Coolier - 新生・東方創想話

置いてけ堀

2023/06/29 18:42:25
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「置いてけ堀って知ってる?」
 学食を食べているとき、鯖の味噌煮定食に箸を通していた蓮子が私に唐突に聞いてきた。
「私が外国出身だからって舐めないでよ。流石にそのくらいの単語は知ってるわ」
「そうじゃなくて怪談話の方の」
「なんだっけ? 本郷七不思議?」
「本郷じゃなくて本所」
 本郷だと東京大学の学校の七不思議になるわねと、京都大学の蓮子がゲラゲラと笑い始めた。
「その違いはどうでも良いのよ。重要なのは話の筋で、そっちはバッチリだから」

『男がある堀で釣りをすると驚くほど釣れた。ところが帰ろうとしたとき堀の中から『置いていけ』と恐ろしい声が聞こえてきた。怖くなった男が逃げ帰って魚籠の中を確認すると、魚籠一杯に入っていたはずの魚は一匹もいなくなっていた』

「そうそう。でさ、いなくなった魚がどこに行ったのか気にならない?」
「声の主が食べたんでしょ」
「そうかしら?」
「なんでそこ引っ張るかなあ。例えばさ、

『男は子供を背負って歩いている。ふと背中に悪寒を感じ、背中を確認してみると背負っていたはずの子供がいない』

こういう怪談があったとして、『子供はどこかで幸せに過ごしています』とか、『そもそも背負っていたというのが男の勘違いで、子供は家でお留守番している』とかにはならないでしょ。怪談話において『いなくなった』は『死んだ』『食べられた』と同義よ」
「確かに魚は食べられたんでしょうね、最終的に。ただその前段階として、置いてけ堀に置いていかれた魚がたどり着く場所があるのよ」
 私は箸を置き、蓮子の額に手を当てた。
「熱があるんじゃない? 午後の講義代わりに出てあげようか?」
「素粒子物理学なんてメリーじゃノートをとるどころか一文字も理解できないでしょうに。というか別に熱に冒されて変なことを言ってるんじゃないって。本家置いてけ堀があるのは私の地元なのよ」
 夏休みに蓮子は墓参りを兼ねて帰省する。そのついでに蓮子の言うところの「置いてけ堀の先」を見に行こうということになった。


***


 置いてけ堀は墨田区にあるらしい。
 蓮子に連れられて東京に東京に来るのももうそろそろ二桁回になろうかという勢いだが、いつ来ても高ければ高いほど良いと勘違いしているかのように雑にビルを乱立した街である。街並みを眺めるのに常に上を向かなければいけないから首が痛くなる。蓮子に「東京の人は首が強いのね」と言ったら、「東京の人達にとってはこんなの見慣れた景色だから、わざわざ上なんて眺めないわ。メリーってば子供みたいね」と笑われた。少し悔しかったので、「こんな素晴らしい景色を観察する余裕もないなんて、東京の人達の精神は随分と貧相なのね」と返してやった。
「あれが区役所」
 蓮子が指差して説明してくれた。例によって例のごとく高層ビルだから、また首が鍛えられる。
「いや、私はここの人じゃないから区役所なんてどうだって良いのよ。それより置いてけ堀はどこなのさ」
「落ち着きなさいな。区役所があるってことは、置いてけ堀もこの辺にあったらしいってことよ」
「『あった』『らしい』って、聞き捨てならないわね」
「大昔の伝承だもん。置いてけ堀って要は隅田川から引っ張ってきた水路のどれかだから、この辺にあったんだとは思うわ。昔は『ここに置いてけ堀がありました』っていう案内板があったらしいんだけれど、支柱の木が古くなって折れて、それっきりらしいよ。怪談を面白おかしく語り継ぐ風情も失っちゃったんだから、つまらない時代になったわねえ」
 正直私はちょっとがっかりした。前の話しぶりから、置いてけ堀は今も実在していて、蓮子はその場所を知っているものだと思い込んでいた。蓮子は東京の地理には詳しいが、不思議を見つけるのはどちらかといえば私の役割ということなのだろう。
 隅田川からは今も水路が引かれている。しかしそれらは生活において何かと必要という理由から現代になって引かれたものに過ぎない。コンクリートで護岸された細い水の流れが、往年の怪異の舞台とは到底思えない。
「魚は釣れそうにない川だね」
「釣りなんてしたことない癖に」
 あらゆる食料が合成で手に入るようになった現代において、自然から直接食料資源を得るという行為は不要なものになった。数百年前まで、釣りは趣味や仕事としてごくありふれたものだったらしいが、今は野蛮や面倒という認識が皆先にくるせいでやる人は殆どいない。それこそ置いてけ堀の逸話で聞くような、フィクションや時代物だけの風習になっている。逆に古くなりすぎたせいで伝統文化の保全という観点から行政の許可が出て続けられている地域もあるようだが、大抵の場所では老人の道楽という扱いである。
 逆に、「大自然の只中に簡易的な家を組み立てて過ごす」というところまで突き抜けると、「キャンプ」という行為として太古の大昔から現代に至るまで生活の術や趣味として連綿と続くのだが、釣りはキャンプにはなれなかった。棒の摩擦で火起こしする人が現代では絶滅してしまったように、魚もあるときを境に、キャンプでも合成で作るものへと変化していた。
 だから、蓮子の言うように私の釣りスキルは皆無なのだが、これだけははっきりと言わなければならない。
「蓮子、魚がいない川じゃあ太公望と言えども魚は釣れないの。太公望は釣り針を選ばなかったらしいけど、釣る川を選ぶ権利はあるわよ」
「うーん。でも確かにこの辺なんだけど」
 蓮子は右手を遠眼鏡の半分みたいに目の周りに当てて辺りを見渡した。
「何が」
「置いてけ堀の魚が集まる場所」
「はあ」
 ここまでの流れと蓮子の能力がオカルト探しには実はそこまで寄与しないという冷静な分析を合わせた結果、私の蓮子への信頼度は当社比六割減していたから、気のない返事を返した。
「さては私のことを信用していないわね」
「置いてけ堀の場所が分からない段階で駄目じゃないの」
「まあ見てなさいって」
 そう言って、蓮子は路地裏に入っていった。私も蓮子を追いかける。
 路地裏というのは、その街そのものの整備具合に比べて不釣り合いなくらい乱雑である。京都の路地裏、旧型酒を出すタイプの居酒屋の周りなんかも大概だが、東京のそれはいささか常軌を逸していると言っても過言ではない荒れ模様に見える。狭苦しさを演出している両側の壁は空調の室外機などで不規則に凸凹していて、遠くからは野良犬の遠吠えが聞こえてくる。何に由来するのかも分からない黒色の廃液がゴミ箱や電柱の付け根から流れ出ていて、それが所々にヒビが入っていたり、雑に塗って補修した跡が見えるアスファルトの上を這っていた。
「『この先行き止まり』の標識立ってるわよ」
「大丈夫よ。その標識は古いから」
 蓮子が言うように標識は古く、描かれている図形そのものよりも塗装の剥げの方が目に付く有様だった。だが非情にも道は切れて、その先には藪があった。人口が減っているのにビルに住もうとする人が減らないせいで、余った土地に歯抜けになったように自然が戻っているというのは東京では良く見られる光景となっている。
「標識の方が正しいじゃん」
「行き止まってないわ。つまり、標識が建てられた頃はここに建物があったから通行できなかったけど、今はもう建物はないから、この空き地を通って一本向こう側に入れるの」
 確かに秘封倶楽部の活動で道なき道に踏み入ることは決して珍しくはないが、それはそれとして馬鹿なんじゃないのと思った。探索というのは相応の準備をして行うものであって、刃物の山みたいな茂みを、日常的なショートカットに使うのは無謀である。
 が、蓮子はいとも容易く茂みをかき分けて中に入った。我が相方はこんなにワイルドだったのかと驚いたが、あとを追いかけてタネが分かった。通り道になるように地面が一直線に踏み固められていて、注意深く観察すると、その獣道と両脇だけ藪の密度が薄いのだ。これは横着をしているのが蓮子一人ではなく、相当数が藪を道にしているということを意味する。馬鹿ばっかり。
 そして別の大通りに出るのかと思ったらまた路地裏である。突き当りまで通って藪を抜ける。別の裏路地に入ってその先が藪。通った先は路地裏で……。
「ちょっと、いくらなんでもおかしくない?」
 私の声は、竹藪をかき分けるガサガサとした音にかき消された。全ての藪に道があるとは限らないらしく、そういうとこにすら迷いなく入っていくあたり、蓮子は少々アレになってしまっているのかもしれない。
「おかしくない!?!?」
「……何が?」
 叫ぶようにして言い直し、ようやく聞き取ってもらえた。
「ここは落ちぶれたとはいえ一応都会よ! こんなに長いこと歩いていて、一度も大通りに出ないのは確率が狂ってるって!」
「大丈夫よ」
「どこがよ!」
 私の喚きに、蓮子はこちらを向いて静かに笑って応えた。私の胸中は猜疑心と恐怖心で埋まってしまっていたので、その笑みも空虚に思えた。
「メリーって常識に囚われてるわね。私達の旅路が現代現実の墨田区をただ歩くだけだといつから思ってたの?」
 私は目を擦った。改めて見ると四方八方、厳密にはまだ藪がかき分けられていない前方以外全てに結界が見える。普通の街歩きだと思いこんでいたから目が曇っていたのだろうか。
「気がつくのが遅れたわね。結界の内側か外側かすら分からない」
「安心して。前に来たときは月が出てたから見たけど、少なくとも日本ではあるから」
「墨田区とも東京とも言わないのね。まあ、向こう側と考えたら逆に安心したわ。常識的に考えれば盛大に道に迷ってるけど、蓮子だけで生還してこれるんだから、非常識に帰れるってことなんでしょ」
「そういうこと」
 蓮子が踏み分けた竹藪の先にまた結界があって私達はそれをくぐった。これまでが非常識側で、元に戻ったのだと仮定することにした。
 そして、ついに数時間ぶりに目の前の視界が開けた。川沿いに出たのだ。
 しかし、川は川でも隅田川本流のそれとは大分様子が異なる。護岸はされているのだがコンクリートを打ち付けるのではなく城かという感じに石を組んだ壁で固める方法である。街路樹が柳というのも少し珍しいと思う。とはいえ、予算をかけずにただ本流から分岐させただけな水路というのはこういうものという気もする。つまるところ、道沿いに建つ最早プレハブというところまで退化した建築様式の建物やら時代物の舞台セットから移転させたのかというような長屋やらとの調和により、疑問を挟む必然性が完全に消失しているのである。この一角どころか、墨田とは、東京とはこういう風景の街だったのだろうと記憶認識が上書きされている。
「あ、あれだ」
 蓮子が風景の一部を指さした。
「何が?」
「何がって……。置いてけ堀の魚の行き先」


***


 それは屋台だった。赤いのれんに、『八目鰻』と書いてある。
「夜雀庵にようこそ」
 屋台に入っていたのは若い女性だった。若いを通り越して幼顔であり、そんな顔で屋台を、それも酒を出すようなものを持っていて大丈夫なのかと不安になるが、なんら問題がないかのように、ごく普通に酒瓶を置いているので偶々童顔なだけなのだろう。そう思っておくことにした。
 「よすずめ」というのが何か分からなかったが、割り箸の袋に書かれた文字から夜の雀だと分かった。屋台の内装をもう一度見渡すと、割り箸以外にも、至る所に鳥の羽の意匠が用いられていた。何なら当人がつけ羽をしている。徹底している。
「ここが置いてけ堀の魚の行き先なんですか?」
「は? 置いてけ堀? 聞いたことはある気がするけど……。うーん、思い出せないなあ」
 女将は素で困惑していた。「記憶力が良くなくてねえ」と弁明しているが、仮に本当にここに置いてけ堀の魚が集まるのなら記憶力関係なく分かるはずなので、つまりは蓮子の話自体ガセなのだと思われた。
「違うじゃないの」
「あれえ? 前に来て話を振ったときには肯定してくれたんだけど」
「貴方、始めてのお客さんじゃなかったっけ? 鳥頭で困っちゃうなあ」
 女将は半笑いで蓮子の言い訳を聞き流しながら、鰻の開きのようなものを見せてくれた。
「お堀がどうこうとかいうのは分からないけど魚は出せるわよ」
「凄い! 天然物?」
 合成でない食材はセレブ御用達となって久しい時代だ。昔はフグ、今は天然食材と、大金持ちは大枚はたいて毒にあたるリスクを負うと皮肉の種になる天然食材だ。そんなのがこんな、言い方は悪いが場末の屋台にあるというのはにわかには信じ難かった。
「天然物って、妙な言い方するわね。まあ、自然のものよ。最近流行りの養殖じゃなくて」
「ああ、養殖したのを自然捕獲って言って値段吊り上げて売る詐欺があるらしいわね」
 蓮子の言う通り、らしい、だ。詐欺で騙されるのが政治家なり芸能人なりの社会的影響力のある側なので大きく報道はされるが、我々庶民には自然だろうが養殖だろうが平等に手が届かない。
 女将は私達が盛り上がっているのを見て、魚が食べたいのだろうと蒲焼を二つ勝手に出してくれた。
「美味しい! やっぱり鰻は本所に限るわね」
「何落語みたいなこと言ってるの」
「それ、鰻じゃなくて八目鰻よ」
 女将の指摘が入った。
「八目鰻と鰻の違いって何なんですか?」
「えー? そりゃあ勿論……。目の数が違うわね」
 女将の歯切れが悪い。
「実のところ、ここだと鰻は捕れないから、私も見たことはないのよね。見つけたら持ってきて、捌いてあげるわ」
 無理だ。釣りの技能も魚に関する知識も皆無な私達にとって、鰻の生け捕りはかぐや姫の難題並に難しいお題である。
「それよりも、お酒に合いそうな味よね」
「あら、何か飲む?」
「そうですね……。女将のおすすめで」
 蓮子がそう頼むと、女将は竹筒を切ったのに入ったお酒を出した。
「あら可愛い。おとぎ話みたい」
「そうね。まあ、おとぎ話といえばおとぎ話かしら」
 そう言って、女将はこのお酒の謂われを話してくれた。
「雀は親孝行な鳥なの。あるとき、雀の親が亡くなったという知らせが雀の元に届いた。知らせを聞いたとき雀はお化粧をしていたのだけれど、それを途中で止めて葬式へと急いだ。雀ってくちばしの下だけ黒いでしょ? それが証拠。で、一部始終を見ていた神様は雀の親孝行ぶりに大層感動して、褒美として雀だけが米を食べるのを許されているの」
 許されているだろうか? かつて水田による米の栽培が行われていた時代には、雀は田を荒らす害鳥扱いだったと聞く。無論、「こちらの世界では」水田など見たことない身には検証のしようがない話である。人間と動物との、緊張感がありつつどこか牧歌的な関係も、ここの時が巻き戻っているかのように錯覚させられる理由なのかもしれない。
「てことはこれは米の酒なの?」
「そうよ。切れた竹の中に、雀が米を運び入れて、それがお酒になるの」
「ふーん。雀って頭いいのね」
 蓮子の言い方は感心しているというよりはどことなく小馬鹿にしているようだった。確かに意図的にお酒を作っているのではなく、後で食べようと米を運んだらそのまま忘れ、放置された米が発酵してお酒になる、と考えた方がそれらしい。それらしいと思う理由の七割は目の前の雀に似た女将ではある。
 それはそれとしてこのお酒は旧型酒だが美味しい。
「屋台はいつもここに出してるの?」
 私は疑問に思っていたことを聞いてみた。
「大体はね。時々博麗神社に出店出したりするけど」
「博麗神社? あー、あそこ」
「そうそう。ここから東に行ったところにある。って、その口ぶり、あんたらも行ったことあるんだ」
「前に結界暴きにね」
「うわあ。見た目によらず大胆ね」
 口を滑らせてしまった。身の回りが大体非常識寄りなので忘れていたが、現代の常識において、結界暴きは違法行為なのだ。ただここの女将も非常識寄りなのかケラケラ笑っているだけだったので首の皮一枚繋がった。
「あそこの巫女は乱暴なの。大丈夫だった?」
「巫女? 蓮子、あそこに巫女なんていたっけ?」
「やたらボロボロだったから廃神社かと思ってたけど人いたんだ。夜に行ったから寝てたのかなあ?」
「夜か。それは賢いね。でも昼は大体神社でゴロゴロしてるから、そこに近づくと噛まれるよ。ああ、でも夜でもたまに起きてるからあんたらは運が良かったんだろうね。何にせよ、あの神社でいたずらするのはほどほどにした方が良いよ。万一捕まっても私のことは話さないでね」
 何か巫女の扱いがやたら獰猛な犬か何かのようだが、女将の怯えようからして、相応に恐ろしい存在なのは事実なのだろう。相方は「じゃあ気をつけて暴くことにするわ」と完全に舐めてかかっているが。
 その後も屋台のことやらどうでも良い雑談やらをしながらお酒と料理をいただき、日付けが変わるくらいまで時間が過ぎたところで屋台を後にした。どういうわけか、散々迷うようにして屋台についたという往路に反して、帰るのにはそう時間がかからなかった。


***


 まだ夏休みは終わっていないはずだが、京都にいると何かと大学に行かなければならない用事ができる。ままならぬものだ。そういうわけで、私と蓮子はまた学食で昼食を摂っている。
 私はアジの開きを解体していた。合成食材と言えどもリアリティを欲するという精神は分からなくもないが、それで小骨まで完璧に再現するのは正直嫌がらせの域に達していると思う。
「あの屋台の八目鰻は良かったわね。骨が入っていなかったし」
「女将が料理が上手い、というのはあるのでしょうけど、そもそも八目鰻って軟骨魚類らしいわ。あの後調べたけど。だから骨は無いんじゃない? それよりも……」
 蓮子は箸を置いて神妙そうに唸った。
「どうしたの? 小骨が刺さったみたいな顔して」
「豚の生姜焼きに小骨は入っていないわよ。あの屋台で何か忘れてた気がしてさあ」
「忘れてる? やるべきことは全部やったでしょ。どういう店なのか聞いて、世間話して、美味しい酒と料理を頂いて……」
 記憶を反芻し、その記憶の七割くらいが酒と料理という絵に描いたかのような呑んだくれであることに自己嫌悪しかけたところで、あるべき記憶が無いことに気がついた。
「「あっ」」
 蓮子も同時に気がついたらしく、一緒に声を上げていた。
「お金払ってない!」
 なんということだ。言い訳をするならばあの女将、商売っ気というものがまるでなく、なんか友達と帰り道が分かれるみたいな雰囲気で自然に別れたので、あの場では三人とも気がつかなかったのだ。しかし、あの女将は受け取るべき労働の対価を受け取っておらず、私達は無銭飲食という犯罪を犯してしまったのだ。
「どうしようか……」
「ヒロシゲに乗れば今日中に屋台には戻れるはず」
「戻れるかしらね? 前も散々迷ったし、女将の言い方だとずっと同じ場所にあるという保証もない」
「一日でだめなら二日かけるまでよ。どうせ今から出て順調にたどり着いても日帰りで戻ってこれるかどうか、くらいだし。そのくらいの手間と出費は罰として受け入れなきゃ」
「それもそうね……」
 私達は残りの昼食を急いで口にかき込んで、東京への電撃出張のために席を立とうとした。
「お代なら置いていって」
 横からあの女将の声がした。多少冷静さを欠いているところはあったから、いるのに気がつかなかったのかと思い、横を向く。しかし、夏休みで空いている食堂において、声の方向にいるのは一人だけ。つまらぬ顔の女子大生がつまらぬ顔で、基本定食Aという学食で一番つまらないメニューを食べているだけだ。
 何だったのかと、蓮子と顔を見合わせる。
「だからお代、その机の上にでも置いていって。わざわざこっちまで来るのは手間でしょ。置いていってくれたら回収するから」
 また驚いて横を向く。が、結局あのつまらぬ女子大生がもそもそと昼食を摂っているだけだ。
「あの……」
 万に一つ、彼女が女将の変装かもしれぬと思って声をかけるが、彼女はこの世に私達がいないかの如き無視しかしてくれなかった。あの愛想の良い女将と同一人物とは到底思えず、彼女に聞いても解明はしないのだろうと悟った。
 蓮子ともう一度顔を見合わせる。私と蓮子は無言で財布をポケットから、お札数枚を財布から取り出した。お代がいくらか分からぬから、あの日の歓待に対して適当と考える額だ。それを、裸のまま置いておくのは気が引けたから、テーブルクロスの下に隠して食堂を出た。
 これで本当に解決したのかどうかは分からないが、屋台への支払い問題は、いくらか優先度が下がったように思えた。そもそも大学に来たのはゼミなり調べ物なりという目的があってのことだというのとを私も蓮子も思い出し、まずはそれを終わらせようということになった。
 とはいってもやっぱり気になるものは気になるのである。私は図書館に行ったが今ひとつ集中できず、一時間くらい、ただ本のページを捲るだけで頭に入らない調べ物もどきをした後、また食堂に戻った。
 蓮子も同時に戻っていた。「運良くゼミが早めに終わったから」と言ってはいたが、ちょっと言い訳がましい。仮病でも偽って途中で抜けたのではなかろうか。もっともそれを咎めるのは私の役割ではないし、それよりも遥かに重要なことを確認に、昼を食べたテーブルに向かった。
 屋台の女将が持っていったのか、食堂のスタッフが片付けたのか、はたまたあのつまらぬ顔の女子大生が巧妙な詐欺を働いたのかは分からない。ただ一つ断言できる事実として、テーブルクロスの下に置いていた紙幣は最初から置かれていなかったかのように、きれいさっぱりと姿を消していた。
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東ノ目
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コメント



0.150簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90福哭傀のクロ削除
物語の本題に入る前の前置きというか、
秘封世界観の描写が全体に対して少し長いように感じた半面、
その部分のふんいきも好きでした。
東京の高層ビルの群れから外れ、藪をかきわけ進んでいくと
夜雀の屋台に辿り着くというのは昔話染みていてとてもきれいでした。
オチの置いてけ堀をどうするのかと思っていましたが、
最後の最後でスパッと回収するのは流石の技量と思う反面、
少し本題にするには弱い気もしました。
でも行きつく先は女将の元というのは好きでした。
5.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
現代文明の隙間を縫って探索すると不思議な場所に行く、という王道な展開が味わい深く好きでした。
しかし自分の読解力の問題なのか、置いてけ堀自体の話が特にオチと接続しているように見えず、あんまり関係ない終わり方をしてしまったように思えてしまったのがもったいなかったです。(何かが無くなる点は共通していましたが、文脈的・オカルト的に繋がりを見ることができませんでした)
全体的な雰囲気はとても良かったです。有難う御座いました。
6.100夏後冬前削除
よくある大学生活の模倣ではなく、しっかりと秘封世紀としての世界観が構成されているのが実に素敵でした。蓮子とメリーの掛け合いも甘すぎずキレがあって好みです。
7.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。日常から延長線上での幻想との邂逅、とても良かったです。
8.100南条削除
面白かったです
状況に動じていない秘封倶楽部に年季を感じました
手慣れてやがる
10.100ローファル削除
面白かったです。
蓮子とメリーのお互いに遠慮のないやり取りがよかったのと
女将の語り口から久しぶりに三月精読み返そうかなと思いました。