「綺麗な月ですね」
白い寝間着を着た慧音は掘立小屋の前に立ち、手を後ろに組んで冬の夜空を眺めていた。つられて私も竹林の遥か上を仰ぐと、成程、少し欠けた小望月にいい塩梅で雲がかかっている。
「そうだな」
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と最初に聞いた時、何だか今一つ腑に落ちなかったが、今はその言葉と自分の感覚がかみ合っている気がする。完全な満月よりも、今夜の不完全な月の方が美しく思える。
そういえばその言葉を言った法師は、今頃何をしているのだろうか。
流石にもう死んでいるか、などと考えていると慧音が振り返る。私の老人のような白髪と違う、綺麗に青みがかった彼女の白い髪が月の下で輝いている。同じ白い髪の持ち主としては、少しだけ羨ましい。
彼女は私の持っている、水のなみなみ注がれた桶に目を留めた。
「水、持ちましょうか?」
もう終着点である小屋の目の前まで来ていたが、人の好意を無下にするのも悪いので彼女の言葉に甘えることにした。
「悪いね。ところで何で外に出てたんだ?少し水を汲んでくるだけだから、先に寝てていいって言ったのに」
右手の桶を渡しながら聞く。すると慧音は目線を手に持った桶の方に落とした。白い息が漏れる。数秒の沈黙の後、彼女は俯きながら答えた。
「妹紅さんが近くにいないと……何だか不安で、落ち着かなかったから」
「そう……」
無理もない。
慧音が記憶を失ってから、まだ二日も経っていないのだから。
小屋に入ってすぐの所に桶を置き、指をパチン、と鳴らして火が消えかけていた囲炉裏の息を吹き返させた。出かける前に囲炉裏の横に敷いた布団が、ほんのりと赤く染まる。僅かに照らされた我が家は、吹けば飛びそうな位オンボロで、あばら家という単語の意味を忠実に再現していた。何せ自分で適当に建てただけなのだから仕方ない。
小腹が空いていたので、布きれをかけておいた竹細工の入れ物から、干し芋を手にとって、囲炉裏の前に腰を下ろした。
「慧音も食べるかい?」
布団の上に座った慧音に、囲炉裏で竹串を刺した干し芋を焼きつつ聞いてみると、彼女は静かに首を振った。
「それより、妹紅さんの分の布団は無いんですか?」
「ああ、気にしなくていいよ」
人自体と会わない生活が長いこと続いていたので、来客用の布団なんて持っているはずがなかった。ここ最近は慧音が泊まるときもあったが、その場合は二人で飲んだくれて、そのまま寝るときだから、気づけばそのまま床に寝ている。布団があったとしても、そこにちゃんと寝るかはかなり怪しい。
「でも……」
「そんなに言うなら、二人で一緒の布団で寝ようか?」
「えっ……私は全然構わないですけど……その……」
目をそらしつつ恥ずかしそうにしている慧音は、普段だと中々見れない姿で可愛かった。囲炉裏の火にあてられている分を除いても大分顔が赤い。女同士なんだから同衾程度、そんな恥ずかしがらなくていいだろうに。
記憶喪失以前なら、この程度は軽くあしらわれて当然だったんだけど……おっとにやけ過ぎか。慧音に見られていないからいいものの、囲炉裏はだらしない私の顔を照らしていることだろう。
「大丈夫。今日は寝るつもりないから」
「いや、それって大丈夫なんですか……」
一日寝なかった位で、流石に死ぬことはないだろう。蓬莱人の私の場合、その気になればいくらでも平気で起きていられる気もする。今度暇な時にでも試してみようか。
「何にせよ子供は寝る時間だよ。ほら、寝ちゃえ寝ちゃえ」
「子供扱いしないでくださいよ……」とぼやきつつ、彼女は素直に布団に入った。
不規則気ままにパチパチと音を立てる囲炉裏から干し芋を取り出し、少しだけかじる。別に小腹が空こうが、餓死したとしても死に様がないんだけどな、なんて考えた後、人里のことを考えた。
里では恐らく、慧音が行方不明ということになっているだろう。一晩だったら今までに何回か私の家に泊まったりしているし特に問題はないが、長引けば話が変わってくる。人望がある慧音のことだ。ひょっとして里の人間が、わざわざこの迷いの竹林くんだりまで探しに来たとしてもおかしくはない。
里の誰かが来た時のために起きているのだが、起きているから何なのだろう。事情を説明しても、そこには記憶を失った慧音が居るだけだ。妙な勘違いをされて襲われても、死なないのだから別にどうでもいいし。本当に何でわざわざ起きているのだろうか。
かといって慧音を記憶喪失のまま人里に帰すわけにもいかない。これは私が解決しなけばならない問題なのだ。
「……チクショー」
干し芋の最後の一かけらを口に入れるが、特に美味くもない。一応とっておきで、最後の一つだったんだけどな。どうやら美味い物はそれが楽しめないときは、食べるのを止めといた方がいいらしい。千年近く生きてて、そんなことも気づかなかったのだろうか。そう思うと何となくため息がこぼれる。
そのまま力を抜いて、慧音とは反対側に倒れこんだ。可愛い寝息が聞こえてくるので、彼女すっかり熟睡しているようだ。
記憶喪失になることがどんなことか体験したことがないのでよくわからないが、彼女は今、とても不安なのだろう。だからその不安で疲れてしまって、ぐっすり眠っているのだ。
早くどうにかしてやりたいが……。あれこれと色々考えているうち、瞼が重くなって、視界がだんだん狭まって細くなり、私は結局、深い眠りへと落ちて行った。
早朝の灰の寒空の下を、二人で手をつないで歩く。どこからこの竹林に迷い込んだのかは知らないが、フクロウがかったるそうに鳴いていた。
「こんな朝早くに起こしちゃって悪かったね」
「ううん。どうやら私、朝には強いらしいですから」
ポケットに突っ込んだ手の反対側から、慧音の体温が伝わってくる。けれど半歩差があるせいで、彼女の顔は見えない。自分のことを曖昧にしか話せない彼女は、どんな顔をしているのだろうか。
「おっ」
ようやく目的地が見えてきた。竹林が開けた地には輝夜の住まい、永遠亭が建っていた。
だけど今日用があるのは奴の方ではない。
昨日の月は小望月だった。すなわち今日の夜は満月、慧音が獣人化する日だ。記憶を失ったまま記録を押し付けられて、彼女がどういった反応をするかはわからない。ただでさえ記憶を失って不安定なのだから、あまり楽観的な予想はしない方がいいだろう。下手をすれば精神が瓦解してもおかしくはないのだ。できることなら今日中に記憶を取り戻してやりたかった。
「あ、いたいた」
「こんな時間に来るなんて珍しいわね」
縁側から少しおどけた声でそう答えるのは、輝夜の従者、蓬莱人、月の頭脳にして天才薬師、八意永琳だ。珍しく彼女は髪をまとめておらず、あろうことか寝ぐせまであった。その後ろには月兎が眠たげな眼で、ぼんやりこちらを見ている。
永琳のことは輝夜が殺し合いの最中、疲れきって再生に手間取ってるとき、一方的に話しかけてくる雑談の内容の中に一番多く出てくる名前だから、直接話すことは少ないが良く知っている。
「で、何の用かしら?」
「話がある」
私の言葉に永琳はすぐには答えず、じっと品定めでもするかのように私の方を見る。彼女が慧音の方に視線をずらすと、怯えた慧音は私の後ろに隠れて、私の腕をぎゅっと掴んだ。そして最後にため息を一つついた。
「いいわ。うどんげ、客間でハクタクの方の相手を」
「……らじゃー」
月兎は一度目をぎゅっと閉じ、開いて眠気を振り払い、慧音に話しかける。
「じゃあ慧音さん。履物を脱いでこちらに」
慧音は私の方を見ていて、その瞳は不安で揺れている。「大丈夫だ」と私が告げると、彼女は靴を脱いで縁側に上がり、おどおどと月兎の後を付いていった。
あの狡猾な背の低い兎なら問題だが、輝夜も絡んでないし恐らく平気だろう。
「立ち話もなんだし、とりあえず上がって」
小さくうなずいて私も縁側に上がると、ひんやりと冷えた床に不快感を覚える。慧音たちとは逆方向に進む永琳の後ろを付いて行くのだが、視界に入る寝ぐせでぼさぼさになった銀色の髪がやたらと気になった。
今まで会ってきた彼女は公の姿だったんだろう。いつもの笑顔の裏に一物抱えている雰囲気と明らかに違っている。月の民もやっぱり同じ生き物なんだな、と感じてしまう。
「えーと、私の部屋はここら辺のハズよね……」
天才にあるまじき発言が聞こえてきた。もしかしたらコイツ、半端ない馬鹿なのかもしれない。
永琳は「うん、あってるわね」と小さい声で呟き、室内に入った。私も後に続くが、部屋の中を見た瞬間に動きが止まった。
襖を開けると、そこには異世界が広がっていた。
扉は普通の日本住宅のくせして、中は材質からして違う。床は石と似ているが、明らかに別物な灰白色の素材でできていて、その上にはナイフやぬいぐるみ等、節操なしに色んなものが散見される。円柱型で硝子製と思わしき水槽がいくつも立ち並び、暗い室内でぼんやりと緑色の光を放つ。向こう側の壁は本棚で、一面本で埋め尽くされていた。
貴族の屋敷のような永遠亭の中で、コイツの部屋はさぞ浮いていることだろう。
「うどんげ用の椅子がそこら辺に転がってるから、適当に座ちゃって」
言われた通りに、脚が鉄でできている椅子に座った。永琳が三歩向こうの机の前にある椅子に座ると、椅子が少しくるりと回る。妙な椅子だ。
互いの距離が離れ過ぎている気もしたが、近づくのも何だか変な気がしたので、そのままの位置を保つことにした。
「で、何の用……と言ったところで、大方の察しは付いているけどね。一応、貴女の口から事情を聞かせて欲しいわ」
ゆっくりと頷いてから、前かがみの姿勢で手を組み、ぽつりぽつりと私は語り始めた。慧音が記憶喪失になったこと、満月の夜が近い事、人里の連中がかなり心配しているだろうということ。
永琳は机の上にあった櫛を使って髪を梳かしながら、興味があるんだか無いんだかわからない表情のまま、私の話に耳を傾ける。一通り話し終えると、彼女は質問をしてきた。
「それで、貴女は何がしたいのかしら?」
「言うまでもないだろ。慧音の記憶を元に戻すことだ」
間髪入れずに答える。これはなんにも間違っていないはずだ。
永琳は櫛を机の上に置いて、説明を始めた。
「人の記憶には、いくつか種類が存在するの」
曰く。
例えば一般に知識と呼ばれる、単語や事実の記憶。
例えば体が覚える感覚、泳ぎ方などの技能の記憶。
例えば無意識下の単語の結びつきの、連想の記憶。
そして慧音が失っているのは……
「普通に言えば思い出、ってところね」
彼女は長い髪を前に持ってきて、器用に大きな三つ網を編みながら「それは大体見ればわかるでしょうけど」と続ける。
「で、原因についても色々あるわ。老化や頭部外傷、お酒に雷、病気に薬。あのハクタクは……」
彼女は途中で言葉を切った。三つ網を結び終え、腕組みをして責めるように私の目を見つめる。
私は自分の非を思い返した。別に大したことではないのだ、私にとっては。
胸のあたりが痛む。一度目をそらすと、もう永琳に目を合わせることができなくなった。口の中はカラカラに乾いている。その癖に組んでいる手は汗でびっしょりだ。体はこわばり、石像のように固っていた。早鐘のように心臓が脈打つ。息苦しい。じとり、ともみあげの辺りに冷や汗が浮かぶのがわかる。沈黙が続く。時間がやたらと長く感じる。
「ま」
その一声で、今の今まで呼吸をすることを忘れていたことに気づく。ずっと水の中に潜っていて、ようやく空気を吸ったときと同じように、私は肩を上下させて呼吸をした。
心を揺さぶられすぎている。落ち着け、コイツに対して怯える必要は無いはずだ。
彼女は腕を解き、一気に背もたれに体重をかけて椅子をきしませた。
「言うまでもないでしょ。あなたの思っているとおりよ」
挙げられた中で、避けられていたものはただ一つ。
心が原因のもの。もしくは精神的に大きすぎる衝撃を与える出来事だ。
「んー。余り私から言う様な事じゃないかもしれないけど」
妙な椅子の上で回る。やがて止まって、もう一度私を見た。今度は責めるような目つきではなく、むしろ憐れみ、というか母親が子供を諭すような優しい目だった。
「そろそろ、逃げるのをやめても良いんじゃない?」
「邪魔したな」
「いえいえ、またどうぞ」
記憶喪失のハクタクを連れて、姫の怨敵、もしくは喧嘩仲間が帰っていく。その後ろ姿を私は腕を組み、柱にもたれかけながら、ぼーっと見送った。
藤原妹紅。
彼女よりもはるかに長い時を生きてきた私にとっては、まだまだ手のかかる可愛い子供のようなものだ。特に少し精神的に参っている今なら殊更。
ちなみにうどんげは昨晩の徹夜が堪えたらしく、先程までハクタクといた客間で畳に抱かれて穏やかに眠っている。後でお仕置き、と言いたいところだけれど、昨日は頑張ってくれたのでそっとしてあげよう。
「やっとアイツ、帰ったみたいね」
「姫様。起きていらしたんですか?」
気がつけば隣で輝夜が、不機嫌そうに二人の後ろ姿を見つめていた。
「あの娘が来ていたのに、顔を見せないなんて珍しいですね」
「今日はアイツが、私とは会いたくないみたいだったからよ」
「その言い方だと、いつもは彼女が会いたがっているように聞こえるのですが……」
「あら?何か違うのかしら」
そう言って輝夜は、「当り前じゃないの」とでも言いたげに、可愛いらしい仕草で首を傾けた。本気で言っているのやら、はたまた演技なのか。恐らくは後者だろうが。
既に遠くなってしまった二人の方に目を向ける。その後姿には少し霧がかかっていて、何だかとても危うそうに見えた。
「大丈夫ですかね……」
ほとんど一人ごとだった。儚く見えた後ろ姿が不安で、何となくぽっとそんな言葉が口に出た。輝夜は今回の事情を知らないだろうに。
そもそもの話、藤原紅妹はかなり危ういのだ。月の民と地球人が蓬莱の薬を飲む危険度は大きく異なる。月の民がわざわざ薬を用いなくとも寿命が無いようなものであるのに対して、地球に住む者は短命を特徴としているようなものだ。輝夜や私と違って彼女は、精神構造自体が永い時を生きるように出来ていない。私たちの彼女の苦しみは、原因と結果は同じでも中身は全くの別物だ。
「大丈夫よ」
毅然と前を向いて、一片の迷いも感じさせない調子で断言する輝夜の姿に私は目を奪われる。何に対して私が心配しているのかわからないハズなのにも関わらず、彼女は言い切った。何故、と付け加える前に答えが返される。
「だって、私が選んだ友人だもの」
霧に紛れたその友人を見ているだろう目には、私と違ってはっきりと姿が映っているのかもしれなかった。もっとも、向こうからすれば友人だなんて願い下げなのだろうけど。
慧音と私は川に沿って歩いていた。右側に川を挟んで崖、左側に森、辺りには霧が立ち込める。私たちが歩いているのは、森側の河原だ。
数歩後ろを歩く慧音をちらりと横目で見ると、下を向いて不安そうに歩いていた。私の心情を雰囲気で感じっているのかもしれない。が、それを気遣う余裕はなかった。
永琳が先ほど私に言った一言が頭の中で繰り返される。悔しいけれど、多分奴の言う通りなのだ。
パチン……パチン……パチン……パチン……
突っ込んだポケットの中には、永琳の部屋から借りてきたナイフがあった。鞘を少し開けては、またパチンと音を立ててしまう動作を繰り返す。それでも息が詰まるようなこの不快な気分は治まらなかった。肌寒い霧の中でも、手には汗がにじんでいる。
「あの……どこに向かっているんですか?」
「後少しだけだから、ちょっとだけ我慢してくれ」
質問には答えず、少しだなんてアテにならない言葉を用いる。
本当に後少しなのか。もしかしてもう通り過ぎてしまったのだろうか。白い濃霧が私の中の不安を煽る。
パチン……パチン……パチン……パチン……
ポケットの中で聞こえるか否か位のナイフの鞘を開閉する音を鳴らすが、ロクな精神安定剤になりはしなかった。むしろ単調な音は一寸先が霧な風景と相まって、私から前進している感覚を奪い始めているようにも思える。それでも今まで続けていたことを止めるのは、何となく気が引けた。
パチン
ナイフをいじる手を止める。
目的地に着いたのだ。濃霧の向こう側に、川の対岸にあるソレはあった。
「着いたよ」
「え。でも、何もな……い……」
きょろきょろと辺りを見回す慧音が、ある一点で視線が釘づけになる。
「も、妹紅……あれは……」
――――それは私の墜死地点だった。
対岸の崖側にある、白い霧に包まれた赤く血で染まった大きな岩。案外、もう消えてしまったのかと思ったが、一日二日ではこびりついた血は落ちなかったらしい。
彼女の記憶が戻りかけているのを確認して、私はポケットからナイフを取り出した。
「慧音、ずっと黙っていたことがある」
伝えなくてはならない、彼女に。
「私は死なない体なんだ」
ナイフで自分の首をぐぎぎ、とえぐる。
噴き出た血が河原を汚す。景色が徐々に傾く。地面に頭を打ち付ける寸前、慧音の顔が視界に入って、そこで意識が途切れた。
事の始まりは大したことではないのだ。少なくとも私にとっては。
ただ慧音にとってそれは、精神を守るために一時記憶を破棄する程のショックだった。
『精の出ることだな。ちょっと熱が入りすぎじゃないか?』
『たまには普段食べていないものを食べたかったんだよ』
私は丸一日位、ずっと珍しい山菜を探していたのだろう。蓬莱人という体に自分が適応しているのか、痛みも疲れにも鈍感で、気づけば足が棒になるほど疲れていた。
そしてその遠出からの帰り道の崖沿いの道で、偶然慧音に出会ったのだ。
『それだったら、里に来ればよかったんだ。お前ならいくらでも、もてなしてやるさ』
荷物持ちをしてくれた慧音が、優しい顔で言う。けど、その誘いを聞いて私は少し複雑な気持ちになった。忘れかけていた足の疲労が、また重みを持つ。
多分知り合ってからこの方、未だに人里を訪れていないことを責めているつもりはないのだろうが。そんな心境もあって、ほんの少しだけ卑屈な気分になる。
『その手があったか。けど慧音は食事の行儀に五月蠅いからな』
『言われるのが嫌だったら直せ』
慧音が呆れながら私の頭をぺし、と叩く。
『あれ―――』
想像以上に疲労していた私は、たったそれだけのことで姿勢を崩した。
いや、それ以上に私の不死性のせいだろう。通常の人間なら崖沿いの道を通ることに対して無意識のうちに警戒するだろうが、蓬莱人を長くやっている私は死の危険に対して、余りにも鈍感になり過ぎていたのだ。
『妹紅ッ!』
そして私は、そのまま崖から落ちた。
別に飛ぼうと思えば飛べたかもしれない。ただ私は「疲れてるし、一度死んで体を作り直そうかな」とさえ思っていた。
私を殺したことになる慧音が、どんな風に思うかを考えもせずに。
岩に衝突する寸前に見えた彼女の顔は、さっき私が首を切ったときと同じような表情だった。
「――――こう!妹紅!」
「んあ……」
目を開けると、気の動転した慧音のくしゃくしゃになった顔が視界いっぱいに入ってくる。濡れた頬は彼女の瞳にたまっている涙のせいだろう。私が目覚めたのを見て一瞬彼女は表情を和らげるが、すぐにまたくしゃくしゃに歪めてしまう。
「すまない……私はッ……何て事を……」
「慧音は悪くないよ……ほとんどわざと飛び降りたみたいなもんだし」
他人の気持ちを考えない私が悪いのだ。
罪の意識なんて感じて欲しくない。むしろ慧音がそうやって気に病む方が辛い。
「本当に……すまない……」
「だから気にしないでって。それより記憶は……」
彼女は涙をあふれ出る拭きながら、かろうじて頷いた。しばらくすると落ち着いたのか、顔は赤いままだったが何とか泣きやんだようだ。
俯いた顔のまま、彼女は声を絞り出した。
「何で……首を切ったりしたんだ……」
苦しまずに自分の意識を刈り取って自殺する方法を覚えてしまっているから、それが当り前の選択肢の中に入っている、と言ったところで彼女には到底理解しがたいかもしれない。それでも私は彼女に理由を説明した。
「私が死なないことを証明するには、もう一度実演した方が早いと思ってさ」
ついでに「記憶を戻すためには、同じくらいの衝撃を与えた方がいいって、ある薬師が言ってたし」とも付け加える。
しかし、そんな事よりも聞きたいことがある。
「私は……老いも死にもしない化け物なんだよ?」
ずっと、怖くて言えなかった。
慧音との関わりを失いたくはなかったのだ。
蓬莱の薬を飲んでから今の今まで、全く人と交わらずに過ごしていたわけではない。流れ者の私を歓迎してくれる村だってあった。しばらくは居心地のいい日々を送れたのだ。
ただ時がたてば村人は私を奇異の目で見始める。会話の中に少しずつ違和感が、しこりのようなものが出てくる。視線の中に妬みや恐怖の臭いを感じるようになる。
やがてその村に住むのが辛くなって出ていくと、それからは怪しまれない程度の時間だけしか一か所に定住しなくなった。やがては人と交わることも少なくなっていき、慧音に会うまで何年か人と会わない生活が続いた
「いくら死なないからって、そんな自分を傷つける真似は頼むからやめてくれ……」
慧音は顔をさらに俯かせる。
質問の仕方が悪かったようだ、と思うと同時に、私はまた人の気持ちを考えていなかったのかと自己嫌悪に陥った。しばらく人と関わることを止めていた蓬莱人が、もう一度人の立場でものを考えられるようになるには時間が足りなかったらしい。
「そうじゃなくてさ……私のこと、気持ち悪くないの?」
彼女は顔を少し上げ、一瞬目を丸くする。
しかし次の瞬間には、まだ赤い顔の眉間にしわを寄せて言った。
「そんなこと、どうでもいい。むしろ今まで話してくれなかった方が心外な位だ」
今度は私が目を丸くする番だった。
私の悩みをどうでもいい事、と慧音は片づけた。随分とぞんざいな言われようだが、不思議と悪い気分ではない。むしろ肩の辺りが軽くなった気さえする。
「立てるか?」と彼女は私を起こした。
「ここは幻想郷という場所なんだ。時を止める奴や絶対の記憶を持つ者がいる。赤い巫女や黒い魔法使いが空を飛ぶし、半獣の私なんかが村の管理者を務める。不老不死の人間だからといって皆、大して気にしないさ」
その横顔は、どこか自慢げにも見えた。
ここは人外になり果てた私の憂鬱を、大したこと無いと言ってくる酷い場所だ。そう思うと自然と笑いがこぼれた。
「ふふ……そっか」
「急に笑い出して、どうしたんだ?」
ポケットに手を突っ込んでから、数歩進んで慧音に背中を向ける。
「いや。ここは良い場所だな、と思って」
今までは避けていたが、彼女に蓬莱人になってからのことを、かいつまんで話して聞かせた。ちなみに面倒だったので輝夜など蓬莱人になったくだりは、また今度話すことにした。
すると彼女は躊躇いがちにこう言った。
「あまり、こういうことを言うのも酷いかもしれんがな……人と会うのをやめる必要は無かったんじゃないのか?」
「…………っ」
相槌をうつことすらできなかった。
私は永琳の言うとおり逃亡者で、誰にも心を許そうともしなかった。中途半端に距離をとり、勝手に自分は一生孤独なんだと思い込んだ。そして打ち解けようとする努力を放棄した。
もしかすると、不老不死であることを自分から告げれば、受け止めてくれる場所があったかもしれないのだ。自分がそうだから言えるのかもしれないが、もし私が村人だったら受け入れられる気がする。
私は諦めずに、努力を続けるべきだったのだ。
勿論、拒絶されたかもしれない。傷つくかもしれない。迫害されたかもしれない。
でもそれを覚悟して自分から人と関わっていかなければ、私は永遠の時間の中で人間性を徐々に失っていき、やがては蓬莱の人形になり果ててしまう。
「あー、何でもう少し早くそう思えなかったんだろ」
視界がにじんで目頭の辺りが熱くなるが、口元は自然と笑顔になっていた。
彼女は寄り添うように隣へ並んで、目を閉じて陽気に言う。
「それでは服の替えを取りに行くとするか」
「え、私は別にこのままでも……」
「流石に人里を訪れるのに、血まみれの服はまずいだろう」
「――――」
二、三秒ほど間があったけど、力強く私は頷いた。
「……うん。そうだね」
空を仰ぐといつの間にやら霧が晴れて、心地よい青空が広がっている。
その下を私は慧音と二人並んで歩き始めた。
>慧音たちとは逆方向に進む永淋の後ろを付いて行くのだが
永琳
二人の絆はやっぱ強いね
そこが気になった以外は、とても楽しく読めました。
特に妹紅が芋をかじるシーンは寂しそうな背中が幻視されて……もっこすもっこす。
ご馳走様でした。
妹紅の自分の命に対する無頓着さがすごい説得力。
意外とプライベートはだらしない永琳さんも素敵です。
なにより幻想郷の事を誇らしそうに語る慧音のかわいらしさと
そこで救われた妹紅のシーンが素敵。大好きです。
助けようとして一緒に落ちて頭ぶつけた?
でももっこすが飛ばなかったのはわかるけど慧音は飛べるよね
良い感じに抑制の効いた文章を書かれる作者様だな、というのが読ませて頂いた私の第一印象です。
無理なく登場人物達の感情やストーリーが頭に入ってくる。好きですよ、こういうお話。
妹紅が慧音に対して己の不死を告白するくだりから、若干物語の進め方が急になった気がします。
個人的な欲を言わせてもらえば、もう少しここで慧音先生に語って頂きたかった。
公式設定は目に余る逸脱以外問題なし。中二病は望むところ。
矛盾は書き手の情熱がちょっと空回りした、と考えれば笑って許容できます。気楽に行きましょう、気楽に。
それでは再会に期待しつつ、この辺で失礼致します。
こうやって地の文で雰囲気を作れる人は好きです。
ただ一つ、「私の墜死地点」の部分が前後の繋がりから主語を読み取りにくいなと思いました。
「必要」のあとの「な」は「は」に変えるか消すかしたほうがいいと思いますよ。
センチメンタル!