Coolier - 新生・東方創想話

ドミノ・パニック(中)

2010/02/22 06:16:13
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「服屋……?」
 鈴仙は兎を追い掛けて、小さな服屋にたどりついた。兎たちが服などを欲しがるのだろうか。一体何をたくらんでいるのか、鈴仙は気になった。
 声の波長を操り、会話を盗み聞きする。
「どうしても、ダメ?」
「そうだねえ、きっちり払ってもらわないと……」
 あれ、この声どこかで聞いたような……気がする。まあ兎たちならいつでも見ているから当たり前かもしれない。
「……じゃあとりあえず、今ある金額分の衣装は用意してもらえるかい?」
「ああ、それなら別にかまわんけど」
 店主は不満そうにそう言うと、店の奥へと入っていった。どうやら兎もその中へ入ったようである。鈴仙はその店の前に行くと、店に入ろうかどうか悩んだ。このまま入ればあの兎に見つかるだろう。けれど、何か悪い事を企んでいるのなら、いやそもそも黙って
こう言う事をしていると言う事は、何か後ろめたい事をしているに違いない。
 兎たちの不始末は、だいたい鈴仙がかぶる事になる。
 そうなれば、怒られるのは私じゃないか。それは嫌だ。
 鈴仙は意を決して扉に手をかける。
 すると思いもかけず扉があいて、人が現れた。鈴仙は急な事に驚き、その人とぶつかって転んだ。盛大に手荷物をぶちまける。
「わわ、わ。大丈夫ですか。ごめんなさい」
 相手はとてもうろたえた様子で、荷物を拾っていた。鈴仙は一瞬パニックになる。あれ、これどういう事。頭をさすりながら、その人物を見た。
 人間ではない、しかし、妖怪にしては優しい雰囲気を持った妖怪だった。
「ご主人、どうかしたのか?」
「また星がドジをした?」
「あらあら、大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
 店の中からぞろぞろと妖怪が現れる。鈴仙は何だか急に恥ずかしくなってきた。
 こんな間抜けな所を見られるなんて。どうしよう……
「こ、これで荷物は全部だと思います。確認お願いします」
 目の前の妖怪が白い袋を手渡す。鈴仙はそれをさっと手に取ると、お礼も言わずに逃げ出した。
 わあ、何やってんのよ、私は。あそこは普通に御礼を言って終わりで良かったのにい。
 鈴仙は少しだけ涙目になりながら、そんな事を思った。
 しばらく走って立ち止まる。肩で息をしながら悪い事をしたなあ、と思う。そういえばあの妖怪、見た事が無かったな。
 さっと袋の中身を確認する。
「あれ? 何これ?」
 中に入っていたのは、衣装だった。
 あれ、私の野菜は?
 

「もう少しぐらい融通をきかせてもらっても……」
「ダメだダメだ」
 程よい照明がちらつく店内に、てゐと店主の声が響き渡る。どちらも一歩も引かぬ、という態度をその言葉の端々ににじみ出していた。
 しばらくして、てゐは店の外に出てきた。もうあの店主と話すのは時間の無駄だと判断したのだ。
 てゐは後悔した。あの時、財布を落とさなければ、と。
 ここに来るまでの間に、てゐは財布を落としたのだ。ちょいと寄った団子屋の前で、財布の口を開けて中身を確認していると、手を滑らせて財布を落としてしまった。小銭がころころと転がっていく様はおかしくも悲しくもあり、それをあたふたと追いかける自分はさぞ哀れに見えた事だろう。
 人の目もあったから、小銭拾いもそこそこに切りあげ、服屋に着いたところ、金が足りないという。
 多分、あの財布を落とした団子屋の前で、回収忘れがあったのだ。今頃は誰かのお菓子代に変わっているに違いない。
 ものは試しだと店の主人に交渉してみたが、きっちり耳をそろえて持ってこなければならない、と頑固だった。自分の前の、大道芸人みたいな客たちには優しく対応していたくせに、妖怪兎だと思って、なめられていたのも腹が立つ。
「はあ、どうしようか……」
 この分だと、皆の分の衣装が届かなくなる。出場者がステージ用の衣装を用意している中、自分たちだけがいつもの格好では困る。かといって、今からでは他の店では間に合わない。
 こうなったら道行く人にお金を借りるしかない。てゐは結構、本気でそんな事を考えていた。
 しかしそんな当てもない。さあ、どうする。
「やはり金貸しの所へ行くしかないのか……」
 最終手段である。あまり頼りたくは無いが、この際仕方が無い。
 そうして主人にもう少し待つように頼み、てゐは店を出た。
 店の前の通りは薄暗く、それが一層、てゐをみじめな気持ちにさせる。頭をぶんぶんと横に振り、気を取り直して金貸しの所へと向かう。てゐの顔には悲壮な決意が漂っていた。
 ここまで皆で努力したのだ。私一人のせいで、今までの努力が台無しになるなんて、そんな事はあってはならないのだ。
 その熱い決意を胸に秘め、てゐは陽のあたる大通りへと向かっていった。

 金貸し屋のくせにこんな大通りに店を構えられる物だな、とてゐは呆れた。こうした因果な商売が人目につきやすい所にあると言うのも、何だか少し寂しい気がした。
 やや急な階段を上り、ドアをノックする。返事が無かったので、そのままがちゃりとドアを開けた。
 中は簡素な事務室だった。中には誰もいなかった。営業していないのだろうか?
「すいません、誰かいませんか?」
 声は冷たい壁に吸い込まれるように消えていった。
「はいはい、ごめんなさいね」
 しばらくして出てきたのは、何と八雲紫だった。
「あら、あんた永遠亭の所の兎じゃない。久しぶりね」
「……あんた、こんな所で何やってるんだ?」
 てゐは呆気にとられた。思いもかけない人物の登場に、ちょっと頭が付いて行けなかった。
「そりゃあ、見ての通りよ。ここは私の事務所」
「金貸し?」
「そうね、金貸しもやっている。大きな目で見れば、この幻想郷の金融のバランスを取っているわ。なにせ、祭りには莫大な金がかかる。そのお金を融資しているわけよ。良心的な値段で、ね」
 にこりと笑う八雲紫。てゐには少し怪しい話に思えたが、今はそんな事を言っている場合ではない。
「分かった。まあ、あんたが何をしようが知らないが、金を貸していただきたい」
「お安い御用よ。いくら?」
「五十円」
「えらく安いわね。安いと、利子は高くつくわよ?」
「無駄に多く借りたって、しょうがないよ」
「ふむ……じゃあこっちに来て」
 紫に案内され、てゐは事務所の奥に入る。革で出来たソファーの前に小さな机が置いてある。てゐがソファーに座ると、ソファーが柔らかく沈んだ。
「じゃあ、この書類の目を通して、サインをしてちょうだい」
 紫が目の前の机に、何枚かの書類を置いた。てゐはそれらにさっと目を通す。
「あんたの事だから、法外な利子をつけるかと思ってたけど、真面目にやっているみたいね」
「む、失礼な。まあいいわ。それで、担保は何にするの?」
「担保?」
 てゐが再び契約書に目をやる。見ると確かに、そこには担保が必要だと書いてあった。
「おいおい、たかだか五十円のための担保かい?」
「一応契約ですから。五十円以上でもいいのよ」
 てゐは頭を抱えた。担保なんて何も持っていない。
「担保になるような物は無いの?」
 紫が楽しそうに尋ねる。これは何かおかしなことを考えている奴の目だ、とてゐは警戒する。
「……私にこれ以上、何を差し出せと?」
「簡単な事よ、てゐさん」
 紫はゆっくりと、息を吐き、てゐに言葉をかける。
「あなたが担保になればいい」

 橙は八雲紫の事務所の看板娘である。その愛らしい外見で、接客をし、紫や藍の手伝いをしている。だがもちろん、それは式の仕事としてであり、内心はあまり乗り気ではなかった。
 こうして藍の力になれる事は嬉しかったのだが、長い間、猫たちの頂点だった橙に、人間に謙った態度を取ると言うのは、結構なストレスだった。
「ふう……」
 そして今は休憩の時間である。冷たい麦茶で喉をうるおす。
 藍や紫の命令とはいえ、こんな地味な仕事に意味などあるのだろうか、と橙は考える。式神は本来、主の意向に疑問を持つような事は無いが、橙の場合は少し違う。紫の命令は橙にとって厳密には主の命令ではない。藍にとっては紫の命令には有無を言わさずついていかなければいけないのだが、橙は紫の直接の式ではないのだから。
 もちろん、自分が反抗しても紫の力の前では全くの無意味だし、紫の命令は藍の命令として橙に指示されるため、結果的には変わらない。ただ、式神としての命令のくせに、紫の行動に疑問を覚える事が出来るのが、なにか橙には違和感があった。
「まあ、気にしてもしょうがないんだけど……」
 湯呑をことりと机に置いて、身体をゆっくりと伸ばした。ううんと声が漏れる。そうして事務室へと戻ろうと扉に手をかけると、お客がいたのか誰かの声が聞こえた。
 相手の声は分からない。藍が外に出ている事から、対応しているのは紫に違いない。
 紫様が対応しているのか、珍しいな、と思った。
「あなたが担保になればいい」
 紫のそのセリフを聞いた橙は驚いた。人間を担保にとるということは、つまり人身売買の話なのだろうか。
 まさか。この崇高な八雲一家が人身売買などをするはずがない。メリットも無い。
 だが、今聞いたセリフはどう考えても、橙にはそうとしか聞こえなかった。
 言われてみれば紫様はたまに神隠しを行う。幻想郷の平和のために、生き物一つの命など安い、と考える事も十分にあり得た。橙は実際に紫が命を手玉に取った所を見た事は無いが、藍が式になった経緯は相当えぐいものだった、と藍が言っていたことからも、紫が人間を神隠しにしてしまう事も十二分に考えられる。
 橙の額にじとりと嫌な汗が流れる。
 重い金属の扉越しでは向こうの部屋の声はあまり聞こえない。ただ断片的に耳に届く、相手の暗い反応や紫の朗らかな声を聞くと、どうも本気のように聞こえる。
 橙は扉にくるりと背を向けて、裏口から外へ出た。
 いやいや、あの話はただの冗談だろう、と橙は思った。
 やはり、いくら今は金貸しの仕事をして、紫の仕事が幻想郷を守ることで、紫にはそれっぽい前科があるにしろ、ここまで露骨な神隠しはしないだろう。
 しないよね。
 橙はゆっくりと深呼吸をした。まさかね。
 しかし心のどこかでは、もしかしたら、という不安が残っている。
 まるで、皆でつまんでいたお饅頭が最後の一個になってしまった時のような気持ち悪さと気まずさが、橙の心に広がっていった。

「……担保ってどういう……」
 てゐはしばらく絶句した。無理もない。自分を質に入れろと言う、無茶な提案をしてきたのだ。
「まあ、言い方が悪かったわね。そうね、言うならば、私の所で働いて欲しかったのよ。アルバイトってこと」
「……なんだ、つまり、金が無いなら、ここで働けと?」
「返せないなら、よ。普段、ならばこんな事はしないけれど、こう言う時だからこの提案をするの」
「私だから……?」
 てゐには紫の目的がよく読めなかった。彼女は何を期待しているのだろうか。
「この祭りが終わると、事務所をたたむんだけど、その前にお金の集金をしなくちゃいけない。そこで、あなたには兎たちを使ってその集金を手伝って欲しいのよ」
「それは出来ない。私一人の問題だから」
「そう、じゃあそれでもいいわ。とにかくこんな事を頼める人材って、少ないから困ってたのよ。まさに、猫の手も借りて、兎の手も借りたいほど、ね。この話はあなたの他にも頼んでいる。何せ、八雲一家じゃあ、手が足りなくて」
 紫はにこりと笑うと、静かに契約書を差し出した。それはアルバイトの契約書だ。
「金は前払いの、仕事は祭りの後。さあ、どうする?」
 てゐに断る権利などありはしなかった。どのみち金を借りた所で、どうにかして金を返さないといけない。それならば、祭りの後と言えど、ここで金を稼いだ方がいいだろう。
「……わかったよ。働くよ。ただ働きになるけどね」
「ありがとう」
 てゐは持ってきた判子で、二枚の契約書に判を押した。
「なんだかややこしいな。いっそのこと、アルバイトとして最初から私を雇えばよかったんじゃないか?」
 契約書を封筒にしまいながら、てゐが紫に尋ねる。
「そうすると、今、お金は手に入らないわよ」
 それもそうかもしれない、とてゐは思ったがそれに返事はしなかった。
「あと、私の事は他言無用でお願いするよ」
「顧客の情報を漏らすほど、八雲金融はおろかじゃないわよ。さあ、今は祭りを楽しんでいってらっしゃい」
 ありがとうございました、という紫の丁寧な言葉を背中に受けつつ、てゐは扉に手をかけた。これはお金以上に、色々と借りを作ってしまったなあ、と少しだけ後悔した。

 永琳が男からの手紙を受け取り、いよいよ出発する時が来た。机には、急用ができたので、夜遅くにかえりますと一言添えて、永遠亭を出た。いつもの服ではなく、少し厚めの、地味な茶色のコートを羽織っている。
 なんだかいつもに比べて永遠亭は静かに思えたが、いつもこんなものかな、とも思い竹林へと一歩、足を踏み入れた。
 鈴仙や姫様にこの事を言うと、絶対に会場まで永琳の男装を見に行くに決まっている。永琳も昔に比べて丸くなったわね、なんて姫様に言われた日には、恥ずかしくて生きていけないような気がした。こういった事は身内にはあまり知られたくない事だ。
 いつもの格好ではなく、地味な服装にしたのもそういう事だった。
 思えば、人里に行くのも久しぶりだった。
 この竹林は、迷いはしないが、永琳では抜けるのに時間がかかる。
 今は午後二時といったところ。三時には人里につけるだろう。
 しんと静まり返った竹林を歩く。心なしか、竹林も静かな気がした。普段なら兎たちの足音や声が聞こえてもよさそうなのだが。
「まあ、そんな日もあるわよね」
 独り言をいいながら、永琳は歩を進める。
 結局、誰にも会わずに竹林を抜け、人里までやってきた。ふと見ると、慧音が人里の門を警備していた。
 永琳は祭りの警備かな、と思った。その顔は少し疲れている。
「お久しぶりです。慧音さん」
「……ああ、これはどうも」
 慧音は一瞬きょとんとしたものの、すぐに永琳だと気が付いたようだった。
「警備ですか? これはまた大変ですね」
「誰かがやらなければいけない事ですから。いいんですよ」
 慧音は気丈に笑っていた。
「永琳さんも、お祭りに参加ですか? それにしては地味な格好ですけど」
「いえ、私は少し買い物をしにきたのです」
「あら? でも鈴仙さんに頼めば良かったんじゃないですか? 午前中に会ったからもう永遠亭に帰っているものだと思っていましたが」
 慧音は意外そうな顔をした。
「まだ帰ってきていませんよ。だから、私が直接買いに行く事になったのです。これは鈴仙には内緒でお願いしますね」
 永琳が笑いながらそう言った。そう言えば、鈴仙はまだ帰ってきていないわね。
「ええ、分かりました。さあ、どうぞ。今日は妖怪も多数、人里にいますから、混乱だけは避けて下さいね」
 慧音はそう言って、門を快く開けてくれた。永琳は頭を下げて慧音に御礼をした。
「おきをつけて」
 慧音の声が背中から聞こえる。
 あとで、胃薬を届けてあげよう、と永琳は思った。この調子だと、慧音はストレスで、胃が参ってしまうだろう。
 人里は割と盛りあがっていた。日が沈むころから、人と妖怪も入り乱れて祭りを楽しむのだろう。
 懐かしいなと、永琳は辺りを見回していた。
 祭りに参加するなど一体いつぶりだろうか。思えば、この地上に来てからこうした祭りごとに参加するのは初めてかもしれない。
 来年は永遠亭の皆で行きたいわね。
 そんな事をふと思う。

 鈴仙は困り果てた。このド派手な衣装を見るに、きっとあの妖怪たちは今晩の祭りに参加するのだろう。この衣装を着て。
「やあ、いけない。これは返さないと……」
 暗い裏通りから、大通りへと出る。午前中よりも人が増えて、さらににぎわいを増した通りは、気の早い店がもう商品を売りに出している。
 こんなに多くの人込みのなかじゃあ、波長で探せない。
 仕方が無いので、鈴仙は目で探していく事にした。幸いにして、彼女たちはかなり目につく格好をしていた。見つけ出すのはたやすいだろう。
 問題は、時間である。
 少なくとも、日が昇っているうちに見つけ出さないと、間に合わないだろう。ましてや、時間が経つにつれて、人も多くなってくる。
 ああ、私があそこで逃げ出さなければ、と鈴仙は自責の念にかられた。
 私の悪い癖、それは目の前の事からすぐ逃げ出す事。
 あの月から逃げ出した夜の事を思い出した。あの時から何も変わっていない。
 そうした事を、ひょんなことで思いだす。
 寝る前とか、大根に包丁の刃を入れた時。なんでも無い時に、その時の記憶がよみがえる。そして、思いだしたその時からすごく気分が重くなるのだ。
 頭のどこかでは、これは一時的なものだと分かっている。
 だからこそ、悩む自分の姿を直視できない。
「私は、いつも、こんなんばっかりね……」
 今は溜め息をついたって何も解決しない。鈴仙は必死に自分に言い聞かす。
「よし、まずは一歩を踏み出す事」
 前を向いて、地道に聞き込みをするしかない。
 鈴仙は出店が立ち並び、雑然としている大通りをゆっくりと闊歩するのだった。


 出店が立ち並ぶ大通りの一角に、ウナギ屋という珍しい屋台が立っている。しかも店主は妖怪だ。その妖怪の名前はミスティアローレライである。
ミスティアは店の準備をしながら、口笛を吹いていた。とても上機嫌だったのだ。
「今晩は、大量にお客さんが来るからねえ」
 ミスティアにはこの祭りに乗じた、ある計画があった。今夜、その計画を実行するのだ。
「私の歌で、聞いているみんなを闇に迷わせ、視力回復のためにウナギを食べてもらう。ふふふ……」
 取らぬ狸の皮算用、という言葉を彼女は知らない。
「あややや、上から失礼しますよ。こんにちは、ミスティアさん」
 天から声が聞こえたと思い、顔をあげると、いつかの天狗がいた。何にでも使える新聞を提供してくれる、新聞記者だ。ありがたい。今日もよく油が染み込む新聞紙を届けに来てくれたのだろうか。
「うん?」
「先ほどの話、どういう事ですか? 闇がどうとかこうとか……」
 ミスティアはどきりとした。
「あ、ああ。あの……なんでも無いです」
 まずい、もしかして人間を盲目にしてウナギを食べさせよう作戦がばれたのだろうか。
「ふうん……そういえば、この店は八雲紫の出資で作られているんですよね?」
 どうやら文はミスティアの独り言の全てを聞いていなかったようだった。ミスティアは心の中でほっと安心する。
「ええ」
「……あなた、担保はこの店を差し出したんですか?」
「担保? ううん、お金が返せない時は私がしばらく働け、という約束だけど?」
「働く……何をたくらんでいるんでしょうかねえ」
 文は目をぎろりとさせ、ミスティアの言葉を一つ一つ聞き逃さないように、しっかりと聞いている。多分、新聞のネタ集めをしているんだろう、とミスティアは考えた。
「さあ、分かんない」
 ミスティアがそう返すと、文はしばらく考え込むようにじっと黙った。そしておもむろに口を開く。
「……人間を、闇に落とす?」
「な……」
 思わず反応してしまう。そして、文が水を得た河童のように目を輝かせた。
「何か心当たりがあるようですね。ちょっと話してもらいますよ。いやあ、実はネタが無くて困ってたんですよねえ」
 顔を近づけて、押し倒すように迫りくる文に、ミスティアは驚いた。そして、これは厄介だ、なんとかしないといけないと焦り始める。
「ダメです。ごめん、もうこれ以上開店の邪魔をしないでちょうだい! さあ、帰って帰って……」
「あ、あ、ちょっと。その、これは八雲紫が何かをしでかす……」
「あなたには関係ありません。さあ、準備の邪魔ですよ! 何なら人を呼びますからね!」
 文はその一言にしょうがないですねえ、と言って、いつの間にか取りだしていたメモ帳とペンをポケットにしまった。
「今日はこれぐらいにしておきます。また取材させてもらう事もあると思いますので、宜しくお願いしますね」
 少しだけ残念そうにそういうと、文は去っていった。
 やれやれ、危うく計画がばれるところだった。まあ、割とあっさり帰ってくれてよかったわ。
 ミスティアは、はあっと溜め息を一つついた。
 まあ、何とかなるよね。
 お気楽なミスティアは、そんな事を考えていた。

 藤原妹紅は、弁当を作っていた。自分が食べるのではない、慧音の分だ。
 昨日、久しぶりに輝夜が尋ねてきたと思ったら、またも殺し合いになってしまった。全身が水をかぶったように重い身体をつれて、慧音の家に厄介になった。慧音は、快く泊めてくれたが、朝にはもういなかった。そこで思いだした。今日は祭りの警備があると。
世話になったからなあ。弁当ぐらい作ってあげないと。
 迷惑をかけた、慧音へのせめてものお返しだと思い、妹紅は弁当を作ったのである。
そして、慧音から不穏な報告を聞いたのは、お昼ご飯を届けに行った時だった。
「実はな、妹紅。お前に頼みたい事があるんだ」
 そう言った慧音の目はすごく真剣だった。
「私でよければ、いいよ」
 昨日の借りもあるから、と心の中で思う。
「うむ。実はこの祭りには多数の妖怪たちが参加している事は知っているな? それは別にかまわないんだが、とある人物が、この祭りに乗じて何か表向きには出来ない事をしているらしい」
「誰からの触れ込みなの? それ」
「天狗だ。あの新聞を作っている、天狗だよ。信用はしていないが、まるっきり嘘だとも思えない。八雲紫が何かこの祭りの裏で動いているのは確かだろう」
「なるほど……それで、ここを離れられない慧音の代わりに、私が調査をしてほしいと、そう言う事?」
「ああ、そうだ。一つ、よろしく頼むよ」
「慧音の頼みだから。断る理由も無い」
 妹紅がにこりと笑うと、慧音もほっと安堵したように笑っていた。
「騒ぎは起こさないでくれよ」
「分かってるわよ」
 
 さて人里に入ったものの、どうしようか。
 妹紅は久しぶりの人里を楽しみつつ、手掛かりは無いかと模索していた。
 なにぶん、あの天狗の情報である。名前は確か射名丸文。慧音も、まあ犬の散歩のついでに、何かお菓子を買ってきてくれ、ぐらいの気持ちでこの依頼を頼んだのだろう、と妹紅は思った。
 何の気なしに歩いていると、屋台の準備をしている妖怪を発見した。あれは夜雀の妖怪だろうか。もしかして、文の情報って言うのはあの妖怪の事なのだろうか。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」
「はい? 店はまだ開いてないよ」
 少し甲高い声が聞こえる。屋台の奥から夜雀の妖怪が出てくる。
「いや、少し聞きたい事があるんだけど」
「ふうん……何?」
 相手はいかにも面倒くさいと言った様子で返事をした。
「準備中の所、ごめんなさいね。最近、八雲紫が変な事をしているって話、知らない?」
「そりゃあ、お祭りだから妖怪の一匹や二匹ぐらい、羽目を外すこともあるでしょう」
 夜雀はそういって、再び厨房に戻っていった。
 むむ、何も知らないか。
 妹紅は少し肩透かしを食らった。妖怪同士なら、何か知っている事もあるかと思ったけど。
「ああ、そういえば、八雲紫で思いだしたんだけどね……」
「え?」
「八雲紫、金貸しをしているよ。私のこのお店も、あいつの金を借りて出店できたんだ」
 妹紅は何か心に引っかかりを感じた。あの八雲紫が金貸しをしている?
「その話、ちょっと詳しく」
 ずいっと身を乗り出す妹紅に対して、夜雀は鍋を担ぎつつ、一つ一つ思いだすように喋っていた。
「そうね、よいしょっと。ここに店を構えるのにどうしてもお金がいるから、どうしようって思ってたの。そしたら天狗が、八雲紫がお金を貸してくれますよ、って教えてくれた。借りるのは少し抵抗があったんだけど、まあどうしようもないから、天狗に渡された地図を見ながら事務所まで行って、お金を借りたの。難しい事は分からなかったけど、とにかく借りたお金の分はきっちり払わないといけない、と言う事だけ念を押されたわ。ああ、あと払えなかった時はね……」
 夜雀は途中からポケットから取り出したメモを片手に話をしている。あまり物覚えが良くないのだろうか。
「そう、私の身体を使って払ってもらうって」
「何だって? 身体?」
「そう。私の他にも、そう言われた人たちはいるみたい」
 妹紅は頷きながら、頭をフル回転させる。
 一体八雲紫は何をしているのだ。単純な労働力を欲しているのか。
「内容は、そんなに難しい事じゃないって言っていたわ。うん、まあお金を返せるなら問題ないしね」
「……何かにおう。怪しいな。新聞を一部くれないか?」
 夜雀が奥から新聞を引っ張り出す。あまり、丁寧な扱いとは言えなかった。それを受け取りながら、妹紅はあの八雲紫が、そんなまどろっこしい事をするのだろうかと考えていた。
「あ、そうそう。夜になって、私、向こうにある大きなステージで歌うの。もしよかったら、聞いてちょうだい」
 夜雀は付け足したように宣伝した。
「ああ、情報ありがとう。名前は?」
「ミスティアローレライよ」
 メモ用紙をポケットに突っ込みながら、夜雀は言った。
「ステージ、楽しみにしているよ」
 妹紅はそう言い残し、その場から足早に去る。
 祭りの裏でうごめく、八雲紫の陰。
 金銭と労働力が取引される問題は、事によってはやばい事かもしれない。
「慧音、あなたの勘は、なかなかさえているわ」
 そうなると、まずは事務所に行かなければ。

 橙が事務所に戻ると、そこには誰もいなかった。多分、さきほどのお客も帰ってしまったのだろう。紫は外回りに出かけているらしく、机の上に、今日は営業終了、と可愛らしい文字で書いてあった。
 こうなれば、橙の仕事は決まっている。藍と紫の晩御飯の準備だ。
 橙はしばらく事務所を片付け、給湯室を掃除した後、買い出しに出かけた。大通りには午前に比べて出店が多くなり、それなりに賑やかだった。人々の楽しそうな姿を横目に、橙は八百屋へとその足を向ける。
 しばらく歩いていると、こちらが顔をしかめてしまう程の殺気を帯びた気をまき散らす人間を見つけた。
 何にそんなに怒っているのか橙には理解できなかったが、こういった輩には絡まれたくないなあ、と思っていた。
 そして、そういった場合には大体、自分の考えていた最悪の出来事になる事に遭遇するのを思い出した。これ、何て言ったっけ? マーフィーの法則だったっけ。
「おい、そこの妖怪、止まりなさい」
 そう、こんな日はこんな嫌な奴に絡まれやすい。
「私ですか?」
「そう。あなた、八雲の者でしょう?」
 目の前に現れた女は、赤いもんぺを着た、女だった。人間のようだったけれど、何かずれているな、と橙は感じた。
「はい。確かに私は八雲紫の式の式、橙と言いますけど……あなたのお名前は?」
「藤原妹紅だ」
 妹紅と名乗った女は厳しい目つきのまま、橙をじっと見ている。まるで悪者を追い詰める、正義漢のようだ、と橙は思った。
「それで、私に何か用ですか?」
 妹紅の傲慢な態度に、橙もつっけんどんな返事をする。しかし、妹紅の口からは、意外な言葉が飛び出した。
「お前の主、八雲紫がこの祭りに乗じて金を返せない者を引き取る、という報告があったんだ。どういう事か説明してもらうわよ」
「え?」
 橙は動揺を隠せなかった。まさか、本当に神隠しをしているだなんて。
 いや、でも、え?
 この女の言う事は本当なのか。
「何か知っているようね。悪いんだけど、事情を聞かせてもらうよ」
 妹紅が一歩、橙に向けて足を踏み出した。
 妹紅の殺気だった雰囲気もあり、橙は正常な思考が出来なくなっていた。
 この女は、私を捕えて藍様と紫様を捕まえる気だ。
 橙はぐっと唇を引き締め、妹紅の手を払いのける。驚く妹紅をよそに、一目散に逃げる。
「まて、おい、待たないか」
 足の速さには自信があった。妹紅も必死についてきているが、さすがに追いつけないだろう。それよりも橙の心臓を揺さぶったのは、紫の神隠しだった。
 まさか、そんな。
 あの崇高な紫と藍が祭りに乗じて、人間を喰ってしまうなど、考えられなかった。
 しかし、あの事務室での会話と相手の唸るような声が蘇る。
 あの話は、本当だったの?
 橙の心は揺れている。さあ、一刻も早く事情を聞かないと、とても平常心ではいられない。
 いつの間にか、妹紅は見えなくなっていた。しかし、橙は見えぬ主人たちの影を追って、必死に走り続けた。

 手掛かりを見失った妹紅は、思わず地団太を踏んだ。
「やっと見つけたと思ったのに……」
 だが、あの式の逃げようを見ると、どうもきな臭い事をしている事には違いないだろう。
 事務所に行ったが、仲はきれいに片づけられており、今から夜逃げをする、と言わんばかりだった。
 ますます怪しい、と妹紅はその疑いを一層深めていった。
 これからの事を考える。慧音に相談しようか。
 いや慧音は里の警備でいっぱいいっぱいだろう。迷惑をかけるわけにはいかない。
 この問題は、なるだけ自分で解決しよう、と妹紅は決意する。
 
 輝夜は息を切らして、たちどまる。さすがに追いかけてはいないようだった。
「もう、あんた、もう少し周りを考えなさいよ!」
 片手に担いだチルノに向かってそう叫んだ。
「あたいは、悪くない!」
 変に威張るチルノを見て、たぶんこの妖精は何がいけなかったのか、分かっていないんだろうと呆れてしまった。
「もう、せっかくのお祭りが台無しじゃない」
 輝夜ははあっと深いため息をつく。
「あ、あそこに美味しそうな団子屋がある!」
「またお団子? あんた、団子好きねえ……」
 そう言いながらも、久しぶりに全速力で走ったせいか喉が渇いていた。休憩がてら、ここでゆっくりするのもいいかもしれない、と輝夜は思う。
 結局チルノが半ば強引にかけ込んだせいもあり、団子を注文する事になる。店は『花鳥風月』という名だった。店の中はあまり人がおらず、ひっそりとしていた。さすがに人里から少し離れた所にあるだけあって、中央のお祭りの熱気はここまでは及んでいないようだった。
「すいません、お茶と、このみたらし団子三つ」
「かしこまりました」
 店員にそう言うと、輝夜は座敷で足をのばした。目の前では、チルノが物珍しそうに店内を見回している。
「あら、月のお姫様がこんな所に何の用?」
 聞き覚えのある声だ。後ろをさっと振り返ると、そこには八雲紫と八雲藍がいた。
「団子を食べに来たの。むしろ珍しいのはあんた達の方ね」
 紫と藍は輝夜達のすぐ横にテーブルに座った。
 そこで輝夜は疑問を感じた。藍の様子がおかしい。
 何か、大事な物を置き忘れて、一刻も早く取りに行きたいという表情だ。動きもぎこちない。
「その、藍さん? 何か気になる事があるんですか?」
「あたい分かった! トイレでしょ?」
 チルノの元気な答えに、輝夜と藍は苦笑い、紫は楽しそうに笑っていた。
「ふふ、藍ったら事務所に自分の式神を置いてきたものだから、気が気じゃないのよ」
「橙を事務所に一人で置いて行くなんて危険だと私が言うのも聞いてくれず、紫様が私を無理やり外回りに行かすから……」
 不安げな藍に紫はすっとぼけたように、そうかしら、と言った。
「橙って、猫の? てゐが竹林に迷った猫を迎えに来るって言ってたけど……」
 輝夜がそう言うと、青ざめていた藍の顔が光を得たように明るくなった。
「なに? 橙はそんな事を……ああ、愛する部下のため、迎えに行くなんて、さすが橙だ。なあ、その話、もっと聞かせてくれ!」
 たたみかける様に身を乗り出して興奮する藍に、輝夜はぎょっとした。
 うわあ、見事な親ばか。まさか、猫が言う事を聞かず毎晩竹林に迷い込み、部下を指導できないとは何事だとてゐに怒られている、とは言えないなあ。
 目の前にきらめく、藍のエメラルドのような瞳を見ていると、輝夜は少し気がめいった。
 なんか今日は、変人ばかりと絡むわねえ。
 その中に、自分は含まれているのか、それを考えた所で、目の前の親ばか狐がどうしようもない事は変わらなかった。
「お団子をお持ちいたしました」
 ちょうど良いタイミングで、団子が運ばれてくる。藍は我に返ったように、はっとして、前のめりの体勢から静かに戻る。
「それで、事務所って言ってたけど、あんた達、何か後ろ暗いことでもやっているの?」
 紫がまさか、という顔をした。
「少しばかり、妖怪や人間にお金を貸しているのよ。低金利でね。祭りごとになると、毎年お金が足りない奴らが現れるもんだから」
「すごく利子高そう」
 正直な感想である。
「ところがどっこい、巷では良心的と言われているのよ……何よ、その顔。嘘じゃないわよ、ホントよ。でも、払えなかった時は、身体で払ってもらうんだけどねえ」
 紫が怪しげにうふふと微笑む。その表情を見て、輝夜は背中に寒気が走った。
「やっぱり後ろ暗いじゃない!」
「身体っていうのは、まあ後ろ暗いかも。でも、こっちは相手を見てちゃんとやっているからいいの。今のところ、身体で払ってもらうのは二名だけだし」
「二人?」
「そう。一人は夜雀。彼女は出店のために借金をしたんだけど、たぶん返せないでしょうね。じゃあ何で貸したかって言うと、返せない分は、彼女の店のウナギを食べ放題にするって事で話をつけたわ。まあ、私がウナギをいつでも食べれるようにしたかっただけなんだけどね。あとの一人は秘密よ。これは先方が言うな、と言ったから、言えないわ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、紫はそう言った。輝夜は紫の、よく言えばお茶目な言動に、呆れを通り越して、尊敬の念を抱いていた。
 さすが紫。大妖怪のくせにやることは少女っぽい。というか、子どもっぽい。
 しかし、責任はきっちりと果たしている辺り、抜け目が無い。
「私はあんまり乗り気ではなかったのですけどね……」
 藍が再び暗雲とした表情になった。
 やれやれ、紫について行って、とんだ災難ばかりくらっているのね。
 輝夜は藍に少しだけ同情した。
「じゃあ、今何やってんの? 事務所抜け出して、もういいの?」
 チルノがずいっと会話に入ってくる。それなりに話は聞いていたようだった。
「もう仕事はお終いよ。あとは、祭りが終わるまで静かにして、祭りが終わったら集金よ。今、事務所には橙しかいない。まさに猫の事務所ってわけね」
「あら、そうなんだ。ふふ、獅子からお叱りを受けて、あなたの事務所、潰れるんじゃない?」
「さあ、どうかしら。少なくとも、橙がかま猫の事を最後まで信用出来たら、そんな事にはならないんじゃないかしら」
 輝夜と紫は実に楽しそうに話していた。藍とチルノは何の話をしているのか分からない、といった様子だった。
 たまには、こうして外に出てみるのも新鮮ね。
 輝夜はそんな事を思いつつ、お茶で喉を潤した。

 慧音は二つ目の報告書が回ってきた。氷精が『甲』ステージの大工たちを刺激して、工事がさらに遅れたと言う。
 これでいよいよ、『乙』のステージだけになった。だが慧音は鼻で笑った。まだまだこんなことじゃあ、私の図太い神経は切れないぞ。
 その代わり、胃が重い。朝から何も食べていないのに、食欲がわかなかった。せっかく妹紅がお弁当を作ってきてくれたのに、それも喉を通らない。
 ああ、早くお祭り終わらないかなあ、と慧音は空に浮かぶ太陽に祈った。 
 私の胃袋が潰れませんように、と。

 橙は次第に主人の事が信用できなくなっていた。
 まさか、紫様が、人間を食うなんて。
 走っている間にすっかり思考を絞られ、橙の頭にはもう紫が人間を喰っている姿しか想像できなくなっていた。
 ああ、私は今まで藍様や紫様をすごく尊敬していた。けれど、その信頼が今、ものすごく揺らいでいる。
 走りながら、橙は涙があふれるのを必死でこらえた。
 あのお二人に、話を聞くんだ。真実は劇薬だけど、私はそれを飲み込まないといけない。
 民家の塀を超え、辺りを見回す。
 すると、目の前が真っ黒になる。驚いた橙はそのまま塀の後ろへと転んでしまった。
「あややや、驚かしてごめんなさいね」
「っつ……天狗?」
「覚えて下さって、光栄です。さてさて、何かお急ぎのようですが、一体どうされたのですか?」
 橙は目の前の天狗を見る。確か名前は射名丸文。自称新聞記者だ。力は強いが、新聞の内容はお粗末だった印象がある。
 それに、目の前の文は、美味しそうな肉を前にした、鴉の雰囲気を漂わせている。
 ああ、私がとても美味しそうな餌に見えるのね。新聞のダシにでも使う気かしら。
 橙はそんな事を考えつつ、文に返答する。
「別に何も。あなたに話す事など、何もありはしません」
「そう強がらないでください。私ならきっとあなたのお力になれると思いますよ」
 きっととか、思いますとか言って、自分に予防線を張る奴なんかに助けなんて求めないわ。
 橙はふいっとそっぽを向いて、文を無視しようとした。
「ふふ、私が思うに、あなたは八雲紫か藍を探している、と見えますね」
「……!」
「そんなに驚く事は無いでしょう? 八雲金融の広告は、私の新聞に載せたのだから、私はある程度までは知っていますよ。まあ、あの八雲紫の事ですから、そうした事に手を出す事はあるかもしれない、ぐらいの考えで私も大目に見たんです。それで、今朝からこの祭りの記事を書くために、様々な人妖に取材をしていたのですが、ちょっと気になる話を聞きましてね。なんと、あの八雲紫が大々的な神隠しを行うんじゃないか、という噂です。ええ、あくまでも噂です。私のポリシーとして、ちゃんと地面に根を張った情報しか新聞に載せない、という鉄の掟があります。単なる噂ですが、これは人間と妖怪の尊厳にかかわる重要な事柄ですので、私としても、是非、八雲紫に取材をしたい所なのです。それか、あなたが何か知っておいでですか?」
 胸を張って力説する文に、橙は妙に納得してしまった。
 確かに、ここまで知って、なお紫に取材をしたいというのは、今の橙と全く同じ状況と言えなくは無かった。
「……そこまで知っているなら……」
 協力してもいいかもしれない、と口に出そうとして押し留まった。
 このまま、文を放り出しておけば、藍や紫の思惑を壊す事になるかもしれない。
 そう、確かに今までは、混乱していた。信頼する主人たちの下劣な行為におぞましい感情を抱いて必死に走ってきた。
 だが、それは必要な事だったのではないのだろうか。
 妖怪として、その力を保つために、あるいは幻想郷の未来のために、自ら汚れ役をかっているのかもしれない。
 もしそうであるならば、今、文に知られて、それを新聞にする事はそうした主人たちの努力を無に帰する事になるのではないのだろうか。
 橙は大きく息を吸って、気持ちを整えた。
「……あなたに一切の協力はしませんし、あなたにはこの件から手を引いてもらいます」
 そう。私が出来る事は、あの二人の邪魔をしない事。
 そして必要ならば、式の仕事を全うする。
 文は今のままで、新聞を作りはしないだろう。敵ではあるが、その行動には信頼が置ける。
「ふうむ意外ですねえ。期待していたのですが……」
 文はそう言って、厚みのある唇にそっと手を添える。
「じゃあ、あなたの知っている事を話してもらいましょうか」
 邪魔する者は、排除しなければ!
 その言葉を最後まで聞かずに、橙は鋭い爪をさっそうと出して、文に襲いかかった。
 驚いた文の瞳が印象的だった。
 
 日が次第に落ちていく。あと一時間もすれば、辺りは赤く染まり、もう二時間もすればすっかり暗くなって、祭りの賑やかさが戻ってくるだろう。
 どこだ、どこにいるんだ。
 探し人はなかなか見つからない。
 早くこの衣装を届けないとなあ。でも、このピンクのフリルがついた衣裳って、何に使うんだろうか。
 袋の中は、正直に言って、あまりセンスがあるとは言えない代物だった。
 それでも、あの妖怪たちにとっては何よりも大事な物かもしれない。
 うろうろと当てもなく歩く。道行く人に尋ねてみるものの、誰もそんな恰好をした者を見ていないと言う。
「ううん、これは参ったぞう」
 そう言いながら、作りかけの舞台の横を通る。
 すると不意に大きな声が聞こえた。
「親方、こいつ、のこのこと帰ってきましたぜ」
「なに?」
 えらく殺気だった声が自分の方へむけられているとは全く思わなかった。
 そしていかつい大柄な男に道をふさがれ、鈴仙はひゃあ、と叫んだ。
「……すまん。人違いだった」
「……はあ……」
 バツが悪そうに大男は帰っていく。一体今日はどうなっているのだろうか。
 誰かにやたらと絡まれ、荷物は取り違えられるわ、妖怪兎たちは何か企んでいるわ、散々な日だ、と鈴仙は嘆いた。
不意に嫌な気配がした。
 今度は何だ、と若干うんざりするように振り返ると、俯いて、ふらふらと歩く化け猫がいるではないか。
 何か様子がおかしいなあ、と鈴仙は思いつつ、道を譲る。と、その化け猫が鈴仙の前でばたりと倒れた。
「え……え?」
 周りで歩いていた人間が、一体何事だと歩を止める。鈴仙は驚きつつも、すぐにその猫を担ぎあげ、人目のつかない場所へと移動した。
 息が荒く、手を見ると血だらけだった。これはまずいかもしれない、と鈴仙は走りながら冷静に考える。
 しばらく走って、裏通りの、さらに奥へと入る。そうして、近くにあったベニヤ板を敷き、化け猫を横にさせた。どうやら腹に怪我をしていたらしく、服がじわりと血で滲んでいた。
 鈴仙はすぐに、ポケットから薬を取り出す。傷の回復を早める薬だ。
「しっかりして、そう……大丈夫ですか?」
 化け猫は朦朧としていたが、意識があった。
「わ……私が……ま、もらないと……」
 何かを呟いている。そうしてぱたりと気を失った。
「……どうしよう……」
 どうするもなにも、多分この猫につきっきりになるんだろうな。
 そんな独り言がぽつりと出て、風の中に消えていった。


永琳は地図を持って、大通りをうろうろしていた。どうやら男の家はこの辺りらしいのだが、男の姿が見当たらない。
「場所を間違えたのかしら……」
 少しだけ不安になる。思えば、まともに人里など歩いた事は無いし、地図を見て歩くなど、いったいいつ以来だろうか。
「おやあ、永琳さんですか?」
 振り返ると、そこには河童のにとりがいた。
「あら、にとりさん。あなたも人里に?」
「うん、ちょっと野暮用があってね。それよりも、何か道に迷っていたみたいだけど」
「あ、実はこの地図のこの場所に行きたいのですけど……」
 にとりは地図を覗き込む。
「ふむ……これ、反対側だね。向こうだよ」
「本当ですか? ありがとうございました」
「あ、私もそっちへ用事があるんだ。一緒に行こうよ。案内してあげる」
「ありがとうございます」
 永琳はにとりの軽やかな笑顔に、安心感を覚えた。
 良かったわ、人里を良く知っている人に会って。

「ひどい妖精と人間がいるもんですね」
「でしょう? だから、さすがに今回ばかりはお仕置きが必要だと思ってね」
 にとりが工事現場で起きた事件について話していた。黒髪のストレートの女と氷妖精についてだった。氷妖精はチルノのことだろう。
「もう一人の、黒髪の女はよく分からないけれど、そいつもきっと性格悪い女でしょね」
「あ、永琳さんもそう思う? 私もそう思う。まったく、人の邪魔をして何が楽しいんだか」
 にとりがにこりと笑う。永琳も同意するように、そうねえ、と言葉を吐いた。
 そんなこんなで、やっと男の家の前までやってきたのだ。
「ありがとうございました、にとりさん。私もチルノを見かけたら、すぐに言うようにしますから」
「ありがとう。私はもう少しこの辺りを探してみるよ」
 そこで何かがどさりと落ちる音がした。十メートルほど向こう側だろうか、黒い塊が上から落ちてきたのだ。
「あら? けが人かしら?」
 永琳の勘である。
 人だかりが出来て、辺りは騒然としていた。この気配は、間違いない。
 事故が起こったのね。
 永琳はすぐにその輪の中心へと駆け寄る。中には天狗が倒れていた。
「あ、文! どうしたの?」
 にとりが後ろからそう叫んだ。
「ええ……ちょっと取材対象に噛みつかれましてね……」
「喋らないで。今から近くの民家に運びますから」
 永琳はさっと文を抱きかかえると、男の家に上がり込む。
 男はすぐに現れた。
「お待ちしておりました、永琳さん……その方は?」
「怪我をしているの。少し休ませてあげてくれませんか」
 男は呆気に取られたまま、はあ、と返事をする。すぐに永琳は文を部屋に運び込み、応急手当をする。
「文、大丈夫かい? 派手にやられたね……」
 にとりが心配そうにそう言うと、文はよわよわしい笑顔で喋りはじめた。
「八雲の猫に、不意打ちをされましてね……侮っていました。まさか、あんな原始的な攻撃をされるとは思いもしなかったので」
「八雲の猫に?」
「ええ。取材をしていると、突然襲われましてね。私としてはさっぱり分からないですよ。ただ普通に取材をしていたのに……」
 怒っている、というよりはショックを受けている、と言ったところだろうか、文にはいつもの覇気が全く感じられなかった。
 そのうち文は静かに瞳を閉じて、眠ってしまった。
「しばらくは安静ですね。すいません、この子を寝かせてもらっても……」
 永琳が男に尋ねると、男はしょうがない、と言った様子で頷いた。
「はあ……まあ永琳さんがそれでよろしいのであれば」
「ありがとう」
 永琳はにこりと微笑んだ。
「私は、妖精を探してくるよ。文の事、宜しくお願いします」
 にとりはそう言って、玄関に戻る。
「にとりさん、気をつけて下さいね」
「そうだね。今日は何だか不穏な空気がするよ。まさか天狗が化け猫に、負ける日が来るなんてねえ……」
 しばらくの沈黙。
 にとりがじゃあ、と言って外に出ていった。
 本当に今日は、何があるか分からないわね、と永琳は思う。

 てゐが再び、服屋の所へ戻ってくる。ドアをトントンと叩くと、店主がのっそりと現れた。
「お金、持ってきたよ」
 てゐが袋に詰めた小銭の山を渡した。店主は薄暗い店の中へ入り、木製の机の上で小銭を数えていた。もう店じまいなのだろうか、店内の明かりは最小限に絞られている。
「確かに受け取ったよ。じゃあ、この衣装を四時に取りに来るんだね?」
「ああ、そうだ」
 店主が領収書にサインをして、てゐに渡す。てゐは、衣装を見せてくれ、というと、店主は無愛想なまま、奥にあるカーテンをさっと開いてくれた。
「作る時に散々見たと思うんだけどね。そんなに嬉しいかい?」
「ああ、もちろんじゃないか」
今日の日のために、てゐが一生懸命デザインしたものだ。白いドレスに、ワンポイントとして、色とりどりの花がつけてある。衣装の生地を撫でながら、てゐはほっと胸をなでおろした。
とりあえず、私のするべき事は終わったわ。
てゐは店主に礼を言って、外へ出た。責任者ともなると、一つ一つの確認にものすごくストレスを感じる。
だが、やりがいもあった。
てゐは小さなガッツポーズをする。さあ、後は本番だけだ。
「あら、永遠亭の所の兎じゃないか」
 声をかけられ振り返る。赤いモンペが印象的だ。
「藤原妹紅?」
「私以外に誰がいるんだよ」
 珍しいな、とてゐは思った。私も人里にくることは少ないが、こいつはもっと少ないはずだ。祭りに浮かれて来たのだろうか?
「相変わらず、悪だくみをしているらしいわね」
「そういう妹紅こそ、こんな所で何をやっているんだい?」
「ううん、ちょっと人探しよ」
「ふうん……」
 妹紅はちらりとてゐの方を見ると、お願いがあるんだ、と言い出した。
「人探し、手伝ってくれない?」
「はあ? 何で私が?」
「こんな所で、もう用事は全部済んだって顔してるわよ。どうせ暇なんでしょう?」
 どうせと言われて少し腹が立ったが、確かにあと一時間ばかり時間がある。その間、ぼうっとこの店の前で座って本番の緊張を考えるよりは、別の事を考えた方が良いかもしれない、と思い始めた。
「私にも予定があるんだ。一時間だけだよ」
 妹紅はにやっと笑った。
「助かった。それじゃあ早速だけど、八雲の猫を探してほしい」
 意外な名前に、てゐは少し驚いた。てっきり輝夜かと思っていたのだ。
「なんで?」
 純粋な疑問である。しかし、妹紅は
「用事があるからよ」
 の一点張りで理由を教えてはくれなかった。
「とにかく、見つけたらとっ捕まえてちょうだい。一時間後、この店の前で集合で良い」
「分かったよ」
 妹紅はじゃあ後はよろしく、と言ってさっさと去ってしまった。
「ふん、もう少し人に物を頼む態度ってものがあるだろうに」
 てゐはそんな事を言いつつ、妹紅とは反対の方向へと身体を向けて歩きだす。
 
「妖精? さあ、知らないなあ。あ、けど、黒髪のポニーテールの可愛らしい子なら、向こうの方へ走っていったよ。何だか今にも死ぬんじゃないかって顔をして走っていたけど……」
 にとりの聞き込みは順調だった。どうやら、あまり複雑な経路をたどって逃げたわけではなく、また、里の中央よりもずっと東側に逃げたようだった。
「しかし、捜索範囲は広いままだ……」
 時間も押し迫って、人も多くなってきた。幸い、派手な女だったらしく、露天の組み立てをしていた人間が結構いた事が、不幸中の幸いだった。
 三十分ばかり経って、ようやく里の外れまで来た。この辺りは中央に比べて少し閑散としていた。にとりにとっては、目撃者の減少を意味する。
「どうしようか……」
 しょうがないので、近場から探るか、と思った矢先だった。目の前の『花鳥風月』という看板の店から、チルノが現れたのだ。
 『花鳥風月』って人里ですごく人気の甘味処で、あそこのみたらし団子は天下一品なんだよね、などと考えていたにとりは、ちょっと拍子抜けした。
 それと同時に、後ろから八雲藍がぬっそりと現れた。その顔は非常に険しい物で、遠くから見ているにとりですら、その迫力に気圧される。
 チルノは藍と共に、にとりの方へ向かってくる。
 咄嗟ににとりは民家の陰に隠れた。
 何なの、あれ。あんな化け物が徘徊するなんてこの世も終わりね……
 藍の方は、闘争心むき出しの牛のような猛々しさだった。まるで敵討ちを決めた武将のようだ。チルノの方も、笑っているようでその笑顔はぎこちない。
 何かあったのかな、とにとりは思い返して、はっとした。
 文が、八雲の猫にやられた。
 だが、文の事だ。化け猫の攻撃を喰らっても、反撃の一つはしただろう。いや、絶対にしたはずだ。
 それで、橙が傷ついているとしたら……
 まずいな、とにとりは唇をかんだ。下手をしたら、文を巻き込んだ、妖怪大戦争につながりかねない。
 文は強大な妖怪だ。相手も、幻想郷一の実力者、八雲藍。そして二人のバックには、幻想郷を支配する力を持つものが控えている。
 後の展開は容易に想像できる事だった。
 親方には悪いが、これはチルノにひと泡ふかせるどころの話じゃなくなってきた。にとりの心臓は、気持ち悪くなるほど高ぶっている。
 藍とチルノが去った後、にとりはくるりと方向転換した。
 まずはあの二人から文を遠ざけよう。
 手に冷たい汗を握り、にとりは裏道を通って、二人よりも先回りしようと走り出した。

 藍ががたんと立ち上がった。今まで橙の親ばかの話とチルノと橙の遊びの話を同時進行で相手にさせられていた輝夜はどきっとした。
「藍、落ち着きなさい」
「……申し訳ありません」
 紫が宥める様にそう言うが、藍は立ったまま、座ろうともしなかった。
「あの……何かあったんですか?」
 輝夜がそっと尋ねると、紫が答えた。
「橙が傷を受けたわ。どうしてかは分からないけれど」
「えっ……」
「え……」
 チルノと輝夜が同時に言った。場の空気がしんと重くなる。先ほどまでのゆったりとした雰囲気は地球の裏側へ去っていったようだった。
「いい、藍。里で暴れないでよ。暴れた時は、あなたを殺すわよ」
「……存じております」
「ふむ……チルノちゃん、藍と一緒に橙を探してきてくれる?」
「分かったわ」
「ありがとう。あと、分かっていると思うけど、里では飛行禁止よ」
 その言葉を最後まで聞かずに、チルノが店を飛び出していく。続いて藍もぺこりと頭を下げて出ていった。
「全く、昔から橙の事となると見境がなくなるんだから」
「藍ってあんな迫力が出せるのね。さすが、腐っても九尾の狐って所かしら」
 紫が自慢げに胸を張る。
「そりゃあ、私の式ですからね」
「はあ……それよりも、あなたあのまま放っておいていいの?」
「いいのよ。藍はチルノみたいな自分よりも判断力の無い者の側に居れば、暴走する事は無いでしょうし」
「信頼しているのね」
「ええ」
「それで、これからどうする気?」
「もう日が沈み始めている。祭りがそろそろ始まるわ。その中で、流血沙汰だけは避けたいわね」
 紫はじゃあ、と言って、スキマの中へと消えていった。
「……え?」
 思わず声が漏れる。全く予想もしていなかった展開だった。
 あれ、私、取り残された?
 辺りをきょろきょろと見回す。周りに知人がいない。その事を、コップに水を満たすかのようにゆっくりと認識する。この店に自分は取り残されたのだ。
「お勘定は?」
 はっと気が付いた。そう言えば、八雲の二人も何か食べていたような気がする。
 目の前にはしっかりと空になった湯呑と美しい模様が描かれた皿がある。
 輝夜は思う。
 ふざけんじゃねえ、あの年増妖怪め。しかも結構、高いお団子食べてるし……
 輝夜がふと入口を見ると、ちょうど、会計処に立っていた店主がにっこりと笑顔を返してくれた。お金は、あなた様が払われるのですね? そんな声が、輝夜の脳内に響く。
「くそう、あいつら、絶対にお金返してもらうんだから!」
 輝夜は拳を握りしめる。
 空ではカラスが気の抜けるような声で、かあかあと鳴いていた。

てゐは辺りをうろうろしつつ、呑気に里を歩いている。
今頃、永遠亭では鈴仙と姫様、永琳の三人が晩御飯の準備をしているのだろうと考えていた。何だかんだ言っても、鈴仙は私の依頼を断らないから助かるわ。
いよいよ人も多くなり、祭りが始まろうとしていた。気の早い出店が店に明かりをつけて客を呼び込んでいる。
何となく妹紅の頼みを引き受けたが、あまりそれには囚われずにぶらぶらと歩いていた。気が付くと、自分たちが今晩踊るステージの方まで来てしまった。
「あれ? まだまだ完成していない?」
 ステージはまだ骨格が出来ただけの、簡素なものだった。あと二時間ばかりでステージが始まると言うのに、これでは間に合わないのではないのだろうか。
 よく見ると、大工たちも一生懸命働いていた。まるで、事故があって建設が遅れたような慌ただしさだった。
 ステージに近づくと、工事現場はロープで区切られている。そのロープに白い紙が張り付けてあった。
 てゐがその紙をじいっと見る。そこにはお詫び、と書かれていた。
「事故により工事が大幅に遅れています。現在スケジュールを調整中ですが、今晩この『乙』ステージで行われる予定でした全てのショーは、反対側にありますもう一つの『甲』ステージで行います、か」
 てゐは舌打ちした。『乙』ステージで行うと聞いていたから、近場のあの服屋を選んだと言うのに。
 しかし、困った事になったな、とてゐは思う。
 この分だとステージは明日完成し、明日踊る事になる。
 さすがに明日は自分の仕事があるだろう。出来れば無理にでも今夜に行いたい所だが、こればっかりはどうしようもない。
「……とりあえず、あの服屋に戻ろうか」
 兎たちに場所の変更を伝えて、衣装を運ばなければいけない。てゐは苦い顔で元来た道を戻る。
 と、不意に目の前から鈴仙が現れた。てゐはものすごく驚いた。
 まだ、里で買い物をしていたのだろうか。
 嫌な予感がする。一瞬、てゐの頭の中で何かが警告した。
 すると、後ろからもう一人現れた。
 橙だ。妹紅に頼まれていた、あの橙だ。
 てゐは混乱する。一体なぜ、あの二人が一緒に居るのだ。
「よくやった、さすが幸運の因幡の兎ね」
 人込みの中から、先ほど聞いた声が聞こえた。妹紅である。
「私は関係ない。たまたまだ」
「たまたまでもいいよ。ようやく見つけた」
 妹紅はさっと走っていく。てゐは一瞬戸惑ったが、すぐに自分の現状を考えた。
 私は関係が無いんだ。だから、このまま、兎たちを迎えに行くのが正しいんじゃなのか。
 だが、どう考えても鈴仙は面倒くさい事に巻き込まれている。これは間違いないだろう。
 選択の時だ。てゐは頭をフル回転させる。
 うん、ごたごたに巻き込まれるのはごめんだ。私には今夜のステージがあるのだから。
 ひとしきり結論を出して、てゐはさっと裏通りに隠れる。
 鈴仙が気になる所だけど……
 少しだけ後ろ髪を引かれる思いがした。何か分からない、黒々とした不安を添えて、てゐは反対方向に歩きだす。

 鈴仙は意識が戻った橙に話しかける。
「大丈夫ですか?」
「……うん。ありがとう」
 目を覚ました橙は、どうしても紫と藍を探さないといけないと言うので、鈴仙は脇で橙を支える様にした。力が入らないのか、橙はだらしなく手をぶら下げたままだった。
「とにかく、一度あなたの事務所へ戻りましょう」
 事情は分からないが、けが人を放っておくわけにもいかない。鈴仙が大通りへと出る。橙も先ほどに比べれば随分しっかりした足取りで歩いていた。
「あなたの薬、よく効くのね」
 橙がぼそりと呟く。
「ええ、師匠が作った傷薬ですから。よければ是非、ごひいきに」
「こんな所でも宣伝ですか」
 他愛の無い会話を繰り広げる。しかし、その会話も目の前に現れた人物にかき消された。
「そこの二人組、止まりなさい」
 真っ赤なもんぺの女の子。白い髪をなびかせ、鈴仙と橙の前に立つ。
「妹紅さん?」
「鈴仙も一緒か。まあ、鈴仙は関係ないよ。私が用があるのは、その隣の猫よ」
 鈴仙は隣の橙を見る。何やら警戒している表情だった。
「何かあったのですか?」
「それは言えない。言うと、あなたまで巻き込んでしまう」
 もう巻き込まれている、と鈴仙は言いたい所だったが、どうやら話を聞いてくれそうにはなかった。そして、隣の橙の殺気も非常にまずいものだった。
 こんな所で騒ぎになると、私も困る。
「妹紅さん、この子は怪我をしています。ですから事務所までは待ってくれませんか?」
「いや、話を聞くだけよ。別に大丈夫でしょう」
「この子、傷を受けているんです。だから一刻も早く安静に出来る所に連れて行かないと……」
「どうして橙の肩を持つの?」
 くそ、このおバカさんめ。
 思わず悪態をつく。どうして蓬莱人は融通がきかないのかしら。もう嫌になるわ。
 じりじりと間合いを詰めよる妹紅と、それにカウンターを仕掛けようとする橙。そしてその間に挟まれている鈴仙。
 あれ、もしかして一番危ないのって私じゃない?
 そう気付いた時には、妹紅が一歩飛び出していた。
「やっ!」
 と、その瞬間何者かが妹紅の攻撃を防いだ。
 九尾の狐。八雲藍だ。
「藍様!」
 橙が叫ぶ。すると藍の尻尾からチルノが現れた。
「橙ちゃん、逃げよう!」
 そう言って、橙の手を握り、走り去った。チルノの青い服に注意を引きつけられた鈴仙は、橙を逃がしてしまった。鈴仙は一瞬迷ったが、傷がまた開きそうなほどの早さで去っていった橙を心配してチルノを追い掛ける。
 これはどうなっているのだろうか。

 人々の視線を集める一匹と一人。その二人の間には明らかに祭りの陽気さとはかけ離れた、異質な空気が漂っていた。
「橙が世話になった」
 藍が低い声でそう呟いた。だが妹紅は全く怯まない。
「私も聞きたい事があったのよ。あなたの主人、一体何をしでかす気なの?」
「ふん、そんなもの、教えるわけが無かろう」
「じゃあ、弾幕勝負だな。人里からいったん出るか。そこで決着をつけましょう」
「いいだろう。ただし、お前には容赦はしない」
 藍は妹紅と共に人里の外へと移動した。

 慧音に本日何件目かの報告書が回ってきた。それには人里にて、妖怪の争いが勃発と書いている。内容は天狗と化け猫や九尾の狐に関する事だ。
 さすがに慧音は参った。どれもこれも、人間を巻き込めば尋常じゃない被害が出る。あれほど天狗や八雲には釘をさしておいたのに、それでも守られていないなんて。
 慧音は瓶から白い錠剤を取り出す。昨日永林に調合してもらった、胃薬だ。朝からストレスで参ってしまう。
 慧音は見るからにやつれた。なんだか今日はとても危ない。こんな報告書が回ってくるなんて。
 慧音の『今日は図太く生きる作戦』名付けて『今太作戦』は失敗に終わりそうだった。まさか半日で太い神経の半分もすり減るとは全く思っていなかったからだ。
「くそう、もう早く帰りたい!」
 デスクをばんと叩く。同じ部屋にいたものが驚いて慧音を見た。だが誰も慧音に声をかける事が出来なかった。
ドミノ・パニック(後)へ続きます。
suke
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10.80ずわいがに削除
先生……混乱が混乱を呼びすぎて僕の胃も痛くなってきました
11.100作品審査員研修生削除
恩田陸の「ドミノ」の様にはちゃめちゃな展開
面白い。