紅霧異変後のお話です。
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冬――空気は肌を刺すように凍てつき、空を覆う鉛色の厚い雲が気分をふさぎ込ませる。
幻想郷の冬は厳しい。
ここ紅魔館とて例外ではなく、しみこむ寒さはいやでも住人を震えさせる。
「寒い」
一言こぼれ落ちる。
目の前には湯気の立ち昇る一杯の温かい紅茶。
たった今咲夜が用意したそれは芳醇な香りを立たせ、傍に添えられている小さなクッキーとよく合いそうだ。
寒さに凍えた身体にありがたい。
しかし、小さな椅子に腰掛ける悪魔の妹、フランドール・スカーレットは紅茶を見つめるだけで手をつけられずにいた。
テーブルの向かいに彼女の座っているものと同じ小さな椅子があるが、そこには誰もいない。
地下にある彼女の部屋は冷え込む。
もとは貯蔵庫だったために暖房設備などあるはずもなく、冬本番になれば数分で凍えてしまう。
それでも生命に関わる問題なく使い続けることが出来るのは、彼女が人間とは性質を異にする吸血鬼だからである。
ただいくら死活問題にならないとはいえ寒いものは寒い。
部屋の中だというのに吐く息は白いし、風こそ吹かないものの肌に感じる寒さは外と大差ないのではないか。
別に死なないんだから我慢なさい、と言った姉の言葉が頭に浮かぶ。
「……何やってるのよ」
なんともひどい仕打ちだが、このかわいそうな吸血鬼はまさにその姉を待っているのだ。
今すぐにでも手をつけてしまいたい、眼前の紅茶を飲まずに。
彼女は咲夜の用意する紅茶がお気に入りだ。
むしろ、好き嫌いがゆえに他に食べられるものが極端に少ないだけなのだが。
いずれにせよ普段なら紅茶を出されればすぐに自然と手が伸びてしまうほどだ。
やけどをしないようにゆっくりと口元へ運ぶと、ふわりと芳しい香りが鼻腔を満たすのを頭で思い描く。
併せて供されるクッキー、スコーンやマドレーヌなどの咲夜謹製洋菓子とともに過ごす時間は彼女にとって至福のひと時なのだ。
自然と口から文句も出る。
いつもお茶をする地上とは違い極寒の空間で待ち続ける彼女は、なんと健気で不憫なのだろうか。
そんな姿から、恐ろしいほどに強大な力を持つ吸血鬼の雰囲気はとても窺えない。
あらゆるものの目を捕えて破壊する力はフランドール本人でさえも頭を悩ませるほど強力だ。
あまりに簡単にその能力を使えてしまい、加減を知らないために取り返しのつかない事態になることもしばしばある。
気づけば気がふれているだの情緒不安定だの噂されてしまっている始末。
そんなことはない、ちょっとだけ気が変わりやすいだけと信じてやまない彼女も、とにかく今は、紅茶の魅力にもてあそばれながら、寒さのために腕を組み肩をすくめて時間を持て余す一人の少女なのである。
人を待つというのは、こんなにも時の流れを遅く感じるものなのか。
待たせることはあっても自分が待つことなどおそらくこれが初めてであるフランドール。
たとえ過去に待たされたことがあったとしても、結局覚えていないくらいのものだったのだろう。
足をぷらぷら、首をきょろきょろ。
そわそわして落ち着かない様子を隠しきれない。
特に何か新しいものがあるわけでもないのに部屋を見回してしまう。
――姉は何をのんきに人を待たせているのだろう。
「先に飲んじゃおうかな……はぁ」
そんな言葉とともに出た白い吐息は空間に霧消し、空しさだけが残る。
しかし、これだけの状況にありながら、まだ彼女は紅茶に手を出せないのだ。
やりたいことをやらないと気が済まない彼女を、これほどにまで思い留まらせるのには理由があった。
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「お姉さま、寒くなってきたわね」
「そうね」
紅魔館のパーラーで紅茶を嗜むレミリアは、後ろに咲夜を従えてそっけなく応えた。
突然の闖入者は、いかにも興味なさげにされた返答にむっとしたようだった。
改めて腰に手を当て仁王立ちし、レミリアを見下ろした。
「私の部屋も寒いの、知ってるでしょ? どうにかして」
「……それが他人にものを頼む態度かしら?」
レミリアは尊大な態度の妹に一瞥を与えると再び紅茶に口をつける。
「お外の紅葉だって散っちゃったし、もう風だって冷たいんだよ。いくら鈍感なお姉さまの妹でも、寒さくらい感じるわ」
「あなたねえ、姉のことを鈍感なんて言う妹にしてやることは何もないわよ」
カップをソーサーに置く音が静かに響く。
あんまりと言えばあんまりな言葉に、悪魔の妹は金色の髪を揺らしテーブルに手を立てて前のめりになる。
「何よケチ。お姉さまの部屋は暖かいからいいけど、私の部屋とっても寒いのよ!」
「……静かになさい。あなたはもっとお淑やかに振る舞うべきだわ」
「関係ないじゃない。お淑やかとか知らないし。私は部屋が寒いと言ってるの!」
眉間にしわを寄せてフランドールを見やるレミリア。
フランドールも負けじと睨みかえす。
しばらく重い雰囲気のまま膠着。
やがて呆れたような表情で困り顔をし、折れたのはレミリアの方だった。
「……とにかく座りなさい。咲夜、紅茶」
はい、と必要最小限の返事をし姿を消す咲夜。
フランドールが黙って椅子に掛け姉と正対した瞬間、テーブルに湯気の立つ紅茶のセットが二つ並べ置かれていた。
レミリアの紅茶も新しく淹れなおされたようだった。
辺りを心地よい香りが包む。
フランドールはすぐに角砂糖を三つ紅茶に入れ、ティースプーンでやや乱暴にぐるぐるとかき混ぜた。
言葉のないカチャカチャという音が次第に場の緊張を和らげていく。
十分に溶けきった砂糖を確認し、カップを手に取る。
フーフーと水面を波立たせ、ズズッとすする。
レミリアはストレートのまま、カップを顔へ持っていき少し香りを楽しんだふうで、一口熱い液体を口へ運ぶとソーサーへ置き直した。
しばらくフランドールの様子を眺めた後で軽く息をつき、話し始める。
「部屋が寒いってまたなんで今さら。今に始まったことじゃないだろうに」
よくぞ聞いてくれたというふうにフランドールの顔はぱっと明るくなり、カップを置き朗々と応える。
「私気づいたの、私の部屋は寒すぎよ。それにご本で読んだわ。部屋の中は暖かいものだって書いてあったもの。暖炉があって、薪を火にくべて温まるの! それにあんなところにいたら凍え死んじゃうよ」
「あなた吸血鬼でしょ、別に死にはしないんだから我慢なさい」
随分と温度差のある反応に、肩透かしを食らった感。
理解を示さない姉に不満足の表情を見せる。
「もう、お姉さまの分からず屋! ……咲夜だって私の部屋が寒いのは知ってるでしょ? お姉さまに何か言ってやって!」
突然発言を求められた咲夜は、レミリアが特に遮らないことを確認すると、話を振った。
「……真冬になると妹様のお部屋は確かに凍えるほどです、お嬢様。寒さが厳しくなる前に何か対策をしてさし上げてもよろしいのでは」
再びカップを手に取りわずかに紅茶を口に含むと、しばらく目を閉じる。
やがて左手をこめかみに当て、顎を引いてゆっくりと口を開いた。
「無礼でわがままな子のお願いを聞くほど私は優しくないわ。特に生死にに関わることでもないのに、甘えたことをぬけぬけと言うものじゃない。寒さで死ぬだとか、ずいぶん弱々しくなったものね。情けない。それに」
滔々とした非難が始まる。
レミリアが瞼を上げるとフランドールと目が合った。
少し驚き、次第に悔しさと悲しさが混ざったような顔をしていくが躊躇しない。
「寒いのはあなただけじゃないの、フラン。美鈴なんて一日中外で突っ立っているのよ。夜になれば詰所に入れるけど、そこにも暖炉なんかないわ。それにあなた、暖炉を組めと言うのなら、材料に何がいるだとか、そもそも暖炉の組み方だって知っているのよね?」
トーンの暗い声で答える。
意気揚々と登場したときの勢いはすっかり失速していた。
「それは……まだ分からないけど」
間髪入れずに畳み掛けるレミリア。
「何よ、それ。自分が欲しいからって思いつきもいいところね。少し自由になれたからって調子づくのも大概にしたら? 他人の迷惑もちょっとは顧みなさい。話にならないわ」
「そこまで言わなくてもいいでしょ!」
散々な言われように我慢できず言い返すが、レミリアは少しも気にしていない様子だった。
これは、レミリアの癖だ。
悪い癖と言ってもいい。
機嫌の悪いときは誰に対してでも攻撃的な態度をとるのだ。
それがたとえ妹であったとしても。
まして優雅なティータイムを中断せしめた元凶がそれであるなら、攻撃の手を緩める理由はない。
非難の矛先は咲夜へも向く。
「――仮にフランの部屋に暖炉を置くとしても、煙はどこへ逃がすというのよ。地下に煙が充満するのもイヤだけど、燻製みたいな妹なんて勘弁してほしいわね。だいたい咲夜、あなたの仕事が増えることにもなりかねないのよ。そういう負担をかけてまですることじゃないわ。不用意な発言はやめて頂戴」
レミリアに向き直り丁寧に頭を垂れる咲夜。
咲夜はレミリアのこの悪い癖のことはよく心得ていた。
――ちなみに、美鈴はたまに勘違いをして大目玉を頂戴する。
レミリアの後ろに立つ咲夜からは彼女の表情こそ見えないものの、対面するフランドールの様子はよく見えた。
下唇を噛み、少し俯き加減で湯気の立たなくなった自身の紅茶を見つめている。
白く長い八重歯が見て取れる。
歪な羽はしな垂れて深紅の絨毯に付きそうなほどだった。
険悪な雰囲気をやんわりと打開するべく、しかし出過ぎた発言をしないようにと思案した。
「申し訳ありません、お嬢様。しかし、妹様のお部屋はあまりに寒く、人間の私では妹様のお世話に差し支えることもまたあります。私なりに妹様のお部屋の寒さを和らげて差し上げることはお許しいただけるでしょうか」
責めることのできないほど丁寧に提案されると、レミリアは面食らって、それまでの饒舌ぶりが嘘のように全く動かなくなる。
気だるそうに首をかしげながらも耳を傾ける。
「……どうやって?」
「ありがとうございます。妹様のお世話で骨の折れるのは――」
咲夜は安堵したようだった。
レミリアの難詰が尻すぼみになることで緊張は弛緩してゆく。
しばらく地下の部屋のことで談義が続いていた。
しかし冷たくあしらわれたフランドールには、咲夜がレミリアに説明やら弁明やらをしている言葉はもはや聞こえていなかった。
ここまで非難されるとは思ってもみなかった。
確かに思いつきだったかもしれないし、暖炉がどうできるかもいまいち知らなかったが、理不尽なまでの罵倒に納得がいかない。
姉ほどではないが、彼女にだってプライドはある。
姉から浴びせられた言葉の数々を反芻するうちに、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
「もういい」
テーブルの上の拳が強く握られていた。
二人が会話を止めて彼女の方へ顔を向ける。
「そんなふうに言わなくたっていいじゃない! ひどい、ひどいわ」
わなわなと震える肩を誤魔化すように、半泣きになって席を立ち、レミリアを見下ろして敵意の眼差しを投げる。
顔は興奮して耳まで紅潮し、口調も速い。
咲夜の同情するような憐れむ表情、そして何より、嫌でも視界に入ってしまうレミリアの面倒くさそうに見やるしぐさが心を締め付ける。
これ以上ここにいたくない、そう思ってしまっていた。
「凍えて死んでやる、お姉さまなんか大嫌い!」
いかにも安っぽい捨て台詞を吐いてその場を立ち去ろうと扉へ向かう。
軽い気持ちで部屋に入ったことを悔いた。
「待ちなさい」
無視して歩みを進め、やるせない気持ちで扉に手をかける。
「条件があるわ」
このまま勢いで飛び出てしまえばよかったが、なぜかどきりとして動きが止まる。
取っ手を握る手が動かなかった。
急速に冷めていく熱。
「私の出した条件をクリアできたら、大改修でもなんでもしてあなたの部屋に暖炉を置いてあげる」
扉に向かったまま注意深く耳をそばだてていた。
「……どうせ出来そうにもないことでしょ。約束だって知らんぷりするかもしれないじゃない」
姉の表情は見えない。
「簡単なことよ。スカーレットの名に誓って約束するわ。私がそういうこと好きなの知ってるでしょ? それともこんな些細な衝突で投げ出す程度のお願いだったのかしら?」
このときフランドールは妙に冷静だった。
一度感情を表出させたからか、どういうわけか姉の提案を足蹴にすることは頭になかった。
姉の言う「簡単なこと」をすれば部屋に暖炉を置いてくれるかもしれない。
この魅力はフランドールにとって条件を聞くのに十分だった。
感情に任せて出て行き姉の面子を潰すことよりも、今は大人しく提案に耳を傾ける方がよいと判断できるくらいには冷静だったのである。
「……聞く気はあるのね。いいわ」
レミリアは座ったまま妹へ身体を向け、指をさし高らかに言った。
「私とお茶しなさい。……あなたの部屋でね」
「……え?」
意図が分からず振りかえると、なぜかにやにやと不敵な笑みを浮かべている姉と目があった。
心をきゅっと掴まれた感じがした。
「日にちは私が決める。で、私は後から行くわ。あなたは先に待ってるの。そして私が来るまでは一切ものを口にせず待ってなさい。淑女として当然よ。私が来てからは、普通にお茶をするだけでいい」
訝るフランドールをよそに、レミリアは続ける。
「どう? 簡単でしょう。決まりね。日時は後から咲夜に伝えさせるわ」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」
「ちょっともへちまもない、決まりよ」
姉の清々しいまでの傍若無人ぶりに諦観の念を覚えつつも、約束は交わされてしまった。
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三十分は待った、と思う。
この部屋には何しろ時計というものがないので正確な時間は分からない。
そんなものは最初からなかったし、あったところで用をなさないことは自分でも分かっていた。
昼夜も分からず気温もほとんど変わることのない場所で、何百年という単位の前では何十分何時間は無意味に等しいほど短い。
今さらそのくらいの時間なんて取るに足らないものだと虚しく達観していたフランドールだったが、一方ですでに紅茶は冷めてしまいいらいらし始めてもいた。
自分から時間を決めて置いてこれほどまで遅れるとは何事か。
「やっぱり嘘か……私をからかうため?お茶の時間を邪魔したのがそんなに気に入らなかったのかしら」
長年独りだと独り言もよく出る。
意識したことはないものの、かなりの頻度で言っているかもしれない。
気晴らしに椅子から立ち上がって訳もなく歩き回ってみたり、伸びをしてみたりする。
が、寒さが身にしみるだけ。
再び周りを見回してみる。
この部屋は見慣れたすぎた風景だ。
ベッドの配置や調度品の位置こそ変わりはするものの、この空間で過ごしてきたフランドールにとって、暖炉の設置が大きな変化になることは間違いない。
部屋のレイアウトが変化することもそうだが、この薄暗く凍てつく空間にやわらかい炎の光と暖かさがもたらされることでどんなに心地よくなるだろう。
思えば紅白の巫女やら普通の魔法使いやらのせいで、もといお陰で、数ヶ月前から紅魔館内だけではあるが自由の身となった。
動かない大図書館から借りた本に暖炉の記述があるたびに独りで想像を膨らませたものだった。
それが今では手に入るかもしれない。
そう思うと早く姉に会い、お茶会を済ませたいと思っていた。
しかし一方で彼女には会いたくないという心情もあった。
フランドールにとって最も近い存在は姉であるレミリアのはずであるが、幽閉というあまりにドラスティックで隔世的な措置の影響で、自らの本心を打ち明けることが怖くなってしまっていた。
フランドールのように孤独を極めた存在にとって、内心を暴露するのに心のよりどころとなるのは深い関係を築いてきたはずの肉親である。
ところが彼女の場合、その唯一の肉親であるレミリア・スカーレットこそ幽閉をなした張本人であるというジレンマを抱えている。
頭の中は、頼りたいが頼れない混乱状態。
精神年齢の幼いフランドールには直視できない現実だった。
そして、心の奥底に、嫌われたらおしまいという感覚が根強く浸透していた。
無意識のうちにフランドールにとってレミリアは絶対的、支配的存在となっていた。
長きに渡る幽閉の代償は決して小さくなかったのである。
そんなことは思いもしない吸血鬼は、ただなんとなく姉と会うのが嫌だなといった程度の思考しか持ち合わせていなかった。
不安定な綱の上ふらふらと渡るような気分の悪さの中、時は刻々と進んでいく。
詰まる所幽閉が原因で、フランドールは自分の気持ちについて考えるのが苦手だった。
しかしまたこのお茶会は姉について改めて考え直すきっかけを与えていたことも確かな事実であった。
――まだ始まってすらいないが。
短いため息をついてカップの腹を触ってみる。
指先を無機質な冷たさが伝う。
咲夜の淹れてくれた紅茶はとうに冷たくなりきった。
「もう、どうするのよこれ……」
カップの内側に紅い水面のラインがはっきりと認められ、注がれてから随分と時間が経っているのがわかる。
湯差しのポットの蓋を開けても湯気は立たない。
こちらも冷えてしまった。
はあ、と何度目か分からないため息をついたとき、部屋に響くノックが三回。
長く待っていたせいだろうか、かなり響いて聞こえた。
わずかに気を引き締める。
「お姉さま?」
「咲夜です。お茶の交換に参りました」
声の主があのわがままな吸血鬼ではないと分かったとき、ちょっとがっかりしたような、でもほっとしたような、変な気持ちになった。
「……いいよ、入って」
「失礼します」
ガチャリと部屋へ入ってくる咲夜。
サービスワゴンを連れてやってきたようだ。
地下で紅茶を飲むことはあっても、お茶会を催すなんて初めてのこと。
咲夜、どうやって地下まで運んできたんだろうか。
大変なんだろうな。
近くまで寄ってくると、替えの紅茶のセットと、先ほど来た時にはなかったティースタンドが乗せられているのがわかった。
「ごめんね、お姉さまが来ないもんだから冷めちゃったよ」
「いえ、……お嬢様ならもう直にいらっしゃいますわ」
「だといいけど」
冷めた紅茶を片付けて、淡々と準備を進める。
「召し上がらなかったんですね、お嬢様がお喜びになりますよ」
「一応暖炉がかかってるからね。私も頑張っちゃうよ」
「……お茶会、うまくいくよう願っておりますわ」
「ありがと」
ティースタンドからプレートが取り出され、テーブルの中央に並べられる。
小さいテーブルなので、三つあるプレートを全て置くと結構一杯いっぱいだ。
スコーン、サンドウィッチに小さなケーキ。
スコーンは焼き立てだろう。
湯気が立ち、香ばしい匂いが広がる。
一口には大きすぎるそれをすぐにでもかぶりつきたくなるが、我慢。
「茶葉が広がるまで、少々お待ちくださいね」
「うん」
再び静寂が部屋を支配する。
独りとは違い咲夜がいてなんとなく気まずいので、あの日以来気になっていたことを話してみることにした。
「あのさ」
「はい、いかがされましたか」
「ううん、もしだけど、暖炉を作ることになったら、誰が作るのかなって」
「お気になさってるのです?」
「お姉さまがあんなに言うんだもん。……やっぱり咲夜が大変なの?」
後ろめたさが声色で伝わったのか、穏やかな表情を向けてくれた。
「いえ、そのことでしたらご安心ください。空間を広げるのには慣れていますし」
「そう……でもさ、材料とかも運ばないといけないよね?」
「大丈夫ですよ、妹様。美鈴もいますし、数なら妖精メイドがたくさん。妹様のためとあらば喜んで働きます」
にこりと微笑み、柔らかな物腰で言われると思わず自分も顔が綻ぶ。
なんとよくできたメイドだろうと感心する。
先ほどまで胸にわだかまっていたもやもやが解れていくようだ。
「……咲夜はやさしいね」
とんでもないことですと言いながら、準備に取り掛かる。
余計な動きのない瀟洒な立ち振る舞い。
温かい紅茶が注がれる。
魅力的な香りに誘われて無意識のうちに伸びた手を引っ込め、紅いスカートの裾を握っておく。
ああ、お姉さまは咲夜のこういうところが気に入ったんだろうななどと見つめながらぼんやり思った。
「ねえ、咲夜は私のことどう思ってる?」
もう一つ聞きたかったことを話し始めたところへ、ノックが三回。
先ほどよりもいささか大きい。
というかうるさい。
ノックとは思えない打撃音を繰り出した訪問客に訊く。
「お姉さまね?」
「ええ。入るわよ」
咲夜は紅茶の準備を終えると、レミリアが入ってくる直前に耳打ちしてきた。
「暖炉はお任せください」
ガチャリ、と扉を開けて入ってくるレミリアと、失礼しますと一言述べてすれ違うように出ていく咲夜。
先ほどまで漠然と思い悩んでいた姉の実際の姿を見ると、急にどうでもよくなった気がした。
ツカツカとテーブルへ来、対して座るレミリア。
テーブルに用意されたティーセットを見渡し、顔を上げてフランドールを見ると満足したように言った。
「ちょうど準備が整ったみたいね」
「……」
ちょうど、などと寝ぼけたことをのたまう自分の姉に頭痛を催すが、落ち着いて話そうと努める。
「ん? どうしたの? さあ、お茶会の始まりよ」
座るや否やカップを手にこちらを見てくる。
散々待たせておいて、このまま何もなしに済ませるつもりか。
「お姉さま、何か言うことは?」
精一杯の冷静さで抵抗する。
きょとんとした表情をしていたレミリアだったが、やがて納得した面持ちでこう言った。
「フラン、乾杯はしないのよ」
うむ、もはや何も言うまい。
ドヤ顔を披露する姉を前に、求めるだけ無駄だと悟ったフランドールであった。
「何も口にしてないわよね」
「飲まず食わずでずっと待ってたよ、約束の時間より随分遅いんじゃない?」
嫌みっぽく言ってやるが全く効果がない、あるいは伝わっていないのか目を輝かせ眉を上げて顔を明るくするレミリア。
嬉々として語り出す。
「信じられないのよ、咲夜ったらお茶請けが焼きあがるまでお待ちくださいって。このお茶会のこと忘れてたのね」
愚痴を垂れながら足を組んで肩肘をつき角砂糖を二つ摘み入れかき混ぜるレミリアを軽く睨み、思い出したようにフランドールも三つ取り紅茶へ入れた。
「……お姉さまがきちんと伝えてなかったんじゃないの?」
「そんなはずないわ。前日から日時を言っておいたもの」
そう言われても、絶対にこの気ままな姉に振り回されたに違いないと思ったが、口に出さないことにした。
「これを焼くのに時間がかかったのね」
スコーンを一つ手に取ると、隅々まで舐めるように見まわしている。
ちぎって蜂蜜に付け、口に運ぶのをフランドールは何となく眺めていた。
「あなたも、ほら」
言われてゆっくりと未だに熱を帯びる黄金色のそれを手に取る。
ちぎって食べた。
考えるよりも先に言葉が出るほどの美味しさだった。
「……美味しいね」
「私が認めてやってるんだもの、当然よね」
椅子にふんぞり返り偉そうに口走るレミリアだが、羽がゆっくりと上下に動いているのをフランドールは見逃さなかった。
――こういう動きをするのは、嬉しいときや得意げになっているときだと知っていた。
「ふふ、そうだね」
「……あら、何よ素直ね」
その後は他愛のない話に花が咲いた。
話題の提供は専らレミリアからだった。
パチュリーが小悪魔にお遣いを頼んで失敗した話、美鈴が珍しく侵入者を阻止しかけた話、咲夜が妖精メイド達の食事を二度続けてすっぽかした話――二人の三杯目のカップが底を見せようとしていた。
「ま、食べなくても死にはしないけどねえ」
「咲夜も結構抜けてるんだね……」
プレートにはすでにサンドウィッチがわずかに残るだけで、湯差しの中身もぬるくなってしまっていた。
フランドールの頭からは先日の衝突のことなどとうに消え去り、ただでさえ貴重な姉との会話が珍しく和気藹々としたムードで進行している事実に純粋な喜びとわずかな興奮さえ覚え始めていた。
しかし彼女は哀れにもこのとき自らが発した一つの質問が雰囲気を一変させるきっかけとなることをこれっぽっちも予想していなかった。
姉からばかり話を振られていることが徐々に気になっていた彼女は、何とか自分から話題を作ろうとしたかった。
そんな程度の理由だった。
「ねえ、なんで私の部屋でお茶会をしようだなんて言い出したの?」
自分のタネから話を広げたい気持ち、純たる疑問がゆえの気持ち、あわよくば姉の本心を探りたい気持ち、いろいろな思いが渦を巻いて出てきた内容。
返答はさっぱりとしたものだった。
「この間の埋め合わせよ」
詮索せずここで止めておくべきだったと思っても、疑問に思ったことがすらすらと口に出る。
「でも、それなら上でいいじゃない。私の部屋は寒いのに」
レミリアはまるでフランドールの声が聞こえていないかのようにカップを持ち上げて紅茶を啜っている。
返事が閊えていた。
顎をいじるレミリアをじっと見る。
言いにくそうなことだろうか、目を泳がせてなかなか口を開こうとしない。
言いたくないならいいよ、そう伝えようと決めかけたときだった。
それは極めて淡々とした口調だった。
「ねえフラン。あなた、私のこと嫌い?」
言われた瞬間、どきりと緊張が走る。
すぐ近くにいるはずの姉が、急に遠くへ行ってしまったようだった。
「……どういうこと?私の質問に答えてよ」
「私はあなたのこと、嫌いだなんて思ってないわ」
噛み合わない会話。
姉の飄々とした物言いから真意を読みとれない不安がフランドールの顔に影を落とす。
レミリアは妹の変化に気づいたようだったが、特に止める素振りは見せなかった。
「あなた言ったわよね、私のこと大嫌いって」
言われてひと月前の悶着を思い出す。
確かに、言ったような。
「……それは、言ったけど」
あれは場の勢いもある。
心から憎んだことなんてない。
そうであるはず。
いや、そうでなければならない。
「……嫌いじゃないよ、お姉さまのこと」
「それは本当かしら」
心臓がかなりの速さで脈打っているのが分かる。
――そんなこと聞かないで。
「本当だよ、さっきのおしゃべりも楽しかったし」
「じゃあ聞き方を替えるわ。私のことどう思ってる?」
黙り込んでしまう。
紅く煌めく吸い込まれるような瞳に見つめられるだけで、心の奥底まで見透かされているかのように思えた。
フランドールは指先一つさえ動かせなくなっていた。
たまらず視線を下へ逸らす。
「あのね、怒ってるわけじゃないの。あなたが私のことをどう思ってるのか知りたいだけ」
だんだん追い詰められているのが分かる。
動悸が激しくなり悪寒が背筋を走る。
俯いたまま目線だけ上げると、先ほどまでとは違って物憂げな瞳が見て取れた。
何も答えられない。
言葉を紡ぐ姉の口元が恐ろしかった。
「怖い?」
心臓が圧し潰されそうだった。
頭痛もし始めた。
口が渇き、生唾を飲み込むのにももたついてしまう。
残り少ない紅茶を見るが、手が動かない。
何も悪いことはしていないはずなのに、今すぐにでもこの状況から逃げ出したい気持ちだった。
彫像のように固まってしまったフランドールを見て、はあ、とため息をつくレミリア。
「何か言いなさいよ、もう。話しづらいのはわかるけど、今まで普通におしゃべりしてたじゃない」
そう言うと腕を組んで椅子に背中をあずけた。
視線はフランドールを見据えたまま。
空気が、死んでしまったように動かない。
「よく、分からない……」
やっと、やっとの思いで辿り着いた答え。
蚊の鳴いたようなか細い声で、絞り出すように発した。
それを聞いたレミリアは姿勢を正すと徐に立ち上がり、フランドールに背を向けて二、三歩進む。
大きく垂れた漆黒の蝙蝠の羽が視界に入った。
「怖いこともあるのね」
返事はない。
「……もういいわ、ありがとう」
ゆっくり扉へ向かっていくレミリア。
「そうそう、暖炉は組んであげるわ。約束どおりね。今さらだけど寒すぎよここ」
振りむいて悲しそうな笑顔を向けられる。
何と声をかけるべきかわからない。
「……暖炉があれば、暖かくなるわね」
最後に言い残して、お茶会は幕を下ろした。
◇ ◇ ◇
「咲夜、紅霧異変のときの私のやり方、間違ってたのかしら」
「……と言いますと」
「力による恐怖支配。幻想郷なんてしょうもない奴らの集まりだと思ってたから」
「妹様ですか?」
「……なんでそうなるのよ。私の話聞いてた?」
「いえ、たった今妹様とのお茶会から戻って来られたので」
レミリアの自室。
再び紅茶を啜る。
「……」
「時の流れが次第にお二人を近づけてくれる、というのはあまりに陳腐でしょうか」
部屋の中で紅茶の湯気だけが動いていた。
やるせない顔はどこも見ていない。
咲夜の発言に対し自嘲気味に、思い出すようにとぎれとぎれで言葉を紡ぐ。
「……幽閉なんてするつもりはなかったのよ。私も優柔不断がすぎるわね、あの子のことになると」
「ご心中お察しします……」
そもそも咲夜はフランドール幽閉という事件に直接立ち会っていない。
業務に携わるメイドとして、主としてレミリアから、時にはパチュリーや妖精メイドの古株などから話を聞くことがあるくらいだった。
幽閉の理由は主に彼女自身の能力と性格に因る措置だったが、レミリアが腹を割って悩みを話せる数少ない友人パチュリーが投げかけた言葉がその決定の契機の一つでもあった。
目を瞑って過去を思い起こす。
それはフランドールのあまりに目に余る好き勝手な行動の数々について、どうしてやるものかと対応を決めかねて相談したときのこと。
パチュリー自身も大図書館を荒らしまわる彼女に嫌気が差しており、我慢の限界といった様子をレミリアは感得していた。
今となってはその時の判断すべてが誤りだったと後悔するが、とにかく虫の居所の悪い彼女に相談したことが間違いの発端だったのかもしれない。
「Einsamkeit ist das Los aller hervorragenden Geister」
「何だって?」
本へと視線を落として考え込んだように静謐にごちる友人に聞き返す。
「……孤独、それは運命かしら」
「相変わらずつかめないわね、パチェ」
この友人の話を聞くとき、なかんずく助言を求めるときは、伝えようとしていることに敏感でなければならない。
はっきりと言うことを好しとしないのが彼女の気質だったからである。
レミリアは彼女の言葉からフランドールへの非難に加えて自らへの詰りが暗示されているのを感じ取った。
「自分の心に聞いてみたら?」
「う……」
自らを咎める鋭い紫紺の視線にさらされ、推測は確信へ。
耳が痛いと言わんばかりの表情を返す。
「とにかくレミィ、いくら妹様だからって近頃の狼藉ぶりには参るわ。何度も注意してるのに全く効果が見られないんだけど」
当然フランドールへの非難だが、レミリアの心にもちくりと刺さる。
間違いない、自分の妹くらいきちんと監督しろと責められている。
長い付き合いなのだ、何を言わんとしているかは分かってしまう。
どれだけパチュリーが本を大切にしているかを知っていれば妹の乱暴を無視することはできない。
「独りで冷静に自分を見つめ直す必要があると思うの。もっとも私は本を消し炭にされず、本棚を倒壊させられず、安寧に本を読めさえすればいいけど」
「ううむ」
逡巡するレミリアだったが、結局その後の紆余曲折を経て幽閉は決定されてしまう。
別段大事件が起きたというわけではないが、妖精メイドの代表がレミリアに直訴しに来たことが直接のきっかけとなった。
数十分終始土下座という仰々しい格好で震えながら言うには、『もうばらばらにされたくない』を筆頭に『目があっただけで爪を剥がれたくない』だの『上手く血が吸えなくてもあらゆるところから捻り出さないでほしい』だの――要するにフランドールに対するメイド達の心労がピークに達したという単純明快な理由だった。
もう八方塞だったのだ。
旧友含む、言ってしまえば多くの身体的・精神的被害者たちから求められて止むを得ずになされること、そして本人のためという大義名分。
――尤もらしい理由が背中を押した。
「運命よ」
妹に対しては冷徹に一言だけ。
ぽかんとしたあの顔と、それを見たときに生じた心のざわめきは今でも忘れられない。
訳も分からず地下へ行くよう言われた彼女は、この先気の遠くなるような長い時間をそこで過ごすことになることを予想できるはずもなかった。
また姉の気まぐれが始まったくらいにしか考えていなかったのかもしれない。
もともと館の外へ出ることは許されおらず彼女の行動範囲は狭かったので、その点は気にも留めなかったのである。
こうして、フランドール・スカーレットは幽閉された。
フランドールの能力を念頭に周到に準備されてきた結界の複雑さや強固さは、あのパチュリーが胸を張るほどの自信作だった。
悲しからずや館のだれの一人も反対する者がいなかったこともあって、本人からすればその始まりは存外あっさりとしたものだった。
フランドールを幽閉したとき、レミリアはフランドールに対してどう思うべきなのか苦心した。
無償の愛情を注ぐべきだった一人の妹を幽閉してしまったという事実に頭を悩ませ、自分の気持ちに整理がつかないまま年月だけが過ぎる。
一年、また一年。
時の流れは残酷だった。
百年も経つと、もはや思考停止と言ってもいいほどに手立てがなく行き詰っていた。
一件以降、フランドールの話をレミリアの前で持ち出すことは禁忌、タブーとなってしまったし、紅魔館に仕える者にもそのことは強烈にインプットされ周知の事実となった。
皮肉にも妹の不在がバランスの取れた状況を生み、レミリアはその統率力をいかんなく発揮し紅魔館を隆盛させることができた。
そして満を持してなされた紅霧異変で、フランドールの幽閉生活は劇的な終焉を迎えるのである。
久しすぎる妹にどのような態度で接していいか皆目見当つかずのレミリアだったが、咲夜や幽閉当時を知らない妖精メイドが良い塩梅で緩衝の役割を果たしたこともあり、目立った緊張状態が勃発することはなかった。
そんな姉妹二人が誰も挟まず面と向かってお茶会。
ぎくしゃくするのは当然であるし、そのことはレミリアも予想していた。
それでも、フランドールとどう付き合うべきなのか、その方向性を探るという意味では実行する意味があると踏んだのであった。
フランドールを長く待たせたのも、焦らすことで少しでも動的な感情を引き出すことができるかもしれないという意図のもとだった。
――いくら理由があっても、本人のためと言って幽閉するなんて。
今となってそう思うレミリアの羽はこれでもかと垂れ下がっている。
「完全とは言えないけど、あの子が屋敷内を自由に行き来できるようになって暫く経つわね。宴会にだって連れていくこともあった」
覚束ない手でカップを持ち上げ、紅茶を一口。
ソーサーへ置き天井を仰ぐ。
「あの子、震えてた。あんなに追い詰めていたなんて思いもしなかったわ」
弱々しい声だった。
咲夜は黙って耳を傾ける。
「……咲夜、あなたに分かるかしら、姉としての私の気持ちが。自分勝手に思えるでしょうね、私がそうしたんだもの」
静かに、しかし心裏には狂おしいほどの窮愁を抱えて。
フランドール幽閉という極めてセンシティブな事件を巡る懊悩、プライドの高いレミリアが自らを責めるという異常事態に、咲夜はどうすることもできなかった。
「お嬢様、決してそんなことは……」
息をついて座り直すレミリアの後ろ姿は痛ましかった。
「……ごめんなさい、取り乱したわ」
「……いえ」
襟を整え、ぽつりとつぶやく。
「ちょっとずつ、ちょっとずつなのかしらね」
顔を手のひらで拭うと、わずかに咲夜のほうへ首をひねる。
「暖炉の手はずは整ってるわね」
「はい、お任せください」
暖炉の準備、それは大変な労力を費やすものであったが、咲夜はここ数日突貫で行っていた。
全ては全幅の信頼を置く主人のため。
そしてそのためには、気遣わしい妹君との関係好転が重要だと考えるのは咲夜にとって難しいことではなかった。
「苦労掛けるわね……せめて約束は果たすわ。贖罪にすらならないけど、私にはそうすることしかできないから」
__________
翌日。
冬場はなかなか拝めない太陽が燦々と照る下、いよいよもってフランドールの部屋に暖炉を設置する。
「忌々しい天気ね……ぅあ」
悪態をつくのはフランドールの部屋がある地下へと続く扉の前に立つレミリアである。
大きな欠伸を一つ。
すぐ後ろには咲夜に美鈴、多くの妖精メイド達が集合していた。
「まあまあ、お嬢様。今日は記念すべき妹様の暖炉が出来る日じゃないですか!」
宥めるは美鈴。
「美鈴、あなたが今回一番頼りになるわ。普段足りてない分も合わせて、頑張りなさいよ」
「はい! 足りてない分も……ってええ!? 咲夜さんそれどういう意味ですかぁ!?」
「文字どおりよ」
ゲラゲラと笑う妖精メイド達。
紅魔館はいつからこのような面白おかしいコミカルな館になってしまったのか。
悩めるレミリアであった。
「さて、グループに分けましょう。A班はあなたたち三人、あとそこのあなたも。あなたたちには……」
咲夜がてきぱきと下準備をし始める。
ひとまず安心して任せられそうだ。
地下で暖炉を組むために、紅魔館内を通して資材を運ぶ必要があった。
地下へと続く通路は一本しかない。
ゆえにその前でこうして人も物も集まっていたのだった。
「先にフランの様子を見に行くわ。いつもなら寝ているはずよ」
「びっくりさせてあげてくださいねー!!」
元気いっぱいに見送る美鈴を背に、扉を開けていざ出発。
――まさかすでに暖炉を組む用意が整っているとは思ってもいないだろう。
サプライズでフランドールを盛大に喜ばせようという美鈴の発案だった。
普段夜に活動するレミリアが慣れない時間に起きなければならないため咲夜は反対したが、本人がすんなり承諾したので結局朝早く敢行することになったのだ。
石段を一段ずつ降りてゆく。
昼間でも薄暗い通路は、つい数カ月前まで百年に一度通るかどうかだった。
それが博麗の巫女が異変を解決してから、すなわちフランドールが幽閉から解き放たれてからは何度も通った。
明らかな変化を実感しながら歩みを進める。
最奥に到着すると、改めて寒さを感じる。
寝起きのせいか身体がぶるっと震える。
食糧を保管するのには良いかもしれないが、少なくとも人が住む場所ではない。
「……人間じゃないけど」
言い訳をして、目の前の扉に手をかける。
この扉も、今こそ部屋内でスペルカードを使えず能力も制限される特殊な施しがなされているのみで自由に開く。
かつては何重もの強力な結界によって厳重に封印されていたことを思い出し、苦虫を噛み潰したような顔。
後ろ髪の生え際を掻く。
「ひどいものね。どこの鬼畜よ」
皮肉の一つでも言わないとやっていられない。
ゆっくりと開くフランドールの部屋の扉。
中も薄暗いが、どことなく空気が重い。
真っ先に目に入るのは昨晩の茶会が催されたあとのテーブルと椅子だった。
(咲夜、片付けに来なかったのかしら……?)
昨晩立ち去ったままの状態だった。
音を立てないように、慎重にフランドールが眠っているであろう天蓋付のベッドに近づく。
ベッドの様子を認め、異状に気づいた。
「……フラン?」
「あ……」
そこには、眠っていない少女が腕で膝を抱えて佇んでいた。
ぎょっとして視線を合わせる。
起きているではないかと面食らったレミリアは顎に指を添え妹の顔をまじまじと見る。
「……なんて顔してるの」
「……」
振り返ったフランドールの目元は赤く腫れてしまっていた。
姉よりやや明るい真紅の瞳はどこか虚ろで、金色の髪の毛もところどころ肌にはり付いている。
ただでさえ青白い肌はやつれて生気を失ったようだ。
突如姉を前にして、やはり固まってしまう妹。
できるだけ優しく話しかける。
「こんな時間に起きてたのね、珍しい。ねえ、ちゃんと寝たの?隈がひどいわ」
「……どうしてここにいるの」
ぎろりと動く瞳。
目と目が合う。
「さあね、なんでだと思う?」
「……」
黙ったまま両手でナイトキャップを目深にかぶるフランドール。
表情が読めないが、もじもじとしているのは分かった。
「あの、昨日はごめんなさい。せっかくお姉さまと二人きりのお茶会だったのに、変な感じで終わっちゃって」
「……いきなりどうしたのよ」
予測していなかった事態にレミリアは動揺していた。
ここまで明確に妹から謝られたのは、レミリアが思う限り一度もなかった気がする。
「……あの後独りでずっと考えてたの。ちょっと考えれば分かることだったのに……今なら言えるから、言うね」
まさか、一睡もせずに思い悩んでいたのだろうか。
なぜか背中に冷や汗が流れる。
「私、ずっとずっとこの部屋にいるからさ。お姉さまのこととか、私のこととか考えたりするの」
自責の念が募る。
申し訳ない心持ちだった。
「でもこんなに考えたのは初めて」
独白が続くが、そこにはフランドール以外誰もいないかのような空白感が感じられた。
「確かに、お姉さまを……怖いと思ってるのかも。はっきり言って分からないけど、でも、嫌いじゃないよ、本当に」
なにかおかしい。
天真爛漫、自己中心的な我が妹の口からあり得ない言葉の数々が聞こえてくる。
しかし言われれば嬉しいはずの言葉のどこかに違和感を覚えてしまっていた。
単に聞き慣れていないからだろうか。
「自分の気持ちが分からないことは多いけど、それだけは、本当だから」
「そう……」
はっきりしない返事をしたそのときだった。
フランドールが顔を上げる。
異様に爛々とした目つきをしていた。
「だけど、お姉さまは私のこと」
体が身構える。
「嫌いでしょ」
目を逸らしてはいけない――理由などなかったが、確信めいたものがレミリアをそうさせた。
「……バカなこと言ってないで顔洗ってきなさい。せっかくあなたのために皆が用意したのよ」
はぐらかすような返事になってしまう自分が憎かった。
「暖炉なら、いらない」
予想だにしなかった言葉が聞こえる。
嫌な汗が流れ始め、心拍数が上がってきているのが分かった。
躓くように半歩歩み寄る。
「……どういうつもり?」
「お姉さま」
レミリアに直感。
「正直に私の質問に答えて。……私のこと嫌いでしょ」
寝不足のせいだろうか、少々めまいがする。
「……嫌いなはずないわ。本心よ」
「ふうん。ならなんで何百年もこの部屋に閉じ込めたのさ?」
「……」
しいんと静まり返る冷たい空間。
やっぱりねという面貌を向けられた。
「……答えられるわけないよね、嫌いなんだもの。それとも怖かったのかしら? 幽閉するくらいなんだし」
答えようにも、言い訳がましいことばかり頭に浮かんできてしまう自分に嫌気が差していた。
耐えかねて言ってしまう。
「……あなたのためよ」
自分でも苦しい言い訳だと分かっているがゆえに、これ以上会話が続いてほしくなかった。
「ばかなお姉さま」
ベッドから飛び降り、ゆらゆらとレミリアの傍まで近寄る。
腕を伸ばせば届く距離まで。
立って対面するとレミリアの方が拳一つ分ほど背が高いのが分かる。
後ろに腕を組み覗き込むように姉を見上げ、嘲るフランドール。
小さな可愛らしい口元から棘のある言葉が容赦なく飛んでくる。
「言い訳してるだけだよね。私のため? やめてよそんなの」
言いたいことは喉元まで出かかっているにもかかわらず、何も言い返せない。
レミリア・スカーレットの姉という立場が吐露を思い留まらせる。
「知ってるわ。みんな私のことを怖がってる……嫌ってる。ぜーんぶ壊しちゃうんだもん」
「やめなさい」
これ以上はいけない。
聞いているのもつらいが物語るフランドール自身にも毒である。
他方それでも聞いてみたい、フランドールの本心。
彼女が自分の気持ちを言うことはそれほどまでに滅多にないことだった。
結果として表面を滑るような調子でしか話せない。
「咲夜や美鈴は、上辺だけは私に気を遣って優しくしてくれる……なんたってお姉さまの妹だからね、当然」
高まる心臓の鼓動がレミリアの焦燥感を煽る。
「でも本当は。私が怖くて、嫌いだからそうしてるだけなんだ」
「フラン!」
両手でしっかりと妹の小さな肩を掴む。
ひどく冷たく感じられた。
いつにもまして真剣な表情をしながら顔を上げさせる。
「そんなことを言ってはだめ。もっと自分を大切になさい」
レミリアは姉として懸命に諭そうとしていた。
しかし視界に入る妹の口角は歪につり上がっていた。
自分と同じ鋭い牙を向けられた気がした。
「お姉さまには分からないよ。独りになったことないくせに」
頂門の一針。
それを言われては返す言葉が浮かばない。
冷めた視線がレミリアの心をえぐる。
「手、離して」
力が抜けたように掴んでいた手を下ろす。
汚れが付いたと言わんばかりに肩を軽くはたくフランドールの様子を、レミリアは呆然自失といった面持ちで見ていることしか出来なかった。
「私狂ってたのね、お姉さまに暖炉を頼むなんて」
再び正面に妹を捉える。
いつかのときのようなおどおどした様子は全く見られない。
まるで一つの信念が根底にあるかのようなさっぱりとした顔つきをしていた。
今度は妹が姉の肩に右手をあてがう。
「ちょっと考えれば分かることだったのに」
ごく弱い力で、トンと押された。
そうは思っても四九五年間で初めて聞く妹の心の内は、レミリアが予想していたより遥かに深刻だった。
その精神的ショックもあり、軽い接触にもかかわらずよろめいて片膝をついてしまう。
「出て行って」
レミリアを苛む幽閉への痛烈な後悔、良心の呵責、そして面と向かってなされた実の妹の告白。
嫌いではないが怖いこともある、みんな私のことを嫌ってるはず、独りになったことないくせに――レミリアをかつてないほど動揺させるには十分な言葉の数々だった。
しかし落胆に飲み込まれて終わるレミリアではなかった。
逆境に強いのが彼女の取り柄でもある。
伊達に五〇〇年を生きているわけではない。
いつまでも打ちひしがれているものではないと立ち上がり、背を向けているフランドールに改まって問う。
「それが、あなたの出した答えなのね」
「……そうだよ。私のこと嫌いになったでしょ。さっさとこんな寒いところから出て行きなよ」
レミリアにはフランドールが自暴自棄になっているようにしか聞こえなかった。
煌めく宝石が浮遊する背中に足早に近づく。
細く陶器のように白い腕を強く掴んでくるりと正対させ、両手を顔に添えて目を合わせる。
フランドールはレミリアの突然の行動についていけなかった様子だった。
「ちょっと!」
視界いっぱいに広がる姉の顔に驚きつつも、すぐに怒り顔をするフランドール。
「確かに私はあなたほど独りで過ごしたことはないわ。あなたの気持ちが分からないこともある」
二人の距離が、これまでにないほど近かった。
「でも、あなたが私に言ったように、私もあなたを嫌ってはないの。幽閉はしたけど、必要なことだったというのを分かって頂戴」
聞き終わったフランドールの表情は寂しそうだった。
「お姉さま、それ本気で言ってるの……?」
食いしばる牙が、我慢の限界を意味していた。
幼いフランドールには耐えかねた。
「四百年以上! そんなに長い間カンヅメにしておく必要があるっていうの? 嫌ってるって言ってるようなものじゃない」
堰を切ったように流れ出す思い。
フランドールの目尻には涙がにじんでいた。
「私怖かったんだよ、あんなに頑丈な結界を張られる私ってなんなの? 中でどんな思いをしていたか、お姉さまなんかっ……これっぽっちも気にしたこと、ないくせに!」
頬を覆っていたレミリアの手を退けようと、右手を大きく振り上げたときだった。
「あっ!」
ガリリ、とそんな音だったろうか。
数瞬、呼吸を忘れる。
息を呑む頃には、顔の右半分を押さえて後方へ離れるレミリアの姿。
フランドールの指先には、生温い感触が纏わりついていた。
レミリアがうろたえて顔を下へ向けると、ぼたりと赤黒い血糊が垂れるのがはっきりと分かった。
お互い硬直する。
フランドールにそのつもりは全くなかっただけに、顔のどの部分を傷つけたのかは分からなかった。
ぬめる指先を擁する腕全体が小刻みに震えていた。
取り返しのつかないことをやってしまったと吐き気を催す。
ただならぬ静寂を破ったのは震えるフランドールの声だった。
「これが、私……」
右手で顔面を押さえたままぴくりとも動かないレミリア。
指の隙間から血液が漏れ出ている。
「他人を傷つけることでしか、私は私じゃないの。もう、どうしようも、ないんだ……」
自身の爪で血がにじむほど拳を強く握りしめる。
上ずった悲痛な声だった。
__________
「……いい加減にしなさいよ」
「うぐっ……」
痛撃を食らった腹を押さえて蹲るフランドールのサイドテールを、右手で鷲掴んで持ち上げ耳元で言い放つ。
「私の顔に傷をつけてタダで済むと思わないことね」
姉の手の覆われていない顔を見、それを聞いたフランドールは安堵の表情を見せる。
頬から目元にかけてが紅く染まっていたが、鋭い眼光を放つ眼球は無事だったようだ。
人付き合いの乏しい彼女は目まぐるしく展開する事態に錯乱しかけ、息は途切れ途切れだった。
「や、やっぱり私のこと、嫌いなのね! ……お姉さま!」
「嫌いよボケナス。ふざけるんじゃないわよ」
瞳が落ち着かなく動く妹は発狂寸前の状態だったが、気をかける素振りも見せないほど、レミリアはさまざまな思いから来る怒りに突き動かされていた。
遠慮や気づかいなど遥か彼方へ消え去った。
「すぐ暴力に走る癖は治ってないわね。その上反省もせず言い訳? 高々云百年程度の幽閉が何よ。うだうだ言ってんじゃないわ」
身も蓋もない。
髪を引っ張る力が急激に強められ、バランスを崩して倒れ込むフランドール。
転倒の拍子に椅子とテーブルが服に引っ掛かり、盛大に音を立てて倒壊する。
カップか何かが割れる音もした。
「ちょ、ちょっと……私の部屋めちゃくちゃにしないでよ!」
冷たい床に突っ伏したまま、負けじとレミリアの足首を引っ張って転ばせる。
激しく腰を打ち付けてしまう。
「あっつ……やってくれるじゃない、身を持って分からせてやるわ」
「仕返しよ! せいせいするわ!」
レミリアの応酬に端を発したケンカは泥仕合と化し、取っ組み合いになる。
ぎゃあぎゃあと、騒がしくわめきながらぶつかり合う二人。
「いっ痛い! 髪引っ張らないでよバカぁ!」
「聞きなさい! 私が怖いのか何なのか知らないけど、自分のことばかり考えて好き勝手言うなんて許さないわ! あんたのために、みんなだって動いてくれているのよ! 今さらいらないとか、寝惚けたこと言ってんじゃないわよ!」
「もういいって言ったもん! お姉さまが勝手に決めたんでしょ! 髪放してよぉ!」
最初こそ拮抗していたものの、次第に姉の優勢に傾く。
熾烈な姉の攻撃に、反撃の余裕を失いつつあったフランドールは防御に徹するのみ。
もっとも、能力を制限するこの部屋の仕組みを知っているレミリアとそれに関して全くの無知であるフランドールとではどちらにアドバンテージがあるかは明らかであるし、その上妹の方は一晩碌に寝ず精神をすり減らしていたこともあって、早々に体力の限界がやってきた。
フランドールはもはや応戦することさえ難しいほどに疲弊しきっていた。
「……一日だってあんたのことを考えない日はないのよ! ちょっとは頭使いなさいよ!」
フランドールにとってそれは唐突すぎる告白だったろう。
勢いで出てしまった本音に対する反応は特に見られなかったが、それは紛れもない妹への愛慕の情が根底にある言葉だった。
レミリア自身も荒々しく呼吸をしていた。
白く舞い上る自身の吐息が煩わしく感じる。
上気するように赤らむ頬には光るものが伝っていた。
激情が過ぎ去り、一旦攻撃の手を止め休息を得ると途端に広がる虚無感。
よろよろと倒れた椅子のもとへ近づき立て直すと、やっとのことで腰掛ける。
ようやく落ち着きを取り戻し始めていたレミリアの目に、丸く蹲るフランドールの姿が映った。
能力を使わずとも、もとから吸血鬼の力が人間の比ではないのは言わずもがな。
衣服を切り裂くことなど容易い彼女らが手を上げればすべからく激しい様相を呈する。
自分がやったとはにわかに信じられないほど悲惨な姿態に、夢でも見ているのではと錯覚してしまう。
「ぐっ……げほっ……」
しじまに響くは妹の呻き声のみ。
執拗な打撃を受けた腹部を中心に、フランドールの紅い衣服は無残にもぼろぼろとなり、首元に結わえられていた黄色いタイなどは引き千切られて見る影もない。
辺りには割れた陶器の破片やら髪の毛やら布地とも襤褸切れともつかないものが散乱していた。
部屋の凄惨な様子とフランドールの苦しむ声が、レミリアを現実に引き戻す。
「……本当に、何をやってるの、かしら」
目元を拭いながら独りごちる。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
フランドールに手を上げてしまったこと、つい本音が飛び出てしまったことなどで気恥ずかしいような気まずい気持ちになり、早々に退散しようと決めた。
「お望み通り、出てってやるわ」
扉へ足を運ぼうとしかけたレミリアだったが、言い忘れたという風にフランドールを見据える。
「暖炉を置くのは一度決めたこと。この私が、決めたことよ。あなたが何と言おうと……たとえ嫌がろうと、貫き通すわ」
まるで宣言するように溌剌とした通る声。
レミリアには心を決めたと言うような自信が顔をのぞかせていた。
一点の曇りもない鋭い眼光が、顔を上げたフランドールを射抜く。
立ち去らんと振りむき直る。
「待って」
声量もやっと聞こえるかどうかだったが、今度はレミリアの心に素直に届く響きだった。
「お願い、待ってよぉ」
涙ぐみながら、今しがた出て行けと言った姉を呼び止める妹。
「わ、私のこと……」
言いかけて、躊躇ってしまう。
何を言いたいのか察したレミリアは、視線だけ向けて。
「本心を二度言うほど野暮なことはないわ。それともここから追っ払ってほしいの?」
はっとして目を見開くフランドール。
直接言葉にはしなかったレミリアだったが、その意図はフランドールに十分に伝わったようだった。
改めて伝えられた、姉から妹への寵愛の気持ち。
レミリアはフランドールのことを嫌っていなかった。
レミリアからすれば気にも留めない事実だったが、さまざまな混沌とした思いから姉を慕うフランドールにとっては大問題であった。
地下よりも冷え切ったフランドールの心に、小さな灯がともった。
これから自分たちはお互いに近づきあっていくだろうが、その道程が前途多難となることは間違いない。
一度や二度の衝突では済まないかもしれない。
それでもほんの少し、姉との距離が縮まったと思うフランドールであった。
「お姉さま、お姉、さま……」
何かを言おうと口を開くが、息が詰まって、それ以上言葉にならない様子だった。
胸元を押さえて崩れ落ちる。
「……ふん、泣きなさい。気の済むまで」
レミリアが部屋を出て行ってからしばらく経っても、フランドールの咽び泣く声だけが縹緲とこだましていた。
__________
「お、お嬢様……そのお姿は」
「暖炉は延期。ちょっとした小競り合いよ」
ぼろぼろになった我が主人の突然の発表に目を丸くする待機組一同。
険悪な雰囲気に美鈴がバツが悪そうに一言。
「ま、まぁ妹様とのスキンシップも大事ですよねー、なんて、はは……」
「……」
乾いた笑いが終わる間もなく、無駄のない芸術的なまでの一閃突き。
「うごぉっ」
青筋を立てたレミリアはだるそうな様子で手をひらひらとさせていた。
「少し寝るわ、後適当にやっといて頂戴」
「御意に」
急な予定変更にもかかわらず抗議の顔色一つ見せない咲夜に敬服する妖精メイドたち。
その後はレミリアの機嫌の悪さで高められた咲夜のリーダーシップによって、あっという間に紅魔館は平静を取り戻した。
あくびをしながら自室へ向かうと、廊下で窓外を見ることもなく見ていた旧友を見つけた。
本も持たずにただ立っている彼女の姿は、かなり久しぶりな感じがした。
疲れですぐにでも眠りたかったが一応声をかけておく。
「あら、今さら出てきたの?」
「また随分と派手にやりあったものね。女同士の争いって感じだわ」
「……しばくわよ」
面白いものを見るような目でじろじろ見られた。
そうしてしばらくの観察が終わると、友人はそういえば、と口を開いた。
「あのときは私の言葉に妙に感心してたじゃない?」
「何よそれ」
「……優れた精神の行きつく運命は孤独である、覚えてるでしょ」
こちらに向かってくるパチュリーはレミリアに強い興味があるような目の色をしていた。
「孤独になるのが運命なんてバカバカしい、あの子は孤独だったけど精神なんてお子ちゃま同然じゃない」
「あら、ひどい言い様ね。幽閉したのはレミィじゃなくて?」
「それだって運命よ。私が決めたね」
「さばさばしてるのね」
少し驚いたという表情を見せるが、なぜか嬉しそうなパチュリーだった。
「……運命、そんなのはね、自分で決めるものよ」
「ふむ……レミィらしいわね。まあ、あなたたち悪魔の姉妹が安けく、憎からず思えるようになるはずもないか」
「今日は随分とおしゃべりね。その悪魔の館に住み着いてるのはどこの魔法使いかしら」
言い合うのも億劫だったが、嫌みは忘れない。
「……妹様と末永くお幸せに」
やたらにこやかな顔色ですれ違いざまに言われた。
「バカ言うもんじゃない、あの子はあとで折檻よ」
「それも運命?」
聞いたパチュリーは振り返り、早口で皮肉る。
こういうときの切り返しはパチュリーの方が一枚上手であるのが常だった。
「私の周りの運命は私が決める。フランのも当然私が決めるのよ」
「……そうだったわね、聞いて安心したわ」
それ以上は探ることなく、再度翻って大図書館へと立ち去るパチュリー。
レミリアは大切なものをかかえたような瞳で、冷気のどこまでも澄み渡る冬天を見上げていた。
* * * * *
Einsamkeit ist das Los aller hervorragenden Geister.
――孤独は全てを卓越した精神の運命である。
- Arthur Schopenhauer (アルトゥール・ショーペンハウエル) -
* * * * *
__________
冬――空気は肌を刺すように凍てつき、空を覆う鉛色の厚い雲が気分をふさぎ込ませる。
幻想郷の冬は厳しい。
ここ紅魔館とて例外ではなく、しみこむ寒さはいやでも住人を震えさせる。
「寒い」
一言こぼれ落ちる。
目の前には湯気の立ち昇る一杯の温かい紅茶。
たった今咲夜が用意したそれは芳醇な香りを立たせ、傍に添えられている小さなクッキーとよく合いそうだ。
寒さに凍えた身体にありがたい。
しかし、小さな椅子に腰掛ける悪魔の妹、フランドール・スカーレットは紅茶を見つめるだけで手をつけられずにいた。
テーブルの向かいに彼女の座っているものと同じ小さな椅子があるが、そこには誰もいない。
地下にある彼女の部屋は冷え込む。
もとは貯蔵庫だったために暖房設備などあるはずもなく、冬本番になれば数分で凍えてしまう。
それでも生命に関わる問題なく使い続けることが出来るのは、彼女が人間とは性質を異にする吸血鬼だからである。
ただいくら死活問題にならないとはいえ寒いものは寒い。
部屋の中だというのに吐く息は白いし、風こそ吹かないものの肌に感じる寒さは外と大差ないのではないか。
別に死なないんだから我慢なさい、と言った姉の言葉が頭に浮かぶ。
「……何やってるのよ」
なんともひどい仕打ちだが、このかわいそうな吸血鬼はまさにその姉を待っているのだ。
今すぐにでも手をつけてしまいたい、眼前の紅茶を飲まずに。
彼女は咲夜の用意する紅茶がお気に入りだ。
むしろ、好き嫌いがゆえに他に食べられるものが極端に少ないだけなのだが。
いずれにせよ普段なら紅茶を出されればすぐに自然と手が伸びてしまうほどだ。
やけどをしないようにゆっくりと口元へ運ぶと、ふわりと芳しい香りが鼻腔を満たすのを頭で思い描く。
併せて供されるクッキー、スコーンやマドレーヌなどの咲夜謹製洋菓子とともに過ごす時間は彼女にとって至福のひと時なのだ。
自然と口から文句も出る。
いつもお茶をする地上とは違い極寒の空間で待ち続ける彼女は、なんと健気で不憫なのだろうか。
そんな姿から、恐ろしいほどに強大な力を持つ吸血鬼の雰囲気はとても窺えない。
あらゆるものの目を捕えて破壊する力はフランドール本人でさえも頭を悩ませるほど強力だ。
あまりに簡単にその能力を使えてしまい、加減を知らないために取り返しのつかない事態になることもしばしばある。
気づけば気がふれているだの情緒不安定だの噂されてしまっている始末。
そんなことはない、ちょっとだけ気が変わりやすいだけと信じてやまない彼女も、とにかく今は、紅茶の魅力にもてあそばれながら、寒さのために腕を組み肩をすくめて時間を持て余す一人の少女なのである。
人を待つというのは、こんなにも時の流れを遅く感じるものなのか。
待たせることはあっても自分が待つことなどおそらくこれが初めてであるフランドール。
たとえ過去に待たされたことがあったとしても、結局覚えていないくらいのものだったのだろう。
足をぷらぷら、首をきょろきょろ。
そわそわして落ち着かない様子を隠しきれない。
特に何か新しいものがあるわけでもないのに部屋を見回してしまう。
――姉は何をのんきに人を待たせているのだろう。
「先に飲んじゃおうかな……はぁ」
そんな言葉とともに出た白い吐息は空間に霧消し、空しさだけが残る。
しかし、これだけの状況にありながら、まだ彼女は紅茶に手を出せないのだ。
やりたいことをやらないと気が済まない彼女を、これほどにまで思い留まらせるのには理由があった。
__________
「お姉さま、寒くなってきたわね」
「そうね」
紅魔館のパーラーで紅茶を嗜むレミリアは、後ろに咲夜を従えてそっけなく応えた。
突然の闖入者は、いかにも興味なさげにされた返答にむっとしたようだった。
改めて腰に手を当て仁王立ちし、レミリアを見下ろした。
「私の部屋も寒いの、知ってるでしょ? どうにかして」
「……それが他人にものを頼む態度かしら?」
レミリアは尊大な態度の妹に一瞥を与えると再び紅茶に口をつける。
「お外の紅葉だって散っちゃったし、もう風だって冷たいんだよ。いくら鈍感なお姉さまの妹でも、寒さくらい感じるわ」
「あなたねえ、姉のことを鈍感なんて言う妹にしてやることは何もないわよ」
カップをソーサーに置く音が静かに響く。
あんまりと言えばあんまりな言葉に、悪魔の妹は金色の髪を揺らしテーブルに手を立てて前のめりになる。
「何よケチ。お姉さまの部屋は暖かいからいいけど、私の部屋とっても寒いのよ!」
「……静かになさい。あなたはもっとお淑やかに振る舞うべきだわ」
「関係ないじゃない。お淑やかとか知らないし。私は部屋が寒いと言ってるの!」
眉間にしわを寄せてフランドールを見やるレミリア。
フランドールも負けじと睨みかえす。
しばらく重い雰囲気のまま膠着。
やがて呆れたような表情で困り顔をし、折れたのはレミリアの方だった。
「……とにかく座りなさい。咲夜、紅茶」
はい、と必要最小限の返事をし姿を消す咲夜。
フランドールが黙って椅子に掛け姉と正対した瞬間、テーブルに湯気の立つ紅茶のセットが二つ並べ置かれていた。
レミリアの紅茶も新しく淹れなおされたようだった。
辺りを心地よい香りが包む。
フランドールはすぐに角砂糖を三つ紅茶に入れ、ティースプーンでやや乱暴にぐるぐるとかき混ぜた。
言葉のないカチャカチャという音が次第に場の緊張を和らげていく。
十分に溶けきった砂糖を確認し、カップを手に取る。
フーフーと水面を波立たせ、ズズッとすする。
レミリアはストレートのまま、カップを顔へ持っていき少し香りを楽しんだふうで、一口熱い液体を口へ運ぶとソーサーへ置き直した。
しばらくフランドールの様子を眺めた後で軽く息をつき、話し始める。
「部屋が寒いってまたなんで今さら。今に始まったことじゃないだろうに」
よくぞ聞いてくれたというふうにフランドールの顔はぱっと明るくなり、カップを置き朗々と応える。
「私気づいたの、私の部屋は寒すぎよ。それにご本で読んだわ。部屋の中は暖かいものだって書いてあったもの。暖炉があって、薪を火にくべて温まるの! それにあんなところにいたら凍え死んじゃうよ」
「あなた吸血鬼でしょ、別に死にはしないんだから我慢なさい」
随分と温度差のある反応に、肩透かしを食らった感。
理解を示さない姉に不満足の表情を見せる。
「もう、お姉さまの分からず屋! ……咲夜だって私の部屋が寒いのは知ってるでしょ? お姉さまに何か言ってやって!」
突然発言を求められた咲夜は、レミリアが特に遮らないことを確認すると、話を振った。
「……真冬になると妹様のお部屋は確かに凍えるほどです、お嬢様。寒さが厳しくなる前に何か対策をしてさし上げてもよろしいのでは」
再びカップを手に取りわずかに紅茶を口に含むと、しばらく目を閉じる。
やがて左手をこめかみに当て、顎を引いてゆっくりと口を開いた。
「無礼でわがままな子のお願いを聞くほど私は優しくないわ。特に生死にに関わることでもないのに、甘えたことをぬけぬけと言うものじゃない。寒さで死ぬだとか、ずいぶん弱々しくなったものね。情けない。それに」
滔々とした非難が始まる。
レミリアが瞼を上げるとフランドールと目が合った。
少し驚き、次第に悔しさと悲しさが混ざったような顔をしていくが躊躇しない。
「寒いのはあなただけじゃないの、フラン。美鈴なんて一日中外で突っ立っているのよ。夜になれば詰所に入れるけど、そこにも暖炉なんかないわ。それにあなた、暖炉を組めと言うのなら、材料に何がいるだとか、そもそも暖炉の組み方だって知っているのよね?」
トーンの暗い声で答える。
意気揚々と登場したときの勢いはすっかり失速していた。
「それは……まだ分からないけど」
間髪入れずに畳み掛けるレミリア。
「何よ、それ。自分が欲しいからって思いつきもいいところね。少し自由になれたからって調子づくのも大概にしたら? 他人の迷惑もちょっとは顧みなさい。話にならないわ」
「そこまで言わなくてもいいでしょ!」
散々な言われように我慢できず言い返すが、レミリアは少しも気にしていない様子だった。
これは、レミリアの癖だ。
悪い癖と言ってもいい。
機嫌の悪いときは誰に対してでも攻撃的な態度をとるのだ。
それがたとえ妹であったとしても。
まして優雅なティータイムを中断せしめた元凶がそれであるなら、攻撃の手を緩める理由はない。
非難の矛先は咲夜へも向く。
「――仮にフランの部屋に暖炉を置くとしても、煙はどこへ逃がすというのよ。地下に煙が充満するのもイヤだけど、燻製みたいな妹なんて勘弁してほしいわね。だいたい咲夜、あなたの仕事が増えることにもなりかねないのよ。そういう負担をかけてまですることじゃないわ。不用意な発言はやめて頂戴」
レミリアに向き直り丁寧に頭を垂れる咲夜。
咲夜はレミリアのこの悪い癖のことはよく心得ていた。
――ちなみに、美鈴はたまに勘違いをして大目玉を頂戴する。
レミリアの後ろに立つ咲夜からは彼女の表情こそ見えないものの、対面するフランドールの様子はよく見えた。
下唇を噛み、少し俯き加減で湯気の立たなくなった自身の紅茶を見つめている。
白く長い八重歯が見て取れる。
歪な羽はしな垂れて深紅の絨毯に付きそうなほどだった。
険悪な雰囲気をやんわりと打開するべく、しかし出過ぎた発言をしないようにと思案した。
「申し訳ありません、お嬢様。しかし、妹様のお部屋はあまりに寒く、人間の私では妹様のお世話に差し支えることもまたあります。私なりに妹様のお部屋の寒さを和らげて差し上げることはお許しいただけるでしょうか」
責めることのできないほど丁寧に提案されると、レミリアは面食らって、それまでの饒舌ぶりが嘘のように全く動かなくなる。
気だるそうに首をかしげながらも耳を傾ける。
「……どうやって?」
「ありがとうございます。妹様のお世話で骨の折れるのは――」
咲夜は安堵したようだった。
レミリアの難詰が尻すぼみになることで緊張は弛緩してゆく。
しばらく地下の部屋のことで談義が続いていた。
しかし冷たくあしらわれたフランドールには、咲夜がレミリアに説明やら弁明やらをしている言葉はもはや聞こえていなかった。
ここまで非難されるとは思ってもみなかった。
確かに思いつきだったかもしれないし、暖炉がどうできるかもいまいち知らなかったが、理不尽なまでの罵倒に納得がいかない。
姉ほどではないが、彼女にだってプライドはある。
姉から浴びせられた言葉の数々を反芻するうちに、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
「もういい」
テーブルの上の拳が強く握られていた。
二人が会話を止めて彼女の方へ顔を向ける。
「そんなふうに言わなくたっていいじゃない! ひどい、ひどいわ」
わなわなと震える肩を誤魔化すように、半泣きになって席を立ち、レミリアを見下ろして敵意の眼差しを投げる。
顔は興奮して耳まで紅潮し、口調も速い。
咲夜の同情するような憐れむ表情、そして何より、嫌でも視界に入ってしまうレミリアの面倒くさそうに見やるしぐさが心を締め付ける。
これ以上ここにいたくない、そう思ってしまっていた。
「凍えて死んでやる、お姉さまなんか大嫌い!」
いかにも安っぽい捨て台詞を吐いてその場を立ち去ろうと扉へ向かう。
軽い気持ちで部屋に入ったことを悔いた。
「待ちなさい」
無視して歩みを進め、やるせない気持ちで扉に手をかける。
「条件があるわ」
このまま勢いで飛び出てしまえばよかったが、なぜかどきりとして動きが止まる。
取っ手を握る手が動かなかった。
急速に冷めていく熱。
「私の出した条件をクリアできたら、大改修でもなんでもしてあなたの部屋に暖炉を置いてあげる」
扉に向かったまま注意深く耳をそばだてていた。
「……どうせ出来そうにもないことでしょ。約束だって知らんぷりするかもしれないじゃない」
姉の表情は見えない。
「簡単なことよ。スカーレットの名に誓って約束するわ。私がそういうこと好きなの知ってるでしょ? それともこんな些細な衝突で投げ出す程度のお願いだったのかしら?」
このときフランドールは妙に冷静だった。
一度感情を表出させたからか、どういうわけか姉の提案を足蹴にすることは頭になかった。
姉の言う「簡単なこと」をすれば部屋に暖炉を置いてくれるかもしれない。
この魅力はフランドールにとって条件を聞くのに十分だった。
感情に任せて出て行き姉の面子を潰すことよりも、今は大人しく提案に耳を傾ける方がよいと判断できるくらいには冷静だったのである。
「……聞く気はあるのね。いいわ」
レミリアは座ったまま妹へ身体を向け、指をさし高らかに言った。
「私とお茶しなさい。……あなたの部屋でね」
「……え?」
意図が分からず振りかえると、なぜかにやにやと不敵な笑みを浮かべている姉と目があった。
心をきゅっと掴まれた感じがした。
「日にちは私が決める。で、私は後から行くわ。あなたは先に待ってるの。そして私が来るまでは一切ものを口にせず待ってなさい。淑女として当然よ。私が来てからは、普通にお茶をするだけでいい」
訝るフランドールをよそに、レミリアは続ける。
「どう? 簡単でしょう。決まりね。日時は後から咲夜に伝えさせるわ」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」
「ちょっともへちまもない、決まりよ」
姉の清々しいまでの傍若無人ぶりに諦観の念を覚えつつも、約束は交わされてしまった。
__________
三十分は待った、と思う。
この部屋には何しろ時計というものがないので正確な時間は分からない。
そんなものは最初からなかったし、あったところで用をなさないことは自分でも分かっていた。
昼夜も分からず気温もほとんど変わることのない場所で、何百年という単位の前では何十分何時間は無意味に等しいほど短い。
今さらそのくらいの時間なんて取るに足らないものだと虚しく達観していたフランドールだったが、一方ですでに紅茶は冷めてしまいいらいらし始めてもいた。
自分から時間を決めて置いてこれほどまで遅れるとは何事か。
「やっぱり嘘か……私をからかうため?お茶の時間を邪魔したのがそんなに気に入らなかったのかしら」
長年独りだと独り言もよく出る。
意識したことはないものの、かなりの頻度で言っているかもしれない。
気晴らしに椅子から立ち上がって訳もなく歩き回ってみたり、伸びをしてみたりする。
が、寒さが身にしみるだけ。
再び周りを見回してみる。
この部屋は見慣れたすぎた風景だ。
ベッドの配置や調度品の位置こそ変わりはするものの、この空間で過ごしてきたフランドールにとって、暖炉の設置が大きな変化になることは間違いない。
部屋のレイアウトが変化することもそうだが、この薄暗く凍てつく空間にやわらかい炎の光と暖かさがもたらされることでどんなに心地よくなるだろう。
思えば紅白の巫女やら普通の魔法使いやらのせいで、もといお陰で、数ヶ月前から紅魔館内だけではあるが自由の身となった。
動かない大図書館から借りた本に暖炉の記述があるたびに独りで想像を膨らませたものだった。
それが今では手に入るかもしれない。
そう思うと早く姉に会い、お茶会を済ませたいと思っていた。
しかし一方で彼女には会いたくないという心情もあった。
フランドールにとって最も近い存在は姉であるレミリアのはずであるが、幽閉というあまりにドラスティックで隔世的な措置の影響で、自らの本心を打ち明けることが怖くなってしまっていた。
フランドールのように孤独を極めた存在にとって、内心を暴露するのに心のよりどころとなるのは深い関係を築いてきたはずの肉親である。
ところが彼女の場合、その唯一の肉親であるレミリア・スカーレットこそ幽閉をなした張本人であるというジレンマを抱えている。
頭の中は、頼りたいが頼れない混乱状態。
精神年齢の幼いフランドールには直視できない現実だった。
そして、心の奥底に、嫌われたらおしまいという感覚が根強く浸透していた。
無意識のうちにフランドールにとってレミリアは絶対的、支配的存在となっていた。
長きに渡る幽閉の代償は決して小さくなかったのである。
そんなことは思いもしない吸血鬼は、ただなんとなく姉と会うのが嫌だなといった程度の思考しか持ち合わせていなかった。
不安定な綱の上ふらふらと渡るような気分の悪さの中、時は刻々と進んでいく。
詰まる所幽閉が原因で、フランドールは自分の気持ちについて考えるのが苦手だった。
しかしまたこのお茶会は姉について改めて考え直すきっかけを与えていたことも確かな事実であった。
――まだ始まってすらいないが。
短いため息をついてカップの腹を触ってみる。
指先を無機質な冷たさが伝う。
咲夜の淹れてくれた紅茶はとうに冷たくなりきった。
「もう、どうするのよこれ……」
カップの内側に紅い水面のラインがはっきりと認められ、注がれてから随分と時間が経っているのがわかる。
湯差しのポットの蓋を開けても湯気は立たない。
こちらも冷えてしまった。
はあ、と何度目か分からないため息をついたとき、部屋に響くノックが三回。
長く待っていたせいだろうか、かなり響いて聞こえた。
わずかに気を引き締める。
「お姉さま?」
「咲夜です。お茶の交換に参りました」
声の主があのわがままな吸血鬼ではないと分かったとき、ちょっとがっかりしたような、でもほっとしたような、変な気持ちになった。
「……いいよ、入って」
「失礼します」
ガチャリと部屋へ入ってくる咲夜。
サービスワゴンを連れてやってきたようだ。
地下で紅茶を飲むことはあっても、お茶会を催すなんて初めてのこと。
咲夜、どうやって地下まで運んできたんだろうか。
大変なんだろうな。
近くまで寄ってくると、替えの紅茶のセットと、先ほど来た時にはなかったティースタンドが乗せられているのがわかった。
「ごめんね、お姉さまが来ないもんだから冷めちゃったよ」
「いえ、……お嬢様ならもう直にいらっしゃいますわ」
「だといいけど」
冷めた紅茶を片付けて、淡々と準備を進める。
「召し上がらなかったんですね、お嬢様がお喜びになりますよ」
「一応暖炉がかかってるからね。私も頑張っちゃうよ」
「……お茶会、うまくいくよう願っておりますわ」
「ありがと」
ティースタンドからプレートが取り出され、テーブルの中央に並べられる。
小さいテーブルなので、三つあるプレートを全て置くと結構一杯いっぱいだ。
スコーン、サンドウィッチに小さなケーキ。
スコーンは焼き立てだろう。
湯気が立ち、香ばしい匂いが広がる。
一口には大きすぎるそれをすぐにでもかぶりつきたくなるが、我慢。
「茶葉が広がるまで、少々お待ちくださいね」
「うん」
再び静寂が部屋を支配する。
独りとは違い咲夜がいてなんとなく気まずいので、あの日以来気になっていたことを話してみることにした。
「あのさ」
「はい、いかがされましたか」
「ううん、もしだけど、暖炉を作ることになったら、誰が作るのかなって」
「お気になさってるのです?」
「お姉さまがあんなに言うんだもん。……やっぱり咲夜が大変なの?」
後ろめたさが声色で伝わったのか、穏やかな表情を向けてくれた。
「いえ、そのことでしたらご安心ください。空間を広げるのには慣れていますし」
「そう……でもさ、材料とかも運ばないといけないよね?」
「大丈夫ですよ、妹様。美鈴もいますし、数なら妖精メイドがたくさん。妹様のためとあらば喜んで働きます」
にこりと微笑み、柔らかな物腰で言われると思わず自分も顔が綻ぶ。
なんとよくできたメイドだろうと感心する。
先ほどまで胸にわだかまっていたもやもやが解れていくようだ。
「……咲夜はやさしいね」
とんでもないことですと言いながら、準備に取り掛かる。
余計な動きのない瀟洒な立ち振る舞い。
温かい紅茶が注がれる。
魅力的な香りに誘われて無意識のうちに伸びた手を引っ込め、紅いスカートの裾を握っておく。
ああ、お姉さまは咲夜のこういうところが気に入ったんだろうななどと見つめながらぼんやり思った。
「ねえ、咲夜は私のことどう思ってる?」
もう一つ聞きたかったことを話し始めたところへ、ノックが三回。
先ほどよりもいささか大きい。
というかうるさい。
ノックとは思えない打撃音を繰り出した訪問客に訊く。
「お姉さまね?」
「ええ。入るわよ」
咲夜は紅茶の準備を終えると、レミリアが入ってくる直前に耳打ちしてきた。
「暖炉はお任せください」
ガチャリ、と扉を開けて入ってくるレミリアと、失礼しますと一言述べてすれ違うように出ていく咲夜。
先ほどまで漠然と思い悩んでいた姉の実際の姿を見ると、急にどうでもよくなった気がした。
ツカツカとテーブルへ来、対して座るレミリア。
テーブルに用意されたティーセットを見渡し、顔を上げてフランドールを見ると満足したように言った。
「ちょうど準備が整ったみたいね」
「……」
ちょうど、などと寝ぼけたことをのたまう自分の姉に頭痛を催すが、落ち着いて話そうと努める。
「ん? どうしたの? さあ、お茶会の始まりよ」
座るや否やカップを手にこちらを見てくる。
散々待たせておいて、このまま何もなしに済ませるつもりか。
「お姉さま、何か言うことは?」
精一杯の冷静さで抵抗する。
きょとんとした表情をしていたレミリアだったが、やがて納得した面持ちでこう言った。
「フラン、乾杯はしないのよ」
うむ、もはや何も言うまい。
ドヤ顔を披露する姉を前に、求めるだけ無駄だと悟ったフランドールであった。
「何も口にしてないわよね」
「飲まず食わずでずっと待ってたよ、約束の時間より随分遅いんじゃない?」
嫌みっぽく言ってやるが全く効果がない、あるいは伝わっていないのか目を輝かせ眉を上げて顔を明るくするレミリア。
嬉々として語り出す。
「信じられないのよ、咲夜ったらお茶請けが焼きあがるまでお待ちくださいって。このお茶会のこと忘れてたのね」
愚痴を垂れながら足を組んで肩肘をつき角砂糖を二つ摘み入れかき混ぜるレミリアを軽く睨み、思い出したようにフランドールも三つ取り紅茶へ入れた。
「……お姉さまがきちんと伝えてなかったんじゃないの?」
「そんなはずないわ。前日から日時を言っておいたもの」
そう言われても、絶対にこの気ままな姉に振り回されたに違いないと思ったが、口に出さないことにした。
「これを焼くのに時間がかかったのね」
スコーンを一つ手に取ると、隅々まで舐めるように見まわしている。
ちぎって蜂蜜に付け、口に運ぶのをフランドールは何となく眺めていた。
「あなたも、ほら」
言われてゆっくりと未だに熱を帯びる黄金色のそれを手に取る。
ちぎって食べた。
考えるよりも先に言葉が出るほどの美味しさだった。
「……美味しいね」
「私が認めてやってるんだもの、当然よね」
椅子にふんぞり返り偉そうに口走るレミリアだが、羽がゆっくりと上下に動いているのをフランドールは見逃さなかった。
――こういう動きをするのは、嬉しいときや得意げになっているときだと知っていた。
「ふふ、そうだね」
「……あら、何よ素直ね」
その後は他愛のない話に花が咲いた。
話題の提供は専らレミリアからだった。
パチュリーが小悪魔にお遣いを頼んで失敗した話、美鈴が珍しく侵入者を阻止しかけた話、咲夜が妖精メイド達の食事を二度続けてすっぽかした話――二人の三杯目のカップが底を見せようとしていた。
「ま、食べなくても死にはしないけどねえ」
「咲夜も結構抜けてるんだね……」
プレートにはすでにサンドウィッチがわずかに残るだけで、湯差しの中身もぬるくなってしまっていた。
フランドールの頭からは先日の衝突のことなどとうに消え去り、ただでさえ貴重な姉との会話が珍しく和気藹々としたムードで進行している事実に純粋な喜びとわずかな興奮さえ覚え始めていた。
しかし彼女は哀れにもこのとき自らが発した一つの質問が雰囲気を一変させるきっかけとなることをこれっぽっちも予想していなかった。
姉からばかり話を振られていることが徐々に気になっていた彼女は、何とか自分から話題を作ろうとしたかった。
そんな程度の理由だった。
「ねえ、なんで私の部屋でお茶会をしようだなんて言い出したの?」
自分のタネから話を広げたい気持ち、純たる疑問がゆえの気持ち、あわよくば姉の本心を探りたい気持ち、いろいろな思いが渦を巻いて出てきた内容。
返答はさっぱりとしたものだった。
「この間の埋め合わせよ」
詮索せずここで止めておくべきだったと思っても、疑問に思ったことがすらすらと口に出る。
「でも、それなら上でいいじゃない。私の部屋は寒いのに」
レミリアはまるでフランドールの声が聞こえていないかのようにカップを持ち上げて紅茶を啜っている。
返事が閊えていた。
顎をいじるレミリアをじっと見る。
言いにくそうなことだろうか、目を泳がせてなかなか口を開こうとしない。
言いたくないならいいよ、そう伝えようと決めかけたときだった。
それは極めて淡々とした口調だった。
「ねえフラン。あなた、私のこと嫌い?」
言われた瞬間、どきりと緊張が走る。
すぐ近くにいるはずの姉が、急に遠くへ行ってしまったようだった。
「……どういうこと?私の質問に答えてよ」
「私はあなたのこと、嫌いだなんて思ってないわ」
噛み合わない会話。
姉の飄々とした物言いから真意を読みとれない不安がフランドールの顔に影を落とす。
レミリアは妹の変化に気づいたようだったが、特に止める素振りは見せなかった。
「あなた言ったわよね、私のこと大嫌いって」
言われてひと月前の悶着を思い出す。
確かに、言ったような。
「……それは、言ったけど」
あれは場の勢いもある。
心から憎んだことなんてない。
そうであるはず。
いや、そうでなければならない。
「……嫌いじゃないよ、お姉さまのこと」
「それは本当かしら」
心臓がかなりの速さで脈打っているのが分かる。
――そんなこと聞かないで。
「本当だよ、さっきのおしゃべりも楽しかったし」
「じゃあ聞き方を替えるわ。私のことどう思ってる?」
黙り込んでしまう。
紅く煌めく吸い込まれるような瞳に見つめられるだけで、心の奥底まで見透かされているかのように思えた。
フランドールは指先一つさえ動かせなくなっていた。
たまらず視線を下へ逸らす。
「あのね、怒ってるわけじゃないの。あなたが私のことをどう思ってるのか知りたいだけ」
だんだん追い詰められているのが分かる。
動悸が激しくなり悪寒が背筋を走る。
俯いたまま目線だけ上げると、先ほどまでとは違って物憂げな瞳が見て取れた。
何も答えられない。
言葉を紡ぐ姉の口元が恐ろしかった。
「怖い?」
心臓が圧し潰されそうだった。
頭痛もし始めた。
口が渇き、生唾を飲み込むのにももたついてしまう。
残り少ない紅茶を見るが、手が動かない。
何も悪いことはしていないはずなのに、今すぐにでもこの状況から逃げ出したい気持ちだった。
彫像のように固まってしまったフランドールを見て、はあ、とため息をつくレミリア。
「何か言いなさいよ、もう。話しづらいのはわかるけど、今まで普通におしゃべりしてたじゃない」
そう言うと腕を組んで椅子に背中をあずけた。
視線はフランドールを見据えたまま。
空気が、死んでしまったように動かない。
「よく、分からない……」
やっと、やっとの思いで辿り着いた答え。
蚊の鳴いたようなか細い声で、絞り出すように発した。
それを聞いたレミリアは姿勢を正すと徐に立ち上がり、フランドールに背を向けて二、三歩進む。
大きく垂れた漆黒の蝙蝠の羽が視界に入った。
「怖いこともあるのね」
返事はない。
「……もういいわ、ありがとう」
ゆっくり扉へ向かっていくレミリア。
「そうそう、暖炉は組んであげるわ。約束どおりね。今さらだけど寒すぎよここ」
振りむいて悲しそうな笑顔を向けられる。
何と声をかけるべきかわからない。
「……暖炉があれば、暖かくなるわね」
最後に言い残して、お茶会は幕を下ろした。
◇ ◇ ◇
「咲夜、紅霧異変のときの私のやり方、間違ってたのかしら」
「……と言いますと」
「力による恐怖支配。幻想郷なんてしょうもない奴らの集まりだと思ってたから」
「妹様ですか?」
「……なんでそうなるのよ。私の話聞いてた?」
「いえ、たった今妹様とのお茶会から戻って来られたので」
レミリアの自室。
再び紅茶を啜る。
「……」
「時の流れが次第にお二人を近づけてくれる、というのはあまりに陳腐でしょうか」
部屋の中で紅茶の湯気だけが動いていた。
やるせない顔はどこも見ていない。
咲夜の発言に対し自嘲気味に、思い出すようにとぎれとぎれで言葉を紡ぐ。
「……幽閉なんてするつもりはなかったのよ。私も優柔不断がすぎるわね、あの子のことになると」
「ご心中お察しします……」
そもそも咲夜はフランドール幽閉という事件に直接立ち会っていない。
業務に携わるメイドとして、主としてレミリアから、時にはパチュリーや妖精メイドの古株などから話を聞くことがあるくらいだった。
幽閉の理由は主に彼女自身の能力と性格に因る措置だったが、レミリアが腹を割って悩みを話せる数少ない友人パチュリーが投げかけた言葉がその決定の契機の一つでもあった。
目を瞑って過去を思い起こす。
それはフランドールのあまりに目に余る好き勝手な行動の数々について、どうしてやるものかと対応を決めかねて相談したときのこと。
パチュリー自身も大図書館を荒らしまわる彼女に嫌気が差しており、我慢の限界といった様子をレミリアは感得していた。
今となってはその時の判断すべてが誤りだったと後悔するが、とにかく虫の居所の悪い彼女に相談したことが間違いの発端だったのかもしれない。
「Einsamkeit ist das Los aller hervorragenden Geister」
「何だって?」
本へと視線を落として考え込んだように静謐にごちる友人に聞き返す。
「……孤独、それは運命かしら」
「相変わらずつかめないわね、パチェ」
この友人の話を聞くとき、なかんずく助言を求めるときは、伝えようとしていることに敏感でなければならない。
はっきりと言うことを好しとしないのが彼女の気質だったからである。
レミリアは彼女の言葉からフランドールへの非難に加えて自らへの詰りが暗示されているのを感じ取った。
「自分の心に聞いてみたら?」
「う……」
自らを咎める鋭い紫紺の視線にさらされ、推測は確信へ。
耳が痛いと言わんばかりの表情を返す。
「とにかくレミィ、いくら妹様だからって近頃の狼藉ぶりには参るわ。何度も注意してるのに全く効果が見られないんだけど」
当然フランドールへの非難だが、レミリアの心にもちくりと刺さる。
間違いない、自分の妹くらいきちんと監督しろと責められている。
長い付き合いなのだ、何を言わんとしているかは分かってしまう。
どれだけパチュリーが本を大切にしているかを知っていれば妹の乱暴を無視することはできない。
「独りで冷静に自分を見つめ直す必要があると思うの。もっとも私は本を消し炭にされず、本棚を倒壊させられず、安寧に本を読めさえすればいいけど」
「ううむ」
逡巡するレミリアだったが、結局その後の紆余曲折を経て幽閉は決定されてしまう。
別段大事件が起きたというわけではないが、妖精メイドの代表がレミリアに直訴しに来たことが直接のきっかけとなった。
数十分終始土下座という仰々しい格好で震えながら言うには、『もうばらばらにされたくない』を筆頭に『目があっただけで爪を剥がれたくない』だの『上手く血が吸えなくてもあらゆるところから捻り出さないでほしい』だの――要するにフランドールに対するメイド達の心労がピークに達したという単純明快な理由だった。
もう八方塞だったのだ。
旧友含む、言ってしまえば多くの身体的・精神的被害者たちから求められて止むを得ずになされること、そして本人のためという大義名分。
――尤もらしい理由が背中を押した。
「運命よ」
妹に対しては冷徹に一言だけ。
ぽかんとしたあの顔と、それを見たときに生じた心のざわめきは今でも忘れられない。
訳も分からず地下へ行くよう言われた彼女は、この先気の遠くなるような長い時間をそこで過ごすことになることを予想できるはずもなかった。
また姉の気まぐれが始まったくらいにしか考えていなかったのかもしれない。
もともと館の外へ出ることは許されおらず彼女の行動範囲は狭かったので、その点は気にも留めなかったのである。
こうして、フランドール・スカーレットは幽閉された。
フランドールの能力を念頭に周到に準備されてきた結界の複雑さや強固さは、あのパチュリーが胸を張るほどの自信作だった。
悲しからずや館のだれの一人も反対する者がいなかったこともあって、本人からすればその始まりは存外あっさりとしたものだった。
フランドールを幽閉したとき、レミリアはフランドールに対してどう思うべきなのか苦心した。
無償の愛情を注ぐべきだった一人の妹を幽閉してしまったという事実に頭を悩ませ、自分の気持ちに整理がつかないまま年月だけが過ぎる。
一年、また一年。
時の流れは残酷だった。
百年も経つと、もはや思考停止と言ってもいいほどに手立てがなく行き詰っていた。
一件以降、フランドールの話をレミリアの前で持ち出すことは禁忌、タブーとなってしまったし、紅魔館に仕える者にもそのことは強烈にインプットされ周知の事実となった。
皮肉にも妹の不在がバランスの取れた状況を生み、レミリアはその統率力をいかんなく発揮し紅魔館を隆盛させることができた。
そして満を持してなされた紅霧異変で、フランドールの幽閉生活は劇的な終焉を迎えるのである。
久しすぎる妹にどのような態度で接していいか皆目見当つかずのレミリアだったが、咲夜や幽閉当時を知らない妖精メイドが良い塩梅で緩衝の役割を果たしたこともあり、目立った緊張状態が勃発することはなかった。
そんな姉妹二人が誰も挟まず面と向かってお茶会。
ぎくしゃくするのは当然であるし、そのことはレミリアも予想していた。
それでも、フランドールとどう付き合うべきなのか、その方向性を探るという意味では実行する意味があると踏んだのであった。
フランドールを長く待たせたのも、焦らすことで少しでも動的な感情を引き出すことができるかもしれないという意図のもとだった。
――いくら理由があっても、本人のためと言って幽閉するなんて。
今となってそう思うレミリアの羽はこれでもかと垂れ下がっている。
「完全とは言えないけど、あの子が屋敷内を自由に行き来できるようになって暫く経つわね。宴会にだって連れていくこともあった」
覚束ない手でカップを持ち上げ、紅茶を一口。
ソーサーへ置き天井を仰ぐ。
「あの子、震えてた。あんなに追い詰めていたなんて思いもしなかったわ」
弱々しい声だった。
咲夜は黙って耳を傾ける。
「……咲夜、あなたに分かるかしら、姉としての私の気持ちが。自分勝手に思えるでしょうね、私がそうしたんだもの」
静かに、しかし心裏には狂おしいほどの窮愁を抱えて。
フランドール幽閉という極めてセンシティブな事件を巡る懊悩、プライドの高いレミリアが自らを責めるという異常事態に、咲夜はどうすることもできなかった。
「お嬢様、決してそんなことは……」
息をついて座り直すレミリアの後ろ姿は痛ましかった。
「……ごめんなさい、取り乱したわ」
「……いえ」
襟を整え、ぽつりとつぶやく。
「ちょっとずつ、ちょっとずつなのかしらね」
顔を手のひらで拭うと、わずかに咲夜のほうへ首をひねる。
「暖炉の手はずは整ってるわね」
「はい、お任せください」
暖炉の準備、それは大変な労力を費やすものであったが、咲夜はここ数日突貫で行っていた。
全ては全幅の信頼を置く主人のため。
そしてそのためには、気遣わしい妹君との関係好転が重要だと考えるのは咲夜にとって難しいことではなかった。
「苦労掛けるわね……せめて約束は果たすわ。贖罪にすらならないけど、私にはそうすることしかできないから」
__________
翌日。
冬場はなかなか拝めない太陽が燦々と照る下、いよいよもってフランドールの部屋に暖炉を設置する。
「忌々しい天気ね……ぅあ」
悪態をつくのはフランドールの部屋がある地下へと続く扉の前に立つレミリアである。
大きな欠伸を一つ。
すぐ後ろには咲夜に美鈴、多くの妖精メイド達が集合していた。
「まあまあ、お嬢様。今日は記念すべき妹様の暖炉が出来る日じゃないですか!」
宥めるは美鈴。
「美鈴、あなたが今回一番頼りになるわ。普段足りてない分も合わせて、頑張りなさいよ」
「はい! 足りてない分も……ってええ!? 咲夜さんそれどういう意味ですかぁ!?」
「文字どおりよ」
ゲラゲラと笑う妖精メイド達。
紅魔館はいつからこのような面白おかしいコミカルな館になってしまったのか。
悩めるレミリアであった。
「さて、グループに分けましょう。A班はあなたたち三人、あとそこのあなたも。あなたたちには……」
咲夜がてきぱきと下準備をし始める。
ひとまず安心して任せられそうだ。
地下で暖炉を組むために、紅魔館内を通して資材を運ぶ必要があった。
地下へと続く通路は一本しかない。
ゆえにその前でこうして人も物も集まっていたのだった。
「先にフランの様子を見に行くわ。いつもなら寝ているはずよ」
「びっくりさせてあげてくださいねー!!」
元気いっぱいに見送る美鈴を背に、扉を開けていざ出発。
――まさかすでに暖炉を組む用意が整っているとは思ってもいないだろう。
サプライズでフランドールを盛大に喜ばせようという美鈴の発案だった。
普段夜に活動するレミリアが慣れない時間に起きなければならないため咲夜は反対したが、本人がすんなり承諾したので結局朝早く敢行することになったのだ。
石段を一段ずつ降りてゆく。
昼間でも薄暗い通路は、つい数カ月前まで百年に一度通るかどうかだった。
それが博麗の巫女が異変を解決してから、すなわちフランドールが幽閉から解き放たれてからは何度も通った。
明らかな変化を実感しながら歩みを進める。
最奥に到着すると、改めて寒さを感じる。
寝起きのせいか身体がぶるっと震える。
食糧を保管するのには良いかもしれないが、少なくとも人が住む場所ではない。
「……人間じゃないけど」
言い訳をして、目の前の扉に手をかける。
この扉も、今こそ部屋内でスペルカードを使えず能力も制限される特殊な施しがなされているのみで自由に開く。
かつては何重もの強力な結界によって厳重に封印されていたことを思い出し、苦虫を噛み潰したような顔。
後ろ髪の生え際を掻く。
「ひどいものね。どこの鬼畜よ」
皮肉の一つでも言わないとやっていられない。
ゆっくりと開くフランドールの部屋の扉。
中も薄暗いが、どことなく空気が重い。
真っ先に目に入るのは昨晩の茶会が催されたあとのテーブルと椅子だった。
(咲夜、片付けに来なかったのかしら……?)
昨晩立ち去ったままの状態だった。
音を立てないように、慎重にフランドールが眠っているであろう天蓋付のベッドに近づく。
ベッドの様子を認め、異状に気づいた。
「……フラン?」
「あ……」
そこには、眠っていない少女が腕で膝を抱えて佇んでいた。
ぎょっとして視線を合わせる。
起きているではないかと面食らったレミリアは顎に指を添え妹の顔をまじまじと見る。
「……なんて顔してるの」
「……」
振り返ったフランドールの目元は赤く腫れてしまっていた。
姉よりやや明るい真紅の瞳はどこか虚ろで、金色の髪の毛もところどころ肌にはり付いている。
ただでさえ青白い肌はやつれて生気を失ったようだ。
突如姉を前にして、やはり固まってしまう妹。
できるだけ優しく話しかける。
「こんな時間に起きてたのね、珍しい。ねえ、ちゃんと寝たの?隈がひどいわ」
「……どうしてここにいるの」
ぎろりと動く瞳。
目と目が合う。
「さあね、なんでだと思う?」
「……」
黙ったまま両手でナイトキャップを目深にかぶるフランドール。
表情が読めないが、もじもじとしているのは分かった。
「あの、昨日はごめんなさい。せっかくお姉さまと二人きりのお茶会だったのに、変な感じで終わっちゃって」
「……いきなりどうしたのよ」
予測していなかった事態にレミリアは動揺していた。
ここまで明確に妹から謝られたのは、レミリアが思う限り一度もなかった気がする。
「……あの後独りでずっと考えてたの。ちょっと考えれば分かることだったのに……今なら言えるから、言うね」
まさか、一睡もせずに思い悩んでいたのだろうか。
なぜか背中に冷や汗が流れる。
「私、ずっとずっとこの部屋にいるからさ。お姉さまのこととか、私のこととか考えたりするの」
自責の念が募る。
申し訳ない心持ちだった。
「でもこんなに考えたのは初めて」
独白が続くが、そこにはフランドール以外誰もいないかのような空白感が感じられた。
「確かに、お姉さまを……怖いと思ってるのかも。はっきり言って分からないけど、でも、嫌いじゃないよ、本当に」
なにかおかしい。
天真爛漫、自己中心的な我が妹の口からあり得ない言葉の数々が聞こえてくる。
しかし言われれば嬉しいはずの言葉のどこかに違和感を覚えてしまっていた。
単に聞き慣れていないからだろうか。
「自分の気持ちが分からないことは多いけど、それだけは、本当だから」
「そう……」
はっきりしない返事をしたそのときだった。
フランドールが顔を上げる。
異様に爛々とした目つきをしていた。
「だけど、お姉さまは私のこと」
体が身構える。
「嫌いでしょ」
目を逸らしてはいけない――理由などなかったが、確信めいたものがレミリアをそうさせた。
「……バカなこと言ってないで顔洗ってきなさい。せっかくあなたのために皆が用意したのよ」
はぐらかすような返事になってしまう自分が憎かった。
「暖炉なら、いらない」
予想だにしなかった言葉が聞こえる。
嫌な汗が流れ始め、心拍数が上がってきているのが分かった。
躓くように半歩歩み寄る。
「……どういうつもり?」
「お姉さま」
レミリアに直感。
「正直に私の質問に答えて。……私のこと嫌いでしょ」
寝不足のせいだろうか、少々めまいがする。
「……嫌いなはずないわ。本心よ」
「ふうん。ならなんで何百年もこの部屋に閉じ込めたのさ?」
「……」
しいんと静まり返る冷たい空間。
やっぱりねという面貌を向けられた。
「……答えられるわけないよね、嫌いなんだもの。それとも怖かったのかしら? 幽閉するくらいなんだし」
答えようにも、言い訳がましいことばかり頭に浮かんできてしまう自分に嫌気が差していた。
耐えかねて言ってしまう。
「……あなたのためよ」
自分でも苦しい言い訳だと分かっているがゆえに、これ以上会話が続いてほしくなかった。
「ばかなお姉さま」
ベッドから飛び降り、ゆらゆらとレミリアの傍まで近寄る。
腕を伸ばせば届く距離まで。
立って対面するとレミリアの方が拳一つ分ほど背が高いのが分かる。
後ろに腕を組み覗き込むように姉を見上げ、嘲るフランドール。
小さな可愛らしい口元から棘のある言葉が容赦なく飛んでくる。
「言い訳してるだけだよね。私のため? やめてよそんなの」
言いたいことは喉元まで出かかっているにもかかわらず、何も言い返せない。
レミリア・スカーレットの姉という立場が吐露を思い留まらせる。
「知ってるわ。みんな私のことを怖がってる……嫌ってる。ぜーんぶ壊しちゃうんだもん」
「やめなさい」
これ以上はいけない。
聞いているのもつらいが物語るフランドール自身にも毒である。
他方それでも聞いてみたい、フランドールの本心。
彼女が自分の気持ちを言うことはそれほどまでに滅多にないことだった。
結果として表面を滑るような調子でしか話せない。
「咲夜や美鈴は、上辺だけは私に気を遣って優しくしてくれる……なんたってお姉さまの妹だからね、当然」
高まる心臓の鼓動がレミリアの焦燥感を煽る。
「でも本当は。私が怖くて、嫌いだからそうしてるだけなんだ」
「フラン!」
両手でしっかりと妹の小さな肩を掴む。
ひどく冷たく感じられた。
いつにもまして真剣な表情をしながら顔を上げさせる。
「そんなことを言ってはだめ。もっと自分を大切になさい」
レミリアは姉として懸命に諭そうとしていた。
しかし視界に入る妹の口角は歪につり上がっていた。
自分と同じ鋭い牙を向けられた気がした。
「お姉さまには分からないよ。独りになったことないくせに」
頂門の一針。
それを言われては返す言葉が浮かばない。
冷めた視線がレミリアの心をえぐる。
「手、離して」
力が抜けたように掴んでいた手を下ろす。
汚れが付いたと言わんばかりに肩を軽くはたくフランドールの様子を、レミリアは呆然自失といった面持ちで見ていることしか出来なかった。
「私狂ってたのね、お姉さまに暖炉を頼むなんて」
再び正面に妹を捉える。
いつかのときのようなおどおどした様子は全く見られない。
まるで一つの信念が根底にあるかのようなさっぱりとした顔つきをしていた。
今度は妹が姉の肩に右手をあてがう。
「ちょっと考えれば分かることだったのに」
ごく弱い力で、トンと押された。
そうは思っても四九五年間で初めて聞く妹の心の内は、レミリアが予想していたより遥かに深刻だった。
その精神的ショックもあり、軽い接触にもかかわらずよろめいて片膝をついてしまう。
「出て行って」
レミリアを苛む幽閉への痛烈な後悔、良心の呵責、そして面と向かってなされた実の妹の告白。
嫌いではないが怖いこともある、みんな私のことを嫌ってるはず、独りになったことないくせに――レミリアをかつてないほど動揺させるには十分な言葉の数々だった。
しかし落胆に飲み込まれて終わるレミリアではなかった。
逆境に強いのが彼女の取り柄でもある。
伊達に五〇〇年を生きているわけではない。
いつまでも打ちひしがれているものではないと立ち上がり、背を向けているフランドールに改まって問う。
「それが、あなたの出した答えなのね」
「……そうだよ。私のこと嫌いになったでしょ。さっさとこんな寒いところから出て行きなよ」
レミリアにはフランドールが自暴自棄になっているようにしか聞こえなかった。
煌めく宝石が浮遊する背中に足早に近づく。
細く陶器のように白い腕を強く掴んでくるりと正対させ、両手を顔に添えて目を合わせる。
フランドールはレミリアの突然の行動についていけなかった様子だった。
「ちょっと!」
視界いっぱいに広がる姉の顔に驚きつつも、すぐに怒り顔をするフランドール。
「確かに私はあなたほど独りで過ごしたことはないわ。あなたの気持ちが分からないこともある」
二人の距離が、これまでにないほど近かった。
「でも、あなたが私に言ったように、私もあなたを嫌ってはないの。幽閉はしたけど、必要なことだったというのを分かって頂戴」
聞き終わったフランドールの表情は寂しそうだった。
「お姉さま、それ本気で言ってるの……?」
食いしばる牙が、我慢の限界を意味していた。
幼いフランドールには耐えかねた。
「四百年以上! そんなに長い間カンヅメにしておく必要があるっていうの? 嫌ってるって言ってるようなものじゃない」
堰を切ったように流れ出す思い。
フランドールの目尻には涙がにじんでいた。
「私怖かったんだよ、あんなに頑丈な結界を張られる私ってなんなの? 中でどんな思いをしていたか、お姉さまなんかっ……これっぽっちも気にしたこと、ないくせに!」
頬を覆っていたレミリアの手を退けようと、右手を大きく振り上げたときだった。
「あっ!」
ガリリ、とそんな音だったろうか。
数瞬、呼吸を忘れる。
息を呑む頃には、顔の右半分を押さえて後方へ離れるレミリアの姿。
フランドールの指先には、生温い感触が纏わりついていた。
レミリアがうろたえて顔を下へ向けると、ぼたりと赤黒い血糊が垂れるのがはっきりと分かった。
お互い硬直する。
フランドールにそのつもりは全くなかっただけに、顔のどの部分を傷つけたのかは分からなかった。
ぬめる指先を擁する腕全体が小刻みに震えていた。
取り返しのつかないことをやってしまったと吐き気を催す。
ただならぬ静寂を破ったのは震えるフランドールの声だった。
「これが、私……」
右手で顔面を押さえたままぴくりとも動かないレミリア。
指の隙間から血液が漏れ出ている。
「他人を傷つけることでしか、私は私じゃないの。もう、どうしようも、ないんだ……」
自身の爪で血がにじむほど拳を強く握りしめる。
上ずった悲痛な声だった。
__________
「……いい加減にしなさいよ」
「うぐっ……」
痛撃を食らった腹を押さえて蹲るフランドールのサイドテールを、右手で鷲掴んで持ち上げ耳元で言い放つ。
「私の顔に傷をつけてタダで済むと思わないことね」
姉の手の覆われていない顔を見、それを聞いたフランドールは安堵の表情を見せる。
頬から目元にかけてが紅く染まっていたが、鋭い眼光を放つ眼球は無事だったようだ。
人付き合いの乏しい彼女は目まぐるしく展開する事態に錯乱しかけ、息は途切れ途切れだった。
「や、やっぱり私のこと、嫌いなのね! ……お姉さま!」
「嫌いよボケナス。ふざけるんじゃないわよ」
瞳が落ち着かなく動く妹は発狂寸前の状態だったが、気をかける素振りも見せないほど、レミリアはさまざまな思いから来る怒りに突き動かされていた。
遠慮や気づかいなど遥か彼方へ消え去った。
「すぐ暴力に走る癖は治ってないわね。その上反省もせず言い訳? 高々云百年程度の幽閉が何よ。うだうだ言ってんじゃないわ」
身も蓋もない。
髪を引っ張る力が急激に強められ、バランスを崩して倒れ込むフランドール。
転倒の拍子に椅子とテーブルが服に引っ掛かり、盛大に音を立てて倒壊する。
カップか何かが割れる音もした。
「ちょ、ちょっと……私の部屋めちゃくちゃにしないでよ!」
冷たい床に突っ伏したまま、負けじとレミリアの足首を引っ張って転ばせる。
激しく腰を打ち付けてしまう。
「あっつ……やってくれるじゃない、身を持って分からせてやるわ」
「仕返しよ! せいせいするわ!」
レミリアの応酬に端を発したケンカは泥仕合と化し、取っ組み合いになる。
ぎゃあぎゃあと、騒がしくわめきながらぶつかり合う二人。
「いっ痛い! 髪引っ張らないでよバカぁ!」
「聞きなさい! 私が怖いのか何なのか知らないけど、自分のことばかり考えて好き勝手言うなんて許さないわ! あんたのために、みんなだって動いてくれているのよ! 今さらいらないとか、寝惚けたこと言ってんじゃないわよ!」
「もういいって言ったもん! お姉さまが勝手に決めたんでしょ! 髪放してよぉ!」
最初こそ拮抗していたものの、次第に姉の優勢に傾く。
熾烈な姉の攻撃に、反撃の余裕を失いつつあったフランドールは防御に徹するのみ。
もっとも、能力を制限するこの部屋の仕組みを知っているレミリアとそれに関して全くの無知であるフランドールとではどちらにアドバンテージがあるかは明らかであるし、その上妹の方は一晩碌に寝ず精神をすり減らしていたこともあって、早々に体力の限界がやってきた。
フランドールはもはや応戦することさえ難しいほどに疲弊しきっていた。
「……一日だってあんたのことを考えない日はないのよ! ちょっとは頭使いなさいよ!」
フランドールにとってそれは唐突すぎる告白だったろう。
勢いで出てしまった本音に対する反応は特に見られなかったが、それは紛れもない妹への愛慕の情が根底にある言葉だった。
レミリア自身も荒々しく呼吸をしていた。
白く舞い上る自身の吐息が煩わしく感じる。
上気するように赤らむ頬には光るものが伝っていた。
激情が過ぎ去り、一旦攻撃の手を止め休息を得ると途端に広がる虚無感。
よろよろと倒れた椅子のもとへ近づき立て直すと、やっとのことで腰掛ける。
ようやく落ち着きを取り戻し始めていたレミリアの目に、丸く蹲るフランドールの姿が映った。
能力を使わずとも、もとから吸血鬼の力が人間の比ではないのは言わずもがな。
衣服を切り裂くことなど容易い彼女らが手を上げればすべからく激しい様相を呈する。
自分がやったとはにわかに信じられないほど悲惨な姿態に、夢でも見ているのではと錯覚してしまう。
「ぐっ……げほっ……」
しじまに響くは妹の呻き声のみ。
執拗な打撃を受けた腹部を中心に、フランドールの紅い衣服は無残にもぼろぼろとなり、首元に結わえられていた黄色いタイなどは引き千切られて見る影もない。
辺りには割れた陶器の破片やら髪の毛やら布地とも襤褸切れともつかないものが散乱していた。
部屋の凄惨な様子とフランドールの苦しむ声が、レミリアを現実に引き戻す。
「……本当に、何をやってるの、かしら」
目元を拭いながら独りごちる。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
フランドールに手を上げてしまったこと、つい本音が飛び出てしまったことなどで気恥ずかしいような気まずい気持ちになり、早々に退散しようと決めた。
「お望み通り、出てってやるわ」
扉へ足を運ぼうとしかけたレミリアだったが、言い忘れたという風にフランドールを見据える。
「暖炉を置くのは一度決めたこと。この私が、決めたことよ。あなたが何と言おうと……たとえ嫌がろうと、貫き通すわ」
まるで宣言するように溌剌とした通る声。
レミリアには心を決めたと言うような自信が顔をのぞかせていた。
一点の曇りもない鋭い眼光が、顔を上げたフランドールを射抜く。
立ち去らんと振りむき直る。
「待って」
声量もやっと聞こえるかどうかだったが、今度はレミリアの心に素直に届く響きだった。
「お願い、待ってよぉ」
涙ぐみながら、今しがた出て行けと言った姉を呼び止める妹。
「わ、私のこと……」
言いかけて、躊躇ってしまう。
何を言いたいのか察したレミリアは、視線だけ向けて。
「本心を二度言うほど野暮なことはないわ。それともここから追っ払ってほしいの?」
はっとして目を見開くフランドール。
直接言葉にはしなかったレミリアだったが、その意図はフランドールに十分に伝わったようだった。
改めて伝えられた、姉から妹への寵愛の気持ち。
レミリアはフランドールのことを嫌っていなかった。
レミリアからすれば気にも留めない事実だったが、さまざまな混沌とした思いから姉を慕うフランドールにとっては大問題であった。
地下よりも冷え切ったフランドールの心に、小さな灯がともった。
これから自分たちはお互いに近づきあっていくだろうが、その道程が前途多難となることは間違いない。
一度や二度の衝突では済まないかもしれない。
それでもほんの少し、姉との距離が縮まったと思うフランドールであった。
「お姉さま、お姉、さま……」
何かを言おうと口を開くが、息が詰まって、それ以上言葉にならない様子だった。
胸元を押さえて崩れ落ちる。
「……ふん、泣きなさい。気の済むまで」
レミリアが部屋を出て行ってからしばらく経っても、フランドールの咽び泣く声だけが縹緲とこだましていた。
__________
「お、お嬢様……そのお姿は」
「暖炉は延期。ちょっとした小競り合いよ」
ぼろぼろになった我が主人の突然の発表に目を丸くする待機組一同。
険悪な雰囲気に美鈴がバツが悪そうに一言。
「ま、まぁ妹様とのスキンシップも大事ですよねー、なんて、はは……」
「……」
乾いた笑いが終わる間もなく、無駄のない芸術的なまでの一閃突き。
「うごぉっ」
青筋を立てたレミリアはだるそうな様子で手をひらひらとさせていた。
「少し寝るわ、後適当にやっといて頂戴」
「御意に」
急な予定変更にもかかわらず抗議の顔色一つ見せない咲夜に敬服する妖精メイドたち。
その後はレミリアの機嫌の悪さで高められた咲夜のリーダーシップによって、あっという間に紅魔館は平静を取り戻した。
あくびをしながら自室へ向かうと、廊下で窓外を見ることもなく見ていた旧友を見つけた。
本も持たずにただ立っている彼女の姿は、かなり久しぶりな感じがした。
疲れですぐにでも眠りたかったが一応声をかけておく。
「あら、今さら出てきたの?」
「また随分と派手にやりあったものね。女同士の争いって感じだわ」
「……しばくわよ」
面白いものを見るような目でじろじろ見られた。
そうしてしばらくの観察が終わると、友人はそういえば、と口を開いた。
「あのときは私の言葉に妙に感心してたじゃない?」
「何よそれ」
「……優れた精神の行きつく運命は孤独である、覚えてるでしょ」
こちらに向かってくるパチュリーはレミリアに強い興味があるような目の色をしていた。
「孤独になるのが運命なんてバカバカしい、あの子は孤独だったけど精神なんてお子ちゃま同然じゃない」
「あら、ひどい言い様ね。幽閉したのはレミィじゃなくて?」
「それだって運命よ。私が決めたね」
「さばさばしてるのね」
少し驚いたという表情を見せるが、なぜか嬉しそうなパチュリーだった。
「……運命、そんなのはね、自分で決めるものよ」
「ふむ……レミィらしいわね。まあ、あなたたち悪魔の姉妹が安けく、憎からず思えるようになるはずもないか」
「今日は随分とおしゃべりね。その悪魔の館に住み着いてるのはどこの魔法使いかしら」
言い合うのも億劫だったが、嫌みは忘れない。
「……妹様と末永くお幸せに」
やたらにこやかな顔色ですれ違いざまに言われた。
「バカ言うもんじゃない、あの子はあとで折檻よ」
「それも運命?」
聞いたパチュリーは振り返り、早口で皮肉る。
こういうときの切り返しはパチュリーの方が一枚上手であるのが常だった。
「私の周りの運命は私が決める。フランのも当然私が決めるのよ」
「……そうだったわね、聞いて安心したわ」
それ以上は探ることなく、再度翻って大図書館へと立ち去るパチュリー。
レミリアは大切なものをかかえたような瞳で、冷気のどこまでも澄み渡る冬天を見上げていた。
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Einsamkeit ist das Los aller hervorragenden Geister.
――孤独は全てを卓越した精神の運命である。
- Arthur Schopenhauer (アルトゥール・ショーペンハウエル) -
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ちょっとした姉妹喧嘩はブラウン運動と似ている