『家の都合で……ええ、もう一生会えないかも……』
『どうして? 早苗、神社の子だからずっと一緒だと思ったのに! どうしてよ!』
そんな話は聞きたくない。
『ごめん、ごめんなさい!』
彼女は夢の中で泣いていた。あの人も泣いていた。
「うわあ!」
早苗が目覚めると見知らぬ者の家だった。何の変哲もない八畳敷の和室だ。しかし丸窓には鉄格子が嵌まり、本来襖のあるべき場所にも木の格子が嵌まっている。更に両方の格子に何やら赤い漢字を描いた御札がぺたぺたと貼られていた。いわゆる座敷牢だ。
「え、買い出しが終わったから昼寝していたのに! 誘拐? 誘拐ですか?」
「おや、起きましたか」木の格子の隙間から覗いているのは射命丸文だった。積極的には関わらないが、知らぬ顔ではない。天狗の帽子は今は脱ぎ、黒いネクタイも外している軽装だ。
早苗は布団を蹴って起き上がり、木の格子を掴んで前後に揺らした。蝶番がガタガタと音を立てる。
「いっちょまえに監禁ですか! 訴えますよ!」
「何を言っているのです? ちゃんと契約通りにやってるだけですよ?」
「契約?」
「これです」文が格子の隙間から白い紙を差し出し、早苗がひったくった。
「痛い! 指が切れるじゃないですか」文が指を抑えた。
「だまらっしゃい!」紙を斜めに広げる。
『 風祝賃貸借契約書
賃貸人 宗教法人守矢神社(甲)
賃借人 射命丸文 (乙)
上記当事者間において、風祝の賃貸借をするため次の通り契約を締結する。
第一条 東風谷早苗は、自立できるまで射命丸文宅に居住するものとする。
第二条 『東風谷早苗の自立』は、東風谷早苗が八坂神奈子・洩矢諏訪子両名の力を使わずに命名決闘法において射命丸文に勝利することと定義する。
以上、本件契約締結の証として本書二通を作成し、甲乙各一通を所持する。
第一二△季 神無月の五
(甲)宗教法人 守矢神社
(乙)射命丸文 』
「肝心の私の同意がないじゃないですか! こんなの通りますか!」
「ほら、あれですよ。あれ。ホッケとみりん。おいしいですよね」
「法定代理人です! 分かりにくいボケ飛ばさんで下さい!」
文は会心のギャグを一蹴された者特有の表情をしていたが、早苗はそれを無視した。
「どっちみちこんないい加減なの偽物に決まってます! 偽物!」
「確かめたいですか? どうぞ」文が遠隔通信機能付き陰陽玉を差し出し、早苗はそれをもぎ取った。耳に当てるとベルの音が数回鳴り、守矢神社に繋がった。
『はい守矢神社です』
「神奈子様、あの契約書は本物ですか?」
『本物よ』
「マジですか」
『本当ですか、よ』
「言葉も崩れますよそりゃ! 何やってるんですか神奈子様! 今どき小学生だってここまでいい加減な契約書作りませんよ!」
『いいからいいから』
「いいからじゃなくて……ともかく、どういう事か説明してください」
昼の守矢神社社務所、応接間。早苗は買い出しに出かけており、今ここにいるのは残りの二柱と文だけである。
下に青い絨毯が敷かれた机を挟み、三人は二対のソファに座っていた。ドアに近い方に文が、反対側に神奈子と諏訪子。机の上には資料が広げられていた。幻想郷全体を描いた地図の上では、人里から守矢神社へと黒線が真っ直ぐに伸びている。
文は地図を眺めていた。
「これが架空索道ですか」
「知っての通り、私達の神社には人間の参拝客がとても少ないわ。現状でも妖怪からの信仰はそれなりに集まってはいるけど、私達はそれでは満足しない。信仰を得るための市場はまだまだ広い。人間からも開拓しないと」
「ええ、そこまでは以前お伺いした通りですね」
文は手帖を捲り、第百二十四季・霜月の三付の文々。新聞の一面の切り抜きを参照した。見出しには『山の方向性で意見二分』『大蛇と白狼天狗の確執』と書かれている。
神奈子がいくらご利益のある神であったとしても、白狼天狗に追い返されると分かっていて妖怪の山を突っ切る人間はそう多くない。白狼天狗は山を荒らされるのを嫌う。そこで神奈子は人里と神社を直接ロープウェイで繋ぐ計画を持ち上げたのである。これならば人間も妖怪を恐れずに参拝でき、山の妖怪も人間に煩わしい思いをする心配はなくなる。双方にとって利益になる計画のはずだった。
「ところがここでまた天狗。ロープウェイを作るための許可を取ろうとしても、連中ときたら言を左右にするばかりでちっとも進みやしない。私よりずっと年下の癖に頭が固いのよ」
「神奈子が柔軟すぎるんだよ」諏訪子が笑った。
「お陰でこっちは何万年一緒にいても全然飽きないけどねー」
「なるほどなるほど。そこで私に働きかけて欲しいというわけですね」
「見込みはあるかしら?」
文はメモ帳に簡単な天秤のマークを描き、『説得』『Win-Win』『白狼天狗が壁か』などと書き込んだ。
「人間の参拝が増えた結果として山の信仰も増える、という話でしたよね?」
「ええ」
「白狼天狗を始め様々なしがらみに縛られてはいますが、天狗の首領・大天狗様は実利を考えられるお方です。貴方がたへの信仰心が山のためにも利用できると納得すれば、彼から根回しができるかと」
三人は詳しい計画を詰めた。およそ一時間半ほどに及ぶ話し合いだった。座りっぱなしの三人は身体を曲げ伸ばしした。
「ふう。決まりですね」
「では、貴方への報酬も考えましょうか。新聞の肥やしになるものでもないかしら? 新聞大会が近いんでしょう?」
「そうですね。最近ネタがないのは確かです」
「さあ遠慮なく。うまくいけば、貴方は飯の種の恩人よ」
「……ふむ。あえて言うなら、お宅の風祝さんですかね」
「へえ? 続けて」
文は手帖に挟んでおいた封筒から写真を何枚か出し、机の上に広げた。青白く輝く光の粒の奥に早苗が写っている。このスペルカード『蛙符「手管の蝦蟇」』は諏訪子の力を借りたものだ。
「あら、良く写ってるじゃない」神奈子が言った。
「この道は何年も続けてますから。それに素材がいいんですよ」
「おべんちゃら言っちゃって。で、これがどうかしたの?」諏訪子が言った。
「そう、素材はいい。でも、素材だけじゃあ足りないんですよねえ」
文は湯のみから茶をすすり、以前の取材の記憶を反芻した。蛙が連鎖式に蛙を生み出し、閃光となって襲う。確かに強力な技ではあったが……
「単刀直入にいいます。この前取材させて頂いたのですが、彼女はまだまだお二方の力に頼りっきりです。本来の潜在能力なら、彼女はまだまだ伸びしろがあるはず。しかしあのままでは伸びない。もう少し、一人でこなすことを覚える必要があります」
「ほう?」
「私は彼女を育ててみたい。そうやって私から稽古を付けて、早苗さんが独り立ちするまでをドキュメントにしたいと思います。私は新聞大会のためのネタを得て、そちらは風祝の未来と信仰の種を得る。いかがです? 双方に良い取引です」
神奈子は舌を巻いた。神奈子が諏訪子と二人で何年も育ててきた結果として最近見えてきた問題を、この天狗は短いやりとりで見抜いたのだ。胡散臭いながらも、その慧眼は認めざるを得ない。
「諏訪子、どう思う?」
諏訪子は顔を傾け、頬に掌を当てた。
「……うん、稽古という名目ならいいんじゃないかな。神奈子とあんたは遠い親戚だって話を読んだことがあるし、意外と相性がいいかもよ?」
「え?」文が驚き、神奈子がぎょっとした。
「資料は色々漁った。私達の基準から見ても大昔のことだし、正確な記録は残ってないから良くは分からないんだけど。あんたら天狗の祖先・サルタヒコは、神奈子の親のオオクニヌシの兄に当たるんじゃないかって。つまり神奈子とあんたは遠い遠いいとこ同士って事ね」
「ちょっと諏訪子!」
「神奈子は全然教えてくれないんだけどねー。中央の大和の神々にとって、なんかしら都合が悪いから隠蔽されたんじゃないかなって私は踏んでるよ。今の神奈子の反応を見ると、当たらずといえども遠からずって所かな?」諏訪子はニヤニヤしていた。神奈子はそっぽを向いた。
「へえ……」今度は文が驚く番だった。天狗は一般に社会性が高く、賢い種族である。しかしその知識について言えば、自然の中で自ら見聞きし体験して得たものや耳学問に偏っている。人間や魔法使いと違い、天狗には既製の知識を体系的に取り込む習慣がないのだ。それで天狗の社会は無事に回っているのだから別に良い、所詮は机上の空論だと小馬鹿にする者も天狗には多い。しかし少なくともその利点については文は軽視していなかった。この神は見かけによらず教養がある。自分にはないものだ。
「おほん。ともかく、天狗式の風の操作法を教えてもらえればこちらとしても助かる。よろしくお願いするわ」
「了解しました。しかし彼女、素直に稽古をつけさせてもらえますかね?」
「あの子は基本素直だから。貴方の教えが役に立つとなればぐんぐん吸収してくれる思う」
「他人に影響されやすいとも言う」諏訪子が言った。
「その代わりといってはなんだけど、ロープウェイの方の便宜、よろしく頼むわよ」
「はい、お任せください! 上手く働きかけてみせましょう!」
『……というわけよ』
「ワイローッ!」早苗は絶叫した。
『これも参拝客を増やすためよ! 貴方のためにもなることだし。頑張ってね早苗ー』
ぶつり。通信が切られた。早苗はぷるぷると肩を震わせ、文に向き直った。
「収賄で告発します! 確か妖怪の山には大天狗って偉い人がいたはず!」
「どうぞ」
文は早苗の手の届かない距離で一枚の写真を見せた。天狗の集落での宴会のようだ。テーブルにはつまみの乗った皿が散らばって置かれていた。中央には天狗装束に身を包んだ堂々たる風格の中年男性がおり、その手が持つ盃に神奈子と諏訪子が酒を注いでいる。美女と美少女からの接待を受け、長鼻で鼻歌でも歌っていそうな様子だ。
「トップ抑えられてるーっ!?」手遅れだ。根回しは完璧である。この天狗の狡猾さを早苗は呪った。
「というわけで、私の特集記事に協力してくださいね♪ 名づけて『東風谷早苗のドキドキ成長物語(妄想)』!」
うわあ。
「こんなの晒し者です……」早苗は肩を落とした。
とは言うものの、壁を感じているのは確かだ。早苗は思案した。霊夢・魔理沙・妖夢・咲夜。幻想郷には早苗と同程度かそれ以上に強力な人間が沢山いる。この間の付喪神の暴走など早苗の出る幕もなく解決してしまった。だから実力者に稽古をつけてもらえるのは早苗にとっても願ってもないものではあったが、それをこの得体のしれない新聞記者にされるのは癪だった。
「さあさあ必要な何でも取り揃えて差し上げますよ。貴方は勝つことさえ考えていればよいのです。私こう見えても料理は上手いですし、風呂と寝床は快適そのもの。技の開発の材料や考察に要る資料はいっぱい用意してありますし、足りなければ山の図書室や神社からお運びします。練習が必要なら手前味噌ながら鴉天狗として千年のキャリアを持つ私がご相手しましょう!」
手合わせ、と聞いて早苗は顔を上げた。
「要は貴方に勝てば良いのでしょう?」
「お? 早くも挑戦しますか?」
「ええ、さっさと貴方を退治して凱旋するとしましょう」早苗は鼻を鳴らした。
「そうとなれば善は急げです」
文は座敷牢の錠を外した。
「ここなら十分な場所が取れそうですね」
妖怪の山の中腹、鴉天狗が居住している地区の近くには開けた場所があった。お馴染みの楓の他に、イヌシデ・コナラ・ケヤキなどの樹木が広場を取り囲むように立っており、それらより少し低いシラカシの木にはクズが絡みついている。広場の端にぽつりぽつりと立つ低木の根本には、石菖の細長い葉や熊笹が陣取っていた。地面には薄緑色・黄色・薄紫色などの落葉樹の葉っぱがカーペットをなしている。
二人は広場の端から端まで三分割するように向かい合っていた。早苗は巫女服で、文は軽装のままだ。
「では、レディー・ファースト。そちらからどうぞ」
「貴方が私をレディー扱いですか。舐めきってますね!」
早苗はステップを踏み、合わせた両手に御幣を立てて儀式のための詠唱を開始した。すぐさま文が横薙ぎに扇を一閃。その先からかまいたちが二列発生し、絡みあうように地面を走り落葉を巻き上げる。早苗は横飛びに避け、かまいたちが背後の低木の枝を三本切断した。文が走って飛び込み更なる妨害に掛かる。早苗はその鼻先に五芒星の壁を召喚。詠唱時間を稼ぐ。しかしこれを文はあっさり飛び越えて躍りかかった。早苗は背筋を震わせた。斜め後ろで枝が地面に衝突し、落ち葉が擦れ合う音を立てる。
「詠唱にそんなに時間を掛けていては私のスピードには追いつけませんよ!」
早苗はお札を三枚飛ばして牽制しながら横に逃れ、出来た隙間へと風を滑りこませて跳躍。アカメガシワの幹の枝分かれ部分に飛び乗る。
秘術「グレイソーマタージ」
五芒星のカーテンが早苗の周りに展開された。文は一本下駄でアカメガシワの幹を蹴り、その勢いでバックジャンプを決める。枝を通って早苗の足に衝撃が伝わる。しかしこれを読んだ早苗は振り落とされる直前に飛び退いた。早苗の眼下で五芒星の辺がほぐれ、米粒のような光の欠片に分解して文の頭上に降り注いだ。文は広場中を駆けまわり流星のシャワーを逃れる。一本下駄の歯がケヤキの葉や小石をそこら中に跳ね散らしている。
「はっ! そんなに動きまわらないと避けられないだなんて、余裕が無いんじゃないですか?」
文はニヤニヤしていた。早苗は眉を顰めた。
文は広場を半周した辺りで扇を三回振り、竜巻を呼び起こした。太さが早苗の腿ほどもある枯れ枝、地面に埋まっていた小石、土埃が巻き上げられ早苗を襲う。早苗は御幣で薙ぎ払ってこれをいなした。
文が広場を一周し、地面を蹴って大きく跳躍。木々の枝の天幕を抜け、早苗の頭上に達した。そのまま渦状に赤と青のエネルギー弾の輪を振り撒く。最も弾の密度の濃いのは文の周辺であり、早苗はそこから離れて地面に降りざるを得ない。今度は早苗が逃げ惑う番だ。文はエネルギー弾の放射を三巡させて地面に降りた。今度は広場の対角線上を猛然と横切る。落ち葉が文の膝の高さまで飛び跳ねる。
「うふふ、さっきからおかしいとは思いませんか? 貴方」
「さっきから? 貴方の頭がおかしいのはいつもでは?」
「何でこの私がわざわざ地面で戦っていると思います? 貴方を地に引きずり下ろしてまで?」
風神「風神木の葉隠れ」
文は落ち葉の絨毯に足を踏み下ろした。広場の地面全体が一瞬だけ震え、空気の弾けたような乾いた音が鳴り響く。それを合図に早苗の足元の落ち葉がぶわりと舞い上がり視界を遮った。
「あ、この!?」
土埃を吸い込んだ早苗は咳き込み、風を召喚して振り払う。しかしその時には文は視界から消えていた。どこから来る?
「後ろです!」
横蹴りが飛ぶ。早苗は危うい所で前のめりになって逃れるものの、滑る落ち葉で足がもつれ、つんのめって転んだ。危ういところで前受け身をとり、振り返るとまた文が消えている。イチョウ・コナラ・イロハモミジの落ち葉が海を泳ぐ小魚の群れのように宙を舞い、早苗の視界を三六〇度遮っている。
早苗は今頃になって文の問いの意味を悟った。文は地面に降りるたびに意識的に落ち葉の密集地帯を踏んでいる節があった。足裏から伝えた妖力をそこら中に撒いて木の葉を操っているのだろう。まんまと地形を利用された形だ。
「左ぃ!」
木の葉の寄り集まった矢尻が六つほど、早苗に向けて弧の軌道を描き滑空する。早苗は身を捩って直撃は免れたものの、散った葉が何枚も身体にまとわりついた。早苗は頭上からつま先に向けて空気流を作り、静電気を逃がすように木の葉を引剥がした。しかしまだまだ周りからは木の葉が流れ込んでくる。どうしても受け手に、守勢に周ってしまう。早苗は上に逃れようとするも、やはり宙の木の葉がバネのように抵抗力を伝えて阻む。
「右です!」
風球が足を掬い上げ、早苗は宙に巻き上げられた。赤黄のモザイクの向こうに、落ち葉の幕を纏った文の影が見える。色濃く妖力を伝えられた葉をぶつけるつもりだろう。もはやこれまで。
蛙符「手管の蝦蟇」
早苗の目の前に光球が発生する。その表面には青い電撃が奔っていた。しかしそれが弾ける前に文がすり抜け、一足飛びに距離を詰めて早苗を突き飛ばした。早苗は落ち葉の山へと頭から突っ込む。同時に文が地面を垂直に蹴って飛び、蛙の泳ぎ去るような光球の炸裂を逃れた。守矢神社の二神が一柱・洩矢諏訪子の神徳の顕現だ。
「ブッブー! 神様の力に頼ってしまいましたね? 失格です」
再び地面へと降りた。落ち葉の山の中から早苗の右腕だけが伸びている。こんもりとしたその山の前に文は降り立ち、手を伸ばして助け起こしてやった。早苗の身体からばさばさと葉っぱが落ちる。
早苗は膝をついていた。認めざるを得ない。惨敗だ。
「なんでこんなに強いのにわざわざ私に関わり合ってるのですか? ネタなんてどこにだって転がってるじゃないですか」
「貴方が未熟だからです」
「さらっと言いますねえ、随分なことを」
「そう、さらった人間の成長こそが我らが天狗の喜び! むしろ未熟で結構! 出会った子供を守り育てることは我々の伝統なのです!」
未熟。未熟。あまりにも押し付けがましい。早苗は膝立ちのままそっぽを向いた。文の言葉は早苗にぐさぐさと刺さり、気分の良いものではない。
「何を拗ねているのですか? 貴方には成長の余地があると言っているのです。ここで壁を乗り越え、あと数十年たったら一体どれ程の実力を身につけていることでしょう。これは喜ぶべきことではありませんか?」
文は早苗の顔に手を伸ばし、文の方に向かせて顎を撫でた。その視線も早苗を撫でる。宝石の原石を扱うかのように。
「磨けば光る、うふ、うふふふふ」
早苗は息を呑み、顔を背けた。頬の血流が増えるのを見られる前に。文の薄っぺらにさえ感じられる笑みを見て、図らずも綺麗な人だ、と思ってしまったのだ。
「顔が近いですよ」
「近づけているのです。貴方がよく見えるように」
「わざとらしい」
それでも、早苗は差し出された手を取った。
夕方になり、二人は食事の準備をしに文の自宅へ戻った。早苗はダイニングキッチンに踏み入れ、感心したように顎に指を触れた。外の世界とくらべても遜色ないどころか、平均的な水準を上回ってすらいる。ダイニングテーブルをL型に囲むキッチンには、換気扇や流し台・水道の蛇口はもとより、食洗機まで備え付けてある。外の世界とは形や色は異なるが、炊飯器や冷蔵庫・電気ケトルに相当するものもある。ただしガスコンロとオーブンの燃料だけは、ガス管ではなくボンベから供給しているようだ。
「ディッシュ・ウォッシャーなんて、ウチにだってないのに」
「ふっふっふ、妖怪の山の技術です」
「電気も水道も下水道も……どんだけ進んでるんですか」
「河童に頼めばやってもらえますよ。我々天狗と河童は幻想郷で最も豊かな生活を送っている種族と言っても過言ではありません。物質的にも、精神的にも」
後者は知らないが、少なくとも前者については早苗も認める所だった。
「待っててくださいねー。今作ります」文は冷蔵庫から人参やら筍の水煮やらを取り出した。
「あ、私もてつだ……」
「貴方はゲストです」ぴしゃり。早苗は新聞や本でも読んで待つことにした。
テーブルの周りには網の背もたれとクッション付きの椅子が四つあり、その内の一つに早苗は座らされた。テーブルはクルミを切り出したもので、刺繍の入ったテーブルクロスが掛けてある。独りで使うには大きい。辺りに包丁の音が響く。
「やたらと広いですね」
「めったにはありませんが、誰かを呼ぶ時にはスペースが要りますからね。でも外の世界のお金持ちって、使いもしない浴室を五つも六つも備え付けてるんでしょう? 私の家なんておとなしい方ですよ」
誰かを呼んで、何をするのかしら? 早苗は浮かんだ疑問を無視し、文々。新聞の最新号を読もうと後ろから二番目の社会面を広げた。『白狼天狗連、開発反対デモ』『守矢神社に抗議』。早苗は見出しを見ただけで首を振り、脇に置いた。私がいない間にまたあいつらが来ないといいのだけど。代わりに神社の史料館から運ばれてきた本を書見台の上に載せる。しかし三ページ目を開いた所でまたもや首を振った。ガスコンロの上で熱を発する手鍋から椎茸の出汁の匂いが漂い、空腹を訴える脳髄に直撃して集中を乱す。だがそれだけではない。エプロンを着けて味見している文の後ろ姿が視界の隅にチラチラと見え、何となくそわそわして落ち着かないのだ。何か話でもしよう。
「そういえば、昼間寝ていなくてよかったんですか?」
「修行中の生活リズムは早苗さんに合わせますよ」
やれやれ、至れり尽くせりね。早苗は思った。
出来上がった料理がテーブルの上に運ばれてきた。メインは根菜と豚の挽き肉の時雨煮。蓮根・人参・筍などの根菜と一緒に椎茸とこんにゃく・きくらげが煮汁の中に浮かび、そこに絹さやが彩りを添えている。副菜はほうれん草の和物に里芋の煮物。味噌汁の中には大根と油揚げが漂っている。
「頂きます」「頂きます」
早苗はまず時雨煮を口に運んだ。みりん醤油とだし汁を吸い込んだ人参の甘みと、ごま油の香りが口の中に広がる。
「美味しい……?」
「そんな意外そうな顔をしないでくださいよ、傷つくじゃないですか」
「いや、そういう意味ではなくてですね。素材の問題なのです」
「というと?」
「外の世界の品種改良された食材に今まで私は慣れてきました。だから百年文化レベルの違う幻想郷だとどうかなーっと思っていたのですけど。ここに入ってからはドタバタしていたので忘れてましたが、改めて考えるとここの野菜も外の世界と全然遜色ないなと」
「ふふふ。そこはですねー、結構融通が効くんですよ。外の世界から味の良い品種を持ち込んでくれる妖怪がいましてね。多少旬を外しても保存も効きます」
「へえ?」
「それでも海のものは高級品なので滅多には使えませんけどね。出汁はだいたい干し椎茸ですし、外の世界のレシピ本を貰っても昆布とか青のりとかはメニューから外します」
「ふーむ……」
早苗は味噌汁を飲み干した。季節早めの大根には味噌と椎茸の出汁が良く染みこんでおり、そのうま味を存分に伝えていた。
「こっちの里芋とか日本酒にも合いますよー」文は猪口を差し出した。
「私はあんまり呑めないので」
やがて全ての器が空になった。早苗は皿洗いを手伝い、それは文も断らなかった。油汚れには石鹸を使った。
ひと通りの洗い物を終え、(とはいっても、使った食器を食洗機に突っ込んでスイッチを入れるまでの事だったが)早苗は板張りの廊下を渡って別の部屋に案内された。文は襖を開いて手を壁際に突っ込み、電灯のスイッチを入れた。墨とインクと古い紙の匂いが漂ってくる。
書斎は和風だった。畳張りの部屋の奥の障子窓の前には文机。その上には墨やら筆やらインクやらの用具が並べられている。横の壁を埋めているのは和綴じ・洋綴じを問わず新旧様々な書物を収める書棚だ。しかし、ところどころに隙間が抜けている。重要な資料は早苗の手の届かない所にしまってあるのかもしれない。早苗は文机の前の紫色の座布団に座らされた。
「では、これから風呂の準備を始めるので。役立ちそうな資料は揃えておきました。ごゆっくり読んで下さいね」
文は書棚の前に書物の束を置き、縛っていた紐を解いた。守矢神社の資料庫にあったもので、早苗を引き取る際に神奈子と諏訪子から受け取ったと言う。
早苗は資料集を開き、鹿の首の剥製の写真や、串刺しにされた兎の挿絵などが印刷されたページをぱらぱらと捲った。祀っているのが狩猟神だけあって、その祭礼には現代の価値観では猟奇的に映るものも多分に含まれる。だが早苗にはとうの昔に見慣れたものだ。
諏訪信仰の秘儀は早苗の両親の代で絶えたと公式には記録されている。しかしその秘伝は早苗が幻想郷に来る以前に、母親の口を通して早苗の頭脳にしっかりと収められていた。改めて思い出すまでもない。これらの資料も儀式の核心はぼかされ、予め必要な知識がなければ意味の分からないように作ってある。つまり早苗以外には理解できない。あくまで視覚情報として体系化されたものを見ることで、枝葉末節の知識の確認とインスピレーションの源泉とするのだ。
白蛇の群れを諏訪子らしき祭神が使役している挿絵に差し掛かった辺りで、背後で襖の開く音がした。
「お風呂空きましたよー」振り向くと文だった。濡れた髪が電灯に照らされて輝いている。
徐々に肌寒さを増す季節ゆえに、肌襦袢に包まれた肢体からは湯気が立ち上っており、その頬は上気してつやのある桃色となっている。早苗は咳払いした。
「着替えはこちらです」文は早苗のエナメルバッグを渡した。
「随分と用意がいいですね」
「二柱が送ってくださいました」
「また、勝手なことをー」
浴場は檜風呂だった。浴槽の周りには玉砂利が敷かれ、窓に張られたすりガラスには紅葉の模様が刻まれている。黴の匂いはせず、黒ずみも見当たらない。よく手入れされている事が伺えた。
湯船の中で、早苗は今日のことについて考えていた。ゆっくり浸かるには熱すぎない程度の湯加減のお陰で、思考の方もぐるぐるとよく回る。あそこでああしていれば、そこに牽制を挟めば……広場を縦横無尽に駆け回る文の姿に混じって、台所で味見をしている時の彼女のそれがちらつく。
そういえば、これも彼女が入った後のお湯だ。
「……のぼせない内に早く出ましょう」
早苗は風呂から上がり、座敷牢の中で就寝の準備をしていた。敷布団を敷いていると蝶番のきしむ音がなり、文が入り口をくぐって入ってきた。
「あ、私のスペースも空けておいてください」文は押入れから自分の分の布団を取り出した。
「ちょっと。何で貴方が中に入ってくるんですか」
「寝室を潰して座敷牢を作ったので、私の寝るスペースがなくなってしまったのです。一緒に寝ましょう」
早苗はツッコむのをやめた。
消灯。雨戸を閉めたために部屋の中はほぼ真っ暗闇だ。
横を見ると、文は早くも寝入っている。急に生活リズムを変えたのに良く眠れるな、と思った。妖怪も流石に疲れたのだろうか。
早苗は文の髪に手を触れた。文が横を向き、その吐息が早苗の手に触れる。早苗は手を引っ込めた。
「何を考えてるの、私」
正直に言ってしまえば、早苗に昔からそのケはあった。諏訪で過ごした中学生時代。故郷から遠く離れた今となっては淡い思い出だ。
しかし二度目のそれがよりによって得体のしれない天狗? ありえない。ストックホルム症候群じゃあるまいし。
でも、落ち葉の舞う中を疾走する文の姿は美しかった。文の振る舞ってくれた料理はおいしかった。それは否定できない。早苗は文の吐息の触れた手で顎の、先ほどの闘いで文に触られた辺りを撫でた。胸の奥でじんわりとする感覚の正体を確かめられないまま、早苗は眠りに落ちた。
二日目は座学で過ぎた。書斎の文机の横には、昨日文が守矢神社の倉庫から持ってきた儀式の資料に加え、スキマ妖怪著のスペルカード公式ルールブック、館の魔法使いの記した精霊魔法の入門書、九尾の狐の書き上げた式神構築の演習書が積み上がっている。それら幻想郷の叡智の蓄積を、早苗の元々持っていた力とどう組み合わせるかが目下の課題だった。
文は部屋の真ん中に立って口舌を振るっていた。どこから持ってきたのか、横には脚と車輪が付いた黒板を置いている。
文は黒板に張られた紙に箇条書きで印刷されている『一つ、美しさと思念に勝る物は無し』を指さした。
「スペルカードとは即ち個性の表現です。貴方が今まで学んだこと、体験したこと、喜び、悲しみ、怒り……そういった貴方を構成する要素の全てがスペルカードには反映されるのです」
恒等式。思念=個性。しかし早苗の視線はその隣の『一つ、完全な実力主義を否定する』の方に吸い込まれた。まるで本気でやりあえば早苗は文に敵わないとでも言いたげだ。早苗は掌で額をこすった。
「狭い狭い幻想郷。この枠を壊すに足る力を持つ存在は山ほどいます。ですから何人たりともその力をみだりに使ってはなりません。しかし流れぬ水は腐り、油を差さねば機械は錆びる。周りに全く影響を及ぼさない妖怪など、存在しないも同然。どこかで水を流してやる必要があるわけです。定期的に、その存在の特徴を最大限引き出してやる。しかもなるべく無害なレベルで。そこで提唱されたのが、今日広く行われている決闘法というわけです」
文は『決闘の美しさに名前と意味を持たせる』を指さした。
「技は体系だった、一定の法則からなっています。複雑であればあるほど複雑な式を組む必要があるわけですね。早苗さんの場合は儀式が主なので、詠唱が長ければ長いほど複雑で大規模な式を組むことが出来ます」
文の指が移る。『意味のない攻撃はしてはいけない。意味がそのまま力になる』
「意味は力で、法則とは意味の体系です。組んだ式が大掛かりであればあるほど、大きな意味を込めることが出来るというわけです。込められた意味の大きさが技の美しさに直結します」
美しさ、と聞いて、早苗の脳裏に昨日の文との闘いの風景が浮かんだ。扇を振るって風を自在に操る文。早苗を飛び越えて青空に跳躍する文。落ち葉に塗れた自分に手を差し伸べてくれた文。
恒等式。美しさ=文。導く根拠は……そこまで考えて、早苗は顔を伏せ、両手で頭をガリガリ掻いた。
「どうしたのですか?」
「ちょっと気が散っただけです」
「顔でも洗ってきます?」
「結構!」
そうムキになることもない、早苗は自分に言い聞かせた。美しさ、そう美しさ。同じ技を使うわけにはいかなくとも、目標にするのは悪いことではないはずだ。少なくとも美しさで文は早苗に勝ったのだから。
「まあ、いいでしょう」文は黒板の磁石の一つを外し、そこに留められていた封筒を手に取った。
「とはいっても複雑さが即ち美しさ、というわけでもありません。むしろ単純な方がより美しいことも多いでしょう」
文は封筒から写真を取り出した。写真の裏には『凍符「パーフェクトフリーズ」』と印刷されている。早苗も宴会で、このスペルの考案者に勝負をふっ掛けられたことがあった。その場では軽くあしらったが、凡百の攻撃の中でこのスペルだけは一際目立っていたので印象に残っている。
「『自分の出した弾を凍らせる』というだけのシンプルなアイデアですが、不自然な冷気としての彼女の性質を最も良く表したスペルです。実際パーフェクトフリーズはチルノのスペルの中ではもっとも強い。このように最も単純な発想が最も大きな力を持つということは十分にありえます。濃密な中身を持ちながらも、その範囲で出来る限りシンプルに。これが命名決闘のコツです」
早苗は外の世界で遊んだゲームの事を思い浮かべた。ゴテゴテと飾り立てた大型ゲームもそれはそれで魅力的だが、より単純なゲームのほうが奥深い魅力を持ち、かえって広く遊ばれている事も多い。
「プログラムみたいなものですね」
「プログラム……?」
「外の世界で言う式みたいなものです。それを使うと、単純だけれど繰り返すには面倒な事をやらせたり、暇つぶしの遊び相手にすることが出来ます」
「ああ、聞いたことがあります。何でも将棋で自分を負かす式を組む事に情熱を燃やしている変人がいるとか?」
「自分で動くからくりは万国共通のロマンです」
早苗は外の世界のロボット事情について語りだしたが、適当な所で文がそれを押しとどめた。
「ふむ……しかし考えてみれば、それが結構馬鹿にならない。そういった人たちは、知性そのものへの探究心を式を通して表している事になります。形を変えた弾幕といえるでしょうね」
恒等式。関心=思念。
「ですから、普段から自分を表すものは何か、と意識しておくことが肝要です。私なら乗る風の爽やかさ、氷精なら蛙を凍らせる時の楽しさ、何でもいいから自分の興味を拾ってみましょう」
「私の個性、ねえ」
自分は自分だと思っていても、いざ自分の個性は何か、と問われるとはっきりと主張できる者は少ない。種族が個性に直結している妖怪と、人間の早苗とはそこが違った。
「まずは型を復習してみましょう」
数式いじりはしばらく続いた。やや高度な演習が続いたが、理系としては比較的上手くやっていた早苗には適応できないものではなかった。演習の答えを確認するとき、文はわざわざ直接解答の載っているを指さしで見せてきた。顔が近い。黒板に書けばいいのに。早苗は心中で首をかしげた。
三日目。二人は再び広場にいた。早苗と文はそれぞれ青とあずき色のジャージ姿だ。庭にシートを敷いて、その上に立っている。
「体術も大事です!」文が言った。
「大事なんですか」
「決闘法にも色々あるのです。この前私が取材した天人は徒手格闘が中心でした。それはもう天下無双でしたとも」
「で、殴るんですか? 投げるんですか?」
「人間が妖怪相手に闘うなら柔術が良いでしょうね。あれなら力の差をある程度ひっくり返せます。まず後ろから襲われたのを想定した訓練をしてみましょう」
まずは柔軟から。胡座をかいて股関節の上下。手首や各関節の曲げ伸ばし。次に基本動作の練習。タイミングよく軽く屈伸。腰を沈めて、腕を上げる。
受け身の練習。胡座をかいて後ろに倒れ、足を前に出す。受け身には、後ろ向きに背中の衝撃を分散し、頭部への衝撃を遮断する役目がある。前受け身では立った状態から前方に一回転するが、原理は後ろ受け身と同じだ。
二人は組み技を始めた。文は早苗の後ろに立ち、両手で早苗の両手首をそれぞれ取った。
「さあ、このままだと膝で蹴られて腰骨か尾てい骨をやられます。どうします?」
少しもがいてみるものの、文の握り方はしっかりとしていて動かない。やってみれば分かるが、身体のちょっと後ろ側に腕を取られただけでも非常に不安定な体勢になる。
(自分の力だけでどうにかしようとするから不要な力が入る)
早苗は背中を文の前に密着させた。基本動作通り腰を沈め、両手の指先を上に向ける。
(力まずに、かつ腑抜けにならずに)
早苗は左足を前に出し、文の身体が前へと通るルートを作る。同時に指先がするすると上へと伸びる。
(相手の力を利用して……投げる!)
靴紐を結ぶように腰を屈める。挙げたままの両腕が前へと伸び、伸びきって無抵抗になった文の身体が前に吹き飛んだ。
(練習通りだわ)
文は前に一回転して受け身を取り、早苗の所に戻ってきた。
「上手いですね。どこかで習いましたか?」
「ええ。これでも大会で結構いいところまで行ったんですよ?」
あの人と一緒になったのも護身術の稽古だった。小中学生のクラスの受講者は本人が自分から望んだ者よりも親に言われて通っている者がずっと多い。つまり親が子に護身術を身につけさせる必要を感じたということである。それは早苗のように本人が将来重要な地位に着くことを約束されているか、あの人のように短躯で、何の心得も身につけさせずに社会に出すには不安のある者が多かった。
(もう、こんな時にあの人の事を思い出すだなんて)
「では今度は私が投げます」文は早苗の前に背を向けて立った。早苗が鼻が文のうなじの辺りに来た。
(あああ近い! 匂いが!)早苗は腰上から力が抜け、あえなく前へと吹っ飛ばされた。危うい所で前方に回転受け身を取るが、背中全体に分散するはずの衝撃が腰に偏った。うめき声を挙げてうずくまる。
「ちょっと、いくらなんでも力が抜けすぎですよ。どこか具合が悪いのですか?」
「いえ、なんでもないです」早苗は生きた心地がしなかった。
「どうです? 座学ばかりで煮詰まった頭にはいい気分転換になったのでは?」
確かに煮詰まりは取れたが、早苗は代わりに煮立っていた。主に顔が。
残念な事に今日も風呂は別だった。正確には、早苗にとっては残念半分安心半分だった。
消灯時間。早苗は掛け布団に顔を埋めながら、横たわってすぅすぅと寝息を立てる文の方をちらちらと見ていた。どうやら認めざるを得ないらしい。
(完全にやられたわ)
恒等式。美しさ=文。導く根拠は自分の心。最初から分かっていても良かったことだ。
早苗は文のために夕食を作っている所を布団の中で想像した。季節の食材を使った料理。一口食べるごとに彼女は顔を綻ばせる。早苗が今見つめているその口で咀嚼し、飲み込んでいく。『ごちそうさま』と微笑みかけてくれる。そのイメージは楽しく、容易には振り払えなかった。
早苗はその想像をいつか実行に移すことに決めた。やがてめくるめく妄想の振り子が疲労のために静止して、深い眠りに落ちていった。
四日目。資料を探して早苗がそろそろと書斎に入ると、文は机に向かって何やら作業をしていた。膝と手をついて後ろから覗き込む。彼女はブラシでカメラのボディを撫でている。机の上には細々とした部品が散らばっている。どうやら手入れらしい。早苗に気づいている様子はない。
レンズを外して机の上に並べた辺りで、早苗が口に出した。
「そのカメラ、どういう風になってるんです?」
「うわおっ!?」
文が振り向き、その拍子に手から滑り落としかけて慌てて向き戻る。
「いきなり話しかけんで下さい。繊細な作業中に!」
「すみませんすみません。でもどうしても気になりましてね」
「あ、ちょっと待って。あんまりしゃべらないで。つばが飛びます」文がカメラを後ろ手に隠し、早苗の眼がそれを追った。
例のカメラは早苗との練習でも何回か使われたが、早苗が起こす雨粒であろうと風であろうと、それに写された攻撃は跡形もなく消えてしまう。不思議そのものだ。
「見せてくださいませんか?」
文は数秒思案顔をしていたが、早苗の興味津々の視線を前に首を横に振った。
「仕方ありませんね。横で見てるだけならいいですよ。その間はしゃべらないで下さい。貴方にとってはさして面白いものでもないでしょうけど」
空気袋で大きなホコリを吹き飛ばし、小さな布でレンズを中心から外側へと渦巻状に拭く。綿棒、楊枝と徐々に清掃の道具が小さくなる。慣れ親しんだペットを毛づくろいするように丁寧に、丁寧に汚れを取っていく。そのゆっくりとした手つきを見ていると、早苗は何かむずむずとする感覚を覚えた。
仕上げに全体を別の布で拭くと、部品を元通りに組み合わせて樹脂製の防湿ケースにしまいこんだ。文は緊張を解いた。
「ふう。終わりました。退屈しませんでした?」
「いえいえ。で、一体全体どういう仕組みなんですか? 攻撃を消すだけなら、カメラじゃなくていい気がしますけど」
「いやいや。むしろカメラでないとダメなのです」
「はい?」
「気になりますか~?」
「気になります~」いつもの調子を戻したようね、早苗は思った。
「では説明いたしましょう。昔は写真に撮られると魂を抜かれると言いました」
「外の世界ではとっくに廃れた迷信ですね。それが?」
「ところで弾が消えた時、びっくりしませんでした?」
「はあ、まあ驚きましたけど」
「たまげましたよね~」
「はい、魂消ました。何が言いたいんですか? ……あ!」
「そう、気が付きましたね? タマを抜かれるということは魂消るに通じます。おったまげると魂消る、つまり弾が消えるのです! これはそんな幻想入りした迷信の原理を組み込み、利用したカメラなのです。多分外の世界では使えません」
「そんな理屈、ありなんですか?」
「詳しくは河童に聞いてください。私は知りません」
「……はーい。今度聞いてみます」
早苗は立ち上がり、辺りを見回した。
「そういえば、ここには何をしに?」
「ええ、ちょっと間違えて本棚にしまった資料があるはずなんですけど。確か諏訪子様の使役する蛇の神様に捧げる儀式の様子を収めたもののでした」
文が頬をぴくりとさせるのをよそに、早苗は本棚に視線を移した。
「あ、あったあった、これです!」早苗は本棚に手を突っ込んだ。
「あ、私が取りますから! 早苗さんは下がっててさい」
早苗がかまわずに資料をつまみ出すと、その摩擦に引っ張られて掌に収まるサイズの和綴じのメモ帳がばさりと落ちた。この前は本棚に収まっていなかったものだ。早苗は開けたページの最初の数行を読んだ。
「あら、ごめんなさい」
早苗が数行も読まない内に、文が手で覆って隠した。
「……見ました?」文は振り返った。
「可愛い字……」
「うっ」
「文さんの字って可愛いんですねー」早苗はニヤニヤしていた。中学時代にもめったに見たことのない、ポップな丸文字が確かにちらりと見えた。
痛いところを突かれた、避けられないものが来てしまったか、というように文は首を横に振った。
考えてみれば、今までの講義では文の手描きの字はどこにも見当たらなかった。黒板にも直接文字を書かずに、紙に印刷したものを磁石で張ってあったと早苗は記憶している。何かコンプレックスがあるのかもしれない。
「何で隠してたんですかー? いいじゃないですか可愛い文字で」
文は観念したように上目遣いで早苗を見た。
「……別に可愛い分には構わないんですけどね。いつも取材しているお返しということで、御阿礼の子にうっかりこの文花帖を見せたら幻想郷縁起に『天狗にしては意外』だの色々と書かれまして。それ以来、字についてとやかく言われないようにしてるんです」
「書くのは好きでも書かれるのは苦手と来てますか。勝手なことで」
「ううー」
もっと彼女が慌てる様子を見たかったが、それ以上困らせるのは止めにした。文の気取った仮面の裏に何か愛らしいものを見た気がした。
五日目。体術の稽古を繰り返し、天狗のスピードにも徐々についていけるようになってきていた。
キッチンの前で、早苗はエプロンをつけていた。
「今日は私が料理をします!」
「よろしくお願いします」
少しでも文に良い所を見せたいと思い、早苗は鼻息を荒くした。腕を捲って材料をまな板に並べる。
まずは茸の炊き込みご飯。しめじ・椎茸・舞茸などを乱切りにして投入。鶏肉はこっそりレシピから外しておいた。箸休めは豆腐の和え物。ご飯に味が付いている分おかずの存在感が薄くなるが、豚汁の具材を多めにしてバランスをとる。
辺りに茸と味噌の匂いが漂っているのを感じ取ったか、文がそわそわしているのを見て満足する。普段から祟り神をも満足させる味を作っているのだ、料理の腕には覚えがある。せいぜい期待を高めよう。
「出来たぁ!」
「おお、気合が入ってますねえ」文は並べるのを手伝った。
「どうですか? どうですか?」相手は黙って食べている。
前のめりになっているのを自覚しつつも、一刻でも早く聞きたい気持ちを抑えられない。
文はひと通り全ての品に手を付けてから飲み込むと、微笑んだ。
「これぐらい美味しいんだったら、毎日でも食べたいですね」
早苗は咳き込んだ。
食べ終わって、黙々と洗い物をする。早苗は食器同士のこすれあうカチャカチャとした音を立てながら、声をかけるタイミングを測っていた。朝ごはんの下ごしらえをしている文を横目でチラチラと見る。持ちかけるなら今しかない。
「ええとその、一緒にお風呂に入りませんか」
「いいですよ」即答。
役得だ! 早苗は心のなかでガッツポーズをした。
早苗はひと通り身体を洗い終わってから、文はまだ外でガスを調整している。
湯船の中で身体を浮かせたり沈めたりしながら、物思いにふける。
どうしよう、どう顔を合わせよう、挙動不審に思われはしないかしら。いや、そんな事より今は明日以降の作戦を──
「湯加減はいかがです?」
「ひゃっ」
初めて見る文の裸身は、妖艶というよりは流麗、ポルノ写真というよりは一つの芸術作品と言えた。
無駄にでこぼこと脂肪のついている自分とは違う。早苗も自分の身体に自信がないわけではなかった。しかしそんな矜持も文の前だと霞むように思える。自分なんかよりもよっぽど女神に相応しいんじゃないか、と思わず嫉妬を覚えるほどだった。どうにもいつもの自分じゃない。
早苗の視線に気づいたか、文はすこし身体をこわばらせたようだ。
「どうしたんですか? ぼやーっとして」
「あっいえ……なんでもありません」
いったん湯船から出て、背中を流してやる。今は翼の生えていない肩甲骨から背骨を水がすべすべと伝って、腰に至るラインまで泡を流していく様子はそれ自体が一つの清流のようだった。
「ふぅ、ありがとうございます」
文が湯船に浸かり、早苗はなんだか照れくさくなって出ていこうとした。しかしこの場を逃したらチャンスはないだろう。そう思って扉に手を掛けたまま、言った。
「文さん」
「なんです?」すっかり表情が緩んでいる。
「私が文さんに勝ったら、一つ言うことを聞いてもらえますか?」
「……考えておきましょう」
それを聞くだけでものぼせそうな心地がしたが、ともかくも言うべきことを言えたことで満足した。いや、いろいろな意味で、とっくにのぼせているのかもしれない。
消灯時間。並んで寝るのにも慣れてきた。本音を言うと一緒の布団で眠りたかったが、そこまでしてしまっては恐らく眠れなくなる。
早苗は文の後ろ姿を見ていた。
文が早苗の方に寝返りを打ち、一瞬互いの視線が合った。心の底まで透かされた気がして、どきりと肩を震わせる。いや──気のせいだ。文は目を閉じている。安堵に息を大きく吐き、文と逆の方向に身体を向ける。すると目線が牢の格子ととかち合い、早苗は苦笑した。
この目障りな格子に囲まれてはロマンチックさも何もあったものではない。明日起きたらすぐに取り外すように言おう。早苗はもう一度寝返りをうった。文の顔が目に入ってくる。今度は子供がするように口元に丸めた指を当てていた。
文の白く細い指先で、頭を撫でてもらうところを想像する。カメラを扱うときのような優しい手つきで、自分の緑の髪を梳いてもらうところを。ぞくぞくした。
(私ったら、文さんのペットになりたいのかしら)
早苗は自分の顎の、最初の勝負の時に文に触られた所を撫でた。勝ったら想いを伝えよう。微笑みながら眠りについた。逃げる気はない。受けて立とう。
六日目。早苗は髪飾りを付けなかった。二柱を象るアクセサリーこそが自分の甘えを象徴しているように思われたからだ。
「そういえば今日も髪飾り、つけないんですか?
「ええ、そうですけど」
「それは残念です。あれ似合ってたのに」
「えーと、ええと、私は自立しなければなりませんので」
「では自立すればよいと。私に勝ったらもう一度つけてくれますか?」
「……分かりました」
早苗は悶絶した。
(似合ってるって! 似合ってるって! ファー!)
我ながらちょろいと思った。
七日目の夜。例の机の前で、早苗は煮詰まっていた。卓上には資料が広げられているが、眼の焦点はそこに合っていない。数式を書く手は止まり、代わりにノートの端を折ったり曲げたりとしきりに弄んでいる。連日の稽古で体術は仕上がってきており、疲れと眠気で少しうとうとした。
文の寝顔に思いを馳せる。今頃彼女も寝室でとっくに寝息を立てているのだろう。
このままずっと一緒に暮らすのも悪くない。しかし成果を出して、自分の成長を文に見てもらいたかった。
イメージは出来ているのだ。ひらひらと宙を舞う色とりどりの木の葉。早苗を負かした技だ。『風神木の葉隠れ』の強烈な印象は、早苗の中で種となって植えこまれてすくすくと成長し、今は彼女にとっての憧れとなっていた。それを扱う式も大部分は書けている。しかし中核となるピースが足りない。どこから力を得る? 文はその身に蓄えた莫大な妖力を木の葉に与えて操っていた。巫女は神と人の媒介だ。神奈子と諏訪子の力を借りれば似たような事は出来るだろう。だがそれは自分の力ではない。それでは振り出しだ。次のステップに進むためには早苗自身が神としての力を振るわなければならない。コンセプト、コンセプトを詰めなければ。
「自分の力でやらないと」
早苗は机に突っ伏した。恒等式。憧れ=関心。関心=思念。思念=美しさ。答えにたどり着くための条件が足りない。方程式は条件が足りなければ解けないのだ。そろそろ寝てしまおうか。そう思っていると、脳の奥の方から何かが聞こえてくる。彼女の慣れ親しんだ誰かの声だ。
(誰……?)
(聞こえますか……聞こえますか……早苗……諏訪子です……今……あなたの……頭のなかに……直接……語りかけています……)
(小芝居はいいですから。何ですか諏訪子様?)
(そろそろちょっとアドバイスがいるんじゃないかなーって思ってね)
早く文に勝ちたい、そして伝えたい。焦りのある早苗にとっては旱天慈雨だ。早苗は唾を飲んだ。
(いや、しかし、私は自力で)
(そこよ。自分の力だけでなんとかしなきゃって考えるから力んじゃうのよ。要は私達の力に頼らなきゃ良いんでしょ? 他の事は何でも出来るって考えなよ。それだけでだいぶ心の負担が違うよー)
確かに、契約書には『八坂神奈子・洩矢諏訪子の力を使わず』としか書いていない。それ以外はルールではないので守る必要はないのだ。
(自分の力だと、力む)
(そうそう)
(相手の力を利用し……投げる。そうだ)
(色々考えてるねえ。いいよいいよ)
閃いた。
(本当に自分の力でないと駄目なのでしょうか?)
(えっ)
(そうです! 最初から自分の力でやる必要なんて無かったんですよ!)
(えっちょっと待って早苗。なんか不穏な雰囲気なんだけど)
(ありがとうございます諏訪子様! これで何とかなりますよ!)
(話を聞けー!)
(次に私と会う時を楽しみにしててくださいね!)
念話を切った。さっそく資料を広げ、必死にメモをとる。深夜に作業している時特有の高揚感が早苗の心を満たしていた。
真夜中を半刻ほど過ぎた所で満足し、ばったりと寝た。明日は練習だ。
守矢神社の居間。ソファの上であぐらをかいていた諏訪子は首を横に振った。向かいには夜の読書中の神奈子が座っている。神奈子は本を置いた。
「諏訪子、早苗になんか変なこと教えた?」
「早苗の思考回路にモノを投げ込んで、何が返ってくるかなんて分かりゃしないわよ」
「それもそうね」
八日目の夜は新技の開発に全てを費やした。
そして九日目。
「出来た! 出来ました! 新兵器の完成です!」
「じゃあ、覚悟はいいですね?」
「ええ」
早苗は自信たっぷりだった。朝食の後に荷造りをし、不退転の決意を誓った。勝って、結果を出したらここを出て行けるようにするのだ。
二人は着替えと戦いの準備を済ませ、馴染みの広場に来た。以前の戦いの傷跡は風雨と落葉で覆い隠され、元通りに浸食されてしまっているように見える。
「あら、今日も髪飾りはつけないんですね」
「今度の私は一味違います!」
「では、それを証明してもらいましょう」
「「よーい」」
「「スタート!」」
「まず、貴方の機動力を封じます!」
早苗が指で縦横交互に平行線を描くと、その格子の印が早苗の服の裏地に縫い付けられた五芒星と組み合わさって力を発揮した。
秘法「九字刺し」
枠登りのごとく空中に立体の格子が展開される。青白く輝くレーザーの迷路は広場全体を覆っており、それ自体が一つの遊戯施設のようだ。
文は蛇が地をはうかのようなスピードで格子をぬるりと抜けていくが、五回ほど抜けた先で早苗の烈風弾とかち合った。
「おおっと危ない!」
反対側に避ける。さらに放物線上に四回抜けて地面に降り立とうする。
「させません!」
更なる烈風が文の脚を掬いにかかる。文はちょんと蹴って再び格子の中に入った。
「確かにこれは厳しい!」
早苗の視界一面に閃光が走ると、天蓋まで大きく築き上げた大格子が一瞬にして消滅していた。こちらに向かってくる文の手の中には黒い写真機が収まっている。
「私にカメラを使わせるとは!」
次の一手は? 文の体当たりをかろうじて避けるが、その残像が帯を引くようにエネルギー弾の列が早苗に向かってくる。地面を削り、小石が跳ね跳び、早苗に一歩退くことを強いる。文はその隙に広場中を回り出した。再び落ち葉のカーペットへと妖力を配分しているのだろう。
「同じ手をもう一度使うだなんて! やっぱり舐めてますね!」
開海「海が割れる日」
早苗が縦一文字に御幣を一振り。その軌跡に沿うように地面に亀裂が奔り、割れ目から水の壁が立ち上った。それらは落ち葉を巻き込んで湿らせていく。妖力が水の中に吸い取られ、ちりちりと電光を放って散っていく。
文は横にうねる水の動きを軽々と抜けていくが、早苗は手にした御札から緋色の槍を無数に繰り出し、追い込み漁のように投げつける。再び文の動きを縛った。フィルムの巻かれる音がした。
「もう一回!」
フラッシュが焚かれた。槍ぶすまが消える。しかし水が覆いかぶさってくる。水は消しても消しても湧いてくる。巻きが、間に合わない。早苗は勝利を確認したが、最後のあがきか、水の膜を貫いてリング状に赤青のエネルギー弾が向かってくる。進行方向を塞がれて避けられない。
「くぅーっ!」
早苗の腹にエネルギー弾が食い込むと同時に、水が文を飲み込んだ。早苗は濡れた地面をごろごろと後ろに転がる。
早苗が起き上がると、文は水を吐きながら、服にまとわりつく水を風で払っていた。相打ちだ。
「げーっほ、げっほ……」
「くっ……ふぅ。まずは一本!」
「……やりますね。では、ちょっと本気を出しましょう」
文は足を踏み下ろした。
風神「天狗颪」
文を中心に水が吹き飛ばされた。もう一度足を踏み降ろす。足裏からすぱぁんと快音が広場中に響き渡り、航空機が墜落した後の水柱のように木の葉の奔流が立ち昇る。水滴に混じり、文の頬に汗が一筋垂れる。
「せっかく妖力を水で流したのに!」
「多少効率は下がりますが、遠隔で妖力を伝える事もできるのですよ。さもなければとてもじゃないけど実戦で使えませんし。残念でしたね」
「ふん、ただの上位互換でしょうに」
早苗も口ではそういったものの、相手が簡単でないことは理解していた。なにしろ以前よりもはるかに枚数が多い。文の消耗した様子からも『風神木ノ葉隠れ』よりもさらに多くの妖力を注ぎ込んでいる事は間違いないだろう。
浮き上がった木の葉が文を守るように円環状に渦巻き、獲物を付け狙う鴉のように切っ先をこちらに向けた。木の葉が玉となって早苗に向けて殺到する。とっさの反射で針を縫うようにかわすが、このままではジリ貧だ。
捌ききれるかしら? 『弘安の神風』で打ち消す? どうも足りなさそうだ。万事休す? いや、勝つって決めたもの。木の葉のハンマーが頭上から襲いかかる。彼女は御幣を頭上にかざし、そこから青い稲光が腕を伸ばした。切り札を使うなら今だ。
妖怪退治「妖力スポイラー」
電光の一撫でを受け、早苗を押しつぶそうとしていた木の葉の玉が散った。それだけではない。早苗を中心としてぱすぱすぱすと音がしたかと思うと、広場中を埋め尽くしていた枯れ葉の浮遊船団がみるみるうちに降下を始め、地面に落ちていく。大量の葉が風を受けてくるくると回転する様は一万人の落下傘部隊のようだ。
そして文の周りに展開されたのは鱗のように形をなした妖力塊。桃・黄・青・空色に輝く鏃が一斉に早苗に向いて殺到し、文の背後からもそれらが幾度と無く突き刺さる。多様な色の光が重なり白光となって早苗に吸い込まれていく。
「えっ、えっ!? これは?」
「貴方のばら撒いた妖力を逆に利用させて頂きました!」
早苗が二、三度咀嚼するように身体を曲げ伸ばしすると、その顔に精気が増した。鏃に巻き込まれまいとフラッシュを焚くが、全身から鏃を吐き出す文の顔からは血の気が引くばかり。今度は文がジリ貧になる番だった。
鏃自体を振り切ろうと地面を蹴るが、行き先を読んだ早苗がカウンター気味にタックルを食らわせる。文は弾き飛ばされ、頭上の樹の枝の密集地帯に頭を突っ込んだ。
「勝った!」
樹の枝に絡まった文はしばらくボーッと宙を見つめていたが、早苗が気がついて頭を振り、そろそろと降りた。空を飛ぶのにも慎重になりたいようだ。
「なんと……たった一週間の修行で負かされてしまうとは」
「えっへん」
腰に手を当てて仁王立ちしようとすると、不意に脳裏をよぎった文句に得意顔が強張った。
『私が文さんに勝ったら、一つ言うことを聞いてもらえますか?』
『……考えておきましょう』
ぴしぃっと、全身に緊張が走る。とうとうその時が来てしまったのだ。
「あの……じゃあ……えっと……その……」
顔が火照ってくる。まずいまずいまずい。文は怪訝な顔をしている。怪しまれているに違いない。後にしてしまおうか。
だめよ早苗! 勝ったら伝えるって決めたんだから! ここで怖気付いちゃだめ! 必死に自分に言い聞かせる。勝利の余韻が残っているうちにケリを付けなければならない。
「私は!」
早苗が文を掴もうとすると、滑らかな腕の上を手のひらがするっと抜けた。文は早苗を見た。その表情にはぎこちなさが現れていた。
「まずは、着替えましょう」
「あっ……はい、そうですね」何しろ全身ずぶ濡れだ。早苗の方も土汚れや木の葉が付いている。
早苗の視線は文の背中を追った。秋の冷気が濡れた肌を撫でた。
シャワーは先に使わせてもらった。消えた暖炉に火をつけるかのように、冷えた身体をもう一度温めた。自分の胸の上を水が流れていくのを見つめ、そわそわする心を落ち着かせる。着替えを済ませ、居間に戻る途中で文とすれ違う。話しかけようとしたが、その間もなく彼女の姿は更衣室に吸い込まれてしまった。早苗は訝しんだ。
早苗はテーブルに駆け寄り、髪飾りを拾い上げて元通りに付けた。これは勲章だ。
だが凱旋するなら、もう一つ本当に欲しい物を手に入れなければならない。出鼻をくじかれたのだから、今度こそ想いを伝えなければ。
シャワーの音が止まった。早苗は息を呑んだ。
「大丈夫かしら」
更衣室から文が元通りに着替えて出てきた。早苗は立ち上がり、しかし文の方が先んじて口を開いた。
「いやあ、素晴らしかった! 一週間前とは別人のようでしたよ!」
ん? 嫌な予感がする。さっきから文の言動は早苗を遮るかのようにしか見えない。
「『これで山の神の威厳が保てますね!』『良い新聞の記事が書けるでしょう』」
ん? 早苗には違和感があった。違う、そこじゃない。褒めてもらいたいのはそこじゃない。
「『間違いなく一面記事になります』」
「え、いやそういうことじゃなくて」
「『極上のネタが手に入りました!』きっと新聞大会でもいい評価がもらえますよ~。大賞とまではいかなくても審査委員賞は確実です!」
早苗の笑顔が曇った。
「今の光景を忘れない内に記事を書いてしまいましょう。さっそく作業に移ります」
文は早苗に背を向け、書斎へ続くドアに手を掛けた。
流石の早苗も察した。こいつ、逃げようとしている!
「……最大出力」
「げっ」
文の背に御幣が押し当てられ、その首筋に泡が立った。
妖怪退治「妖力スポイラー」
「アバーッ!? アババババーッ!?」文の全身が電流が走ったかのように痙攣する。
「私は『よく頑張りました』って言って欲しかっただけなのに! 貴方の胸に抱かれて頭でも撫でて貰えればそれで嬉しかったのに!」
文の妖力が御幣から身体に直に伝えられ、自分の目からエネルギーがほとばしり出るのが分かる。しかし早苗のアドレナリン性の怒りはそれさえ燃やし尽くす勢いだ。文の身体が発光し、その輪郭を徐々に縮める。
「アーッ!」
早苗の両眼がダイヤモンドのように激しく光る。
「アアアーッ!」
「分かってるんですか!」
「アアアアアア! アアアアアアアア!」
早苗は文がうつ伏せに倒れたのを確認するとドアの隙間から玄関に飛び込み、既に荷造りしてあったエナメルバッグを手に飛び去った。
「もう文さんなんて知りません!」
巫女の姿が空に消える。
「ア……アア……」
文は最後の力を振り絞って立ち上がり、ドアノブを支えにして電灯のスイッチを叩いた。しかしその直後に膝をつき、再びうつ伏せに倒れた。
早苗は社務所の玄関口に戻ってきた。インターホンを鳴らすが返事がない。鍵で入ることにした。ドタバタと音が聞こえ、奥から神奈子がやってきた。
「ちょっと早苗、帰ってくるなら連絡してよね!」
神奈子の顔がほんのりと紅く上気している。二人はこの季節にしては相当な薄着で、諏訪子などわざとらしく口笛さえ鳴らしている。
早苗は何も言わなかった。敗北後の諏訪子を神奈子が生かしておいた理由は実利だけではなかったのだろう。
ともあれ、二柱の仲が良いのはいい事だ。
「勝ったのね?」
「ええ、バッチリ」
「後でお礼言っとかないとー」
「そう……ですね」
夕飯は早苗の勝利祝いということで、脂のたっぷりと乗った塩鮭など、いつもに比べると大分豪勢なものとなった。
しかし会話の方は豊かとは言えなかった。新技の解説や修行中の武勇伝などを期待されていたのだろうが、不自然なほどに黙々としたものになった。
終わり際に、神奈子が口を開いた。
「早苗、貴方……前より大きくなってない? 胸とか」
「そうですか? 嬉しいです。ふふふ」
早苗は卑屈な笑みを浮かべた。
「洗い物は諏訪子様の番でしたよね?」
「ああ、そうだったね」
「では私はお風呂の準備、してきますね」
二柱は早苗の背を見送った。
「なんか様子がおかしいわね」
「喧嘩でもしたのかな」
「かといってしょぼくれた感じにも見えないし」
「むしろ色々とみなぎってるよね。ハイになってる」
「特に目が輝いてるわね。らんらんと」
◇ ◇ ◇
とんとん。とんとん。ノックの音がする。
文は目を覚ました。身体はまだ動かない。
「文ー? 鍵開いてるよー? 勝手に入るわよー?」
いつもなら怒るところだが、声を出すのもおっくうな今はありがたい。
はたてが勢い良く居間のドアを開け、扉の角が文の頭にぶつかった。
「ぐぁっ……」
「あ、ごめん、大丈夫?」
「もう、何なのよ一体」
めまいに耐えながら、なんとか立ち上がった。何か違和感がある。真っ直ぐに立っているというのに、自分の頭がはたての胸の辺りに来ているのだ。
はたては顔をほころばせ、がばりと抱きしめてきた。
「やーん、かーわいいー!」
「ちょ、はたて、やめて」
「文って妹がいたの? なんて名前? 教えてー」
「私! 私よ! 射命丸文よ!」
「嘘でしょー?」
文は自分の身体を見返した。スカートと下着が床に落ちてブラウスだけとなっている。そのブラウスも膝のあたりまでを収める程にぶかぶかだ。脂肪がついているべき場所からは脂肪が失われ、あるべき凹凸は丸みを失って平になり、内臓を支えるべき腹筋は支えきれずに幼い者特有の凸凹を腹に生み出していた。
「な、な、な!?」
「どうしたのー?」
「か、身体が縮んでる……?」
「マジでー? 親戚の子と入れ替わってるとかじゃなくてー?」
「えーと、そうね。貴方と最後に会ったのは先月の玄武の滝! この前河童の店でカメラを一緒に選んだわ! 結局買わなかったけど! どう!?」
はたては文の全身を前から後ろからじろじろ眺め回し、髪を撫でたり、ほっぺたをうにーっと引っ張るなどした。
「にゃ、にゃにしゅるにょよぅ……」
「うん、文っぽいねー」
あっさり信じてもらえた。元々はたては疑り深い質ではない。
「よく気がついたわね」
「電気がつけっぱなしなのにドアが開いてたから、怪しいと思って」
気絶する前に電灯をつけたのが功を奏したらしい。
「とりあえず、話聞こっか?」
文は頭を抱えた。
「うん……ありがとう。いま、すごくお酒が飲みたいわ。この家にはない強いやつ」
「じゃあ、行きますか。例の場所!」
妖怪の山のカフェバー。
人里においても『人間向け』と『妖怪向け』の一挙両得を狙い、半日ごとに業態を入れ替えて二四時間営業としている店はある。しかし妖怪の山で二四時間営業の店はこれが唯一のものだ。朝は珈琲を提供し、夜は酒を提供する。
外の世界のカクテルのレシピも揃っている。少し奮発すればメキシコーラやモスコミュールといった、外界のソフトドリンクを利用したカクテルを楽しむこともできる。麓にあるこのカフェバーは、山の外からも多くの客を惹きつけ、河童たちの収入源となっているのだった。
屋外の席では店内から窓を通る明かりに照らしだされる紅葉と川の音を楽しむ事が出来る。しかし肌寒くなってくるこの季節、外で話し合いたい気分でも無かった。まして内容が内容である。
アールデコ調の店内の奥の、隅の方のテーブル席に二人は座っていた。
バーテンのヘアピンをバッテンの形に重ねてつけた河童が、ビールのグラスを二つと、ニジマスのフィッシュ・アンド・チップスの入ったかごを持ってきた。
「そうそう、天狗様にモニターしてもらってた『弾消しカメラMk-II』、そろそろ発売ですよ!」
「えっどんなのどんなの?」はたてが言った。
「はたてさんの持ってるのは今まで望遠機能が使えなかったでしょ? でも今度のはそれが組み込めるようになったんです。小型化・望遠機能・速写。この三つを組み合わせたからには一気に普及を狙えると思います」
「今まで天狗以外に買う奴いなかったもんねー」
「ところで、そちらの方は新しいお友達です?」
「いや、この人はちょっと、ね……」
ふむ、というようにヘアピンは顎に手を当てたが、それ以上は詮索しなかった。やがてにとりが空いたグラスと皿を持って戻ってきたので、交代した。
「命には関わらないのよね? その身体」
「今のところはね」
「とにかく話してみてよ」
文は早苗と過ごした一週間について話した。
「そりゃあ、怒るわよー」
「えー」
「向こうはそれっぽい素振りを見せてたのに、まともに話し合わなかったんでしょ? 文の方はどうだったのよ」
二人は河童のバーテンから人里製のウィスキーのソーダ割りを受け取った。
「……彼女の好意に気づいてなかったといえば、嘘になるわ」
「いつから?」
「その……風呂場で私を見る視線が……綺麗なものを見るような感じで……なんか気恥ずかしかったから? 『あっこの子、私に惚れてるわ』って思ったの。勘だけど」
「ああうん、そういうことってあるね……」
「まあ、好かれていることそのものは別段悪い気はしなかったんだけど」
「じゃあ、なんで?」
「どうしていいのか、分からなくなっちゃったの」
文はソーダ割りを一口飲んだ。
「私ってこの通り新聞記者やって暇潰してるでしょう。ユーモアだの風刺だの言うけど、結局のところは周りを小馬鹿にするのが趣味みたいなものよ。はっきりいって悪趣味よね。だから自分がそういう対象になるだなんて、全然考えが及ばなくてねえ」
「そうすると私も悪趣味って事になるんだけどー?」
「いきなり攫ってきたんだから本来ならぶん殴られたって文句は言えないわけだし。なのにあの子は逆にアプローチしてきて……だから、あんな風に近づかれると反応に困っちゃったのよ。あんまり嬉しがらせてもいけない、まして相手は人間の女の子だし」
「ふむふむ」
「私は道化なのよ。世の中を笑って、人間を笑って、妖怪を笑って、自分をさえ笑って、適当に生きていければ満足だった。道化は道化らしく振る舞っていたかったの。でも、いきなり主演としてステージに上げられちゃって、どうしていいのか分からなくなっちゃった」
二人はソーダ割りを飲み干し、もう一杯ずつ注文した。文はスクリュードライバー、はたてはエッグ・ノッグ。三割ほど飲んだ辺りで話を再開した。
「文は飛び切り頭が切れるからねー。それこそかまいたちみたいにね。何でもかんでも見抜いちゃう」
「照れるわ」
「こらこら。そのくせ自分の腹は絶対に見せない。だからみんな警戒するのよ。だからあんたには誰も近づかない、あんたを近寄らせない。薄気味悪いからねー」
「妖精みたいな馬鹿か、吸血鬼みたいな自信家を除けばね」
「文もたぶんそんな扱いに慣れてたんでしょ? 疑問も持ってなかったに違いないわね」
「まあ、その通りね」
如才ない振る舞いが出来るおかげで、文の交友関係はそれなりに広い。しかし文が本当に腹を割って話せるのは、文の新聞そのものに興味を持って近づいて来たはたてぐらいのものだ。要するにはたては、妖怪の中でもとびきりの変人なのだった。
「でも、そんな文にも、心の底から興味があって近づいてくれる人はいるって分かったわけでしょ? 私には文が早苗と向き合うことはすごくいい機会に思えるなー。せっかく惚れてくれたんだしね」
「ふーむ……」
「恋してる子なんてみんな頭おかしいのよ。同じおかしいならパーッと明るくやった方がいいわ」
幼い所はあるものの、権威や常識を恐れずに率直な物言いをしてくれるのがこの友人の美点の一つだった。縦割り社会の妖怪の山では決してプラスには働かないのだが、本人は我関せずである。しかし友人関係においては、これ程ありがたい資質もない。
「家に帰ったら、もうちょっと考えてみるわ」
「それがいいと思うよー。早苗との暮らしをゆっくり思い出してみなよ、合うのか合わないのか。決めるのはそれからでも遅くないわ」
はたては携帯をいじりながらニヤニヤしていた。文が訝ると、はたては携帯の画面に映っている写真を見せた。恋人だそうだ。
「恋はいいわよー。それだけで世界がキラキラ輝いてみえるもの。文も乗っちゃいなよ」
はたての眩しさに羨んで目を細めたが、その表情はすぐに疑問に変わった。
「ちょっと待って。基本引きこもってるのにどうしてるのよ」
「向こうから家に来てくれるのー」
文はスクリュードライバーを一気に飲み干し、恵まれている者に相対した時特有のこみ上げて来るある感情を押し殺した。
その時、喧噪の中でもよく通る声が背後から被さってきた。
「その声はもしや、射命丸様では?」
犬走椛だった。今は袖を外し、帯をゆるめた軽装だ。文は顔をひきつらせた。実にまずい。
「椛じゃん。久しぶりー」
はたてはお気楽だ。
「ずいぶんと弱っていらっしゃるようですが、どうされましたか?」
文としては、守矢の二柱との取引はまだ続いているつもりであった。ロープウェイ建設計画に対し、できうる限りの便宜を図らなければならない。新聞のネタなどと引き換えに家庭教師と引き受けるという、破格とさえ言える契約を結んだのも、今後勢力を伸ばすであろう守矢に対し、借りを作ること自体が目的だったのだから。
ここで椛に早苗の所業を知らせてしまっては、それはつまり『山の巫女がそれなりに偉い鴉天狗に暴力を振るった』ということになり、白狼天狗側にロープウェイ建設計画に対するネガティブキャンペーンの格好のネタを握らせてしまうことになる。それはなんとしても避けたい。
「えーと、えーっと……何が起こったのでしょうね?」
「はぐらかすおつもりですか? 鴉天狗ともあろうかたがそんなに弱って、何かトラブルがあったのなら上に報告しなければなりません」
「ほんの私事よ、貴方に心配されるほどのことじゃないわ」
目の前の白狼天狗は文とは決してそりは合わないが、職務にはあくまで忠実である。
その時、真鍮のドアベルが景気良くからんからんと鳴り、今の文の背丈ほどもない鬼が一人入ってきた。
「なんだあ! 文じゃないか! 随分とちっちゃくなっちゃって! 私と同じぐらいじゃないの!」
伊吹萃香だった。背丈は今の文と同程度か、それより低いぐらいではあるが、特有の存在感が店中を満たしていた。
(なんでこんな次々と正体がバレるのよ!)流石に計算外だ。
周りには河童と白狼天狗がわらわらと集まってきている。
「一週間ぶりじゃないですか!」
「我々にご馳走させてください」
「いや、自分で払うよ。あんたらが破産しちゃう」
「そんなー」
椛は萃香と文の方をちらちらと交互に見やった。自分も萃香を出迎えるべきか迷っているようだ。
「あれー、萃香さんって人の財布の中身を気遣うような方でしたっけー?」
「こら、はたて!」
「いいっていいって、正直な奴は好きだよ」
もちろん、違う。
妖怪の山には、質実剛健を重んじる白狼天狗を中心とし、伊吹童子ら鬼たちを再び山の棟梁の地位に就かせようと画策する一派が存在する。現在山を牛耳っている大天狗や鴉天狗にとってはたまったものではないが、白狼天狗にとっては鴉天狗を上にのさばらせておくよりはよほどマシなのだろう。いま萃香を取り巻いている白狼天狗たちも、少しでも繋がりを作って取り入ろうという算段だろう。しかし利用されることを何より嫌う萃香は、天狗に借りを作ることを注意深く避けていた。
本来は妖怪の山にもできるだけ近づくべきではないのだろうが、『ここでしか呑めない酒がある』という理由で、週に一度は通っているのだった。
場を収めるチャンスと見たか、にとりが横から声を掛けた。
「椛、ここで小競り合いはよしておくれよ」
「む……まあ、にとりが言うなら」
助かった、と文は思った。天狗と河童の地位の差にも拘わらず、椛とにとりの間には比較的フランクな親交があった。朝のカフェ営業時にも、ここで二人が将棋を打っているのを目撃されている。かたや武人、かたや商売人と、どう考えても水が合いそうにない二人であるが、知性と知性のぶつかりあいを通して椛はにとりの中に一種の武を見たのだろう。
椛は萃香を取り巻く白狼天狗の群れへと入っていった。
「はたて、お開きでいいかしら」
「うん。なんか不便があったらまた呼んでちょうだい」
文は自宅に戻り、その身をリビングのソファに投げ出した。そのままごろりと転がって、落ちる。絨毯が身体を受け止める、
「ああもう、自分が分からないわ」
酔い覚ましに風呂の準備をしていると、脱衣所に見慣れない布が落ちているのを見つけた。早苗が置いていった巫女服だ。
「あら、忘れ物かしら。洗って返さないと」
なにしろ急に出て行ったのだから、忘れ物があって当然だ。
手に取ろうと屈んだ瞬間、疑問が頭に浮かんだ。本当に借りを作るのが目的だったのかしら?
守矢に借りを作るためだけなら、わざわざ家庭教師なんぞ引き受けなくても出来たはずだ。
いや、子供に稽古をつけるのは天狗としての本能だ。何も不自然じゃない。
じゃあそもそも何故、私は彼女を選んだのかしら?
スタイルは申し分ないし、声も可愛らしい。頭の方もなかなか切れる。じゃあ、彼女に目をつけたのは、単に私の好みだったから? 単に顔が良いからってことは、断じてそんなことはない。ありえない。床に座り込む。
早苗の上着を両手の平に載せ、目の前に広げた。少しシワがよっている。そして抗いがたい欲求に駆られ、鼻の下に押し付けた。ふわりとした香りが頭を貫く。一瞬、心臓のリズムが大きく振れた。
「え、ちょっとこれは」
文は顔を上げ、頬に手をやった。熱く、明らかに火照っている。
「え、えぇえぇぇぇぇぇぇ……」
文は上着を握りしめたまま、洗面所に駆けて行って姿見に顔を写した。
「いやいやいや。ありえない。ありえない」
こんなに顔を真赤にした自分は見たことがない。
「まずい。これはまずいわ」
風呂に入り、早苗の服を胸に抱いてベッドに入った。その日はなかなか寝付けなかった。
◇ ◇ ◇
早苗には夕食後に自室で新聞を読む習慣がある。幻想郷に来て以来は外の世界のようにクリック一発で本や雑誌が届くというわけには行かなくなり、彼女は情報に飢えていた。見出しにざっと目を通す。
『守矢神社に謎の動き』『利益供与か』『山との関係に見直し迫る』
いわく、金品を贈っただの、事故をもみ消しただの、的を外した根拠の無い戯言ばかり。文との事はまだ外に伝わってないらしい。早苗は新聞を破り捨て、屑籠に放り込んだ。
「ふん。どうせあることないこと書くなら、私と文さんの関係について書いてくれればいいのに」
文さんが私を意識するきっかけになるかもしれない。早苗は心中でそれを文字にはしなかった。あり得ないことだ、と無意識の内に心で蓋をしていた。文の敬語の仮面は自分には剥がせないのだ。まともに取り合ってもらうことさえできなかったのだから。
もう眠ってしまおうか、と思った瞬間、疲れているのにまったく眠くないことに気づいた。早苗は掌を見た。不自然なほど血色が良かった。
「妖力吸収が……止まってない? 私が感情をコントロールできてないから?」
胸騒ぎがした。今頃文はどうしているだろう。あんなことをしてしまって。
ふと本棚の、アルバムの収まっている辺りを見た。早苗は鼻で笑った。
「いいわ、どうせみんな置いていくもの……」
部屋を出て薬箱を漁り、睡眠薬を一粒飲んだ。普段は飲まないが、眠らないよりはずっとマシだ。心と神経を麻痺させ、こんどこそ眠った。
早苗はベッドから起き上がった。周りはいつも通りの自分の部屋に見えるが、机も壁紙もセピア色に色あせ、やや質感が異なる。
窓の外からはスギやイチイの木が見えた。外の世界、生まれ故郷の諏訪の光景だ。
「戻って、きたのかしら?」
早苗があちこち触ってて確かめていると、インターホンの音が鳴った。早苗はドアを開け、廊下を駆け、玄関そばの受話器の映像を覗いた。
「早苗、ひさしぶりね」
あの人だった。早苗は息を呑んだ。
おかっぱ頭で小さく、華奢に見えるが、しかし誰よりも大人びていて我が強い。文とは正反対のタイプだ。
早苗は扉を開け、部屋に案内した。いつものように、ベッドに並んで腰掛ける。
話すことは山ほどあった。彼女は無事に進学したらしい。早苗の方も幻想郷でも信仰は徐々に集まりつつある。
「そう、お互い順調みたいね」
会話は切れ目なくつながっていた。しかし体の方はといえば、ピンで留め置かれた虫のように動くことが出来ない。見た目は間違いなくあの人なのに、どこか不気味で底知れない印象をあたえる。早苗は今まで優位に立たれる側ではあったが、こういう種類の圧力は感じたことがなかった。
彼女は視線を下にやった。そこには絨毯に開いたアルバムが落ちていた。いつの間にか本棚から抜け落ちたのか?
「見ていいかしら」
「ええ」
外の世界で撮った友達や先生の写真をぱらぱらとめくりながら、二人は思い出話をしていた。幻想郷で撮った写真も収められている。やがて一番新しい日付のページ差し掛かった。翼を広げ、大空を翔ける。早苗の新しい人。
「あ……」
彼女は文の写真を指で取り上げ、にっこりと笑った。
「綺麗な子ね」
「あ、いや、これは……」
「うんうん、分かってるわ。早苗に愛されるだなんて、幸せな子ね」
早苗はほっとした。これなら、きっと──
「でも、きっとすぐにかわいそうな事になるわ」
「えっ……」
彼女は早苗の両の頬に手を伸ばし、顔を無理に自分に向けさせた。
「だって貴方、私を捨てたでしょう?」
その眼の奥には、何もなかった。
早苗は飛び起きた。肩を抱き、歯をがちがちと震わせる。寝間着に冷や汗が染み込み、カーテンの隙間から寒々しく朝日がさしている。
夢が見せる幻想特有の、ぼんやりと薄く脈絡のない展開。だがその意味はすぐに分かった。一度誰かを捨てた者は、また誰かを捨てるに決まっている。
前のことを忘れて、新しい幸せに手を出す資格なんて、最初からなかった。
朝の守矢神社社務所。三柱は味噌汁とたくあん・焼き魚の朝食を取っていた。さして味はしなかった。食べ終えて早苗が皿洗いを始めると、神社の参拝客のための入り口の方角から叫び声が聞こえてきた。
「またあいつらね!」諏訪子がご飯粒の付いた口で言った。
三人は廊下の掃出窓に駆け寄り、外を覗いた。
白狼天狗の集団が守矢神社の入り口に陣取っていた。その全員が被っている白いヘルメットの額には樹脂製の赤いテープで楓の葉の形が描かれている。
物々しいのはヘルメットだけではない。ある者は角材を持ち、またある者は『打倒・八坂神奈子』のプラカードを掲げる。更に後方で一列に並ぶ天狗達が支え持つ横断幕には『神無月・白狼天狗連総決起集会』『山を荒らす侵略者は自らの欺瞞を直視せよ』の文字がおどろおどろしい角ばった書体で描かれている。三人で撤去したはずの『ロープウェイ建設反対』のノボリや、同じく角ばった書体の立て看板も、天狗たちの手で再び並べられていた。
「ホント手が込んでるわねー。反対運動やるぐらいの手間があったら、ウチの宣伝に掛けてくれればいいのに」
「でもあれって学生運動も混ざってない? いつの間にここに入ってきたんだろうね、あのノリ」
「学生運動って何ですか?」
「早苗が生まれる前の話よ」
先頭には白狼天狗の中でも一際背の高い女が腕組みをして立っている。片刃の剣は鞘に収まり、楓の葉の意匠を施された盾は足元に置かれている。背中には黄色い『計画粉砕』旗を背負っていた。
あいつは犬走椛だろう。早苗は検討をつけた。文の家で読んだ文々。新聞に白狼天狗連のデモの写真が載っており、その下に『プラカードを掲げる犬走氏=写真左』と注釈が付けられていたのを覚えている。
「ロープウェイで山の景観を乱すなー!」椛が腕を振り上げる。
「「「乱すなー!」」」椛の声にシュプレヒコールが続く。
「森を荒らす人間を山に入れるなー!」
「「「入れるなー!」」」
「索道と山岳道路の建設に伴う、森林の伐採をやめろー!」
「「「やめろー!」」」
メガホンも何もないというのに、椛たちの吠え声は彼らが三柱の隣で話しているかのように響いてくる。大した声量ですこと。まるで獣ね、と早苗は思った。
「大天狗の奴、まだ白狼天狗を説得できてないのかい」諏訪子が言った。
「どう帰ってもらおうかしら」
「機動隊っぽく放水でもする?」
「ここは私にお任せを」早苗は笑った。ちょうどいい鬱憤晴らしだ。
早苗は巫女服に着替え、髪飾りを着けた。社務所から続く参道を歩き、入り口の前に陣取っている白狼天狗の群れに近づく。途中で早苗が踏んづけたビラには『山の妖怪は団結し、自然破壊の逆徒・守矢神社を弾劾せよ!』の見出しが踊っていた。
「断固として闘いの狼煙を──?」
近づいてくる早苗を見据え、天狗たちは吠えるのを止めてざわめきだした。
「迷惑ですので、帰っていただけません?」
早苗は相手が一足飛びには跳びかかってこれない微妙な間合いで足を止め、そこに群れの中から椛が一歩立ち入ってきた。
「我々は闘士。脅威を前におめおめと逃げ帰ることはできない」椛が言った。その体躯は早苗より頭一つ大きい。
「では、おめおめと追っ払われる覚悟もあるわけですね? 実力行使で?」早苗は御幣を構え、幼さを残す顔立ちに似合わぬ笑みを浮かべた。
ある者は盾を構え、またある者は剣を構えた。最後に椛が剣を抜いた。
「追っ払われるのはお前の方だ!」
先手は椛。前方に牽制の袈裟斬り。しかし動作を読んでいた早苗は間合いを取る。紫の光を纏った御札が早苗の後方に六枚現れ、椛目掛けて真っ直ぐに飛ぶ。椛はこれを盾で受けた。早苗は更に頭上に星を召喚、椛の頭に飛ばす。椛はこれを剣で弾く。隙を見て椛の脇の下を御幣で突きに掛かるが、椛の一本下駄の回し蹴りが盾を飛び越え早苗を襲う。早苗は屈んで退避し、御幣で足払いを仕掛けた。しかしその隙を椛の盾が潰しにかかる。寸前で早苗が向かい風を召喚し、後転して距離をとった。
狗符「レイビーズバイト」
椛が袈裟斬りに剣を一振りすると、二人の前後の空間に紅葉色の歯列が現れた。それは空中で一瞬だけ静止し、地面に水平にすっ飛んできた。早苗は視野を広く取って観察するが抜ける場所が分からない。やむなく早苗は椛に接近し御幣を仕掛ける。椛はこれを盾をずらして受け、斬りかかった。早苗は剣の持ち手に御札を仕掛けて回避。
このままでは二人とも喰われる、という寸前で、椛を中心として同心円上に牙が消滅した。早苗の動揺を見て取ったか椛が早苗の横から躍りかかる。剣閃からの逃げ道を盾が潰し、盾の作った隙間を剣が抜けて襲う。早苗が間合いを取ろうとすると、二人の前後に歯列の第二波が出現した。第一波よりだいぶ幅広で大きく、デモ隊の姿が隠されて見えない。やはり早苗は椛に駆け寄らざるを得ない。狙い澄ましたかのように盾が早苗の横半身を捉えた。
「ぐ、あっ」
追い打ちに盾の隙間から剣が突き出されるが、早苗は反射的に椛の足を蹴って退く。 椛は足を緊張させて顔をしかめ、早苗もまた平衡感覚を歪められてよろめいた。
白狼天狗達の間から歓声が上がった。
「やっちまえ椛ー!」
「にっくき守矢を粉砕だー!」
早苗は痛む腰を抑えていた。
「その技、得意な近距離戦に持ち込むのが目的ですか」
「ご名答」
第三波。牙の列が更に大きくなり、青い秋空を埋め尽くす。早苗は御幣を振り上げ、頭上に光の玉を召喚した。
奇跡「客星の明るすぎる夜」
光球からフラッシュが閃き、椛の瞳を貫いた。目眩ましだ。同じく目をやられた観客の白狼天狗たちが呻き声を挙げる。早苗は椛の盾を蹴って横に弾き、開いた椛の腕の反対方向から御幣を突いて直に触れんとする。椛は視覚を取り戻し、御幣に目の焦点を合わせると後頭部の毛が逆立った。一瞬の交錯。早苗に盾を押し付けて死角を作り、剣の柄の部分で御幣の先端を殴り捌く。同時に盾の開いたところから早苗の腹に蹴りが飛び、早苗はこれをぎりぎりの所で避けて後退せざるを得なかった。
「その御幣、何かヤバい」椛は警戒を露わにし、眉を顰めた。
速い! 早苗は驚嘆した。あんなに頑丈な盾を抱えていたら動きが鈍くなるのが普通だ。しかし天狗の怪力は剣の機動性と盾の頑強さの両立を可能にしている。一瞬にせよ視覚を奪ったというのに。だが早苗が椛の反撃になんとか対応できているのも事実である。早苗は苦笑した。皮肉なものだ。文と一週間つきっきりで鍛錬したことで白狼天狗の体術についていくだけの俊敏さをものにしたのだろう。
早苗が足を一歩踏み出すと、椛は剣を斜め下二方向に一回ずつ振り下ろし牽制した。早苗を二度と近づかせないように決めたようだ。獣の口が吠え声を発した。一瞬だけ、早苗には椛の体躯が三倍にも大きくなったように見えた。
「追放してやる!」
山窩「エクスペリーズカナン」
黄色のエネルギー弾塊が三つ、眼窩から覗く目玉のように渦を描いて迸る。その一つは地面を抉り、埋まっている小石を削って跳ね飛ばした。目玉は早苗を取り囲むように早苗に接近する。隙間がない。このままでは押しつぶされる。白狼天狗達は勝利を確信し、歓喜の雄叫びを挙げた。
「もう、これしかないですね」
早苗は自分の中で蠢いているエネルギーの性質を悟っていた。これを使ってしまったら止まらないだろう。でも構うものか。
「少し、貴方を見くびっていたようです」
早苗は御幣を前に突き出した。目の前で陽炎がゆらぎ、その手首から電撃が奔った。
妖怪退治「妖力スポイラー」
蒼い稲光に触れた途端、黄色の目玉が明滅しだした。苦痛に身をよじるように二、三回揺らいだ後にそれは消滅し、中から色とりどりの鎖が放出されて弾け飛ぶ。虹の鎖はボールを投げたような放物線を描いたと思うと術者の方へと向きを変え、早苗の掲げた手のひらからずぶずぶと沼に沈み込むような音を立てて吸収されていった。空いた視界の先の椛がぎょっとして身を引きかけるが、目玉の消滅を見越して跳躍していた早苗が椛の身体を有効射程内に捕らえる。椛の身体が白く光った。白狼天狗達がどよめく。
虹色の鎖が椛の身体から放出し、早苗の身体に伸びて収まる。見る間に椛の身体が小さくなる。やはり十に満たない子供の姿だ。剣と盾の大きさが不釣り合いで見るからに重そうである。
「そんななりでは、得意の剣術も役に立ちませんね。詰みです」
「だからどうした。我々に投了はない」
「今どきカミカゼは流行りませんよ」
早苗が更に出力を上げる。椛の腕が震え、数秒の緊張の後に盾を取り落とした。石畳と擦れてガラガラと音を立てる。日々鍛えぬかれたしなやかな体躯も今は芯が抜け落ち、その筋力は失われている。椛は剣を杖代わりに地面に突き立てるが、それでもバランスを支えられずに横に倒れこむ。幼くなった顔立ちに苦悶の表情が浮かぶ。
「あ゛あ゛っ」
パニックが始まった。残りの白狼天狗達がプラカードや横断幕・ゲバ棒を投げ出し、押し合いへし合いして駆け出す。押し出された二人が階段から転がって落ちる。最後尾の一人が椛の手を引いて背を向けた。早苗はその背中にも御幣を向ける。
「最大出力!」
椛は薄れゆく意識の中で異様な光景を見ていた。仲間たちが筋力を失って次々と倒れていく。やはりあの御幣に触れないでいたのは正解だった。さもなければ妖力を直に吸い取られていただろう。早苗の体躯は元の椛より頭一つ大きい……いや、それどころか軽く三メートルはないだろうか? 先ほどまで幼さを残していた顔立ちはより精悍に変化し、こちらを嘲るような笑みが不気味なほどに似合っていた。
◇ ◇ ◇
朝の妖怪の山のカフェバー。川に沿った山道の途中に建てられたこの店は、今の時期の日中は川の側に立ち並ぶ林が形作る紅葉のグラデーションを窓から楽しむことが出来る。はたてと文は窓際の特等席に向かい合って座っていた。
文はテーブルに肘をついて頭を抱えた。
「私、女の子が好きだったみたい……」
「あはは、やっぱり?」
人間でも、成人したり結婚してから自分の性指向に気づく者は珍しくない。成長の遅い妖怪では尚更のことである。
「てっきり自分じゃあ恋愛に興味ないって思ってたんだけどねえ」
「で、どんな所が気に入ったの?」
文は昨日の出来事を苦悶と共に語った。はたては『おおっ』と開いた口に手を当て、その後けらけらと笑った。
「自分が気持ち悪い……」
「いいじゃない、いいじゃなーい。向こうは文が好き、文もまんざらじゃない、何を迷うことがあるのよ?」
「でも! でも! 風流な贈り物とか、ウィットに富んだ恋文とかならともかく! 脱ぎっぱなし服の匂いで心が動くだなんて我ながら即物的すぎるぅうぅぅ……」文は両手で目を抑えた。
はたては爆笑した。文は睨んだ。
「あはは。文ったら意外とロマンチストなのねー。でも文の気取り屋の仮面を引っぺがすにはちょうどいいと思うわー。いいじゃない匂いが好きで。本能レベルで相性がいいって事でしょ? もっと本能に素直にならないと!」
「でもでもでも!」文は髪を掻きむしった。はたてはやれやれと首を振った。
「えーとなんだっけ。昔仲間内で回ってきて読んだ爆笑エッセイ。アレよ。『ウシに着ける緒の臭いなんて今まで嗅いだことない変な臭いなのに、イケてるように感じるだなんて自分でも頭おかしいと思う』だったっけ」
文は面食らった。しかし数秒後に文の無意識が記憶の底から原文を引っ張りだした。『牛の鞦の香の、怪しうかぎ知らぬさまなれど、うち嗅がれたるが、をかしきこそ物ぐるほしけれ』
「……枕草子? 昔の人間の書いたアレ?」
「牛の臭いでさえ風流なんだから、早苗の匂いにそういう気持ちを抱くのもそれなりに風流なんじゃない?」
「そんな理屈ありかしら」
「だって枕草子だし」
「そ、そうよね! 枕草子なら仕方ないわよね! 仕方ない仕方ない!」
この期に及んで人間の書いた文章にまで権威とエクスキューズを求める自分の心が情けなかったが、腹を決めるきっかけにはなった。
「早く謝って妖力を戻してもらいなさいよ。私もついててあげるから」
「うん」
二人は会計を済ませ、守矢神社を目指した。カフェインがいい具合に回っていた。
守矢神社。あたりには威圧的なノボリやビラ、紅葉が描かれた盾と剣が散乱している。二人が社務所の玄関にたどり着き、文がチャイムを鳴らすと諏訪子が出てきた。
「さあ、さあ!」はたてが急かす。
「もう、やめてったら! 洩矢様、えーと、その、早苗さんとお話が」
「どっか行っちゃったわ」
「えっ」
「マジで」
「八坂様はどうされました?」
「子守よ」
「はあ」
「来る? まあお茶でも飲みなよ。忙しいけどさ」
二人が諏訪子に連れられて大広間に行くと、そこら中に布団が敷かれており、その上には白狼天狗達が気を失って寝かされていた。
部屋の中心では、白髪の赤ん坊が神奈子の腕に抱かれていた。
「どうしたのですか?」
「第二児誕生よ」
文はカメラを取り出した。
「ジョークよ、ジョーク」
神奈子は状況を説明した。早苗が戻ってこないので二柱が様子を見に行ったところ、ぶかぶかの天狗装束の子どもたちが入り口に倒れていたらしい。それで応急的に社務所に運んでやったというわけだ。
「この子だけは目覚めているんだけど、見ての通り何にも聞き出せやしない」
「何かヒントはありませんか?」
神奈子は赤ん坊が包まれていた天狗装束を見せた。胸の内側には赤い糸で『Momiji Inubashiri』との縫い取りがしてる。文は背筋を震わせた。
「えーと、つまり、アレを私以外にも使ったってことよね」
「早苗は文には手加減していたのね。本気を出せばこの通り。怖いわー」
「私にも相当怒っていたみたいだけど」
「喧嘩する時でも無意識のうちに力をセーブしちゃうことってあるでしょ。ふつーは本気ではぶん殴らないわ。まして惚れた相手だもんねー」
「あ、この!」
はたてはニヤニヤしていた。二柱が訝しげな目線を向けた。
「天狗のオフィスには連絡したんだけど、全然繋がらないのよね。留守電は入れておいたけど」
向こうでも何かトラブルが起こっているのかもしれない。
「この場で何か聞き出せればよいのだけど」
はたては何か思案していた様子だったが、拳で手のひらをぽんと打った。
「妖力を補充すればいいのよね?」
はたてはネクタイをほどき、ブラウスのボタンを上から外し始めた。守矢二柱が目を剥く。
「ちょ、ちょっと! なんでナチュラルに露出しようとしてるの!」文が言った。
「え、だって赤ちゃんが吸いだす所って言ったら二つしかないじゃん」
「色々すっ飛ばさないで説明して!」
「私の妖力を椛に貸してあげるのよ。そうすれば何が起こったのか聞き出せるでしょ?」
ああ、なるほど。文は思った。妖力を奪われると幼くなるのなら、逆もまた然り。
「うん、それはいいアイデアだとは思うわ……でもせめて指からにして」
「はーい」
はたては手を洗い、ナイフで人差し指の先をぷつんと切った。血のしずくの滴るそれを椛の顔の前に差し出し、含ませてやる。椛ははたての血をちゅうちゅうと吸いだした。哺乳瓶からミルクを吸い出すように、赤ん坊の喉が上下している。妖力を取られたせいか。はたての血の気が少しずつ薄くなってくる。心なしか身の丈の方も小さくなったように思える。
「大丈夫?」
「うん、もう少しは持ちこたえられそう」
はたての背丈がが少しずつ小さくなるにつれて、椛の骨格も大きくなってきた。神奈子は椛を畳の上に下ろし、周りから毛布を剥ぎとって掛けてやった。はたての腕から力が伝わり、すくすくと、すくすくと大きくなっていく。
最終的にはたては人間の十二歳程度、椛は五歳児程度の身長に落ち着いた。はたてはだぶついた服をピンで留めた。
椛が目を開け、辺りを見回す。全員に視線を行き渡らせると、自分の身体を見下ろし、目を見開いた。文を睨みつける。幼い口元に牙をむき出しにしている。まずい。文は息を呑んだ。どうやら全てに合点がいったようだ。やはりこの白狼天狗は勘が鋭い。
「あれほど危険な力を、山の巫女が、手に入れたと、知らせてくれれば、こんな、ことには!」
「ひ、ひぃ!」
「貴方が人間と関わると面倒ばかり起こす! 博麗の巫女は通す! 魔法使いはかくまう! そして今度は山の巫女ときた!」
椛は息を吐ききると、ゆっくり息を吸い、またため息をついた。
「……やってしまったものは仕方ありません。善後策を検討しましょう」
「やはり早苗ちゃんを探すのが先よねー。吸い取った力を吐き出してもらわないと」
「探さなかったんです?」
「なんの手がかりもないのにたった二人で闇雲に探したって無駄だからねえ。ましてこれだけの病人を抱えて。いちおう医者は呼んだから、手が空いたら私も神奈子と行くわ」
「回復したら、私たち白狼天狗も捜索に加わりましょう」
神奈子が口を開いた。
「早苗について、何か知っていることはないかしら?」
文は息を呑んだ。外で鳥の鳴く声が聞こえた。
「私は席を外したほうがいいわねー」
「え?」
はたては戸惑う椛を連れ、雑魚寝する白狼天狗たちの様子を見に行った。
「さあ、言ってごらんなさい」
「はい……実を言うと、彼女を怒らせてしまいまして。私の勇気が無かったばかりに」
二柱はさもありなんという顔をした。
「浮かない顔をしてたからねえ」
「色々と、その、トラブルがありまして」
どう説明したものか。色恋沙汰の話抜きに納得の行く理屈を組める気がしない。
「貴方が早苗の新しい人だっていうのなら、歓迎するよ」
文はのけぞった。見抜かれている。はたてが余計なことを言うからだ。
「出会いにすれ違いはつきものさ」
「う、うう」
文は観念し、修行中にあったことをかいつまんで説明した。もちろん脱衣所での事は話さなかった。話をしている内に、ニヤニヤとした笑いが二柱の顔に広がっていった。
「……というわけです」
「やったぞ!」
「早苗にもう一度春が来た!」
二柱はハイタッチした。
(アアアアア!)
文は悶絶した。付き合う前からいきなり実家にあいさつを済ませたようなものだ。あまりにも上手く進みすぎている。この二柱は自分に対してやたらと親切だ。まるで外堀を埋めるかのようだ。
が、一つの可能性に思い当たった。
山の妖怪の中でも比較的古参である文と早苗が結ばれれば、これほど山と神社の関係を強力にするものもない。万一早苗が文と別れても山の妖怪は星の数ほどいる。山の妖怪でなくとも、例えば人里の人間と結ばれたとしてもそれはそれで神社は人里と関係を深めることが出来る……しかし差し当たって一番重要な山の妖怪と結ばれるのならそれに越したことはない。ノーリスク・ハイリターンの関係というわけだ。それが恋愛によるものであれば言うことはない。
ぼうっと思案していると、二柱は急に真面目な顔になった。プレッシャーに、思わず居住まいを正す。
「私たち、あの子には負い目があってねえ」
文は少し前に屈んだ。少し思っていたのと様子が違うらしい。
「知っての通り、私と諏訪子は元は外の世界の神でしょう?」
「ええ」
「で、神ってのはその神徳を信じるものがいて初めて、命を繋ぐことができるわけね」
「妖怪が人間から畏れられることで存在を保っているように、ですね」
「ええ、で、外の世界からは神に対する信仰が失われている。それは私たちにとっては命取り。どこかで私たちの実在を信じてくれる人間を探す必要があった」
「そして幻想郷では神に対する信仰が当たり前に保たれている。言っちゃあなんだけど、つまり餌場ね」
「幻想郷に来るためには、今まで外で集めた信仰を全部失うというリスクを取る必要があった。当然私にはその覚悟があったわ」
「でも早苗には付き合いがあった。幼い頃から信濃に暮らしてたからね。友達、先生、好きな人。それでも風祝の命脈を繋ぐためには、早苗も幻想郷に来なければならなかった」
「つまり、あの子は外の世界との繋がりと、私たちの命を天秤に掛けたんだ」
「で、結局あの子は私たちを選んだ。その結果、あの子はあらゆるものを外の世界に置いてきた」
「もちろん当時の落ち込みようはひどかったわ。ご飯を抜いたり、毎晩のように睡眠薬を飲んでたり。でも私たちの役に立ちたいって気持ちは強かったから、博麗神社にちょっかいを掛けることで自分を保っていたみたい」
「色々とこっちで事件を解決するうちにだんだん馴染んできてはいるみたいだけど、今でも少し、引きずっている節がある」
「だからね、向こうで失ったものをまた得させてあげたいのよ。こっちに来てから得られた出会いを大切にして欲しいの。貴方はそれができるのでしょう?」
文は歯噛みし、二柱の好意を疑った自分、付き合う前から別れることを考えてしまう自分を恥じた。千年を天狗の組織で暮らして、損得勘定が魂に染み付いているようだ。
「ま、あんたが考えているような打算はなくはないけどね」
「うっ」
諏訪子がにししと笑った。やはりこの神は侮れない。
どうやらこの二柱は文の障害ではないようだ。むしろこれから色々と力となってくれるかもしれない。食えない連中ではあるが、心強くもあった。
はたてが戻ってきて、それと交代で二柱が天狗たちの様子を見に行った。
しばらくすると、玄関の方で子供の声がした。
「御免!」
足音がして、ぶかぶかの服を巨大な安全ピンで留めた天狗が居間に駆け込んできた。おかっぱ頭で、八歳ほどの男児に見える。年齢に釣り合わぬ尊大な態度は名家のお坊ちゃんのようだ。
私のように早苗に小さくされたクチかしら。あの服は偉い人に違いないわ。文は思った。
「あら、坊っちゃん迷子ー?」はたてが言った。文の顔が引きつった。
「私だ、大天狗だ」少年は鼻を鳴らし、懐から身分を示す団扇を取り出した。その大きさは持つ手に不釣り合いである。
「ははあーっこれは失礼を!」
文ははたての後頭部をひっつかみ、無理やり下げさせようとした。しかし十歳児並みの細腕では力が足りない。
「えーっ! あの大天狗様がこんな美少年になっちゃっただなんてびっくりですー。いつもとってもダンディな雰囲気でしたからー」
「そ、そうか。いや、いい。分からんのも無理は無い」
少し気を良くしたようだ。はたての率直さが幸いした。見え透いたお世辞を言うようなタイプとは見られていない。胸を撫で下ろす。
「東風谷さんは今湖の方にいる。天狗も河童も巻き添えで大勢倒れた。大変な騒ぎだ。すぐに対応しなければならない。すでにこちらで増援は呼んである」
彼は文に向き直った。
「射命丸君だね?」
「は、はい」
「守矢神社との折衝は君に一任してあるはずだぞ。射命丸君、君がなんとかしなさい。必要なものはなんでも言いなさい。どうしようもなくなったら連絡してくれ」
「ははーっ! 了解しましたー!」
文句を言うつもりはなかった。元はといえば早苗を怒らせたのは自分である。
「では頼んだぞ。私はここの神に話がある」
大天狗は妖怪文字で『大天狗 代理』と書かれた札を差し出した。大天狗以外には解析できない呪法の込められた印鑑も押されている。これを見せれば河童と彼の部下の天狗はひと通り『使う』ことができる。
文はお辞儀して受け取り、はたての手を取り、玄関を通って湖の方へと駆けていった。
「アレに任せて大丈夫ですか?」椛が訝しげな視線を向けた。
「まあ、彼女は根は真面目だ。上手くやるだろう」
椛は同意していない様子だったが、その場はそれで流すことにした。大天狗は二柱の所に現状を伝えに行った。
二人は行く先々で河童や天狗の行き倒れを見かけた。鳥は地に落ち、魚は浮いている。生命力が奪い取られているのだ。一人意識のある河童を見かけたので起こし、大天狗の鑑札を見せ、玄武の沢の方へと援軍を呼びにやった。ただでさえ低い背がさらに低くなって、川に入るまでにだいぶもたついていた。
森林を抜け、湖のほとりに出た。正午も近くなって太陽が昇り、水面から反射光が眩しく照らす。その向こうには木々と山脈の岩肌、抜けるような秋晴れの空が見える。
「さて、早苗は湖の方にいると大天狗様が言っていたけれど」
「どこにいるのかしらーっ……と……」
はたての顔がスーッと青ざめていく。
「あれ……どう考えてもヤバいでしょ……いやいやいや」
「どうしたの?」
文ははたてが恐怖するのを初めて見た。明らかにただ事ではない。
「あ、あそこ……」湖の向かい側を指さす。
「何が?」
「早苗……」
「どこ? どこにいるの?」
はたての指の先を見る。水面、森林、山脈。いつも通りの山の湖に見える。
「見当たらないけど」
「あそこだって! 分からないの!?」
「え? ……あっ」
彼女は失せ物を探していたら、目的のものを思い切りその手に握りしめていたのに気づいたような気持ちになった。
あまりにも不自然すぎて気付かなかった。
今まで山脈だと思い込んでいたものが、体育座りをしている人間だなんて。
そいつは足を崩し、ゆっくりと膝をついた。地響きがこちらまで伝わり、湖の端がボロボロと崩れ、波を立てる。
立ち上がっていく様子を二人で見上げる。太陽まで届きそうなところで、そいつの背丈はまっすぐになった。太陽を背にして、影が湖面をぶった切るように長く長く伸びる。
全長百九メートル。重さは何トンだろうか。想像したくもない。服の重量だけで人を潰せそうだ。
今の早苗は、年齢に対して幼さの残るあの顔ではなかった。大和撫子というよりは外の世界の雑誌で見たミスコンの女王のような、エリマキトカゲのようなけばけばしさをもつ美人だ。
女神だった。
「どんだけ吸い取ったのよ……」
「山中を総なめ?」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。
視界の遥か遠く、山の中腹辺りから鴉の大群が飛び立ったかと思うと、空中で寄り集まって十人ほどの人の形をとった。白狼天狗の別働隊だ。全員が剣と盾を持ち、思い思いの弾幕を張って飛びかかる。
「あ、馬鹿……」
早苗が御幣を掲げるとその先から電光が散り、空間が陽炎のように歪んだ。天狗のエネルギー弾がすべて消し飛ぶ。続けて群れと山の中腹辺りから黄色の鎖が数十本ほど飛び出し、全身に吸い込まれた。早苗の目が大きく輝く。全体のかさも少しばかり増したように見える。
白狼部隊は爆竹を鳴らしたような音を出して鴉の群れに分解し、湖面へと力なく墜落していった。細かく水柱と波が立った。
「まともに近づいたらまず、やられちゃうのねー」
「大丈夫?」
はたては少し落ち着きを取り戻したようだった。
「ああ、こんな遠くからでも力が吸われそうだわー、あれが妖怪対策の技かなー?」
「そうよ。私の家で過ごした間に完成させたんですって」
「でもさー、妖力を吸うってちょっと妖怪じみてない? 良いんだけどさ。人間でも神様でもなくもっと悪い奴っぽい……」
「なにはともあれ、話をしないといけないわね」
話が通じればの話だが。あんなものと直接対決はしたくない。
湖畔や森の木々の間から人や獣の影が見えた。山の妖怪たちが集まってきているのだ。妖力吸収に巻き込まれない距離を保ちつつ、遠巻きに事態の推移を見守っているのだろう。
「だいだらぼっちだ! だいだらぼっちだ!」
見覚えのある氷精までいる。
森を抜けて、河童たちもやってきた。おかっぱ頭、ヘアピン、丸メガネ、そして河城にとり。見覚えのあるメンツだ。
「ねえ、アレと話をしたいんだけど」
「お安いご用です」
にとりはリュックを下ろすと結わえられた鍵をその留め金に差し込み、中を十数秒ごそごそとやった挙句に一対の箱とそれを制御するコントロールパネルのを取り出した。
「これは?」
「『キューリサウンドシステム』です。貴方の声をこの集音器から受け取って電気信号に変換、電気を加えて増幅した上で磁石を使ってスピーカーの板を震わせます。すると空気に震えが伝わって増幅された音が出るというわけです」
「えーと、つまり声が大きくなるってことでいいの?」
「その通りです」
「周りには丸聞こえ?」
「そうですね」
「もう少しこっそり会話できない?」
にとりは頭を掻いた。
「難しいですね。指向性スピーカーを持ってくればこちらから一方的に彼女に声を聞かせられるとは思います。指向性マイクを使えば早苗の声だけを拾うこともできるでしょう。ただ、あの図体で彼女がこちらだけに聞こえるに十分声を小さくできるかと言われると……」
「うん、無理ね」
河童たちが箱の円錐形の部分を早苗の方に向け、マイクを文の手に持たせた。
「ねえ、あの二柱が来るまで待ってられないかなあ……私が話したら余計こじれる気がするんだけど」
「でも、早苗ちゃんを説得できる見込みがありそうなのも文でしょー? 大丈夫! 文ならできるって」
「そんな無責任な」
文は諦め、マイクのスイッチを入れた。ノイズが辺りに響く。
『あー、あー、早苗、聞こえるー?』
早苗は振り向いた。
「文、さん……?」
『そうよ、私よ』
彼女は少し動揺を見せたが、やがて取り繕うように笑みを浮かべた。
「あはは、文さんが敬語をやめてくれた。嬉しいわ。あのわざとらしい口調、私にはもう憎たらしいぐらいになってたんですもの」
『ね、やめてくれる? 私も謝るから。本当にごめんなさい、貴方が真剣に自分の気持ちを伝えたいって時に、ああいう形で逃げるのは間違っていたと思う。でも今ならちゃんと貴方に向き合えそうな気がするの』
「……それは貴方の本当の気持ちですか?」
『そうよ』
「私にはそうとは思えませんね」
『えっ』
「だって文さんは私を新聞のネタとしてしか見てくれなかったじゃないですか! 今だって私のせいで山が荒れたら困るから仕方なく出てきてるんでしょう! そんなの知るかですよ!」
『アアアアア!』
全世界公開痴話喧嘩である。文はマイクを落とし、両手で顔を押さえた。何の罰ゲームだろうか。自分は前世でどれだけ悪いことをしたのだろうか。山中の妖怪たちの非難の視線が自分に刺さるのを感じる。
「こんなの晒し者よ……」
河童たちが口元を手で抑えながら興味津々の目をしている。
「おおおおおーーー……」
「ひゅーい!」
「射命丸様も隅に置けませんね!」
「う゛る゛さ゛い゛!」
「どの道、自分じゃ止められないんですよ、これ。大きくなる一方なんです。私はいるだけで人を傷つけてしまうんですよ」
早苗は空を見上げ、けらけらと笑った。本来ならもう少し淑やかに聞こえるはずのそれは、声帯の膨張で大きく歪み、低く耳をつんざくような異音と化していた。
「誰の差し金か知りませんが、文さんを盾に私を止めるつもりだったのなら残念でしたね!」
『こらっ! 早苗っ! この山において誰が神かを忘れたか!』
皆が一斉に山の中腹の方へと視線を向けた。文も目を凝らしてよく見る。この距離からでも一円玉のようによく見えるのは死と再生を象徴するしめ縄。見間違えようもない、八坂神奈子だ。あぐらをかいた彼女の左右には仁王立ちする洩矢諏訪子と大天狗が控えている。
「生身であの大声を出してるの?」
早苗以外の二柱も大概化け物なのだ。
『私たちは、早苗がもう一度自分を幸せにできるかどうかを見守ってきた!』
『でも自分でそれを断ち切るような真似をするのなら容赦しないよ!』
早苗は一瞬迷ったように一歩後ずさったが、逆に踏み込んで自分を守るように御幣を突きつけた。
「では、私を止めてみせてください! まさか無策ではないでしょう」
『もちろん! もう用意してあるわ』
諏訪子は合掌したまま、すぅ、と宙に浮き上がった。外径四メートル、内径三メートルにも及ぶ鉄の輪が多数現れる。その麓には御柱が列になって五本横たえられている。
『いくよ神奈子! 合体奥義!』
神具「洩矢の鉄の輪 -御柱カタパルト-」
赤錆を纏った鉄の輪が山の斜面を滑り、大地を削る音をさせながら加速していく。やがて仰角十五度に調整された御柱の上を滑り、スキージャンプのごとく早苗めがけて跳躍した。
早苗は直前に放ったエネルギー弾の壁で三つほど撃ち落とし、残りは伏せて避けた。森の木々が膝に潰されて横倒しになる。遅れてやってきた最後の一つを居合い斬りの要領で放った御幣の芯でとらえ、打ち返した。
「ホームラン!」
『うお、うおお?』
諏訪子がとっさにかがむと、数メートル後ろの岩に着弾した。石片と赤錆の欠片が辺りに飛び散り、二柱と一人の背後から襲いかかる。大天狗が悲鳴を上げて飛び退き、山の妖怪たちがどよめく。
『あいたたた……こりゃあ酷いね』
『どえらい反抗期だわね』
「終わりですか?」
『まだまだ!』
『飛び道具はたっぷりあるからね!』
秘源「ジェイドトーラスミワタリ」
神奈子が大きく一回深呼吸し、両腕を前の方に伸ばすと、湖面が白く濁り始めた。氷結しはじめ、二十秒ほどで湖面全体を覆った。
続けて諏訪子が合掌し、翡翠の塊を雪崩のごとく召喚。碧の火砕流が湖めがけて滑る。
「はあ? こんなの普通に歩いて避ければ……」
早苗が言うが早いか、彼女と神奈子を結ぶ直線上に氷が砕け、溝から翡翠の川が跳ね上がった。
「うっ!」
五芒星弾を前方に展開し、輝石の礫の軌跡をそらす。あるものは湖面を割って水に沈み、またあるものは山間の谷へと吸い込まれていった。観客の天狗と河童たちが流れ弾を避けて森の方へと引っ込む。
「ふう、びっくりさせないでくだ……」
早苗が一息ついたのもつかの間、突如として天から翡翠の雲が現れた。逸らしたはずの輝石流が雨となって早苗へと降り注ぐ。早苗は頭上に両腕を斜めに組んでこれを受け止めた。一粒一粒が数トンにも及ぶ硬玉の重みに腕の骨が悲鳴を上げる。肋骨にめり込み、皮膚が切れ、服の裾が破れる。
『ありえないところからありえないものが出てくる。これが奇跡さ!』
「ぐっ……」
『これで一本!』
『もう一丁!』再び諏訪子が翡翠雪崩を生み出す。
「二度は甘いですよ!」
早苗は失われた詞を詠唱し、手のひらを振り下ろして湖面を叩いた。翡翠でえぐられた腕に痛みが走る。
開海「モーゼの奇跡」
湖面が氷の砕ける音を響かせて割れ、岩と藻と泥にまみれた湖底がむき出しになった。翡翠の川はまっすぐ湖底に飲み込まれる。
続けて早苗が指と指の間に緋色と蒼色の槍を出現させ、二柱の居場所めがけて投げる。
『甘いのはそっちよ!』
御柱「メテオリックオンバシラ」
山の中腹から御柱が龍星のごとく押し寄せ、宙を飛ぶ槍をすべて相殺した。残った御柱が続々と飛んできたかと思うと空中でぴたりと止まり、寄せ集まって人間の腕の骨格を形造った。
大骨格「二拝二拍一拝」
諏訪子が地面にずぶずぶと両手を沈み込ませると、湖底から翡翠と岩が水を滴らせながら浮き上がる。それらは御柱で継ぎ接ぎされた骨格に肉付けされていく。やがて早苗に覆いかぶさるように現れたのは、湖底の岩と岩同士をくっつけて形成された、二本の巨大な腕だ。全長で湖の外周ほど、一つ一つの節が山脈並みの大きさを持っている。
『弾幕祭りもこれからが本番。お互い神徳をギャラリーに見せあおうじゃないか』
右腕が早苗の側頭部めがけて手刀を繰り出す。早苗は足を踏み変えてこれを避け、中腹めがけて緋色と蒼色のかまいたちを繰り出すが、左腕が伸びてきてこれを受け止める。撃ち漏らしたつむじ風で樹齢数十年の大木が雑草でも刈るかのような気軽さで倒され、巻き込まれかけた河童が川に飛び込んで逃れた。
右腕が引っ込み、湖面からひとつかみの翡翠と岩塊をすくい上げる。左手が拳を繰り出した。かすっただけでも致命的な傷を与えるには十分な重さだ。早苗は腕を丸くしならせて御札を放ち、巨腕に包帯を巻くように張り付かせる。御幣を掲げるが、巨腕の表面は御柱を触媒として岩と岩が密になって凝縮・結合しており、隙間がなくて吸うことができない。早苗は当たる寸前で自分と巨拳の間に圧力を生じさせて回避したが、右手が上空にばらまいた岩雪崩を避けきれない。辛うじて頭は守った。
「あの化け物が、押されてる」「いいぞ……」「守矢だ、あれが守矢だ」
今度こそ、いけるのでは? という期待が妖怪たちの間で共有された。二柱はその空気を肌で感じ取り、気をよくした。
「弱点、弱点はどこに」
例え相手が守矢の二柱でも全盛期からは程遠く、これだけの重量物体を操るには莫大なエネルギーを消費しているはずだ。きっとどこかに付け入る隙がある。早苗は電気回路の構造を確かめるように目を凝らした。
右手が地面で中指をはじき、早苗の足元めがけて木々と土塊を吹き飛ばした。早苗はたたらを踏み、危うくつまづきかけたところで異変に気づいた。樹と木の枝同士が蔦のようにからみ合っており、足首を拘束している。続けて足裏から間欠泉が吹き出し、液状化した地面で足首まで沈み込む。
『操れるのは土と岩だけじゃないのさ!』
足を取られた隙を早苗の背丈ほどある両手のひらが水平に押しつぶしにかかる。早苗は上昇気流を発生させて無理やり引き抜き、飛び上がって回避した。手のひら同士がぶつかって削り合い、雷のような拍手を轟かせる。
「そこです!」
早苗は空中で懐から御札を三枚取り出し、二柱の立っている方向めがけて投げる。四メートルに及ぶ紙の板が湖畔に斜めに突き立った。二柱と巨腕の間をつなぐ龍脈が老人の手の甲のように浮き上がる。
「妖力スポイラー!」
早苗が湖底に着地し、御幣を掲げると、龍脈の周囲が湯気のようにねじ曲がった。御札がまばゆく発光し、イソギンチャクのように金の鎖を生やしうごめく。神奈子が青ざめ、諏訪子は歯を食いしばった。
『ぐ、吸われる』
諏訪子はやむなく地面から手を引き抜き、巨腕の制御を手放した。支配者を失った岩の塊が倒れこんでくる。早苗は御札を巨腕の関節に打ち込み、岩と岩の間の継ぎ目を破壊した。ばらけた翡翠が湖に落ちてしぶきを上げ、岩石が畔に落ちて大地を揺らした。
『くそー。だいぶもってかれちゃったか、私の力。もうあんなのズルでしょ』
諏訪子は咳き込み、胸のあたりを手で押さえた。このままではミシャグジさまでさえ吸われかねない。手詰まりだ。
『大丈夫かい、諏訪子?』
『ぐぐ、かくなる上は……!』
『お、まだ何か策があるのね?』
諏訪子は地面に向かってぴょん、と飛び込んだかと思うと深く深く潜り込み、
潜り込み、
潜り込み、
潜り込み……
浮かんで……こない。
蛙休「オールウェイズ冬眠できます」
「諦めたー!」
『諏訪子ォォオオオ!』
早苗は自分のしたことが信じられないという風に両手の平を見つめていた。腕や脚に生々しく残る翡翠の傷も、諏訪子から奪い取った神徳で癒やされつつある。体中にさらなる力がみなぎり、背丈が二、三割は大きくなったように感じられる。
「あはは、勝っちゃった……今なら月だってキャッチボールできそうな気分です」
「月でキャッチボール!? いいわいいわやりなさい! 全面的にバックアップするから!」
「紫様! 私怨はおやめ下さい! ていうか月そのものが無くなったら困るのは我々でしょう!」
文が振り向くと、八雲紫とその式神が来ていた。
「えらい騒ぎになっていたから、様子を見に来たのよ」
「ちょいと境界とかいじって、何とかならないのー?」はたてが言った。
「いやいやいや! お気軽に言わないで! 私は神じゃないのよ? あんなデカいのすぐには無理よ!」
「紫様、落ち着いて!」
「あいたあ!」
藍は紫の尻をひっぱたき、正気を取り戻させた。
「いつつ……私としたことが。あまりのことにパニックを起こしかけたわ。このままでは幻想郷は吸い尽くされる。霊夢を呼びにやっても解決できるかどうか」
自分の尻を押さえる紫を見ながら、文は別のことを考えていた。今の三柱の戦いを見ていて、文の脳裏には何かが引っかかっていた。近づけば問答無用で力を奪われる、反則的なテリトリー。しかし突破口はまだ残されているのではないか。あの技にはまだ誰も気づいていない特徴があるに違いない。頭を働かせる余地はある。
「我々は彼女に近づく手段を必要としているのです。あのテリトリーをかいくぐることができれば、いくらかアプローチはあると思うのですが」
「うーん、結界を最大限に重ねがけすれば、無傷で近づけるとは思うわ。ただそのあと確実に仕留められるか、と言われると。私単独では厳しいわね」
妖怪の賢者をしてこの警戒ぶりである。
「神と妖怪の差は、厚いわ。その差を覆すには単純な強さや演算能力に依らない、思考の飛躍がいる。神でも妖怪でも人間でも平等に持っている、一瞬のひらめきが」
「なに? なに? 紫が困ってるの? おもしろーい!」
皆が森の方に目をやると、アカメガシワの木のそばにへべれけの鬼が立っていた。
「伊吹様……なぜここに」
「借りがあるのさ。あの後無理やり奢られちゃってねえ! やっぱり珍しい酒があるからって気軽に来るもんじゃないねえ」
そのそばには椛がいた。萃香と同じぐらいの背丈である。
「そうです。私が連れて参りました。この現状を打開できるのはもはや伊吹様をおいて他にはない、と」
「大天狗様は面白いとは思わないでしょうに」
「違いないね」
文は無意識に、目の前に並べられた諸要素を頭のなかで組み合わせていた。天狗の思考回路が全速力で回転していた。
結界。空間。密と疎。
それだ。
「紫さん、話があります」
「え?」
文は紫に今しがた発見した事を話した。
紫は早苗の方を見た。彼女の前や後ろから散発的に天狗や河童たちが襲いかかるが、すべて途中で吸い落とされている。
「確かにそうね……よく気づいたわね。私でも見逃しかけたわ」
「あの技は私が一番最初に受けたのです。しかも二度も食らってます。そろそろ何か発見がないと困りますよ」
文は確信した。近づきさえすれば、できる。あとは条件を整えるだけだ。
「医者はいない?」
「ああ、今はあのへんでけが人を見ているはずです」おかっぱ頭の河童が答えた。
「ちょっと待ってて」
文は一飛びし、早苗と二柱がいる方とは反対側の湖のほとりに立った。神々の争いが一時中断し、湖は再び水をたたえつつある。
「けが人はいない?」
ブレザーに兎の耳。鈴仙だ。
「ああ、社務所にいるのはひと通り診てきたからね。今は兎達に麓の診療所へと運ばせているところよ」
「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
鈴仙にいくつか質問をし、予想通りの答えが得られた。
「確かに用意はできると思うけど……なんに使うの?」
「少し考えがあるの」
文は皆を集め、これから取るべき戦略について話した。
「確かにそれなら解決できるかもしれないけど、あんた、大丈夫なのー?」
「早苗をあの状態にまで育てて台無しにしたのは私の責任だから、私の責任で解決するわ」
「まあ、筋は通ってるわね」紫が言った。
「面白そうじゃないか。私は賛成するよ。その代わり、決着がつくまでは手出し無用だからね」
丸メガネにポニーテールの河童を呼び出し、メモを見せる。
「これの在庫をありったけ持ってきて」
「はあ」
「私はあの二柱のところに行って、早苗のことについて聞いて来るわ」
文は山の中腹へと飛んだ。
「あとは、どう近づくか、ね」
「ふふ。腕がなるねえ」
萃香は拳で手のひらを打ち鳴らした。ようやく支配者としての鬼の地位を脅かしそうな存在が現れたのだ。願わくば現役のうちに出会いたいものだった。それが残念でもあった。
「作った借りはぁ! 早めに返しに行くとしますか!」
萃香は息を思い切り吸い込み、巨人に向けて叫んだ。
『おーい! そこの緑の!』
ゆっくりと振り向いた。
「誰かと思えば萃香さんですか。お久しぶりです。どうされました?」
『私と勝負しろおい!』
「なんでです? 妖怪が神と戦って勝てるとでも?」
『ぐっ、ずいぶんと馬鹿にされたもんだね。じゃあ、ひとつ教えてあげようか』
「どうぞ」
『私は昔、鬼の四天王の一角として、この妖怪の山を支配していた。今は風来坊だけどね。それで天狗や河童の中には、まだまだ私を畏れたり慕ってくれる奴が多いんだ』
早苗の耳がぴくりと動いた。
「じゃあ、私たち守矢神社が山の信仰を集めきれていないのは、いつか貴方のような鬼が山に戻ってくるかもしれないと、妖怪たちが恐れているから……?」
『たぶんね』
「つまりつまり! 貴方さえ倒してしまえば、山の信仰は真に私のもの……?」
『そういうことになるね』
「ではこの勝負、受けたほうが神社のため……?」
『頭の回転が早くて助かるねえ。挑戦、受けるかい?』
「……やりましょう」
『よしきた、旧支配者と新支配者の対決だ』
鬼神「ミッシングパープルパワー」
大きく、大きく、山脈を飛び越し、妖怪の山の偉丈夫を束にしても敵わぬ程の大きさに膨れ上がる。山の妖怪たちが感嘆の声を上げた。それでも早苗の胸の辺りまで届くかどうか、といったところだった。
「ふふ、萃香さん。貴方、自分より本当に大きな人と戦った事ってあります?」
「……ないね」
『早苗のやつ、私たちを倒して自信をつけたのかしら。欲が出てきたね』神奈子が言った。
「まずは小手調べだ!」
『元鬼玉』
萃香の掲げた両手の間に火球が生まれ、早苗めがけて投げる。早苗は余分に距離をとって避け、火球が後方の山脈の腹をえぐった。岩が溶け、高山植物が燃え、地獄の様相を呈する。
「ああ、地図が変わってしまう。せっかく測ったのに」河童の一人がつぶやいた。
じゃらり、と鎖の擦れる音をさせて、左右に振れながら近づいてくる。間合いが読めない。
『鬼神燐火術』
瓢箪の中身を口に含み、まばゆい炎を吹き出した。早苗は前髪が燃える寸前で退いたが、視界が眩む。
鎖付き瓢箪が横から襲う。間に御幣を差し込んでこれをしのぐ。しかし脇腹に鈍く痛みが走る。やはり一撃が重い。もう一度炎が来る。早苗は軽く跳び、湖の岸から岸まで斜めに渡った。
『波起こし』
湖が波立ち、炎を打ち消す。
「近づけさせるものですか!」
早苗は御幣を掲げた。
神徳「五穀豊穣ライスシャワー」
白く輝く光の粒が散水機のようにあたりに振りまかれる。所詮米粒と侮るなかれ、一つ一つが石碑ほどの大きさと重さを持っている。神徳の込められた穀物の奔流が殺到し、鬼の体中の肌を焦がした。
「あいた、あいた! これはひどい!」
萃香は顔をしかめながら手近にあった岩山を引っこ抜き、ジャグリングさせるように宙に飛ばし一回転。たまたま岩山の頂上で観戦していた鼻高天狗が遠心力で吹き飛ばされる。
「あぁあぁあああぁぁぁぁ……」
「ちょいとごめんよ!」
萃鬼「天手力男投げ」
早苗は御幣を下げて米粒の放射を強引に打ち切り、さらに湖の縁を走って遠ざかった。ちょうど湖を挟んで萃香と相対する形になる。地面に落ちた岩山が谷底に転がり、湖へと転がり、縁から水が溢れだす。野次馬の天狗が逃げ出し、河童は濁流に飛び込んだ。
萃香は肩をすくめた。
「遠距離戦はつまらない。もっと殴り合おうよ」
「鬼と正面から? 馬鹿を言わないでくださいよ」
「じゃあ、こんなのはどうかな」
『萃鬼』
二人の間に黒い球が発生した。早苗が前へと引きずられ、水の中に脚を突っ込む。
「自分の土俵に乗せるのも喧嘩の内よ!」
『妖鬼‐密‐』
萃香が浅瀬に飛び込み、爆炎を込めた拳が迫る。早苗は入身の足捌きで萃香の後ろ側に入り込み、首を捕らえにかかるが、萃香の首が下へと引っ込み、重力を回転に載せた裏拳が飛んでくる。早苗は萃香の二の腕をとって軌道をそらす。萃香がバックステップを踏み、垂直に飛び上がる。
『踏鞴』
早苗の頭上に現れ、垂直に飛び蹴りを浴びせる。早苗は左腕でかばうが、瓢箪から腹をかばう時に受けた打撲の跡が傷んだ。しかし決定的な重みが加えられる前に後ろに飛びずさり、なんとか間合いをとった。湖面に波が残る。
「ぐっ、うっ……」
「なかなか上手いじゃないか? 身体の捌き方」
「練習しましたから」
「ほうほう、じゃああの天狗と稽古したのは無駄じゃあなかったってわけだ」
早苗は眉を上げた。
「……揺さぶりのつもりですか?」
「いや? ただかわいそうだなーって思って。あんたも周りもね」
「どういうことです?」
「私はあんたの事をよく知ってるよ。最近よく見ていたからねぇ。あんたはエゴを通すのが下手くそだ。あんたは気ままに振舞っているように見えるけど、本当のところは自分の望みを押さえつけてる。だからいざ譲れない一線ができてしまうと、子どもの駄々みたいな真似をする。周りを振り回す。肝心のあんた自身が自分を信仰してないんだ」
早苗は爪を噛んだ。
「ふん。上手いことを言ったつもりかもしれませんが、貴方には口で言うほど余裕が無い。貴方はその妖力を自らの内に留めておくのが精一杯のはず。私が吸い取ろうと虎視眈々と狙ってますからね。違いますか?」
「うんうん、間違っちゃあいないね」
しかし今の早苗に近づいてまともでいられる妖怪は、密と疎を操る萃香ぐらいのものだ。
はたては首をかしげた。
「萃香さん、さっきから分身も霧も全然使わないわねー。私が取材した時はもくもくと立ちこめてすごかったんだけど」
「きっと使いたくてもできないんだわ。吸収されちゃうから」
萃香は両手で地面を殴った。
「でも、人間相手にはこれぐらいのハンデでちょうどいいかな!」
『地霊‐密‐』
山脈が隆起し、早苗の逃げ場を塞ぎにかかる。
「まだまだ!」
もう一度殴る。マグマの脈を刺激し、出来た地割れから溶岩が噴き出す。
『火鬼』
「もう一丁! 萃まって……こいっ!」
鬼火「超高密度燐禍術」
断層が起きた。マントルの奥深くから萃め出されたエネルギーが噴き散らされる。圧力を加えたチューブのようにだくだくと流れ出る溶岩が、木々を燃やし、水を蒸発せしめ、地図を塗り替えていく。ガラス質の火山灰が舞い上がり、灰色の噴煙があたりに立ち込める。地上に灼熱地獄を呼び寄せたかのようだ。
早苗の肌に輻射熱が突き刺さる。完全にマグマに囲まれている。
穴から飛び出した溶岩玉のひとつが玄武の沢に突っ込み、水蒸気爆発を起こした。水辺で休んでいた河童たちが悲鳴を上げた。
『いぶき! どーじ!』『いぶき! どーじ!』『いぶき! どーじ!』『うおおーっ!』『やっぱり俺達の伊吹様だ!』
興奮した妖怪たちの声援が響く。眼前に命の危険が迫っているにも拘わらず、鬼の暴威に当てられてハイになっているのだ。真昼に再現された百鬼夜行である。
「くっ、このままでは信仰が……」
「ちょっと萃香! 人里まで壊したら承知しないわよ!」
「おーっと紫に怒られちった。じゃあ、そろそろとどめを刺しますか!」
早苗の頭上に白い玉を放り投げ、放射状に火炎球が散り始める。
「これであんたに逃げ場なし!」
四天王奥義「三歩壊廃」
一歩目。目の前の鬼は容赦なく距離を詰める。
二歩目。頭上には火球。背中はマグマ溜まり。
三歩目。拳が迫る。どうする。どうする。
『おみくじ爆弾』
早苗は一枚の紙を萃香の顔めがけて投げつけた。萃香は首を横にそらしてこれを避けたが、わずかに身体の平衡が崩れ、拳を当てるタイミングがずれた。
「当て身です!」
早苗は思い切って萃香の横に飛び込み、転換の体勢に入った。左手を萃香の拳に添え、拳の軌道を手元に誘導。バランスを崩した萃香は拳を返され、背中から地面に落とされた。小手下ろしだ。早苗が萃香の拳を持った手を軽く上下させると、萃香の体は右肩を軸として横に一回転。うつぶせになる。 早苗は持った拳の先を萃香の右肩の方に向け、関節を極めた。
「ぐ、動かん、この」
「正直、もう駄目かと思いましたよ」
早苗は息を切らしている。あと一歩ずれていたら、マグマ溜まりに足を突っ込んでいただろう。
「自分の力にばかり頼ってるからそうなるのです。貴方は他人の力を利用する事に慣れていない」
萃香がもがこうとすると、その度に早苗が関節を締める。彼女の技術は妖怪の体内の妖力の流れさえ制御するに至っているのだ。
「霧化すれば逃げられますよ? さあさあ早く」
「そしたらあんたがその霧を吸収するんでしょ? その手にゃ乗らないよ」
さらに手首を締める。
「うぐっ……」
「ほら、早く巨大化を解くのです。大分気持ち良くなってきたんじゃ無いですか? 腕の筋が伸びますからね、これ」
周りからは怨嗟の声が聞こえてくる。
『伊吹様が……』『もうお終いだ……』『くそ、酒を用意しろ』『妖怪の天下もこれっきりか』
鬼が、負けた。それは山の妖怪に深い絶望を刻んだ。
「あはは、なんて私の頭は悪かったのでしょう。最初から自分の力に頼る必要なんてどこにも無かったんですよお。ある実業家の墓碑銘に曰く、『自分より賢きものを周囲に集める術を知りしもの、ここに眠る』他人の力を利用することも立派な才覚の一つなのです! 大王が一人で万の軍勢に立ち向かえるでしょうか? 科学者は大学の手を借りずに論文を発表できるでしょうか? エンジニアは会社やネットワークに頼らずに新製品を開発できるでしょうか? 違います! 王には王に属する! 学者には学者に属する力が必要であり! 他の力、神の力を利用することはむしろ風祝の本来の姿! 巫女としての宿命なのです!」
内耳の内側に直接響くように脳裏に神奈子の声が聞こえてきた。
『大王は配下の者に食い扶持と使命を与え、科学者はその知識を利益として社会に還元する。その循環は早苗がやっているような不幸をばら撒く一方的な搾取では絶対にないよ! それではまるで、妖怪だ』
「ふむ……では、与えましょう。これだけの力があれば、さぞ色々な奇跡が起こせるに違いありません。快晴がいいですか?」
早苗が大幣を一振りすると、十五秒の内に山にかかっていた噴煙柱が飛び去り、太陽が湖を照らしだした。まばゆいばかりの光が湖に反射し、山の妖怪たちは目を覆った。
「それとも豪雨にしましょうか?」
再び一振り。雲が内側に渦巻きながら現れ、瞬く間に上空に立ち込めた。二〇秒後には湖をひっくり返したような雨が降りだした。水の粒が山の妖怪たちの頭を打った。気化熱で冷やされたマグマが灰色に濁り、白煙と蒸発する音を立てる。
「間を取って天気雨なんてのも素敵ですね!」
雨が止まない内に雲の切れ目から太陽が覗き、山の湖に大きな虹がかかった。根元の守矢神社から神徳を山中に振りまくような巨大なアーチ。
「お、おおー」
観客の河童と天狗たちが目を見開き、早苗に向かってひれ伏した。神奈子は驚愕した。
「む、無詠唱であれだけの奇跡を!」
認めざるを得ない。早苗は妖怪ではない。神なのだ。
「素晴らしい。妖怪たちが妖力だけでなく信仰を捧げてくれるようなりました。これだけ自在に天候を操作する力があれば、もう世界に干ばつや飢えの心配なんて無くなります。私がもっともっと零落した神の力を吸収し利用し、信仰を集めれば、この地はますます繁栄していくことでしょう。ゆくゆくは外の世界に出戻り、過剰な灌漑で水を失った大地に潤いを与えるなんてことも出来るかもしれません。天候さえ操る事が出来れば砂漠化、温暖化、食料不足や居住地不足が一挙に解決できるのです! 神奈子様、諏訪子様、やりました! 私はあなた方の力を借りずに神になれたのです! 私はこれからも妖怪の力を利用して、世のため人のためにご利益を生み出していくことと致しましょう」
「ああ、一人ブラック企業、東風谷早苗の誕生だ」
ぱしゃり。
早苗は音がする方を見やると、岩山の上に見慣れないデザインのカメラの三脚が立っている。新型かもしれない。その裏では河童がピースサインをしていた。
ぱしゃり。
「記事にするならどうぞ。こんな機会には滅多に出会えないでしょうからね」
しかし、どうにも不審だ。念のため御幣を河童に向ける。にとりから稲光が放射され、ちりちりと死の鎖が形成される、はずだった。しかしシャッター音がして、何も起きない。
「不発……?」
魚を疑似餌に掛け、順調に引っ張られていたはずが、次の瞬間には釣り糸の張力を感じなくなったような、獲物を逃した時の感覚。
早苗を写そうとしているのはにとりだけではなかった。早苗を中心とした同心円上におかっぱ頭の、丸メガネの、ヘアピンの河童たちが取り囲んでいる。
「何を企んでいるのです?」
タイミングがずれ、ヘアピンの河童の胸から鎖が飛び出した。
「ぐ、しまった」
しかし丸メガネがその様子をファインダーで捉えており、シャッター音がしたのちに鎖が消え去った。
おかしい。文に初めて使った時はカメラがあっても問題なく妖力吸収を発動することができた。しかし発動さえさせないとなると理屈が通らない。なんらかの理屈でぴったりタイミングを読んでいるとしか思えない。
文は湖畔の、小高くなった岩の上に立っていた。空き瓶を片手に、今しがた水を飲みきったところだ。厳しい戦いになるだろう。胃袋のなかで水が揺れる感覚がした。そして早苗の演説を聞いて、目を伏せた。
「助けてあげないとね」
その後ろには鴉天狗と白狼天狗の続いていた。各々が持っているカメラの電源をつけ、レンズが引き出される駆動音がする。文が河童たちに在庫をかき集めさせた弾消しカメラ、発売直前の最新型だ。
「新製品のモニターってわくわくするよねー」
「はたて、いいのね?」
「ここまで付き合っちゃったら、先行きを確かめるしかないじゃん。私だって守らないといけない人がいるしね!」
椛が声を張り上げ、白狼天狗部隊がそれに応えた。
「射命丸様をお守りしろ!」
「おう!」
「椛、いいの?」
椛がこちらを睨み、文は居心地の悪い思いをした。
「そうですね。私は鴉天狗の俗物根性が、写真のような薄っぺらさが、その典型のような貴方が大嫌いです。しかし──」
椛は歯を見せて笑った。
「それを捨てられるというのなら、あの人間を愛しているというのなら、貴方は私にその度胸を見せるべきだ」
「あ、愛……」
「それに、今の貴方の命令は大天狗様の命でもありますから」
椛はあくまでも職務に忠実だった。
「さあ、早く。我々はいつでも出発できます」
帽子の紐を結び直し、早苗をまっすぐ見据える。彼女はまだ河童の方を見ている。
「早苗、私は間違っていたわ」
懐から羽団扇を取り出す。
「貴方を新聞のネタとしてでもなく、厄介事のタネでもなく。貴方がどれだけ寂しい想いをしていたのか、どれだけ自分勝手なのか、何に笑うのか、何に悲しむのか、それらをすべて鑑みて! 一人の尊重すべき人格として扱いましょう!」
岐符「天の八衢」
羽団扇を一振り。風の玉が辺り一帯を埋め尽くし、女神に至る道筋が出来た。早苗がこちらを振り向いた。
文は足を踏み出し、岩の上から飛んだ。重力を感じ、水面に触れるところで羽を広げ、空気に乗った。
びゅうん。
早苗がワインダー弾を斬りつけるように乱射するが、文のばら撒いた風の玉が打ち消す。河童たちもカメラで援護する。
続けて御幣がはたての前に突き出されると、そこに陽炎のような歪みが発生した。椛は反射的にファインダーを合わせ、シャッターを切る。歪みが解消し、澄んだ空間ができた。
「椛、ナイス!」サムズアップ。
「どういたしまして」
椛は文に言われたことを反芻していた。
『あの妖力スポイラー。妖力吸収が発動する前に、一瞬だけ蜃気楼みたいに空間がゆらぐみたい』
『きっと早苗が大きくなる前は、ゆらぎが小さすぎて気づかなかったんだわ』
『そこを狙ってカメラで取れば、妖力吸収が発動する前に妨害できるかも』
「射命丸様が言っていた通りだ」
五芒星の辺がほぐれ、エネルギー弾の壁がいくつも迫った。あるものは垂直に急加速して避け、あるものはシャッターを切って突破した。再び編隊を組む。弾幕が物量を増し、危うく何人かをさらいそうになるが、最新型のカメラは巻きの早さと望遠性能を十分に兼ね揃えている。再び陽炎が眼前に現れ、消える。
「たまには鴉天狗の真似事も悪くないな!」白狼天狗の一人が軽口を叩いた。
「よし。これなら近づける!」文はさらに加速する。
早苗は歯を食いしばった。鬼も神も打ち倒したというのに、自分の指の第一関節にも満たない今の文のことが怖い。自分を守るためにぶちあげた大演説も、いまや溶けて消えてしまったかのようだ。
頭の中に声がした。いつまで神を気取っている? 諏訪子のでも、神奈子の声でもない。戦っている間は必死に覆い隠していた、ほかならぬ自分自身の思考のマイナスの漸化式だ。こんなことがいつまでも続くはずがない。お前はいつまでも神ではいられない。破滅の予感が胸を満たし、みぞおちが絞られるような感覚を覚えた。
「……私は神。これは事実です」
「へへ、私はあんたの吸収に抵抗できるし、私の手を持ってたらあんたは動けない。どうする?」
「当然!」
早苗は我に返り、萃香にとどめを刺すべく空いている手で手刀を振り下ろす。当たる寸前に萃香の鎖が浮かび上がり、早苗の手首足首に絡みついた。
酔夢「施餓鬼縛りの術」
「ッ、この、しぶとい」
「ホントは私が組み伏せているところを天狗にやらせるつもりだったんだけどねー。まあ、鬼も時には策を弄するってことさ。でもこれで予定通り! 五体の自由は奪った」
鎖が橙色に発光する。早苗の身体はは溶けた鉛を注射されたように重くなった。吸いとった妖力を吸い返す圧力が掛かっている。
「問題ありません。要は私が吸収されるより速く吸収すれば済むこと! もっと大きくなってこんな鎖は引きちぎって差し上げましょう」
そうしている間にも文は着実に近づいてくる。奪った妖力は鬼にじわじわと吸い戻されつつある。動揺が集中を乱し、妖力スポイラーの出力が足りない。
「このまま吸えちゃいそう? やったラッキー」
早苗は舌打ちした。
「やはり力任せでは無理ですか」
早苗は足から地面に神徳を流し込んだ。龍脈を伝わって藤の蔓が飛び出し、鎖の一つ一つに巻き付いた。
「建御名方よ! かつて洩矢神を打ち倒したその力を見せよ!」
鎖に赤茶けた錆が広がり、輪の中央から折れた。
「あ、この!」
「困った時の神頼み!」
早苗が地面を蹴り、大きく飛び上がった。大地がひずみ、森が揺らいだ。巻き付いた鎖が解け、伏せる萃香の背中に落ちた。
「ぐえっ……くそ、もう少し持たせるはずだったのに! ごめんよ!」
山のアーチの上にもくもくと雲が積み上がり始め、早苗はそこに飛び込み、姿を消した。雲はさらに厚みを増し、天蓋を覆い、灰色から宵闇めいた黒に変わる。下から響くような雷鳴。
「もしや、あれって」
「積乱雲……」
「あんなのまで作れるのか」
天狗たちも垂直に飛ぶ。集中豪雨が始まった。髪をつたい、下着にまで染み込み、靴が重みを増す。爆弾じみた低気圧のもたらす水滴が鼻に、口に、耳に入り込み、平衡感覚を狂わす。これでは直接水を吹き付けられているのと変わらない。
「えふっ……カメラ、壊れないわよねー?」
「うええ……防水性は大丈夫のはずよ」
「にとりが作ったのです。絶対に大丈夫。しかしこれでは、あまり鼻が利きませんね」
雲へと突入する。椛の千里眼が現在の早苗の位置を捉え、はたての数分ごとの念写が早苗の出方を探る。しばらくは双方とも雲の中のままだ。お互いを視認できる距離を保つ。降水セルはそれ自体がひとつの単細胞生物のようにうごめいている。
椛が鼻をひくつかせた。
「オゾンの匂いがする」
「雷ね?」
「気をつけて」
椛は白狼天狗に指示し、片手剣と盾を捨てさせた。むざむざ避雷針になるつもりはない。
「悔しいが、仕方ない」
「しかしなんで追いつけないのかしら……こっちは全速力よ? いちおう最速を自負してるつもりなんだけど」
「縮尺が百倍ぐらい違うから仕方がないわー。私たちが一メートル進むつもりで早苗ちゃんは百メートル進む。でかい奴は力が強い、つまり加速も早いのよ」
「伊吹様が敗れてもとりあえず強行しましたが、思った以上に厄介なことになりそうですね」
高度三キロメートルに達し、気温が氷点下を下回る。しかし過冷却現象が水の粒を液体に留めている。息をするのさえ注意がいる。もはや水中を泳いでいるも同然だ。どこから聞こえるとも知れない雷鳴がプレッシャーを与え続ける。
数千メートルほど上昇して、椛が叫んだ。
「何か来る!」
蛇符「雲を泳ぐ大蛇」
粒子の塊の間を縫って、白い大蛇が十数匹現れた。それぞれが鎌首をもたげ、西瓜を五個は丸呑みできそうな大口を開ける。三人の鴉天狗が飲み込まれ、二人の白狼天狗が牙で貫かれた。犠牲者たちは真っ逆さまに墜落していく。
「これが目的か! 我々をカメラの通用しない場所に誘い込むために」
さらに死の陽炎に飛び込んだ鴉天狗数名が力を吸われて失速し、乱気流に流されて置き去りにされた。しかし正確にこちらを狙ってなされたものではないようだった。早苗の方もこちらを視認できていないのだろう。
「うう、吸収怖い。しかし早苗に追いつけている証拠……」
また大蛇が現れ、文にその身を巻きつかせた。血管が締まり、息が詰まる。
「きゃっ」
すかさず椛が一本下駄の蹴りを入れた。蛇がひるみ、拘束が解けた。文が息を吐き出した。
「ぐえ、ちょっと、私ごと蹴らないで」
「命あっての物種でしょう」
椛は自分の手のひらを見つめた。指も、腕も、何もかも短い。
「……一撃が軽い。やはり体格の差が響いてる」
七匹の大蛇が続々と現れ、再び文と椛を睨む。椛は唇がめくれ上がるまで笑い、敵に牙を見せつけた。
牙符「咀嚼玩味」
視界を埋めるほどの幅の紅い牙が現れたかと思うと、大蛇の胴体が同時にちぎれ、断末魔の叫びを上げながら輪郭を失った。
「顎の強さなら負けない」
文は改めて感嘆した。妖力を吸われてなおこれだ。この白狼天狗は大変に気難しいが、味方にするとこの上なく心強い。かつて博麗の巫女が九天の滝を襲った時も、スペルカードさえ使わずに二発も霊撃を使わせたとの評判だった。それに偽りはないようだ。
肌が痛みを訴え始めた。雹が上から、横から、軌道を描いて身体を打ち据える。天狗たちはカメラのレンズをしまった。氷の結晶同士がこすれあい、軽いものは上へ吹き上げられ、重いものは下にとどまる。その距離が莫大な電位差を生ずるのだ。
再び数千メートル垂直の旅をすると、また椛が叫んだ。
「また来る」
「なにか分かる?」
「小さすぎる」
氷に混じって、天狗部隊の何人かの額に何かが落ちてきた。
奇跡「ファフロッキーズの奇跡」
白狼天狗の一人がそれをつかみ、手のひらに載せた。見たこともないほど鮮やかに青い蛙が喉を膨らませたり縮めたりしている。
「へえ。なかなか可愛いじゃないか」
「でも幻想郷にはいないぞ。どこの品種だろう?」
「いや、喫茶店に置いてあった図鑑で見たことがある、こいつ」
「ヤドク……ガエル……」
アルカロイドが皮膚を通して神経を侵し、二十分の間に新たに四人が白目をむいて落ちた。
「雲が濃すぎる。どこから来るのか」
また落ちてくる気配がした。椛は腕を額にのせ、頭をかばった。
写真「フルパノラマショット」
タイミングを読みきった三六〇度の念写を受けて、脅威の元が消滅する。椛は自分の手を見た。何も落ちていなかった。
「全部撮っちゃえば関係ないっしょ!」
「恩に着る」
高度一〇キロメートル、マイナス四〇度。六角柱の結晶が肌をなでる。氷の粒は雹とはいえないほどに小さくなっている。下から上昇気流で吹き上がって過冷却された水の粒はここで凝固し、これから重力で降下するにつれて雪や雹の結晶に成長するのだ。
はたては手元のカメラを覗きこんでいた。五分後の光景を移すディスプレイには青空と太陽が表示されている。
「あともう少しよ! 頑張って!」
椛が再び鼻をひくつかせる。地響きのような音が大きくなる。
「……オゾンが濃い! 要警戒」
「とうとう来ちゃったか―」
閃光が奔り、虹彩を貫く。網膜を焼く。雷だ。まず大電流で鴉天狗が五人黒焦げになる。鉄板にぶつかるような衝撃波が飛び、白狼天狗が巻き込まれて三人ほど失速し墜落した。残されたのは椛とはたて、そして文のみだ。
「生きてるといいけど」
「白狼天狗はヤワではありません。それより、早苗が雲を抜けました」
数秒後、視界が開けた。高度一万六千メートル、成層圏と対流圏の境界。ここから先は鴉天狗もめったに飛ぶことがない、未知の領域だ。上昇気流で服が激しくはためき、マイナス七〇度の大気が容赦なく熱を奪う。常人ではまず生存は不可能だ。皆、疲れを見せ始めていた。
「寒い、寒いわー。酸素も少ないし」
「きっと早苗も無理しているわ。大丈夫かしら」
「逆に言うと、私たち空の専門家なら追いつける可能性が高い」
早苗の姿が数キロ先にはっきりと見える。振り向いて文の姿を認めると、何かを唱えるかのように口が動いた。
奇跡「神の風」
早苗の中心から溢れだした神徳が風の姿を借り、天蓋から雲の下まで至る大渦を形成した。対数螺旋を式にそのまま取り込んだかのような美しさ。面積にして幻想郷さえ覆うだろう。
かまいたちが、風の玉が、エアロゾルが、つむじ風が、三人に襲い掛かってくる。
まず三人は散開した。椛は右斜め下に旋回して避けるが、風の玉の隊列が団子状になって追いすがる。
速写モードでカメラを前方に向けるが、発光装置が焼けつくほど連写しても相殺しきれない。
椛は舌打ちし、視界いっぱいに広がるエネルギー弾の竜巻を展開した。しかしその中心めがけて風の玉が殺到し、勢いを徐々に殺していく。相殺するにはもう一発要るようだ。
椛は声を出して気合を入れようとしたが、めまいがそれをさえぎった。血の巡る感覚がぐわんと歪んで頭の天辺から広がり、身体から力が抜ける。
「不覚。体力の残りを見誤っていた……体格がこれでは」
風玉が竜巻を突き破り、椛の身体全体を打ちのめした。
「弱り目に祟り目、か」
帽子が、カメラが吹き飛び、椛の姿が雲のはるか下へと吸い込まれていく。
「椛!」
「射命丸様、逃げないでくださいよ。でないと私が許しませんから……」
さらに五キロメートル進み、早苗への距離を四割ほど距離を詰めた。大渦がさらに大きく見える。死の陽炎が七つほど二人の前に現れた。二人の新聞記者は二回ずつシャッターを切ってこれを突破する。左旋回、右旋回、あらゆる動きを自在にこなす。
大渦の端に到達した。極限まで高まった風圧の歪みが同心円状に衝撃波を起こすが、二人は二重らせんを描いて表面を這うように避ける。陽炎の分布が濃くなる。
音の壁がかまいたちを伴ってはたてに飛ぶ。はたては陽炎を消したところだった。逃げ場がない。
「危ない!」
文がシャッターを切り、はたてへの直撃は免れた。しかしカメラに結び付けられていた紐が切れ、吹き飛ばされたカメラが積乱雲の中に吸い込まれていく。
「カメラがなければ、足手まとい。ここから先は、あんたに任せるわー。いってらっしゃい!」
彼女は手を振り、ゆったりと雲を避けて降下を始めた。
「はたて、今までありがとう!」
「今生の別れみたいに言わないのー! 絶対ゲットしてくるのよ! あんたの好きな人ー!」
文は一人になった。眼下では雲が拡散してフェードアウトしつつあり、切手のような幻想郷が一望できた。博麗神社、魔法の森、迷いの竹林、人里はゴマ粒。さっきまであれほど広く感じていた山の湖は、爪の先を重ねれば覆える程度の大きさでしかない。その周りは地平線の先まで無限遠の、幻想の緑だ。
不思議と恐怖はなかった。髪と、骨と、筋肉が一筋の流れになり、吹きすさぶ風と一体化する、気持ちのよい感覚だけがあった。
さらに五キロ飛んだ。あと一割だ。大渦の中心に飛び込み、抜けた。彼女の上に影が覆いかぶさった。文は上を見据えた。正午の太陽を背にした早苗が、こちらを見下ろしていた。
「こんにちは、私の風の女神様」
「幻想風靡」
蹴る。蹴る。空中を蹴る。一歩一歩が音速を越え、円錐形の大音響を形作る。その反作用で上に進む。
陽炎が発生。気流に巻き込まれて手が激しくぶれるが、なんとかファインダー越しにとらえた。シャッター音、陽炎が消える。紅と蒼のかまいたちもすり抜ける。
早苗と同じ高さに達し、勢いを殺すために裏返るように一回転。すると握りこぶし大ほどの氷の球が肩にぶつかった。肩を押さえ、もんどり打って五メートルほど落ちる。
「っ、まだ何か、切り札が、」文は体勢を整え、前を見た。
早苗は泣いていた。
「来ないで……」
文は唇を噛んだ。
五十メートル圏内に入り、早苗が腕と御幣を振り回してきた。指の一本一本が文の全身の骨を折るのに十分な質量がある。しかし大きいだけに隙だらけだ。文は問題なく早苗の胸の上に近づき、服の繊維に組み付いた。早苗の心臓の鼓動を感じる。呼吸による胸郭の上下だけで振り放されそうだ。
早苗の皮膚の上に、空間の歪みが発生した。しかし文はカメラを構えず、あえて陽炎に飛び込んだ。空気の爆ぜる音がして、文の姿は消えた。
早苗は目を見開いた。
「え……何でわざわざ吸収されに……? 『飛んで火に入る』…… 死んじゃうじゃない。私は贄までは要らない。こんな、こんな……」
それ以上は思考回路が回らなかった。
「空気が……薄い……」
文はふと気づくと、板張りの廊下を歩いていた。
「ここはどこかしら。初めて来る? いや……」
二柱に応接間に連れられる時に見たことがある。守矢神社、早苗の作り出した社務所の原風景だ。実物と違うのは、床から天井に至るまでのすべてがセピア色に色あせていることと、横に吊り下げられたコルクボードに写真がぺたぺたと貼られていることである。生まれた時の写真・霊夢との初戦・魔界探索・霊廟調査・非想天則……
写真の早苗たちがこちらをじろりと見た。文は足を止めたが、それらはそれ以上は干渉してこなかった。また歩き出した。
コルクボードの列が切れた。代わりに現れた掃出窓の外には白い濁流が見えた。文が雲の中を突っ切る時に見る光景にとても良く似ている。早苗が今まで吸収した妖力が血流のように辺りを巡り、唸りをあげているのだろう。
ドアを開ける。もう一度コルクボードの廊下に入った。時系列がより最近のものになっている。半分ほど進むと、写真はすべて文の姿を写したものとなった。寝顔。料理をしている姿。お風呂に入っている姿。可愛らしいもの、凛々しく流麗なもの。文のさまざまな一面を見事なまでに切り出している。自分で撮ってもここまで魅力的には映らないだろう。
「早苗の中では私がこんな風に見えていたのね」
早苗との戦い。羽団扇をかざし、風と落ち葉を自在に操る。カメラを構え、風景を切り取る最高の瞬間を待ち構えている。
「私ったらこんなにもキラキラ輝いていて……少し気恥ずかしいわ」
文は角を曲がり、もうひとつ扉に突き当たった。ドアとその周りには隙間なく文の写真が張り付き、小刻みに震えている。これから入る領域をこじ開け、侵そうとしているかのようだ。
「写真だけじゃ済まさないわよ。これから本物が入るんだから」
文はドアノブを回し、早苗の部屋に入った。ここもまたセピア色に染まっている。
開いたアルバムが床に落ちていた。留められた写真には幻想郷の人間とは違う服装の人々が写っている。外の世界の住人だろう。早苗の隣で笑っているのは、文の見知らぬおかっぱ頭の女の子。歳は十三か十四ほどだろうか。仲睦まじそうだ。文は胸の内にこみ上げてくるものを感じた。
同じような写真が、この部屋には全面に貼られていた。灯りに、箪笥に、学習机に。写真の早苗がこちらを睨む。侵入を許さず、上書きも能わず。
早苗は中心の回転椅子に座って、文に背を向けていた。文が声を掛けると、ゆっくりと回転して振り向いた。頬には涙の跡が残っている。
「何で来たんですか」
「貴方が好きだからよ」
「本当だか分かりゃしませんよ」
「貴方の言うわざとらしい口調も捨てたわ。貴方をなだめるための方便じゃない。間違いなく本心よ」
「どうだか? 私が好きになった人も、女の子が好きだった。しかも二回も続けて。どんな確率でしょうね?」
「好きでもない人のために普通命を賭ける? それこそ極々低確率よね」
これは効いたようだった。早苗は立ち上がった。その顔には意地が現れている。
「もういいんですよ。私が死んだら文さんにあの子と同じ想いをさせなくちゃいけなくなるんです。外に残してきたあの子と。どうせ私は置いてっちゃう。だから私は貴方を好きになっちゃいけないんです」
文は笑った。神になりたいのか人として死にたいのか。早苗の中では無茶苦茶だ。
「馬鹿ね、何を拗ねているの? そんなのいくらでも抜け道はあるの。特にこの幻想郷ではね」
「でも、でも」
文は早苗の肘に掌を触れさせ、それを遮った。
「貴方がもっともっと強くなってちゃんとした神様になれば、私が死ぬまで一緒にいられる。いや、死なない。ずっと生きてあげる。貴方が仙人になっても私は一緒にいる。最悪貴方が化けて出たって私は愛してあげる! 置いて行きたくないのなら、何が何でも永く生きてよ」
反論の隙が無くなってぱくぱくとさせている早苗の口を、文は塞いだ。早苗の頭の後ろを両手で支える。口に含んでおいた睡眠薬が、舌を伝って早苗へと流れ出す。
壁の写真が剥がれた。文の写真が部屋に滑りこんできた。
妖怪の山の湖畔。鈴仙は文の部隊に同行して墜落してきた天狗たちの手当をしていた。その合間に双眼鏡片手に、空で米粒ほどの大きさになった早苗を見守っていた。もう片方の手には文が置いていった薬の瓶が握られている。
「あの天狗の胃袋には、ベンゾジアゼピン系の睡眠薬をたっぷりと詰めた。この薬剤は人間のGABA受容体にあるベンゾジアゼピン結合部位に作用し、脳の働きを鈍らせる。でも妖怪には何の影響も及ぼさないし、吸収されずにそのまま排出される。妖怪に効く薬は人間にはだいたい効かないし、逆もまたしかり。化け物じみた力ではあるけど、貴方のベースはあくまで人間。念のため守矢の二人にも問い合わせた。アレルギーもなさそうだし、普段彼女が使っている睡眠薬と同じだったから、問題なく使えた」
また一人、鴉天狗が落ちてきた。妖怪兎たちが四方に広げた布に落ち、大きく跳ね上がった。
「あの分厚さの皮膚を通す注射針は存在しない。だけど直接吸収させれば話は別。貴方は自分の意志では力を排出できないんでしょ? ならこのまま眠るしかないわね」
空の一点が、マグネシウムリボンのように白く発光した。パンッ! という破裂音と共に雲が晴れ、放射状に虹色の鏃が飛び出した。幻想郷中を覆い尽くす、真昼の花火だった。
妖力を含んだ蛍光色の雨が山の麓に、玄武の沢に、九天の滝に、山の湖に降り注ぐ。
大天狗が二メートル半の巨躯を取り戻し、間に合わせの服が内側から破れた! 周りの視線を感じ思わず股間を抑える全裸中年男性!
地面が盛り上がり、中から諏訪子がもぞもぞと這い出てきた。
「諏訪子、具合は?」
「うん、もう大丈夫。上手くいったみたいね」
二柱は辺りを走り回っている大天狗の方を見た。
「ウオオーッ! おのれ! 服はどこだ! 服は! 服はァー!」
「なかなか……ご立派な……」
二柱は苦笑いした。
同様のパニックが山中で起こっていた。ある河童は急に首周りが太くなり、幼いころに着ていた服に首を締められた。みるみるうちに顔が赤黒くなったが、そばにいた河童が襟に鋏を入れて助けだした。ある天狗は隠れ潜んでいた穴にはまって動けなくなり、五時間経ってから懸命な捜索の末引きずり出された。
はたては背中に気を失っている椛を載せ、自宅の前に降りた。同時に空から破裂音が聞こえたので寝室に駆け込み、椛を脱がせてベッドに横たえた。そのままシーツを被せてやり、自分も服を脱ぎ捨て、机の引き出しから取り出した予備のカメラを持って待ち構える。天井を通して虹が降り注ぎ、二人とも問題なく体格を取り戻した。はたてはその様子を写真に収め、窓の外を見た。
「きれーい。上手くいったのね。よかったよかった」
カメラを折りたたんで閉じ、その音で椛が目を覚ました。起き上がって自分の身体をひと通り眺める。鍛えあげられた四肢、腰、肩幅。満足そうに手を握り、また開くのを繰り返す。
「やはりこの身体が一番。いままで自分の身体を生きていた心地がしない」
文が気がつくと、周りには空しかなかった。慌てて辺りを見回すと、百メートル下に自由落下する早苗の姿があった。今にも雲の下に消えそうだ。
空を蹴り、急降下して抱きとめる。約一.六メートル、元の通りの大きさだ。
抱きとめた衝撃が伝わったか、早苗の目がゆっくりと開いた。
「ごめんなさい」
早苗は文のカメラに手を伸ばし、レンズを文と自分に向け、気流で震える手をなんとか安定させて、シャッターを切った。
「えへへ、初めてのツーショットです」
そういって、また目を閉じた。支えを失ったカメラが落ち、文の首に掛けられた紐にぶら下がって、振り子のように回転した。
「まったく……」
文は周りを見回し、自分たちふたり以外に本当に誰もいないことを確かめた。そして自分の腕に重みをかける柔らかさを感じながら、眠れる女神にもう一度キスをした。
◇ ◇ ◇
三日後。大天狗の執務室。文は扉のそばに立っていたが、大天狗は部屋中を落ち着きなくのしのしと周回して、あらぬ方向を見つめながらしゃべっている。
「射命丸君、君が頼りだ! 君が奴の気を惹いているかぎり、あの化け物が天狗を祟る事は決してないだろう! しかしうっかり怒らせて妖怪の山壊滅、なんて事態は避けなければならんぞ!」
あからさますぎる打算の臭いに、文は嘆息した。しかしかつて自分もそれと同じ態度を早苗にとっていたことを思い出し、口に出すのをやめた。
文は大天狗の鑑札を返し、執務室を出た。飾り石の並べられた庭園を抜け、屋根瓦のついた門を通った。門の護衛が最敬礼している。早苗が待っていたのだ。
「もうオフですね?」
「ええ」
早苗は居心地悪そうにしていた。あれだけの事件を起こしたら、山中の妖怪から恨まれても文句は言えまい。しかし早苗が道を歩いて現れたものといえば、複数人で集まってきて取り囲んで拝むもの、直立不動で敬礼するもの、道端に身を投げだして平伏するものまで出る始末だった。その中には白狼天狗も多く含まれていた。
守矢神社の信仰は失われなかった。むしろ、かえって増えた。『風祝を怒らせると力を吸い尽くされる』との共通認識が広がり、事件の後も山中の妖怪が早苗に信仰を捧げるようになったのだ。
諏訪子いわく。
「結果オーライかしら?」
神奈子いわく。
「あんたに似たんじゃないの? 祟り神だし」
「否定はできないねー」
架空索道は問題なく建設できるだろう。
二人は手を繋ぎ、川の流れに沿って歩いた。イチョウ・コナラ・イロハモミジの落ち葉が地面を彩り、渓流の音が華を添える。これから二人で山を巡るたびに、この景色は様相を変えるのだろう。
恒等式。文×早苗=……答えはこれから見つけよう。
「一回目のデートですね! どこに行きましょうか」
「実はもう決めてあるのよ。渓流のそばのカフェはどうかしら? 友達が待ってるわ」
「二人っきりじゃないんですか?」
「どうしても会って欲しいの。私が貴方を好きって気持ちに気づけたのも、その人のお陰と言ってもいいわ」
「へ、へえー? それじゃ仕方ありませんねー」頬に赤みが差している。ちょろい。文は思った。
「どちらにせよ、あそこの珈琲の味には満足できると思うわ。これから何度も行くことになるかもね」
文は手帖を開き、挟み込んでおいた写真を見た。文と早苗、そして青空。写真の本質とは、時間を超えた空間の共有にあるのかもしれない。
「いい写真だけど、新聞には使えないわね」
まあいい。いずれまた機会はできる。
私はこの子の成長記録者として、いつまでも側に寄り添うことにしよう。
天狗は小さな祟り神を腕に抱いて、悠々と空に飛び立っていった。
(了)
『どうして? 早苗、神社の子だからずっと一緒だと思ったのに! どうしてよ!』
そんな話は聞きたくない。
『ごめん、ごめんなさい!』
彼女は夢の中で泣いていた。あの人も泣いていた。
「うわあ!」
早苗が目覚めると見知らぬ者の家だった。何の変哲もない八畳敷の和室だ。しかし丸窓には鉄格子が嵌まり、本来襖のあるべき場所にも木の格子が嵌まっている。更に両方の格子に何やら赤い漢字を描いた御札がぺたぺたと貼られていた。いわゆる座敷牢だ。
「え、買い出しが終わったから昼寝していたのに! 誘拐? 誘拐ですか?」
「おや、起きましたか」木の格子の隙間から覗いているのは射命丸文だった。積極的には関わらないが、知らぬ顔ではない。天狗の帽子は今は脱ぎ、黒いネクタイも外している軽装だ。
早苗は布団を蹴って起き上がり、木の格子を掴んで前後に揺らした。蝶番がガタガタと音を立てる。
「いっちょまえに監禁ですか! 訴えますよ!」
「何を言っているのです? ちゃんと契約通りにやってるだけですよ?」
「契約?」
「これです」文が格子の隙間から白い紙を差し出し、早苗がひったくった。
「痛い! 指が切れるじゃないですか」文が指を抑えた。
「だまらっしゃい!」紙を斜めに広げる。
『 風祝賃貸借契約書
賃貸人 宗教法人守矢神社(甲)
賃借人 射命丸文 (乙)
上記当事者間において、風祝の賃貸借をするため次の通り契約を締結する。
第一条 東風谷早苗は、自立できるまで射命丸文宅に居住するものとする。
第二条 『東風谷早苗の自立』は、東風谷早苗が八坂神奈子・洩矢諏訪子両名の力を使わずに命名決闘法において射命丸文に勝利することと定義する。
以上、本件契約締結の証として本書二通を作成し、甲乙各一通を所持する。
第一二△季 神無月の五
(甲)宗教法人 守矢神社
(乙)射命丸文 』
「肝心の私の同意がないじゃないですか! こんなの通りますか!」
「ほら、あれですよ。あれ。ホッケとみりん。おいしいですよね」
「法定代理人です! 分かりにくいボケ飛ばさんで下さい!」
文は会心のギャグを一蹴された者特有の表情をしていたが、早苗はそれを無視した。
「どっちみちこんないい加減なの偽物に決まってます! 偽物!」
「確かめたいですか? どうぞ」文が遠隔通信機能付き陰陽玉を差し出し、早苗はそれをもぎ取った。耳に当てるとベルの音が数回鳴り、守矢神社に繋がった。
『はい守矢神社です』
「神奈子様、あの契約書は本物ですか?」
『本物よ』
「マジですか」
『本当ですか、よ』
「言葉も崩れますよそりゃ! 何やってるんですか神奈子様! 今どき小学生だってここまでいい加減な契約書作りませんよ!」
『いいからいいから』
「いいからじゃなくて……ともかく、どういう事か説明してください」
昼の守矢神社社務所、応接間。早苗は買い出しに出かけており、今ここにいるのは残りの二柱と文だけである。
下に青い絨毯が敷かれた机を挟み、三人は二対のソファに座っていた。ドアに近い方に文が、反対側に神奈子と諏訪子。机の上には資料が広げられていた。幻想郷全体を描いた地図の上では、人里から守矢神社へと黒線が真っ直ぐに伸びている。
文は地図を眺めていた。
「これが架空索道ですか」
「知っての通り、私達の神社には人間の参拝客がとても少ないわ。現状でも妖怪からの信仰はそれなりに集まってはいるけど、私達はそれでは満足しない。信仰を得るための市場はまだまだ広い。人間からも開拓しないと」
「ええ、そこまでは以前お伺いした通りですね」
文は手帖を捲り、第百二十四季・霜月の三付の文々。新聞の一面の切り抜きを参照した。見出しには『山の方向性で意見二分』『大蛇と白狼天狗の確執』と書かれている。
神奈子がいくらご利益のある神であったとしても、白狼天狗に追い返されると分かっていて妖怪の山を突っ切る人間はそう多くない。白狼天狗は山を荒らされるのを嫌う。そこで神奈子は人里と神社を直接ロープウェイで繋ぐ計画を持ち上げたのである。これならば人間も妖怪を恐れずに参拝でき、山の妖怪も人間に煩わしい思いをする心配はなくなる。双方にとって利益になる計画のはずだった。
「ところがここでまた天狗。ロープウェイを作るための許可を取ろうとしても、連中ときたら言を左右にするばかりでちっとも進みやしない。私よりずっと年下の癖に頭が固いのよ」
「神奈子が柔軟すぎるんだよ」諏訪子が笑った。
「お陰でこっちは何万年一緒にいても全然飽きないけどねー」
「なるほどなるほど。そこで私に働きかけて欲しいというわけですね」
「見込みはあるかしら?」
文はメモ帳に簡単な天秤のマークを描き、『説得』『Win-Win』『白狼天狗が壁か』などと書き込んだ。
「人間の参拝が増えた結果として山の信仰も増える、という話でしたよね?」
「ええ」
「白狼天狗を始め様々なしがらみに縛られてはいますが、天狗の首領・大天狗様は実利を考えられるお方です。貴方がたへの信仰心が山のためにも利用できると納得すれば、彼から根回しができるかと」
三人は詳しい計画を詰めた。およそ一時間半ほどに及ぶ話し合いだった。座りっぱなしの三人は身体を曲げ伸ばしした。
「ふう。決まりですね」
「では、貴方への報酬も考えましょうか。新聞の肥やしになるものでもないかしら? 新聞大会が近いんでしょう?」
「そうですね。最近ネタがないのは確かです」
「さあ遠慮なく。うまくいけば、貴方は飯の種の恩人よ」
「……ふむ。あえて言うなら、お宅の風祝さんですかね」
「へえ? 続けて」
文は手帖に挟んでおいた封筒から写真を何枚か出し、机の上に広げた。青白く輝く光の粒の奥に早苗が写っている。このスペルカード『蛙符「手管の蝦蟇」』は諏訪子の力を借りたものだ。
「あら、良く写ってるじゃない」神奈子が言った。
「この道は何年も続けてますから。それに素材がいいんですよ」
「おべんちゃら言っちゃって。で、これがどうかしたの?」諏訪子が言った。
「そう、素材はいい。でも、素材だけじゃあ足りないんですよねえ」
文は湯のみから茶をすすり、以前の取材の記憶を反芻した。蛙が連鎖式に蛙を生み出し、閃光となって襲う。確かに強力な技ではあったが……
「単刀直入にいいます。この前取材させて頂いたのですが、彼女はまだまだお二方の力に頼りっきりです。本来の潜在能力なら、彼女はまだまだ伸びしろがあるはず。しかしあのままでは伸びない。もう少し、一人でこなすことを覚える必要があります」
「ほう?」
「私は彼女を育ててみたい。そうやって私から稽古を付けて、早苗さんが独り立ちするまでをドキュメントにしたいと思います。私は新聞大会のためのネタを得て、そちらは風祝の未来と信仰の種を得る。いかがです? 双方に良い取引です」
神奈子は舌を巻いた。神奈子が諏訪子と二人で何年も育ててきた結果として最近見えてきた問題を、この天狗は短いやりとりで見抜いたのだ。胡散臭いながらも、その慧眼は認めざるを得ない。
「諏訪子、どう思う?」
諏訪子は顔を傾け、頬に掌を当てた。
「……うん、稽古という名目ならいいんじゃないかな。神奈子とあんたは遠い親戚だって話を読んだことがあるし、意外と相性がいいかもよ?」
「え?」文が驚き、神奈子がぎょっとした。
「資料は色々漁った。私達の基準から見ても大昔のことだし、正確な記録は残ってないから良くは分からないんだけど。あんたら天狗の祖先・サルタヒコは、神奈子の親のオオクニヌシの兄に当たるんじゃないかって。つまり神奈子とあんたは遠い遠いいとこ同士って事ね」
「ちょっと諏訪子!」
「神奈子は全然教えてくれないんだけどねー。中央の大和の神々にとって、なんかしら都合が悪いから隠蔽されたんじゃないかなって私は踏んでるよ。今の神奈子の反応を見ると、当たらずといえども遠からずって所かな?」諏訪子はニヤニヤしていた。神奈子はそっぽを向いた。
「へえ……」今度は文が驚く番だった。天狗は一般に社会性が高く、賢い種族である。しかしその知識について言えば、自然の中で自ら見聞きし体験して得たものや耳学問に偏っている。人間や魔法使いと違い、天狗には既製の知識を体系的に取り込む習慣がないのだ。それで天狗の社会は無事に回っているのだから別に良い、所詮は机上の空論だと小馬鹿にする者も天狗には多い。しかし少なくともその利点については文は軽視していなかった。この神は見かけによらず教養がある。自分にはないものだ。
「おほん。ともかく、天狗式の風の操作法を教えてもらえればこちらとしても助かる。よろしくお願いするわ」
「了解しました。しかし彼女、素直に稽古をつけさせてもらえますかね?」
「あの子は基本素直だから。貴方の教えが役に立つとなればぐんぐん吸収してくれる思う」
「他人に影響されやすいとも言う」諏訪子が言った。
「その代わりといってはなんだけど、ロープウェイの方の便宜、よろしく頼むわよ」
「はい、お任せください! 上手く働きかけてみせましょう!」
『……というわけよ』
「ワイローッ!」早苗は絶叫した。
『これも参拝客を増やすためよ! 貴方のためにもなることだし。頑張ってね早苗ー』
ぶつり。通信が切られた。早苗はぷるぷると肩を震わせ、文に向き直った。
「収賄で告発します! 確か妖怪の山には大天狗って偉い人がいたはず!」
「どうぞ」
文は早苗の手の届かない距離で一枚の写真を見せた。天狗の集落での宴会のようだ。テーブルにはつまみの乗った皿が散らばって置かれていた。中央には天狗装束に身を包んだ堂々たる風格の中年男性がおり、その手が持つ盃に神奈子と諏訪子が酒を注いでいる。美女と美少女からの接待を受け、長鼻で鼻歌でも歌っていそうな様子だ。
「トップ抑えられてるーっ!?」手遅れだ。根回しは完璧である。この天狗の狡猾さを早苗は呪った。
「というわけで、私の特集記事に協力してくださいね♪ 名づけて『東風谷早苗のドキドキ成長物語(妄想)』!」
うわあ。
「こんなの晒し者です……」早苗は肩を落とした。
とは言うものの、壁を感じているのは確かだ。早苗は思案した。霊夢・魔理沙・妖夢・咲夜。幻想郷には早苗と同程度かそれ以上に強力な人間が沢山いる。この間の付喪神の暴走など早苗の出る幕もなく解決してしまった。だから実力者に稽古をつけてもらえるのは早苗にとっても願ってもないものではあったが、それをこの得体のしれない新聞記者にされるのは癪だった。
「さあさあ必要な何でも取り揃えて差し上げますよ。貴方は勝つことさえ考えていればよいのです。私こう見えても料理は上手いですし、風呂と寝床は快適そのもの。技の開発の材料や考察に要る資料はいっぱい用意してありますし、足りなければ山の図書室や神社からお運びします。練習が必要なら手前味噌ながら鴉天狗として千年のキャリアを持つ私がご相手しましょう!」
手合わせ、と聞いて早苗は顔を上げた。
「要は貴方に勝てば良いのでしょう?」
「お? 早くも挑戦しますか?」
「ええ、さっさと貴方を退治して凱旋するとしましょう」早苗は鼻を鳴らした。
「そうとなれば善は急げです」
文は座敷牢の錠を外した。
「ここなら十分な場所が取れそうですね」
妖怪の山の中腹、鴉天狗が居住している地区の近くには開けた場所があった。お馴染みの楓の他に、イヌシデ・コナラ・ケヤキなどの樹木が広場を取り囲むように立っており、それらより少し低いシラカシの木にはクズが絡みついている。広場の端にぽつりぽつりと立つ低木の根本には、石菖の細長い葉や熊笹が陣取っていた。地面には薄緑色・黄色・薄紫色などの落葉樹の葉っぱがカーペットをなしている。
二人は広場の端から端まで三分割するように向かい合っていた。早苗は巫女服で、文は軽装のままだ。
「では、レディー・ファースト。そちらからどうぞ」
「貴方が私をレディー扱いですか。舐めきってますね!」
早苗はステップを踏み、合わせた両手に御幣を立てて儀式のための詠唱を開始した。すぐさま文が横薙ぎに扇を一閃。その先からかまいたちが二列発生し、絡みあうように地面を走り落葉を巻き上げる。早苗は横飛びに避け、かまいたちが背後の低木の枝を三本切断した。文が走って飛び込み更なる妨害に掛かる。早苗はその鼻先に五芒星の壁を召喚。詠唱時間を稼ぐ。しかしこれを文はあっさり飛び越えて躍りかかった。早苗は背筋を震わせた。斜め後ろで枝が地面に衝突し、落ち葉が擦れ合う音を立てる。
「詠唱にそんなに時間を掛けていては私のスピードには追いつけませんよ!」
早苗はお札を三枚飛ばして牽制しながら横に逃れ、出来た隙間へと風を滑りこませて跳躍。アカメガシワの幹の枝分かれ部分に飛び乗る。
秘術「グレイソーマタージ」
五芒星のカーテンが早苗の周りに展開された。文は一本下駄でアカメガシワの幹を蹴り、その勢いでバックジャンプを決める。枝を通って早苗の足に衝撃が伝わる。しかしこれを読んだ早苗は振り落とされる直前に飛び退いた。早苗の眼下で五芒星の辺がほぐれ、米粒のような光の欠片に分解して文の頭上に降り注いだ。文は広場中を駆けまわり流星のシャワーを逃れる。一本下駄の歯がケヤキの葉や小石をそこら中に跳ね散らしている。
「はっ! そんなに動きまわらないと避けられないだなんて、余裕が無いんじゃないですか?」
文はニヤニヤしていた。早苗は眉を顰めた。
文は広場を半周した辺りで扇を三回振り、竜巻を呼び起こした。太さが早苗の腿ほどもある枯れ枝、地面に埋まっていた小石、土埃が巻き上げられ早苗を襲う。早苗は御幣で薙ぎ払ってこれをいなした。
文が広場を一周し、地面を蹴って大きく跳躍。木々の枝の天幕を抜け、早苗の頭上に達した。そのまま渦状に赤と青のエネルギー弾の輪を振り撒く。最も弾の密度の濃いのは文の周辺であり、早苗はそこから離れて地面に降りざるを得ない。今度は早苗が逃げ惑う番だ。文はエネルギー弾の放射を三巡させて地面に降りた。今度は広場の対角線上を猛然と横切る。落ち葉が文の膝の高さまで飛び跳ねる。
「うふふ、さっきからおかしいとは思いませんか? 貴方」
「さっきから? 貴方の頭がおかしいのはいつもでは?」
「何でこの私がわざわざ地面で戦っていると思います? 貴方を地に引きずり下ろしてまで?」
風神「風神木の葉隠れ」
文は落ち葉の絨毯に足を踏み下ろした。広場の地面全体が一瞬だけ震え、空気の弾けたような乾いた音が鳴り響く。それを合図に早苗の足元の落ち葉がぶわりと舞い上がり視界を遮った。
「あ、この!?」
土埃を吸い込んだ早苗は咳き込み、風を召喚して振り払う。しかしその時には文は視界から消えていた。どこから来る?
「後ろです!」
横蹴りが飛ぶ。早苗は危うい所で前のめりになって逃れるものの、滑る落ち葉で足がもつれ、つんのめって転んだ。危ういところで前受け身をとり、振り返るとまた文が消えている。イチョウ・コナラ・イロハモミジの落ち葉が海を泳ぐ小魚の群れのように宙を舞い、早苗の視界を三六〇度遮っている。
早苗は今頃になって文の問いの意味を悟った。文は地面に降りるたびに意識的に落ち葉の密集地帯を踏んでいる節があった。足裏から伝えた妖力をそこら中に撒いて木の葉を操っているのだろう。まんまと地形を利用された形だ。
「左ぃ!」
木の葉の寄り集まった矢尻が六つほど、早苗に向けて弧の軌道を描き滑空する。早苗は身を捩って直撃は免れたものの、散った葉が何枚も身体にまとわりついた。早苗は頭上からつま先に向けて空気流を作り、静電気を逃がすように木の葉を引剥がした。しかしまだまだ周りからは木の葉が流れ込んでくる。どうしても受け手に、守勢に周ってしまう。早苗は上に逃れようとするも、やはり宙の木の葉がバネのように抵抗力を伝えて阻む。
「右です!」
風球が足を掬い上げ、早苗は宙に巻き上げられた。赤黄のモザイクの向こうに、落ち葉の幕を纏った文の影が見える。色濃く妖力を伝えられた葉をぶつけるつもりだろう。もはやこれまで。
蛙符「手管の蝦蟇」
早苗の目の前に光球が発生する。その表面には青い電撃が奔っていた。しかしそれが弾ける前に文がすり抜け、一足飛びに距離を詰めて早苗を突き飛ばした。早苗は落ち葉の山へと頭から突っ込む。同時に文が地面を垂直に蹴って飛び、蛙の泳ぎ去るような光球の炸裂を逃れた。守矢神社の二神が一柱・洩矢諏訪子の神徳の顕現だ。
「ブッブー! 神様の力に頼ってしまいましたね? 失格です」
再び地面へと降りた。落ち葉の山の中から早苗の右腕だけが伸びている。こんもりとしたその山の前に文は降り立ち、手を伸ばして助け起こしてやった。早苗の身体からばさばさと葉っぱが落ちる。
早苗は膝をついていた。認めざるを得ない。惨敗だ。
「なんでこんなに強いのにわざわざ私に関わり合ってるのですか? ネタなんてどこにだって転がってるじゃないですか」
「貴方が未熟だからです」
「さらっと言いますねえ、随分なことを」
「そう、さらった人間の成長こそが我らが天狗の喜び! むしろ未熟で結構! 出会った子供を守り育てることは我々の伝統なのです!」
未熟。未熟。あまりにも押し付けがましい。早苗は膝立ちのままそっぽを向いた。文の言葉は早苗にぐさぐさと刺さり、気分の良いものではない。
「何を拗ねているのですか? 貴方には成長の余地があると言っているのです。ここで壁を乗り越え、あと数十年たったら一体どれ程の実力を身につけていることでしょう。これは喜ぶべきことではありませんか?」
文は早苗の顔に手を伸ばし、文の方に向かせて顎を撫でた。その視線も早苗を撫でる。宝石の原石を扱うかのように。
「磨けば光る、うふ、うふふふふ」
早苗は息を呑み、顔を背けた。頬の血流が増えるのを見られる前に。文の薄っぺらにさえ感じられる笑みを見て、図らずも綺麗な人だ、と思ってしまったのだ。
「顔が近いですよ」
「近づけているのです。貴方がよく見えるように」
「わざとらしい」
それでも、早苗は差し出された手を取った。
夕方になり、二人は食事の準備をしに文の自宅へ戻った。早苗はダイニングキッチンに踏み入れ、感心したように顎に指を触れた。外の世界とくらべても遜色ないどころか、平均的な水準を上回ってすらいる。ダイニングテーブルをL型に囲むキッチンには、換気扇や流し台・水道の蛇口はもとより、食洗機まで備え付けてある。外の世界とは形や色は異なるが、炊飯器や冷蔵庫・電気ケトルに相当するものもある。ただしガスコンロとオーブンの燃料だけは、ガス管ではなくボンベから供給しているようだ。
「ディッシュ・ウォッシャーなんて、ウチにだってないのに」
「ふっふっふ、妖怪の山の技術です」
「電気も水道も下水道も……どんだけ進んでるんですか」
「河童に頼めばやってもらえますよ。我々天狗と河童は幻想郷で最も豊かな生活を送っている種族と言っても過言ではありません。物質的にも、精神的にも」
後者は知らないが、少なくとも前者については早苗も認める所だった。
「待っててくださいねー。今作ります」文は冷蔵庫から人参やら筍の水煮やらを取り出した。
「あ、私もてつだ……」
「貴方はゲストです」ぴしゃり。早苗は新聞や本でも読んで待つことにした。
テーブルの周りには網の背もたれとクッション付きの椅子が四つあり、その内の一つに早苗は座らされた。テーブルはクルミを切り出したもので、刺繍の入ったテーブルクロスが掛けてある。独りで使うには大きい。辺りに包丁の音が響く。
「やたらと広いですね」
「めったにはありませんが、誰かを呼ぶ時にはスペースが要りますからね。でも外の世界のお金持ちって、使いもしない浴室を五つも六つも備え付けてるんでしょう? 私の家なんておとなしい方ですよ」
誰かを呼んで、何をするのかしら? 早苗は浮かんだ疑問を無視し、文々。新聞の最新号を読もうと後ろから二番目の社会面を広げた。『白狼天狗連、開発反対デモ』『守矢神社に抗議』。早苗は見出しを見ただけで首を振り、脇に置いた。私がいない間にまたあいつらが来ないといいのだけど。代わりに神社の史料館から運ばれてきた本を書見台の上に載せる。しかし三ページ目を開いた所でまたもや首を振った。ガスコンロの上で熱を発する手鍋から椎茸の出汁の匂いが漂い、空腹を訴える脳髄に直撃して集中を乱す。だがそれだけではない。エプロンを着けて味見している文の後ろ姿が視界の隅にチラチラと見え、何となくそわそわして落ち着かないのだ。何か話でもしよう。
「そういえば、昼間寝ていなくてよかったんですか?」
「修行中の生活リズムは早苗さんに合わせますよ」
やれやれ、至れり尽くせりね。早苗は思った。
出来上がった料理がテーブルの上に運ばれてきた。メインは根菜と豚の挽き肉の時雨煮。蓮根・人参・筍などの根菜と一緒に椎茸とこんにゃく・きくらげが煮汁の中に浮かび、そこに絹さやが彩りを添えている。副菜はほうれん草の和物に里芋の煮物。味噌汁の中には大根と油揚げが漂っている。
「頂きます」「頂きます」
早苗はまず時雨煮を口に運んだ。みりん醤油とだし汁を吸い込んだ人参の甘みと、ごま油の香りが口の中に広がる。
「美味しい……?」
「そんな意外そうな顔をしないでくださいよ、傷つくじゃないですか」
「いや、そういう意味ではなくてですね。素材の問題なのです」
「というと?」
「外の世界の品種改良された食材に今まで私は慣れてきました。だから百年文化レベルの違う幻想郷だとどうかなーっと思っていたのですけど。ここに入ってからはドタバタしていたので忘れてましたが、改めて考えるとここの野菜も外の世界と全然遜色ないなと」
「ふふふ。そこはですねー、結構融通が効くんですよ。外の世界から味の良い品種を持ち込んでくれる妖怪がいましてね。多少旬を外しても保存も効きます」
「へえ?」
「それでも海のものは高級品なので滅多には使えませんけどね。出汁はだいたい干し椎茸ですし、外の世界のレシピ本を貰っても昆布とか青のりとかはメニューから外します」
「ふーむ……」
早苗は味噌汁を飲み干した。季節早めの大根には味噌と椎茸の出汁が良く染みこんでおり、そのうま味を存分に伝えていた。
「こっちの里芋とか日本酒にも合いますよー」文は猪口を差し出した。
「私はあんまり呑めないので」
やがて全ての器が空になった。早苗は皿洗いを手伝い、それは文も断らなかった。油汚れには石鹸を使った。
ひと通りの洗い物を終え、(とはいっても、使った食器を食洗機に突っ込んでスイッチを入れるまでの事だったが)早苗は板張りの廊下を渡って別の部屋に案内された。文は襖を開いて手を壁際に突っ込み、電灯のスイッチを入れた。墨とインクと古い紙の匂いが漂ってくる。
書斎は和風だった。畳張りの部屋の奥の障子窓の前には文机。その上には墨やら筆やらインクやらの用具が並べられている。横の壁を埋めているのは和綴じ・洋綴じを問わず新旧様々な書物を収める書棚だ。しかし、ところどころに隙間が抜けている。重要な資料は早苗の手の届かない所にしまってあるのかもしれない。早苗は文机の前の紫色の座布団に座らされた。
「では、これから風呂の準備を始めるので。役立ちそうな資料は揃えておきました。ごゆっくり読んで下さいね」
文は書棚の前に書物の束を置き、縛っていた紐を解いた。守矢神社の資料庫にあったもので、早苗を引き取る際に神奈子と諏訪子から受け取ったと言う。
早苗は資料集を開き、鹿の首の剥製の写真や、串刺しにされた兎の挿絵などが印刷されたページをぱらぱらと捲った。祀っているのが狩猟神だけあって、その祭礼には現代の価値観では猟奇的に映るものも多分に含まれる。だが早苗にはとうの昔に見慣れたものだ。
諏訪信仰の秘儀は早苗の両親の代で絶えたと公式には記録されている。しかしその秘伝は早苗が幻想郷に来る以前に、母親の口を通して早苗の頭脳にしっかりと収められていた。改めて思い出すまでもない。これらの資料も儀式の核心はぼかされ、予め必要な知識がなければ意味の分からないように作ってある。つまり早苗以外には理解できない。あくまで視覚情報として体系化されたものを見ることで、枝葉末節の知識の確認とインスピレーションの源泉とするのだ。
白蛇の群れを諏訪子らしき祭神が使役している挿絵に差し掛かった辺りで、背後で襖の開く音がした。
「お風呂空きましたよー」振り向くと文だった。濡れた髪が電灯に照らされて輝いている。
徐々に肌寒さを増す季節ゆえに、肌襦袢に包まれた肢体からは湯気が立ち上っており、その頬は上気してつやのある桃色となっている。早苗は咳払いした。
「着替えはこちらです」文は早苗のエナメルバッグを渡した。
「随分と用意がいいですね」
「二柱が送ってくださいました」
「また、勝手なことをー」
浴場は檜風呂だった。浴槽の周りには玉砂利が敷かれ、窓に張られたすりガラスには紅葉の模様が刻まれている。黴の匂いはせず、黒ずみも見当たらない。よく手入れされている事が伺えた。
湯船の中で、早苗は今日のことについて考えていた。ゆっくり浸かるには熱すぎない程度の湯加減のお陰で、思考の方もぐるぐるとよく回る。あそこでああしていれば、そこに牽制を挟めば……広場を縦横無尽に駆け回る文の姿に混じって、台所で味見をしている時の彼女のそれがちらつく。
そういえば、これも彼女が入った後のお湯だ。
「……のぼせない内に早く出ましょう」
早苗は風呂から上がり、座敷牢の中で就寝の準備をしていた。敷布団を敷いていると蝶番のきしむ音がなり、文が入り口をくぐって入ってきた。
「あ、私のスペースも空けておいてください」文は押入れから自分の分の布団を取り出した。
「ちょっと。何で貴方が中に入ってくるんですか」
「寝室を潰して座敷牢を作ったので、私の寝るスペースがなくなってしまったのです。一緒に寝ましょう」
早苗はツッコむのをやめた。
消灯。雨戸を閉めたために部屋の中はほぼ真っ暗闇だ。
横を見ると、文は早くも寝入っている。急に生活リズムを変えたのに良く眠れるな、と思った。妖怪も流石に疲れたのだろうか。
早苗は文の髪に手を触れた。文が横を向き、その吐息が早苗の手に触れる。早苗は手を引っ込めた。
「何を考えてるの、私」
正直に言ってしまえば、早苗に昔からそのケはあった。諏訪で過ごした中学生時代。故郷から遠く離れた今となっては淡い思い出だ。
しかし二度目のそれがよりによって得体のしれない天狗? ありえない。ストックホルム症候群じゃあるまいし。
でも、落ち葉の舞う中を疾走する文の姿は美しかった。文の振る舞ってくれた料理はおいしかった。それは否定できない。早苗は文の吐息の触れた手で顎の、先ほどの闘いで文に触られた辺りを撫でた。胸の奥でじんわりとする感覚の正体を確かめられないまま、早苗は眠りに落ちた。
二日目は座学で過ぎた。書斎の文机の横には、昨日文が守矢神社の倉庫から持ってきた儀式の資料に加え、スキマ妖怪著のスペルカード公式ルールブック、館の魔法使いの記した精霊魔法の入門書、九尾の狐の書き上げた式神構築の演習書が積み上がっている。それら幻想郷の叡智の蓄積を、早苗の元々持っていた力とどう組み合わせるかが目下の課題だった。
文は部屋の真ん中に立って口舌を振るっていた。どこから持ってきたのか、横には脚と車輪が付いた黒板を置いている。
文は黒板に張られた紙に箇条書きで印刷されている『一つ、美しさと思念に勝る物は無し』を指さした。
「スペルカードとは即ち個性の表現です。貴方が今まで学んだこと、体験したこと、喜び、悲しみ、怒り……そういった貴方を構成する要素の全てがスペルカードには反映されるのです」
恒等式。思念=個性。しかし早苗の視線はその隣の『一つ、完全な実力主義を否定する』の方に吸い込まれた。まるで本気でやりあえば早苗は文に敵わないとでも言いたげだ。早苗は掌で額をこすった。
「狭い狭い幻想郷。この枠を壊すに足る力を持つ存在は山ほどいます。ですから何人たりともその力をみだりに使ってはなりません。しかし流れぬ水は腐り、油を差さねば機械は錆びる。周りに全く影響を及ぼさない妖怪など、存在しないも同然。どこかで水を流してやる必要があるわけです。定期的に、その存在の特徴を最大限引き出してやる。しかもなるべく無害なレベルで。そこで提唱されたのが、今日広く行われている決闘法というわけです」
文は『決闘の美しさに名前と意味を持たせる』を指さした。
「技は体系だった、一定の法則からなっています。複雑であればあるほど複雑な式を組む必要があるわけですね。早苗さんの場合は儀式が主なので、詠唱が長ければ長いほど複雑で大規模な式を組むことが出来ます」
文の指が移る。『意味のない攻撃はしてはいけない。意味がそのまま力になる』
「意味は力で、法則とは意味の体系です。組んだ式が大掛かりであればあるほど、大きな意味を込めることが出来るというわけです。込められた意味の大きさが技の美しさに直結します」
美しさ、と聞いて、早苗の脳裏に昨日の文との闘いの風景が浮かんだ。扇を振るって風を自在に操る文。早苗を飛び越えて青空に跳躍する文。落ち葉に塗れた自分に手を差し伸べてくれた文。
恒等式。美しさ=文。導く根拠は……そこまで考えて、早苗は顔を伏せ、両手で頭をガリガリ掻いた。
「どうしたのですか?」
「ちょっと気が散っただけです」
「顔でも洗ってきます?」
「結構!」
そうムキになることもない、早苗は自分に言い聞かせた。美しさ、そう美しさ。同じ技を使うわけにはいかなくとも、目標にするのは悪いことではないはずだ。少なくとも美しさで文は早苗に勝ったのだから。
「まあ、いいでしょう」文は黒板の磁石の一つを外し、そこに留められていた封筒を手に取った。
「とはいっても複雑さが即ち美しさ、というわけでもありません。むしろ単純な方がより美しいことも多いでしょう」
文は封筒から写真を取り出した。写真の裏には『凍符「パーフェクトフリーズ」』と印刷されている。早苗も宴会で、このスペルの考案者に勝負をふっ掛けられたことがあった。その場では軽くあしらったが、凡百の攻撃の中でこのスペルだけは一際目立っていたので印象に残っている。
「『自分の出した弾を凍らせる』というだけのシンプルなアイデアですが、不自然な冷気としての彼女の性質を最も良く表したスペルです。実際パーフェクトフリーズはチルノのスペルの中ではもっとも強い。このように最も単純な発想が最も大きな力を持つということは十分にありえます。濃密な中身を持ちながらも、その範囲で出来る限りシンプルに。これが命名決闘のコツです」
早苗は外の世界で遊んだゲームの事を思い浮かべた。ゴテゴテと飾り立てた大型ゲームもそれはそれで魅力的だが、より単純なゲームのほうが奥深い魅力を持ち、かえって広く遊ばれている事も多い。
「プログラムみたいなものですね」
「プログラム……?」
「外の世界で言う式みたいなものです。それを使うと、単純だけれど繰り返すには面倒な事をやらせたり、暇つぶしの遊び相手にすることが出来ます」
「ああ、聞いたことがあります。何でも将棋で自分を負かす式を組む事に情熱を燃やしている変人がいるとか?」
「自分で動くからくりは万国共通のロマンです」
早苗は外の世界のロボット事情について語りだしたが、適当な所で文がそれを押しとどめた。
「ふむ……しかし考えてみれば、それが結構馬鹿にならない。そういった人たちは、知性そのものへの探究心を式を通して表している事になります。形を変えた弾幕といえるでしょうね」
恒等式。関心=思念。
「ですから、普段から自分を表すものは何か、と意識しておくことが肝要です。私なら乗る風の爽やかさ、氷精なら蛙を凍らせる時の楽しさ、何でもいいから自分の興味を拾ってみましょう」
「私の個性、ねえ」
自分は自分だと思っていても、いざ自分の個性は何か、と問われるとはっきりと主張できる者は少ない。種族が個性に直結している妖怪と、人間の早苗とはそこが違った。
「まずは型を復習してみましょう」
数式いじりはしばらく続いた。やや高度な演習が続いたが、理系としては比較的上手くやっていた早苗には適応できないものではなかった。演習の答えを確認するとき、文はわざわざ直接解答の載っているを指さしで見せてきた。顔が近い。黒板に書けばいいのに。早苗は心中で首をかしげた。
三日目。二人は再び広場にいた。早苗と文はそれぞれ青とあずき色のジャージ姿だ。庭にシートを敷いて、その上に立っている。
「体術も大事です!」文が言った。
「大事なんですか」
「決闘法にも色々あるのです。この前私が取材した天人は徒手格闘が中心でした。それはもう天下無双でしたとも」
「で、殴るんですか? 投げるんですか?」
「人間が妖怪相手に闘うなら柔術が良いでしょうね。あれなら力の差をある程度ひっくり返せます。まず後ろから襲われたのを想定した訓練をしてみましょう」
まずは柔軟から。胡座をかいて股関節の上下。手首や各関節の曲げ伸ばし。次に基本動作の練習。タイミングよく軽く屈伸。腰を沈めて、腕を上げる。
受け身の練習。胡座をかいて後ろに倒れ、足を前に出す。受け身には、後ろ向きに背中の衝撃を分散し、頭部への衝撃を遮断する役目がある。前受け身では立った状態から前方に一回転するが、原理は後ろ受け身と同じだ。
二人は組み技を始めた。文は早苗の後ろに立ち、両手で早苗の両手首をそれぞれ取った。
「さあ、このままだと膝で蹴られて腰骨か尾てい骨をやられます。どうします?」
少しもがいてみるものの、文の握り方はしっかりとしていて動かない。やってみれば分かるが、身体のちょっと後ろ側に腕を取られただけでも非常に不安定な体勢になる。
(自分の力だけでどうにかしようとするから不要な力が入る)
早苗は背中を文の前に密着させた。基本動作通り腰を沈め、両手の指先を上に向ける。
(力まずに、かつ腑抜けにならずに)
早苗は左足を前に出し、文の身体が前へと通るルートを作る。同時に指先がするすると上へと伸びる。
(相手の力を利用して……投げる!)
靴紐を結ぶように腰を屈める。挙げたままの両腕が前へと伸び、伸びきって無抵抗になった文の身体が前に吹き飛んだ。
(練習通りだわ)
文は前に一回転して受け身を取り、早苗の所に戻ってきた。
「上手いですね。どこかで習いましたか?」
「ええ。これでも大会で結構いいところまで行ったんですよ?」
あの人と一緒になったのも護身術の稽古だった。小中学生のクラスの受講者は本人が自分から望んだ者よりも親に言われて通っている者がずっと多い。つまり親が子に護身術を身につけさせる必要を感じたということである。それは早苗のように本人が将来重要な地位に着くことを約束されているか、あの人のように短躯で、何の心得も身につけさせずに社会に出すには不安のある者が多かった。
(もう、こんな時にあの人の事を思い出すだなんて)
「では今度は私が投げます」文は早苗の前に背を向けて立った。早苗が鼻が文のうなじの辺りに来た。
(あああ近い! 匂いが!)早苗は腰上から力が抜け、あえなく前へと吹っ飛ばされた。危うい所で前方に回転受け身を取るが、背中全体に分散するはずの衝撃が腰に偏った。うめき声を挙げてうずくまる。
「ちょっと、いくらなんでも力が抜けすぎですよ。どこか具合が悪いのですか?」
「いえ、なんでもないです」早苗は生きた心地がしなかった。
「どうです? 座学ばかりで煮詰まった頭にはいい気分転換になったのでは?」
確かに煮詰まりは取れたが、早苗は代わりに煮立っていた。主に顔が。
残念な事に今日も風呂は別だった。正確には、早苗にとっては残念半分安心半分だった。
消灯時間。早苗は掛け布団に顔を埋めながら、横たわってすぅすぅと寝息を立てる文の方をちらちらと見ていた。どうやら認めざるを得ないらしい。
(完全にやられたわ)
恒等式。美しさ=文。導く根拠は自分の心。最初から分かっていても良かったことだ。
早苗は文のために夕食を作っている所を布団の中で想像した。季節の食材を使った料理。一口食べるごとに彼女は顔を綻ばせる。早苗が今見つめているその口で咀嚼し、飲み込んでいく。『ごちそうさま』と微笑みかけてくれる。そのイメージは楽しく、容易には振り払えなかった。
早苗はその想像をいつか実行に移すことに決めた。やがてめくるめく妄想の振り子が疲労のために静止して、深い眠りに落ちていった。
四日目。資料を探して早苗がそろそろと書斎に入ると、文は机に向かって何やら作業をしていた。膝と手をついて後ろから覗き込む。彼女はブラシでカメラのボディを撫でている。机の上には細々とした部品が散らばっている。どうやら手入れらしい。早苗に気づいている様子はない。
レンズを外して机の上に並べた辺りで、早苗が口に出した。
「そのカメラ、どういう風になってるんです?」
「うわおっ!?」
文が振り向き、その拍子に手から滑り落としかけて慌てて向き戻る。
「いきなり話しかけんで下さい。繊細な作業中に!」
「すみませんすみません。でもどうしても気になりましてね」
「あ、ちょっと待って。あんまりしゃべらないで。つばが飛びます」文がカメラを後ろ手に隠し、早苗の眼がそれを追った。
例のカメラは早苗との練習でも何回か使われたが、早苗が起こす雨粒であろうと風であろうと、それに写された攻撃は跡形もなく消えてしまう。不思議そのものだ。
「見せてくださいませんか?」
文は数秒思案顔をしていたが、早苗の興味津々の視線を前に首を横に振った。
「仕方ありませんね。横で見てるだけならいいですよ。その間はしゃべらないで下さい。貴方にとってはさして面白いものでもないでしょうけど」
空気袋で大きなホコリを吹き飛ばし、小さな布でレンズを中心から外側へと渦巻状に拭く。綿棒、楊枝と徐々に清掃の道具が小さくなる。慣れ親しんだペットを毛づくろいするように丁寧に、丁寧に汚れを取っていく。そのゆっくりとした手つきを見ていると、早苗は何かむずむずとする感覚を覚えた。
仕上げに全体を別の布で拭くと、部品を元通りに組み合わせて樹脂製の防湿ケースにしまいこんだ。文は緊張を解いた。
「ふう。終わりました。退屈しませんでした?」
「いえいえ。で、一体全体どういう仕組みなんですか? 攻撃を消すだけなら、カメラじゃなくていい気がしますけど」
「いやいや。むしろカメラでないとダメなのです」
「はい?」
「気になりますか~?」
「気になります~」いつもの調子を戻したようね、早苗は思った。
「では説明いたしましょう。昔は写真に撮られると魂を抜かれると言いました」
「外の世界ではとっくに廃れた迷信ですね。それが?」
「ところで弾が消えた時、びっくりしませんでした?」
「はあ、まあ驚きましたけど」
「たまげましたよね~」
「はい、魂消ました。何が言いたいんですか? ……あ!」
「そう、気が付きましたね? タマを抜かれるということは魂消るに通じます。おったまげると魂消る、つまり弾が消えるのです! これはそんな幻想入りした迷信の原理を組み込み、利用したカメラなのです。多分外の世界では使えません」
「そんな理屈、ありなんですか?」
「詳しくは河童に聞いてください。私は知りません」
「……はーい。今度聞いてみます」
早苗は立ち上がり、辺りを見回した。
「そういえば、ここには何をしに?」
「ええ、ちょっと間違えて本棚にしまった資料があるはずなんですけど。確か諏訪子様の使役する蛇の神様に捧げる儀式の様子を収めたもののでした」
文が頬をぴくりとさせるのをよそに、早苗は本棚に視線を移した。
「あ、あったあった、これです!」早苗は本棚に手を突っ込んだ。
「あ、私が取りますから! 早苗さんは下がっててさい」
早苗がかまわずに資料をつまみ出すと、その摩擦に引っ張られて掌に収まるサイズの和綴じのメモ帳がばさりと落ちた。この前は本棚に収まっていなかったものだ。早苗は開けたページの最初の数行を読んだ。
「あら、ごめんなさい」
早苗が数行も読まない内に、文が手で覆って隠した。
「……見ました?」文は振り返った。
「可愛い字……」
「うっ」
「文さんの字って可愛いんですねー」早苗はニヤニヤしていた。中学時代にもめったに見たことのない、ポップな丸文字が確かにちらりと見えた。
痛いところを突かれた、避けられないものが来てしまったか、というように文は首を横に振った。
考えてみれば、今までの講義では文の手描きの字はどこにも見当たらなかった。黒板にも直接文字を書かずに、紙に印刷したものを磁石で張ってあったと早苗は記憶している。何かコンプレックスがあるのかもしれない。
「何で隠してたんですかー? いいじゃないですか可愛い文字で」
文は観念したように上目遣いで早苗を見た。
「……別に可愛い分には構わないんですけどね。いつも取材しているお返しということで、御阿礼の子にうっかりこの文花帖を見せたら幻想郷縁起に『天狗にしては意外』だの色々と書かれまして。それ以来、字についてとやかく言われないようにしてるんです」
「書くのは好きでも書かれるのは苦手と来てますか。勝手なことで」
「ううー」
もっと彼女が慌てる様子を見たかったが、それ以上困らせるのは止めにした。文の気取った仮面の裏に何か愛らしいものを見た気がした。
五日目。体術の稽古を繰り返し、天狗のスピードにも徐々についていけるようになってきていた。
キッチンの前で、早苗はエプロンをつけていた。
「今日は私が料理をします!」
「よろしくお願いします」
少しでも文に良い所を見せたいと思い、早苗は鼻息を荒くした。腕を捲って材料をまな板に並べる。
まずは茸の炊き込みご飯。しめじ・椎茸・舞茸などを乱切りにして投入。鶏肉はこっそりレシピから外しておいた。箸休めは豆腐の和え物。ご飯に味が付いている分おかずの存在感が薄くなるが、豚汁の具材を多めにしてバランスをとる。
辺りに茸と味噌の匂いが漂っているのを感じ取ったか、文がそわそわしているのを見て満足する。普段から祟り神をも満足させる味を作っているのだ、料理の腕には覚えがある。せいぜい期待を高めよう。
「出来たぁ!」
「おお、気合が入ってますねえ」文は並べるのを手伝った。
「どうですか? どうですか?」相手は黙って食べている。
前のめりになっているのを自覚しつつも、一刻でも早く聞きたい気持ちを抑えられない。
文はひと通り全ての品に手を付けてから飲み込むと、微笑んだ。
「これぐらい美味しいんだったら、毎日でも食べたいですね」
早苗は咳き込んだ。
食べ終わって、黙々と洗い物をする。早苗は食器同士のこすれあうカチャカチャとした音を立てながら、声をかけるタイミングを測っていた。朝ごはんの下ごしらえをしている文を横目でチラチラと見る。持ちかけるなら今しかない。
「ええとその、一緒にお風呂に入りませんか」
「いいですよ」即答。
役得だ! 早苗は心のなかでガッツポーズをした。
早苗はひと通り身体を洗い終わってから、文はまだ外でガスを調整している。
湯船の中で身体を浮かせたり沈めたりしながら、物思いにふける。
どうしよう、どう顔を合わせよう、挙動不審に思われはしないかしら。いや、そんな事より今は明日以降の作戦を──
「湯加減はいかがです?」
「ひゃっ」
初めて見る文の裸身は、妖艶というよりは流麗、ポルノ写真というよりは一つの芸術作品と言えた。
無駄にでこぼこと脂肪のついている自分とは違う。早苗も自分の身体に自信がないわけではなかった。しかしそんな矜持も文の前だと霞むように思える。自分なんかよりもよっぽど女神に相応しいんじゃないか、と思わず嫉妬を覚えるほどだった。どうにもいつもの自分じゃない。
早苗の視線に気づいたか、文はすこし身体をこわばらせたようだ。
「どうしたんですか? ぼやーっとして」
「あっいえ……なんでもありません」
いったん湯船から出て、背中を流してやる。今は翼の生えていない肩甲骨から背骨を水がすべすべと伝って、腰に至るラインまで泡を流していく様子はそれ自体が一つの清流のようだった。
「ふぅ、ありがとうございます」
文が湯船に浸かり、早苗はなんだか照れくさくなって出ていこうとした。しかしこの場を逃したらチャンスはないだろう。そう思って扉に手を掛けたまま、言った。
「文さん」
「なんです?」すっかり表情が緩んでいる。
「私が文さんに勝ったら、一つ言うことを聞いてもらえますか?」
「……考えておきましょう」
それを聞くだけでものぼせそうな心地がしたが、ともかくも言うべきことを言えたことで満足した。いや、いろいろな意味で、とっくにのぼせているのかもしれない。
消灯時間。並んで寝るのにも慣れてきた。本音を言うと一緒の布団で眠りたかったが、そこまでしてしまっては恐らく眠れなくなる。
早苗は文の後ろ姿を見ていた。
文が早苗の方に寝返りを打ち、一瞬互いの視線が合った。心の底まで透かされた気がして、どきりと肩を震わせる。いや──気のせいだ。文は目を閉じている。安堵に息を大きく吐き、文と逆の方向に身体を向ける。すると目線が牢の格子ととかち合い、早苗は苦笑した。
この目障りな格子に囲まれてはロマンチックさも何もあったものではない。明日起きたらすぐに取り外すように言おう。早苗はもう一度寝返りをうった。文の顔が目に入ってくる。今度は子供がするように口元に丸めた指を当てていた。
文の白く細い指先で、頭を撫でてもらうところを想像する。カメラを扱うときのような優しい手つきで、自分の緑の髪を梳いてもらうところを。ぞくぞくした。
(私ったら、文さんのペットになりたいのかしら)
早苗は自分の顎の、最初の勝負の時に文に触られた所を撫でた。勝ったら想いを伝えよう。微笑みながら眠りについた。逃げる気はない。受けて立とう。
六日目。早苗は髪飾りを付けなかった。二柱を象るアクセサリーこそが自分の甘えを象徴しているように思われたからだ。
「そういえば今日も髪飾り、つけないんですか?
「ええ、そうですけど」
「それは残念です。あれ似合ってたのに」
「えーと、ええと、私は自立しなければなりませんので」
「では自立すればよいと。私に勝ったらもう一度つけてくれますか?」
「……分かりました」
早苗は悶絶した。
(似合ってるって! 似合ってるって! ファー!)
我ながらちょろいと思った。
七日目の夜。例の机の前で、早苗は煮詰まっていた。卓上には資料が広げられているが、眼の焦点はそこに合っていない。数式を書く手は止まり、代わりにノートの端を折ったり曲げたりとしきりに弄んでいる。連日の稽古で体術は仕上がってきており、疲れと眠気で少しうとうとした。
文の寝顔に思いを馳せる。今頃彼女も寝室でとっくに寝息を立てているのだろう。
このままずっと一緒に暮らすのも悪くない。しかし成果を出して、自分の成長を文に見てもらいたかった。
イメージは出来ているのだ。ひらひらと宙を舞う色とりどりの木の葉。早苗を負かした技だ。『風神木の葉隠れ』の強烈な印象は、早苗の中で種となって植えこまれてすくすくと成長し、今は彼女にとっての憧れとなっていた。それを扱う式も大部分は書けている。しかし中核となるピースが足りない。どこから力を得る? 文はその身に蓄えた莫大な妖力を木の葉に与えて操っていた。巫女は神と人の媒介だ。神奈子と諏訪子の力を借りれば似たような事は出来るだろう。だがそれは自分の力ではない。それでは振り出しだ。次のステップに進むためには早苗自身が神としての力を振るわなければならない。コンセプト、コンセプトを詰めなければ。
「自分の力でやらないと」
早苗は机に突っ伏した。恒等式。憧れ=関心。関心=思念。思念=美しさ。答えにたどり着くための条件が足りない。方程式は条件が足りなければ解けないのだ。そろそろ寝てしまおうか。そう思っていると、脳の奥の方から何かが聞こえてくる。彼女の慣れ親しんだ誰かの声だ。
(誰……?)
(聞こえますか……聞こえますか……早苗……諏訪子です……今……あなたの……頭のなかに……直接……語りかけています……)
(小芝居はいいですから。何ですか諏訪子様?)
(そろそろちょっとアドバイスがいるんじゃないかなーって思ってね)
早く文に勝ちたい、そして伝えたい。焦りのある早苗にとっては旱天慈雨だ。早苗は唾を飲んだ。
(いや、しかし、私は自力で)
(そこよ。自分の力だけでなんとかしなきゃって考えるから力んじゃうのよ。要は私達の力に頼らなきゃ良いんでしょ? 他の事は何でも出来るって考えなよ。それだけでだいぶ心の負担が違うよー)
確かに、契約書には『八坂神奈子・洩矢諏訪子の力を使わず』としか書いていない。それ以外はルールではないので守る必要はないのだ。
(自分の力だと、力む)
(そうそう)
(相手の力を利用し……投げる。そうだ)
(色々考えてるねえ。いいよいいよ)
閃いた。
(本当に自分の力でないと駄目なのでしょうか?)
(えっ)
(そうです! 最初から自分の力でやる必要なんて無かったんですよ!)
(えっちょっと待って早苗。なんか不穏な雰囲気なんだけど)
(ありがとうございます諏訪子様! これで何とかなりますよ!)
(話を聞けー!)
(次に私と会う時を楽しみにしててくださいね!)
念話を切った。さっそく資料を広げ、必死にメモをとる。深夜に作業している時特有の高揚感が早苗の心を満たしていた。
真夜中を半刻ほど過ぎた所で満足し、ばったりと寝た。明日は練習だ。
守矢神社の居間。ソファの上であぐらをかいていた諏訪子は首を横に振った。向かいには夜の読書中の神奈子が座っている。神奈子は本を置いた。
「諏訪子、早苗になんか変なこと教えた?」
「早苗の思考回路にモノを投げ込んで、何が返ってくるかなんて分かりゃしないわよ」
「それもそうね」
八日目の夜は新技の開発に全てを費やした。
そして九日目。
「出来た! 出来ました! 新兵器の完成です!」
「じゃあ、覚悟はいいですね?」
「ええ」
早苗は自信たっぷりだった。朝食の後に荷造りをし、不退転の決意を誓った。勝って、結果を出したらここを出て行けるようにするのだ。
二人は着替えと戦いの準備を済ませ、馴染みの広場に来た。以前の戦いの傷跡は風雨と落葉で覆い隠され、元通りに浸食されてしまっているように見える。
「あら、今日も髪飾りはつけないんですね」
「今度の私は一味違います!」
「では、それを証明してもらいましょう」
「「よーい」」
「「スタート!」」
「まず、貴方の機動力を封じます!」
早苗が指で縦横交互に平行線を描くと、その格子の印が早苗の服の裏地に縫い付けられた五芒星と組み合わさって力を発揮した。
秘法「九字刺し」
枠登りのごとく空中に立体の格子が展開される。青白く輝くレーザーの迷路は広場全体を覆っており、それ自体が一つの遊戯施設のようだ。
文は蛇が地をはうかのようなスピードで格子をぬるりと抜けていくが、五回ほど抜けた先で早苗の烈風弾とかち合った。
「おおっと危ない!」
反対側に避ける。さらに放物線上に四回抜けて地面に降り立とうする。
「させません!」
更なる烈風が文の脚を掬いにかかる。文はちょんと蹴って再び格子の中に入った。
「確かにこれは厳しい!」
早苗の視界一面に閃光が走ると、天蓋まで大きく築き上げた大格子が一瞬にして消滅していた。こちらに向かってくる文の手の中には黒い写真機が収まっている。
「私にカメラを使わせるとは!」
次の一手は? 文の体当たりをかろうじて避けるが、その残像が帯を引くようにエネルギー弾の列が早苗に向かってくる。地面を削り、小石が跳ね跳び、早苗に一歩退くことを強いる。文はその隙に広場中を回り出した。再び落ち葉のカーペットへと妖力を配分しているのだろう。
「同じ手をもう一度使うだなんて! やっぱり舐めてますね!」
開海「海が割れる日」
早苗が縦一文字に御幣を一振り。その軌跡に沿うように地面に亀裂が奔り、割れ目から水の壁が立ち上った。それらは落ち葉を巻き込んで湿らせていく。妖力が水の中に吸い取られ、ちりちりと電光を放って散っていく。
文は横にうねる水の動きを軽々と抜けていくが、早苗は手にした御札から緋色の槍を無数に繰り出し、追い込み漁のように投げつける。再び文の動きを縛った。フィルムの巻かれる音がした。
「もう一回!」
フラッシュが焚かれた。槍ぶすまが消える。しかし水が覆いかぶさってくる。水は消しても消しても湧いてくる。巻きが、間に合わない。早苗は勝利を確認したが、最後のあがきか、水の膜を貫いてリング状に赤青のエネルギー弾が向かってくる。進行方向を塞がれて避けられない。
「くぅーっ!」
早苗の腹にエネルギー弾が食い込むと同時に、水が文を飲み込んだ。早苗は濡れた地面をごろごろと後ろに転がる。
早苗が起き上がると、文は水を吐きながら、服にまとわりつく水を風で払っていた。相打ちだ。
「げーっほ、げっほ……」
「くっ……ふぅ。まずは一本!」
「……やりますね。では、ちょっと本気を出しましょう」
文は足を踏み下ろした。
風神「天狗颪」
文を中心に水が吹き飛ばされた。もう一度足を踏み降ろす。足裏からすぱぁんと快音が広場中に響き渡り、航空機が墜落した後の水柱のように木の葉の奔流が立ち昇る。水滴に混じり、文の頬に汗が一筋垂れる。
「せっかく妖力を水で流したのに!」
「多少効率は下がりますが、遠隔で妖力を伝える事もできるのですよ。さもなければとてもじゃないけど実戦で使えませんし。残念でしたね」
「ふん、ただの上位互換でしょうに」
早苗も口ではそういったものの、相手が簡単でないことは理解していた。なにしろ以前よりもはるかに枚数が多い。文の消耗した様子からも『風神木ノ葉隠れ』よりもさらに多くの妖力を注ぎ込んでいる事は間違いないだろう。
浮き上がった木の葉が文を守るように円環状に渦巻き、獲物を付け狙う鴉のように切っ先をこちらに向けた。木の葉が玉となって早苗に向けて殺到する。とっさの反射で針を縫うようにかわすが、このままではジリ貧だ。
捌ききれるかしら? 『弘安の神風』で打ち消す? どうも足りなさそうだ。万事休す? いや、勝つって決めたもの。木の葉のハンマーが頭上から襲いかかる。彼女は御幣を頭上にかざし、そこから青い稲光が腕を伸ばした。切り札を使うなら今だ。
妖怪退治「妖力スポイラー」
電光の一撫でを受け、早苗を押しつぶそうとしていた木の葉の玉が散った。それだけではない。早苗を中心としてぱすぱすぱすと音がしたかと思うと、広場中を埋め尽くしていた枯れ葉の浮遊船団がみるみるうちに降下を始め、地面に落ちていく。大量の葉が風を受けてくるくると回転する様は一万人の落下傘部隊のようだ。
そして文の周りに展開されたのは鱗のように形をなした妖力塊。桃・黄・青・空色に輝く鏃が一斉に早苗に向いて殺到し、文の背後からもそれらが幾度と無く突き刺さる。多様な色の光が重なり白光となって早苗に吸い込まれていく。
「えっ、えっ!? これは?」
「貴方のばら撒いた妖力を逆に利用させて頂きました!」
早苗が二、三度咀嚼するように身体を曲げ伸ばしすると、その顔に精気が増した。鏃に巻き込まれまいとフラッシュを焚くが、全身から鏃を吐き出す文の顔からは血の気が引くばかり。今度は文がジリ貧になる番だった。
鏃自体を振り切ろうと地面を蹴るが、行き先を読んだ早苗がカウンター気味にタックルを食らわせる。文は弾き飛ばされ、頭上の樹の枝の密集地帯に頭を突っ込んだ。
「勝った!」
樹の枝に絡まった文はしばらくボーッと宙を見つめていたが、早苗が気がついて頭を振り、そろそろと降りた。空を飛ぶのにも慎重になりたいようだ。
「なんと……たった一週間の修行で負かされてしまうとは」
「えっへん」
腰に手を当てて仁王立ちしようとすると、不意に脳裏をよぎった文句に得意顔が強張った。
『私が文さんに勝ったら、一つ言うことを聞いてもらえますか?』
『……考えておきましょう』
ぴしぃっと、全身に緊張が走る。とうとうその時が来てしまったのだ。
「あの……じゃあ……えっと……その……」
顔が火照ってくる。まずいまずいまずい。文は怪訝な顔をしている。怪しまれているに違いない。後にしてしまおうか。
だめよ早苗! 勝ったら伝えるって決めたんだから! ここで怖気付いちゃだめ! 必死に自分に言い聞かせる。勝利の余韻が残っているうちにケリを付けなければならない。
「私は!」
早苗が文を掴もうとすると、滑らかな腕の上を手のひらがするっと抜けた。文は早苗を見た。その表情にはぎこちなさが現れていた。
「まずは、着替えましょう」
「あっ……はい、そうですね」何しろ全身ずぶ濡れだ。早苗の方も土汚れや木の葉が付いている。
早苗の視線は文の背中を追った。秋の冷気が濡れた肌を撫でた。
シャワーは先に使わせてもらった。消えた暖炉に火をつけるかのように、冷えた身体をもう一度温めた。自分の胸の上を水が流れていくのを見つめ、そわそわする心を落ち着かせる。着替えを済ませ、居間に戻る途中で文とすれ違う。話しかけようとしたが、その間もなく彼女の姿は更衣室に吸い込まれてしまった。早苗は訝しんだ。
早苗はテーブルに駆け寄り、髪飾りを拾い上げて元通りに付けた。これは勲章だ。
だが凱旋するなら、もう一つ本当に欲しい物を手に入れなければならない。出鼻をくじかれたのだから、今度こそ想いを伝えなければ。
シャワーの音が止まった。早苗は息を呑んだ。
「大丈夫かしら」
更衣室から文が元通りに着替えて出てきた。早苗は立ち上がり、しかし文の方が先んじて口を開いた。
「いやあ、素晴らしかった! 一週間前とは別人のようでしたよ!」
ん? 嫌な予感がする。さっきから文の言動は早苗を遮るかのようにしか見えない。
「『これで山の神の威厳が保てますね!』『良い新聞の記事が書けるでしょう』」
ん? 早苗には違和感があった。違う、そこじゃない。褒めてもらいたいのはそこじゃない。
「『間違いなく一面記事になります』」
「え、いやそういうことじゃなくて」
「『極上のネタが手に入りました!』きっと新聞大会でもいい評価がもらえますよ~。大賞とまではいかなくても審査委員賞は確実です!」
早苗の笑顔が曇った。
「今の光景を忘れない内に記事を書いてしまいましょう。さっそく作業に移ります」
文は早苗に背を向け、書斎へ続くドアに手を掛けた。
流石の早苗も察した。こいつ、逃げようとしている!
「……最大出力」
「げっ」
文の背に御幣が押し当てられ、その首筋に泡が立った。
妖怪退治「妖力スポイラー」
「アバーッ!? アババババーッ!?」文の全身が電流が走ったかのように痙攣する。
「私は『よく頑張りました』って言って欲しかっただけなのに! 貴方の胸に抱かれて頭でも撫でて貰えればそれで嬉しかったのに!」
文の妖力が御幣から身体に直に伝えられ、自分の目からエネルギーがほとばしり出るのが分かる。しかし早苗のアドレナリン性の怒りはそれさえ燃やし尽くす勢いだ。文の身体が発光し、その輪郭を徐々に縮める。
「アーッ!」
早苗の両眼がダイヤモンドのように激しく光る。
「アアアーッ!」
「分かってるんですか!」
「アアアアアア! アアアアアアアア!」
早苗は文がうつ伏せに倒れたのを確認するとドアの隙間から玄関に飛び込み、既に荷造りしてあったエナメルバッグを手に飛び去った。
「もう文さんなんて知りません!」
巫女の姿が空に消える。
「ア……アア……」
文は最後の力を振り絞って立ち上がり、ドアノブを支えにして電灯のスイッチを叩いた。しかしその直後に膝をつき、再びうつ伏せに倒れた。
早苗は社務所の玄関口に戻ってきた。インターホンを鳴らすが返事がない。鍵で入ることにした。ドタバタと音が聞こえ、奥から神奈子がやってきた。
「ちょっと早苗、帰ってくるなら連絡してよね!」
神奈子の顔がほんのりと紅く上気している。二人はこの季節にしては相当な薄着で、諏訪子などわざとらしく口笛さえ鳴らしている。
早苗は何も言わなかった。敗北後の諏訪子を神奈子が生かしておいた理由は実利だけではなかったのだろう。
ともあれ、二柱の仲が良いのはいい事だ。
「勝ったのね?」
「ええ、バッチリ」
「後でお礼言っとかないとー」
「そう……ですね」
夕飯は早苗の勝利祝いということで、脂のたっぷりと乗った塩鮭など、いつもに比べると大分豪勢なものとなった。
しかし会話の方は豊かとは言えなかった。新技の解説や修行中の武勇伝などを期待されていたのだろうが、不自然なほどに黙々としたものになった。
終わり際に、神奈子が口を開いた。
「早苗、貴方……前より大きくなってない? 胸とか」
「そうですか? 嬉しいです。ふふふ」
早苗は卑屈な笑みを浮かべた。
「洗い物は諏訪子様の番でしたよね?」
「ああ、そうだったね」
「では私はお風呂の準備、してきますね」
二柱は早苗の背を見送った。
「なんか様子がおかしいわね」
「喧嘩でもしたのかな」
「かといってしょぼくれた感じにも見えないし」
「むしろ色々とみなぎってるよね。ハイになってる」
「特に目が輝いてるわね。らんらんと」
◇ ◇ ◇
とんとん。とんとん。ノックの音がする。
文は目を覚ました。身体はまだ動かない。
「文ー? 鍵開いてるよー? 勝手に入るわよー?」
いつもなら怒るところだが、声を出すのもおっくうな今はありがたい。
はたてが勢い良く居間のドアを開け、扉の角が文の頭にぶつかった。
「ぐぁっ……」
「あ、ごめん、大丈夫?」
「もう、何なのよ一体」
めまいに耐えながら、なんとか立ち上がった。何か違和感がある。真っ直ぐに立っているというのに、自分の頭がはたての胸の辺りに来ているのだ。
はたては顔をほころばせ、がばりと抱きしめてきた。
「やーん、かーわいいー!」
「ちょ、はたて、やめて」
「文って妹がいたの? なんて名前? 教えてー」
「私! 私よ! 射命丸文よ!」
「嘘でしょー?」
文は自分の身体を見返した。スカートと下着が床に落ちてブラウスだけとなっている。そのブラウスも膝のあたりまでを収める程にぶかぶかだ。脂肪がついているべき場所からは脂肪が失われ、あるべき凹凸は丸みを失って平になり、内臓を支えるべき腹筋は支えきれずに幼い者特有の凸凹を腹に生み出していた。
「な、な、な!?」
「どうしたのー?」
「か、身体が縮んでる……?」
「マジでー? 親戚の子と入れ替わってるとかじゃなくてー?」
「えーと、そうね。貴方と最後に会ったのは先月の玄武の滝! この前河童の店でカメラを一緒に選んだわ! 結局買わなかったけど! どう!?」
はたては文の全身を前から後ろからじろじろ眺め回し、髪を撫でたり、ほっぺたをうにーっと引っ張るなどした。
「にゃ、にゃにしゅるにょよぅ……」
「うん、文っぽいねー」
あっさり信じてもらえた。元々はたては疑り深い質ではない。
「よく気がついたわね」
「電気がつけっぱなしなのにドアが開いてたから、怪しいと思って」
気絶する前に電灯をつけたのが功を奏したらしい。
「とりあえず、話聞こっか?」
文は頭を抱えた。
「うん……ありがとう。いま、すごくお酒が飲みたいわ。この家にはない強いやつ」
「じゃあ、行きますか。例の場所!」
妖怪の山のカフェバー。
人里においても『人間向け』と『妖怪向け』の一挙両得を狙い、半日ごとに業態を入れ替えて二四時間営業としている店はある。しかし妖怪の山で二四時間営業の店はこれが唯一のものだ。朝は珈琲を提供し、夜は酒を提供する。
外の世界のカクテルのレシピも揃っている。少し奮発すればメキシコーラやモスコミュールといった、外界のソフトドリンクを利用したカクテルを楽しむこともできる。麓にあるこのカフェバーは、山の外からも多くの客を惹きつけ、河童たちの収入源となっているのだった。
屋外の席では店内から窓を通る明かりに照らしだされる紅葉と川の音を楽しむ事が出来る。しかし肌寒くなってくるこの季節、外で話し合いたい気分でも無かった。まして内容が内容である。
アールデコ調の店内の奥の、隅の方のテーブル席に二人は座っていた。
バーテンのヘアピンをバッテンの形に重ねてつけた河童が、ビールのグラスを二つと、ニジマスのフィッシュ・アンド・チップスの入ったかごを持ってきた。
「そうそう、天狗様にモニターしてもらってた『弾消しカメラMk-II』、そろそろ発売ですよ!」
「えっどんなのどんなの?」はたてが言った。
「はたてさんの持ってるのは今まで望遠機能が使えなかったでしょ? でも今度のはそれが組み込めるようになったんです。小型化・望遠機能・速写。この三つを組み合わせたからには一気に普及を狙えると思います」
「今まで天狗以外に買う奴いなかったもんねー」
「ところで、そちらの方は新しいお友達です?」
「いや、この人はちょっと、ね……」
ふむ、というようにヘアピンは顎に手を当てたが、それ以上は詮索しなかった。やがてにとりが空いたグラスと皿を持って戻ってきたので、交代した。
「命には関わらないのよね? その身体」
「今のところはね」
「とにかく話してみてよ」
文は早苗と過ごした一週間について話した。
「そりゃあ、怒るわよー」
「えー」
「向こうはそれっぽい素振りを見せてたのに、まともに話し合わなかったんでしょ? 文の方はどうだったのよ」
二人は河童のバーテンから人里製のウィスキーのソーダ割りを受け取った。
「……彼女の好意に気づいてなかったといえば、嘘になるわ」
「いつから?」
「その……風呂場で私を見る視線が……綺麗なものを見るような感じで……なんか気恥ずかしかったから? 『あっこの子、私に惚れてるわ』って思ったの。勘だけど」
「ああうん、そういうことってあるね……」
「まあ、好かれていることそのものは別段悪い気はしなかったんだけど」
「じゃあ、なんで?」
「どうしていいのか、分からなくなっちゃったの」
文はソーダ割りを一口飲んだ。
「私ってこの通り新聞記者やって暇潰してるでしょう。ユーモアだの風刺だの言うけど、結局のところは周りを小馬鹿にするのが趣味みたいなものよ。はっきりいって悪趣味よね。だから自分がそういう対象になるだなんて、全然考えが及ばなくてねえ」
「そうすると私も悪趣味って事になるんだけどー?」
「いきなり攫ってきたんだから本来ならぶん殴られたって文句は言えないわけだし。なのにあの子は逆にアプローチしてきて……だから、あんな風に近づかれると反応に困っちゃったのよ。あんまり嬉しがらせてもいけない、まして相手は人間の女の子だし」
「ふむふむ」
「私は道化なのよ。世の中を笑って、人間を笑って、妖怪を笑って、自分をさえ笑って、適当に生きていければ満足だった。道化は道化らしく振る舞っていたかったの。でも、いきなり主演としてステージに上げられちゃって、どうしていいのか分からなくなっちゃった」
二人はソーダ割りを飲み干し、もう一杯ずつ注文した。文はスクリュードライバー、はたてはエッグ・ノッグ。三割ほど飲んだ辺りで話を再開した。
「文は飛び切り頭が切れるからねー。それこそかまいたちみたいにね。何でもかんでも見抜いちゃう」
「照れるわ」
「こらこら。そのくせ自分の腹は絶対に見せない。だからみんな警戒するのよ。だからあんたには誰も近づかない、あんたを近寄らせない。薄気味悪いからねー」
「妖精みたいな馬鹿か、吸血鬼みたいな自信家を除けばね」
「文もたぶんそんな扱いに慣れてたんでしょ? 疑問も持ってなかったに違いないわね」
「まあ、その通りね」
如才ない振る舞いが出来るおかげで、文の交友関係はそれなりに広い。しかし文が本当に腹を割って話せるのは、文の新聞そのものに興味を持って近づいて来たはたてぐらいのものだ。要するにはたては、妖怪の中でもとびきりの変人なのだった。
「でも、そんな文にも、心の底から興味があって近づいてくれる人はいるって分かったわけでしょ? 私には文が早苗と向き合うことはすごくいい機会に思えるなー。せっかく惚れてくれたんだしね」
「ふーむ……」
「恋してる子なんてみんな頭おかしいのよ。同じおかしいならパーッと明るくやった方がいいわ」
幼い所はあるものの、権威や常識を恐れずに率直な物言いをしてくれるのがこの友人の美点の一つだった。縦割り社会の妖怪の山では決してプラスには働かないのだが、本人は我関せずである。しかし友人関係においては、これ程ありがたい資質もない。
「家に帰ったら、もうちょっと考えてみるわ」
「それがいいと思うよー。早苗との暮らしをゆっくり思い出してみなよ、合うのか合わないのか。決めるのはそれからでも遅くないわ」
はたては携帯をいじりながらニヤニヤしていた。文が訝ると、はたては携帯の画面に映っている写真を見せた。恋人だそうだ。
「恋はいいわよー。それだけで世界がキラキラ輝いてみえるもの。文も乗っちゃいなよ」
はたての眩しさに羨んで目を細めたが、その表情はすぐに疑問に変わった。
「ちょっと待って。基本引きこもってるのにどうしてるのよ」
「向こうから家に来てくれるのー」
文はスクリュードライバーを一気に飲み干し、恵まれている者に相対した時特有のこみ上げて来るある感情を押し殺した。
その時、喧噪の中でもよく通る声が背後から被さってきた。
「その声はもしや、射命丸様では?」
犬走椛だった。今は袖を外し、帯をゆるめた軽装だ。文は顔をひきつらせた。実にまずい。
「椛じゃん。久しぶりー」
はたてはお気楽だ。
「ずいぶんと弱っていらっしゃるようですが、どうされましたか?」
文としては、守矢の二柱との取引はまだ続いているつもりであった。ロープウェイ建設計画に対し、できうる限りの便宜を図らなければならない。新聞のネタなどと引き換えに家庭教師と引き受けるという、破格とさえ言える契約を結んだのも、今後勢力を伸ばすであろう守矢に対し、借りを作ること自体が目的だったのだから。
ここで椛に早苗の所業を知らせてしまっては、それはつまり『山の巫女がそれなりに偉い鴉天狗に暴力を振るった』ということになり、白狼天狗側にロープウェイ建設計画に対するネガティブキャンペーンの格好のネタを握らせてしまうことになる。それはなんとしても避けたい。
「えーと、えーっと……何が起こったのでしょうね?」
「はぐらかすおつもりですか? 鴉天狗ともあろうかたがそんなに弱って、何かトラブルがあったのなら上に報告しなければなりません」
「ほんの私事よ、貴方に心配されるほどのことじゃないわ」
目の前の白狼天狗は文とは決してそりは合わないが、職務にはあくまで忠実である。
その時、真鍮のドアベルが景気良くからんからんと鳴り、今の文の背丈ほどもない鬼が一人入ってきた。
「なんだあ! 文じゃないか! 随分とちっちゃくなっちゃって! 私と同じぐらいじゃないの!」
伊吹萃香だった。背丈は今の文と同程度か、それより低いぐらいではあるが、特有の存在感が店中を満たしていた。
(なんでこんな次々と正体がバレるのよ!)流石に計算外だ。
周りには河童と白狼天狗がわらわらと集まってきている。
「一週間ぶりじゃないですか!」
「我々にご馳走させてください」
「いや、自分で払うよ。あんたらが破産しちゃう」
「そんなー」
椛は萃香と文の方をちらちらと交互に見やった。自分も萃香を出迎えるべきか迷っているようだ。
「あれー、萃香さんって人の財布の中身を気遣うような方でしたっけー?」
「こら、はたて!」
「いいっていいって、正直な奴は好きだよ」
もちろん、違う。
妖怪の山には、質実剛健を重んじる白狼天狗を中心とし、伊吹童子ら鬼たちを再び山の棟梁の地位に就かせようと画策する一派が存在する。現在山を牛耳っている大天狗や鴉天狗にとってはたまったものではないが、白狼天狗にとっては鴉天狗を上にのさばらせておくよりはよほどマシなのだろう。いま萃香を取り巻いている白狼天狗たちも、少しでも繋がりを作って取り入ろうという算段だろう。しかし利用されることを何より嫌う萃香は、天狗に借りを作ることを注意深く避けていた。
本来は妖怪の山にもできるだけ近づくべきではないのだろうが、『ここでしか呑めない酒がある』という理由で、週に一度は通っているのだった。
場を収めるチャンスと見たか、にとりが横から声を掛けた。
「椛、ここで小競り合いはよしておくれよ」
「む……まあ、にとりが言うなら」
助かった、と文は思った。天狗と河童の地位の差にも拘わらず、椛とにとりの間には比較的フランクな親交があった。朝のカフェ営業時にも、ここで二人が将棋を打っているのを目撃されている。かたや武人、かたや商売人と、どう考えても水が合いそうにない二人であるが、知性と知性のぶつかりあいを通して椛はにとりの中に一種の武を見たのだろう。
椛は萃香を取り巻く白狼天狗の群れへと入っていった。
「はたて、お開きでいいかしら」
「うん。なんか不便があったらまた呼んでちょうだい」
文は自宅に戻り、その身をリビングのソファに投げ出した。そのままごろりと転がって、落ちる。絨毯が身体を受け止める、
「ああもう、自分が分からないわ」
酔い覚ましに風呂の準備をしていると、脱衣所に見慣れない布が落ちているのを見つけた。早苗が置いていった巫女服だ。
「あら、忘れ物かしら。洗って返さないと」
なにしろ急に出て行ったのだから、忘れ物があって当然だ。
手に取ろうと屈んだ瞬間、疑問が頭に浮かんだ。本当に借りを作るのが目的だったのかしら?
守矢に借りを作るためだけなら、わざわざ家庭教師なんぞ引き受けなくても出来たはずだ。
いや、子供に稽古をつけるのは天狗としての本能だ。何も不自然じゃない。
じゃあそもそも何故、私は彼女を選んだのかしら?
スタイルは申し分ないし、声も可愛らしい。頭の方もなかなか切れる。じゃあ、彼女に目をつけたのは、単に私の好みだったから? 単に顔が良いからってことは、断じてそんなことはない。ありえない。床に座り込む。
早苗の上着を両手の平に載せ、目の前に広げた。少しシワがよっている。そして抗いがたい欲求に駆られ、鼻の下に押し付けた。ふわりとした香りが頭を貫く。一瞬、心臓のリズムが大きく振れた。
「え、ちょっとこれは」
文は顔を上げ、頬に手をやった。熱く、明らかに火照っている。
「え、えぇえぇぇぇぇぇぇ……」
文は上着を握りしめたまま、洗面所に駆けて行って姿見に顔を写した。
「いやいやいや。ありえない。ありえない」
こんなに顔を真赤にした自分は見たことがない。
「まずい。これはまずいわ」
風呂に入り、早苗の服を胸に抱いてベッドに入った。その日はなかなか寝付けなかった。
◇ ◇ ◇
早苗には夕食後に自室で新聞を読む習慣がある。幻想郷に来て以来は外の世界のようにクリック一発で本や雑誌が届くというわけには行かなくなり、彼女は情報に飢えていた。見出しにざっと目を通す。
『守矢神社に謎の動き』『利益供与か』『山との関係に見直し迫る』
いわく、金品を贈っただの、事故をもみ消しただの、的を外した根拠の無い戯言ばかり。文との事はまだ外に伝わってないらしい。早苗は新聞を破り捨て、屑籠に放り込んだ。
「ふん。どうせあることないこと書くなら、私と文さんの関係について書いてくれればいいのに」
文さんが私を意識するきっかけになるかもしれない。早苗は心中でそれを文字にはしなかった。あり得ないことだ、と無意識の内に心で蓋をしていた。文の敬語の仮面は自分には剥がせないのだ。まともに取り合ってもらうことさえできなかったのだから。
もう眠ってしまおうか、と思った瞬間、疲れているのにまったく眠くないことに気づいた。早苗は掌を見た。不自然なほど血色が良かった。
「妖力吸収が……止まってない? 私が感情をコントロールできてないから?」
胸騒ぎがした。今頃文はどうしているだろう。あんなことをしてしまって。
ふと本棚の、アルバムの収まっている辺りを見た。早苗は鼻で笑った。
「いいわ、どうせみんな置いていくもの……」
部屋を出て薬箱を漁り、睡眠薬を一粒飲んだ。普段は飲まないが、眠らないよりはずっとマシだ。心と神経を麻痺させ、こんどこそ眠った。
早苗はベッドから起き上がった。周りはいつも通りの自分の部屋に見えるが、机も壁紙もセピア色に色あせ、やや質感が異なる。
窓の外からはスギやイチイの木が見えた。外の世界、生まれ故郷の諏訪の光景だ。
「戻って、きたのかしら?」
早苗があちこち触ってて確かめていると、インターホンの音が鳴った。早苗はドアを開け、廊下を駆け、玄関そばの受話器の映像を覗いた。
「早苗、ひさしぶりね」
あの人だった。早苗は息を呑んだ。
おかっぱ頭で小さく、華奢に見えるが、しかし誰よりも大人びていて我が強い。文とは正反対のタイプだ。
早苗は扉を開け、部屋に案内した。いつものように、ベッドに並んで腰掛ける。
話すことは山ほどあった。彼女は無事に進学したらしい。早苗の方も幻想郷でも信仰は徐々に集まりつつある。
「そう、お互い順調みたいね」
会話は切れ目なくつながっていた。しかし体の方はといえば、ピンで留め置かれた虫のように動くことが出来ない。見た目は間違いなくあの人なのに、どこか不気味で底知れない印象をあたえる。早苗は今まで優位に立たれる側ではあったが、こういう種類の圧力は感じたことがなかった。
彼女は視線を下にやった。そこには絨毯に開いたアルバムが落ちていた。いつの間にか本棚から抜け落ちたのか?
「見ていいかしら」
「ええ」
外の世界で撮った友達や先生の写真をぱらぱらとめくりながら、二人は思い出話をしていた。幻想郷で撮った写真も収められている。やがて一番新しい日付のページ差し掛かった。翼を広げ、大空を翔ける。早苗の新しい人。
「あ……」
彼女は文の写真を指で取り上げ、にっこりと笑った。
「綺麗な子ね」
「あ、いや、これは……」
「うんうん、分かってるわ。早苗に愛されるだなんて、幸せな子ね」
早苗はほっとした。これなら、きっと──
「でも、きっとすぐにかわいそうな事になるわ」
「えっ……」
彼女は早苗の両の頬に手を伸ばし、顔を無理に自分に向けさせた。
「だって貴方、私を捨てたでしょう?」
その眼の奥には、何もなかった。
早苗は飛び起きた。肩を抱き、歯をがちがちと震わせる。寝間着に冷や汗が染み込み、カーテンの隙間から寒々しく朝日がさしている。
夢が見せる幻想特有の、ぼんやりと薄く脈絡のない展開。だがその意味はすぐに分かった。一度誰かを捨てた者は、また誰かを捨てるに決まっている。
前のことを忘れて、新しい幸せに手を出す資格なんて、最初からなかった。
朝の守矢神社社務所。三柱は味噌汁とたくあん・焼き魚の朝食を取っていた。さして味はしなかった。食べ終えて早苗が皿洗いを始めると、神社の参拝客のための入り口の方角から叫び声が聞こえてきた。
「またあいつらね!」諏訪子がご飯粒の付いた口で言った。
三人は廊下の掃出窓に駆け寄り、外を覗いた。
白狼天狗の集団が守矢神社の入り口に陣取っていた。その全員が被っている白いヘルメットの額には樹脂製の赤いテープで楓の葉の形が描かれている。
物々しいのはヘルメットだけではない。ある者は角材を持ち、またある者は『打倒・八坂神奈子』のプラカードを掲げる。更に後方で一列に並ぶ天狗達が支え持つ横断幕には『神無月・白狼天狗連総決起集会』『山を荒らす侵略者は自らの欺瞞を直視せよ』の文字がおどろおどろしい角ばった書体で描かれている。三人で撤去したはずの『ロープウェイ建設反対』のノボリや、同じく角ばった書体の立て看板も、天狗たちの手で再び並べられていた。
「ホント手が込んでるわねー。反対運動やるぐらいの手間があったら、ウチの宣伝に掛けてくれればいいのに」
「でもあれって学生運動も混ざってない? いつの間にここに入ってきたんだろうね、あのノリ」
「学生運動って何ですか?」
「早苗が生まれる前の話よ」
先頭には白狼天狗の中でも一際背の高い女が腕組みをして立っている。片刃の剣は鞘に収まり、楓の葉の意匠を施された盾は足元に置かれている。背中には黄色い『計画粉砕』旗を背負っていた。
あいつは犬走椛だろう。早苗は検討をつけた。文の家で読んだ文々。新聞に白狼天狗連のデモの写真が載っており、その下に『プラカードを掲げる犬走氏=写真左』と注釈が付けられていたのを覚えている。
「ロープウェイで山の景観を乱すなー!」椛が腕を振り上げる。
「「「乱すなー!」」」椛の声にシュプレヒコールが続く。
「森を荒らす人間を山に入れるなー!」
「「「入れるなー!」」」
「索道と山岳道路の建設に伴う、森林の伐採をやめろー!」
「「「やめろー!」」」
メガホンも何もないというのに、椛たちの吠え声は彼らが三柱の隣で話しているかのように響いてくる。大した声量ですこと。まるで獣ね、と早苗は思った。
「大天狗の奴、まだ白狼天狗を説得できてないのかい」諏訪子が言った。
「どう帰ってもらおうかしら」
「機動隊っぽく放水でもする?」
「ここは私にお任せを」早苗は笑った。ちょうどいい鬱憤晴らしだ。
早苗は巫女服に着替え、髪飾りを着けた。社務所から続く参道を歩き、入り口の前に陣取っている白狼天狗の群れに近づく。途中で早苗が踏んづけたビラには『山の妖怪は団結し、自然破壊の逆徒・守矢神社を弾劾せよ!』の見出しが踊っていた。
「断固として闘いの狼煙を──?」
近づいてくる早苗を見据え、天狗たちは吠えるのを止めてざわめきだした。
「迷惑ですので、帰っていただけません?」
早苗は相手が一足飛びには跳びかかってこれない微妙な間合いで足を止め、そこに群れの中から椛が一歩立ち入ってきた。
「我々は闘士。脅威を前におめおめと逃げ帰ることはできない」椛が言った。その体躯は早苗より頭一つ大きい。
「では、おめおめと追っ払われる覚悟もあるわけですね? 実力行使で?」早苗は御幣を構え、幼さを残す顔立ちに似合わぬ笑みを浮かべた。
ある者は盾を構え、またある者は剣を構えた。最後に椛が剣を抜いた。
「追っ払われるのはお前の方だ!」
先手は椛。前方に牽制の袈裟斬り。しかし動作を読んでいた早苗は間合いを取る。紫の光を纏った御札が早苗の後方に六枚現れ、椛目掛けて真っ直ぐに飛ぶ。椛はこれを盾で受けた。早苗は更に頭上に星を召喚、椛の頭に飛ばす。椛はこれを剣で弾く。隙を見て椛の脇の下を御幣で突きに掛かるが、椛の一本下駄の回し蹴りが盾を飛び越え早苗を襲う。早苗は屈んで退避し、御幣で足払いを仕掛けた。しかしその隙を椛の盾が潰しにかかる。寸前で早苗が向かい風を召喚し、後転して距離をとった。
狗符「レイビーズバイト」
椛が袈裟斬りに剣を一振りすると、二人の前後の空間に紅葉色の歯列が現れた。それは空中で一瞬だけ静止し、地面に水平にすっ飛んできた。早苗は視野を広く取って観察するが抜ける場所が分からない。やむなく早苗は椛に接近し御幣を仕掛ける。椛はこれを盾をずらして受け、斬りかかった。早苗は剣の持ち手に御札を仕掛けて回避。
このままでは二人とも喰われる、という寸前で、椛を中心として同心円上に牙が消滅した。早苗の動揺を見て取ったか椛が早苗の横から躍りかかる。剣閃からの逃げ道を盾が潰し、盾の作った隙間を剣が抜けて襲う。早苗が間合いを取ろうとすると、二人の前後に歯列の第二波が出現した。第一波よりだいぶ幅広で大きく、デモ隊の姿が隠されて見えない。やはり早苗は椛に駆け寄らざるを得ない。狙い澄ましたかのように盾が早苗の横半身を捉えた。
「ぐ、あっ」
追い打ちに盾の隙間から剣が突き出されるが、早苗は反射的に椛の足を蹴って退く。 椛は足を緊張させて顔をしかめ、早苗もまた平衡感覚を歪められてよろめいた。
白狼天狗達の間から歓声が上がった。
「やっちまえ椛ー!」
「にっくき守矢を粉砕だー!」
早苗は痛む腰を抑えていた。
「その技、得意な近距離戦に持ち込むのが目的ですか」
「ご名答」
第三波。牙の列が更に大きくなり、青い秋空を埋め尽くす。早苗は御幣を振り上げ、頭上に光の玉を召喚した。
奇跡「客星の明るすぎる夜」
光球からフラッシュが閃き、椛の瞳を貫いた。目眩ましだ。同じく目をやられた観客の白狼天狗たちが呻き声を挙げる。早苗は椛の盾を蹴って横に弾き、開いた椛の腕の反対方向から御幣を突いて直に触れんとする。椛は視覚を取り戻し、御幣に目の焦点を合わせると後頭部の毛が逆立った。一瞬の交錯。早苗に盾を押し付けて死角を作り、剣の柄の部分で御幣の先端を殴り捌く。同時に盾の開いたところから早苗の腹に蹴りが飛び、早苗はこれをぎりぎりの所で避けて後退せざるを得なかった。
「その御幣、何かヤバい」椛は警戒を露わにし、眉を顰めた。
速い! 早苗は驚嘆した。あんなに頑丈な盾を抱えていたら動きが鈍くなるのが普通だ。しかし天狗の怪力は剣の機動性と盾の頑強さの両立を可能にしている。一瞬にせよ視覚を奪ったというのに。だが早苗が椛の反撃になんとか対応できているのも事実である。早苗は苦笑した。皮肉なものだ。文と一週間つきっきりで鍛錬したことで白狼天狗の体術についていくだけの俊敏さをものにしたのだろう。
早苗が足を一歩踏み出すと、椛は剣を斜め下二方向に一回ずつ振り下ろし牽制した。早苗を二度と近づかせないように決めたようだ。獣の口が吠え声を発した。一瞬だけ、早苗には椛の体躯が三倍にも大きくなったように見えた。
「追放してやる!」
山窩「エクスペリーズカナン」
黄色のエネルギー弾塊が三つ、眼窩から覗く目玉のように渦を描いて迸る。その一つは地面を抉り、埋まっている小石を削って跳ね飛ばした。目玉は早苗を取り囲むように早苗に接近する。隙間がない。このままでは押しつぶされる。白狼天狗達は勝利を確信し、歓喜の雄叫びを挙げた。
「もう、これしかないですね」
早苗は自分の中で蠢いているエネルギーの性質を悟っていた。これを使ってしまったら止まらないだろう。でも構うものか。
「少し、貴方を見くびっていたようです」
早苗は御幣を前に突き出した。目の前で陽炎がゆらぎ、その手首から電撃が奔った。
妖怪退治「妖力スポイラー」
蒼い稲光に触れた途端、黄色の目玉が明滅しだした。苦痛に身をよじるように二、三回揺らいだ後にそれは消滅し、中から色とりどりの鎖が放出されて弾け飛ぶ。虹の鎖はボールを投げたような放物線を描いたと思うと術者の方へと向きを変え、早苗の掲げた手のひらからずぶずぶと沼に沈み込むような音を立てて吸収されていった。空いた視界の先の椛がぎょっとして身を引きかけるが、目玉の消滅を見越して跳躍していた早苗が椛の身体を有効射程内に捕らえる。椛の身体が白く光った。白狼天狗達がどよめく。
虹色の鎖が椛の身体から放出し、早苗の身体に伸びて収まる。見る間に椛の身体が小さくなる。やはり十に満たない子供の姿だ。剣と盾の大きさが不釣り合いで見るからに重そうである。
「そんななりでは、得意の剣術も役に立ちませんね。詰みです」
「だからどうした。我々に投了はない」
「今どきカミカゼは流行りませんよ」
早苗が更に出力を上げる。椛の腕が震え、数秒の緊張の後に盾を取り落とした。石畳と擦れてガラガラと音を立てる。日々鍛えぬかれたしなやかな体躯も今は芯が抜け落ち、その筋力は失われている。椛は剣を杖代わりに地面に突き立てるが、それでもバランスを支えられずに横に倒れこむ。幼くなった顔立ちに苦悶の表情が浮かぶ。
「あ゛あ゛っ」
パニックが始まった。残りの白狼天狗達がプラカードや横断幕・ゲバ棒を投げ出し、押し合いへし合いして駆け出す。押し出された二人が階段から転がって落ちる。最後尾の一人が椛の手を引いて背を向けた。早苗はその背中にも御幣を向ける。
「最大出力!」
椛は薄れゆく意識の中で異様な光景を見ていた。仲間たちが筋力を失って次々と倒れていく。やはりあの御幣に触れないでいたのは正解だった。さもなければ妖力を直に吸い取られていただろう。早苗の体躯は元の椛より頭一つ大きい……いや、それどころか軽く三メートルはないだろうか? 先ほどまで幼さを残していた顔立ちはより精悍に変化し、こちらを嘲るような笑みが不気味なほどに似合っていた。
◇ ◇ ◇
朝の妖怪の山のカフェバー。川に沿った山道の途中に建てられたこの店は、今の時期の日中は川の側に立ち並ぶ林が形作る紅葉のグラデーションを窓から楽しむことが出来る。はたてと文は窓際の特等席に向かい合って座っていた。
文はテーブルに肘をついて頭を抱えた。
「私、女の子が好きだったみたい……」
「あはは、やっぱり?」
人間でも、成人したり結婚してから自分の性指向に気づく者は珍しくない。成長の遅い妖怪では尚更のことである。
「てっきり自分じゃあ恋愛に興味ないって思ってたんだけどねえ」
「で、どんな所が気に入ったの?」
文は昨日の出来事を苦悶と共に語った。はたては『おおっ』と開いた口に手を当て、その後けらけらと笑った。
「自分が気持ち悪い……」
「いいじゃない、いいじゃなーい。向こうは文が好き、文もまんざらじゃない、何を迷うことがあるのよ?」
「でも! でも! 風流な贈り物とか、ウィットに富んだ恋文とかならともかく! 脱ぎっぱなし服の匂いで心が動くだなんて我ながら即物的すぎるぅうぅぅ……」文は両手で目を抑えた。
はたては爆笑した。文は睨んだ。
「あはは。文ったら意外とロマンチストなのねー。でも文の気取り屋の仮面を引っぺがすにはちょうどいいと思うわー。いいじゃない匂いが好きで。本能レベルで相性がいいって事でしょ? もっと本能に素直にならないと!」
「でもでもでも!」文は髪を掻きむしった。はたてはやれやれと首を振った。
「えーとなんだっけ。昔仲間内で回ってきて読んだ爆笑エッセイ。アレよ。『ウシに着ける緒の臭いなんて今まで嗅いだことない変な臭いなのに、イケてるように感じるだなんて自分でも頭おかしいと思う』だったっけ」
文は面食らった。しかし数秒後に文の無意識が記憶の底から原文を引っ張りだした。『牛の鞦の香の、怪しうかぎ知らぬさまなれど、うち嗅がれたるが、をかしきこそ物ぐるほしけれ』
「……枕草子? 昔の人間の書いたアレ?」
「牛の臭いでさえ風流なんだから、早苗の匂いにそういう気持ちを抱くのもそれなりに風流なんじゃない?」
「そんな理屈ありかしら」
「だって枕草子だし」
「そ、そうよね! 枕草子なら仕方ないわよね! 仕方ない仕方ない!」
この期に及んで人間の書いた文章にまで権威とエクスキューズを求める自分の心が情けなかったが、腹を決めるきっかけにはなった。
「早く謝って妖力を戻してもらいなさいよ。私もついててあげるから」
「うん」
二人は会計を済ませ、守矢神社を目指した。カフェインがいい具合に回っていた。
守矢神社。あたりには威圧的なノボリやビラ、紅葉が描かれた盾と剣が散乱している。二人が社務所の玄関にたどり着き、文がチャイムを鳴らすと諏訪子が出てきた。
「さあ、さあ!」はたてが急かす。
「もう、やめてったら! 洩矢様、えーと、その、早苗さんとお話が」
「どっか行っちゃったわ」
「えっ」
「マジで」
「八坂様はどうされました?」
「子守よ」
「はあ」
「来る? まあお茶でも飲みなよ。忙しいけどさ」
二人が諏訪子に連れられて大広間に行くと、そこら中に布団が敷かれており、その上には白狼天狗達が気を失って寝かされていた。
部屋の中心では、白髪の赤ん坊が神奈子の腕に抱かれていた。
「どうしたのですか?」
「第二児誕生よ」
文はカメラを取り出した。
「ジョークよ、ジョーク」
神奈子は状況を説明した。早苗が戻ってこないので二柱が様子を見に行ったところ、ぶかぶかの天狗装束の子どもたちが入り口に倒れていたらしい。それで応急的に社務所に運んでやったというわけだ。
「この子だけは目覚めているんだけど、見ての通り何にも聞き出せやしない」
「何かヒントはありませんか?」
神奈子は赤ん坊が包まれていた天狗装束を見せた。胸の内側には赤い糸で『Momiji Inubashiri』との縫い取りがしてる。文は背筋を震わせた。
「えーと、つまり、アレを私以外にも使ったってことよね」
「早苗は文には手加減していたのね。本気を出せばこの通り。怖いわー」
「私にも相当怒っていたみたいだけど」
「喧嘩する時でも無意識のうちに力をセーブしちゃうことってあるでしょ。ふつーは本気ではぶん殴らないわ。まして惚れた相手だもんねー」
「あ、この!」
はたてはニヤニヤしていた。二柱が訝しげな目線を向けた。
「天狗のオフィスには連絡したんだけど、全然繋がらないのよね。留守電は入れておいたけど」
向こうでも何かトラブルが起こっているのかもしれない。
「この場で何か聞き出せればよいのだけど」
はたては何か思案していた様子だったが、拳で手のひらをぽんと打った。
「妖力を補充すればいいのよね?」
はたてはネクタイをほどき、ブラウスのボタンを上から外し始めた。守矢二柱が目を剥く。
「ちょ、ちょっと! なんでナチュラルに露出しようとしてるの!」文が言った。
「え、だって赤ちゃんが吸いだす所って言ったら二つしかないじゃん」
「色々すっ飛ばさないで説明して!」
「私の妖力を椛に貸してあげるのよ。そうすれば何が起こったのか聞き出せるでしょ?」
ああ、なるほど。文は思った。妖力を奪われると幼くなるのなら、逆もまた然り。
「うん、それはいいアイデアだとは思うわ……でもせめて指からにして」
「はーい」
はたては手を洗い、ナイフで人差し指の先をぷつんと切った。血のしずくの滴るそれを椛の顔の前に差し出し、含ませてやる。椛ははたての血をちゅうちゅうと吸いだした。哺乳瓶からミルクを吸い出すように、赤ん坊の喉が上下している。妖力を取られたせいか。はたての血の気が少しずつ薄くなってくる。心なしか身の丈の方も小さくなったように思える。
「大丈夫?」
「うん、もう少しは持ちこたえられそう」
はたての背丈がが少しずつ小さくなるにつれて、椛の骨格も大きくなってきた。神奈子は椛を畳の上に下ろし、周りから毛布を剥ぎとって掛けてやった。はたての腕から力が伝わり、すくすくと、すくすくと大きくなっていく。
最終的にはたては人間の十二歳程度、椛は五歳児程度の身長に落ち着いた。はたてはだぶついた服をピンで留めた。
椛が目を開け、辺りを見回す。全員に視線を行き渡らせると、自分の身体を見下ろし、目を見開いた。文を睨みつける。幼い口元に牙をむき出しにしている。まずい。文は息を呑んだ。どうやら全てに合点がいったようだ。やはりこの白狼天狗は勘が鋭い。
「あれほど危険な力を、山の巫女が、手に入れたと、知らせてくれれば、こんな、ことには!」
「ひ、ひぃ!」
「貴方が人間と関わると面倒ばかり起こす! 博麗の巫女は通す! 魔法使いはかくまう! そして今度は山の巫女ときた!」
椛は息を吐ききると、ゆっくり息を吸い、またため息をついた。
「……やってしまったものは仕方ありません。善後策を検討しましょう」
「やはり早苗ちゃんを探すのが先よねー。吸い取った力を吐き出してもらわないと」
「探さなかったんです?」
「なんの手がかりもないのにたった二人で闇雲に探したって無駄だからねえ。ましてこれだけの病人を抱えて。いちおう医者は呼んだから、手が空いたら私も神奈子と行くわ」
「回復したら、私たち白狼天狗も捜索に加わりましょう」
神奈子が口を開いた。
「早苗について、何か知っていることはないかしら?」
文は息を呑んだ。外で鳥の鳴く声が聞こえた。
「私は席を外したほうがいいわねー」
「え?」
はたては戸惑う椛を連れ、雑魚寝する白狼天狗たちの様子を見に行った。
「さあ、言ってごらんなさい」
「はい……実を言うと、彼女を怒らせてしまいまして。私の勇気が無かったばかりに」
二柱はさもありなんという顔をした。
「浮かない顔をしてたからねえ」
「色々と、その、トラブルがありまして」
どう説明したものか。色恋沙汰の話抜きに納得の行く理屈を組める気がしない。
「貴方が早苗の新しい人だっていうのなら、歓迎するよ」
文はのけぞった。見抜かれている。はたてが余計なことを言うからだ。
「出会いにすれ違いはつきものさ」
「う、うう」
文は観念し、修行中にあったことをかいつまんで説明した。もちろん脱衣所での事は話さなかった。話をしている内に、ニヤニヤとした笑いが二柱の顔に広がっていった。
「……というわけです」
「やったぞ!」
「早苗にもう一度春が来た!」
二柱はハイタッチした。
(アアアアア!)
文は悶絶した。付き合う前からいきなり実家にあいさつを済ませたようなものだ。あまりにも上手く進みすぎている。この二柱は自分に対してやたらと親切だ。まるで外堀を埋めるかのようだ。
が、一つの可能性に思い当たった。
山の妖怪の中でも比較的古参である文と早苗が結ばれれば、これほど山と神社の関係を強力にするものもない。万一早苗が文と別れても山の妖怪は星の数ほどいる。山の妖怪でなくとも、例えば人里の人間と結ばれたとしてもそれはそれで神社は人里と関係を深めることが出来る……しかし差し当たって一番重要な山の妖怪と結ばれるのならそれに越したことはない。ノーリスク・ハイリターンの関係というわけだ。それが恋愛によるものであれば言うことはない。
ぼうっと思案していると、二柱は急に真面目な顔になった。プレッシャーに、思わず居住まいを正す。
「私たち、あの子には負い目があってねえ」
文は少し前に屈んだ。少し思っていたのと様子が違うらしい。
「知っての通り、私と諏訪子は元は外の世界の神でしょう?」
「ええ」
「で、神ってのはその神徳を信じるものがいて初めて、命を繋ぐことができるわけね」
「妖怪が人間から畏れられることで存在を保っているように、ですね」
「ええ、で、外の世界からは神に対する信仰が失われている。それは私たちにとっては命取り。どこかで私たちの実在を信じてくれる人間を探す必要があった」
「そして幻想郷では神に対する信仰が当たり前に保たれている。言っちゃあなんだけど、つまり餌場ね」
「幻想郷に来るためには、今まで外で集めた信仰を全部失うというリスクを取る必要があった。当然私にはその覚悟があったわ」
「でも早苗には付き合いがあった。幼い頃から信濃に暮らしてたからね。友達、先生、好きな人。それでも風祝の命脈を繋ぐためには、早苗も幻想郷に来なければならなかった」
「つまり、あの子は外の世界との繋がりと、私たちの命を天秤に掛けたんだ」
「で、結局あの子は私たちを選んだ。その結果、あの子はあらゆるものを外の世界に置いてきた」
「もちろん当時の落ち込みようはひどかったわ。ご飯を抜いたり、毎晩のように睡眠薬を飲んでたり。でも私たちの役に立ちたいって気持ちは強かったから、博麗神社にちょっかいを掛けることで自分を保っていたみたい」
「色々とこっちで事件を解決するうちにだんだん馴染んできてはいるみたいだけど、今でも少し、引きずっている節がある」
「だからね、向こうで失ったものをまた得させてあげたいのよ。こっちに来てから得られた出会いを大切にして欲しいの。貴方はそれができるのでしょう?」
文は歯噛みし、二柱の好意を疑った自分、付き合う前から別れることを考えてしまう自分を恥じた。千年を天狗の組織で暮らして、損得勘定が魂に染み付いているようだ。
「ま、あんたが考えているような打算はなくはないけどね」
「うっ」
諏訪子がにししと笑った。やはりこの神は侮れない。
どうやらこの二柱は文の障害ではないようだ。むしろこれから色々と力となってくれるかもしれない。食えない連中ではあるが、心強くもあった。
はたてが戻ってきて、それと交代で二柱が天狗たちの様子を見に行った。
しばらくすると、玄関の方で子供の声がした。
「御免!」
足音がして、ぶかぶかの服を巨大な安全ピンで留めた天狗が居間に駆け込んできた。おかっぱ頭で、八歳ほどの男児に見える。年齢に釣り合わぬ尊大な態度は名家のお坊ちゃんのようだ。
私のように早苗に小さくされたクチかしら。あの服は偉い人に違いないわ。文は思った。
「あら、坊っちゃん迷子ー?」はたてが言った。文の顔が引きつった。
「私だ、大天狗だ」少年は鼻を鳴らし、懐から身分を示す団扇を取り出した。その大きさは持つ手に不釣り合いである。
「ははあーっこれは失礼を!」
文ははたての後頭部をひっつかみ、無理やり下げさせようとした。しかし十歳児並みの細腕では力が足りない。
「えーっ! あの大天狗様がこんな美少年になっちゃっただなんてびっくりですー。いつもとってもダンディな雰囲気でしたからー」
「そ、そうか。いや、いい。分からんのも無理は無い」
少し気を良くしたようだ。はたての率直さが幸いした。見え透いたお世辞を言うようなタイプとは見られていない。胸を撫で下ろす。
「東風谷さんは今湖の方にいる。天狗も河童も巻き添えで大勢倒れた。大変な騒ぎだ。すぐに対応しなければならない。すでにこちらで増援は呼んである」
彼は文に向き直った。
「射命丸君だね?」
「は、はい」
「守矢神社との折衝は君に一任してあるはずだぞ。射命丸君、君がなんとかしなさい。必要なものはなんでも言いなさい。どうしようもなくなったら連絡してくれ」
「ははーっ! 了解しましたー!」
文句を言うつもりはなかった。元はといえば早苗を怒らせたのは自分である。
「では頼んだぞ。私はここの神に話がある」
大天狗は妖怪文字で『大天狗 代理』と書かれた札を差し出した。大天狗以外には解析できない呪法の込められた印鑑も押されている。これを見せれば河童と彼の部下の天狗はひと通り『使う』ことができる。
文はお辞儀して受け取り、はたての手を取り、玄関を通って湖の方へと駆けていった。
「アレに任せて大丈夫ですか?」椛が訝しげな視線を向けた。
「まあ、彼女は根は真面目だ。上手くやるだろう」
椛は同意していない様子だったが、その場はそれで流すことにした。大天狗は二柱の所に現状を伝えに行った。
二人は行く先々で河童や天狗の行き倒れを見かけた。鳥は地に落ち、魚は浮いている。生命力が奪い取られているのだ。一人意識のある河童を見かけたので起こし、大天狗の鑑札を見せ、玄武の沢の方へと援軍を呼びにやった。ただでさえ低い背がさらに低くなって、川に入るまでにだいぶもたついていた。
森林を抜け、湖のほとりに出た。正午も近くなって太陽が昇り、水面から反射光が眩しく照らす。その向こうには木々と山脈の岩肌、抜けるような秋晴れの空が見える。
「さて、早苗は湖の方にいると大天狗様が言っていたけれど」
「どこにいるのかしらーっ……と……」
はたての顔がスーッと青ざめていく。
「あれ……どう考えてもヤバいでしょ……いやいやいや」
「どうしたの?」
文ははたてが恐怖するのを初めて見た。明らかにただ事ではない。
「あ、あそこ……」湖の向かい側を指さす。
「何が?」
「早苗……」
「どこ? どこにいるの?」
はたての指の先を見る。水面、森林、山脈。いつも通りの山の湖に見える。
「見当たらないけど」
「あそこだって! 分からないの!?」
「え? ……あっ」
彼女は失せ物を探していたら、目的のものを思い切りその手に握りしめていたのに気づいたような気持ちになった。
あまりにも不自然すぎて気付かなかった。
今まで山脈だと思い込んでいたものが、体育座りをしている人間だなんて。
そいつは足を崩し、ゆっくりと膝をついた。地響きがこちらまで伝わり、湖の端がボロボロと崩れ、波を立てる。
立ち上がっていく様子を二人で見上げる。太陽まで届きそうなところで、そいつの背丈はまっすぐになった。太陽を背にして、影が湖面をぶった切るように長く長く伸びる。
全長百九メートル。重さは何トンだろうか。想像したくもない。服の重量だけで人を潰せそうだ。
今の早苗は、年齢に対して幼さの残るあの顔ではなかった。大和撫子というよりは外の世界の雑誌で見たミスコンの女王のような、エリマキトカゲのようなけばけばしさをもつ美人だ。
女神だった。
「どんだけ吸い取ったのよ……」
「山中を総なめ?」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。
視界の遥か遠く、山の中腹辺りから鴉の大群が飛び立ったかと思うと、空中で寄り集まって十人ほどの人の形をとった。白狼天狗の別働隊だ。全員が剣と盾を持ち、思い思いの弾幕を張って飛びかかる。
「あ、馬鹿……」
早苗が御幣を掲げるとその先から電光が散り、空間が陽炎のように歪んだ。天狗のエネルギー弾がすべて消し飛ぶ。続けて群れと山の中腹辺りから黄色の鎖が数十本ほど飛び出し、全身に吸い込まれた。早苗の目が大きく輝く。全体のかさも少しばかり増したように見える。
白狼部隊は爆竹を鳴らしたような音を出して鴉の群れに分解し、湖面へと力なく墜落していった。細かく水柱と波が立った。
「まともに近づいたらまず、やられちゃうのねー」
「大丈夫?」
はたては少し落ち着きを取り戻したようだった。
「ああ、こんな遠くからでも力が吸われそうだわー、あれが妖怪対策の技かなー?」
「そうよ。私の家で過ごした間に完成させたんですって」
「でもさー、妖力を吸うってちょっと妖怪じみてない? 良いんだけどさ。人間でも神様でもなくもっと悪い奴っぽい……」
「なにはともあれ、話をしないといけないわね」
話が通じればの話だが。あんなものと直接対決はしたくない。
湖畔や森の木々の間から人や獣の影が見えた。山の妖怪たちが集まってきているのだ。妖力吸収に巻き込まれない距離を保ちつつ、遠巻きに事態の推移を見守っているのだろう。
「だいだらぼっちだ! だいだらぼっちだ!」
見覚えのある氷精までいる。
森を抜けて、河童たちもやってきた。おかっぱ頭、ヘアピン、丸メガネ、そして河城にとり。見覚えのあるメンツだ。
「ねえ、アレと話をしたいんだけど」
「お安いご用です」
にとりはリュックを下ろすと結わえられた鍵をその留め金に差し込み、中を十数秒ごそごそとやった挙句に一対の箱とそれを制御するコントロールパネルのを取り出した。
「これは?」
「『キューリサウンドシステム』です。貴方の声をこの集音器から受け取って電気信号に変換、電気を加えて増幅した上で磁石を使ってスピーカーの板を震わせます。すると空気に震えが伝わって増幅された音が出るというわけです」
「えーと、つまり声が大きくなるってことでいいの?」
「その通りです」
「周りには丸聞こえ?」
「そうですね」
「もう少しこっそり会話できない?」
にとりは頭を掻いた。
「難しいですね。指向性スピーカーを持ってくればこちらから一方的に彼女に声を聞かせられるとは思います。指向性マイクを使えば早苗の声だけを拾うこともできるでしょう。ただ、あの図体で彼女がこちらだけに聞こえるに十分声を小さくできるかと言われると……」
「うん、無理ね」
河童たちが箱の円錐形の部分を早苗の方に向け、マイクを文の手に持たせた。
「ねえ、あの二柱が来るまで待ってられないかなあ……私が話したら余計こじれる気がするんだけど」
「でも、早苗ちゃんを説得できる見込みがありそうなのも文でしょー? 大丈夫! 文ならできるって」
「そんな無責任な」
文は諦め、マイクのスイッチを入れた。ノイズが辺りに響く。
『あー、あー、早苗、聞こえるー?』
早苗は振り向いた。
「文、さん……?」
『そうよ、私よ』
彼女は少し動揺を見せたが、やがて取り繕うように笑みを浮かべた。
「あはは、文さんが敬語をやめてくれた。嬉しいわ。あのわざとらしい口調、私にはもう憎たらしいぐらいになってたんですもの」
『ね、やめてくれる? 私も謝るから。本当にごめんなさい、貴方が真剣に自分の気持ちを伝えたいって時に、ああいう形で逃げるのは間違っていたと思う。でも今ならちゃんと貴方に向き合えそうな気がするの』
「……それは貴方の本当の気持ちですか?」
『そうよ』
「私にはそうとは思えませんね」
『えっ』
「だって文さんは私を新聞のネタとしてしか見てくれなかったじゃないですか! 今だって私のせいで山が荒れたら困るから仕方なく出てきてるんでしょう! そんなの知るかですよ!」
『アアアアア!』
全世界公開痴話喧嘩である。文はマイクを落とし、両手で顔を押さえた。何の罰ゲームだろうか。自分は前世でどれだけ悪いことをしたのだろうか。山中の妖怪たちの非難の視線が自分に刺さるのを感じる。
「こんなの晒し者よ……」
河童たちが口元を手で抑えながら興味津々の目をしている。
「おおおおおーーー……」
「ひゅーい!」
「射命丸様も隅に置けませんね!」
「う゛る゛さ゛い゛!」
「どの道、自分じゃ止められないんですよ、これ。大きくなる一方なんです。私はいるだけで人を傷つけてしまうんですよ」
早苗は空を見上げ、けらけらと笑った。本来ならもう少し淑やかに聞こえるはずのそれは、声帯の膨張で大きく歪み、低く耳をつんざくような異音と化していた。
「誰の差し金か知りませんが、文さんを盾に私を止めるつもりだったのなら残念でしたね!」
『こらっ! 早苗っ! この山において誰が神かを忘れたか!』
皆が一斉に山の中腹の方へと視線を向けた。文も目を凝らしてよく見る。この距離からでも一円玉のようによく見えるのは死と再生を象徴するしめ縄。見間違えようもない、八坂神奈子だ。あぐらをかいた彼女の左右には仁王立ちする洩矢諏訪子と大天狗が控えている。
「生身であの大声を出してるの?」
早苗以外の二柱も大概化け物なのだ。
『私たちは、早苗がもう一度自分を幸せにできるかどうかを見守ってきた!』
『でも自分でそれを断ち切るような真似をするのなら容赦しないよ!』
早苗は一瞬迷ったように一歩後ずさったが、逆に踏み込んで自分を守るように御幣を突きつけた。
「では、私を止めてみせてください! まさか無策ではないでしょう」
『もちろん! もう用意してあるわ』
諏訪子は合掌したまま、すぅ、と宙に浮き上がった。外径四メートル、内径三メートルにも及ぶ鉄の輪が多数現れる。その麓には御柱が列になって五本横たえられている。
『いくよ神奈子! 合体奥義!』
神具「洩矢の鉄の輪 -御柱カタパルト-」
赤錆を纏った鉄の輪が山の斜面を滑り、大地を削る音をさせながら加速していく。やがて仰角十五度に調整された御柱の上を滑り、スキージャンプのごとく早苗めがけて跳躍した。
早苗は直前に放ったエネルギー弾の壁で三つほど撃ち落とし、残りは伏せて避けた。森の木々が膝に潰されて横倒しになる。遅れてやってきた最後の一つを居合い斬りの要領で放った御幣の芯でとらえ、打ち返した。
「ホームラン!」
『うお、うおお?』
諏訪子がとっさにかがむと、数メートル後ろの岩に着弾した。石片と赤錆の欠片が辺りに飛び散り、二柱と一人の背後から襲いかかる。大天狗が悲鳴を上げて飛び退き、山の妖怪たちがどよめく。
『あいたたた……こりゃあ酷いね』
『どえらい反抗期だわね』
「終わりですか?」
『まだまだ!』
『飛び道具はたっぷりあるからね!』
秘源「ジェイドトーラスミワタリ」
神奈子が大きく一回深呼吸し、両腕を前の方に伸ばすと、湖面が白く濁り始めた。氷結しはじめ、二十秒ほどで湖面全体を覆った。
続けて諏訪子が合掌し、翡翠の塊を雪崩のごとく召喚。碧の火砕流が湖めがけて滑る。
「はあ? こんなの普通に歩いて避ければ……」
早苗が言うが早いか、彼女と神奈子を結ぶ直線上に氷が砕け、溝から翡翠の川が跳ね上がった。
「うっ!」
五芒星弾を前方に展開し、輝石の礫の軌跡をそらす。あるものは湖面を割って水に沈み、またあるものは山間の谷へと吸い込まれていった。観客の天狗と河童たちが流れ弾を避けて森の方へと引っ込む。
「ふう、びっくりさせないでくだ……」
早苗が一息ついたのもつかの間、突如として天から翡翠の雲が現れた。逸らしたはずの輝石流が雨となって早苗へと降り注ぐ。早苗は頭上に両腕を斜めに組んでこれを受け止めた。一粒一粒が数トンにも及ぶ硬玉の重みに腕の骨が悲鳴を上げる。肋骨にめり込み、皮膚が切れ、服の裾が破れる。
『ありえないところからありえないものが出てくる。これが奇跡さ!』
「ぐっ……」
『これで一本!』
『もう一丁!』再び諏訪子が翡翠雪崩を生み出す。
「二度は甘いですよ!」
早苗は失われた詞を詠唱し、手のひらを振り下ろして湖面を叩いた。翡翠でえぐられた腕に痛みが走る。
開海「モーゼの奇跡」
湖面が氷の砕ける音を響かせて割れ、岩と藻と泥にまみれた湖底がむき出しになった。翡翠の川はまっすぐ湖底に飲み込まれる。
続けて早苗が指と指の間に緋色と蒼色の槍を出現させ、二柱の居場所めがけて投げる。
『甘いのはそっちよ!』
御柱「メテオリックオンバシラ」
山の中腹から御柱が龍星のごとく押し寄せ、宙を飛ぶ槍をすべて相殺した。残った御柱が続々と飛んできたかと思うと空中でぴたりと止まり、寄せ集まって人間の腕の骨格を形造った。
大骨格「二拝二拍一拝」
諏訪子が地面にずぶずぶと両手を沈み込ませると、湖底から翡翠と岩が水を滴らせながら浮き上がる。それらは御柱で継ぎ接ぎされた骨格に肉付けされていく。やがて早苗に覆いかぶさるように現れたのは、湖底の岩と岩同士をくっつけて形成された、二本の巨大な腕だ。全長で湖の外周ほど、一つ一つの節が山脈並みの大きさを持っている。
『弾幕祭りもこれからが本番。お互い神徳をギャラリーに見せあおうじゃないか』
右腕が早苗の側頭部めがけて手刀を繰り出す。早苗は足を踏み変えてこれを避け、中腹めがけて緋色と蒼色のかまいたちを繰り出すが、左腕が伸びてきてこれを受け止める。撃ち漏らしたつむじ風で樹齢数十年の大木が雑草でも刈るかのような気軽さで倒され、巻き込まれかけた河童が川に飛び込んで逃れた。
右腕が引っ込み、湖面からひとつかみの翡翠と岩塊をすくい上げる。左手が拳を繰り出した。かすっただけでも致命的な傷を与えるには十分な重さだ。早苗は腕を丸くしならせて御札を放ち、巨腕に包帯を巻くように張り付かせる。御幣を掲げるが、巨腕の表面は御柱を触媒として岩と岩が密になって凝縮・結合しており、隙間がなくて吸うことができない。早苗は当たる寸前で自分と巨拳の間に圧力を生じさせて回避したが、右手が上空にばらまいた岩雪崩を避けきれない。辛うじて頭は守った。
「あの化け物が、押されてる」「いいぞ……」「守矢だ、あれが守矢だ」
今度こそ、いけるのでは? という期待が妖怪たちの間で共有された。二柱はその空気を肌で感じ取り、気をよくした。
「弱点、弱点はどこに」
例え相手が守矢の二柱でも全盛期からは程遠く、これだけの重量物体を操るには莫大なエネルギーを消費しているはずだ。きっとどこかに付け入る隙がある。早苗は電気回路の構造を確かめるように目を凝らした。
右手が地面で中指をはじき、早苗の足元めがけて木々と土塊を吹き飛ばした。早苗はたたらを踏み、危うくつまづきかけたところで異変に気づいた。樹と木の枝同士が蔦のようにからみ合っており、足首を拘束している。続けて足裏から間欠泉が吹き出し、液状化した地面で足首まで沈み込む。
『操れるのは土と岩だけじゃないのさ!』
足を取られた隙を早苗の背丈ほどある両手のひらが水平に押しつぶしにかかる。早苗は上昇気流を発生させて無理やり引き抜き、飛び上がって回避した。手のひら同士がぶつかって削り合い、雷のような拍手を轟かせる。
「そこです!」
早苗は空中で懐から御札を三枚取り出し、二柱の立っている方向めがけて投げる。四メートルに及ぶ紙の板が湖畔に斜めに突き立った。二柱と巨腕の間をつなぐ龍脈が老人の手の甲のように浮き上がる。
「妖力スポイラー!」
早苗が湖底に着地し、御幣を掲げると、龍脈の周囲が湯気のようにねじ曲がった。御札がまばゆく発光し、イソギンチャクのように金の鎖を生やしうごめく。神奈子が青ざめ、諏訪子は歯を食いしばった。
『ぐ、吸われる』
諏訪子はやむなく地面から手を引き抜き、巨腕の制御を手放した。支配者を失った岩の塊が倒れこんでくる。早苗は御札を巨腕の関節に打ち込み、岩と岩の間の継ぎ目を破壊した。ばらけた翡翠が湖に落ちてしぶきを上げ、岩石が畔に落ちて大地を揺らした。
『くそー。だいぶもってかれちゃったか、私の力。もうあんなのズルでしょ』
諏訪子は咳き込み、胸のあたりを手で押さえた。このままではミシャグジさまでさえ吸われかねない。手詰まりだ。
『大丈夫かい、諏訪子?』
『ぐぐ、かくなる上は……!』
『お、まだ何か策があるのね?』
諏訪子は地面に向かってぴょん、と飛び込んだかと思うと深く深く潜り込み、
潜り込み、
潜り込み、
潜り込み……
浮かんで……こない。
蛙休「オールウェイズ冬眠できます」
「諦めたー!」
『諏訪子ォォオオオ!』
早苗は自分のしたことが信じられないという風に両手の平を見つめていた。腕や脚に生々しく残る翡翠の傷も、諏訪子から奪い取った神徳で癒やされつつある。体中にさらなる力がみなぎり、背丈が二、三割は大きくなったように感じられる。
「あはは、勝っちゃった……今なら月だってキャッチボールできそうな気分です」
「月でキャッチボール!? いいわいいわやりなさい! 全面的にバックアップするから!」
「紫様! 私怨はおやめ下さい! ていうか月そのものが無くなったら困るのは我々でしょう!」
文が振り向くと、八雲紫とその式神が来ていた。
「えらい騒ぎになっていたから、様子を見に来たのよ」
「ちょいと境界とかいじって、何とかならないのー?」はたてが言った。
「いやいやいや! お気軽に言わないで! 私は神じゃないのよ? あんなデカいのすぐには無理よ!」
「紫様、落ち着いて!」
「あいたあ!」
藍は紫の尻をひっぱたき、正気を取り戻させた。
「いつつ……私としたことが。あまりのことにパニックを起こしかけたわ。このままでは幻想郷は吸い尽くされる。霊夢を呼びにやっても解決できるかどうか」
自分の尻を押さえる紫を見ながら、文は別のことを考えていた。今の三柱の戦いを見ていて、文の脳裏には何かが引っかかっていた。近づけば問答無用で力を奪われる、反則的なテリトリー。しかし突破口はまだ残されているのではないか。あの技にはまだ誰も気づいていない特徴があるに違いない。頭を働かせる余地はある。
「我々は彼女に近づく手段を必要としているのです。あのテリトリーをかいくぐることができれば、いくらかアプローチはあると思うのですが」
「うーん、結界を最大限に重ねがけすれば、無傷で近づけるとは思うわ。ただそのあと確実に仕留められるか、と言われると。私単独では厳しいわね」
妖怪の賢者をしてこの警戒ぶりである。
「神と妖怪の差は、厚いわ。その差を覆すには単純な強さや演算能力に依らない、思考の飛躍がいる。神でも妖怪でも人間でも平等に持っている、一瞬のひらめきが」
「なに? なに? 紫が困ってるの? おもしろーい!」
皆が森の方に目をやると、アカメガシワの木のそばにへべれけの鬼が立っていた。
「伊吹様……なぜここに」
「借りがあるのさ。あの後無理やり奢られちゃってねえ! やっぱり珍しい酒があるからって気軽に来るもんじゃないねえ」
そのそばには椛がいた。萃香と同じぐらいの背丈である。
「そうです。私が連れて参りました。この現状を打開できるのはもはや伊吹様をおいて他にはない、と」
「大天狗様は面白いとは思わないでしょうに」
「違いないね」
文は無意識に、目の前に並べられた諸要素を頭のなかで組み合わせていた。天狗の思考回路が全速力で回転していた。
結界。空間。密と疎。
それだ。
「紫さん、話があります」
「え?」
文は紫に今しがた発見した事を話した。
紫は早苗の方を見た。彼女の前や後ろから散発的に天狗や河童たちが襲いかかるが、すべて途中で吸い落とされている。
「確かにそうね……よく気づいたわね。私でも見逃しかけたわ」
「あの技は私が一番最初に受けたのです。しかも二度も食らってます。そろそろ何か発見がないと困りますよ」
文は確信した。近づきさえすれば、できる。あとは条件を整えるだけだ。
「医者はいない?」
「ああ、今はあのへんでけが人を見ているはずです」おかっぱ頭の河童が答えた。
「ちょっと待ってて」
文は一飛びし、早苗と二柱がいる方とは反対側の湖のほとりに立った。神々の争いが一時中断し、湖は再び水をたたえつつある。
「けが人はいない?」
ブレザーに兎の耳。鈴仙だ。
「ああ、社務所にいるのはひと通り診てきたからね。今は兎達に麓の診療所へと運ばせているところよ」
「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
鈴仙にいくつか質問をし、予想通りの答えが得られた。
「確かに用意はできると思うけど……なんに使うの?」
「少し考えがあるの」
文は皆を集め、これから取るべき戦略について話した。
「確かにそれなら解決できるかもしれないけど、あんた、大丈夫なのー?」
「早苗をあの状態にまで育てて台無しにしたのは私の責任だから、私の責任で解決するわ」
「まあ、筋は通ってるわね」紫が言った。
「面白そうじゃないか。私は賛成するよ。その代わり、決着がつくまでは手出し無用だからね」
丸メガネにポニーテールの河童を呼び出し、メモを見せる。
「これの在庫をありったけ持ってきて」
「はあ」
「私はあの二柱のところに行って、早苗のことについて聞いて来るわ」
文は山の中腹へと飛んだ。
「あとは、どう近づくか、ね」
「ふふ。腕がなるねえ」
萃香は拳で手のひらを打ち鳴らした。ようやく支配者としての鬼の地位を脅かしそうな存在が現れたのだ。願わくば現役のうちに出会いたいものだった。それが残念でもあった。
「作った借りはぁ! 早めに返しに行くとしますか!」
萃香は息を思い切り吸い込み、巨人に向けて叫んだ。
『おーい! そこの緑の!』
ゆっくりと振り向いた。
「誰かと思えば萃香さんですか。お久しぶりです。どうされました?」
『私と勝負しろおい!』
「なんでです? 妖怪が神と戦って勝てるとでも?」
『ぐっ、ずいぶんと馬鹿にされたもんだね。じゃあ、ひとつ教えてあげようか』
「どうぞ」
『私は昔、鬼の四天王の一角として、この妖怪の山を支配していた。今は風来坊だけどね。それで天狗や河童の中には、まだまだ私を畏れたり慕ってくれる奴が多いんだ』
早苗の耳がぴくりと動いた。
「じゃあ、私たち守矢神社が山の信仰を集めきれていないのは、いつか貴方のような鬼が山に戻ってくるかもしれないと、妖怪たちが恐れているから……?」
『たぶんね』
「つまりつまり! 貴方さえ倒してしまえば、山の信仰は真に私のもの……?」
『そういうことになるね』
「ではこの勝負、受けたほうが神社のため……?」
『頭の回転が早くて助かるねえ。挑戦、受けるかい?』
「……やりましょう」
『よしきた、旧支配者と新支配者の対決だ』
鬼神「ミッシングパープルパワー」
大きく、大きく、山脈を飛び越し、妖怪の山の偉丈夫を束にしても敵わぬ程の大きさに膨れ上がる。山の妖怪たちが感嘆の声を上げた。それでも早苗の胸の辺りまで届くかどうか、といったところだった。
「ふふ、萃香さん。貴方、自分より本当に大きな人と戦った事ってあります?」
「……ないね」
『早苗のやつ、私たちを倒して自信をつけたのかしら。欲が出てきたね』神奈子が言った。
「まずは小手調べだ!」
『元鬼玉』
萃香の掲げた両手の間に火球が生まれ、早苗めがけて投げる。早苗は余分に距離をとって避け、火球が後方の山脈の腹をえぐった。岩が溶け、高山植物が燃え、地獄の様相を呈する。
「ああ、地図が変わってしまう。せっかく測ったのに」河童の一人がつぶやいた。
じゃらり、と鎖の擦れる音をさせて、左右に振れながら近づいてくる。間合いが読めない。
『鬼神燐火術』
瓢箪の中身を口に含み、まばゆい炎を吹き出した。早苗は前髪が燃える寸前で退いたが、視界が眩む。
鎖付き瓢箪が横から襲う。間に御幣を差し込んでこれをしのぐ。しかし脇腹に鈍く痛みが走る。やはり一撃が重い。もう一度炎が来る。早苗は軽く跳び、湖の岸から岸まで斜めに渡った。
『波起こし』
湖が波立ち、炎を打ち消す。
「近づけさせるものですか!」
早苗は御幣を掲げた。
神徳「五穀豊穣ライスシャワー」
白く輝く光の粒が散水機のようにあたりに振りまかれる。所詮米粒と侮るなかれ、一つ一つが石碑ほどの大きさと重さを持っている。神徳の込められた穀物の奔流が殺到し、鬼の体中の肌を焦がした。
「あいた、あいた! これはひどい!」
萃香は顔をしかめながら手近にあった岩山を引っこ抜き、ジャグリングさせるように宙に飛ばし一回転。たまたま岩山の頂上で観戦していた鼻高天狗が遠心力で吹き飛ばされる。
「あぁあぁあああぁぁぁぁ……」
「ちょいとごめんよ!」
萃鬼「天手力男投げ」
早苗は御幣を下げて米粒の放射を強引に打ち切り、さらに湖の縁を走って遠ざかった。ちょうど湖を挟んで萃香と相対する形になる。地面に落ちた岩山が谷底に転がり、湖へと転がり、縁から水が溢れだす。野次馬の天狗が逃げ出し、河童は濁流に飛び込んだ。
萃香は肩をすくめた。
「遠距離戦はつまらない。もっと殴り合おうよ」
「鬼と正面から? 馬鹿を言わないでくださいよ」
「じゃあ、こんなのはどうかな」
『萃鬼』
二人の間に黒い球が発生した。早苗が前へと引きずられ、水の中に脚を突っ込む。
「自分の土俵に乗せるのも喧嘩の内よ!」
『妖鬼‐密‐』
萃香が浅瀬に飛び込み、爆炎を込めた拳が迫る。早苗は入身の足捌きで萃香の後ろ側に入り込み、首を捕らえにかかるが、萃香の首が下へと引っ込み、重力を回転に載せた裏拳が飛んでくる。早苗は萃香の二の腕をとって軌道をそらす。萃香がバックステップを踏み、垂直に飛び上がる。
『踏鞴』
早苗の頭上に現れ、垂直に飛び蹴りを浴びせる。早苗は左腕でかばうが、瓢箪から腹をかばう時に受けた打撲の跡が傷んだ。しかし決定的な重みが加えられる前に後ろに飛びずさり、なんとか間合いをとった。湖面に波が残る。
「ぐっ、うっ……」
「なかなか上手いじゃないか? 身体の捌き方」
「練習しましたから」
「ほうほう、じゃああの天狗と稽古したのは無駄じゃあなかったってわけだ」
早苗は眉を上げた。
「……揺さぶりのつもりですか?」
「いや? ただかわいそうだなーって思って。あんたも周りもね」
「どういうことです?」
「私はあんたの事をよく知ってるよ。最近よく見ていたからねぇ。あんたはエゴを通すのが下手くそだ。あんたは気ままに振舞っているように見えるけど、本当のところは自分の望みを押さえつけてる。だからいざ譲れない一線ができてしまうと、子どもの駄々みたいな真似をする。周りを振り回す。肝心のあんた自身が自分を信仰してないんだ」
早苗は爪を噛んだ。
「ふん。上手いことを言ったつもりかもしれませんが、貴方には口で言うほど余裕が無い。貴方はその妖力を自らの内に留めておくのが精一杯のはず。私が吸い取ろうと虎視眈々と狙ってますからね。違いますか?」
「うんうん、間違っちゃあいないね」
しかし今の早苗に近づいてまともでいられる妖怪は、密と疎を操る萃香ぐらいのものだ。
はたては首をかしげた。
「萃香さん、さっきから分身も霧も全然使わないわねー。私が取材した時はもくもくと立ちこめてすごかったんだけど」
「きっと使いたくてもできないんだわ。吸収されちゃうから」
萃香は両手で地面を殴った。
「でも、人間相手にはこれぐらいのハンデでちょうどいいかな!」
『地霊‐密‐』
山脈が隆起し、早苗の逃げ場を塞ぎにかかる。
「まだまだ!」
もう一度殴る。マグマの脈を刺激し、出来た地割れから溶岩が噴き出す。
『火鬼』
「もう一丁! 萃まって……こいっ!」
鬼火「超高密度燐禍術」
断層が起きた。マントルの奥深くから萃め出されたエネルギーが噴き散らされる。圧力を加えたチューブのようにだくだくと流れ出る溶岩が、木々を燃やし、水を蒸発せしめ、地図を塗り替えていく。ガラス質の火山灰が舞い上がり、灰色の噴煙があたりに立ち込める。地上に灼熱地獄を呼び寄せたかのようだ。
早苗の肌に輻射熱が突き刺さる。完全にマグマに囲まれている。
穴から飛び出した溶岩玉のひとつが玄武の沢に突っ込み、水蒸気爆発を起こした。水辺で休んでいた河童たちが悲鳴を上げた。
『いぶき! どーじ!』『いぶき! どーじ!』『いぶき! どーじ!』『うおおーっ!』『やっぱり俺達の伊吹様だ!』
興奮した妖怪たちの声援が響く。眼前に命の危険が迫っているにも拘わらず、鬼の暴威に当てられてハイになっているのだ。真昼に再現された百鬼夜行である。
「くっ、このままでは信仰が……」
「ちょっと萃香! 人里まで壊したら承知しないわよ!」
「おーっと紫に怒られちった。じゃあ、そろそろとどめを刺しますか!」
早苗の頭上に白い玉を放り投げ、放射状に火炎球が散り始める。
「これであんたに逃げ場なし!」
四天王奥義「三歩壊廃」
一歩目。目の前の鬼は容赦なく距離を詰める。
二歩目。頭上には火球。背中はマグマ溜まり。
三歩目。拳が迫る。どうする。どうする。
『おみくじ爆弾』
早苗は一枚の紙を萃香の顔めがけて投げつけた。萃香は首を横にそらしてこれを避けたが、わずかに身体の平衡が崩れ、拳を当てるタイミングがずれた。
「当て身です!」
早苗は思い切って萃香の横に飛び込み、転換の体勢に入った。左手を萃香の拳に添え、拳の軌道を手元に誘導。バランスを崩した萃香は拳を返され、背中から地面に落とされた。小手下ろしだ。早苗が萃香の拳を持った手を軽く上下させると、萃香の体は右肩を軸として横に一回転。うつぶせになる。 早苗は持った拳の先を萃香の右肩の方に向け、関節を極めた。
「ぐ、動かん、この」
「正直、もう駄目かと思いましたよ」
早苗は息を切らしている。あと一歩ずれていたら、マグマ溜まりに足を突っ込んでいただろう。
「自分の力にばかり頼ってるからそうなるのです。貴方は他人の力を利用する事に慣れていない」
萃香がもがこうとすると、その度に早苗が関節を締める。彼女の技術は妖怪の体内の妖力の流れさえ制御するに至っているのだ。
「霧化すれば逃げられますよ? さあさあ早く」
「そしたらあんたがその霧を吸収するんでしょ? その手にゃ乗らないよ」
さらに手首を締める。
「うぐっ……」
「ほら、早く巨大化を解くのです。大分気持ち良くなってきたんじゃ無いですか? 腕の筋が伸びますからね、これ」
周りからは怨嗟の声が聞こえてくる。
『伊吹様が……』『もうお終いだ……』『くそ、酒を用意しろ』『妖怪の天下もこれっきりか』
鬼が、負けた。それは山の妖怪に深い絶望を刻んだ。
「あはは、なんて私の頭は悪かったのでしょう。最初から自分の力に頼る必要なんてどこにも無かったんですよお。ある実業家の墓碑銘に曰く、『自分より賢きものを周囲に集める術を知りしもの、ここに眠る』他人の力を利用することも立派な才覚の一つなのです! 大王が一人で万の軍勢に立ち向かえるでしょうか? 科学者は大学の手を借りずに論文を発表できるでしょうか? エンジニアは会社やネットワークに頼らずに新製品を開発できるでしょうか? 違います! 王には王に属する! 学者には学者に属する力が必要であり! 他の力、神の力を利用することはむしろ風祝の本来の姿! 巫女としての宿命なのです!」
内耳の内側に直接響くように脳裏に神奈子の声が聞こえてきた。
『大王は配下の者に食い扶持と使命を与え、科学者はその知識を利益として社会に還元する。その循環は早苗がやっているような不幸をばら撒く一方的な搾取では絶対にないよ! それではまるで、妖怪だ』
「ふむ……では、与えましょう。これだけの力があれば、さぞ色々な奇跡が起こせるに違いありません。快晴がいいですか?」
早苗が大幣を一振りすると、十五秒の内に山にかかっていた噴煙柱が飛び去り、太陽が湖を照らしだした。まばゆいばかりの光が湖に反射し、山の妖怪たちは目を覆った。
「それとも豪雨にしましょうか?」
再び一振り。雲が内側に渦巻きながら現れ、瞬く間に上空に立ち込めた。二〇秒後には湖をひっくり返したような雨が降りだした。水の粒が山の妖怪たちの頭を打った。気化熱で冷やされたマグマが灰色に濁り、白煙と蒸発する音を立てる。
「間を取って天気雨なんてのも素敵ですね!」
雨が止まない内に雲の切れ目から太陽が覗き、山の湖に大きな虹がかかった。根元の守矢神社から神徳を山中に振りまくような巨大なアーチ。
「お、おおー」
観客の河童と天狗たちが目を見開き、早苗に向かってひれ伏した。神奈子は驚愕した。
「む、無詠唱であれだけの奇跡を!」
認めざるを得ない。早苗は妖怪ではない。神なのだ。
「素晴らしい。妖怪たちが妖力だけでなく信仰を捧げてくれるようなりました。これだけ自在に天候を操作する力があれば、もう世界に干ばつや飢えの心配なんて無くなります。私がもっともっと零落した神の力を吸収し利用し、信仰を集めれば、この地はますます繁栄していくことでしょう。ゆくゆくは外の世界に出戻り、過剰な灌漑で水を失った大地に潤いを与えるなんてことも出来るかもしれません。天候さえ操る事が出来れば砂漠化、温暖化、食料不足や居住地不足が一挙に解決できるのです! 神奈子様、諏訪子様、やりました! 私はあなた方の力を借りずに神になれたのです! 私はこれからも妖怪の力を利用して、世のため人のためにご利益を生み出していくことと致しましょう」
「ああ、一人ブラック企業、東風谷早苗の誕生だ」
ぱしゃり。
早苗は音がする方を見やると、岩山の上に見慣れないデザインのカメラの三脚が立っている。新型かもしれない。その裏では河童がピースサインをしていた。
ぱしゃり。
「記事にするならどうぞ。こんな機会には滅多に出会えないでしょうからね」
しかし、どうにも不審だ。念のため御幣を河童に向ける。にとりから稲光が放射され、ちりちりと死の鎖が形成される、はずだった。しかしシャッター音がして、何も起きない。
「不発……?」
魚を疑似餌に掛け、順調に引っ張られていたはずが、次の瞬間には釣り糸の張力を感じなくなったような、獲物を逃した時の感覚。
早苗を写そうとしているのはにとりだけではなかった。早苗を中心とした同心円上におかっぱ頭の、丸メガネの、ヘアピンの河童たちが取り囲んでいる。
「何を企んでいるのです?」
タイミングがずれ、ヘアピンの河童の胸から鎖が飛び出した。
「ぐ、しまった」
しかし丸メガネがその様子をファインダーで捉えており、シャッター音がしたのちに鎖が消え去った。
おかしい。文に初めて使った時はカメラがあっても問題なく妖力吸収を発動することができた。しかし発動さえさせないとなると理屈が通らない。なんらかの理屈でぴったりタイミングを読んでいるとしか思えない。
文は湖畔の、小高くなった岩の上に立っていた。空き瓶を片手に、今しがた水を飲みきったところだ。厳しい戦いになるだろう。胃袋のなかで水が揺れる感覚がした。そして早苗の演説を聞いて、目を伏せた。
「助けてあげないとね」
その後ろには鴉天狗と白狼天狗の続いていた。各々が持っているカメラの電源をつけ、レンズが引き出される駆動音がする。文が河童たちに在庫をかき集めさせた弾消しカメラ、発売直前の最新型だ。
「新製品のモニターってわくわくするよねー」
「はたて、いいのね?」
「ここまで付き合っちゃったら、先行きを確かめるしかないじゃん。私だって守らないといけない人がいるしね!」
椛が声を張り上げ、白狼天狗部隊がそれに応えた。
「射命丸様をお守りしろ!」
「おう!」
「椛、いいの?」
椛がこちらを睨み、文は居心地の悪い思いをした。
「そうですね。私は鴉天狗の俗物根性が、写真のような薄っぺらさが、その典型のような貴方が大嫌いです。しかし──」
椛は歯を見せて笑った。
「それを捨てられるというのなら、あの人間を愛しているというのなら、貴方は私にその度胸を見せるべきだ」
「あ、愛……」
「それに、今の貴方の命令は大天狗様の命でもありますから」
椛はあくまでも職務に忠実だった。
「さあ、早く。我々はいつでも出発できます」
帽子の紐を結び直し、早苗をまっすぐ見据える。彼女はまだ河童の方を見ている。
「早苗、私は間違っていたわ」
懐から羽団扇を取り出す。
「貴方を新聞のネタとしてでもなく、厄介事のタネでもなく。貴方がどれだけ寂しい想いをしていたのか、どれだけ自分勝手なのか、何に笑うのか、何に悲しむのか、それらをすべて鑑みて! 一人の尊重すべき人格として扱いましょう!」
岐符「天の八衢」
羽団扇を一振り。風の玉が辺り一帯を埋め尽くし、女神に至る道筋が出来た。早苗がこちらを振り向いた。
文は足を踏み出し、岩の上から飛んだ。重力を感じ、水面に触れるところで羽を広げ、空気に乗った。
びゅうん。
早苗がワインダー弾を斬りつけるように乱射するが、文のばら撒いた風の玉が打ち消す。河童たちもカメラで援護する。
続けて御幣がはたての前に突き出されると、そこに陽炎のような歪みが発生した。椛は反射的にファインダーを合わせ、シャッターを切る。歪みが解消し、澄んだ空間ができた。
「椛、ナイス!」サムズアップ。
「どういたしまして」
椛は文に言われたことを反芻していた。
『あの妖力スポイラー。妖力吸収が発動する前に、一瞬だけ蜃気楼みたいに空間がゆらぐみたい』
『きっと早苗が大きくなる前は、ゆらぎが小さすぎて気づかなかったんだわ』
『そこを狙ってカメラで取れば、妖力吸収が発動する前に妨害できるかも』
「射命丸様が言っていた通りだ」
五芒星の辺がほぐれ、エネルギー弾の壁がいくつも迫った。あるものは垂直に急加速して避け、あるものはシャッターを切って突破した。再び編隊を組む。弾幕が物量を増し、危うく何人かをさらいそうになるが、最新型のカメラは巻きの早さと望遠性能を十分に兼ね揃えている。再び陽炎が眼前に現れ、消える。
「たまには鴉天狗の真似事も悪くないな!」白狼天狗の一人が軽口を叩いた。
「よし。これなら近づける!」文はさらに加速する。
早苗は歯を食いしばった。鬼も神も打ち倒したというのに、自分の指の第一関節にも満たない今の文のことが怖い。自分を守るためにぶちあげた大演説も、いまや溶けて消えてしまったかのようだ。
頭の中に声がした。いつまで神を気取っている? 諏訪子のでも、神奈子の声でもない。戦っている間は必死に覆い隠していた、ほかならぬ自分自身の思考のマイナスの漸化式だ。こんなことがいつまでも続くはずがない。お前はいつまでも神ではいられない。破滅の予感が胸を満たし、みぞおちが絞られるような感覚を覚えた。
「……私は神。これは事実です」
「へへ、私はあんたの吸収に抵抗できるし、私の手を持ってたらあんたは動けない。どうする?」
「当然!」
早苗は我に返り、萃香にとどめを刺すべく空いている手で手刀を振り下ろす。当たる寸前に萃香の鎖が浮かび上がり、早苗の手首足首に絡みついた。
酔夢「施餓鬼縛りの術」
「ッ、この、しぶとい」
「ホントは私が組み伏せているところを天狗にやらせるつもりだったんだけどねー。まあ、鬼も時には策を弄するってことさ。でもこれで予定通り! 五体の自由は奪った」
鎖が橙色に発光する。早苗の身体はは溶けた鉛を注射されたように重くなった。吸いとった妖力を吸い返す圧力が掛かっている。
「問題ありません。要は私が吸収されるより速く吸収すれば済むこと! もっと大きくなってこんな鎖は引きちぎって差し上げましょう」
そうしている間にも文は着実に近づいてくる。奪った妖力は鬼にじわじわと吸い戻されつつある。動揺が集中を乱し、妖力スポイラーの出力が足りない。
「このまま吸えちゃいそう? やったラッキー」
早苗は舌打ちした。
「やはり力任せでは無理ですか」
早苗は足から地面に神徳を流し込んだ。龍脈を伝わって藤の蔓が飛び出し、鎖の一つ一つに巻き付いた。
「建御名方よ! かつて洩矢神を打ち倒したその力を見せよ!」
鎖に赤茶けた錆が広がり、輪の中央から折れた。
「あ、この!」
「困った時の神頼み!」
早苗が地面を蹴り、大きく飛び上がった。大地がひずみ、森が揺らいだ。巻き付いた鎖が解け、伏せる萃香の背中に落ちた。
「ぐえっ……くそ、もう少し持たせるはずだったのに! ごめんよ!」
山のアーチの上にもくもくと雲が積み上がり始め、早苗はそこに飛び込み、姿を消した。雲はさらに厚みを増し、天蓋を覆い、灰色から宵闇めいた黒に変わる。下から響くような雷鳴。
「もしや、あれって」
「積乱雲……」
「あんなのまで作れるのか」
天狗たちも垂直に飛ぶ。集中豪雨が始まった。髪をつたい、下着にまで染み込み、靴が重みを増す。爆弾じみた低気圧のもたらす水滴が鼻に、口に、耳に入り込み、平衡感覚を狂わす。これでは直接水を吹き付けられているのと変わらない。
「えふっ……カメラ、壊れないわよねー?」
「うええ……防水性は大丈夫のはずよ」
「にとりが作ったのです。絶対に大丈夫。しかしこれでは、あまり鼻が利きませんね」
雲へと突入する。椛の千里眼が現在の早苗の位置を捉え、はたての数分ごとの念写が早苗の出方を探る。しばらくは双方とも雲の中のままだ。お互いを視認できる距離を保つ。降水セルはそれ自体がひとつの単細胞生物のようにうごめいている。
椛が鼻をひくつかせた。
「オゾンの匂いがする」
「雷ね?」
「気をつけて」
椛は白狼天狗に指示し、片手剣と盾を捨てさせた。むざむざ避雷針になるつもりはない。
「悔しいが、仕方ない」
「しかしなんで追いつけないのかしら……こっちは全速力よ? いちおう最速を自負してるつもりなんだけど」
「縮尺が百倍ぐらい違うから仕方がないわー。私たちが一メートル進むつもりで早苗ちゃんは百メートル進む。でかい奴は力が強い、つまり加速も早いのよ」
「伊吹様が敗れてもとりあえず強行しましたが、思った以上に厄介なことになりそうですね」
高度三キロメートルに達し、気温が氷点下を下回る。しかし過冷却現象が水の粒を液体に留めている。息をするのさえ注意がいる。もはや水中を泳いでいるも同然だ。どこから聞こえるとも知れない雷鳴がプレッシャーを与え続ける。
数千メートルほど上昇して、椛が叫んだ。
「何か来る!」
蛇符「雲を泳ぐ大蛇」
粒子の塊の間を縫って、白い大蛇が十数匹現れた。それぞれが鎌首をもたげ、西瓜を五個は丸呑みできそうな大口を開ける。三人の鴉天狗が飲み込まれ、二人の白狼天狗が牙で貫かれた。犠牲者たちは真っ逆さまに墜落していく。
「これが目的か! 我々をカメラの通用しない場所に誘い込むために」
さらに死の陽炎に飛び込んだ鴉天狗数名が力を吸われて失速し、乱気流に流されて置き去りにされた。しかし正確にこちらを狙ってなされたものではないようだった。早苗の方もこちらを視認できていないのだろう。
「うう、吸収怖い。しかし早苗に追いつけている証拠……」
また大蛇が現れ、文にその身を巻きつかせた。血管が締まり、息が詰まる。
「きゃっ」
すかさず椛が一本下駄の蹴りを入れた。蛇がひるみ、拘束が解けた。文が息を吐き出した。
「ぐえ、ちょっと、私ごと蹴らないで」
「命あっての物種でしょう」
椛は自分の手のひらを見つめた。指も、腕も、何もかも短い。
「……一撃が軽い。やはり体格の差が響いてる」
七匹の大蛇が続々と現れ、再び文と椛を睨む。椛は唇がめくれ上がるまで笑い、敵に牙を見せつけた。
牙符「咀嚼玩味」
視界を埋めるほどの幅の紅い牙が現れたかと思うと、大蛇の胴体が同時にちぎれ、断末魔の叫びを上げながら輪郭を失った。
「顎の強さなら負けない」
文は改めて感嘆した。妖力を吸われてなおこれだ。この白狼天狗は大変に気難しいが、味方にするとこの上なく心強い。かつて博麗の巫女が九天の滝を襲った時も、スペルカードさえ使わずに二発も霊撃を使わせたとの評判だった。それに偽りはないようだ。
肌が痛みを訴え始めた。雹が上から、横から、軌道を描いて身体を打ち据える。天狗たちはカメラのレンズをしまった。氷の結晶同士がこすれあい、軽いものは上へ吹き上げられ、重いものは下にとどまる。その距離が莫大な電位差を生ずるのだ。
再び数千メートル垂直の旅をすると、また椛が叫んだ。
「また来る」
「なにか分かる?」
「小さすぎる」
氷に混じって、天狗部隊の何人かの額に何かが落ちてきた。
奇跡「ファフロッキーズの奇跡」
白狼天狗の一人がそれをつかみ、手のひらに載せた。見たこともないほど鮮やかに青い蛙が喉を膨らませたり縮めたりしている。
「へえ。なかなか可愛いじゃないか」
「でも幻想郷にはいないぞ。どこの品種だろう?」
「いや、喫茶店に置いてあった図鑑で見たことがある、こいつ」
「ヤドク……ガエル……」
アルカロイドが皮膚を通して神経を侵し、二十分の間に新たに四人が白目をむいて落ちた。
「雲が濃すぎる。どこから来るのか」
また落ちてくる気配がした。椛は腕を額にのせ、頭をかばった。
写真「フルパノラマショット」
タイミングを読みきった三六〇度の念写を受けて、脅威の元が消滅する。椛は自分の手を見た。何も落ちていなかった。
「全部撮っちゃえば関係ないっしょ!」
「恩に着る」
高度一〇キロメートル、マイナス四〇度。六角柱の結晶が肌をなでる。氷の粒は雹とはいえないほどに小さくなっている。下から上昇気流で吹き上がって過冷却された水の粒はここで凝固し、これから重力で降下するにつれて雪や雹の結晶に成長するのだ。
はたては手元のカメラを覗きこんでいた。五分後の光景を移すディスプレイには青空と太陽が表示されている。
「あともう少しよ! 頑張って!」
椛が再び鼻をひくつかせる。地響きのような音が大きくなる。
「……オゾンが濃い! 要警戒」
「とうとう来ちゃったか―」
閃光が奔り、虹彩を貫く。網膜を焼く。雷だ。まず大電流で鴉天狗が五人黒焦げになる。鉄板にぶつかるような衝撃波が飛び、白狼天狗が巻き込まれて三人ほど失速し墜落した。残されたのは椛とはたて、そして文のみだ。
「生きてるといいけど」
「白狼天狗はヤワではありません。それより、早苗が雲を抜けました」
数秒後、視界が開けた。高度一万六千メートル、成層圏と対流圏の境界。ここから先は鴉天狗もめったに飛ぶことがない、未知の領域だ。上昇気流で服が激しくはためき、マイナス七〇度の大気が容赦なく熱を奪う。常人ではまず生存は不可能だ。皆、疲れを見せ始めていた。
「寒い、寒いわー。酸素も少ないし」
「きっと早苗も無理しているわ。大丈夫かしら」
「逆に言うと、私たち空の専門家なら追いつける可能性が高い」
早苗の姿が数キロ先にはっきりと見える。振り向いて文の姿を認めると、何かを唱えるかのように口が動いた。
奇跡「神の風」
早苗の中心から溢れだした神徳が風の姿を借り、天蓋から雲の下まで至る大渦を形成した。対数螺旋を式にそのまま取り込んだかのような美しさ。面積にして幻想郷さえ覆うだろう。
かまいたちが、風の玉が、エアロゾルが、つむじ風が、三人に襲い掛かってくる。
まず三人は散開した。椛は右斜め下に旋回して避けるが、風の玉の隊列が団子状になって追いすがる。
速写モードでカメラを前方に向けるが、発光装置が焼けつくほど連写しても相殺しきれない。
椛は舌打ちし、視界いっぱいに広がるエネルギー弾の竜巻を展開した。しかしその中心めがけて風の玉が殺到し、勢いを徐々に殺していく。相殺するにはもう一発要るようだ。
椛は声を出して気合を入れようとしたが、めまいがそれをさえぎった。血の巡る感覚がぐわんと歪んで頭の天辺から広がり、身体から力が抜ける。
「不覚。体力の残りを見誤っていた……体格がこれでは」
風玉が竜巻を突き破り、椛の身体全体を打ちのめした。
「弱り目に祟り目、か」
帽子が、カメラが吹き飛び、椛の姿が雲のはるか下へと吸い込まれていく。
「椛!」
「射命丸様、逃げないでくださいよ。でないと私が許しませんから……」
さらに五キロメートル進み、早苗への距離を四割ほど距離を詰めた。大渦がさらに大きく見える。死の陽炎が七つほど二人の前に現れた。二人の新聞記者は二回ずつシャッターを切ってこれを突破する。左旋回、右旋回、あらゆる動きを自在にこなす。
大渦の端に到達した。極限まで高まった風圧の歪みが同心円状に衝撃波を起こすが、二人は二重らせんを描いて表面を這うように避ける。陽炎の分布が濃くなる。
音の壁がかまいたちを伴ってはたてに飛ぶ。はたては陽炎を消したところだった。逃げ場がない。
「危ない!」
文がシャッターを切り、はたてへの直撃は免れた。しかしカメラに結び付けられていた紐が切れ、吹き飛ばされたカメラが積乱雲の中に吸い込まれていく。
「カメラがなければ、足手まとい。ここから先は、あんたに任せるわー。いってらっしゃい!」
彼女は手を振り、ゆったりと雲を避けて降下を始めた。
「はたて、今までありがとう!」
「今生の別れみたいに言わないのー! 絶対ゲットしてくるのよ! あんたの好きな人ー!」
文は一人になった。眼下では雲が拡散してフェードアウトしつつあり、切手のような幻想郷が一望できた。博麗神社、魔法の森、迷いの竹林、人里はゴマ粒。さっきまであれほど広く感じていた山の湖は、爪の先を重ねれば覆える程度の大きさでしかない。その周りは地平線の先まで無限遠の、幻想の緑だ。
不思議と恐怖はなかった。髪と、骨と、筋肉が一筋の流れになり、吹きすさぶ風と一体化する、気持ちのよい感覚だけがあった。
さらに五キロ飛んだ。あと一割だ。大渦の中心に飛び込み、抜けた。彼女の上に影が覆いかぶさった。文は上を見据えた。正午の太陽を背にした早苗が、こちらを見下ろしていた。
「こんにちは、私の風の女神様」
「幻想風靡」
蹴る。蹴る。空中を蹴る。一歩一歩が音速を越え、円錐形の大音響を形作る。その反作用で上に進む。
陽炎が発生。気流に巻き込まれて手が激しくぶれるが、なんとかファインダー越しにとらえた。シャッター音、陽炎が消える。紅と蒼のかまいたちもすり抜ける。
早苗と同じ高さに達し、勢いを殺すために裏返るように一回転。すると握りこぶし大ほどの氷の球が肩にぶつかった。肩を押さえ、もんどり打って五メートルほど落ちる。
「っ、まだ何か、切り札が、」文は体勢を整え、前を見た。
早苗は泣いていた。
「来ないで……」
文は唇を噛んだ。
五十メートル圏内に入り、早苗が腕と御幣を振り回してきた。指の一本一本が文の全身の骨を折るのに十分な質量がある。しかし大きいだけに隙だらけだ。文は問題なく早苗の胸の上に近づき、服の繊維に組み付いた。早苗の心臓の鼓動を感じる。呼吸による胸郭の上下だけで振り放されそうだ。
早苗の皮膚の上に、空間の歪みが発生した。しかし文はカメラを構えず、あえて陽炎に飛び込んだ。空気の爆ぜる音がして、文の姿は消えた。
早苗は目を見開いた。
「え……何でわざわざ吸収されに……? 『飛んで火に入る』…… 死んじゃうじゃない。私は贄までは要らない。こんな、こんな……」
それ以上は思考回路が回らなかった。
「空気が……薄い……」
文はふと気づくと、板張りの廊下を歩いていた。
「ここはどこかしら。初めて来る? いや……」
二柱に応接間に連れられる時に見たことがある。守矢神社、早苗の作り出した社務所の原風景だ。実物と違うのは、床から天井に至るまでのすべてがセピア色に色あせていることと、横に吊り下げられたコルクボードに写真がぺたぺたと貼られていることである。生まれた時の写真・霊夢との初戦・魔界探索・霊廟調査・非想天則……
写真の早苗たちがこちらをじろりと見た。文は足を止めたが、それらはそれ以上は干渉してこなかった。また歩き出した。
コルクボードの列が切れた。代わりに現れた掃出窓の外には白い濁流が見えた。文が雲の中を突っ切る時に見る光景にとても良く似ている。早苗が今まで吸収した妖力が血流のように辺りを巡り、唸りをあげているのだろう。
ドアを開ける。もう一度コルクボードの廊下に入った。時系列がより最近のものになっている。半分ほど進むと、写真はすべて文の姿を写したものとなった。寝顔。料理をしている姿。お風呂に入っている姿。可愛らしいもの、凛々しく流麗なもの。文のさまざまな一面を見事なまでに切り出している。自分で撮ってもここまで魅力的には映らないだろう。
「早苗の中では私がこんな風に見えていたのね」
早苗との戦い。羽団扇をかざし、風と落ち葉を自在に操る。カメラを構え、風景を切り取る最高の瞬間を待ち構えている。
「私ったらこんなにもキラキラ輝いていて……少し気恥ずかしいわ」
文は角を曲がり、もうひとつ扉に突き当たった。ドアとその周りには隙間なく文の写真が張り付き、小刻みに震えている。これから入る領域をこじ開け、侵そうとしているかのようだ。
「写真だけじゃ済まさないわよ。これから本物が入るんだから」
文はドアノブを回し、早苗の部屋に入った。ここもまたセピア色に染まっている。
開いたアルバムが床に落ちていた。留められた写真には幻想郷の人間とは違う服装の人々が写っている。外の世界の住人だろう。早苗の隣で笑っているのは、文の見知らぬおかっぱ頭の女の子。歳は十三か十四ほどだろうか。仲睦まじそうだ。文は胸の内にこみ上げてくるものを感じた。
同じような写真が、この部屋には全面に貼られていた。灯りに、箪笥に、学習机に。写真の早苗がこちらを睨む。侵入を許さず、上書きも能わず。
早苗は中心の回転椅子に座って、文に背を向けていた。文が声を掛けると、ゆっくりと回転して振り向いた。頬には涙の跡が残っている。
「何で来たんですか」
「貴方が好きだからよ」
「本当だか分かりゃしませんよ」
「貴方の言うわざとらしい口調も捨てたわ。貴方をなだめるための方便じゃない。間違いなく本心よ」
「どうだか? 私が好きになった人も、女の子が好きだった。しかも二回も続けて。どんな確率でしょうね?」
「好きでもない人のために普通命を賭ける? それこそ極々低確率よね」
これは効いたようだった。早苗は立ち上がった。その顔には意地が現れている。
「もういいんですよ。私が死んだら文さんにあの子と同じ想いをさせなくちゃいけなくなるんです。外に残してきたあの子と。どうせ私は置いてっちゃう。だから私は貴方を好きになっちゃいけないんです」
文は笑った。神になりたいのか人として死にたいのか。早苗の中では無茶苦茶だ。
「馬鹿ね、何を拗ねているの? そんなのいくらでも抜け道はあるの。特にこの幻想郷ではね」
「でも、でも」
文は早苗の肘に掌を触れさせ、それを遮った。
「貴方がもっともっと強くなってちゃんとした神様になれば、私が死ぬまで一緒にいられる。いや、死なない。ずっと生きてあげる。貴方が仙人になっても私は一緒にいる。最悪貴方が化けて出たって私は愛してあげる! 置いて行きたくないのなら、何が何でも永く生きてよ」
反論の隙が無くなってぱくぱくとさせている早苗の口を、文は塞いだ。早苗の頭の後ろを両手で支える。口に含んでおいた睡眠薬が、舌を伝って早苗へと流れ出す。
壁の写真が剥がれた。文の写真が部屋に滑りこんできた。
妖怪の山の湖畔。鈴仙は文の部隊に同行して墜落してきた天狗たちの手当をしていた。その合間に双眼鏡片手に、空で米粒ほどの大きさになった早苗を見守っていた。もう片方の手には文が置いていった薬の瓶が握られている。
「あの天狗の胃袋には、ベンゾジアゼピン系の睡眠薬をたっぷりと詰めた。この薬剤は人間のGABA受容体にあるベンゾジアゼピン結合部位に作用し、脳の働きを鈍らせる。でも妖怪には何の影響も及ぼさないし、吸収されずにそのまま排出される。妖怪に効く薬は人間にはだいたい効かないし、逆もまたしかり。化け物じみた力ではあるけど、貴方のベースはあくまで人間。念のため守矢の二人にも問い合わせた。アレルギーもなさそうだし、普段彼女が使っている睡眠薬と同じだったから、問題なく使えた」
また一人、鴉天狗が落ちてきた。妖怪兎たちが四方に広げた布に落ち、大きく跳ね上がった。
「あの分厚さの皮膚を通す注射針は存在しない。だけど直接吸収させれば話は別。貴方は自分の意志では力を排出できないんでしょ? ならこのまま眠るしかないわね」
空の一点が、マグネシウムリボンのように白く発光した。パンッ! という破裂音と共に雲が晴れ、放射状に虹色の鏃が飛び出した。幻想郷中を覆い尽くす、真昼の花火だった。
妖力を含んだ蛍光色の雨が山の麓に、玄武の沢に、九天の滝に、山の湖に降り注ぐ。
大天狗が二メートル半の巨躯を取り戻し、間に合わせの服が内側から破れた! 周りの視線を感じ思わず股間を抑える全裸中年男性!
地面が盛り上がり、中から諏訪子がもぞもぞと這い出てきた。
「諏訪子、具合は?」
「うん、もう大丈夫。上手くいったみたいね」
二柱は辺りを走り回っている大天狗の方を見た。
「ウオオーッ! おのれ! 服はどこだ! 服は! 服はァー!」
「なかなか……ご立派な……」
二柱は苦笑いした。
同様のパニックが山中で起こっていた。ある河童は急に首周りが太くなり、幼いころに着ていた服に首を締められた。みるみるうちに顔が赤黒くなったが、そばにいた河童が襟に鋏を入れて助けだした。ある天狗は隠れ潜んでいた穴にはまって動けなくなり、五時間経ってから懸命な捜索の末引きずり出された。
はたては背中に気を失っている椛を載せ、自宅の前に降りた。同時に空から破裂音が聞こえたので寝室に駆け込み、椛を脱がせてベッドに横たえた。そのままシーツを被せてやり、自分も服を脱ぎ捨て、机の引き出しから取り出した予備のカメラを持って待ち構える。天井を通して虹が降り注ぎ、二人とも問題なく体格を取り戻した。はたてはその様子を写真に収め、窓の外を見た。
「きれーい。上手くいったのね。よかったよかった」
カメラを折りたたんで閉じ、その音で椛が目を覚ました。起き上がって自分の身体をひと通り眺める。鍛えあげられた四肢、腰、肩幅。満足そうに手を握り、また開くのを繰り返す。
「やはりこの身体が一番。いままで自分の身体を生きていた心地がしない」
文が気がつくと、周りには空しかなかった。慌てて辺りを見回すと、百メートル下に自由落下する早苗の姿があった。今にも雲の下に消えそうだ。
空を蹴り、急降下して抱きとめる。約一.六メートル、元の通りの大きさだ。
抱きとめた衝撃が伝わったか、早苗の目がゆっくりと開いた。
「ごめんなさい」
早苗は文のカメラに手を伸ばし、レンズを文と自分に向け、気流で震える手をなんとか安定させて、シャッターを切った。
「えへへ、初めてのツーショットです」
そういって、また目を閉じた。支えを失ったカメラが落ち、文の首に掛けられた紐にぶら下がって、振り子のように回転した。
「まったく……」
文は周りを見回し、自分たちふたり以外に本当に誰もいないことを確かめた。そして自分の腕に重みをかける柔らかさを感じながら、眠れる女神にもう一度キスをした。
◇ ◇ ◇
三日後。大天狗の執務室。文は扉のそばに立っていたが、大天狗は部屋中を落ち着きなくのしのしと周回して、あらぬ方向を見つめながらしゃべっている。
「射命丸君、君が頼りだ! 君が奴の気を惹いているかぎり、あの化け物が天狗を祟る事は決してないだろう! しかしうっかり怒らせて妖怪の山壊滅、なんて事態は避けなければならんぞ!」
あからさますぎる打算の臭いに、文は嘆息した。しかしかつて自分もそれと同じ態度を早苗にとっていたことを思い出し、口に出すのをやめた。
文は大天狗の鑑札を返し、執務室を出た。飾り石の並べられた庭園を抜け、屋根瓦のついた門を通った。門の護衛が最敬礼している。早苗が待っていたのだ。
「もうオフですね?」
「ええ」
早苗は居心地悪そうにしていた。あれだけの事件を起こしたら、山中の妖怪から恨まれても文句は言えまい。しかし早苗が道を歩いて現れたものといえば、複数人で集まってきて取り囲んで拝むもの、直立不動で敬礼するもの、道端に身を投げだして平伏するものまで出る始末だった。その中には白狼天狗も多く含まれていた。
守矢神社の信仰は失われなかった。むしろ、かえって増えた。『風祝を怒らせると力を吸い尽くされる』との共通認識が広がり、事件の後も山中の妖怪が早苗に信仰を捧げるようになったのだ。
諏訪子いわく。
「結果オーライかしら?」
神奈子いわく。
「あんたに似たんじゃないの? 祟り神だし」
「否定はできないねー」
架空索道は問題なく建設できるだろう。
二人は手を繋ぎ、川の流れに沿って歩いた。イチョウ・コナラ・イロハモミジの落ち葉が地面を彩り、渓流の音が華を添える。これから二人で山を巡るたびに、この景色は様相を変えるのだろう。
恒等式。文×早苗=……答えはこれから見つけよう。
「一回目のデートですね! どこに行きましょうか」
「実はもう決めてあるのよ。渓流のそばのカフェはどうかしら? 友達が待ってるわ」
「二人っきりじゃないんですか?」
「どうしても会って欲しいの。私が貴方を好きって気持ちに気づけたのも、その人のお陰と言ってもいいわ」
「へ、へえー? それじゃ仕方ありませんねー」頬に赤みが差している。ちょろい。文は思った。
「どちらにせよ、あそこの珈琲の味には満足できると思うわ。これから何度も行くことになるかもね」
文は手帖を開き、挟み込んでおいた写真を見た。文と早苗、そして青空。写真の本質とは、時間を超えた空間の共有にあるのかもしれない。
「いい写真だけど、新聞には使えないわね」
まあいい。いずれまた機会はできる。
私はこの子の成長記録者として、いつまでも側に寄り添うことにしよう。
天狗は小さな祟り神を腕に抱いて、悠々と空に飛び立っていった。
(了)
その一方でロマンスもあり、早苗の過去も差しはさまれつつ、笑いも忘れない、良いエンターテイメントでした。
天狗の本領はさらった人間に稽古をつけることだとか、早苗はなんだかんだ祟り神の系譜だとか、もともとあったシンプルな要素をうまく組み合わせてあって、実に東方していて楽しく読むことができました。
作者さんはどこでもめいっぱい書き込むタイプの方と見えるので、人物の一挙手一投足からその場の空気の流れまで、こちらで容易に想像しやすく、読んでいて実に楽しいです。ただ、そうしたほかの部分と比較すると、「あの人」との場面だけ妙に物足りなく感じました。簡潔にまとまってるので、ストーリー的にはまったく問題ありませんが、作者さんの筆致からすると心細く思えます、と言ってしまうのは勝手が過ぎますね。主題からは逸れるところですし。
なぜ文はヘタレ攻めが似合うのかという疑問に答えを見た作品でした。しかし、一番気に入ったのが明け透けにもの言うはたてだということはここだけの秘密です。
誤字報告
>GABA受容体ににある
これ以上ないほど満足させていただきました。
前半は面白かったけど、後半ちょっとダレたんで、早苗さん大暴れはもうちょいサラっと流してくれればなーとは思った
アクションありコメディありと、素直かつ精妙な文体できっちり仕上がったあやさな長編を楽しめました。
一度「ああそういうことね」と予想した展開から大きくズレ込むのを見ていると「おおっ」となり、驚きも感じられてよかったです。
点数に関係ありませんが契約書の書き方が気になりました
「賃」貸借契約書なのに契約金額の記載がない、風祝と前書きにあるのに第一条では東風谷早苗となっている、代表者の記名がない等々、全体として問題はないかもしれませんが。
大天狗?ムキムキで笑ったw
次々とつぎ込まれるアイディア、展開、存分に楽しませてもらいました。
脇役も皆いいキャラしててとっても楽しかったです
対立している側にかっこよさを用意されてしまうともうね。困っちゃうよね。
三人は詳しい計画を詰めた。およそ一時間半ほどに及ぶ話し合いだった。座りっぱなしの三人は身体を曲げ伸ばしした。
といった部分の文体に?が浮かぶ回数が規定数を超えました。
書籍化される際に見直しされることを期待します。
修行ものとして綺麗に終わったと思ったらまさかの「これからがほんとうのあやさなだ……」でしたね。
しかし皆さん縮んで服がダブダブになったりはじけ飛んでるのに、なぜ早苗さんの巫女服はジャストフィットし続けるのか…ブッダよ、あなたは今も寝ているのですか!
どのキャラも魅力的だったんですが、中盤の椛の扱いだけは受け入れ難かったです。早苗が生まれる前の時代を知ってる身としては、そういう活動家とキャラクターをダブらせるような見せ方はちょっと……せめて名無しの白狼天狗くらいならなあ、と思いました。
ただ、そこを除けば武人でルールを重んじるように映ったので、作中を通して見ればやはりいいキャラクターでした。
でも名脇役のMVPははたてですね、ありがちな対人恐怖症ではなく、外に出る必要がないから引き籠ってるんだって感じでちゃっかり恋人までいるインドア派リア充。
このはたては友達多そう。