しそうなほど忙しく動き出す。
 あっさりと居たたまれなさの極致に達し、ヤマメはそそくさと逃げ出そうとする。それを店主が慌てて引き留めた。

「いや、待て、何も咎めるつもりはない。むしろその逆だ。ずっと、あんたにお礼がしたかったんだ。あの夜、俺が風邪をひいて寝込んでいた時、助けに来てくれたのはあんただったんだな。それに、今も……」

 店主が話している出来事を、当然のことながらヤマメは把握していた。彼女が初めて人里に足を踏み入れ、人間の病気を治した時の話をしているのだ。
 目の前に立っているのがあの時の人間だということはヤマメにも判っていた。そして、彼の病がぶり返しつつあったことも。
 今そこに病気の人間がいて、見て見ぬふりすることなどヤマメには到底できなかった。だから、ヤマメとしてはごく自然な気持ちで彼を癒しただけだった。
 しかし、その結果こうして真正面から感謝感恩されてしまうのは、ヤマメとしても、はなはだこそばゆかった。
 返す言葉に迷うヤマメの胸元に、男が何かを差し出した。それは、桐の箱に収められたべっ甲の簪だった。黒べっ甲に螺鈿細工がほどこされたそれは、目にも見事な代物だった。ヤマメの傍らに立つ小鈴が息を呑む。その気配から、ヤマメはその簪がたいそう高価なものだと察した。

「どうか、なにも言わずこれを受け取ってくれ」

 差し出された桐箱を受け取れずにヤマメがまごまごしていると、業を煮やした小鈴が二人の間に割って入った。

「折角だから挿してみたら良いじゃない」

 小鈴は簪をためらいなく手に取ると、ヤマメの髪を纏めていたリボンを遠慮なしに解いた。団子状に纏まっていた金髪がばさりとヤマメの肩にかかる。
 素早い手つきで手際よく髪をまとめ上げ、簪を差し入れる。
 ヤマメの金色の髪の中に黒の簪がよく映え、さらにそこに螺鈿の煌めきによる幻想的な風情が重なり、絶妙な調和を見せていた。
 二人の後ろで様子を見ていた権次が思わず感嘆の声を漏らす。

「おう、いいじゃないか」
「ほら、やっぱり綺麗……! ヤマメ、すごく似合ってるよ!」

 小鈴もまた興奮ぎみに頬を紅潮させ、上ずった声でヤマメの容姿の変化を喜んだ。
 物を貰っても詮無いことと思い、権次に返上しようとしていたヤマメだったが、こう喜ばれてしまうとなんだか返しづらくなってしまった。
 ヤマメはしばしの間所在なげにおろおろしていたが、やがて意を決したように深々と頭を垂れた。

「あ、あの……あの……ありがとうございました!」
「お礼なんてとんでもない! あんたに頭が上がらないのは俺の方だ。本当にありがとう……!」

 呉服屋を出たヤマメは、もう一度店主に向かってお辞儀をしてから、小鈴と共にその場を去った。
 ようやっと緊張から解放されたヤマメがふと脇に目をやると、隣を歩く小鈴と目が合った。
 小鈴の顔の上に浮かんでいたのは、我が意を得たり、と言わんばかりの不敵な表情だった。ヤマメは思わず吹き出してしまう。
 笑いながら、ヤマメはある種の実感をしみじみと味わっていた。それは、人間から受け入れられているという実感だった。
 ――寺で小鈴と話していたことは、案外夢物語ではないのかもしれない。
 ヤマメはそんな風に思っていた。





 ***





 ヤマメの白い歯が、うぐいす餅のやわらかな求肥を噛んで千切る。丸みを帯びた唇が重なり合って、きな粉と餡をこぼさぬよう口の中にしまい込む。
 上等の甘味を長いことかけて咀嚼し嚥下したヤマメは、熱いため息をついてから、知らず言葉を漏らした。

「おいしい……」

 ヤマメの様子を一部始終見守っていた小鈴は、弾けるように笑った。

「あはは、私、お菓子をこんなに美味しそうに食べる子、初めて見た!」

 二人の少女が次に訪れたのは、里の外れにある甘味処だった。
 いきなり里の大通りを練り歩くのは流石に不用意すぎるし、ヤマメもびっくりするだろうと小鈴が気を使ったのだ。
 店先に据えられた長椅子に腰掛け、二人してお品書きとにらめっこしながら、一品ずつ順繰り注文する。お盆に載ってやってきた甘味を、ヤマメはすぐには口に運ばない。形や色をためつすがめつした後、竹楊枝で弾力や感触を確かめ、鼻先に近づけ匂いを嗅いでから、ようやく先述のように口に運ぶ。そうして口にする感想は、おしなべて「おいしい」の一言だったが、そのどれもが嘘偽りない気持ちの現れだということは、彼女の表情を見れば一目瞭然だった。
 めぼしい品を平らげると、二人は燦々と陽の照る午後の往来に目を向けた。昼下がりの路地に歩く人影はまばらで、足取りもゆっくりしていた。皆、昼飯を腹に収めたばかりのまったりした時間に浸っているようだった。
 往来をゆく人影を、ヤマメはぼんやりと眺めていた。

「なにを見ているの?」小鈴が訊く。

「えっ? うん、道を歩いてる人、元気かなって。風邪とか、引いてないかなって」
「こんな遠くから見て、分かるの?」
「なんとなくね。触ればはっきり分かるけれど……」
「へえ~すごいなあ」

 素直に感心する小鈴。それから彼女は、ヤマメの顔を覗き込んで、からかうように笑った。

「休みの日でもやっぱり人間の病気のことが気になっちゃうんだね」
「本当は休みたくないくらいなの。みんなには元気でいてほしいし、私も、たくさんの人間と知り合いになりたいから……」
「でも、休みがなかったら、こうして私と貴女はここで甘味を食べることなんてなかったのよ?」
「あっ、じゃあやっぱり休み、要るかも……」

 顔を見合わせ、二人はコロコロと笑った。笑いながらヤマメは、小鈴の笑顔を目に焼き付けようとしていた。いつでも思い出して、今と同じく、幸せな気持ちになれるように。小鈴も同じ気持ちだったらしく、微笑みながらじっとヤマメを見つめていた。
 そのヤマメの表情が、ふと、曇った。「どうしたの?」思わず小鈴が尋ねる。

「今日みたいな日が、ずっと続けばいいのに……」

 長椅子から伸ばした足を前後に揺らしつつ、ヤマメがしみじみと呟く。

「なに言ってるの? ずっと続けようよ」

 考えるまでもないとでも言いたげに目を見開き、小鈴はヤマメの顔を覗き込んだ。
 その真っ直ぐな視線を受け止めきれず、ヤマメは目を逸らす。

「小鈴には話してなかったかもしれないけど――」

 ヤマメは自分がどのように生じたのか、そのいきさつを小鈴に説明し始めた。自分が鬼人正邪という邪鬼の術により生まれた、特異な妖怪であること。元来のヤマメは人を食う恐ろしい妖怪だということ。そして、このままでは早晩自我を保てなくなることを。
 神妙な面持ちのまま、小鈴はヤマメの話を黙って聞いていた。

「妖怪の生じ方はいくつかあるの。人を食った動物が妖怪になるということもあるし、人間たちの想いや思い込みや信仰が具現化することもある。そして、普通の妖怪なら、人間から存在を信じられることで、生の根拠を得ることができる。でも、私にとっては、それは根拠にならないの。私にとっては、正邪の術の切れたときが命の尽き目。だから、ある日突然消えてしまうかもしれない……」

 こんな話はすべきでなかったかもしれない、と、話しながらヤマメは後悔し始めていた。結局のところ、誰にも如何ともしがたい問題なのだ。聞く人間の気分をいたずらに陰鬱にするだけの、益体もない話だった。
 ヤマメの考えを裏付けるように、小鈴が納得できない様子で低く呻く。

「……私は貴女の存在を信じてる。それじゃ、だめなの? 根拠なんて、これから作っていけばいいじゃない。一緒に過ごしていく中で、少しずつ」
「それは……」

 言葉半ばでヤマメは口ごもる。確かに、不可能ではないかもしれない。
 ――だが、おそらく、時間が足りない。今のヤマメの自我を元来のヤマメの自我と分離した上で、それぞれを別個の妖怪として人間たちに認識してもらうには、踏まなければならない手続きが多くある。その手続きを丁寧に追っていくだけの時間は、今のヤマメには残されていなかった。
 それをどんな言葉で小鈴に伝えるべきかヤマメが迷っていると、背後から呼びかける声が聞こえた。

「……ヤマメおねえちゃん……?」

 幼子の声だった。咄嗟に振り返ったヤマメは、その顔を見て目を丸くして驚いた。

「さっちゃん! どうしてここに?」
「ここ、私のうち……」

 内気がちな少女は、上目遣いでヤマメを見やりながらそう言った。
 少女は喘息の治療のためにヤマメの元に通っている人間の娘、サチだった。ここで会えるなど、ヤマメは予想だにしていなかった。
 ヤマメは、自分のところに訪れる患者の素性や生業などに疎かった。それは、人間の生活にまで立ち入って知ろうとするのは不躾ではないかとの懸念あるいは引っ込み思案があったためだ。しかし、いざこうして偶然という形で患者の家を知ることになると、それはそれで逆に失礼をしたような気になり、ヤマメは耳を赤くして恥じた。
 すこし気まずい沈黙が流れる中、小鈴が丁度いい具合に場をとりなした。

「知ってる子?」
「うん、私のところに通ってくれてる患者さんよ。でも、さっちゃんがお菓子屋さんの子だったなんて知らなかったわ」

 ヤマメは懐から小さな巾着を取り出すと、その中身を掌に開けた。小さな硝子のおはじきがヤマメの手の上でぶつかり、小さな音を立てた。
 それは、以前サチから貰ったおはじきだった。

「さっちゃん、ほら、見て。貴女からもらったおはじき、今もこうして持ってるよ。貴女と私の、大事な宝物だから」

 大事な人が、自分が贈った宝物を肌身離さず持っていると知った時、人はどう思うだろう。
 サチは目を丸くして、おはじきとヤマメの顔を交互に見た。そして、その視線は最後にはヤマメを捉えて離さなくなった。少女の眉がへの字に曲がり、口元には不器用ながら笑みが浮かんでいた。それが、さほど感情表現の得意でないサチにとっての、精一杯の喜びの表現だった。
 ヤマメはその気持を受け止めるように優しく微笑んだ。
 二人の様子を見守っていた小鈴が、身を乗り出して尋ねる。

「ねえ、ヤマメはおはじきの遊び方、知ってる?」
「えっ……? ううん、知らない。どうやって遊ぶの?」
「やってみせた方が早そうね。ねえ、さっちゃん、おはじきもっと持ってる?」

 小鈴の問いにサチは小さく頷くと、店の中に取って返した。

「これって、遊び道具だったんだ……」

 ヤマメは手の上の硝子片を指でつまんで瞳の前に運び、しげしげと眺めた。小鈴が頷く。

「本当はね。でも、今の貴女みたいに手に取って眺めたって良いし、金魚鉢の底に敷き詰めたり、飾りみたいに扱ったりしても良いんだよ」
「へえー……」

 ややあって、ヤマメらの元に戻ってきたサチの手には、掌ほどの大きさの巾着が握られていた。サチはその口を開けると、長椅子に置かれた盆の上にざっと撒いた。

「わあ……!」

 ヤマメが感嘆の声を上げる。陽の光を通したおはじきは、透明な色彩をきらめかせて盆の上を彩っていた。
 小鈴がひととおりの遊び方を説明する。説明される側のヤマメはというと、微笑みながら小首をかしげるばかりで、いまいち理解できていないようだった。
 それならば、実際にやってみせた方が早かろうと思い、小鈴はおはじきの玉の一つに指を載せ、ヤマメの目を見た。

「じゃあお手本見せるね。ヤマメ、見てて。私はこのおはじきがほしいから、こっちのを指で弾いて、こっちに当てる……」

 小鈴がお盆の上のおはじきを指で器用に弾く。弾かれた玉はゆるゆると盆の上を滑って、別の玉にそっとぶつかった。

「ねっ、こうして当てたら、こっちのおはじきは私のものになるの。で、たくさん取れた子が勝ち」
「勝ち負けがあるんだね。弾幕勝負よりは簡単そうかなあ……」

 ヤマメは、今しがた小鈴がやったのを見よう見まねで、おはじきの玉を指で弾いてみた。
 すると、弾かれた玉は存外勢い良くすっ飛んでいき、他の玉を盆の外まで弾き出してしまった。それを見て、小鈴が軽くたしなめる。

「あーあー、ヤマメ、それじゃ力が強すぎるよ」
「うーん、力加減がわからなくて……意外と難しいね」

 落ちたおはじきを拾おうと地面に指を伸ばした瞬間、その観念は唐突に、ヤマメの脳裏をよぎった。
 ――このおはじきは、私だ。
 明瞭な夢のように、その観念はヤマメの脳裏に張り付いた。
 そして、この観念に囚われた途端、恐ろしいほどの早さで、ヤマメの思考は虚無の奥底向かって落下し始めた。
 ――正邪の力で土蜘蛛の肉体からそれまでの魂がはじき出され、代わりに入ったのが今の私だ。
 ――そして、また私ははじき出されるのだ、この肉体から。
 ――はじき出された後は、どうなるんだろう?
 ――私は、どこに行くんだろう……?
「ヤマメ……? ヤマメ、大丈夫?」

 小鈴に肩を揺さぶられ、はっとしてヤマメは我に返った。ごく一瞬のことだったが、まるでにわか雨にでも打たれたかのように、全身が汗でじっとりと濡れていた。
 彼女が何かものを言おうと口を開きかけた時、甘味処の店の中から女の声が聞こえてきた。

「サチ! お客さんがいる時は、店先に出ちゃだめっていつも言ってるでしょう?」

 手ぬぐいを揉みながら店の中から現れたのは、サチの母親だった。店先にヤマメの姿を認めた途端、彼女の顔がこわばった。

「や……ヤマメ様……」

 次の瞬間、彼女は即座に自分の娘の腕を取ると、強引にヤマメの側から引き離していた――。
 今まで檻の中に閉じ込められていたからこそ安心して鑑賞できていた猛獣が、突然枷もなしに自宅の軒先に現れたらどう思うだろう。女がヤマメに対して直感的に抱いた感情は、それと似たようなものだった。
 たとえ相手が意思疎通可能で、話す限りでは温厚な性格だとわかっていても、元は人食いの妖怪なのだ。そのような怪しげな存在が掟破りの行動を取るならば、警戒しないわけにはいかなかった。
 サチの母親が取った行動を、ヤマメはほとんど表情を動かさずに観ていた。薄く細めた瞳の中に、寂しげな色が僅かにちらつく。人間がこのような反応を見せるだろうことは、人里を訪ねると決まった時点で半ば覚悟していたことだったのだ。
 その一方で、ヤマメは、内心で己の粗忽さを責めていた。
 人間がどのような反応をするか予想できていたにもかかわらず、彼女は人間に近づきすぎていた。小鈴や権次、サチが何の抵抗もなく自分の存在を受け入れてくれたことに、ヤマメはつい甘えてしまっていたのだ。
 穏やかだった昼下がりの甘味処の空気は、一転して重苦しいものに変わった。ただ一人事情をよく飲み込めていないサチだけが、当惑の表情を浮かべながらヤマメと母親の顔を交互に見やっていた。
 小鈴はなんとか場を取り繕おうと、ヤマメと母親の間に割り込んだ。

「あ、あの、ですね。彼女はヤマメといって、お察しの通り妖怪ではあるんですけどね、でも、すごくいい子なんですよ! 人畜無害って言葉はこの子のためにあるようなもので、だから……」
「ヤマメ様、大変恐縮ですが、お引き取りいただけますか。ここは、人間の住む場所です」

 小鈴の話を遮って、サチの母親は毅然とそう言い放った。母親の態度は八百万の神に対するがごとき慇懃さだったが、同時に有無を言わさぬ圧があった。
 友達に対して放たれる、明白な拒絶の言葉。これを聞いて、黙っていられる小鈴ではなかった。彼女は目の端を釣り上げて抗議の声を張り上げた。

「あの、ちょっと待ってもらえます? お子さんだって、このヤマメに病気を診てもらってるんでしょ? その言い方はひどくないですか!?」
「……やめて、小鈴」

 口からつばを飛ばして突っかかる小鈴を、ヤマメは静かに制した。

「行きましょう、小鈴。そんな話、したくないし、聞きたくない」

 普段大人しいヤマメの口から、断然とした否定の言葉が放たれる。小鈴は面食らって言葉を失った。
 これで仕舞とばかりに膝をはたき立ち上がるヤマメに対し、小鈴のほうはまだ承服しかねるというふうに口を尖らせ、長椅子の上に根を張ったように動かなかった。それを見て、ヤマメはぐずる子供を叱るように言った。

「立って、小鈴」

 しぶしぶといった風に立ち上がる小鈴。
 ヤマメは甘味処の親子に向き直ると、深々と頭を垂れた。

「お菓子、ごちそうさまでした。美味しかったです」

 礼を済ますとヤマメは踵を返し、小鈴の腕を引いてその場から立ち去った。
 去りしな、サチがヤマメに駆け寄り、その手を取って何かを握らせた。

「おねえちゃん、わすれもの……」

 ヤマメが手を開くと、以前サチから贈られた美しいおはじきの玉が掌の上に載っていた。ヤマメの頰がしぜんとほころぶ。

「ありがとう、さっちゃん」
「また遊ぼうね」
「うん、そのときは、今日できなかったおはじきの続き、やろうね」

 サチは嬉しそうに目を細め、コクリと頷いた。その頭を優しく撫でたのち、ヤマメは再び親子から背を向け歩き出した。
 ――もしかすると、この約束、守れないかもしれない。
 歩き始めてから、ふと、ヤマメの胸に不穏な予感が去来した。
 名状しがたい感情の奔流が、ヤマメの内から溢れそうになる。それは、不誠実な自分への憤りかもしれず、あるいは、大切な友との別れへの悲しみかもしれず、もしくはそれ以外の何かかもしれなかった。
 苦々しく歯噛みしながら、ヤマメはその感情を腹のなかにおしこんだ。





 ***





 甘味処から数十間ほど歩いたところで、ヤマメが口を開いた。

「やっぱりだめよ、小鈴。人里に私なんかが居ちゃいけない……」

 権次と会った後の揚々としたヤマメの意気は、今やすっかり萎んでしまっていた。眉をへの字に曲げうなだれながら歩く姿が痛ましい。
 隣を歩く小鈴は、ヤマメの言葉に大きく何度も首を振った。

「あの程度のことでへこたれてどうするのよ! あんたはいい子なんだから、ちゃんと話せば受け入れてくれるって!」

 大仰に腕を振って小鈴が鼓舞する。だが、小鈴の声はヤマメの耳に届いていないようだった。
 ヤマメは小鈴の目を見ず、独り言のように口の中で呟いた。

「……ルールがどうこうじゃなくて、心情的に妖怪に人里に来てほしくない人間もいるのよ。小さな子供がいる親御さんは特にそうだと思う。さっちゃんのお母さんのあの様子を見れば、妖怪の私にだってそれくらいわかるわ。たぶん、話してなんとかなるようなことじゃない」

 あくまで頑ななヤマメの様子に、小鈴は短くため息をつく。

「そりゃ、中にはあんたのことを警戒している人間がいるかもしれないよ? でも、あんたに恩を感じてる人だっているんだし……」
「私が人間の病気を治しているのは、ただ私がそうしたいから。恩を売るためじゃない。恩を感じてくれる人なら仲良くしてくれるかも、なんて、そんなのやましいと思う。それとも、小鈴、貴女は私に恩があるから、私と仲良くなってくれたの?」

 小鈴の話の腰を折って、ヤマメは長々とまくし立てた。
 あまりの言われように、小鈴は絶句してしまった。しばしのこと口を丸く開いて、真意を伺うようにヤマメの顔を見ていた。
 やがて彼女が冗談を言っているわけでも、からかっているわけでもでないとわかると、小鈴の顔が見る見るうちに赤く染まった。思ってもいないことばかり邪推されたのでは、さすがの小鈴としても穏やかではいられなかった。

「ち、違うわよ! あーもう! 何もかも違う!」

 頭を掻きむしりながら小鈴が声を荒げる。
 二人の足はいつの間にか止まっていた。
 小鈴はヤマメの正面に向き直り、まっすぐにその目を見据える。それから、噛んで含めるように小鈴を諭し始めた。
 そこから口論が始まった。

「ねえヤマメ。この人里には、あんたに恩を感じてる人がたくさんいる。そして、そういう人は、最初からあんたを妖怪だからってだけで拒絶したりしない。あの呉服屋さんだってそうだったでしょ? つまり、あの甘味処のおばさんみたいな人ばかりじゃないって言いたいの」
「それじゃ、さっちゃんのお母さんが恩知らずって言ってるみたい」
「私はそう思う」
「私はそうは思わない。あの人は、私の所に訪ねてくれた時は温厚で良い方だったわ。問題なのは、私が人里にいることなのよ」
「ヤマメ、そりゃ、これから助けてもらおうって時は誰だって良い顔するわよ。あんた、ちょっと人間に幻想を抱きすぎてる」
「小鈴は疑いすぎだと思うの。私は、どうして小鈴があの人に対して怒ってるのかわからない……」
「だって、友達が虚仮にされたのよ! それを黙ってられると思う!?」
「あの人は私を虚仮になんかしてないし、私もされたとは思ってない。あの人の態度を見て分からなかった? あの人はただ、一人の子の親として振る舞っただけ」
「……。ごめん、私には分からなかった……。でも、それじゃ、あんまりだよ。あんまりに身勝手すぎると思う」
「私が犯した過ちは責められても仕方ないと思う。それはそれ、これはこれで考えなきゃ。私がそれまでやってきたことと差し引きで考えるとおかしなことになる」
「そこを差し引きで考えられないような人、私は人として軽蔑する」

 おおかた話が煮詰まってきた頃合いで、二人は次の言葉を見いだせず押し黙った。
 言いたいことは互いに言い尽くしたものの、結局のところそこから先どうすればいいかわからず、両者とも自分の中の意固地な気持ちを持て余していた。
 と、その時だった。

「ほっほ、喧嘩は終わったかね?」

 いたって呑気な老人の声が聞こえてきた。二人は声のした方に顔を向ける。
 ヤマメと小鈴の二人が立ち止まっていたのは、古民家の前だった。玄関先に立てかけられた釣り竿や、土間の中に無造作に置かれた魚籠、網や浮きの類を見るに、どうやら漁師の家らしい。
 声の主は、玄関の奥、土間のさらに向こう、板の間の真ん中に座布団を敷いて座っていた。陽の強い外から見ると家の中は暗く、人間の姿をはっきりと捉えることができなかったが、ちゃぶ台に肘をつき湯呑みを握る姿は、何の変哲もない市井の老人のように見えた。
 人の家の玄関先でやらかした愚行に恥じ入り、ヤマメは耳を赤く染める。彼女は老人に詫びるため土間の中を覗き込んだ。
 そうして老人の顔を見た瞬間、ヤマメは目が大きく見開き息を呑んだ。僅かの間絶句した後、絞り出すように一言漏らす。

「あなたは……!」
「おや、知り合いか。はて……誰じゃろう」

 驚くヤマメをよそに、老人はいたって落ち着いた様子でヤマメに誰何する。逆光のためか老眼だからなのかは定かでないが、彼のいる場所からはヤマメの顔が見えないらしい。
 ヤマメが次の行動を決めあぐねて逡巡していると、後ろから玄関を覗き込んだ小鈴が老人を見て朗らかに笑った。

「あっ、運松翁、こんにちは!」
「おお、その声は鈴奈庵の嬢ちゃんか。今日は休みかね?」
「はいっ! あっ、そうだ、確か、運松翁には貸したまま返してもらってない本がありましたよ!」
「ほっ、そうじゃったかの。いかんな、この歳になると物忘れが酷くての」
「もー、しっかりしてくださいよー。後で回収に来ますからね!」
「あ、あの、小鈴……この方は……」

 ぎこちない様子でヤマメが尋ねる。先程まで口論していた手前、若干気まずいようだった。
 それは小鈴としても同様のようで、答えるには答えるものの、ヤマメと目を合わせようとしなかった。

「う、うん。こちら、漁師の運松爺さん。運松翁、この子はヤマメ。えっと……」

 ヤマメの素性について説明しようとして、小鈴が言いよどむ。すると、言葉を引き取るというより半ば割り込むようにして、ヤマメが言を継いだ。

「あのっ! 覚えていらっしゃいますか? 私、玄武の沢で助けていただいた……その……」
「……玄武の沢で……」

 運松ははてと小首をかしげ、ゆるりと記憶の糸を手繰りはじめた。僅かばかりの間眉間にしわを寄せてうんうんと唸った後、彼は手を叩いて破顔した。

「おぉ、あの時の妖怪か! おうおう、元気そうで何よりじゃ」

 老人は目を細め、何度も頷く。まるで遊びに来た孫を迎えるような喜びようだった。
 ヤマメは安堵したように顔をほころばせ、それからすぐ居住まいを正して老人に向き直った。

「は、はい! おかげさまで、こうして息災で過ごすことができています……!」
「そうかそうか。それにしても、おぬしが有名なヤマメじゃったのか。人に益する妖怪がおるという噂はわしの耳にも聞こえておったよ。それがあの時助けた妖怪じゃったとは」
「はい、それもこれも、全ては貴方様から受けた恩があればこそです……! 貴方様から受けた恩をどうやって返せばよいか、私、ずっと考えていたんです。貴方様と再びお会いすることはできないかもしれない、なら、せめて人間に恩返しをと思い、それでここまで……。ああ……お会い出来て、本当によかった……! ずっと、ずっと、お礼が言いたくて……。わ、私、人間の中に貴方様がいないか、ずっと探していたんです……!」

 話しているうちに、感極まったヤマメの両の瞳からポロポロと涙が溢れだした。

「おやおや、泣くでないよ、大げさじゃな。あれほど痛がっておる者を見て、捨て置くのは忍びないと思っただけじゃよ」
「……はい、その気構えを、私は今までずっと追随しておりました。最初に会った人間が貴方様だったから、そして貴方様のようになりたかったから、私は貴方様のように生きてきたつもりです」
「なるほど、そういうことじゃったか。やはり、善行はしておくものじゃな」

 冗談とも本気ともとれぬ飄々とした口調でそう言うと、運松は軽やかに笑った。
 ヤマメはさらに何事か伝えようと口を開きかけたが、先に運松の口が動くのを見て言葉を飲み込んだ。

「時に、お主ら良いのかね? どうも喧嘩しておったようじゃが」
「……」

 微妙な話題を蒸し返された形になり、ヤマメと小鈴は二人して押し黙った。
 二人は互いに目を合わせようともせず、会話の口火を切る様子もない。それを見た運松は、困ったように禿頭を掻いた。

「……ううむ。わしも外野で聞いていただけじゃからな、詳しい事情はよくわからんが……。例えばわし個人の考えからするとじゃ」

 そう前置きして、運松は咳払いをする。それから彼はヤマメをまっすぐ見て、
「わしはお主が人里にいるのは良くないと思っとる」

 厳しい表情でそう言い切った。にわかにヤマメの表情が曇る。
 しかし、運松はヤマメのそうした反応を見越していたらしい。一転して朗らかに目を細め、さらに言葉を続けた。

「じゃが、同時に、お主とここで会えて嬉しくも思っとる。ふぉっふぉ、矛盾しとるじゃろ? でも、それで良いんじゃ。人間なんてもとよりそれくらいいい加減なもんじゃよ」

 運松のその言葉を聞くと、ヤマメの目の端が心底安堵したように垂れ下がった。横で密かに二人のやり取りを見ていた小鈴が、思わず苦笑してしまう。
 ――本当に、運松翁のことを尊敬しているのねえ。
 翁の言葉一つ一つに一喜一憂するヤマメがなんとも愛くるしく、小鈴としては、もう先程の喧嘩を引きずる気になれなくなってしまった。
 小鈴がヤマメに対し慈しむような視線を送っているのを端に見つつ、運松は最後のひと押しにかかる。

「それより、大事な友達なんじゃろ? なら、素直になりなさい。後から悔いるようなことのないようにの」

 ヤマメははっと息を呑むと、すぐさま甘味処での出来事やそれ以降のことを思い返し始めた。そして、その間、己がどんな気持ちだったかも。
 過去の己の心の動きを逐一反芻し、そして、その感情に従って行動していたか思い巡らせる。
 すると――。
 ――悲しい。
 それまで抑え込んでいた感情が、ヤマメの心の中にふつふつと湧き上がってきた。
 ――悲しい……悲しい。
 弱々しい声が、ヤマメの胸中で虚ろに響く。
 この段にしてようやく、本当の気持ちがヤマメの中に響いてきたのだ。
 情けないやら恥ずかしいやらで、身体が熱くなっていくのをヤマメは感じた。おずおずと小鈴に眼をやると、彼女は既にまっすぐにヤマメに向き直り、話ができるようになるのを待っていた。
 早く今の気持ちを伝えたい。でも、どう切り出そうかわからない。
 ヤマメは頼りない頭で話の端緒を必死で考えていた。しばしの後、彼女は意を決したように顔を上げ、かすれた声で話し始めた。

「……あの……。……小鈴、ごめんね。私、さっちゃんのお母さんから出てってって言われたとき、本当はちょっとだけ悲しかったの。でも、私、その悲しい気持ちを人間のせいにしたくなくて……私のせいだと思いたくて……それが小鈴を傷つけるってわかってたのに、八つ当たりみたいなことを……」

 たどたどしくも懸命に話すヤマメ。その言葉を、小鈴は静かに聞いていた。
 一方、吐露できる気持ちをすべて吐き出したヤマメは、口をつぐんでうつむいてしまった。
 ――軽蔑されたかもしれない。
 そんな考えが頭をよぎり、足が震え始める。
 何より、今、ヤマメは自分自身を軽蔑しかけていた。自分がこんな小さなことでイライラしたり、八つ当たりしたりするような妖怪だったとは思ってもみなかったのだ。
 それとも、本当は元から自分はこんな情けない妖怪だったのか。
 あるいは、正邪の力の限界が来ているのか……。
 だとしたら、この優しい人間の少女とこれ以上一緒にいて良いのか。これ以上は、迷惑になるのでは――。
 負の感情がさらなる負の感情を呼ぶ悪循環に、ヤマメはとらわれつつあった。
 そんなヤマメの様子を見かねたのか、小鈴はやおらヤマメに近づき、その肩にそっと手を触れた。

「……大丈夫、もういいよ、ヤマメ。私の方こそ、ヤマメの気持ちわかってあげられなくて、ごめんね……」

 そう言うと小鈴は、優しく包み込むようにヤマメの身体を抱きすくめた。
 ヤマメは驚いて顔を上げ、ひどく狼狽して身体を離そうとする。しかし、固く抱きしめられた小鈴の腕は、乱暴でもしない限り解けそうになかった。
 震える声でヤマメが囁く。

「そっ、そんな……小鈴がどうして、謝るの……? 悪いのは私……私が悪いのに……」
「どっちが悪いかなんて、もういいよ。でしょ? 私も想像力がなかった、貴女もイライラしてた。だから喧嘩になったけど、もう仲直り。ね、それでいいじゃない」

 ヤマメの瞼から、小さな涙の粒がほろほろとこぼれた。それを追うように、喉から嗚咽が漏れる。

「もう、本当、泣き虫なんだから」などと小鈴の口から小言が漏れたが、その声音はあくまで優しかった。
 ヤマメの頭を柔らかく撫でつつ、小鈴は感慨深げに目を細める。

「ヤマメは本当に人間が好きなんだね。それなのに、私ったら貴女の気持ちを踏みにじるようなこと言ってた……」

 小鈴の肩に顔をうずめながらヤマメは首を横に振った。次いで涙声で何か呻くが、くぐもった声を小鈴は聞き取ることができなかった。
 やがて、彼女は小鈴の肩から顔をあげると、その耳元にそっと囁いた。

「小鈴、ありがとう……」

 ヤマメは静かに身を離すと、小鈴の目を真っ直ぐに見て言った。

「貴女のおかげで、ずっと会いたかった方に巡り合えた……」
「どういたしまして! ヤマメ、本当に運松翁と話してて嬉しそうだったもんね!」
「人里も楽しかったよ。呉服屋の店主さん、とても良い方だった」
「髪飾り貰えちゃったもんね」
「お菓子も美味しかった」

 そうだね、と言って小鈴は静かに微笑む。
 それからヤマメは、僅かに恥じらうように俯いた。そして、聞こえるか聞こえないかという小さな声で、囁いた。
 本当に伝えたかったことを。

「……でも、何より、私、貴女に会えてよかった」
「うん、私もよ、ヤマメ」

 ささやかな声で伝えられた気持ちに、小鈴は優しい声で応える。
 すると、今度はヤマメの方から腕を伸ばし、小鈴の身体を抱き寄せた。
 ヤマメはそうしてから、小鈴の耳元に向かっていま一度、囁いた。

「本当にありがとう……」
「うん」
「……ありがとう……」
「……うん」
「…………ありがとう……」
「……ちょっと、もう! あんまり何度もありがとうって言われると、照れちゃうでしょ!」

 冗談めかして、小鈴はヤマメの背中を軽く叩いた。
 その瞬間、ヤマメの膝がガクリと折れ、崩れるようにして彼女は地面に倒れ伏した。





 ***





 ヤマメが瞼を開いた時、その眼に最初に飛び込んできたのは、血のように赤く染まった窓の外の風景だった。
 自分がどこにいるのか、なぜここにいるのか判然としない。頭も薄ぼんやりとしている。
 茫洋とした意識のまま、ヤマメは周囲を知るために頭を巡らす。
 彼女は小さな部屋の中にいた。天井の形からみてどうやら屋根裏部屋らしい。その身は、部屋の中央に敷かれた布団の中に横たえられている。
 部屋の第一印象は、兎にも角にも本が多い、ということだった。壁際の本棚には隙間なく本が敷き詰められている上、その周囲には収めきれなかった本が山のごとく平積みになっている。さらに、部屋中の至る所に読みさしの本が開かれたまま置きっぱなしになっていたり、本同士を噛み合わせて互いを栞代わりにしたりしているところを見るに、この部屋の住人が普段から読書に親しんでいることが伺えた。
 人間の住む家の一つに違いなかったが、しかし、この部屋の空気は、妙にヤマメを安心させた。
 この部屋は、妖気が異様なまでに濃い。人里の中にいると思えないほど、部屋の中は妖怪の気配に満ち満ちている。ヤマメの意識が朦朧としているのは、この漲る妖気にも一因がありそうだった。
 と、ヤマメの耳に快活な声が飛び込んできた。

「あっ! ヤマメ、目が覚めたのね! よかった~」

 声のした方に首を向けると、階下に向かう階段の下から、人間の少女が頭をちょこんと出してこちらを見ていた。白く瑞々しい肌をした、可愛らしい人間の少女だ。ヤマメは思わずつばを飲み込む。

「こすず……」

 その少女の名前が、自然と口をついて出る。そう、この少女の名前は小鈴だ。暗く模糊とした記憶の中、その名前が闇夜の星のごとく明瞭に輝いていた。
 人間の少女小鈴は、名前を呼ばれると一瞬だけ眼を細めて笑った。そしてすぐに、気遣わしげに眉を寄せてみせる。

「まだ具合が悪そうね……。もうちょっと横になってた方が良いよ」
「ここは、どこ? 本がいっぱい……」
「ここは私の家よ。ここにある本は全部、私の私物。下の階の半分がお店になってるの」
「お店?」
「あれ、言ってなかったっけ? うち、貸本屋やってるのよ」

 聞かされた記憶があるように思えるし、ないようにも思える。ヤマメは依然靄がかかったように不明瞭な意識を歯がゆく感じていた。
 一方の小鈴はヤマメの内なる異常など知る由もなく、親しげに近づいてくる。彼女は枕元に近づくと、ヤマメの身体をやや強引に布団の上に横たえさせた。

「びっくりしたよ。いきなり倒れちゃって。ねえ、大丈夫? 気分はどんな感じ?」
「う、うん……。なんだか頭がぼーっとする……」

 この小鈴は知り合いのはずだが、肝心の誰なのかがヤマメにはとんと思い出せなかった。だが、今それを白状すると面倒なことになりそうだと思ったヤマメは、黙って話を合わせた。
 枕元にいざり寄った小鈴が、その手をヤマメの額にそっとあてる。

「やっぱり熱はないよね……」

 柔らかく、しっとりした手だった。その手から伸びる腕は肉付きよくふっくらとしていて、これまた柔らかそうだ。ヤマメは思わず布団の中から手を出して、この、有り体に言えば美味しそうな腕を、指の腹でついと撫でた。小鈴はこそばゆそうに笑う。

「ちょっと、くすぐらないでよ」
「小鈴の腕、綺麗だね……」

 やにわに小鈴が表情を固くして手を引っ込めた。
 ヤマメは心の中で舌打ちする。自分ではわからなかったが、おそらく顔か声音に下心が滲んでしまったらしい。
 一瞬だけ狼狽した表情を見せた後、小鈴はくるりとヤマメに対し背を向けてしまった。

「……あっ、そうだ! ヤマメに見せたいものがあるの。もしかしたら、これを見たら元気になるかもしれないと思って!」

 取り繕うように言いながら、小鈴は部屋の隅にある本棚の方に寄っていった。

「あれっ……どこにしまったっけ……」

 本棚の中を慌てた様子でひっかきまわす小鈴の背後に、床から抜け出したヤマメが音もなく近づいていく。その眼は、小鈴の着物の襟からのぞく白いうなじを射抜くように見つめたまま。
 小鈴の真後ろまで来ると、ヤマメは何の躊躇もなくその華奢な身体を両の腕で抱きしめ、うなじの中に鼻先をうずめた。
 驚いて身じろぐ小鈴だったが、しかと抱きしめられてもはや逃れることはできなかった。

「やっ、ヤマメ……ちょ……どうしたの……」
「小鈴のうなじも、しろくて、綺麗……」
「そ、そうね……あんまり外に出たりしないから……」

 腕の中で、小鈴の身体が小さく震えているのがわかった。小鈴の心臓が激しく脈打つのを、肌を通して感じる。ヤマメの胸の奥から、何か乱暴な衝動が蛇のようにのたうち暴れ始めた。
 もう構わない、かつてこの娘と自分がどうだったろうと、もう関係はない。本能の勧めに従い、この娘を愛するように貪り食らうしかない。
 ヤマメが小鈴の白いうなじに歯を立てようと口を開いた。すると――。
 ――やめて!
 頭の中で――己の意思と無関係に――己の声が叫んだ。その瞬間、ヤマメの意識は急激に反転した。
 小鈴の身体から、ヤマメは飛び退って離れる。
 不審げに振り返った小鈴が見たのは、玉のような汗を額からこぼしてにじりすさるヤマメの姿だった。ヤマメは目玉を右往左往させ、唇を震わせつつ、やっとのことでかすれた声を喉からひり出す。

「ごっ……ごめんなさいっ! ……わ、わたし……。ごめんなさい……っ!」
「ど、どうしたの、ヤマメ!?」

 小鈴としてはもはや訳も分からず、うろたえるしかない。ひとまず恐慌の中にあるヤマメを落ち着かせようと小鈴が一歩足を踏み出した瞬間、ヤマメは身を翻して階段めがけて飛んでいった。呆然と見守る小鈴の視界の中で、ヤマメは転がるように階段を下っていく。
 小鈴が気を取り直した頃には、既にヤマメの姿は鈴奈庵の中になかった。慌てて外に出てヤマメの姿を探すも、宵闇迫る人里の中で彼女の姿を見つけることは難しかった。
 それでも小鈴は、ヤマメの姿を探して駆け回った。日が落ち、深夜に至り、小鈴自身が両親から捜索され連れ戻されるまで、その足が止まることはなかった。





 ***





 ヤマメは駆けていた。ぬめる宵の闇に足を幾度ももつれさせ、息も絶え絶えになりながら。
 血液の全てに、恐怖が浸透していた。心臓が一拍する毎に、血流に乗ってその暗く冷たい感情が全身に行き渡る。
 ただただ、怖かった。怖いから、逃げたのだ。逃げるために、駆けている。
 膝が笑う。木偶のようになりそうな脚を、ヤマメはがむしゃらに振り回して逃げた。
 何が怖いかは、判然としていた。だから、人間から遠ざからなければならない。人間が怖いのではない。怖いのは己だ。ヤマメは頭を振る。考えるのは後だ。今はとにかく走らなければ。
 人里の門までたどり着くと、外に出るため門扉を全身で押す。額から溢れた汗が一滴また一滴と土の上に落ちるのを見ながら、ヤマメは重い門を開く。
 転げるように門の外に出ると、再び走り始める。道なりに、とにかく道なりに。目当てなどない。まず人里から離れなければならない。
 しかし、さして長い距離を走ったわけでもないのに、息が続かなくなり、足が止まる。喘ぎながら顎を上げると、ヤマメの瞳に宵の明星が映った。西の山際にまばゆく光る星の瞬きが、ヤマメの双眸を刺す。
 命や魂というものには、必ず終わりが訪れる。ヤマメは、それが今だということを直感した。
 ヤマメは衝動的に来た道を振り返った。道の先で、里の光が煌々と輝いているのが見える。無数の、命の光だ。
 ――あのうちの一つに、小鈴がいる。
 小刻みに震えるヤマメの唇の奥に、食いしばった歯が覗く。全身が、戻りたいと言ってわななく。
 ――一歩だけ。一歩だけでも、小鈴に近づけるなら。
 僅かに、膝が動く。しかし、ヤマメが人里に向けて歩を戻すことは、ついになかった。
 彼女はうつむいて、身を固くしていた。右の手の指で左の二の腕をきつく掴む。掴む指の間を血が伝い始めても、頓着しなかった。
 固く閉じられた瞼の隙間から涙の粒が一滴にじみ、頬を伝って落ちた。
 それで終いだった。ヤマメは踵を返して再び走り始める。その眼からとめどなく溢れる涙を、もはや止めようとも拭おうともせずに。
 感情の嵐がヤマメの胸の内をかき乱す。しかし、頭の何処か片隅だけは、凪いだように静かだった。走り始めた瞬間から、目指す場所は決まっていた。命蓮寺だ。目下、彼女が最期を任せられるのは誰かと考えた時、住職しか思いつかなかった。
 寺の山門をくぐり、長い階段を登りきると、すぐにあの小庵が見えた。出かけてから半日程度であるにもかかわらず、その佇まいにヤマメは懐かしささえ覚えていた。
 庵の前で、妖気をまとった影が動いた。
 影はヤマメの前までゆっくりと歩み寄ると、哀しげに微笑した。

「待っていましたよ」
「……住職……」





 ***





 日没からいくばくか経ち、小庵の中は闇で満たされていた。白蓮は部屋の中に手燭台を持ち込み、それに蝋燭を置いて火を灯す。
 二人は狭い庵の中で膝を突き合わせて座った。
 寸刻を惜しむように、白蓮が口を切る。

「ヤマメさん、今、貴女の存在は失われかけています。しかし、貴女を一個の妖怪として安定させるには、残念ながら時間が足りません。そこで、私とマミゾウで、時間稼ぎの策を用意しました」

 白蓮は懐から一幅の巻物を取り出し、ヤマメの前に広げてみせた。

「それは……?」
「百鬼夜行絵巻。出処は私も存じませんが、マミゾウが調達してくれたものです。私はこれから、貴女の魂を肉体から引き離した上で、この巻物の中に封じ込めます」
「――っ」

 想像だにしていなかった提案を受け、ヤマメは息を呑んだ。
 封印。多くの場合、邪悪な魔や暴走する災厄を無力化するために用いられる手段だが、今回に限れば、ヤマメを救うために用いられるようだ。
 しかし、今の白蓮の説明だけでは不明なところが多々残る。
 ヤマメはおそるおそる尋ねた。

「封じ込められたら、私はいったいどうなるのですか……?」
「魂の凍結――。噛み砕いて言えば、長い眠りにつくことになります」
「長い眠り……いったい、どれほどの間――?」
「申し訳ありませんが、それは、明言できません――」

 不用意な発言は、嘘になりかねない。白蓮は戒律上の理由から、言葉を濁すことしかできなかった。
 ヤマメの存在は完全なるイレギュラーであり、特異な事象だった。白蓮の千年の生の中でも、このような事例に相まみえるのは初めてだった。彼女は付喪神ではないし、別の妖怪が取り付いたわけでもない。強いて言えば、魂が自然発生したとしか言えない。
 そんな彼女を一個の妖怪として実現させる方法は、現状『不明』というのが正直なところなのだった。そうなると、かかる時間も計りようがない。
 白蓮は至極すまなそうに目を伏せ、うつむいた。

「このような手段を取ることは、私にとっても本意ではありません。しかし、今はどうしても時間が足りないのです。いずれ、必ず貴女を真の妖怪として復活させてみせる。それは約束します。ですが……」
『今は時間がない』
 この言葉が白蓮の口から繰り返されるたびに、切実さがヤマメの胸を打った。
 白蓮も、マミゾウも、ただ一事、ヤマメの命を永らえるためだけに力を尽くしてくれている。そのことが、ヤマメにはありがたく、また、申し訳なくもあった。

「……ありがとうございます、住職。そのご厚意だけでも、私には身に余ることです」

 ヤマメは居住まいを正し、指をついて深々と頭を下げた。
 ずいぶんと長いことじっと伏せった後、ヤマメはゆっくりと身を起こした。
 狭い庵の中に沈黙が降りる。
 ヤマメの言葉を、白蓮住職は静かに待っていた。彼女には、まだ言い残せていない想いがある。白蓮は眼前の少女の様子からそれを看破していた。
 やがて、ヤマメが押し殺した声を発して沈黙を破った。

「……住職」
「はい」
「住職、貴女にお会いできて、本当に良かった……」
「私もですよ」
「マミゾウさん……マミゾウさんにも、たくさん助けていただいて……。あの方は、いらっしゃらないのですか?」
「マミゾウは……一緒に見送ろうと誘ったのですが、湿った場面は好かんといってやんわり断られてしまいました。ですが、一言だけ、伝言を預かっています。『また会おう』、と」
「ふっ……ふふっ……マミゾウさんらしいです。その時の情景が、まるで目に浮かぶよう……」

 震える声で笑った後、ふいに、ヤマメの脳裡に一人の少女のおもかげが浮かび上がった。
 少女の姿は、幾度も表情を変えつつ浮かんでは消えていく。
 ふくれっ面、意地悪そうに笑う顔、困ったように口をへの字に曲げた顔、目を吊り上げて怒る顔、それから、輝くような満面の笑顔――。

「……小鈴……」

 その少女の名前が、ヤマメの口をついて出る。その途端、少女と人里で過ごした記憶が、鮮やかな五感を伴って蘇った。
 繋いだ小鈴の手の暖かさと柔らかさ。呉服屋の店主から渡された簪の、螺鈿の煌めき。甘味処で食べたうぐいすの舌触りと甘さ。硝子のおはじきがぶつかり合う澄んだ音。抱きしめた小鈴の髪から立ち上る香り。
 記憶の余韻は、しばらくの間ヤマメの心の中でじんわりと響いていた。呆然とした表情のまま、ヤマメは呟く。

「――小鈴とは、ほんの僅かの間しか、同じ時間を共有できませんでした……。一緒に遊んだのなんて、今日が初めてなんですよ……? でも、なんだかずっと昔から一緒だったみたいな気がして……」

 ヤマメの唇が、続く言葉を紡げずに空転する。
 抑えつけていた感情が、今やヤマメの喉元にまで上ってきていた。あと一言でも声を出しただけで、溢れてしまいそうになる。ヤマメはせり上がってくるものを押しとどめるように、己の胸元を掴んだ。
 突如、ヤマメの心象が青鈍色に染まった。記憶に新しい空の色。宵の空の色だ。

「あ、あの、住職、私の話は、もうこれで……」

 これ以上は耐えることができそうにない。そう直感したヤマメは、すがるように白蓮を見た。白蓮は横に首を振る。伝えたい言葉が、まだあるはずだ、と。
 宵の空の下に、光が見えた。暖かそうに煌々と灯る、人里の光だ。無数の光は、それは、命の光――。
 ヤマメは知っている。あの光のうちの一つに、彼女がいることを――。
 抗いがたい衝動に突き上げられ、膝が動く。一歩でも、彼女に近づこうとして。
 あの時と、全く同じ光景。しかし、二度目は、耐えられなかった。
 ヤマメの脚が、一歩、里に向かって歩みだされる。
 と同時に、己の胸元を掴んでいたヤマメの手が、はらりと落ちた。

「小鈴に、会いたい……」

 ぽつり、とヤマメが呟いた。

「本当は、今すぐ会いたい……。さっき別れたばっかりなんです。でも、もう一度会いたい……。明日も、明後日も、ずっと、ずっと、あの子のそばにいたい……!」

 もはや止めることのできなくなった感情が、奔流となってヤマメの口から溢れ出る。その痛切極まる声は、ほとんど悲鳴に近い響きを発していた。

「ごめんなさい、住職、ごめんなさいっ……。貴女のご厚意には感謝しているんです――! でも、でもっ、なんで、私はこんなところで……っ。これからなのに! これからたくさん、小鈴と、みんなと、思い出を作るはずだったのに……!」

 叫びながら、ヤマメは畳の上を何度も拳で叩く。白蓮は取り乱すヤマメにいざり寄り、彼女の頭を胸の中に掻き抱いた。
 額を包む柔らかな感触に、ヤマメは一瞬目を丸くして身を引こうとした。しかし、白蓮の手に優しく髪を撫でられた瞬間、ヤマメの心はいともたやすく決壊した。最初は嗚咽、その後すぐにしゃくりあげるような声が白蓮の胸の中から漏れる。
 ついには、ヤマメは声を上げ、身も世もなく泣き始めた。産まれたばかりの赤ん坊のように、声を張り上げてヤマメは泣きじゃくった。





 ***





 マミゾウは寺の手頃な木の枝の上に身を預け、木の葉の合間から覗く星空をぼんやりと見上げていた。指に挟む煙管の中身は、とうの昔に燃え尽きている。
 幻想郷の夜空はひどくまばゆい。外の世界から来たマミゾウにはことさらそう思えた。全天球に瞬く星々は、現代日本の空にはないはるか昔の輝きをそのまま残していた。
 一条の流れ星が、長い尾を引いて星々の間を走った。流星の残像が長いこと夜空に張り付いていたが、それはやがて溶けるように消えていった。
 マミゾウは眼下の小庵に眼を落とした。庵の障子窓の向こうで仄かに揺れていた灯の光が、ふっと消える。

「済んだか……」

 背を預けていた樹の幹に、キセルの雁首を叩きつける。
 それから勢いよく地面に飛び降りると、マミゾウは小庵に向かって歩いていった。





 ***





 小鈴は夢を見ていた。ヤマメの夢だ。
 夢の中で、ヤマメはおはじきを弾いて遊んでいた。地面には、色とりどりのおはじきが星の数ほど散らばっている。地平線まで続くおはじきの海だ。そのうちのひとつをヤマメが爪で弾くと、別のおはじきに上手に当たった。
 ヤマメは小鈴の方を見上げて、幼い子供のように笑った。

「ほら、見て。今度は上手くいったよ、小鈴……」

 そこで目が覚めた。
 瞼を開いた時、天井が歪んで見えた。直後、瞼の端から涙が筋となって流れていることに気づく。夢を見ながら泣いていたらしい。
 昨夜、目の前から逃げるように去っていったヤマメを追って、小鈴は人里中を駆け回っていた。その挙句、結局ヤマメを見つけることは叶わなかった。彼女に会いたいという強い一心が、朝の夢となって現れたのかもしれない。しかし、泣くのはさすがに大げさなことのように小鈴には思えた。
 昨日はダメだったが、今日こそは必ず会えるはずだ。命蓮寺まで足を伸ばせば、はにかみながら笑うヤマメの姿を目に収める事ができるだろう。そう考えると、小鈴の身体に活力が巡ってきた。
 瞼の端を袖で拭いつつ身を起こす。ふと傍らに目をやると、枕元に一巻の巻物が置かれていた。
 それは、紛失したと思っていた小鈴秘蔵の百鬼夜行絵巻だった。昨日、倒れたヤマメに見せようとしていたのが、この絵巻だったのだ。
 小鈴は、しばらく眉をひそめてその巻物をじっと見ていた。以前からそこにあったのを見落としていた、などということは断じてない。誰かが、夜の間に枕元に置いていったのだ。
 おそるおそる巻物を手に取り、紐解く。そして、隅々まで丹念に検める。
 小鈴はこの巻物を穴が開くほど読み込んでいたので、巻物のどこにどのような文言がしたためられ、どのような図絵が描かれているのか完全に把握していた。そのため、彼女が巻物の絵の中に異変を見出すまでさほどの時間は要しなかった。
 百鬼夜行絵巻の巻末には、日の出が描かれることが多い。魑魅魍魎をふんだんに収めた書巻は邪気を寄せやすく、それゆえに所有者に不幸をもたらすことがままある。巻末に描かれた日の出は、巻に寄り来る邪な気を打払い、所有者を守る役割を持っている。
 小鈴の持っていた絵巻もご多分に漏れず、末尾に見事な日の出の場面が描かれている。
 その日の出の絵の寸前に、太陽の光を全身に浴びて佇む一人の少女の姿が描かれていた。少女の髪には、黒い簪が――。

「……ヤマメ……」

 見間違えようもない。そこに描かれていたのは、昨夜延々と探し続けていたヤマメの姿だった。





 ***





 その後、小鈴は命蓮寺の白蓮住職から事の次第を聞いた。ヤマメの誕生に関するいきさつや、その魂の特殊さ、脆さについて。そして、彼女を封印せざるを得なかった事情や、彼女が封印される直前どのような様子だったかも、白蓮は事細かに小鈴に話して聞かせた。
 白蓮は話の合間合間に、詫びの言葉を幾度も差し挟んだ。小鈴に対して向けられた陳謝の言葉はしかし、どちらかと言うと、ヤマメに対する懺悔のように小鈴には聞こえた。痛ましいまでに自らの無力を責める住職を、小鈴が敢えて責めることはできようはずもなかった。
 だが、納得はできなかった。白蓮の無力さに対してではない。むしろ、小鈴の見る限り、白蓮はヤマメのために出来る限りの手を尽くしている。そうではなく、友達がさほどの危機的な状況を孕んでいたことに気づきもせず、何一つ手助けもできなかった自らの無力を、小鈴は到底許すことができなかった。
 ヤマメは、最後まで小鈴に会いたがっていたという。しかし、会えば妖怪としての自我が小鈴を危険に晒すこともわかっていたから、血を吐く思いで踏みとどまったのだ。
 自分にもう少し力があれば、と、小鈴は思わずにはいられなかった。それでヤマメが封印されずに済んだかといえば、それは苦しい。白蓮ですら解決できなかった問題なのだ。小鈴が多少力をつけたところで、安々と乗り越えられるはずもない。だが、もう少し力があれば、せめてヤマメの側に付き添ってあげることはできたはずだ。
 力。
 そう、力だ。
 望みを叶えるための根拠となる力。それが、小鈴にもヤマメにも足りなかった。
 あったのは浮草のような理想だけ。その理想を力だと思いこんで、それで行動してみたものの、どうにもならなかった。それだけなのだ。





 ***





 朝目覚めた時、目の端を拭く所作が癖になってしまっていた。このところ、小鈴は毎日ヤマメの夢を見ている。
 今日は泣かなかったらしい。珍しいことだが、全くないわけではない。良いことが起きそうな予感がして、小鈴は跳ね起きた。
 そして、枕元に広げられた一巻の巻物に声をかける。

「おはよう、ヤマメ――」

 当然、返事はない。絵なのだから。だが、もしかするとこちらの声は聞こえているかもしれない。……聞こえていてほしい。そんな期待から、小鈴は毎日こうして巻物の中の絵に向かって話しかけている。
 朝食をとり、身支度を整え、店の掃除を済ませる。ひととおりの朝の仕事を終えると、小鈴は自室から絵巻を持ち出して、ヤマメの姿が見えるように店の隅の壁に掛けた。

「さ、今日も一日、一緒に頑張っていこうね、ヤマメ!」

 よし、と気合を入れると、小鈴は机の上に本を広げ調べ物を始めた。在庫の棚卸しや修繕、貸し先の管理など、やるべき仕事は多々あるが、全て後回しである。
 調べている内容は他でもない。妖怪を復活させる方法である。ヤマメを復活させる方法がないか、小鈴も小鈴なりに探っているのだ。
 白蓮住職は小鈴の前で、必ずヤマメを復活すると約束してくれた。だが、いつまでに、という質問に対しては明言を避けていた。
 最悪の場合、小鈴が寿命を迎えたずっと先の未来に、その約束は果たされるかもしれない。
 そんな約束は、小鈴にとって全くの無意味なものだ。
 それだから、彼女は机の上に古今東西の怪しげな書籍を積み上げ、少しでも役に立ちそうな情報があれば傍らのノートに写していった。綿密に、そして半ば病的に。僅かでもヤマメのもとに近づくために。
 妖怪の存在について調べ始めてすぐ、小鈴はある原則を知った。どの本にあっても異口同音に語られるそれは、『妖怪は基本的にその存在を人間に依存している』という内容だった。人間に存在を信じられない限り、妖怪は存在を維持することができないらしい。
 その原則が真実だとすれば、ヤマメをこの世に復活させる方法は単純明快だった。『彼女が未だにこの世に存在する』ということを多くの人間に信じてもらえばいい。
 しかし、いかんせん言うは易し行うは難し。これには多くの手間と時間がかかるだろうことが容易に想像できた。その上、ヤマメはいまや絵の中にしか存在しないのだ。これこそ決定的な問題だった。例えば絵に書かれた虎を、さあこれが本物の虎だと言い張る者がいたとして、恐れる人間がいるだろうか。だいぶん怪しい。
 では、別の方法はないだろうか――? もっと簡単で、もっとすぐに実現できる方法は――?
 小鈴が机にかじりついて黙々と調べ物していると、正午少し前になって、一人の来客が鈴奈庵を訪れた。運松翁だった。
 運松は普段通り飄々とした風情で鈴奈庵の門をくぐると、手に持っていた風呂敷を小鈴のいる机の上に置いた。

「借りていた本を返しに来たよ。……聞いていたよりは、元気そうじゃな」
「あ、運松さん、いらっしゃい! 聞いてたよリ……って、私、元気ないってことになってるんですか?」
「目の下にくまが出来とるよ」

 運松は自分の下瞼を指で横になぞってみせる。

「あー……ちょっと、このところ遅くまで読み物してまして」

 みっともない顔ですみません、と、照れ笑いしながら小鈴は頭を掻いた。
 運松は一瞬躊躇して続く言葉を喉に詰まらせる。
 言いにくそうにうめき声を出しつつ、運松は真摯な表情で小鈴を見据えた。

「おぬし、里の者の間で、噂になっとるよ。あの日、おぬしと一緒にいた妖怪に取り憑かれているとか」
「えっ、何言ってるんですか。私、こんなにピンピンしてますよ? それに、ヤマメがそんなことするわけないじゃないですか」
「うむ……そうよな」

 努めて明るく振る舞う小鈴の姿を見ていられず、運松は思わず目を逸らした。
 彼は泳がせた視線を、壁に掛かる絵のところで止める。

「あれが、その、ヤマメが封印されたという巻物かね?」
「ええ……」

 一瞬だけ、小鈴の声の中に哀しげな色が差す。

「見ても良いかね?」
「もちろんです! きっとヤマメも喜びます。どうぞ、近くに寄って見てあげてください!」

 小鈴は喜々として立ち上がり、運松の袖を引いて壁に掛かる絵巻の前に立たせた。
 運松は絵に描かれたヤマメの姿をしばしの間じっと見つめていた。たっぷりと時間を掛けて絵を眺めた後、運松はゆっくりと唇を開いた。

「ヤマメよ、小鈴のことを、どうか頼んだよ」

 彼は壁に掛けられた絵に向かって、そう語りかけた。
 小鈴の喉が、ぐ、と鳴った。しまった、という顔で、彼女は口元を抑える。
 幸いなことに運松は小鈴の様子を気にする素振りも見せず、用が済んだからと言って店を出ていった。
 去りしな、運松は小鈴の肩をぽんと叩き、
「小鈴、おぬしはあまり無理せんようにの」と言った。

「だから、なんで――」

 あくまで否定しようとする小鈴を無視して、運松はさっさと店を出ていってしまった。





 その夜、仕事が捌けた後、小鈴は屋根裏の自室にこもって調べ物の続きに取り掛かっていた。文机の上に灯りを据え、昼間読みきれなかった本を山積みにする。
 調べ物を続けつつ、小鈴は傍らに広げた絵巻に向けて話しかける。
 今日あったことや、思ったことなどをヤマメと共有する――。これもまた小鈴の日課になっていた。

「運松翁、来てくれて良かったね、ヤマメ。あの人も、ヤマメのこと、大事に思ってくれてるんだよ」

 小鈴はノートに筆を走らせつつ、上機嫌に目を細める。

「運松さんがヤマメに話しかけてくれた時、ちょっと泣きそうになっちゃった。危なかったよ……」

 昼間の出来事を思い出したのか、小鈴の瞼の端に涙が浮かんだ。慌てて筆を置いて、服の裾でそれを拭う。一度拭っただけで涙は止まったので、小鈴はほっとして息をつく。

「人前では絶対に泣かないって決めたんだ……。泣いちゃったら、皆心配して、ヤマメの立場が悪くなっちゃうもんね」

 小鈴は昼間の運松の言葉を思い出していた。小鈴は今、里の口さがない連中の噂の種になっているらしい。曰く、小鈴が妖怪に取り憑かれているとかどうとか。しかも、その妖怪というのがあろうことかヤマメだというのだ。
 バカげたことだ、と、小鈴は顔を歪ませる。

「みんな、まだまだヤマメのことわかってないのよ。……必ず私が復活させてあげる。そしたら、ヤマメの良いところ、もっとたくさんの人に知ってもらうんだから。だから、待ってて、ヤマメ」

 小鈴は再び筆をとり、書籍のページに指をのせる。調べ物は深夜に及び、周りの家々の灯が消える中、鈴奈庵の屋根裏の窓から漏れた明かりだけが煌々と人里の中に灯っていた。





 小鈴は夢を見ていた。このところ毎日夢を見ている。しかも、その夢には、欠かすことなくヤマメが登場していた。
 幸せな夢の時もあれば、ひどい悪夢の時もあった。
 今日の夢は後者だった。
 最初こそ、大変幸福な夢だと小鈴は感じていた。夢の中で彼女はヤマメと手を繋ぎ、人里の目抜き通りを並んで歩いていた。互いに笑顔を見せ合い、冗談を言い合いながら。
 だが、そうした幸せな場面は長く続かなかった。
 身体を折り曲げながら笑う小鈴の耳に、何か、低く淀んだ声が聞こえてきたのだ。それが具体的にどんな言葉かはわからなかった。だが、小鈴が妖怪と一緒にいることを非難するような意味の言葉であることは間違いなかった。
 小鈴は目を吊り上げて周囲を睨め回す。今、くだらない発言したのは一体誰なのか、と。そして、彼女は愕然とした。
 言葉を発したのは、一人ではなかった。それどころか、周りにいる全ての人間が、おしなべて同じ目つきで小鈴とヤマメの二人をじっと見ていた。その眼差しは酷薄至極で、彼我の間に厚い透明な壁を築いて決して近づけまいとする目だった。
 その目を、小鈴は見たことがあった。あの甘味処のおかみさんが、ヤマメに差し向けていた目つきだった。
 小鈴が歯噛みしながら首を巡らせていると、取り巻く人影の中に知った顔を認めてさらに顔をしかめることになった。
 阿求の顔が見えた。霊夢も居た。甘味処のおかみさんの姿も当然のようにあった。権次も居た。運松まで、眉をひそめて小鈴たちを見ていた。
 人間の味方が、一人も居なかった――。
 冷や汗で肌着が湿り、べったりと小鈴の身体に張り付く。
 周囲を取り巻くこの薄情な目から、心ない陰口から、ヤマメを守らなければならない、と小鈴は直感し、繋いでいた手を握り直そうとした。だが、いつのまにかヤマメの手は小鈴の掌の中から失われていた。
 慌ててヤマメの姿を探す。すると、はるか遠くの闇の中に、たった一人孤独に佇むヤマメの姿を認めた。彼女は弱々しく肩を落とし、じっと小鈴を見ている。その唇が、何か言いだそうとゆっくり開かれた。小鈴の注視する中、ヤマメの寂しげな声が、闇の中に響く。

「このままじゃ、小鈴、人里でひとりぼっちになっちゃう……。だから、もう行くね……」

 言い終えるが早いか、彼女の姿はゆっくりと輪郭を失っていき、闇と同化し始めた。

「えっ……ま、待って、ヤマメ! ……ヤマメ!」

 小鈴は泡を食って彼女の元に近寄ろうとした。だが、彼女の意思に反し、彼女の足はまるで重い泥の中に没したように緩慢な動きをとりつづける。
 それでも、小鈴はなんとかヤマメに取りすがろうと両腕をがむしゃらに伸ばす。しかし、その腕はどうやってもヤマメの姿を捉えることができなかった。
 必死で追いすがろうとする小鈴に背を向け、ヤマメは闇の奥に向かって歩き去っていく。
 そして、ついに、小鈴の視界から完全にヤマメの姿が消えた。

「――ヤマメ!」

 悲痛な声が屋根裏部屋の中に響く。
 伸ばした腕で空を掻きつつ小鈴は跳ね起きた。
 まるで全力疾走した後のように、息が切れ、心臓が跳ねていた。全身が雨に打たれたようにびしょ濡れで、それが自身の汗だと小鈴が気づくまで少しの時間を要するほどだった。
 小鈴はしばらくの間、ガタガタと震える自身の身体を己の腕で押さえつけるように抱きつつ、「うぐ、ぐ」と低い呻き声を漏らしながら忍び泣いた。
 やがて、少し落ち着いた頃合いに、小鈴の歯の間から独り言が零れ出した。

「……ゆ、夢……。そう、今のは夢よ……。本当のことじゃない……大丈夫……」

 そう言って自らを励ますと、小鈴は傍らの巻物に向かってぎこちなく笑ってみせた。

「今日も、頑張らなきゃ……。見ててね、ヤマメ……」

 それから彼女は一度階下に向かうために布団を抜け出た。が、どうやら小鈴の全身は彼女が想像する以上に疲労していたらしい。よろめきながら少し歩いたところで足をもつれさせ、小鈴は派手な音を立てて転んでしまった。
 力の入らない両腕をぶるぶると震わせながらやっとのことで上体を支え起こし、本棚にしがみついてどうにか立ち上がることができた。
 一階で顔を洗った後、小鈴はふと思い立ち、両親の寝室に据えられている姿見に自分の姿を映してみた。

「うわあ……」

 思わずそんな嘆声が小鈴の喉から漏れる。
 鏡の中に映った小鈴の顔は、見るも無残な有様だった。寝不足でくまのできた瞼は、さらに泣きはらしたことで厚く腫れ、皺が二筋も寄っていた。しばらく見ないうちに頬もこけ、顔色も青白く、まるで臨死の病人のような顔つきに成り果てていた。
 ヤマメに取り憑かれているなどという噂を払いのけるために、小鈴は今まで頑張ってきた筈なのだ。それなのに、このような顔をぶら下げていては間違いなく逆効果となってしまうだろう。
 これではいけないと、小鈴は急遽母親に頼み込んで化粧を施してもらうことにした。生まれて初めての化粧だった。
 薄化粧によってどうにか顔色の偽装に成功し、小鈴は胸をなでおろした。
 そんな顛末を経つつ、店番に見せかけた調べ物に小鈴がいそしんでいると、昼を過ぎた頃に見知った人間が鈴奈庵を訪ねてきた。

「あら、阿求! ……そういえば、うちであんたの顔見るのも久しぶりねー。元気? もう歩いて大丈夫なの?」

 訪ねてきたのは稗田阿求だった。
 彼女はヤマメの治療を受けてこの方、今に至るまで念入りに病気の養生に努めていた。だが、里で親友の不穏な噂が流れていると聞くと居てもたってもいられなくなり、家の者に無理を言って外出の算段をつけたのだった。
 その阿求が、小鈴を一目見るなりあからさまに眉をひそめた。

「小鈴、あんた、なんで化粧なんてしてるの?」

 阿求は長年つるんだ仲だけあって、目ざとく小鈴の変化を指摘した。それに対し、小鈴は目を泳がせてしらを切る。

「年頃の女の子なんだから、化粧のひとつやふたつ、そりゃするでしょ」
「ボロボロの顔を見せたくないからでしょ? でも、隠せてないわよ」
「うう……」

 浅はかな試みでは、さすがに親友の目を誤魔化せなかったらしい。
 小鈴は口を尖らせて言い訳をこぼす。

「だって、里の人たちがおかしな噂してるって言うから……。ヤマメが私に取り憑いて悪さしようなんて、そんなこと、絶対ありえないのに……」

 阿求は小鈴の背後、壁に掛けられた絵巻を一瞥して、苦々しげに大仰なため息をついた。

「あんたの言う通り、その絵の中の妖怪は素敵な子だったのかもしれないわね。私の命の恩人なんだから、そこは私も否定しないわよ。でも、世間はそう取ってくれないよ。じっさい、今のあんたの有様は冗談抜きにひどいもんなんだからね。取りつかれてると言われれば誰だって信じるくらいには」

 むっつりと黙りこくる小鈴を見て、阿求はついと身を乗り出し、その両肩を強く掴んだ。
 それから彼女はまっすぐに小鈴の目を見て――懇願した。

「ねえ、友人としてお願いするわ。その巻物は私か霊夢さんに渡して、元の生活に戻りましょう。ね?」

 にわかに小鈴の目つきが険しくなった。友人に対する親しげな様子はなりをひそめ、代わりに猜疑心に駆られた独裁者の如き眼光が小鈴の瞳に宿った。
 彼女は血走った目で阿求を睨み、低い声で唸るように呟く。

「――あんた、ヤマメのこと信じてないの? ねえ、答えてよ……。私のこと信じてないの……? あんたまで、里のばかみたいな噂を信じてるの……!?」
「小鈴、ねえ、落ち着いて。今のあんたは、ちょっとおかしいよ。おかしくなってる。……一度、ゆっくり休んで……」

 親友の言葉を最後まで待たず、小鈴は肩を掴んでいた手を振り払い、椅子を蹴って立ち上がる。
 それから彼女は激しく燃える瞳で阿求を睨みつけ、つばを飛ばして喚き立てた。

「うるさいなあ! 休むなんてできるわけないでしょ!? もうほっといてよ! 出てって! 二度と来ないで!」

 最後の言葉を聞いた瞬間、阿求の顔が一瞬だけ、泣き出しそうに歪んだ。しかし、すぐに彼女はその表情を隠すように小鈴から背を向けた。

「……今のは聞かなかったことにする。また来るわ。あんたの頭が冷えたころにね」

 そう言い捨てて、阿求はうなだれながら鈴奈庵を出ていった。





 その夜もまた、小鈴は自室の机に向かい、調べ物に取り組んでいた。しかしながら、本のページをめくる小鈴の手はカタツムリよりも緩慢な動きをしており、作業はお世辞にも捗っていると言い難かった。
 原因は間違いなく、午後に起こした阿求との言い争いだった。彼女は夜に至ってもまだ、あの出来事を引きずっていたのだ。
 動かない筆の先を長いことじっと見つめていた小鈴は、もはや限界とばかりに筆を放り出して机の上に突っ伏した。
 絵巻に目を移し、ヤマメの姿を見据える。すると、自然と独り言が口をついて出てくる。小鈴にしてみれば、それは独り言ではなく、ヤマメとの会話だったのだ。

「また阿求と喧嘩しちゃったね……。だめだね、私。疲れてるのかな……。でも、休めないよ。休んだら……」

 今立ち止まったら、くじけてもう二度と歩き出せなくなる気がする。
 そう言い出しそうになって、小鈴は言葉を飲み込んだ。口に出せば、それが現実になってしまいそうな気がしたのだ。
 今朝寝起きに見た夢が小鈴の脳裡をよぎる。人間の味方が一人もいない中、失意のうちに踵を返すヤマメの姿が、今も瞼の裏に蘇ってくる。
 あの夢が現実になるようなことなどあってはならないが、阿求の様子を見る限りその可能性も全くないとは言い切れなかった。
 自分以外に、ヤマメの味方になってくれる人間はいないものか。つらつらとそんなことを考えていると、一人の少女の顔が浮かび上がってきた。

「サチ……」

 小鈴の唇が、その娘の名をポツリと漏らす。

「ねえヤマメ、さっちゃん、来てくれるといいね……」

 そうは言っても、サチの母親が妖怪に対して頑なな態度を取る以上、期待薄と考えざるを得ない。
 小鈴は長い長いため息をついてから、いそいそと調べ物に戻った。
 しかし、その後小一時間ほど本とにらめっこしてみた結果、これ以上はどうやっても捗らないと悟った小鈴は、今日の作業を切り上げることに決めた。
 その日、小鈴は床の中で絵巻を抱きしめて眠った。





 翌日は鈴奈庵の定休日だったので、小鈴は調べ上げた内容を白蓮住職と共有するため、書きなぐった紙片の束を胸に抱えて命蓮寺を訪れた。
 白蓮は小鈴の来訪を心から歓迎し、自らの方丈に招き入れた。小鈴から紙束を受け取ると、白蓮は畳の上に指をつき、深々と頭を垂れた。

「小鈴さん、ありがとうございます。こちら、私の方で写させていただきます。ものの数日とは思いますが、写しが終わり次第お返しいたしますので、少々ばかりお待ち下さい」
「わ、わ、あの、頭を上げてください! そんな御大層なものでもないんですから……。でも、ほとんど役に立たないかもしれませんけど、私なりにこれはと思ったものを集めてみたんです。……お役に立てば、嬉しいです」

 白蓮は頭を上げると、しばらくの間無言で小鈴の姿を観ていた。小鈴が僅かにいたたまれなくなって口を開こうとしたところで、白蓮は静かに言葉を発した。

「小鈴さんの身体から、そこはかとなくヤマメさんの気配を感じますね」
「ええ、いつも一緒にいるので……」

 照れ笑いを浮かべて、小鈴は指で頬を掻いた。それを見て、白蓮も目を細める。

「そうですか……きっと、ヤマメさんも貴女と一緒にいられて嬉しく思っていることでしょう」

 白蓮が人里に住む人間であったなら、どれほど心強かっただろう。そう思いつつ、小鈴は命蓮寺を後にした。
 次に小鈴が向かったのは、霧の湖のほとりに佇む深紅の館、紅魔館だった。目当ては当然、館の施設である大図書館である。
 以前から小鈴は、この大図書館の蔵書をひと目見たいと思っていたのだが、なにしろ悪魔が棲む恐ろしい館だと子供の頃から聞かされて育っていたので、これまでは館の姿を見ることにすら二の足を踏んでいた。
 しかし、今はそうも言っていられない。鈴奈庵の蔵書などたかが知れているので、早晩情報収集のアテがなくなることは明白だった。そうなると、この幻想郷の中で最も多くの蔵書を誇る紅魔館には、遅かれ早かれ足を向けざるを得なくなる。ならば、早い内に動いてしまえ、と小鈴は考えたのだ。
 人里に買い出しに来ていたメイド長の十六夜咲夜を捕まえて頼み込むと、彼女は意外にもあっさり紅魔館への小鈴の来訪を肯った。だが、図書館の蔵書閲覧に関しては食客であるパチュリーの許可が必要であるというので、その場での話はそこで終わった。後日咲夜はわざわざ鈴奈庵に出向いてきて、パチュリーの許可を得たのでいつでも紅魔館に来ると良い、とだけ言って去っていったのだった。
 小鈴が命蓮寺を立ち去る折、一輪と雲山が護衛として同伴を申し出てくれたお陰で、危険と言われる紅魔館までの道程も安全に乗り切ることができた。
 入道使いの一輪は話好きな妖怪で、紅魔館への道すがら、小鈴に対して気さくに声をかけてきた。

「あんた、一人で紅魔館に行こうなんて良い度胸してるわね。気に入ったわ。私も人間だった頃は散々向こう見ずな真似したもんよ」
「えっ、一輪さんって、昔は人間だったんですか!?」
「ええ、そうよ。妖怪になったのは、もうずっと昔のことだけどねー。百年二百年どころか、下手すると千年以上前の話かも」

 人間から妖怪になる方法がある、という事くらいは小鈴も調べ物をする中で把握していた。また、幻想郷にもそういう元人間がいるということも人づてに聞いていたが、まさかこんな身近にいるとは思っていなかった。
 小鈴の好奇心が俄然首をもたげる。

「その……失礼を承知で伺いたいんですけど……なぜ、妖怪になったんですか?」
「そりゃ――人間が嫌になったのよ」

 人間のあんたに話すことじゃないかも知れないけど、と言って、一輪は笑った。
 それから一輪は、自らの身の上話をかなりかいつまんで話し始めた。見越し入道退治を決意した時のこと、見事入道を退治し入道使いになった時のこと、入道使いになってからのことを……。特に、入道使いになって以降人間から受けた仕打ちには未だに腹に据えかねるところがあるらしく、言葉の端々に若干苛立ちの気配が含まれていた。
 彼女は自らの使役する入道である雲山に絶対の信頼を置いていた。それだけに、雲山を妖怪というだけで忌避した人間に対し浅からぬ嫌厭の情を抱いているようだった。
 一方の小鈴はといえば、一輪の話を、自らの状況と重ね合わせて聞いていた。自らとヤマメと、そして人里の人間との関係に。
 となると、しぜん、ある種の恐ろしい思いつきが小鈴の頭に浮かんでくる。
 ――妖怪になれば、ヤマメと再会できるかもしれない。
 震え声で小鈴は訊く。

「ど……どうやったら、人間から妖怪になれるんですか?」
「やり方はいくつかあるわね。私の場合は、雲山から妖力を共有してもらって、妖力だけで生きられるように身体の構成を変えたのよ」

 身体の構成を変える、などという恐ろしい言葉をさらりと言ってのける一輪に、小鈴は戦慄する。

「怖くは……なかったんですか? 人間を辞めること……」
「怖くなかったかって言えば、そりゃ……怖かったわよ。でも、それ以上に、人間でいることが嫌だったのよね、その時は。妖怪になるか、死ぬか、どちらかを選ぶしかないって思い詰めてたのよ」

 あっけらかんとそう言って一輪は肩をすくめてみせた。
 一方、一輪の話を聞き終えた小鈴は、悲壮な表情を浮かべて視線を宙に泳がせた。その様子を見て、一輪は小鈴の胸中を察したらしく、小鈴の肩に腕を回し、あたりを憚るように目配せしながら小声でその耳元に囁いた。

「あんた、妖怪になりたいの? なら、私も応援したいところだけど……。でも、人里には人間に不都合な暗黙のルールがあるみたいだから、全力でオススメはできないのよね」
「暗黙のルール……。それってどんなルールなんです?」
「……ごめん、わたしも詳しくは知らない。ただ、それを破った者はこの幻想郷から追放されるとか、地獄に落とされるとか、輪廻の輪から外されて永遠の無の中に放り込まれるとか、まことしやかな噂だけはわんさと聞くわね」
「う、噂は噂ですよ……そういう噂を立てることで得する人間が何処かにいるってだけで……」
「うん……。ただ、人里ってさ、これだけ妖怪どもに囲まれているんだから、そこに住む人間が影響を受けない筈がないじゃない? なのに、人里から人妖や半妖が生じたという話をここにきてから一度も聞いたことがない。それっておかしいなって私は思うのよ。……たぶん、そういう人間たちの間引きをやっている奴がどこかにいるんじゃないかって、私は踏んでる」
「ま、びき……」
「あっ……ごめん……。いたずらに怖がらせたかったわけじゃないのよ。でも、気をつけて。意外と身近な人間の中に、あんたを監視している奴がいるかもしれないからね」

 ふいに、がさり、と、道の脇から下生えを揺らす音が聞こえた。一輪はとっさに小鈴を守るように前に飛び出す。
 灌木の枝の間を割るようにして現れたのは、二人のよく知る妖怪の姿だった。

「こんにちは、良い日和……だ、ね、って、あれ? 入道使いも一緒じゃないか」

 その少女の姿を見た瞬間、小鈴の心臓は一寸ほど跳ね上がった。それこそ、毎夜文字通り夢に見るほどに焦がれた姿が、今まさに目の前で活き活きと動き、実際に言葉を発しているのだ。動揺するのも無理からぬ事だった。

「ヤマメ……!」

 悲鳴に近い声を上げて妖怪少女の元に駆け寄ろうとする小鈴を、一輪が腕一本で制した。

「待って、小鈴! こいつに近づいちゃだめよ。病気にされちゃうからね」
「で、でも、彼女はヤマメっていって……」

 一輪とヤマメを交互に見ながら、小鈴は慌てて互いの紹介を始めようとしていた。だが、ヤマメの方は不思議そうに小首を傾げ、
「んー? 嬢ちゃん、私の事知ってるの? 私、あんたの顔初めて見るんだけどね」至極平然とそう言った。

「え……」

 小鈴は絶句してヤマメに視線を据える。見間違えかと思い、目を細めて凝視したが、やはりどう見てもその姿は小鈴の知っているヤマメ以外にありえなかった。
 一方、一輪の方は紹介するまでもなくヤマメのことを知っていた様子で、若干の警戒をはらみつつも会話を引き取った。

「このところ霧の湖の周りで人間が行方不明になる事件が多発してるって聞いてたけど、あんたの仕業か、土蜘蛛」
「まーね。あんたのとこの親分は私を弟子にしてくれないし、かといって人里を襲うわけにもいかないしで、結局私はこうして人里近くで網を張ることしかできないのさ。効率悪いったらありゃしないよ、まったく」
「あんたは全く度し難いな。寺に入信すれば、人間など食べずとも生きていけるようになるのに」
「ははっ! 冗談じゃないよ。人間を食べられないなら、寺に入る理由も無いさね」

 ヤマメはそう言ってからから笑うと、笑顔のまま視線を一輪の背後に立つ小鈴に滑らせた。

「嬢ちゃん、今日のところは紐付きだから引き下がるけどさ、一人でいる時は私がそっくり食べてあげるから、楽しみにしててね!」

 舌で唇をペロリと舐めて片目を閉じて見せた次の瞬間、ヤマメは高笑いを残して道脇の雑木林の中に飛び去っていった。
 呆然とヤマメの去った先の虚空を見上げる小鈴に、一輪が怪訝そうな目を向ける。

「小鈴、あんた、あいつと知り合いだったの?」
「い、いえ……勘違い、だったみたいです」
「そう? なら良いわ。あいつには、関わり合いにならない方がいいよ。見ての通り、人間を食うことしか頭にないから」

 一輪の言葉を意識の遠くに聞きながら、小鈴はかつて甘味処でヤマメが話してくれたことを思い出していた。彼女は元々人食いの妖怪だったが、邪鬼の力によって生まれ変わったのだとその時ヤマメは話していた。
 つまりは、いま小鈴が目の当たりにした妖怪こそが、ヤマメの元来の姿だったというわけだ。
 その時はヤマメの話に納得していたつもりだったが、いざ現実を目の当たりにしてみると動揺を禁じ得なかった。
 ――『あれ』が元来のヤマメの姿だというのなら、私の友達である方のヤマメは、一体何者だったのか。
 そう思った瞬間、小鈴はようやくもって、あの時ヤマメが抱いていた不安や焦燥を真に理解した。そして、自分が今の今まで彼女の気持ちを何一つ理解せず、共感も出来ていなかったことを知った。
 ――何が、友達だ。聞いて呆れる……!
 小鈴の脳裡に一瞬、サチの母親の顔が浮かぶ。彼女の無理解を責めていたのは、一体誰だったか。それを思うと、恥と怒りとで小鈴の首が真っ赤に染まった。後悔が悲しみを伴って小鈴の喉元にせり上がってくる。
 唇を噛んで立ち尽くす小鈴を見て、一輪心配そうに顔を覗き込んできた。

「大丈夫? 気分が悪くなったなら、今からでも引き返す?」
「……いえ、行きます。大丈夫です」

 二人が紅魔館の入り口に辿り着くと、中華風の装いをした娘が鉄門の前で仁王立ちしていた。彼女は小鈴と一輪をそれぞれ一瞥すると、小鈴の方に顔を向けて顎をしゃくってみせた。

「あんたが図書館に用があるって人間か。咲夜さんから話は聞いてる。もちろん、通っていいよ。あ、そっちの入道は、だめ」
「はいはい。じゃ、小鈴、私はこれで。何か相談があれば、いつでも命蓮寺に来てよ」
「は、はい……! ありがとうございます!」

 震える脚をおして小鈴が紅魔館の敷居をまたぐと、一匹の妖精メイドが仰々しくお辞儀をしながら彼女を出迎えた。曰く、咲夜から館の中の案内を仰せつかったとのこと。
 流石に悪魔の館だけあって、そこに働く者も咲夜という一人の例外を除いて人外しかいなかった。大図書館まで案内される間に、小鈴は異様な肌色をした子鬼の姿なども目にした。人里に住む小鈴にとってその光景はたいそう珍しく、そして恐ろしく感じられた。
 目当ての大図書館は館の地下にあった。案内された先の扉を開くと、茫漠とした空間が目の前にひらけた。薄暗い部屋の中には異様に背の高い書架が整然と居並び、それらの棚は大量の本で隙間なく埋まっていた。その蔵書量たるや目も眩むばかりで、貸本屋の娘である小鈴はこの部屋に一歩足を踏み入れた途端、ここに住みたい、と望んだ程だった。なにしろ小鈴の私物も含めた鈴奈庵の全書籍をかき集めても、書架の一つを埋められるかどうかというところなのに、それが十、二十では済まない数ずらり並んでいるのだから壮観というほかない。
 部屋の中ほどには小さなティーテーブルと二脚の椅子が据えられており、そのうちの一脚には、一人の華奢な少女が腰掛けていた。彼女は白磁のティーカップを口元に寄せつつ、もう片方の手でテーブルの上の分厚い古書のページを今まさに繰ろうとしている。
 それこそが、咲夜の話していた紅魔館の客人パチュリー・ノーレッジの姿だった。
 高天井の図書館の中央にいて、ひとり古書のページに目を落とす少女の姿は見るも可憐で、小鈴の身体は知らずのうちに震えていた。
 小鈴はおそるおそるパチュリーに近づき、閲覧の許可を乞うた。彼女は小鈴と目を合わさず――本のページから目を離さず――自分の読書の邪魔をしない限り、手に取れる本は自由に見てくれて構わない旨の言葉をぼそぼそとつぶやいた。
 しかし、なにしろ蔵書は膨大で、どこにどのような本が収められているのかもわからない。途方にくれるばかりの小鈴を見かねてか、図書館で働く従者の一人が館内の案内を買って出てくれた。
 その従者も当然ながら人外で、深紅の髪の間から覗く蝙蝠の羽根をゆっくりと揺らしながら小鈴の姿を値踏みするように見ていた。
 小鈴が恐れおののきつつ求める本の種類を口にすると、彼女は打てば響くような受け答えでその本が収まる書架の場所を示した。目当ての書架の前までやってくると、小悪魔はどこからともなく長い脚立を持ち出してきて、高所の本を取る際はこれを使えと言った。また、最下段の棚にはその書架のどこにどのような本が収められているか知るための索引カードが収められているから、それを見て当たりをつけると良いと付け加えて仕事に戻っていった。
 かくして幻想郷随一の知識の園に足を踏み入れた小鈴は、最初に索引カードをあたるところから手を付け始めた。カードに記されたタイトルを見てこれというものに目星をつけて、ノートにその書名と収納場所を書きつける。そうしてある程度書名が溜まったところで、書架から本を引き出しざっとページを繰る。目次があればその見出しを検め、これというものがあれば本文を舐めるように読む。
 それで十冊ほどこなしたあたりで、部屋の中に低く重く鐘の音が響き渡った。小鈴が鼻の根元を指で揉みしだきつつふと傍らに目をやると、いつの間に近づいたのか先程の小悪魔がすぐ側に立っていた。たじろぐ小鈴を前に対し、小悪魔は安心させるように微笑んだ。

「そろそろ日の落ちる刻限になりましたが、いかがいたしますか? 泊まっていかれるのでしたら、お食事やベッドのご用意などもいたしますが」
「えっ……。もうそんな時間なんですか!?」

 小鈴は目を丸くして素っ頓狂な声を上げる。彼女の実感では、せいぜい半時程度しか経っていないものとばかり思っていたのだ。窓も無い図書館の中で読書に没頭していたのだから、時間の感覚を失うのも無理はなかった。
 流石に初めて訪れたその日から泊まり込みしようなどという厚かましい真似はできないので、小鈴は暇を告げようとパチュリーに近づいた。
 パチュリーは小鈴がやって来た時と全く変わらぬ姿勢で読書を続けていたが、彼女が近づくとすいと目を上げ、ここに来て初めて小鈴と目を合わせた。そして、無愛想な表情を微塵も変えずにこう言った。

「何もおもてなしできず、悪かったわね。次来る時は、貴女の口にも合いそうなお茶とお茶受けを用意してあげるから」

 図書館を退出した時、連れだって出てきた小悪魔が楽しそうにくすくすと笑い出した。不審げに眉を寄せる小鈴に対し、小悪魔は柔らかな微笑みを向ける。

「良かったですね! 貴女、パチュリー様に気に入っていただけたみたいですよ」
「そ、そうなんですか……? でも、気に入って貰えることなんかしたかしら」
「貴女、普段から本を触ってますよね? 貴女の手つきを見てなんとなくそう思ったんですが、違いますか?」
「い、いえ……。実は、私、人里で貸本屋をしてまして……」
「やっぱり! パチュリー様もあの通り自他共に認める本の虫ですから、貴女に同族の匂いを感じたんだと思いますよ」
「は、はあ……」

 図書館の中で一人読み物にふける、か弱げな少女の姿を小鈴は思い返していた。その華奢な身体から放たれる気配から、彼女もまた人外であることに間違いはなさそうだった。
 上へ向かう階段を登りながら、小鈴は小悪魔に向かっておそるおそる尋ねた。

「あの……パチュリー様って、一体どのような方なんでしょうか?」

 小悪魔はなんでもないというふうに優美に笑ってそれに答える。

「この館の主レミリア様の長年のご友人です。生来の魔法使いでいらっしゃいますから、ご友誼を深められれば、貴女のお望みを叶える力添えをしてくださるかもしれません」
「私の、望み……?」

 小鈴はごくりと生唾を飲んだ。その心中を推し量るように、小悪魔は小鈴の顔を覗き込む。

「はい。貴女は私がどのような本をご所望か質問した際、二種類の本をお求めになられました。一つは、妖怪の復活に関して記した本。もう一つは、人間から妖怪になる方法を記した本……」

 話すうちに小悪魔の瞳の中に怪しげな光が宿っていくのを、小鈴は見逃さなかった。逆に小悪魔もまた、話し相手の内にある隠微な欲望を読みこぼさぬよう目を眇めて小鈴を見ていた。そして、念を押すような口調でこう訊いてきた。

「貴女は、永遠の命が欲しいのですよね?」
「べ、べつに、そういうわけじゃ……。ただ、ちょっと、どんなものかなと……興味があっただけで……」

 しどろもどろに答えつつ、意思に反して跳ね上がる心臓の鼓動を小鈴は耳の奥に聞いていた。こめかみに汗が一筋伝う。
 動揺する小鈴を見て嗜虐心にかられたのか、小悪魔は意地悪い笑いを口元に浮かべた。彼女はその唇を小鈴の耳元に近づけると、世界の重大な秘密を打ち明けるかのごとく、あたりを憚る声で囁いた。

「永遠の命をお求めならば、妖怪になる以外にもいくつか方法があります。人間から魔法使いになる方法も、その一つ……。また、吸血鬼にその血を捧げることで悪魔に転生するという方法も……」

 びくりと小鈴は身体を仰け反らせる。一方の小悪魔も、すいと身を引いて、ごまかすように己の口元を手で隠した。

「我々と長く付き合っていれば、いずれ貴女も『こちら側』にいらっしゃる時が来るでしょう。どうぞ、今後ともよろしくお願いいたしますね」

 小悪魔はそう言うと小首を傾げ、小鈴に向かって親しげに微笑んでみせた。
 玄関で小悪魔と別れ、紅魔館の鉄門の前まで歩いていくと、例の華人風の門番がぶっきらぼうに声を掛けてきた。

「遅かったね。一人でこの近くをうろつくのは危ないから、人里まで送るよ。咲夜さんからもそう仰せつかってる」

 紅美鈴と名乗るその娘もまた、午前中に同道してくれた一輪と同じくなかなかの話好きのようだった。霧の湖から人里へと至る道中、小鈴が緊張で身を固くしているのを見てとるや、気を遣って話しかけてきた。

「生身の人間が好き好んであの館に来るなんて珍しいよ。人里でも、あの館の悪い噂くらい耳にしたことあるだろ?」
「はい……。でも、どうしても調べたいことがあって……」
「ふうん……。命がけで調べなきゃいけないことなんてものがあるのか……。人間は時折わからんね」

 何の気なしに言ってみたものの、小鈴の表情が曇り始めたので美鈴は慌てて話の方向性を切り替えた。

「あ、いや、もちろん込み入った事情にまで立ち入るつもりはないよ。……それで、どうだった、うちの大図書館は?」
「それはもう、すごかったです……! 私、人里で貸本屋やってるんですけどね、あんな沢山の本を一度に見るのは生まれて初めてですよ。もう、一歩足を踏み入れた瞬間『ここに住みたい!』って思っちゃったくらいで。しかも蔵書なんて稀覯本ばかりで構成されてて、妖魔本やグリモワールも大量に……。……あ、ごめんなさい、私ったら興奮して」
「い、いや……いいよ、続けて」

 本にまつわる話になった途端饒舌になる小鈴に対して、美鈴は若干気圧されつつも努めて平静を保っていた。話の先を促すように手を小鈴の前に差し出す。
 図らずも己の本性の一片を知り合って間もない相手に晒してしまった小鈴は、はにかみまじりに話を続けた。

「でも、あんまり本の数があるんで、一日じゃ全然読み切れなくて……多分、これからもちょくちょく伺うことになりそうです」
「紅魔館にかい?」
「はい」

 ここにきて唐突に紅美鈴が黙り込んだ。何か気に障ることでも言ったかと思い、小鈴は目の端でおそるおそるその表情を覗き込む。美鈴は喉の奥で低い唸り声を響かせつつ、思案げな表情で砂利道の上に眼を落としていた。
 やがて彼女は、言いづらそうに眉根を寄せつつ、横に歩く小鈴に真っ直ぐ顔を向けた。

「……これは個人的な忠告だけど……。人里の人間はあんまり紅魔館に近づかないほうがいいと思ってる。『こっち側』の人間だと思われたら、あんた、人里で生きづらくなるからね」
「でっ、でも、館のかたは、私もいずれ『そちら側』に行くことになるって……」
「誰が言ってた?」
「あの、赤い髪で、頭に蝙蝠の羽の生えた……」
「あいつか……また無責任なことを……」

 美鈴は苦々しげに呟いて来た道を振り返る。その心にあの悪戯っぽい笑顔をたたえた小悪魔の姿を思い浮かべているのだろう。
 再び沈黙が落ちる。
 小鈴はその沈黙の間、己の今後の身の振り方について考えていた。
 彼女の望みはただ一つ。目の黒いうちにヤマメと再会すること、ただそれだけなのだ。そして、その目的を達成するにあたって立ちふさがる障害を取り除くことができるならば、道義を外れない限り手段を選ぶ必要はない。そんな気持ちが小鈴にはあった。
 拳を握りしめ、小鈴は決然と顔を上げる。

「……べつに、そちら側の人間だと思われたって、私は構わないんです。ううん、むしろ早くそうならなきゃいけないんだわ。たとえヤマメのことを覚えているのが私一人だけになっても、私の手で彼女を復活できるように」
「それだけは、やめときな」

 断然と美鈴が呟く。
 思いつきの決意をあっさりと潰されて、小鈴はへなへなになってしまった。声も弱々しく美鈴に向かって尋ねる。

「どうしてですか……?」
「……言えない。だが、あんたの身にとても恐ろしいことが起きる」

 美鈴は紅魔館と外界の境界を守る妖怪である。また、直属の上司である咲夜から使いを頼まれ人里に訪れることも度々ある。彼我双方に関わりがあるからこそ知り得る、『知ってはいけないこと』もあるのだろう。
 それが何なのか知ることが恐ろしく、小鈴はそれ以上突っ込んだ質問をことができなかった。
 人里が見える所までやってくると、美鈴はここでお別れだと言って立ち止まった。彼女は別れしな、小鈴の両肩をつかみ、その眼を真っ直ぐに覗き込みながら言った。

「これからの一生に関わることだから、よくよく考えてね。その上であんたが『こっち側』に来たいというなら、私はもう、とやかく言わない」

 あまりに強い視線に射抜かれて、小鈴は猛然と首を縦に振る。
 美鈴に背を向け人里に向かう間、小鈴は彼女に掴まれた両肩に残るしびれるような痛みを噛み締めていた。





 鈴奈庵の自室に戻った小鈴は、文机の上に突っ伏して大きく息を吐いた。
 密度の濃い一日だった。この日小鈴が経験し収集した諸々の情報は、その身に余るほど膨大だった。おかげで、小鈴の脳みそはすっかり酔っ払ってしまい、しばらくの間机の上で目を回していた。
 酩酊が収まってくると、今度はある種の昂奮が小鈴の全身をめぐり始めた。今日、朝起きてから今ここに至るまでの間、家族を除けば小鈴は人外としか会っていない。その事実を噛みしめるにつけ、小鈴の全身に火が入り、武者震いのような震えが走った。彼女が憧れていた魔理沙や霊夢のような超人たちに一歩近づいた心地がして、口元が阿呆みたいに緩む。
 ふと、その脳裡に土蜘蛛ヤマメの酷薄な笑みが浮かび、小鈴は現実に引き戻された。我に返ってみると、それまでの自分の浮かれっぷりがひどく恥ずかしく思えてきて、彼女は己の頰を平手で何度もはたいた。
 今日一日の人外たちとの交流は小鈴に多くの知見をもたらした。その中でも特に印象深かったのは、人外たちが口にした『人間を辞める』という手段だった。人外の間でも賛否は分かれるようだったが、今の小鈴にとってその選択肢は魅力的なものとして映っていた。なにしろ、小鈴が目的を達成するにあたっての目下にして最大の課題は、自身の有限の寿命なのだから。

(盲点だったわ……。生きている間にヤマメを復活させるのは無理だとしても、私が妖怪になる方はまだなんとかなりそうな気がするもの。先例もいっぱいあるし、実際に人間から妖怪になった知り合いもいるし……)

 当然ながら、もし本気でその手段を選ぼうとするならば、周囲の反対は避けられない。今の曲がりなりにも平穏な日常を、全て犠牲にしなければならないかもしれない。しかし、それでもこの蠱惑的な観念は、とりもちのように小鈴の頭に取り憑いて離れなくなっていた。
 一つだけ気がかりなことがあった。一輪や美鈴が異口同音に言っていた『人里の暗黙のルール』の存在である。美鈴に至っては、ほとんど脅しに近い口ぶりで話していたものだった。
 ――あんたの身にとても恐ろしいことが起きる。
 いったいどんな恐ろしい目に遭うというのか、小鈴には想像もつかなかった。しかし、その脅しは十分に効果を発揮し、小鈴の小さな心臓をさらに縮み上がらせていた。
 彼女は顔をあげ、傍らに広げた百鬼夜行絵巻にすがるような目を向ける。

「ねえ、ヤマメ。もしも……もしもだよ? 私が人間を辞めるっていったら、貴女、怒る? それとも、応援してくれる?」

 当然ながら、返事はない。肺の底からため息を吐いて、小鈴はいま一度机の上に突っ伏した。





 その日の夢にも、ヤマメは現れた。しかしすぐに、どうもいつも通りではなさそうだと小鈴は感じ始めた。
 ヤマメの様子が明らかにおかしい。
 小鈴が友と慕うヤマメはいつだって引っ込み思案で、遠慮がちな性格をしていた。だが、この夢の中のヤマメは過剰ともいえる自信に満ち溢れ、不敵な笑顔とともにいつだってふんぞり返っていた。歩く姿は唯我独尊を体現してはばからず、口を開けばどうやって人間の肉にありつくかといったことばかり話す。
 小鈴は直感した。これは、人食い蜘蛛の方のヤマメだと。
 価値観一つとってみても、到底人類の友になり得そうにない。にも関わらず、不思議なことに、夢の中の小鈴はこの妖怪の言動を受け入れ、あまつさえ同調すらしていた。
 小鈴と人食いのヤマメは、連れ立って人里を歩いていた。無為な散歩を楽しんでいたわけでは決してなく、彼女たちは明らかに獲物を物色するために人里にやって来ていた。
 彼女らはある邸宅に目をつけると、門を破り玄関の敷居を飛び越え、宅内に押し入った。逃げ惑う家人に目もくれず、奥座敷目指して廊下を駆ける。襖を蹴倒し、広い部屋の中に躍り込む。部屋の只中には布団が敷かれ、その上に一人の少女が横たわっているのが見えた。――稗田阿求だ。
 病にうなされている阿求の首筋を、ヤマメが躊躇なく噛み割いた。鮮血が噴水のように飛散し、小鈴の頬にかかる。小鈴は頬に付いた血を指の腹で拭き取ると、恍惚とした表情を浮かべて舌を伸ばし、その指に付いた血汁を舐めた。甘露が口の中に広がる。腹が鳴る。我慢できずに、小鈴は自らの歯を小鈴の肉体に突き立てる。
 血と脂のしたたる阿求の肉は、やわらかく美味だった。口から頬にかけてを赤い血でベトベトに汚したヤマメが、牙を見せて幸せそうに笑った。つられて、小鈴も目を細める。小鈴の奥底はいまや、欲望によって熱くどろどろに爛れていた。
 背後から誰何され、小鈴たちは顔を上げる。見ると、倒れた襖の向こうに一人の少女が仁王立ちしていた。顔は靄がかかったように霞んで見えない。
 彼女は肩を怒らせ二人を交互に指さしつつ、絶叫の如き怒声で二人の悪行を責め立てている。その身体から立ちのぼる生気から、少女がただの人間でないことが知れた。
 小鈴とヤマメは互いに目配せをすると、どちらともなくその少女に飛びかかった。ヤマメの指が今まさに少女の身体に触れんというその瞬間、少女の身体が眩く発光し、哀れな人食い妖怪の身体は一瞬にして蒸発した。その次の刹那には小鈴も四肢をバラバラに吹き飛ばされ、背中から畳の上に叩きつけられていた。
 呆然と天井を見つめる小鈴の視界を覆うように、先程の少女が顔を近づける。息が触れんばかりに近づいたところで、ようやく少女の顔があきらかになった。
 悲しげに己を見下ろす瞳の主を、小鈴はよく知っていた。それもそのはずである。ヤマメを滅ぼし、今まさに己を滅ぼそうとしているこの少女は、紛れもなく本居小鈴その人だったのだから。
 空洞を通る風のような虚ろな声で、小鈴は己を見下ろす小鈴に向かって尋ねた。

「私は、誰……」
「貴女は、小鈴よ」
「じゃあ……貴女は、誰……?」
「私は、小鈴よ」

 不毛な問答をしている間に、天井が砂のように崩れてゆく。崩れた隙間から闇が垣間見える。襖も壁も畳も崩れ落ち、後には闇と二人の小鈴だけが残された。すると今度は、見下ろす小鈴の姿にも変化が現れた。
 彼女は見る間に成長を始めていた。瞬く間に彼女は美しい妙齢の女性に姿を変えたが、それすらも一瞬のことだった。その顔にはみるみるうちに深い皺が何本も生じ、髪には白いものが混じり始める。
 醜悪な万華鏡を見ているようだった。次に息を吸った時には、彼女の全身は干からび、髪は真っ白に染まった。そして息を吐く頃にはもう、彼女は完全に白骨と化して小鈴の上に崩れ落ちていた。
 白骨はやがて風化し砂と変わり、風にさらわれて闇の奥に消えた。
 全てが消え失せた虚空の中に、ヤマメの姿を描いた絵巻が一巻、ぽつねんととり残されていた。





 目が覚める。窓から差し込む朝の光が、やけに眩しく小鈴の眼を刺していた。目の端を指でなぞる。涙は流れていない。だが、全身が異様に重かった。
 凄まじい倦怠感で、布団から出ようにも腕一本動かせそうにない。小鈴は目を開いたまま、しばらく布団の中でじっとしていることにした。
 今見た暗く陰惨な夢を、小鈴は一刻も早く忘れたかった。だが一方で、この夢があぶりだした多くの課題は、彼女の思考を虜にしていた。
 小鈴は先日、『人間を辞める』という方針を将来に関する選択肢の一つに加えた。だが、人間を辞めたとして、今の自分のままでいられる保証はあるのだろうか?
 人妖として転生し、肉体の構成が変化した挙句、食性まで変化してしまえば、あの悪夢が現実になってしまうかもしれない。
 そもそも、妖怪になると、それだけで妖怪退治の標的になる可能性が生まれてしまう。長命を目的にわざわざ人間を辞めても、あっさり滅ぼされてしまっては本末転倒だ。
 では、『人間を辞める』という選択肢は破棄するか? それでは、夢の中で見たもう一人の小鈴と同じ運命を辿るのが関の山だ。ただの人として生きようが英雄として生きようが、結末に変わりはない。人間の寿命はあまりに短すぎる。
 考えたところで埒が明かない。小鈴は腕で上体を支えつつ強引に身を起こした。その目の端に、ヤマメの絵巻が映る。
 輝きを完全に失った小鈴の目が、絵巻の一点――ヤマメの姿を捉えたまま動かなくなった。まったくの無表情のまま、小鈴は長いことヤマメの絵姿を黙って見つめていた。
 やがて、その唇が開くと、喉の奥から感情のないかすれ声が漏れ出した。

「ねえ、ヤマメ……私、どうすれば良いの……? どうすれば、貴女にもう一度会えるの……。ねえ、貴女に会うために、私は何になればいいの? 教えてよ、ヤマメ……」

 絵に問うているのだから、答えるはずがない。だが、彼女は一刻もの間、無言で絵巻を見つめながら答えをじっと待ち続けていた。





 その日、小鈴がもはや日課となった調べ物に取り組みつつ片手間に店番をしていると、一組の親子が客として訪ねてきた。

「ごめんください。こちらに、ヤマメ様がいらっしゃると伺ったのですが……」

 本から目を上げて客の姿を一瞥した瞬間、小鈴は驚きに目を見開いた。
 訪れた客は、甘味処の女将とその娘のサチだった。母親の方は気まずそうな顔をして店の入り口の脇に突っ立っており、人見知りな娘の方は、さらにその母親の脚の後ろに隠れて、小鈴の方をじっと伺っていた。
 思ってもみなかった来客に、小鈴はしばしの間呆然としていた。やがて我に返ると、慌てふためいて立ち上がり、二人を店の中に招き入れた。

「ど、どうぞ……どうぞ! お待ちしていたんです……っ!」

 そう、彼女はこの二人の来訪を待っていた。その日が来ることは無いかもしれないと思いつつ、それでも心待ちにしていたのだ。特に、娘のサチがヤマメに会いに来てくれることを。
 小鈴の歓迎を受け、緊張でこわばっていた母親の表情がわずかにほころんだ。安心した彼女は、自分の足にひっついている娘に顔を向け、その背中を押して小鈴の元に向かうよう促した。娘の方は、母親と小鈴の顔を交互に何度も見比べた後、おっかなびっくり小鈴の元に歩み寄ってきた。
 サチは小鈴の前までやって来たものの、もじもじするばかりで一向に話しかける気配を見せない。小鈴は苦笑しつつ、自分の方から声を掛けてやった。

「こんにちは。さっちゃんだったよね?」
「……こんにちは……。あの、ヤマメおねえちゃんが、ここにいるって……」
「……うん。ほら、見て。ここに……」

 たどたどしい言葉で話すサチに、小鈴は壁の絵を指し示した。

「えっ……この絵が、ヤマメおねえちゃんなの……?」

 サチは目を丸くして小鈴を見る。確かに、事情を知らずに見れば、ただの水墨画としか思えないだろう。
 だが、この絵がヤマメであること証明するための簡便な方法を、小鈴は既に編み出していた。彼女はヤマメの絵の上数寸程度のところに指をかざし、撫でるように揺らしてみせた。

「ほら、こんな風にヤマメおねえちゃんの絵の上を指でなぞってみて。さっちゃんなら、それできっとわかるわ」

 サチは小鈴から言われた通り、絵に手を添える。瞬間、すぐにそれとわかったらしい。サチは「あっ」と短く叫んで、小鈴の方に振り返った。

「ヤマメおねえちゃんだ……。でも、どうして……?」

 さて、なんと説明したものか、と、小鈴は思案する。
 鬼人正邪にまつわる事情まで詳しく話しても、子供に理解してもらえるか怪しい。ある程度噛み砕いた内容で話した方がよいだろう。
 思案の結果、小鈴はこう切り出すことにした。

「ヤマメおねえちゃんはね、実は、すごく大きな病気にかかってたの」
「おおきな病気……? 私のぜんそくより……?」
「……うん。放っておいたら、死んじゃってたかもしれない病気……。でも、今は誰にも治し方がわからないから、魂を絵の中に閉じ込めて、治し方が見つかるまで待つことになったの」

 話をわかりやすくするために少しの嘘を混ぜてしまったが、状況の説明としては概ね間違っていないはずだ、と、小鈴は自分に言い聞かせた。
 問題はサチが理解してくれたかどうかだったが、その心配も杞憂で済んだ。
 サチは母親の方に首を向け、小鈴が説明した内容を反芻してみせた。

「おかあさん、ヤマメおねえちゃん、いまは絵の中にいるんだって……」

 離れた所に佇んでいた母親は、サチの言葉を聞くとゆっくり歩み寄ってきた。彼女は小鈴の前まで来ると、一礼ののちおずおずと尋ねてきた。

「私も、拝見してよろしいでしょうか……?」
「ど……どうぞ」

 小鈴は気まずそうに眼を泳がせつつうべなった。
 サチの母親はしばらくじっと絵の中のヤマメを見た後、自分の娘がしたのと同じように絵に向かって手を掲げた。すると、彼女もその指の先にヤマメの感触を得たらしく、驚いたように目を見開いた。
 小鈴はサチの母親のそうした一連の振る舞いを、不思議な気持ちで眺めていた。彼女はてっきり、サチの母親がヤマメを忌避しているものとばかり思っていたのだ。だが、今の様子を見る限り、それはもしかするとただの思い過ごしだったのではないかと思えてきた。
 かつて甘味処でヤマメを追い出した時から何か心境の変化があったのかもしれない。それならば、小鈴にとっては大変喜ばしいことだった。かつては激しい怒りを向けた相手ではあったが、今はそんな思いを抱いている余裕もない。
 それほどまでに、小鈴は今、人里の中に味方を欲していた。自分の他に、ヤマメを肯定してくれる誰かや、一緒に彼女の話ができる誰かが欲しかった。自分一人では、自分の中の何かに潰されてしまいそうだったのだ。
 小鈴の袖を、小さな手がちょんと引く。

「おはなし、できる……?」

 サチは小鈴の顔と絵の中のヤマメを交互に見つつ、そう尋ねてきた。小鈴は申し訳なさそうに首を横に振った。
 対話は、できない。だが、
「でも、もしかしたら聞こえているかもしれないから、さっちゃんも話しかけてあげて」

 ――聞こえていてほしい。
 小鈴の言葉には、切実なほどの願いがこもっていた。
 サチは素直にうなずいて、ヤマメの絵に向き直る。

「……ヤマメおねえちゃん」

 小さな指でヤマメの絵に触れつつ、サチは遠慮がちに声をかけた。

「おねえちゃん……私ね、友達ができたよ。お外でもね、遊べるようになったの。おねえちゃんが、私の喘息、やっつけてくれたからだよ」

 サチは最初こそおっかなびっくりといったふうに語りかけていたが、話すうちに、まるでそこにヤマメがいるような親しげな様子に変わっていった。

「……おねえちゃん。おねえちゃん、聞こえるかな……? 病気、はやく治して……また一緒に遊ぼうね」

 絵に向かって懸命に話しかけるサチの様子を、小鈴は微笑ましく眺めていた。
 ヤマメがそこにいると信じてくれる人間がいる。その事実だけで、小鈴の胸はいっぱいになっていた。これ以上、何を望むことがあるだろう。
 と、それまで娘の言葉を黙って聞いていた母親が、おもむろに娘の指の上に己の指を重ね、伺うように小鈴の眼を見やった。どうやら、彼女にも話したいことがあるらしい。小鈴が小さくうなずいてやると、彼女は目礼ののち、自らも語りはじめた。

「ヤマメ様、いつぞやのこと、大変申し訳ありませんでした……。私、貴女を傷つけるようなひどいことを言って、追い返してしまって……。ですが、あれから毎日ずっと後悔してたんです……。娘のためにここまで尽くしてくれた方なのに、妖怪というだけで邪険に扱ってしまったこと……。私、里の掟が怖くて……娘が危険な目に遭うんじゃないかって、怖くて……」

 その眼から、悔恨の涙が溢れて落ちる。彼女は涙ながらに、「ごめんなさい……ごめんなさい」と繰り返し謝罪の言葉を呟いて許しを乞うていた。
 小鈴は呆然としながら、傍でその様子を眺めていた。その手がサチの母の背に触れようと伸ばされ、一瞬の躊躇のあと、ついには指先が嗚咽する背中に触れた。
 母親は背中をびくりと震わせて、驚きと共に小鈴に振り返った。
 小鈴の顔を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。そして、一も二もなく、伸ばされた腕の中に自ら抱かれていった。彼女は小鈴の背に腕を回すと、慰めるように彼女の頭を優しく撫で始めた。
 残されたサチが当惑して二人を見上げる。

「お母さん……おねえちゃんも、泣かないで……」

 サチの言葉を聞いて、小鈴ははっとして自分の頬に手をやった。濡れている。手を離して見てみると、指の腹を透明な雫が伝っていた。
 小鈴は動揺して母親から身を離そうとしたが、頭を撫でる手の感触と自らを抱く身体の暖かさがいっそ心地よく、その安らぎに甘えることにした。
 この二人の前ならば、もう涙を隠す必要もない。誤解を恐れて口をつむぐ必要もない。ならば、我慢せずに伝えたいことを伝えよう。そう小鈴は考えた。
 小鈴は、サチの母親の肩口に鼻先を埋めながら、ゆっくりと語り始めた。

「……ヤマメは、最後まで貴女たちのこと、信じてました。だから、あの時あんなこと言われて、本当はちょっとだけ悲しかったって、そう言ってたんです。だっ、だから……だから」

 話しているうちに、どんどん感情が昂ぶって抑えきれなくなっていった。大粒の涙が引きも切らず小鈴の瞼から溢れ、喉の奥が詰まった。
 しかし、まだ伝えたいことが残っている。小鈴は苦しそうに喘ぎながら、懸命に言葉を継いだ。

「……今、貴女に来てもらえて、こうして言葉を掛けてもらえて、ヤマメ、きっと安心したんじゃないかな、って……そう、思ったら……」

 もはやそれ以上、小鈴は話を続けることができなかった。
 しゃくりあげる小鈴を、サチの母親はよりつよく抱きしめる。
 彼女は小鈴の耳元に向かって語りかけた。子守唄を歌うような優しい声が、小鈴の脳の奥に甘く響く。

「小鈴さん。貴女にも謝らせてください……。貴女の大切なお友達を傷つけてしまったこと」

 でも、と、サチの母親は続けた。

「……貴女のようなお友達が側にいてくださって、きっとヤマメ様も幸せに感じていることと思います」

 小鈴は目に涙をためながら、その言葉に何度も頷いていた。
 暫くの間黙って抱き合った後、小鈴が落ち着いた頃合いで二人は身を離した。二人は互いの泣きはらした眼を覗き込み、くすぐったそうに笑った。
 ふと、小鈴はばつが悪そうに俯く。サチの母親が目で話を促すと、小鈴は口ごもりながら切り出した。

「その……私が泣いてたってこと、他の人には内緒にしておいていただけますか? 私のせいで、ヤマメの評判を落としたくないんです……」

 サチの母親は困ったように笑い、「わかりました」と頷いた。次いでやや言いづらそうに、
「その……仕事柄、店先で貴女の噂もよく耳にいたします。それで……差し出がましいことかもしれませんが、どうか、ご自愛くださいますよう、お願いしたいのです。きっと、それがヤマメ様のためにもなるかと思いますよ」

 彼女は小鈴に向かってそう忠告を残し、サチと連れ立って鈴奈庵を去っていった。





 甘味処の軒先で、ヤマメが幸せそうにきんつばを頬張っている。小鈴は、彼女の顔を指差して笑っていた。というのも、ヤマメの頬に餡がくっついていて、彼女自身それに気づいていなかったのだ。それほどに夢中になってお菓子を食べるヤマメが、小鈴は微笑ましくて堪らなかった。
 小鈴はヤマメの頬に指をやると、餡を指で拭って、それをそのまま自分の口の中に運ぶ。餡が舌に乗ると、幸せな感触がじんわりと全身に広がった。
 ヤマメが往来に目を向ける。小鈴がその視線を追ってみると、不思議な光景が目の前に広がっていた。
 甘味処の前では、サチとその母親が鞠を蹴って遊んでいた。二人の傍に寄り添うように、ヤマメの姿があった。サチの隣にひとり、母親の隣にもひとり、都合ふたり。加えて、小鈴の隣に座るヤマメもいる。
 往来の向こうに運松が歩いている。釣り道具を持っているので、仕事に向かうところか、それとも済ませたところか。その傍らにもヤマメの姿があった。彼女は運松の隣を歩き、笑顔で何事か言葉を交わしている。

「小鈴、私、もう大丈夫だよ」

 隣に座るヤマメが、小鈴に向かって微笑みを見せていた。陽の光がその笑顔をまばゆく照らす。

「そうなの?」
「うん! ほら、私、みんなの傍にいるから、もう大丈夫」

 小鈴を安心させようとして、ヤマメは両腕を広げてみせた。しかし、小鈴の方は承服しかねる様子で眉をへの字に曲げる。彼女は子供のようにむくれて唇を突き出した。

「……でも、私は貴女の姿をもう一度見たい。現実で、貴女と会いたい」
「だから、妖怪になりたいの?」
「……うん……」

 ヤマメは顎に指をあてて、思案げに空を仰いだ。そうしてしばらく考えを巡らせていたが、やがて結論に達したのか、うんと一つ頷いた。
 彼女は小鈴に向き直り、真摯な顔つきで友を見据えて言った。

「やっぱり、私は、人間のままの小鈴に会いたいな。だって、私の友達は、人間の貴女一人だもの。妖怪の小鈴は、きっと別の小鈴だと思うの」

 はっとして、小鈴は黙りこくった。彼女自身、かつて同じような言葉を誰かに向かって放ったことがある。だから、ヤマメの言いたいことは小鈴にもよくわかった。
 小鈴はしょんぼりとうなだれて、か細い声で呟いた。

「……そうだね。そうじゃなきゃ、意味がないよね……」

 小鈴の言葉に、ヤマメは黙って頷く。その表情に悲壮感は微塵もなかった。
 彼女はにっこりと笑い、明朗にこう断言した。

「大丈夫、小鈴。私たち、また会えるわ」
「そんな気休めは……」

 弱音を吐こうとする小鈴を遮るように、ヤマメは首を横に振った。

「ううん、気休めなんかじゃなくって、本当のこと。みんなが私のことをいつまでも想い続けてくれれば、必ずまた会えるの。だから、小鈴、私のこと忘れないでね」
「そんなの……当たり前よ」

 夢の中の小鈴が涙を零すのと、目を覚ました小鈴が涙を零すのはほぼ同時だった。
 布団の上で身を起こす。思いのほか身体が軽かった。屋根裏部屋の窓から朝日が眩しく差し込み、ひさしの向こうでは雀がしきりにさんざめいている。朝の冷たい空気の隙間を縫って、階下から朝餉の味噌汁の匂いがほの香ってくる。
 久々にまっさらな朝の姿を見たような気がして、小鈴はしばらくの間布団の上でぼんやりとしていた。その頬にはいまだに涙が伝っていたが、気分は決して悪くなかった。
 傍らの絵巻を見やる。ヤマメの姿は、変わらずにそこに描かれている。その姿を指で触れると、甘い感触が小鈴の身体の隅々まで行き渡った。
 小鈴は満足げに微笑み、そっと呟いた。

「ヤマメ……ありがとう」





 溜まりに溜まった鈴奈庵の仕事を大車輪で片付けていると、来客の気配があったので小鈴は愛想よく振り返った。「いらっしゃ……」言いかけたところで、入り口に立っているのが阿求だとわかると慌てて口元を抑えた。
 それを見て、阿求は憮然として短く息を吐いた。

「あら、今日はちゃんと働いてるのね」
「今日も、でしょ?」
「減らず口を叩けるくらいには元気になったみたいね」

 言いながら、阿求は手頃な椅子を机の側まで引ぱってきてそれに座った。たははと困ったように笑いながら、小鈴は急須を取って茶を湯呑みに注ぐ。
 湯呑みを阿求に手渡した後も、小鈴は阿求の傍らに立ったままもじもじとしていた。阿求が構わず茶をすすっていると、彼女は申し訳なさそうに首を引っ込め、阿求の顔色を伺いながらそっと呟いた。

「阿求、その……。この間は、ごめんね……ひどいこと言っちゃって」
「いいわよ、気にしてないから」

 阿求がそう言ってやると、小鈴はあからさまに安堵の表情を見せた。表情の変化があまりに露骨だったものだから、阿求は堪らず鼻から茶を吹き出してしまう。

「汚いなあー」
「だってあんた、顔に出過ぎなんだもの」

 手ぬぐいで鼻を拭いながら阿求が笑っていると、小鈴もつられて笑いだした。
 なぜそんなに笑うことがあるのか本人たちにもわからなかったが、笑いが笑いを呼んで二人は暫くの間腹をよじって笑い続けた。
 ひとしきり笑った後、阿求はもう一度茶をすすって落ち着きを取り戻した。笑い疲れて大儀そうにため息をつくと、彼女はようやく今日の話題を切り出した。

「この間のことなんだけどね。甘味処に寄ったら、他の客が話してるのが聞こえてきたのよ。その客らときたら、あんたがヤマメに取り憑かれたって噂を飽きもせず面白おかしく話してたわけ」
「うん」

 小鈴は自分のための茶を注ぎながら、その話を眉一つ動かさずに聞いていた。人の噂も七十五日というし、しばらくはその馬鹿げた噂も続くだろう。気にしたところで仕方がない。
 小鈴がつらつらそんなことを考えている間にも、阿求の話は続いていた。

「そしたらさ、奥から甘味処のおかみさんが出てきて、その客に言ったのよ。『お友達と長い別れをしなきゃいけなくなったら、誰だって悲しむんじゃないですか』って」

 小鈴の喉がぐうと鳴って、その顔が今にも泣き出しそうに歪んだ。彼女は慌てて阿求から背を向ける。なにかしら相槌を打とうと口を開いてはみるものの、声を出しただけで気持ちが溢れてしまいそうな気がして、結局何も言えなかった。
 一方の阿求は敢えて小鈴の方を見ようとせず、机の上の適当な本を手に取りながら、さりげなく言った。

「……もう、泣きたい時に泣いたって、いいんじゃない? ここに来るような人なら、誰もヤマメのせいになんかしないわよ」

 小鈴の肩が小刻みに震える。彼女は阿求に背を向けたままうなだれて、
「……うん……」

 と小さく頷いた。
 溜まっていたものを吐き出すように、小鈴は口から長々と息を吐いた。すると、堰が切れたように、両目から涙が溢れて止まらなくなった。
 嗚咽もなく、鼻をすする音だけが阿求の耳に聞こえてくる。阿求はわざとらしく大きな音を立てて湯呑みから茶をすすった。
 湯呑みの中の茶が残りわずかまで減ったころ、小鈴がくぐもった声でつぶやいた。

「あんたとも、友達で良かったよ、阿求……」
「私も寿命短いけどね」

 阿求にしてみれば軽い冗談のつもりだったが、小鈴にとってその言葉は大変に堪えたらしい。彼女はよろよろと床の上にへたり込み、身も世もなく泣き出してしまった。

「……それは今いわないでよお……」
「あっ……ごめんごめん」

 阿求は慌てて立ち上がり、小鈴の傍らに寄り添った。すると小鈴は身を翻し、その両腕で阿求の身を掻き抱く。きつく抱きしめられる痛みの中に、阿求は小鈴の想いの深さを知った。

「……ごめんね……」

 小鈴の耳元で囁いたこの言葉が今の不用意な発言に対するものなのか、あるいは、遠くない未来に小鈴を苦しめるであろう自らの不義理に対するものなのか、阿求自身にもわからなかった。





 ***





 盂蘭盆会の時期になると、命蓮寺の境内は朝から大変に賑わう。祭り目当てで里からやって来た人々や、お参りのついでに立ち寄った人たちでごった返すのだ。
 晩夏とはいえ、青空のど真ん中ではいまだに太陽が騒がしく輝いている。その下で営まれる祭りも、おかげで負けじと騒がしい。盆踊りの輪を動かす太鼓の音や、拍子木の甲高い音。くじ引きの当たりを喧伝する鐘の音、そして、人々の笑い合う声。
 そんな喧騒から僅かに離れた大きな楠の木陰に、少なくない人数の人だかりができていた。
 人だかりの中心では、小鈴が忙しく演目の準備をしていた。画架のような三脚の上に一冊の本を載せ、その傍らには『鈴奈庵の読み聞かせ会』と筆書きされた八つ切りの紙を掲げている。そして、三脚を挟んでもう一方の側には、ヤマメの姿が見えるようにして、百鬼夜行絵巻を開いて飾ってあった。
 最前列でりんご飴を舐めていた男児が、三脚の上の本に視線を投げつつ小鈴に尋ねた。

「小鈴おねえちゃん、今日は何のお話するの?」
「今日は縁日特別出張版だからねー、新しいお話があるんだよ。実は私ね、絵本を作ってみたの。――心優しい妖怪のお話。聞いてくれる?」
「えー……おねえちゃんが作ったやつ~? しょうがないなあ、じゃ、それでいいよ」
「ぐぬ……生意気な子ねえ」

 小鈴のこめかみに細く血管が浮き出る。それを傍らで見ていた阿求が「小鈴、落ち着いて」と半ば呆れつつなだめる。
 人の噂が跋扈する七十五日もとうの昔に過ぎ去って、今では小鈴が妖怪に取り憑かれているなどと噂する人間は影を潜めていた。
 それに代わって、今、人里の話題はある一匹の妖怪にまつわる話に移りつつある。
 ブームの火付け役は、他でもない小鈴だった。そして、話題の妖怪というのは、当然ヤマメのことである。それもこれも、全てはヤマメの復活を目指しての行動だった。
 ヤマメの存在を確固たるものにするためには、人間から認知されることがまず何より重要だった。しかし、そうそう簡単に認知を広げられるわけもなく、小鈴は思案に暮れていた。そんなある日、彼女は妙案を思いついた。
 鈴奈庵にやってくる客には、絵巻に描かれたヤマメを目当てにした者も多かった。彼らはそれぞれに自分だけが知っているヤマメとの思い出話を持っていて、小鈴に語って聞かせてくれた。小鈴は、そうしたエピソードを本にして纏めてみることを思いついたのだ。
 果たして、小鈴の作った本は意外なほどの人気を博し、里の人々の話題の中心となっていった。
 これに気を良くした小鈴は、今度は絵本を作ってみようと思い立った。先般作った本は文字に親しんだ大人向けだったが、子供たちにもヤマメを知ってもらいたかった。
 今、三脚の上に据えられている絵本は、こうした経緯で作られたものだった。今日は絵本の初お披露目の日だったのだ。
 話の始まりを今か今かと待つ子どもたちの後ろにも、見物人が弧になって立ち居並んでいる。小鈴はその中に、サチの母親の姿を認めた。呉服屋の権次や、運松翁の姿もあった。小鈴が憧れる眼鏡の女性もいて、腕を組んで笑って見ている。法事で忙しいはずの白蓮住職まで、足を止めて小鈴の様子を微笑ましく見守っている。
 知っている顔も、知らない人も、皆ひとしく期待に胸膨らませながら小鈴の語り出しを待っていた。
 傍らに掲げた絵巻に向け、小鈴はそっと微笑んでみせる。

(……ヤマメ、見ててね)

 小鈴はもう一度人々に向き直ると、その顔をぐるり見回してから、弁舌さわやかに語り始めた。
 彼女が今も夢見る、大切な友達の物語を。






                              了
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
時系列的には、弾幕アマノジャクと紺珠伝の間あたりのお話になります。

>>4
コメントありがとうございます。そして、申し訳ありませんでした。キャラの性格設定に関して、確かに配慮が足りなかったと思います。タグに注釈を追加いたしました。

>>7
コメントありがとうございます。丁寧に読んでいただいて、本当に嬉しいです。作者冥利につきます。
また、誤字脱字のご指摘ありがとうございました! ただいま修正いたしました。

>>8
返信遅れてしまい申し訳ありません!(もう見ていらっしゃらないかもしれませんが。。。)
読んでいただきありがとうございました!
>本来のヤマメやそれをよく知る地底の人々との関わりをもっと読みたいと思う位に。
そう言っていただき、また書きたい気持ちが湧いてきました。以前投稿した作品の中でヤマメを登場させて以来、このキャラクタが気に入ってしまい、もう一度登場させたくて今作に着手した経緯があります。しかし、執筆途中で構想が二転三転した結果、ほぼオリキャラといっていい性格のヤマメが作中の大半を占めてしまうことになりました。この点、自分の中で反省と悔いがあります。
アイデアがあれば、彼女の『いい性格』の魅力を引き出した作品をまた書ければなと思っております。
すずかげ門
[email protected]
http://twitter.com/suzukagemon
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4.70名前が無い程度の能力削除
一応はヤマメが反転して生まれたキャラですが、内容的にはほぼオリキャラといってもいいでしょう。
その手の注釈をタグなり前書きなりに明記した方が良いかと思います。

個人的には、元のヤマメとの絡みがもうちょっと欲しかったです。
なんだかヤマメちゃんを物語の出しにしただけのように感じました。
7.100名前が無い程度の能力削除
後半一気に読ませてくるパワーすごい。正直なところ正邪がやられないことを願っていました。俯瞰した語りかけで見知る人間やその会話になんども胸にきました(涙もろい)
感情に支配されちゃってた小鈴が阿求に言った言葉を思い出す場面など、繋げ方が上手いところが多くて章ごとに唸っていました
彼女たちの再会が叶うのか、それはこの物語では定かでないですが、明るさを感じさせる行く末に私自身は満足できました
とても面白かったです。
誤字脱字がありました(多分)↓

・その眼は、ヤマメの着物の襟からのぞく白いうなじを射抜くように見つめたまま→小鈴の着物の襟?
・その原則が真実だとすれば、ヤマメをこの世に復活させる方法は単純明快た→単純明快だ、または明快だった?
・小鈴は気まずそう眼を泳がせつつうべなった→気まずそうに?
8.90名前が無い程度の能力削除
どんな終局に辿り着くかドキドキしながら読み進めたので、大団円でも破滅でもなく、一時の出会いが残した決意を刻みつつ日常に回帰する終わり方は本当に上手いと思いました。本来のヤマメやそれをよく知る地底の人々との関わりをもっと読みたいと思う位に。