ツンとカビの独特な臭いが鼻をくすぐる。
天井から吊るされたシャンデリアはただの置物と化していて。
代わりに魔法で作られた白い光が室内を照らしている。
来客を威嚇するように、室内のいたる所に大型の本棚が立ち並び。
棚の中には、ハードカバーもペーパーブックも区別なしに本と呼べるものが入れられている。
赤い悪魔の居城、紅魔館。
その地下には、七曜の魔法使いが管理する大図書館が広がっている。
本来は管理者であるパチュリー・ノーレッジが自分の研究のために用意した閉鎖された施設なのだが、最近彼女の知り合いが図書館の資料を利用するために訪れるようになった。
今日の来客はアリス・マーガトロイド。金髪碧眼の絵に描いたような美少女で、レースのついた青いワンピースを身につけている。
魔法使いという職業柄か、彼女は魔理沙に次いで二番目によく顔を出す常連客となっている。
「おお、いらっしゃいです、アリスさん」
地下に降りてきたアリスを出迎えたのは、クセのない赤毛を腰まで伸ばした少女だった。名は小悪魔、図書館の主であるパチュリーの使い魔で、平時はもっぱら図書館の司書として蔵書の管理を行っている。
「アリスさん、お久しぶり……なのかな? 以前ここに来たのは十日前になりますけど」
「どっちでもいいんじゃないかな……」
どうでもいいことを自問自答する赤毛の司書に、アリスは思わず苦笑を浮かべる。
「今日はどういう御用件ですか?」
「悪いけど探して欲しい本があるの、一三世紀にイタリアの人形遣いが書いたレポートで……前に見たことあるから、多分あると思うんだけど」
こめかみを指でつつきながら記憶を手繰り、アリスは小悪魔にうろ覚えな本のタイトルを伝えた。
「それは魔術書じゃなくて、保護の魔術をかけただけの普通の本ですね。目録チェックするんでちょっと時間かかりますけど、待っていてください」
「いつも、悪いわね」
「構いません。どうせ暇ですから」
小悪魔とアリスは並んで部屋の中央に置かれた作業台に向かう。
特にパチュリーに命じられたわけではなかったが、小悪魔は半ば彼女の趣味でこの巨大な図書館の蔵書目録を作っている。特定の本を探す場合、本棚を回るより彼女の作った目録から当たりをつける方が遥かに速い。
彼女の作業台は図書館の中央にあった。上にはペンや定規が乱雑に置かれ、それを取り囲むように私物と思しき小物が並べられている。
それに並んで置かれた大きなテーブルで、パチュリーがいつもと同じように本を読んでいた。
七曜の魔法使いの二つ名を持つ彼女は、小柄すぎるほど小柄な少女だ。身長は、アリスはおろか同年代と比較して小さい方に入る魔理沙と比べてもなお低い。生活の大半を地下で過ごすために肌は抜けるように白く、紫のロングヘアと同色のゆったりとしたローブに全身をすっぽりと包んだ姿は、魔理沙とは別の意味で典型的な魔法使いのそれだった。
「こんにちはアリス。今日はなんの用なの?」
アリスが横を通り抜けようとすると、パチュリーが本から目を離さずに話し掛けてくる。
別にアリスはパチュリーを無視するつもりはない。むしろ図書館を利用するならパチュリーに挨拶をするのが筋だと思っているのだが、彼女の側から読書の邪魔になるから挨拶をするなと言われているので、向こうから絡んでくるまで話しかけないようにしている。
「こんにちはパチュリー。ちょっと、研究に使う資料を見せてもらおうと思ってね」
「研究用なの? 魔道書なら小悪魔に頼めばすぐに探せると思うけど」
ようやくパチュリーは読んでいた本から目を離し、作業台に座る小悪魔に視線を向ける。
小悪魔は図書館の司書をしているだけあって魔道書の扱いに長けており、力を持つ魔道書なら魔力波動を追って探すことができる。
「それが、アリスさんのリクエストは魔道書ではないんですよ」
「一三世紀の人形遣いが書いた、魔動人形を作るときの材料についてのレポートを見たいの。一度、私の持っているデータと比較検証をしようと思って」
「書名はなんなの?」
「そのまんまよ、『魔動人形製造における原材料に関する記述』ってタイトルなんだけど」
「それって、これかしら……」
パチュリーはテーブルに積んであった本の山をゴソゴソと漁って、赤茶けた羊皮紙の束を探し出す。700年以上の時を経た羊皮紙はボロボロという言葉がふさわしいくらいに劣化していて、保護の魔法がなければすぐにでもバラバラになってしまいそうだ。
「パチュリー様、持っていたんですか!?」
これから探そうと気合いを入れていた本があっさり見つかって、アリスだけでなく、小悪魔も驚きを隠せない。
「ええ、これだけど……相変わらずね、あなたには何の役にも立たない研究なのに」
「なかなか面白かったわ。文章が下手すぎて、アリスの爪の垢でも飲ませたい気分になったけど」
いつ聞いてもパチュリーの本に対する感想は変わらない。彼女にとって、たとえどんな内容でも自分の知らないことを知るのは面白いことらしい。
「貸してもいいけど、条件があるわ」
「なによ?」
「レポートが出来たら、私に見せること」
「わかったわよ」
降参と言わんばかりに、アリスは両手を小さく上げる。
アリスの研究などパチュリーにはなんの益もないはずだが、それでも彼女は知識を欲する。
レポートを見せた場合、解釈の間違いについての指摘や、彼女の見解の添付、果ては誤字の修正までやってくれるのでアリスは便利に利用させてもらっている。
「あと、知ってると思うけど持ち出し禁止ね」
「わかっているわよ。魔理沙じゃないんだから」
本を受け取ったアリスは傍に控えていた上海人形に目配せして、テーブルの一角に紙束を置いた。
「写本するのは構わないんでしょ?」
その問いにパチュリーは無言でうなずいた。
アリスは上海人形にペンを持たせて、自分は手ぶらで本を捲る。すると、彼女が本を読むのに合わせて上海人形がその内容を紙に書き写していく。
それから一時間ほど、彼女達は自分の作業に没頭していた。
アリスは上海人形を使って写本を行い、パチュリーは読書を続け、小悪魔は目録作成の合間を縫って二人に紅茶を振る舞ってくれる。
「そういえば、ここ最近魔理沙を見ないんだけど、アリスはなにか知らない?」
本を一冊読み終わったパチュリーが無遠慮にアリスに話しかける。
「なんで魔理沙のことを、私に尋ねるのよ?」
パチュリーの言葉にアリスが反応すると、上海人形の動きがピタリと止まった。彼女は人と話しながら本を読むなんて器用な真似はできないし、特にしたいとも思わない。
「家近いんでしょ? 来たら来たで迷惑だけど、来ないとなにか悪巧みしていそうで心配なのよ」
「アリスさん、察してください。もう一週間も顔を見ていないのでパチュリー様は寂しいんですよ」
紅茶を入れ替えつつ茶々を入れてきた小悪魔は、パチュリーににらまれてツツツーと自分の作業台に逃げ帰る。
「一週間か……じゃあ、あいつ妖怪退治で忙しいのかもね」
一週間というキーワードを聞いて、アリスは思い出したように答えを告げる。
「やっぱり、知ってるんじゃない」
「たまたまよ。人里で妖怪が馬泥棒をやったらしくて、退治の依頼が霊夢の所に行ったんだけど、魔理沙がそれを横取りして受けちゃったの」
今頃、魔理沙は馬泥棒を探して人里の周囲を駆けずり回っていることだろう。
「魔理沙もよくやるわ。下等な妖怪の相手をするくらいなら、もっと魔法の研究に時間を割けばいいのに」
『弾幕はパワーだZE』という謳い文句と共に狭い幻想郷を所狭しと駆け回る魔理沙を思い浮かべて、アリスは嘆息する。
「まあ、仕方ないんじゃない……部屋にこもってずっと研究し続ける魔理沙なんて想像できないし」
「でも、それが魔法使いの生き方でしょ」
個々のスタイルを確立し、自分の道を究めるための研究に邁進するのが魔法使いの生き方だとアリスは思っている。事実、魔理沙以外の魔法使いは大半がそんな生活をしている。
「魔理沙見ているとちょっと心配になるのよ。なんていうか、魔法が手段じゃなくて目的になっている気がして……」
「つまり、魔理沙が自己顕示欲を満たすために魔法使いをやっているのが気に入らないのね」
「そっ、そんな感じかな……」
周囲には隠しているが、魔理沙がこっそり捨食・捨虫の法を試しているのをアリスは知っている。いまだ完成にはほど遠いが、彼女が本当に魔法使いを目指すなら――。
「人を捨てた者には、名声なんて無益だと思うんだけど」
人生六〇年程度ならともかく、半永久的な時の中では名声なんて無意味とは言わないが、あまり有益なものではない。むしろ、ずっと周囲の目を気にして生きていたら、心が擦り切れてしまう。
「そんなの別にどうでもいいじゃない」
「どうでもいいって、あなたね……」
心配事を一言で切って捨てられ、アリスの眼が少しだけ険しくなる。
「どうでもいいじゃない。魔理沙の歳を考えてみなさい、十代のガキが周りに認められたくて無茶するなんて、いたって普通のことよ。人間って本当にツマラナイことを気にするのね」
「人間って、私は……」
魔理沙とは違い、アリスは元人間とはいえ捨食・捨虫の法を完成させた魔法使いだ。もう人間ではない、と主張しようとした矢先。
「いえ、アリスは私から見たらまだ人間よ。だって、あなたの実年齢は魔理沙とほとんど変わらないでしょ?」
パチュリーの言葉にアリスは再び言葉に詰まる。指摘の通り、彼女は人間ではないが、実年齢はまだ十代、外見だって目の前の妖怪少女とは違い年相応のものだ。
年齢について話した覚えはなかったが、魔理沙経由で伝わったとしたら特別不思議なことではない。不本意ながら、魔理沙は人間だったころのアリスを知っている。
「その歳で捨虫の法を完成させた才能は認めるけど、魔法使いはそれだけで完成するものじゃない。あなたと同じ年の女の子が皺くちゃのお婆ちゃんになって、死んじゃって、そういうのを見るうちに自然に出来上がるものなのよ」
それは、技術ではなくて心構えだ。人だった者が人を捨て、妖怪として生きるための心構え。
パチュリーはティーカップを手に取って喉を潤す。
「で、私から言わせれば、無茶する魔理沙も、変に悟ったフリをするアリスも似たようなものなのよ。魔理沙が魔法使いを目指すなら、それこそいくらでもリカバリーは利くじゃない」
「むむむ……」
目を細めてアリスはパチュリーをにらむ。
別に怒っているわけではない。ただ、眼の前の引き籠りにグウの音も出ないほどに言い負かされたのが少しだけ悔しい。
反撃の糸口を探していたアリスは、先ほど小悪魔が放った一言を思い出した。
「やけに魔理沙に入れ込むじゃない。そんなに魔理沙が気になるの?」
「むきゅう……」
その言葉は予想以上に効果があったらしく、今度はパチュリーが押し黙る。
しかし、しばらくすると開き直ったように言葉を紡いだ。
「一応、友達だからね。魔理沙が困っていたら手助けくらいしてやるわ」
「手助けねぇ……」
何か考え込むようにアリスは視線を虚空に向けた。
「なにか言いたいことがありそうね?」
「いや、散々魔理沙に迷惑かけられているのに、やさしいなあって思ってね」
「未熟者のやることに一々目くじら立てないわよ。それとも、友達を助けるのに理由がいるとでも言うの?」
「いや、言いたいことはわかったし、文句もないわ。ただ……」
一連の言動で、アリスはなんとなくパチュリーの心象を察した。
きっと彼女は、魔理沙に頼られたいと思っているのだ。
魔理沙が色々なことを相談するようになれば、彼女も御満悦だろう。
「魔理沙は本当に私達のことを頼りにしているのかな? って思って。私もそうだけど、魔理沙も心の底から信頼しているのは自分の師匠だと思うのよねぇ」
アリスが本当に困ったときに泣きつきたいと思うのは、魔法を一から教えてくれた自分の母親だ。
魔理沙にとっても、それは変わらない、むしろ当然のことではないかと思う。
「魔理沙って、師匠いるんだ」
カッと目を見開きながらパチュリーがつぶやく。
普段、抑揚のない調子で話す彼女には珍しく明らかに動揺の色が見て取れる。
「そりゃ居るでしょ。魔法なんて、独学で簡単にできるものでもないんだし。魔理沙の師匠は魅魔っていう名前の悪霊で、かなり腕の立つ魔法使いよ」
「魅魔……」
抑揚のない口調で、パチュリーはポツリと魔理沙の師匠の名をつぶやいた。
*
――あの後、アリスは滞りなく写本を済ませて帰っていった。
アリスとの会話は特別なものではない。
図書館への来場者に対して、引き籠りだが、意外と話好きのパチュリーがお喋りをするのもいつものことだ。
なのに……。
「……集中できない」
パチュリーは読みかけの本を畳んで、目の前にあるヌルイお茶を一気に飲み干した。
「そんなに、そわそわしているパチュリー様なんて珍しいですね」
「うるさい、黙れ」
茶々を入れてきた小悪魔をにらんで追っ払ってからパチュリーは嘆息する。
本来、本を読んで脳に知識をため込んでいるときは、彼女にとって至福の時間となるはずだった。
なのに、あれから一日。
本を読んでいても、アリスが告げた魅魔の名がチラついて集中することができない。
『師匠ねえ……』
パチュリーにとって、師匠を頼るというのは理解できない感覚だ。彼女にとって師匠と呼べるのは本だけだった。
自分がどこで生まれたのかパチュリーはよく知らない。
欧州のとある魔術結社に拾われた彼女は、物心ついたときから魔法の英才教育を受けていた。
彼女はいわゆる神童で、当時世間で一流と評された魔術師達から授業を受けていたのだが、一年も経たないうちに教師の魔道書に対する解釈の間違い、知識の浅さを看破してしまい。
以後、パチュリーは彼らの言葉を聞き流し本の記述だけを頼りに魔法を学んでいった。
彼女の精神的支柱になってくれたのは、幼い自分の世話をしてくれた赤毛のメイドだけで、それ以外の人間はなんの頼りにもならなかった。
「むきゅう」
静かな図書館に独特のうめき声が響きわたる。
人間でないパチュリーにとって時間は無限にも等しい存在だったが、こうして正体のわからない悩みに沈んでいるのはあまり気持ちのいいものではない。
「仕方ないわね……小悪魔、ちょっと出かけてくるわ」
意を決して彼女は立ち上がった。
気になるなら聞きに行けばいい、魔理沙が師匠のことをどう思っているか……。
外の天気は曇り空だった。
今にも雨が降りそうな気配はないが、空は一面、霞がかかったように白い雲に覆われている。
洗濯物が乾かないとメイド達は不満そうだったが、レミリアだけでなく、普段図書館に引き篭もって強い日光に慣れてないパチュリーにとっても曇り空はありがたかった。
「パチュリー様、お出かけですか? 珍しいですね」
外に出ようとしたところでパチュリーは、赤い髪の門番に呼び止められた。
赤い髪の門番、紅美鈴は腰まで届く赤い髪をなびかせた長身に女性で、紅魔館の使用人では唯一、メイド服ではなく暗緑色のチャイナドレスを身に着けている。
「ちょっと人里に行こうと思ってね。心配はいらないわ」
「心配はしてないですが、買い物なら適当な妖精メイド捕まえて行かせたらどうですか? こういう時のために彼女達を雇っているわけですし」
「買い物じゃないから必要ないわ。ちょっと、魔理沙に用があってね」
「魔理沙さんに会うために人里ですか?」
魔理沙と人里という、脈絡のないキーワードに美鈴は顔に疑問符を浮かべる。
「聞いた話だと、あいつ妖怪退治で忙しいらしいから。なら、人里でどこに行ったか聞いた方が早いでしょ」
最初は魔法の森へ直接出向こうと思ったが、昨日のアリスの話を思い出して考え直した。人里に居る保証はないが、慧音辺りに尋ねればどこを捜索しているかくらい教えてくれるだろう。
「ああ、なるほど。でも、ちょっと甘いですね」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、美鈴は手に持っていた和紙をパチュリーに手渡した。
「あ……」
美鈴が手渡したのは山の天狗が発行している文々新聞だった。見出しには『普通の魔法使いお手柄』の文字と共に、軽くローストされて伸びている大入道の前でVサインする魔理沙が貼り付けられている。
「本人いわく、見つけるのに六日、退治するのに三分らしいです。この体でどこに隠れていたんだか」
「まるでカップラーメンね」
馬泥棒のあまりの弱さに、パチュリーは素直な感想をこぼす。
前に写る魔理沙との対比から退治された妖怪は身長三メートル以上の巨漢ということになるが、こういう派手な外見の妖怪が見かけ倒しなのは幻想郷ではよくあることだ。
「昨日の午前中に決着したらしいんで、多分人里にはいないと思いますよ」
「でしょうね、助かったわ」
特別な事情がない限り魔理沙がずっと人里に居ることは考えにくい、美鈴のおかげで無駄足を踏むことを避けることができそうだ。
「となると、今度はどこに行ったかね?」
「絶対に会いたいなら、郷をしらみつぶしに探すしかないでしょうね。でも、魔理沙さんは、会えないときはトコトン会えない人ですよ」
「むきゅう……メンドクサイのは勘弁してほしいわ」
魔理沙は異変を解決する度に自身の行動範囲を広げている。美鈴の言うとおり予想外の場所に外出していたら追い切れないだろう。
「とりあえず自宅に行ってみたらどうですか? 仕事を片付けた直後くらいは寝ているかも」
「まあ、自宅と、神社と、アリスの家の三か所を回るのが妥当なところでしょうね」
別に急いで魔理沙に会わなければ死んでしまうというわけではない。一番、居る確率の高い三か所だけ回ればいいと考えると随分と気楽になった。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
「――あっ、その前にちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
ペコリと会釈して見送りをする美鈴に、パチュリーは不意に質問をぶつける。
「なんですか」
「あなたには師匠っているの?」
「師匠……ですか」
パチュリーは無言で首を縦に振る。
美鈴は妖怪とはいえ、生まれ持っての能力ではなく、後天的に獲得した技術を使って戦うタイプだ。
学ぶことで力を付けた以上、師匠がいる可能性は低くはない。
「私の場合、国中の武術を蒐集してまわった時期があるんで師匠と呼べる存在は一〇人くらい居ますね」
「一〇人って、それもまたすごいわね」
すごいことはすごいが、彼女の聞きたいことと違う気がする。
「困ったときに師匠に泣きつくことがあるのか聞きたかったけど……あなたの場合無さそうね」
「修業中は技のこととか、けっこう相談しましたよ。もっとも全員、とっくの昔に死んでいます。人間なので、当然と言えば当然ですが」
ケロリとした表情で美鈴はそう答える。人間が何百年も生きるハズがないので今さら悲しくもないのだろう。
普段、仁王立ちで寝てばかりいる道化者なので意識されないが、彼女も数百年生きた妖怪だ。技術的にも精神的にも、十代の小娘である魔理沙やアリスと同じではないのだろう。
「考えてみたら、あなたはもう弟子の居る立場だったわね」
「弟子って、私にそんなの居ませんよ」
「居るじゃない、とても立派なのが」
美鈴は手を振って否定するが、一緒に住んでいるパチュリーから見ると十分弟子みたいなものだ。
彼女は試練を与えているつもりかもしれないが、いつでも横で見守っている辺り、随分と甘い先生である。
*
パチュリーは特に障害もなく魔理沙の家にたどり着いた。
周囲は下草と枝がバラバラに入り乱れた森が広がっている。
一部の隙もなく枝に覆われた森は、まるで魔界の入口のような深い闇でやって来る人妖を待ち構えている。
昼間でも闇夜のように暗い森。それに魔法のキノコの胞子が加わるのだから遭難者が続出するのも無理はない。
そんな森の一角にぽっかりと穴が空いたように開けた空間がある。
周囲の木々を切り倒して下草が生える程度に整備した土地に、魔理沙の家は建っていた。
飛んでいるときは目印になるので助かるが、下から歩いていこうとしても絶対にたどりつける気がしない。
「あとは魔理沙がいるかどうか……」
コンコンとドアをノックしたが返事は返ってこなかった。
留守なのかとも思ったが、研究に夢中だったり、寝ていたりすればノック程度では気づかないだろう。
結局、走査の魔法を走らせることにする。家に人がいるか確かめるには、それが一番確実だ。
「おっと、動くなよ。私の家になんの用だ?」
呪文を唱えようとしたそのとき、背後から魔理沙の声が聞こえてきた。
『動くな』というセリフからミニ八卦炉を向けられているかもしれないが、構わずパチュリーは背後に振り向いた。
「私の声くらいわかるでしょう。て、いうかわかりなさいよ」
「まっ、お約束ってやつだよ」
魔理沙はミニ八卦炉こそ構えていたが、いつもどおり白い歯を見せて笑っている。
「そもそもどうやって背後を取ったの?」
「別にたいしたことじゃないぜ、家に近づいてくる魔力反応があったから茂みに潜んで様子を見てたんだ。この辺は大気中に魔力が充満してるから気がつかなかっただろ」
逆にいうと、大気中に魔力が充満しているのにどうしてパチュリーを探知できたか気になったが、そればっかりは住民の利というものがあるのだろう。
「しかし、パチュリーが出向いてくるなんて珍しいな。引き籠りは止めたのか?」
「別に引き籠りじゃないし、好んで外に出たいとも思わないけどね。今日は、必要だから寄ったのよ」
「そうか、とりあえず上がってくれ。茶くらいは出してやろう」
そう言うと、魔理沙はドアを開けてパチュリーを手招きする。
「相変わらず汚いわね……」
家の中に入ったパチュリーを最初に出迎えたのは、魔理沙がお宝と言い張るガラクタの山だった。
魔理沙は収集癖があり、目新しいものなら価値の判断もしないで手元に置いている。しかし、片づけは大の苦手らしく、集めたガラクタは常に無秩序に積まれていた。
「大丈夫だぜ、こう見えても私は物の場所がわかるからな」
「単にだらしない配置に慣れてるだけでしょ」
魔理沙の集めている収集品にはパチュリーの管理する図書館から盗んだ品も多数存在する。自分の蔵書がガラクタと共に死蔵されてると思うとため息の一つもつきたくなる。
「しかし、今日は妙にものわかりがいいわね。一戦交えることも覚悟していたのに」
以前、魔理沙に盗まれた蔵書を回収しようと訪れたときは、彼女の家の前で一戦交えることになった。気が向いたら弾幕を交えるのが幻想郷の流儀、特に理由もなく喧嘩を売られたとしても不思議はない。
「いや、パチュリーが来てくれて都合がよかったからな」
「都合?」
「ああ、今新しい魔法を試してるんだけど、上手くいかないんだ」
リビングに案内されたパチュリーの目に留まったのは、部屋の中央を占領するように置かれた水を張った桶だった。
「これはなんなの?」
いくら魔理沙が部屋を片付けないといっても、水の張った桶をリビングの真ん中に置くのはさすがに不自然すぎる。彼女の新しい魔法に目の前の桶が関係しているのは間違いないだろう。
「ちょっと、この桶の中の水を回転させる魔法を試してるんだ。昨日退治した妖怪が口から水吹いてきたんだよ、その時に水を操れたら洗濯が楽じゃないかと思ってな」
「相変わらずくだらないこと考えるわね……まあ、魔理沙にしてはマシな発想だと思うけど」
確かに発想はくだらないが、破壊の魔法ではなく、一応は生活に役立つ魔法だ。普段、強さにこだわる魔理沙の思いつきにしては珍しい。
「それで、どう行き詰ってるの? 私に相談するのは、なにか困ってることがあるからなんでしょ」
「行き詰ってるというか、全く進んでいない。魔道書の手順どおりにウィンディーネに呼び掛けてるんだが、全く反応しないんだ。これ、出鱈目書いてあるじゃないか?」
そう言って魔理沙が取り出したのは、彼女がパチュリーの元から盗んだ魔道書だった。
「そんなわけないでしょ、それ私が書いたやつよ」
パチュリーは反射的に魔理沙の手から魔道書を奪い取る。
「ああ、どうも見覚えがある字だと思ったら、お前が書いたのか」
「ちゃんと奥付に私のサイン入れてるでしょうが……中身に問題はないと思うんだけど」
魔道書の中身を確認してみたが、パチュリーが見る限り記述に問題があるとは思えなかった。そもそも、彼女が自分の使う精霊魔術について記した魔道書だ。多少の誤字はともかく、大筋の記述を間違えるはずがない。
「ホントか?」
「なら実践で証明すれば文句はないでしょ」
魔理沙の懐疑の視線にカチンときたパチュリーは、魔道書が使えることを実践することにした。
書を腕に抱き、ウィンディーネの記述がある部分を開いて魔力を流し込む。
魔道書とは、文字通り本そのものが魔力を持った一種のマジックアイテムで術者の魔力と合わせることで魔法の行使を補助してくれる。
パチュリーが呪文を唱えると魔法は滞りなく起動した。液体制御魔法の力で桶の中の水が緩やかに回転を始める。
「液体制御なんて、流体制御の準備運動みたいなものじゃない。この程度のことは、基本中の基本よ」
回転している水にパチュリーは新しい指示を与えた。すると、中の水は蛇のような細長い姿で桶から飛び出して、空中でダンスを踊り始める。
「おお、すげえなさすが本職」
水を自在に操るパチュリーに、魔理沙は感嘆の声を上げた。
彼女がどんなに魔力を込めようともピクリとも反応しなかった魔道書を、パチュリーは自在に操っている。執筆者なのだから当然と言えば当然なのだが、それでも感心せざるえない。
「魔理沙だって、本職じゃない。恋符に比べれば、たいしたことない魔法だと思うんだけど」
「どうも細かい手加減は苦手なんだよな」
後頭部をかきながら、魔理沙はカラカラと苦笑いを浮かべる。
しかし、パチュリーは魔理沙の答弁が腑に落ちなかった。
恋符『マスタースパーク』は、一見膨大な魔力を力任せに放つだけの魔法に見える。しかし、実際に使うためには山をも吹き飛ばすほどの膨大な魔力を練り上げる集中力と、練った力が暴走しないようにするための高度な魔力制御が必要になる。
集中力と制御、この二つを両立させる魔理沙は、制御系の魔法についても決して低くない適性を持つはずなのだ。
「とりあえず、一回やってみましょうか。どんな風に失敗するのか見ないとアドバイスのしようがないし」
「それもそうだな」
魔理沙は魔道書を受け取り、先ほどパチュリーがやって見せたのと同じように書に魔力を流し、魔法の式を走らせる。
術者はハード、魔道書はソフト。
魔道書を使う魔法使いは機械と似たような存在なので、決められた手順で決められた操作を行えば魔法の式は起動する。
しかし、魔道書は起動しなかった。
パチュリーの見ている目の前で、魔理沙が魔道書に流し込んだ魔力は空しく大気中に溶けて行く。
「ずっと、こんな感じなんだよ。流し込む魔力の量が問題かとも思ったんだが、さっきパチューが練った魔力と同程度入れても無理みたいだし」
「むきゅう……」
両手を組んでパチュリーは唸り声をあげる。
いくら使っているのが泥棒とはいえ、自分の執筆した魔道書が機能しないというのは、とても喜べた話ではない。
「もしかすると、水を使う魔法を使う適性がないってオチかな?」
「そんな訳ないじゃない、あなたの気質は水属性でしょうが」
霧雨の名が示すとおり、魔理沙の気質は水の属性を持っている。水属性の魔法使いが水を使った魔法が使えないなんて笑い話にもならない。
「まっ、仕方ないか。パチュリーに聞いても駄目ならなにやっても無駄だな」
最後の頼みだったパチュリーでも駄目とあって、さすがの魔理沙もサジを投げる。
リビングに置いた桶を片付けようとした魔理沙を、パチュリーは腕をつかんで静止する。
「……待って」
「どうした――」
振り返った魔理沙は思わず息をのんだ。
魔理沙を引き止めたパチュリーは射抜くような強い視線で彼女を見つめていた。
『気に入らない』
なによりも気に入らないのは、魔理沙が彼女の書いた魔導書で失敗したことだ。
ここで引き下がってしまったら、魔理沙にとって自分の魔法が役に立たないことになってしまう。
「別の方法を試しましょう。この程度のことで諦めることはないわ」
「おいおい、持ちかけた私がいうのもなんだけど、そんなにムキにならなくても」
「うるさい!――魔理沙は黙って言うことを聞けばいいの」
普段のトロンとした雰囲気とかけ離れたパチュリーの気迫に、魔理沙は押し黙った。
それから一時間、二人の涙ぐましい努力が展開された。
パチュリーの指導のもと、考えうる限りの解釈と詠唱方法を試したが上手くいかず。魔理沙やパチュリーの持っている魔法薬を触媒にする方法も徒労に終わった。
「さすがに、これ以上は無理だろ」
いかに魔理沙が人並みはずれた強大な魔力を持つとはいえ、度重なる失敗に精魂尽きて椅子にへたり込む。
「むきゅう……なんでダメなの、この本を使って出来る方法は全部試したのに。魔理沙、あなた普段どうやって魔法使ってるのよ!?」
「どうって言われてもなあ。基本的に教わったことを自己流にアレンジしてるだけだぜ」
「教わったことって、魅魔っていう悪霊から?」
「そうだけど……なんでパチュリーが魅魔様のことを知ってるんだ?」
「アリスから聞いたのよ、あなたの師匠が魅魔っていう悪霊だって――」
言いかけたところで、パチュリーは自分がとんでもない思い違いをしていることに気がついた。
「そうか、そういうことか……魔理沙は黒魔法使いだったわね」
浅はかな自分の思い違いに頭を抱えたくなる。
パチュリーの考えたやり方を魔理沙が実行できないのは、当たり前のことなのだ。
「魔理沙、この家に魅魔って奴が残した資料は残ってない?」
扉を開いた先にあったのは、魔理沙の家とは思えないほど整理された空間だった。
少しホコリぽいが、物が乱雑に散らばってることもなく、頻繁に掃除をしている跡も見受けられる。
「この部屋を掃除してるのって魔理沙なの?」
「魅魔様の部屋を散らかしたら、帰ってきたときにぶっ飛ばされるからな」
魔理沙の淀みのない口調は答えた。
いつかこの部屋に主が帰ってくると信じて疑っていないのだろう。
「水を操る魔道書は……あった!」
本棚に収まっていた『ルルイエ異本』と銘打たれた本を手にとってみる。
「こんな危険な魔道書が、なんのセキュリティーもなく置かれてるなんてビックリね」
「いや……背表紙思いっきり日本語だし、魅魔様が訳したんじゃないのか」
開いて中身を確認してみると、その内容は魔理沙の予想を裏付けるものだった。
「なんなのこれは!? 貴方の師匠はどんな人だったのよ!!」
「確かにこれはスゴイな。魅魔様らしいっちゃ、らしいけど」
『ルルイエ異本』日本語訳は、その禍々しい内容を小馬鹿にするような、独創的でハイブロウな訳し方をされていた。
世界にどれだけ魔法使いがいるか知らないが、クトゥルーを「キモイ蛸」と記述する魔法使いは他に類を見ないのではないだろうか。
これだけ独創性にあふれた内容なのに、重要な部分での誤訳や解釈の間違いが皆無なにが逆に恐ろしい。
「それじゃ水の魔法、もう一度挑戦してみましょうか。魔理沙のスタイルなら、この本を元に術を構築した方が上手く行くはずよ」
水を張った桶を前に魔理沙は仁王立ちする。
これから、パチュリーと一緒に作った『ルルイエ異本』を使った液体操作の魔法に挑戦しようとしていた。
精霊魔法をベースとした魔法にイヤになるほど失敗してるだけに、表情にも緊張の色が伺える。
「それじゃ、いくぜ……」
魔理沙は普段からは考えられないほど丁寧に術を構築していく。
今までとは違う。
魔理沙の魔力が明確に桶の中の水に干渉し、中の水がゆっくりと回転を始める。
「やった!?」
喜んだのもつかの間、桶の中の水は止まるとなく回転数を上げていき、しまいには桶から水が溢れ出す。
「パチュリー伏せろ」
魔理沙がそう叫ぶと同時に桶が壊れ、強い勢いを持った水が部屋中に撒き散らされた。
そばにいた魔理沙とパチュリーに避ける術はなく、当然のように濡れ鼠だ。
「まりさぁぁぁぁ」
「悪い、悪い、制御できなかった。こりゃ、慣れるまで洗濯に使うのは無理だな」
制御を誤ったとはいえ、魔法が発動したのは確実な前進だ。
魔理沙がこのまま努力すれば、単に洗濯するだけでなく、大掛かりな液体操作や、流体操作まで発展させることも夢ではないだろう。
それをわかっているのだろう、口では謝っているが、魔理沙の表情はいたってほがらかだった。
*
その後、パチュリーが図書館に戻ったのは夜半過ぎだった。
曇っていたせいで服が乾くのに時間がかかったのだ。
「パチュリー様、遅かったですねえ。夕飯、終わってしまいしたよ」
「服が乾くのに時間がかかったのよ。夕飯も魔理沙のところで食べてきたからいらない」
「どうです? 魔理沙さんのお家、楽しかったですか?」
「楽しいって……別に遊びに行ったわけじゃないわ。正直、自分の未熟さを思い知らされた気分ね」
結局のところ、魔理沙にとって一番有益なのは師匠である魅魔の教えだった。
幼いころから基礎の基礎を仕込んだ存在なので仕方ないのかもしれないが、この結果はあまりに悔しい。
「それよりパチュリー様、妹様がずっとパチュリー様のことを待ってますから。相手してあげてください」
「フランが、一体どうしたのよ?」
「パチュリー!」
小悪魔に招かれて図書館へやってきたフランは、パチュリーの顔を見るやいなや駆け寄ってくる。
「パチュリー、この前貸してもらった本の記述でわからない所があるの、ここなんだけど……」
フランが抱えていたのはパチュリーが書いた魔道書だった。
気まぐれで活字に興味を示さないレミリアとは対照的に、フランはパチュリーの図書館を頻繁に利用する常連客の一人だ。
最近のお気に入りは魔道書の研究で、こうして魔法について質問に来ることも珍しいことではない。
「ああ、ここか。確かにこれはわかり難いわね」
フランが持ってきた魔道書は、人に見せるためではなく自分で読んで確認するために書いた物で、本人以外にはわかりにくい抽象的な表現がいくつも存在する。
「小悪魔、今から言う材料をすぐに集めて頂戴。実験して教えた方がわかりやすいから」
「かしこまりました、パチュリー様」
小悪魔は、ニコニコと機嫌のよさそうな笑みを浮かべて作業を開始した。
彼女達は今日もこうして努力する。
師を越える、青の魔法はまだまだ遠い。
天井から吊るされたシャンデリアはただの置物と化していて。
代わりに魔法で作られた白い光が室内を照らしている。
来客を威嚇するように、室内のいたる所に大型の本棚が立ち並び。
棚の中には、ハードカバーもペーパーブックも区別なしに本と呼べるものが入れられている。
赤い悪魔の居城、紅魔館。
その地下には、七曜の魔法使いが管理する大図書館が広がっている。
本来は管理者であるパチュリー・ノーレッジが自分の研究のために用意した閉鎖された施設なのだが、最近彼女の知り合いが図書館の資料を利用するために訪れるようになった。
今日の来客はアリス・マーガトロイド。金髪碧眼の絵に描いたような美少女で、レースのついた青いワンピースを身につけている。
魔法使いという職業柄か、彼女は魔理沙に次いで二番目によく顔を出す常連客となっている。
「おお、いらっしゃいです、アリスさん」
地下に降りてきたアリスを出迎えたのは、クセのない赤毛を腰まで伸ばした少女だった。名は小悪魔、図書館の主であるパチュリーの使い魔で、平時はもっぱら図書館の司書として蔵書の管理を行っている。
「アリスさん、お久しぶり……なのかな? 以前ここに来たのは十日前になりますけど」
「どっちでもいいんじゃないかな……」
どうでもいいことを自問自答する赤毛の司書に、アリスは思わず苦笑を浮かべる。
「今日はどういう御用件ですか?」
「悪いけど探して欲しい本があるの、一三世紀にイタリアの人形遣いが書いたレポートで……前に見たことあるから、多分あると思うんだけど」
こめかみを指でつつきながら記憶を手繰り、アリスは小悪魔にうろ覚えな本のタイトルを伝えた。
「それは魔術書じゃなくて、保護の魔術をかけただけの普通の本ですね。目録チェックするんでちょっと時間かかりますけど、待っていてください」
「いつも、悪いわね」
「構いません。どうせ暇ですから」
小悪魔とアリスは並んで部屋の中央に置かれた作業台に向かう。
特にパチュリーに命じられたわけではなかったが、小悪魔は半ば彼女の趣味でこの巨大な図書館の蔵書目録を作っている。特定の本を探す場合、本棚を回るより彼女の作った目録から当たりをつける方が遥かに速い。
彼女の作業台は図書館の中央にあった。上にはペンや定規が乱雑に置かれ、それを取り囲むように私物と思しき小物が並べられている。
それに並んで置かれた大きなテーブルで、パチュリーがいつもと同じように本を読んでいた。
七曜の魔法使いの二つ名を持つ彼女は、小柄すぎるほど小柄な少女だ。身長は、アリスはおろか同年代と比較して小さい方に入る魔理沙と比べてもなお低い。生活の大半を地下で過ごすために肌は抜けるように白く、紫のロングヘアと同色のゆったりとしたローブに全身をすっぽりと包んだ姿は、魔理沙とは別の意味で典型的な魔法使いのそれだった。
「こんにちはアリス。今日はなんの用なの?」
アリスが横を通り抜けようとすると、パチュリーが本から目を離さずに話し掛けてくる。
別にアリスはパチュリーを無視するつもりはない。むしろ図書館を利用するならパチュリーに挨拶をするのが筋だと思っているのだが、彼女の側から読書の邪魔になるから挨拶をするなと言われているので、向こうから絡んでくるまで話しかけないようにしている。
「こんにちはパチュリー。ちょっと、研究に使う資料を見せてもらおうと思ってね」
「研究用なの? 魔道書なら小悪魔に頼めばすぐに探せると思うけど」
ようやくパチュリーは読んでいた本から目を離し、作業台に座る小悪魔に視線を向ける。
小悪魔は図書館の司書をしているだけあって魔道書の扱いに長けており、力を持つ魔道書なら魔力波動を追って探すことができる。
「それが、アリスさんのリクエストは魔道書ではないんですよ」
「一三世紀の人形遣いが書いた、魔動人形を作るときの材料についてのレポートを見たいの。一度、私の持っているデータと比較検証をしようと思って」
「書名はなんなの?」
「そのまんまよ、『魔動人形製造における原材料に関する記述』ってタイトルなんだけど」
「それって、これかしら……」
パチュリーはテーブルに積んであった本の山をゴソゴソと漁って、赤茶けた羊皮紙の束を探し出す。700年以上の時を経た羊皮紙はボロボロという言葉がふさわしいくらいに劣化していて、保護の魔法がなければすぐにでもバラバラになってしまいそうだ。
「パチュリー様、持っていたんですか!?」
これから探そうと気合いを入れていた本があっさり見つかって、アリスだけでなく、小悪魔も驚きを隠せない。
「ええ、これだけど……相変わらずね、あなたには何の役にも立たない研究なのに」
「なかなか面白かったわ。文章が下手すぎて、アリスの爪の垢でも飲ませたい気分になったけど」
いつ聞いてもパチュリーの本に対する感想は変わらない。彼女にとって、たとえどんな内容でも自分の知らないことを知るのは面白いことらしい。
「貸してもいいけど、条件があるわ」
「なによ?」
「レポートが出来たら、私に見せること」
「わかったわよ」
降参と言わんばかりに、アリスは両手を小さく上げる。
アリスの研究などパチュリーにはなんの益もないはずだが、それでも彼女は知識を欲する。
レポートを見せた場合、解釈の間違いについての指摘や、彼女の見解の添付、果ては誤字の修正までやってくれるのでアリスは便利に利用させてもらっている。
「あと、知ってると思うけど持ち出し禁止ね」
「わかっているわよ。魔理沙じゃないんだから」
本を受け取ったアリスは傍に控えていた上海人形に目配せして、テーブルの一角に紙束を置いた。
「写本するのは構わないんでしょ?」
その問いにパチュリーは無言でうなずいた。
アリスは上海人形にペンを持たせて、自分は手ぶらで本を捲る。すると、彼女が本を読むのに合わせて上海人形がその内容を紙に書き写していく。
それから一時間ほど、彼女達は自分の作業に没頭していた。
アリスは上海人形を使って写本を行い、パチュリーは読書を続け、小悪魔は目録作成の合間を縫って二人に紅茶を振る舞ってくれる。
「そういえば、ここ最近魔理沙を見ないんだけど、アリスはなにか知らない?」
本を一冊読み終わったパチュリーが無遠慮にアリスに話しかける。
「なんで魔理沙のことを、私に尋ねるのよ?」
パチュリーの言葉にアリスが反応すると、上海人形の動きがピタリと止まった。彼女は人と話しながら本を読むなんて器用な真似はできないし、特にしたいとも思わない。
「家近いんでしょ? 来たら来たで迷惑だけど、来ないとなにか悪巧みしていそうで心配なのよ」
「アリスさん、察してください。もう一週間も顔を見ていないのでパチュリー様は寂しいんですよ」
紅茶を入れ替えつつ茶々を入れてきた小悪魔は、パチュリーににらまれてツツツーと自分の作業台に逃げ帰る。
「一週間か……じゃあ、あいつ妖怪退治で忙しいのかもね」
一週間というキーワードを聞いて、アリスは思い出したように答えを告げる。
「やっぱり、知ってるんじゃない」
「たまたまよ。人里で妖怪が馬泥棒をやったらしくて、退治の依頼が霊夢の所に行ったんだけど、魔理沙がそれを横取りして受けちゃったの」
今頃、魔理沙は馬泥棒を探して人里の周囲を駆けずり回っていることだろう。
「魔理沙もよくやるわ。下等な妖怪の相手をするくらいなら、もっと魔法の研究に時間を割けばいいのに」
『弾幕はパワーだZE』という謳い文句と共に狭い幻想郷を所狭しと駆け回る魔理沙を思い浮かべて、アリスは嘆息する。
「まあ、仕方ないんじゃない……部屋にこもってずっと研究し続ける魔理沙なんて想像できないし」
「でも、それが魔法使いの生き方でしょ」
個々のスタイルを確立し、自分の道を究めるための研究に邁進するのが魔法使いの生き方だとアリスは思っている。事実、魔理沙以外の魔法使いは大半がそんな生活をしている。
「魔理沙見ているとちょっと心配になるのよ。なんていうか、魔法が手段じゃなくて目的になっている気がして……」
「つまり、魔理沙が自己顕示欲を満たすために魔法使いをやっているのが気に入らないのね」
「そっ、そんな感じかな……」
周囲には隠しているが、魔理沙がこっそり捨食・捨虫の法を試しているのをアリスは知っている。いまだ完成にはほど遠いが、彼女が本当に魔法使いを目指すなら――。
「人を捨てた者には、名声なんて無益だと思うんだけど」
人生六〇年程度ならともかく、半永久的な時の中では名声なんて無意味とは言わないが、あまり有益なものではない。むしろ、ずっと周囲の目を気にして生きていたら、心が擦り切れてしまう。
「そんなの別にどうでもいいじゃない」
「どうでもいいって、あなたね……」
心配事を一言で切って捨てられ、アリスの眼が少しだけ険しくなる。
「どうでもいいじゃない。魔理沙の歳を考えてみなさい、十代のガキが周りに認められたくて無茶するなんて、いたって普通のことよ。人間って本当にツマラナイことを気にするのね」
「人間って、私は……」
魔理沙とは違い、アリスは元人間とはいえ捨食・捨虫の法を完成させた魔法使いだ。もう人間ではない、と主張しようとした矢先。
「いえ、アリスは私から見たらまだ人間よ。だって、あなたの実年齢は魔理沙とほとんど変わらないでしょ?」
パチュリーの言葉にアリスは再び言葉に詰まる。指摘の通り、彼女は人間ではないが、実年齢はまだ十代、外見だって目の前の妖怪少女とは違い年相応のものだ。
年齢について話した覚えはなかったが、魔理沙経由で伝わったとしたら特別不思議なことではない。不本意ながら、魔理沙は人間だったころのアリスを知っている。
「その歳で捨虫の法を完成させた才能は認めるけど、魔法使いはそれだけで完成するものじゃない。あなたと同じ年の女の子が皺くちゃのお婆ちゃんになって、死んじゃって、そういうのを見るうちに自然に出来上がるものなのよ」
それは、技術ではなくて心構えだ。人だった者が人を捨て、妖怪として生きるための心構え。
パチュリーはティーカップを手に取って喉を潤す。
「で、私から言わせれば、無茶する魔理沙も、変に悟ったフリをするアリスも似たようなものなのよ。魔理沙が魔法使いを目指すなら、それこそいくらでもリカバリーは利くじゃない」
「むむむ……」
目を細めてアリスはパチュリーをにらむ。
別に怒っているわけではない。ただ、眼の前の引き籠りにグウの音も出ないほどに言い負かされたのが少しだけ悔しい。
反撃の糸口を探していたアリスは、先ほど小悪魔が放った一言を思い出した。
「やけに魔理沙に入れ込むじゃない。そんなに魔理沙が気になるの?」
「むきゅう……」
その言葉は予想以上に効果があったらしく、今度はパチュリーが押し黙る。
しかし、しばらくすると開き直ったように言葉を紡いだ。
「一応、友達だからね。魔理沙が困っていたら手助けくらいしてやるわ」
「手助けねぇ……」
何か考え込むようにアリスは視線を虚空に向けた。
「なにか言いたいことがありそうね?」
「いや、散々魔理沙に迷惑かけられているのに、やさしいなあって思ってね」
「未熟者のやることに一々目くじら立てないわよ。それとも、友達を助けるのに理由がいるとでも言うの?」
「いや、言いたいことはわかったし、文句もないわ。ただ……」
一連の言動で、アリスはなんとなくパチュリーの心象を察した。
きっと彼女は、魔理沙に頼られたいと思っているのだ。
魔理沙が色々なことを相談するようになれば、彼女も御満悦だろう。
「魔理沙は本当に私達のことを頼りにしているのかな? って思って。私もそうだけど、魔理沙も心の底から信頼しているのは自分の師匠だと思うのよねぇ」
アリスが本当に困ったときに泣きつきたいと思うのは、魔法を一から教えてくれた自分の母親だ。
魔理沙にとっても、それは変わらない、むしろ当然のことではないかと思う。
「魔理沙って、師匠いるんだ」
カッと目を見開きながらパチュリーがつぶやく。
普段、抑揚のない調子で話す彼女には珍しく明らかに動揺の色が見て取れる。
「そりゃ居るでしょ。魔法なんて、独学で簡単にできるものでもないんだし。魔理沙の師匠は魅魔っていう名前の悪霊で、かなり腕の立つ魔法使いよ」
「魅魔……」
抑揚のない口調で、パチュリーはポツリと魔理沙の師匠の名をつぶやいた。
*
――あの後、アリスは滞りなく写本を済ませて帰っていった。
アリスとの会話は特別なものではない。
図書館への来場者に対して、引き籠りだが、意外と話好きのパチュリーがお喋りをするのもいつものことだ。
なのに……。
「……集中できない」
パチュリーは読みかけの本を畳んで、目の前にあるヌルイお茶を一気に飲み干した。
「そんなに、そわそわしているパチュリー様なんて珍しいですね」
「うるさい、黙れ」
茶々を入れてきた小悪魔をにらんで追っ払ってからパチュリーは嘆息する。
本来、本を読んで脳に知識をため込んでいるときは、彼女にとって至福の時間となるはずだった。
なのに、あれから一日。
本を読んでいても、アリスが告げた魅魔の名がチラついて集中することができない。
『師匠ねえ……』
パチュリーにとって、師匠を頼るというのは理解できない感覚だ。彼女にとって師匠と呼べるのは本だけだった。
自分がどこで生まれたのかパチュリーはよく知らない。
欧州のとある魔術結社に拾われた彼女は、物心ついたときから魔法の英才教育を受けていた。
彼女はいわゆる神童で、当時世間で一流と評された魔術師達から授業を受けていたのだが、一年も経たないうちに教師の魔道書に対する解釈の間違い、知識の浅さを看破してしまい。
以後、パチュリーは彼らの言葉を聞き流し本の記述だけを頼りに魔法を学んでいった。
彼女の精神的支柱になってくれたのは、幼い自分の世話をしてくれた赤毛のメイドだけで、それ以外の人間はなんの頼りにもならなかった。
「むきゅう」
静かな図書館に独特のうめき声が響きわたる。
人間でないパチュリーにとって時間は無限にも等しい存在だったが、こうして正体のわからない悩みに沈んでいるのはあまり気持ちのいいものではない。
「仕方ないわね……小悪魔、ちょっと出かけてくるわ」
意を決して彼女は立ち上がった。
気になるなら聞きに行けばいい、魔理沙が師匠のことをどう思っているか……。
外の天気は曇り空だった。
今にも雨が降りそうな気配はないが、空は一面、霞がかかったように白い雲に覆われている。
洗濯物が乾かないとメイド達は不満そうだったが、レミリアだけでなく、普段図書館に引き篭もって強い日光に慣れてないパチュリーにとっても曇り空はありがたかった。
「パチュリー様、お出かけですか? 珍しいですね」
外に出ようとしたところでパチュリーは、赤い髪の門番に呼び止められた。
赤い髪の門番、紅美鈴は腰まで届く赤い髪をなびかせた長身に女性で、紅魔館の使用人では唯一、メイド服ではなく暗緑色のチャイナドレスを身に着けている。
「ちょっと人里に行こうと思ってね。心配はいらないわ」
「心配はしてないですが、買い物なら適当な妖精メイド捕まえて行かせたらどうですか? こういう時のために彼女達を雇っているわけですし」
「買い物じゃないから必要ないわ。ちょっと、魔理沙に用があってね」
「魔理沙さんに会うために人里ですか?」
魔理沙と人里という、脈絡のないキーワードに美鈴は顔に疑問符を浮かべる。
「聞いた話だと、あいつ妖怪退治で忙しいらしいから。なら、人里でどこに行ったか聞いた方が早いでしょ」
最初は魔法の森へ直接出向こうと思ったが、昨日のアリスの話を思い出して考え直した。人里に居る保証はないが、慧音辺りに尋ねればどこを捜索しているかくらい教えてくれるだろう。
「ああ、なるほど。でも、ちょっと甘いですね」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、美鈴は手に持っていた和紙をパチュリーに手渡した。
「あ……」
美鈴が手渡したのは山の天狗が発行している文々新聞だった。見出しには『普通の魔法使いお手柄』の文字と共に、軽くローストされて伸びている大入道の前でVサインする魔理沙が貼り付けられている。
「本人いわく、見つけるのに六日、退治するのに三分らしいです。この体でどこに隠れていたんだか」
「まるでカップラーメンね」
馬泥棒のあまりの弱さに、パチュリーは素直な感想をこぼす。
前に写る魔理沙との対比から退治された妖怪は身長三メートル以上の巨漢ということになるが、こういう派手な外見の妖怪が見かけ倒しなのは幻想郷ではよくあることだ。
「昨日の午前中に決着したらしいんで、多分人里にはいないと思いますよ」
「でしょうね、助かったわ」
特別な事情がない限り魔理沙がずっと人里に居ることは考えにくい、美鈴のおかげで無駄足を踏むことを避けることができそうだ。
「となると、今度はどこに行ったかね?」
「絶対に会いたいなら、郷をしらみつぶしに探すしかないでしょうね。でも、魔理沙さんは、会えないときはトコトン会えない人ですよ」
「むきゅう……メンドクサイのは勘弁してほしいわ」
魔理沙は異変を解決する度に自身の行動範囲を広げている。美鈴の言うとおり予想外の場所に外出していたら追い切れないだろう。
「とりあえず自宅に行ってみたらどうですか? 仕事を片付けた直後くらいは寝ているかも」
「まあ、自宅と、神社と、アリスの家の三か所を回るのが妥当なところでしょうね」
別に急いで魔理沙に会わなければ死んでしまうというわけではない。一番、居る確率の高い三か所だけ回ればいいと考えると随分と気楽になった。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
「――あっ、その前にちょっと聞きたいことがあるんだけど?」
ペコリと会釈して見送りをする美鈴に、パチュリーは不意に質問をぶつける。
「なんですか」
「あなたには師匠っているの?」
「師匠……ですか」
パチュリーは無言で首を縦に振る。
美鈴は妖怪とはいえ、生まれ持っての能力ではなく、後天的に獲得した技術を使って戦うタイプだ。
学ぶことで力を付けた以上、師匠がいる可能性は低くはない。
「私の場合、国中の武術を蒐集してまわった時期があるんで師匠と呼べる存在は一〇人くらい居ますね」
「一〇人って、それもまたすごいわね」
すごいことはすごいが、彼女の聞きたいことと違う気がする。
「困ったときに師匠に泣きつくことがあるのか聞きたかったけど……あなたの場合無さそうね」
「修業中は技のこととか、けっこう相談しましたよ。もっとも全員、とっくの昔に死んでいます。人間なので、当然と言えば当然ですが」
ケロリとした表情で美鈴はそう答える。人間が何百年も生きるハズがないので今さら悲しくもないのだろう。
普段、仁王立ちで寝てばかりいる道化者なので意識されないが、彼女も数百年生きた妖怪だ。技術的にも精神的にも、十代の小娘である魔理沙やアリスと同じではないのだろう。
「考えてみたら、あなたはもう弟子の居る立場だったわね」
「弟子って、私にそんなの居ませんよ」
「居るじゃない、とても立派なのが」
美鈴は手を振って否定するが、一緒に住んでいるパチュリーから見ると十分弟子みたいなものだ。
彼女は試練を与えているつもりかもしれないが、いつでも横で見守っている辺り、随分と甘い先生である。
*
パチュリーは特に障害もなく魔理沙の家にたどり着いた。
周囲は下草と枝がバラバラに入り乱れた森が広がっている。
一部の隙もなく枝に覆われた森は、まるで魔界の入口のような深い闇でやって来る人妖を待ち構えている。
昼間でも闇夜のように暗い森。それに魔法のキノコの胞子が加わるのだから遭難者が続出するのも無理はない。
そんな森の一角にぽっかりと穴が空いたように開けた空間がある。
周囲の木々を切り倒して下草が生える程度に整備した土地に、魔理沙の家は建っていた。
飛んでいるときは目印になるので助かるが、下から歩いていこうとしても絶対にたどりつける気がしない。
「あとは魔理沙がいるかどうか……」
コンコンとドアをノックしたが返事は返ってこなかった。
留守なのかとも思ったが、研究に夢中だったり、寝ていたりすればノック程度では気づかないだろう。
結局、走査の魔法を走らせることにする。家に人がいるか確かめるには、それが一番確実だ。
「おっと、動くなよ。私の家になんの用だ?」
呪文を唱えようとしたそのとき、背後から魔理沙の声が聞こえてきた。
『動くな』というセリフからミニ八卦炉を向けられているかもしれないが、構わずパチュリーは背後に振り向いた。
「私の声くらいわかるでしょう。て、いうかわかりなさいよ」
「まっ、お約束ってやつだよ」
魔理沙はミニ八卦炉こそ構えていたが、いつもどおり白い歯を見せて笑っている。
「そもそもどうやって背後を取ったの?」
「別にたいしたことじゃないぜ、家に近づいてくる魔力反応があったから茂みに潜んで様子を見てたんだ。この辺は大気中に魔力が充満してるから気がつかなかっただろ」
逆にいうと、大気中に魔力が充満しているのにどうしてパチュリーを探知できたか気になったが、そればっかりは住民の利というものがあるのだろう。
「しかし、パチュリーが出向いてくるなんて珍しいな。引き籠りは止めたのか?」
「別に引き籠りじゃないし、好んで外に出たいとも思わないけどね。今日は、必要だから寄ったのよ」
「そうか、とりあえず上がってくれ。茶くらいは出してやろう」
そう言うと、魔理沙はドアを開けてパチュリーを手招きする。
「相変わらず汚いわね……」
家の中に入ったパチュリーを最初に出迎えたのは、魔理沙がお宝と言い張るガラクタの山だった。
魔理沙は収集癖があり、目新しいものなら価値の判断もしないで手元に置いている。しかし、片づけは大の苦手らしく、集めたガラクタは常に無秩序に積まれていた。
「大丈夫だぜ、こう見えても私は物の場所がわかるからな」
「単にだらしない配置に慣れてるだけでしょ」
魔理沙の集めている収集品にはパチュリーの管理する図書館から盗んだ品も多数存在する。自分の蔵書がガラクタと共に死蔵されてると思うとため息の一つもつきたくなる。
「しかし、今日は妙にものわかりがいいわね。一戦交えることも覚悟していたのに」
以前、魔理沙に盗まれた蔵書を回収しようと訪れたときは、彼女の家の前で一戦交えることになった。気が向いたら弾幕を交えるのが幻想郷の流儀、特に理由もなく喧嘩を売られたとしても不思議はない。
「いや、パチュリーが来てくれて都合がよかったからな」
「都合?」
「ああ、今新しい魔法を試してるんだけど、上手くいかないんだ」
リビングに案内されたパチュリーの目に留まったのは、部屋の中央を占領するように置かれた水を張った桶だった。
「これはなんなの?」
いくら魔理沙が部屋を片付けないといっても、水の張った桶をリビングの真ん中に置くのはさすがに不自然すぎる。彼女の新しい魔法に目の前の桶が関係しているのは間違いないだろう。
「ちょっと、この桶の中の水を回転させる魔法を試してるんだ。昨日退治した妖怪が口から水吹いてきたんだよ、その時に水を操れたら洗濯が楽じゃないかと思ってな」
「相変わらずくだらないこと考えるわね……まあ、魔理沙にしてはマシな発想だと思うけど」
確かに発想はくだらないが、破壊の魔法ではなく、一応は生活に役立つ魔法だ。普段、強さにこだわる魔理沙の思いつきにしては珍しい。
「それで、どう行き詰ってるの? 私に相談するのは、なにか困ってることがあるからなんでしょ」
「行き詰ってるというか、全く進んでいない。魔道書の手順どおりにウィンディーネに呼び掛けてるんだが、全く反応しないんだ。これ、出鱈目書いてあるじゃないか?」
そう言って魔理沙が取り出したのは、彼女がパチュリーの元から盗んだ魔道書だった。
「そんなわけないでしょ、それ私が書いたやつよ」
パチュリーは反射的に魔理沙の手から魔道書を奪い取る。
「ああ、どうも見覚えがある字だと思ったら、お前が書いたのか」
「ちゃんと奥付に私のサイン入れてるでしょうが……中身に問題はないと思うんだけど」
魔道書の中身を確認してみたが、パチュリーが見る限り記述に問題があるとは思えなかった。そもそも、彼女が自分の使う精霊魔術について記した魔道書だ。多少の誤字はともかく、大筋の記述を間違えるはずがない。
「ホントか?」
「なら実践で証明すれば文句はないでしょ」
魔理沙の懐疑の視線にカチンときたパチュリーは、魔道書が使えることを実践することにした。
書を腕に抱き、ウィンディーネの記述がある部分を開いて魔力を流し込む。
魔道書とは、文字通り本そのものが魔力を持った一種のマジックアイテムで術者の魔力と合わせることで魔法の行使を補助してくれる。
パチュリーが呪文を唱えると魔法は滞りなく起動した。液体制御魔法の力で桶の中の水が緩やかに回転を始める。
「液体制御なんて、流体制御の準備運動みたいなものじゃない。この程度のことは、基本中の基本よ」
回転している水にパチュリーは新しい指示を与えた。すると、中の水は蛇のような細長い姿で桶から飛び出して、空中でダンスを踊り始める。
「おお、すげえなさすが本職」
水を自在に操るパチュリーに、魔理沙は感嘆の声を上げた。
彼女がどんなに魔力を込めようともピクリとも反応しなかった魔道書を、パチュリーは自在に操っている。執筆者なのだから当然と言えば当然なのだが、それでも感心せざるえない。
「魔理沙だって、本職じゃない。恋符に比べれば、たいしたことない魔法だと思うんだけど」
「どうも細かい手加減は苦手なんだよな」
後頭部をかきながら、魔理沙はカラカラと苦笑いを浮かべる。
しかし、パチュリーは魔理沙の答弁が腑に落ちなかった。
恋符『マスタースパーク』は、一見膨大な魔力を力任せに放つだけの魔法に見える。しかし、実際に使うためには山をも吹き飛ばすほどの膨大な魔力を練り上げる集中力と、練った力が暴走しないようにするための高度な魔力制御が必要になる。
集中力と制御、この二つを両立させる魔理沙は、制御系の魔法についても決して低くない適性を持つはずなのだ。
「とりあえず、一回やってみましょうか。どんな風に失敗するのか見ないとアドバイスのしようがないし」
「それもそうだな」
魔理沙は魔道書を受け取り、先ほどパチュリーがやって見せたのと同じように書に魔力を流し、魔法の式を走らせる。
術者はハード、魔道書はソフト。
魔道書を使う魔法使いは機械と似たような存在なので、決められた手順で決められた操作を行えば魔法の式は起動する。
しかし、魔道書は起動しなかった。
パチュリーの見ている目の前で、魔理沙が魔道書に流し込んだ魔力は空しく大気中に溶けて行く。
「ずっと、こんな感じなんだよ。流し込む魔力の量が問題かとも思ったんだが、さっきパチューが練った魔力と同程度入れても無理みたいだし」
「むきゅう……」
両手を組んでパチュリーは唸り声をあげる。
いくら使っているのが泥棒とはいえ、自分の執筆した魔道書が機能しないというのは、とても喜べた話ではない。
「もしかすると、水を使う魔法を使う適性がないってオチかな?」
「そんな訳ないじゃない、あなたの気質は水属性でしょうが」
霧雨の名が示すとおり、魔理沙の気質は水の属性を持っている。水属性の魔法使いが水を使った魔法が使えないなんて笑い話にもならない。
「まっ、仕方ないか。パチュリーに聞いても駄目ならなにやっても無駄だな」
最後の頼みだったパチュリーでも駄目とあって、さすがの魔理沙もサジを投げる。
リビングに置いた桶を片付けようとした魔理沙を、パチュリーは腕をつかんで静止する。
「……待って」
「どうした――」
振り返った魔理沙は思わず息をのんだ。
魔理沙を引き止めたパチュリーは射抜くような強い視線で彼女を見つめていた。
『気に入らない』
なによりも気に入らないのは、魔理沙が彼女の書いた魔導書で失敗したことだ。
ここで引き下がってしまったら、魔理沙にとって自分の魔法が役に立たないことになってしまう。
「別の方法を試しましょう。この程度のことで諦めることはないわ」
「おいおい、持ちかけた私がいうのもなんだけど、そんなにムキにならなくても」
「うるさい!――魔理沙は黙って言うことを聞けばいいの」
普段のトロンとした雰囲気とかけ離れたパチュリーの気迫に、魔理沙は押し黙った。
それから一時間、二人の涙ぐましい努力が展開された。
パチュリーの指導のもと、考えうる限りの解釈と詠唱方法を試したが上手くいかず。魔理沙やパチュリーの持っている魔法薬を触媒にする方法も徒労に終わった。
「さすがに、これ以上は無理だろ」
いかに魔理沙が人並みはずれた強大な魔力を持つとはいえ、度重なる失敗に精魂尽きて椅子にへたり込む。
「むきゅう……なんでダメなの、この本を使って出来る方法は全部試したのに。魔理沙、あなた普段どうやって魔法使ってるのよ!?」
「どうって言われてもなあ。基本的に教わったことを自己流にアレンジしてるだけだぜ」
「教わったことって、魅魔っていう悪霊から?」
「そうだけど……なんでパチュリーが魅魔様のことを知ってるんだ?」
「アリスから聞いたのよ、あなたの師匠が魅魔っていう悪霊だって――」
言いかけたところで、パチュリーは自分がとんでもない思い違いをしていることに気がついた。
「そうか、そういうことか……魔理沙は黒魔法使いだったわね」
浅はかな自分の思い違いに頭を抱えたくなる。
パチュリーの考えたやり方を魔理沙が実行できないのは、当たり前のことなのだ。
「魔理沙、この家に魅魔って奴が残した資料は残ってない?」
扉を開いた先にあったのは、魔理沙の家とは思えないほど整理された空間だった。
少しホコリぽいが、物が乱雑に散らばってることもなく、頻繁に掃除をしている跡も見受けられる。
「この部屋を掃除してるのって魔理沙なの?」
「魅魔様の部屋を散らかしたら、帰ってきたときにぶっ飛ばされるからな」
魔理沙の淀みのない口調は答えた。
いつかこの部屋に主が帰ってくると信じて疑っていないのだろう。
「水を操る魔道書は……あった!」
本棚に収まっていた『ルルイエ異本』と銘打たれた本を手にとってみる。
「こんな危険な魔道書が、なんのセキュリティーもなく置かれてるなんてビックリね」
「いや……背表紙思いっきり日本語だし、魅魔様が訳したんじゃないのか」
開いて中身を確認してみると、その内容は魔理沙の予想を裏付けるものだった。
「なんなのこれは!? 貴方の師匠はどんな人だったのよ!!」
「確かにこれはスゴイな。魅魔様らしいっちゃ、らしいけど」
『ルルイエ異本』日本語訳は、その禍々しい内容を小馬鹿にするような、独創的でハイブロウな訳し方をされていた。
世界にどれだけ魔法使いがいるか知らないが、クトゥルーを「キモイ蛸」と記述する魔法使いは他に類を見ないのではないだろうか。
これだけ独創性にあふれた内容なのに、重要な部分での誤訳や解釈の間違いが皆無なにが逆に恐ろしい。
「それじゃ水の魔法、もう一度挑戦してみましょうか。魔理沙のスタイルなら、この本を元に術を構築した方が上手く行くはずよ」
水を張った桶を前に魔理沙は仁王立ちする。
これから、パチュリーと一緒に作った『ルルイエ異本』を使った液体操作の魔法に挑戦しようとしていた。
精霊魔法をベースとした魔法にイヤになるほど失敗してるだけに、表情にも緊張の色が伺える。
「それじゃ、いくぜ……」
魔理沙は普段からは考えられないほど丁寧に術を構築していく。
今までとは違う。
魔理沙の魔力が明確に桶の中の水に干渉し、中の水がゆっくりと回転を始める。
「やった!?」
喜んだのもつかの間、桶の中の水は止まるとなく回転数を上げていき、しまいには桶から水が溢れ出す。
「パチュリー伏せろ」
魔理沙がそう叫ぶと同時に桶が壊れ、強い勢いを持った水が部屋中に撒き散らされた。
そばにいた魔理沙とパチュリーに避ける術はなく、当然のように濡れ鼠だ。
「まりさぁぁぁぁ」
「悪い、悪い、制御できなかった。こりゃ、慣れるまで洗濯に使うのは無理だな」
制御を誤ったとはいえ、魔法が発動したのは確実な前進だ。
魔理沙がこのまま努力すれば、単に洗濯するだけでなく、大掛かりな液体操作や、流体操作まで発展させることも夢ではないだろう。
それをわかっているのだろう、口では謝っているが、魔理沙の表情はいたってほがらかだった。
*
その後、パチュリーが図書館に戻ったのは夜半過ぎだった。
曇っていたせいで服が乾くのに時間がかかったのだ。
「パチュリー様、遅かったですねえ。夕飯、終わってしまいしたよ」
「服が乾くのに時間がかかったのよ。夕飯も魔理沙のところで食べてきたからいらない」
「どうです? 魔理沙さんのお家、楽しかったですか?」
「楽しいって……別に遊びに行ったわけじゃないわ。正直、自分の未熟さを思い知らされた気分ね」
結局のところ、魔理沙にとって一番有益なのは師匠である魅魔の教えだった。
幼いころから基礎の基礎を仕込んだ存在なので仕方ないのかもしれないが、この結果はあまりに悔しい。
「それよりパチュリー様、妹様がずっとパチュリー様のことを待ってますから。相手してあげてください」
「フランが、一体どうしたのよ?」
「パチュリー!」
小悪魔に招かれて図書館へやってきたフランは、パチュリーの顔を見るやいなや駆け寄ってくる。
「パチュリー、この前貸してもらった本の記述でわからない所があるの、ここなんだけど……」
フランが抱えていたのはパチュリーが書いた魔道書だった。
気まぐれで活字に興味を示さないレミリアとは対照的に、フランはパチュリーの図書館を頻繁に利用する常連客の一人だ。
最近のお気に入りは魔道書の研究で、こうして魔法について質問に来ることも珍しいことではない。
「ああ、ここか。確かにこれはわかり難いわね」
フランが持ってきた魔道書は、人に見せるためではなく自分で読んで確認するために書いた物で、本人以外にはわかりにくい抽象的な表現がいくつも存在する。
「小悪魔、今から言う材料をすぐに集めて頂戴。実験して教えた方がわかりやすいから」
「かしこまりました、パチュリー様」
小悪魔は、ニコニコと機嫌のよさそうな笑みを浮かべて作業を開始した。
彼女達は今日もこうして努力する。
師を越える、青の魔法はまだまだ遠い。
えー、いわゆる魔女たちが勢ぞろいですね。
同じ魔法であるのに、それぞれの魔法のスタイルが違っているのが面白いですね。
でもそれって普通のことだったり。
魔法って奥が深いですね
ほんのりなパチュマリも素敵
ただ・・・魅魔の設定付きでアリスが人間説だと、違和感が。