「運命なんてものがあるんなら逆らえないような気もするが、一応、予防だけはしてみよう。努力ってのはそういうもんだって、姉さんも言ってたし」
魔術士オーフェン はぐれ旅
オーフェン
「悪い出来事の未来も知る事は『絶望』と思うだろうが、逆だッ! 明日『死ぬ』と分かっていても『覚悟』があるから幸福なんだ! 『覚悟』は『絶望』を吹き飛ばすからだッ!人類はこれで変わるッ!」
ジョジョの奇妙な冒険第六部
プッチ神父
殺してやる、と椛は思った。
殺してやる、と。
襲撃を受けた、と知らせを受けて、半時ほどで巫女は逃げていった。短い間だった。
(くそ)
椛は毒づいた。そう、ほんの短い間だ。
だが、そのあいだに、お山は、圧倒的に、そして一方的に蹂躙され尽くしていた。
(くそ)
麓近くの妖怪の多くは、ほぼ全滅したらしい。取るに足らない力の者も、できると言われたはずの者も、皆等しく。関わりなくだ。
驚くべき速度で、並み居る妖怪や天狗達を屠りながら、白い巫女は山を駈け上っていった。そして、警備に当たっていた者たちを、あっという間に打ち倒した。
そして、まっさきに大天狗らの庵を狙ったあげく、中にいた者たちを、次々と斃していったのだ。
(くそ……くそ……)
不意を受けた、とはいえ、庵は、あまりに簡単に壊滅させられていた。
信じがたい。平和に浸かっていたとはいえ、かつては歴戦を経験した長老達である。
それが、一撃で。そう、一撃でだ。
屈強な、霊的加護を受ける天狗の肉体が、一撃でだ。
それも人間に。たかだか麓の一人の巫女ごときに。
(……こんな馬鹿なことがあるか?)
こんな馬鹿なことがあるだろうか。
椛は首をふった。
(あの巫女に、そんな力はない。そのはずだ……)
椛は鋤を動かしながら思った。土は硬い。
椛の腕力なら、これしきのことはどうでもない。ただ、煩わしくはあった。
秋の空気で、土の下はよく乾いていた。昼を過ぎ、下がりを過ぎ、空気は急速に冷めてきている。
暮れかけた空が、薄寒い。
(どうしてだ……)
椛は呟いた。
どうして。
天魔や大天狗ら、主たる長老たちの安否は、現在も確認中だという。庵の破壊は、よほど酷いものだったのか。それか、区別もつかないくらいに、そこにいた者たちが焼け焦げてしまっているのか。
少なくとも、椛が見て回った山の被害の中には、そういう様子の遺体が何体もあった。言わずもがな、巫女が通った跡に、累々とだ。
どんな力が働いたのか知れない。だが、惨状は現に目の前に広がっている。
鴉天狗の隠れ里に。白狼天狗の郷に。鼻高天狗の庵所に、そして、河童の郷に――。
おびただしい数の、死体が。累々と。
(くそ……)
椛は毒づいた。墓穴を埋める手を止める。
人手が足りなくなった今は、こんなことをしている暇もなかった。白狼天狗の役目は、山の周囲の哨戒だ。
手が足りないというのを、無理を言って抜けてきていたのだ。
彼女ら白狼の規則は厳しいし、そもそも生真面目な彼女には、こんなことをするのも珍しかった。だが、今は群れに戻る気がわかなかった。
土を固める。土を叩く音が響く。
(……くそ)
椛は毒づいた。
いらだたしく何かを振り払うように、顔を上げる。鋤を地面に放る。
乾いた音が鳴った。
「くそ」
穴は埋め終わった。
乱暴に地面に座り込む。息を吐く。
「……」
椛は沈黙を吐いた。
「……」
ふと、傍らに置いてあったリュックを見る。表面の焼けこげた、河童達の背負うリュックだ。
少し火事に巻きこまれたらしい。しかし、これは頑丈だった。
リュックの中にあったものともども、ほとんど焼け残っていた。
椛はそれをじっと見た。ふと思う。
(大将棋の続きが、まだだったな……)
昨日の様子を思い出す。盤は、滝の裏にこしらえたままだ。
勝負は半端のままだ。まさか、こんなことになるとは思っていなかったのだし、普通は思いもしない。
(あとで片づけておかないと……)
椛は思った。
じんわりと視界が滲む。
椛は眉をひそめた。
(くそ)
鼻の奥が痛む。乱暴に指で拭った。
駄目だ。まったく駄目だ。
椛は思った。
(慣れっこじゃないのよ、こんなのは……)
心の中で言う。自分に毒づいて思う。
知った顔が突然死んでしまう。そんなのは慣れっこのはずだ。
事実、そうだった。今まで彼女は、そういうものを幾度も経験してきた。
耐性はある。耐性はある。
(毒されたかな……)
平和な暮らしに。平和な時代に。ほんの短く続いた、百年かそこらの時間に。
椛は立ち上がった。そろそろ、自分の持ち場へつかなくてはならない。
用事は終わったのだ。立ち上がって、空へ飛び上がり、浮かびあがる。
山の上空を飛び、九天の滝へと向かう。
滝へと向かう途中、見下ろすと、山は静かだった。あんなことがあったとは思えない。
おおむね、火も消し止められていた。空には、黒い煙も上がっていない。
(……)
滝へ着くと、裏手に回った。そこに荷物が置いてある。
洞窟へ入って、将棋盤が目に入った。椛はそれを目にし、目に入れた。
そのとたんに、崩れ落ちた。
「……ううっ、うっ」
その場に崩れ落ちて、椛は泣きだした。声をあげて。
(くそ)
泣くつもりではなかった。泣いている場合ではなかった。
ただ、将棋の盤を見たとたん、悲しみがこらえきれないほどにこみあがってきた。耐えきれないほどに。
それと同時に、また怒りも。
椛は泣いた。荒ぶる感情にさいなまれ、大声で泣いた。
河童との会話が思い出された。知り合いの、変わり者の河童との会話が。なにげない会話が。
(じゃあ、また今度ね)
最後に、頭のなかの河童の声が言った。椛はいっそう激しく泣いた。
身もだえるように泣いた。床に伏せて、みっともなく床を叩いた。
拳で。硬い岩を。何度も、何度も、何度も、何度も。
「ううっ! うえう、う、うううう……!! うおお、お、う、うう……うわあああああ!! うわああああああああああああああ……!!!! うわあああああああああああああ!!!! うわああああああああああ……!!! あ! あ、あ……!」
自分が床を叩く音が聞こえる。泣き声にかき消されていく。
馬鹿でかい声だと自分で思った。
椛は泣いた。泣いて泣いて、泣き続けた。
泣き続けて、泣き続けて、そのうちに涙も涸れていった。
それとともに、声も徐々に涸れていく。椛は、傷んだ喉で、なおも叫び続けた。
「うわあああああああああああ!! あ、あ、うわあああああああああ!! うわあああああああ……!!」
むき出しにした牙を、塩辛い味が伝った。血のようだ、と椛は思った。
血が出るのなら、それでもいいと思っていた。出ないことは悲しいとも思った。
「……はあ……はあ……はあ……ああ……ああ……」
椛はやがて、泣くのを止めた。だんだんと声も薄れていった。
いいかげん、疲れていた。
「ああ……はあ……。……はあ……」
椛は荒い息をついた。壁により掛かって、向かいの壁を見る。
涙が流れた頬が痛い。
骨でも引っかけたように、喉が痛む。
狭い洞窟は暗かった。秋の日暮れが押しせまっている。
乾いた風が。紅葉を揺らす、終焉の風が。
(くそ)
椛は毒づいた。暗く。
(くそ……!)
椛は言った。思う。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる、と椛は思った。
洞窟の中、一人きりで。
殺してやる、と。
燐は、焼けこげた目蓋を開いた。
裂け目を入れる心地で。張りついた目蓋を、ゆっくりとはがす。
(……)
身体が鉛のように引き攣っている。指を動かそうとしたが、動かなかった。
「く……か」
燐は体を見下ろそうと、喉を動かした。眼球の端に、ごつごつとひっかかるような感触があった。
焼けた左目は、完全に塞がっていて動かない。片目だけで、どうにか胸のあたりに目を下ろす。
(……ああ)
燐は納得した。
そもそも、動かすはずの指がなかった。ちぎれた肘から先が、どこにも見あたらない。
そもそも、それだけでなく、身体は酷い状態だった。ほかにも、足がごっそりと無くなっているし、脇腹が抉られて、すっかり消えている。
これではどうしようもない。
(なんだよ。まったく)
鈍い思考のなかで、燐はぼんやり思った。本当にこれではどうしようもない。
あたりには、相変わらず激しい炎が燃えさかっている。空気は妙に暑くて重いのに、身体は寒くて重かった。
意識が粘っこくて重たい。
「……」
燐は咳き込んだ。弱々しい息が、口から洩れる。
(あ……あ……しん……ど……)
声にしようと思ったが、つっかかった。
肺から空気が漏れているような音がした。
喉が締めつけられるように痛い。
水が欲しい。
(……ふう)
燐は心の中でだけ思った。ため息をつくと、少しは楽な心地になる。
かき消えそうな息の下で、燐は視線を巡らした。喉を潤せそうなものは、見あたらない。
辺りはまるで、灼熱地獄そのままのような光景だ。いつまでも消えそうにない炎が、飽きずに燃えさかっている。
(この場合、焼かれるのは、私か。なんか、悪いこと、したかしらね……)
とりとめのない思考が、眼球の裏に浮かんでくる。
(それとも、いままで死体焼かれてきた連中が、私に恨み言言ってんのかしらね……よくも焼いたな、よくも焼いたなってさ……何言ってるのよ。あんたたちは、ちょっとばかし欲に駆られすぎたんだろ……駄目よ、身体を焼いて、きれいにしていかないと……そうでないと、次に生まれ変わるのに、せっかくきれいな魂が、にごったまんまになっちゃうでしょ……)
とりとめのない思考が、眼球の裏に浮かんでくる。
燐はそのまま鼻先を投げ出して、頭を床に転がしていた。
(……。……)
ふと、周りの音が途切れる。燐は、何かを待つようにして、視界をどこかに合わせようとした。
(……。なにが……あったんだっけ……)
燐はぽつりと思った。
なにがあったんだろう。
何が起こったんだっけ。
(……い、や)
意味がないな、とも燐は思った。
何が起こったのか。
本当に、そんなことを聞くのは意味がない。本当に意味がない。
何が起こったのか。そんなことは分かりきっている。
(分かりきっているんだよ、そんなこと……)
そんなことは分かりきっている。
燐は、数分前のことを思い返した。ほんの数分前、空が襲撃しに来た相手を迎撃に出ていった。
さとりも燐も一応止めたのだが、あの鴉は、話も聞かずに飛び出していった。そして逃げることも思いつく前に、巨大な光が館の広間を飲みこんだのだ。
白い光だったように、燐には見えた。
あの光は、空が使う力に似ている。目も眩むような、人工太陽の光。
圧倒的な火力。一撃で全てを消し飛ばす光。
(鴉に、刃物なんか持たすもんじゃないわよね……ああ、馬鹿にだっけ。いいか。意味はだいたい同じだし……)
地霊殿の壁には、大きな穴が空いていた。外の景色が、がらんと覗いている。
館の広間は、ほとんど傾きかけている。いや、この分では、館自体が見る影もないかも知れない。
(ちゃんと加減はしろって言ったのに……人の話を……全然、聞かないんだからなあ……)
それとも、したというだろうか。――うん。うん。いや、したした。
言うだろうな。燐は思った。いや、うんね。
ちゃんとしたつもりだったのよ? 本当に。あははははは。――いたっ。
そういう風に、暢気な笑いを聞いた後で拳骨をくらわしてやろう、と燐は思った。少し笑えた。
「……」
何かの気配がした。音。
燐は、ひきつった眼差しを動かした。
白い巫女服の裾が映った。巫女装束の細い足が。
じっとこちらを見下ろして、様子を伺っているようだ。
燐は、鼻を小さくうごめかした。鼻孔を、淡い桜のような薫りがくすぐる。
その姿には脅威を感じていた。だが、ぼんやりした頭には、それは、もう大して意味をなすものではなかった。
(……あ、あ……この、匂いは……)
燐は思った。とぎれがちに。
(この、匂いは……巫女の、お姉さんだね……相変わらず、いい、匂いだ……なんだか、春の、日向、みたいな……。……)
燐は思った。
ふっと、そこで思考が途切れる。まだ意識はあったが、形になる思考は、もう浮かばない。
(……)
気づいたときには、燐はもう死んでいた。巫女は何もせずに、すでにその場を去っていた。
気づいたときには、燐ももう死んでいた。
「……」
さとりは、心の声を聞くのを止めた。自分の上にも、ねっとりとした闇が落ちてきているのがわかった。
もう目が満足に開かない。手足も満足に動かない。
たまたま、広間にいたペットたちの末期の声が、聞こえてきていた。
そのなかには燐がいたし、さっきは空がいた。他にも、何匹ものペットの声が、さとりの心の中を乱れ飛んでいた。
乱れ飛んで、やがて消えていった。さとりにとっては、それも聞き慣れた声だったが、人間ならば、たぶんとっくに気が触れていただろうと思う。
(……私の気が、触れていないと?)
それもわからないことだ、とさとりは思った。とっくに気が違っているのかもしれない。だから平気なのかもしれない。
(そうね……気が触れた者が、自分でそんなのわかるはずないものね……)
さとりはどこか無機質に思った。
空が重たい。押し潰されそうだ。
身体が寒い。どうなっているかわからないが、どうも、満足に胴体に繋がっている部分は、さとりの身体にはあまりないようだった。
焼けてくっついた目蓋は、見たくもない様子のまま動かせないでいる。
(……。こいしは)
ふと、さとりはそんなことを気にした。今日は、妹の姿を屋敷で見かけた。
彼女はどうしただろう。どこに行っただろうか。
(近くに……いたかしら……もう、こんなときは不便よね……)
さとりは愚痴を言った。いたかもしれない。
だが、どうせ自分にはわからないのだ。
妹の心の声は、どうせ自分には聞きとれないのだし。彼女が自分で姿を現してくれないと。
(……助かったのかしら……どうでもいい? ずいぶんと……薄情よね)
さとりは、自分が妙に冷静なのを感じていた。
(……そう。悲しいのね、私は。自分が死ぬのが悲しいのね。だから、人が死ぬのがもう悲しくはないんだわ。ほら、やっぱり……気が……触れているんじゃないの……?)
心中で繰り返す。
もう、どうでもいいような心地にはなっていた。
こんなにも理不尽な力を見せつけられては、もうどうでもいい。
冗談ではない。
こんな力があるのでは、少しくらいの能力など、何の役にも立たないではないか。
まさか、一撃で、行動不能になるほど吹き飛ばされるとは思わなかった。
(反則でしょう、まったく……こんなの)
反則だ、とさとりは思った。
もともと自分は、荒事は苦手なのだ。ただ誰にも邪魔されず、ここで静かに暮らしたいだけだったのに。
厄介ごとを解決するような、そんな役割は、すべて周りのペットたちに頼むようにしてきた。多少の悩みこそあれ、今の生活は、自分の満足どおりに上手く行っていたのに。
この暮らしは、上手く行っていたのに。
……ずる。
……ずっ。
音が聞こえた。さとりは、ちぎれかけた耳をどうにか澄ました。
耳の穴に血が詰まって聞き取りにくい。それに、ここは異様に熱かった。
炎の音が、耳元で燃えさかっているように聞こえてくる。周りの音は、あまりよく聞こえない
ずっ。
ずる。
ずっ。
ずっ。
「……」
さとりは指先に何かが触れたのを感じた。何かが触れたのは分かった。
たぶん、さっきまでしていた音は、なにかを引きずる音だろう、と思った。その触れた者は、誰かはわからないが、誰かであるらしい。
さとりの手を握った誰かは、その指の黒く焦げた手を、かたわらでしっかりと握っているようだった。握っている、というのは想像だった。
焼けこげた皮膚には、もうなんの感覚も返ってこない。どんな握られ方をしているのかも、さとりにはよくわからなかった。
どこか近くで、壁材の崩れる音がした。傍らにいる誰かからは、心の声も聞こえてこない。
ただ静かだった。静かに炎の音が遠のいていく。
(……こんなときくらい、なにか思ったらどうなの?)
さとりは、自分がもうすぐ意識を失うだろうと思った。そうしたら、もう帰ってこられないだろうとも。
ふと、まぶたの隙間から傍らの誰かの、なかばちぎれかけた足が見えた。そのせいで身体を引きずっていたのか。
(また、怪我してる……)
さとりは、溶けかけた意識の中で思った。
(怪我したら……ちゃんと、私や誰かに言えって言ってるでしょう……まったく……あんたは……世話が、焼けるんだから……)
さとりは愚痴を言った。
ふと、急に静かになったな、と思った。
炎の音が聞こえなくなった。
「……」
気のせいだろうか。
お姉ちゃん、と小さな声が聞こえた。
心の声が。小さく。
霖之助はいなかった。店は閉め切られている。
魔理沙は眉をしかめた。
こんな暮れ時にまで、どこかに出かけているらしい。
(また無縁塚か? まったく……)
暢気な奴だ。たぶん、何も知らないのだろう。
(……こんなところで引き籠もって、隠遁なんかしてるからだ。あの馬鹿め。危ない目にあったって知らないぞ、まったく)
魔理沙は無縁塚に回ろうかと思ったが、今は、霊夢のことが先だとも思った。阿求の話によると、山の決戦は、どうも間近であるらしい。
いまだに霊夢の行動の理由は不明だが、彼女は「妖怪」を狙っている。神でも人間でもない。
妖怪を根絶やしにしようとしているのだ。あるいは、鬼や天狗もか。
(そうだよな。それはたしかだ。だからあいつは、もう一度、必ず山にやってくる。天狗もそう予想を立てたんじゃないか)
天狗の捜査網でさえ、行方不明、と断じているということは、いつ来るのかが、まるっきりわからないということでもある。いまこうしている間にも、下手をすると、向かって来ているだろう。
行動は、迅速に起こした方が良い。
(仕方がない。あいつのことはいいか。霊夢が何考えてるのか知らないけど、きっと、あんな雑魚みたいなのにはかまけないはずだ)
適当に考えて、魔理沙は割り切った。それでも、時間があれば、妖怪の山の周囲を回ってみるくらいには思っていた。
過去の自分の行動を思い返して、ふとぶちぶち言う。
(さっき行っておけばよかったんだな。なんで避けたんだか)
魔理沙は愚痴を漏らしつつ、家のほうに戻った。
家に帰ると、すぐさま、中を漁って準備を進め出す。
物の整理が出来ないとよく馬鹿にはされるが、本当に必要な物は、いつでも持ち出しできるように魔理沙はまとめている。何が起こるかわからないような、こんな森に住んでいれば、どうしたって用心深くもなる。
家に集めているものが失われるのは惜しくて泣けてくるが、いざとなれば、命を失うことにもなる。全部見捨てるくらいの気構えはあった。
荷物をまとめて、布にくるむと、魔理沙は家を出た。荷は、結んで首の後ろに背負う。
空に飛び上がってから、ふと思いつき、魔理沙は方向を変えた。アリスの家の方へと向かう。
家の近くに降り立つと、どうやらアリスはいないようだと知れた。夕食の匂いがしてこない。
昼食や朝食は抜くときがあるらしいが、アリスは、夕刻、家に行くと、夕食は必ず作っている。
気分転換に食べる、ということらしいのだが、一人で食べる食事のなにが気分転換になるのかはよくわからない。一応ドアを叩いてみるが、返事はなかった。
魔理沙は、眉をひそめた。
(こっちもか。まったく)
こちらは霖之助と違い、行き先が見当つかない。たしかに出かけているときはあるのだが、どこに行っているかは分からないことが多いし、そもそも出かけること自体が稀なのだ。
(知らん。まったく。死んだら死んだだ)
魔理沙は適当に考えて、割り切った。時間があれば、心当たりを回ってやらなくもない、くらいに考えて、箒にまたがる。
空に浮かびあがると、今度こそ妖怪の山に向かった。
空はもうすっかり暗い。
あらかじめ麓の様子を散策しておいてよかった、と魔理沙は思った。
さいわいにも、野営の道具や知識には事欠かないし、いまのところ、八卦炉の調子も良い。
麓の近くまで戻ってくると、山が見渡せる適当な場所を探した。あらかじめ目星のついていた場所に、ちょうど良い繁みを見つけると、そこへ腰を落ち着ける。
山には一度近づこうとしたのだが、今はぴりぴりした様子の白狼天狗が闇に紛れてうろついているのが、目についた。簡単には近づけなくなっている。
(……あいつがどこにいったか知らないが、こっちに来たとしたら、とっくに警告喰らうか、追いだされるかしてるんじゃないかな?)
魔理沙は小型の双眼鏡をのぞきながら、こっそりと思った。
仕方がない、放っておこう。
思いつつ、ごそごそと繁みを伝って戻る。
野営用に這った天幕の中では、八卦炉が湯を沸かしている。秋口は冷えるが、これがあれば、寒さの心配はない。
霖之助にいつも言っていることが、ふと思い出される。
これがない生活は考えられない。あれは嘘ではない。
これがあるから、魔理沙はどこにでも行けるし、多くの危難をしのげた。
万能の道具。
生活するのに必要なのは、強力な火力なんかじゃない。ほんの小さな火で良い。
魔理沙は一人で干し肉を齧り、沸かした湯をすすって待った。
それから少し眠った。
強力な火力なんかじゃないのだ。
人間が暮らすのに必要なのは。
余計なものは、いらない。
ずん。
翌朝だ。
ず…んん。
何日でも待つつもりだったのだが、意外と早く、動きは起きた。翌朝だ。
ず…んん。
轟音で、魔理沙ははね起きた。
(来た……?)
すぐさま外へ出て、抱えてきた双眼鏡を覗く。
山を見ると、煙が上がっている。麓の方では、しきりに影が動いていた。
天狗の集団が、山から移動を始めている。
魔理沙は急いで行動を始めた。
天幕は適当に折りたたみ、双眼鏡などの道具は、適当に片づけてそこらの岩場に隠す。もう取りに戻らないかもな、とは、なんとなく思った。
後始末を終えると、魔理沙は帽子をかぶって箒にまたがった。
ずずん! と、また地響きがしたのと、飛び立ったのとは、ほぼ同時だった。
どん! と、空から見えた山の頂上付近が、いきなり抉れて吹き飛ばされた。
明滅する白い光。
あの、白い光。
(霊夢)
魔理沙は思った。
箒を駆って、上空を旋回するように飛ぶ。
山の周囲は、すでに大騒ぎのようだった。
(さて、どうする……)
魔理沙は一人呟いて、ちらちらと様子を探った。
山の周辺は、天狗が警戒している。
さすがに、うかつには近づけない。何があるか分からないし、さすがに天狗を相手にして、まともにかち合おうとは思わない。
吹き飛んだところからは、煙が上がっている。光は明滅を繰り返している。
徐々に山を下ってきているようだ。こう遠目からでは、なにが起こっているかはよく見えないが。
(くそ)
魔理沙は歯がみした。
近づかなければ、どうしようもないのだが。
また爆発が上がる。
魔理沙は焦れて、「あー」と、頭をかいた。
「もういっそのこと、突っこんじまうか……」
いちかばちかだ。魔理沙は覚悟を決めかけた。
しかし、失敗したらどうする、と言う声が、ふとすぐに頭をよぎる。
「……ぬう~……」
そのせいで踏み込めないが、魔理沙が冷静さを保っていられるのも、その声のためではあった。
魔理沙は焦れてうなり、無意味に辺りを見回した。
「ん?」
と、魔理沙は飛び回りながら、ふと目を止めた。見覚えのある顔を視界のはしに見送る。
「……んん?」
と、目をこらす。うっすらと開けた空の暗さが視界を邪魔する。
少し離れた山の周辺。
周りよりやや開けた感じになった、すそ野の麓あたりだ。
(お)
その、わずかに高台になった場所に、三人ほどの人影があるのが見えた。
ちょっと驚いて見やる。
小高い場所に一人立っているのは、アリスだった。それに、近くにはよく見れば、さらに知り合いの顔がある。幽香と文だ。
(無事だったのか?)
魔理沙は、きゅっと方向を変えて、すぐにそちらへ飛んでいった。
気配を察した文が、木の上から、一瞬こちらに目を眇めるのが見える。もちろん文の視力は半端ではないから、すぐにわかっただろう。
が、たんに見ただけに止めたようだ。なんの驚きもない顔で目を逸らし、また山の方を見る。
(なんだ、ぴりぴりしてんな)
魔理沙は思った。やや間を置いて、近くに降り立つ。
近寄っていくと、アリスが気づいて、こちらを見た。
魔理沙は、アリスが何か言う前に、自分から声をかけた。
「よう。無事だったのか?」
「ええ。たまたまね」
アリスは言った。
幽香は、すぐ横にはいたが反応もせずに、しかし、どうせ気づいてはいるようだった。
何だかいつもと変わらず、何を考えているのか分からない横顔を見せ、麓の辺りの騒ぎを眺めている。
(ふん)
魔理沙は視線を移した。文が近くの木の上で、枝に足をかけて立っていた。
魔理沙はそちらに近寄っていった。
幽香は何も言わなかったが、文は、魔理沙が寄ってくると、こちらに視線を向けた。
やや硬い表情で、口を開く。
「ああ、あんた来てたのか……ここは危ないわよ。里の方に帰ってなさい」
真面目な口調で言う。
いつになく、真摯で真面目な口調である。珍しく、こっちの身をおもんばかったことまで言ってくる。
魔理沙は、なにか妙な気分になった。ふと、苦く思う。
(なんだか、真面目モードになってんな)
いつもとは、ずいぶん雰囲気が違っているようだ。魔理沙は妙な心地のまま、話しかけた。
「……そう露骨に邪魔扱いするなよ。危なくなったら、さっさと逃げるくらいするさ。お前は、こんなところにいていいのか?」
魔理沙は、言いつつ、まじまじと文を見て思った。文は、山のほうをじっと見ている。
じっと、さしたる意思をこめない顔で。
(鴉みたいな目してるな、こいつ)
魔理沙は文の目をのぞきこんで思った。少し気味の悪い様子だ。
もともと文は、これで一途なたちであるし、かなり直線的な思考はしている方ではある。普段はわかりにくいが、根は真面目で頑固な方だ。
頭の構造のほうは割と生真面目だから、このような顔をするのも、べつに不思議ではないのだが。
(なんだかな)
魔理沙は眉をしかめて思った。
魔理沙が見たところ、今の文の顔は、どうも、たんに余裕がないとも感じられるようだった。元々持っている人外の雰囲気がもろに出ているというのか。
なんであれ、かなりピリピリしているのは間違いない。
普段は着ていない天狗の衣装まで着こんでいるし、泰然と腕組みをして、じっと整った姿勢で、山の方を見ている。肩にじっと止まった鴉は置物のように動かない。
ふと魔理沙は思いついて、呟いた。
(……天狗らしい顔っていうやつかな。まあ、こいつもそういえば、妖怪なんだしな。忘れがちになっちまうけどな)
魔理沙は妙な気分で、文の見ているほうに視線を移した。
山は変わらず、煙を上げている。
時折、白光が閃いて、こちらに音を響かせた。
文は、何かを待っているようにも見える。
山の騒動のほうは意に介していないのか、こんなところでじっと見ているのに、少しも焦れた様子がない。表面上は、ずいぶんと落ちついている。
魔理沙は、箒をとんとんと叩いて、口を開いた。
「今のはなんなんだ? 霊夢とお前らは、もうやりあってるのか?」
無視するかと思ったが、文は答えてきた。
「ええ、まあね。山の陽動の方は成功したみたいだし。あんなになっても、中身は大して変わっていないのかもね、あいつ。まさか、こんな見事にひっかかるとは思わなかったわ」
「まあ、意外と馬鹿だからな。勝てそうなのか?」
魔理沙が言うと、文は首をふった。
淡々と言う。
「絶対に勝てないでしょうね。もし、霊夢のやつが私らを皆殺しにしようと思っているんなら、きっと必ずそうなると思うわ」
魔理沙は眉をひそめて、文を見た。
何言ってるんだ、こいつ?
文は続けて言う。
「この勝負は、はなっから負けが決まっているのよ。負けるのは、私ら天狗。あとは、霊夢のやつが、皆殺しなんて結末を望んでいないのを祈るだけだけど、まあ無理でしょうね。山の外の妖怪は、もうすでに生き残っている者はいないらしいし。どんなささいな輩でも、霊夢は見逃す気がないようだし。私らは敗北するし、根絶やしにされる。必ずね」
やけにきっぱりと言う。それもさらりとした口調でだ。
魔理沙は、咄嗟に眉をひそめて言い返した。
「……やけにはっきり言うんだな? 山の総力を上げてってことは、神様連中も協力してるんだろう? それに、何人いるか知らないけど、天狗が総がかりでかかるっていうんだろう。いくらなんでも――」
文は、眉をひそめて首をふった。
「負けるわよ。まったくあんたの頭も、どうもすかすかだな。そもそも、幻想郷の主要なところが軒並みやられてんのに、なんでいままで、妖怪の総本山といわれるお山が無事で済んでいたと思うのよ」
「知らないよ。なんで?」
「さあ。正直言うと、理由ははっきりしないわね。ただはっきりしているのは、霊夢ははじめから最後にここを襲うと決めていたみたいってことね。だから無事で済んでいた。逆に言えば、それだけなんだけれど」
「……べつに、無事っていうわけじゃあないだろ。お前等の親玉は、このあいだの襲撃で死んじゃったんだろ? 河童の郷も、やられたって話じゃないか」
魔理沙は言った。文は答えた。
「天魔さまは、べつにお山様じゃあないのでね。たしかに殺されてしまったのは痛いけど、さしたる痛手じゃないわ。もちろん仇は討たないと行けないけど。悪いけれど、そういう意味では河童も同じね。あいつらはいても、たいした戦力にならないし」
文は薄情な口調で言った。
魔理沙は嫌悪感は感じなかったが、つい、眉をひそめた。
(どうしてこういう言い方をするかね)
こういうやつだとは分かっているのだが、魔理沙も人間であるから、ついつい反発心が沸くのだ。文は続けた。
「山の外の、妖怪やらそういう類の連中も同じかしらね。そもそも、ああいう連中は私らに手を貸さないでしょうし、私らも、外の者の手を借りるつもりはないし。第一、そうしなくとも、この幻想郷でもっとも力を持っている勢力は、他の誰でもなく、私ら天狗だわ。それは絶対」
「――おやおや。こわいこわい」
と、幽香が横から言った。
文は無視していた。
魔理沙は、幽香を見つつ言った。
「なら、そこまで自信を持っているのに、負けるって言い切るのはなんでだ?」
「あんた、地底が今どうなってるか知ってる?」
文は不意に言った。
「いや? 知らないけど」
魔理沙はちょっと考えて言った。
文は眼を細めた。言う。
「だからあんたは頭が無いって言うのよ。耳が遅すぎるわね。地底は昨夜、壊滅したわ。霊夢に襲撃を受けたのよ。現在、旧都はほぼ壊滅状態で、生き残っている者はほとんどいないそうよ。怨霊の管理だけは、是非曲直庁が、泡喰ってもなんとか押さえたらしいけど。こっちも、報告を受けたときは耳を疑ったわね」
「……全滅……?」
魔理沙は言った。さすがに眉をしかめて。
文は続けて言った。
「そう。全滅。古明地さとりの地霊殿と、旧都を含んだ、旧地獄全体のすべてがね。星熊勇儀様以下、元四天王を含む旧都の鬼連中も、残らず死亡したそうだわ。まったく、信じられないでしょう? 私だって信じられないわよ。その信じられないことを、霊夢のやつはたった一人でやったっていうのよね。全く馬鹿げているわ。嘘か本当か知らないけど、どっちみち私には、いや、この幻想郷にいる連中にはもう、あの化け物を止める手だては思いつかない。絶対に負けるでしょうね。地底の、山のようにいた鬼連中を、たったの一人で皆殺しにしてのけてきたようなやつを、どうやって止めろって言うのよ? そう。できるわけがない」
文は罵るように言った。表情は変わらない。
ひきしめた口元に、絶望と諦めが色濃くにじみ出て見えた。その中に、毅然とした意思と、悲愴な覚悟が見え隠れしている。
妙に静かな表情だった。魔理沙は、それを見て、ふと嫌なものを思いだした。
(……)
なるほど、文はまだ諦めていないようだ。それが今から死にに行くことだったとしてもだが。
やるべきことを決めつけて、そこへ向かおうとしている。その顔は誰かに似ていると思った。
先に死んだ、咲夜の顔。
光の中に消えた、咲夜の顔。
轟音が、光とともに届いた。
魔理沙は、視線を移した。
霊夢の位置は、さっきよりも、少し近くなっているようだ。山で交戦していた連中は壊滅させられたのだろうか。
文の肩から、鴉が飛び立った。
前方を見つめて、文は言った。
「……さっきも言ったけどね。山が無事で済んでいたのは、なんのことはない、霊夢が最初からここを最後だと決めていたから。分かるでしょう。それ以外の理由は、たぶんないわ。彼女の望むことには、もうそれほどまで、私らの意思が介在する余地がないのよ。そういう力を、霊夢は持っている。もう、彼女は誰にも止めめられない。たぶん誰だろうと、鬼だろうと、天狗だろうと、山の神だろうと」
(思い詰めすぎだぜ、お前)
魔理沙は、言い返しそうになったが、やめた。
なにか急に馬鹿らしくなった。
文から視線を外す。
文は、ふと思いだしたように言ってきた。
「……ああ。そうだ、魔理沙。あんた、スキマ妖怪に会わなかった?」
「いや」
「そう。……まったく、いったいなにをしてんのかしらね。あいつ。自分の式も殺されてるって言うのに……」
文はぶつぶつと言って、手をのばした。指先にやってきた鴉がとまり、音高く鳴く。
文は閉じていた羽を広げた。
無言で、立っていた木を蹴って、飛び立っていく。霊夢が荒らしているらしい戦場の方へと、鴉天狗の姿が遠ざかる。
(……)
魔理沙は、ふと横にいるアリスと幽香の様子をうかがった。
どちらも動く気配がない。
「お前らは何してるんだ? 協力しないのか?」
「天狗の事情はよくわからないわ。だいたい、協力するなってはっきり言われたし。それなら、何もしないだけよ」
魔理沙は幽香を見た。
「……そっちの大妖怪さんは?」
「ご免ですね。だいたい、天狗は鴉の匂いがするから、嫌いなんですよ。好きにやっていたらいいんじゃないですか? 私も気にしないし」
幽香はそっけない横顔で言った。どっちも馬鹿馬鹿しい理由だ。
魔理沙は思った。
(馬鹿かこいつら?)
半眼になって思う。しかし言い返す言葉は出てこない。
魔理沙は、無言で山のほうを見た。
「……」
そのまま、魔理沙は腰に手を当てていたが、不意に腕を下ろすと、箒をつかんで柄にまたがった。空に飛び上がる。
アリスも幽香も、何も言ってこない。魔理沙は箒を駆った。
高速で追いかけると、わりとゆっくり飛んでいた鴉天狗には、すぐに追いついた。後ろから呼ばわる。
「文!!」
文はふり向いた。そして、こちらを見て、驚きに目を見開いた。
「うわっ!」
あわてて身体を返し、放り投げられた手帳を受け取る。天狗の視力は、魔理沙が放り投げたそれが、一瞬でなんなのか見抜いたらしい。たいしたものだ。
「――ちょっと! 投げんな、馬鹿!! あっ。あんた、だいたい、なんでこれ……」
「阿求のところから持ってきたんだよ。お前な。あんまり縁起でもないことするなよな」
魔理沙は言った。文は、若干気まずそうに言い返してきた。
「そんなもん、人の勝手でしょうが……」
「何が勝手だよ。馬鹿なこと言うな。お前な、こんなもん渡して、もしお前が死んじったら、阿求のやつが辛いだけだろうが。残されるやつのことも、少し考えてやれよ。だいたい、あいつはただでさえ難儀な体質してるんだぜ? お前はそれに、へんな重しまで乗っけてやるつもりなのかよ。……まったく、これだから妖怪ってやつは考えなしだって言うんだよな。もっとよく考えろよな、無駄に長く生きてて、大層な頭もしてるんだからさ……」
「言わせておきゃ、ずけずけとこの……」
文は怒りに顔を赤くして、言い返そうとした。魔理沙はそれを遮って言った。
「じゃあ聞くけどな、お前、そいつを渡すときに、こうは考えなかったのか? ほら、阿求の奴はさ。どうせそんなに長く生きられないだろ? だから、「いいだろ」ってさ。苦しいのも半分くらいで済むから。どうせ「いいだろ」ってさ」
魔理沙は聞いた。文は、半眼になって口を噤んだ。
言い返さない。
魔理沙は続けた。
「冗談言うなよ。十年だろうが五十年だろうが、そいつが死ぬまで生きたら、それが人生って呼ばれるんだぞ。どっちでも同じさ。死ぬまで背負うんなら、長くても短くてもきついんだよ。いいか、人間を甘く見るな。お前のそういうところ、よくないぜ」
魔理沙は言った。
そのままきびすを返す。
「……」
文は、少しの間、物思いしたようで、立ち止まっていた。目は魔理沙を見、そして手元の手帳を見たようだ。
が、やがて手帳を懐にしまうと、群れの方へときびすを返した。
魔理沙は、アリスのところへ戻ってきた。
「ずいぶんひどい言い方するのね」
魔理沙が近くに降り立つと、アリスが言ってきた。
どうやら、遠くからでもさっきの会話が聞こえていたらしい。盗み聞きとは趣味が悪い奴だ。
よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、魔理沙は黙ってアリスを見た。アリスは機嫌悪そうに言ってくる。
「文の奴、あれでも神経細かいところあるのよ。ああいう言い方されるのは、堪えるでしょうに。もうちょっと他の言い方はないの?」
「知らないよ。あいつがあんまり無神経なことやってるから悪いんだよ」
魔理沙は言った。
アリスはさらに言ってくる。
「なにが無神経よ。あんたの今のも、十二分以上に無神経だろ。阿求って子のことも結構だけど、文の気持ちも考えてやりなさいよ。――あのね。苛ついているからって、余所に八つ当たりするのは止めなさい。あんたの場合、へんに頭が良いんだから。そういうときっていうのは、必要以上に人にきついこと言うようになるのよ。分かってる?」
アリスが言うのを聞いて、魔理沙は言い返した。
「うるさいな。人のこと、とやかく言わないでくれるか? うっとおしいんだよ、お前のそういうところ」
言うと、アリスが言い返してくる。
「ほら見ろ、言ってるそばからだ」
魔理沙は、眉をひそめて言い返した。
「あのな。私は人間なんだぜ? お前ら、どっか感覚のねじまがった化け物の類とは、違うんだよ! いいか、私は、いつだって人間の側に立って物を考えているし、お前ら化けもん連中が何考えてるかなんて、さっぱり想像もつかないんだよ。言ってること、分かるか?」
「ああ。あんたがとんでもなく出鱈目な奴だってことだけは分かるな。だいたい、何? 文のやつに勝手だなんだって言っておいて、今あんたが言ってることは、とんでもなく身勝手でしょう」
「身勝手なのは、お前らだよ。お前ら妖怪だ。くそ! どいつもこいつもそうだ。どいつもこいつも、肝心なことは、ちっとも考えてやしないんだ。それでいざとなったらやることは揃って大ざっぱ、口にする言い訳なんかはどいつもこいつも、「妖怪だから適当なんです」「妖怪だから考えてません」「妖怪だから別にいいじゃない」? なんでもかんでも「妖怪だから」「妖怪だから」かよ。馬鹿にすんなよ。私ら人間様はな、お前らのそういう勝手な都合で、いっつもあれこれ振り回されて迷惑してるんだよ。本当に、至極迷惑千万てやつだ。一緒に仲良く暮らしましょうだなんて、とんでもないな。そんな何考えてるのか分からない奴らの隣で、ニコニコ手え差し出されたって、どこの馬鹿が安心するんだよ? お前らいっそのこと、とっとと霊夢に滅ぼされちまえよ。そしたら私らも安心してやるからさ」
「ちょっと。あなたたち、うるさいわよ。喧嘩ならよそでやってよ」
幽香が横から言う。
魔理沙はうるさげに睨んだ。
「うるさいな。あんたはどいてろよ」
「おやおや」
幽香は、肩をすくめて言った。ちょっとは不快に思ったようだが、それ以上はごねずに済ました。
魔理沙は気にしなかった。詫びてやるような気分でもない。
(詫びる? 誰が? 私が?)
魔理沙はののしった。自分で自分を。
構わずに、前を見る。待ちかまえて居並ぶ天狗達の前では、口上が述べられている。
闘志を奮い起こさせるための、勇ましい口上が。
「――よいか、皆の衆!! 臆すな! 怯むな! 天孫の子等の意地を見せよ!」
天狗の長が言った。朗朗と響きわたる声で。
「天道の導きは、我等にある! 天頂を吹く風の威を見せよ! 山野疾く駆ける風の威を見せよ! 断崖打ち砕く、風の威を見せよ!! 最早、鬼が出ようと我等は返らぬ!!」
応、と応じ、居並んだ天狗達が唱和する。
『天道は、我等にあり! 天道は、我等とともにあり!』
ばっと扇がかざされた。
「――いざ。参らん!! 砕!!」
口上を終えて、天狗の胴間声が鳴り立てる。
やがて、霊夢が姿を見せた。
白い服の裾をひるがえして。轟音とともに。
かけ声に合わせて、羽根が広がった。まず、鴉天狗の群れが、空へ飛び立った。
手に持った扇を構え、力を溜める。霊夢は姿を現したばかりである。
「――放て!」
数十に及ぶ扇が、一斉に振られる。風、というにもはばかられるが、それはたしかに風だった。
すさまじい大気の歪みである。見る者の目には、それは巨大な壁となって現れ、一直線に目標へと押しせまる。
まるでひとつの道が形作られているようだった。矛が盾を貫き通すように、遮蔽物の一切を捲き、粉々に砕いて、風の渦が、霊夢へと迫った。
群れになった鴉天狗達に放たれた風は、大気の歪みを生んで、一瞬で霊夢に肉薄する。普通の人間なら、それだけで、四肢をねじ飛ばされそうな凄まじい威力のはずである。
しかし、霊夢は微動だにしない。風が放たれたときには、すでに腕を上げていた。
霊夢に到達する寸前で、風は、なにか透明な壁に当たったかのように、猛烈な勢いで吹き散らされた。大地が吹き飛び、木々がなぎ倒される。
力と力の衝突で、大気が、目に見えるほどに鮮明に歪む。
霊夢の巫女装束は、その余波で、ほんのかすかに揺れただけだ。
「怯むな、次を放て!」
鼻高天狗の発する号令で、ふたたび風が放たれる。
轟音を立て、すさまじい密度で奔る大気の壁が、また霊夢に迫る。霊夢は、ふたたび力を放った。
白い光が風を相殺して弾ける。防ぐのには成功したが、霊夢の足は、そこで完全に止まっていた。
その隙を突いて、霊夢の周りから、白い影がいくつも飛び上がり、疾風のように躍りかかった。手に手に武具を構えた、白狼天狗達である。
先陣を切って斬りかかった一匹の刃が、霊夢の首筋に肉薄する。巫女の細い首筋ぐらいなら、一撃で落としそうな斬撃である。
だが霊夢は、まるで来るのが分かっていたように、そこから身をかわしていた。当たらない。
逆に霊夢の手から、白い光が放たれる。はるか彼方まで一気に貫くような一直線の閃光である。
先頭の白狼天狗を二匹、吹き飛ばするように消し去る。別の一匹が、別のほうから霊夢に斬りかかり、これをかわされる。
霊夢はまた閃光を放ち、さらに斬りかかろうとしていた一匹を消し飛ばした。
白狼天狗の攻撃は、激しいが、霊夢にはまるで届いていなかった。
すべてかわされている。まるで、風に舞う羽毛を追っているように見えた。
数十匹はいようかという群れが、次々とその数を減らしていく。
(駄目だ)
魔理沙は思った。駄目だ。
また二匹が同時に消し飛ばされて、黒焦げの身体が、別々な方へと墜落して、地面を跳ねる。
(無理だ)
攻撃がまるで通じていない。すべて予測した上でそれをさばいているような、薄ら寒い白々しさがある。
天狗たちは、攻勢の手を緩めない。白狼天狗の群れは、やられれば増え、またやられれば、また数を増やし、霊夢の周りを巧みに取り囲んで、一度には斃されないようにしている。
さらにその間を縫って、鴉天狗の風が放たれる。これも霊夢は難なく防いでしまうが、一瞬、動きを止めることくらいはできているようだ。
だが、それだけだ。たしかに、霊夢の足を止めることは出来ている。が、とてもそれだけで倒せるような相手ではない。
(決め手がない……)
魔理沙は思った。どうやって、あれを崩すのか。
白狼天狗達の様子が、まるで、自分から死にに行っているように見える。と、その動きに、急に変化が生じるのが見えた。
ふとある一点へ来たときだ。
白狼天狗達の身体が、すっと消えた。急に退いたのだ。
一斉に。
そして、声が轟いた。
『――隠(オン)!!』
びきり、と、文字にするなら、それはそんな音だった。
「――いっ」
魔理沙は、一瞬眉をしかめて耳を覆った。
凄まじい音だった。
なにか、硬いものに、無理矢理ひびを入れたような。
もしも、分厚いガラスかなにかが、なんらかの作用で、内側から無理矢理に亀裂を入れられたなら、こんな不快な音になるかも知れない。
形容のしがたい、頭が割れそうになる音。魔理沙は気を散らしつつ、眉をひそめて前方を見た。
霊夢は、変わらずにそこにいた。
だが、その動きはどこかおかしかった。
なにか、見えない力に縛られているように、身体がぎりぎりと締めつけられている。
なにかに緊縛されたように、宙に浮いたまま、手足が広げられている。
「放て!」
そこへ、風が浴びせかけられた。霊夢は、それをまともに食らった。
霊夢の肢体が、宙を舞う。
山の中腹。
設けられた祭壇の前。
「よし、効いたな」
神奈子が言った。横に立つ諏訪子は、無言で、麓の様子を見降ろしている。
祭壇の上では、早苗が祈祷の姿勢を取っていた。じっと目を閉じ、動かずにいる。
「――、――」
控えめな唇が、蕩蕩と言葉を紡いでいた。身体からは短い陽炎が立ちのぼり、景色を歪めている。
強力な神気である。二柱の力を受けて、依り代としての力が最大限に発揮されているのだ。
祭壇と、その周りには、御柱が配置されており、祭壇に一柱。祭壇を挟んで二柱。さらに離れて、神社の周辺に四柱。
それを囲むようにして、さらに山の各所に、八柱・十六柱・三十二柱。そして、山の周囲には、麓を取り囲むようにして、六十四柱もの柱を立ててある。
六十四卦の陣符。
守矢の二柱の力と、祭神である守矢の力を配置した結界陣である。今の守矢に行える、最大級の封殺結界だった。
さらに、守矢の結界に合わせて、麓近くの山腹にも、祈祷台が設けられている。
ここでは、鼻高天狗達が並び、祈祷を行っている。念を高めるための結界陣が敷かれてあり、その中で、術者となる者があぐらを組み、一心に念呪を呟いている。
相手の動きを縛る、天狗の外法の念呪である。これを、山の天狗の中でも、秀でた術者を含む者、総勢で行っている。
霊夢の身には、この複合の力が、負荷となってかかっている。なまじっかの神や鬼くらいなら、楽に封殺するほどの力だ。
天狗らが山の神と合議して用意した切り札である。
起動した結界は、刀のように空間を奔り、霊夢の動きは、完全に縛られていた。
力をこめた右腕が震え、霊夢は表情のない顔のまま、封縛を解こうとしていた。
「――放て!」
そこへ、また鴉天狗の風が、森を切り開いて放たれる。風はそのまま、動けない霊夢に浴びせられた。
霊夢はなすすべ無く、今度もまともにこれを食らった。
風に巻かれて、霊夢の肢体が宙を回る。そのまま、霊夢は地面に墜落した。
身体が一度、地面を跳ねて、もう一度、地面を跳ねる。そのまま骨も砕けそうな勢いで、木の幹に激突した。
霊夢はそのまま地面に転がり、手足を投げ出した形で倒れた。受け身もろくに取れていない。そこへ、また風が浴びせられた。
霊夢の身体は、鞠のように地を跳ね飛んだ。
地面をはね回るようにはずみ、木の幹や岩に幾度もぶつけられる。
純白の巫女の衣装が汚れ、霊夢の身体もところどころ出血していた。さらに浴びせられる風。さらに浴びせられる風。
魔理沙は、胸が悪くなりそうなのを感じた。天狗達に向けて、魔砲を使ってやろうかとも思う。
だが、人間なら、とっくに血の固まりのようになっているはずの責めを受けても、霊夢はまだ、動こうとしているようだった。それを確認するたびに、さらに風が放たれる。
やがて、霊夢は動くのをやめた。そこへ、さらにもう一撃、二撃、三撃、と風が重ねて放たれる。四発目。五発目。六発目。七発。八。九。十。
数えるのも面倒になるほど繰り返され、そこでようやく風が途切れた。霊夢はもう指先すら動かさなくなっている。
そこへ、間髪入れないタイミングで、突如、白い影が奔った。霊夢の周囲から、大小様々な姿が飛び出してくる。
白狼天狗の群れだ。繁みを縫って、霊夢の周りを取り囲んでいたのだ。
白狼天狗は、それぞれが、その手に漆黒の刃を持つ短刀を携えている。霊夢に肉薄すると、一斉に短刀をふりかざした。
「――砕!!」
一番若い一頭が、かけ声を上げる。
それを合図に、動けない霊夢の胴を目がけ、刃の先が一気に振り下ろされる。
(やめろ――)
見ていた魔理沙は、一瞬、そう叫びかけた。
声には出さなかったが――。
「――、――?」
魔理沙は眉をひそめた。
突如として、妙なことが起こった。
霊夢の周りの白狼天狗が、一斉に動きを止めたのが見えた。
まるで時が止まったかのように。それは人形のように唐突に、一匹が、頭をふらつかせ、突如倒れ伏すのが見えた。
どさり。
どさり、どさりと。
一匹が倒れたのを皮切りに、糸に引かれたように、次々と白狼天狗達が倒れ伏す。落ちた短刀が無機質な音を立てた。
やがて、場が静まりかえる。
その場にいた白狼天狗たちは、みな例外なく、ほんの一瞬で地面に倒れ伏していた。全員が刀を手放して。
あとには誰も動かない。ぴくりともしない。
「……」
一瞬、天狗達が静まりかえった。
(……?)
疑問符が、無言の戦慄となって場を支配した。誰も言葉を発さない。
緊迫した空気の中で、それは奇妙な沈黙だった。ほんの短い間ではあったが、それは時間が動きを遅くしたかのように、鮮明に感じられた。
霊夢は、震える腕を立てて、すでに起き上がろうとしている。結界の力はまだ有効らしく、霊夢の動きは、目に見えて鈍い。
その衣装に、少し変化が生じていた。服の色が少し変わっていたのだ。
白だった衣装が、灰色を帯びた色に変わっている。倒れた天狗達は、ぴくりとも動かない。
(……眠った……?)
遠目にはそうとしか見えない。分からないが、違うようにも思われた。
場が、ざわざわと、呟きで騒がしくなり始める。
「――静まれ!!」
かけ声がかかる。天狗達は、それですぐにはっとして、また統制を取り戻したようだ。
無言の合図に合わせて、今度は鼻高天狗の一隊が、踏み出して獲物を握る。二隊に分かれ、前衛は根を。後衛は、手に手に数珠を取りだして、握る。
武装した鼻高天狗達の上を、さらに、風の壁が幾重にもなって駆け抜ける。
鴉天狗達が、分散して固まり、さまざまな方向から風を放ち始めたのだ。
霊夢の身体が、また地面を離れ、風の直撃を受けて、木の葉のように吹き散らされる。そのまま、骨も砕けんばかりに地面を跳ね踊った。
血まみれで、巫女の服もあちこち裂けている。それはどう見ても満身創痍の様子に変わりない。
だが、霊夢はなおも起き上がろうとしている。その顔には、苦悶の表情さえ浮かんでいない。
統制の取れた鼻高天狗達が、羽を広げ、そこへと殺到していく。前衛と後衛に分かれ、後衛の者は、霊夢に念呪を飛ばす隊形を取った。
前衛の者の根の切っ先が迫り、霊夢の頭部を目がけて肉薄する。
(?)
魔理沙は眉をひそめた。
また、急に妙なことが起こった。
霊夢に向かっていった鼻高天狗達の数匹が、今度は、急に同士討ちを始めたのだ。
同士討ちだ。一匹の根が、前衛にいた一匹を打ち倒し、一匹の放った念呪が、前衛にいる一匹を縛りつける。
唐突だった。前衛から引き返した一匹の根が、後衛にいた者に向けて振り抜かれた。
骨の砕ける音。血反吐。
鼻高天狗たちは、もはや誰も霊夢を見ていなかった。天狗同士で、凄惨を極める争いに及んでいる。
(正気を無くしてる……?)
魔理沙は思った。
ふと、鼻高天狗達の目が見える。紅く、爛々と輝く目が。
不吉な赤色に輝く目が。
「放て!!」
後方の鴉天狗の群れから号令が轟いた。瞬時に風が生まれ、大気が渦を巻く。
風は霊夢を吹き飛ばしたが、鼻高天狗の数匹がまともに巻きこまれた。
「――っ!!!」
鴉天狗の放つ巨大な風に打ちのめされて、頑強な巨体は、いくつも地面に転がった。
何匹かは、そのまま動かなくなる。
正気か。今のは、明らかに鼻高天狗の群れを狙い、霊夢をまとめて吹き飛ばそうとしたものに見えた。
(なにしてんだ?)
魔理沙は思った。だが、そのとたん、声がかかる。
「おい、やめろ!! 誰だ、今のは!? 何を――」
叫び声。悲鳴。
今度は、鴉天狗の群れから苦悶の声が上がった。
後方から飛んできた念呪で縛られ、鴉天狗の数匹が地に落ちる。次々と、あちこちから風が飛び交い、白狼天狗と鼻高天狗をまとめて吹き飛ばした。
悲鳴。叫び声。
あらぬ方向に、次々と風が飛び交う。
鴉天狗達の身体が宙を舞い上がり、そして、風に巻かれて次々と落とされる。地面と接触した者の身体から、血が飛びちった。
「うあああああああ!!」
悲鳴。
風にねじきられ、もげた手足が吹き飛ぶ。いくつも吹き飛んで、木の幹に当たる。
同士討ちが、こちらでも始まっていた。振り下ろされる団扇、飛んでくる根の衝撃。
念で縛られて、空から落とされる鴉天狗の身体。天狗達の目は、いつのまにか、真っ赤に染まっていた。
血の赤ではない。爛々と輝く、月の光のような紅色である。
牙をむき出しにした顔で、天狗達は互い同士で争い合うのを続けている。
状況はそれどころではないのに。霊夢が、いつのまにか立ち上がっている。
さっきまでの、ぼろぼろの様子がまるで振りだったように、何も起きていないかのように、、ゆらりと立ち上がった。
『――』
ふと、霊夢が片手を上げた。ふっと。
『――』
血の筋を引いた唇が、なにかを呟いている。上げた腕を、何かへと掲げるように。
なにかを誘うように。
『――、』
さらに呟く。小さく。
その瞬間、何かが空間を満たすのが分かった。何か。
何かだ。そう。
『――。――』
なにか、目には見えない何かが、空間に満ち、鳴動した。どくんと。
それに呼応して、天が音を鳴らす。鼓動のような、怒りのような。
一瞬、空が揺れ動いたようにも思えた。なにかに威圧されたように。
「……?」
魔理沙は空を見た。
なんだ。
なにか、どうしようもない違和感がある。
何の変哲もない空。何の変哲もない空だ。
そこに、いつのまにか、わだかまるようにして赤黒い雲がわいていた。
『かしこみ、かしこみ。しらずみ、しらずみ』
声が聞こえた。地の底から響くような、澄んだ鈴の音のような声。
『かしこみ、かしこみ、申し上げます。申し上げます。降り来たりませい。降り来たりませい。あまつかみ、つちのかみ。おん高き所におわす方。降り来たりませい』
霊夢が呟いていた。感情のない無機質な唇が、言葉を紡いでいる。
それは普段の霊夢とはかけ離れ、似ても似つかない声音だった。
『降り来たりませい。魑魅魍魎の跋扈する此方へ。万条八百万の彷徨く此方へ。申し上げます、あまつかみ。人の子、神の御力に仕えし神子が申し上げます。かしこみ、かしこみ申し上げます』
魔理沙には、霊夢の呟いている言葉に、聞き覚えがあった。
(のりと、ってやつだっけ……?)
神降ろしの言葉。
空に沸く雲の動きは、異様に速かった。それは明らかに不自然な動きで、たちまち天が赤黒く覆われていく。
あっというまに太陽が覆われた。影が落ちる。
あたりは夕暮れのような暗さに包まれた。雲の覆った広大な区域だけが、大きく闇が落ちていて、その外からわずかに光が漏れていた。
(なんだ――)
魔理沙は怪訝な目で空を見ていた。我知らず、目を見張っている。
そのあいだにも、雲は、さらに分厚くなって、天を覆いかくしている。
ふと。
今度は、その真ん中の辺りがふいに割れ始めているのが見えた。雲がそこだけ反対にうごめいている。
ゆっくりと。
なにか、巨大なものがゆっくりと下降してくるような。そんな動きだった。
やがて、雲が完全に割れたところからは光が差した。目映い光だ。
地上を刺し貫くような、ひとすじの淡い光だ。
光は雲の割れたところからも漏れていた。眩しい、と魔理沙は思った。
太陽の光とは違う。まるで――そう、まるで。
天界の。眩しく、清浄で、濁りのない日の光。
そして、その光とともに雲の陰に隠れていた、なにか巨大なものが、姿を現し始めた。
(……、狼……?)
魔理沙はそんなことを思った。それは確かに狼によく似ていた。
ただ、それは狼ではないようだった。長いあぎと。巨大な牙。
馬鹿馬鹿しいほどに巨大な生き物。まるで現実感のない、神話の中の獣のようなものが、雲のはざまから下りてくる。
それは、魔理沙が今まで見たこともないような獣の姿をしていた。
それは、途方もなく巨大な、黄金色のあぎとを持っていた。
神奈子は眉をひそめた。
前線の様子がおかしい。
(何事なのよ……)
神奈子の目なら、これほど遠くからでも、前線の様子は見渡せる。
それによるとどうも天狗達が、同士討ちを始めているのが見えるのだ。
まるで、阿鼻叫喚の図だ。気でも狂ったかのような形相で、天狗達は争っている。
おまけに、巫女はもう立ち上がっているようだ。腕を頭上へ掲げている。
(まさか、これだけの結界に縛られて動くとはね……)
神奈子は眼を細めた。やはり、自分が下りていって力を貸すべきか。
天狗達は手出しを好まないだろうが、このまま見捨てるということもできない。結界を維持するには、諏訪子がここに残っていればいい。
(天狗たちでも手に負えないのでは、しかたないかしら――)
ふと空を見る。
(ん?)
神奈子は、別のことに気づいて、眉をひそめた。
ただならぬ気配がしていた。いつのまにか、空が異様な雲に覆われている。
(……?)
鳴動している。空ではなく、天が。
まるで、雷が鳴る前のように。風が吹き渡るように。
雲は、ただ沸いているというだけではなかった。なにか非常に色が赤黒く、そして分厚い。
いくえにも重なって沸いているようで、日の光はみるみるうちに遮られていった。あたりがすっかり暗くなる。
まるで日の光が喰われてしまったようだ。不吉な光景。
(何だ……嵐?)
神奈子は一瞬、そのようにも思った。
雲は、とぐろを巻いて天を鈍く輝かせている。嵐の前兆にも似ている。
だが、不意に吹いてきた風は、乾いていた。雨の気配は、微塵も含んでいない。
(……)
天が啼いている。
大気が渦を巻いていた。
「……?」
(これは……)
神奈子は、背筋があわ立つのを感じていた。肌がびりびりと威圧で震えていた。
有り得ないことだった。この身体が、圧倒されている。
他者への畏れを知らない、神であるはずの自分の肉体が、自分以外のものに畏れを抱いている。
やがて、集まっていた雲は、しだいに半ばから割れ始めた。
ゆっくりと、なにかが降り立つように。
そして。
「――。」
神奈子は目を見張った。そして、言葉を失っていた。
目を見開いたままで、天を見る。
雲が割れる。割れたところから、光が満ちている。
目映い光だ。まるで、高天原から差す、天照の御光のようだ。
どこまでも眩しく、力強く、荒々しい。真っ白な光。
その光を遮って、なにか、途方もなく巨大なものが下りてくる。溢れる力に充ち満ちた黄金の毛を逆立てて、獣のあぎとがゆったりと下りてくる。
それは、馬鹿げたほどに巨大だった。黄金色に光る鋭い牙をしていた。
見上げるほどに大きな口が、開かれていく。
あまつ、りゅうのかみ。
神奈子は、呆然と、畏れを持って呟いた。
「龍……神……」
風の向きが変わった。それも急激に。
それまで、飄々と野を吹き渡っていた風が、一斉にその向きを変えた。
開いた獣のあぎとを目がけて。
風が一斉に吸いこまれていく。
「白狼共は、どうした!?」
文は尋ねた。同輩と合図しあっていた白狼天狗は、仲間にうなずいてから、文に答えた。
「やはり駄目です。筆頭の犬走を始め、襲撃に向かった者は、みな事切れています――」
文は、一瞬眉をしかめたが、すぐに指示を飛ばした。
「仕方がないわ、とにかくあの短刀だけは回収して――」
ふと空を見る。
文は、阿鼻叫喚の絵図が続く、自陣から目を離していた。突如として始まった同士討ちは、すでに辛酸をきわめている。
文はどうにか正気を保っていて、陣の立て直しに努めており、前衛で狂った連中の相手をしていた。この力には、多少の覚えがあるせいもあり、早くに対応できたせいだ。
波長を読み取り、操る能力。
(くそ。月の力か――!)
狂気の瞳。竹林の月兎が使う、あの技だ。
どうして霊夢がこれを使えるのかは知らない。だが、間違いはなかった。
それをいち早く察知した文は、周りの者に霊夢の視界に入らないよう、注意を促すので精一杯だった。
文は空を見た。気づかないうちに、雲がわいていた。しかもなにか、天の高いところには、馬鹿げたほどに巨大なものまで出現している。
それは文が今まで一度も目にしたことのない獣だった。
(なによ、あれは――)
目を見開いて思う。その途端。
轟、と。
音が鳴った。
(――!!)
文は、そのときに自分が何を思っていたか覚えていない。
ただ、風が自分の周りを吹いたのは感じていた。圧倒的で、全てを飲みこむような風が。
天のはるか高くまで吹く、竜巻を思わせるような風が。周囲を巻きこんで、ただ天頂の高くへと、一気に駆け上がっていく風が吹いた。
天の頂へと、呑み込まれていく風が。文は、必死に踏みとどまった。
それだけで精一杯だった。
近くにいた白狼天狗が、ひゅお、と鞠のように飛んでいくのが見えた。それだけでない。
目で追うと、向こうで争っていた仲間達が、次々と空へ向けて飛んでいく。いや。
飛ばされていく。
紙吹雪が風に舞うように。
軽く。
みし、みし、と音がした。ばきばきと引きはがされる音がした。
周りの木々が悲鳴を上げている。根ごと地面から抜け落ちて、その途端、宙に浮き、またたく間に空へと昇っていく。
大人が腕を回しきれないほどの木々が、まるで、マッチ棒のようにかるがると浮いていた。
縦に回って飛んでいく。地から、空から、引きはがされるようにして、無数の天狗の影が、次々と、宙を舞っていく。空に吸いこまれていく。
とどまれるものはいなかった。
鼻高天狗の巨体が、まるで塵芥のようだった。
地から離れた天狗たちの身体は、一気にすさまじい天高くへと跳ね上がり、見る間に天に昇っていく。風の吹く先には、目も眩むほどの巨大な龍のあぎとがある。
昇った者は、そのなかへと吸いこまれていくのだった。
天狗は、つぎつぎと姿を消し、その数を減らしていった。
一羽、二羽、三人、四人。
五匹。六匹。
みしり、と、地面に突き立つ御柱が傾いだ。
山の各所や周囲に設置された柱は、みな一様に悲鳴を上げていた。
宙の開いたあぎとに引っ張られるように、先端がななめに傾ぐ。
しっかりと地面にくいついていた先が抜け、見る間に宙へと舞いあがる。
まるで、つむじ風に舞う木ぎれのようなものだった。
縦に回転して、かるがると空高くに捲き上げられる。
遙かな雲の頂点にあるのは、龍の開いたあぎとと、目も眩むほどに巨大な牙である。吹き上げられたものが、尋常でない速度でその中に納まっていく。
森も。岩も。柱も。
天狗も。何もかも。
その光景は、やけに現実感が薄く、ゆっくりとしてさえ見えた。
「――」
神奈子は、我知らず膝を落としていた。
しばし、呆然とする。空を見上げて。
空を貫いた、異形の姿を見て。巨大な獣のあぎとを見て。
(……)
ひとりでに、呟きがこぼれだす。
(嘘だろう……)
嘘だろう?
蒼白な顔色が、言わずともそう物語っているようだった。
その目は空ではなく、天を見ていた。
大きな龍のあぎとが開き、風を巻き上げ始めた、天の頂きを。
「嘘だろう……」
神奈子は言った。
声が震える。
(嘘だろう?)
「――ちょっと! 神奈子!? なにしてんのよ、こらっ!」
横から諏訪子の声がする。
肩をつかんで、揺さぶってくる。
突然の神奈子の様子に驚いたのだろう。無理もない。
彼女は知らないのだろう。天で生まれたものではないから。風を渡る神なら、誰もが聞き及ぶ、あの神の名を知らないのだろう。
神奈子は、諏訪子の声が聞こえていないかのように、力無く首を横にふった。
「駄目だ」
言う。
静かに。
諏訪子に向かってではなく。
誰にむけて、と言うわけでもなく。
(あんなもの、手に負えるわけがない……)
言う。
戦慄をこめて。
(駄目だ……)
上空にいる龍の姿を。その神々しいほどの威容を見あげて。
巨大な旧き「竜」の姿を目の当たりにして。
「あんなもの、手に負えるわけがない……」
神奈子はもう一度言った。
今度は口に出して。
(あれは……)
あれは。あれは。
アマツリュウノカミ。
(アマツリュウノカミ……)
「……あまつりゅうのかみ……」
神奈子は呟いた。
天津龍之神。
天界を統べる龍の神。
この幻想郷の中でも最上位に位置する種族の神。
あれは、龍神。
天の神。
どうして、巫女があれを呼び出せたのか知らない。人間の召還になど応じないはずだ。
だが事実として、あれはそこにいる。守矢の張った結界も、戦場にいる天狗達も、なにもかも吸いこんでいく。
(勝ち目がない。どうしてだ。どうしてあいつは、あんなものを呼び寄せられるのよ……!)
格が違う。一度折った足からは、力が抜けていく。
「――えっ。あっ」
と。
早苗が声をあげるのが聞こえた。
神奈子は、はっとした。顔を上げる。
見ると、結界の中にいた早苗の身体が、ばきばきと音を立てる祭壇に巻きこまれて、空に浮き上がりかけているのが見えた。
「――、――!」
神奈子はまずい、と思った。
すかさず、手をかざそうとした瞬間、早苗の足が地面を離れる。
「きゃ――」
早苗の口が悲鳴の形に開かれるのが見えた。神奈子は、咄嗟にそのまま神力を飛ばした。見えない手で早苗の身体をつかんで、宙につなぎとめる。
間一髪、早苗の身体は空中にとどまった。
が、それも一瞬だけだ。すぐに、がくん、と急にのけぞった。
「――うあっ! ――うああっ!」
早苗が悲鳴を上げる。
苦痛にうめく声だった。声に、引き絞られた布のような音が混じっている。
神奈子は、それを聞き、背筋に冷たいものを走らせた。
(まずい)
力が拮抗しているのだ。間に挟まれる早苗の身体に、そのせいで負荷がかかっている。
神同士の力の綱引きである。これ以上力をこめれば、まだ半分は人間の身体にしかすぎない早苗は、確実に引き切れて、飛びちるだろう。
「諏訪子――」
「離すな!」
神奈子が言う前に、横の諏訪子は、もう走り出していた。
神奈子に怒鳴りつけ、風のような速度で地を蹴り祭壇のほうへと走りこむ。神奈子は、こころえて神力をそのまま維持した。
(大丈夫だ、間に合う――)
が、そう思った瞬間だった。
ぐん、と引く力が、急に強さを増した。
「――、ひひゅ――ッ!」
一瞬、がくん、と早苗が大きくのけぞって、嫌な音を漏らした。
「――」
手に返った寒気のする感触に、神奈子は思わず、力を緩めていた。
そしてその瞬間に、一気に早苗の身体が引かれた。
(しまった)
隙を突かれた。
束縛を解かれて、早苗が宙に浮き上がる。
「バカッ!!」
諏訪子がののしった。
祭壇には、一歩遠いところにいる。
諏訪子は飛んだ。素早く、かつ、ひとっとびにとんでいき、巻き上げられる早苗の身体にがっしりと飛びついた。
幼い感じのする眉をいっぱいにしかめて、早苗の身体を力一杯ブン回す。
「ううおりゃああっ!」
諏訪子は、雄叫びを上げた。早苗の身体が吹っ飛び、勢いよく外へ投げ出された。
「うおっ!」
高すぎだ、馬鹿とののしりながら、神奈子は、早苗の身体へと走った。走っては間に合わない。途中で咄嗟に姿を消して、転移させる。
滑り込むようにして、落下地点へと姿を現し、神奈子は早苗の身体を抱き留めた。
「うおっ」
と、勢いでよろめき、「いたっ」と、後ろに倒れ込む。
「ふうっ……ああ、まったくもう」
すぐにちらりと早苗の顔を確認する。ぐったりとして、目を閉じている。
顔を近づけて確かめると、息はしていた。
どうやら気を失っているようだ。
(ちょっと無茶がかかりすぎたかしら……)
こっそり思いつつ、目を上げる。一応、念のためだった。
諏訪子なら放っておいてもたいていは大丈夫であるし、特別、その身を案じたわけではなかったが。
「っ!」
が、目の前の光景を見て、神奈子ははっとした。
諏訪子の姿が、まだ宙にとどまっているのが見える。
降りてきていない。
その身体が、徐々にのけぞりかけている。
あそこは――。
(結界の中――)
神奈子は咄嗟に手を上げた。
神力で引っ張ろうと思ったのだ。
力の指先を伸ばす。
諏訪子なら、加減なく引っ張っても耐えるから問題はない。まだ間に合う。
が、諏訪子に力の指先がかかる瞬間だった。
諏訪子の身体がふわりと浮いて、指先をかわした。
「――、あ――!」
「――!」
諏訪子が叫ぶのと同時で、神奈子も叫んでいたはずだ。
浮く。
羽毛のように軽く浮く。諏訪子の小柄な身体は、一気に跳ね上げられた。
途中で、頭から帽子が吹き飛ぶ。帽子は吸いこまれずに、どこともしれないところへ落ちていった。
諏訪子は落ちてこなかった。大きく軌道を描いた身体が、そのまま、あっというまに豆粒のようになり、龍のあぎとのほうへと吸い上げられていった。
見えなくなった。
神奈子は手を上げたまま、呆然とそれを見ていた。
「……」
驚いたままの唇が、なにか言いかける。
龍のあぎとは轟音を巻いて、ようやく閉じていく。
神奈子は呆然としていた。
ようやく呟く。
一言。
「……」
諏訪子、と。
空が紅い。
血に染まったように、朱色の雲が広がっていく。
――CONTINUE?
そう思うほど集中して読みました。いやこれは凄い。
まだ完結してないのでフリーレスで。
悲惨な描写もさすがですね。
どんなオチも覚悟しつつ、色々予想して楽しんでます。
霊夢の意思じゃないのか…?
キーになるのはやはり魔理沙か。
しかし無言坂氏がここまで戦闘シーンを書けるとは思いませんでした。
非常に面白かったです。
それはともかく紫の動きが気になりますね。
まさか既に殺られているということはないですよね……?
この先、これまでで俺らが欠片でも予想できている続きがあるんだろうか?
先がどんな形でも、続きを読みたいっす…!
ともあれ、完結編お待ちしております
まあそれは良いとして、あなたの書く人物には嘘が無い。というか無駄が無い。特にセリフ。
音にならない声にならない科白こそが生き生きと感じる。不思議。
ここまで自然だとどんな終わりも納得させられる気がするから困る。
優曇華やお空と似た能力を使ったような描写もあったけど、似た術使ってるだけなのか、奪ったのかなぁ。
続きが待ちどおしいです。
でも、それでも納得してしまいそうな自分が…
今回は、満点とはしません
しかし、ゆうかりんが魔理沙に敬語ってのもなんか違和感あるなww
自分には新鮮だから良いけど。
霊夢が殺害狂だろうと、紫オチだろうと、まだ生きてる面子が霊夢に勝とうと、面白ければ正義だ。
霊夢の豹変の理由は分からないけど、姿の見えない霖之助と紫が何か怪しい気がするな
ところで
>「そう。……まったく、いったいなにをしてんのかしらね。あいつ。自分の式も殺されてるって言うのに……」
あれ?藍いつ死んだっけ?
でも霊夢がなんで妖怪だけ狙い撃ってるのかは分からないまんまだな
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