梅雨らしく、空に頑固親父のような雲が居座っていた日のこと。
「ねーねー、あの騒霊はどうしてパンツ見せてるのかな?」
「だっ、だめだよ、指差しちゃ!」
幻想郷が誇る偉大な音楽家、メルラン・プリズムリバーがパンツを見せていました。
「もう行こうよ、チルノちゃん」
「だって気になるもん!」
パンツを見せると一口に言っても、スカートをたくし上げる等いくらでも方法がありますが、メルランが選んだのは最も自然な方法。つまり、逆さに浮くことでした。そうすれば余計なものは全て重力に絡めとられ、人妖問わぬ信仰の対象が降臨するのです。
「あら?」
「ひゃっ!?」
「あ、こっち向いた」
霊験あらたかな光景を見ることができたのは妖精二人だけでしたが、どんなに少ない観客でも全力でお相手をするのが音楽家、メルランです。
ぐるりと身体を妖精二人に向けると、ひまわりも踊りだす最高級の笑顔であいさつしました。
「こんにちは、可愛いマドモアゼルたち」
どんな体勢でも落ちない帽子が摩訶不思議です。
「こ、こんにちは」
大妖精は思いました。この騒霊は危険だ。普段から妙に陽気だが、今日は特に奇行が目に付く。巻き添えを食う前にチルノを連れて逃げるべし。
「では、私たちはこれで……」
「あたいマドモアゼル! お~、何だかかっこいい。強くなった気分!」
「マドモアゼルは強いけど、最盛期のヴィヴァルディには負けるわね」
「うわっ、変な名前!」
「チルノちゃん……」
悲しむべきことに、大妖精が目を離したほんのわずかな隙にチルノは篭絡されていました。好奇心旺盛なチルノは忠言に耳を貸さず、彼女を見捨てられない大妖精も一緒に堕ちていくことになります。ここに大妖精の正義は潰え、メルランの悪が栄えるのでした。
「ベートーヴェンとかパデレフスキとか~」
「むむむ、マドモアゼルには敵が多い……そうだ、忘れるところだった!」
「何かしら?」
「メルラン、だっけ? どうしてパンツを見せてるのさ?」
万人が知りたがり、その先にあるものが恐ろしくて聞けないパンツを見せる理由。ですが、そんな小難しいことは無垢な妖精には関係ありません。パンドラの箱はアーサー王が岩に刺さったエクスカリバーを抜くよりも簡単に開かれてしまったのです。
横から固唾を呑んで見守っていた大妖精には、パンツに縫い付けてあるデフォルメされた太陽が残酷に笑ったように見えました。
「それはね、マリアナ海溝よりも深い理由があるからなのよ」
遠い目をしてそれっぽいムードを作ると、メルランは時計の針を朝まで戻し始めました。大妖精は逆さまでパンツを見せてるのにムードもへったくれもないと思い、チルノはマリアナ海溝が何者であるか分かりませんでした。
プリズムリバー邸のうららかな朝は木っ端微塵に粉砕されました。洗練された音楽とはほど遠い、ドアを蹴破る音によってです。
「あははははっ! 梅雨をぶっ飛ばすのよっ!」
ダイナミックに居間へ突入したメルランは声高らかに吼えました。ライブ用の衣装に身を包んでおり、いつでも第三次世界大戦を始められるぞ、といったところです。
もちろん吼えられた方はたまったものではありません。パジャマのままくつろいでいたリリカは、チーズトーストと間違えて読んでいた文々。新聞を食べてむせび泣きました。一方、台所から出てきたルナサは比較的冷静に対応しました。
「おはようメルラン。調子はどう?」
本当は今すぐにでもバイオリンケースの中に逃げたかったのに、長女としての義務感が邪魔をしていたのです。
「絶好調極まりないわ!」
「それは良かった。これ、飲む?」
迫りくるむき出しの感情に押されつつも、ルナサは持っていたコーヒーポットをかかげて見せます。その中身は豆が切れていたので代用の青汁でしたが、たぷんと揺れる緑色の液体があたかも非日常の開幕を告げているようでした。
「飲む!」
メルランは軽やかなステップでルナサの前まで行き、奪い取ったコーヒーポットから直に青汁を摂取しました。
「まずい! もう一杯!」
もちろん、飲み干した後の決め台詞も忘れません。ここまでの動作は全てポップコーンのような笑顔のもとに行われています。つまり、メルランの中で何かが弾けてしまっているのです。
貪欲にもさらなる青汁を求めてメルランが台所へ消えるまで、ルナサとリリカは身を寄せ合って震えていました。メルランの躁症状には慣れていたはずの二人でも怯えてしまうほど、今日のハイテンションぶりはひどかったのです。
「やばいよ。メル姉がイっちゃってる」
「最近、雨でライブが中止になってばかりだったから、かなり溜まってたのかも」
「早くルナ姉の音で止めてよ!」
「もちろんそのつもり。あ、ほっぺにスキャンダルがついてる」
「ん……ありがと」
ルナサは妹の頬についていた命蓮寺に関する記事を取ってあげました。長女としての心優しい一面を発露したルナサでしたが、この一瞬が命取りとなります。
記事を捨ててバイオリンを用意したルナサの前に、口元をグロテスクな緑に汚したメルランが立ちはだかっていました。周囲にはクラシカルな大砲が砲口をルナサに向けたまま浮いていて、退路はどこにもありません。
「そうはイカの金玉~」
「しまった!?」
「大序曲“1812年乱れ撃ち”!」
チャイコフスキーが作曲した“序曲1812年”は世界的にも珍しい、大砲を楽器として使う曲です。メルランの解釈では大砲は金管楽器であり、演奏中に聴衆目がけて弾幕を張ることに良心の呵責を覚えない彼女が、肉親へ楽器を向けることを躊躇するでしょうか。
かくて防弾使用ではないプリズムリバー邸は10度ほど傾き、ピサの斜塔と姉妹関係になったのでした。
「お分かりいただけたかしら?」
「全然分かんない!」
チルノは元気良く返事をしました。まるでメルランの笑顔が伝染したようなさわやかな笑顔です。対照的に大妖精は青くなって辞世の句を考えています。
「要約すると梅雨をぶっ飛ばすためなのよ」
いくつもの悲喜劇をローラーで平らにならして、マドモアゼルにも分かるように説明しました。
「へー、パンツを見せると梅雨がなくなるの?」
「成功してると思う?」
「思わない! だって空が曇ったままじゃん!」
チルノが指差した先には、朝からずっと居座っている雲が意地悪に笑っていました。今にも鼻先に雨が落ちてきそうです。
いまいましい空を逆さまに眺めたメルランは一度だけ鼻を鳴らすと、身体を半回転させて元の体勢に戻ります。スカートも元通り。聖地は道徳の壁の裏側へ隠れてしまいました。
「その通りね。あーあ、失敗失敗。思いついたときは名案だと思ったのになぁ」
どこら辺が名案だったのか大妖精は問い詰めたかったのですが、大砲で穴だらけにされたあげく一回休みになるのは嫌なので黙っておくことにしました。
「落ち込んじゃだめだよ」
「ありがとう、正直なマドモアゼルさん。お礼として梅雨をぶっ飛ばすために命蓮寺へ殴り込みをかけてくるわ。あそこには入道雲の妖怪がいるらしいから」
「何で聖を困らせることするのさ。アメをくれる良いやつなんだから~」
「もう買収されてるのね。いやらしい。なら、他に梅雨をぶっ飛ばす良い方法はないかしら?」
「えっ」
突然、メルランから話題をふられてチルノは悩みました。
梅雨をぶっ飛ばす良い方法。いくつもの案がチルノの頭の中を駆け抜けていきます。雲海の形がほんの少し変化した頃、ひとつの案が頭の中に残り、自慢げに名乗りを上げました。チルノにはそれが素晴らしい妙案のように思えました。
「メルランがラッパを吹いて、雲を吹き飛ばしたら?」
メルランのご立派なトランペットに電流が走りました。正直、たかが妖精と侮ってあてにしてなかったのですが、どうやら一本とられてしまったようです。メルランは額をペシリと叩いて小気味良い音を出しました。
「そうね……ああ、私ったらどうして思いつかなかったのかしら。騒霊といったら音しかないのに。チルノ、あなたは最高に輝いてるマドモアゼルよ」
「あたいったら最強ね!」
どうだ! と言わんばかりにチルノは胸を張り、メルランもチルノの頭を思いっきりなでなでしてあげます。摩擦熱で髪が溶け出すほどに。
チルノの毛髪を何本か犠牲にした後、メルランは愛用のトランペットを出現させます。善は急げと心は焦るが、まずは慣らしで“ルーネイトエルフ”を吹きました。
軽やかな音が辺り一面に響いた途端、どこからか涼しげな風がやってきて、蒸し暑い空気を遠くへと追いやりました。そして、おどおどしていた大妖精のポニーテールを優しく揺らしたのです。あっけに取られた大妖精は、次の瞬間、この方法はきっとうまくいくに違いないと感じました。根拠や確証はどこにもないのに、そう感じさせるだけの力がこの風にはあったのです。
「さあさあ、あなたたちも手伝ってちょうだい。数は多いほど良いわ。二人とも楽器は持っているかしら?」
「はいっ! 私はこれを……」
演奏を終えたメルランに問われて、大妖精は慌てて懐からオカリナを取り出しました。
「妖精とオカリナの組み合わせは最高ね。チルノは?」
「あたいは何も持ってないけど……これでどうだっ!?」
チルノは懐を探ろうとしません。その代わり、両手に意識を集中させて氷の楽器を作り出しました。メルランのトランペットを真似したつもりでしたが、細長く単純な構造の氷はむしろ異国でブブゼラと呼ばれているものに似ていました。
「どんなもんだい!」
「いいわね~。じゃあ、演奏開始!」
「そんな、難しい曲は無理ですよ~」
「大丈夫。本当は演奏するのが一番だけど、今回は音を出してるだけでいいわ」
「えっ? えっ?」
「ほら、早く」
混乱したまま大妖精がオカリナを吹いてみると、不思議なことに意味をなさない音が出るはずが、整然としたメロディーが生まれたではありませんか。
「ブォォォォォ! (メルランすごい!)」
「これぞ躁の音を操る能力の真髄! それじゃ、梅雨をぶっ飛ばしましょう!」
メルランの掛け声と共に、ブレーメンの音楽隊より一人足りない幻想郷の音楽隊は進み始めました。演奏する曲は軽快な行進曲“アメリカン・パトロール”。ルナサとリリカというストッパーがいないため、彼女たちの音は底抜けに明るく、時間が経過するにつれてさらに陽気になっていきました。
天気と肌にまとわりつくべたべた感は相変わらずでも、音楽隊が通った場所だけは、太陽とさわやかな青空の香りがしました。
「あ、チルノだー」
「やけに楽しそうだね。何してるの?」
「むっ、同業者の臭い」
霧の湖の岸辺を行進していると、愉快な音に誘われたのかルーミア、リグル、ミスティアの三人が草むらから飛び出してきました。我らがメルランがこのチャンスを逃すはずがありません。
「ここで会ったが百年目、あなたたちも今から音楽隊の仲間よ!」
笑顔で強制参加です。拒否など論外。メルランはホイッスルを出現させると、有無を言わせずルーミアに渡しました。
「おー、面白そう」
「私は虫たちの歌声で参加かな」
「楽器なんてノーサンキュー。私は身一つで勝負よ~♪」
元々遊ぶのが大好きな妖怪たちですから、楽しいことは大歓迎。強制参加させるまでもなかったかもしれません。
ルーミアはホイッスル、リグルは虫の音、ミスティアは自慢の美声と、音楽隊はますます騒がしくなってきました。演目も“妖魔夜行”から“おてんば恋娘”、“蠢々秋月”、“もう歌しか聞こえない”まで、能天気でウキウキするちびっ子メドレーです。種々雑多な楽器が織り成す音楽は風に乗って幻想郷中に広がっていきました。
「よろしいのですか、お嬢さま?」
「くくく、こうした馬鹿騒ぎもたまには良いものさ」
音楽隊が霧の湖を離れる頃には、妖精が一山と紅魔館の吸血鬼姉妹及び従者一式が加わっていました。もはや音楽隊に何人参加しているのか分かりません。チルノはルーミアたちが加わったあたりから数えることを放棄していました。
「ずいぶんと騒々しいわね」
一足先にひまわりが咲き乱れている太陽の畑にさしかかったとき、音楽隊の行く手をゆらりと遮った妖怪がいました。
「今日はお祭りの日だったかしら?」
四季のフラワーマスター、風見幽香です。
メルランとは異なる種類の笑顔での登場に、一同は身震いしました。例外は紅魔館の主たちとメルランくらいです。
「ええ、梅雨をぶっ飛ばし祭りの日なのよ~」
「梅雨をぶっ飛ばし祭り……初耳ねぇ」
「当然よ。だって今考えたんだもん!」
「あらあら」
「せっかくだから、笑顔が可愛いひまわりさんも参加してちょうだい!」
躁状態のメルランに怖いものなどありません。飛びっきりの笑顔を撒き散らしながら、幽香の鼻先に草笛をプレゼント。
しばらく珍妙なものを見る目をしていた幽香ですが、やがて根負けしたように微笑みました。それはメルランと同じ、ひまわりのような笑顔でした。
「まあ、せっかくのお祭りは楽しまないとね」
メルランの陽気さに当てられたのか、日傘をクルクルご機嫌そうに回して草笛を吹く幽香を加えた音楽隊は、太陽の畑を騒がしく練り歩きました。ただし、演奏する曲は戦車が行進する曲、“パンツァー・リート”になっていましたが。
「あら、異変解決の専門家が暢気に笛を吹いてていいの?」
「同じ台詞をそっくりお返しするぜ」
「これは異変ではない、私の勘がそうささやくから大丈夫なのよ」
「勘がささやくなら仕方ないな」
様子を見に来た巫女と魔女も取り込み、躁の音はさらに大きなうねりとなっていきました。メルランはとてもハッピーでしたが、空はまだまだ雲に覆われたままです。このどんよりとした雲を一掃しない限り、梅雨をぶっ飛ばしたことにはなりません。
「うーん、ここらで一発でかいのが欲しいわね……」
「呼ばれた気がして、ジャジャジャジャーン! 八雲紫参上!」
「わっ、笑顔が素敵なマダム発見!」
音楽隊の先頭を行くメルランの前に今度はスキマ妖怪が現れました。またまた笑顔ですが、こちらはどこか妖しい気がしてなりません。
「お困りのようね、騒霊さん」
「梅雨をぶっ飛ばせなくて困ってるの。手を貸してくれないかしら?」
「お安い御用よ。それっ」
「やったあ!」
どうしたことでしょう。妖怪の賢者はやけに気前が良いようです。これも躁パワーのおかげなのでしょうか。
紫の一声でスキマから鉄の塊が現れました。外の世界で蒸気機関車と呼ばれていた力強い乗り物でした。残念ながら外の世界ではお役御免となってしまい、幻想の仲間になったのです。
「ほら、乗った乗った」
いつの間にか機関士の姿になっていた紫が蒸気機関車に乗り込んでいました。後ろにつながれた客車は四両。音楽隊の面々はわやわやと乗り込んでいきましたが、メルランだけはじっと鉄の城を見つめていました。
メルランの目には蒸気機関車が楽器として映っていました。特に頭から突き出た煙突などまさに管楽器ではないか、そう思った瞬間、蒸気機関車は思い切り黒煙を吐き出し、汽笛を鳴らしたではありませんか。それはまるで幻想郷で得た第二の車生に歓喜したようでした。
メルランも負けじと吼えます。腹の底まで響く音、これぞ私の求めていた音! メルランの躁は頂点に達したのです。
ひとしきり吼えたメルランは急いで蒸気機関車によじ登ると、煙突の前に立ちました。そこで無我夢中になってトランペットを吹きまくったのです。
「出発進行!」
トランペットの音が合図になって蒸気機関車が動き出しました。客車に入りきらなかった人妖が周囲を飛び回り、さながら祭りの山車のようです。しかれたレールはなく、音楽隊と同じく目的地のない旅の始まりでした。
「ぎゃあっ! メル姉がめっちゃ暴走してる!」
ここでようやくボロボロのルナサとリリカが到着しました。メルランのストッパーとなるべく、陽気な音をたどって来たのです。
「落ち着いて、リリカ。準備はいい?」
「いつでも!」
二人はそれぞれバイオリンとピアノを演奏しながら、躁の音が渦巻く蒸気機関車へ突進しました。しかし、ほんの数秒足らずで鬱の音も幻想の音も、圧倒的な躁の音に飲み込まれ、さらに数秒経過したとき、二人は幸せになりました。
「ハッピー!」
「ハッピー!」
ルナサとリリカだけではありません。メルランたちの音は幻想郷の人妖を無差別に幸せにしながら広がっていました。それどころか、梅雨の雨を吸って重くなっていた草木でさえ踊っているようです。いえ、幽香が自分の能力をフルに使って実際にクネクネと踊らせていたのです。まさに四季のフラワーロックマスター。
折しも、音楽隊は人間の里に近づいていました。里を囲むように広がる田畑では多くの人々が農作業に精を出していましたが、蒸気機関車の咆哮を耳にした途端、農耕具を放り出して音楽隊と一緒になって踊り始めたのです。与作じいさんは勢い余って服まで放り出してしまいましたが、気にする人など誰もいません。
「ええじゃないか! ええじゃないか!」
「聖! これは何事ですか!?」
「お祭りかしらねぇ? うふふ、踊念仏みたいでとっても楽しいわ~」
農作業を手伝っていた命蓮寺のメンバーもなし崩し的に参戦です。
「さて、今日は江戸時代の武蔵野国代官、腹黒主水之介助兵衛について学ぼうか」
一方、里にある寺小屋では、慧音先生による細かすぎて伝わらない歴史の授業が行われていました。熱意は満点、ですが授業としての点数は……努力と結果が結びつかない悲しき好例なのです。
慧音が超マイナー人物の解説を続けている間にも、教室のあちらこちらで鼻ちょうちんが膨らみ、花屋の娘はこっそり幽香への手紙を書き、与作じいさんの孫に至っては慧音のスカートをめくる最適なコースを計算している有様です。
「……こうして悪徳商人、大黒屋金次と結んだ腹黒主水之介助兵衛は正義の味方にばっさり切られて……ええっ!?」
ふと、聞きなれぬ音がして窓の外を見た慧音は我が目を疑いました。奇怪な音をたてる鉄の化け物と、踊り狂う民衆がまっすぐ寺小屋を目指して行進していたのですから、驚かない方がおかしいかもしれません。
「みんな、ここは私に任せて早く逃げるんだ!」
「はーい!」
授業開始の鐘は聞き逃しても、臨時休校の合図は聞き逃さない、それが生徒というものです。子供たちは元気に返事をしてから、ちゃんと教材を置き去りにしたまま、蜘蛛の子を散らすように寺小屋を飛び出していきました。慧音は子供たちが避難したことを確認すると、蒸気機関車を止めるべく、駆け出します。
偶然、もやしの投げ売りセール目当てに里へ降りてきていた守矢神社の三人は、走る慧音の姿を目にすることができました。あまりの迫力に、諏訪子は敵将の首をもぎ取りに行った巴御前を、神奈子は土俵に上がった江戸の無類力士雷電爲右エ門を、早苗はリングの中心で一番を叫ぶハルク・ホーガンを、それぞれ勝手に思い浮かべて身悶えました。
「アーユーハッピー!?」
「どすこーい!」
どうやら神奈子の想像が最も近かったようです。
メルランが乗った蒸気機関車と慧音は里の大通りでのど真ん中で衝突しました。踊る人々がついてこられるよう蒸気機関車は速度を緩めていましたが、それでも客車と合わせて数百トンはある鉄の怪物です。押しとどめようとする慧音は逆に押され、両足を支える靴の底はあっという間に磨り減ってしまいます。
耳に押し寄せる躁の音で理性は飛ばされる寸前。腕の感覚はとっくになくなっています。それでも、慧音はあきらめません。
「えらいこっちゃ! えらいこっちゃ!」
「ほらほら、早くハッピーになれ~」
「……教師を」
信じられないことに、蒸気機関車が止まりました。
「紫! もっとハッピーの力を!」
「これが全速力よ!?」
車輪は力いっぱい回りますが、一寸も前へ進みません。半人半獣の、しかも、満月でハクタク化していないにもかかわらず、慧音の力が1280馬力の蒸気機関を上回ったのです。
やがて、里の人々が踊りながら見守る中、ゆっくりと蒸気機関車とそれに連なる客車が浮かんでいきました。
「教師をなめるなぁっ!!」
蒸気機関車から客車まで完全に持ち上げたとき、躁の音をかき消すようにして慧音が勝利の雄叫びを上げました。慧音は絶頂の中にいたのです。
「ケーネ式スープレックス!」
あながち早苗の想像も間違っていなかったのかもしれません。
蒸気機関車は慧音を軸にして円を描くように宙を舞い、背後の寺小屋の上へ落下しました。木造の寺小屋が重さ数百トンの物体を抱きしめられるはずもなく、ぺしゃりと崩壊しました。それはもうあっけなく。
「しまっ……た……」
慧音はブリッジをしたまま、命を張ってまで守ろうとした寺小屋と同じように崩れ落ちました。
まずは寺小屋の生徒たち、続いて踊っていた里の人々から歓声が沸き起こりました。何から何までめちゃくちゃでしたが、とにかく幸せだったのです。倒壊した寺小屋から這い出てきた音楽隊の面々までもが騒ぎ始めていました。
諸悪の根源、メルランは笑っていました。浮かれて騒ぐ人妖に混じることなく、真っ二つに割れた黒板の上で仰向けになって空を見ながら笑っていました。
「あーもう、ハッピーだなぁ」
音楽隊の旅は終わり、痛い目にまであってしまいましたが、メルランは幸せでした。なぜなら、最後に自分のシンボルマーク、太陽を見ることができたからです。
「チルノちゃん、やっぱりそれ、うるさいよ~」
「ブォォォォォ!? (何か言った?)」
「あうう……」
音楽隊が解散しようが、蒸気機関車が半回転しようが、里に集まった人妖の熱気は治まる気配がありません。久々に顔を出した太陽が傾きかけた頃、寺小屋は被災地からお祭り会場へと様変わりしていました。
天まで届いた陽気さに誘われて空から天人が、酒の臭いに誘われて地底から鬼たちが隊列を組んで、料理の臭いに誘われて冥界から亡霊が従者を連れて、幻想郷を凝縮したような騒ぎの里は、さながら夏祭りを先取りしたかのようです。あるいは、メルラン発案の第一回梅雨をぶっ飛ばし祭りなのかもしれません。
「みんなが笑ってるのに一人だけ泣くのは失礼よ。寺小屋は萃香にでも頼んで再建させるから、泣き止んでちょうだい。そうね、今度は四階建てのモダンなレンガ造りなんてどうかしら?」
「べ、別に泣いてなどいない。あと、寺小屋は元通りの姿で頼む」
寺小屋の跡地では早くも蒸気機関車が修復され、その屋根の上でプリズムリバー三姉妹が爆心地ライブを開いていました。メルランを中心にして普段の三倍はやかましく演奏しています。舞台に使われている蒸気機関車でさえ、幸せそうに蒸気をくゆらせていました。
ライブをしている隣では一時的に無職になってしまった慧音を、紫やレミリアなど今回の騒動の黒幕的存在たちがいじめ、もとい慰めていました。
「それにしても……あなた方のような重鎮が、こんな馬鹿騒ぎに易々と手を貸したのはどうしてなんだ?」
「吸血鬼にとって雨は天敵。敵をぶっ飛ばすことは当然じゃないか」
「日照不足で植物の育ちが悪かったからよ」
「湿気まみれの生活に飽き飽きでしたの」
「ついつい煩悩に流されてしまいまして……」
レミリア、幽香、紫は悪びれもなく、聖は舌を出していたずらっ子っぽく、理由を白状しました。
「理不尽極まりない話だ……ぐすん」
「泣くなよ、ワーハクタク」
「泣いてないって!」
「頑固ねぇ。ほら、顔を上げなさいな」
「ふげっ!?」
慧音はうつむいてしまいましたが、すかさず紫の人差し指が慧音のあごをクイッと上へ向けさせました。
西の空では赤々と太陽が輝き、ほんのわずかに残った雲を橙色に染めていました。この様子だと、明日もまた太陽を拝むことができそうです。
「あの騒霊のおかげで、ようやくハレになったのよ。恨み言ばかりじゃなくて、感謝の言葉も必要じゃなくて?」
「まあな。しかし、メルランも無茶をするよ。躁の音だけで雲を吹き飛ばそうとするなんて」
「そういう表面的なことしか見れないから、頭が固いって言われるんだよ、ワーハクタク」
「日差しを浴びて虫干しすることね。幸い、しばらくは青空授業なんでしょ?」
「んなっ!?」
「みなさん、喧嘩はいけませんよ」
傘をはべらすレミリアと幽香のせいで場の空気が一気に険悪になりましたが、優しくも力強い聖の言葉でストップがかかりました。
「でも、雲がなくなったのは表面的なこと、という意見には私も賛成です。曇りや雨の日が続くと鬱々とした気分になりがちで、ストレス……でしたっけ? そういったものがどうしても心に溜まってしまうでしょう。なので、梅雨を乗り切るにはただ晴れる日を待つだけでなく、こうした……」
聖はいったん言葉を切り、周囲を見渡します。慧音もそれにつられて首を動かすと、人間、天人、妖怪、幽霊、妖精、神、正体不明な何か、その他もろもろ、ありとあらゆる笑顔が目に入ってきました。鬱々としている者など一人もいません。
「……鬱憤をはらす楽しいことが必要なんだと思います。あの騒霊、メルランさんが真に求めたのは、天気を晴れにすることではなく、みんなで笑って溜まったものを吹き飛ばすことだったのではないですか?」
「確かに、その通りかもしれないな」
聖に対して深くお辞儀をすると、慧音は酒が入ったコップを持ち、一歩下がった場所に座り直しました。腹が立つ部分もありますが、重鎮が重鎮であるのはそれ相応の理由があるようです。そんな連中のそばに自分がいると、己の不勉強が良く分かってしまうなぁ、と失礼にならないようため息をつかず苦笑しながら慧音は思いました。
その重鎮四人は隣で行われているライブに興味が移ったようでした。今日はリリカも、あのルナサでさえ陽気に騒いでいます。それでも、生来の陽気屋メルランには負けてしまうでしょう。彼女こそ、プリズムリバー楽団の太陽なのですから。
「梅雨をぶっ飛ばす……本当に良い仕事をしてくれるわね」
扇で口元を紫がしみじみとつぶやきます。その語尾にメルランのかけ声が重なりました。
「ハッピーですかーっ!」
何にって言うと一言では中々伝えきれませんが、強いて言うならその熱量でしょうか。
陽気な音色が少しずつ、また少しずつ人々を引き寄せ、やがては幻想郷中を巻き込んで幸せな音色を撒き散らす。
本来の目的なんて忘れていても、皆が楽しいならそれでいいのでしょう。
文章を読んでいるだけで、その無駄に騒がしく、最高に楽しげな彼女たちの演奏が聴こえて来ました。きっと幸せそうな顔をしてたんだろうなぁ。
メルラン主役、さらに音楽描写ありという作品をいくつか書かせて頂いた身としては、まさにお手本のような作品。
ハッピープレゼンターたるメルランの真髄を見た気がします。彼女の音色は、きっちり読者まで幸せな気分にしてくれたようです。
ハッピーですよ~。
ノリ良すぎるだろうコイツら。素晴らしい。
ああもう、こういうとことん楽しさを追求したお話大好きです。
幻想郷にはバカ騒ぎがよく似合う。パレードは続くよどこまでも、みたいな。
こういう元気の出るお話は大好きです。
ああ、何だか本当にテンションがあがって来たw
イヤッッホォォォオオォオウ! アイム ハッピーーー!
イヤッッホォォォオオオオオオオウ!
みんなハッピー私もハッピー
しかしパンツから始まったこの話がこんな素敵な結末を迎えると誰が予測しえただろうか
メルランの陽気さは心に立ち込める雲まではらってくれる
幻想郷の太陽といっても過言ではありませんね
メルラン大暴走はいいなあ。読んでいて爽快でした。
比喩がいちいちすごいのも楽しいです。
ハッピーでした。
もしくは、いわゆる定石に沿った物か。
この作品を見て理由がわかった。楽しい物を新しく作るにはパワーがいるのだ。
悪代官ネタを見る日が来るとは思わなんだ。
勿論ハッピーな選曲で