忘れていませんか?
本来妖怪という生物は人間に忌避され、畏怖され、淘汰されるべき存在である事を。
忘れていませんか?
平和な世上を耳にして、この場所がどれだけ恐ろしい所であるのかを。
彼らは何処にでも存在します。また何処にでも存在する事が出来ます。あるいは貴方の背後で笑っているやも知れません。あるいは貴方の行く先に佇んでいるやも知れません。そしてあるいは、貴方の友人が妖怪なのかも知れません。……
◆
月の冴える寒い夜、ふと煌々と輝く満月の魔力に誘われて外に出た。そこには昼間と何も変わらない家並みと、何処か寂寥感を漂わせる畑の風景。私が住まう幻想郷の人里は、夜になれば人っ子一人見かけぬほどに閑散としている。まるで昼間の喧騒が嘘であるのかのように、八百屋の店先で商売をする爺さんの張り上げ声も、小さな子供達が騒ぎ立てる声も、木々のざわめきも鳥達の歌声も、ことごとくが消え失せて森閑としている。
今宵の満月はその静謐さに拍車をかけているようで、私の心持ちを何処か不安定にさせている。しかしそんな危機感にも似た好奇心が、もしかすると私をこの宵闇に向かって手招きした元凶なのかも知れない。
とりあえず、呆けているばかりでなくそこらをふらりと散歩する事にした。夜になれば驚くほど何もない土地ではあるが、私にとっては冷たい夜風と、静まり返った夜という贅沢な楽しみがあるだけで充分に思われる。私は目的地を何処と決める事なく、自らの足に全てを託して宛てのない散歩を開始した。時刻は日を跨いだ所だろうか。人里の真っただ中とはいえ、危険に変わらないこの時間帯も、妙な魅力を私に与えている。自然私の足取りは軽くなった。
漠然とした意識のまま歩いているにも関わらず、私の足は流暢に前に出た。まるで予め目的地が決定されているかのように、一か所に留まって低迷する事がない。けれどもその先は次第に人里から離れ始めている。自分がこれほどまでに危機感に疎い人間であったろうかと自身の事を不思議に思いつつ、それでも尚止まらぬ足に任せ、ふらふらと歩き続けると、何時の間にか鬱蒼と茂る森の脇へと到着していた。
頭上を見渡せば木々の梢が犇めき合って、網の如く細かな穴から差し込む月光が明らかに映る。周囲を見渡してみても、やはり人はおらず、そこは森と静まり返っていて、私以外の生命の鼓動が感じられぬくらいに、他の世界から隔絶されているようだった。それが何処か心地よく思えて、私はふとした感慨に耽りながら、何ともなしに近くの木立に背を凭れ掛けさせた。一人呆けたまま無為に時を過ごすのもたまにはいいものである。
「今晩は。こんなに夜遅く、如何されましたか」
ところへ、見知らぬ女が私に声を掛けた。先刻周囲を見渡した時には影も形も見えず、それどころか生物の気配すら感じなかったというのに、唐突に発せられた声は私を幾らか脅かした。けれども大した恐怖に襲われなかったのは、私に声を掛けたその女が、月さえ恥じるような美貌を秘めていたからであろう。私は生涯の中でこれほど美しい容貌をした女性に巡り合った事など、ただの一度としてなかった。妖しい輝きを放つ満月のような瞳、宵の色に劣らぬ金色の髪、月光を浴びて妖艶な色を帯びた肌――謎の女性は、そんな出で立ちで私の前に立っている。雲一つ懸からない空の下、日傘を差している姿には何とも云えぬ違和感があったが、それも然したる問題として私の中に出て来なかった。
「いや少し、夜風に当たりたくなったもので」
「こんな夜は危ないではありませんか。何時妖怪に襲われるか判りませんわ」
「はは、元来馬鹿な頭なので。殊によると妖怪が出てきても驚かないかも判らない」
「まあ逞しい人。妖怪と云ったら誰であれ恐れる存在ではありませんか」
女の話振りは、田舎育ちの私には酷く上品に思われる。異国の気品を感じさせるその女性の雰囲気は、私の興味をたちまち惹き付けた。気付けば、初対面という壁を容易く乗り越えて、私は彼女との話に夢中になっていた。もしかすると満月の魔力に中てられたのは私だけではないのかも知れない。そう思うと、この女性との間に不思議な縁を感じぬ訳には行かなかった。警戒心の足らない鈍物だという自負は豪も持っていないが、それでもこの女性にはそんな些事を忘れさせてくれる魅力が備わっている。それだから私は一人の時を満喫する事も忘れ、彼女との会話に没頭している。
「なに、話を聞けば妖怪もそう悪い者ばかりではないように聞こえますから。だから僕もこんな夜の日に外を出歩けるのす」
「可笑しいわ。私の知る人間と云ったら、みんな妖怪を恐れていますもの」
「まあ人それぞれという事でしょう。僕のような人間も居れば、貴方の云うような人間も大勢居る。考えても所詮は詮無い事。それに散歩を楽しむという名目もあれば、少しはこんな夜の日に出歩く動機も出来ます」
そう云うと、女は瞳を細め、手を口に当てて笑った。その様子がやはり優雅である。木々の梢が犇めき合う中から僅かに差し込む月明かりがそれを誇張する。私は目の前の女にすっかり目を奪われた。人間とは思えぬほどの凄艶さを放っている姿から受けた、ある種恐ろしい感銘はその時には既に私の心を打ち抜いていた。あわよくば懇意な仲になろうという下心が私の中に芽生えるのも時間の問題である。私はそれほどまでに、目の前の女に凄まじい魅力を感じている。
「少し質問を好いかしら」
女は唐突にそんな事を私に聞いた。無論私はどうぞと答える。女は穏やかに笑みながら、桜色の唇を動かしてみせた。す、と通った鼻筋が、僅かに動く頬の筋肉が、彼女の身体の動きの一つ一つが、私を誘っているように思われる。頭上に煌めく月よりも激しい魔力だ。私は女の美貌をそう評すると共に、女の次の句を待ち受けた。
「妖怪とは何でしょう」
そうして紡がれた問いは、甚だ可笑しかった。人間ならば恐ろしい存在だと口を揃えて云うような判り切った問題は、滑稽の趣さえ凝らしている。私は軽く笑いながら、「何ですいきなり」と尋ね返した。女は徒に浮かべた微笑みを始終絶やさずにいる。動機を答える気がないように見える。私は彼女の望む答えを出来る限り返せるように努めた。
「云わば絵具の黒色でしょう」
「絵具の黒?」
「ええ。そうして人間は白色なのです。持って生まれた混沌に相違があるからこそ、その差異が生まれ、決して交わらない関係性となり、互いに互いを自分の色に染めようとする。それが全く絵具のようじゃありませんか。黒は容易く白を汚すけれども、白はどうしたって黒を白に出来ませんから。詰まる所、それが妖怪と我々の間にある力量の差なのです。人間は妖怪には敵わない。それ故に恐れる。――私のように奇怪な人間も居る事でしょうが」
私の舌は氷の上に氷塊を滑らすが如く滑らかであった。今まで真剣に考えた事がない問題に対して、どうしてこうも流暢に舌が回るのかと不思議に思ったが、どうも今日は足も軽く進めば舌も上手く回るらしいと適当な結論を付けて、私は彼女が湛えているような微笑を返して見せた。女は驚いているのか、あるいは感心しているのか、細められた眼を丸くさせている。私はそれで満足である。私の言葉に対する女の批評が楽しみになった。
「詩人ですね」
「そう浪漫的な人間じゃない。今日みたような天気がそうさせたんでしょう」
「それにしたって詩的ですわ。それでいて的を射ている」
「褒められたって悪い気はしませんが、どうにも恥ずかしくって駄目ですね」
真剣に驚いたような女の様子に、私は照れた笑いを浮かべた。実際そこまで好い事を云った自覚はなかったし、知的に見える女を満足させる事が出来るような博識な人間でもない。私は人並みに本を読み、人並みの感想を抱き、人並みの情操を持っているものだと思っていたから、殊更に女の言葉が照れ臭かったのかも知れない。
「そう云えば、貴方はこんな真夜中に何をしているんです。そんなに美人じゃ妖怪のお眼鏡に適ってしまいそうなものですが。純白と云ったら貴方のような人間の事を差すでしょう。危なくっていけない」
それは今か今かと待ち続けられた問いである。私はこの問いを向けるまでにどんな過程を築けば好いか、どれだけ胸の内で悩んだのか判らない。しかし、お互いの言葉が一度途切れて、冷たい夜風が私達の頬を撫でた時には丁度好い頃合いだろうと判じた。しかし、すんなりと通るとばかり思っていた私の問いは、女の意味深長な微笑に阻まれてしまった。女はくすくすと笑いながら、面白いものでも見ているかのように、笑っている、
――私はその時、何か恐ろしいものの片鱗を目にした気がした。女の笑みは一種の不気味さを孕んでいる。私の理解が到底及ばないような何かが、濁りのない金色の双眸の奥で蠢いているかのようである。私の足は一歩後退した。女は依然として笑っている。嬌態の香を匂わせながら、私に手招きをしているようである。
「そんなに高尚でもありませんわ。私などに純白だなんて形容は似付きませんもの」
「僕のような平々凡々たる人間からすれば、貴方ほど美しい人はそうはいません」
「それにしたって可笑しいわ。――ふふ、私が純白だなんて」
私は確然たる恐怖を女に対して感じていながら、しかし自分の口から出る言葉を止める事が出来ずにいた。何時しか背中には冷たい汗が流れている。女の微笑みには恐ろしい何かが隠されている心持ちがする。強く握りしめられている手には脂汗が浮かんでいて、この冷たい夜気に当てられながら、それでもじんわりと生暖かい。一度甘い興奮の坩堝に入り込んだらそこから逃げ出せないのと同様で、私は今更来た道を駆け戻る選択肢など持ち得なかった。元よりその勇気も、女の前に粉砕されている。震える唇を必死に抑えようとしながら、私は竦んだ足で必死に大地の上に立っていた。
「ねえ、貴方。そろそろ帰らないとならないのじゃなくって?」
女は逃げ道を敢えて私に呈した。その自覚があるのかは判然としない。けれどもその口調には、不様に逃げ回る小動物を追い掛け回す時のような面白さ感じているように思われる。じわりじわりと追い詰めて、そうして罠に嵌めて動けなくなった所を一思いに殺す時のような滑稽を感じているようでもある。私は恐ろしくて仕方がなかった。しかしその恐ろしさの前に抵抗する勇気もないまま、動けずにいるしかなかった。
「そうかも知れない。月も雲に隠れてしまった。不吉な夜だ」
「ええ、不吉な夜ですわ。こんな夜は不意に妖怪が襲って来ないとも限らない」
「変な冗談はお止め下さい。やはり夜中に出歩くのは、私の度胸じゃ無理な話だった」
「冗談じゃありませんわ。――ほら、後ろに何かいる!」
私は慌てて後ろを振り向いた。何もない。鬱蒼と茂る森の脇道であるにも関わらず、そこには何もない。闇だけが広がっている。そうしてその中に、目玉が点在している。全てが私を見詰めている。全ての視線が私を射抜いている。空があった場所には満月の明かりさえない。冥々たる暗黒が全てを支配している。私は血の気がさっと引いて行くのを確かに感じ取った。奥歯ががちがちと情けなく音を立てている。引き攣った頬には不自然に力が入る。元の立ち位置に戻ろうとすると、それが一番恐ろしく思われる。まるで先刻の美しい女が、想像にも浮かばないほど恐ろしい貌で、私を喰らわんと大口を開けているように思われる。――ああ、叫び出したい。いっその事、子供染みたように大声で叫び立てられたらどんなに好いだろうか。それでも私の唇は震えるばかりで、本来の機能を伴っていない。
それでも歪な人形の首を回すが如く、私はゆっくりと女の居た方へ振り向こうとした。ぎりぎりと軋む音さえ鳴りそうである。今この一瞬が、永遠に感じられる。もう死んでしまいたかった。こんなに恐ろしい事を体験するくらいなら、死んでしまったほうが幾ら楽だか判らない。――とうとう私の顔は、女の方へと向き直った。……
◆
目覚めると、寝巻は冷や汗に濡れ、絞れば水滴が滴りそうなくらいに湿っていた。心臓は荒々しく脈動し、呼吸を忘れていたかのような肺は次々に新たな空気を欲する。私は朝陽が窓から差し込むのを見て、漸く今までの事が夢なのだと理解した。そうして、深い溜息を吐くと共に、絶体絶命の窮地から抜け出した心持ちで、胸中にじんわりと染み渡る安堵を享受した。
晴れ渡った空が窓の外に広がっている。今日は好い天気だ。私はそう思うと寝汗に塗れた寝巻を脱ぎ捨てた。そうして箪笥の中から着替えを引っ張り出しながら、夢の中に出てきたあの女は、純白という形容を当てはめるには確かに向いていないと考えた。彼の女は漆黒に包まれている。もしかしたら妖怪の類であったのかも知れない。そう思うと、私は更なる安堵を感じるのである。しかしその安堵は仮初のものである。もしかしたら私は既に死んているのかも知れない。それほどまでに、この安堵に対して私は現実感を感じていなかった。
好い天気だ。私は半ば言訳染みたその言葉を、口の内で繰り返した。
――あの女の視線が自分を射抜いた時に感じた慄然たる恐怖を、確かに感じながら。
今にも聞こえてあの声が私の耳を劈きそうである。あの女の声音が、響いてきそうである。
不適に笑いながら、――ほら、後ろに何かいる!
――了
相変わらずの筆致が素晴らしかったです。
>既に死んているのかも
誤字でしょうか?
すらすら読めてそれでいて不気味。いいショートショートですね
それでも求めずにはいられないのに。
私は黒に混ぜられてみたいです。
実際はかなり恐ろしいんでしょうけども。