見た目は十代前半位の少女。
判らなければ調べればいい、をモットーとして強気に生きているが、判らない事は多い。
才能に恵まれた彼女は若くして強力かつ凶悪な魔法を会得していた。だが、若い故に判断力は乏しい。
彼女は今日も、勉強をする為に書斎に篭っていた。
この書斎は、大量の本が保管されている。分野は偏っておらず、様々だ。
毎日のように端から順番に本を取り、一冊一冊虱潰しに読んで来た。最早何冊目かも判らない。既に数百の文献は読んでいるだろう。
今日手に取った本は「境界制御の法」と表された魔道書だった。
それは非常に困難を極める手法の一つで、境界を操り、術者を含むあらゆる物体を転移させる事が可能という「最高峰かつ最難関」とも言われる魔法。しかし、非常に便利な反面、命の危険と紙一重の禁術でもある。力の使い方を誤れば何処に転移するか判らないのだから。
少女は警戒もせずに、付け焼刃でその魔法を詠唱してみたが、何も起こらなかった。
勿論、書いてある通りに行った筈だった。
魔力の作り方が微妙に違うのだろうかと思い、もう一度、記載されている通りに詠唱をしてみる。
やはり、辺りはうんともすんとも言わず、静まり返っていた。
首を傾げていると、突然空間が裂けて、一瞬にして少女を飲み込んだ。
あまりにも速過ぎて、視認出来ないノイズがかった映像が辺りを流れて行く。
少女は、とても怖がった。
何が起こったか判らなかったから。
五秒もせずに、辺りの景色が安定した。
そこは、見たことも無い、どこかも判らない森の中だった。
少女は辺りを見渡してみたが、どの方角を見ても、木しかない。
そして、辺りには瘴気が漂っている。
普段から瘴気には慣れている──筈だったのだが、ここの瘴気は成分が違うようで、若干のだるさを感じる。
こんな場所にはあまり長居をしたくない。
もう一度境界制御を使おうと思い、辺りを見渡した。
──無い。
普段持ち歩いていた魔道書も、「境界制御の法」の魔道書も無い。
申し訳程度に歩いて辺りを探してみたが、どこにも落ちていない。
無い物は、最早どうしようもなかった。
ここが何処なのか、辺りを確認するなら木の上から見渡した方が早いだろう。
手で魔力を作り出し、普段通りに飛行魔法を詠唱した。
しかし、巧くいかず浮きもしない。
もう一度、同じように飛行魔法を詠唱したが、結果は同じだった。何故なのだろう?
試しに、炎や風といった基礎的な魔法を詠唱してみると、此方は問題なく発生させる事が出来た。
細やかな魔力の制御が巧く出来ないだけなのだろうか。
原因は、辺りの瘴気だろうか?
いずれにしても歩く事を余儀なくされた少女は、当てもなく森を歩き始めた。
◆
どれだけ歩いただろうか。
今まで、歩くのは家の中、町の中、ぐらいだった。どこまで続くか判らない森のような場所を散策した事など一度も無い。遠出をするにしても、飛んで移動していたのだから肉体的な疲弊もないし、長距離もあっという間だった。
だが今は違う。自分の力で歩くしかない。
しかし、子供の体力とその短い歩幅で広い森を延々と歩くのは辛過ぎるものがあった。
来た時は、まだ明るかった。それなのに、もう夕日を示す橙色の光が辺りを染めている。こんな森では夜になったら本当に何も見えなくなってしまうだろう。
辺りを今一度、注意深く観察する。延々と森が続いているだけで、出口がありそうな方角は無い。
「お腹すいたなぁ……今日の夕ご飯、何だったんだろう」
力無い呟きだった。
いざ独りになると、生活面ではあまりに無力なのが判ってしまった。それでも出来る事はしなければならない。
何よりも問題なのは食料だった。
水分はその気になれば、草に溜まっている露を集めればどうにかなる。しかし、食料となるとそうもいかない。何せ、この森は一日中歩いても動物一匹見当たらないのだ。どれだけこの瘴気は害悪なのだろう。
ふと、木の根元に生える茸を見る。茸に関しては本で身につけた知識が多少あり、どういうものかは判っている。だが、この森に生えている茸が自分の居た場所にある茸と同じという保障は無い。それ以前に、この茸は鮮やかな赤色の傘に白いボツボツという出で立ちで、どう考えても毒茸のテンプレートそのものだ。地味な茸が安全かというとそんな事は無く、似ているものが非常に多い上、猛毒があるものも存在している。やはり、手は出せない。
それなら、何か食べ繋げる事が出来そうな植物──理想を言うならば、食用の木の実が一番良い。この状況でそんな都合の良い物が生えているとは思えないが。
だが、あまり期待しないで歩いていると、それらしき樹木は苦も無く見つかった。まだ若いのかそこまで高くなく、果実が付いているかを確認するには容易だった。
「桑、よね? これ……」
返答がない事を判っていても、呟かずには居られなかった。
目の前にある木は、彼女にとって間違いなく、宝の木そのものだ。あまり熟していない赤い果実しか実っていないようだが、確実に食用と判断出来る果実が見つかった事自体が、彼女を喜ばせた。
辺りの瘴気で変質していないかどうかは気になるものの、彼女はそれを僅かな鎌風で採取し、一粒食べてみた。甘みが殆ど無く酸っぱさばかりが口の中に広がるが、贅沢言っていられない。次々とそれを採取し、それなりにお腹が満たされるまで食べた。
次は、辺りが完全に暗くなる前に、雨風が凌げるようなものを作らなければならない。
強い鎌風を作り出し、一本の木を申し訳程度に切断して、何枚も大きな板を作り上げて行く。大きさの揃わない数十枚もの板を、隣の大木に立て掛けていった。
非常に簡素で稚拙な作りではあるが、強風が吹かなければ一晩ぐらいなら問題は無いだろう。不安を抱きながらも、周りに敵はいないから──そう自分に言い聞かせ、中に入った。
大木に寄りかかりながら、激しく疲弊した全身を休ませる。
そうする事で、周りに本当に誰も居ないと言う事実が彼女の心を襲った。
お母さんや、家族はどうしてるかな?
血眼になって自分を探してくれているのかな?
私、自分が今何処にいるかすら判らないよ。
こんなところ、来た事無かったのだから。
このままここから出られなかったらどうしよう。
嫌、絶対嫌。
絶対に帰らなきゃ。
でも、どう帰れば良いか判らないよ。
いつの間にか、寂しさと恐怖で泣きじゃくっていた。
やがて、泣き疲れた彼女は、いつしか眠りについていた。
こんな眠りにくい場所で良く熟睡出来たなあ、と他人事のように思った彼女は、朝早くに目が覚めた。
まずは空腹を満たす為に、近くにある桑の実を採取して、食べられるだけ食べる。
すっきりしない目覚めではあったが、果実の酸っぱさが眠気を覚ましてくれた。
桑の実をポケットに詰められるだけ詰め込み、森から出る為散策を再開する。
昨日空を飛べなかった事を思い出し、ダメ元でもう一度飛行魔法を詠唱したが、自分の体が宙を浮く事は無かった。
判っていても、やりきれなかった。
歩く事を余儀なくされ、昨日と同じように、昨日と同じ方角を目指して歩き始めた。
どれだけ、歩いただろうか。
昨日と同じように、相当な距離を歩いた筈だった。
時刻は夕日に変わる前という頃だろうか。
相変わらず、辺りを見渡しても森の出口が見つかる気配は全く無い。
辺り一面見渡す限り、木、木、木、木……。動物や昆虫すら見当たらない。
少なくとも、昨日は昆虫を見かけることが出来たのだ。もしかしたら、昨日よりも奥に入ってしまったのかもしれない。
この森の広さがどの程度の規模なのかは当然判らないし、この森が本当に出られる森なのかも判らない。
いつか童話で見たような、迷いの森なのかもしれない。
心なしか、辺りの瘴気も昨日より重く感じる。
朝に蓄えた桑の実も、今日の夜食べればもう無くなる。
今の時点では辺りに食べられそうな木の実は見当たらない。そう何日も、都合の良い事は続かないと判っていた。
絶望感に心を折られそうになるも、望みを捨てずに一歩一歩、疲弊した足を動かして行く。
この先、何が有るのか、何も無いのかも判らない。
それでも、今ここで立っているよりはずっと良い筈、そう信じて、ただ歩き続けた。
日も沈もうという頃、彼女はまだ歩いていた。
休まずにずっと歩いていたが、道中食べられそうな物は何も無かった。
違う方角を歩いていれば、何か食べ物が手に入ったかもしれないが、今更どうしようもない。
空腹を満たすために、桑の実を食べる。明日が少しでも楽になるよう、朝食用に数粒残して。
強い鎌風を作り出し、一本の木を申し訳程度に切断して、何枚も大きな板を作り上げて行く。大きさの揃わない数十枚もの板を、昨日と同じように隣の大木に立て掛けていった。
不安を抱きながらも、虫すら居ないし昨日よりも安全だから──そう自分に言い聞かせ、中に入った。
大木に寄りかかりながら、激しく疲弊した全身を休ませつつ考える。
この森は本当に、何処なの?
一体、何処まで続くの?
当ても無く歩いて来たけれど、本当は逆方向に歩いた方が良かったかもしれない。
もう、引き返すには遅過ぎる。進むしかない。
食料が見つからなければ、いずれ衰弱して歩けなくなる──その先は考えたくなかった。
本当に迷いの森だったら、私の力では出られないかもしれない。
でも、本当にここが自然の森なのなら、いつか出られる筈。
そう信じて、今日は泣かずに目を瞑った。
相当疲弊していた為か、今日の目覚めは昨日より若干遅かった。
それでも朝日と判断出来る空を見て、ほっと一息ついてから、残りの桑の実を口に含む。
これが、最後の食料。
昨日も注意深く森を歩いていたが、今日はそれ以上に真剣に食料を探しながら歩かなければならない。
彼女は歩き始めた。
行けども行けども木、木、木、木。
一体、この先に何があると言うのだろう。
もうどれだけ歩いたか判らない。
昨日、一昨日と合わせてどれだけ歩いただろう。
道中、未熟な木の実を実らせている木が何本もあったが、栃ノ木だった。
そのままで食べられる物ではない。大量の水が確保出来る訳もなく、諦めて歩いた。
空腹感に襲われ、辺りの散策をする。
しかし特に食べられそうな木の実、そして、一度は手を出すのを止めた茸もこの辺りには見当たらない。食べられそうな草も、特には見当たらなかった。
暫く進むと、今度は鮮やかな青紫色の花が幾つも目に入った。
花の形は帽子のような妙な形──トリカブトだった。
食料が無い今、そのトリカブトは自分の事を嘲笑っているかのようで、酷く苛立った。
気を取り直して散策するが、特に食料に出来そうな草も、木の実も見当たらなかった。
食料も無い、足も枷がついているかのように重い、辺りは真っ暗闇。
そんな状況でも彼女は宙に炎を灯して歩いていた。
少しでも、何かを食べたい、その思いが彼女をそうさせた。
時刻はもう判らない。いつ夜が明けるかも、判らない。
今このまま寝てしまったら、空腹で明日起きられないかもしれない。その位、休む事が怖かった。
ただひたすら、何かに憑り付かれたかのように彼女は歩いていた。
「…………?」
疲弊で言葉にならない言葉を呟いていた。
遥か遠くに、ぼんやりと光が見えるのだ。
人が放っている光なのか、それとも、瘴気で幻覚を見ているのかは判らない。
しかし、その光が彼女に歩く力を与えた。
足が棒のようで歩く事自体が辛かったが、ただひたすら、その光を目指して歩いた。
少しずつ、光がはっきりと見えてくる。
間違いなく、それに近付いている。幻覚なんかじゃない。
一歩一歩、力を振り絞るように歩く。
体力のない自分がよくここまで歩けたなと嘲笑う程に、それは振り絞った力でも、力ない歩き方だった。
やがて、その光の正体がはっきりと判った。
間違いない。
『家』だ。
誰が住んでいるか判らないが、兎に角、窓から光が漏れている。
後少し、後少しだ。
きっと誰かが住んでいる。良い人か悪い人かは判らない。こんな森の中に家を構える位だから、変な人かもしれない。
でも、今はそんなのどうだって良かった。
もう今の自分では、この森を出られるとは到底思えないのだから。
短いようで長い距離、五分程歩いただろうか。
今、少女の目の前には、紛れも無く玄関がある。
そして、窓から光が漏れている。絶対に人が居る筈だ。
鉛と錯覚するような重い腕を持ち上げて、コンコン、と扉を叩く。
全く音がしない森の中、その音だけが木霊したような気がして、少し怖かった。
すぐに、扉の向こうから女性の声が聞こえてきた。
「はーい?」
すぐに扉は開かれた。
出迎えたのは小さな人……妖精だろうか。ロングスカートにエプロンを付けた、少女よりもさらに背の低い人物が出迎えた。
「シャンハーイ?」
判らない言葉。もしかしたら、言葉が通じないかもしれない。
しかし、その後ろから金髪の女性が現れた。色白で、青色の服を着ている彼女は、どことなく人形のように見えなくも無い。透き通った宝石のような青色の瞳が、それに拍車をかけている。
疲れきった少女の姿を見たものの、特に驚いた様子は見せず、無表情だった。
「あら、貴女は……迷い人かしら」
「……え、あの」
言いたい事を先に言われてしまった少女は、その先何を言えば良いか判らなくなってしまった。
ぼやけた意識に負けないよう、何とか言葉を紡いでいく。
「えっと、ここが、何処か判らないの」
「随分疲れてるみたいね。歩けるかしら? 兎に角、上がって」
質問の回答は得られなかったが、この女性は信じても良いと本能的に悟り、招かれるまま家の中に入った。
外と違い整った空気、甘いお菓子の匂いが少し漂う、居心地良さそうな家だ。靴を脱ぎ、案内されるまま廊下を少し歩くと、リビングと思われる部屋に出た。右手側にはキッチンがある。
リビングには、テーブルを挟むように三人程座れそうなソファが二つあり、壁側には木製の戸棚が並んでいるが、戸は全て閉まっている。その上には、年代物のように見えなくも無いオブジェが、幾つか並んでいる。
金髪の女性はキッチンに向かいつつ、淡々と少女に言った。
「そこのソファに座って頂戴。お腹、空いてるわよね? 持ち合わせが無くて簡単なのしか出せないけれど、良かったら食べてね。後、今日はもう遅いし、泊まっていきなさい」
少女が言われるままソファに座ると、先程の妖精が「シャンハーイ」と言いながら、トーストと牛乳、ポテトサラダを目の前にあるテーブルに置いた。
しかし、あまりにもとんとん拍子に進み過ぎたせいか、少女は困惑を隠せない。
「あっ、あの」
一方、女性は無表情を少女に向けるだけで、落ち着いた様子だ。
「何かしら?」
ただ見るだけで、静かに次の言葉を待っている。
そのせいで少女は余計に困惑してしまったが、一言一言、自分を落ち着かせるかのように訊く。
「えっと……これ、食べても、良いの?」
「ええ、そのつもりで出したのよ。お腹空いてるでしょう?」
数十秒前の事も頭から抜け落ちてしまう程に自分が疲弊していると判った少女は、何だか悲しくなった。しかし、その悲しみは食欲にかき消された。
あまりの空腹にそれを一心不乱に食べていると、女性は向かい側のソファに座って前屈みになり、少女の髪、表情、服、手、足と観察するかのように眺めていく。
「貴女、まだ子供よね。随分汚れてるみたいだけど……どれぐらい、迷ったのかしら。お父さんとお母さんは?」
「ここが、どこか判らないの」
「ここは魔法の森よ」
少女の知識には無い地名だった。
「魔法の森?」
「そう。広いから、時々貴女のように迷って、ここに来る人がいるの」
「私、迷いの森だと思ってた」
「あながち間違ってないかもしれないわね。実際に遭難する人は居るから」
「あと、お母さんも、今はどこに居るか、判らないわ」
「そう、なの……」
女性は言葉に詰まり、少し考えるかのように目を細めた。だが、結局その事に付いては言及しなかった。
「お風呂沸かしてあるから、食べ終わったら入って良いからね」
「一つ、訊きたいの」
「ん?」
少女はシャンハーイとしか喋らない妖精を指差した。
「そこの妖精は、何者かしら」
少女よりも更に低い身長のそれは、彼女からすればどう見ても妖精にしか見えない。
女性はそれに目をやると、初めて、しかしどことなく無機的な微笑を見せる。
「それは私が作った人形よ。上海って名前をつけてるの。確かに、妖精に見えるかもしれないわね」
「これが人形? 凄い!」
「ええ。そう言ってくれると嬉しいわ」
嬉しいわと言う割には、無機的な笑顔のままで、声にも殆ど抑揚が無い。そのせいで、もしかしたらこの女性も人形で、本当は別のどこからか操られているのではないか──そんな邪推もしてしまう。ただ、少なからず笑うと言う事は、この女性にとって人形は特別な存在なのだろう。
ふと、キッチンを見てみると、同じような姿をした人形達が動いている。家事をしている者、ふらふらうろついている者、なにやら指示を出しているような人形まで様々だ。全てが人形だとしたら、どうやって動いているというのだろう。
「上海と蓬莱以外は、全部私が操作してるの」
訊く前に答えは示された。女性は指輪を嵌めた指を細かく動かしており、そこから指示を出しているようなのだ。どういった原理なのかは判らないが、良く見ると殆ど見えない糸のような物が、指輪と人形を結んでいる。
出された食事を食べ終わり満足した少女は、深呼吸をすると自分の汗っぽい体が気になった。部屋に香っているお菓子やパンの香りに殆どかき消されているとはいえ、少し恥ずかしくなる。
「えっと、すみません。お風呂とか、借りても良いですか?」
何となく咄嗟に敬語になってしまい、意味も無く照れてしまった。
女性は頭を軽く掻きながら立ち上がり、「さっき入って良いって言ったと思うけど……」と言いながら手招いた。
それに吸い込まれるかのように少女は着いていくと、廊下に入ってすぐそこの部屋が脱衣所だった。
招かれるまま、脱衣所に入る。
「お洋服、洗うわよ?」
実際、汗と砂や瘴気で汚れた衣服に不快感を覚えていた少女は、出来る事なら女性の申し出を快く受けたかった。しかし、今の時間に洗濯しても明日の朝までに乾くとは思えないし、これ以上あまり迷惑をかけたくないとも考えていた少女は、首を少し横に振る。
「洗ったら着れなくなっちゃうわ」
「魔法で乾かすから大丈夫よ」
魔法という言葉に、少女は先程の人形達を思い出した。そう、人形は全て魔法で操られていたという訳だ。
それに感動を覚えた少女は、表情をぱぁっとさせた。
「お姉さん、魔法使えるの?」
「魔法使いだからね」
「私も魔法使いだよ!」
自信ありげに言うと、女性は驚いたのか目を見開いた後、今までの無機的な表情から一変して、人間味のある柔らかい微笑を見せた。年下の同業者と判って、親近感が沸いたのだろう。
「小さな魔法使いさん、貴女の名前は?」
「ありす。お姉さんは?」
意外だったのか、女性は驚いたような様子で、ありすの事を見つめた。
「偶然ね。私も、アリスよ」
ありすも、驚いた。
◇
着ていたものを全て脱衣籠に放ったありすはすぐに洗い場に入った。続けて、アリスも入ってくる。
檜の香りが湯気と共に濛々と上がる湯船は、二人どころか四人は入れそうな広さで、洗い場も相応に広かった。
アリスが「目を瞑って」と声をかけ、ありすの頭から湯をそっとかけた後、タオルにボディソープを塗って、恐怖を与えないようにありすの身体を優しく洗い始めた。
確かに優しいのだが、ありすには優し過ぎる。
「なんだか、くすぐったいわ」
「少しだけ我慢してね」
「あ、頭も一緒に洗っちゃって、欲しいかも」
「はい、判ったわ」
ありすの要望に応え、体の泡を落とさないままシャンプーを頭に塗りつけて、髪が痛まないようにひたすら柔らかく洗い上げていく。
結局、そのこそばゆい洗い方で頭からつま先までくまなく洗われたありすは、全身に何度か湯を被って泡を洗い流し、湯船に入った。アリスも身体と髪を洗い終えると頭にタオルを巻いて、ありすの前にゆっくりと入った。
ありすは待っていましたと言わんばかりの、期待の表情を浮かべる。
「お姉さん、どんな魔法使えるの?」
「大体の魔法を扱えるわよ。使うかどうかは別だけどね」
どの属性や系統に拘らず、幅広く扱えると言う事なのだろう。ありすも似たような趣向で、今はどの方向を極めるといったそういう思いはなく、片っ端から覚えている。
「どれ位、覚えてるの?」
「どれ位と言われても……条件を限定しないなら千は超えてると思うけど、実際に使う魔法は限られてくるものよ。闇雲に覚えてもあまり意味は無いわね」
「言われてみると、そうかも。色々覚えてるけど、使うのは基礎魔法が多いわ」
それから十分程度会話をしていたが、アリスは魔法の情報を始終ぼやかしていた。魔法の事は余り他人に話すべきではない、という主観があるらしい。
それでも、ありすは幸せな気分になっていた。母親に愛されてはいるものの、ただ抱き締めたり撫でたりするばかりで、あまり丁寧な世話はされた事は無いし、魔法の話は今ひとつ判ってもらえず、誰かに話すという事自体も殆ど無かった。
「お姉さん、綺麗」
まじまじとアリスをみつめていたありすは、素直に思ったことを告げたが、
「なっ、何、言ってるのよ」
妙に照れてしまったのか、アリスは胸元を隠して俯いた。元々お湯で赤くなっていた頬が、余計に赤くなったようにも見えた。
のぼせる前に二人とも湯船から上がり、用意してあったバスタオルで身体を拭いていく。
ありすが身体を拭き終わると、アリスがワイシャツとズボンに分かれたパジャマとドロワーズを差し出した。
「ちょっと大きいかもしれないけど、これを着てね。下着は……これで良い?」
「下着は無くても大丈夫よ、流石にそこまで借りるのは、恥ずかしいわ」
ドロワーズを断ってパジャマだけを受け取り、早速着てみたものの、サイズ違いが著しくズボンは引きずってしまった。傷めては悪いので、下を返して上だけを借りる事にした。ぶかぶかなワイシャツだけでは足が半分以上見えてしまい恥ずかしい気がするものの、膝上まで隠せるし、何より貸してくれるだけでも充分嬉しかった。
着終わった後、髪をごしごしと拭いていると、「そんなに強く擦ってたら髪痛んじゃうわよ。頭に巻いた方が良いわ」と、アリスに指摘され、言われるまま、慣れない手付きで頭にタオルを巻いた。ふとすると、いつの間にアリスも同じようなパジャマを着ていて、ありすを手招いていた。
「寝室、案内するわね」
ありすは広めの部屋に案内された。一通り見てみると、比較的広い割にはベッドとテーブル、椅子ぐらいしかない簡素な部屋だった。だが、無料で泊めてくれると言うのだから充分過ぎる程だ。
「飲み物とか欲しくなったら、上海に訊くと良いわ。何かあったら、向かいの扉を叩いて頂戴。そこが私の部屋だから」
「うん、判ったわ。ありがとうお姉さん」
アリスは笑って、その場を後にした。
再び静寂が訪れると、ありすはベッドに乗り、横向きに寝転がって考え事を始めた。
なんだか、今日までの出来事があまり信じられない。
色々な事がありすぎて、整理が付かない。
改めて、今の状況を思い返してみる。
私は境界制御の魔法を試して、今ここに居る。
ここに辿り着くまではとても辛かった。
あんなひもじい思いをしたのは、生きていて初めてだった。
命賭けの野宿生活なんて二度としたくない。
ここが魔法の森と云う事は判ったけど、出るにはどうすれば?
この家が何処に位置しているのかも判らない。
恐らく出口の方角は案内してもらえるのだろうけど、アリスに同行を頼むのは気が引ける。
また二日三日も歩かないと出られないなら、覚悟も必要になってくる。
方角を間違えてしまったらどうなるだろう。
仮にそうなったとしたら、今度こそどこかで餓死するかもしれない。
運良く他の誰かの家に辿り着いたとしても、アリスのような人が住んでいるとは限らない。
森を出られたとしても、右も左も判らない辺境かもしれない。
開けた場所に出たとしても、何かに襲われるかもしれない。
そう、今自分が居る場所は、未知の世界そのもの。
ここに辿り着けたのは本当に、運が良かっただけ。
奇跡と言っても良いぐらい。
そこまで考えたありすは何だか怖くなって、勢い良く起き上がった。
気付くと、無意識に体が震えている。
怖い。
お母さん、早く会いたいよ。
寂しさを我慢出来なくなったありすはベッドを降り、部屋を出て向かいの扉を叩いた。
「はーい」と聞こえた後、扉がゆっくりと開く。
アリスは出てくるなり、ありすと身長を合わせるように少し屈んでみせた。
「どうしたの?」
この家に訪れた時とは違い、優しい表情で出迎えてくれるアリス。それだけなのに、ありすはどことなく不安が取り払われるような、そんな気分だった。
「少し、怖くて」
伝えると、アリスはありすの頬を少し撫でた後、その手を握った。
「一緒に寝よっか」
言おうと思っていた事を先に言われたありすは無言でこくりと頷いて返し、その部屋に入れてもらった。
が、いざ入ると──それは、想像を逸していた。
小奇麗に片付いている、とは思う。
それは当然だとしても、何と表現すれば良いのか判らない。異常なのか、普通なのか、いや、間違いなく前者なのだろう。ベッドの横に机があり、少し離れたところにある本棚にはびっしりと本が詰まっている。ここまでは普通なのだが、その棚の上には大量の人形が透明のケースに入れられて並んでいる。良く見ると、それらは先程の上海とは違い、可愛い物から気色悪い物まで様々だ。部屋の端には妙な土偶、マネキン、看護服を着た像の置物、内臓断面が表示された人体模型まで置かれている。一体この人はどんな趣味なのだろうと考えるまでもなく、人形なら何でも良い──そんな印象だった。
そんな考えを恐怖と共に巡らせていると、アリスの声が遮った。
「……どれが怖いの?」
考えていた事がどうして判るのだろうか、とありすは思わずにいられなかった。この家に来てから大抵の事を、言う前に訊かれている。だが、怖さではなく、どことなく暖かさを感じられる。
そして、幾つかの人形を指差す。
「少しだけ。あれとか、これとか……」
アリスが指を動かし始める。先程と同じように指輪から魔法の糸が伸びたと思いきや、部屋の入り口から上海に似ている人形達が現れ、指差された気色悪い人形やら、土偶やら、人体模型やらを全て運び出していく。
そして、それはあっという間に終わってしまった。
「これで良いかしら?」
アリスは特に不快感も見せず淡々としているのだが、ありすは少し申し訳ないような気分になって、しゅんとした。
「何か、ごめんなさい」
「良いのよ。気にしないで」
アリスは微笑んで、ベッドの上に座った。
ありすもそれを真似するかのように横に座ったが、急な眠気に襲われた。普段よりもかなり長く起きているし、疲弊も酷い上、安堵感に包まれたから、だろうか。
「ねむ……」
その様子を見たアリスは、ありすの頭に撒いてあるタオルを解いて、出窓に置いてあったクシでありすの髪を梳かす。
「疲れてるのよね? もう寝なさいな。やりたい事があるなら明日すれば良いわよ」
「あ、それじゃあ、おやすみのキスしたいわ」
ありすがさらりと提案すると、アリスは悩ましげな表情を見せた。
「……おやすみのキス? いつもしてるの?」
「うん、してるよ? 一日はキスから始まって、キスで終わるってお母さんに教わったの」
「頬で良いかしら?」
「ううん、唇」
ありすが当然のように答えると、アリスは少考して、肯定とも拒否ともとれない、釈然としない様子を見せる。
「唇、ねぇ。まぁ確かに、そういう挨拶もあるとは知ってるけど……」
再び、考える。やはり釈然としない様子で、
「んー、うーん。まぁ……少し位なら良いわよ」
アリスが顔を近付けると、ありすは腰を少し浮かせて唇に遠慮なく口付けをして、満足そうな笑顔を浮かべた。
「おやすみなさい」
「ええ……おやすみなさい」
それから、ありすはすぐに寝付いてしまった。
アリスは少しやりたい事があったのだが、彼女が夜中起きたときに自分が居なかったら不安になるだろうと思い、動くにも動けなかった。
「上海、蓬莱、朝食の支度と洗濯宜しくね」
「シャンハーイ」
「ホラーイ」
人形にそれだけ頼み、静かに横になった。隣で寝ているありすは静かに寝息を立てている。
まさか、同じ名前の者が来るとは思いもしなかった。物分りは良さそうだし、実害も無さそうではある。何となく自分の名前は呼びにくいが、大した問題でもない。
ただ、色々と引っかかる事がある。若年とはいえ魔法使いともあろう者が、空も飛ばずに魔法の森で遭難した理由が今一つ判らない。そして、金髪に金色の目。明らかに日本人ではないし、幻想郷に居る魔法使いは片手で数えられる位しかいないのだから、以前から居たのなら存在ぐらい知っていてもおかしくない筈だ。
となれば、最近幻想郷入りしたと判るが、それならこんな所には来ないで博麗神社か里に居る筈である。体力を蝕む森の中を歩く理由なんてどこにも無い筈だ。
誰かが瘴気の効果を教えた、と仮定するなら今の状況も説明出来なくは無いが、それだけでは裏付けが弱い。瘴気を吸うだけなら、森の入り口付近でも充分なのだから。
結局行き詰ってしまったアリスは、睡魔に任せて大人しく寝る事にした。
◆
朝、目覚めるとそこはベッドの上だった。
久しぶりの、野宿ではなく布団の中での目覚め。
んん、と目を少し擦りながらぼんやりとした目で窓を見ると、良く晴れた青空が映っていた。昨日までの酷い有様がまるで嘘かのように、清々しい朝に見える。
「おはよう。良く眠れた?」
横から女性の挨拶が聞こえてきた。そう、ありすは同じ名前の女性──アリスの部屋で、寝た事を思い出して、声の方に向いた。
「うん、良く眠れたわ。おはよう」
アリスは既に昨日と似たような服に着替えており、机に向かっている。右手の指を机の上でトントンと動かしながら、左手で本を押さえていた。右手には昨日と同じ指輪が嵌められおり、そこから魔法の糸が壁に向かって何本も伸びている。
昨日の人形運び出しでも何となく気に留めていたが、どうやら人形を見ていなくても、障害物があっても操作が出来るようだ。この魔法使いは、もしかしたら本当に凄い人物なのかもしれない。
まだ少し眠気を催しているありすが目をごしごしと擦っていると、アリスが訊いた。
「お腹空いてるわよね?」
「えっ? う、うん」
「大した物じゃないけど、リビングに朝食があるわ。食べ終わったらここに戻ってきて頂戴」
既に朝食が出来ている事に驚いたありすは、「あっ、ありがとう。判ったわ!」ベッドから飛び降りた。
「あ、おはようのキスしたいわ」
思い出したかのようにありすが言うと、アリスは「良いわよ」と、躊躇わずに承諾した。
遠慮の無い軽い口付けが終わった後、アリスは微笑んでいた。ありすはそれが妙に嬉しくて、意気揚々として扉も閉めずにリビングへ向かう。
リビングに入ると、目玉焼きとハム、レタスが挟まれたフランスパンのサンドイッチと、少量のパスタ、牛乳がテーブルの上に並んでいた。ソファに座り、ありがたくそれに手を付ける。昨日も食事は取った筈だが、久々に食べるような気がする蛋白質と、炭水化物がとても嬉しかった。あまり気にした事はなかったが、自分の家もパンが多かったかもしれない。何となく家族が作ってくれる料理を思い出してしまい、少し寂しい気もする。
数分でそれを平らげて満足し、一息つくと上海がテーブル横にやってきた。
「シャンハーイ?」
可愛らしく愛嬌もあるのだが、相変わらず何を言っているかが判らない。
上海は空になった皿とコップを下げて、キッチンに向かった。もしかしたら、『お皿片付けるよ?』と言っていたのかもしれない。
その様子を見届けたありすは、アリスの部屋に戻る事にした。
開いたままの扉をノックもせずに入ると、アリスは先程と同じ姿勢で机に向かい、本を読んでいた。
「お姉さん、美味しかったわ。御馳走様でした」
「お粗末様。ありすの服、もう乾いてるわよ」
アリスは目線だけで、洗濯物の位置を示した。その先──ベッドの上を見ると、ありすの服がそこに折りたたまれて置かれていた。洗濯され、しかも乾いているらしい。やはり人形達が洗濯したのだろうか。
「ありがとう」
ありすがパジャマを脱いでそれに着替え終わると、アリスが引き出しからメモ帖とペンを取り出した。
「幾つか質問させて頂戴。貴女は、どこに住んでるの?」
「魔界よ」
魔界人のありすとしては、考えるまでもない当然の回答。
しかし、予想外の回答だったのか、アリスは真顔で訊き返す。
「魔界?」
「うん、聞いて聞いて。ちょっと色々あって──」
ありすはベッドに腰掛けて、事の発端──事故から始まり、ここに歩いてきた経緯を覚えている範囲でアリスに話した。
アリスは終始真剣に話を聞き、要所だけをメモしていく。
「──それで、漸くここに辿り着いたって訳なのよ」
「………………判ったわ」
十分程で概ね伝え終えると、アリスは左手で額を支えながらペンを置いて、メモ帖を持ちつつ少考した。しかし、良い答えを思いつかなかったのか、困り果てた表情で切り出す。
「ごめんなさい。折角話してくれたのに……私が判る範疇を超えてるわね」
「ここは魔界じゃないのかしら?」
「ええ、幻想郷よ」
ありすにとっては聞き覚えがあるような、無いような響きだった。他の世界を訪れた事は今まで一度もなかったが、今は実際に別の世界に来てしまっているという訳だ。
アリスが軽く溜息をついて、続ける。
「そうねぇ。ここには資料もないし、図書館に行った方が、早いかもしれないわ」
「図書館があるの?」
「少し遠いけれど、大きい図書館があるわ」
図書館なら、もしかしたら同じ本があるかもしれない。期待せずにはいられなかったありすは立ち上がり、アリスの手を握った。
「行ってみたいわ。場所教えて欲しい!」
「一緒に行きましょ。もう少しで家事が終わるから、待っててね」
快く承諾したアリスは広げていた本に栞を挟んで閉じ、引き出しから新たに指輪を取り出す。それを左手の中指と人差し指に嵌めて、両手を構えて真剣に人形の操作を始めた。
それが終わるまで、ありすは棚から魔道書を借りて、ベッドの上で読んでいた。
◆
森の上まで手を引いてもらい、そこからは瘴気の影響も受けず自力で飛ぶ事が出来たありすは、アリスと共に紅魔館と呼ばれる場所を訪れた。
空中から確認する限りは、どれだけの人が住んでいるのか判らない程の大きな赤茶色の館で、入り口には緑色の服を着た門番が一人で立っている。
二人が門の前に着陸すると、門番は眠そうに挨拶した。
「ふぁぁ……あら、アリスさん」
どうやら、アリスと門番は顔見知りのようで、お互いに警戒は無いようだ。
「おはよう。図書館に入りたいのだけど」
「アリスさんなら顔パスで通しちゃっても、良い気がするんですけどね。そちらの子は?」
「あぁー、この子は」
「初めまして、私はありすよ」
アリスが説明する前にありすが答えた。
門番はどういう事か判らなかったのか、目を見開いて暫し黙りこくってしまったが、
「成程、同じ名前なのね。まぁアリスさんのお連れならアレ以外は大丈夫だと思いますし」
すぐに察したようで、特に詮索する事無くそのまま門を開いた。
「どうぞ、ごゆっくり」
「失礼するわね」
「お邪魔します」
中に入っていく二人の後ろ姿を、門番は不思議そうな目で見つめていた。
無論、メイド長に尋問された時の言い訳を考える為だが、ありすと名乗る少女が人間で無い事は妖気で直ぐに判った。とはいえ、種族までは判らない。
「人形、じゃなくて人妖かな? ま、問題なさそうだし良いよね」
その投げ遣りな言葉は、二人に届かなかった。
中は床も壁も天井も赤茶色だった。緻密な装飾を散りばめた豪勢なシャンデリアが天井からぶら下がり、奇怪な紋章が刻まれた巨大な赤の絨毯が敷かれているロビー。金持ちが住んでいる事を窺えるような広い間取り。
ありすは誰に訊くという訳でもなく、
「誰が住んでるのかしら」
「吸血鬼よ」
呟くと、回答は直ぐに得られた。
魔界に吸血鬼がいたかどうか記憶に無いが、ただ何となく訊いてみる。
「どんな奴なの?」
「面倒になるから会わないほうが良いわ。図書館は向こうね」
どう面倒なのかは説明されなかったが、吸血鬼に大して興味が無いありすは詮索しなかった。
小声で他愛も無い雑談をしながら、赤茶色の廊下をゆっくり歩いていく。コツーンコツーンと、靴の音がやたら響くように感じる。ここまでの大きな館で誰とも遭わないと本当に人がいるのか疑わしく、廃屋を歩いているような、不穏な空気が漂っているような、妙な錯覚を覚えてしまう。
「ここよ」
随分歩いたが、結局誰とも遭わず目的地に辿り着いてしまった。
目の前には何の変哲も無い扉が二つあるが、片方が開放されていて中は大体見えている。床から天井まで壁を覆い尽くしている本棚にはびっしりと本が並び、それでも収納しきれないのか絨毯の上にも大量の本が山積にされている。天井からは幾つものランプが吊り下げられているが、火が灯されているのは一部だけのようだ。
自分が利用していた書斎とは比べ物にならないその図書館を見たありすは、期待せずにはいられなかった。
アリスが扉をコンコンとノックして、中に入る。その後ろにありすも続く。
外側から見えなかった所に、簡素なテーブルと椅子がある。蝙蝠の翼を頭部と背中に持つ女性がその傍でティーポットを持ち歩き、全身ピンク色の服を着ている女性が座って本を読んでいた。
「おはよう。朝から失礼するわ」
アリスが挨拶すると、全身ピンク色の服の女性は少し眠そうに欠伸しつつ、
「随分早い時間に来るのね。貴女なら別に構わないけど……」
そして、ありすに目線を向けた。
「その子は?」
「初めまして、ありすです」
「へ?」
ありすが即答で名乗ると、全身ピンク色の服の女性は素っ頓狂な声を返した。少し考えているような素振りを見せた後、ぽん、と手を叩いてアリスに向き直す。
「あ、もしかして人形?」
「違うわよ、この子は」
「お姉さん、私が説明するわ」
説明しようとするアリスをありすが遮ると、全身ピンク色の服の女性は興味深そうにありすに目線を向けた。何かの動物を観察しているかのようにも見えるが、その瞳は好奇心に溢れている。
「まぁ、座りなさいな。小悪魔、紅茶を出してあげて」
「大丈夫ですパチュリー様、もう出来てますよ」
ありす達が座るとテーブルに紅茶の入ったティーカップが三つ配られ、中央にティーポットが置かれた。どうやら、そこの全身ピンクはパチュリーという名前で、蝙蝠の翼を持つ者は呼ばれているようだ。
小悪魔という言葉にハッとしたありすは、テーブルに乗り出した。
「小悪魔さん、貴女は魔界から来たの!?」
突拍子もない質問に、小悪魔は困惑の色を見せる。
「えーっと……? そうですね。パチュリー様と契約をして、魔界から此方に来ました」
「やっぱり! それじゃあ、魔界への帰り道判るわよね!? 教えて欲しいの!」
「落ち着いて」
ついつい大声を出したありすはアリスに宥められ、しゅんとして椅子に座り直した。
その無作法な振る舞いを見ていたパチュリーは特に怒りもせず、頬杖しているのか頭を抱えているのか微妙な姿勢になった。
「魔界への帰り道? って事は、貴女は魔界人か何かかしら?」
「うん。ちょっと自分のミスで、え~っと、幻想郷? に、来ちゃったのよ」
「契約で呼び出し、契約を終えた時に還す──確かに、小悪魔は贄を使った召喚術で魔界から呼び出したわ。でも、契約の手順として魔界と術者を一時的に繋ぐ事が出来るだけで、契約の対象以外が魔界への通り道を通るなんて事は出来ないわ」
出来たら苦労しないし、とパチュリーは最後に小声で付け足した。しかし、ありすは納得がいかず食い下がる。
「でも、私は自力でこっちに来れたのよ。だから、帰れる筈なの。あの魔道書さえあれば!」
「魔道書?」
「境界制御の法っていう、魔道書なの」
「境界……」
パチュリーは言葉を詰まらせ、「少し時間を頂戴」と言うと、腕を組んであさっての方向を見つつ考え始めた。
チッチッと時計が刻む僅かな音がはっきりと聞こえる程、静かな図書館。
何も出来ず落ち着けないありすは、黙ってしまったパチュリーを見始めた。
色白で細い腕、知的に整った顔立ちなのに、まるでパジャマのようなピンク色の簡素なローブ姿という、少し気の抜ける風貌をしている。召喚術の話を直ぐに出来る辺り、彼女が魔法使いであるという事は間違いないのだろう。ただ、愛想良さそうには見えない。
この幻想郷に魔法使いがどれだけ居るのか判らないが、ありすにとっては嬉しい事だった。魔界では全くと言って良い程魔法の話が出来る相手が居ないのに、此方の世界には既に最低でも二人、自分が話せる位置にいるのだから。
少ししてパチュリーがありすの視線に気付き、どうしたのと言いたげな表情で見返した。
慌てたありすはついつい目を逸らしてしまったが、パチュリーは僅かに口元を緩めた後、再び視線を宙に泳がせた。
やがて、数分の静寂を破ったのはアリスだった。
「境界といえば紫だけど、アレは才能よねぇ」
「そうね、あの素晴らしい力を他の者が使えるなんて到底思えない。そんな魔法が実在していたら、この私が今も昔も血眼になって探している筈」
パチュリーが即答すると、アリスは何かに気付いたのかハッとして、期待に満ちた声で言う。
「そうよ、紫に頼めば片付くじゃない」
「あれに期待するのはどうかと思うわ」
考えもせずに、また即答したパチュリーは紅茶を一口飲んだ。「冷めるわよ?」と言いたげな視線をアリスに向けると、アリスも紅茶を一口飲んで、溜息を付く。
「はぁ……それもそうよね。何たって紫だし」
「まあでも、実際アレに頼むしか無いと思うわ。他に心当たりないもの」
アリスもパチュリーも、再び黙ってしまった。
会話が途切れて、また落ち着けなくなったありすは辺りを見渡した。見渡す限り本だらけの部屋。見ていると、魔界に戻る前に読めるだけ読んでおきたくなってしまう。この大量の本と魔界への帰還を天秤にかけたくなるような、妙な魅力が襲ってくる程だ。
しかしそんな思いを断ち切るかのように、ありすはぶんぶんと首を横に振って、静寂を破る。
「あの、パチュリーさん。本を調べても、大丈夫かしら」
思い切って言うと、パチュリーは残り少なくなった紅茶を飲み干し、小悪魔に目線を移した。
「案内してあげて」
「判りました。魔道書は向こう側に纏めてありますよ」
小悪魔が席を立って奥のほうに歩いていき、ありすもそれに付いていった。
アリスも手伝おうと席を立ったが、パチュリーが呼び止めた。
「七色の人形遣い。ちょっと話があるから座って欲しいわ」
「え? まぁ、良いわよ」
区別の為とはいえ二つ名で呼ばれたアリスは少し驚いて、後方を一瞥してから座り直した。
パチュリーも少し遠くに離れたありす達を一瞥して、アリスと向き合うと微笑んで見せた。
「魔界人の魔法使いなんて、貴重なサンプルよね。あの子貰え──じゃなくて、貸してくれない?」
藪から棒のとんでもない要望に、アリスは面食らった。
「サンプルって。物扱いはさせないわ」
引き渡す気など到底起きようもない。しかし、パチュリーは食い下がる。
「あら、どうして? 赤の他人だし、魔法使いとしては好機でしょう?」
「あんな小さい迷子を実験台になんて出来る訳ないわ」
「何言ってるの。魔法使いともあろう者がそんな事に現を抜かしてたら、いつまで経っても成長しない」
「兎に角、あの子に手出したら承知しないわよ。無事に送り返してあげなきゃ」
断固拒否するアリスに、パチュリーは嘲笑を見せる。
「人が良すぎても馬鹿見るだけよ?」
「常識の範疇でしょ」
落とせない、とあっさり確信したパチュリーは黙ってしまったが、何を思いついたのか今度は胡散臭い微笑を浮かべて問いかける。
「アリス、貴女……少し柔らかくなった?」
突然、話題を切り替えられ、戸惑ったアリスはすぐに返せなかった。
「……何が?」
「今までは誰に対しても興味が無い、って感じだったけど、今の貴女はそう見えるの」
妙な感想に、アリスは妙な浮遊感を覚えてしまう。罵倒や嘲笑は右から左に流せるが、変な事を指摘されてしまうとそうもいかない。
「えぇ? どう、かしらね」
「だって、ついこの間来た時と、今の貴女、全然違うわよ。あの子のせいは知らないけど、妙に生き生きしてるし、凄く優しそうに見えるわ」
無意識の笑い方に自覚がある訳もない。アリスは社交辞令的な笑顔を練習した事はあっても、それ以外の笑い方なんて気に留めた事も無い。
「私がどういう顔してたかは知らないけど、情に脆いのは元々よ……」
「今の貴女、むかつく位に素敵よ。惚れちゃいそう」
「なっ、何、言ってるのよ。寝言は寝て言いなさい」
パチュリーが何処と無く照れたような、微笑とも苦笑とも取れない変な表情で言うせいで、アリスは顔を赤らめて俯いてしまった。
しかし、パチュリーは言うのを止めないどころか、ヒートアップしていた。
「本当に、寝言と思ってる?」
「思ってるわよ」
「素直じゃないのね。それがまた可愛くて堪らないわ。証明するなら、キスとかが良いかしら?」
「何、何なのよ……もう知らない。私も本探し手伝ってくる」
何だかやたらと悔しくなったアリスは、席を立ってありすと小悪魔がいる方に歩いた。
「ほんと、人間臭い魔法使いだこと」
パチュリーが紅茶をティーカップに注ぎながら愉しそうに呟いたが、その声はアリスに届かなかった。
日が沈むまで、三人がかりで相当な数の魔道書を表紙読みで調べたが、境界に関して記された魔道書は見当たらなかった。しかし、ありすが見た事の無い魔道書も大量にあり、ついつい幾つか読み耽り、帰り際には一冊借りてしまった。
何かが判ったら連絡する事を、パチュリーは約束してくれた。
目的の本は見つからなかったものの、なんだかんだで満足していたありすは、アリスと共に紅魔館を後にした。
「ここに無ければ、恐らくもう他には……困ったわね」
アリスが言いつつ沈んだ表情を浮かべて、ありすの手をそっと握った。
これだけ大きな図書館でも、目的の本は見つからない。となると、あの本は魔界にしか無いのかもしれない。
「でも、色んな本があったわ。無駄では無いと思うの。だから、お姉さんはそんな顔しないで欲しいわ」
半分は、自分に言い聞かせていた。
◆
翌日、アリスに連れられたありすは、里中の商店街で食料の買出しに付き合い、その様子を傍らで眺めていた。
ここの住人は多くが見慣れない服に、黒髪という出で立ちだ。幻想郷の住人はこの姿が一般的なのだろう。勿論、向こう側から見れば此方が異端に見えているのだろうが。
今日は雲一つ無い青空で気分の良い朝だったが、午後になると日照りが厳しくなり、暖かいを通り越してかなり暑くなっていた。
日傘でもあれば幾分楽にはなるだろうかと思いつつも、自分とアリスの周りにだけ僅かな風の流れを作り出して涼んでみる。すると、アリスが嬉しそうに口元を綻ばせて自分まで嬉しくなったり、魔法は本当に便利よねー、なんて他人事のように思えたりもして、なんだか楽しい。
ふと気付くと、すぐ近くに紅白で脇を露出するという妙な服を着た女性が、二人の近くに寄ってきたと思いきや、挨拶もせずにアリスに話しかけた。
「買い物?」
「小麦粉が無くなりそうなのよ」
気付いたアリスも、挨拶せずに答えた。どうやらこの二人は知り合いのようで、気さくに話している。
紅白服の女性が、ありすに顔を向けた。
「ふうん。そっちの子は?」
「私は──」
唐突に、ありすの頭の中で何か、記憶の引き出しから溢れ出す様に映像が再生された。
いつだか、数名が魔界に侵攻してきた時の映像。
魔界を荒らした奴。
母親をも負かして酷い目に遭わせた奴。
私の全力を去なして、私に大怪我を負わせた奴。
──そう、それは紅白の服を着た、巫女。
今、目の前に立っている女が、記憶の映像と重なる。
「ま、答えたくなければ良いけど。最近暇よねぇ、異変もないし。まぁ良い事だけど」
巫女がありすの前に屈んで手を出そうとした時だった。
ありすは無意識に、恐怖剥き出しの大声で叫んだ。
「うわあああああああああああ!」
「えっ? ちょ、ちょっと?」
「嫌だ! 来ないで!! 近寄らないで!!」
突然湧き上がった恐怖に、逃げる事しか思いつかなかったありすは、物凄い勢いで森の方に飛び出した。
呆然と立ち竦んだ二人がその場に取り残された。辺りの人々が二人に注目し、一部の人達は何かヒソヒソと話をしている様子も伺える。
少ししてから紅白服の女性は我を取り戻して、不満を露にした。
「どういう事よ」
「私が訊きたいわよ。霊夢、後で紫が家に来るよう頼めないかしら」
アリスは霊夢の質問に答えられなかった。
ありすが尋常じゃない怯え方をしていたのは見て取れるし、その恐怖が霊夢に向けられていたのも判断は容易だった。だが、何故そこまで取り乱したのかが判らないし、信じたくなかった。
「紫? 別に良いけど……期待はしないでよ?」
「助かるわ。私はあの子追うから、これで。またね」
「え、ちょっと。……仕方ないわねぇ」
ぎこちないやりとりをしただけで、アリスは一方的にその場を後にした。
商店街から飛び出したありすは、ただひたすらそこから逃げた。
アイツから離れれば、少しは恐怖が収まる、ただそれだけだった。
森の入り口付近に降り、ひとまず難を逃れたのも束の間、アリスの知り合いに、悪い事をしてしまったという罪悪感がありすに襲いかかってくる。
──トン。
突然横から聞こえた音にありすは狼狽え、恐る恐るその方向に目を向けた。
そこには、アリスが立っていた。その後ろには、上海が小麦粉の布袋を背負って浮いている。
罪悪感が更に膨れ上がって、もう何から言えば良いのか判らなかった。
「ごめん……なさい」
ありすは弱々しく謝ったが、アリスは少しだけ首を横に振って、屈んでその手をそっと握った。白くて綺麗な、優しい手で。
「何があったのかは判らないけど、一人じゃ迷うわよ?」
「だって、だって怖かったのよ!」
まだ落ち着くことが出来ないありすは、肩を震わせて泣き崩れてしまった。
少し心配そうな、困ったとも取れないような妙な表情を浮かべたアリスは、ありすの肩を抱いて頭を撫で始めた。そのまま、心を落ち着かせるような優しい声を向ける。
「話は聞いてあげる。だから、私の家に戻りましょ」
「──うん、ごめんなさい……」
「良いのよ。誰にでも一つや二つ、トラウマ位あるものよ」
アリスの家に戻った二人は、リビングの同じソファに寄り添って座っていた。テーブルの上にはありすが図書館で借りた本と、紅茶の入ったティーカップ、クッキーの乗ったバンブーバスケットが置かれており、二人の向かいにあるソファには上海と蓬莱が座っている。
そして、ありすは過去の事をアリスに話していた。
数年前、巫女を始めとした数名が魔界に侵入し、彼方此方荒らし、多くの者に被害をもたらしたというのだ。ありすはそれを止めようと戦いを挑んだものの、返り討ちに遭ってボロボロにされたという。その事件があってから、通常の手段では出入り出来ないように、魔界の入り口には頑強な封印が施されているという事だった。
魔界に関して興味深かったアリスは、幻想郷と魔界が直接繋がっていたという事実にも驚いていた。そして、霊夢とまともに話さず戻った事を少なからず後悔していた。
「酷い目に遭ったのね。巫女、かぁ……」
態々幻想郷から魔界にそういった人物が流れたと言う事は、少なからず魔界側にも原因があったのだろう、とまでは流石に言わない。
概要を話し終えたありすは、自分の震える肩を抱いていた。
「そうよ、間違いなくあの時の巫女だわ。気付かれたら、きっとまた、同じ目に遭わされるのよ」
そんな人物がアリスと仲良さそうに話しているのもありすにとっては衝撃的だったが、幻想郷の詳しい事は判らないし、それをアリスに言及する気もない。ただ、あの女がアリスと仲良さそうに話している事が、とても悔しかった。
一方、幾度となく霊夢と決闘をしてきたアリスは、当然の如く酷い目に遭う事もあった。しかし、それをどう伝えれば良いかが今ひとつ判らない。怖い奴、だけで片付けられてしまうのは気が引ける。
霊夢は立ち塞がる妖怪を容赦なく倒していくし、状況によっては、ありすに対して牙を剥く事もあるかもしれない。ただ、近寄らなければ基本的に無害なのも事実だ。
「悪い事しなければ、特に何かされる事は無いと思うわ」
「でも」
「大丈夫よ。もし、ありすが悪くないのに巫女が襲ってくるようなら、私が守ってあげるから」
不安をかき消すための言葉ではなく、それはアリスの本心だった。同じ名前という事もあるのだが、他人事だと思えず、ありすの事が心配で放っておけないのだ。
何だか不安が全て取り除かれて嬉しい気分になったありすは、アリスにぎゅっと抱きついた。アリスも漸く安堵の息を吐いて、その小さな肩に手を回してぽんぽんと軽く叩く。
それに応えるかのように、ありすは呟いた。
「お姉さん、暖かい。まるで、お母さんみたい」
その一言は、アリスの想いを強くするには充分過ぎる程だった。
夕食も終え、他愛も無い会話をして気付けば夜二十一時を回ろうかという頃、それはやってきた。
空間が急に裂け、金髪の女性が顔を覗かせた。
「霊夢から聞いたわよ。私に用があるそうじゃないの」
この世の存在ではないような、妖艶な紫色の視線がアリスに向けられている。アリスはありすの事を指差して答えた。
「ええ、大事な用よ。用があるのはこの子もだけど」
彼女は裂けた境界から完全に出て、アリスとありすが座る向かい側のソファに座った。
ありすの事を見るが、今の状況が珍しくないかのように、これといって表情に変化を見せない。
「初めて見る顔ね」
「初めまして、私はありすです」
「ありす……? 私は紫よ。ゆかりんと呼んでね」
察した紫は名前に付いては言及せず、自分のアピールも忘れない。
自己紹介にいきなりあだ名を混ぜられて、ありすは僅かに困惑した。
「ゆかりん?」
「ちょっと、あんた何言わせてんのよ」
アリスが突っ込むと紫は「少しぐらい良いじゃない」と、苦笑いした。
上海が差し出した紅茶を受け取った紫は、一口飲むと満足気な表情を見せた。
「美味しいわね。さ、話してごらんなさい」
ありすは事のあらましを紫に話していった。
「──境界に関しては、随分昔に私が書いた物だわ。ずっと見当たらないと思ったら魔界にあるなんて。それにしても境界を弄れたとは驚きねぇ、使いこなせる者なんて永久に現れないと思っていたわ」
紫は本当に驚いていたのか、その妖艶な目を少し見開いていた。紅茶を一口飲み、落ち着かせるかのように小さく深呼吸して、改めて前に向き直す。
アリスは少し前屈みになって、紫に頼んだ。
「実際こっちに来れちゃった訳だし、この子を魔界に返してあげて欲しいのよ」
その言葉を聞いたありすが寂しそうな表情を浮かべたが、誰も、ありす本人すら気付かなかった。
紫が手の甲を見せるように扇子を持ち、ひらひらとさせて質問を投げかける。
「返すのは兎も角として、仮にも魔界人でしょう? ましてや不完全とはいえ境界を弄る手法を扱えてしまう程の魔法の天才。万が一、こっちに復讐しに来る可能性だってあるでしょう。その時、誰が責任を取るのかしら?」
紫が心配しているのは、幻想郷的にどうか、だった。
幻想郷ではルールが定められている為、致命的な異変が起こる様な事はほぼ無いのだが、魔界にそんな常識は通用する訳がない。
ありすが幻想郷に致命的な打撃を与えるような異変を起こした時、どうすべきかアリスは少考して、真剣な表情で答えた。
「責任は、私が取るわよ。止めて見せるわ」
「殺す必要があれば、殺せるのね?」
飛躍したその難問に、アリスは言い返せず黙ってしまった。しかし、紫の言及は止まらない。
「ほら、無理じゃないの? なら、早い内に芽を摘んだほうが良くてよ」
「この子は芯の強い良い子よ。復讐なんてする筈も無いわ」
「貴女は判っているようで判っていない。今良くても幼い頃の遺恨は微々たるきっかけで吹き返す。言ったでしょう? 万が一と」
ありすの事を嘲笑うかのような意見の羅列に、本人は辛抱溜まらず肩を震わせ、大きな声を叩き付ける。
「さっきから聞いてれば言いたい放題ね。私これでも悪戯なんてしたことないんだから!」
「こういう良い子ぶった台詞程、信じられないものは無いわ」
紫はあっさりと突っぱねたが、
「あんたが言うか」
違和感を覚えたアリスが突っ込みを入れた。
しかし、紫は冷静さを欠かずに、さも当然かのように毅然としている。
「あら、私は現役で良い子だもの」
「人ン家の棚からお菓子やら洋酒やら勝手に持ってったり、隙間から足掴んで転ばせるような人が良く言うわ」
「な、何の事かしら?」
身に覚えのある指摘に動揺したのか、紫は額に冷や汗を浮かべつつもとぼけてみせた。
もう少し攻めれば、そう判断したアリスは更に追及する。
「結界かけた棚から物を盗める奴なんて、あんた以外誰がいるのよ。程度の低い魔法じゃ解けないし」
「あら、結界ならもう一人」
「この前なんか、紫に饅頭盗られたって、霊夢が私に八つ当たりしてきたし」
「えっ」
「家具を外の世界から無断で色々持って来たとか、藍から聞いてるし」
「き、気のせいよ。ホホホ……やぁねぇ」
事実を幾つも追求された紫はしどろもどろになったものの、笑って誤魔化し、強引に話を戻そうとする。
「ま、まぁ兎に角。その本、回収するわ。それにしても、その子随分貴女になついてるみたいじゃないの。貴女に会いたくなって境界弄っちゃったりするかもしれないわ。もう一度訊くけれど、間違いが起こった時、どうするの?」
「何が起こっても、私が責任取るわって言ったでしょ」
「殺せないんでしょう? どうやって?」
改めて、アリスは考えた。ありすが異変を起こすような状況など到底考えられないが、万が一そういった大事件を起こした場合。そして、普通の妖怪や霊夢ですら手に負えない状況になった時、自分は何が出来る? 守りたい存在を本気で守る為に、どこまで出来るだろう?
簡単だった。魔法使いとして、出来る事は全うする、それがアリスの答えだった。
「この子が何を起こしても、私一人で止めて、解決してみせる。もし必要なら、禁術にだって手を染めてやるわ」
「こんな子供一人の為に、禁術に手を染めるなんて言っちゃうのね。感化され過ぎよ」
「体を張ってでも、この子を守りたいのよ」
とんでもない話を展開している二人に、ありすは何を言えば良いか判らなくなっていた。
「お姉さん……」
漸く言えたのが、その一言だけだった。
ただ、庇ってくれる事は物凄く嬉しくて、涙が溢れそうだった。
全く関係が無いのに餓えた自分を保護してくれた、何でも話を聞いてくれた、帰る手段を探す事にも協力をしてくれた。
親しくなって日も浅い魔法使いがここまで言うなんて、誰が想像するだろう。
人が良い──確かに、その一言だけで片付けられてしまうかもしれない。でも、それだけで片付けるのは絶対に嫌だった。彼女は母親のような暖かさを、何度も惜しみなく向けてくれたのだから。
しかし、ありすの想いを知る由もない紫は、やはり言及を続ける。
「何か起こせば、貴女達二人とも霊夢に始末されるわよ? 覚悟は出来ているのよね?」
大丈夫と主張するアリスと、有り得ないと主張する紫の間に、険悪な雰囲気が漂う。
ありすはそれに怯えながらも、自分が何を言えば良いか、どうすべきか考えていた。
アリスが、過去の自分のようにあの巫女に襲われる。
若しくは、この紫が言うように、殺される。
自分のせいで殺される。
──そんな事、絶対に嫌だ。
答えなんて、簡単だった。
自分が自制すれば、問題なんて起きようも無いのだから。
「お姉さんが酷い目に遭うような事しないわ! 私は復讐なんて絶対にしない!」
ありすが大声で抗議してアリスの腕を強く抱いた。それに驚いたアリスは、その手を空いた手で握り返す。
しかし、紫は止まらない。
「子供の言う事なんてそう簡単に信じられないわよ? 明日になったら今日の事は忘れるような生物なんだから」
「そんなこと無いわ! あんたにこの子の何が判るのよ!」
アリスも流石に我慢の限界なのか、感情的になって大声で抗う。
紫は少し眉を顰めながら首を横に振って、「ふぅ」と溜息を付いた。
「そんな大声出さなくても良いじゃない。それで、魔界に送り返すにしても、条件があるわ」
「どんな条件よ」
「貴女にとっては重い条件よ」
「だから、何よ」
紫は直ぐに条件を提示せず、アリスの瞳の奥を見るかのように、鋭い視線を向けた。
アリスも、それに鋭い視線を返す。
お互い一歩も引かない、紫色と青色の視線が牽制し合う。
今にも殴り合いそうな禍々しく膨れ上がった妖気の渦。
恐怖の余り、ありすは言葉を失っていた。
数分して、紫がその緊張感に鋭い言葉を刺しこんだ。
「それ、貰って良いかしら?」
アリスを射抜くかのような鋭い視線、気を許さない深い声色で、テーブル上のクッキーを指差した。
急に会話がズレてアリスは面食らったが、自分でも驚く程冷静に言葉を返す。
「あら、食べれば良いじゃない。美味しいわよ?」
「ええ、頂くわ。──本当、貴女のクッキーは美味しいわね。一家に一台魔法使いアリスがあったらどれだけ便利かしら」
サクっと音をさせ、甘い声で訳の判らない事を言いながらクッキーの味に陶酔する紫。
なんだか気の抜けてしまったアリスが次の言葉を待っていると、紫は満足した表情でアリスとありすを一瞥した。
「ま、見てる限りは貴女の傍に居る限り、大丈夫そうかしら?」
「さっきから大丈夫だって言ってるでしょ。条件って何よ?」
アリスはまだ抗う気なのだが、紫は今までの空気を振り払うかのように明るく振舞う。
「あら、クッキー貰えたからもう良いわよ? その子の意思を確認する為に煽っただけ。霊夢にすら手が付けられない様な問題を起こされたら、どうせ私がその存在自体を狭間に封じ込める。貴女が身を挺してまで苦労する必要なんて無いのよ。安心なさい」
ったくコイツは、と思ったアリスは、心の中で舌打ちをした。一本食わされて、殴り倒したい気分で堪らなかった。
勝ち誇ったかのような嘲笑を浮かべた紫は、掌を軽くかざしてみせる。
「それじゃ、開くわよ」
唐突に境界を開くと、すぐに立ち上がってその中に入り、ありすを急かした。
「ほらほら、早く来なさいな」
「えっ、ま、まだ心の準備が」
唐突に言われても、ありすは心の準備が全く出来なかった。確かに、魔界に帰りたいのだが、アリスに甘えたいという想いが天秤にかかっているのだ。
しかし、紫は淡々と事実を告げる。
「別れの挨拶しておきなさい。今後こっちに来られるかどうかは向こうが決める事だし、貴女達が再び出会えるかどうかは保障出来ない」
そう、ありすの母が幻想郷に再び行く事を許すかどうかは、まったく別の話なのだ。
今も心配をして、食事も喉を通らないような状況に陥っている可能性だってある。今後一切の外出禁止とも言いかねない。滞在が伸びれば、ありすを何日も縛り付けた幻想郷を許さないと言い出すかもしれない。
ありすは覚悟を決めて一度深呼吸をした後、声を搾り出すかのように呼んだ。
「お姉、さん」
「うん?」
アリスはいつも通りの澄んだ青色の瞳で、ありすを見つめて言葉を待っている。
嬉しさと寂しさで涙を流し始めたありすは、アリスに強く抱きついて、力強く伝えた。
「本当に、ありがとう! とても楽しかった!」
「私も、妹が出来たみたいで、楽しかったわ」
「また、会いたい!」
アリスも、応えるように強くありすを抱き返して、微笑を見せた。最初の冷たい笑顔ではなく、暖かい笑顔で。
「ええ、待ってるわ。良い子にしてるのよ?」
「うん、うんっ!」
紫が、再び急かす。
「さあ、行くわよ。そろそろ離れなさい」
「お別れの、挨拶」
ありすは半ば強引にアリスに口付けした。そして、渋々と手を離して境界の裂け目に入っていく。
アリスは手を軽く振って、それを見送った。
「いつでも来てね。待ってるわ」
ありすが振り向こうとした瞬間、境界は閉じた。
数日が酷く一瞬に思えたアリスは、暫くぼうっとしてしまっていた。
気を取り直してテーブルの上を片付けようと思い、そこにあるバンブーバスケットと魔道書に手をかけた時、気付いた。
ありすが図書館から借りてきた本。一体、何を借りたのだろう?
手にしたバンブーバスケットを放し、魔道書を手に取る。
表紙に刻印されている金箔文字が殆ど剥がれ落ちてしまっており、読めない。
開いて冒頭を読んでみると、それは物質を動かす手法が記載されている魔道書だった。
自分が通った道の一部が、その本に記載されているのだ。
色々な嬉しさと悲しさと後悔が込み上げてきたアリスは、その本を閉じてテーブルに置き、脱衣所に向かおうと席を立った。
途中、玄関に残されたありすの靴が廊下から見えて、その想いは余計に強くなってしまった。
◆
あの時とは若干違うが、あまりにも速過ぎて視認出来ない、ノイズがかったグロテスクな映像が辺りを流れて行く。
あの時と同じように。
でも、今は怖くは無い。
何が起こっているか判るから。
五秒もせずに、辺りの景色が安定して、境界が開かれた。
そこは、見慣れた部屋だった。
少し豪勢な机に、両肘を付いて何かを祈っているような、不安そうに座っている女性が視界に映る。彼女こそが、魔界神であり、ありすの母親、神綺だった。
「お母さん!」
ありすが第一声を向けると、神綺は大層驚いたのか、今の状況が信じられないと言いたげに目を見開いて、何度も瞬きした。恐る恐る、その名前を呼ぶ。
「あ……ありす、ちゃん?」
「私だよ! ありすだよ!」
「ありすちゃん! どこいってたのよ!?」
座っていた椅子を蹴り倒す程に勢い良く飛び出した神綺は、境界の裂け目から出たありすを思い切り抱き締めた。答えるかのように、ありすも泣きながら強く抱き返して、神綺の唇に思い切り口付けした。
その様子を見ていた紫は、面倒そうに境界の裂け目から身体を出して、抱き合う二人に気も遣わず用件を伝える。
「その子、こっちの妖怪と仲良くなったみたいでね。また来たいって言うのよ」
神綺はそれに然程驚きもせず、喜びの声を上げた。
「あら、そうなの? ありすちゃん、お友達出来たのね!」
「うん、同じ名前の、魔法使いよ」
ありすがどうして幻想郷に行ってしまったのか、同じ名前の魔法使いが誰か、という事には興味を示さない神綺は、すぐに考え始めた。
数年前の戦争は魔界人にとって大きな打撃となっており、その時から魔界と幻想郷を繋ぐ洞窟には、ちょっとやそっとでは通れないような仕掛けが施されている。勿論、そこを開放する気は到底起こらない。だが、我が子の望みは叶えてあげたいという思いも捨て切れず交錯させていた。
「うーん、会わせてあげたいけれどねぇ……魔界の出口を開放したら、またあの連中が荒らしに来るんじゃないの?」
一方、紫は戦意が無い事を示すだけだった。
「魔界と戦争したところで得る物も無いわね」
「私は今でもあいつらが憎々しいけど、ずっと我慢してるのよ? 皆が傷つけられたら今度こそ許さないわ」
神綺が憎しみを込めて言うが、紫はただ、判断を委ねるだけだ。
「どうするかは貴女が決めてくださいな。魔界神の行動を、私がどうして決められるかしら」
丸投げされ、神綺は再び考えた。魔界神の威厳の欠片も無い、喜怒哀楽の表情をころころと変えて見せる。
一分もせずに、頭の中で整理がついたのか、「それじゃあ~」と気合の入らない前置きをして、満面の笑顔をありすに向ける。
「洞窟は封印したままにしておいて、そのお友達の家と魔界をこっそり繋いじゃいましょう。余計なのが行き来出来ないように、ありすちゃんだけが使える特別なゲートを作るわ! この私にかかればゲートなんて直ぐ出来るから、出来たら呼ぶからね! 今日にでも挨拶出来ちゃうわよ! 私って凄い! これなら完璧よね!」
自己陶酔丸出しで自分の事かのようにはしゃぎながら言うと、ありすも心底喜んだ。また、アリスと会えるんだ。そう思うと嬉しくて、涙を流さずにはいられなかった。
「やったぁ! お母さん、ありがとう!」
しかし、二人の喜びを遮るかのように、紫は容赦なく訊く。
「あぁそうそう。ありす、例の本は何処かしら?」
◆
「ここよ」
「あら、洒落た書斎だこと。暇潰しに漁ってみるのも悪く無さそうね。通っても良いかしら? 良いわよね」
書斎に案内された紫は、少し愉しげな表情を見せた。
ありすはそれを気に留めず、例の本を探して奥の方に入っていく。
「えっと、確か向こう側に……あった!」
この数日間誰もこの書斎を利用していないのか、ありすが普段持ち歩いている魔道書と「境界制御の法」の魔道書は、床上に落ちているままだった。駆け寄って、それをそっと拾い上げる。
紫も後を追従し、ありすの後ろから覗き込む。
「確かに私が書いた本ねぇ。どうしてここにあるのかしら」
ありすからその魔道書を差し出され、受け取った紫はパラパラとページを捲ってみた。そして、大して読まずにパタンとそれを閉じた。
「ま、これは私が預かるわ。それにしても、飛んだ座標が幻想郷だったのは不幸中の幸いね。この魔法は万物の座標を算出出来ないと満足に扱えない。素人が使おうものなら、運が悪ければ海の底か、大地の中か、宇宙の彼方か……生きていて良かったわね」
ぺらぺらと綴られる言葉を聞きながら、ありすは自分に言い聞かせていた。
習得出来ないまま終わってしまう事は残念だが、命があるだけでもありがたい、と。
何よりも、アリスと会えて本当に良かった、と。
「ありす。約束、守れないわよね?」
「守れるよ」
最早何度目か判らない紫の同じ質問に、ありすは即答した。
アリスに迷惑をかけない為にも、幻想郷で問題を起こさない事は絶対に守ると約束した。
しかし、紫は相変わらず信用してくれない。
「守れる、って言ってもね、守れないものよ」
「そんな事、無いわ」
「あの巫女を見てどう思った? 怖くて堪らなかったのでしょう? 復讐したくて疼くでしょう?」
「…………守れるもん」
執拗に訊く紫に対して、ありすは苛立ちを覚えていた。
しかし、拗ねたように見えるありすを見た紫は、僅かに嘲笑してみせる。
「でも、守れないのよ。何故なら、私が合法的に破らせちゃうから」
無茶苦茶な事を言う紫はどこからともなくカードをニ枚取り出して、得意気に見せ付けた。
一枚目は、電車の絵が描かれた金属製のカードだった。端に、『ぶらり廃駅下車の旅』と記載されている。二枚目は、幾重にも紫と青の美しい螺旋が書かれた金属製のカード。端には『深弾幕結界 夢幻泡影』と記載されている。
「こういう物があるのよ~。幻想郷の決闘ルールを手取り足取り教えてあげる」
良く判らなかったありすは、訊き返した。
「決闘ルール?」
「そう、それさえ守れば何をしても良いの。私が許可するから、あの自堕落な巫女にお灸を据えてやって頂戴」
紫は、期待とも嘲笑とも取れない、非常に胡散臭い微笑を浮かべていた。
◆
真夜中、もう日も変わりそうな時刻。
アリスは既に風呂も済ませ、パジャマ姿でベッドの上に座りながら、ありすが借りてきた魔道書を読んでいた。過去に何度も何度も挑戦して失敗してを繰り返した事が延々と羅列されているその魔道書は、辛くも楽しかった昔の思い出を色々と呼び起こしていた。
「ホラーイ?」
「大丈夫よ」
どうやら蓬莱がアリスの感情を読み取ったのか、心配げに声をかけてきた。人形の思考回路は全て自分で作った物ではあるが、こういった気遣いをされると嬉しくなる。
僅か三日足らずの日々だったが、ありすが居た時は妙に充実していて、楽しかった。
もしあんな妹が居たら、退屈せずに済んだだろうか。
切磋琢磨を互いに喜べただろうか。
然程眠くは無いのだが、目を少し擦り、明日どうしようかな、そんな事を考えつつ魔道書を閉じて身体をベッドに投じた。
その時──
「お姉さん!」
留め金が外れるような無機的な音と甲高い声が聞こえ、激しく狼狽えたアリスは飛び起きて後ずさりし、大きく目を見開いた。薄暗い中、何が起こったのか必死に視認しようとする。
「えっ? えっ? あ……え、ありす? ありすなの?」
「うん、ありすだよ!」
パジャマ姿で頭にタオルを巻いているありすが、洋箪笥の扉を開いて現れたのだ。
洋箪笥の中がどうなっているのかも判らない不安と、何故そこからありすが出てきたのかも判らない不安がアリスを混乱させた。
ありすはそれを気に留めず、嬉しそうな表情で洋箪笥から下りた。
「──で、お母さんが私の洋箪笥と、お姉さんの洋箪笥を繋いでくれたの」
ベッドに腰掛けた二人は、寄り添うように並んでいた。
既に落ち着きを取り戻しているアリスは、信じられないといった表情で訊き返す。
「洋箪笥に、魔界への、通り道?」
「大丈夫、この通り道は私にしか使えないの。だから、他の魔界人がここから出てくる事もないの」
「随分都合の良い通り道なのね。それは良いとして……何でよりにもよって洋箪笥に開けちゃうのよ」
幾らでも他に開けられる場所があるだろうと、アリスは片手で頭を抱えた。
しかし、ありすは意気揚々としている。
「スペルカードルールって言うのも、ゆかりんから教わった! 私頑張るから、お姉さん見ててね! あの巫女をぶっとばすんだから!」
あれだけ力強く約束をしたにも拘らず、紫に色々と吹き込まれたありすは復讐に燃えていた。
一方、アリスは洋箪笥に魔界の門を勝手に開けられた事と、復讐を唆した紫に対して呆れながらも、ありすと再開出来た事を素直に喜んでいた。
そして、何をしてあげたいのかも、既に決まっている。
「ねえ、ありす」
呼びながら、先程まで読んでいた魔道書を持って見せた。
「物を動かす事に、興味を持ったのよね?」
それを見たありすは思い出したのか、少し自信なさげに頷いて、
「あ。うん、えっとね。人形、凄いなあって思ったから、私もやりたいの。あんなに、器用に出来るかは、判らないけど……」
一言一言選ぶかのように、おずおずと答えるありすを見て、アリスはつい微笑を零した。
そう、ありすは不思議で可愛らしい人形達の世界を作る事に憧れているのだ。勿論、この域に到達するのは並大抵の苦労ではない。
「私で良ければ、教えるわよ。本よりも分かり易くね」
教えてくれるとは予想もしていなかったありすは、期待に溢れた声と目をアリスに向けた。
「本当に!?」
「ただ、物凄く練習が要るわ。そうね……少なくとも十年以上。覚悟は出来る?」
「何年かかっても良いわ、私頑張る!」
ありすは大喜びしてアリスをベッドに押し倒し、まるで子犬かのように戯れた。
アリスも満面の笑顔で、それを受け入れた。
アリスは素性や過去のはっきりしないミステリアスキャラですが、それだけに色々な料理が出来ていいですね。
この料理はとても美味でした。あと紫の粋さに惚れました。
始めは「過去のアリスが現在のアリスと遭遇」でループとかかと思いましたが、別人だったんですね
面白かったです
全くの別人というのは始めてでしたが、全然違和感ないね!
アリスとしんき様で対面してみてほしいw
きっと近い将来、紅白をボコってくれると期待してます。
あと、誤字らしきものがあったので報告
× 蝙蝠の翼を持つ物は
○ 蝙蝠の翼を持つ者は
× 止めようと戦いを挑んだ物の
○ 止めようと戦いを挑んだものの
ご指摘ありがとうございます
修正しました
なかなか真に迫っていました。
その後の展開もテンポよく進み、すらすら読めました。
あえて、気になる点を上げるとすれば
人物の視点がありすからアリスに切り替わるところが
ちょっと唐突だったかなと。
でも、ありすのいじらしい可愛さ、アリスの母性あふれる優しさ、
紫の胡散くさいカリスマ、みんなキャラがとてもよかったです。
ですね、視点がちょっとあちこち飛びすぎてしまいました
完全な第三者にするか主人公視点だけで続けるかどうにも迷います
今後の課題にします
こんなのもいいなと素直に感じました。
登場人物がみんな生き生きとしていて、面白かったです。
それと、あと……
>「頬で良いかしら?」
>「ううん、唇」
ちょw神綺さまw
旧作と現作を交えた、ミステリアスな作品でした。
この二人の絡みをいつまでも見てみたいです。