Sic itur ad astra.
こうして彼女は世界を越える。
休日……。
今日は本来ならば、日頃の労苦からの束の間の開放を、楽しむことすらなく終わる日。
陸では、誰も彼もが自分らしい休日を追い求めてるんだろう……。
でも、私がいるここには、騒がしいあいつらはいない。
この海を超える船の甲板には……私一人きり。
「たばこも……気分だけなら、悪くないもんだぁねぇ……」
深く深く息を吸って、むせるのを必死に我慢して……。
それでも私は、煙を深く吸って……、吐いて……。
自分の理想の環境が、今ここにあるのだ――なんて考えながら。
<◯>
静かに波をかきわけて、船は進んでいく。
誰もいないだだ広い甲板の上の船首、私は一人、たばこを吸っている。
綺麗な雲。包みこむような太陽。まだまだ残暑の時期なのに、こんなにも陽が照っているのに、暑さを感じることはない……。
「うんうん、良い天気だ」
暑くないとか、タバコはあいつがいつも言ってるほどおいしくなんてなかったとか、そういう細かい矛盾はおいといても……。
「いい女には、さんさんの太陽と、豪華客船と、マントと……」
太陽を直接見る。……すぐ目が痛くなって、本能的に視線を反らした。
船を見返す。こんなにも、豪華客船だ。まるで、頭脳だけを武器にする探偵なんかが乗っていそうな。視線を進行方向に戻す。
マントが風になびく。このマントははためかせるとまるで翼のように見えて、とてもカッコいいのだ。
「タバコだよねぇ……」
大きく。
ちょっとだけワイルドに男っぽく。
かつ不良少女っぽい色気と、大人の女性っぽい色気をブレンドし……。
息を吐き出す……。
ちょっと何言ってるかわからなくなっちゃったけど。
<◯>
今、私は外連味の世界にいる。
それは、なんというか……私のなりたかった自分をなりたかったと思わせてくれる世界だ。
私はもっともっとすごくなって、誰かに追いつかなきゃいけない……。
それは例えば、世界を征服できるくらい……。
私はもっともっとすごくならなきゃいけない……。
それは例えば、彼女に追いつけるくらい……。
なんて、いつか思ってた頃もあったけれど。
いまそんな事思ってちゃ、いつまで経っても治らない中二病としか言いようがないねぇ。
それでもこの環境が心地いいのは変わらないけど、ね。
「あんたのそれはまさしく中二病だと思うけど」
唐突に声がした。誰もいなかったのに……。誰もいないはずなのに……。
慌てて振り向くと、そこには奇妙な服を着た少女がいた。いや、少女なのか女性なのか……。判別できない。
腋の開いた巫女のような紅白の服。手に持ち肩につっかけているのは御幣。
どこかで見た……どこかで見たような感覚。
思い出せなかった。
だからその感覚は置いておいても……一人きりの時間を邪魔されたことに、多少のいらいら。
「何、いきなり話しかけてきてるわけ?」
「ネタは通じるところでやらないと誰も得しないわよ」
私のかるーい言葉のジャブを、少女は涼しい顔で黒髪をかきあげながらかわす。
まさしく正論だねぇ……なんというか、いやーなタイプだ。私の苦手とする。というか、こいつ、どっかで見かけたような……。
えーっと……いや、気のせいだっただろうか……。研究室ではない、かも……。
どちらにしても……。
「あんた、どっかで見かけたからうちの学生だと思うけど。他人に気軽に話しかけられるようなのには見えなかったんだけど」
「ふぅん」
あんたの言う言葉になんか興味のないですよーと言った返事。
なら、話しかけてくるなよ……わけの分からん奴だ……。
「なにか、用かい?」
「いや……なんというか、会っておいたほうがいいんじゃないかと思ってね……」
わけわからん。マジで。
「それよりあなたは今、何を考えてたの? マントはためかせて顔真っ赤にして煙こらえてたけど、なんか感慨にでも浸ってそうだったけれど?」
……いきなり不躾な質問だ、と思う。そんな必死で煙我慢するほどじゃないし。多分。
けど何故か、私はそれを不快に思わなかった。いや、思えなかった。
おかしいでしょ。あんた学生。私教授。多分初対面。のはず。お互いの名前すら知らない。
だというのに、何故かどこかで聞いたような……。
そんな居心地の良さを、私は感じた。
「強くなりたかった頃の、昔の話をちょっとね」
「え? 強く?」
「そ。昔々、もう憶えてないけどさ……確か私には、ライバルがいたんだよ。ライバル。分かるかい? 宿敵のほうが正しいかも」
半分黒歴史と言ってもいい思い出だ。越えるべきライバルなんて、まるで少女漫画。竹本泉かよ。いや違うな、なんか間違えた。
とにかく、忘れたい記憶でもあるけど、大事な記憶でもある……そんな不思議な、くすぐったい、記憶だ。
だから、目の前の不躾なこいつは馬鹿にでもするかと思ったら……。
「えへへ……そうか……ライバルか……」
破顔一笑。
おいおい。嬉しそうに頬まで染めてる。
なんなんだ、一体。
「霊夢」
ぶわわわわ、という風の音がした。
船上は一応風がなびいているがそんなもんじゃない、もっともっとすごい世界が歪むような風だ。
「そろそろ戻りましょう」
いつ現れたかも分からない、もう一人の少女。私はそれを見て驚いた……。
霊夢と呼ばれた少女もそうなのだが、この少女には、年齢というものがまったく感じられなかったのだ。
いや、むしろこっちは全ての年齢に見える。
霊夢が大人びた幼さを持っているとしたら、この少女は、「大人であり」「子供である」のだ。
艶めかしいブロンドが、次の瞬間さらさらとした金髪に……。
豊満で理想的なプロポーションが、次の瞬間ぺったんこな女の子に……。
じっと見ていると、なぜだか臓物をかき回されるような快楽が……。なんだ、この感覚……。
その少女を見た瞬間落胆して、はぁ、とため息をつく霊夢。
「そっか……もうか……。……じゃね」
手元のタバコにやっていた視線を目の前に戻す。こっちも別れのあいさつをしたほうがいいような気がして……。
でもそこにはもう誰もいなかった。
きっと、これからもずっといないのだろう……。
<◯>
私はタバコを咥え直す。
息を吸っている間に、考えることは……。
そろそろしなければ一生できなくなりそうな、結婚。その相手。
じゃなくて……。
ホントは頭いいはずなのに試験じゃ短絡的なことばっかりやってミスしまくるバカの処遇。
でもなくて……。
この世界のことだ。
<◯>
たまに思う。
世界に自分以外の存在って、あるのだろうか。
そりゃあ、自分は存在する。それは証明されてる。絶対に。
昔エライ人が懐疑法を乗っ取って証明してしまったから。
……懐疑法ってのは要するに、こういうこと。
「世界すべて存在しないのではないか? 目の前にあるものも全部偽物ではないか?」
ただひたすら世界を疑う。疑って疑ってどうしようもないところまで疑う。時には自分の存在すら疑う。
「俺があると思ってるだけなんじゃないか? そもそも俺の存在すらあやふやじゃないか? 俺って存在するのか? しないんじゃないの? 俺なんてはじめっから存在しないんじゃねぇの?」
こんな退廃的な考えの人々だらけの世の中で、ただひとりだけ、この方法の致命的な盲点を付いた人がいる。
「いるかどうか疑っているお前って何だよ?」
「えっ」
「いや、疑ってる何かの存在だけは最前提として疑えないんじゃね? だっていろいろおかしくなるよ? それがないなら疑いそのものの存在はどこへ? つかそもそも懐疑法ってクソだなオイ、正しい存在を前提としてるのに疑うのかよ」
そう、疑っている何かは存在する。例えそれが自我と呼ばれるモノでなくとも、何か膨大な別の存在の一部としても、ひとつの魂の永遠的循環だとしても……。
疑っている「何か」の存在だけは否定できない。絶対にそれだけは存在しているんだ。そしてそれは多分自分だ。
すごい。
すごいよ、あんた。デカルトさんマジリスペクト。私濡れてきそうになるよ。
この大発明は有名だから、哲学に関してはにわかの私でも知ってる。バカじゃないけど、まさにサイキョーの発明だ。
けど……。
けどさ……。
けどだよ……?
他人は?
他者の……存在は?
私は一人が好きだ。自分が好きだ。一人でいると心が豊かになると思っているくらいだ。
それでも、何年も誰とも会話しないとさ……人間として腐っていく、そんな気がするんだ。
人間は社会的生物だとかなんとか、昔誰かが言った。社会がないと生物として成立できないのだ。
オナヌーは気持ちいい。私が女だからかもしれないけど、やってる途中は本当に最高だ。もう今死んでもいいくらい。学生時代は一時期告白して振られて寝るか食べるかオナヌーか、の生活を過ごしたことがある。
でも、すごく虚しい。男はエロ画像でオナヌーするらしいからまだましかもしれない。いや、それでも虚しいって聞くけどねぇ……。それはさておいて、とりあえずまだましということにしておく。
振られた相手との性交渉を妄想してオナヌー。
これ、ほんとうに最高に、むなしかった。ヤバい。手に切り傷のあとが増えそうになるレベルだった。結局バカみたいだって思ってやんなかったけど。
といってもこのむなしさも、その時は他者が介在してなかったとはいえ、元々は他者との関係性によるものだ。他者がいなければ虚しささえ感じないどころか、ああいう生活を送ることすらなかった。
……最初から誰もいなかったら?
本当は、私以外誰も存在してなかったら……?
誰も彼もが私の分身で、私の内的意識を元に生み出された存在だったら……?
もしくは……この世界すべて私の夢だったら?
あるかも分からない世界の外側を見てだねぇ、そこを見てしまった家政婦は気づくんだよ……。
この世界には私しかいないんだ、って……。
あはは、こんなの思考遊びにすぎないはずなんだけどねぇ。
でも……。
<◯>
前には、大海原。当然、誰一人人っ子一人いない。というかいたら困る。
後ろには、豪華客船。人の気配が全くしない。これだけ大きい船ならもう一人くらいここにいたっていいだろうに。
世迷言が現実になってそうな……。
この世界にみじめな私が一人きりであるような……。
いや……そんなチンケなよくある話ではなく……。
世界が、ちっぽけなおもちゃ箱に見えるような……。
そしてその世界の数少ない希望は……金髪の少女と、巫女の少女……。
彼女たちだけだ、世界を救うぞー、なんて。
ははは、中二病って言われてムッとしてるくせに、懲りないねぇ。
まったく――。
<●>魅園魔友教授の「素晴らしき日々Ⅱ」<●>
「魅魔様ーっ!」
「お?」
朝、大学に行くため家を出ると、声がした。この季節の朝日は眩しすぎて直視できない。いつもはもうちょっと寝坊して、もうちょっと遅く出るから尚更だ。
閑静な住宅街の中に、姦しい声が静かに響く。
「今日は、いつもより早いんだな?」
適当な返事を返してから、知識を整理する。
こいつはお隣の家の娘。幼い頃からよく一緒に遊んでやってたから、妹分みたいについてくる。歳の差は干支一回り程度だ。
あと、まぁ、付き合いが長かったからいろいろある。
今日もいつものように朝から私の家に入り浸って、それから一緒に大学に行こうとしていたらしい。
私の炊事洗濯掃除を任せっきりだから、きっと将来良いお嫁さんになるだろう。経験に勝る師匠無し。
えと、名前は、確か……霧雨魔理……
「魅魔様おはよー、うふふ、うふふふふ」
ええっと、霧雨魔理だったか。そうだそうだ、一瞬名前を忘れかけてた。痴呆はまだ始まるわけないと信じたい。
それで誰だっけ、今私に挨拶したもう一人のこいつ、魔理の後ろからぬるりと生まれ出でたような……そんな錯覚が見えたんだけど。
魔理の金髪に比べて、燃えるような赤髪……。
魔理と違ってねっとりした笑い……。
「えっと……あんた……」
「?」
「誰かな?」
言った瞬間赤髪の少女はこめかみに青筋を立てたが、まだ臨界点というわけではないようで、うふうふ不気味な笑いを立てていた。
「そりゃないぜ魅魔様……ずーっと私達を世話してたんだから、それを忘れるわけないだろうに」
「あれ? そうだっけか」
「しっかりしてくれよ……とうとうボケちまったのか?」
「魅魔様はボケボケね(はぁと)」
さりげなく毒舌を混ぜてくる赤髪。だからボケてないってば。
ああ、思い出した。この子は……。
梨沙。霧雨梨沙。魔理の、双子の姉だ。
「まぁ、そういうことで、今日はちょっと早めに出るから」
「わ、私もいくぜ」
「私も~」
と言われても、魔理は外出する準備もおざなりに無理やりサンダルつっかけて私を追いかけてきてたみたいだ。
……待たなきゃいけませんか? いけませんよねぇ、面倒くさいな。
「全く、仕方ないねぇ……早く準備してきておくれ」
「わかったぜ」
言うやいなや、全速力で自宅の玄関に向かって走りだす魔理。梨沙はまだうふうふ笑っていた。
「梨沙はもう支度終わったのかい?」
「うん、私はおっけ~だよ」
「そうかい」
双子でもここまで違うものかな、と思う。
魔理はすぐに頭に血が昇るが、根本的に甘えん坊だ。やってることにミスも多い。危なっかしくてみていられない。
梨沙はしっかり者だ。今みたいな状況で慌てるのはいつも魔理だ。感情を押さえる術も会得している。んだけど……本質的には熱血漢。あの事件とかね……。
まぁ、それはいずれ語るとして。
「ごめん魅魔様、待たせたぜ」
やたら早い魔理の準備に驚く。ちょっと寝ぐせが取れきってないが……まぁ、身だしなみとしては、不自然ではない。
化粧無くても綺麗な肌というのは羨ましいねぇ。
ああ、なんか、こういうこと言うと私が歳取ったみたいだ……。
とりあえず余計な思考は忘れて自分の研究室に行こう。
何故私が早く家を出たかというと……家には冷房がなく、夏はすぐに暑くなるからだ。
電車の中は特になんということもない。いつもより早いお陰か、電車の中はいつにもまして完璧にガラガラであった。
私はいつもの物を読み、霧雨姉妹は仲睦まじく会話していた。それだけだ。
キャンパスの隅っこの古ぼけた建物の、十二畳ほどの狭い空間が私の城。いや、一応広いほうではあるんだが、五人とも、綺麗に荷物纏めるタイプじゃないから、ちっともそうは思えない。
机だけでも五つともなれば十分狭い。
その研究室では、鎌田がぐでーっとクーラーを効かせながら寝ていた。
ひえひえの空気自体はまぁ嬉しいとしても、自分がいない研究室に鍵借りて勝手に入るのは感心できない……。
私は鎌田を起こすことにした。肩を揺らしながら声をかける。
「おい、鎌田、起きな」
溶けてしまいそうな氷のように自分のデスクにびたーっとくっついている鎌田には、その言葉は届かない……。
いや……何かブツブツ呟いている……?
「あついよぉ……あつい……あたいとけひゃうよぉ……ひっ、もうやらぁ……もうこれ以上あげないで……あ、あああっ……はーっ、はーっ、はぁーっ、はっ、あつい……んっ……らめ、らめぇ……あ……ああああ……んふぁあ……」
どんな夢を見てやがりますかこいつ。というか、こんな涼しいのになんで暑いって話になるんだ……。
壁のパネルのエアコン設定温度を見ると、10℃。逆に極寒である。
「今気づいたが……この部屋……寒いぜ……」
人の事言えないけど、気づくの遅いと思う。
「うふふ、うふふふ」
こっちは涼しい顔して笑みをたたえている。実際に涼しいけどさぁ……。
私は耳元で大きく柏手を打った。なかなかいい感じに澄んだ音が響き渡る。
「うわっ」
すると鎌田は小さく叫びを上げ、飛び起きた。
「へ? へ? ここどこ? わたしだれ? 銀河アイドル?」
まだ寝ぼけているみたいだ。魔理が、ははは、鎌田が銀河アイドルってその銀河相当イカれてるぜ、と笑った。
「おはよう、鎌田」
私が声をかけると、徐々に顔つきに締りが出てきて、おはよー、魅魔! なんて声が帰ってくる。
「ちゃんと教授って呼びな、全く……それと、勝手に研究室の鍵借りてきちゃダメじゃないか……」
「えー、だって、うち家にエアコンがなくて……昨日の夜中はほんとに地獄で……」
「だってもヘチマもないよ。次やったらゲンコツね」
「は、はひ……」
怯える鎌田。魔理と梨沙は、さっさと共同して自分のすべきことを始めていた。片方ずつだとただのヘタレなんだが、二人揃ったこいつらはちゃんと機能する。感心感心、だ。
一方鎌田は、パソコンを立ち上げゲームらしきものを始めていた。
「お……良い雰囲気だなこれ……絵も可愛いし、きっと楽しいゲームなんだろうなっ」
ゲームスタート、ぽちぽち必死に同じ記号を四つ並べて消している。よくある落ち物パズルみたいだ。
パズルの駒はお菓子。右下には可愛い女の子。ずいぶんとポップな絵柄だ。
……まぁ、まだいつもよりも早い時間だしな……放っておいていいだろう。
この大学は人数が少ないから、基本的に私が講義することはない。
別に私の分野が人気が無いわけではないし、私自体の力不足で他所からも声がかからないということでもない。
嘘です、実は主にこの二つのせいなんです。
だから私自身はお荷物のはずなんだが、一向に首にされる気配はしない。他所の研究室だとすんごい研究やってるところとか普通にあるのになぁ……。
それはきっと研究生達のお陰だと私は確信している。うちが抱えてる四人は間違いなく優秀そのものだからねぇ。
だから私も、問題なく自分の論文に取り掛かれるというわけだ。
などと考えていると、悲鳴のような効果音と、「ぎゃあああああああいちゃああああん」と叫び声が聞こえた。
いきなり何が起きた。
梨沙は涼しい顔をしながら自分の仕事をしているし、魔理はビクっとしながらもなんだ鎌田かよ、と一言呟いて元に戻った。
まあ、ゲームやってる奴は一人しかいないからなぁ。
画面をちらと覗いてみると、骸骨が女の子を連れ去っていく演出がなされていた。
可愛いと見せかけて実は、系のホラーゲームだったらしい。お陀仏。
そういや昔流行ったねぇ、幸せな木の友達。あれはもはや制作者の正気を疑ったけど……。
鎌田は口をパクパクさせながら涙目で私を見て、また口をパクパクさせている。
ふるふると子犬のように震え、恐怖で固まった目からはじんわりじんわりと涙が。……ちょっとかわいいじゃないか。
頭をなでなでする欲望が私を襲う。
そんな葛藤を楽しんでいると、研究室の扉がガラッと勢い良く開いた。もういつの間にか、全員が揃う時間になっていたらしい。
「おはようございます! 今日も清く正しい白河彩ですっ!」
「あ、彩ぁ!」
この研究室は大体仲良しで感心なんだが、組み合わせてみろと言われれば、白河彩鎌田チルノ、霧雨姉妹、ということになるだろう。それくらい各々は仲が良い。
「おろ? どうしたんですか鎌田さん。あれ……なんか泣いてます?」
とは言ってもスパスパとタバコを吸いながら聞くその姿勢に、心配している様子は全く見られない。
二人は喧嘩友達みたいなものらしく、研究室では毎日のようにイチャイチャが見れる。
それにしても文理すら違うのによくもまぁここまで馬が合うもんだと思う。
「え……あ……? ふ、ふんっ、泣いてない、泣いてないもんねっ」
チラッと画面を見て、ははぁ、と合点を得たように笑う彩。性格悪い。
「なんか低俗な罠にでも引っかかりました?」
「あいちゃんは低俗じゃない!」
「愛と勇気とかしわもち、懐かしいですね。ちなみに私の点数は53万です」
「何それぇ! 私何度やっても1万点越えられないのに! 何よ、クソゲーよクソゲー!」
「鎌田さんがヘタなだけでは?」
軽い応酬がだんだんヒートアップしていくのが聞こえてくる。
「るっさい、ぶっこぉすわよ、この科学の力で! あと磁力の力も!」
「私に鎌田さんが敵いますか?」
「文字じゃ敵は倒せないよ……敵を倒す学問は、この物理のみ!」
「未だに第二種永久機関なんて研究してるのは、もう物理じゃなく魔法やってるようなもんだと思いますが……それに、文字じゃ敵を倒せないというのは間違いですよ」
「な、何よ?」
「文字は旋律……旋律は力……力は大嵐を紡ぐ。一つの文字の羽ばたきがやがて巨大な運動となって、世界全てを変革、破壊していくのです。物理なんかより、よっぽど敵を倒せますよ」
「なぁにぃいいい!? いいだろう! 死ぬがよい!」
「研究室で喧嘩しないでおくれ……」
自作氷殺ジェットを構える鎌田。扇子を懐から取り出しぴっと突きつける白河。その二人を嗜めるため、声をかける。何が物理と文字だか、小学生のチャンバラかよ。バタフライエフェクトは紙面上でやれ。
本当に仲がいいもんだよ、全く。
ま、何はともあれ、これで、この研究室のメンバーは全員揃ったことになる。
なんで同じ部屋に押し込められてんのかわからないくらいにはそれぞれやってることは違うんだが……。
まぁ、なんというか、云ヶ月一緒にいると、そんなことはどうでもよくなってくるのが実情だ。
というか、この大学自体謎が多い。やたら人数少ないし……学長の八雲紫さんとやらは誰も見たことないし。
学長って学校の顔だろう? 誰も見たことない学長って矛盾してないかい……?
まぁ、この辺を調べようとしたら即座に消されるなんて噂もあるし……置いておいたほうがよさそうではある。ちょうど鎌田も研究を始めているみたいだし、彩はキーボードをバシバシ叩いて執筆作業らしい。私も自分の作業に戻ろう。
暇つぶしとばかりに新しく発表された論文を見ていく。インターネットは便利だ。中身に軽く目を通していく。こうして、新しい発想を探すのだ! ……と言えば聞こえはいいんだが……この学問、ほとんどが創始者の論文に依存してるんだよなぁ。もしそうでなければそれに対抗する勢力なんだが……それだって良くも悪くも創始者を中心としているようなもんだ。
だからほとんどの論文が……ほら、やっぱり。まぁいつ見ても変わらないけど、彼岸原則がうんたらだの、男根期がどうたら、って、あんたらいつまで同じ人間を見つめているのやら……。まるで父親を同一視する息子だよ、全く。いやまぁ、悪かないんだけどさぁ……さすがに既存の理念を引っ掻き回しているのを見ても、新しい場所を探す私には何の役にも立たん。
仕方が無いので新しく入ってきた論文をその辺に放り投げ、代わりにキャビネットからボロボロになった紙束を取り出す。
「夢判断」
そんなタイトルを冠したこの本は、しかしその辺に転がってるような恣意的な夢占いと比べてもらっちゃ困る。
それでも大層なもんじゃないんだが……夢の中の無意識と欲望の抑圧について論じた物だ。
いやー、それにしても偉そうな事言っといて私も創始者の論文頼りたぁ、情けないねぇ。だからと言っていまさら別の切り口も無理があるしなぁ。もはや斜陽の分野だし。
そもそも精神分析ってのは往々にして抽象的になりやすいから、学問として認められている気があんまりしない。
それでも私が大学にお金貰ってメシを食えているのは、やはり、創始者の論文を読み解きそれをさらに発展させるのが難しいからに違いないだろうねぇ。いやあ、学長の情けって言えばそれまでだけどさあ。
「魅園教授」
つーか、女の私からしたら、勝手にチンコ生えてるアホ共と一緒にさせられてるような記述が多いのはちょっと腹立つんだよ。
心のちんちん生えてる? どこのエロゲンガーっすか?
「魅園教授?」
っと、呼ばれていたようだ。軽く謝罪しながら後ろを振り向く……と、気怠そうな学生が。私を呼び出すよう頼まれたとかかな?
えーっと、一応この大学の私周辺の人間は名前と顔を一致させたはずなんだけど……覚えてない。最近記憶力が心配だ。脳トレでもやろうかねぇ。
「岡崎教授が魅園教授に用事がある、すぐ来てくれと伝えてくれと……」
思い出せん……。えーっと……。
「えっと、岡崎の部屋だっけねぇ?」
なんというか人の顔を覚えてないというのは癪なもので、なんとか記憶を手繰り寄せ彼女に質問する。
「ああ、違います。私はたまたま居合わせただけなので……」
「ああなるほど。分かった、わざわざすまないねぇ」
「いえ、ではこれで」
短いやりとりだけをして去っていく学生。
白河が、あ、絵里子さん原稿どうですか、と声をかけた。白河彩は色々文章関連に幅を効かせているらしいが……雑誌みたいなものも作っているのか。そして絵里子。絵里子ねぇ。聞いたことがあんまりない名前だが……そういえば岡崎の部屋の紅音とたまーに一緒にいるのを見たような……それで岡崎が思い出されたのかもしれん。
「もう終わりましたが、もう少し推敲させて欲しいです」
「そうですかぁ。いやいや、絵里子さんはいつも早いですねぇ……まだあと二週間はありますよ」
「いえ……やっぱり彩さん達も、早ければ早いほど良いでしょう?」
「それはまぁ、勿論。いつもクォリティも伴ってますし、原稿お疲れ様ですとしか言いようがないですよ、こっちは」
少し頬を緩めて別れを告げ、絵里子は研究室の扉を開けた。私もその後を追うようにして閉まった扉をまた開ける。
用ってなんだろうなぁ、なんてぼんやり考えながら。
<◯>
我が研究室と同じ棟の、陽が入り込む廊下。
そこにある、岡崎と毛筆で書かれた化粧板が張り付いている扉。
ここを開ければ岡崎研究室である。
岡崎研究室は実に得体のしれない研究室で、岡崎由芽美はキチg……謎な人物揃いのこの大学の教授陣の中でも、ひときわ輝くキチガ……変人っぷりを発揮している。
何人かが謎な実験の実験台になったとかいう噂を聞くし、実際に私も実験と称してなんかわけのわからない事を押し付けられたりもした。
なんでも、魔法という物の正体を暴こうとしているとか。
アホだねぇ、魔法というのは分からないから悪魔の法なのに。分かってしまったら、それは魔法ではない。
ゆえに、魔法というのは語りえぬものだ。なーんて考えていると……
「動くな」
左の首筋に冷たい感覚が。
「これは小さくても必殺の武器だ。逆らわない方が身のためだぜ」
左への横目だけで相手の姿を確認する。
首筋に突きつけられている装置は流石に何か分からないが……左手に可愛らしい花柄のハンカチ。濡れた手。お小水帰りかねぇ? そしてふわふわの金髪……。微妙に似てはいるが、まさか魔理じゃないだろう。それにしてもだ。
「殊勝な態度で感心、だぜ。さ、手を頭の後ろで組め。じゃないと……死ぬぜ?」
私にケンカを売る人間がこの大学にいるとはね……。
一瞬で突きつけられた右腕をひねり上げ全体重をかける。崩れ落ちる。地面と足を使い肩を極める。
「えっ? えっ? いた、いたたたた!」
突きつけられていたものは小型のモデルガンだった。必ず殺してしまう武器では、少なくとも無かったようで一安心。取り上げる。ん……違和感? モデルガンの癖に妙に重いな。でも「取り扱いに気をつけましょう」なんてシール貼りつけてあるし、モデルガンであるとは思うんだが。
片手で関節を極めたまま、試しに宙に向けて引き金を弾いてみる。
バチィッ!
この効果音である。むちゃくちゃな電圧の電流が迸ったらしい。やめてくれ、苗が取れてしまうよ。とりあえずこのふざけたスタンガンは、地面に全力で投げつけておく。壊れろ。壊れてください。
「あーん、私の0.8A1500万Vモデルガン型スタンガン~っ!」
スペックを聞いて戦慄する。マジで必殺の武器じゃないかい。悪趣味にも程がある。もう少しだけひねり上げる力を強くする。
「いだ、いだだだだ、いだだだだだだ! いたいぜいたいぜ、いたくて死ぬぜ」
そのセリフはお前じゃない。
「こらー、お客様にそんな応対するなって前言ったばっかりじゃないっ!」
頭頂部に衝撃。頭の中に響くような打撃音。眼の前がチカチカと明滅する。
「ってあれ? 間違えた?」
なんで私を……。
明滅する視界に見える、パイプ椅子を持ちながらうろたえる赤髪の少女。いや……いくら私でもパイプ椅子で全力で殴られたら死んじゃうからさ……。というか、これドツキアイ漫才のつもりなんだろうけど……こんな強さで殴るもんなのか……?
そんなことを考えながら、私の意識は消滅した。
<●>
頭の上に乗っている、ひやひやとした物体。いや、乗っているというよりも、むしろ押し付けられているようだ。
これは……氷嚢……?
「教授、魅魔が起きたよ」
鎌田の声が頭上からする……。目を開けると、まず飛び込んできたのは天井の灯りだった。
「分かった。ごめんね、看病頼んじゃって」
「ま、いーよいーよ。宇宙全部を冷やすのがあたいの仕事だからね」
「……宇宙とそいつの関係は置いといてもさぁ……いつになったら、それ、できるのかねぇ」
「分からん。でも、あたいは宇宙を救う氷雪魔法の使い手だから、頑張らないと。それじゃ、あたいはこれで」
「ん、分からんことあったら、何でも聞きに来てね。流石にもうそろそろ、何でも教えるよーっというわけにはいかないけど」
「おう。……まぁ、なんでも聞くわけにもいかんよねぇ……またね、教授!」
せかせかと走る音が頭に響く。冷やして貰って少し楽になったが、未だに頭のてっぺん部分が痛い。なんで……。
私が寝ていた場所はソファーみたいだ。んで、ここは、岡崎の声がするから多分岡崎研究室だ。
……ああ、思い出した。ええ、思い出したとも。
私が謎の金髪少女にスタンガンを突きつけられ、それを一瞬の隙を見て組み伏せた所、私をその金髪少女と勘違いされ、パイプ椅子で一発ぶん殴られて気絶して……今に至ると。
「うちの助手がごめんなさいね、魅魔」
「ごめんで済んだら……風紀委員はいらない……」
あーもう、頭がガンガンする。というか、実際に気絶させたのはお前だ。
さっきの金髪は新しく入った助手と言ったところか。
まぁ、岡崎程の人間の助手ってことは、多分それなりの頭脳を持つんだろう。そしてそれなりの変人。
ちなみに、この大学には何故か高校でいうところの風紀委員みたいな組織が二つも存在する。
といっても、両方一人ずつしかいないんだけどさ……そこはまぁ、人数の都合上仕方ないのかもねぇ。よく存続してるよ、この学校。学生数たった100人弱って、それもはや大学じゃないでしょ、っての。
「それで? 何の用なの」
普段この部屋に出入りしているということもない私が呼ばれたとしたら、考えることは一つしかない。
それは、まぁ、岡崎の研究で、私が必要だってことなんだろう。まーた妙な実験に加担させられるのだろうか……。
答えようとした岡崎を遮るように、扉が開き、二つの人影が入ってくる。
片方は、さっきの金髪ツーサイドアップの少女。私と目が合うと、少しバツの悪そうな顔をして頭を掻く。というか、なんでこいつは大学生なのに水兵服を着ているんだ? いや高校生だろうと水兵服はおかしいと思うが、いや……まぁ、ここの教授からして赤一色のどっかのアニメの女幹部みたいな服装だったな……もはや何も言うまい。
それで片方は……誰だ、こいつ。というか、見た瞬間頭がチリチリってしてくるような、って、あれ、視界がぼやけて
「あらあら……大丈夫かしら? 魅園教授」
さっきの頭痛のせいか? いや……奇妙な紋様、陰陽図の服装……手に持った扇子……どこかで見たようで、それで、焦点が合わないこの不愉快な感じ……。
「こっちが、北白河ちゆり。さっき言った通り、うちの助手だ」
どうも、と言って自分のデスクに向かう。そしてもう一人が……
「ごきげんよう、学長の、八雲紫と申しますわ」
あ、学長。そうだ、学長じゃないか。何を忘れていたんだ。八雲紫。我が大学の学長だ。
「学長は、まぁ基本的に数学者なんだが、超心理学とか、色々なニッチなスキマ学問に造詣が深いの。だから、協力してもらおうと思ってね」
「ってことは、私も……」
「うん。まぁ、紅音がいないけど、あの子はどうせ妹をストーキングしてる頃でしょう。というわけで、今から『素晴らしき日々プロジェクト』の発動を宣言させてもらうわ。ちゆりはもう分かってるわよね」
「ああ、勿論だぜ教授」
素晴らしき日々。素晴らしき日々か。良く解らんプロジェクト名だし、そもそも名前を付けるセンス自体に異議を唱えたいものの、それはおいておいても……多分、岡崎は、本気で魔法を探すんだろう。
この大学の教授陣は、とても少ない。この大学に関わるすべての人間が100人ちょいだから、仕方ないといえば仕方ないんだけれど。
だから、なんというか、流石に生徒全員覚えるのは私が面倒くさいから無理だが、ほとんどの教授陣の顔と関係性くらいは、知っている。例えば白沢教授は日本史で、面倒見が良くて、抱えてるのは十人くらいいる。例えば八心教授は医科なのか薬科なのか分からないほどに両方に精通しており、何故かこの大学に生徒への診療所を開いている。というかそれが医務室になってるあたりなかなか面白い大学だと思う。聞くところによると外科手術から漢方までお手の物らしい。どんなバケモンだ。
そして……目の前の岡崎は、物理学者だ。私とは分野どころか全く違うはずなのに、何故か気が合って、まぁ放課後ティータイムなんてもんはないが、教授全員の飲み会とかでは二人セットなことが多い。
彼女の特徴を一言で表すなら、天才。八心教授が膨大な生命への知識の天才とすれば、岡崎は、世界を読み解く事の天才。……この大学天才多いな。木の葉の里かよ。
岡崎がどれほど天才かというと、重力を完全に統一してしまい、超弦理論を実証してしまったと言えば分かるだろうか。
私は素人で雑学として知っているだけだが……要するに、この世に存在する四つ全ての力を、理論で解釈してしまったらしい。万物の物理現象は既に彼女の手の中にある。
そしてふたりとも天才と呼ばれる物に漏れず、ありえないほどの変人っぷりを発揮している。
八心についてはよく知らないから割愛するとして……岡崎の、岡崎が、魔法を研究するということ。その意味。
要するに、自ら統一した物理に、おまけのようなものをくっつけて、破綻させる気らしい。
意味が分からない。でも、それでこそ天才だと思う。
そんな人間だ。
そして、量子学専攻の紅音麗美を自分の研究室に引っ張り込んで、平行世界を探求する船「可能性空間移動船」の開発にも余念が無い。ここまで来ると、物理学なんて本で読んだ程度の私には、もはやちんぷんかんぷんどころか「お前病院行ったほうがいいぞ。それともタイトー製シューティングゲームでもやりすぎたか?」なんて言いたくなってしまう。ひょっとしたら、彼女以外の物理学の世界でも、少なからずそれを思っている人がいるかもしれない。というか大半がそう思ってるだろう。
でも、私はわりと確信している。彼女は本気だ。本気で、魔法を探すため、パラレルワールドひっくり返したり、竹取輝夜の力を借りて宇宙に衛星を飛ばし、暗黒物質の回収とか、やってる。
そして、多分やり遂げてしまうだろう。なぜなら、天才だから。
岡崎ェ…。
「この名前は……物理世界に囚われない力、有り体に言えば魔法を観測する研究計画の総称。この世界に限らない。遥か未来だろうと構わない」
まさか、タイムマシンとか開発するんじゃなかろうね。まさかね……流石に岡崎でも流石に無理だろう。
未来行って帰ってきましたなんて言ってる奴がいたら、私はまず幻覚を疑う。まさかね……。
「このプロジェクトを構成する人員は、我が研究室の全員。すなわち岡崎由芽美、白河ちゆり、そして紅音麗美。加えて八雲学長。そしてあんたのところから鎌田チルノ、霧雨魔理、霧雨梨沙」
ほう、鎌田はともかく、霧雨姉妹もか。まぁアイツらも理科だとは知ってたが、やることやってるんだなぁ。というかうちの研究室なんで文科より理科のほうが多いんだろう……。
「以上」
「待て」
私が呼ばれた理由が全くわからん。
「私が呼ばれた理由が全くわからん、と言った顔立ちでございますね」
八雲学長のやたら丁寧な言葉遣いがいちいち癇に障る。
「魅魔を呼んだ理由はただ一つよ。それは……厳しい研究を耐える上での心理的ケア……つまりカウンセラー担当になって欲しいの!」
こいつ……。私は精神分析学だと何度か話したろうが。
まぁ、常識に乏しいのはそりゃこれだけ頭良ければ仕方なかろうが、まさか臨床心理と精神分析の違いも分からないとは思わなかった。お前は大学教授だろうが。心理学が全部カウンセリング技術だと勘違いしてるのは無縁の一般人だけでいい。知識人がする勘違いではない。
「パスで。もう部屋帰っていい?」
「待ちなさい。魅魔、今私のこと頭おかしいと思った?」
いつも思っとるわい。その言葉は、まぁとりあえず脳内だけの陰口としておく。
「私はそういうのは専門外……知ってたと思うんだけど」
「でも、私よりは心理学に詳しいわよね?」
「まぁ、それは」
そうなんだけど。
少年は母親の強姦を父親の威圧によって断念する、なんて知識が、うんうんと優しい笑顔で頷く技量と全く繋がる気がしない。っつか繋がらない。今はもう死んだ分野なんだ、これは。
まあ、一部の臨床心理士は、患者に説明するときに多少概念を弄ったりはするらしいけれど。
「そして、私よりはあんたの研究室の人間関係に詳しい」
まぁ、それは。
「というわけで、あんたの研究室の問題は、あんたが解決してね、ってこと」
三秒悩む。
まぁ、このくらいはいいだろうか……。そもそも私が解決しなきゃことだし。
「わかった」
そう言うと岡崎は無意味にマントをはためかせ満足気に微笑む。八雲学長のほうを見ると、こっちもにこにこ微笑んでいた。いや、こいつはこの部屋に来て一度も表情を変えてないな……。
なんだか無駄に疲れた気がする。今は自分の研究室に戻って彼の論文に浸りたい。
「じゃあ、私は帰るよ」
「ん、またね」
「また会うときは、問題がある時だから、あんまり会いたくないね……」
「あー、問題起きたら私じゃなくて学園長に報告よろしゅう」
「えっ? ……何故に?」
「いやあ、諸都合」
「ふーん……まあどうでもいいや。ついでにやることだし」
「悪いね。よろしく」
やり取りを終え、私は頭をさすりながらソファーから立ち上がる。まだ痛いが、腫れ自体は引き始めていた。
んじゃ失礼、と声をかけて扉を開ける背後から、「これで良かったんですか?」「ええ、上出来よ」なんて会話が聞こえてくる。
そういう陰謀とかは私がいないところでやれよ……。面倒くさい。なんか、わけ分かんないことやってるのかなぁ。中二病が引き起こしたただの幻聴だといいんだけど。
そんなことを考えながら、私は自分の研究室に戻った。
<●>
「うっがああああああ、あんたイライラするのよ! なんか!」
「…………研……が進ま……からって私に嫌がらせしないでくださいます?」
長い長い廊下を歩き、自らの研究室の扉の前に近づいていくと、分厚いはずの扉から罵声が飛んできた。
……今日も研究室は平和だ。
現実逃避しながら、状況を把握するため聞き耳を立てる。
二人ともよく通る声だ。鎌田は叫んでいるような口調だからともかく、白河のそれは普通の、ごく普通の声だ。少なくとも声色からは怒りのイの字も伺えない。よく聞こえるなぁ。声質の問題かな。
「そりゃ研究は進まないけど……そういうことじゃないわよっ!」
「何が違うというんですか。さっきからこっちをチラチラ見ては目が合った瞬間逸らして。挙句次にこっち見たら消しゴムのカスを投げる。あなたは好きな友達に素直になれない小学生ですか鎌田チルノさん」
言葉尻を捕らえ、一気に言葉をぶつける白河。その饒舌と作文能力は、流石の雑誌編集者兼記者兼学内新聞総統と言ったところであろうか……。研究室内を貫く沈黙。
まぁ、めんどくさいし、帰ろう、どっかで時間潰そう。
と、いつもなら思うところなのだが……ついさっき前にカウンセリング業務を請け負ったばかりである。ここで逃げては女がすたる……というのはなんか違う気がする。
言い返せず鎌田が目に涙を溜め、魔理がオロオロし、梨沙がニヤニヤし、白河は……どうだろう。鼻をふふんと鳴らして肩をすくめる。……そんな風景が眼に浮かぶようだ。まぁ、逃げるのはダメだろうねぇ。
「……ッ、この」
わざとらしく大きな音を立てて扉を開ける。ちょうど鎌田が爆発するところだったらしい。一瞬キョトンとして私を見て、それからぐじぐじと涙を拭う。
鎌田がたった今立ち上がるところで、二人は机を挟んで相対している。
霧雨姉妹についての予想はピッタリ合っていたが、鎌田と白河に関しては完全に予想が外れていた。
白河は、いつもの皮肉と嘲笑を交えたニヤニヤをやめ、少し顔を赤らめながら何か言おうとして言わない動作を繰り返していた。
鎌田は、声色に反して案外ヒートアップはしてなかったらしく、大きく鼻を鳴らして矛先を収めた。チラチラと白河に視線をやっては反らすを繰り返している。
そして二人に共通する感情が、これは、多分、戸惑い。困惑。
二人の困惑の対象までは、少し、分からないけれども、鎌田がイライラして感情に振り回されてすぐに見た目だけでも復帰するというのはそうとう珍しいし、白河は挙動が全く落ち着いていない。
いつもの喧嘩にしては挙動が不自然すぎる。何があったっていうんだい。騒動の中身が、全く推測できない。
訊くか、訊かざるか。それも今この場か別の手段を考えるか。
個別に呼び出して対応するか、いや流石にそれは小学生すぎる。でも、鎌田は素で小学生でも通用しそうだ。実際はそうでもないだろうけど。白河は鎌田よりは少しは大人だが、見下す相手は徹底的に見下すという、お前の親はどんな教育してたんだな一面もある。名家の教育方針はそんなもんなのか、もしくは彼女本人の性格なのか……。
大きくため息をついてから、私は言った。
「お前ら、どっちか片方失せて頭冷やしてこい。白河でいいや。ほれほれ、お前は記者の仕事があるとか言ってたろう」
「そう、ですね……」
ようやく白河の挙動がまともになる。微笑を、まだ作ろうとする工程が見えるものの、いつもの自分を保つポーズだけは取れる、それだけで良い。充分だ。
「それでは……清く正しい白河彩行ってまいります」
「じゃあの」
彼女は手早く荷物をまとめ、手に提げるバッグ……なんて言ったっけ……シャネルだかグッチだかのバッグをぶら下げた。そして、競歩のようなスピードで研究室を出る。
さて。
「おい鎌田」
ふてくされて蛸みたいにむくれてる鎌田を説教して、謝らせればなんとかなるだろう。本当に小学生の先生みたいだ。
「理由を聞くから、三十文字以内で答えなさい」
「分からん、四文字」
胸を張って応える鎌田への反応は当然こうなる。
「はぁ?」
「分かんないのよ!」
とだけ叫んで、また黙りこむ。駄目だこりゃ。
「こっちも全くわけ分からんけどねぇ……うーむ。とりあえず、人にぶつかるのはあまり良くないよ、それがいかなる理由であってもね」
沈黙で返される。この空気は耐えられない。私の研究室はもっと穏やかであって欲しいところだ。
さて、どう解決するべきなんだろうか……。
とりあえず、鎌田にも釘を刺しておこうかとも思ったが、刺しすぎると逆にダメなものだ。
それを考えながら、研究室の午後は過ぎてゆく。そうだ、カウンセリング担当になったと言わないといけないような気がするけど、今この研究室には三人しかいない。ああいや、それを考えるなら、いま起きた喧嘩を学長様に報告したほうがいいのだろうか。鎌田の研究が進まないというのはなんか見過ごしてはいけない問題のような気がするのだ。
……結局、一番全てが捗りそうな選択をすることにした。
「ちょっと出かけてくる用事があるから、色々よろしく」
「わかったぜ」
「はいはーい、梨沙にお任せっ」
もう一人の返事はなく、そもそもその一人に向けた言葉ではない。
多分行って帰って来る頃にはいつも通りの鎌田だとは思う。時間こそ最大の薬だ。けれど、それまでの空気はアイツらが責を負う。
うーむ。私より姉妹のほうが絶対そういうのは得意だとは思うが。何とも割り切れない。ただ他人任せにしているだけと言われたら何も反論できずに私は許しを乞うだろう……。
まぁ、さっさと学長のところへ行って帰ってこよう。そう思った。
<◯>
私は三十分ほどキャンパスを歩いてから、重大な事実に気付いた。
この大学の学長室って、どこだ。
……地図を見てみても、載ってない。人に聞いても、誰も知らない……。
木陰のベンチに座り、一息つく。
髪の毛を弄り、目を瞑り、この大学を取り巻く大自然に想いを馳せる。
どこかの県の山中を切り開いたっつー売り文句は伊達じゃない。匂いを嗅ぐだけで、私が、自然と同化しているということを思い出させてくれる。その分近くのベッドタウンから通勤に一時間強かかるし、東京まで特急で二時間強かかるけど。ちなみにわが大学の生徒はそのベッドタウンに住んでるのが八割だ。
まぁ、一時間程度大したことではない。それに、通勤というのは、必要なものだと思う。
誰しも朝は目を覚ますと、歯を磨き、服を着て、メシを食う。
一般的なサラリーマンは、仕事場につくとタイムカードを押し、席につき、パソコンを立ち上げて、キーボードを出す。
眠れなかったら試してみると良い。毎日、寝る前にはミルクを飲み、歯を磨き、本を十分だけ読んで……布団に入る。
こういう決まった一定の順序は、本能的に「その後」を呼び覚ますのだ。勿論、ある程度継続する必要はあるけど。
しかし、普通のサラリーマンでない私には、仕事前の決まった一定の順序が存在しない。
存在しないならどうするか? 作るしか無い。というわけで、電車の中は貴重な時間なのだ。
彼の論文一つだけに二十分で目を通し、本を二十分だけ読んで、あとの二十分は、寝る。
繰り返す。
何度も何度も、その約束を繰り返す。
陽が暮れていく。辺りが朱に染まっていく。逢魔が時だ。
いつまでも繰り返す。ずーっと、ずうーっと。
私は何度二十分の単位でできた決まった順序を繰り返したのだろう。
私は何度この日常を繰り返してきたのだろう。
真っ赤に染まる校舎が、幽かにブレるのを私は見た。
違和感を感じ目をこすりながら立ち上がると、そこには
「学長室はこちら」という看板があった。
ふらふらと夢遊病者のようにその看板の下へ行くと、今度ははるか向こう側に同じ看板が見える。
それらを手繰って行き、四つほど看板を経ただろうか。
やがて不思議な廊下に行き着いた。
そこには果てがあるようで果てがない。仮に果てがあったとして、私は決してそこに行き着けない。いや、いつかは行き着かなければいけない。そういう廊下だ。
まるで夢を見ているように足元がおぼつかない。夢と現実の境界は何処へ。
果てしない廊下だというのに、二つしか扉が無いのもまた奇妙だった。
私は手近な扉を開けてみる。
腋が大きく開いた紅白の服。改造された巫女服らしきものを着た少女が、狭苦しい部屋の片隅の椅子の上で何かを呻いていた。
「あ、あー、う、うへ、え、えへへ……そ……らいば……か……あ、あー……あっ、あっ」
ただでさえ狭苦しい部屋の狭苦しい椅子の上で、狭苦しく膝を抱えた体育座りをしている。
「んたの……れは……ちゅー……ににに……あはは……ぅぁ」
目が合った。しかし、焦点は合っていない。彼女は心が壊れているらしい。唯一見れる幸せな夢を見続けているようだ。
「あ……」
一文字の言葉を発し、それ以来何も喋らなくなってしまった。その瞳は虚空を見つめ、決して何かを見ることができない。
人間としての処理能力を、全て放棄しているのだろう。
その少女に恐怖を感じながらも私は、何故か足が動かなかった。
ずうっと見ていることこそが私の責務であり、そしてそれこそが私の罪と密接に関わっているような気がした。
動け。動けよ、私の足。部屋を間違えたんだから、謝ってもうひとつの方に入らないとダメだろう。そこに学長がいるのだから。
「わた……たち……の……」
また何かを口走りだす。意味のある言葉を彼女の口から初めて聞く。私は、一言一句に集中してしまった。
「す……ばらしき……ひびを……かえせ……」
その口から出た恐ろしい言葉は、しかし逆に私の足を押してくれた。
私は転ぶようにして果てしない廊下へと出た。どこへ逃げる? いや、逃げられない。
あれは、この世界にいる限り、決して逃れられないものだ。警察だ。自浄作用だ。世界の法則だ。彼らは既に死んでいるのだ。マリオは姫を救わなくてはいけないのだ。なら、私がマリオになるしかない。
廊下をひたすらに走りだす。
走る。息が切れる気もしなかった。だって私はマリオ。ビーボタンさえ押せば、いつまでも走っていられる。
でも、走ることにはリスクが付きまとう。落下だ。穴への落下。あれは痛かった。一番痛かったのはやっぱり雲の上から落ちたときだったろうか。あの時は最悪だった。なんせ落ちた後も体が勝手に動かされるんだもの。痛いっていくら喚いても体が動くんだもの。勝手にゴールの旗を掴みとるんだもの。私は操作されている!
私は操作されている!
私は落ちる。落ちることによってここから逃れる。逃れられない。でも、仮初でいい。どうか私に、素晴らしき日々よ。
けどこれは何も始まらない無意味な偽物の日々だ。停滞し腐敗し血を吐くの。お願いします許して下さい。
放物線を描いて私は落ちていく。どこまでも、どこまでも。
<>
ふと気づくと、私はあのベンチに寝ていた。
なんだったんだ、一体……そう思いながら、夢の内容を思い出そうとする。
ああ、全く最悪な夢を見た。お、思い出せない。助かった。胸のつっかえは取れないけれど、思い出してしまうよりマシな、そういうレベルで酷い夢だった。
携帯電話を取り出して時間を見ると、もう七時にもなっていた。しまった、ちょっと寝過ぎたか。
って、よく考えたら、私がここに来た理由ってなん、だっ、け。
……まいっか。
忘れるってことは、どうでもいいってことだ。
そんなことを考えながら、研究室に足を向けた。
「おーう、魅魔、おかえり!」
研究室に帰って最初に聞こえてきたのは、鎌田の元気な挨拶だった。よかった、彼女の機嫌は元通りになったみたいだ。
それにしても、いったい何が原因だったのやら、今の喧嘩は。
恋多き年頃だから、イライラきてたとか、そういうアレかなぁ。
それとも、両方生理という謎の偶然だったり。あるかもしれん、結構ズレてウザったい人もいるみたいだし。
霧雨姉妹に軽くアイコンタクト。全くこの二人はよくやってくれる。原因を聞き出してくれたかどうかは分からないけれど、とりあえず、気まずい空間を請け負ってくれた、それだけで十分すぎる。
「じゃあ、私たちそろそろ帰るぜ」
と魔理が立ち上がり言う。そうか、もう七時過ぎだ。彼女たちは普段もっと帰るのが早い。付きあわせてしまって悪いなと改めて思った。
「ごめんな」
「まぁ、気にしないでくれよ魅魔様。私はなんとも思ってないから」
魔理のほうは許してくれるらしい。まぁ、梨沙のほうはそうでもないだろうなぁ。
「次はもっと早く帰ってきてね魅魔様。うふ、居眠りはほどほどに。うふ、うふふ」
見られていたらしい。私は薄く笑い誤魔化しにかかる。居眠りしようと思ってしたわけじゃなかったはずなんだけど、理由なんて覚えてないし、どうせ何を言っても彼女の中では私が居眠りしているだけに見えたろう。
すると最後に、彼女が、見ててぞっとするような顔をして言った。
「私はまだ、あなたを信用こそすれ信頼はしていない」
二人に音を立てて亀裂が入る。鎌田と魔理はワケが分からないようで、顔にクエスチョンマークを浮かべていたけれど、それは私がいつも抱えていなければならない十字架で、ゆえに私は何も言い返すことができない。
「それじゃぁね、魅魔様~うふ、うふふ」
二人連れ添って研究室を出て行く。彼女たちの挙動は、姉妹というより、同一人物のそれだ。
考えに浸かる。もう既に頭が働くような時間帯じゃないから、別に少し余計なことを考えたって悪かないだろう。
果たして一人が二人になるための条件とはなんだろうか。
自身にギャップを感じたときだろうか。
それとも、誰かが彼女たちにギャップを感じた時だろうか。
コンフリクト。矛盾。葛藤。サブコンシャスネス。単語がぐるぐると回り始める。
例えば一人、上京してきた大学生がいるとする。
彼女は上京してからと上京する前の自分を全く別のものと錯覚し、統合することができなかった。結果、分裂した。
彼女は恋人を作って日々を暮らしていても、ワケの分からない寂しさを感じ続けていた。
当たり前だ。自分が生まれてからの十数年をなかったことに出来る人間などそうはいない。
そこに現れた学生時代からの幼なじみ……二人が分裂することは必然だったと言える。
ならば霧雨姉妹は? 霧雨姉妹が分裂した理由とはいったいなんだ?
「魅魔?」
人が分裂するとき、多大な精神的な負荷がかかるはずだ。当たり前だ。彼女らを分裂させるために私は何をやったんだっけ?
「おい、魅魔?」
違う、私が分裂を望んだわけじゃない。結果としてこうなっただけだ。その結果ですら恣意的なものである可能性がある。無関係だ。その事実と彼女たちが分裂したのは無関係。私がいることによって彼女たちが分裂したというのは間違ってないとは思うのだが、それでも、その事実によって彼女たちが分裂したと「設定」されているような気がして、私はそれを覆せずに、どこまでもいつまでも、思索の海に流れ落ちて、世界は水に溶けて、方舟を漕ぎ出す勇気も無く、私はただひたすら自意識を埋没させられていく、これは、なんだか、ヤバい、ような……。
「魅魔!」
思索の海から引っ張り上げるのは、いつも見ている鎌田の声だった。
「お、おおう」
「あのさ、あのさ」
そうか、喧嘩があそこまで不自然になった理由を聞くなら、鎌田がクールダウンした今がチャンスだ。私は何をぼーっとしていたんだろう。
「さっきのアレかい?」
「そうじゃなくて」
あれ。
「いや、そうなんだけれども」
おや。
「あのさ、それについてなんだけど、魅魔、そのぉ……」
いつもの日常のことを話せば、この後私が未だ研究している鎌田に軽く声をかけて、二人連れ立って外に出るか、鎌田に鍵を返しておけよと言って私一人家路につくかのどっちかだ。
「魅魔、今日、家に泊めてくれないかな」
<●>
少し迷ったものの、たった今、彼女と二人、最寄り駅から自分の家まで歩いていることが、私の選択の結果と言えるだろう。
そもそも私が解決すべき問題だし……それでなくともカウンセラー業押し付けられたことだし……。
なんだかんだと私は思っているが、結局は、彼女の淋しげな瞳に負けたのかもしれない……。
私にも母性というものがあったのか……。
「ねー魅魔……」
二人並んで歩く。私は右側、鎌田は左側。いつも連れ立って歩くときは、エネルギーに振り回されるかのように彼女の早足についていくものだったが、今はそれはない。
深い闇が支配する田舎の研究学園都市もどきには、コンビニすら無い。申し訳程度の街頭は、逆に寂しさを増すだけだ。
肩越しに見える鎌田の瞳は、遠い道を見据えている。
「なんで、日って傾くんだろうね……」
普段なら鎌田が絶対に言うはずもない言葉。普段の鎌田なら、「地球が回ってるからじゃん。バカ?」ですませるような言葉。
「どうして一日があって、なんどもなんども終わりが始まって、そして終わっちゃって、また明日、もうダメ、って、なるんだろうね……」
なんとも詩的な、まるでどこかの文学少女のようなことを言う。
やっぱりこれは……。
「私はあの研究室にずっといたい。でも、いずれそれは、終わっちゃう。だってほら、毎日のように終わってるから、いずれ、終わるものの、終わるもののはずなんだけど、いつまでもぬるくて、楽しくて、幸せな一日が続いてる感じがして、それはきっと、素晴らしき日々で……」
私の家に到着する。一戸建ての、普通の家だ。
やっぱりこれは、恋の悩みなのだろうか。
「ほれ、着いたよ鎌田。とりあえず、今は、そうだねぇ、うちの風呂でも浴びるかい? そうすれば、悩みに付着してくる余計なもんが取れて、普通に解決しようと頑張れる。私が話を聞いてやれるのは、そこからさ」
私には、そう言う事しかできない。だって、問題というのは、彼女本人が決めることなんだから。
でも、今の彼女はそんなチンケな言葉でさえ、救いと認識してくれるみたいで……それを聞いて、ちょっとびっくりしたあと、いつもの彼女のような満面な笑みでなく、少し切なげに微笑んでから言った。
「なんか魅魔、父ちゃんみたいだ。すごい、大きいや」
おいおい、私は年齢とか超越してすでに性別がダメですか? ……とは、言えなかった。
だって、その微笑は、あまりにも綺麗で、悲しそうだったから。
先に玄関に入り、扉を開け、あとから来る鎌田を迎え入れる。入ったのを確認して、さっさと風呂場に向かう……前に、鎌田に一言をかける。風呂掃除は確か昨日魔理がやってくれてたはずだ。
「ん、とりあえず、風呂沸かすから。はよう入れ。私はあとでいいから。そんで、上がったら……まぁ、レトルトだけど、飯を食おう。腹が減っては戦はできないからねぇ」
「いや……ご飯、作るよ」
「鎌田、料理できたのかい」
「ん……まぁ、ね。一宿の恩義って奴で」
いつものいたずらっぽい笑みに変わって、私は少し安心した……。
「一飯の恩義はいつ返してくれるんだい?」
だから私も、冗談で返す。
「それはまぁ、じゃあ、まあ、また扇風機改造しようか?」
「あはは、それは……いいや。これ以上涼しくされちゃ逆に寒いからねぇ」
「うーん、じゃあ他に出来る事、ないや。私ったら、冷やす事しか能がないものだから」
「まあ、冗談。んじゃ、私が行くまで居間のソファーでくつろいでてくれ。トイレはそこの扉」
「あ、もう料理とりかかっていい?」
少し迷ったが、まぁ、良いだろう。使い方も、多分分かるんだろうし。……分からなければ言わないよね? 実は、私は電子レンジしか触ったことがない。
「まぁ、いいよ。台所は居間の向こうにあるから」
「はーい」
とてとてと居間へ走ってゆく鎌田……。空元気は、風呂に入らなくても戻ったらしい。少し安心する……いつまでもしおしおとした彼女を見るのは、精神衛生上、最悪ということがよくわかった……。
どういう料理にするんだろう。食材は魔理が買ってきた奴が入ってるはずだが……。そんなことを考えながら、蓋を閉め、ボタンをぽちっと押して、風呂を沸かす。便利な世の中だ。
あとは……ああ、私は何も手伝えることはない。ソファーで座って待っていよう。
うーむ……なんだか私が鎌田の家に招待されているみたいな寛ぎ方だ……。
ぼーっと、考え事をする。鎌田がもし恋に悩んでいるとして、相手は誰なんだろう……。
私も知っての通り、私の研究室には女しかいない……だからまず室内恋愛はありえないんだけれども……かと言って、私の知ってる範囲でのあの大学に鎌田と接点を持つ男はいない……というか、あの大学男が異常に少ない……落とし物を勝手に売ってる霧雨家の弟子な用務員くらいだろうか……あとは庭掃除してるお爺さんとか……そんくらいだ……。だとしたら……駅員とか……コンビニ店員とか……? 想像は果てしなく広がり、キャンバスは桃色で染まっていく。鎌田は普通に可愛らしい女の子だから、嫁の貰い手に困ることはまず無いだろう……研究に夢中で金もなく、化粧っけがあんまりないが、その化粧っけのなさが逆に素朴な少女らしい魅力を引き立てている。と思う。ナンパでもされたとか……?
『へーい君、かわいいね』
『おい、流石にロリすぎるだろ……中学生だったら流石にまずいだろ』
『ばっか大丈夫だって』
『なに? 私大学生だけど、喧嘩売ってんの?』
『えっ』
『おい俺こんなかわいい女の子初めてみたよ! つーか大学生? すげーかわいいじゃん!』
『そ、そう……? 私そんなかわいいかな?』
『まじかよ信じらんねぇ……事実はアニメより奇なりか』
『これから飯食いにいくんだけど、一緒にどう?』
『え……いや……そういうのはちょっと』
『いいじゃんいいじゃん、行こーよ』
「あとあっためるだけだから、鍋見ててくれたら、お風呂入れるんだけど……」
ええっ!? いきなり手料理ですか? 飯作るんですか? というかお風呂ですか?
「ねー魅魔、聞いてる?」
ひとしきり慌てたあと、気付いた。
しまった、ここはすでに現実じゃないか。
「はいっ、なんでしょう?」
いつの間にか妄想の海に命を投げ捨てていた……危なかった……二度と帰ってこれないところだった……。
「鍋の火を10分くらい経ったら止めて欲しいの」
「はいはい」
……ん? 反射的に返事をしてしまったが、なんと言うか、まるで私が鎌田のお手伝いかなんかみたいなんだが。
「お風呂、ありがとう、魅魔」
「ん」
と返事してから思い当たる。鎌田はまさか朝から私の家に泊まる準備をしているわけではないだろう。
「そういや、着替えって……」
「あー……忘れてた。一日くらいなら……」
「女の子がそれじゃダメだよ。よし、私が買ってから使ってない下着をやろう。今後使う予定も無い」
それは黒のスケスケ。ローライズ。ほぼ紐。恋の応援というわけだ。……セクハラオヤジかなんかかね私は?
上は適当なシャツでいいだろう。汗吸える奴。
「わーい、ありがと!」
ってあれ?
「上は……」
「え? 上? 上って……ああ、シャツも、あったらでいいから、貸して欲しいな。最近寝汗が酷くて」
いらないだろう。
「よし、じゃあ風呂場にバスタオルと一緒に下着を置いておく。上着はまたそれ着てくれ。体洗うタオルは、安っぽいただでもらったハンドタオル纏めてあるところがあるから、そっから取って」
「ん。もいっかいだけど、ありがとね!」
満面の笑みに戻っている鎌田。無理してるんだとしても、これが私の身勝手だとしても、私はこの鎌田のほうが、好きだ。
立ち上がり、匂いを嗅ぎながら、キッチンに向かう。カレーの匂い。夏の定番か。そういえば、カレーしか作れないヒロインがいたな。なんのアニメだっけ……。これから毎日カレー食おうぜ! とは主人公は言えないわなぁ。絶対飽きる。
実においしそうな匂いだ。少し鎌田は料理できないんじゃないかと心配した、愚かな自分を恥じる。
ナスのへたが洗い場に投げ捨てられていたから、多分、夏野菜カレーなんだろう。うむ。実にいい。それにしても、自分の冷蔵庫の中身把握してない家主ってどうよ?
その後、私はまた考え事にふけり十分を少しオーバーしながらも慌てて火を止め、あとはぼーっとソファーで過ごした。
鎌田が風呂から上がってきて、何か言いたげな顔をしているのを黙殺した。
違和感と闘いつつの料理の支度のようで、少しだけ悪く思った。少しだけ。
出来上がったカレーのあまりの美味しさにビックリしながら、二人でとりとめのない話をしつつ、夜は更けていった……。
<●>
「さて、せっかくお泊りしたからには」
食事を終え、後片付けが終わったらしい鎌田を居間に迎えて、私はゲームキューブを持っていた。
心地良い満腹感が酩酊にも似た感動を呼び寄せる。おいしいごはんを食べるとしやわせだわ全く。
「ゲームしようかね!」
「いえーい!」
ノリノリで乗ってくる鎌田。しかし、二人きりじゃ少し寂しいなぁ、このゲーム。
そろそろ彼女たち二人が窓から侵入してくる時間なんだがなぁ。ああ、でも昨日も来たっけ、あいつら。
「よう」
「うふふ、こんばんは」
などと考えていたら声がした。
小さい頃から世話しているお隣さんである彼女たちは、窓を通じて私の家へと押しかけてくる。頻度は三日に一回とかだが……。昔は私の事情におかまいなくやってくる彼女たちがたまーに煩わしい時もあったが、その昔のお陰で今、私は家事を魔理がやってくれると言い換えることもできる。そして、今はその彼女たちがとてもありがたかった。
「おお、やっぱ鎌田だったぜ。なんか魅魔様の家からもう一つ声が聞こえると思ったんだ」
「だから、今日もお邪魔したってわけです。うふふ」
これでちょうど人数は四人。気兼ねなく大乱闘することができるというわけだ。日本一有名であろう対戦格闘ゲーム。それがこれだ。
鎌田は楽しそうにしていた。コントローラーをガチャガチャ言わせて遊んでいる。
「あ、ひょっとして、やったことないかい?」
その言葉に、まーね、という返事が来た。うーむ、ガチゲーマーという展開のほうがよかったが、仕方ない。今思い返すと、鎌田は貧乏学生暮らしだった。手加減しないとな。ガチで楽しめる人種と楽しめない人種とがいるのだ。
「んじゃあ、ほれ、始めるぞ」
気づくとすでに魔理がセットしていた。スイッチを付け、画面を起動させる。
一戦目は、順当に梨沙が勝った。まぁ、鎌田が操作方法修得するためのチュートリアルみたいなもんだった。私は弱いキャラを選びハンデをつけて、そして私にハンデが付いていると一番強いのは梨沙だ。
「うふふ……魅魔様に勝っちゃった……うふ、うふふふふ……」
こいつは勝つたびに私を挑発してくる。どういう趣味だ。
二戦目は、私が勝った。鎌田は二回連続でドンケツで、ちょっと悔しそうだ。私が少しコツを教える。上級な操作と、硬直なしで無限に滑ることができる上級者同士の戦いでは必須のアレだ。まぁ、すぐに使いこなせはしないだろうが。
三戦目、また順当な順位。一位梨沙、二位私、三位魔理、どんけつで鎌田。しかし、最後に鎌田が少し接戦したのが気になった。
「うーん……よく分からないや……」
「まぁ頑張るんだな鎌田。努力は勝利への近道だぜ」
魔理、お前が鎌田を励ましてどうする。すぐにでも抜かれてしまいそうだぞ。
四戦目。一位私二位梨沙、以下同文。鎌田の挙動がおかしい。実験でもしているのだろうか。
「わかった」
対戦を終え、三人がスタートボタンを連打して次の対戦に進もうとしたとき、鎌田が言った。
「次は勝つよ」
言うと同時に押されるスタートボタン。私はちょっと彼女の面構えを見てドキッとした。これは……天性の才能を抱く天の覇者の瞳だ……!
五戦目で事件が起きる。開幕直後、魔理が瞬殺される。そんな馬鹿な。なぜ彼女は即死連携を、初めて触ったゲームですでに使いこなしている?
「う、うあ、なんだこれは」
魔理が呻く。私たちは決して開けてはならぬパンドラの箱を開けてしまったのではなかろうか。
「次は霧雨姉!」
「うふふ、鎌田には負けるわけにはいかないわね、うふふ」
激しい読み合い。お互いが間合いを計り、全力の一撃を叩き込もうと一瞬の隙を伺っている。
「やるわね……あんた、何者?」
「うふ、うふふふ……私は霧雨梨沙。裂けてしまった存在の一部……!」
一発、高威力の攻撃が入る。しかし、致命打にはならない。また繰り返される斬撃と打撃。二つの距離は縮まれどゼロにならず、こういう長期戦になると鎌田のキャラの二連牽制射撃がよく入る……!
「ちぃっ……」
「おいおいどうした裂けてしまった存在の一部ぅ! 早く投げてみなさいよっ」
早く投げてみなさいよ。その言葉が私にもたらした驚きは大きい。確かに梨沙のキャラクターは鎌田が今使っているキャラを投げハメで一気に致命傷まで持っていける。それは、梨沙のキャラクターが鎌田のキャラクターと渡り合うための道具の一つだ。しかし、彼女は普段、投げハメは使わない。今も使っていない。投げハメ以外の戦術、ひいては戦略を鍛えるためらしい。鎌田は……投げ単発の性能だけを見て、それでできることを見抜いたのか。
「いけっ!」
「外したね! 死ぬがよい!」
うまく滑りながら間合いを取ってダッシュ投げをかわした鎌田のキャラクターが、カウンターで大攻撃を入れ、梨沙を遥か彼方に吹っ飛ばす。
「くあっ……」
「あたいの勝ちだ!」
そして、標的はぼーっと二人の戦いを傍観していた私に向いた。魔理は放置されて少し寂しそうだ。
「今分かったけど……そのキャラ、弱いな? ハンデのつもりか魅魔!」
「さぁ、どうだろうねぇ……かかってきなよ……たたき潰してやろう、ルーキー!」
お互いに熱が昂ぶっていくのがわかる。久々に燃える戦いができそうだ。今日が終わる頃には私が全力を以てしても五分、いやむしろ負ける相手になっているのではなかろうか。
「行け、ピ○ュー! かみなり!」
「助かったよフォ○クス!」
激戦に告ぐ激戦。上達していく鎌田。すでに私はこのキャラでは敵わない……! 私がメインキャラに変えると同時に、鎌田もキャラを変えた。彼女らしい、二人組の氷山の登り手……! そう、すなわち……氷雪魔法の使い手!
「やっと氷が使える! 死ぬがよい!」
私が使うのは……完全無欠の主人公、紅き帽子の乗り手……!
「この業界では……初心者潰しはご褒美なのさ……! 潰されてもらおうかねえ! 鎌田!」
二つのキャラが激突するッ!
ぬるぬると滑り迫り来るアイ○ク○イマーに対処すべく、小ジャンプからの攻撃連携を組み立てる!
しかし予期していたらしい、綺麗に間合いを取り、硬直をもう一度狙いに来る。全くこのゲームは今日が初めて、このキャラも触ったのは初めてだろう!? なんでこんなにも面白いッ! 硬直の短い攻撃を一発当てて、そこから連携し、追い返すッ!
「やっぱ魅魔は強いね!」
「そっちこそ!」
繰り返される攻撃、ぶつかり合う拳と拳……相性で言えば私が有利だ。これがポケ○ンなら、炎は凍てついた氷を溶かすから! でも違う、これはそんなゲームじゃない……相性なんて関係ない、純粋にダメージ量と吹っ飛ばし量がモノを言う世界だ!
「堕ちろッ!」
「させるかッ!」
場外での取っ組み合い、叩き潰そうとした私を鎌田が刹那の猶予のカウンター入力で押し返すッ!
「くっ、やられたねぇ……」
「ふふん、余裕ぶってるけど、あと一撃でも喰らえば死ぬんじゃないの? 死ぬがよい!」
「あんただって同じじゃないかい……うおっと!」
二つ同時にアイテムを持てる強みを生かし、バットと爆弾を同時に投げてきた。微妙に軌道が異なるせいで、緊急回避をしただけでは死ぬ可能性があった。危ない……なんて危ない。
「へぇ、今のをよける?」
「鎌田……恐ろしい子だね……」
そろそろ私の隠された力を見せるときが来たようだ。私は実は呪われし一族の孫だった。ある日どっかで拾われて、混沌とした血を隠されながら生きてきたのだ。しかしもうそれを押しとどめていくわけにはいかない。
「さて、そろそろ私の出生の秘密を教えてあげるよ……実は私、妖精の血が半分混じってるの……ハーフフェアリー。それが私の正体……本当の力を見せてあげるわ!」
鎌田の一撃が入って吹っ飛ばされる!
しかし、私は死んだ直後の無敵時間を利用した強引な攻めを組み立て始める!
こういう攻めに慣れてるわけもない! 鎌田を一回ぶち落とす!
「汚いなさすが配管工きたない!」
「何いきなり話かけてきてるわけ?」
「お前ボム兵でボコるわ……」
「キンキュウカイポゥ! あまりの綺麗な緊急回避にギャラリーが拍手しだした!」
「実はあたいは今まで六十キロの重りを手首につけてたんだよね……」
ずぅん、ずぅんと床に響く彼女のリストバンド。近所迷惑で苦情が来てしまう!
「死んだお父さんの力が私に力をよこすみたいだねぇ……力が溢れかえってくるよ、お父さん……ありがとうだねぇ……」
「あたいの血脈の系譜がもう一度あたいを立ち上がらせる力を」
「実は全部催眠だった!」
「実は全部幻術だった!」
「私は剣を取り勇者を演じてみせようじゃないか!」
「死ぬがよい!」
二人のぶつかり合い。なかなか付かない決着。魔理が退屈そうに欠伸をしている。梨沙はうとうとと寝かけていた。戦いの余波で死んでいたらしい。お互いのダメージ値を見ると、百五十を超えていた。なるほど、極まって牽制打しか当てられないと、ここまでダメージ量がインフレするのか。
攻撃が届かない間合いで、ふとお互いの動きが止まる。お互いがお互いの動きを伺っている。私はあえて隙を晒す覚悟で言った!
「そろそろ夜も遅い……このあたりで勝負を決めて終わりとしようじゃないかい!」
「望むところ!」
「さあ、本気で殺してあげるわ! 夢追い妖精!」
「冷凍保存して未来永劫生かしてやるわ! 雑魚主人公!」
「本気でね!」
「生きるがよい!」
両者の激突……! 世界が宇宙で包まれる……! その爆発は……鎌田が住む妖精郷と……そこにいる鎌田の盟友ねこ子と……私を産み落とした本当のお父さんの一族の里を……そこにいるうちはイタチェとを……全て……滅ぼしていく……!
20XX年……世界は……核の炎に包まれた……!
ってなことは一切なく……叫び声がひとつだけ響き。
フィールドに残っていたのは私で、戦績画面で拍手を受けていたのも私のキャラ。
結局、勝ったのは私みたいだ。慣れの差が勝負を決定づけたらしい。
「……終わった」
「終わって、しまったねぇ……」
長らくお待たせしてしまった、霧雨姉妹に軽く謝る。
「いやいや、見てるだけでもむちゃくちゃ強くてカッコよかったぜ」
「次はなるべく早めにね、呪われし一族のお孫さん、うふふ」
魔理からはフォローを、梨沙からは毒舌を受け取ってしまった。うむ。
まぁ、ごめんなさい。
「はぁ……」
鎌田が疲れきって上気した顔で、息と共に吐き出す。
「なんで一日って終わっちゃうんだろうね……今日も終わっちゃったよ……」
その顔は、またさっきの、切なげな、鎌田らしくない、笑みだった。
すぐに戻っちゃったけど……それでも、少しでも悩みを忘れられて、それが楽しくて、彼女がまた少しでも元気を取り戻せたと信じたい。
「楽しかったけどさ……私は……」
沈黙が響く。誰も彼もが黙りこくって、対応に困っている。私もだ。
こういうときは、一番の年長者が気を使ってやるものだと、中島義道辺りが言っていた。いや違ったっけか?
仕方ないねぇ、鎌田には、この沈黙の責任をとって、悩みを披露して頂こう。
「さて、そろそろ今の勢いで話しちゃったほうがいいんじゃないかい?」
「えっ?」
「悩み」
私の言葉を聞き、一瞬俯く鎌田。
でも、にやりと笑っている魔理の顔を見て、にこにこ笑っている梨沙の顔を見て、ようやく決心がついたらしい。
何も言わなくても事情を理解してくれているのだから、やはり二人は頼りになるねぇ。
沈黙を破るべく、鎌田が重苦しく、口を開いた。
「実はさ……魅魔……相談したかったのはさ……悩みなんだけどさ……」
息を飲む音が部屋に響く。
それは誰の物だろう。
「多分……なんだけどさ……」
私かもしれないし、魔理か梨沙かもしれないし、あるいは鎌田自身であるかもしれなかった。
「私、彩のこと……好き! ……その……友達としてじゃなくて……そのほら……えっちしたいとかそういう意味で……好き……みたいで」
さて、一般人がカウンセリングの真似事をするとき、一番大事なのは、まず頷き受け入れることだと言われている。
「そうだねぇ、つらかったねぇ」
「そうかぁ、その人のことが好きなのかぁ」
……こういう受け入れが、理想だ。
だが、私は不意打ちのパンチを食らってしまい、何も言えなかった。
まさか、白河彩とは。
確かに基本的でもっとも自然で受け入れやすい帰結だ……。
まさしく同じ研究室で常に接し、喧嘩友達で付き合いも長い。まさに理想的なカップルじゃないか。
そう、白河彩がレズビアンでさえあれば。
「そ、そうか……」
場が黙りこくってしまったと私は思った、何かしら声を出さないとと。
多分、思春期の同性愛傾向……。獣の子供はセックスの練習を同性との遊びで獲得する……これの名頃が人間にも残っている。しかし、それは思春期を脱すれば自然と治るものだ……。まだ鎌田は精神的に幼いように見えるから、ありえないことじゃないと、思う。それに加えて、女性は同性愛的傾向が強い……。私は見られる自意識の存在を女性全員が無意識的に把握していて、だから無意識的に女が女に欲情するのは不思議じゃないとわかっているからだと思っているのだが……とにかく、女性は同性愛的になりやすい。男が男のエロ画像を書くのは珍しいが、女が女のエロ画像を書くのはそう珍しい事じゃない。こう言えばわかるだろうか。
まあ要するに、鎌田がレズビアンであることは私にとって何も問題ない。
もし問題があるとすればそれは……白河彩の反応だ。
打ち明ければ、ほぼ断られることは間違いないだろう。女友達のままでいられるかどうか。もしかしたら、彩の性格を考えると、侮蔑が飛んで、彼女は傷つくかもしれない、それも酷く。それは仕方ない。人格という変数がどう変わろうと、同性愛者イコールマイノリティで、マイノリティイコール異常で、異常イコール疎外の対象であることは、揺るぎのない事実なのだ。
「そいつあ……重かったろうねぇ……つらかったろう……」
だから、私はこういうことしかできない。
きっと利発な鎌田のことだ。全部、一瞬でこれがわかってしまったのだ。
この、冷たい恒等式が。
そして彼女は今、嗚咽混じりに呻いている。
「つらかった……ぅぐ、図書館でどんな本を探しても、女は男と付き合うものみたいで、それで、あたいは、もうどうしていいかわかんなくなっちゃって……そんで……いや……なんというか……もう……ダメで……とにかくダメで……研究が手につかなくて……あやの顔見ても、変な気分になっちゃって、そんでばれたらまずいって思って、それで……」
本格的に泣き出しそうな鎌田の頭を撫でる。梨沙の姿はない。気を効かせたのだろうか……。全く、意味不明なところで気を使う奴だ。
「よしよし、いつか、忘れる日が来るさ」
心理学に従って。心理学の理論で。私は彼女を慰めた。
しかし、残っていた魔理はといえば、ものすごく不思議な顔をしていた。
「あの……ひとつ、いいか? 鎌田」
「え……?」
「なんで女が女に欲情しておかしいんだ?」
そう来たか、と私は一瞬思った。
しかしそういう慰め方が諸刃の剣であると、魔理が理解してないわけはないと思うのだが……何か妙な論法でも装備してきたのか。と思いながら、私は次の言葉を待った。結果としてその予想は外されることになる。
「守矢早苗って奴が前、梨沙姉ちゃんに告白してきたっぽいし、私も……と、それは違くて、えーっと……他に、紅音麗美って奴と八里絵里子……これは知ってるだろ? 付き合ってるらしいし……。いや、あいつはなんかハーレムっぽいの作ってるよな……あと、他には……」
おいおい、どういうことだ、これは。
「他には……そうだなぁ、黒谷山芽、地底鱚女って奴らとか、白沢教授も誰かいるって言ってたな……だれだっけな……うーん、まだ要るか?」
この世界は、同性愛こそが普通だっていうのか。
なんて、なんて。
「あとは、あとは、竹取輝夜と八心教授は多分一番有名で……岡崎教授が最近取った弟子とラブラブだとか……」
なんて素敵な、逆転ホームラン。
え。というか、なんで私この事に疎かったんだ?
「まぁ……デキてる奴がいない部屋はうちくらいだったか、な……」
「え……ってことは……」
「多分……。いやだって、私としちゃ、なぜお前がそれで泣き叫んでるのか理解出来ない……そういう認識だからさ……。多分……白河彩も……そういう認識だと思う……っつか、昼間のあの喧嘩ってさ……あーいや、なんでもない、つまりだな」
少しずつ鎌田の顔が、元に戻っていく。
「つまり……」
「つまり、まぁ、お前の思ってる通りだ。ほれ、ケータイ貸してやる。明日にでもコクる約束取り付けちまえ、この勢いで」
「うんっ! 打ち明けるよ! この気持ち!」
信じられない。常識が、ぐるりと反転していく気がした。この世界では、これが普通。
そうか、これが普通なんだ。
いや、悪くない、だって、鎌田はこんなにも、嬉しそうだ。そりゃあそうか。自分の恋愛感情が、一気に否定から肯定へと変わっていったんだ。鮮やかに、朝の太陽が街を白に染めるように……。
「あ、もしもし、あ、うん……ちょっと今魔理に電話借りてるんだけど……」
彼女の恋が実るかは、まだわからない。また新たな悩みが増えるかもしれない。そうしたら、駆り出されるのは私だろう……。
「あ、ごめん、それもあるんだけど……ごめんね、昼は、って謝りたかったのもあるんだけど、実は……」
それでも、今は……今だけは、彼女の感情の成立を、素直に祝いたいと思った……。
「あ、明日、明日、朝九時、屋上で、一人で、待ってて!」
ぷち。安っぽい電子音が、彼女の覚悟を表した。
「よし、よくやった、鎌田!」
胴上げするような勢いで、魔理が鎌田に突撃した……。
その後、魔理に一通りなでなでされてもみくちゃにされた後、鎌田は、疲れが一気に来たらしく、くてっと寝てしまった。
客用の布団を敷き、そこに入れ込む。軽くタオルをかける。
それにしても……。
「さっき言ってた事って……本当に、本当なのかい?」
魔理が言っていたことが、未だに信じられない私がいた。っつか、私の常識と明らかに違うというか……。
「どうした、魅魔様まで、当たり前じゃないか。全部本当だ。言っちゃまずそうなカップルとか出来事とかは流石に鎌田には言ってないが、魅魔様が望むなら私が知ってること全部を話しても良い」
なるほど……私の常識の方がイカれていたらしい。魔理に感謝しなくちゃいけないみたいだ……。
「助かったよ、魔理。私一人じゃ、解決できなかった」
「なんだよ、水くさいぜ魅魔様。私は何でもするぜ、あんたのためなら」
「ん……」
その言葉には、依存的な残塊が残っていて、素直に喜べない。
それでも、私は、心から感謝した……。
世界の常識と、魔理の存在に……。
「ところで、なんで魔理は魔理なんだろうか」
安心したせいでつい口を出た言葉は、魔理を困惑させる。
「んあ? 何の話だ?」
自分の口から出た言葉に自分でびっくりする。私は哲学者か何かだとでもいうのか。
「いや……訊いてみたくなっただけだよ」
何とかごまかそうとする。勿論ごまかせてはいない。どこの世界に、いきなり「お前ってなんでお前なんだろう」っていきなり訊きたくなる馬鹿がいるんだよ。ああ、ジュリエットがいたか。
なんて自省していると、魔理がにぱっと笑みを浮かべた。
「ははあ、私の存在に疑問を持ったな? 私は元々一人の人間で、弟子として甘えていたい気持ちと、師匠と肩を並べたい気持ちとが分離してそれぞれ各個の人間となったんだ。実はそういうわけだったんだぜ」
ははは、何をバカな、と笑い飛ばそうとして、できなかった。それどころか、案外的確だなあと、一瞬私は魔理に感心しかけた。
いやいや、ははは、何をバカな。漫画か?
「……それで、冗談はともかくなんだが……梨沙姉はどこへいったんだ?」
言われて気付いた。梨沙がいなくなったまま戻ってこないことに。一階には少なくともいる気配がしない。
あとは二階だけなんだが、二階は管理するのが面倒で、年に一回大掃除するだけで、普通に埃が積もっているはずで……。
「困ったもんだ、梨沙姉、こういう色恋事とか苦手でしょうがないんだぜ……逃げたんだろ多分、って、あれ、なんだか、え、あ」
霧雨魔理が眠りに落ちたように倒れた。
いや……倒れるように眠りに落ちた。
<○>
一応一階を一通り見る。風呂場、トイレ、キッチン。
二階の二部屋には、当然のように誰もいなかった。人が少なくて使わないから物置同然になっているから、人が隠れるような場所はない。
なら次は……外だ。隣だ。霧雨姉妹の家だ。
流石に普段着で外に出るのは嫌で、マントを羽織る。マントでも同じか。まぁそれはいい。
しかし、隣を訪ねても無駄だった。
「梨沙……? 魔理沙のことかい? 魔理沙は、あんたのところで遊んでたじゃないか。何かあったのか」
何を言ってるんだ、こいつは。古道具を集めすぎて、気でも狂ったのか。あんたは霧雨の親父さんの一番弟子だろうが、もっとしっかりしろボケ。あの人はここにはいないんだから。違うよな。梨沙の存在が一瞬にして消え失せたとか……そういうお伽話みたいなことは……いや……無いとは言いきれない……。
実感したじゃないか、今さっき、世界の常識はいくらでも裂けうるって……。
適当に誤魔化して、無理やり姉妹の部屋を見ても何もなく、だから、私はどうしようかと迷う。
とりあえず、梨沙がいなくなったということにして、次に取るべき行動を探す。
どうしようもない……。
どうしようも……。
またか。また私は、霧雨姉妹を傷つけるのか。もうやってはならないと、私は誓ったはずなのに。やめろ。ふざけんな。
私が誰もいない部屋を前にしてさあっとした寒気を感じ始めた頃、巨大な爆音が鳴り響いた。
「なんだ、この音」
家主が問いかけてくる声が聞こえる。
「一体何が起きてる?」
知るか! 答えすらせず、私は慌てて爆音がしたほうに駈け出した。
「おい、おーい」
あんなゴテゴテした着物もどきでは走りにくかろう。
走る。何も持っていかず、ただひたすら、私一人で。
このあたりだったはず。
次の角を曲がれば、公園があって、多分あの爆音の音源は、この辺りのはずだ。
一気に角を曲がりきり、視線を上げる。
出現していたのは、閑静な住宅街には不釣合な、巨大なクレーター。
なんだい、これは。声を上げる前に気付いた。クレーターの中心部には、霧雨梨沙がいる。
彼女の周りを四つの物体が浮遊している。
なんだ……この四つの物体は……見えない……真っ黒だ……光を通してない……ただ黒いのではなく、まわりの光が吸い込まれているような闇だ。
「梨沙、何やってるんだい? 全く状況が掴めないんだが」
「ずっとこの時を待っていた……」
「聞いてるかい? 説明を」
「必ず死なすッ!」
問いには全く答えず激昂する梨沙。そして、こっちに急速に接近してくる四つの物体のうちの一つ。なんだありゃ。すげー空間が歪んでいるような……いけない、これは、応戦しないといけない。そういうものだ。一瞬で構え、体重全てを乗せて……!
<◎>
殴り飛ばすッ!
重い……なんて重さだ……。そして触れるほどの近さになってから初めて分かった。
蒼い。この黒い物体は、蒼かった。
そして、他の三つも、次々に色が見えていく。碧、金、紅。四色の禍々しい球が、一種の力場を伴って、彼女の周りを浮遊し回転していた。
「きゃはは、さすが魅魔様。あれ殴り飛ばせるんだ。確かに一番軽いは軽いけど……三千垓キログラムはあるのに」
がい? がい……垓!? 十の二十三乗に三を掛ける……「水星?」
「あったりー。頭もいいね。やっぱり師匠だよ霧雨魔理沙の。まぁ、どうでもいいよ。早く死んで」
今度はひとつだけではなく、四つおり重なって飛んでくる。一つめを大きく避けて、二つ目を無理な体制で避け、そこに来たトドメの緑を……もう一度交わし、オマケの黄を全力で振りかぶって殴ると、破損させることに成功したらしい。
「すっごい、すごいよ魅魔様。あたい感服。魅魔様は今、美の象徴であり悪魔の長であり、天使の長であるこの星を一振りでぶち壊したんだよ!」
腹を抱えて笑ってから、箒を一振りして、どこからか黄色の球体をもう一度出す。
「ま、あたいは何度でも作り出せるけどね。これを。そろそろ諦めて死んだら?」
彼女は確かに殺意を持っているらしい。そして、彼女の言うことを全て信じるわけではないが、あれらの球体が莫大な質量を持っているのも本当だろう。砂を試しに彼女に蹴り上げてみると、全てが飛んできた一つの球体に吸い寄せられた。巨大な質量を持つ物全てが持つ力、引力だ。
「そんな小さい体積にそのレベルの質量って、ブラックホールができるんじゃないかい?」
「それが魔法ですよ魅魔様」
話は通じないようだ。とりあえず、彼女にこれらのトリックを可能にする理論を聞くのは諦めよう。
代わりに、動機なのだけれど、悲しいかな、彼女に殺される理由は分かりきっているのであった。
「一応、動機は?」
「決まってる。妹を穢した」
「よりによって今日殺す理由は?」
「決まってる。いつでも良かったッ!」
話している途中に急に激昂して、木星をぶっ飛ばしてくる梨沙。それをなんとか避けて――ああ、こんなに小さいのに避けにくかった理由が分かった、吸い寄せられてるんだ――一応、言っておくべきことを言っておく。
「いつでも良かったとは言うけど、よりによって今日する理由がきっとあったと思うんだけど」
「常にあんたへの殺意は充満してたわ……分からなかったのかしら? どんかーん」
回答になってない回答は、沈黙で返した。
「まぁ、そうね。鎌田の恋愛話を魔理に触れさせたのがよくなかったかしら」
「なぜ?」
問うた瞬間、箒の柄を地面に叩きつけて、叫びだす。
「ふざっけんなああああああッ!!」
声でビリビリと鼓膜が震える。
「覚えてんだろおがああああ! うちの妹を虐待したことぉおおお! 性的に! おぞましく! 気持ち悪く! 貴様はキチガイか! なんでそれを知りながらうちに恋の話を持ってこれるんだ! 妹を守る者として、これを許せるわけない、分からないかな、うふ、うふ、うふふふ」
覚えてる。
確かに、私は当時、大丈夫だろうと思って、性的な悪戯をしかけ、心理的にそこそこのダメージを負わせた。だから、今も魔理は魅魔様魅魔様と後ろをついてくる。きっと私が無意識下で怖いんだ。家事もしてくれるし、同じ研究室にいてくれる。
「私が土壇場で気付いててめーを殴り飛ばさなきゃどうなってたのか、分かってんのか! 分かって、分かってる、魅魔様、うふ、うふふ……」
平静を保つための彼女の微笑が痛々しい。
私も思う。あのまま進んでいたらどうなってたことやら。ああいう時の加害者の心理がよく分かった。恐怖を与えているという自覚すらないものらしい。
でもそれと同時に、もうそろそろ魔理は姉の過保護から脱却しなければいけないとも思う。過干渉は、決していい結果を生み出さない。守るために新たな虐待を生み出したじゃ、洒落にならない。
この正論は、しかし、彼女には通じないし、私が言って良いことでもないだろう。
誰がどう擁護しようと、私は加害者、彼女は被害者なのだ。そして、目の前のこの姉も、一種の被害者と言えるだろう。だから……。
「私が悪いのは全面的に認める」
私がしゃべる間も、折り重なって二つほどの星が飛んでくるのを交わさなければいけない。なぜなら、この殺意は、私の贖罪だからだ。
「だけど、殺される気はない。まだ罪を償ってない」
「はぁ? 殺すなんて言ってないよ、うふ、魅魔様、うふふふ……」
「さっき死なすって言ったじゃないか……うぉっと」
もう一度避ける、一発殴り飛ばす。右手の指がボロボロになっていた。
「殺すは殺す。うふ、でもそれは、うふふ、あくまで副次的なもの」
手を、握り締め直し、演説するかのように熱弁を振るう。
「罪は……本質的に、同じ事、物でしか贖えない。窃盗は差し押さえでしか、贖えない。殺人は死でしか、贖えない。生きて彼女の命に報いるとか、馬鹿じゃないの? うふ、うふふ……。では、姦淫は……? うふ、うふ、うふふふふ……」
ああ、言いたいことは全て分かった。
それにしても、まるでどこかで聞いたような話だ。
「ハンムラビ法典かい?」
「違う。あれは、寛容の法典だろう。私は、こうでなければならないという、理想の裁きだ」
後半はともかく、前半はわかる。目には目を、歯に歯を。有名な言葉だ。この、一瞬野蛮とも取れる言葉を創りだしたハンムラビ法典は、しかし、当時にしては画期的なまでに寛容だった。当時は、一人殺されたならば、一族郎党全員拷問死させるのが当たり前だったそうだ。
「梨沙の理念は分かった。私の罪は分かった」
「へえ、じゃあ死ね」
「でも、悪いんだけど、私は、まだ魔理のそばで魔理の成長が見たい。だってほら、魔理は……あんなにも元気になったじゃないか。私のお陰とはいわないが、少なくとも、最終的には、私とお前のどちらかでも欠けてたら、魔理は立ち直れていなかったろう」
これは事実だ。
だから、私は罪の意識に押しつぶされずに生きていけている。
もし仮に彼女を壊したまま、私が隔離されたとしたら、そして、それは別に私がいないことが治療の役に立つからではなく、「ただ邪魔だから」だとしたら、今頃は、私は、私こそが、生きていけてないだろう。
というか、魔理には、たくさん借りがあったんだ。思えば私が恋に敗れたときに世話をしてくれたのも彼女だ。そして、梨沙も、なんだかんだ言いながら、手伝ってくれてたはずだ。だから……返せてない。百歩譲って彼女の理屈に合わせるとしても、私は世話をしてもらった罪を同じようにして贖わなければいけない。
「悪いが、死ねない」
言った瞬間、空気がざわりと変わった。膨大な力が、彼女の周りの空気を一変させる。風の流れが、四つの星を中心に変わっていく。さあーっとした風が一陣吹いた後、彼女の髪は、綺麗な金色に染まっていた。
「スーパーサイヤ人か何かかい?」
「殺すぜ。四肢を消し飛ばす。その後は、たっぷり姦淫されてもらう。ああ、お前に処女を奪われたかどうか、あとで魔理に聞かないといけないか、うふ、うふふ」
ああ、狂ったか。笑い声が、静かな彼女の感情を抑えるためのものでなく、耳に障る彼女の狂気を証明するものになった。それで分かってしまった。仕方ない。専守防衛と行かせてもらおうかね。気絶させて連れ帰ろう。そして、何とか、まぁ、うーん……私が解決するしかないだろう。彼女が今狂っている理由も、遡れば私の責任だ。
梨沙が箒に跨る。魔女が箒に跨るのは、性的な快楽の隠喩というのは、今思い返すと笑えない話だ。
「死ね」
ニヤリと笑いながら、指で私を指す。すると、三つの星が後ろから追撃してきた。次々に地面に埋まる。そして、衝撃波をまき散らして、破裂、した……!? そして、目の前に、もう一つの星が……。
あわてて振りかぶり、全力で殴る。なんとか衝撃波が効果をなさないところまで吹っ飛ばせたようで、軽く風を腕で防ぎながら、ひと安心する。
しかし、彼女を気絶させるために殴らないといけないのに、彼女はなんと、箒でびゅんびゅん音を立てて飛び回っている。
……万事休すか。仕方ない、今は防戦一方のままでも。
「どうしました? うふ、うふふふ、さあ、もう一回だぜ!」
今度は土色の星と青紫色の歪な形の星が彼女の指先から現れ、私の周りを飛び交う。合計六つだ。
私が手近な星に殴りかかると、彼女の姿は、さっきまでと同じ場所にはなかった。
嫌な予感を抑えつつ、星を一つかわし、一つ壊して、一つかわし、もう一つを壊す。
壊せず残った四つが折り重なって回転しながら正面から突撃してくる。……つーことは後ろか!
「痛ッ!」
体を捻りながら突き出した拳は、腕に重なっただけであったが、彼女の突撃速度と合わせて、服が破れ血が滲む程度の衝撃を与えたようだ。この悲鳴は、あいつのものだ。
「そろそろ諦めたらどうだい?」
明確な私の強がりである挑発には答えず、彼女はじっと箒にまたがり、星を操り始めた。
一体彼女は、何を待っているというのか。
「まだね……まだだぜ。完全なる二人の統合までもう少し。うふ、うふふ……」
何かまずいことが起きているようだ。間違いない。だが、折り重なる星が前身を許してくれない。
星屑を作る。だんだんと、だんだんと、世界の空気の密度がねっとりとしていくのが分かる。呼吸に喘ぐ。
意識が朦朧とする。こんな、こんなにも濃い空気の中で、吐き気に耐えることなどできるわけがない。
だが、吐けば体力を消費し、少しでも体力を消費すれば、星を殴れず、殴れなければ私の体が吹き飛ぶ。
右手の皮膚がぼろぼろだ。指の付け根のあたりは、肉がはみでていた。それでも、殴らなければ私の体が吹き飛ぶ。
これが贖罪か?
私が行った罪を贖うということか?
それとも、それはただの無駄な解釈なのだろうか。
星の王子さまを教祖として崇めた人間たちは、やはり救いが欲しかったのだろうか。
星の王子さまに救いを見つけたかったのだろうか。
だとすれば、それはきっと失敗に終わる。
無駄な解釈は、すればするほど自分が追い詰められていくからだ。他人のそれとは違って、自分自身の追求からは逃れられない。
そして、自分自身が創りだした解釈と設定を戒律として、やがて、一人、潰える。
もう手の感触が消えた。殴っても、感触がない。低反発枕のような感触の、太陽系の惑星達を消し飛ばす。耳を塞げば、ぼふっという気の抜けた音が聞こえそうなほど、手先からは感触が消え失せていた。それ程の時間が経ったのだろうか。
「来た! やっぱり完成されてる! うふ、うふふふ、うふあはははははッ!」
ふと気付く。辺りに漂う空気が、全て彼女に集まっていく。空気が、自然と彼女を中心に六つの角を創りだす。
明確に危険だと思った。同時に、彼女は命を燃やし尽くす気なのかと思った。
「いいか魅魔様! この魔法の素晴らしさは分からないだろうから、今から講義してやる!」
彼女の箒の頂点に、紅い空気が集まり始める。
息を大きく吸い込んで、いっきに言葉を吐き出す。
「星魔法だけで完全な太陽を創りだすことはできない。何故なら、太陽の本質には核融合という絶大な力が関わっているからだ。つまりいくら象徴から太陽を創りだしても、それは本来の太陽のイメージには足りないから、全人類がそれを太陽と求める事を放棄する。だからロイヤルフレアは偽物の太陽だ。あんなものを太陽と思われては困る」
集まり始めた紅い空気はやがて、暴力そのものの音を立てながら収縮し、少しずつ広がっていく。
「おい」
静止させるために声をかける。しかし、彼女には既に届かないようだ。こうしてる間にも力は徐々に集まり続け、やがて彼女自身を食い尽くし、この周辺一帯を焼き尽くしてなお止まらないだろう。近づこうにも熱量が豊富すぎて近づけない。もっと早いうちに彼女の動作に気づいていれば。……気づいていても、どうにもならなかった、か。
「光熱魔法だけで本物の太陽を創りだすことはできない。何故なら、太陽という象徴を模倣するためにはただ熱があるだけでは不適だからだ。量子使って真空から宇宙を作れるレベルまで魔法が行けばともかく、今現在は光熱魔法を究めた先は核融合制御だ。その核融合制御を神の力を用いて究めたあのカラスの太陽は、しかし『もうひとつの太陽』止まりだった。何故か。太陽そのものを指し示す本質がなかったからだ」
「やめろ!」
やめてくれ。お前は、自分自身を食い尽くして私を殺すつもりか? 私とお前が消えたとき、霧雨魔理に何が残るか、わかっているのか? わからないのか?
「すなわちこれが――真の太陽だ! もう一つなんかでも偽物なんかでもない、太陽そのものだ!」
「やめろっつってんだろこのバカ! お前、魔理がどうなるか分かってんだよな? そんなヤバい火薬使って、お前の爆発の巻き添えくったらもはやお前に殺されたようなもんじゃないか!?」
ぴくり、彼女の体が動く。このまま魔理で説得するか、それとも彼女自身に言及するか、一瞬迷ってから、梨沙も救う方向へ進むことに決めた。
「それで、お前も死ぬんだぞ! お前も死ぬ! 明確な死だ! ここで死ぬということが、お前にはどういうことか分かってないんだ! 存在ごとの完全な抹消だぞ! 誰からも忘れ去られるんだぞ!」
にやりと彼女が哂った。失敗した……のか。このまま魔理のことを責めれば、何とかなったかもしれないのに。糞が……。
「うるさいな……全く五月蝿い。そもそも私を生み出したのはお前じゃないか。魔理を生み出したのもお前じゃないか。私の変化と成長を受け入れられず、それをなんとか納得させるための瑣末な設定を築きあげ、築きあげた設定に雁字搦めにされ、築きあげられた設定のために今魅魔様は死のうとしてる。バカなんだろ?」
「お前にそれを言われたくないよ! 筋金入りのバカ! お前、妹を守ってたんじゃないのか? だからいつも一緒にいて、彼女を恋愛から遠ざけて、私と会うときは必ずお前がいてそれで!」
開く瞳孔。響く哄笑。
「かははっははは、っはっはぁ、そうだ! そうだよ! 私は妹を守るぜ!」
大きく息を吸って、地の底から響くような声で気合を入れていく。もう、止まらないみたいだ。どうしたらいいんだ。やめて、やめてくれ。どうしてそんなことをするんだ。分かっている、私が設定したからだ。彼女は今でも妹の事で私を恨んでいて、彼女は妹を全力で守る。そんなの、もうなかったことにしていいから。
全部、彼女に関して、なかったことにしていいから。
「私は裂けてしまった存在の一部ッ! 全ての存在をかけてでも……<妹>を守るッ!」
<◎>
巨大な力の奔流。その中に私は見た。
彼女が倒れて、力が暴走し、森羅万象を消し飛ばすはずの火力の奔流が、だんだんと収縮していき、やがて無限が方程式に収束して、あれだけ禍々しく莫大だった熱量が、一瞬で消し飛び、いや、暴走させた彼女に全てを押し付けて、あとには何も残らず、ただ夏の夜の生ぬるい風が吹く公園だった場所になってゆくのを。
焦げた炭の塊が、クレーターの真ん中でちっぽけに転がりながら、一瞬動いたように見えた。慌てて駆け寄る。
「おい、大丈夫なのか?」
炭の塊を揺らすと、中から黒い服を纏った金髪の少女が彫り出された。息はあるし、見た目は多少すすがついている程度で、全く綺麗だ……。あれだけの熱を受け止めてこれで済むなんて、意味が分からない。第二種やけどとかそういうレベルじゃないはずだろう。もし分類されるなら、第五十種とかそんなんだと思う。やけどの適切な処理って、流水で冷やすんだったっけ。いや……そんなの関係あるのか? 救急車? 最近は公衆電話なんてないし、私は携帯持ってないし……今すぐ連れて帰らなければ。
<●>
「ああ、魅魔様か……」
「魔理沙あんた、喋れるのかい?」
「おぶってもらって、ありがとうというべきか、ごめんなさいっていうべきか……わからないんだぜ……」
一生懸命走っていた帰路の途中で、背中に背負った魔理沙の声がした。走っているとうるさくて聞こえない、少しペースを落とした。背負っている重さは、酷く軽かったが、まだ、分かる。彼女は確かに存在しているらしい。
「どうした?」
ぼーっとして返事を返さない私にしびれを切らしたように、魔理沙が聞いてくる。私は、
「いやいや……死んだかと思ったからねえ……いや、良かった。二度とあんなマネするんじゃないよ。今手当してやるから」
と答えた。ん、と小さな返事が聞こえて、あとは静寂が包んだ。
また少し歩いた頃、だろうか。
「昔も……こんなことあったよな……」
背後から魔理沙の声がした。
「母さんが死んで……魅魔様に泣きついたとき……一緒に遊びに行こうかって事になって……大きな……大きな向日葵畑の丘で二人遊んだんだ……それで私……そのうち思うんだ……このひまわり畑を超えたところが世界の果てで、そこに死んだ母さんがいるんだって……今思えばなんでそんなこと思ったのか全くわからないんだぜ……? わからないんだけど……確かに思ったんだよ……死んだ母さんがいるってな……」
私は静かにそれを聞いていた。これだけ喋れれば、命は大丈夫だろう。多分。というか、大丈夫であってもらわないと困る。ペースを落とし、彼女に耳を傾ける。家に帰れば、鎌田がひとり待っているだろう。そして、起きているかもしれない。起きていたら、こんな話はできないだろうから。だから、ちょっとずつ歩いた。
「そんでさ……頑張って丘を越えるんだ……でもさ……ダメなんだよ……丘の向こうにはまた丘があってな……だから、きっと何個丘を越えてもまだその先に丘があって……だから……母さんがいる世界の果てなんてなくて……つまり、母さんはもういないんだって……気付いちゃって……そのまま泣いて……泣きつかれて……ふと揺すられる感触を感じたら、魅魔様が背負って私の家に運んでくれてて……ありがとうだぜ、魅魔様……」
別に、泣き疲れて寝た弟子を放って家に帰る人間などいないだろうに。それでも、私がやったということが、魔理沙にとっては大事なのかもしれないが。
「嘘だ。全部偽りの記憶だ。或いはこうだ。母さんが死んで、魅魔様に泣きついた私は、しかし魅魔様に一蹴されるんだ。私の弟子が泣くな。泣いている暇があったら妖怪を退治でもして腕を鍛えろ、って」
そんなこともあったかもしれない。
「そんで、むしゃくしゃして、そのへん一帯で一番強い妖怪に挑むんだ。当時の私は……まぁ、雑魚妖怪と戦ってなんとか引き分けに持ち込めるかどうかってとこで……でも……強くなりたくて……強くなろうとして……まあ、当然ボロボロに負かされるんだが……むしろ私は嬉しかったんだ。これで母さんと同じ場所へ行ける……ってさ。でも、そうはならなかったんだ。気絶した次の瞬間に温かいと思って目が覚めたら、魅魔様の背中だったんだ……。柔らかくて、それで……家へ帰ったら、一発げんこつが落ちて……あとはなんにも言わず……早く寝な、明日も修行だよって言われて……それで……私は……魅魔様のことが……」
別に、弟子を助けるのは普通の事だろうに。そういうときに何も言わないのも、普通だ。十分思い知ったんだから、私がわざわざ言うまでもない。ごくごく、ごくごく普通の話だ。
「嘘だ。これもまた可能性の一つだ。或いは……そうだな、母さんが私を殺そうとして、魅魔様が私を助けて、自分の家に連れ帰るときの背中だ。或いは、ただ、修行に疲れた私が背負ってもらった背中だ。或いは、失われた夢の物語だ。或いは、家出して魔法の森で暮らそうと息巻きながらすぐに恐怖で縮こまり、あとはただ目の前の妖怪に食べられるだけのときに助けてくれて拾ってくれた、あの魅魔様の背中だ……」
小さく相槌を打ちながら、魔理沙の話を聞いていく。どれもこれも、聞いたことがあるような話だ。
「っくく……まぁ……私が言いたいのはな……くだらん設定なんてどうでもいい……どうだっていいんだ、そんなもん、意味も無ければ意義もないからさ……それとは関係なく……私は、魅魔様を尊敬して……敬愛してるんだ。これだけは、忘れないでほしいんだぜ……ありがとな魅魔様……」
それだけ言い残して、魔理沙は黙り込んだ。いや……眠りに落ちたのか。かすかな寝息が聞こえる。
私は、魔理沙が眠りに付く前に言い残した、最後の言葉を考える……。
「くだらん設定なんてどうでもいい、私は○○だ。これだけは忘れないでほしい」
きっとその言葉は……誰かにとっては最高の皮肉であり……誰かにとっては最高の救いでもあるのだろう……。
そう、思った。
「第一関門……クリアだな……」
魔理沙が、誰に聞かせるでもなく、私だけにこっそりと、静かにうわ言を発した。
<●>
家には、鎌田がひとり、眠りこけていた。魔理沙をソファーに寝かせ、シャワーを浴びようと風呂へ向かう。
今日の一日は……やたら疲れる一日だった。
明日の一日もこうなるのだろうか。それとも、今日だけで済むのだろうか。
面倒くさいな。でも、私の仕事みたいだから、頑張らないといけない……。
風呂の水はもう温くなりきっていて、入れそうにない。保温も、まあ、ずーっと遊んでその後ずーっと戦っていたものだから、多分自動的に切れたんだろう。まぁ、夏だから構わない。
水の流れる音。温かいお湯が出るまで、しばらく裸で過ごす。今日一日起きたことを回想していく。
夢美に素晴らしき日々計画を持ちかけられて……鎌田と白河が喧嘩してて……学長に報告しようと思ったら妙な夢を見て……鎌田が私の家に泊まって……魔理沙が私に……あれ?
魔理沙って、魔理沙だったっけ?
確か、あれ? 私の部屋って、最初っから四人だったっけ?
……分からん。っと、お湯が熱くなっていることに気付いて、慌てて頭からそれを流す。ゆるゆるとシャンプーを泡立て、髪を洗っていく。夏とはいえ流石に裸で水浸しは寒いから、シャワーは出しっぱなしだ。
今日がこれだけ忙しかったとすると、明日はどれだけ忙しくなるのだろう。きっと、想像もつかないほどなんだろう。
髪を、透かすように水に浸して、リンスを摺り込む。長い髪は私が私でいるために不可欠なパーツではあるのだが、手入れが面倒くさい。今まではそんなことしなくてもそこそこ綺麗な髪のままでいてくれるから良かったんだが、そろそろ美しさも曲がり角な年齢の人間としては、維持するために労力を費やしても費やしきれないというものだ。
それにしても、魔理沙の言っていたことはなんだったのか。私は彼女の師匠になった覚えもないし、妖怪がどうの、向日葵畑がどうのという話も聞いたことがない。
設定とはなんだろう。この世界において設定はどう機能しているというのか。複数の並列世界の一つか。それとも、それら全てを内包した、設定の集合的世界がここなのだろうか。
設定を設定する、すなわちメタ設定は、しかし疲れ切った私の頭では難しすぎた。眠くて思考が纏まらない。決して本質を掴むことがなく、ただの言葉遊びの自己満足の螺旋が、いやいいや……もう考えるのをやめよう。究極生物カーズになるのだ。
リンスを髪に摺り込む時はほっとする。毎日の繰り返しを続けているということが、私を安心させるのかもしれない。
あとは明日魔理沙聞けばいいや……って思いながら寝ると必ず聞くのを忘れるけど、忘れればそれだけの違和感で、つまり、忘れてもよかった違和感ということで……さあーっとリンスを流す音が、私の記憶までもを流しさっていくようだった。
風呂から上がって時計を見ると、もう既に夜中の一時を回っていた。
明日も忙しい。早く寝よう。一階の洋室、すなわち私のベッドがある場所に……いや、せっかくみんなで泊まってるんだし、もう一つあった客用の布団を引っ張り出してくるか……。
いやそれはめんどくさい……。
というわけで、鎌田の布団にお邪魔することに。
ダメだろうか。ダメではない、女性同士だから問題ない。
私はそう思いながら、静かに眠りに落ちていった……。
<●>
まず、朝起きたとき最初に聞いたのは、鎌田の苦しそうな声だった。
「ん、死ぬ……苦しい……あぼう……」
どうしたんだ、と思って見てみたら、ぎゅーっと私が鎌田に抱きついていた。
寝ぼけて抱き枕替わりにしていたらしい。ああ、確かにいつも抱き枕使ってるから……。っつか、なんで私この布団に?
んあ思い出した。私はなんつーことを。
「うお……すまない……大丈夫かい……?」
上手く動かない頭で鎌田に謝罪する。嫁入り前の女の子の布団に入って抱きついて三千世界の鴉を殺し朝寝って、大した嫌がらせだ、やはり私は天才か。
部屋の中はもう明るくなっていた。今日も綺麗に晴れたなあと、誰かが開けてくれたらしいカーテンを見て思った。
「いや……ふぁぁ……気合入ったからいい……いやよくはないけど……まぁ……別に起こされたのもそんな早い時間じゃないし……っつかそろそろ起きないとまずかったから……」
時計を見ると、七時前だった。多分、三十分くらい前からぎゅーっと抱きしめていたのだろう。私の男顔負けの力で精一杯抱かれたら、それはもう、ヤバいだろう。私パンチングマシーンで百とか出すし。
「悪かった……そんで」
一旦言葉を区切り、目を見据える。
「行くんだろ? 学校」
強い意志の目で睨み返され、ん、と頷かれた。よし、いい眼だ。きっと成功するといい、祈っている。彼女の恋が、成就すると。
化粧っけのない女性の支度は、三十分ほどで済む。魔理沙なんかは、ご飯を作り終えてから隣の家に戻り、二十分で戻ってきた。早い早過ぎる。若いっていいなあ。
朝ごはんは簡単なものを組み合わせたもの。これは私がなかなか起きてこないことがあまりにも多いためだ。パンとフルーツ、ヨーグルトで構成された、朝食というよりは軽食。ダイエットにも効果的である。糖分があるから一日の始まりとしては十分すぎるのも利点だ。そして、そもそもの利点として、やっぱり、早く食べることができる。
結局皆が家を出たのは七時半。少し早いが、まぁ、これくらいがちょうどいいだろう。電車の遅延は言い訳にこそなれ、免罪符にはならないものだ。
電車の風景がかたんかたんと流れていく。魔理沙と鎌田が恋の話をしている中、私はそれを見ながらいつもの儀式を始めようとしていた。すなわち、読書、昼寝、論文……なんだけど……でも、せっかく他の奴と出勤してるんだしなぁ。
結局、魔理沙と鎌田が話しているときは文字を読み、魔理沙が眠気を感じて居眠りしたときは鎌田の話を聞くことにした。
……白河のどこどこが良いという話ばっかり。まさか魔理沙はこれに付き合ったのか? だいぶきついぞ、精神が……いや、むしろ魔理沙はこういうのを楽しみそうだ。
私は割と限界であった……何度研究の話に持っていっても、私にも知覚できない速度で、いつの間にやら白河の魅力についてどっぷりと語られることになるのだ。これが幻術か。もしくは催眠術か。
月牙天衝ならぬ、私が昇天。
……つまらねぇ。
どこかで聞いた事なのだが、人間の脳は衰え始めると、その衰えを食い止めるためになるべく常々脳を使うようにし始めて、その取り組みのうちの一つがオヤジギャグなのだそうな。要するに、私ももう年ということか。……なんか、普通に核心付いているような気がする。
顔をリンゴのように真っ赤に染めながら、閑散とした中にも少しはある周囲の目もおかまいなく、見ているこっちが蕩けそうな笑顔を浮かべている鎌田を見ていると、それが分かるような気がするのだ。
私には恋に関して良い思い出がないからなぁ……。
若いっていいなぁ。
鎌田が、私みたいにならないといいんだけど。
「次は~正門前~」
機械的なアナウンスが流れる。すっかり寝入ってしまっていた魔理沙を起こして、慌てて電車を出る。
時計をみると、八時四十分。全く余裕な時間帯だ。
ちょっと用事があるから、ここで二人とは別れた。
まぁ、用事と言っても、八雲学長に軽く報告するだけだ。昨日あった出来事と、そして、これから起きる出来事を。
……鎌田のことは、どこまで本当のことを言おう。人間関係のトラブルがあって今からそれを仲直りさせる、くらいで、何とかごまかしてやりたいところなんだけれど。
<○>
この廊下に来るたびに、慣れないなぁ、といつも思う。
どこまでも続く廊下。どこから入ってきたか一瞬分からなくなるような暗黒に、身震いが起きる。
目の前には二つの扉。この前はこっちに入って失敗したから、こっち、だよな……軽いノックをしてから名乗る。
返事がない。
おかしいな……この時間にここにいないはずがないのに。
もうひとつの方の扉に目を向けると、どうしてもあの日の少女が脳裏に蘇ってくる。見ていると、なんだか加虐的な快感に襲われるような風景だった。気がする。ふらふらと手が扉の取ってに伸びていく。
引き戸だから、ノブを捻らなくても、持って、ガラッとやるだけで、あの少女が、私の前に……。ちょっと待て、これは思考の制御だ、私の思考は誰かに制御されているんだ。くも膜下に薄いフィルムが取り付けられている。それが今ならはっきり分かる。私は操られていたんだ。宇宙人に。破壊した恨みとして金星から短い波長のマイクロウェーブマイクロウェーブに細工して、私をいつでも操ることのできる薄い膜として処女にしたんだ。つまり人類は滅亡する。宇宙から最終自殺波動が来て、そのマイクロウェーブはアルミホイルじゃないと防げないんだけど、アルミホイルばりの世界を作ったら二十次元の悪魔が量子論を看破してなんと完全無欠の予測情報を創りだしてしまったんだ。不完全性定理はどこへ行ってしまったのか、数学的にはメタ数学だ。
「開いてるわよ」
メタ数学として有名なのは、やはり不完全性定理だろう。ゲーデルの不完全性定理は、ゲーデルの不完全性定理として、ゲーデルの不完全性定理なのである。ゲーデルの不完全性定理がゲーデルの不完全性定理なのは、つまりは不完全性定理として、ゲーデルが不完全性定理であるから、要するにゲーデルの不完全性定理は不完全性定理なのであり、ゲーデルの不完全性定理以上でもゲーデルの不完全性定理以下でもなく、どこまでも未来永劫ゲーデルの不完全性定理でしかないゲーデルの不完全性定理には一生追いつかない不完全性定理なのだから仕方ないではないか。
「聞いてんの?」
まぁ待て、それこそがリバティー。ユートピアのパロディ。この文章もパロディ。ワンダフルエブリデイのパロディ。ドルチェだ……ドルチェがいるよ……! ドルチェロ様が見てる! 喉を掻き毟らなきゃ! 蛆が湧いてるよ! 蛆に自分の肉を食わせて治療だ! このウジ虫が! 私はお母さんのようにはならない! お母さんの癖に生意気だぞぅ!? ふざけないでください!
ぱんっ!
一瞬の困惑の後、それが柏手であることにようやく気付いた。
「ほら、起きなさい」
彼女が私の目を覚まさせてくれたらしい、よくわからない思考の白昼夢から。眼の焦点が合うのにしばらくかかり、彼女の姿を受け入れるのにもしばらくかかった。
目の前にいるのは、私があれだけ恋焦がれた、さばさばとして、常に何者にも囚われない、あの巫女の少女だった。
「全く、私の神社の前で変なトリップしないで欲しいもんだわ。参拝客が減るじゃない」
ここはどう見ても神社ではない。怪しげな大学の、怪しげな廊下の、怪しげな部屋だ。
それでも彼女が言うと、まるで周りの風景が、山の麓あたりにひっそりと佇む、寂れた神社であるかのような……。
「って、トリップさせてんのはあんたじゃないかい」
「え? 何が?」
自覚が無かったらしい。自覚なく、彼女は存在一つで私に幻視を見せることができるらしい。困ったものだ。
「それで、私に何の用かしら。素敵な賽銭箱は、あちらよ」
彼女が指さしたそれは、ただのダンボールだった。
言われた通り、財布の中から一円を放り投げ、綺麗にダンボールの中に入れる。
「魅魔……あんた……」
するとわなわなと震える。一円じゃダメだというのか。次は五円でいこうか、どうかご縁がありますように、とか考えていると、彼女が目に涙を貯めて抱きついてくる。
「どうしちゃったの!? 久々のお賽銭よ! やったあ! これでここの神に怒られなくて済むわ!」
ここの神って、私の可能性もなきにしもあらず程度のあやふやさなのに、信仰も糞もあるのだろうか。
「それで、何? 賽銭を入れに来ただけ!? ううん、嬉しいわ、それだけで。毎日来てもいいわよ!」
にこやかに笑う少女。なんだか、気持ち悪い。こんな元気溌剌としたこいつは、見るに耐えない。もっと、人生全てに達観した感じで、気に入らなければ全て潰す、ヤクザの頭領みたいな奴では無かったか。それとも、これも認識のうちの一つで、人生全てに達観した彼女に違和感を感じる者もいるのだろうか。
私は黙ったまま、部屋の奥にある畳の座席に腰掛けた。
「何よ、黙りこくっちゃって。賽銭の礼として、今お茶を出すわ。ゆっくりしていってね!」
立ち上がって、部屋の隅っこにあった水道を捻り、コップに水を入れて、私に向かって水平に放り投げた。なんとかそれをひっくり返さないように受け取る。危なすぎる。服がびしょびしょになったら替えがない。ちょっと濡れたけど。
口をつけると、水のようなお茶の味がした。というか、水だ。
「掃除をしなくちゃ。用を思い出したらいつでも言ってね」
箒を持っているかのようにして、そのへんをうろうろとしながら歩きまわる。
まぁ、要するに、彼女は壊れているらしい。
ここで待っていれば八雲紫は来るだろうか、来ないかもなぁ、とか思いながら、話しかけてみる。
「ねぇ、ここって、どこ?」
きょとんとした顔で持っているらしい箒を止める。
「幻想郷。博麗神社。それ以上の答えは必要?」
どちらも聞いたことがない。
「お前は誰?」
もう一度きょとんとした後、破顔一笑、みずみずしい笑顔を浮かべる。
「あはは、もう、どうしたのよ、魅魔、そんな、哲学的な。もしくは、記憶喪失とか?」
「答えて」
今度は少しはっきり目の口調で問うた。すると、彼女も真顔に戻る。
「私は、幻想郷という楽園の巫女、博麗霊夢。それで、何の異変の相談かしら」
なるほど。博麗霊夢か。
確かに、なんだか懐かしいような名前であった。だけど、ここは幻想郷という楽園らしき場所ではない。
何を質問するべきか迷った。会話を続けていないと、この部屋の狂気や暴力にとりつかれてしまうような気がしたのだ。
「幻想郷って、何?」
今度は迷うこともなく、返答が帰ってくる。
「存在的には、外の世界……幻想郷の外の世界、すなわち地球において、人々の中で幻想と化したものが流れ着いてくる場所。それをさらに厳密にすると、二重の結界によって存在と非存在、幻想非幻想をいじくり倒すことによってできた幻想の墓場。もっと正しいのは紫に聞いて。理想的には、全てを受け入れる、それが故に残酷で美しい楽園」
なるほど。全くわからん。小難しい顔をしていると、私の横に正座で座る。とても美しい佇まいだった。
「幻想郷の存在意義に関わる異変を起こしちゃったとか?」
霊夢の話を無視して、さらに訊き続ける。
「幻想郷の中ですら幻想と化した物は、どこへ行くんだい?」
すると霊夢も会話のキャッチボールを諦めて、ただ私の言葉に答えてくれる。
「さあ、知らないわ。でも、面白い仮説ね。例えば、ただの物でありながら、いつかは幻想だった幻想として、幻想郷の肥料のようになるのかもしれないわ。存在は定かではないけれど、世界の立体感を広げる確かな礎として、幻想郷に固定される。それはまさしく肥料ね。肥料って言い方、我ながらぴったりだわ」
主に負けぬほど暢気な妖怪亀の姿が脳裏をよぎった。
「あるいは、幻想郷を脱出して、幻想郷の中の幻想郷として誰かが創りだした幻想郷に、移動するのかもしれない。そうして、nとn+1を証明して数列を証明するように、幻想郷が合わせ鏡のように続いていくのを、今私たちは証明しているんだわ。……いや、それだと無限を作り出すことができてしまう、か。ううむ、難しいわね。あるいは、時系列を無視して全ての可能性も詰め込んだ、少しだけ高次元の世界があって、誰も彼もがそこで幻想の死後を楽しむのかもしれない。まるで偏在転生ね……って、偏在転生はまた違うか。そもそもあれは白蓮たち限定の領分だし。まぁ、幻想郷にいる私たちには、まだわかりっこないことよ。……なぁに? 魅魔、死が怖くなったとか?」
彼女の言葉を聞いていると、ある想像が浮かんでは消えた。一度消えた想像は、そう浮かんでくることはない。ただ、偏在転生という言葉だけが、私の耳に、残る。
「死は恐るるに足りない。もし死とは存在が消えることならば、貴方は死を認識することがないから大丈夫。もし死とは魂がどこか遠い場所に消えることならば、どこへ行こうが貴方は貴方だから大丈夫。ね、簡単でしょ?」
さりげなくすごいことを言った気がする。以後認識することがなくなることは、すでに怖い。そして、私が私であろうと、どこかへ体が勝手に移動してしまうのは、怖すぎる。それを簡単に言い放てるのは、博麗霊夢が博麗霊夢たる所以なのだろうか。
「あるいはこれは天人の受け売りだけど。『未だ生を知らず、焉んぞ死を知る』……とか。意味は分かる?」
死に怯えるよりは目の前の生を見据えろ、とか、そんな感じだろうか。
「要するに、なんも怖くないってことよ。安心しなさい。あんたが死んでも、私だけは覚えていてあげるから」
全く脈絡もない、舞台すら彼女の脳内世界だというのに、私はなぜか、安心してしまった。これが彼女のもつ力なのだろうか。何からも一線を完璧に引いているがゆえ、彼女の言葉は完璧な第三者だ。その第三者の言葉ほど、確かなものはないだろう。
「そうね。幻想郷の中で死んだ幻想は、また新たな幻想郷を作り出しているのよ。そこには前の世界の紫みたいなのがいて、またそいつは胡散臭くて、私みたいなのがいて、またその私はすげぇリッチなのよ。多分。或いは、そうね、皆がまとめてその世界を構成して、素晴らしき日々、そう、素晴らしき日々を創り上げようと、素晴らしき日々を、うあ、ああああああああああああ!」
急激に発狂し、何も入っていないコップを投げつけてくる霊夢。その目に先程までの安寧は残っていなかった。
「魅魔ァッ! そうよそもそもあんたのせいじゃない! さっさとそこに直りなさい! 殺す! 殺してあげるわ! うげ、うげげげげっ」
凄い、顔だけ見てると、まるで倒すべき妖怪みたいだ。
……かと思えば、いきなりごめんなさいと大きな声で叫びながら床に頭を打ち付け始める。
「何事……?」
眠そうな顔をして、私を挟んだ霊夢の反対側の畳を押しのけて、八雲紫が出てきた。乱れた髪が、彼女がそこで寝ていたことを証明していた。お前そこに住んでるのか、とは、霊夢が怖くて言えなかった。
「ああ……魅園か……うん、ここに来たってことは順調なわけね……はい、帰っていいですわ。……すみませんが、うちの霊夢をあまり刺激しないでくださいな」
「魅魔……殺す……殺す……」
ぴっちり整った正座のまま、虚空を見つめてつぶやく霊夢。本能的な恐怖が立ち上がってくる。
「残った問題を解決したら、私のところに報告に来て下さい。一人で。それが彼女のためにもなるのです」
わかりました学長、とだけ言って、私は走って部屋から出た。
「ほら、起きなさい霊夢。イバラカセンの転入手続しないと。ねぇ聞いてる? 霊夢ったら」
そんな八雲紫の言葉を聞きながら。
<●>
どうやって戻ったのかすら覚えていない。というか、学長室へ行ってからの記憶が曖昧だ。単語単位だけで言葉が頭に残り続ける。勝手に体が思い出そうとしては沸き立つ嫌悪感を、無理に自分の中で誤魔化す。
時間は、鎌田が指定していた建物の一階についた時点で九時の五分前。どう考えてもそんなに短く済んだわけがないのだが、まぁ、いいんだろう。知らん。間に合ったのならばそれでいい。なるべく静かに屋上に向かう。
扉の向こうに、影が。
この背格好は、魔理沙か。向こうもそれに気づいたようで、扉を開ける。
「遅いぜ、魅魔様。もう見つめ合ってるっつか、もうやばい」
瞬時に理解して、迅速に、かつ静かに、死角の角から二人の動向を見つめる。魔理沙が自分はどこから顔を出そうか迷った末、私の股間から頭を出した。いやいやいや……まぁいいか。
「魅魔様……始まったぜ……」
鎌田がたどたどしく口を開く。もっとも、もごもごとした声のようで、私たちに声は届かない。
「そこだ……いけ、押せ!」
小声でひっそりと叫ぶ。股の間で喋られると少しくすぐったいのだが……。
「あの……」
「あの……」
鎌田が動いた。しかし、白河も動いた。
恋愛物語の読者においては使い古されたシンプルで効果的な偶然。それでも、本人達にとってはたまったものではないだろう。気まずそうな沈黙。
「いえ、どうぞ、鎌田さんから……」
「……あのさ……その……あー、これ本題じゃないんだけど、鎌田さん、って、や、やめ、ない?」
「そ、そうかもですね、ち、チルノさん、それじゃあ、用事を……」
譲り合いを止めるべく、鎌田が話を逸らしさりげなく要求する。その要求を白河は飲まざるをえないことには違いないが、それゆえに本題を話すことを強制されてしまう。その事に遅れながらも気付いたのか、指を弄りながら、そのーあのーともごもご誤魔化す。
「あ、あのさ」
いや……そもそも鎌田はそんなタイプの人間ではなかった。目標のためなら突き進むことができる強さ、ある種の愚かさを持ち合わせた少女だ。だから、意を決する時間は、私の想像しているよりも短かった。
「私、白河が……彩が、好きなの。その、だから、好きってのは、そういう、好きじゃなくて、なんというか、うあー、だから、その……」
かと思えば、告白の途中でヘタレてしまう鎌田が、とても微笑ましかった。ついつい、心の底から頑張れと応援してしまう。
「あと一歩! あと一歩!」
股の間から小さなあと一歩コールが聞こえてくる。魔理沙はバカだねぇ、と思いながらも、心の中では彼女のコールに同調している私がいた。
白河はガラにもなく顔を真赤にしながら指先を弄っている。なんだお前は、お前それでもゴシップ好きの大学生か。
「だから……」
一瞬の沈黙の後、それは来た。
「私と付き合ってください! というか! 私の彼女になってください!」
来た! 白河の顔は、どうだ……? 駄目だ! 逃げている! 逃げモードだ!
「あの、そのですねぇ、私はそのチルノさんのこと嫌いじゃないというか、むしろ好き……ごにょごにょ……というか、なんというかそのですね……あのぉ……あ、そろそろ行かないといけなくて……いやそうでもなくて……」
天下の白河彩はどこへ行ったのか。強きを助け、弱きを挫く。その悪名はどこへ消えたのか。
朝の陽射しが二人を包むほど強くなっていく。
「チルノさん……本気なんですか……?」
白河の顔が、真顔になった。
「この世界が紛い物ということに……あなたが気づいていないわけないでしょう……?」
いきなり何を言い出すんだ……。観客の困惑をよそに、白河が淡々と言葉を続ける。
「ひょっとしたらあなたのその感情も私のこの感情も偽物ではないかという疑念が私を苛みます。もしそうだった場合、私たちはどこから来てどこへ行くのでしょうか。いつか、この感情は消え失せてしまうときが来るのではないでしょうか。私は、私は怖い。中途半端に物事を知ってしまった存在として、あなたと付き合うのがとても怖いんですよ……」
心の底から不安そうな顔の独白。鎌田はそれを聞きながら微笑んだ。
「そりゃ知ってるよ。私物理学者だし」
「だったら……!」
「でも好きなんだもん。しょうがないじゃん」
息を飲む白河。黙りこくって、その目線が足元へ向く。まるで、イタズラを見咎められた子供のようだった。
「私が今感じている感情は、私以外の誰にも証明できないよ。誰が何と言おうと、あなたが好き。他に何か、証明はいる? 実測しようか? 実験と検証こそが私の本懐だし……ね」
自分に言い聞かせるように言った後、すたすたと歩み寄る鎌田。
「そうですか……そう、ですよね……私は何を悩んでいたんでしょうか……」
「よくわかんないけど……新聞記者なんてやってたら、知りすぎて迷う事はあるんじゃない? でも、大丈夫。あたいがちゃんと守ってあげるからさ……あたいが、彩を、守ってあげるから……ほら、目を瞑って? 恥ずかしいよ」
間合いがゼロになる。少し背伸びして、鎌田がその唇にくちづけを。
なんだかよくわからないが。
今ここに、一つのカップルが誕生した。
あとで二人をさんざんひやかして祝福してやろうと思ったのであった……。
「それで、あのさ」
長くて短いキスの後、鎌田が言い出した。
「実は、もう一つ告白? が」
「どうしました?」
「これなんだけど」
ワンピースのスカートを持ち上げたその中には、黒いぱんてぃー、そして、それをモッコリと突き上げる……女には本来無いもの。
というか、「それ」は容器が小さすぎて余裕ではみ出ていた。
なんだ、あれは。
「は? ちょいチルノさん、それ、え?」
混乱する白河! 無理もない! 私たちにだって全く意味が分からない!
整理する。鎌田の、股間に、陰茎が生えていた。なん、だと……!?
「おお……松茸にソックリだって、マジだったんだな……禍々しいぜ……目測二十cmくらいか。あんなもん入るのか?」
冷静に股の下から分析する魔理沙。それどころではない、このままではこの物語が十八禁の押印を押されてしまう! R-18と十八禁は違いますなんて言い訳が、果たして伝わるものか! 伝わるわけがないだろう! 馬鹿か! さんざん騒がれたじゃないか、おち○ち○が生えた話が五千点行ったとかなんとか! 十八禁という意味の言葉をよく考えろ! って父親のセリフは一体どういうことになるのか!? R-18という言葉の意味をよく考えろ! R-18というものがなんだかよくわからない! 何がアール十八だよアール二十五だゴラァア!
「おい、魔理沙、なんとかしなよ、あんたキノコマニアだろう!」
「あのキノコは私の専門外だぜ! そりゃあむしろ白河の役目だろうが!」
「ウフフ板でそれ言ってみな、規制ぶち込まれるよっ!」
小声でやりとりする私たちは、さぞかし滑稽に違いない。
「あのね……昨日の夜から疼いてしょうがなくて……あの……夜中……トイレで……慰めたら……今度は止まらなくなっちゃって……」
涙目で扇情的な告白を続ける鎌田。
「あの……昨日の夜って……私の家……」
「今朝、なんか男臭いと思ったんだよなぁ……なんでか全く分からんかったが。ま、これは予測できる方がおかしいな、うん」
「そ、そうでしたか……いや……別にチルノさんの性別は構いませんよ……いや……別にチルノさんが男でも……問題のないことですし……」
現実逃避を始める白河だが、鎌田がそれを許さなかった!
「え? あたい女の子だよ? たまーにいるよね、チ○コ生えてるだけで男とか言い張って、お前ホモかってうるさい奴。男じゃないっつーの、男の娘だっつーの。ふたなりだっつーの。これ重要だよ?」
「魔理沙、誰が得するんだい? この展開」
「私だが」
「なにそれこわい」
「なんで、なんで女の子なのに、そんな立派な……? いや、私他の人の見たこと無いんで、よくわからないんですが、日本人平均って、十三cmくらいでは……? それ、見るからに、私の腕くらいありそうな……いやこれは男の話で……普通女性は1cmくらいで……? いや、ひょっとすればものすごい偶然が起きれば腕ほどの大きさの……」
「アヤぁ、これ慰めて……! お願い、切ないよぉ……」
「ギャーッ!」
追いすがる鎌田から、悲鳴を上げて後ずさる白河。いくらなんでも悲鳴をあげるのは可哀想だろう……気持ちは大変よくわかるんだが……。というか、どうするんだ、これ……? どうすればこの状況に終止符を打てる? このまま最後まで描写してしまったら、冗談抜きでアクセス禁止処分が待っている……!
「魔理沙、何とかしてくれ!」
「私か? 別に私でも構わんが……」
ポケットからバタフライナイフを取り出す魔理沙。ちゃきん、と冷たい音が鳴る。
少しその意味を考えなければ分からなかった。それ程に唐突で、自然だった。
待て、何をしようとしている――!?
「――別に切ってしまっても構わんのだろう?」
ヤメロ、ヤメロ、ヤメロヤメロヤメロ――! それは内なる無意識の境地から沸き立つ声なき声の叫び!
否、それはむしろ悲鳴の極地――!
だって、それを去勢す<ヤ>るということは――きっと、その痛みを知る男にだって許されていないのだから――!
「弔毘八仙――無情に伏す!」
魔理沙が一呼吸のうちに鎌田に歩み寄り、居合を抜くがごとく体躯でその禍々しい一物を切り取った!
肉を裂く音、銃弾を穿ったときのような無残極まりない音がした。
やってしまったか……。
一説には、バイクの死亡事故はその多くが睾丸が潰れた際のショック死によるものらしい。陰茎にもそれが適用されるのかは定かではないが、命への別状も覚悟して構わないだろう、慌てて物陰から駆け寄る。
白河を見ると、急に醜悪な一物を見せられた恐怖か、もしくは私たちが一部始終を見ていた事を悟ったせいか、腰を抜かし、「な、なにがあったんれすか、これ、報道しますよ」と、ジャーナリズムを存分に発揮していた。
魔理沙は残心を残したまま微動だにしない。切り抜かれた絵画のようだ。
切り離された「それ」は、びくんびくんとまるでトカゲのしっぽのようにのたうち回り、目を背けたくなるような醜悪さと、挙動のアンバランスさが生み出す可愛さとの二律背反を兼ね備えていた。
鎌田は、スカートを持ち上げたまま沈黙を守っている。時が止まってしまったかのようだ。
「やった……」
鎌田が声を発した……!? 一体なにがどうしたというんだ!
「いやったああああああああああ! 切れた! おち○ち○、なくなったよ! ありがとう! 魔理沙!!」
意味が分からない。もうどうでもいいかなとすら思った。
「それほどでもない」
なるほど、それほどというか糞だ。
「いこっ、アヤ!」
座り込んでしまった彩に手を差し伸べて、立ち上がらせるチルノ。
「そ、そうですか、そうですね……」
なるほど、これもハッピーエンドなのかもしれない、というか、あるべきものがあるべき姿に返ったのかもしれない。
もう、そういうことにして思考放棄をしたかった。
「お、私たちも行こうか、魅魔様」
魔理沙がぐしゃっと未だに床でびくびく動いていたものを踏みつぶし、こちらに歩いてくる。
「そうだねぇ」
二人が行ってからもう少しだけ時間をおいて、私たちは屋上を出発した。
空には、ただ、青が広がっていた……。
<◎>
この大学は、大して生徒数もないくせに、都心のそれにも引けを取らないほど巨大な図書館を抱えている。その膨大さといえば、七不思議の一つとして「いつの間にか広くなってる図書館」が挙げられるくらいだ。
吹き抜けの二階建ては、まるで本棚の熱帯雨林。地震が起きたらどうするんだろうなぁとぼんやり思う。
ここまで一緒に行動してきた魔理沙は、目の前の寡黙な少女と私を引き合わせると、すぐにどこかへ行ってしまった。
その少女――確か八里とか言ったか――は、ただ黙々と本を読み続けている。私にはおかまいなしだ。会話する気は見受けられないし、まぁ、私だって彼女と同じ状況に放り込まれたら目の前の本に逃げる。
魔理沙のアホは一体私になんの嫌がらせをしたいのか。……まぁ、会話を繋げてみよう、まずはそれからだ。
「ねぇ、女にチンコって生えるもんなのかい?」
「……医務室案内しましょうか?」
なるほど、酷いいいようだが、私の感性は正しかったことがわかった。良かったぁ、てっきりこの世界の常識だと女にチンコが生えてるのは普通なのかと思っちゃったんだよねぇ。
「もし女性に陰茎が生えるとすれば、それは先天的なもので、半陰陽と呼ばれるものですね。俗語ではふたなり……この言葉は聞いたことくらいはないでしょうか? 男性器と女性器の両方が体に備わっているわけだけど……どちらも生殖器として機能するのは極めて稀で、オタクサブカルチャーで使われているいわゆるふたなりは、世界に存在しないと言っても過言ではないです」
おおー。微妙に驚嘆の声をあげつつも、少し体がすすーっと引いていく。
いや……だって……ねぇ……?
まぁでも、いわゆる古くからある本物のおたく、それも知識全般を追い求めるタイプらしいというのはよくわかった。私も少しそういうケがあるから、なんとなく友達になれそうではある。
「詳しいね……」
「まぁ……この図書館の本全部覚えたから……」
言われて「ちょい失礼」と断りながら、彼女の持っている本の背表紙を覗き込む。……確かに、この図書館の本ではないみたいだけどねぇ……。そう、そのまま飲み込んで僕のエクスカリバー……? まぁいいや、しかし、そのためにどれほどの時間が必要なのだろうか。
あたりを見回す。ここにいると、世界全てが本で埋め尽くされているような感覚を覚える。図書館の大きさとかには詳しくないけど、ゆうに一万冊は越えてしまいそうだ。
「この図書館の蔵書は二万三千冊」
八里がつぶやく。予想の二倍以上だ。ともすればなおさら、常識的に考えて彼女がそれを読破するのは不可能だ。
「本当に読んだのかい? ……九千五百十冊目!」
「……そういう漫画の天才少女みたいな覚え方はしてないわ。でも、確かに本の内容を全部覚えている。辞書だって一冊残らず読破した」
にわかには信じがたいという以前に、物理的に不可能だ。
だって、大学生が大学に通う年数はどれだけ留年しても八年で、あー、いや、彼女は教授なのだろうか、いや教授だとして彼女の若さを見ろ、どういう例外だって三十は越してないだろう。もしくは通いつめてるだけの未就学児とか……? 一日六冊読めば十年で行ける……!?
「二回生、八里絵里子です、よろしくお願いします」
「あ、魅園魔友……教授やってます」
じゃなくて。自己紹介じゃなくて。
私の疑問符を受け取ってくれたのか、彼女がふっと息を吐いた。
「不思議に思っているのは、もちろんあなただけじゃないです。速読術なんて世の中には腐るほどありますが……二万冊を二年で読み切ることのできる速読術なんて、聞いたこともないですし、聞く気もおきません。胡散臭すぎる」
そろそろわかってきた気がする、彼女が何を伝えたいかを。
そして、魔理沙が何故こいつと私を引きあわせたかを。
「本は誰よりも客観的な教師……完璧な世界の形を教えてくれます。それが故に世界の秘密を知ってしまうことがあまりに多い」
彼女が語り始めるのを、近場の椅子に座って静かに聞く。
「今私が解説のため文学的引用をするのは簡単……けれど、それに意味はありません。何故なら、今、私たちは私たちの現実として、膨大な時間を与えられた人間を演じさせられている。といっても勿論、無限の時間などは存在しません。無限は一瞬……きっと、私たちが無限の存在として固定された瞬間に、私たちは時間が矢のように過ぎ去るのを見据えるだけの存在と化すでしょう」
無限は一瞬に過ぎないというのが、よくわからない。
「……どこが分かりませんでしたか? 無限と一瞬の相関性? 無限と一瞬は、体感することが不可能という点で限りなく等しいです。他には、一瞬を限りなく一瞬で分割していったのが無限です。無限を認識すると一瞬です。二つの中にはそれぞれもう一つが存在するのです。……そして何よりも、一瞬は我々が経験しています。だから、喩えやすいと言いましょうか」
未経験の本物を夢想するより、経験済みの近似を追憶するということだろうか。
うん、もうそれでいいということにしよう。些事に拘れば話が進まない。
もう大丈夫だ、と言えば、もう少し話したそうではあったが、次の話へと進んでいく。
「私が本を読んだ事について……考えられる仮説を大まかに三つに分けます。なんらかの解釈によって私が本を読むのはおかしくないとする説。そもそも私が本を読んでおらず、この知識は偽りであるという説。そして……無限とはいわずとも、この世界に膨大な時間が存在し、これからもするという説……」
直感的に、三つ目が正しいんだろうな、と思った。
別に根拠などはない。ただ、正しいな、と思った。
研究者失格である。
「……教授の直感は正しいです。この世界は、数百年間にわたって維持され続けているというのが、たった今わかりました。それは確かな予感を伴い、今、私の中に違和感を伴い舞い戻ってきました」
ただの電波な妄想と受け取るのは簡単だった。
でも、そのへんに転がっている、現実逃避としての妄想、前世がうんたら、何何の生まれ変わりでうんたら、とは全く別の、ある種の威圧感を彼女から感じた。
もう少し聞いてみる価値はあると思う。
「だとすれば、様々な問題に説明がつきます。例えば、この世界は同性愛が普通です。何の忌避感も感じられていない。それは何よりもレミィ達と付き合っている私自身が実感しています。倫理が崩壊しているというのもあるかもしれないですが、流れが澱みきったこの世界に、生殖する意味がないとしたらどうでしょうか」
なるほど。必要のない機能が退化するように、何の努力もなくただ維持し続ける世界に、異性愛など不要、むしろ人々の幻想として生き続ける世界には、同性愛のほうが適しているのかもしれない。異性の幻想は、同性愛によって紡がれるからだ。
「他にも様々な違和感が貴方を襲ったとは思います。ですが、ほぼ全てが、ここは普通の世界ではないということで説明がつくと思います。さて、普通の世界ではないとすれば、ここはどういう世界なのか。それも大体予測がつきます。要するに、皆の願望が叶う世界です。私はいつまでも知恵を探し求められる。白河彩はいつまでも文字に携われる。紅音麗美は彼女の家族といつまでも一緒にいることができる。霧雨魔理沙は好敵手を超えようと努力し続けることができる。小学校や中学校でもなく大学という形を取ったのは、多分、皆の願望があまりに多種多様すぎたからではないでしょうか」
彼女の言う様々な違和感が、その言葉を聞いて、いくつか想起されては消えていった。
「……あとは分かりません。この世界を生み出した人間の意図も分からなければ、私たちはどこから来てどこへ行くのか、ここで永遠の存在として暮らすのか、それともこの先にまた幻想世界があるのかすらも。分からないですが、たった一つ言える。私は確かにここに存在しています。強大な存在の一部としてか、それともちゃんとした個々としてかは分からないけれど、私は確かにここにいます」
彼女は自分が存在するという主張を繰り返す。まるで、偉大な者の存在を知ってしまった者が、自らの立ち位置を必死で手繰り寄せるかのように。
その苦しみは、やがて大きな悲劇と救いようのない狂気をもたらすものだ。
クトゥルフ神話は神話ではない、偉大な存在に関わるなという教訓を持った、童話だ。
「時系列を無視した世界ならば、無限の未来によって、この世界は人数が溢れてしまうんじゃないかい?」
「……認識の差ではないでしょうか。あなたが認識する世界が全てではないということです。例えばいまの私にとってこの世界は●×△人をふくんでいるように見えます」
一瞬、ノイズが走り、彼女の言葉が聞こえなくなった。
「なるほど、妙なフィルターが掛かっているらしい。貴方にとってはあくまで、そして私にとっても、私が認識出来る範囲での人数が適用されるということではないでしょうか。つい最近転入してきた少女がいるというのを聞いたことがありませんか? それはきっと、転入ではなく認識可能になった目印なのです」
それなら確かにつじつまが合う、かねぇ。
しかし、それだとこの世界に時間を超えた一つの尺度が存在するようだ。それを話してみる。
「それだと、まるで時間にとらわれて無いもうひとつの単位がある感じで、なんか、この世界が四次元みたいなんだが」
「文脈という尺度ですか。この世界には私たちが認識している三次元の要素にプラスして、何かもう一つがあると。面白い仮説ではありますが、まぁ、流石にそれはないでしょう。私は今連続的に時間の上に存在しています。空間が生み出した時間という尺度に振り回されている。貴方もそうでしょう、ほら、時計を見ればわかります。ああやって、連続的に秒針がって……ああ、しまった」
彼女が壁に掛かっている時計を見た。
「少し話しすぎちゃったみたいね……」
彼女がぼんやりと言う。
私も時計を見ると、もう昼と言ってもおかしくないような時間だった。
「私は読書に戻ります。何かあったら、何でも聞いてもらって構いません。貴方にはとても興味があります。何故私は貴方を見た瞬間全てを思い出したのか……? 貴方は一体、この世界においてどういう存在なのか……? そもそも、この奇妙で退廃的な世界は一体何?」
「私の存在なんて、私以外にありえないだろう……それとも、あんたの存在はこの世界において特別な意味を放つとでも?」
「今はまだ……でも」
一度区切って、一息で話しきる。
「私は、全にして一、一にして全の彼女になりたい。全てを見て、全てを知り……そして何もしない。偏在転生の頂点であり、誰でもあるが故に誰でもない。そんな知識の日陰の少女に。そのためならどれだけの時間を糧にしてでも、私は知識を仕入れ続ける」
偏在転生。へんざいてんしょう。以前もどこかで聞いたことがあるような気がして、それが少し引っかかった。
「偏在転生……ってのは?」
「一つの魂の時系列を無視した無限の転生……魂が時間を無視して転生できるとしたら、この世界に魂は一つだけでいいというのは分かりますか」
かすかに頷く。同時に二つの体が存在したとしても、片方が死んだ時点でもう片方がさかのぼって転生すれば、それは何も矛盾を孕んでいない。それを60億繰り返せばあっと言う間に全人類だし、兆の単位繰り返せば全生物だろう。
「私たちは、自分の体のものとして相手の痛みを理解することができます。例えば教授がタンスの角に足の小指をぶつけたとして、私はその痛みを、わざわざ理屈で考えたり、わざわざ体験することなく、理解……いや、共感することができます。それは魂の根本が同じものであるから……という、説です、ね」
確かに私たちは理屈では理解出来ない圧倒的な共感や感情移入に襲われることがある。しかしそれでも全ての魂が同一であるという仮説はあまりに突拍子も無いように思えて、そこは八里に感情移入してしまった。
「ところで、一にして全、って……クトゥルフ神話かい?」
「直接の参照元はそうです。けど、もはやクトゥルフ神話だとかそれ以外に意味はありません。クトゥルフ神話は、在りし日のラブクラフト少年の宇宙的恐怖の具現化です。宇宙の果てにこんな神様がいたら……部屋の隅っこからこんな犬が這いでてきたら……人のいけない境界から、偉大な何かが生まれいでてきたら……あの神話体系が多くの人を魅了しているのは、ある種の集合無意識的暴力があるからでしょう」
彼女のあこがれを分かりやすくするために、クトゥルフ神話の言葉を引用しただけだったらしい。
絵里子の言葉はわざとらしく煙に巻いている感覚がある。それもまた、彼女の憧れゆえなのだろうか。
沈黙が走る。その隙に、唸って考えを整理する。
「もしも何か貴方が成すべきことがあるのならば」
八里が呟くように言った。
「それはきっと、今日中に解決してしまうと思いますよ」
脅迫の意味なのか、励ましの意味なのかが分からない。どちらにせよ、彼女の無言の背中が、そろそろ読書の邪魔だから図書館から失せろと言っている。
周りには誰もいない。
普段から貸切状態の図書館で本を読んでいると、小さな呼吸音ですら、彼女の集中の邪魔になるのだろう。
「いろいろ助かったよ八里、ありがとう」
「お礼は……私の疑問への答えでお願いします」
その言葉には答えず、図書館から出る。さっきの八里の言葉が正しいとして、もう、今日の一日は半分終わってしまっている。急ぐ必要はないが、のんびりしている暇もないだろう。
まず向かうべきは……どこなのだろうか。
<●>
私は歩きながら考える……。この世界とは、何なんだろう。
私はこの世界で、生まれてからは親と一緒に、少し育ってからは魔理沙と一緒に、大学教授になってからは岡崎と一緒に、そして今の研究室の形ができてからは、この四人でいるはずだ。
でも、その仮定が、今、八里の仮説によって崩されようとしている……。
有名な仮説として……。
例えば、記憶が全て五分前に火星人かなんかに植え付けられた偽りの物でないと、証明できるだろうか。
私にはできない。どういう仮説を組み立てようと、世界の証拠など、如何様にも捏造できるのだ。
答え合わせをしなければならない、と思った。
答え合わせをする方法ならば、すぐ目の前にある、とも思った……。
それは物語を終わらせる魔法。
このまま学長室に行けば、全てが終わる、というのが確かにわかった。
それゆえに、怖くて仕方がない……。
終わってしまう時の寂しさが分かるだろうか。
キャンバスいっぱいに描こうとした作品。あらかた色を塗り終わって、少しずつ彩色の仕上げの作業。その仕上げの作業も、何重にも重ねて、十重二十重にも重ね終わって、一つの芸術作品が、もうすぐできようとしている。さあ、あと一つ筆を、色を載せれば、全体の調和が完成する。
……怖くないか!?
資格試験。試験用紙を、数カ月間の努力を用いて埋めていく。順調だ。あまりに順調すぎて怖いくらいだ。さあ、最後の一問。これを解けば、受かったにせよ落ちたにせよ、この数カ月間の努力は終わる。終わるんだ。
怖い! 私は怖い! 終わるのが怖い! 終わってしまうのが怖い! 怖いよ、怖すぎるよ!
終わってしまうんだ! 何もかもが! そして新しく始まるんだ! なにもかもが!
ふらふらと、ふらふらと、キャンパス内を歩いていく。
ふと気づけば、自分の研究室の前にぼーっと立ち尽くしている魔理沙を見据えていた。
魔理沙は誰かを待っているようだった。目の前の壁を見つめて、陽の光を浴びながら物思いにふける彼女は、まるで絵画から切り離されたような、神聖な雰囲気を醸し出していた。
いや、かと思えばそれは幻想で、私に気付いた瞬間にその神聖性は崩れ、大輪の笑顔の花が咲き、それはそれで、とても可愛らしいのだ。
「よう、魅魔様」
おう、と声を返し、何をやってたんだ? と聞いた。
「それがな、ちょっと扉の向こうの声を聞いてみてくれ」
すると、苦笑しながらこんな答えが返ってきた。
言われるままに扉に耳をつけてみる。
「はぁ、はぁ、チルノさん……チルノさんがそんな下着着けてくるからいけないんじゃないですか……うひひ……ぐへ……ふひひ……さぁ、早くこの手錠をですね……」
白河の声。ふざけた悲鳴のような声を返すのは、鎌田の声だろうか。
「いーやー! 犯される! らめー! んやぁ! そこだめ! マジで! ぅあっ!」
……これは嬌声だ。
耳を離す。
もう一度耳を付けてみる。
「よっしゃあジエンドぉ!」
「な、馬鹿な! 何故私は手錠をつけようとして逆に付けられているんです?」
「説明書を読んだのよ」
「今日は厄日です!」
「えへへ。彩ちゃん、おしめを替えてあげましょうね~」
「ヒッ、その手に持っているものはなんですか? ねぇ、なんですか!? ねぇ、ねぇ! うぎっ! んむーっ! むむ、んほおーっ!」
すんげぇ……研究室の占拠っつーか、猥褻罪ですねぇ……。
「つーわけだぜ、魅魔様、くっくっ、面白いな」
魔理沙を見る。いやぁこれ、苦笑じゃすまないよねぇ、どう考えても……。
まぁ、出来立てのカップルがすることと言ったら、やっぱ、これ、なの、かなぁ?
現実が何かピンク色侵食されてるように思うんだが……気のせいかねぇ……気のせいだよね……。
……それにしても全く、私のアホみたいな中二病が、彼女たちと会えば酷く虚しい物に思えてくるから不思議だ。
「魅魔様はこれからどうするんだ? 私も流石にこんなかに入るのは嫌だぜ」
「ちょっとお散歩と洒落込もうかと」
「分かった」
私の言葉に表情を一切変えずに答える。
「魔理沙は、どうするんだい?」
聞いてから、一瞬心底不思議そうな顔をして、答えた。
「愚問という奴だな。私はどこまでもお供するぜ」
いつまで付いてくるつもりなのか、私が全く嫌と思ってないのも癪な話だ。このままだと、いつ弟子離れできるのやら。
「そうかい、じゃあ一緒に行こう」
外へ向けて歩き始める。足音が三歩遅れて付いてくるのが聞こえ、お前は良妻かと心のなかで突っ込む。
扉を開けるといつも通りに自然が散らばるキャンバス。夏だけに少し暑いが、これだけ緑があれば、きっと都会の連中よりはずっと楽であろう。魔理沙が口を開いた。
「なんか、悩み事でもあるのか?」
……隠すつもりも隠さないつもりも無かったが。やっぱり、その辺指摘されると恥ずかしくも嬉しいものらしい。かと言って全てを話すのも面倒くさいし無理がある。
適当に断片だけを切り取って話すことにした。
「知り合いからのお使いをこなしてたら、世界の秘密に迫ってた」
失敗した。
「なんだそりゃ。ポケモンか? ハリウッドか?」
要領を得なかったらしく安堵する。私は曖昧に笑って誤魔化した。
沈黙が通る。魔理沙は何かを考えるような表情をしている。
何を要求したわけでもない。だから、別に構わない。
などと考えていると、魔理沙がニヤリと笑みを作った。早歩きで進行方向に先回りし、白と黒で纏まったスカートをひらりと翻し、私に向き直る。
「石橋は、泳いで渡れ」
いきなり何の話だろう。
考える。……聞いたことのない言葉だ……小説か何かだろうか。それとも。
「私の座右の銘だ。自作だけどな」
「どういう意味だい?」
少し得意げに、少し照れくさそうに、彼女は話し続ける。
「橋があっても、泳ぐんだよ。自分でな。巫女は空を飛ぶし、妖怪は空間を橋渡す。横じゃ河童がすいすいと濁流の中を泳いでるし、ある奴はビート板と足ヒレを探しにいくらしくて、私もそれに誘われた。でも自分で泳ぐ。そんなんじゃどうせ誰にも追いつけないと笑う奴らはいっぱいいる。でも泳ぐんだ。そうしていればいつかきっと、奇跡が起きる。それがきっと、私の生きる意味だ」
胸を張って言える魔理沙がまぶしい。
きっと、彼女こそがもっとも人間らしい人間なのだろう……。
自分で泳ぐ。確かに、石橋を叩く必要なんてない。泳げばいいのだから。道はいつでもそこにあるのだ、誰もが目を逸らしている場所にこそ答えがある。王道しか行けない人間には、人の行けぬ道にこそ花が咲いていることがわからないんだ。
上があるなら目指すのが人間の本懐だ。それはきっとあるべき姿だ。現状に満足するのは人間じゃない。妖怪か何かだろう。
それでも、言うとやるとでは、きっと大違い。実践するのは、きっと難しい。
本心から言葉が漏れる。
「お前は強いねぇ」
「魅魔様の弟子だからな。一度危機を乗り越えたら、あとは突き進むだけだぜ」
へらへらと言い切る彼女は、私こそがその危機を起こしたと分かっているのだろうか。分かっているのだろう。分かっていて、なお、眩しいほどの笑顔を保てるのだろう。弟子に教わる師匠というものの存在が、やっと今、分かった。初めての情感だ。こんなにも、胸がほわほわと暖かくなるものだとはねぇ。
「なんでそれを私に話したんだい?」
「別に。あれこれアドバイス受けるわけにもいかないだろう、弟子から」
「くくくっ、十分すぎるよ」
「そうか? すまんな魅魔様。でも、これでも割と心配したんだ」
「いや、構わんさ。うむうむ」
魔理沙は、ここまで成長した。
「そろそろ行こうぜ」
おどけるように言う。私がまだ少し速すぎないか、と言う前に、付け加えた。
「調べ物があるんだろ。他所の研究室に」
少し考えてから私は頷き、歩き出す。二人一緒に、肩を並べて。
<○>
「いったーい! そこまでする?」
ここまでの流れは簡単だった。私が部屋に入り、不意を打って頭蓋骨を揺らし、雪崩込んできた魔理沙がマウントポジションで制圧する。助手は外に出ているらしい。ソファーに寝かせ手を縛り付け、魔理沙がその上を押しつぶすように体重をかけ、拷問開始。
「ほら、もっとサービスしろ。下着から外してやるぜ」
「ひんひんー」
目の前でわざとらしい悲鳴をあげる岡崎。魔理沙に言われるまで、こいつの存在を忘れていた。そもそも怪しすぎる。なんでこいつは平然と素晴らしき日々計画などと嘯いて、私を八雲紫の計画に巻き込んだんだ。
魔理沙がスカートの中のパンツをするするとおろしている。そして懐からナイフを取り出し、柄のほうを向けてスカートの中に……。
「待ちな、何やってんだいあんた」
何を考えてんだこいつは。手段が目的になり始めてるぞ。エロ漫画の不良かよ。
「へい」
と思いきや、あっさり諦めて短く返事を返す。まるで工事現場の若者のような返事だ。それを聞いた岡崎が小さく茶々を入れる。
「なんだかあんたらチンピラ盗賊団みたいですねぇ……」
「魅魔様と私は鉄の絆で結ばれているからな」
「紐で背中にくくりつけないとだねぇ」
「八卦炉でネメシスの代わりになるか?」
「シュプールってことで」
「私が主人公か」
「違うのかい?」
「いや。そうだな、その通りだぜ」
軽口の応酬。案の定岡崎は顔中にハテナマークを浮かべている。
こういう、どうでもいいような謎の言葉を話し続けて洗脳する拷問法もあるらしい。思考がまともにできなくなって、訊かれた通り全て情報を喋ってしまうのだとか。
いや、友人にそれをする気はない。本題に入ろう。彼女の頭の上から話しかける。
「八雲紫が何企んでるのか、分かってるんだろ? でないととんでもないことになる」
「ど、どうなるの……?」
「スカートを下ろす」
「やめてー! この中はダメー! アク禁だから、アク禁なっちゃうから!」
「なら答えろ」
魔理沙がちらちらとスカートを翻す。ちらっ。ちらちらっ。
「いや、そのぉ、実は、知らないのよねぇ……いやさ……いや待って! ごめんちゃんと話すー! 話すからスカートの中描写されちゃダメ! だからさ……『魔法を使えるようにしてやる』って言われて、そのぉ、上辺だけ紫の計画に乗ったというか……」
問いかける。
「どこまで知ってた?」
知っている量によっては、私が危険の渦中に放り込まれることになんて全く無関心だったということになる。
「いやまあその……実はある程度は知ってたというか……最終的にあんたがどうかなっちゃうという範囲までは知って……」
それを聞き、魔理沙がスカートで遊ぶのをやめて、岡崎を睨みつけ始める。ナイフをぐるぐると取り回す。
まあ、魔法を追い求めていた気持ちだけは分かる私は、なんとも言えなかった。でも、気持ち以前に、彼女の愚かさを確かめるくらいはしていいだろう。
「それを簡単に信じたのかい?」
「目の前で魔法じみたことされちゃって」
「どんな?」
「撫でただけでワインの瓶を切り裂いたりとか」
なんだそりゃ。胡散臭い。
「それだけで信じたのかい?」
「あとは、そのぉ……いろいろ、聞いたり」
いろいろという部分を区切って言う岡崎。ひょっとしたら、私が絵里子に聞いた事と繋がっているかもしれない。仮にここが願望の叶う作られた世界なのであれば、それを管理している人間がいるはず。それが、紫であったとしたら……?
「いろいろとは何だ」
魔理沙が怒張を孕んだ声で聞き咎める。本気で怒ってくれているのが分かり嬉しかったが、問い詰めてもどうせ答えやしないだろう。ものすごく紫にとって都合の良い世界のシステムの話を聞かされたら、間違いなく彼女に逆らうことはしないだろうから。
「ちゃんと証拠とかは見たのかい?」
「見たわよ。実証主義舐めんじゃないわ」
なんで偉そうなのかはともかく、こちらも最初っから聞く気がない。彼女はそりゃ他の誰よりも証拠を大事にするよねぇ。
「そんで、今から八雲紫のところに『カウンセラー』として『成果報告』に行く私に何か質問あるかい?」
わざとふた言に力を込めて言う。これくらいの皮肉は許されるだろう。
と思いきや、岡崎の眼の色が変わった。
「あのさあ、私が言うのもなんだけど」
「やめろ、ってかい?」
「まあその」
「お前舐めてるのか?」
傍から話を聞いている魔理沙の臨界点がすぐそこだ。
事情を知っている私がそれを軽く窘めて、岡崎に訊いてみる。
「なんで今更そんなことを言うんだい? 黙ってりゃ目的は果たせたじゃないか。エロシーンには、そりゃあ、なったかもだけど」
仮に彼女が魔法を追い求めているとしたら、ここがおかしくなる。このまま拷問に耐えて時間切れを待ち、ここに私を探しに来た八雲紫に救出されれば魔法が使えるようになったのに。
それはまさしく彼女の望みであるはずだ。そして大統一理論はめでたく崩壊する。
「あー、悪の女幹部が改心しかかってるってことじゃだめ?」
「ダメだ」
「私が処女だって言ったら?」
「割れたディスクが送り付けられなくて済むねぇ」
「この世界に非処女はいらない、それが百年の時を生きる私が出した答え……」
「お前を敗者にして欲しいらしいな?」
魔理沙がスカートをめくり上げる。殿方にとっては脱がすのはご法度らしいから、魔理沙の判断はきっと正しいのだろう。
「すいませんすいません、やめてー」
こいつの声は聞いていると気が抜けそうだ。
「世界の秘密を知って虚しくなっちゃったのよ、悪の女幹部は。それに、そもそも研究なんて外的要因で完成させようとするものじゃないわ」
気づくの遅ぇよ。とは言えなかった。
研究に行き詰まったら、きっと藁にも彼女は縋る。だからこそ今まで研究が成功してきたという一面もあるのだろうから。
「じゃあ、岡崎。……知る限りのこの世界の秘密と八雲紫の情報を教えな」
「はいはい、任せなさいっと」
そこまで言うと、あれ? と違和感を感じたように声を漏らした。
「全部、忘れちゃっ……ご、ごめんなさい、ひんひん」
言い切る前に魔理沙に睨まれて泣き声をあげる。
「忘れたって、本気で言ってるのかい?」
「本気と書いてマジと読む」
しばし考える。
三つの可能性が考えられる。彼女は私と敵対してて、それがゆえに情報を明かさないこと。彼女は私に友好的で、それがゆえに情報を明かさないこと。そして、本当に記憶の中にないということ。
どれだろうと面倒なことに変わりはない。目配せをして、言う。
「もうちょい厳しくして」
「わかったぜ」
魔理沙が体重をかけ腹を絞り上げ、首筋に手をかける。私は上から腕を使って関節を極める。
「私はほんとに知らない、の。だから、何をされても答えられない、からね」
関節の外れる音。脱臼。これ以上やったら二度と手が使えなくなる。
「じゃあ私は寝る、から、好きにしてくれて構わないわ。まあ、あんたにはそれくらいする権利が、痛た、あるから、ね」
そう言うと、岡崎は目を瞑る。
……これ以上やっても無駄だろうか。
私が腕を極めるのをやめると、魔理沙もそれを見てソファーから降りた。
「行くの?」
寝っ転がったまま岡崎が声をかけてくる。寝てろよ。
「ああ」
「この世界の倫理観には気づいてるわよね?」
「何がだい?」
「死が、すぐ横にある」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「今を楽しめ。何故ならお前らは明日滅亡してしまうかもしれないのだから。死がいつでも横にあるのだから。それを忘れるな。死を忘れるな」
メメント・モリの原義をつらつらと話し始める。魔理沙が何を言っているんだというような顔をした。
「確かにこっちのほうが原義からすれば正しいわよ。でも、私たちはこれを押し付けられている。誰もが自分のやりたいことしかやっていない。本来は、死とは恐ろしい物で、扱いきれないもののはずなのに、何故か、今を楽しめてしまう。不思議すぎるわ、皆もっと死を恐れ這いつくばっていてもいい。だから、要するに」
「八雲紫の最終目標が私の殺害である可能性があると?」
「そ」
少し話を先取って聞いてみると、そっけない返事が返ってくる。
私にとって殺害とは、絶対にやってはならないものだ。しかし、同族殺しは生物においては通常禁忌というわけではない。お腹が減れば食べる、その程度のものだ。人間だって同じだ。生物にとっての本物の禁忌は、繁殖螺旋の都合上にない自殺くらいだろう。
この世界においては人殺しが禁忌でないということだろうか。そして少し道を外れれば、いつでもそれが襲ってくる。
恐るべき死が幻想と化した世界の裏側は、逆に死を皆が受け入れているということなのだろうか。
「忠告どうも」
「またお酒でもやりたいわ」
「あんた、この状況でそれを言うんか」
「この状況だからよ」
……まったく、今更気ぃ使ってどうするんだか。岡崎の言葉を軽く流して、別れの挨拶をすませる。
「接骨院行っとけ」
「あんたが直せ」
「じゃあね」
「またね」
外への扉を開けようとする私に、魔理沙が聞く。
「どこへ行くんだ?」
「トイレ」
「……私に黙っていかないでくれよ」
「その『いく』はどっちなんだい?」
「私も分からん」
「なるほど」
ケラケラと笑う。とりあえず、研究室に戻ってマントを羽織ってこようと思った。
<●>
私の研究室は変わらない。二人が一つの椅子に座って寝ているところだけが、昨日までとの違いだろう。
起こさないようにそーっと、自分の席にあるマントを手元に手繰り寄せるように取る。
羽織るのは部屋の外でいい。そのまま扉を開けようとすると、がちゃりとした音がした。……しまった。
「んあ、魅魔……?」
チルノが起きたらしい。
「すまん、起こしちまったねぇ」
言うと、慌てて飛び起きて、彩を起こす。
「なんですかチルノさん……」
と言ったあとすぐに、私の姿を認めて、距離を取り、自分の席に戻って口笛を吹かす。
「なんだそりゃ。コントかい?」
「あのさー、そのー」
おずおずと尋ねてくるチルノ。
「あのぉ、私たちの声って、この部屋……」
いまさら気にすることなのかと驚き、少し可愛く思った。
「ばっちし聞こえてたから安心するといい。一応防音のおかげか、扉に耳付けないと聞こえなかったけどねぇ」
「うぉっ……」
彩が呻く声が聞こえる。
「んじゃあ、お幸せに。私はもうちょい外行ってくるから」
チルノが微かに眉をひそめながら見据えてくる。私はそれに気付かなかったふりをして、さっさと扉を開け放ち、外へ出た。
扉の向こうに微かに二人の声が聞こえたような気がした。今はそれで十分だった。
<○>
マントを無意味にはためかせる。翼のように見えてとてもカッコいい、はずだ。
キャンパスの間を練り歩き、学長室に通じる廊下の入り口に、私は立った。
今は黄昏時……逢魔が時。悪魔と楽しく会話してやろうかねぇ。
念じろ、強く。この先に私の居場所があるのだと。
扉を開ける。どこまでも広がっている暗黒の廊下が、今は私を祝福しているかのように見えた。
どこまでも通じる螺旋回廊へようこそ、と……。
二つの扉がある。はずが、一つの扉になっていた。不気味だ。
確かに不気味だが、どちらを開けるか迷うよりはよっぽどいい。
音を立てて扉を開ける。真っ暗だ……何も見えない。
いないわけが、ないはずなのに……二、三歩歩く。
すると、目の前に人影があった。
「いらっしゃい。そしてさようなら」
博麗霊夢だと気付いた。
そして認識した瞬間には既に態勢を崩され、崩れた態勢を戻そうという力を利用され地面に叩き伏せられた。
一発後頭部に衝撃が響き、意識がすうっと遠くなっていく。
<>
「紫。これでいいの?」
「ええ、大丈夫よ。そのまま抑えておいてね」
一言だけやりとりして、部屋の奥からつかつかと歩いてくる紫。
部屋の広さはそこそこあるらしい。おかしいな、もっと狭かったはずなのに。
私は腕を極めあげられながらうつ伏せに押し付けられ、何も抵抗することができない。
足音が頭上で途絶え、しゃがみ込む音の後、うなじにぴっと押し当てられるものが。
刃物ではない。
この微妙な温かみは、指だ。
「昔人間に言葉の扱い方を教えた時、彼らはそれを用いて団結し、天を目指した」
岡崎の話を思い出す。撫でただけでワインの瓶を切り裂いたのは誰だったか? 八雲紫だ。
「その中途半端な成果は、今も愚かな人間の挑戦の墓標としてどこかに残り続けている」
私は自分の愚かさを悔いた。
……せめてもう少しだけでも警戒しておけば、と。
「愚かな赤子に聖なる救いを」
指が一度離れ、それが私の首を撫で、私は……。
<◎>
「死んねぇええええ!」
声がした。
聞こえないはずの声だ。
鎌田チルノの、その声だ。
扉が開く音、その勢いで走ってくる足音。鈍い打撃音。うつ伏せで見えないが、膝蹴りでも決めたのだろうか。
霊夢の軽い舌打ちが頭上から聞こえる。両腕を使った抑えこみが、少し弱まる。
がさごそと自分の衣類を漁る音。刃物でも取り出そうとしているのだろうか。
懸命に藻掻くが、さっきの打撃のせいで思うように身体が動いてくれない……。
くっ、がさごそとした音が途絶えた。今度こそ、冷たい刃物の感触が首筋に当たる。
万事休すか。
「お前の相手は私だぜ」
肌を切り裂く音。私の上から飛び退く体重。
顔を上げれば、霞んだ視界の向こうで、私の愛弟子が血の付いたナイフを構えていた。
こいつらは……。
全く……。
紫と対峙しているチルノが、人ほどの大きさがある窓とカーテンを一気に開け、部屋を夕日の紅で染める。
そして手に持っているトートバッグから発煙筒を取り出し、点火した。
「なんのつもり? どう足掻いても助けは来ないわよ」
紫の問いにチルノは、「どうだ明るくなったろう」とおどけた調子で答えた。
「答えるつもりはないらしいわ」
言って霊夢が構える。体は自然体。左手は開いたまま腰に当て、右手は薬指と小指を折り畳み前に突き出す。
左利きの人間の構えだ。しかし手の形は見たことがない。どういう武術だろうか。……さっきの鮮やかな投げから大体予測は付くが。
「そのようね」
答える紫の構えは単純だった。手は二本とも手刀。
こちらは自然体というより、ただの棒立ちだ。
「ふぅ、久しぶりだからゆかりん緊張してるわ」
とは言いながらも声に震えがない。
まるで毎日の買出しに行く大学生のような緊張感の無さだ。
一方チルノは、それを睨みつけるだけで何も構えようとはしない。いや、トートバッグの中から何かを取り出した。白い球体だ。
魔理沙はポケットから何かを取り出し、左手に持ち直した。特に構えるようなことはしない。
よく見ればそれは平べったい六角柱のようだ。なんだろうか、見たことがない形だ。
しばらくの沈黙、均衡。
それを最初に破ったのは紫の手刀だった。
風を切り裂く音が、ここにまで届く。チルノのワンピースの一片が、ひらひらと地面に舞い降りた。
切断した。それも、直接触るわけでもなく。手刀で。
「何も知らない妖精風情が」
紫が表情を変えずに呟いた。その表情は、見るだけでゾッとするほど冷たかった。
しかし、チルノは全く恐怖を感じていない。
それどころか、空間をしばらく睨んだあと、まるで子供が悪戯を思いついたときのように笑い出す。
「何がおかしい?」
相変わらず表情を変えない紫に言い放つ。
「ただの鎌鼬でしょ? これ」
いつもの得意げな笑みで、持っている球を掴み直す。
確かに、言われてみれば、物理的に解釈できない現象ではない。ただ物凄い力を込めて空を切断しただけだ。そうすれば衝撃波が気圧差を産み出して、そのまま離れた場所の物体を切断できる。ごくごく、簡単な話だった。
少なくとも、チルノにとっては。
「これは、境界を切り裂く力よ。鎌鼬なんかじゃ」
「鎌鼬」
「だから何も判らない妖精風情なのよ」
無知を笑われて、怒るどころかさらに腹を抱えて笑ってみせる。
「よく判らないことを言って判ったフリしてるだけでしょ?」
手元の球を紫に叩きつける。紫はそれを避けるが、球は地面に当たり破裂する。すると、一瞬にして部屋の温度が氷点下まで引き下がったような気がした。
「完成したよ。第二種永久機関」
トートバッグの中から球をもう一つ取り出し、ニヤリと笑う。
「のその先。一瞬だけなら熱効率312.4をも叩き出すアイシクルボム。それがこれ。もっとも、発電量は微弱すぎるから、エネルギーを出す従来通りの爆弾としては使えないね」
「それが?」
紫の声に、爆弾を投擲しながら答える。
「こういうこと!」
その爆弾は空中で音もなく破裂した。また部屋の気温が下がったような気がする。
もっとも近い場所にあった紫の腕をよく見れば、キラキラと光っている。
凍結したのだ。この一瞬で、人体が。
「生物分野は全く知らないけど、いくらなんでも凍りつけば腕は動かないでしょ? 動かなければ鎌鼬も出せない」
得意げに鼻を鳴らすチルノ。確かに人体の組織が凍れば、二度と復帰はありえないだろう。ありえないはずだ。
敵の武器は、無力化された、はずだ。
だが、紫は醒めた目で自分の手を見下ろすと、それを部屋の物に思い切り叩きつける。
「あんた何やってんの?」
声には答えず、手を数回握り、動くのを確かめてからもう一度構えた。
「もう一度言うわ。だから何も判らない妖精風情なのよ」
チルノは依然笑みを崩さない。まるで、何か切り札があるかのように。
「それなら何度でも凍らせてやるだけよ!」
適当に、投げ捨てるように爆弾を投げていく。その度に鎌鼬に撃ちぬかれ、誰にも影響を及ばさない位置で破裂する。部屋の気温は下がっていくが、すぐに夏の風が外から入り込んでくるだろう。状況は変わらない。依然不利なまま。
手刀を翻すだけで離れた物を切断できるのなら、それは間合いの見えない刀を持っているようなもの、圧倒的不利だ。長物でも持たなければ対抗はできないだろうが、その長物でも彼女の間合いの外で戦えるかどうか判らないのだからたまらない。
だというのに、チルノは笑った。
私を守るようにある彼女の背中に、凍りついた妖精の翼を確かに見た。
「なんか勘違いしてない、あんた」
指を突きつけて、言った。
「あたいは最強の妖精のチルノ様だよ? 妖精以外の何者でもないし、それ以下ではなくそれ以上はない」
「もう御託は良いわ」
紫が手を構える。トドメを刺す気らしい。
チルノがぷうっと頬を膨らませた。名乗り口上を邪魔されて拗ねているらしい。
「だから言ってるでしょ?」
一瞬が切り取られたかのように須臾となる。
「あたい達は幻想郷最強だって」
紫が顔面を蹴られ吹き飛んで、その先のコンクリートの壁を貫通した。ガラスの割れる音、そして壁が爆砕する音。窓の周りの壁と、吹き飛ばされていった先にある壁の音だ。遅れて風が部屋の中に吹き込む。運動エネルギーがそのまま紫に転化したらしく、蹴った主が涼しい顔でぱたぱたと紅葉型の団扇を仰いでいる。タバコを取り出して火を付けるが、しかし横から伸びてきた手にタバコを取られてしまった。
「禁止だって」
「勘弁してくださいよチルノさん、私これないと」
「キスが不味くなるからって言ってるじゃん」
「うう……確かにキスもしたい。けれど煙草はとてもおいしいのです」
「私と煙草、どっちが大事なの?」
ぐっと言葉に詰まる彩に怒りの声を上げる。
「そこで一瞬でも黙るのはありえない! もう彩嫌い!」
「ごめんなさいごめんなさい、チルノさん大好きです愛してます!」
「じゃあ、ちゅーして、ちゅー」
「……はい」
目の前で恋愛ドラマを繰り広げている彩が、どうやら紫を蹴り飛ばしたらしい。
パラパラとコンクリート片が落ちる音には目もくれず、お互いの口腔を貪り合っている。
彩の背中には鴉のような翼が生えている。それを使って音速を超えて飛行して来たと考えれば辻褄は合うが、何から何まで不思議な事だらけだった。
少しして先に離したのはチルノの方だ。
「トドメを刺しに行こう」
言って、窓と反対側に出来た穴の中へ入ってゆく。からん、からんという足音。彩の高下駄が立てる音らしいが、まるで御伽話の天狗だった。
歩きながらなされる二人の会話が微かに聞こえる。
「それにしても、その下駄すんげぇ。ほんとに人体が音速超えて飛行できるとは思わなかった」
「私もまだ半信半疑という体たらくですが……一応、白河家の家宝ですから。翼が生える天狗高下駄」
「いや……いやもう何も言わん。物理学者としては、不思議が増えて面白い」
「確かに昔はよくこの翼で遊んだものでしたが……子供の思い出の中だけの物と思ってたんですけどねぇ……」
二人は寄り添い合いながら壁の向こうへと消えた。
……こっちは、きっともう大丈夫だ。紫という脅威は排除された。
魔理沙は。認識を霊夢と魔理沙のほうに向ける。
息一つ切らしていない霊夢に、満身創痍と言った魔理沙。
しかし、霊夢の服はボロボロで生傷が絶えず、致命傷まであと一歩に迫り続けているように見える。もちろん、そのあと一歩で留める防御の硬さも彼女に由来するものなのだろうが。
「一つ聞いていい?」
表情一つ変えない問いに、魔理沙が大きく息をついて、自らの疲労を取り繕いながら返した。
「……なんだ?」
「なんであんたは私に触れられるの?」
「何言ってんだお前?」
質問の意図が判らないというふうに答えを返す。霊夢は付け加えた。
「何故その筒だと私を殴れるの? というか、それは何? さっき光ったのが見えたんだけど、閃光手榴弾?」
「なんだ、そんなことか」
これだけのやりとりで判ったらしく、答える。
「魔法だ」
「あんたのナイフ裁きがそこそこ上手くて、私に通用するレベルだったから夢想天生を発動した。そうすればナイフは服を切り裂くだけになった。そこまではいい」
苛立を押えきれない顔で、髪の毛のリボンを締め直す。
「何故その筒だけは私に干渉できるの?」
「魔法だからだ」
「答えになってない!」
壁を殴り、霊夢が苛立ちを露にする。魔理沙はそれを見て哄笑した。
「お前らしくないぞ? 答えは一つ、魔法だからだよ。魔法とは本来語り得ぬものだ。確かにお前は最強だ。そして無敵だ。だがそれは語られる範囲での最強無敵に過ぎない。例えば、お前の浮遊能力はそれまでに出てきた物しか無効化できないという仮定の上で論じられる世界がある。永夜異変の時に能力を解説されたから、永夜異変以前の能力しか無効化できないっつーわけだ。語りえない世界というものの定義は私たちには無理だ」
魔理沙の口が饒舌に語る。ナイフを小気味よい音を立て折り畳み、ポケットに入れる。右手に魔法の筒を持ち直す。
「お前に主人公として欠陥があるというのは分かるか?」
「……どういうこと?」
感情が押さえつけられた霊夢の問い。それに答えるべく、静かな部屋に魔理沙の声だけが響く。
「主人公というのは、本来感情移入する対象でなくちゃいけないんだよ。感情移入できなきゃ主人公ではない。そして感情移入できなきゃ物語において正義となることもない。お前のあり方は英雄だ。絶大な力を持ち、それを行使する英雄。悪役のほうがよっぽどピッタリなんだよ」
「だから?」
「世界がお前に味方することはないぜ、偽物の主人公。私が本物の主人公だ」
六角柱を構える。バチバチと紫電が鳴り響く。
「この武器は私にはよく判らない。チルノのそれみたいに複雑な研究を積み重ねてできたものじゃないからな。だが私が発動すればお前は消し飛ぶ。消えてなくなるんだ、その莫大な熱量でお前の死体ごと。そう決まってる。試してみるか?」
「なら何故今すぐにでもそれをしないの?」
「私はこの時だけを待って生きてきたからだ。お前の埋もれる日常を見初めた運命の日から、お前を越えるために毎日を過ごし、魅魔様に弟子入りして、魔法を鍛えて、ようやく並べる、同じ事をやれる存在になれたと思っても、まだ強さの桁が違いすぎる。ずっとそんな日々を暮らしてきた。数百年の努力の結晶くらい、じっくりと味わいたいもんだぜ」
だが、魔理沙の長広舌に霊夢はそっけなく相槌を打った。ただそれだけだった。
「あんたの話が正しいとして」
「なんだ?」
「あんたは偽物の英雄ね」
「なんだと?」
「あんたには力がない。まだ私には届かない。私が偽物の主人公なら、お前は偽物の英雄よ」
ほどいたリボンを打ち捨てる。
「今度は私から攻めるわよ。防戦一方はそろそろ飽きたからね」
「構わんさ、ただし動いた瞬間私は」
言い切る前に、一瞬で間合いを詰め身体を掴まれる。魔理沙は反射的に「魔法」を発動したが、霊夢が手首を掴み山一つなぎ払えそうな熱量を窓の外に放射させた。
「勘違いしてたらしいわね。夢想天生は防御に使うだけじゃないの。……意味分かるかしら? あんたは四十キロの重りを背負って私と対峙してるのよ」
言葉と共に頭からたたき落とされ、一つだけ呻いて動かなくなる魔理沙に、静かに赤子を寝かしつけるかのように語りかける。
「まあ、一瞬でも私を圧倒したのは凄いと思うわ」
愛しげににこやかに笑いながら
「だから、おやすみ、魔理沙」
とだけ言って、両腕を交差させ首に体重をかけた。がくんと魔理沙の力が抜けて、それっきり静寂が辺りを包む。
しばらくすると、かつかつという足音が一つ聞こえてくる。
「あ、終わった?」
霊夢がそっちに声をかける。
「ええ、ごめんなさいね霊夢」
吹き飛ばされたはずの紫の姿だった。
二人の姿は、ない。
「全く、よく考えたらこいつらが能力使えるってことはリミッター外してるってことだったのよ。私としたことが、ものすごく大ポカでしたわ。たわたわ」
「ああ、そっか。そういや紫リミッターの影響受けるんだっけ」
私は慎重に会話の内容を盗み聞き、状況を整理する。リミッターとは、何のことだろうか。
話を聞くに、世界全体に共通的に適用される、なんらかの封印だろうか。……何の?
チルノの氷結や彩の黒い翼、魔理沙の魔法と言った能力のか。ならば紫もそれを持っていて、それを使って強制的に二人を殺したのだろうか? 霊夢の能力は、さっき言っていた『夢想天生』というのでいいのだろうか? もしこの仮定が正しければ、先に紫を戦闘不能にするべきだ。強制殺害と完全無敵なら完全無敵の方を取る。……魔理沙の持っている筒が、私にも扱えるといいんだけれど。
私は身体が動くようになっているのを確認し、静かに、本当に静かに、二人の認識の外において動き始める。
気配を殺す歩き方、どこかで教わったような気がするそれを、慎重に実行していく。
「というわけで、あとは魅園を殺すだけですわ。生死境界操作で確実に仕留めてしまいます」
上機嫌なその横面に、少し離れた間合いから狙いをつける。
幸運なことに、ほどほどの薄暗さがカモフラージュになってくれたらしく、二人共気づいていない。
ああ……外を見て気付いた。黄昏時はもう終わり、夜が始まるのだ。
「ええ、そうね。紫よろ、右!」
反応して振り向く前に、渾身の力で右ストレートを叩き込む。惑星すら破壊する拳が、顎に綺麗に入った。軽く吹き飛んで、ぴくりとも動かない。近寄って見てみると、完全に意識を失っていた。しばらくは目を覚まさないだろう。
気分は上々、さっき食らった当身の影響はどこにもない。
魔理沙の手から筒を取り上げ、霊夢に突きつけると、ようやく俯いていた霊夢が言葉を発した。
「あんたじゃそれを扱えないわよ」
「ならどうしろってんだい? あんたは無敵なんだろ?」
「あんたのパンチなら効くんじゃない?」
「そんな肉体言語しか使えないドキュンみたいなご覧の有様したくないよ」
「いろいろ間違ってるわよ、はぁ」
呆れたようなため息をひとつつき、さっきと同じく、手を開いて構える。
「まあ、最初っから私一人でいくべきだったわね……確かに確かに」
「やるしかないんかねぇ、私は戦闘なんて嫌いなのに」
「じゃあやめれば?」
「戦闘よりは屠殺が好きかねぇ」
「豚は屠殺場へ行け」
「まあ私は殺しはしないから、安心おし。殺す以外の全てはするけど」
「あら、怖いわね……私はあんたを赤子の手を捻るように殺せるというのに」
「その赤子は握力数万キロ、星も壊せるよ」
「ふふん、私は星も投げれるけどね」
堂々巡りの会話に決着を付けるべく、霊夢がすう、と息を吸い込んでから言う。
「殺してあげるわ、生まれ落ちた子よ!」
その凛とした声に答えて私も叫ぶ。
「いつかの復讐といこうか! 博麗の巫女!」
叫び、二本の拳を纏めて顔の前で構える。
すると霊夢が一瞬で間合いをゼロに詰め、服を絡めとるように崩しに来る。なるほど、魔理沙が対応できないわけだ。そして私も対応できない。だがそれで何も問題はない。
完全に崩れた態勢から殴りつけると、手応えこそ少ないものの、しっかり殴れているようだった。どこを殴れたかは判らない。腕だろうか。反応された事が想定外だったらしく、間合いが離れる。これが狙いだ。……ちょっと甘えすぎたろうか?
「う……」
霊夢が腕を摩りながら呻いている。そっちばかりに攻めさせてたまるか。今度はこっちから攻める。ボクシングのフットワークから、ワンツーとパンチを入れていく。
「防御は、私の、十八番」
初手は躱され、二撃目は綺麗に絡め取られ地面にたたきつけられる。一瞬で無理に脱臼させ頭蓋を守り、また力づくで関節を戻し、もう一発殴る。
「化物みたいな関節ね……軟体動物?」
霊夢はあっさり私の腕を放棄し、ふわりと後ろに飛びそれを回避した。
「この世界は死後の世界、物語の中から創りだされた、物語を総括し得る物語」
<○>
一瞬誰が声を出したのか判らなかった。それほどまでに唐突で荘厳だった。
創世記を語る神父のように、厳かに霊夢が呟いている。
……何を呟いている? わからない。でも、一刻も早く黙らせないといけないような気がした。素手でやるには時間がかかりすぎる。どうすればいい?
私は壁に立てかけてあった長物に気づき、それを取る。先端が三日月のような意匠になっている、鉾、だろうか。この部屋は振り回すのに十分な広さ、きっととてつもないアドバンテージになるだろう。
「私たちは、ずっと、この世界で、幸せな素晴らしき日々を創っていくはずだった。誰もの願望が平等に叶う世界に、素晴らしき日々以外はありえない」
<◎>
無表情に語り続ける霊夢が何故か無性に腹立たしい。大きく振り回してその首を狩ろうとすると、身長ほど跳躍して柄の内側に潜り込んでくる。この位置だとこの鉾ではダメージを与えられない、掴まれて奪い取られるか鉾ごと投げ飛ばされるかだ。一瞬鉾で無理になぎ払おうとするフェイントをかけて、飛び蹴りで蹴り飛ばす。……足を取られた!? その勢いのまま、壁に打ち付けられるが、鉾をつっかえて、何とか頭を守る。
こいつは長物を持った程度じゃ簡単に勝たせてはくれないらしい。
「そこに割り込んできたのが魅園魔友。あなたは邪魔者なの」
いちいち声が耳に障る。黙らせるべくもう一発仕掛けにいくが、涼しい顔で間合いを取られる。
「これを聞いてて……あなたの中に確信のようなものが芽生えたはず。あなたが上位存在……このふわふわとした夢の世界にとっての現実世界の住人であることの確信が……」
<(・)>
鉾が風を切る音で彼女の声を打ち消すかのように、私はぶおんぶおんと空気をかき乱す。霊夢はそれら全てを身体を捻り後ろに下がるだけでかわしていく。
「だからほら、私を圧倒する、この私の夢想天生を容易に破る。魔理沙は貴方が及ぼした影響で成長し、一時的とはいえ夢想天生を乗り越える。彩とチルノは紫と互角に戦う。文字と物理が、現実と戦う唯一の壁となる……判らないかな? あなたは変わらないはずのこの世界において唯一の存在なの。それは決して良いことのはずがなく、むしろ逆なの」
霊夢の後ろは壁だ。これ以上後ろはない。殺せる。いや違う、殺すんじゃない、無力化するだけで、違う!
「邪魔者、死ね」
<(◎)>
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ赤に染まった。その赤はやがて突き抜ける白となって、どこかに抜けていった。
気づけば目の前には霊夢がいて、その後ろには軽いクレーターができていた。
「う、ぐぐ」
私は殴ったらしい。その衝撃が後ろのコンクリートに通じて、クレーターができた。ただそれだけの話らしい。
霊夢は壁によりかかりながらずるずると崩れ落ちていく。
魔理沙のナイフがあったはずだ。懐から拝借する。
「殺しなさいよ」
霊夢が涼し気な顔をしながら自分を殺せと命令する。
「殺すんでしょ? あたしを、殺すんでしょ?」
その言葉を打ち切るようにして言う。最期に聞いておきたいことがある。
「教えて欲しいんだが……」
返事が返って来ない。良いという意味だと勝手に判断して、続ける。
「なんで私を、生まれ落ちたその瞬間に殺さなかったんだい……?」
謎だった。
謎すぎた。
私を殺す、までならいい。人が人を殺したくなるなんていくらでもあるだろう。ましてや倫理観が崩壊した世界なら。
それならなおさら、わざわざお使いを頼んだあと学園長室に私を呼び寄せるなんて周りくどいことをせず、私の寝込みを襲うなりして、さっさと殺してしまえばよかったのだ。
「あんたらに言いつけられたお使いも……リミッターがうんたらとか言ってたあんたらなら、自由にいじれるようなことばっかりなんだろう……?」
多分、世界の管理者権……とかそんなん。
それを使えば、一瞬で……そうだ、私を一瞬でそれを使って消し飛ばせばよかったじゃないか。
しかし霊夢はこの問いに、答えなかった。
代わりに、静かに、歌うように、何かを呟いた。
「紫……言ってたわ……」
「何を……?」
「泣いてる……」
夏の夜の、涼しい風が部屋に入り込んでくる。
彼女の言葉を一言一句漏らさないように受け止める。泣いてる……?
「泣いてる赤ん坊の、その泣き声を止められなかった……」
何だ?
何の話をしている?
「生まれついた赤ん坊は、全力で泣いていた……なんで俺を生んだんだ……あるいはなんで私を生んだんだ……生んだら……死ななきゃいけないじゃないか……お前らは……私を生んだと同時に殺したんだ……死が怖くなる前に……早く殺してくれって……」
ならば……殺してしまえば良かったじゃないか。
「でも紫は……いや、私もか……私も……そいつを殺せなかった……殺そうと、首を絞めようと手を出すんだけど、殺せなくて……いつしか自分の無力さに、泣き出しちゃってて……変よね……私、もうわんわん泣くような年じゃないもの……でも……申し訳なくて、本当に申し訳なくて……」
夜の向日葵を幻想する。それはきっと、死者への手向け。この世ならざるものへのプレゼントだ。
だって、あんなにもグロテスクな風貌でありながら、あんなにも優しそうなのだ、向日葵は。きっと、優しい物のはずだ。
「そんで一緒にしばらく泣いてるとね……なんだか、赤ん坊の泣き声が……普通に、生まれたことを喜ぶような泣き声に変わるの……それを聞いてね、少しでも喜んでくれる可能性があるだけで、殺さなくて良かったのかもしれない……いや……殺さなくて良かった……生まれてくれてありがとう……なんて……これこそが、全ての生につきまとう呪い、そして祝福なんだって……そんな予感が芽生えるの」
呪われた生と祝福された生。
この二つは表裏一体で、誰もが赤子を呪い祝う。
人の地獄への道は確かにこの善意で出来ているけれど、それは間違いなく希望と呼ばれるものだ。
だってこの善意がなければ、人の天を目指す自我など生まれない。
「だから私たちは、貴方を殺さなかった」
くっくっく、私は笑う。
目の前の少女が酷く愛しく思える。
「あたしゃあ……お前のことが……好きだったんだがねぇ……」
嫌いになっちまったよ、最期にこんな言葉を聞かされて。私は、悪役が最後に良い人だったオチは気に食わないんだよ。
しかも、私は酷くご都合主義だ。「本来こうあるべき」というのを、誰にでも押し付ける。くくく、また笑う。
この瞬間で、ようやく彼女と私がすれ違う。
どこか遠い海の船を幻視する。もう彼女と会うことはない。
ナイフの刃の先を見つめてみる。
「あんた、何を考えてんの?」
霊夢が立ち上がろうとするがもう遅い。それに、ふらふらして満足に動けないだろう。
「次は、遺書を」
私の力なら、普通の人間では不可能なナイフ自殺が、不可能ではない。
「読んで欲しい、かねぇ」
心臓に突き刺す。ちょうど心臓のはずだ。間違っていたら困る。肺に穴が開くとだと苦しみで死にそうだからだ。血流が音を立てて流れ落ちていくこの死に方なら、きっと、寒さに耐えるだけで死ねるはずだ。
「え? 何? ホントにそう死ぬの? 無いでしょ? それは無いでしょ? ちょっと魅魔?」
超然たる博麗の巫女も、死の前では流石に狼狽えるらしい……。
ナイフを間抜けな音とともに引きぬく。あー……冷たいねぇ……。
それとも、私だから狼狽えてくれているのかな……それなら嬉しい……かな。
と思いきや、大きく息を吐き出して、腰に手を当てる霊夢。
ああ、いつものこいつに、戻った。
「私が看取っててあげる。だから、いきなさい。我らが素晴らしき日々に生まれ落ちた赤子よ」
遠くなる意識で、微かに笑う。紅い霧が立ち込めるあの日の事を思い出す。私が幻想郷において死んだあの日を。
「くくく、博麗風情が……偉そうな口を……」
確か、こうだっただろうか。私が私である際に、言わなければならないことがあったはずだ。
「今度はまたね、じゃないんだけど……」
違う、そうじゃなくて、そうではなくて……。
昔の事なんて思い出せないけど、言わなきゃいけないことがあって……それは迷惑かけた悪いとかでも何でもなくて……。
「ああ……そうだ……」
霊夢がなぁに、と優しく問いかける。まさしく泣いてる赤ん坊をあやす母親のようで、神々しい……。
視界が完全に暗転する。もう言葉を発せるかも判らない……。
けれど、言わなくちゃ。
せめて、これだけは言わせてください。誰かに祈る。
「ありがとう……」
お母さん……
最後の言葉が届いたか解らないままに、私の意識は消えた。
それでいい。
世界のあるべき姿として、夢とは、いつか覚めるものなのだから。
<●>魅園魔友教授の「素晴らしき日々Ⅱ」<●>
完
<( )>プロローグ・素晴らしき日々考<( )>
周りには、何も無い。
ただ白い空白の、虫食い穴のような世界に私はいた。
ここは……どこだろう。
確か、私、自殺して、それで、意識が消えて……今、ここに……。
流行りの臨死体験というやつだろうか……。でも、その割には、やたら意識がはっきりしてるんだけど……。
ああいうのは夢みたいなもんで、霞んだ意識で微かに感じるものだと思っていたが。
五感を集中する。知らない場所に放り込まれたら、まずは周りの状況を知らないと。
匂いは何もしない。空気の匂いすらない、完全な無臭だった。なんだこれは。
耳を澄ませる。耳を澄ませても、何も聞こえない、何も……?
いや。
何かが、聞こえた。
「くす……」
かすかな、ほんのかすかな笑い声、しかし私を慄かせる声……。
なんで、死んだ先の場所にいる人間が、笑う?
というか、あんた、誰?
「くすくすくす、私は……って、ちょっと名乗ることはできなさそうね……諸事情でね……」
ナチュラルにテレパシー受け取って会話しないで欲しい。誤植と思われても仕方ないぞこのアホ。
「くすくす……魅園さん面白い……その状況で悪態つけるんだ……」
その言葉に違和感を持ち、自分の体を見てみると、衣服を一つもつけてなかった。
……いや、丁寧にサイハイソックスをひとつだけ。
「人は死ぬときは素っ裸……それでも……矜持だけは捨てない……くすくす、流石魅園さん、本質は実に手を出した彼でありながら、それを見据える彼としての要素も少なからず受け継いでる……」
御託はいいからここはどこか教えてくれ、それと服をよこせ。
「周りを見て分らない……?」
分かるか、真っ白だぞ。
「ここは、ひまわり畑……向日葵の坂道……どこまでも続く……素晴らしき日々への道……」
そう言われた瞬間に、まるでトンネルを抜けた時のように顕現し蠢く、ひまわり畑。
見渡すかぎり地平線の果てまで向日葵が続く。それはまるで、私に手向けられたよう。
その合間の小さなあぜ道に私は立っている。真後ろには、ひまわりが続く小高い丘。
さあーっとした涼風が、空気を撫でる。土の地面がやわらかく私の足の裏を包む。
今いるここは、あの丘の向こうまで繋がっていくあぜ道らしい。
見上げると、どこまでも続く空。太陽に照らされた白色のにじみが、青をさらに引き立てている。
これは、臨死体験、なのだろうか。とある実験で、大体の人間が、死ぬ前に臨死体験を得る事が立証されたと聞いたが、私もその例に漏れなかったということだろうか。
それとも……。
このちっぽけなあぜ道こそが、私の進むべき道なのか。
「あんた……何者?」
その言葉に、さもおかしそうな笑い声をもう一度立ててから話しだす、目の前の少女。
少女であるとは思う。
けれど、像がぼやけ、瞳が認識を拒む。ただの黒い影のように見える。ネクストコナンズヒント……?
「私が誰であるかに意味はない……別に、八雲紫だろうが、風見幽香だろうが、パチュリー・ノーレッジだろうが、あるいは魅魔だろうが……好き勝手にあなたが解釈すればいい。違う?」
全く言っている意味は分からなかったが、ひとつだけ、私と会話する気が無いということが分かった。
一瞬で間合いを詰め、殴りかかる。
なんだかよく分からないが、とりあえず殴ってみれば分かるだろう。
「くすくすけんかっぱやい……まるで少年漫画の主人公みたい……」
少女が目を見開き瞳に紫を宿したかと思うと、次の瞬間腹部にあまり強くない、しかし私を怯ませるのに充分な衝撃、次は顎に強大な衝撃があり、私は後方にすっとんでいた。脳がぐらぐらと揺れる。気絶しなかったのは奇跡といっていいのだろうか。
「でも、相手は選んだほうがいいと思う……くすくす……次はそれだけじゃすまさない……」
なんだこの強さ……。確実に人間じゃないとは思う。かといって、ただ怖がられるだけの妖怪とも違う。なんだか鏡を見た時のような気持ち悪さが、この少女にはつきまとっている。
「はい、これ……服……」
とことこと歩いてきた彼女に服を渡されて、土をぱっぱと払いながら手早く服を身につける。最後にマントを背中にはためかせて、私の完成。
「良く解らんが……私になんか用事か何かか?」
「素晴らしき日々を……探すため……」
彼女から出てきた単語に驚く。その単語は、私の研究室の人間と、八雲紫と、岡崎由芽美と、あとあの助手くらいしか知らないはずだ。
「歩み続けるのでしょう……?」
本当に何者なのだろうか。その言葉を飲み込みながら、会話を続ける。
「ああ。だからあの世界から飛び出してきた。私は最現実に至るんだ……それ以上上の無い現実、ただ作られた物語ではなく、物語を作る世界に……」
「私は有り体に言えば、それを手助けしに来た……」
「手助け?」
「そう。優しい……私すごく優しい……ツンの無いツンデレであることで有名……くすくす……」
なんだそりゃ。ツンデレじゃないじゃん。
「私の背後……ちっぽけな共同幻想としての大学には、素晴らしき日々が広がっている……それはとてつもなく素晴らしき日々……そこに浸れば、この世全ての安寧を約束され……羊水の中で見る夢のような快楽を得続けることができる……あなたはあなたが生まれる前から存在していた博麗麻友として……今度は完全にあの世の人間として……あそこに戻ることもできる……」
本当に何者なんだろうか、この少女は。まるで全てを分りつくしているかのようだ。
「けれど……それはまがい物……まがい物でしかない……胎児の夢は……どれだけ凄かろうと……何億年の記憶であろうと……それは夢でしかない……あの世界も同じ……素晴らしき日々でありて素晴らしき日々でない……素晴らしき日々Ⅱとでも言おうか……まあ逆に言えば……紛い物ではあれ素晴らしき日々でもあることは確かなのだけれど……」
胎児の夢……赤ん坊が子宮の中で追いかける、遺伝子に記憶された進化の系譜、それが示す数億年の記憶。
あの世界はそういう物なのだろうか。
「ちょっと違う……でもまぁそれは良い……あの世界が彼女たちの願望によってできていることは明白……だからこそ、中学校でも小学校でもなく、大学という形を取った……少女たちの願望は多様で、奥行きがあるから……」
そして願望でできた紛い物の世界だから、私や貴方のような上位存在の干渉を受けやすい、と。
「くすくす、魅園さん物分りいい……同じはずの彼とは大違い……」
誰だよ、それ。
「あなたの背後……向日葵の小高き丘には、醜い日々が広がっている……最現実、その真なる世界に至るまでは……つらく……悲しい……存在自体があやふやな存在にとって、最現実を獲得するというのは最早不可能に近い……貴方の名前は、とあるライトノベルから出来ている……素晴らしき日々を探すという概念は……とあるアダルトゲームから……貴方のアイデンティティは……とある同人ゲームから……だから、あなたが現実を獲得するのは……絶対無理……と言っても悪くは無いと思う……」
そこまで言い切ると、彼女はさっきの見開いた目で私を見つめ、問いを投げかけてきた。
「ここは境界……貴方の選択で、世界は変わる……。紛い物の素晴らしき日々。最現実に至るための最低の日々。貴方が今いるここは……どこ……?」
しばらくの沈黙。
眉一つ動かさない彼女に向けて、私は、ふっと息を吐き出した。
応えるまでもない。
私は自らの背後に向かって歩きだす。
「良い答え……」
彼女の表情は見えないけれど、きっと、皮肉げな、それでいて自らの子供を見つめるような、そういう暖かい表情をしているのだろう。
「先に進んでいけば……いつか私ですらいけない地点に達せるかもしれないと思う……それでも、貴方なら、きっと大丈夫……」
なんだか、母親に抱きとめられているような感覚が、彼女の視線に感じられる。彼女は私の母親であるとでも言うのだろうか。
いや、彼女は……私自身と同一にして同一でない……母親よりも母親らしい存在であるような……そんな気が……。
「今を捨てない少女は……そして素晴らしき日々を手に入れるから……」
私はその暖かい視線を受けながら……ただひたすら。
向日葵の坂道の、その先へ向けて……歩いて……ただひたすら歩いて……。
いろんな世界をこの眼で見つめて……より高みを目指すための方法を探して……。
そしてまた歩いて……こんな爽やかな向日葵畑とか、地獄のように紅い十字路とか、雨の降り注ぐ電車の中とか、街を覆い尽くす青い空とか、きらきらとした学校の廊下とか、0と1に還元される電子の通路とか、無限の広さを持つ海に浮かぶちっぽけな豪華客船とか、はたまた存在しえない場所とか。
歩いて……歩いて……。
疲れても歩いて……倒れても歩いて……頑張って……歩き続けて……。
幸福に生きることなんて考えず……さらに先を追い求め……追い求め続けて……
それを見つけるまでまでは幸福に生きる必要なんてないと……やっと分かったから。
私は最現実に至る。
そこはこれ以上「上」がない世界だ。
そうしたら、
やがていつか、きみにあえるだろうか。
魅園魔友の「素晴らしき日々」 完
博麗霊夢の「素晴らしき日々Ⅱ」(エピローグ)
「よう、霊夢、修行付き合ってくれよ」
「あんたにゃ師匠がいるじゃないの」
「だって、麻友様、私に付き合ってくれないんだぜ?」
それは、麻友がもう魔理沙の強さについていけなくなってしまったからだと気付いているだろうか。
博麗麻友。
私の姉には、私の姉にしては不釣合なほど、武術の才能がなかった。
それも当然だ。彼女は私が物心つかない頃に、御園家という家から引き取られていた。つまり義理の姉に当たる。
小さい頃、紫に訊いてみたことがある。なんで姉さんはあんなに弱いの、と。
すると、多分、私とは違う誰かのライバルとして設定されたが、その誰かは私と比べて弱すぎて、だから、私の強さについていけなくなったのだろうという答えが返ってきた。ふざけて何それピッコロ大魔王か、なんて訊いてみたら、大体合ってるらしい。うーん、未だにあんまりよく分からない。つか、普通に義理の姉だからって答え……られないか、相手は幼い子供だしねぇ。それは確かに。家族が家族でないと知らされるショックは、有り余る物だろう。そういう紫の細かい配慮は、私は嫌いではない。
今、私は私一人しかいない風紀委員として、この大学のこの部屋で、日がな一日茶を啜っている。
凄く充実した、素晴らしき日々だ。そう思う。
だって、ただお茶を啜っているだけで、たくさんの人が、この部屋に遊びに来るのだ。
まず霧雨魔理沙が毎日通いつめる。そのせいで、その横でだが恋の相談も数えきれないほど受けた。鎌田チルノと白河彩はとても順調にお付き合いしているらしい。岡崎研究室に新たなカップルが誕生したらしい。第二種永久機関が完成しない。レミィを返せ。姫様を返せ。魔法の気配が影も形もなくなってしまった。などなど……まぁ、把握するのも面倒なので他はもう忘れてしまった。そして、何かしら異変という名の事件が起きると、私がそれを解決しに行く。大体黒幕は八雲紫だ。違うこともあるが、どちらにせよボコボコにして、夜、一緒に酒を呑む。コンパという奴だ。これでこそ大学生だろう。そして今日も彼女は陽が落ちる頃になると遊びにきて、私の横に腰をかけ、茶を求め、会話を交わす。……素晴らしき日々だ。
だからこそいつも思う。
なんで、魅園魔友、あの、生まれでたイレギュラー的存在は、この素晴らしき日々を放り捨てて、さらに先へ行ってしまったのだろう。
どうせ八雲紫に聞いても、要領を得ない答えが返ってくるだけだ。
だから、私は考える。無駄だとわかっていても、考える。
それこそが、彼女に対する手向けで、エールで、夜の向日葵だからだ。
「ねぇ、魔理沙。なんで彼女は……」
「んあ? どうした?」
言ってから、思い出した。あれから、この世界のほとんどの人間が魅園魔友の存在を完璧に忘れてしまったことを。
覚えているのは、多分、私と紫だけだ。私すら、たまに魅園魔友の存在を忘れ、この世界の元々の設定に溺れる。紫はたまに忘れたフリをするが、まぁそれはノーカウントとしていい。
だから、自分だけで考える。
彼女はどうして旅立ったのだろう。
「どうしたんだ? ワケ分からん」
こいつに相談しても、きっと分かるまい。いや……ひょっとしたら私にさえ知り得ない事を知ってるかもしれないけれど、それはきっと私が求められない物だし、求めても手に入らないものだ。
「おろ、そろそろ逢瀬の時間か。邪魔したな」
魔理沙が夕日に染まる窓の外を見て声を上げた。
そそくさと消えて行く魔理沙を見ながら、彼女の願望についてじっくりと思索にふける。
音が鳴る。心地良い、世界と世界の境界をかき分ける音。
「あら、ひょっとして、分からないのかしら?」
何度考えても、彼女の願望というxは、同じ解に行き着く。その解の答え合わせを、私は彼女に求めた。
「旅立ちたかったからだ。彼女が人である限り、先があると言われれば、どこまでも道を開拓するのが本来の、言わばお約束だからだ。あいつなら、迷うことなくそう答えるわね。全く、どうしようもないアホよ」
そう答えた。間違いなくそう答えるだろう。そして、何度世界を繰り返しても、彼女は、世界のその先の一歩を踏み出すだろう。
それが彼女なのだ。
ところが、八雲紫はそれを聞いて、ニヤニヤと笑っている。
「何がおかしいのよ」
「いやいや、霊夢はまだ若いわね、ってね」
むっと来るようで来ないような、なんだかこそばゆい皮肉。これはいつものことだ。
でも、改めてじっと目を合わせてみると、いつもとどこか雰囲気が違うような……。その紫が口を開く。
「彼女はそんな面倒くさい事を考えてないし、アホなんてとんでもない、私は彼女を讃えます。だって、彼女にとっては、いいえ、私達にとっても、もしかしたらそうなのかもしれないくらい……」
一旦言葉を切り、いつもの彼女の胡乱気な微笑ではなく、生まれ出た子供に射止められた母親のように破顔して、愛しい詩を詠み上げるかのような口調で言った。
「素晴らしき日々を探す日々、それはきっと素晴らしき日々そのものでもあるのだから……」
一瞬考え込み、納得する。なるほど。停滞を許さず、常に前を向き続ける。それすらも素晴らしき日々であるのか。
「はぁ、全く……」
ならば仕方があるまい。私は、ただここで、彼女が目を背けた素晴らしき日々を、彼女にすら惚れられる素晴らしき日々として、毎日一生懸命維持していくだけだ。
継続にこそ才能が必要で、継続こそが芸術なのだから。
「ねぇ、霊夢」
「何?」
元の胡散臭いニヤニヤに変わって、うしろから抱きつき吐息をかけてくる紫。
これは彼女からの合図。
哲学ごっこはおーしまい、ね。
私も抱きつかれる感触に身をまかせる。
「彼女」との哲学ごっこは終わり、これからは私達の幸福が始まる。
だから……。
どうか届け、彼女の元へ。
私達の誇り高き、この素晴らしき日々の詩よ!
「あ、ところで霊夢」
「ん?」
せっかく滅多に無く詩的な気分になっていたのに、興を削がれる。
「この世界には、二つしか魂がないと言ったら、どう反応するかしら?」
「え?」
いきなり何を言い出すかと思えば、一体何の話だろう。というか、哲学ごっこはもう終わりじゃなかったのか。
「何? 偏在転生? それは、まぁ、多分間違ってるって、否定……するしかないわね。証拠はないけど。私たちはただ管理権限を与えられただけで、別にあいつみたいに上位存在ってわけじゃ」
「そうじゃなくて」
「え?」
ワケが分からず、話の先を促す。
「この世界……そうね、世界というよりは業界ね。彼女もその業界の繋がりを利用してより高次の世界、物語を生み出し見つめている世界に行こうとしたのだろうけど。……とりあえず、この業界には、純粋に、根本的に、魂は二つしかない。分かるかしら?」
さっぱり分からない。たまに紫は意味が分からないことを言う。そういう胡散臭いのはやめてといつも言っているのだが、直らないし、きっと直すこともないだろう。まぁ、そこが紫のかわいいところか。などと考えていると、紫が大きくため息をついて、呆れたような顔をした。呆れたいのはこっちだっつーの。
「霊夢、あなた、何か勘違いしてないかしら……?」
一度言葉を切って、もう一度言葉を吐き出す。
「つまり、私が言いたいのはね……
待っててくれ。
わかるようでわからん気もすれば、わからんようでわかる気もする。理屈での理解と直感との境界。このお話の根底あるいは背景に流れるロジックにたどり着き解読する前に、なんだろう、直感的な「こうあるべき」という道筋をきっちりたどっていったお話というか。そのため、まあなんかよくわからんかったんですが、よくわからんところをよくわからんなりに処理(スルーあるいは頭の片隅に留めるあるいは適当に解釈)しながら読むのに慣れると、なんだかもうとても楽しく読めました。自分でも何言ってるのかよくわからんのですが、なんだかそんな感じ。まあよくわからんかったんでゆるしてください。
ともあれ、おそらくこのお話の……本質、と言ってしまっていいのか、そこらへんは上述したように直感で楽しませていただいた次第です。そしてあるいは、あるいはこちらは作者さんにとっては枝葉な部分ですらあるのかもしれませんが、単純に、「素晴らしき日々Ⅱ」、おそらく私はこちらに惹かれたのだろうと思います。だって現代東方が好きなんです。共同幻想としての大学生活。東方二次でも秘封とかでたまに大学生活は描かれたりしますが、こういう研究室を舞台にしたような内輪っぽさ、生活感等々はらんだものはそう見ないように思います。しかも学生でなく教授視点で。新鮮さもあいまってすごく面白かったです。読み終えてしばらくして冷静になったあたりで、やっと「もっと他のキャラも見たかったかもしれないなあ」なんて思うくらいです。欠けてるのではなく十分だったからこその、今さらな不足感。すっかりのめりこみました。
いろいろよくわかればもっともっと楽しめたのかなーとも思うのですが、よくわからんかったものはしかたない。
思うに……ちょっと批判的な話になっちまうかもですが、全体的に散発的過ぎたんじゃないかなとは。なんかもう読んでてどこが伏線でどこが本質への前フリでどこが重要度高そうな記述なのか、あるいはどこまでが適当にノリで綴ったものなのかがよくわからなくて、もうほとんど序盤で頭がパンクしちまいました。かくして、普段からあまり使ってない頭をまったく使うことないカーズ様的なノリで読み進めたため、東方大学生活おもしれーくらいな気持ちでしか受け止められなくなってしまった感じです。
だが、だがしかし、この散発的なわけわからん風味の、ふとするとどっかふっ飛んでくような雰囲気そのものがこのカオスな世界やその不気味さ、空恐ろしさなどの演出にも一役買っている気がして、つまりこういう散発的なんちゃらもなくせばいいかというとそんな気はしないので、まあそのなんだ、仕方ないね。
ともかくそろそろ一言でまとめちまいますと、すごく面白かったです。なんかよくわからんかったけど、なんとなくわかった気もしましたし。素晴らしい日々、素晴らしい作品をありがとうございました。
始めから
というわけで、さっぱりわかりませんでした。多分リスペクト元を知っても解らないままだと思いますが、いずれ再挑戦します。