「お布団って素晴らしいわ、蓮子! ああ、このふかふかの寝心地、最高!」
あんたは日本人か。そんなツッコミを入れたくなったのは、深夜二時が近くなった頃だった。京都のアパートの一室で、金髪の外人少女が布団を敷いているという状況は、少し滑稽にも思えるけどね。
「はいはい、そうですねー」
疲れてテンションが一周しているのか、布団の上でやけに嬉しそうにしてるメリーとは対照的に、私はテーブルの上でぐったりと伸びた体勢のまま返事した。メリーの部屋に来て、早や九時間以上。ようやく作業から解放されて、もはや私には気力も体力も残っていなかった。
そもそもの発端はこうだ。
私、宇佐見蓮子は今日――日付的には昨日だけど――の夕方にメリーのアパートを訪ねた。特に用事はなかったけど、最近あまり活動できてなかったので、その辺の相談でもしつつ遊ぼうかと画策していたのよね。
ところが、私が部屋を訪ねたところ、
『渡りに船とはこのことなのね!』
と、私を出迎えてくれるなり、マエリベリー・ハーン――通称メリーは私を思いっきり抱きしめ、あろうことか軽く泣き出した。どうやら話を聞くと、論文計画の提出締切がヤバくて四苦八苦していたらしい。そういえば、私のゼミでも先輩が悲鳴をあげていたような。
『仕方ないわね、手伝ってあげる』
親友の窮地を見過ごすほど、私は薄情な人間ではない。見かねた私は、快く手伝いを申し出てしまった。
今にして思えば、悪夢の入口って、どこにでも転がってるものなのね……。
そこからは怒涛の猛作業。用意していたはずの参考資料がなくなるなどのアクシデントに何度も見舞われた末、たった今、ようやく終焉を迎えたという経緯である。但し、なくなった本が数冊、まだ見つかっていないままだけど。
ここまでアクシデント続きだと、正直、何かに化かされているんじゃないかとさえ疑ってしまうわね。
「蓮子、ありがとうね、ここまで手伝ってくれて。お陰で余裕を持って終わらせることができたわ」
「こんなに徹底的に手伝わされるとは思ってなかったわよ……」
メリーは満面の笑顔で労ってくれるが、正直、私もそろそろ限界が近い。腕とか腰から、早く休ませろと抗議の大合唱があがっている。
「ねえ、メリー? 今日、泊まってってもいいかな?」
「いいわよ。さすがに、ここまでして追い帰すような真似はしないわ」
メリーは自慢のブロンドをかきながら、寛容なお言葉をのたまった。メリーの部屋に泊まるのは初めてではないけど、決して頻繁なわけでもない。でも、頼めば必ずOKしてくれる懐の広さには、本当に頭が上がらないわ。
「じゃー布団貸してー」
「うーん……せっかくだし、一緒の布団に寝ちゃう?」
すると、予想斜め上の返答が来た。何気なく髪を直してる仕草とか、パジャマ姿で女の子座りしながら布団をぽむぽむと叩いていたりで、言ってる内容と相まってかなり扇情的な絵面なんだけど、それ以上に、もう布団を敷くのも億劫だったのが大きかった。
「ん」
ほとんど唸るように即答して、カジュアルタイを手早く解く。今日は都合の良いことにお化粧してないし、カッターシャツはとっくにしわだらけ。スカートがしわになるのさえ目をつぶれば、何の問題もない。
「え、えっ!?」
もそもそとメリーの布団に潜り込むと、何故か当のメリーが慌てていた。どうやら、さっきの『一緒に寝る?』発言は冗談だったみたいだけど、眠い時にそんな冗談を言う方が悪いのよ。
よし、さっさと寝ましょう――っと、その前に。
眠気を紙一重のところでこらえて、右手で目的のものを探る。ほどなくして、お目当てのものに辿り着いた。
「……蓮、子?」
メリーの手に、軽く指を絡める。暖かくて柔らかい感触が手のひらに伝わってきた。思いつきだった割には、想像を超える満足感ね。これなら、疲れてても悪夢は見ずに済みそう。
「お休み、メリー」
ぽそりと呟いてから、目を閉じて睡魔に身を委ねた。その途端、凄い勢いで眠気が体中に浸透してくる。
「うん。お休み、蓮子」
意識が薄れる中、優しげなメリーの声が耳に届いた。メリーがどんな表情なのかわからないけど、軽く握り返される手の感触だけで、想像するには難くない。
湯冷ましのような気持ちの良い暖かさに包まれながら、私の意識は睡魔に敗れ、暗転した。
◇◆◇◆◇◆
辺りは一面、ぼんやりとした薄暗い空間だった。
その中にぼうと浮かび上がる、一軒の純日本風家屋。辺りには朝霧のような靄がかかっていて、家の姿もどこか曖昧にしか見えない。まるで砂上の楼閣、蜃気楼のような危うさだ。
おぼろに輪郭を変えていく建物を前に、私はただ、呆然と突っ立っていることしかできなかった。ううん、もしかしたら歩いていたのかもしれないけど、体中の感覚がなくなっていて、まるで3D映像の中にいるような浮遊感だった。
朝霧は徐々に濃さを増してくる。やがて家が完全に見えなくなり、視界が完全に靄の中に包まれた。唯一、右手に、湯冷ましを思わせる暖かさだけを感じることができていた。
◇◆◇◆◇◆
目を開けると、天井が広がっていた。天井、天井。ああ、木でできてるわね、木目が見えるもの。うん、木造建築は癒しだわ。
「……ぇ?」
そこまで無駄な思考を回したところで、私の脳がようやく違和感を覚えた。メリーのアパートは前時代的な木造建築なんかじゃない。おかしい、ここはどこ。心にアラートが鳴り響き、一瞬にして目が覚めてしまった。
がばっと勢いよく起き上がろうとしたところで、右手に伝わる人肌の暖かさに気がついた。音を立てないよう、静かに首を横へ回すと、メリーが隣の布団から私の布団の中に手を突っ込んで、きゅっと右手を握っていた。
同じ布団ではなくなっていたものの、すやすやと幸せそうな寝息を立てるメリーが無事に隣にいる。そのことに安心したせいか、心の中に響いていたアラート音は、あっという間に止まってしまった。
さて、相方の無事も確認できたところで、改めてこの状況を確認。私たちが寝ていたのは、今時珍しい畳張り――純日本風の和室みたいね。パッと見、広さは大体十二畳くらいかしら。私たちと布団以外には、机が一脚に座布団が数枚、それに箪笥なんかの家具が少し置いてある程度。
いつの間にか別の布団で寝ていたことも含めて、ここは明らかにメリーの部屋ではない。となると、真っ先に思いつくのは――
(また夢の世界に来ちゃったの? 前みたいな面倒はごめんなんだけどなぁ)
秘封倶楽部のメンバーにして私の相棒、マエリベリー・ハーンが持つ、とある能力のことだ。
〈結界の境目が見える程度の能力〉。その名の通り、彼女はこの世と別の世界を繋ぐ境界を見る、あるいは感知することができる。但し、的中率は半々ってところだけど。
それだけなら別にいい。問題は、私たちが以前、その境界を越えてしまったことがあるってこと。その時は紅い館やら竹林やらに行って、軽く追いかけまわされたりもしたんだけど、今回はどうやら、それとは別の場所に来てしまったみたいね。
(もう、夢旅行だなんて、不自由なレジャーもあったものね。日程も行先も決められないなんて)
とは思うものの、愚痴を言っても始まらない。とりあえず、メリーを起こして、どうするか決めよう。
「おーい、メリー。起きなさーい」
呼びかけながら、まずはほっぺを突っつく。全然起きない。
ならば、と、今度はうにーっとほっぺを引っ張る。あ、ちょっと呻いた。いけない、楽しくなってきたわ。
さて、お次はどうしてやろうか。ほれほれ、早く起きろ。
「あのー」
悪ノリに任せて悪戯をしていたところに、誰かの声が割って入ってきた。ほっぺを摘んだまま、声がした方に顔を向けると、小柄な少女がふすまを開けて立っていた。
身長と顔つきから見るに、中学生から高校生くらいの年齢だろう。帯から上は黄色、下は赤を基調にした和服という装いだ。くりっとした瞳と、花を模した髪飾りのせいで、とても無垢な印象を受ける。
「あ、ああ、あの、これはね、ちょっと悪ノリしただけで……」
メリーへの悪戯を初対面の人に見られたというのはあまりよろしくない。どうにか適当に誤魔化そうと、寝起きの頭を強引に回す。
すると、少女は野に咲く一輪の花のように、儚くも美しい笑顔を作り、
「大丈夫です。私、一度見たら忘れませんから」
遠回しに手遅れだと伝えてきた。
「あ、はい、ソウデスカ」
唇をぎこちなく動かし、やっとの思いでそれだけ口にして、メリーのほっぺから手を離す。こういう手合いには反論するだけ無駄だ。
一拍、呼吸を整えてから、ぶんぶんと頭を振って意識を切り替える。今はそれより、先に尋ねるべきことがあるはずだ。
「ところで、貴女は誰? 私たち、どうしてここにいるの? そもそも、ここは何処?」
ここが夢の世界だというのはまだ理解できるけど、ご丁寧に布団に寝かされていたという状況がまだ把握できない。以前、夢の世界に来た時は、気が付いたらぽつんと突っ立っていたと思ったけど。
「私は稗田阿求。この屋敷に住んでます」
少女――阿求は、可愛らしくぺこりと頭を下げてきた。日本人形みたいなその仕草に軽く見とれていた私は、我に返ると慌てて頭を下げた。
「うん、阿求さんね。私は宇佐見蓮子。こっちで寝てるのがメリーよ」
「メリー、さん……」
メリーに目を向けた阿求は、とても怪訝そうな視線を放っていた。まるで変装を見破ろうとしているかのような、重箱の隅まで射抜く、疑り深い目つきだ。
「あの、阿求さん? メリーがどうかしたの?」
「あ、いえ、知り合いによく似ていたもので」
「そう。ところで、私たちがここで寝ていたのはどうしてかしら?」
「覚えてないんですか? お二人は屋敷の玄関に、行き倒れみたいにもたれ掛かってたんですよ? それを早朝に家の者が見つけて、この部屋で介抱したんです。心配してたんですが、無事で何よりです」
なるほど、大体合点がいった。起きる前にぼんやり見ていたあの映像は、私たちがこっちの世界に来た直後の出来事だったようだ。
「ありがとうね、わざわざ介抱してくれて」
「いえいえ。布団に寝かせただけです、別に手間というほどでもありませんでしたよ」
阿求は袖を口元に当てて、可憐な微笑を浮かべる。この仕草と、さっき垣間見た黒さがどうしても釣り合わない。何かの間違いか、彼女も私みたいに悪ノリしてたってことにしておこう。
「んー……朝~?」
そんなやり取りをしていると、ねぼすけお姫様がようやくお目覚めだ。
「おはよ、メリー」
さっきは布団で隠れてて分からなかったけど、メリーの服装はパジャマではなく、いつもの紫ワンピースだった。私はそのままだったのに、この差はどこから来るのかしら。
「ん、おはよ……あれ、その子は?」
寝ぼけ眼を擦りながら、メリーは阿求を目に留める。自身の能力のせいで慣れているのか、起きていきなり見知らぬ他人がいる状況だというのに、メリーは慌てる素振りすら見せない。それとも、単に呑気なだけかしら?
阿求はほんの一瞬だけ訝しげな顔をしていたけど、すぐに、私に見せたのと同じ笑顔に戻った。
「はい、稗田阿求と申します。初めまして、メリーさん」
「あ、はい、初めま――」
――ぐううううう。
挨拶を遮ったのは、慎みが足りないメリーのお腹の音だった。照れ隠しに二度寝を決め込もうとしているメリーを無理やり布団から引きずり出し、悪いんだけど何かいただけるかしら? と、阿求に頼む。
彼女はさも楽しそうに笑い声を零しながら、私たちを朝食に招いてくれた。
◇◆◇◆◇◆
「「「ごちそうさまでした」」」
食後の挨拶の三重唱が、稗田家の食卓に響く。それにしても、夢の世界での和食は侮れないわね。こんな美味しい和食が食べられるなら、たま~~~になら来てもいいかもしれない、こっちの世界。
「それで、お二人は帰り道を探すんですか? 一応、危険ですけど帰れる確率が高い方法も知ってますよ?」
食後のお茶を冷ましながら、阿求の素朴な問いが飛んでくる。食事の際にこっちの事情はおおよそ話しておいたので、阿求もその方向で話を進めてくれる。なんでも、私たちのような別の世界からの漂流人が、ここにはたまに訪れるらしい。半分はそのままここに住みつき、もう半分はどうにか帰る方法を模索するそうだ。
当然、私たちも後者に属しているんだけど、私たちに限っては勝手が違う。
「確かに帰りたいとは思ってるわ。だけど、帰り道を探すって言っても正直、元の世界でメリーが起きるのを待つしかないと思うのよ」
そう。現実世界でメリーが目を覚ませば、私たちは境界の向こう側に引き戻されるはず。確か、前回も似たような感じだった。
「そうねえ。ここに来たのは私のせいだけど、今は時間に任せるしかないんじゃないかしら。下手に危険を冒すよりは得策だと思うし」
当のメリーも、あっさりと私の言葉を肯定してくる。
「そう、ですか……」
阿求はどこか納得がいかないのか、首を傾げながら、少しだけ含みを持たせて答えてきた。確かに、私たち秘封倶楽部の事情を知らない人が聞いたら、めちゃくちゃな理屈だと思われても仕方ない。何せ、私本人もめちゃくちゃだと思ってるくらいだもの。
「で、これから具体的にどうする、メリー?」
「うーん……どうする、って訊かれてもねえ?」
今度は私たちが首を傾げる番だ。打つ手なしの現状、さて、私たちはどうするべきだろう。選択肢は膨大だけど、そこから何かを選ぶための指標がない。前回の夢とは場所と状況があまりにも違っている。
安全性で言えば、向こうのメリーが起きるまで阿求の家にお世話になるのが一番なのだろう。でも、冷静に考えている自分とは裏腹に、その選択は良くないと、もう一人の私がどこからともなく囁いてくる。
脳裏では、もう一人の私が囁く声が徐々に大きくなっていた。ここが夢だからか、元の世界で疲れすぎた反動なのか――私は柄にもなく、夢世界に来ているという状況に興奮してしまっていたのだ。
『わあ、すごーい!』
『もう一回やってみせてよー!』
すると、家の外から愉快そうな歓声が聞こえてきた。
最初に反応したのは阿求だった。あ、と小さく口を開き、すっかり忘れていたと言わんばかりに軽く首を縦に振っている。
「お二人が来たことですっかり忘れてましたけど、今日はすぐそこの広場で、ちょっとしたお祭りが催されてるんです」
「「お祭り?」」
「はい」
私とメリーの無駄に息ぴったりな質問に、阿求はやはり、にこりと微笑みながら返してくる。
「お祭りかぁ……ねえ蓮子、これはチャンスなんじゃない? 行ってみましょうよ」
そう言うメリーは、何故だか目を爛々と輝かせていた。確かにメリーははしゃぐ方だけど、ここまで露骨なのは滅多に見ないわね。
「確かにお祭りは楽しそうだけど、メリー、そういうの好きだったっけ?」
「違うわよ。別に嫌いじゃないけど、夢世界のお祭り探訪なんて、まさに私たち――秘封倶楽部の活動にはぴったりじゃない。久々の活動にはうってつけ、って意味で『チャンスだ』って言ったのよ。私が起きるまでの、安全かつ新鮮な時間つぶしになるわよ?」
メリーの説明に、私は思わず感心していた。
そもそも、最近の活動不足をどうにかしようと、メリーに相談しに行ったのが事の発端だったわね。この状況でそこまで原点回帰できる思考は、とても私には真似できない聡明さだ。
「そうね、確かにそれは魅力的な提案だわ」
ついでに、メリーの提案は、もう一人の私を黙らせるのに十分すぎるほど魅力的なものだった。
「夢世界探索の第二弾、日常編ってところね。秘封倶楽部、活動開始としゃれ込みましょうか」
「ええ、蓮子ならそう言ってくれると思ってたわ。さ、そうと決まれば行きましょう。ということで阿求さん、ちょっと出かけてきますね」
嬉しそうに笑うメリーを追って、私も外へ――
「どうでもいいですけど、蓮子さんとメリーさん、ここのお金とか持ってるんですか?」
出かけようとしたところで飛んできた阿求の素朴な問いに、私たちは揃って歩みを止める羽目に陥った。
◇◆◇◆◇◆
林檎飴や水風船、綿あめに射的なんかの露店が数店立ち並び、その間を子供たちがところ狭しと駆けまわっている。非日常的な騒がしさの中に見え隠れする日常的な穏やかさが、見ている私たちにも伝わってくる光景だ。
「眺めてるだけでも、結構楽しいものね。それに、私が知ってるお祭りとあんまり変わらないみたいだし」
「私は日本の伝統的なお祭りを見るのは初めてだから、結構新鮮よ。出店も見たことないのばっかり」
私たちは結局、お金はないけどお祭りを覗いてみることにした。ちなみに、阿求は仕事があるとかで来てもらえなかった。案内してもらえたら、こっちの世界のこと、色々聞けたのになあ。
軽く悔しがりながら歩いていると、唐突にメリーに脇腹を小突かれた。
「どしたの?」
「ほら、あれ見て。大道芸か何かやってるみたい」
彼女の指差した先では、阿求より小さいくらいの子供たちが誰かに群がっていた。パフォーマンスでもしているのか、子供たちは口々に、中央の誰かに羨望と尊敬の歓声を送っている。
稗田家で聞こえてきた声は、どうやらアレのものらしい。
「うおー、諏訪子さますげー! なんでそんなことできるの!?」
「長く生きてると、暇な時代もあるからね。その時に練習したんだよ」
声から察するに、子供たちの歓声を浴びているのは女の子のようだ。幼い声音とは裏腹に、喋っている内容は老成した雰囲気を帯びていた。そのアンバランスさが気になったので、ちょっとだけ背伸びして渦中を覗く。
そこでは、目玉が付いた奇妙な帽子をかぶった女の子が、金属の輪っかでジャグリングをしていた。ひとつ、ふたつ、みっつ……全部で五個の鉄輪を、少女は器用にくるくると放ってはキャッチしている。なるほど、子供たちの歓声もこれなら頷けるわ。
「やるわね、あの子」
隣では、メリーも少女のジャグリングに感心していた。メリーは私よりちょっとだけ背が高いから、背伸びしなくても見れたようだ。
「……ん?」
少女は私たちの視線に気づいたのか、ジャグリングを止めると、じっと私とメリーを凝視し始めた。周囲から上がる不満の声もどこ吹く風、少女は物珍しげに私たちを見つめてくる。
「ねえ、そこの金髪の娘と、隣のカッターシャツ着てる娘」
それどころか、名指しで呼ばれてしまった。
「珍しい顔だね、この辺じゃ見たことないけど。どうだい、このお祭り? なかなか盛況だろう?」
「え、ええ。とっても賑わってて、見てるだけでも面白いです」
「見てるだけじゃなくて、食べたり遊んだりして、もっとエンジョイすればいいのに」
正直に答えたところ、目玉帽子の女の子はもったいなさそうに口をへの字に曲げた。
「そうしたいのもやまやまなんですが、あいにく、私たちはここのお金を持っていないので……」
非常に残念だけど、それは変えようのない事実だ。私は偶然にも夢にまで持ってきていた財布を取り出し、中から千円札を一枚摘み上げて、ほらね、と女の子に見せる。
その瞬間、女の子の目つきが少しだけ変わったような気がした。ニュートラルだった目つきの中に、ほんの僅かだけ、懐かしむような優しげな成分が混じっている感じがする。
同時に、私の胃の辺りに、冷たい塊が一瞬だけ生まれていた。私の体の奥底まで見抜かれているような錯覚を受けてしまったのだ。熟練の老教師の前に立たされた転校生のような、そんな感覚だったわ。どうしてそんな感じを受けたのかまでは分からないのだけど。
「うーん、そっかー。だったら、こういうのはどうだい?」
そう切り出すと、女の子はどこからともなく、十数枚の硬貨を取り出した。全然見たこともない種類のお金で、隣のメリーも物珍しげな視線で覗き込んでいる。
「そのお札と、このお金を交換しないかい? だいたい、ここの露店なら二人で二、三軒は回れると思うけど」
女の子はにこにこと笑顔を浮かべ、予想外の提案を持ちかけてきた。私とメリーはどちらともなく顔を見合わせ、お互いに軽く頷いた。
「とてもありがたい申し出だけど、貴女はいいの? さっきも言ったけど、このお金、ここでは使えないんでしょう?」
「大丈夫だよ。確かにここじゃ使えないけど、どれくらいの価値があるかは知ってるよ。それに、これ持って帰ったら、早苗が喜ぶと思うし」
メリーの念押しに、女の子は、まるで手のかかる妹を説得する姉のような、包容力に満ちた声音で答えてきた。ただ、最後の一文だけは、その包容力がメリーに向けられていなかった。早苗というのが誰かは分からないけど、きっとその人に向けられていたんでしょうね。
「ほらほら、遠慮することないよ。神様の言うことには素直に従っておくとお得だよ?」
女の子はそう口にしながら、私の手にお金を押し付けた。金属の独特な冷たさが、手に乗る硬貨たちの重みが、夢とは思えないほどにリアルな感覚を伝えてくる。鮮明すぎる感覚にも違和感を覚えたけど、それ以上に、女の子が「神様」って言っていたのが気にかかる。文脈的に考えれば、この子が神様だってことになるけど、さすがにそれを信じるような私ではない。アイコンタクトでメリーに意見を求めると、メリーは軽く肩をすくめてみせた。私と同じく、神様発言を真に受けたワケではないようね。
「……じゃあ、お言葉に甘えておくわ」
とりあえず、神様発言は置いといて、交換の申し出を断る理由は特にない。二人で露店二、三軒なら千円で妥当なラインだし、個人的にも、せっかくならお祭りを謳歌したいし。
千円札を差し出すと、女の子は丁寧な手つきでそれを受け取った。
「じゃあ、せっかくの機会だろうし、二人とも楽しんでおいで。君たちみたいな子供の笑顔は、私たちにとっては何にも替えがたい宝物だからね」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、私たち、行きますので。行こ、蓮子」
軽い愛想笑いを浮かべ、私とメリーは女の子にお礼を告げてその場を去った。
それにしても、外見年齢だけで言えば阿求よりも幼そうな女の子に子ども扱いされたのは、生まれて初めての経験だったわ。神様発言といい、あの子、一体何者だったのかしら。
頭に浮かんだ疑問に従って、もう一度だけ、女の子の方を振り返る。女の子は千円札を見ようと群がってくる子供たちに取り囲まれて、帽子の目玉しか見えなくなってしまっていた。
「不思議な子よね。飄々としてるっていうか、何かを見透かされてるような感じがしたわ」
メリーの独白には、畏怖にも似た、微かな神妙さが含まれていた。確かにあの子の発言には、外見年齢に反して、何年も生きてきたかのような暖かみや含みが見え隠れしていたような気がする。
「でも、それを考察するのは後回しよ、蓮子。今はもっと大事なことが、秘封倶楽部の活動が待ってるわ」
「ぐえ」
うわ、襟首引っ張られた。
「ちょっと、何するのよ」
恨みがましい視線を照射しながら、メリーに向かって口を尖らせる。
「私がいつ起きるか分からないから、その前にお祭りを堪能しておきたいのよ。さ、行きましょう」
すると相棒は私の手を取り、急かすように、そして一直線に林檎飴の露店へと歩き始めた。だが、私は確かに見た。口ぶりこそ平坦だけど、メリーの顔は未知への期待に輝いていた。もっとありていに言えば、林檎飴を食べたくてしょうがない顔をしている。
「……仕方ないわね」
小さな小さなため息を一つ吐き、私は薄っすらと苦笑いを浮かべる。メリーはそれに気づく様子もなく、嬉々として屋台のおじさんに林檎飴を二つ注文していた。
ほどなくして飴を受け取ったメリーは、しげしげと飴を観察しつつ、片方を私に渡してくる。
「へえ、林檎飴って、本当に林檎が入ってるのね」
「そういうものよ。ヨーロッパとかじゃあそれなりに有名なお菓子らしいけど、食べたことないの?」
「残念ながらね。んー、この安っぽい甘さと林檎の酸味がなんとも言えないわ」
満面の笑みで林檎飴を頬張る割に、メリーは地味に辛口評価を吐いている。まあ、その安っぽさまで含めて、お祭りや縁日の醍醐味でもあるんだけどね。
「ところで蓮子、私、射的ってやったことないのよ」
「はいはい、分かったわよ。じゃ、食べたら次は射的ね」
「さすが蓮子、話が早くて助かるわ~」
直球で要求を口にするメリーは、初めて城の外に出た箱入り姫を思わせるはしゃぎようを見せていた。ここまで楽しそうな笑顔を見せられては、こっちも自然と頬が緩んでしまう。
林檎飴を食べ終わるかどうかといったところになって、私たちは射的の露店へと足を延ばした。看板に『上級者向けコースあり!』だなんて書いてあったものだから、メリーは自分からその上級コースを頼む始末だし。
毛糸玉みたいな的が動くだなんて聞いてないわよ、と、二人してムキになりながら遊んだせいで、一発も当らなかったのに全然悔しくなかったわ。
三軒目には、ヤツメウナギの串焼きという、ちょっと変わった食べ物にチャレンジしてみることにした。メリーは最初、ヤツメウナギという響きのおどろおどろしさで尻込みしていたんだけど、いざ串焼きで出てくると、見た目は普通のウナギとほぼ同じだったので盛大に拍子抜けしていた。
でも、今まで食べたことのある養殖ウナギとは比べ物にならないくらい美味しかったわ。きっと、素材自体が美味しいのと、より美味しく思えるシチュエーションで食べてるからなんでしょうね。
ヤツメウナギの串を食べ終わったところで、さっき帽子の女の子から交換してもらった資金が、とうとう残り一枚になってしまった。確かこれ一枚なら、綿あめの店で小さいのが一個買えたはずだから、それで最後にしましょう。
「よし、じゃあ最後に……って、メリー? どうしたの、お腹でも痛いの?」
意気揚々と向かおうとしたところで、メリーが苦しそうな表情をしているのに気がついた。慌てて駆け寄り、俯いている顔を覗き込む。
「ううん、違うの……多分、そろそろ私が起きるんだと思うわ。頭の奥がむずむずする」
――ああ、そうか。相対性理論は正しいのね。
楽しいお祭りの時間は、もうお終いだ。久々に思いっきり楽しんでたから、時間の経つのも異様に早いのね。昂揚していた気分の中に一滴の滴が落ちて、それに伴う波紋が広がっていく。
「そっか。じゃあ、これだけ言わせてちょうだい。夢旅行だなんて、素敵なレジャーに招待してくれてありがとう」
少しだけ辛そうなメリーへ、私は最後に、本心からの感謝の言葉を口にした。メリーは少しだけきょとんと目を瞬かせたけど、やがて、
「じゃあ、次も期待しててね」
と、悪戯っぽく言った。
次の瞬間、お祭りの光景に濃い靄がかかった。これは……起きる前に夢で見た光景と同じ。ということは、今度は元の世界に戻るのね。名残惜しい気もするけど、今回の旅行はここまでだ。
そう考えている間にも、靄はさらに濃度を増してくる。あっという間に、私と、隣で俯くメリーしか見えなくなってしまった。……って、あれは?
靄の中に、誰かが一人だけ立っているのが見えるわね。メリーみたいな金髪の女の人で、紫色の派手なドレスを着て、どこかで見たような本を持ってて、逆の手には扇子が握られている。
その扇子が開かれた途端、私の意識は唐突に、そして完全にフェードアウトした。
◇◆◇◆◇◆
目が覚めると、今度こそメリーの部屋にいた。寝た時と同じ、一緒の布団に寝ている状態だ。時計を見ると、短針は九と十の間を指し示していた。うわ、完全に遅刻じゃない。
「ねえ、蓮子?」
と、同じ布団の中から私を呼ぶ声。ごろりと寝返りを打って、声の主の方に向き直る。パジャマ姿に戻ったメリーは、狐につままれたかのような、少しだけ不思議そうな表情をしていた。
「今回の夢、ヤマもなければオチもなかったわね。多分だけど、意味もないんじゃないかしら?」
「まあ、夢だしね。たまにはそういうのもいいんじゃないの? 夢とはいえ、私もかなり楽しかったしさ」
メリーの言い分に、私はある意味での正論を振りかざす。
「それも一理あるわね。私も楽しかったし」
そうしてどちらともなく、くすくすと笑いを零す。
夢に意味があるにせよ、ないにせよ、オカルト探究サークルの私たちにとっては、楽しく未知の世界を体験できただけで十分すぎる結果だわ。
それに――どうしてメリーだけ着替えた状態で夢の世界に行ったのか、あの女の子は結局何者だったのか、最後に見た金髪の女性は誰なのか、という、夢世界探究の題材が手に入ったし。災い転じて何とやら、今日の夢は悪夢なんかじゃなく、とても良い夢だったわ。
「さて、早く着替えて大学に行くわよ、メリー。もう遅刻してるんだから、少しだけ急ぎましょ」
「あら、そうなの? じゃあちょっと待ってね。着替えて準備するから」
呑気すぎるほど呑気なやり取りを済ませ、私とメリーは布団から這いずり出る。
直後、テーブルの上に積まれた『それら』を目にして、私とメリーは驚きのあまり、互いに顔を見合わせた。見つからなくなっていた参考資料の本が全て、綺麗に積み重ねてあったのだから。
「これも夢のせいなのかしら、メリー?」
「私に聞かないでよ。私だってびっくりしてるんだから」
間違いなく、寝た時にはこんなことにはなっていなかった。夢旅行の疑問点四つ目が、現実の世界にまで影響を及ぼすものだなんて、メリーがタケノコを持って帰った時以来の衝撃だわ。
「……とりあえず、この本は置いといて、大学に行きましょう? そこでじっくり考えればいいわ」
メリーの提案に頷いて、私たちは手早く大学に向かう準備を済ませ、アパートを後にした。
◇◆◇◆◇◆
私の財布の中に、夢で使いきれなかった硬貨が一枚、まるで使用済み旅券のようにひっそりと紛れ込んでいたことに気づいたのは、大学でお昼を食べようと学食に行った時だった。
その後しばらく、私たち秘封倶楽部の活動が活発になったことは言うまでもない。
メリーと紫の関係は果たして…
この作品での連子とメリーに送る言葉があります。
幻想の域は本来、踏み込んではならね世界。
だからこそその世界で見たこと、感じたことは、思い出だけに止めておいてください。
でなければ、いつか幻想の域へ引きずりこまれてしまいます。
好奇心は罪だということを今一度、忘れずに。