野良犬が居た。
朝起きてから身支度を調え、生活用品を買いに人里まで降りてきたら大通りの中に居た。
もの凄い大きな、黒い野良犬が。
だから私は、ふぅっと息を落ち着かせてから、背中の刀を引き抜くと、ちょろちょろと私の周りを動き回りながら新聞を配る、そんな黒い犬に狙いを定め――
「はじめまして♪ 犬走 文(イヌバシリ フミ)だワン♪ 文々。新聞よろしくだワン♪」
「死ねぇぇぇぇっ!!」
紫電の如く、振り下ろした。
天狗として生を受けてからこれほどの速度で振り下ろした事などあったろうか、いや、ない。それなのにこの野良犬は……
「何するワン! 椛おねえちゃんっ!」
「ワン言うな」
「……わん?」
「ちょっと可愛く言っても駄目」
「わぁん♪」
「もっと可愛く言っても駄目」
「にゃー」
「よし、殺す♪」
私の妹とほざくこの異物。名前と配っている新聞から見て、この黒い野良犬……いや、百歩、万歩譲って、黒い白狼天狗となっている人物こそ、何を隠そう。
「おねえたんこわーい」
「逃げるな! 当たれ! この馬鹿っ!」
私の攻撃を軽々と避ける。天狗界最速と名高い射命丸文なのである。それが何故か、羽を顕現させずに、頭に犬耳のカチューシャをつけ、またしても私の予備の服を盗み、さらには付け尻尾まで完備。
まさしく黒狼天狗と呼ぶべき格好で、私の攻撃を紙一重で捌き続ける。
「わんわん♪、と。まったく、何を朝っぱらから興奮して居るのやら、サカリのついた犬でもあるまいし」
「誰が原因だ、誰が!」
「誰?」
「あんた!」
私がびしっと指差すと、黒狼天狗の文はくるりっと、振り返り。距離を取って私達の争いを見ていた人を差した。
「そこのあなた、お姉ちゃんを怒らせるとは良い度胸ね!」
「お前だぁぁぁぁっ!」
背中を向けた瞬間に刀を横に薙いだのに、それすらも軽く飛び上がって避けてみせる。逃げの一手に回るとなんて素早いんだろう、こいつは……
「はぁ……はぁ……はぁ……」
おかげで、刀を嵐の如く振り回していた私の方が先にへばってしまって。荒い息しか吐き出せなくなる。
「誰に断って犬走の姓を名乗ってるの! 家名はそんな軽くないはず」
「誰って、家の頭首、私達のお父様に決まってるじゃない」
「また口からそんな出任せを、父がそんな簡単に名乗ることを許すはずがない」
父親は厳格で、小さい頃から私は何度も泣かされたことがある。箸の持ち方が違うだの、肉の囓り方が違うだの、食事のときでさえ何度涙を流したことか。遊ぶ時間なんてほとんど貰えなかった。
そんな父が鴉天狗なんかに軽々しく名乗る権利を与えるなどとは考えにくい。
ならば……
「んー、そんなに知りたいなら教えてあげるけど。ちょっとこっち」
「……わかった、行く」
きっと何か裏があるんだろう。
父が鴉天狗なんかに名前を与えなければならなかった、重要な原因が。私は文に手招きされるまま、人里の中を歩き。奇異の視線に晒されつつ裏路地へ。
しかし、私は知らなかった。
まさか、あんな恐ろしいことを聞かされるなんて……
その、真相は……
「……薫製肉10個」
「……え?」
「薫製肉10個あげたら、名乗って良いって言われた」
泣いていい?
号泣していい?
“犬走”イコール“肉10個”って……、
私は今まで、家名を汚さぬよう頑張ってきたのに、大天狗様に一歩でも近づけるように頑張ってきたのに。
「父上、椛は犬走家の誇りを持って、哨戒任務にあたります!」
って、犬走天狗として大人になってから誓ったのに。
「父上、椛は薫製肉10個のために……」
なんて脳内変換されて、なんだかその他一杯の思い出が音を立てて崩れた気がして……
目の前が真っ暗になって。
「戦わなきゃ、現実と」
「お前が言うな!」
そんな輝かしい過去をぶち壊した張本人が、ぽんっと肩を叩いてきた。反射的にぱんっと手を弾き、人が一人やっと通れるくらいの裏路地で正眼に刀を構えた。
「あんたのせいで今までの思い出が悲しみに包まれたじゃないのっ!」
「“あんた”じゃなくて、ふみ♪ って呼んで良いんですよ? おねえたん」
「死んでも呼ぶか! それに“たん”ってなんだっ!」
「……そう、やっぱりお姉ちゃん、白狼天狗なのに、黒い私の毛が気に入らないのね」
「そもそも鴉天狗が気に入らない」
「じゃあ、白狼天狗になった私は気に入っているのね!」
文の姿が一瞬ぶれたかと思ったら、呼び動作なしで私の懐に潜り込んでくる。
目では追えていたのに、体がまったく反応しない速度。
それをあっさりと見せつけて――
「私の愛を受け止めてお姉たま~」
「ち、近付くな、付け耳ぃっ!」
抱きついてきた、全力で。
刀を持っていたせいで自由に手を動かせなかった私は、なんとか足と肘で文を引き離そうと試みるが、思いのほか強くて。
しかも段々顔が、私の方へと近付いてきて。
とうとう、息が掛かるほどに……
「ちょ、馬鹿っ!」
鼻の先が、肌が、唇さえも触れ合――
「さて、冗談はこれほどにしておきまして」
っと、目を瞑って体を硬くしていた私に、文の声が届く。至近距離ではなく、十分離れた距離から。私が恐る恐る、目蓋を開いたら。
ニヤって、笑った。
してやってりって顔で、ニヤって。
あーっそっか。
からかってただけかぁ。
そうだよねぇ~、うんうん。
「……喉笛、掻っ切ってやる」
「椛、本気の殺気を放つのはやめませんか?」
「あんたが、私を弄るからでしょう! 無理矢理!」
「まあ、確かにちょっと遊びすぎたかなとは思いますが、ご愛敬ですよ。私がなんの目的もなしに犬天狗の真似事をするとでも?」
「……何か任務が」
「いえ、特に何も」
「……文? 大体、いくつくらいに分割されたい?」
「だから冗談ですってば、声の高さで冗談か本気かくらいわかるでしょう?」
「わかるかそんなのっ!」
文は自分の頭に乗った付け耳の形を整えながら、やれやれと肩を竦める。うんざりした顔をしているが、あれも作った表情に違いない。
「一応、任務ってやつですよ。そちらの家にも書状は回っていたんですけどね。ことがことでしたので……あなたの耳には届かなかったようで」
「なんで私だけ?」
「……そうですね、なんといいましょうか」
プライベートの砕けたしゃべり方ではなく、すっかり仕事口調に変わった文。白狼天狗の服装の特徴である大きな袖からいつもの手帖を取り出すと、一度だけ軽く開きまた閉じた。
「ふむ、あなたの尊敬する職業、人物は?」
「何を今更、天魔様と、大天狗様……、っまさか」
「はい、ご名答。そういうことですよ。私が今受け持っているのは取材ではなく、そういう仕事です」
「大天狗様が関係している、ということ……」
「ええ、そして私が姿を変えて行っている。もうわかるでしょう、椛」
「……それで、私には何も知らされなかったと」
天狗社会を統べる天魔と、大天狗。
それにまつわる、大きな仕事。
しかもそれは、私に知らされないよう、父が配慮した。つまり、私の憧れを汚す可能性がこの仕事にあるということ。
「そんな、まさか大天狗様が何か……」
「ええ、信じたくない気持ちはわかります。しかし、事実ですよ。本当は隠しておくつもりでしたけど、ここに今回の内容が書かれた書状があります。これは犬走の頭首にも見せていない真相が書かれていますが、読む気はありますか? それを読んでしまったら、あなたもこの仕事に強制的に参加させられてしまうことになりますが」
ごくり、と喉が鳴る。
文が持つ一枚の折り畳まれた書状の内容が気になって、そこから目が離せない。けれど、私の好奇心は恐怖で押さえつけることが出来ないほど膨れあがって……
「読ませて」
自分でも驚くほどはっきり、その言葉を口にしていた。
天狗の山で暗躍する何かに、足を踏み入れる覚悟もないまま。知的探求心が叫ぶままに、私は声を出す。
「後悔しても、もう手遅れですからね」
文の表情が一瞬だけ曇るが渡しが望むとおり、その書状を渡してくれる。渡しは興奮と、言い知れない恐怖で指を振るわせながら、白い長方形をゆっくりと、ゆっくりと開いていき……
『とある大天狗より、各位へ
この書状は、決して天狗以外の種族には見せるべからず。
必ず内々に処理し、事件が解決次第。焼却処分すること』
やはり、そうか。
この書状は、天狗社会の暗部。
私が、知りたくない世界の実状が表現されているのだろう。
だから、文も普段とは違う天狗の姿で何かを探ろうとしている。
きっと、それは私が想像している小さな事象なんて吹き飛ばすほどの大きな事件に違いな――
『……私の旦那がね、浮気してる気がするの』
……え?
『うん、わかってる。最近、大天狗の仕事が忙しかったから、ついつい冷たくしちゃったって言うか、突き放しちゃったのは自分でもわかってるの。でも、私、凄く彼のことを想ってる。仕事してるときだって、気を抜いたら笑顔を思い出しちゃうくらい。あの素敵な、爽やかで、輝いてる顔が浮かんでくるの』
……のろけだしたよ、おい。
『だから毎日急いで家に帰るようにしてる。少しでも待たせないように、帰り道にいた河童を全速力で轢いちゃうくらい』
轢くな。
『なのに、なのにっ! 最近彼が居ないの! おかえりの声が聞こえない。あの人の美声を聞くことが出来ない。あの人、鴉天狗だから、私より仕事終わるの早いはずなのに、最近私より遅く返ってきて、どこ行ってたの? って、聞いても、付き合いで飲みに行ったとしか答えてくれない。どうしよう、こんなんじゃ、仕事が手につかない。大天狗なんてやってられないのよ!』
働け。
『きっと、浮気してるんだわ。私以外の女と付き合って居るんだわ! だからお願い、みんな。彼に内緒で浮気相手の女を捜して! 私の前に連れてきて頂戴! 何もしないから、ちょぉっとだけ……お話するだけだから、ね? うふ、うふふふふ……』
……やる気だ。
間違いなく、やる気だ。
「……もうやだ、あの山……」
「気をしっかり持ちなさい、椛。こんなもの、一部に過ぎないのですから……」
「こ、こんなものが大量にあるというの!」
「ええ、例えば」
「例えば?」
私が身構える中、文は黒狼天狗の格好でにこっと微笑み。
「浮気調査のために、肉10個で名字を売り渡すことになった家系がいるのですから♪」
「………………殺す♪」
だから、私もにっこり微笑んで。
全速力で逃げる鴉天狗を追い回した。
おかげさまで、休暇が丸々一日つぶれたのは、言うまでもない。
浮気相手アンタかああああああああああい!!
大天狗と祟神の修羅場とか旦那カワイソス、いや自業自得だろうけどさ。
作品のほうも程よい疾走感があって良かったです。
パルパルパルパル…
早苗「はっ!?神奈子様が橋姫化してる!!??」
この二人の掛け合いは、いつまで見ても飽きが来ないですね
今後も機会があれば是非再登場を・・・!
大天狗様、以外に俗っぽい・・・w