「あら、鼠がいるわ」
「窮鼠は猫を噛むぜ」
「私は猫じゃないですわ」
「んじゃ、犬だな。あのちんまい吸血鬼の犬」
白黒魔法使いは、マナーの悪いことに館の中を箒で飛びながら移動していた。
頭をぶつけてしまえばいいのに。などと考えながら何気なく声をかけると、いつものよく分からない文句が返ってくる。
きっと彼女なりの言葉遊びなのだろう。
ここでは珍しくもないし、私も意味もないことをよく言うから、確かだ。
犬と呼ばれたことに全く腹が立たない訳でもなかったが、意味のないことと分かっているので聞き流す。
何気なく、素っ気無く返される言葉の殆どには、心など篭もってはいない。
「…ケーキでも、食べていかない?」
「あー?」
だから、私が特に意味もなく、暇そうに飛んでいこうとする彼女を引き留めたのも、別に何ら不思議ではない。
「…それで今日はどんな悪事を働きに来たのかしら」
「あ?なんだ?人聞きの悪いメイドだな。お客様は神様だぜ」
白黒魔法使い──霧雨魔理沙は、堂々と上等な机に肘をつきながら、私が出した人間用のケーキをつついている。
「貴方はお客さんじゃないし──神様でも、人様に迷惑なら懲らしめられるのが幻想郷でしょう?」
「んにゃ、ご尤も、だ!」
魔理沙は語調を強くするのと一緒に、フォークに刺したケーキの塊を、口の中に放り込む。
随分大きい口だ。私なら、あの半分も口には入らないだろう。
「…それで、今日は何の用事?大方、パチュリー様の図書館から本を窃盗する気だったんでしょうけれど」
「んーにゃ、ほれはひがうぜ」
「食べ物を口に入れながら喋らないで」
「んごっく、話しかけたお前が悪いぜ。私なんか小っちゃい時に飯食ってる香霖笑わせて顔に噴き出されたことあるからな。自業自得って奴だ」
「その時に改めようとは思わなかったのかしら」
「と言ったらまたこいつは五月蝿いだろうと思ったので、それは言わずにおいた」
「言った。言いました。話を逸らそうとするな」
「はいはいっ、と!」
相も変わらず、この白黒は飄々として、私を翻弄してくる。そして大きな塊のケーキを、また口に入れた。
驚くべきことに、一ピースのケーキを二口で食べ切ったらしい。
小皿の上に残ったクリームの白に、苺の紅が光っていた。
「…苺」
「んん?」
魔理沙はケーキを頬張りながら疑問符を展開してくる。行儀も素行も悪い。品性の欠片もあったものではなかった。
無駄に幸せそうな顔をしているのが、また腹立たしい。何も知らない子供のようだった。
「苺は嫌い?」
「もごもご…んぐぐぐ」
「…飲み込んでからでいいわよ」
そう告げると、魔理沙は思い出したように口をつけていなかった紅茶を手に取り、一気に飲み干した。結構上等なお茶なのだけれど。
どうやら一緒にケーキも飲み込んでしまったらしく、満足気な顔をしている。
「ふぅ、あー苺はな、最後に食う事にしてるんだ」
「何故?」
「なぜ?ってそりゃお前…好きだからに決まってんだろ」
…何故だろうか、少しだけ心臓が矢で射抜かれたような。妙な痛みが走った。
好きって、何が。苺だ。じゃなかったらなんだというのか。
何を考えてるんだ。馬鹿馬鹿しい。こんな一言でここまで妄想が膨らむ自身に腹が立つ。
なんでこんな感覚になる?この白黒の毒気に当てられたのか?
見れば彼女は相も変わらず満足そうにして、今まさにフォークを苺に突き刺さんというところだった。
それを見て、私はまた妙な仕返しを思いついた。
お嬢様が見たら呆れそうなレベルのものだが、どうにかして一矢報いたかったのだ。
──その行動がどういう意味を持つかなんて、一切考えていなかったと、予め言っておく。
時間を止める──私以外の何もかもの時間が、停止する。正確には停止しているわけではないのだが、ほぼ止まっているようなものだ。
何度やっても奇妙な感覚だ。未だに、自分の持つ能力だという自覚にさえ乏しい。
しかし今はそれは問題ではない。
苺に、ちょうど突き刺さったところで止まっているフォーク。それを、魔理沙の手からひったくる。
それを構え直し、苺を魔理沙の目の前に突き出すようにして持った。
──時は、動き出す。
「──あ!?あれ、私のフォーク…」
「それは…これのことかしら」
ずい、と彼女の前に突き出したフォークを、存在に気付かせるようにゆっくりと振る。
見るなり、魔理沙は一瞬何が起こったのか分からないといった表情を浮かべた。
勝った──どこからか、そんな気持ちが湧いてきた。
冷静に考えればそもそも勝ち負けなどは最初から存在しないはずだったのだけれど。
それでも、彼女の能天気な表情は崩れ落ちた。
──そう、『一瞬』だけ。
私が突き出したフォークを見るなり、魔理沙は一瞬何が起こったのか分からないような表情を浮かべて、その後すぐに熟れた林檎のように赤くなった。
…私が何かおかしな事をしたのに気が付いたのは、そのあたりだった。
私の突き出した手に交差するように、魔理沙の手が突き出される。
手の先に握った八卦炉から、止め処なく光が溢れ出す。
「…恋符…………」
「な、ちょっとまり──」
「マスタースパークっ!」
「…昼間から騒がしいわね、咲夜」
「…申し訳ありません……」
魔理沙の恋符によって破壊された館の壁から、お嬢様が顔を出した。
時間を止めることはできても、戻すことはできない。私は己の能力の半端さを恨んだ。
いっそ今すぐにでも時間を止めてどこかへ旅立ちたい気分だった。流石に無理だけれど。
「すぐに修繕致しますので…」
「ふん…まあ、それはいい。おい、そこの白黒…ん?」
「っ、はぁ、はぁっ……」
魔理沙は、八卦炉を掴んだ手をゆっくりと降ろし、そのまま息を切らしてへにゃりと座り込んだ。
恋符で大量の魔力を消費した所為だろうか。
お嬢様は何を考えたのか、座り込む魔理沙にゆっくりと近付いていく。
「おい」
「はぁ…っ、レミ、リア……?」
息切れの所為で魔理沙の顔が真っ赤になっているおかげで、妙な絵面になっていた。
魔理沙の声もなんだかいつもの様子からは想像もつかないほど弱々しい。意外な一面を見てしまった。あの飄々としている魔理沙が。
お嬢様は魔理沙の前に膝をついて座り、その真っ赤な顔を訝しげに眺めながら言う。
「こんなに紅いと白黒じゃあないね。白紅黒…目出度いんだかそうじゃないんだか」
「…はぁ、はぁ……あ、そうだレミリア…」
「ん?」
「私はそもそもこれを渡しに、来たんだ」
そう言って、魔理沙は手紙のようなものを懐から差し出す。
「ああ、霊夢から…ふぅん、まあこれは後で読むわ」
お嬢様は中身は見ずに、手紙を懐に仕舞い込んだ。
それから、私にちらと目配せをして言った。
「咲夜、こいつと二人で話がしたいから、少し席を外してくれるかしら」
「え…は、はい、仰せのままに……」
ひとつ丁寧にお辞儀をして、時間を止める。
ゆっくりと、自分の部屋に向けて歩き出す。
頭の中には、何かどろどろしたものが渦巻いていた。
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一言告げると、返事の後に彼女の姿は一瞬で消え去っていた。
恐らく能力を使ったのだろう。いつも従順で助かる。
「…さて、魔理沙」
「なん、だよ」
「どうやって咲夜を誑かした?」
「っ、はぁ!?」
魔理沙はそれまで肩で息をしていたのが嘘のように、大きな口を開けて驚愕した。
私はその顔に手を伸ばし、頬を掴みながら詰め寄る。
「とぼけるなよ。咲夜のあんな顔、私でも見たことがないのに…」
「はっ、あ、知らん!お前以上にあいつのこと知ってる奴がいるかよ!」
眉を吊り上げて、彼女は反駁した。
その様がいかにも必死で、思わず笑みがこぼれる。
「ふふ……嫉妬するわ、流石は恋色魔法使いね。無意識に焦がれ、運命を動かす」
「…そんな大層なもんじゃない。私は普通の魔法使いだ」
私がじっと睨み付けると、彼女は私の手を払ってそっぽを向いた。
普通の魔法使いか。そもそも、普通の人間は自分の事を「普通」と自称しない。
「へぇ…じゃあ、どんな手を使ったのか聞かせて頂戴」
「聞かせるも何も…今日のあいつは最初からおかしかったんだよ。普段のあいつが私に向かってケーキなんか出すか?」
「…もしかして、あれは咲夜の方から?」
「ああ、ケーキ食べてかない?ってな」
「…………」
テーブルに目を遣る。クリームが残された皿と、一ピースだけ切られたホールケーキ。飲み干されたカップ。
無造作に置かれた、苺の刺さったフォーク。柄が半分焦げていた。
何がどうなって、「ケーキ食べてかない?」がマスタースパークになるのか、問い詰めたくなる。
「なあ」
「…何?」
魔理沙が、いつに無く真剣な顔になる。
いつものへらへらとした締まりのない口はぴりと張り詰められ、眉は雄雄しく立ち、その瞳は光を放っているようだ。
こんな目の人間を見るのは久し振りだった。前に見たのはいつだったか。
「レミリア、お前ちゃんとあいつと話したことあるのか?」
「…どういうことよ」
一瞬、自分の名前を呼ばれて反応できなかった。
思えばこの館には、主人である私を『レミリア』と呼ぶ者はいなかった。
門番と従者はお嬢様、魔女はレミィ、妹は姉様……。
白黒魔法使いは尚も続ける。
「知ってるかレミリア。人は常に自分を偽って生きてる。
人間…いや妖怪でも、大概はそうだ。傷つかないために、傷つけないために、本心は深いところに隠して生きてる…お前もきっとそうだろ?」
「……人間の戯れ言ね」
何を言い出すかと思えば。
人間お得意の説法か。そんなものは聞き飽きたし見飽きた。
傷つくだとか傷つかないだとか、そんな人間特有の軟弱な思想は、吸血鬼には必要ない。
だが、その後の魔理沙の一言は私の思考を崩した。
「じゃあ、なんであいつが──咲夜が居る時にこの話をしなかった?」
「っ!」
頭の中が、何かに埋め尽くされた。
何故?
何故咲夜に聞かせなかったか?
そんなことは、……
「知られたくなかったからだろ?自分の中の子供じみた嫉妬と、独占したいって心を。主人としての自分を幻滅させない為に」
「…………やけにお喋りなのね、今日の貴方は。それとも元々かしら」
「主人が莫迦だと従者も苦労するだろうからな。
きっとあいつは…常に自分を偽ってきた。人の為って書いて偽だ。
お前の為に、あいつはジュージュンでショーシャなメイド長として、ずっと無理して寸法の合わない仮面を着けてたんだろ。
…だったら、早くそれを剥がしてやれよ」
思考がどす黒く塗り潰された。
従者の──咲夜の、普段の顔。毅然とした、凛とした、丁寧な、瀟洒な姿。言葉にこそ出したことはないが、私の誇りと言っていい。
それに、さっき見た惚けたような顔が重なる。
私には見せたことのない、弱々しい顔。
「……無理だよ。咲夜は私の前じゃ、絶対に弱音なんか吐かない」
「…………『運命』だからか?」
「ええ、『運命』だからよ」
「この…野郎……!」
襟を、引っ掴まれた。
魔理沙は怒りに顔を歪ませ、わなわなと震えている。
「…なんだよ」
「お前がそう思ってるから!あいつは重すぎる仮面を外せねぇんだ!」
「…………!」
「お前に従者を思いやる心があるんなら…お前に悪魔なりの優しさが残ってるんなら…あいつの話を聴いてやれ。いや聴き出せ。運命なんかに頼ってんじゃねぇ。
それが出来るのはお前だけだ。レミリア・スカーレット」
言い終えると、魔理沙は掴んでいた襟を離した。
立ち上がり、箒を引っ掴んで、館の出口へ向かって歩いていく。
「邪魔したな」
その背中に、私は何一つ言い返すことができなかった。
何故だろう。
いつもこういう時に襲ってくる屈辱よりも先に、形容し難い熱が襲ってきた。
頭を焦がすような、熱。
ふと、いつか言われた言葉を思い出す。
『いつまでも部下が付いてくると思ってはいけないよ。』
『余り我が儘言い過ぎると、いつか愛想を尽かされるかも知れません。』
あの生意気な天人と、どこの馬の骨とも知らぬ龍宮の使いが言っていた言葉。
戯れ言と一蹴したはずの言葉が、針のように胸に突き刺さる。
「…『運命』、か」
「あ、そうそう」
「!?」
白黒が顔を出した。まだ行ってなかったのか。
「どうしようもなくなった時は────」
言うだけ言って、魔理沙は今度こそどこかへ消えた。
全く、コケにしてくれる。
身体は、勝手に動き出していた。
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「大丈夫よ、少し休むだけ」
妖精メイドにそう告げて、部屋に入る。
壁の修理の指示も出したし、一先ずは休める。
ほとんど物の無い部屋の隅、無造作に置かれた質素なベッドに腰掛ける。
頭が痛かった。自分が何故あんなことをしたのかが分からなかった。
少なくとも、普段の私ならあんなことはしない。
能力まで使って、あんな下らない悪戯を仕掛ける意味も理由も、無いはずだった。
…おかしいと言えば、あの白黒魔法使いを引き留めた時点で、私は…………。
幸せそうな顔の魔理沙と、いつになく真剣な顔のレミリアお嬢様が、頭にこびり付いていた。
『二人で話がしたいから』────
一体、何を話しているのだろう。気になって仕方がなかった。
あんな顔のお嬢様を、私は久しく見たことがなかった。
…そうだ、前に見たのは、私がこの館に来たばかりの頃──
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
この館に、私がメイドとしてやってきたばかりの頃。
私は、度々妖怪に襲われた。
紅魔館で唯一の人間という立場からか、私を狙う妖怪は後を立たなかった。
「あそこの館の連中は腹立たしいが、みな屈強で復讐もままならない。だから、新入りのあの人間にぶつけてやろう」
きっと、動機はそんなものだろう。
それを悉くあしらう内に、私自身は強くなっていった。
ナイフ繰りの技術を身に付けた。身体の動かし方を学んだ。実戦でしか得られない、ぴりぴりと研ぎ澄まされた感覚も手に入れた。
幾度かの死線を乗り越え、私は紅の魔の館に恥じぬ力を持てたことを喜んだ。
負けるはずがないと思った。そして実際その通り、私は負け知らずだった。
──そんなある日のことだ。
その日は朝からごうごう雨が降っていて、外に行けないとお嬢様はご機嫌斜めだった。
それを宥めて寝かしつけ、眠りこける門番を叩き起こす。全く、よく雨の降る中で眠っていられるものだった。
安物の傘を門番に押し付けて、私は買出しに出かけた。
雨は、しつこく降り続いていた。
買出しを終えて館に帰る道を歩いていても、一向に止む気配は無かった。
道中、突如として背後におぞましい気配を感じた。
余りの威圧感に振り向くことすらままならず、次の瞬間に後頭部に鈍い痛みを感じた。
唐突過ぎて、何も考えられなかった。ただ、一瞬にして壊された日常が、儚く思えただけだった。
雨が降っていた。
何か、おぞましい気配が、すぐそこまで迫るのを感じて、私は意識の糸を落としかけた。
こんなにも、あっさりと終わってしまうのか。
ああ、申し訳ありませんお嬢様。
一足お先に、失礼します。
ぐしゃりと、何かが潰れるような音がした。
「全く、世話の焼ける」
「……お嬢、様?」
微かに残った視界の隅に、私は確かにお嬢様の姿を見た。
見たことのない顔だった。真紅の眼差しが、雨間に煌いた。
すぐさま私は飛び起きた。寝ている場合ではない!
後頭部に走る激痛などどうでもよかった。私は時を止めて近くに落とした傘を拾い、お嬢様を包むように差した。
「大丈夫で御座いますかお嬢様!?」
「そんなに焦るな咲夜。それに、傘はまだいい」
水は吸血鬼の弱点である。特に、流れる水には滅法弱い。
故にお嬢様は雨の日の外出を嫌ったし、河には近付こうとせず、パチュリー様の水の魔法を恐れていた。
…そのお嬢様が、あろうことか傘も差さずに、外に出ていた。
何の為に。決まっている。私を助ける為に。
「下がれ咲夜。あいつが起き上がる前に」
「っ…しかし!」
「大丈夫だよ。あんな雑魚、すぐにぶっ殺してやるから」
私がそう言われても躊躇っていると、お嬢様は溜息を吐いて私を指で軽く小突いた。
身体が宙へ浮かんだ。
奇妙な浮遊感に包まれた後、私は数十メートル先の地面に着地した。
「お嬢様っ、お嬢様────!」
私に出来たのは、薄れていく意識の中、ただお嬢様の無事を祈り続けることだけだった。
己の傲慢さを呪いながら。
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
「咲夜……咲夜…………」
「…お嬢…様……?」
視界がぼやついていた。
きょろきょろと目を動かすが、私の部屋の殺風景な天井が映るだけだった。
長い夢を見ていたようだ。身体が嫌な汗でじっとりと濡れていた。
「咲夜……」
声と一緒に、何かがひょこと視界に現れた。
目を擦って、瞬かせる。
見れば、お嬢様が不安げな表情で私を覗き込んでいるところだった。
「…どうか、なされましたか……?」
「……咲夜、大丈夫?」
「──え?」
目が醒めた。
これが異常事態だということに気が付くのに、今の今まで時間がかかった。
何たる不覚。
そもそもお嬢様が私の部屋に入ってきている時点で普通ではない。いつも用がある時は私の方が参上すると決まっていた。
それに、本来仮眠をとる時は能力で時間を止めてから眠るのだ。そうすれば私は、ほぼ二十四時間活動し続ける事が出来るから。
しかしこの状況はどうだ。
どうも私は眠ってしまったらしい。時刻は分からないが窓から差す陽光は無く、現在が夜であることを如実に示している。“時間が経っていた”。つまりは能力を使わずに眠りこけていたということだ。
そして、そして。
お嬢様が、あろうことか私の質素なベッドの上で、見たこともないような不安げな表情で、私を気遣う言葉をかけていた。
これが異常事態でなくてなんであろうか。
私は混線し放題の頭から螺子を引っこ抜いて、足をもつれさせながら勢いのままに口を開く。
「も、もうしわけありませんお嬢様、たたたたただいま仕事にもどりますので」
「待って」
「え」
「仕事はいいから、座って」
「しかし……」
「いいから!」
びくっ、と身体が硬直するのが分かった。
見れば、お嬢様が、駄々っ子のように私のメイド服の裾を掴んでいた。
ああ、命令されることは慣れっこだったのに、何故だか一番単純な命令には従えなくなっていた。
“待て”か。成る程確かに、私は犬かもしれない。
硬直したままに、身体からするすると力が抜けていった。立ち上がりかかった足は元に戻り、すとん、と布団に尻餅をついた。
「……大丈夫?咲夜……酷くうなされてたわ」
「大丈夫ですよ、こんなもの、なんでもありません」
ああ、身体に張り付く嫌な汗の正体はそれか。
それでもお嬢様は尚も、私を気遣った言葉をかける。
「本当に大丈夫?…ねぇ、休暇を出したっていいのよ?ただでさえ咲夜は一日中働き詰めで苦労してるだろうし、たまには羽を伸ばしたって……」
しかしその言葉が、私には何よりも恐れていたことのように聞こえた。
休暇を出すということは、私の存在が紅魔館に必要とされていないということではないか。
そう考えると怖気が走った。嫌だ。それだけは絶対に。
孤独には戻りたくない。
そんな気持ちが、普段なら絶対に言えないような言葉を私に吐き出させた。
「…お嬢様は、私のことが必要なくなってしまったのでしょうか」
「────────」
言葉が、消えた。
しまったと思った。激しい後悔が襲ってきた。
なんて顔をさせてしまったのだ。
お嬢様は私の失言を聞いて、固まったようになってしまった。
それから、ぷるぷると身を震わせた。頬が朱に染まった。瞳は潤んで、今にもあふれ出してしまいそうだった。
今ほど、私の能力が時を遡れないのを恨んだ時はなかった。
なんと言葉をかければいいのか分からなかった。
申し訳ありません。すいません。ごめんなさい。誠に、本当に、心から、……
全部の言葉が、白々しいものになってしまった。
私は結局、お嬢様が涙を必死で堪えるのを、ただ歯噛みしながら見詰めることしか出来なかった。
無力さを噛み締めた。
何が瀟洒だ。笑わせる。
主人が泣きそうになっているのに、何も出来ないで。何が従者だ。聞いて呆れる。
と。
どぐしゃあ、という音が聞こえそうな勢いで、視界が空転した。
何が起きたか分からずにただ唖然としていると、お嬢様が倒れた私に馬乗りになっていた。
さらに唖然とした。
同時に、頭でお茶が沸かせそうなくらいに、顔が熱くなるのが分かった。
「しゃくやぁ…」
「おじょう、さま?」
お嬢様は弱々しく、涙声で私の名前を呼ぶと、そのまま胸に顔を埋めた。
そして、遂に泣き出してしまった。
もう頭の中は真っ白になっていた。
「う、うぅぅうぅ……」
「お嬢様……」
暫く、咽び泣くお嬢様をただ両の手で恐る恐る包み込むようにして抱いていた。
触れた手のひらから、お嬢様の体温が伝わってきた。少しだけ、心音も聞こえた。どくん、と脈を打つそれは、心なしか忘れかけていたぬくもりを思い出させた。
一方で、私の心臓は破裂するんじゃないかと思うくらいに高鳴っていた。
この鼓動も、お嬢様に聞こえているのだろうか。
そう考えると、尚更それは収まらなくなった。
「ごめん…ごめんね、咲夜……」
「お嬢様…?」
顔を私の胸に埋めたまま、お嬢様は泣き声で語り始めた。
謝罪の意図は飲み込めなかったけれど、とりあえずは話を聞こうと思ったので、神経を研ぎ澄ませた。
「…貴方は、もう覚えてないかもしれないけど……雨の日、貴方が大怪我をしたあの日…………」
「…ええ、しっかりと覚えていますわ」
「あの日、ね…貴方が妖怪に襲われること……私は知ってたのよ」
「…………左様で御座いますか」
「ええ。あの日の貴方には死相が見えたもの。……だから、寝たふりをして、貴方が館を出たのと同時に、傘を掴んで館から飛び出した。
パチェと何故か起きてた門番を必死で振り切って、気付かれないように貴方についていった…………」
「……………………」
「けれど、途中で風が吹いて、雨粒が顔に当たった。…酷く痛んで、泣きそうになった。
……そして、貴方を見失った。それから、必死で貴方を探して…………傘も投げ出して飛び回った。凄く痛かったけど、そんなの関係なかった。
…………でも、やっと貴方を見つけた時には、もう妖怪に襲われている所だった。…心臓が、止まるかと思った。…………っぐ、うぅ……っ…………」
「お嬢様……」
…もしかすると、お嬢様はこのことをずっと胸に抱えていたのかもしれない。
お嬢様は、私が妖怪に襲われる運命が視えていた。けれど、きっと直接は言い出せなかった。
だから、そんな回りくどい方法で、私を助けようと……
私の心の中に、何かが沁み込んでいくような心地がした。
久しく感じていなかった、何かだった。
「…顔を上げてくださいませ、お嬢様」
できるだけ、優しく告げると、お嬢様はゆっくりと顔を上げた。
泣きべそをかいて、顔を真っ赤に腫らして、鼻水まで垂らして、見てられたものではなかった。
けれど、私はそれを拭うことはしない。
だからと言って顔を逸らすこともしない。
それは、彼女の勇気の証なのだから。
私は、その頬に触れるだけの口付けをする。
「…本当に、よく伝えてくださいました。咲夜は嬉しいです」
久し振りに、本心からの笑顔がこぼれた。
それを見てお嬢様は、少し不服そうな顔で言う。
「子供扱いするな」
「はい、かしこまりました、お嬢様」
「あ、あと、それ」
「?」
「そのおじょうさまっていうの」
「どうかなさいましたか?」
お嬢様は、やっと戻りかけていた頬を、また真っ赤にして言った。
とても小さく、囁くように。
「…一度でいいから、『レミリア』って呼んで」
「…はい、レミリア様」
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
「ん、来たわね」
「来たわよ」
「随分遅かったじゃないの。うちの白黒が世話になったみたいだけど…」
「本当よ、あいつの所為でこんな時間になった」
博麗神社の縁側。手紙に導かれてやってきたレミリアを、霊夢が迎える。
「まあ、月見酒も乙なものよ」
「ん、それもそうだね」
客用の杯に、霊夢は目一杯の酒を注ぐ。
それをレミリアに手渡しつつ、自分の分も注ぎ始める。
「ん…美味しいね」
「気に入って貰えて何よりだわ」
月は美しい半月だった。余り半月や上弦の月を美しいと言うことはないのだが、しかしこの酒の席に於いては、どんな月でも輝いて見えるに違いなかった。
「…それで、何の用?手紙まで寄越して」
「ああ…あれね、魔理沙が書けって言ったから書いただけよ」
暫く、沈黙が場を支配する。
「……は?」
だばん、と口から酒が漏れる。
「魔理沙が『最近あそこの図書館の持ち主が五月蝿くてな、館に入る口実が欲しいんだ。頼む!この通り!』なんて言ったもんだから」
「…………」
「ん?ど、どうしたのよそんなに震えて」
レミリアは震えた。主に、やり場のない怒りによって。
「魔理沙のバカヤロォーっ!!」
十六夜の月に、吸血鬼の叫びが木霊した。
「窮鼠は猫を噛むぜ」
「私は猫じゃないですわ」
「んじゃ、犬だな。あのちんまい吸血鬼の犬」
白黒魔法使いは、マナーの悪いことに館の中を箒で飛びながら移動していた。
頭をぶつけてしまえばいいのに。などと考えながら何気なく声をかけると、いつものよく分からない文句が返ってくる。
きっと彼女なりの言葉遊びなのだろう。
ここでは珍しくもないし、私も意味もないことをよく言うから、確かだ。
犬と呼ばれたことに全く腹が立たない訳でもなかったが、意味のないことと分かっているので聞き流す。
何気なく、素っ気無く返される言葉の殆どには、心など篭もってはいない。
「…ケーキでも、食べていかない?」
「あー?」
だから、私が特に意味もなく、暇そうに飛んでいこうとする彼女を引き留めたのも、別に何ら不思議ではない。
「…それで今日はどんな悪事を働きに来たのかしら」
「あ?なんだ?人聞きの悪いメイドだな。お客様は神様だぜ」
白黒魔法使い──霧雨魔理沙は、堂々と上等な机に肘をつきながら、私が出した人間用のケーキをつついている。
「貴方はお客さんじゃないし──神様でも、人様に迷惑なら懲らしめられるのが幻想郷でしょう?」
「んにゃ、ご尤も、だ!」
魔理沙は語調を強くするのと一緒に、フォークに刺したケーキの塊を、口の中に放り込む。
随分大きい口だ。私なら、あの半分も口には入らないだろう。
「…それで、今日は何の用事?大方、パチュリー様の図書館から本を窃盗する気だったんでしょうけれど」
「んーにゃ、ほれはひがうぜ」
「食べ物を口に入れながら喋らないで」
「んごっく、話しかけたお前が悪いぜ。私なんか小っちゃい時に飯食ってる香霖笑わせて顔に噴き出されたことあるからな。自業自得って奴だ」
「その時に改めようとは思わなかったのかしら」
「と言ったらまたこいつは五月蝿いだろうと思ったので、それは言わずにおいた」
「言った。言いました。話を逸らそうとするな」
「はいはいっ、と!」
相も変わらず、この白黒は飄々として、私を翻弄してくる。そして大きな塊のケーキを、また口に入れた。
驚くべきことに、一ピースのケーキを二口で食べ切ったらしい。
小皿の上に残ったクリームの白に、苺の紅が光っていた。
「…苺」
「んん?」
魔理沙はケーキを頬張りながら疑問符を展開してくる。行儀も素行も悪い。品性の欠片もあったものではなかった。
無駄に幸せそうな顔をしているのが、また腹立たしい。何も知らない子供のようだった。
「苺は嫌い?」
「もごもご…んぐぐぐ」
「…飲み込んでからでいいわよ」
そう告げると、魔理沙は思い出したように口をつけていなかった紅茶を手に取り、一気に飲み干した。結構上等なお茶なのだけれど。
どうやら一緒にケーキも飲み込んでしまったらしく、満足気な顔をしている。
「ふぅ、あー苺はな、最後に食う事にしてるんだ」
「何故?」
「なぜ?ってそりゃお前…好きだからに決まってんだろ」
…何故だろうか、少しだけ心臓が矢で射抜かれたような。妙な痛みが走った。
好きって、何が。苺だ。じゃなかったらなんだというのか。
何を考えてるんだ。馬鹿馬鹿しい。こんな一言でここまで妄想が膨らむ自身に腹が立つ。
なんでこんな感覚になる?この白黒の毒気に当てられたのか?
見れば彼女は相も変わらず満足そうにして、今まさにフォークを苺に突き刺さんというところだった。
それを見て、私はまた妙な仕返しを思いついた。
お嬢様が見たら呆れそうなレベルのものだが、どうにかして一矢報いたかったのだ。
──その行動がどういう意味を持つかなんて、一切考えていなかったと、予め言っておく。
時間を止める──私以外の何もかもの時間が、停止する。正確には停止しているわけではないのだが、ほぼ止まっているようなものだ。
何度やっても奇妙な感覚だ。未だに、自分の持つ能力だという自覚にさえ乏しい。
しかし今はそれは問題ではない。
苺に、ちょうど突き刺さったところで止まっているフォーク。それを、魔理沙の手からひったくる。
それを構え直し、苺を魔理沙の目の前に突き出すようにして持った。
──時は、動き出す。
「──あ!?あれ、私のフォーク…」
「それは…これのことかしら」
ずい、と彼女の前に突き出したフォークを、存在に気付かせるようにゆっくりと振る。
見るなり、魔理沙は一瞬何が起こったのか分からないといった表情を浮かべた。
勝った──どこからか、そんな気持ちが湧いてきた。
冷静に考えればそもそも勝ち負けなどは最初から存在しないはずだったのだけれど。
それでも、彼女の能天気な表情は崩れ落ちた。
──そう、『一瞬』だけ。
私が突き出したフォークを見るなり、魔理沙は一瞬何が起こったのか分からないような表情を浮かべて、その後すぐに熟れた林檎のように赤くなった。
…私が何かおかしな事をしたのに気が付いたのは、そのあたりだった。
私の突き出した手に交差するように、魔理沙の手が突き出される。
手の先に握った八卦炉から、止め処なく光が溢れ出す。
「…恋符…………」
「な、ちょっとまり──」
「マスタースパークっ!」
「…昼間から騒がしいわね、咲夜」
「…申し訳ありません……」
魔理沙の恋符によって破壊された館の壁から、お嬢様が顔を出した。
時間を止めることはできても、戻すことはできない。私は己の能力の半端さを恨んだ。
いっそ今すぐにでも時間を止めてどこかへ旅立ちたい気分だった。流石に無理だけれど。
「すぐに修繕致しますので…」
「ふん…まあ、それはいい。おい、そこの白黒…ん?」
「っ、はぁ、はぁっ……」
魔理沙は、八卦炉を掴んだ手をゆっくりと降ろし、そのまま息を切らしてへにゃりと座り込んだ。
恋符で大量の魔力を消費した所為だろうか。
お嬢様は何を考えたのか、座り込む魔理沙にゆっくりと近付いていく。
「おい」
「はぁ…っ、レミ、リア……?」
息切れの所為で魔理沙の顔が真っ赤になっているおかげで、妙な絵面になっていた。
魔理沙の声もなんだかいつもの様子からは想像もつかないほど弱々しい。意外な一面を見てしまった。あの飄々としている魔理沙が。
お嬢様は魔理沙の前に膝をついて座り、その真っ赤な顔を訝しげに眺めながら言う。
「こんなに紅いと白黒じゃあないね。白紅黒…目出度いんだかそうじゃないんだか」
「…はぁ、はぁ……あ、そうだレミリア…」
「ん?」
「私はそもそもこれを渡しに、来たんだ」
そう言って、魔理沙は手紙のようなものを懐から差し出す。
「ああ、霊夢から…ふぅん、まあこれは後で読むわ」
お嬢様は中身は見ずに、手紙を懐に仕舞い込んだ。
それから、私にちらと目配せをして言った。
「咲夜、こいつと二人で話がしたいから、少し席を外してくれるかしら」
「え…は、はい、仰せのままに……」
ひとつ丁寧にお辞儀をして、時間を止める。
ゆっくりと、自分の部屋に向けて歩き出す。
頭の中には、何かどろどろしたものが渦巻いていた。
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一言告げると、返事の後に彼女の姿は一瞬で消え去っていた。
恐らく能力を使ったのだろう。いつも従順で助かる。
「…さて、魔理沙」
「なん、だよ」
「どうやって咲夜を誑かした?」
「っ、はぁ!?」
魔理沙はそれまで肩で息をしていたのが嘘のように、大きな口を開けて驚愕した。
私はその顔に手を伸ばし、頬を掴みながら詰め寄る。
「とぼけるなよ。咲夜のあんな顔、私でも見たことがないのに…」
「はっ、あ、知らん!お前以上にあいつのこと知ってる奴がいるかよ!」
眉を吊り上げて、彼女は反駁した。
その様がいかにも必死で、思わず笑みがこぼれる。
「ふふ……嫉妬するわ、流石は恋色魔法使いね。無意識に焦がれ、運命を動かす」
「…そんな大層なもんじゃない。私は普通の魔法使いだ」
私がじっと睨み付けると、彼女は私の手を払ってそっぽを向いた。
普通の魔法使いか。そもそも、普通の人間は自分の事を「普通」と自称しない。
「へぇ…じゃあ、どんな手を使ったのか聞かせて頂戴」
「聞かせるも何も…今日のあいつは最初からおかしかったんだよ。普段のあいつが私に向かってケーキなんか出すか?」
「…もしかして、あれは咲夜の方から?」
「ああ、ケーキ食べてかない?ってな」
「…………」
テーブルに目を遣る。クリームが残された皿と、一ピースだけ切られたホールケーキ。飲み干されたカップ。
無造作に置かれた、苺の刺さったフォーク。柄が半分焦げていた。
何がどうなって、「ケーキ食べてかない?」がマスタースパークになるのか、問い詰めたくなる。
「なあ」
「…何?」
魔理沙が、いつに無く真剣な顔になる。
いつものへらへらとした締まりのない口はぴりと張り詰められ、眉は雄雄しく立ち、その瞳は光を放っているようだ。
こんな目の人間を見るのは久し振りだった。前に見たのはいつだったか。
「レミリア、お前ちゃんとあいつと話したことあるのか?」
「…どういうことよ」
一瞬、自分の名前を呼ばれて反応できなかった。
思えばこの館には、主人である私を『レミリア』と呼ぶ者はいなかった。
門番と従者はお嬢様、魔女はレミィ、妹は姉様……。
白黒魔法使いは尚も続ける。
「知ってるかレミリア。人は常に自分を偽って生きてる。
人間…いや妖怪でも、大概はそうだ。傷つかないために、傷つけないために、本心は深いところに隠して生きてる…お前もきっとそうだろ?」
「……人間の戯れ言ね」
何を言い出すかと思えば。
人間お得意の説法か。そんなものは聞き飽きたし見飽きた。
傷つくだとか傷つかないだとか、そんな人間特有の軟弱な思想は、吸血鬼には必要ない。
だが、その後の魔理沙の一言は私の思考を崩した。
「じゃあ、なんであいつが──咲夜が居る時にこの話をしなかった?」
「っ!」
頭の中が、何かに埋め尽くされた。
何故?
何故咲夜に聞かせなかったか?
そんなことは、……
「知られたくなかったからだろ?自分の中の子供じみた嫉妬と、独占したいって心を。主人としての自分を幻滅させない為に」
「…………やけにお喋りなのね、今日の貴方は。それとも元々かしら」
「主人が莫迦だと従者も苦労するだろうからな。
きっとあいつは…常に自分を偽ってきた。人の為って書いて偽だ。
お前の為に、あいつはジュージュンでショーシャなメイド長として、ずっと無理して寸法の合わない仮面を着けてたんだろ。
…だったら、早くそれを剥がしてやれよ」
思考がどす黒く塗り潰された。
従者の──咲夜の、普段の顔。毅然とした、凛とした、丁寧な、瀟洒な姿。言葉にこそ出したことはないが、私の誇りと言っていい。
それに、さっき見た惚けたような顔が重なる。
私には見せたことのない、弱々しい顔。
「……無理だよ。咲夜は私の前じゃ、絶対に弱音なんか吐かない」
「…………『運命』だからか?」
「ええ、『運命』だからよ」
「この…野郎……!」
襟を、引っ掴まれた。
魔理沙は怒りに顔を歪ませ、わなわなと震えている。
「…なんだよ」
「お前がそう思ってるから!あいつは重すぎる仮面を外せねぇんだ!」
「…………!」
「お前に従者を思いやる心があるんなら…お前に悪魔なりの優しさが残ってるんなら…あいつの話を聴いてやれ。いや聴き出せ。運命なんかに頼ってんじゃねぇ。
それが出来るのはお前だけだ。レミリア・スカーレット」
言い終えると、魔理沙は掴んでいた襟を離した。
立ち上がり、箒を引っ掴んで、館の出口へ向かって歩いていく。
「邪魔したな」
その背中に、私は何一つ言い返すことができなかった。
何故だろう。
いつもこういう時に襲ってくる屈辱よりも先に、形容し難い熱が襲ってきた。
頭を焦がすような、熱。
ふと、いつか言われた言葉を思い出す。
『いつまでも部下が付いてくると思ってはいけないよ。』
『余り我が儘言い過ぎると、いつか愛想を尽かされるかも知れません。』
あの生意気な天人と、どこの馬の骨とも知らぬ龍宮の使いが言っていた言葉。
戯れ言と一蹴したはずの言葉が、針のように胸に突き刺さる。
「…『運命』、か」
「あ、そうそう」
「!?」
白黒が顔を出した。まだ行ってなかったのか。
「どうしようもなくなった時は────」
言うだけ言って、魔理沙は今度こそどこかへ消えた。
全く、コケにしてくれる。
身体は、勝手に動き出していた。
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「大丈夫よ、少し休むだけ」
妖精メイドにそう告げて、部屋に入る。
壁の修理の指示も出したし、一先ずは休める。
ほとんど物の無い部屋の隅、無造作に置かれた質素なベッドに腰掛ける。
頭が痛かった。自分が何故あんなことをしたのかが分からなかった。
少なくとも、普段の私ならあんなことはしない。
能力まで使って、あんな下らない悪戯を仕掛ける意味も理由も、無いはずだった。
…おかしいと言えば、あの白黒魔法使いを引き留めた時点で、私は…………。
幸せそうな顔の魔理沙と、いつになく真剣な顔のレミリアお嬢様が、頭にこびり付いていた。
『二人で話がしたいから』────
一体、何を話しているのだろう。気になって仕方がなかった。
あんな顔のお嬢様を、私は久しく見たことがなかった。
…そうだ、前に見たのは、私がこの館に来たばかりの頃──
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この館に、私がメイドとしてやってきたばかりの頃。
私は、度々妖怪に襲われた。
紅魔館で唯一の人間という立場からか、私を狙う妖怪は後を立たなかった。
「あそこの館の連中は腹立たしいが、みな屈強で復讐もままならない。だから、新入りのあの人間にぶつけてやろう」
きっと、動機はそんなものだろう。
それを悉くあしらう内に、私自身は強くなっていった。
ナイフ繰りの技術を身に付けた。身体の動かし方を学んだ。実戦でしか得られない、ぴりぴりと研ぎ澄まされた感覚も手に入れた。
幾度かの死線を乗り越え、私は紅の魔の館に恥じぬ力を持てたことを喜んだ。
負けるはずがないと思った。そして実際その通り、私は負け知らずだった。
──そんなある日のことだ。
その日は朝からごうごう雨が降っていて、外に行けないとお嬢様はご機嫌斜めだった。
それを宥めて寝かしつけ、眠りこける門番を叩き起こす。全く、よく雨の降る中で眠っていられるものだった。
安物の傘を門番に押し付けて、私は買出しに出かけた。
雨は、しつこく降り続いていた。
買出しを終えて館に帰る道を歩いていても、一向に止む気配は無かった。
道中、突如として背後におぞましい気配を感じた。
余りの威圧感に振り向くことすらままならず、次の瞬間に後頭部に鈍い痛みを感じた。
唐突過ぎて、何も考えられなかった。ただ、一瞬にして壊された日常が、儚く思えただけだった。
雨が降っていた。
何か、おぞましい気配が、すぐそこまで迫るのを感じて、私は意識の糸を落としかけた。
こんなにも、あっさりと終わってしまうのか。
ああ、申し訳ありませんお嬢様。
一足お先に、失礼します。
ぐしゃりと、何かが潰れるような音がした。
「全く、世話の焼ける」
「……お嬢、様?」
微かに残った視界の隅に、私は確かにお嬢様の姿を見た。
見たことのない顔だった。真紅の眼差しが、雨間に煌いた。
すぐさま私は飛び起きた。寝ている場合ではない!
後頭部に走る激痛などどうでもよかった。私は時を止めて近くに落とした傘を拾い、お嬢様を包むように差した。
「大丈夫で御座いますかお嬢様!?」
「そんなに焦るな咲夜。それに、傘はまだいい」
水は吸血鬼の弱点である。特に、流れる水には滅法弱い。
故にお嬢様は雨の日の外出を嫌ったし、河には近付こうとせず、パチュリー様の水の魔法を恐れていた。
…そのお嬢様が、あろうことか傘も差さずに、外に出ていた。
何の為に。決まっている。私を助ける為に。
「下がれ咲夜。あいつが起き上がる前に」
「っ…しかし!」
「大丈夫だよ。あんな雑魚、すぐにぶっ殺してやるから」
私がそう言われても躊躇っていると、お嬢様は溜息を吐いて私を指で軽く小突いた。
身体が宙へ浮かんだ。
奇妙な浮遊感に包まれた後、私は数十メートル先の地面に着地した。
「お嬢様っ、お嬢様────!」
私に出来たのは、薄れていく意識の中、ただお嬢様の無事を祈り続けることだけだった。
己の傲慢さを呪いながら。
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「咲夜……咲夜…………」
「…お嬢…様……?」
視界がぼやついていた。
きょろきょろと目を動かすが、私の部屋の殺風景な天井が映るだけだった。
長い夢を見ていたようだ。身体が嫌な汗でじっとりと濡れていた。
「咲夜……」
声と一緒に、何かがひょこと視界に現れた。
目を擦って、瞬かせる。
見れば、お嬢様が不安げな表情で私を覗き込んでいるところだった。
「…どうか、なされましたか……?」
「……咲夜、大丈夫?」
「──え?」
目が醒めた。
これが異常事態だということに気が付くのに、今の今まで時間がかかった。
何たる不覚。
そもそもお嬢様が私の部屋に入ってきている時点で普通ではない。いつも用がある時は私の方が参上すると決まっていた。
それに、本来仮眠をとる時は能力で時間を止めてから眠るのだ。そうすれば私は、ほぼ二十四時間活動し続ける事が出来るから。
しかしこの状況はどうだ。
どうも私は眠ってしまったらしい。時刻は分からないが窓から差す陽光は無く、現在が夜であることを如実に示している。“時間が経っていた”。つまりは能力を使わずに眠りこけていたということだ。
そして、そして。
お嬢様が、あろうことか私の質素なベッドの上で、見たこともないような不安げな表情で、私を気遣う言葉をかけていた。
これが異常事態でなくてなんであろうか。
私は混線し放題の頭から螺子を引っこ抜いて、足をもつれさせながら勢いのままに口を開く。
「も、もうしわけありませんお嬢様、たたたたただいま仕事にもどりますので」
「待って」
「え」
「仕事はいいから、座って」
「しかし……」
「いいから!」
びくっ、と身体が硬直するのが分かった。
見れば、お嬢様が、駄々っ子のように私のメイド服の裾を掴んでいた。
ああ、命令されることは慣れっこだったのに、何故だか一番単純な命令には従えなくなっていた。
“待て”か。成る程確かに、私は犬かもしれない。
硬直したままに、身体からするすると力が抜けていった。立ち上がりかかった足は元に戻り、すとん、と布団に尻餅をついた。
「……大丈夫?咲夜……酷くうなされてたわ」
「大丈夫ですよ、こんなもの、なんでもありません」
ああ、身体に張り付く嫌な汗の正体はそれか。
それでもお嬢様は尚も、私を気遣った言葉をかける。
「本当に大丈夫?…ねぇ、休暇を出したっていいのよ?ただでさえ咲夜は一日中働き詰めで苦労してるだろうし、たまには羽を伸ばしたって……」
しかしその言葉が、私には何よりも恐れていたことのように聞こえた。
休暇を出すということは、私の存在が紅魔館に必要とされていないということではないか。
そう考えると怖気が走った。嫌だ。それだけは絶対に。
孤独には戻りたくない。
そんな気持ちが、普段なら絶対に言えないような言葉を私に吐き出させた。
「…お嬢様は、私のことが必要なくなってしまったのでしょうか」
「────────」
言葉が、消えた。
しまったと思った。激しい後悔が襲ってきた。
なんて顔をさせてしまったのだ。
お嬢様は私の失言を聞いて、固まったようになってしまった。
それから、ぷるぷると身を震わせた。頬が朱に染まった。瞳は潤んで、今にもあふれ出してしまいそうだった。
今ほど、私の能力が時を遡れないのを恨んだ時はなかった。
なんと言葉をかければいいのか分からなかった。
申し訳ありません。すいません。ごめんなさい。誠に、本当に、心から、……
全部の言葉が、白々しいものになってしまった。
私は結局、お嬢様が涙を必死で堪えるのを、ただ歯噛みしながら見詰めることしか出来なかった。
無力さを噛み締めた。
何が瀟洒だ。笑わせる。
主人が泣きそうになっているのに、何も出来ないで。何が従者だ。聞いて呆れる。
と。
どぐしゃあ、という音が聞こえそうな勢いで、視界が空転した。
何が起きたか分からずにただ唖然としていると、お嬢様が倒れた私に馬乗りになっていた。
さらに唖然とした。
同時に、頭でお茶が沸かせそうなくらいに、顔が熱くなるのが分かった。
「しゃくやぁ…」
「おじょう、さま?」
お嬢様は弱々しく、涙声で私の名前を呼ぶと、そのまま胸に顔を埋めた。
そして、遂に泣き出してしまった。
もう頭の中は真っ白になっていた。
「う、うぅぅうぅ……」
「お嬢様……」
暫く、咽び泣くお嬢様をただ両の手で恐る恐る包み込むようにして抱いていた。
触れた手のひらから、お嬢様の体温が伝わってきた。少しだけ、心音も聞こえた。どくん、と脈を打つそれは、心なしか忘れかけていたぬくもりを思い出させた。
一方で、私の心臓は破裂するんじゃないかと思うくらいに高鳴っていた。
この鼓動も、お嬢様に聞こえているのだろうか。
そう考えると、尚更それは収まらなくなった。
「ごめん…ごめんね、咲夜……」
「お嬢様…?」
顔を私の胸に埋めたまま、お嬢様は泣き声で語り始めた。
謝罪の意図は飲み込めなかったけれど、とりあえずは話を聞こうと思ったので、神経を研ぎ澄ませた。
「…貴方は、もう覚えてないかもしれないけど……雨の日、貴方が大怪我をしたあの日…………」
「…ええ、しっかりと覚えていますわ」
「あの日、ね…貴方が妖怪に襲われること……私は知ってたのよ」
「…………左様で御座いますか」
「ええ。あの日の貴方には死相が見えたもの。……だから、寝たふりをして、貴方が館を出たのと同時に、傘を掴んで館から飛び出した。
パチェと何故か起きてた門番を必死で振り切って、気付かれないように貴方についていった…………」
「……………………」
「けれど、途中で風が吹いて、雨粒が顔に当たった。…酷く痛んで、泣きそうになった。
……そして、貴方を見失った。それから、必死で貴方を探して…………傘も投げ出して飛び回った。凄く痛かったけど、そんなの関係なかった。
…………でも、やっと貴方を見つけた時には、もう妖怪に襲われている所だった。…心臓が、止まるかと思った。…………っぐ、うぅ……っ…………」
「お嬢様……」
…もしかすると、お嬢様はこのことをずっと胸に抱えていたのかもしれない。
お嬢様は、私が妖怪に襲われる運命が視えていた。けれど、きっと直接は言い出せなかった。
だから、そんな回りくどい方法で、私を助けようと……
私の心の中に、何かが沁み込んでいくような心地がした。
久しく感じていなかった、何かだった。
「…顔を上げてくださいませ、お嬢様」
できるだけ、優しく告げると、お嬢様はゆっくりと顔を上げた。
泣きべそをかいて、顔を真っ赤に腫らして、鼻水まで垂らして、見てられたものではなかった。
けれど、私はそれを拭うことはしない。
だからと言って顔を逸らすこともしない。
それは、彼女の勇気の証なのだから。
私は、その頬に触れるだけの口付けをする。
「…本当に、よく伝えてくださいました。咲夜は嬉しいです」
久し振りに、本心からの笑顔がこぼれた。
それを見てお嬢様は、少し不服そうな顔で言う。
「子供扱いするな」
「はい、かしこまりました、お嬢様」
「あ、あと、それ」
「?」
「そのおじょうさまっていうの」
「どうかなさいましたか?」
お嬢様は、やっと戻りかけていた頬を、また真っ赤にして言った。
とても小さく、囁くように。
「…一度でいいから、『レミリア』って呼んで」
「…はい、レミリア様」
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
「ん、来たわね」
「来たわよ」
「随分遅かったじゃないの。うちの白黒が世話になったみたいだけど…」
「本当よ、あいつの所為でこんな時間になった」
博麗神社の縁側。手紙に導かれてやってきたレミリアを、霊夢が迎える。
「まあ、月見酒も乙なものよ」
「ん、それもそうだね」
客用の杯に、霊夢は目一杯の酒を注ぐ。
それをレミリアに手渡しつつ、自分の分も注ぎ始める。
「ん…美味しいね」
「気に入って貰えて何よりだわ」
月は美しい半月だった。余り半月や上弦の月を美しいと言うことはないのだが、しかしこの酒の席に於いては、どんな月でも輝いて見えるに違いなかった。
「…それで、何の用?手紙まで寄越して」
「ああ…あれね、魔理沙が書けって言ったから書いただけよ」
暫く、沈黙が場を支配する。
「……は?」
だばん、と口から酒が漏れる。
「魔理沙が『最近あそこの図書館の持ち主が五月蝿くてな、館に入る口実が欲しいんだ。頼む!この通り!』なんて言ったもんだから」
「…………」
「ん?ど、どうしたのよそんなに震えて」
レミリアは震えた。主に、やり場のない怒りによって。
「魔理沙のバカヤロォーっ!!」
十六夜の月に、吸血鬼の叫びが木霊した。