Coolier - 新生・東方創想話

蝉時雨 若しくは、緑の髪

2010/08/22 16:44:46
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蝉の声。鳴き声、命の歌。生命の叫び。



嗚呼、五月蝿い。
まるで豪雨だ。
外では容赦なく太陽が地表を撫で付けているというのに。
幻想の雨は毎年変わらず地表を濡らす。
だというのに。

「…では37℃を記録するなど本日は全国的な猛暑と…」

ニュースではこんなことを言っている。
うな垂れる。
畳の上でだらしなく寝そべりながら、茫と画面を眺め、流れる音声を聞くともなしに聞く。
…音声は蝉の声で断片的にしか聞こえないが。

「…です。さて、次の話題です。かつて、夏の風物詩と…」

あたり一面から鳴り響く音、音、音。
音の洪水。濁流。豪雨。
各々の断続的なその音は互いに補い合い、鬩ぎ合い、一つの巨大なうねりとなる。
断続が連続へ。その自然の連続は暴力的なまでの活力に満ちている。

「…個体数の激減から、昨今は目に触れることも少なくなりました…」

意識が遠い。現実感が無い。どうしようも無く、もどかしい、この浮遊感。
暑いから、それも勿論ある。
だが、これは何年も前から私に付き纏ってきたものだ。
それこそ物心付いたときから。

「…は今では野生種はこの地域でしか…」

嗚呼、だけれども、だけれどもだ。
もう耐えられない、もう無理だ。
私にはもう支えられない、この脆弱で薄弱な精神を、この僅かに残されていた私の正常性を。
私が信じる私の心は、もう正気ではないのだ、もう普通ではないのだ。

「…その声が、今の子供たちにも届く日は来るのでしょうか……」

何年も何年も気が付かない振りをしてきた。
今更である。
当たり前だ。本当はもうとっくに気付いていたのに。
本当はもう疾うの前から知っていたのだ。

「…絶滅危惧種と指定されたかつての風物詩、蝉の…」

私は毎年、溢れんばかりの幻聴で夏を感じていたのだから。





  * * * * * * * * *





暑い。
酷暑だ。
日が私を焼く。
茫とする。
熱せられた土瀝青アスファルトから立ち昇る陽炎。
ゆらゆらと。
地面が揺れる。
それは、幻、であり、錯覚、であり、則ち蜃気楼。
幻想の、在り得ざる、揺れ。
本当に?
溶かされた理性は正常な判断を下せずに、徘徊さまよう。
少なくとも私の耳朶を打つのは幻想の音。幻聴。
ならば。
この熱は現実?
あの揺れは幻想?
私の感じる熱は真実?
私の見る揺れは錯覚?
どちらが虚でどちらが真なのか、或いはどちらも真、もしくはどちらも虚なのか。
揺れは止まらない。
更に大きく。
幻想は強くその存在を示し、現実もまたその存在を主張する。
陽炎はその身をくねらせ不規則なリズムで踊る。
その躍りが、幻想の揺れが、現実を、侵す。
陽炎の躍りは大地に伝播し、地をも揺らす。
まるで、波。
その波が、広がる。
波紋が、拡がる。
幻想が現実に波及する。
地の波が躰を揺らす。
揺らめきが、感じられる。
私は今、体感・・しているのだ。
その揺れは、地の揺れか?
いいや違う。
では水面の?
それも違う。
地の揺れほど力強く確かではなく、水面の揺れほど穏やかでもない。
では?
この自由で気侭で曖昧なこの揺れは?
風の、揺れだ。
…ああ、まただ。
また、この感覚。
幻想を感じている。
幻覚だ・・・
幻想の風に揺られながら、私の体は土瀝青を離る。
地の青が遠くなる。
そして、躰は空の青へ。
私は青に導かれ、ゆっくりと墜ちて行く。
浮遊感さえ漂って。
逃げるように。
靴の底は地に向けて、胸には空を掻き抱いて。
まるで神話をなぞる様に、私は太陽へと向かって行く。
眩しくて眼を閉じる。
けれども光は私を逃がさぬよう、放さぬよう、瞼の裏を侵し、虹彩に進入する。
眼の中で光は明滅し、闇の中だというのに激しい自己主張を繰り返す。
月のようにとは言わないけども、もう少しひかえて貰えないものだろうか。
初めは浮遊、しかしそれは墜落に。
空の重力に引かれ、大地の重力を振り切り、私は光の中に落ちて行く。
――墜落が近い。
眼を開くと空はいつしか地上へ変わり、靴の底に空を写す。
蝋が溶け、私は落ちる。
そして私は、地に立つ私に堕ちて行く・・・・・・・・・・・



「早苗?」

友人の声で我に返る。

「どうしたの?ボーとして。」

ごめん、と数歩先行く友人に言葉を返す。
駆け足で並ぶ。
そうだ、今は帰り道。
友人との語らいの時間だ。
彼女は気にした風も無く、言葉を続ける。
また、幻覚。
最近頓に増えてきた。
幻聴の雨に気付いた時から始まったあの疎ましい幻覚は、初めこそ軽い幻聴や幻視で済んだ物だった。
例えば、聴いたことのない虫の音だとかとの鳴き声だとか。
…空を飛ぶ、人、だとか。
滑稽な。
翼無き人を、どうして空が受け入れようか。
人は・・空など飛べない・・・・・・・
しかし、その程度だ。
如何に滑稽で常識外れであろうと、所詮は感の伴わぬ幻視と幻聴。
それが何時の間にか、あれほどの質量を宿す巨大な幻覚と成っている。
いよいよ、心が危うくなって来たのだろうか。
そう独り言ちる。

「早苗の髪ってさ、いつも思うけどきれいな黒だよね。」

友人の言葉。
そう云われて曖昧に言葉を返す。
曖昧に成ったのは何も先ほどまで物思いに耽っていて、余り話を聞いていなかったから、ではなく、その言葉への適切な返答が思いつかなかったから。
褒められて悪い気はしないが、正直戸惑う。
私には自分の髪が人にどう見えているか分からない。
髪だけではない。
いつの頃からか、鏡に写る自分の姿が杳として確としないのだ。
幻視の一種だろうが、これは生来のもの。
鏡の向こうにはいつも私ではない私が写っている。
いや、分かっている。
自分でもそれは確かに自分の姿だと認識できる。
だが、どうしてもそれが自分だとは思えないのだ。
それが私のイデアであるとは思えない・・・・・・・・・・・
私が認識する私は少なくとも黒い髪などしておらず…。

「本当、緑の黒髪・・・・ってこう云うことを言うんだろうなって思うよ。」

友人は微笑む。
視覚から、その微笑みだけが浮かび上がる。
全体像は曖昧で捉えられない。
丁度、鏡で自身を見た時の様な。
視界の隅に金色が靡く。
そして。
其処には友人など居なかった・・・・・・・・・
私は、初めから一人で帰っていたのだ・・・・・・・・・・・・・・





  * * * * * * * * *





シュレディンガーの猫、と言う思考実験がある。
ネコと半減期が一時間の放射性物質を箱の中に一緒に入れる。
箱には放射能を感知すると致死性の毒ガスが出るような仕掛けが施されている。
このとき、一時間後に猫が生きている可能性は50%。
一時間後の箱の中は、猫が生きている状態と死んでいる状態が重なり合って存在し、箱を開けてネコの生死を確認/観測するまでは猫の状態は確定しない。
重なり合った状態は我々には観測しえず、つまり、現象/現実は観測されたとき収束し、状態の固定が発る。
こんな思考実験だ。
この問題は人によって様々な解釈を見ることができる。
その中には他世界解釈という容易には受け入れ難い解釈も存在し、これは少数の物理学者と多数のSF作家及びそのファンによって支持されている。
観測した瞬間、生きた猫と死んだ猫の世界に分かれるのだ。
…もし、生きた猫の世界から死んだ猫を観測したら?
波動関数は発散し、別の状態に再収束する。
この実験/解釈を識ったとき、私は恐怖を覚えた。
重複する存在。
重ね合せの現実。
幻想存在。
決して観測されえぬ、してはならぬ現実/幻想。
私は、幻想を観測した時/された時、幻想となる。
幻想は、現実を、私を観測したとき現実となる。
逆転する。
故に、私は目を閉じる。
耳を塞ぐ、口を噤む。
心を鎖す。
見つからないように。
そのような条理など否定するために。





  * * * * * * * * *





人の記憶とは兎角曖昧だ。
幼少の記憶それ全てが真実であると誰が言えよう。
幼心には夢の体験と現実の体験の区別が付かない。
何故か?
経験の不足。
条理の不知。
常識の不在・・・・・
子等は何も知らず、故に全てを受け入れる。
ではこの記憶は?
靴の底には空があった。
胸の内には地を抱いた。
揺らぐ風はわが身を孕む。
そうであったはずだ。
夢?
本当に?
もはや真実は彼方に消え。
遺る残骸は何も語らない。
だけども、だけれども。
あの微笑が語るのだ。
全ては現実だったと。



幼き日の記憶は曖昧だ。
全ては靄の向こう側。
夢のことしか覚えていない。
そう、私は夢しか覚えていない。



空を飛ぶ夢だった。
腕を振れば風が起き、少し念じれば風は渦を巻き、私を掬い上げる。
人と語らう夢だった。
私の傍には二人いて彼女らに力を借りるのだ。
空から両親を見る夢だった。
遠くに行かぬよう、力に感謝するよう言われ、叱られた。
人に告げられる夢だった。
誰にも自分たちのことを告げぬよう。
夢のような夢だった。
素敵で綺麗で楽しくて、まるで常識はずれの夢だった。
熱にうなされる夢だった。
体の中で何かが狂い、暴れだす。
嵐の夢だった。
父母の体が千切れ飛んだ。
鏡の夢だった。
私は私と向き合って。
凪の夢だった。
静穏で静謐で、そして何かが足りない夢だった。



御伽噺を聞く夢だった。
この世界とは違うどこか、遠く離れた隣人の世界。
在りし日を残し、幻想が笑い、闊歩する。
幻想の楽園。鎖された理想郷。
消える事の無い泡沫が漂い続ける不思議の国。
そんな、夢のような御伽噺。
そんな、夢を伝えられる夢だった。



――そして

 霞の向こうに

      私は――



心は千々に乱れても、躰は依然そこにある。
心がうず巻き掬っても、躰は依然地に這って。
荒れた心は搖蕩たゆたって、仲間を見つけて手をとって。
それでも躰はそこにある。
躰は地に這い、心は空に舞う。
心と躰が別れても私は一つ。
故に、そして、だからこそ、いつかまた・・・・・





  * * * * * * * * *





私は目を覚ます。


丁度、授業は終りかけていた。
英語の時間。
これではいけないと、姿勢を訂す。
一応、品行方正で通っているのだ。
昔はそうでもなかった様だが。
つい先日人にも言われた。
彼女の中で私は幼い頃の御転婆なままだという。
残念ながら私に物心付く前の記憶はない。
全ては曖昧な夢の中だ。
どうやら私は物心付くのが人より幾分か遅かったらしい。
記憶の泥を抄い、形に成りそうな物が抄われるのは初等学校の二年次か三年次付近の頃である。
そしてその頃には私は今の私だ。
曰く、大人しく、礼儀正しく、真面目で、少し固過ぎるきらいのある、優等生と呼ばれるものに属する子供。
お転婆と言われても正直ピンと来るものは何も無い。

「今日は此処まで、テキストの…」

授業の終了時間まではまだ少しあったが、今日はこれで終わりのようだ。
教師が皆に宿題を伝えている。
この後はこの教師の雑談だ。
異国から来たこの教師は日本語も達者で生徒との気が置けない雑談じみた会話を好む。
教師としては如何なんだろうと思うが、学友たちの評価は上々でどうやら自分は少数派らしい。

「この土地は本当に綺麗な所です。自然…」

日本の風土に引かれてやってきたらしいこの教師は、自然の残るこの土地がお気に入りの様で良くこの話題が出る。
要は田舎ってことなんだけどね。
それでも、此処に蝉は居ない・・・・・・・・
私を狂気に浸す、幻想。
気を引き締める。
幻想に引き摺られてはいけない。
教師の話を流しながらテキストを捲り、皆が愉しそうに教師と、若しくは学友と雑談を交わす中、宿題の確認と復習をする。
うん、居眠りは其れ程長くは無かったようだ。
それにしてもまだ一応授業時間なのだし、もう少しおしゃべりは控えたらどうだろうか。
こんなことを思う辺り、自分でも確かに優等生気質だとは思う。
ただ、それは少し違う。
私は乱したく無いだけなのだ。
この空気を。
私はこう見えてこの現在を非常に愛している。
この世界をと言ってもいい。少々気恥ずかしいが。
そして此処に居る為の努力を、愛する為の労苦・・・・・・・を、私は惜しまない。
――故に。
目を閉じた。
耳を塞いだ。
口を噤んだ。
初めは、より世界を感じられる様。
唯、感じられれば光も音も要らないから。
口を開けば、愛しい世界は乱れるから。
今は、幻視を防ぐ為に。
幻聴を拒む為に。
今にも漏れそうな叫びを堪える為に。
そして、心を鎖した。
あらゆる幻覚の狂気から身を守るために。
そうしなければ愛せない・・・・・・・・・・・世界に気付かぬ様に。
そして、嗚呼、何よりも・・・・
「東風谷早苗さん。彼女は希有な一族の生まれでね。」
ハッと教師を見る。
窓から差し入る日が髪を透かし、綺羅と輝かせる。
その金髪が眩しくて、教師の顔が判然としない。

――ただ、浮かび上がるようにその笑みが

      言葉を、紡ぐ――

「その系統は遡れば神代にまでたどり着く」

――自分の話題。視界の中が赤く染まる。
これは怒りだ。瞋恚しんいの焔だ。
激烈で猛烈で、哀訴に満ちた・・・・・・、そんな瞋恚だ。

「一子相伝とされた秘術を口伝でのみ伝える一族ね。」

だが何故だ?何故、この怒りはどこか見当違いに感じられるのだ。
一族のことを語られるのが何故こんなにも厭わしいのだ。
自ら愛した一族を、一家を、語られることが。

「その力は風を呼び空をも自在に泳いだそうよ。」

それは、―――駄目だ。
止めろ。心を、止めろ。
停止しろ。

「それは正しく奇跡。」

目を閉じろ耳を塞げ口を噤め心を鎖せ。
この世界を私は愛しているのだ。愛さねばならぬのだ・・・・・・・・・
この程度で感情を荒げてはいけない。

「奇跡を起こした人を、人は姿見せぬ神よりも余程恐れ、信仰した。」

荒げれば、世界は変わってしまう。あの時の様に変わってしまう。
それでは駄目だ、愛せない・・・・
心を鎖せ。何も入り込まぬ様。私の聖域を守るのだ。

「そして次第に、神の代わりに信仰された一族は現人神と相成った。」

教師の笑みは益々深く、喉を反らすほどに。
だがそれは笑みと言うよりも哄笑めいて。
奇妙に、浮かび上がる。

「その末裔にして、幼少から豪き力持ちて揮いその才気、疑惑い無きものなれど、」

だがしかし、平素のむしろ整然とした声音は続く。
かと思えば教師はやにわに立ち上がり時計を見やる。
…授業終了時刻。

「――何時しかその力を忘れたか、彼女は未だに此処に居る。」

そして、授業終了の鐘が鳴り、教師は部屋を後にする。
だが、笑みと声だけは教室に停まり続ける。
その笑みは、あの、蜃気楼の微笑・・・・・・

「東風谷早苗よ、お前は何故此処に居る?」

そう云い残し、笑みも声も立ち消えた。
あの時の如く。
唯、残ったのは金の残像と、幻想の雨音だけだった。





  * * * * * * * * *





「もう限界よ。もう沢山。
 これ以上、あの子が苦しんでるのは見たくない。
 そりゃ、連れて行ければいいとは思ってた。だから彼女に話したんだしね。
 行くって言ってくれた時は正直嬉しかった。
 でもやっぱりあの子にはあの話は早過ぎたのね。
 結果、ああなった。
 そして待つことにしたわ。皮肉にも当初の予定通りにね。
 でももう駄目。
 あの子はもう限界よ。
 大分と私の力も弱くはなったけれど、まだ大丈夫。
 無理やりにでも連れて行く。
 今ならまだ間に合う。
 あの子も、半分はあちら側・・・・・・・だもの。」

「でも、あの子はまだ此方に居たがってる様に見えるけど。」

「そうね、でも駄目。このままだとあの子は擦り切れて消えてしまう。」

「あの子は、私たちの子供ではないんだよ?
 私は反対。どうあってもあの子が決めるべきだ。
 それで、死しても。」

「…」

「ねえ、あのことに責任を感じるのは判るよ。そりゃあ。
 大事にしているのも判る。
 久方ぶりの私等と語らえる存在だ。
 でもまあ、もう暫く待ってみなって。見たところ後一歩だ。
 あの子が自分で、自分等・・・で、気付くまでは何もしちゃあいけない。
 あの子は現人神とはいえ、今は人間・・・・だ。
 いや、ある意味ではそれ以下の・・・・・
 …兎も角、私たちは仮にも神様だ。」

「…全部知った上であの子に選ばせろと?」

「そうよ、見守る。なんとも神様らしいと思わない?」





  * * * * * * * * *





だから、私は。
見つかってはならぬのだ。
秘術など私は知らない。
口伝など私は知らない。
私は、何も知らない・・・・・・
知ってはいけない・・・・・・・・



ただいまと声を掛ける。
いつも通りにお帰りと声が掛かる。
日常の情景。
日常のやり取り。
だけど、嗚呼。
何故こんなにも気持ちが悪い。
何故こんなにも違和を感じる。
綻んでいる。
あの時から。
学校であの笑みを見たときから。
私は何かに気付いてしまった。
閉じた瞼は透け始め、塞いだ両手は薄くなり、キッと結んだ口唇は端の方から裂け始める。
駄目だ。
いけない。
止めろ。
心の鎖を締め上げろ。
幻覚だ。
この違和も、あの笑みも。
耳朶を打つ、この雨音も。
全ては幻覚。
幻想だ。

―――ならば、ならば何故家の奥から人が出てこない?
    
     日常なら直に居間に上がったお前が、こうして此処で立ち往生するのに何故誰も不審がらない?―――

知らない。
これも幻覚。
あの笑みと同種のものだ。
言っている事等、これっぽちも判りはしない。
不審がる?
――誰が何を?
秘術?口伝?一子相伝?
――何処の伝承だ?
現人神?
――私は、唯の人間だ・・・・・
そのような事、常識では有り得ない。

―――お前は自分が何を言っているか解っているのか。

    一つの矛盾を解っているのか?―――

聞こえない。
幻聴など聞こえない。
だけど嗚呼、それは耳を塞いでも聞こえてくる。
身体の内から聞こえてくる。

―――何故、お前は隠れるのだ。
 
     目を閉じ耳を塞ぎ口を噤み心を鎖して―――

其れは見ないため。  ――現実を。
其れは聞かないため。 ――真実を。
其れは漏らさぬため。 ――哀訴の叫びを。
其れは気付かぬため。 ――心の虚を。
見つからないため。  ――幻想に。

―――分かっているじゃあないか。認めたじゃあないか。幻想を。

      現実を愛し、しかしお前の現実はもはや違えている―――

シュレディンガー。
斯くして私は捉えられる。
観測される。
条理は逆転し、真なる条理が現れる。
否定するのは、その条理の存在を認めるが故。
そして…
 
―――お前が隠れたのは世界を愛するからではない。

    そうしなければ世界に居られぬから・・・・・・・・・―――

そう、そう思わねば成らなかった。
疎ましき幻想。
あの時から、私は酷く希薄になっていた。
誰も認識は出来ず、誰も気付かない。
故に、大人しく、目立たぬ、乱さない。
優等生・・・
その為の、条理。

―――そうだ。お前は其処に居るには虚ろ過ぎる。

     欠けている。人の認識すら妨げるほど―――

では。
あの返事は。
あの、『お帰り』は…。

―――其れこそが幻想、幻想の音。

    お前を育てたのは初めは父母だ。だが今は―――

あの方々。私が捨てた幻想。
私は幻想と供に常に在り、そして同時に幻想を否定していた。  
だけども、だけれども。
何故、父母は。

―――知るか、其れを。

    教えようかその記憶を―――

狂気が。
迫ってくる。
私の狂気が。
私の喉笛に手を掛ける。
記憶が、浮き上がる。
鎖したはずの記憶が。

―――鎖せなどしないさ。私が居る。

      私が居る限り、貴女の心は貴女だけのものではない。―――

貴方は誰?
貴方は何?
貴女は――

―――そう、私は。

その時気付く。
耳を塞いでも聞こえるはずだ。
身体の内から韻く筈だ。
その声は、私の口から・・・・・

―――私は、早苗

    東風谷早苗・・・・・貴女自身・・・・

―――

そして、私の喉から高く長い異音が響いた。





  * * * * * * * * *




秘術の存在を聞かされた。
そう云うヒトであると聞かされた。
その時から私は風祝だった。
何も考えなくて良かった。
出来る人であると知ったときから私は奇跡を起こせたのだ。
だから、それを聞かされたとき、私はまだ幼かったけれど、私一人でも出来ると考えた。
神様がやるというのだ。
その力を借り受けた自分が出来ない筈は無いと。
――なんて、思い上がり。
結果。
荒れ狂った。
力が風が。
嵐が。
紅い旋風。
白い飛礫。
斑の驟雨しゅうう
汚穢の臭気。
其処には――だったものが。
そして私は私を見る。

私は地に。

―――私は空に。

私は肉で。

―――私は心で。

私は現実。

―――私は幻想。

私は幻想が疎ましく。

―――私は現実が疎ましく。

私は希薄な物と成り。

―――私は漂う物と成り。

誰からも見られぬ物と成り。

―――唯、在るだけの物と成り。

やがて―――


凪。
虚ろは私の中に巣食い。
―――私は空ろと成り果てる。


そして。
嗚呼、今。

其処に、居たのね―――

―――此処に、居たのよ。

私たちは再会した。
いつかは今だ・・・・・・





  * * * * * * * * *





「打診があってからまた随分と掛かったものね。」

「色々とね、あったんだよ。」

「そう。でも小さなあの子はもう大分前からあなたたちを待っていたわよ。」

「…」

「まあ、私も少しやきもきしてね。
 一寸ばかしちょっかいを…ああ、そんなに睨まないで、少しお話しただけだから。
 何にせよ、ようこそ幻想郷へ。
 貴女方が思うより随分と簡単に来れたでしょう。
 此処はそう云うものには、意外と簡単に来れるのよ。
 だからあの子もああ成った・・・・・
 此処はね、残酷なくらい全てを受け入れてしまうのよ。」





  * * * * * * * * *





狂気?
いいえ、これは歓喜。
にじり寄るもの、這い寄るもの。
それらは狂気なのではなく郷愁。
現実に居るためには気付いてはいけなかったのだ。
罪を負うた私はあそこに居なければ。
しかし、浅ましくも私は居る。
此処に、居る。
私は、忘れなどしないけども、此処に生きる。
望まれているかは判らない。
だが、望む人が居るのなら。



風が香る。
良く嗅いだ臭いだ。
日が哮る。
肌に馴染んだ日差しだ。
――なんだ。
結局私は・・・・昔からここに居たんだ・・・・・・・・・・



視野に広がるは雄大な幻想世界。

視界の端では緑なす髪が揺れている。





―――そして耳には、

       懐かしく馴染み深いあの、

              蝉時雨が―――









end
二度目まして。
作品集57ぶり、つまり二年ぶりですね。

*8/23 誤字修正
    さらに誤字修正。難読と思われる語句にルビ追加。
    >「節えて」と「総ゆる」
    「ひかえて」と「あらゆる」と読みます。
     どちらも常用外なので普通の辞書には載ってないかもです。
yubi
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コメント



0.560簡易評価
7.100コチドリ削除
凄い。
まさにイメージの奔流。

そしてその奔流が一気に収束したかのようなラスト。
自分にも一瞬の静寂の後、蝉時雨が聞こえてきたような気がしました。
8.90名前が無い程度の能力削除
好きよ。
13.90名前が無い程度の能力削除
文体がかっけーっす!

誤字とか
引きづられて→引き摺られてor引きずられて
雑談を躱す→雑談を交わす

あと、「節えて」と「総ゆる」はなんと読むのが正しいのでしょうか? 表外読みにも該当するものがなくて分かりませんでした。
16.100名前が無い程度の能力削除
格好よすぎる。
もはや文章そのもので一つの芸術になっているといっても過言じゃない。
18.100名前が無い程度の能力削除
圧倒されました。