※告※
この作品にはメモリチェンジ(過去捏造、独自解釈)
及び多少の百合要素が含まれています。
苦手な方はこの一つ上段の作品をお楽しみください。
吐息すらも肌を暖めることのできる、冬。
その日は特別冷え込んで、空気の乾燥した夜だった。
そこそこ大きな村の外れに流れる、大きな川だった。冬の空は星が綺麗に見える。でも、その頃の私にその空をじっくりと眺める余裕があるはずもなく、ただ一心不乱に歩みを進めた。
私の姿を見たものは次々に逃げ出した。
鬼だ。
化け物だ。
そんなことを言いながら、私から逃げていった。
それがなんだか、滑稽だった。
だってその時私はまだ人間で、ただ少し奇抜な格好をしていただけだ。
顔に朱色が混じっていて、頭に炎が揺れていた。全身が針のような外見だった。比喩表現ではない。本当に私の頭の上で、蝋燭の炎は風に吹かれていた。
それはただの妬ましいと呟いていただけの、弱い人間だった。
でも確かに私は、炎を纏っていた。
嫉妬心を燃やす。
人の感情というものはよく炎に例えられる。
喜び、悲しみ、楽しみ、そして怒り。人間は感情を簡単に変化させる。
それは確かに、炎が揺れる様を連想させる。
風が吹くたびに気持ちは変わった。
風が想いをかき消した。
風はただ通り過ぎていっただけなのに。
簡単に人間の心も想いも、揺れて、消えた。
それが人間だ。
脆くて弱くて、私の大嫌いなものだ。
だから私は、願ったんだ。
風にかき消されることの無い、嫉妬の炎が欲しい。
絶対に動じない、鉄のような、強い心が欲しいと。
川に到着した頃には蝋燭は燃え尽きていた。溶け切った蝋が黒い髪にへばり付いていた。私はそんなこと気にも留めなかった。
装束を纏ったまま、足先から川へ入る。不思議と水は冷たくはなく、むしろ湯船に浸かっているような気分にすらなった。
腰まで浸った頃にその理由に気がつく。
この熱は、私の内から込み上げてきたものだった。
心が燃えていた。恋心が身を焦がすように、嫉妬心がこの身を焼いていた。血液は沸騰寸前にまで煮えたぎり、心臓がはちきれそうなほどに鼓動を早めている。
神経が一本一本、焼き切れていく。
脳が悲鳴をあげ、ドロドロとその中身を垂れ流す。
溢れる膨大な熱量が、身を凍えさせる川すら灼熱に変える。
私の創った、私だけの為の地獄。
でも、不思議な心地だった。
水の冷たさに私の熱が溶けて、頭の中が段々と白く染まっていく。
眠りに落ちる瞬間の感覚に似ている。此処が現実では無いような錯覚を憶えて、自然と目を閉じた。
溶けていく。
意識が夢に消えていく。
人間である私が、川の流れに消えていく。
これが人間ではなくなることなのだと思った。一度、全てを溶かし尽くさなければならない。簡単に揺れるような弱い心は捨て去らなければ、人間を止めることなんて出来ない。
鉄の心。
鉄はその身を焼いて純度を増す。
不要なものを追い出して強くなる。
これはそのための儀式だ。
人間を捨てるために。
人間の情を捨てるために。
一度、私が死ぬために。
身体から熱が抜けていく。
ぼんやりとした頭で、空を仰いだ。水を滴らせる指の先で半月が浮かんでいた。未完成な月。あれが満月に成る頃には、私は完全に人間では無くなっているのだろうか。そんなことを思い、そうであって欲しいと願った。
ふと指先が震えていることに気がついた。それが願いの叶うことへの歓喜なのか、それとも私のニンゲンであるところが恐怖しているのかそれはわからない。でも、それもどうせ残り少ない時間だ。どうでもいい。
「ハ……ッ…」
唇が微かに動く。抑えきれない感情が声になってあふれ出す。
嗚咽にも似た感覚が、身体の奥底から湧き上がってくる。
全身が痙攣して立っていられなくなって、膝が折れた。
倒れこんだ先で私を抱きとめた水は暖かくて、人の温もりにも似ている。
それを見ていられなくて、水中で無様にもがいた。
消したい過去が脳裏に浮かんでは消えて、私が熾した水泡に包まれ、川底に沈んでいく。
──ねぇ、聞こえてる?
心の中での言葉は誰にも届く事なんてないけれど、それでも私は語りかけた。
これで私は死ぬから。
だから、最初に言っておくわ。
覚悟。
決心。
戒め。
懺悔。
これで、最後だから。
──さよなら
ずっと、好きだった。
~Sを欲して/風の吹く街で~
1
気だるい朝だった。目を覚ましてからずっと身体が鉛のように重い。
脱ぎ散らかされた衣服を跨いで窓から旧都の方を覗くと、鬼達は忙しそうに右往左往していた。昨晩の宴の後始末をしているようだ。
昨日は久しぶりに旧都の大通りを使っての大宴会が開かれていた。大通りを貫く料理と燃え盛る松明に囲まれて地底中の住人が集まって、飲めや歌えやの大騒ぎ。地霊殿のペット達も鬼達に混ざって騒いでいた。鬼と動物が騒ぎ、街が揺れる。この街ではよくあることだ。
私も、昨日は最初の方は参加していた記憶がある。あくまで仕方が無く、だが。この地底に──旧都に住む者だということで、ヤマメたちについでとばかりに引きずり出されたのだった。
でもまぁ。
どんな様子だったのかは正直よく憶えていない。気がついたら朝になっていた。どうにも私は酒には強くないらしい。気がつけば自宅の布団に横になっている、なんてことはそんなに珍しいことではない。それに、だ。
「……しっ」
「嫉妬狂いの化け物に、笑い声に満ちた喧騒は似合わない」
…………
グツグツと湯の沸騰する音が聞こえた。朝食にゆで卵でもと準備していたものだ。泡立つ湯に真っ白な卵をゆっくりと沈めると沸騰に合わせて卵が踊った。
灼熱の海に沈むその姿に、以前の私を思い出す。
人間だった私。
今の卵のように外側ばかりとりつくろってその実中身は──心はどこまでも弱かった。
私はその弱さを捨てるために、どれだけの時間を費やしたのだろう。燃え盛っていた心が記憶する時間間隔はひどく曖昧で、それがたとえ一瞬だろうと、永遠の苦しみのようだった。
妬ましい。
数分で、確実に固まるその身が妬ましい。
「……たま」
「卵が妬ましい」
…………やれやれ。
「……ま、」
「ま、鉄の心を持つ女が、橋姫で……あいたたた」
「あぁ! いい加減にしなさいよ、あんたは!」
鍋から目を離し、家の中を見やる。
玄関から直接つながる台所込みの8畳一間。
地底にやって来てから住み続けている私の家。
彼女は、そこにいた。
「なんであんたがここにいるのよ、ですか」
唇に指を這わせながら興味深そうに人の家のタンスを物色する不法侵入者。ついでに私のモノローグにも乱入してくる不法侵入者。古明地さとりの姿がそこにあった。
私の疑問に答えることも無く、さとりは服を取り出して自分にあてがっては、溜息混じりに元に戻していく。
「意外と衣服をいろいろと持っていたんですね貴方は。それもどれも随分高価な物ばかりじゃないですか。何を楽しみにして生活しているのかとしばしば気にはなってたけれど……なるほど、興味深い。……でも困ったわ。どれも私にはサイズが大きすぎる。妬ましい」
仕方が無い、と。さとりは一人でなにやらブツブツと呟いていたかと思うと
、まるで此処が自分の家のように引き出しを開けて、
「ぃやいや ちょっと待ちなさいよ。どこ漁ろうとしてんのよあんた!」
今度は人の財布を漁りだした。
慌てて取り上げてもさとりはそれが当然であるかのような表情を崩さない。
「服の調達でもしてこようかと」
「自分の家に帰ればいっぱい持ってるでしょうが! てか帰れ!」
「我が家……ですか」
その言葉を聞くと、初めてさとりの表情が曇った。顔を伏せて、親に叱られた子供のように呟いた。
「帰れないんです……地霊殿は、なくなりましたから」
「……は?」あんぐりと口が開いた。
「壊されてしまったんです」
此処から旧都を越えてたどり着く地獄の最深部。そこに悠然と建っている洋館が地霊殿だ。動物の鳴き声の鳴り響くその場所は地獄の最奥、地上のものが決して足を踏み込めない領域でもある。さとりの言うことが確かなら建っていた、だが。
私達が地底にやってくる以前から変わることなく立っていたという年期の入った場所だ。意外と結構簡単に崩れ落ちたりするのかもしれない。しかし、此処でひとつの疑問が浮かんだ。
……いったい、誰がそんなことを。
顎に手を添えて考える。
地霊殿ほどの巨大な建造物を破壊できる犯人。それは相当な力の持ち主だろう。となればその筆頭として浮かび上がってくるのは星熊勇儀だ。力自慢の鬼の中でも四天王とまで言われた彼女ならば、もしかしたら。
しかし、勇儀には動機が無い。
犯行には動機というものがつきものだ。そうでなくては事件として成り立たないし、理由無き行動はもはや無意識。彼女が内心さとりを嫌っているという可能性はゼロではないが、限りなく低い。
そこでふと浮かんだ。
無意識。
さとりの妹ならばそれを可能にする。……それなら犯人はこいし? 馬鹿な、それこそありえない。古明地姉妹といえば地底世界屈指の仲良し姉妹だ。
他には……ヤマメ。パス。
キスメ。一瞬巨大なキスメが地霊殿を踏み潰す光景を想像してしまったが、ないない。
……結局、どうしたって地底の住人は犯人に結びつかない。地霊殿がなくなって喜ぶ者など、私は知らない。
ならば、誰が。
「パルスィ」
「なによ」
「ですから、水橋パルスィ」
「何回も言わなくても聞こえてるって。だからなに」
「ですから」
さとりはゆっくりと、私を指差した。
探偵が犯人に向けるそれのような仕草で。
……ってことは。
「……わたし!?」
そしてゆっくりと、頷いた。
「しばらく、厄介になります」
鍋を火から外し、ゆで卵を取り出して今度は水に浸す。こうすると殻が剥けやすくなるのだ。
「……昨晩の話です」
振り返ると、サイズの一回り大きな黒のシャツを着たさとりが、ちゃぶ台に肘を置いている。目の前に置かれた湯のみをそこしか顔を出せていない指先でなぞった。昨日から着たままになっていたというブラウスとスカートは洗濯籠の中だ。
「宴会が始まると、とある橋姫はいつものように大量の料理を抱えて歩いていました。そうして皆の輪の外から宴の様子を他人事のように眺めていたのですが、私はそれに気がついて声を掛けました」
そこまでは自分でも覚えている。喧騒の苦手な私達はそうして輪の外にいることが多い。
「しばらくすると喉が渇いたと橋姫が言いました。まぁ、てんこ盛りの料理をバクバクと忙しなく食べていればそうなるでしょうね。懲りない人ですよまったく。ともかく、ちょうど私も手が空いていた頃だったので何か持ってきましょうと言い、貴方もそれを了承しました。そうして飲み物をと探していたのですが、勇儀さんがそんな私に気付いて親切にもその手に持っていたお酒を渡してくれました」
さとりは黙々と語り続ける。
なんだか嫌な予感がしてきた。
「お酒を飲んだ橋姫は真っ赤になったかと思ったらケタケタと笑い出しました。そうして橋姫は酒瓶片手に皆のところに走っていくではありませんか。そう、なんと彼女は絡み酒だったのです」
もうそんなことは記憶に無い。さとりが嘘を吐いているという可能性もあるが、朝から続く気だるさと頭痛が、その考えを否定した。
「橋姫は手当たり次第にお酒を流し込みました。もちろん私も止めようとしたんですが……どうにもなりませんでした」
さとりの言葉に多少の後悔と、怒気が含まれているように感じた。しかし、そんなことを言われても酔ってしまって記憶の無い私にどうしろと。
「で、泥酔状態になってしまった皆で「二次会に地霊殿で飲もうぜー!」……ドカン」
「いや、最後ちょっとおかしいでしょ」
「多少の表現の違いはあるけれど、事の顛末はだいたいそんなものです」
そこまで一気に話して、さとりはお茶を一口啜った。私はあぁ、と呻いて、手のひらで顔を覆い、開いた指の間から天井を仰いだ。
波のようにうねる木目を目線でなぞりながら考える。確かにそれが本当ならば間接的だけれど私の仕業だ。でも、さ。
……ねぇ、さとり。
「あんたは……私が酒に弱いこと、知ってるわよね?」
「え、えぇ。まぁ」
「姐さんに酒を貰ったとき、なんとなく予想してたんじゃないの?」
「ま、まさか。予想だにしない出来事でしたよ。はい」
「声がさ、笑ってるのよ。……さとり?」
ちゃぶ台越しにさとりの肩に手を置く。別にこんなことを責めてもしょうがない。地霊殿が一瞬で建て直されるわけはないのだから。
だから所詮は確認。
確かに私にも責任があるのかも知れないが、全ての面倒を被るのだけはご免だ。
「……半分、自業自得、よね?」
「そうかも知れませんね……ハハ」
乾いた笑いを漏らすさとり。どうやら自覚はあったようで、少し安心した。
私はやれやれ、まったく、仕方が無いと自分に言い聞かせて溜息を吐く。
こうして、なし崩し的にさとりは私の家に──
「すごぉーい! 半熟だぁー」
「あぁ!?」
なんだって?
……なんだって!?
何が半熟だって?
だれが半熟だって!?
締めくくろうとした私を、無邪気な感嘆がぶん殴った。
思わず凄みを利かせた声が漏れる。
さとりはヒラヒラと手を振って自分ではないとアピールしている。
わかってる。
よく似た声だけど、全然違う声だ。
さとりとふたりで同時に声のした方へ──私は左、さとりは右を向いた。
彼女の胸で、青い瞳が揺れていた。
「……こいしィ!」
「ね! ね! 見てこれ! 半熟だよ半熟! どろ~って、ドロドロ~って! アハハ、凄いね、凄いよこれ! 私聞いてない! お姉ちゃんでもこんな理想的な半熟作れないもんね!」
ゆで卵の半熟っぷりに異常なまでの興奮を見せる古明地こいしが、そよ風が髪を撫でるよりも違和感無く、そこにいる。
「地霊殿に帰れなくなっちゃったんでしょ? なら私もここにいてもいいよね?」
どうせ答えなんか聞かないくせに。閉じた瞳の妹はいつでも自由だ。
──ともあれ、こうして地底で最も厄介な二人が、私の家に転がり込んできたのだった。
2
「こいし、いっきまーす! やっほーぃ!」
「あぁちょっと! なんで窓破ってくのよ!」
幸いだったのは、こいしが同じ場所には長くはいられない風来坊だということだった。初めて三人で囲んだ食卓。半熟うめぇ、とあてつけのように繰り返しながらゆで卵をほお張り、ご飯を三杯おかわりして、お茶を一気に飲み干したこいしはそのままさっさと帽子を被りどこかへ行ってしまった。
突風のようにこいしが去っていった後、残された私達は特に話すこともなく黙々と箸を進めて、同時に手を合わせた。
さっきは流れからつい熱くなってしまったが、私もさとりも元々自分から話すタイプではない。こうなることは当然だった。
「まったく……朝っぱらから元気なやつね」
「あの子のいいところです」
それだけ答えて、さとりはまた黙る。
二人だけの家の中。互いの息遣いすらも聞こえてきそうだった。
「で……あんたらいつまでここにいるつもり? まさかずっとなんていわないでしょうね」
そんな静けさがどうにも落ち着かなくて、自分の食器を水に浸しながらどうでもいいことを言った。
「そうですね。いて欲しいというのなら期間は問いませんが……残念ながらお燐たちが地霊殿の再建を始めています。それが終われば帰りますよ」
「……猫達は住むところあるのね」
「仮設の小さな小屋ですけどね」
「一緒にそこに住めばよかったのに」
「……ふたり用だそうです」
「だからって飼い主追い出すのはどうなのよ……」
ふいに「ごめんなさいさとり様、この家ふたり用なんだ……」なんて烏の肩に手を置きながら言う三つ編みの猫の姿が浮かんだ。もしかしたらいつもさとりに世話されて──いや、さとりの世話をしている彼女達は、偶のプライベートタイムが欲しかったんじゃないだろうか。
「失礼な」
さとりが珍しく怒りの表情を浮かべて言った。
「肩に手を置いていたのはお空の方です」
ひどくどうでもよかった。
洗いものを済ますと再び静けさが狭い室内を支配した。
さとりは本棚を眺めながら私に確認も無く本を次々に抜き出し、数ページ捲って元に戻す。やがて一冊を手に取ると気味の悪い笑みを浮かべて壁に寄りかかり、じっくりと読み始めた。
私はそれを止めることもせず、特に何をするわけでもなく、食後のコーヒーを啜りながら窓の外を眺めていた。
此処からは旧都の様子が見える。私の理想の鬼とは全然違う、宴会ばかりしている気のいい鬼達がワイワイと騒がしくしている様子が見える。それを遠目に眺めているのが私のこの場所での役割だと思っていた。
時計の秒針が時間を刻む音だけが世界が停止していないことを教えていた。
外側から眺めている。
まるで全てが他人事のように通り過ぎていく。
それが橋姫にとってはいつもの光景。
ただ同じ空間にさとりがいる。
それしか違わない、私の日常。
「……なに?」
「いえ、ただ、」
視線を感じて振り向いてみればさとりがこちらを見ていた。
視線が交わる。
なんだろう。
私は、この状況に浮遊感に似た感覚を憶えている。
頭がぼぅ、として体が温かい。
変な格好で寝ていたから風邪でも引いたのだろうか。
「懐かしい、ですか?……そうですね、懐かしいですね」
熱に浮かされた頭に雨粒のような声がする。
さとりはパタンと音を立てて本を閉じた。
さとりの言うとおり、記憶の海の中でそんな光景があった。
そんな奥深くに沈めていたものを、さとりの言葉が掘り起こしたのだろうか。
屋根を叩く雨音が聞こえた気がした。
「じゃ、私は行ってくるから」
上着を着ながらポツンと言い、さとりを残して縦穴の番人に向かう。一応私の仕事ということにはなっているが、必要性は特に無い。縦穴を吹き抜ける風が私は好きだった。それだけだ。
さとりにこれからどうするかと聞くと、これからの生活に必要なものを用意してくると言った。私の家は一人で住むことしか考えられていない。準備は必要だろう。
……減っていくのは私のお金なのだけれど。
「はい、いってらっしゃい。パルスィ」
笑みと共に背中に受けた言葉から逃げるように、私は家を出た。
頭上から微かに地上の光が差し込んでいる。下を見れば旧都の灯りがこんな場所にまで届いている。ふたつの光に囲まれた縦穴の中腹に、私は腰を下ろした。
瞳を閉じて、風を全身で感じる。マフラーを差し出すと肌触りのいい真っ白なそれは上へ下へとはためく。
くん、と鼻がうずいた。
いつもより強い風に微かに水の匂いが混じっている。地上は今頃雨が降っているらしい。冷たい風に当てられて、思考が冷めていく。
「まただ……なにやってるんだろ、私」
独りが好きなはずだった。
人を捨てて孤独に耐えられる心を手に入れたはず。
その為に、この手を血で染めたはず。
私は全てを捨てたはずだった。
それなのに。
私はさとり達を見捨てられない。
きっと、怪物はそんなことはしない。多くの伝承や物語がそうであるように、血も涙も無い化け物はその本能のままに全てを喰らい尽くす。
……私も、そうなりたかったのに。
こいしが言っていた。半熟だって。
それは私を指して言った言葉ではないけれど、私を突き刺した。
捨て切れてない。
嫉妬に焼かれて灼熱の海に沈めた心は溶け切らなくて、固まりきっていない。
中途半端な半熟卵。
なんだか癪に障って、苛立ちを岩の壁にぶつける。長年叩き続けたその場所は少しずつ削られて私の拳の形にへこんでいた。
こんなに人間よりも強い身体を手に入れたのに。
弱い。
外面ばかり取り繕った心は、何も変わっていない。
「ぁぁあもう! どうしろってのよ!」
ガシガシと髪を掻き乱す。
考えを追い出そうとしても、絶対にどこかで引っ掛かる。人の情が邪魔をする。
どうすればいいかなんて、答えなんて簡単なんだ。
さとりを拒絶する。心を殺して。
でも、そう考えるのは簡単なのに、きっとあいつの前ではそんなことが出来ない。
こんなことばかりしている。
気がつけば誰かと一緒にいて、
誰かと話をしていて、
別れた後にそんな自分を嫌悪する。
私なんか大嫌いだ。
「な~に朝から暗い顔してんのさ。もっとスマイルスマイル。これ大事だよ」
「は?」
いつの間にか物思いに耽って自然と上を見ていた。そこにふいに影が落ちた。ささやかな明りしか存在しない縦穴に、稲穂のような金色が映えた。
逆さまに私の前に現れた黒谷ヤマメは小さく勢いをつけると、身体を一回転させて降り立ち腰に手を当てて私の前に向き合った。
「どったの? むすっとしちゃってさ。あ、それはいつものことか」
「……何、なんか用?」
「別に、友達を心配するのに理由がいるのかな」
地底のアイドルであるところのヤマメはニコニコ顔を崩さない。これが営業スマイルなのか本心なのかはわからない。
「心配させるような顔に見えた? 蜘蛛ってたくさん目が付いてても全部節穴なのね」
「む、失礼な。蜘蛛は人間には見えないものが見えるんだよ?」
「紫外線なんて見てもしょうがないでしょ。ここ、太陽無いんだし」
「違う違う! 確かに紫外線とか見えちゃうけどそういう意味じゃなくて……もういいよ! そんなことよりさ、暗い顔のパルスィに……」
そう言いながらヤマメは服の中を探って、小さな袋を取り出した。
「ヤマメちゃん特製、地獄の悩みを救う蜘蛛の糸をプレゼントだ! はい、どーん!」
ヒュルヒュルスパパーッンズババァ~なんて訳のわからない擬音とけったいな素振りと共に、大きなお世話が私に押し付けられる。
ヤマメは『蜘蛛の糸』と称していつもスカートの中に何かを備えて、皆に配って歩いている。それは子供達の前ではおもちゃだったり、病が流行した時には薬品だったり、手作りのクッキーだったりして節操ない。
彼女はそれを受け取った奴が喜ぶ顔を見るのが好きなのだそうだ。
土蜘蛛で病気を操れる、という嫌われる要素しかない彼女が皆の人気者であるのは、そういうヤマメ自身の性格が原因なのだろう。
断っても関係なく押し付けてくるので大人しく受け取っておくことにする。中を覗くと何故かカードが束になって入っていた。トランプといっただろうか。適当に一枚を抜き取ってみた。
「うわ」
私の手の中で道化師が笑っている。何も考えずに笑っている姿がなんだか気に食わなくて、すぐに戻した。
私にこんなもの渡してどうしようってんだか。
「こんな場所で孤独気取ってても何にもならないんだからさ、また皆でパァーッとやろうよ」
ヤマメは何の悩みも無さそうな笑顔で言う。
「……ほんと、変わり者よねぇあんた」
「変わってるんじゃないよ、これが私だからさ。みんなのアイドルは笑ってなきゃ」
それだけ言い残して、またまぶしいほどの笑顔を振りまくと、ヤマメは縦穴を降りていった。
その背中を見送りながら、思う。
土蜘蛛の癖に人気者のヤマメ。
釣瓶落としなのにゆらゆら揺れているだけのキスメ。
覚りの目を捨てたこいし。
変わり者ばかりだ。
変わっていたから地獄に落ちた奴らばっかりだ。
でも、妬ましい。
あれだけはっきりと「自分はこうだ」って言えるヤマメが妬ましい。
私なんか、自分がどうしたいかすらわからないのに。
……さとり。
いってらっしゃい、と。私に向けられていた微笑みが頭に浮かんだ。
さとりなら──心に触れられる彼女なら、教えてくれるのだろうか。
縦穴を貫く風鳴りが、そんな考えに頷いているような気がした。
……あぁ、まただ。
また、私は頼ってる。
3
古明地さとりほど純粋な覚り妖怪を、私は知らない。
覚りと呼ばれた種族はその能力から人間はもちろん、妖怪や能天気な妖精達からすらも嫌われた。だれしもが心の内にトラウマを秘めている。触れたくない、消し去りたい過去を持っている。でも覚りはそれをあざ笑いながら土足で踏みにじる。少なくともそういうものだったと勇儀に聞いた記憶がある。
それを嫌い、覚りとしての生き方を捨てたのが古明地こいしだった。幸せの定義なんてものは分からない。でも、さとりには悪いけれど、今の彼女を見ているとこれでよかったんじゃないかと感じる。彼女のふたつの瞳はいつも嬉しそうに弧を描いているから。
世界から自らを切り離した異端児は、楽しそうに毎日を過ごしている。
でもさとりはそうはしなかったし、出来なかった。
彼女にとって心を読むなんてことは息を呼吸をするくらい当然の行為。つまりはしなければ死ぬということ。誰かの心が傍に無ければ死んでしまう。私が望む生き方とはまるで真逆な、依存する生き方だ。
きっとそれは覚りとして当たり前のことで、相手の心が知りたいだなんてふざけた好奇心は、さとりの存在そのものだろう。
さとりは私よりも私のことを知っている。
──でも、だからこそ、古明地さとりは壊れている。
思い悩みすぎるとろくなことがない。
気がつくと自分の家の前にいた。なにも心の準備が出来ていないのにだ。
「……入りずらい」
目の前に建っているのは長年付き合ってきた自分の家のはずなのに、今はまるで違う場所のようだった。中に誰かがいるという、たったそれだけの違いしか無いはずだというのに、中から聞こえてくる物音にいちいち怯えている自分が情けなくてしょうがない。
「ただいまー……違う」
頬を掻いた。
「帰ったわ、ご飯は?……違う。」
入るときのシュミレーションまで始めてしまった。
要するに私はこういう状況に慣れていないのだ。
帰ってくると誰かがお帰りと言う。そんな状況に。
それでもいつまでもこうしてはいられないので、ほんと、どうしようかと無駄に思案していると、家の中で硝子の割れる音と盛大に何かが倒れるような音がした。
「──大丈夫!?」
身体は反射的に動いていた。
自然と戸を開けていた。
そこに広がっていたのは、
「って……」
本当に私の家ではなかった。
あぁ……もう……
「なにやってんのよぉ……アンタはァァァ!」
頭が痛い。
叫び声で喉が痛い。
緑色の世界に声は響き渡った。
嫉妬の色に染まった世界で。
私の家だった場所へ向かって。
うっそうと生い茂る緑に向かって。
その中心地点。
瞳をギラギラさせている犯人。
「あらパルスィお帰りなさい、早かったですね」
──さとりに向かって、私は叫んでいた。
チョキンチョキン。
ハサミが音を立てる。
さとりはこちらに見向きもせず手元の鉢植えにハサミを添えた。
そしてウンウン悩んでいるような表情で「それッ」
欠片のように細い枝が零れ落ちる。
さとりはそれを確認してから鉢植えを抱えあげて、いろいろな方向からながめると「うん」と頷く。
そして「どうですか!?」とこちらへ向けた。
「どうって……あぁ! どうしてこうなってんのよ!」
「……やれやれ」
期待に添えなかったのか、幾多の鉢植えに囲まれてさとりは溜息を吐いた。
私の家は鉢植えに埋め尽くされていた。玄関から台所に至るまで全て。
緑。
緑。
緑。
鉢の中で元気に茂る葉は全て緑色だった。
花でも咲いていれば多少見れたものだったのかも知れないが、そんなものはひとつも無い。
床一面に敷き詰められた様々な形状の緑色は、荒野のようだった家を森林へと変貌させている。
まるで自分が世界を見下ろしているような景観。
その中でさとりがジットリとした笑みを浮かべた。
「あなたは知らないようですね……」
あぁ知らない。
こんな足の踏み場所も無い居住空間は知りたくも無い。
「これが癒しの空間を演出する……がーでにんぐ、というものです」
そしてきっと、さとりも今朝までそんなことは知らなかった。
「あぁ……」
古明地さとりは壊れている。
主にブレーキとかが。
「二丁目の花屋にいた方々の心を読んで思ったんです、いつも難しい顔をしている貴方の暮らしに必要なものは花だと! 花はいいですよ……まず光合成?で空気が美味しくなるそうです。ゆっくりと成長する様を眺めるのもいい気分転換になるそうで、なによりも綺麗」
言いながらさとりはうっとりと花の咲いていない鉢植えを眺める。伝聞のような口調なのはまた勝手に盗み聴きした内容だからなのだろう。こいつにその会話に割り込めるような勇気は無い。
「……なんですって?」
驚いたようにさとりが窓の外を見た。視線の先にあるのは旧都だ。
「盆栽? なるほど、がーでにんぐというのは洋風盆栽のことだったのですか。どおりで……」
また旧都の心の声を盗み聞いているのだろう。私の家から旧都の者の声が聞こえるということは、今回は相当なハマリッぷりなようだ。厄介な。
「……駄目だわ、これ」
覚りは心を読む。
他人考えを知りたいだなんて好奇心は、誰しも持っているものだ。
しかし、その結果は必ずしもいいことだとは言いきれない。
自分が嫌われていることや、人の醜さみたいなものに直面することも多いのだろうから。
そうして誰もそんなことをしようなんて考えなくなる。
知れば、私のように絶望するから。
だからこそ、さとりは壊れている。
それでも知りたいと、さとりは言った。
こいつの好奇心のブレーキはとっくに壊れ果てていて、全てを知りたがる迷惑極まりない妖怪になってしまった。
ゆえに、名をさとり。
好奇心の暴れ馬。
「ちょっと見せてみなさいよ」
こうなったさとりは誰にも止められない。きっとあの勇儀でさえも。
どうしようもないなら、満足するのを待つしかない。
みっしりと並べられた鉢を爪先立ちで避けながらさとりに近寄る。さとりはまるでわが子を愛でるようにして鉢の中で茂る緑色を見ていた。私は横から覗き込むようにしてそれを見た。
「上手いことできてるもんねぇ……」
「でしょう? この子は特に綺麗なんですよ」
やや興奮気味にさとりがこちらを向いた。普段半開きのふたつの瞳は今はパッチリと見開かれている。香水のような、落ち着きのある香りが私の鼻をくすぐった。柔らかな頬は興奮で赤くなっていた。
「にしても、なんで全部花が無いのよ。これじゃ本当に盆栽じゃない」
盆栽なら私も知っている。
ゆったりとした趣味であるところのそれは、私の性に合わないけれど。とにかく、そのがーでにんぐとやらをしたいのならもう少し華やかさが必要な気がした。
「やっぱり自分の好きな色が周りにあったほうがいいでしょう?」
「薔薇じゃないのね。あんたのところの庭にいっぱい咲いてるじゃない」思い出して訂正する「咲いてたじゃない」
「あれは地霊殿に元々あったものですよ。私が作った庭ではありません」
言われてみれば。
さとりが地底にやってくる前から地霊殿はあの形だった。
「あー……そういえばそうだった気もするわ」
「そうですよ……私が好きな色はずっと、」
舐めるようにしてさとりは鉢を眺めた。
三つめの目は、
「緑色です」
私をみている、気がした。
結局これでは生活空間すらないということで、幾つかを残して旧都へ持って行った。さとりは残念そうな顔をしていたけど関係ない。私だって寝る場所くらいは欲しい。
「たっだいまァー!」
「だから玄関から入ってこいって行ってるでしょうがぁ!」
いつもの数倍の量のご飯が炊き上がる頃、修復したばかりの窓を蹴飛ばしながらこいしが帰ってきた。肩からぶら下げた鞄はいっぱいに膨らんでいる。また地上でいろいろ手に入れてきたらしい。
「おかえりなさい、こいし。ご飯できてるわよ」
「あー、お姉ちゃんその服どうしたの!?」
「いいでしょう? さっき買ってきたの」
「私のお金でねっ!」
いつも着ている薔薇の柄の服は特注品らしく、さとりはいつもとは印象の違う服を着ていた。見せびらかすようにくるりと一回転すると緑色の裾がひらひらとなびいた。
「いいなぁ、私も新しい服欲しい」
物珍しそうにこいしがさとりの服を眺める。口元に指を当てる動作はさとりと同じだ。
「そうね、明日一緒に買いに行きましょうか」
「やたーっ!」
「当然のように言ってるけど減るのは私のお金なのよ!? 少しは遠慮しなさいよ!」
当然この姉妹が私の意見を聞いているはずもなく、ふたりでどこへ行こうか。どんな服にしようかなんてことで盛り上がっていた。
また私の懐が軽くなることが確定したようだ。
絶対に利子つけて請求してやる。
「……じゃあ決まり! 明日は三人でおでかけだね」
「まったく、姉妹仲良くてねたま……って私も!?」
「「もちろん!」」
声のトーンこそ違えども、この姉妹の声は実に上手く交じり合う。
私は財布の中身を確認し、引きだしの奥の貯金箱に密かに謝罪した。
食事を終えて簡単な入浴を済ませると「じゃあ寝よう!」と言ってこいしは勝手に布団を敷いてしまった。まったく、この自由さには嫉妬する気にもなれない。
しかし、ここで問題が発生した。
この家は元々私の独り暮らしだ。当然布団は一組しかない。さとりが買ってくるなりしてきたのかと思えば、
「私がそんな重いもの買ってこれるはずないじゃないですか」
あの大量の鉢はなんだったのだろうか。
とにかく、圧倒的に横になる面積が足りない。
「……姐さんとこに余ってるの借りてくる」
借りを作るのも嫌だけれど、仕方が無い。よく宴会を開いている勇儀のところになら予備の布団の一枚や二枚備えてあるだろう。
そう思って外に出る準備を始めようとしたが、布団を眺めていたさとりがそれを止めた。
「大丈夫ですよ。なんとかなります」
そうして、こうなった。
「……あっつ」
太陽の届かない地下世界は元々気温の変化に乏しい。とはいえ地上が夜になれば吹き込んでくる風が冷たくなるわけで、時間的な夜間は地上以上に冷え込みが激しい。私は厚着をして布団に入っていた。
いつもは。
「……お姉ちゃん、狭い」
「そうね、流石に少し苦しかったかも」
「もっとそっち寄ってよ」
「ん、これ以上無理……」
「……やっぱり姐さんのとこに」
「「それはだめ」」
「なんで意地になってんのよ……あぁもういいわ、あんたら布団使いなさい。私隅っこで寝るから」
そう言って起き上がろうとしても、両側から掛け布団を押さえつけられて身動きが取れなかった。なんでこんなに三人で寝ることにこだわっているのか理解できない。
私達は川の字だった。いや、私が一番背丈があるから「小」の字か。
さとりがなんとかなるなんていうものだから試してみたけれど、どう考えたって無理がある。
私が仰向けになれば横のふたりがはみ出るし、だからといって横を向けば、
「お~、寒い寒い」「やっと暖まってきましたね」
どちらかの顔が吐息がかかりそうなほど近い。
私にとっては拷問状態。
私が味わってはいけない、ぬるま湯だった。
鬼となった時に身を沈めた灼熱よりもずっと心地良い、ずっとこうしていたいという誘惑を伴った、私には相応しくない生活。
流されそうになる。
激流に流されたものが、これ見よがしに私の前を漂っている。
私はそれを、受け入れてはいけない。
「……以前はこうしてふたりでひとつの布団に入っていましたが」
と、背中に声が掛けられた。首筋に息が掛かるほど近い、さとりの声。
「やっぱり、もう無理でしたね」
気がつくと、私の目の前でこいしが規則正しい寝息をたてていた。
「当たり前じゃない」と私は返した。
妖怪となったこの身は成長しない。ただ三人になっただけだ。
「どれだけ昔の話よ、それ」
「そうでしたね」とつぶやくさとりを背に、瞳を閉じて気持ち良さそうに眠っているこいしを見た。
起きている間ひっきりなしに変化する表情も、こうして見ると所々さとりに似ていた。息を吸うたびに小さな唇と雪のようなの髪が風に揺られる草のように揺れている。
一時だけ全ての瞳を閉じて、世界の全てから自分を切り離している。
無性に眠りたかった。
私も眠って、意識を内に閉じ込めたかった。
起きている時でもそうしていたかった。
全てを絶ちたかった。
でも。
それをもったいないと言っている自分もいた。
この時間をもっと感じていたいたい。そんな自分。
それが人間だった私なのか。
それとも嫉妬心を絶やすことを拒む私なのか。
やっぱり、わからない。
自分がわからない。
「またそんなことを考えてるんですか」
背中に向かってさとりが言った、呆れたような声だった。
「悪い?」
「悪いとは言いません……でも、もっと楽しいことを考えましょうよ。私も気分が暗くなります」
「ヤマメみたいなこというのね、たとえば?」
考えてなかったらしく、さとりは言葉に詰まる。
「……明日どうしようか、とか」
そうしてやっと、つまらない答えを返すとと、私の顔に両手を添えた。
ずっと布団にもぐっていた手の平は微かに汗ばんでいて、私の肌に張り付くようだった。
暖かくて冷たい、心地良い手の平。
「もっといろんなことを考えて下さい。楽しい心とか悲しい心とか嬉しい心とか……もっと……もっと私に見せてください」
静かに、布をする音と一緒に、私の腰に手が回された。じんわりと込められる力は弱弱しいはずなのに、その力が私の身体を砕き散らすかのような恐怖を感じた。
怖い。
誰かと一緒にいるのが怖い。
私が壊れるのが、怖い。
「独りになりたいだなんて貴方の心は、もう見飽きました……」
だから。
「そんなこと言う暇があったら、お願いだから……私なんて見ないで。あんたには他にも見なくちゃいけない人が大勢いるでしょう?」
興味を失ったものをいつまでも見続ける理由なんてどこにも無い。私を見飽きたならさっさと私を通り過ぎて、どこかへ行ってしまえ。頼むから。
「嫌です」
「このっ……!」
あっさりとした拒絶に反応して、腰にしがみつく両手を握る。私にとってはこんなのは要らないものだってずっと考えてきて、それをさとりは知っているはずなのに。
いや。
知っているから、か。
「……泣いてるの?」
その手は小さく震えていた。
それだけで私の憤りも苛立ちも全て吹き飛ばされて、頭は真っ白。何も残らなくなる。
「……泣いてません」
「嘘。声が泣いてる」
くぅと喉が鳴る音と一緒に、さとりが顔を背中に埋めたのがわかった。微かに冷たさを感じる。やっぱり、泣いてるんじゃないの。
「……なんで、泣くのよ」
そんなことされたら何も出来ないじゃない。
この腕を振り解く事だって、さとりの顔を見ることすら出来なくなる。それを知っているからこうしているのだとしたら大した図々しさだけれど、きっとそうじゃない。
もし私がさとりを振り切ろうしても、一度手に入れたおもちゃを泣きながら放そうとしない子供のように、私以上に必死になってこの手を放そうとしないだろう。
「分からないなら何もしないで……少しの間でいいですから、こうさせてください」
まるで自分だけが悪者になったような気分になる。誰かの涙っていうものはそういう魔力をもっている。苦手だ。こういうの。
「……好きにしなさい」
だから。
もうさとりに泣いて欲しくないから。
こいつは、私なんかに構わなきゃいいのに。
「ありがとう……やっぱり貴方は、優しいですね」
「優しさなんか、そんなもの要らないわ」
それ以上会話もせずに、しばらくじっとしていた。家の中には三人分の息の音。耳を澄ませば三人分の心臓の音まで聞こえてくる。ぬくもりと規則正しい鼓動は、私の意識を眠りに誘い始めた。
背中に体温を感じながら、意識が沈む。
──夢の中でも、独りになれなかった。
4
雨が全てを洗い流してくれるのだと思っていた。
だから、この手を血に染める時はいつも、雨が降っていた。
「ハハッ──アハハハッ」
嫉妬狂いが笑っていた。
雨が髪に張り付いて、水を含んだ服はいつもよりずっと重い。
それでも、身体は熱い。強すぎる想いがまた、私の身体を焼いていた。
真っ赤に染まった手を、赤をくれたものに伸ばした。草むらに転がっているそれは、腕が無くなってたり内臓が所々漏れてる気がしたけれど、まだ心臓は微かに動いている。気持ち悪くて、吐き気を覚えた。
それでも、私は笑っていた。
そうすることが化け物のすることだと信じていたから。無理矢理作った笑顔はきっと捻じ曲がっていて、人に見せられるものではなかっただろう。
でも、そんな私を見ていた目は泥に塗れて、転がっていた。
──どうしたの? 私。
どこからか、声が聞こえた。
まだ心臓は動いている。まだ生きてるのよ?
早く止めないと。
早く、消し去らないと。
自分の心臓をそうしたように、全部、殺さないと。
ほら、早く。
──早く!
「ハハハッ……」
そうね、と。
私は、笑っていた。
「バッカじゃないの……」
きっと、笑えていた。
「……ハァ」
何度目かの溜息が、虚空に消えていく。
はぁ。
天井の無い吹き抜けが私の溜息を飲み込んで、風に乗せて運んでいく。
冷たい岩場が酷く懐かしい。
いつも背中に感じていた岩盤の固さが、今は痛い。
ここでこうして地上を見上げるのも数日ぶりだった。
さとり達が家に転がり込んできてから、数日。
私の日常は完膚なきまでに破壊されてしまった。
いつまでも布団から出たくなかった朝は、こいしに掃除の邪魔だと蹴飛ばされる朝に。
ぼぅっと旧都や地上を眺めていた昼は、毎日のように変化するさとりの興味の対象に振り回される昼に。
そして、寒さに身を縮めた夜は、暑苦しいほどの体温に包まれた夜に。
限界だった。
これ以上こんな生活が続けば、私は私ではなくなってしまう。
孤独であるべき妖怪は、独りでいられなくなってしまう。
「……はぁ」
どうしてこんな事になってしまったのだろうと今更になって思うけど、原因を作ったのは私だ。あの時も、あの時もと、振り返ってみれば殺したくなる自分が山ほどいる。
それは過ぎ去ってしまった過去ではあるけれど、確かに今につながっている。
「ハァ」
結局、過去が追いかけてくる。
なんとなく、岩肌に額を当てた。暖める者のいなかった肌は酷く冷たくて、押し付けた頭が痛いくらいだった。
もうこの場所だけだった。
忘れられた入り口。地上と地下を隔てる長い、永い縦穴。
誰も通ることの無いこの場所だけが、私が私で居られる場所だった。
「あぁ、やっぱりここにいたのかい、パルスィ」
……それも、一瞬で崩れた。
ハァ。
「……なに、姐さん」
世話焼き姐さんの登場だった。変わり者の集まった旧都を纏め上げる鬼の四天王。まったく、さとりだけでも手一杯だってのに、またやっかいな人が関わってきた。
帰って、一人にしてと睨み付けるような視線を送っても、勇儀は全く動じずに片手に持っていた杯を置いた。そうしてどっかりと座り込む。おせっかいめ。
「いやさ、あんたらが上手くやってるかなとさっきパルスィの家を見に行ってきたんだけど、さとりしかいなかったもんでね」
「さとり、なにしてた?」
「なんだか分からないけれど熱心にあやとりしてたっけな。私が入ってくるなり「見てくださいこれ! ロンドン橋って言うらしいですよ』って、いやいや、相変わらずだねぇ」
「あぁ、またあいつは……」
私は思いっきりうな垂れた。帰れば妙技の数々を夜まで見せ続けられることだろう。もしかしたら一晩中かもしれない。
そんな私を見ると勇儀は持ち前の巨体に腰を当てて、カラカラと笑った。
「ハハハ、でも良かったよ。パルスィの家に行くって言われた時にはどうなるかと思ったけど、上手くやってるみたいじゃないか」
「姐さんまで……あぁもう、地底の奴らの目は節穴ばっかり。私が楽しんでるように見えるって?」
こんな疲労困憊の私を見てそんな事を言えるはずが無い。言えたとしたらそれはよほどの鈍感だ。
でも、「あぁ」と勇儀は当然のように言った。
「楽しいことをしてれば疲れる。当然だろう?」
「違う、息してるだけで疲れるわ。いっそ死にたいの……ねぇ姐さん、殺して?」
私はそういって顔を伏せ、膝を抱えた。
もういい、疲れた。
もう、嫌だ。
「嫌だね」
でも勇儀はそんな私を一蹴すると、どこか悲しそうな声で言った。
「殺して欲しいならさとりに言いな」
空気が緊張するのがわかった。
膝の間から覗き込んだ表情は怒っているようで、それでいて慈しんでいるようで、どう返したらいいのかわからなかった。
「他人の目から見てるとね、アンタはいつもとんでもなくおかしなことやってるんだよ。楽しそうに笑ってるかと思えば次の瞬間にはついさっきまで笑ってた奴から逃げていったりさ。何がしたいんだか私にはさっぱりだ」
理解できないね、と勇儀は景気良く杯を煽る。
「さとりが相手のときなんてそりゃもう酷いもんさ。まるで二重人格だよ」
上手いことを言うと思った。
誰かと一緒にいる私と。
孤独でいたがる私。
ひとつの身体に私が二人いて、笑っている私を妬んだ孤独な私が私を殺す。それでも殺したはずの私はまたすぐにやってきて、また笑ってる。また殺す。
また笑う。
妬んで、笑って、殺して、戻ってきて、妬んで。
ずっと、そうしていたのかもしれない。
「さとりが可哀想だよ」
「そう、そうかもね……」
素直に同意してやけくそぎみに笑う。
「ほら」と、勇儀が杯を差し出した。波々と注がれた乳白色の液体が真っ赤な杯の中で揺れていた。
「飲めって?」
「あぁ、分からなくなったりした時や悩んでるときは飲むのが一番だ。お酒は素直になれる魔法を持っているんだよ」
「いらない」
もうお酒なんか飲むものか。
私は杯を押し返すと、また溜息を吐いた。
溜息と一緒に、溜め込んできた言葉が漏れた。
「……ねぇ、姐さん。姐さんの知ってる私ってどんなの?」
「どうしたのさ、藪からぼうに」
「さとりがね……言うのよ。「貴方は優しい人です」って。姐さんの知ってる私って優しい?」
問いかけに勇儀は悩んでいるようだった。
当然か。
少なくとも橋姫と呼ばれてからはそうでないようにと思っていたのだから。
「うーん…どうにも言いにくいねぇ。さっきも言ったけどアンタは……こういっちゃ何だけど、何がしたいのか分からない」
言い切られる。私ははっきりとしない蒟蒻みたいな奴だって。そこまでは言ってないけれど、意味は同じだ。
でも、少しだけ安心した。勇儀にまで優しいだなんて言い切られたらどうしようかと思った。
「でも、」と勇儀は続けた。
「でも?」
私は顔をあげた。あぐらを掻きながらまた杯を傾けていた勇儀は、まるで茶化すかのような表情で、また言い切った。
「少なくともさとりといる時のアンタは、どんな時よりも楽しそうに見える」
──あぁ、やっぱり駄目だ。
「……楽しけりゃそれでいいじゃないか。なんでそんなことをするんだか、私にはさっぱり見当が付かないね」
「それは……私は、さとりに酷いことしたから」
「それだ」
そっぽを向いた私に、杯を突きつけられる。
余計な言葉が勇儀の姐さん根性に火をつけたか。
「それをまだ聞いちゃいない。アンタらが地底に来たときには上手いことはぐらかされたけどね、もう話してくれてもいいんじゃないかい?」
聞かれたくは無かった。
「死にかけのさとりを背負ってアンタが此処へやって来た時はそれはもう驚いたもんさ。……橋姫と覚り妖怪が揃って地獄行きなんて、どうやったらそんなことになるんだい?」
表情が捻じ曲がる。
出来れば、思い出したくは無かった。それでも記憶の片隅にこびりついているものはその言葉に反応して、再びその姿を私の前に見せ付ける。
「……ねぇ、姐さん」
もう溜め込むのも限界だった。
「人間って、好き?」
表情の無い声で聞くと、勇儀は唐突な質問に戸惑っていた。目を丸くして視線が泳いでいる。
「好きか嫌いかっていえば……そりゃ好きさ。昔からの関係を築いてきた好敵手みたいなものだからね」
そう、と私は頷いた。
鬼と人間の関係は古くから、それこそ私が人間として生まれてくるずっと前から続いていた。
それは争いの関係。
互いに敵対し続け、決して交わることの無いある種対等な、契約にも似た関係だと聞いている。
「変わってるわね姐さん。殺し合いしてた連中を好きだなんて」
「まぁ、別に人間が憎くてやってた訳でもないしね。鬼として好きだったってだけさ。でも、それとこれとなんの関係があるんだい?」
「いやね、姐さんのなんてまだまだ可愛いものだって」
なんだか可笑しくて、口元を歪ませた。
勇儀の好意はあくまで鬼としての好意。
これくらいの変人っぷりなんて可愛いものだ。
「……まだまだ正常よ」
上を見上げた。
どこかで繋がっている地上を見た。
微かに漏れる光に、過去を想った。
吹きすさぶ風と、止まない雨。
むせ返るほどの血の匂い。
身も心もをボロボロになって尚。
光のある世界で、あいつは笑っていた。
「さとりは……あの馬鹿は」
霞んだ声で彼女は言った。
その言葉はかき消されてしまって聞き取れない。
雨が流してしまって聞こえない。
それでも、あいつは叫び続けた。
──すき、です、と。
「地獄に落ちるほど、人間が好きだったのよ」
だから。
さとりはどうしようもなく、壊れている。
「ずっと、ずっと昔の話」
旧都よりもずっと小さな人間の村に、鈍間で馬鹿な妖怪がいた。そいつはただ人間のことが知りたい、だなんて単純な理由で人間の中で暮らしていた。幸い彼女の身体は人間のものとさほどの相違も無く、最大の特徴である胸の瞳だけ隠していれば、誰も彼女のことを覚り妖怪だなんて気付かなかった。
覚り妖怪であることが知れれば周囲にどんな扱いを受けるかなんて想像するのは簡単なことだというのに、それでも彼女は人間が好きだった。
人の心は興味深い、と夢中になっていた。
十人十色という言葉があるように、彼女にとっては世界を彩っていたのは人間の心だった。出会う人間全てが、彼女にとっては宝石のように輝いて見えていたのだろう。歪んだ心の中にもどこかで輝きを放つ部分を持っている。むしろ歪んだ心の中にこそ美しいものがあると、覚り妖怪は目を輝かせていた。
異常な覚り妖怪は特別なことは何もしなかった。人間と同じように食べて、人間のように働いて、人間のように眠って。ただただ人間の真似事をして毎日を過ごしていた。そうすることで人間を知ることができるし、彼女はそれだけで幸せだった。
本当のところは心の読めない私には分からない。
でもきっと、彼女は幸せだった。
それでも、限度を知らない彼女の好奇心はもっと知りたいと叫んでいた。
もっと人間を知りたい。
もっといろんな心を見てみたい。
もっともっと、いろんな事をしてみたい。
「……ってね。でも──いいえ、だからこそなんでしょうね。あいつは見てしまったのよ」
それまで黙って話を聞いていた勇儀が、合点がいったと手を叩いた。
「そう、そういうこと」
ある日、壊れた覚り妖怪は、見てしまった。
壊れた人間を。
人間を捨てて、鬼とならんとする人間を。
一色に染まりきった心を。
彼女の瞳には、ずっと知りたかったものを捨て去った愚か者に写ったのか、それとも新しい興味の対象に写ったのか、それはわからない。けれどそんなことは彼女にとっては関係なかった。知りたいと思えばその過程や理由なんて関係なく、理解したがる。そういうものだったから。
「想像できる? やっと人間を捨てられたと思ったら人間が大好きです、なんて公言する妖怪に付き纏われる気持ち。いくら邪険に扱っても拒絶しても物ともせずに毎日毎日ずっと私を見てるのよ」
思い出すと苦笑いが浮かんだ。
「……恐怖すら感じたわ」
それでも私は妖怪として人間を襲い続けた。
何度も何度も。
そうすることが人を捨てた自分がするべきことだと思っていたし、そうしなければ狂気を保っていられなかった。
ただひたすらに人間では無い証を求めて、真っ赤な血を求めた。私の手はいつも血の色と匂いが落ちなかった。事を終えた後、そんな自分を見て、思うのだ。
──あぁ、私はもう人間じゃないんだ。
「今思い返すと恥ずかしいわね……血で着飾った自分を見てニヤニヤしてるナルシストだわ」
私達は苦笑した。
「でも、そんな私ですら、あいつはずっと見ていた」
大好きだと言う人間が血まみれになっても、腕が無くなっていても、臓物を垂れ流していても、それを見て私が笑っていても、ただそれを観察しているだけ。今でもそうするように指で唇をなぞって、私の後ろで見ているだけだった。まるでご馳走が目の前に広がっているかのように。
私の恐怖は、ある確信に変わった。
──こいつ、狂ってる。
人間を知りたい。
笑う意味。
泣く意味。
生きる意味。
死ぬ意味。
それが彼女にとっての全て。
それしかなかった。
「さとりの好きだって言葉は嘘なんかじゃないけどね……あいつは「好き」って言葉の意味が分からなかったのよ。ただ、人間の好きって気持ちに似た感情をそう言っていただけ」
誰かを好きになる心は、誰かの全てを知って、全てが欲しいという感情に通じているから。
生まれてからずっと心の声に頼って生きる覚り妖怪にとっては、一番近くにあるはずのものなのだろう。でも、「知る」ことは出来ても「理解」出来るかというのは別の話。
「好き」だって言葉を、さとりは理解できなかった。
とにかく、見よう見真似で言葉を発していたのだ。
それでも分からなかったから、人間の中で生きていたし、じっと観察していた。
「ま、好奇心は猫も殺すっていうけどね……」
さとりは自分を──覚り妖怪としての自分を殺し続けていた。「……と思っているな」なんていう台詞は覚りの代名詞みたいなものだ。それをさとりはしなかったし、出来なかった。
ただ知って、自分の中に知識のように溜め込んでいく。発散されることの無い心の声はあっという間にさとりの心を埋め尽くして、さとりは自分が分からなくなった。
自分を殺しながら、それでもさとりは「好きだ」と叫び続けた。
──そして、審判は下された。
「地獄に堕ちなさい」
閻魔にそう言われたのは、果たして壊れた人間だったのか、それとも壊れた妖怪だったのか。
橋姫はずっと、自分を壊すために、人間を襲い続けていた。
覚りはずっと、自分を壊しながら、人間が好きだと叫び続けていた。
どちらにしても、壊れた私達は地獄に送られることになったのだろう。
ただ、さとりの方がほんの少しだけ早かった。それだけのことだ。
もちろん、さとりはそんなのは嫌だと拒絶した。それでは人間の事を知ることが出来なくなってしまう。「大好きな」人間から離れることは、さとりにとっては死にも等しい行為だった。
それでも所詮一妖怪でしかなかったさとりにそれをどうこうできるはずも無く、ただ逃げることしか出来なかった。
さとりは地べたを這いずってでも逃げ回って、それでも人間を好きだと言うことを止めなかった。
それが更に、さとりを壊していった。
「結果は今の通りよ。私達は地獄に堕ちて、今こうしている」
「でも、それじゃあアンタまで一緒にやってきた理由にはならないじゃないか」
「そうなんだけどね」
勇儀の言う通り。いくら地獄に堕ちることになるだろうとは言っても、それが同時である意味なんてどこにも無い。
私は黙って、さとりが地獄に堕ちる様を眺めていればよかった。
そうすればたとえ少しの時間であっても、自分は地上にいられただろうから。
でも、私はそれが出来なかった。
「……人間の中で過ごしているだけで幸せだったさとりの何かを変えたのはきっと私。だからさとりを殺したのも……きっと、わたし」
微かに頬を紅く染めた勇儀は、じっと私の言葉を待っているようだった。私は、まるで他人事のように言葉を続けた。
「それに罪を感じる必要なんて無いのかもしれないけどね。あの頃の私が何を考えてたかなんて全然憶えてないし、どうしてそんな事をしたのかもわかんないわ」
他人事だ。
なぜなら橋姫は、妖怪は、嫉妬に狂った人間だって、そんなことはしない。
「好きですって叫び続けることしか出来なくて、ボロボロになっていくあいつを……放っておけない、なんて思ったのはいったい誰なのかしらね」
ばっかみたいよね、と苦笑するがそれは紛れも無い私自身で、
「……そいつを一番殺したいわ」
一通り話し終えると、溜まっていたものを吐き出すように息を吐いた。
「で、なに? その顔」
何故か勇儀はニヤニヤと、悪戯小僧のように笑っていた。私が話しこんでいた間、どれだけ飲んでいたのか、顔が真っ赤になってしまっている。
「いやぁ、愛だなぁ、ってね」
「馬鹿言わないでよ」ふん、と私は鼻で笑い飛ばす「そんな立派なものじゃないわ」
なんでこの酔っ払いはいつも発想が親父じみてるんだか。いっそ呼び方をおやっさんにしてやろうか。
「ただの腐れ縁よ。無かったほうがよかった、本当にただの偶然の出会い。それさえなかったらさとりはもしかしたら……まだ大好きな人間の中で生きていたのかもしれないのに」
今はもう、さとりは悲しみも後悔も見せずに毎日を悠々と過ごしている。私には彼女の心が読めないからそれはただの推測でしかないけれど、此処にやってきてからの方が、楽しそうにすら見える。でもその度に私の頭にはそれとは別の光景が浮かんでしまうのだ。それはこんな暗い場所なんかじゃなくてもっと明るい懐かしい地上で、もっと楽しそうにしているさとりの姿。
「ねぇ姐さん……どうしてさとりは、私を嫌いにならないの? 私なんかいない方がきっと自分にとって幸福だったはずなのに……どうして」
最後の方は息が詰まって上手く声には出来ていなかったのかも知れない。さとりの行動原理はいつも単純な理由だったはずなのに、もう何がなんだかわからない。
「どうしてさとりは……私のこと「嫌い」って言ってくれないの!?」
声は縦穴に反響して数倍に増幅されて帰ってきた。こんなにも叫び声を上げていたのかと、自分のことながら驚いた。
こんなことを勇儀に話してもどうしようもないのに。
「なに、言ってるんだい?」
でも勇儀は何を馬鹿なことを、と信じられないような表情をしていた。
「そんなこと決まってるじゃないか」
手持ち無沙汰になるたびに勇儀は杯になみなみと酒を注ぎ足すと、息継ぎのように煽る。一気に飲み干すと魂すらも零れ落ちそうな勢いの息を吐いた。
「言ってるだろ? 愛だよ、あ、い。」
「だからそんなのじゃ……あぁ、もぅ」
「そう思ってるのはアンタだけかも知れないよ?」
「──は?」
杯が指先でくるくると回る。
風に金色の髪をなびかせながら、勇儀は言った。
「恋とか愛なんてものは必ずしも通い合ってるものじゃない。そんなのはアンタが一番良く知ってるはずだろ?」
すれ違い。
それはきっと私の妖怪としての始まりで、人の心の真理なのかもしれないけれど。
知れないんだけど。
間違ってはいないんだけど。
だけど。
「ぷっッ……」
駄目。
なんだろう、きっとそれを他の奴に言われたのならば素直に納得していたのかもしれない。でも……よりにもよって勇儀? 姐さんと慕われて、沢山の鬼達に愛されているのだろうけど、きっと愛なんて言葉とは一番遠くにいるような、そんなイメージ。そのギャップに吹きださずにはいられなくて、笑いが止まらない。
「アハハッ…ァハアハ! アァ……ハハハ!」
「なんだいなんだい失礼だな。私だって柄じゃないことくらいわかってるんだよ。それでもパルスィがあんまり変なことでウジウジしてるから……その……ねぇ」
「アハハ……わかってるって姐さん。わかってるんだけど…ヒィ…ダメ、なんかおなか痛いぃ」
「そ、そんなに笑わなくったっていいじゃないか」
腹を抱えて笑い転げる私に、勇儀の顔は酔いではなく、真っ赤になった。そんなになるなら言わなきゃいいのにとも思ったけど、私を心配して言ってくれたことだとわかってるものだからどうにも言いにくい。
「でも、姐さんの恋愛ってなんだかいつも殴り合ってそうなイメージがあったんだもの。急にそんなこと言われたって……ねぇ?」
「おいおい、それこそ失礼ってもんだ。私だってねぇ……恋のひとつやふたつ──」
そこまで言って勇儀は言葉に詰まった。
策士なんとやらというやつだろう。薮蛇とも言う。
「ほら見なさい。無理なんてしなくてもいいのよ姐さんは。そのままで十分愛されてるんだから」
「あー……あぁぁ」
照れくさそうに勇儀は頭を掻いた。
「んっんー!」そして仕切り直しとばかりに6回くらい咳き込んだ。
「とにかくだ! そんなに気に病むこと無いんじゃないかい? みんな言ってるんだ。アンタらは楽しそうだって。だからそんなことに罪を感じてそれを背負う必要なんてないって、そう、私は思うけどね」
ひとしきり笑わせられた後だからだろうか。なんだか自分の悩みが小さなことの様に感じられてしまった。ずっとそれが心に引っ掛かっていたはずなのに、他人の言葉だとそれだけで些細な事に感じてしまうから不思議だ。
勇儀はそれだけ話して満足したのか、いつの間にか空になっていたらしい瓢箪を肩に引っ掛けるとどっこいしょなんてこれまた親父臭い掛け声と共に立ち上がった。
「あ、そうだ」そのまま去るかと思ったら、三歩だけ歩いた後に何かを思い出したように指を立てる。
「地霊殿、復旧したからね」
いや。
それは「洗剤買っといて」みたいなノリで言う言葉ではないと思う。
「そう。早かったわね」
その言葉は本来この地獄の中の天国の中の地獄のような時間の終わりを意味するはずのもので、私はその言葉を待っていたはずだったのだから。
「旧都のみんな総出で作業したからね。鬼に掛かればあれくらい朝飯前さ。でも意外だね、喜ぶと思ったんだけど」
「え? あ、えぇ、嬉しいわよ」
私はぼんやりとしか返事をしなかった。
もうわかっている。
ここまできたらそんな周囲の変化でどうこうなる様な奴じゃないって知っている。
「……いい加減、覚悟を決めないと、か」
この状態を打破するための引き金は私の手の中にある。
でも、それだけでは駄目だ。
引き金は、引かなければ何も起こらない。
そして引き金を引けるのは、そう、自分しかいない。
5
──一度だけ。
本当に気まぐれに、さとりに聞いたことがある。
「あんたの目には、何が見えてるの?」
窓の外では鈴虫がやかましく鳴いていて、気持ち悪いほどに月が綺麗に出ていた。今の家とさほど変わらない小さな小屋の中で、あんまりにもすることがなかったものだから、つい言葉が零れたのだった。
私の目には漆黒の世界しか広がっていない。視力は役に立たなくて、その分聴力が頑張りすぎているんじゃないかと思うほど鳴き声が大きく聞こえていた。
私の見えている世界はそれだけ。それ以上は何も無くて、つまらない。
それならと、ふと思ったのだ。
さとりにはもう一つ目がある。私には見えないものがさとりには見えているんじゃないかって。
さとりは小屋の隅で座り込んで本を読んでいたけれど、私の言葉にしっかりと反応して、半開きの眼をこちらに向けた。
そうして「ふむ」とすこし考えた風にして、
「……例えるなら、これです」
そう言って、手元の本を指差した。
「本?」
「そうですね。本というよりはアルバムと言ったほうが近いでしょうか。これがあなただとします」
腰に抱えられそうなほど厚さのハードカバー。その中ほどのページを適当に開く。
「人間は……妖怪もですが、今のあなたの様にふと記憶を辿ることがあります。それは適当すぎてその人には無意識とすら感じるものなのかもしれませんが、思い出す記憶はいつもその心の中に蓄積されていますから、消えることなんてないんです。ですから覚りの能力はそれぞれ生き物が皆持っている記憶の本、それを横から覗き見るだけなんです」
「催眠術でも使えれば好きな記憶を見放題なんですけどね」言いながら、さとりはパラパラとページを捲くる。
「そう上手くはいかないんです、これが。思い返すことをしない人間だっているものですから」
そうしてあるページで手を止めた。
「ただ、大半の人間にとって忘れられない記憶というものは持っているもので、よく言われるトラウマ、と言うものですね。それにはこうして……」
横に積んであった懐紙をページに挟み込む。
「思い返しやすいように、または思い返してしまうように、目印をつけるんです。ちなみに今のはあなたが私に初めて質問をしてくれた記憶、ということで」
「捨てて、その紙」
「嫌です。とにかく、人は時折こうして読み返しては、過去を振り返る。そして私はそれを横から見させてもらう。確かに、貴方よりも見えるものは多いかもしれませんね」
言うとさとりは大事そうに本を閉じて、満足げに笑った。
「……あんた、それ、楽しいの?」
「もちろん……というか、私はこれしかできませんから」
今ひとつ理解できなかった。なんとかイメージしたものといえば、巨大な図書館の中を、空が見えないほどの本に囲まれながら歩くさとりの姿だった。
楽しい。なんて感情は捨てたはずの私だけれど、きっと人間だった頃にこの話を聞いても、それを楽しいなんて思わないだろう。
やっぱりさとりはどこか壊れているのだ。
「まぁ、自分でも普通では無いこと位は自覚しているつもりだけど……本を読むのが好きだなんてことは人間にも珍しいことではないでしょう? そうそう聞いてくださいよパルスィ。村の書店にいつもやって来る小さな女の子がいるんですが……」
正直なところ、その後さとりが何を言っていたのかはよく覚えていない。さとりの言うようにするならば、それは”しおり”の挟んでいない記憶。数あるページの一部なのだろう。
私が覚えているのはさとりが見ているという、記憶の本に囲まれた世界と、
──本を読み飽きるように、さとりもいつかは私に興味を失ってどこかへいくのだろうか。
なんて、今になってみれば馬鹿らしい、甘い考えだった。
「さとり……」
こいしによってハート柄に塗装された地底での家。身体を預けると微かに歪む木製の戸に背を預けて、ぼんやりと呟いた。
今までずっと、私は流れに身を任せて、自発的な変化を先延ばしにし続けていた。おかしな話だ。嫉妬なんて衝動に駆られて人間を捨てて、鬼になったはずなのに、むしろ鬼になった後の方が臆病になってる。
そしてその臆病が、私の煮え切らない心が、さとりを泣かせてしまっていた。
「──ごめん」
この声は中に居るであろうさとりに聞こえているのかは分からない。もし寝ていたりしたら大した道化だ。
でも、それでもいい。たとえ独り言でも、そうしないとここから逃げ出してしまいそうだった。
私はさとりが怖かった。
過ぎ去った過去に怯えながら毎日を過ごし、過去を知るさとりを恐れた。
勇儀は今が楽しければいいと言って、その言葉に後押しされてここまでこられたけれど、やっぱり過去を無かったことになんか出来ない。それこそさとりの言った「記憶の本」だ。過去をなくしてしまえば、私は私ではなくなる。一度焼き捨てたはずの人間だった頃の記憶だって、自分でも嫌になるほど残っている。
だから、これからを変える。
未来を。
──あぁ、なんて私らしくない考えなんだろう。
でも。
私にこんなことをさせる馬鹿には、きっちりと言ってやらなきゃいけないんだ。
だってあいつ。
ずっと私のことを見ていて、知っていたのに、知らん振りをしていたんだから。
「……入るわよ」
自分の家に入るのに許可を求めるというのも変な話だけれど、この家はもう私の家ではない。殺風景だった室内はさとりの持ち込む物やこいしのお土産に埋め尽くされてしまって、私の私物は次々に追い出されてしまっている。今では家の傍に物置ができてしまったほどだ。
それでも変わることなく立て付けの悪い引き戸に手をかけて、一気に開け放つ。
と、しようとしたのだけれど、
「っつ……このっ……! 」
どうしてこういう時に言うことを聞いてくれないのか、戸は何度も引っ掛かって、少しずつしか開かない。ガタガタと言うばかりで、私が中に入るのを拒んでいるようだった。
「いい加減に──ぁぁ!」
仕舞いには戸を蹴飛ばして、やっと私が通れる広さにまで開く。
戸が完全に逝ってしまったがもうどうでもいい。
事が済んだら建て替えてやる。
「さとり……ずっと、言いたい事があったの」
格好付かない。
こんなつまらない事で息はあがっていた。私が何かを変えようとする時はどうしてこうも上手く事が運ばないものなのか。
一息ついて、さとりは、と家の中を端から見回す。
台所、さとりのお気に入りの葉っぱしか無い鉢植え、詰まれたお茶の葉、こいしがどこからか持ってきた自分よりも大きな人形。数日前とは同じ場所とは思えない変化だ。
ここはもう私の家じゃないのだと、改めて思う。
そして──居た。
「……あんた、そんな所で何やってるのよ」
よりにもよって最終地点、私のすぐ右隣で、さとりは屈みこんであやとりの紐を弄っていた。
「いえ、別に。それより、言いたい事ってなんですか?」
相変わらず何かに集中するとさとりはこちらを見ない。こっちは結構覚悟してきたっていうのにどうにも調子が狂う。
だから、これは場違いな言葉なのだと思う。
「私は、あんたが嫌い」
自分でも驚くくらい、感情の篭っていない言葉だった。
それでも、無言のままのさとりの身体が微かに跳ねた。
「人間が好きだからなんて言いながら私を見ていたあんたをどう思うかなんてこと、最初は考えもしなかったんでしょうけどね。あんたはずっと私を否定してたのよ? 私が捨てたものを拾い上げて「これがあなたです」って、ずっと見せつけてたこととおんなじ。トラウマをずっと見せ付けられて気持ちのいい奴なんていないわ」
そんなこと、今のさとりは十分にわかっているはずだ。
「だから、嫌い」
でも、それでもと。さとりは言う。
「……仕方が無いじゃないですか。それしか知らなかったんですから」
私と同じ、感情の篭っていない様子だった。
「なら今は?」途切れた息をなんとか繋いで、言葉を続ける。「あんたはこんな場所にまで連れてこられて、まだ好きだなんて言うつもり?」
さとりは即答するんだろうな、ぼんやりとそう思った。
「はい」
ほら。
「知ることが覚りの本能ですから。私はそれがほんの少しずれているだけ。自分でも分かっているんですよ? それがおかしいなんてことくらい」
さとりは手にしていた糸を両手で引き合って、ピンと張る。
「でも、それが私ですから」
ヤマメと同じ。「これが自分だ」って、はっきりと言った。
それが妖怪だ。確固たる生きる目標を持っていて、それに従って生きる。
私が生りたかったもの。
「だから、そう。橋姫様風に言うなら……妬ましい」
「どういうことよ」
一度張られた糸はさとりの手の中で複雑に絡み合い、何の形を作っているのかさっぱりわからなかった。
「人間はなんでも出来るんですから。そう……鬼になることだって」
「だから、私に付きまとった? こんな、嫉妬心なんてものに染まったつまらない人間に」
もっとあったろうに。
たとえば、夢を追いかける人間なんていくらでもいる。
そんな、前向きな奴の傍にいれば、さとりはもっと笑っていられただろう。
私である意味なんてどこにも無い。
「……知りたかったんです。人間がどこまで行けるのかって」
「私じゃなくてもよかったのに。最悪の貧乏くじを引いたわね」
「そうでしょうか?」言葉と共に、糸はさとりの手の中に消えて、
「私は、貴方でよかったと、そう思います」
次に開いたとき、一本の橋を創った。
「ねじれ切った人間の思考の中に嫉妬という一本の道を作って、鬼になった。でもあなたはその歩いてきた過程をずっと、振り返っていました」
「あんたがいたからでしょうが」過去を見せ続ける最悪の妖怪が。
「いいえ、きっとあなたは私がいなくても変わらなかった。過去に囚われながらそれを引きずって、ひどく面倒くさい生き方をする」
さとりが右手を外すと、真っ赤な橋はおぼろげに形を残しながら、だらりと垂れ下がる。
「行き先も分からず、生き方も分からず、ただ鬼はこういうものだという先入観で、人間を襲って回って……どこにも行けない」
今もそんなようなものですけどねと、付け加えた言葉は微かに笑う。
「貴方は人殺しになるために鬼になったのですか? 違うでしょう?」
さとりの言うとおり、私の過去なんてただの衝動だ。嫉妬心に突き動かされた自分は、何の躊躇も無く人間を捨てようとした。
その結果が今の有様だ。
嫉妬の炎に焼かれ切ることも無かった心は半熟で、形ばかりを取り繕うことしか出来なかった。
そのせいで、関係ないさとりまで巻き込んだ。
「もし私がただの人殺しだったら……あんたは私に興味を持たなかったってこと?」
「もしもは嫌いですけど、そうかもしれませんね。人殺しの人間も、人間を襲う妖怪も、珍しくは無い。貴方がそうだったら私が今頃何をしていたか、なんてことは想像も出来ませんけど」
そう言って、また笑う。部屋の隅で肩を震わせるその姿は、不気味にすら感じる。
……どうしてこいつはこんなに楽しそうに話すのだろう。
最初に私は、さとりが嫌いだとはっきりと言ったはずなのに、気がつけばいつもの淡々とした、でもどこか子供のような無邪気さで私と話している。
「私はこれからそうなるかも知れないわよ? あんたの言う、つまらない妖怪に」
切り返しのつもりで言った。私が常に変化しているのだとさとりが言うのなら、一分後にはこいつに襲い掛かっている可能性だってゼロじゃない。むしろそうしてやりたかった。
でも。
「……もう、手遅れですよ」
私はそんなに滑稽なのか。クスクスと口に手まで添えて、さとりは言った。
「知ってます。貴方はそんなことできる人じゃないって。貴方は──」
そこで初めて、さとりはこちらを向いた。
「優しいから」
笑いながら泣く。
そんな芸当がさとりにも出来る。
それに驚いた。
「なに……なんで? なんで泣いてるのよ……」
「え? ゃ、いやですね、泣いてなんていませんって」
声も顔も笑っているはずなのに、顔は涙でグシャグシャで、無理矢理引きつらせた頬が、痛々しい。
「泣いてなんて……」
私に見られて初めて自覚したのか、堰を切ったように声が震えだす。溢れる涙に映った私はどういう訳か、さとりと同じような顔をしている。
いつからだ。
いや、そもそもそんなことある筈が無い。
だって、私が涙を流す要素なんて会話の中のどこにも無い。
さとりの瞳の先にあるのは、私の捨てた過去だ。
「し、知らなかったんです……ずっと聞こえていたのに、知ってたのにっ!」
フラッシュバック。
重なりあう。
誰かと。
「貴方の口、から「嫌い」って、言われたら…っ…なみだがっ……とま、止まらないっ……ん、で、す……」
──嫌い。
嫌われた。
それは、私を変えた感情。
……やっぱり、さとりは馬鹿だ。
そんなものをずっと聞いていたはずなのに、
「そんなになるならどうして私に構うのよ!……どうして!」
やけくそに叫んだ言葉にも、グシュグシュと泣くばかりで、さとりは答えない。
いや、答えられない。
私もそうだったから。
自分へ気持ちが向いていないと分かった瞬間から頭の中は自問自答と堂々巡りを繰り返して、思考なんて出来ない。出来ることなんてただ泣き叫ぶか、私のようにそれを異なる感情に転化させることだけだ。
でもきっと、さとりは絶望に沈められた心をどうしたらいいかなんて知らない。
だからこうして、ただ泣くことしか出来ない。
「やめてよ……」
そんなさとりに私はどうしたらいい?
……わかんない。
私はただ、泣きじゃくるさとりに一歩、おろおろと近づいた。
「……やめて」
泣かないで。
過去の私を重ねさせないで。
「泣かないでよ……」
私は、さとりが嫌いだ。
子供っぽくて、その癖閻魔から仕事を貰って、ちんちくりんで、癖毛を結構気にしてて、ペットに愛されてて、でも放任主義で、ニラなんて変なものが好物で、なめこが死ぬほど嫌いで、それでも栄養がいいからなんて頑張って料理してみたりして、でも食べられなくて、妹がいて、家族がいて、そんな妹には異常なほど心配性で、そんな姿を時折妹に馬鹿にされたりして、それでも帰ってくると嬉しそうに出迎えて「おかえりなさい」って言って、本が好きで、人間が好きで、人間の心が好きで、そのせいで地獄に堕ちた大馬鹿やろうが、今私の目の前で泣いている小さな身体が、嫌いだ。
でも。
ちくしょう。
──やっぱりそれを放っておけない自分は、もっと大嫌いだ。
過去を見せる妖怪、覚り。
自己嫌悪。
「……やっと、わかったわ」
私は跪いて、俯いたままのさとりに、気持ち悪いほどの優しい声をかけた。
「なに、が?」
途切れ途切れの言葉が返ってくる。
「地霊殿を壊した奴の気持ち。ずっと理解できなかったけどね……いたわ。あのオンボロ屋敷を疎ましく思っている奴が」
さとりの言っていた私の酔っ払い騒動なんてどうせ半分以上は嘘っぱちだ。たとえ私が暴走したって、姐さん達が私を止める。地霊殿が壊れるほどの大騒ぎに付き合うはずが無い。それなら顛末は姉さん達が阻止しない形。または阻止できなかった形。これしかない。
そしてそれが、さとりを駆り立てた原因。
……ちくしょう。
旧都のやつら、やってくれた。
みんなでグルになって、私を追い込んだんだ。
煮え切らない私を見かねて、酒を煽らせて、止めもしないで。
そして、こうなる様に。
私が気付くように。
「私は、地霊殿が邪魔だった」
私が一番の、馬鹿やろうだった。
地霊殿を壊してでも、
さとりの居場所を壊してでも、
皆に迷惑がられてでも。
「私は、さとりといられる時間が、欲しかった」
自分の顔面を鷲掴みにして、砕け散るほど力が込もる。
手の平に感じる冷たさは確かに今、私の目から流れているもので、もう枯れ果てたはずのものだった。
……くそ。
なんで。
なんでよ。
なんで泣いてるのよ私。
もう泣きたくなんてないから人間を捨てたのに。
涙が止まんない。
さとり──ごめん。
私はやっぱり、だめだわ。
これじゃあ……
「なんにも……変わってない、じゃない……っ!」
水の底に深く、深く沈めたはずの想いは抑えきれずに、殻を破る。
ドロドロと弱くて綺麗な、人間の情。
人が泣くことの出来る理由。
人が笑える理由。
いろんなものが溢れ出す。
「泣か、ないで……」
「だって、だって…っ…どうしようも、ないの……」
……これを、あんたは知りたかったんでしょう?
いいわもう、教えてあげる。
人間を鬼に変えるほどの力を秘めた想い。
覚り妖怪を壊すほどの想いを。
涙で湿りきった手をさとりの頭に乗せた。小さな身体はそれだけで震えを止めた。さとりもゆっくりと、両手を私の頬に当てる。輪郭を確かめるように、首、肩と指を這わす。
ずっと喉元まで込み上げては、飲み込んできた言葉があった。
「私は、あんたが──」
「私は、貴方が──」
聞こえた声を繰り返す動作は覚り妖怪の行動だけれど「私は……」と始めた言葉は確かに、さとり自身の言葉。
涙を飲み込みながら、さとりが顔を上げた。
変わらず涙で崩れた顔の中で、瞳の中だけは輝きを失っていなかった。口付けをねだるかのように口元を尖らせる。言葉を発する形に無意識に口が動いている。すっと、幼い顔が近づいてくる。
「──」
私の口からはずっと昔に捨てた言葉が。
さとりの口からは、ずっと言い続けられた言葉が発せられて──
「ねぇねぇ、どーしてお姉ちゃん達泣いてるの?」
6
遠くで鬼達の喧嘩する様子が見える。
以前よりも色々な場所が見渡せるのがこんなに楽しいとは知らなかった、家を二階建てにして正解だった。
太陽に照らされた地上を抜けて、縦穴の岩肌に冷まされてそれでもまだ暖かい風が、吹き抜けになっている窓を通り過ぎた。旧都に向かっていくその風は私の髪を揺らして、やがて地上へと帰っていく。
「……いい風だわ」
巡る風は止まることなく、この地底にもやって来る。それはずっと止むことなんて無くて、それでも毎日表情を変えながら永遠に世界を渡る。
太陽も月も見えない地底でも、風だけは変わらなかった。
あれだけのことがあっても結局、目に見えて変わったものといえば私の家と地霊殿の様相位だった。そんなに簡単に変化なんて訪れないものだ。
再建された地霊殿は長い間住み着いていたペット達にも評判がいいらしい。ペット達だってなんだかんだ言っても、地上に建っていれば大きなサイクロン一回で吹き飛ばされそうだったボロ小屋よりも、木製とレンガ造りを組み合わせた新築の家の方がいいのだろうか。
「……やれやれ、動物の癖に無駄に人間臭い奴らだわ」
さて、と窓から離れて部屋を見回した。新しい家というものはまだ居心地が落ち着かないけれど、広くなった分いろいろと出来る事が増えた。
とりあえず、二階建てしてもらったということで一階を居住スペースとして、二階は趣味を兼ねた部屋にしてみた。ずっとそんなもの必要ないなんて思っていたけれど、自分の好きなように弄った空間があるというものは想像以上にリラックスできることを知った。
整然と並べられた衣服に、それを一望できる位置に置かれた作業机。実は以前から興味があった、くるくると回転する椅子。その他もろもろ含めて一階の和風家屋とは一風変わった洋風な部屋。
最近ではここで椅子に背を預けながら旧都を眺めるのが日課になってしまっていた。
朝の暖かさと冷たさの交じり合った風を感じながら、感傷に浸る。
これもまた、橋姫らしい気がする。
まぁ正直、以前とやっていることは変わっていないのだ。
そう。
結局、どんなに周囲が変化しても、私は変わらなかった。
「……私、たち」
「ん?」
「そこは私達、でしょう?」
そんな私の耳に多少不機嫌そうな声が届いた。部屋の隅を見ればさとりが座り込んで、読んでいた本から顔を上げていた。
「私の大切な時間をどうでもいいことで邪魔しないで貰いたいわね」
「……どうでもいい?」
さとりは今度こそムッとした。
「大切なことです。貴方はすぐに自分の世界に入ってしまって孤高を気取るんですから
……悪い癖ですよ。それ」
まったく、不機嫌な目が三つも付いてると、簡単に逃げられやしない。
「……わかったわよ」
──『わたしたち』は、変わってなんていない。
自身を狂わせて罪を背負った者たちは、自分の罪を数えながら生きていくのだろう。
壊れた妖怪達は、同じように狂った奴らが集まった街で。
どうしようもないほどに誰かを求めて。
これからもずっと、同じ風を感じながら。
「おはよぅ! お姉ちゃん来てるー?」
私が湯気を立ち昇らせるカップに口をあてた時、相変わらずのハイテンションでこいしが飛び込んできた。
きちんと入り口から入ってきた辺り、流石に新築の家の窓を蹴り破ることは出来ないようだった。そうであってほしい。
木製の板を小脇に抱えて部屋を見渡したこいしは隅にいるさとりの姿を見つけると、もう、と腰に手をあてて、頬を膨らませた。
「まぁたお姉ちゃん帰ってこなかったぁ……最近ずっとだよ? 駄目じゃん、ちゃんと地霊殿に帰ってこなくちゃ」
「……ごめんなさい。でも、ちゃんと食事時には帰っているでしょう?」
「そうだけどさぁ……」
地霊殿にいる時間が少なくなってしまったさとりを叱るこいしと、それを弁明するさとり。どちらが姉なんだかわかりゃしない。
他人事のようにその様子を眺めていた私に、さとりは助けを求めるように目線を送った。さて、どうしてものか。
「……そうね、ちゃんと帰ってやらなきゃ駄目じゃないの」
「だよねーっ」
「そんな、パルスィまで……」
期待を裏切られたのかさとりはシュンとうな垂れる。
「自分を心配してる家族は大切にしてやんなさい……私はいつでも此処にいるから」
私はその小さくてクシャクシャな頭に向かって声を掛けた。
「長い人生、ずっと傍にいる必要なんて無いわ……嫉妬心を感じることも、時には大切ってもんよ」
ふふんと、私は得意げに話す。
「な~に格好つけてるのさ。お姉ちゃんが居ない間はずっと寂しそうにしてる癖に~」
「……うっさい、人が決めてる時に邪魔しないの」
いつの間に見ていたかこの無意識は。
「そうなんですか? それなら……」
「ぁぁ! いいのよそんな事は! そんなことよりこいし、その看板みたいなの何よ」
「あぁこれ? 新築祝いだよ。私のお手製なんだから」
必死で話題を逸らし、成功した。
嬉しそうにこいしは持ってきていた板を掲げ上げた。大きさはこいしの腰ほど。表札か何かだろうか。
勢いよく、見せ付ける。
「ジャジャーーンッ!!」
「なっ……!」
顎が外れたかと思った。
……あぁ、当たっていた。
確かにこいしが見せたものには私の名前がまん丸な字で書かれていて、家の前に立てれば表札に使えるだろう。「名前は」入っているのだから。
だけれど。
「ハ、ハァァぁァァあ!? なんでそうなってんのよ!」
書いてあった文字がおかしかった。
──水橋パルスィ
──古明地さとり
──古明地こいし
~ようこそ地底へ。困ったことがあればお気軽に相談を~
~どんな事でもハートフェルトファンシーで解決します~
地底は歓迎するような場所ではない。
橋姫は守護者ではあっても便利屋ではない。
ハートフェルトファンシーってなんだ。
解決ってなにをさせる気だ。
そして何よりも、だ。
「な・ん・で! あんたらの名前が入ってんのよ!? ここ私の家よ!?」
おかしいでしょと表札を指差してもこいしは「なぁに言ってんの」と笑うばかり。
さとりと同じような人を小馬鹿にしたような顔をして、おまけに何故か。もうひとつ同じ声がした。
振り返るとさとりもこいしと同じ表情をしている。こういうところはどこまでいっても姉妹だった。
二人は声を揃えて、言った。
「「……この家って、古明地家の別荘に作ってくれたんじゃないの「ですか」?」」
「──んなわけあるかァァァ!」
「作り直しなさいよ!」と私はこいしに詰め寄る。
「や~だよ」とこいしは家中を逃げ回る。
それをさとりは笑いながら見ている。
何も、変わっていない。
それでも。
わたしたちの間を吹き抜ける風だけは、違っていた。
確かに、焼いたり不純物を取り除けば硬くなりますよね。
でも、本当に強くしたいなら、異なった質の鉄を混ぜなければならない。
パルスィはその事に気付けたんだと、私なりに解釈しました。
良いお話、ありがとうございました。
優しくて愛しくて、でもちょっと素直じゃない、素晴らしく私好みの地底でした
ありがとうございます
きっちり「六つ」を描写に入れてるし。
は、横において、
全体を通してのしっとりとした、それでいて温かみのあるお話、良かったです。
鳥丸さんの描く、弱くて強くて優しい二人の姿にジーンと来ました。
この二人があれやこれやがもっとたくさん見たいと思いました~
小説としての完成度が高いですね
元ネタ云々というのが個人的に好きではないので-10点
おもしろかったです。
ありがちと言ってもいいような主題だけど、泣きそうになった。
それだけ構成が、描写が、素晴らしかった。