雲がゆらゆらと動くのを瞳で追うのが、大変、本当に、とてつもなく嫌いだ。
だって、網膜というのは案外消耗品で、一生を通じて瞳で捉えきれる情報には上限があるのだから。
だって、その限りあるリソースをくだらない雲の様子なんかに割くのは、全くもって馬鹿馬鹿しいことなのだから。
しかし、主義や思想というものは、外気に触れてしまうと途端に輪郭を失い、あやふやになってしまう。
「夜でもないのに」
そう、今まさに私は、他でもない雲を見ていた。
どこか遠くの自転車のベルが、耳の奥へと不用心に滑り込むのを許しておいて。
「……あ」
はっとして、すぐに雲から目を離す。
それから視線を正面に向け、周りの様子を窺う。
左手の桜の木から花びらが舞っていた――いや、そんなことはどうだっていい。周囲の様子を観察しなくてはならない。
人通りの多い道のど真ん中で立ち止まっている女が、空を見上げながら突然「夜でもないのに」だなんて、不自然すぎる。不思議すぎる。
それはきっと、好奇で懐疑な視線ばかりに違いないのだから。
*
『これから何か面白いことが起こるに違いない』
一か月前の私はそう思っていた。
京都の名門大学に合格し、親元を離れ、念願の一人暮らし。
ようやく、自分の人生がもっと面白く、満ち満ちたものになると思って、よく布団の上で枕を抱えながら、じたばたと奇妙な動きをしてみたりもした。
なにも、それまでの自分の人生が不幸せだったとは思っていない。私は決して、ペシミストの類いでなければ、何事も悪い方向へと考える、出来の悪い詩人でもないのだ。
教養があり、愛のある両親のもとで育ったし、それに大抵の事をそつなくこなせるだけの要領の良さがあった。容姿だって、客観的に見てもそれなりには整っている。
そして何よりも、かなり頭が良い。それはそれは、厄介な程度には。
ふふ、今面倒くさい女だって思った?
でもね、いいこと?
私はこれを自覚しているの。だからソクラテス的にいえば、これは公正妥当かつ容認される程度の面倒くささであると言えるのよ。
*
「だから本当なんだって! 何を言われたか覚えてないし、自分が何を言ったかも覚えてないらしいの!」
二限の講義は『観測限界論Ⅰ』。
規定の時間が終了するや否や、すぐに講義室内に言葉が充満していった。火事みたいね。
「緊張したり、怖くなったりして、内容が頭に入っていないのですわ」
このままでは中毒になってしまう。
さて、帰ってからは何を食べよう、何をしよう。今日は午前だけなのだ。
「そんな心理的な話じゃないの! 綺麗さっぱり、何もかも忘れてしまうなんてことあるかしら?」
一昨日は味噌を食べ、昨日は塩を食べた。ならば今日は醤油か――しかしどうも、それでは規則的すぎる。
あら、インスタント麺の話よ。
「さっきの、あの図書館の裏路地に?」
……ああ、もうっ。うるさい。
さっきからなんなのよ、ぴーちゃらぺちゃくちゃと。
まるで自転車のベルね。
どうも最近の私は、不用心でありすぎる。
「そう! あそこの裏路地!」
仕方ない。
これでは会話が気になって何も考えられない。
頬杖をやめて、前方の二人の会話をしばし聞いてみることにしよう。
未だ話の全貌は見えないし、何の話をしているのか見当もつかないが、少なくとも"図書館の裏路地"という場所の特定は出来たのだ。
「きっと不審者ですわ。薬か何かで記憶を消しているのです」
不審者?薬?
ますます興味が湧く。
しかし、キャンパス内には図書館がいくつかある。
彼女たちはどれを指しているのだろう?
「薬? 意味わからないわよ、そもそもなんでそんなことを」
ああ、そんな!!
私はインスタント麺の事を考えるのをきっぱりとやめてしまった!!
「さぁ、分かりませんわ。あいにく、世の中は"分からない"ことだらけですもの」
『分からない』
嫌いな言葉。
聞いているとムズムズしてくる言葉。
だって、そうでしょう?
全ては"分かる"存在であり、"分からない"存在は、ただ考えていないだけなのだから。
「それよりもお昼にしましょう。駅前に出来たパスタのお店、今日こそいきましょうね」
考えれば何もかも"分かる"に決まっているし、"分からない"のであれば、それは己の怠惰が招いたことであり、思考の停止であり、ひどく恥ずべきことであるに違いないのだ。
ねぇ、そうでしょう?
「ふぁい」
自分の思考に返事をされたのだと思って、思わず身体をビクリと動かしてしまう。
違う、ただのパスタの返事だ。
……パスタの返事って何よ、どこか間抜けね。
ともかく、二人の間に合意が形成され、彼女達は立ち上がるや否や、そそくさと講義室から出ていってしまったのだ。
私は何気なく、その背中を瞳で追ってみた。
足元を見ると、ローファーの側面にはわずかに湿った赤土がこびりついている。それからトートバッグの金具には、赤錆が擦れたような痕。
「ふむ」
私はもう一度、頬杖をついた。
昨日から今朝にかけて、雨は降っていない。
このキャンパス内にある、水はけの悪い赤土がむき出しになっている場所。
さらに、そばに行くには、鞄が擦れるほどの狭い金網フェンスを通る必要のある場所。
なるほど、恐らく、二人はつい先ほど、中央図書館の脇にある池の傍を歩いてきたのだろう。
であれば、彼女達が指していた図書館は中央図書館である可能性が高い。そう考えるのが手っ取り早い。
私は同じように立ち上がり、講義室を出ようとした。すると突然、餅つきの合いの手みたいに左手から声がかかった。
「あ、宇佐見さん。このあと、前に言ってたサークルの集まりがあるのだけれど……一緒にどう?」
黒髪の女だった。
時折講義が一緒になるが、名前は覚えていない。だから"黒髪"と心の中で呼んでいる。
「ごめんなさい、急いでいるの」
サークルに入るつもりなんてさらさらなかった。
入らない理由があるというよりも、入る理由がゴミ箱の中探したって見当たらない。
「そ、そう……わかったわ」
黒髪は薄いベージュのカーディガンを静止させて、私のきっぱりとした答えに負けてしまった。この女はどうも流されやすいところがある。
真横を通り過ぎた時、まだ何か言いたげだったが、私の気の所為かもしれないし、もしそうだとしても言わないのが悪い。
言ったって悪い。いずれにせよ悪い。
『これから何か面白いことが起こるに違いない』
それからもう一度、あの言葉を心の中で反芻してみた。咀嚼して味わってみる、味はない。
講義室から出る直前、私は少しだけ、ほんの少しだけ、口角を上げた。
本当に少しだけよ。
それに、味が美味しかったからじゃないわ。さっきも言ったでしょう?無味だって。
*
用がないのに図書館に積極的に赴く人間は、どこか変だ。
病理的な何かを感じる。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか中央図書館へと現着していた。
建物はかなり古い。薄茶色の塗装があちらこちらで剥がれかかっているし、細かなひびも走っている。知性権運動以前からの建物だ。
すぐ近くには文学部の棟。そちらは対照的に綺麗な様子で、白い外壁には大きく目立った汚れがない。十年程前に新しく建てられたばかりだったと思う。
入口を横切り、建物側面の道へ。そこから路地へと入る。
「裏路地、裏路地」
野良猫が好きそうな場所だった。
建物の反対側、つまりこちらから右側は林になっていて、突き当たりは完璧な行き止まり。図書館のでっぱり部分に道を塞がれている。
私が侵入した背後の路地口は、文学部棟へ続く道に開けていて、今もなお学生がチラホラと通り過ぎている。
腕時計を確認すると、現在時刻は正午を少し過ぎた辺り。
顔を上げ、もう一度路地の様子を見渡す。
建物に立てかけられた金網のゴミ箱は、真上から差し込む強烈な光によって、地面に幾何学的な模様を作り出していた。いつからあるか分からない、転がっている合成飲料水の空き缶まで、逃げ場を失った諜報員がサーチライトに照らされるように、とにかく鮮明だった。
きっとここでは、何もかもが世界へ明るみになっているのだ。
「私にはれっきとした用事があるわ。病理的な人間なんかじゃない」
加えて、ここは図書館の中ではない。あくまでその裏路地だ。範囲外である。
何の話って?ちゃんと話を聞いていないのが悪いのよ。
私は建物の壁に背中を預け、しばらくそのざらついた感触を味わってみることにした。
心臓の鼓動が速まっているのを気づかれないように、できるだけ澄ました顔で。
それから試しに空を見上げてみる。相変わらず雲が流れている。
青空の割合は極めて高く、時折縁取られるそのわたあめは、各々が目的地すら見失って久しいようだった。
ぼんやりとそんな様子を眺めていると、唐突に、どこからか飛んできた桜の花びらが視界の隅へと入り込んだ。
慌てるように、花びらを瞳で追おうとしたけれど、もうどこかへ消え去ってしまっていた。
*
今朝のことを思い出す。
「夜でもないのに」と言ってしまい、慌てて周りの様子を確認したあのとき。
きっと不審がられているだろうと、見世物みたいな目線でも浴びているだろうと思った。あるいは、私の美貌に見惚れているだろうと。
けれど、誰一人私の様子を気にかけている者はいなかった。
彼ら彼女らは、流れ作業のように道を歩き、出荷されて行ってしまった。私だけが列からはみ出たみたいに。
「……はぁ」
陽はすっかり傾いてしまっている。
烏の声と少しだけ冷えた風が、「だから言ったのに」と揶揄してきているようで、ムカムカする。
そうなのだ。結局、あの裏路地には何も変化はなく、何も起こらなかったのだ。
何度も帰ろうと思った。
その度にあと五分だけと言い聞かせて、建物の構造を見て回ったり、地面に何か手がかりがないか探したり、あの二人組の会話を頭の中で再構成したりした。
けれども、結果として得られたものは疲労感。とりわけ下半身のものだけ。
私は路地から脱出し、今はその辺の苦学生の列の一部となっている。
講義の話や試験の話。すぐそこの文学部の連中だろう。
「なぁ、お前って『文化心理学』取ってたよな? じゃああの子いるだろ、金髪の美人!」
「いるいる! どこの国の人なのかなぁ」
列の中とはいえ、実際のところははみ出ているけれど。
「醤油ね、やっぱり」
小声で呟く。
さすがに空腹に限界が生じている、昼だって抜いている。
血管が枝分かれするように、私は列から抜け出すことにした。
多分私は、人より多くのヘモグロビンを運搬しているだけだから。
やがて人通りが疎らになってきて、私はなんとなくあの二人組を思い出した。
何の話をしていたのか。
あの路地には何があるのか。
どういう訳か、二人がどんな容姿だったかまでは思い描けない。ローファーやトートバッグ、それから話の内容だけが、市街戦直後に発見された民間人の日記みたいに、断片的に思い出されるだけだった。
尤も、別に、そんなことは重要ではないのだろう。
恐らくきっと、二人は同じものを食べ、同じ景色を見て、同じこと(あるいは違うこと、その比率は定かではない)を考えているのだ。
その一連の流れを、ずっと繰り返しているのかもしれない。
あの口調や話し方には、少ない判断材料を補うくらいの、それを納得させるだけの確信めいた何かが、少なくともあったのだ。
では、今の私はどうだろう。
同じように起きて、同じように呼吸をして、同じような景色を見て、同じように眠る。
その繰り返し。
繰り返して、繰り返す。
何度も、何度も。
ふと地面を見ると、役目を終えた桜達が、死骸となってアスファルトと接触していた。
何度も踏みつけられたのか、それらは風の効果を受け付けていないと見て取れる。
「もう5月になるのね」
劇的に面白い何かが起こるなんてことはない。
何か唐突な変化が起こるなんてこともない。
運命的な出来事が、法則的に導かれるなんてありえないのだ。全ての物事が、物語であるとは限らないのと同じように。
しかし、ふむ、そもそも物語とはなんだろう?
どうすれば物語になるのだろう?
あの二人の様子を、もう一度だけ思い出す。
二人組は、物語の中にいるみたいだった。
でも、どうして?
どうしてそう思うのだろう。
「分からない……あっ」
言ってしまって、もう遅いと思った。
物語とそれ以外の境い目を追うように。
あるいは、昼と夜の境い目から逃げるように。
それともまた、季節の境い目から目を背けるように。
私は、黄金色の家路についた。
*
帰宅。
外付けの階段がある古びたアパート。
二階の端が私の根城。
大学からのアクセスも良く、部屋の大きさも三十四平米と悪くない。その割に家賃が安いのは、築八十年という時の経過がもたらす、諸々の不便のおかげだ。
例えばこの扉。
前に立ち、ドアノブを握ってみる。
このまま捻ろうとしても、途中でつかえてしまうし、引いても開かないのだ。枠に噛み付いたみたいにビクともしない。
だからほんの少しだけ扉を押す。それからノブを捻って引くと、今度は何事もなかったかのようにすんなりと開く。
ラッチの老朽化が原因だろう。
中に入り、コートを投げ捨て、オフィスチェアへとなだれ込む。
途端に掃き出し窓から夕陽が差し込んできたので、私は息を吐きながらその奥を見つめた。これだって、窓枠が僅かに歪んでいて、開くのに一苦労する。
「はぁ……」
ベランダの干し竿では、取り込み忘れたシャツが逆光の中で黒い輪郭になっている。雲だって漂っている。
本当に大変嫌いな雲の観察の方が、この現状よりまだマシに思えた。
何故なら雲の観察は、既に"つまらないもの"だと確定しているから。
一方でこの生活は、"もしかしたら幸せであるかもしれないあやふやなもの"なのだ。
私は大学へ持っていったノートパソコンをデスクに置き、それからテレビをつけた。
そういえばここ最近、テレビを見ていない。いや、ニュースを見ていない。社会の情勢等には、昔からあまり興味関心を抱かない性質だった。
『さて、これで十三人目になる行方不明者ですが、警察の見解によると、極めて悪質な……』
電源を落とす。
胸を抑える。
『行方不明』
この言葉だけは、胴体が握りつぶされて、その衝撃が手の先から足の先まで伝わるくらい、嫌な言葉だった。
思い出したくない。
それでも嫌でもそうなってしまう。
動悸が速まり、部屋の風景が溶けだしていった。
「はぁっはぁっ……」
つまるところ、全ては絵の具となって漏れ出してしまったのだ。
あるべき姿へと戻るように、あるいは、コップを倒して水が零れるように。
私は胸を抑えたまま、瞬時に机の引き出しから背表紙の角が潰れた一冊を取り出し、あるページを開いた。
そしてそれを、重いものを持ち上げるみたいに声に出す。
「……宇宙の現在の状態は……以前の状態の結果であり、次に来る状態の原因である……」
呼吸で文字を引っ張って、必死に押し出す。
「……もし、ある瞬間に自然を動かすすべての力と、すべての存在の位置を理解する知性があれば……ふぅっ……何ひとつ、不確かなものはない……」
視界が彩度を取り戻し、少しずつ空間と自分の距離感を再認識していく。
「……その知性にとって……未来は過去と同じように、目の前にある……」
胸の動悸は治まり、ゆっくりと息が落ち着いていく。
それは記憶を取り戻していくみたいに、愛を知るみたいに。
だから私は、本を閉じる。
そしてもう一度だけ深呼吸をする。
図書館の裏路地の光景が頭を過ぎった。
「……ふぅ」
そうよ。
私は醤油ラーメンを食べなくてはならなかったの。
*
多少の時間を置いて、本を元の場所に仕舞い、立ち上がる。
それから浴室に入り、シャワーを浴び、部屋着へ着替えた。
動きやすくなって、キッチンへ。
蛇口を捻り、やかんに水を入れる。底へ落ちる音が楽しげに空間に響いた。
吊り戸棚から醤油味のインスタント麺をとりだし、蓋を半分だけ捲ってかやくを流し込む。乾いたネギに、細いメンマ、小さなナルト、作られた色鮮やかさね。
お湯が沸く間暇なので、私はカップをパソコンの前においてから、その電源を入れた。
低い駆動音の後、すぐに青白い光が瞳に反射する。
「……ん?」
あるものが目に入る。
それは、デスクトップ画面に堂々と鎮座していた。
現在執筆中のレポートの、そのちょうど下。いつ作ったか分からない、謎のフォルダがあった。
名前は、『自分ゲーム』。
「ゲーム?」
やかんからカチ、コトと音がする。
その音を頼りに、フォルダを開いてみた。
中にはただ一つのアプリケーション。
名前は同じく、『自分ゲーム』。
『自分ゲーム』というフォルダの中に、『自分ゲーム』というアプリケーション。
「マトリョーシカ?」
こんなものをインストールした覚えはない。まったく身に覚えがない。今朝の講義にパソコンを利用したが、その時にはなかったはず。
対象をダブルクリックすると、途端に画面は暗転した。
黒い液晶の上に、顔立ちの良い少女の顔がぼんやりと浮かんでいるだけ。
しかしすぐに、白い文字が現れた。
『これから大雨が降る』
そしてその下にも、文字。
『はい』
『いいえ』
「……は?」
やかんからはジジジという音がする。沸くにはまだ少し時間がかかるのだ。
"はい"と"いいえ"にカーソルを合わせると、白い文字が少しだけ濃くなった。というよりも明度が上がった。
どちらか選べということかしら。
私はいつの間にか前のめりになっていたので、背中をチェアへと一旦預けて、窓の外の様子を瞳に収めてから、それからもう一度画面を見つめた。
「いい天気じゃない」
それにしても、『これから大雨が降る』とはなんとも不思議な文章だ。断定していて、推論の要素がない。未来の話であるはずなのに、予知や予測、もっと言うと予言めいた要素もない。シンプルだからこそ、それは"確定"しているように思える。
「……未来は過去と同じように、か」
私は、雑草を引き抜くみたいに"はい"を選択した。
すると文字は一時的に消失し、別の羅列を形作った。
『次は6時間後』
「何が?」
これは、どういうことなんだろう。
この奇妙で稚拙なアプリケーションは、いつ私のデバイスに混入してしまったのだろう。私が不用心なのが原因だろうか。
妖精さんが、寝ている間に部屋を掃除してくれるみたいな。
あるいは、狐が家主の留守中に物を荒らすだとか。
それかもしかしたら、別れさせ屋が浮気を装うような。
私の預かり知らぬ所で、何らかの利害や貸し借りが関係して、このアプリケーションが目の前に現れたとでもいうのだろうか。
「気味悪いわね」
私は首をチェアの上部に預けて、もたれかかりながら天井を眺めた。
そして部屋のグラデーションが変化していることに気づく。段々と暗くなってきている。
夜なのだろう。
そう思ってカーテンを閉めようと考えた。
しかし、続いて、それは音色を率いてきた。
最初はぽつぽつ、と。
やがてそれは、たたた、と。
しまいには、ざあああ、と。
「……え?」
雨。
大気中の水蒸気が水滴となって降り注ぐ現象。
それらはストリングスの四重奏のように、無遠慮に窓を叩いている。その窓の奥は、先程までの光景が嘘のように、灰一色の世界だった。
ものの数十秒、私がチェアの上でだらしない姿勢を維持していただけで、単なる水滴の落下は、豪雨へと変化してしまっていたのだ。
加えて、言葉に表すのが難しい妙な音もすぐ近くから発せられている。
「……あめ?」
ここでようやく、やかんの水が沸騰していることに気づく。妙な音とはそれだ。
慌てて姿勢を戻して、勢いそのままに立ち上がる。
火を消すためではない、外に出るためだ。
扉のドアノブに手をかけ、捻る。捻りきらない。押しても開かない。
苛立って、もっと押してみる。体重をかけてもやっぱり開かない。
私は舌打ちをして、扉を少し手前に引いて、それから捻り、押した。開いた。
身体全体を外へと晒す。
手すりから身を乗り出す。
雨粒に襲われ、髪が水滴に覆われ、そのいくつかが頬をつたった。
雫達がシャツを濡らし、下着にまで水分が染み込む。肌と布がべたりと引っ付く。
観察する。
検証する。
そして、統合する。
これは雨なのだ。紛れもない、正真正銘の、五感の全てに誓い、自信を持って、雨なのだ。
『これから大雨が降る』
あの文章が浮かび上がる気がした。
どこに?雨の中に。
私はあれに、"はい"と答えた。
すると雨が降った。
この世界にしては、あまりにも単純で、陳腐で、分かりやすい因果。
「っ!」
バッと、視線を感じて後ろを振り返る。
何もいない。
扉だ。
今出てきたばかりの、自宅へ繋がる開けづらいクソみたいな扉。
「……雨、よね」
最後にもう一度、雨の様子を確認する。
あれだけお互いを避けていた雲達は、今はしっかりとした重みで空いっぱいに垂れこめている。
私はドアノブに手をかけ、手順通りに開き、狩りが上手くいかなかった猟師のように部屋へと戻った。
最初に出迎えたのは、きゅうううううという不愉快な音。
台所へ向かい、火を消す。
それからやかんを持ち上げ、デスクへ運ぶ。
水を入れすぎたのだろう、少し重い。
私の髪だって、水分を多分に含んで同じ状況だ、歩く度にぽたりぽたりと床を濡らしている。
机の前までたどり着き、カップへ湯を注ぐ。蓋を片手でしめる。
やけに動作一つ一つが丁寧で、迅速に思えた。
どこか他人事のように、自分を俯瞰して操作してるみたいな感覚で、ちょっと気持ち悪いくらいに。
台所への帰り際、モニター画面を注意深く見た。
『次は6時間後』
やかんを元の位置に置き、チェアに戻り、私はすかさずインスタント麺を開けた。
粉末スープと液体スープを投入し、かき混ぜる。
「……あ、あれ」
麺はまだ湯に馴染んでおらず、ゴワゴワとしていた。スープが絡まない。
そうだった。
三分待たねばならない。
*
六時間。
それは、一日の構成要素、四分の一。
何かと都合の良い時間。
この間、私は空腹を満たし、食器を洗い、それから明日の講義資料を一通り眺めたりもした。
「そろそろ……」
"そろそろ"?
ああ、本当に馬鹿みたい。
こんなの、猫じゃらしを前にした猫みたい。
私は少しだけ笑みを零しながら、画面に刻まれている文字列を見つめた。
『次は1時間後』
この文字はきっかり一時間毎に更新される。何度か開いたり、開きっぱなしにして確かめてみたのだから間違いない。一時間経つと、数字"だけ"が瞬時に変化する仕組み。
分や秒の表示されない、その明快な作りは、かえって製作者(と便宜的に呼ぶことにする)の意図を感じることができなくて、どこか気持ち悪いとさえ思う。
タブを切り替え、ブラウザへ。
『自分ゲーム』についての検索履歴ばかり。
残念ながらこの六時間、それらしい情報は、どれだけ電子の海を彷徨っても発掘できなかったのだ。
アプリケーションの情報を探ってもみたが、発行元は空欄だし、外部から取得した履歴も見当たらない。
また、この"次は〇時間後"の表記は、端末の時計を進めても変化がなかった。
私はチェアから立ち上がり、夕方に食べたカップ麺の残り汁を温めることにした。
塩分が好きだ。とりわけ、こういう時にその傾向は高まる。
汁をカップから鍋に移すと、残っていた麺やかやくも一緒に投下された。
火にかけたタイミングで、大きな欠伸を出す。
「……疲れてるわね」
私は残り汁の味を想像しながら、醤油スープが沸騰していくのを眺めた。
そういえば最近、旧市街地のラーメンを食べに行っていない。
ここ最近は、大学近くの健康に良いものばかりを食べていたのだ。
旧市のそうでないのが欲しくて堪らない。
「ふわぁ……んっ」
身体を伸ばしていると、コツコツとした金属音が聞こえた。
誰かが外付け廊下を踏みつけている音。
それはこの部屋の近くまで続いて、やがて、隣の扉が開く音とともに消えてしまった。
壁が薄すぎる。
これも家賃の理由の一つね。
それにしても、ふむ、私は隣にどんな人が住んでいるのか全く知らないのだ。
このご時世としてはさして珍しくないと思うが、世間一般的な観念の内側だからといって、それだけで無条件に安心感を得られるほど、私は間に合わせな人間ではない。
少しだけ長い体感時間の後、鍋肌でふつふつと泡が弾けだした。
それと同時か少し直前からか、食欲を駆り立てる、醤油と油と化学調味料(あるいはそれに準ずるもの)の芳醇な香りが漂い出す。
私は表面にキラキラと油膜が張ったそれを元のカップに流し込み、デスクへ戻った。
それからレンゲを使わずに、そのままカップの縁に口をつけて、一息に飲み込む。
「……んっ」
健康に悪いということは、美味しいということだ。
さて、雨が降った直後は、"ゲーム"に対しての心の高鳴りを抑えきれずにいたが、しかし、単純に確率の問題なのだ。
世界のどこかで急に雨が降ることだなんて、もちろんよくある。そしてそれが、奇妙なゲームの奇妙なメッセージを受け取った直後だということも、同じくらいには。
宝くじに当たる確率よりかは、よっぽど自然なことであり、世の理にある程度迎合してくれている事象だと言えるだろう。
六時間という単位は、一日の構成要素としての役割だけでなく、人の理性をメンテナンスする役割も持っている。
「それに塩分だって摂ってるし」
ええ、もはや腑抜けたことを考える余裕なんてないわ。
国が推奨していない、値段の割には量の少ない旧型インスタントを味わいながらぼんやりしていると、ついに画面から件の文字が消え、真っ暗闇になった。
それは、あれからきっかり六時間が経ったことを意味している。
「んっ」
慌てて嚥下する。
このニンニクと魚介系の旨みが堪らない。
私はそこそこ性能の良い自身の舌に感謝を告げながら、映し出された文字を瞳に収めた。
『有名アイドルが逮捕される』
「……はぁ?」
左から右へ、何度か読み直す。そして私は、その度に馬鹿にされているような気持ちになった。
なんだかその一文が、酷く滑稽で拙く思えたし、そこには文脈も突拍子も何もかもがないのだから。
下には以前と同様に"はい"と"いいえ"の二つの選択肢。
「逮捕……」
私がどんな感情を抱こうが抱きまいが、いずれにせよ、選ぶ選択肢自体は決まっていた。
"はい"だ。
クリックすると、前回と同じように文字が消え、またしても"6時間後"のメッセージが現れた。
部屋は静まり返っている。
パソコンの駆動音が風のように紛れている。
外からも特に何も聞こえない。 いや、隣の部屋からビニールを開けるような物音だけが微かに聞こえる。
私はスープを口に運んだ。
「うーん」
『有名アイドルが逮捕される』だなんて、なんて味気のない文なんだろう。
"風がピタリと止む"だとか、もっというと"突然地球の自転が止まる"みたいな、そんな大それた文章だと思っていた。
「アイドル、逮捕ねぇ……ふわぁ」
その間の抜けた響きを考えながら残り汁を飲み干すと、極めて現実的な睡魔が、先程よりも強く顔を覗かせ出した。
しかし、どうだろう。
もしかすると今どこかで、本当に有名なアイドルが逮捕されているのかもしれない。
私はブラウザにアクセスし、検索欄にそれらしい単語を入れてみることにした。
小さな不祥事ばかりが出てくるが、逮捕だなんて言葉は見当たらない。
仮に今緊急で逮捕されているのだとすれば、それが世に広まるのは少しだけ時間がかかるのかもしれないが。
「一限よね、明日」
私は冷蔵庫から出来の悪い新型酒を開けて、氷と一緒になみなみになるまでグラスへ注いだ。
それを見て、口の中の塩分に意識を向けながら、地球上に存在してくれている氷山と海を想像した。
グラスを持ち上げ、唇で触れて、それから一気に傾ける。
塩分は強い苦味によって、出来の悪い絵画の修復作業みたいに上書きされてしまった。
そのままベッドへ倒れ込み、私は意識を世界の外側へと、境い目の外側へと追いやることにする。
「……ふふ」
あの感性の悪い一文を考えると、不思議と酔える心持ちで。
*
いつからだろう、星を視なくなったのは。
いつからだろう、月を視なくなったのは。
意味がないとは思っていない。
ただそれは、普通ではないのだから。
*
「んぅ」
ああ、この感覚。忌々しい朝ね。
身体全体がコントロールを手放してしまい、なのに外部から「動け」と無理やりねじ曲げられている感覚。
ふふん、でもまだ動くもんですか。権利を放棄しちゃうんだから。
「むぅ」
寝返りを打つと、サイドテーブルに置いていた昨晩のグラスに手があたって、ことんと倒れた。氷が溶けて生じていた水が流れ落ち、連動するように頭の奥が痛む。
うう、せめて炭酸で割れば良かった。
「……うそ」
そして意図せず、時計に焦点があたる。
なんてこと、起きる予定の時間をもう三十分も過ぎている。
途端に身体の所有権が、哀れな宇佐見蓮子に手放されてしまった!!
「あー、もうっ!」
磁石の反発のようにベッドから身体を跳ねさせて、朝食を諦めることに多大なストレスを感じながら、私は洗面所へ駆け込んだ。
歯ブラシを咥えて乱暴に手を動かしながら、右往左往と歩き回り、干し竿からシャツをひったくって、着替えを並行する。
片足で跳ねながら靴下に足をねじ込んだ、その時。
「んむっ、げほっ、げほっ!」
勢い余って、ミントの泡を飲み込んでしまった。
走ればきっと、間に合うはず。
*
額の汗が、肌と髪とを繋ぎ止めていて大変気持ち悪い。
しかしなんとか、すんでの所で一限の講義に辿り着いた。
「ふぅっ……はぁっ」
走るという動作は、それを行っている時は悠久の時の流れを感じさせるほどに平坦で長ったらしいものに思えるが、しかし、終わってみると一瞬だったように思える。
走っている最中に視界に映った、笑っている女や端末を見ながら歩く男、それから大きな鞄を背負った学生が呑気に歩いている光景についての苛立ちだけが、落とし物の展示品みたいに今は残っているばかり。
入口付近の端の席へ腰掛けて、一息。
喉の奥も鉄の味でいっぱい。
黒板の前に目をやると、髭の多い何に対しても無頓着そうな中年の教授が突っ立っていた。早くこんなところから抜け出して、自分の研究を続けたいと思っているに違いない。
「あ、宇佐見さん」
例の黒髪だ。左手から声をかけてきた。
性懲りも無く、メトロノームみたい。
彼女は昨日と同じカーディガンを着ていた。
「これ取ってたのね。古典的な非統一物理学なんて、興味ないと思っていたのだけれど」
「そう見えるかしら? この手の古いのは、結構好きなのよ」
私の応答文に、彼女は楽しそうに、文量を何倍かにして返してきた。
面倒くさい。
環境音にして、適当に受け流してしまいましょう。
私はバッグからパソコンを取り出しながら、辺りの音に集中した。
「ねぇ、聞いたぁ? 篠崎透子のあの話」
「聞いた、聞いたよ、あの話。ファンタジアだってね。まったく、どうして、手を出すのかなぁ」
……いきなり何の話だろう?
突然黒髪が一人二役を演じ始めたのかと、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
しかし、どうも先の会話は私のすぐ後ろで繰り広げられているらしい。
「逮捕だよ、逮捕。私達が産まれた頃は、まだ合法だったんでしょ?」
「あんなに有名なアイドルだっていうのに……くすくす」
……逮捕?
……有名なアイドル?
『有名アイドルが逮捕される』
朝から激動の数十分を過ごしてきたせいだろうか、その味気ない文章は、私の頭の中からすっぽりと抜け落ちていたらしい。
それが今や、水蒸気が水になるみたいに、私には明確に、判然と、必然的に、思索できてしまう。
「っ!」
頭を適切に使う必要に強く迫られたのだと、ようやくもって理解して、私は背筋をピンと伸ばした。
「……ね、ねぇ、後ろの席の人が話してる逮捕の話って、あれ本当?」
未だ何かを楽しそうに語っていた黒髪の話を遮り、質問を投げかける。
篠崎透子というのは――名前だけうっすらと聞いたことがある。
確か、インターネット出身の人気アイドルグループに所属していたはず。
「え、逮捕? 逮捕って? いきなりどうしたの?」
「篠崎透子よっ! あのアイドル、逮捕されたんでしょうっ!」
「えっと、そう……みたいね。
……いきなりどうしたの?」
「……逮捕……有名アイドル……ほんとに?」
「宇佐見さん?」
私は飢餓でどうしようも無くなった人が汚水を飲むみたいに、パソコンを起動した。
「……ある」
あのアプリケーションは、やはり存在していた。
それを確認したタイミングで、教授が挨拶を始めた。黒髪は前の席へ座った。
「えー、では前回の演習問題から再開します。この手の古典的な振動系では、まず何を近似し、何を無視しているのかを明らかにしてください」
教授は黒板に、振り子らしき簡素な図を描いた。
いや、勿論黒板に目を向ける余裕なんてあるわけないじゃない。
けれどそのチョークの音から、円と線だけの愛嬌のないものが描かれていると推測くらいはできる。
……違う、そんなことに気を取られている場合である訳が、ない、ない!
「周期は振幅によらず一定である、というのは勿論正確ではありません。振幅が十分に小さい場合に限って、そう扱えるというだけです」
私は検索ソフトを開き、何度かタイプミスをしながら検索欄へ文字を打ち込んだ。
『篠崎透子 逮捕』
「大きく振れば当然ずれる。近似というのは、間違いを許容する代わりに、問題を解ける形へ変形する操作です」
検索。
小休止の後、無数の記事が並んでいく。
『人気アイドル・篠崎透子容疑者を逮捕』
『違法電子薬物ファンタジア所持の疑い』
『所属事務所、事実関係を確認中』
「……本当に」
声が漏れた。
いえ、まだ早い。早いわ。
確定ではないでしょう?そうでしょう?そうに違いないでしょう?決まらないでしょう?そうでしょう?
「ただし、近似が外れたからといって、自然法則そのものが変化したわけではありません」
だから私は、その画面を、瞬きや息といった一連の活動を必要としなくなった人がそうするように、瞳で熱なく点検した。決して熱なんて、入っているわけがなくって。
「それはこちらが勝手に、条件の範囲を見誤っただけです」
一番上の記事を開く。
逮捕時刻が書いてある。
『午前二時十四分』
私が"はい"を押したのは、確か日付が変わる直前だったはず……。
「次に、同じ振り子であっても、初期位置と初速度が異なれば、当然ながら運動も異なります」
私は記事を下へと送った。
警察は以前から捜査を進めていた。
関係者への聞き取り。
それらがいつ行われたのか、詳しい時刻までは書かれていない。
しかし、ともかくそれらが事実として陳列されていた。
「運動方程式だけを眺めても、一つの運動は決まりません。どの位置から、どの速度で始まったのか。それを与えて初めて、具体的な解が定まります」
別の記事を開いてみる。
通信記録の解析。
逮捕状の請求。
例の如く、そうした事実が無機質に綴られている。
他の記事を見ても、同じだった。
個人ブログを覗いても、同じ。
「えー、前回の類題に関しては、章末にいくらか似たようなのが載っていたと思います。適宜参照してください」
それからSNS中を探しても――全ては篠崎透子の逮捕が事実であることを裏付けるものばかりだった。
ファン達の嘆きや、当該アイドルに対する否定的な意見。それらの集合体が忙しなく叫んでいるのが、鬱陶しいくらいに何度も瞳に伝達されていく。
「……どうして」
パソコンから目を離し、顔を上げる。
今私は、どんな顔をしているのだろうかと、ふと思う。
教授は最初の振り子の先端に、もう一本線を書き足した所だった。
「さて、振り子一つならまだ簡単です。では、その支点を別の振り子に取り付けるとどうなるか」
二重振り子。
「皆さんの中には、この時代にわざわざ科学世紀的なアプローチで学問を学ぶことに、ひょっとしたら意味を見出していない人もいるかもしれません」
黒板上の二本の振り子は、止まったまま絡み合っていた。
動き出すことのない、静止画みたいに。
「しかし、性質や法則というものが、決して変化することがないことについては、承知でしょう?」
それがひどく、もどかしく感じる。けれど同時に、落ち着くようにも。
「蛇足でしたかね。では話を戻します」
私はもう一度、パソコンへ視線を戻した。
「同じ結果へと至る条件が、一つしかないとは限りません。逆に、ほとんど同じ条件から、同じ結果が出るとも限らない」
逮捕されたという結果が、確かにそこにはあった。
その原因は、警察の捜査なのか。
それとも、本人の行動なのか。
あるいは――私の選択なのか。
「そんな訳、あるわけないじゃない……」
私は笑ってみようとした。
「では、二重振り子の運動方程式を導出します。前回の単振り子と同じ感覚で始めると、途中で符号を間違えるので気を付けてください」
教授は口を開かなくなり、講義室内にカツカツとした心地の良い音を刻み始めた。
私は白痴みたいにぽかんとしながら、また顔を上げて、黒板が衣替えを始める様子を眺めた。
そして、ここ十数時間のことを振り返った。
『これから大雨が降る』
私は"はい"を選択した。
すると大雨が降った。
『有名アイドルが逮捕される』
私は"はい"を選択した。
すると篠崎透子が逮捕された。
「……ぁっ」
小さく、悲鳴のような声を上げてしまう。
そうだ、昨日の夜、『次は6時間後』と書かれていたではないか!
あれからもう8時間以上経過している!
私は大慌てでブラウザを閉じて、自分ゲームを起動した。
起動は一瞬で完了し、暗い液晶に小刻みに揺れる少女が反射した。
なるほど、こんな顔をしていたのか――そんなどうでもいいことに思考を奪われた、その一瞬。
白い文字が、浮かび上がる。
『あなたは不思議な出会いをする』
「……っ」
それは、病院の待合室で名前を呼ばれるように。
「不思議な……」
それは、バスの中で目的地のアナウンスが発せられるように。
「……出会い」
手を動かすことも、何か考えることもせず、しばらくそのドットの連なりを見つめて、四回くらい瞬きをしてから、息を吸って、顔を上げて、チョークの残り香を認識したりして、ようやく息を吐いて、もう一度黒板を見た。
二重振り子の運動方程式が描かれていた。
「不思議な出会い」
何故だろう。
雨の時とも、逮捕の時とも違う。
その文章を読んで、私はまず真っ先に、馬鹿正直にドキリとしてしまった。それは心臓の音や鼓動の変化を感じれば、誰だって気づく程度には、兎にも角にも分かりやすかった。
……そうか、"あなたは"と告げているからだ。
これは、私個人に対して、明らかに一体一で告げている。
「さて、ではさっそく演習問題に移りましょう」
黒板とチョークの摩擦以外の音が突然響き、私は何か悪いことをしていることを咎められた気分になって、肩を小さく震わせた。
「この二重振り子が示す最も重要な性質が何か、分かりますか?」
顔を下げる。
『あなたは不思議な出会いをする』
文字列は、やはりそれだけのことを告げていた。
解釈の余地を、キャンバスいっぱいに残して。
「それは、ほんの僅かな初期条件の誤差が増幅され、有限の観測精度では、遠い未来の軌道を事実上予測できなくなるということです」
私は右手の人差し指でマウスを動かし、"はい"を選択した。
だって、網膜というのは案外消耗品で、一生を通じて瞳で捉えきれる情報には上限があるのだから。
だって、その限りあるリソースをくだらない雲の様子なんかに割くのは、全くもって馬鹿馬鹿しいことなのだから。
しかし、主義や思想というものは、外気に触れてしまうと途端に輪郭を失い、あやふやになってしまう。
「夜でもないのに」
そう、今まさに私は、他でもない雲を見ていた。
どこか遠くの自転車のベルが、耳の奥へと不用心に滑り込むのを許しておいて。
「……あ」
はっとして、すぐに雲から目を離す。
それから視線を正面に向け、周りの様子を窺う。
左手の桜の木から花びらが舞っていた――いや、そんなことはどうだっていい。周囲の様子を観察しなくてはならない。
人通りの多い道のど真ん中で立ち止まっている女が、空を見上げながら突然「夜でもないのに」だなんて、不自然すぎる。不思議すぎる。
それはきっと、好奇で懐疑な視線ばかりに違いないのだから。
*
『これから何か面白いことが起こるに違いない』
一か月前の私はそう思っていた。
京都の名門大学に合格し、親元を離れ、念願の一人暮らし。
ようやく、自分の人生がもっと面白く、満ち満ちたものになると思って、よく布団の上で枕を抱えながら、じたばたと奇妙な動きをしてみたりもした。
なにも、それまでの自分の人生が不幸せだったとは思っていない。私は決して、ペシミストの類いでなければ、何事も悪い方向へと考える、出来の悪い詩人でもないのだ。
教養があり、愛のある両親のもとで育ったし、それに大抵の事をそつなくこなせるだけの要領の良さがあった。容姿だって、客観的に見てもそれなりには整っている。
そして何よりも、かなり頭が良い。それはそれは、厄介な程度には。
ふふ、今面倒くさい女だって思った?
でもね、いいこと?
私はこれを自覚しているの。だからソクラテス的にいえば、これは公正妥当かつ容認される程度の面倒くささであると言えるのよ。
*
「だから本当なんだって! 何を言われたか覚えてないし、自分が何を言ったかも覚えてないらしいの!」
二限の講義は『観測限界論Ⅰ』。
規定の時間が終了するや否や、すぐに講義室内に言葉が充満していった。火事みたいね。
「緊張したり、怖くなったりして、内容が頭に入っていないのですわ」
このままでは中毒になってしまう。
さて、帰ってからは何を食べよう、何をしよう。今日は午前だけなのだ。
「そんな心理的な話じゃないの! 綺麗さっぱり、何もかも忘れてしまうなんてことあるかしら?」
一昨日は味噌を食べ、昨日は塩を食べた。ならば今日は醤油か――しかしどうも、それでは規則的すぎる。
あら、インスタント麺の話よ。
「さっきの、あの図書館の裏路地に?」
……ああ、もうっ。うるさい。
さっきからなんなのよ、ぴーちゃらぺちゃくちゃと。
まるで自転車のベルね。
どうも最近の私は、不用心でありすぎる。
「そう! あそこの裏路地!」
仕方ない。
これでは会話が気になって何も考えられない。
頬杖をやめて、前方の二人の会話をしばし聞いてみることにしよう。
未だ話の全貌は見えないし、何の話をしているのか見当もつかないが、少なくとも"図書館の裏路地"という場所の特定は出来たのだ。
「きっと不審者ですわ。薬か何かで記憶を消しているのです」
不審者?薬?
ますます興味が湧く。
しかし、キャンパス内には図書館がいくつかある。
彼女たちはどれを指しているのだろう?
「薬? 意味わからないわよ、そもそもなんでそんなことを」
ああ、そんな!!
私はインスタント麺の事を考えるのをきっぱりとやめてしまった!!
「さぁ、分かりませんわ。あいにく、世の中は"分からない"ことだらけですもの」
『分からない』
嫌いな言葉。
聞いているとムズムズしてくる言葉。
だって、そうでしょう?
全ては"分かる"存在であり、"分からない"存在は、ただ考えていないだけなのだから。
「それよりもお昼にしましょう。駅前に出来たパスタのお店、今日こそいきましょうね」
考えれば何もかも"分かる"に決まっているし、"分からない"のであれば、それは己の怠惰が招いたことであり、思考の停止であり、ひどく恥ずべきことであるに違いないのだ。
ねぇ、そうでしょう?
「ふぁい」
自分の思考に返事をされたのだと思って、思わず身体をビクリと動かしてしまう。
違う、ただのパスタの返事だ。
……パスタの返事って何よ、どこか間抜けね。
ともかく、二人の間に合意が形成され、彼女達は立ち上がるや否や、そそくさと講義室から出ていってしまったのだ。
私は何気なく、その背中を瞳で追ってみた。
足元を見ると、ローファーの側面にはわずかに湿った赤土がこびりついている。それからトートバッグの金具には、赤錆が擦れたような痕。
「ふむ」
私はもう一度、頬杖をついた。
昨日から今朝にかけて、雨は降っていない。
このキャンパス内にある、水はけの悪い赤土がむき出しになっている場所。
さらに、そばに行くには、鞄が擦れるほどの狭い金網フェンスを通る必要のある場所。
なるほど、恐らく、二人はつい先ほど、中央図書館の脇にある池の傍を歩いてきたのだろう。
であれば、彼女達が指していた図書館は中央図書館である可能性が高い。そう考えるのが手っ取り早い。
私は同じように立ち上がり、講義室を出ようとした。すると突然、餅つきの合いの手みたいに左手から声がかかった。
「あ、宇佐見さん。このあと、前に言ってたサークルの集まりがあるのだけれど……一緒にどう?」
黒髪の女だった。
時折講義が一緒になるが、名前は覚えていない。だから"黒髪"と心の中で呼んでいる。
「ごめんなさい、急いでいるの」
サークルに入るつもりなんてさらさらなかった。
入らない理由があるというよりも、入る理由がゴミ箱の中探したって見当たらない。
「そ、そう……わかったわ」
黒髪は薄いベージュのカーディガンを静止させて、私のきっぱりとした答えに負けてしまった。この女はどうも流されやすいところがある。
真横を通り過ぎた時、まだ何か言いたげだったが、私の気の所為かもしれないし、もしそうだとしても言わないのが悪い。
言ったって悪い。いずれにせよ悪い。
『これから何か面白いことが起こるに違いない』
それからもう一度、あの言葉を心の中で反芻してみた。咀嚼して味わってみる、味はない。
講義室から出る直前、私は少しだけ、ほんの少しだけ、口角を上げた。
本当に少しだけよ。
それに、味が美味しかったからじゃないわ。さっきも言ったでしょう?無味だって。
*
用がないのに図書館に積極的に赴く人間は、どこか変だ。
病理的な何かを感じる。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか中央図書館へと現着していた。
建物はかなり古い。薄茶色の塗装があちらこちらで剥がれかかっているし、細かなひびも走っている。知性権運動以前からの建物だ。
すぐ近くには文学部の棟。そちらは対照的に綺麗な様子で、白い外壁には大きく目立った汚れがない。十年程前に新しく建てられたばかりだったと思う。
入口を横切り、建物側面の道へ。そこから路地へと入る。
「裏路地、裏路地」
野良猫が好きそうな場所だった。
建物の反対側、つまりこちらから右側は林になっていて、突き当たりは完璧な行き止まり。図書館のでっぱり部分に道を塞がれている。
私が侵入した背後の路地口は、文学部棟へ続く道に開けていて、今もなお学生がチラホラと通り過ぎている。
腕時計を確認すると、現在時刻は正午を少し過ぎた辺り。
顔を上げ、もう一度路地の様子を見渡す。
建物に立てかけられた金網のゴミ箱は、真上から差し込む強烈な光によって、地面に幾何学的な模様を作り出していた。いつからあるか分からない、転がっている合成飲料水の空き缶まで、逃げ場を失った諜報員がサーチライトに照らされるように、とにかく鮮明だった。
きっとここでは、何もかもが世界へ明るみになっているのだ。
「私にはれっきとした用事があるわ。病理的な人間なんかじゃない」
加えて、ここは図書館の中ではない。あくまでその裏路地だ。範囲外である。
何の話って?ちゃんと話を聞いていないのが悪いのよ。
私は建物の壁に背中を預け、しばらくそのざらついた感触を味わってみることにした。
心臓の鼓動が速まっているのを気づかれないように、できるだけ澄ました顔で。
それから試しに空を見上げてみる。相変わらず雲が流れている。
青空の割合は極めて高く、時折縁取られるそのわたあめは、各々が目的地すら見失って久しいようだった。
ぼんやりとそんな様子を眺めていると、唐突に、どこからか飛んできた桜の花びらが視界の隅へと入り込んだ。
慌てるように、花びらを瞳で追おうとしたけれど、もうどこかへ消え去ってしまっていた。
*
今朝のことを思い出す。
「夜でもないのに」と言ってしまい、慌てて周りの様子を確認したあのとき。
きっと不審がられているだろうと、見世物みたいな目線でも浴びているだろうと思った。あるいは、私の美貌に見惚れているだろうと。
けれど、誰一人私の様子を気にかけている者はいなかった。
彼ら彼女らは、流れ作業のように道を歩き、出荷されて行ってしまった。私だけが列からはみ出たみたいに。
「……はぁ」
陽はすっかり傾いてしまっている。
烏の声と少しだけ冷えた風が、「だから言ったのに」と揶揄してきているようで、ムカムカする。
そうなのだ。結局、あの裏路地には何も変化はなく、何も起こらなかったのだ。
何度も帰ろうと思った。
その度にあと五分だけと言い聞かせて、建物の構造を見て回ったり、地面に何か手がかりがないか探したり、あの二人組の会話を頭の中で再構成したりした。
けれども、結果として得られたものは疲労感。とりわけ下半身のものだけ。
私は路地から脱出し、今はその辺の苦学生の列の一部となっている。
講義の話や試験の話。すぐそこの文学部の連中だろう。
「なぁ、お前って『文化心理学』取ってたよな? じゃああの子いるだろ、金髪の美人!」
「いるいる! どこの国の人なのかなぁ」
列の中とはいえ、実際のところははみ出ているけれど。
「醤油ね、やっぱり」
小声で呟く。
さすがに空腹に限界が生じている、昼だって抜いている。
血管が枝分かれするように、私は列から抜け出すことにした。
多分私は、人より多くのヘモグロビンを運搬しているだけだから。
やがて人通りが疎らになってきて、私はなんとなくあの二人組を思い出した。
何の話をしていたのか。
あの路地には何があるのか。
どういう訳か、二人がどんな容姿だったかまでは思い描けない。ローファーやトートバッグ、それから話の内容だけが、市街戦直後に発見された民間人の日記みたいに、断片的に思い出されるだけだった。
尤も、別に、そんなことは重要ではないのだろう。
恐らくきっと、二人は同じものを食べ、同じ景色を見て、同じこと(あるいは違うこと、その比率は定かではない)を考えているのだ。
その一連の流れを、ずっと繰り返しているのかもしれない。
あの口調や話し方には、少ない判断材料を補うくらいの、それを納得させるだけの確信めいた何かが、少なくともあったのだ。
では、今の私はどうだろう。
同じように起きて、同じように呼吸をして、同じような景色を見て、同じように眠る。
その繰り返し。
繰り返して、繰り返す。
何度も、何度も。
ふと地面を見ると、役目を終えた桜達が、死骸となってアスファルトと接触していた。
何度も踏みつけられたのか、それらは風の効果を受け付けていないと見て取れる。
「もう5月になるのね」
劇的に面白い何かが起こるなんてことはない。
何か唐突な変化が起こるなんてこともない。
運命的な出来事が、法則的に導かれるなんてありえないのだ。全ての物事が、物語であるとは限らないのと同じように。
しかし、ふむ、そもそも物語とはなんだろう?
どうすれば物語になるのだろう?
あの二人の様子を、もう一度だけ思い出す。
二人組は、物語の中にいるみたいだった。
でも、どうして?
どうしてそう思うのだろう。
「分からない……あっ」
言ってしまって、もう遅いと思った。
物語とそれ以外の境い目を追うように。
あるいは、昼と夜の境い目から逃げるように。
それともまた、季節の境い目から目を背けるように。
私は、黄金色の家路についた。
*
帰宅。
外付けの階段がある古びたアパート。
二階の端が私の根城。
大学からのアクセスも良く、部屋の大きさも三十四平米と悪くない。その割に家賃が安いのは、築八十年という時の経過がもたらす、諸々の不便のおかげだ。
例えばこの扉。
前に立ち、ドアノブを握ってみる。
このまま捻ろうとしても、途中でつかえてしまうし、引いても開かないのだ。枠に噛み付いたみたいにビクともしない。
だからほんの少しだけ扉を押す。それからノブを捻って引くと、今度は何事もなかったかのようにすんなりと開く。
ラッチの老朽化が原因だろう。
中に入り、コートを投げ捨て、オフィスチェアへとなだれ込む。
途端に掃き出し窓から夕陽が差し込んできたので、私は息を吐きながらその奥を見つめた。これだって、窓枠が僅かに歪んでいて、開くのに一苦労する。
「はぁ……」
ベランダの干し竿では、取り込み忘れたシャツが逆光の中で黒い輪郭になっている。雲だって漂っている。
本当に大変嫌いな雲の観察の方が、この現状よりまだマシに思えた。
何故なら雲の観察は、既に"つまらないもの"だと確定しているから。
一方でこの生活は、"もしかしたら幸せであるかもしれないあやふやなもの"なのだ。
私は大学へ持っていったノートパソコンをデスクに置き、それからテレビをつけた。
そういえばここ最近、テレビを見ていない。いや、ニュースを見ていない。社会の情勢等には、昔からあまり興味関心を抱かない性質だった。
『さて、これで十三人目になる行方不明者ですが、警察の見解によると、極めて悪質な……』
電源を落とす。
胸を抑える。
『行方不明』
この言葉だけは、胴体が握りつぶされて、その衝撃が手の先から足の先まで伝わるくらい、嫌な言葉だった。
思い出したくない。
それでも嫌でもそうなってしまう。
動悸が速まり、部屋の風景が溶けだしていった。
「はぁっはぁっ……」
つまるところ、全ては絵の具となって漏れ出してしまったのだ。
あるべき姿へと戻るように、あるいは、コップを倒して水が零れるように。
私は胸を抑えたまま、瞬時に机の引き出しから背表紙の角が潰れた一冊を取り出し、あるページを開いた。
そしてそれを、重いものを持ち上げるみたいに声に出す。
「……宇宙の現在の状態は……以前の状態の結果であり、次に来る状態の原因である……」
呼吸で文字を引っ張って、必死に押し出す。
「……もし、ある瞬間に自然を動かすすべての力と、すべての存在の位置を理解する知性があれば……ふぅっ……何ひとつ、不確かなものはない……」
視界が彩度を取り戻し、少しずつ空間と自分の距離感を再認識していく。
「……その知性にとって……未来は過去と同じように、目の前にある……」
胸の動悸は治まり、ゆっくりと息が落ち着いていく。
それは記憶を取り戻していくみたいに、愛を知るみたいに。
だから私は、本を閉じる。
そしてもう一度だけ深呼吸をする。
図書館の裏路地の光景が頭を過ぎった。
「……ふぅ」
そうよ。
私は醤油ラーメンを食べなくてはならなかったの。
*
多少の時間を置いて、本を元の場所に仕舞い、立ち上がる。
それから浴室に入り、シャワーを浴び、部屋着へ着替えた。
動きやすくなって、キッチンへ。
蛇口を捻り、やかんに水を入れる。底へ落ちる音が楽しげに空間に響いた。
吊り戸棚から醤油味のインスタント麺をとりだし、蓋を半分だけ捲ってかやくを流し込む。乾いたネギに、細いメンマ、小さなナルト、作られた色鮮やかさね。
お湯が沸く間暇なので、私はカップをパソコンの前においてから、その電源を入れた。
低い駆動音の後、すぐに青白い光が瞳に反射する。
「……ん?」
あるものが目に入る。
それは、デスクトップ画面に堂々と鎮座していた。
現在執筆中のレポートの、そのちょうど下。いつ作ったか分からない、謎のフォルダがあった。
名前は、『自分ゲーム』。
「ゲーム?」
やかんからカチ、コトと音がする。
その音を頼りに、フォルダを開いてみた。
中にはただ一つのアプリケーション。
名前は同じく、『自分ゲーム』。
『自分ゲーム』というフォルダの中に、『自分ゲーム』というアプリケーション。
「マトリョーシカ?」
こんなものをインストールした覚えはない。まったく身に覚えがない。今朝の講義にパソコンを利用したが、その時にはなかったはず。
対象をダブルクリックすると、途端に画面は暗転した。
黒い液晶の上に、顔立ちの良い少女の顔がぼんやりと浮かんでいるだけ。
しかしすぐに、白い文字が現れた。
『これから大雨が降る』
そしてその下にも、文字。
『はい』
『いいえ』
「……は?」
やかんからはジジジという音がする。沸くにはまだ少し時間がかかるのだ。
"はい"と"いいえ"にカーソルを合わせると、白い文字が少しだけ濃くなった。というよりも明度が上がった。
どちらか選べということかしら。
私はいつの間にか前のめりになっていたので、背中をチェアへと一旦預けて、窓の外の様子を瞳に収めてから、それからもう一度画面を見つめた。
「いい天気じゃない」
それにしても、『これから大雨が降る』とはなんとも不思議な文章だ。断定していて、推論の要素がない。未来の話であるはずなのに、予知や予測、もっと言うと予言めいた要素もない。シンプルだからこそ、それは"確定"しているように思える。
「……未来は過去と同じように、か」
私は、雑草を引き抜くみたいに"はい"を選択した。
すると文字は一時的に消失し、別の羅列を形作った。
『次は6時間後』
「何が?」
これは、どういうことなんだろう。
この奇妙で稚拙なアプリケーションは、いつ私のデバイスに混入してしまったのだろう。私が不用心なのが原因だろうか。
妖精さんが、寝ている間に部屋を掃除してくれるみたいな。
あるいは、狐が家主の留守中に物を荒らすだとか。
それかもしかしたら、別れさせ屋が浮気を装うような。
私の預かり知らぬ所で、何らかの利害や貸し借りが関係して、このアプリケーションが目の前に現れたとでもいうのだろうか。
「気味悪いわね」
私は首をチェアの上部に預けて、もたれかかりながら天井を眺めた。
そして部屋のグラデーションが変化していることに気づく。段々と暗くなってきている。
夜なのだろう。
そう思ってカーテンを閉めようと考えた。
しかし、続いて、それは音色を率いてきた。
最初はぽつぽつ、と。
やがてそれは、たたた、と。
しまいには、ざあああ、と。
「……え?」
雨。
大気中の水蒸気が水滴となって降り注ぐ現象。
それらはストリングスの四重奏のように、無遠慮に窓を叩いている。その窓の奥は、先程までの光景が嘘のように、灰一色の世界だった。
ものの数十秒、私がチェアの上でだらしない姿勢を維持していただけで、単なる水滴の落下は、豪雨へと変化してしまっていたのだ。
加えて、言葉に表すのが難しい妙な音もすぐ近くから発せられている。
「……あめ?」
ここでようやく、やかんの水が沸騰していることに気づく。妙な音とはそれだ。
慌てて姿勢を戻して、勢いそのままに立ち上がる。
火を消すためではない、外に出るためだ。
扉のドアノブに手をかけ、捻る。捻りきらない。押しても開かない。
苛立って、もっと押してみる。体重をかけてもやっぱり開かない。
私は舌打ちをして、扉を少し手前に引いて、それから捻り、押した。開いた。
身体全体を外へと晒す。
手すりから身を乗り出す。
雨粒に襲われ、髪が水滴に覆われ、そのいくつかが頬をつたった。
雫達がシャツを濡らし、下着にまで水分が染み込む。肌と布がべたりと引っ付く。
観察する。
検証する。
そして、統合する。
これは雨なのだ。紛れもない、正真正銘の、五感の全てに誓い、自信を持って、雨なのだ。
『これから大雨が降る』
あの文章が浮かび上がる気がした。
どこに?雨の中に。
私はあれに、"はい"と答えた。
すると雨が降った。
この世界にしては、あまりにも単純で、陳腐で、分かりやすい因果。
「っ!」
バッと、視線を感じて後ろを振り返る。
何もいない。
扉だ。
今出てきたばかりの、自宅へ繋がる開けづらいクソみたいな扉。
「……雨、よね」
最後にもう一度、雨の様子を確認する。
あれだけお互いを避けていた雲達は、今はしっかりとした重みで空いっぱいに垂れこめている。
私はドアノブに手をかけ、手順通りに開き、狩りが上手くいかなかった猟師のように部屋へと戻った。
最初に出迎えたのは、きゅうううううという不愉快な音。
台所へ向かい、火を消す。
それからやかんを持ち上げ、デスクへ運ぶ。
水を入れすぎたのだろう、少し重い。
私の髪だって、水分を多分に含んで同じ状況だ、歩く度にぽたりぽたりと床を濡らしている。
机の前までたどり着き、カップへ湯を注ぐ。蓋を片手でしめる。
やけに動作一つ一つが丁寧で、迅速に思えた。
どこか他人事のように、自分を俯瞰して操作してるみたいな感覚で、ちょっと気持ち悪いくらいに。
台所への帰り際、モニター画面を注意深く見た。
『次は6時間後』
やかんを元の位置に置き、チェアに戻り、私はすかさずインスタント麺を開けた。
粉末スープと液体スープを投入し、かき混ぜる。
「……あ、あれ」
麺はまだ湯に馴染んでおらず、ゴワゴワとしていた。スープが絡まない。
そうだった。
三分待たねばならない。
*
六時間。
それは、一日の構成要素、四分の一。
何かと都合の良い時間。
この間、私は空腹を満たし、食器を洗い、それから明日の講義資料を一通り眺めたりもした。
「そろそろ……」
"そろそろ"?
ああ、本当に馬鹿みたい。
こんなの、猫じゃらしを前にした猫みたい。
私は少しだけ笑みを零しながら、画面に刻まれている文字列を見つめた。
『次は1時間後』
この文字はきっかり一時間毎に更新される。何度か開いたり、開きっぱなしにして確かめてみたのだから間違いない。一時間経つと、数字"だけ"が瞬時に変化する仕組み。
分や秒の表示されない、その明快な作りは、かえって製作者(と便宜的に呼ぶことにする)の意図を感じることができなくて、どこか気持ち悪いとさえ思う。
タブを切り替え、ブラウザへ。
『自分ゲーム』についての検索履歴ばかり。
残念ながらこの六時間、それらしい情報は、どれだけ電子の海を彷徨っても発掘できなかったのだ。
アプリケーションの情報を探ってもみたが、発行元は空欄だし、外部から取得した履歴も見当たらない。
また、この"次は〇時間後"の表記は、端末の時計を進めても変化がなかった。
私はチェアから立ち上がり、夕方に食べたカップ麺の残り汁を温めることにした。
塩分が好きだ。とりわけ、こういう時にその傾向は高まる。
汁をカップから鍋に移すと、残っていた麺やかやくも一緒に投下された。
火にかけたタイミングで、大きな欠伸を出す。
「……疲れてるわね」
私は残り汁の味を想像しながら、醤油スープが沸騰していくのを眺めた。
そういえば最近、旧市街地のラーメンを食べに行っていない。
ここ最近は、大学近くの健康に良いものばかりを食べていたのだ。
旧市のそうでないのが欲しくて堪らない。
「ふわぁ……んっ」
身体を伸ばしていると、コツコツとした金属音が聞こえた。
誰かが外付け廊下を踏みつけている音。
それはこの部屋の近くまで続いて、やがて、隣の扉が開く音とともに消えてしまった。
壁が薄すぎる。
これも家賃の理由の一つね。
それにしても、ふむ、私は隣にどんな人が住んでいるのか全く知らないのだ。
このご時世としてはさして珍しくないと思うが、世間一般的な観念の内側だからといって、それだけで無条件に安心感を得られるほど、私は間に合わせな人間ではない。
少しだけ長い体感時間の後、鍋肌でふつふつと泡が弾けだした。
それと同時か少し直前からか、食欲を駆り立てる、醤油と油と化学調味料(あるいはそれに準ずるもの)の芳醇な香りが漂い出す。
私は表面にキラキラと油膜が張ったそれを元のカップに流し込み、デスクへ戻った。
それからレンゲを使わずに、そのままカップの縁に口をつけて、一息に飲み込む。
「……んっ」
健康に悪いということは、美味しいということだ。
さて、雨が降った直後は、"ゲーム"に対しての心の高鳴りを抑えきれずにいたが、しかし、単純に確率の問題なのだ。
世界のどこかで急に雨が降ることだなんて、もちろんよくある。そしてそれが、奇妙なゲームの奇妙なメッセージを受け取った直後だということも、同じくらいには。
宝くじに当たる確率よりかは、よっぽど自然なことであり、世の理にある程度迎合してくれている事象だと言えるだろう。
六時間という単位は、一日の構成要素としての役割だけでなく、人の理性をメンテナンスする役割も持っている。
「それに塩分だって摂ってるし」
ええ、もはや腑抜けたことを考える余裕なんてないわ。
国が推奨していない、値段の割には量の少ない旧型インスタントを味わいながらぼんやりしていると、ついに画面から件の文字が消え、真っ暗闇になった。
それは、あれからきっかり六時間が経ったことを意味している。
「んっ」
慌てて嚥下する。
このニンニクと魚介系の旨みが堪らない。
私はそこそこ性能の良い自身の舌に感謝を告げながら、映し出された文字を瞳に収めた。
『有名アイドルが逮捕される』
「……はぁ?」
左から右へ、何度か読み直す。そして私は、その度に馬鹿にされているような気持ちになった。
なんだかその一文が、酷く滑稽で拙く思えたし、そこには文脈も突拍子も何もかもがないのだから。
下には以前と同様に"はい"と"いいえ"の二つの選択肢。
「逮捕……」
私がどんな感情を抱こうが抱きまいが、いずれにせよ、選ぶ選択肢自体は決まっていた。
"はい"だ。
クリックすると、前回と同じように文字が消え、またしても"6時間後"のメッセージが現れた。
部屋は静まり返っている。
パソコンの駆動音が風のように紛れている。
外からも特に何も聞こえない。 いや、隣の部屋からビニールを開けるような物音だけが微かに聞こえる。
私はスープを口に運んだ。
「うーん」
『有名アイドルが逮捕される』だなんて、なんて味気のない文なんだろう。
"風がピタリと止む"だとか、もっというと"突然地球の自転が止まる"みたいな、そんな大それた文章だと思っていた。
「アイドル、逮捕ねぇ……ふわぁ」
その間の抜けた響きを考えながら残り汁を飲み干すと、極めて現実的な睡魔が、先程よりも強く顔を覗かせ出した。
しかし、どうだろう。
もしかすると今どこかで、本当に有名なアイドルが逮捕されているのかもしれない。
私はブラウザにアクセスし、検索欄にそれらしい単語を入れてみることにした。
小さな不祥事ばかりが出てくるが、逮捕だなんて言葉は見当たらない。
仮に今緊急で逮捕されているのだとすれば、それが世に広まるのは少しだけ時間がかかるのかもしれないが。
「一限よね、明日」
私は冷蔵庫から出来の悪い新型酒を開けて、氷と一緒になみなみになるまでグラスへ注いだ。
それを見て、口の中の塩分に意識を向けながら、地球上に存在してくれている氷山と海を想像した。
グラスを持ち上げ、唇で触れて、それから一気に傾ける。
塩分は強い苦味によって、出来の悪い絵画の修復作業みたいに上書きされてしまった。
そのままベッドへ倒れ込み、私は意識を世界の外側へと、境い目の外側へと追いやることにする。
「……ふふ」
あの感性の悪い一文を考えると、不思議と酔える心持ちで。
*
いつからだろう、星を視なくなったのは。
いつからだろう、月を視なくなったのは。
意味がないとは思っていない。
ただそれは、普通ではないのだから。
*
「んぅ」
ああ、この感覚。忌々しい朝ね。
身体全体がコントロールを手放してしまい、なのに外部から「動け」と無理やりねじ曲げられている感覚。
ふふん、でもまだ動くもんですか。権利を放棄しちゃうんだから。
「むぅ」
寝返りを打つと、サイドテーブルに置いていた昨晩のグラスに手があたって、ことんと倒れた。氷が溶けて生じていた水が流れ落ち、連動するように頭の奥が痛む。
うう、せめて炭酸で割れば良かった。
「……うそ」
そして意図せず、時計に焦点があたる。
なんてこと、起きる予定の時間をもう三十分も過ぎている。
途端に身体の所有権が、哀れな宇佐見蓮子に手放されてしまった!!
「あー、もうっ!」
磁石の反発のようにベッドから身体を跳ねさせて、朝食を諦めることに多大なストレスを感じながら、私は洗面所へ駆け込んだ。
歯ブラシを咥えて乱暴に手を動かしながら、右往左往と歩き回り、干し竿からシャツをひったくって、着替えを並行する。
片足で跳ねながら靴下に足をねじ込んだ、その時。
「んむっ、げほっ、げほっ!」
勢い余って、ミントの泡を飲み込んでしまった。
走ればきっと、間に合うはず。
*
額の汗が、肌と髪とを繋ぎ止めていて大変気持ち悪い。
しかしなんとか、すんでの所で一限の講義に辿り着いた。
「ふぅっ……はぁっ」
走るという動作は、それを行っている時は悠久の時の流れを感じさせるほどに平坦で長ったらしいものに思えるが、しかし、終わってみると一瞬だったように思える。
走っている最中に視界に映った、笑っている女や端末を見ながら歩く男、それから大きな鞄を背負った学生が呑気に歩いている光景についての苛立ちだけが、落とし物の展示品みたいに今は残っているばかり。
入口付近の端の席へ腰掛けて、一息。
喉の奥も鉄の味でいっぱい。
黒板の前に目をやると、髭の多い何に対しても無頓着そうな中年の教授が突っ立っていた。早くこんなところから抜け出して、自分の研究を続けたいと思っているに違いない。
「あ、宇佐見さん」
例の黒髪だ。左手から声をかけてきた。
性懲りも無く、メトロノームみたい。
彼女は昨日と同じカーディガンを着ていた。
「これ取ってたのね。古典的な非統一物理学なんて、興味ないと思っていたのだけれど」
「そう見えるかしら? この手の古いのは、結構好きなのよ」
私の応答文に、彼女は楽しそうに、文量を何倍かにして返してきた。
面倒くさい。
環境音にして、適当に受け流してしまいましょう。
私はバッグからパソコンを取り出しながら、辺りの音に集中した。
「ねぇ、聞いたぁ? 篠崎透子のあの話」
「聞いた、聞いたよ、あの話。ファンタジアだってね。まったく、どうして、手を出すのかなぁ」
……いきなり何の話だろう?
突然黒髪が一人二役を演じ始めたのかと、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
しかし、どうも先の会話は私のすぐ後ろで繰り広げられているらしい。
「逮捕だよ、逮捕。私達が産まれた頃は、まだ合法だったんでしょ?」
「あんなに有名なアイドルだっていうのに……くすくす」
……逮捕?
……有名なアイドル?
『有名アイドルが逮捕される』
朝から激動の数十分を過ごしてきたせいだろうか、その味気ない文章は、私の頭の中からすっぽりと抜け落ちていたらしい。
それが今や、水蒸気が水になるみたいに、私には明確に、判然と、必然的に、思索できてしまう。
「っ!」
頭を適切に使う必要に強く迫られたのだと、ようやくもって理解して、私は背筋をピンと伸ばした。
「……ね、ねぇ、後ろの席の人が話してる逮捕の話って、あれ本当?」
未だ何かを楽しそうに語っていた黒髪の話を遮り、質問を投げかける。
篠崎透子というのは――名前だけうっすらと聞いたことがある。
確か、インターネット出身の人気アイドルグループに所属していたはず。
「え、逮捕? 逮捕って? いきなりどうしたの?」
「篠崎透子よっ! あのアイドル、逮捕されたんでしょうっ!」
「えっと、そう……みたいね。
……いきなりどうしたの?」
「……逮捕……有名アイドル……ほんとに?」
「宇佐見さん?」
私は飢餓でどうしようも無くなった人が汚水を飲むみたいに、パソコンを起動した。
「……ある」
あのアプリケーションは、やはり存在していた。
それを確認したタイミングで、教授が挨拶を始めた。黒髪は前の席へ座った。
「えー、では前回の演習問題から再開します。この手の古典的な振動系では、まず何を近似し、何を無視しているのかを明らかにしてください」
教授は黒板に、振り子らしき簡素な図を描いた。
いや、勿論黒板に目を向ける余裕なんてあるわけないじゃない。
けれどそのチョークの音から、円と線だけの愛嬌のないものが描かれていると推測くらいはできる。
……違う、そんなことに気を取られている場合である訳が、ない、ない!
「周期は振幅によらず一定である、というのは勿論正確ではありません。振幅が十分に小さい場合に限って、そう扱えるというだけです」
私は検索ソフトを開き、何度かタイプミスをしながら検索欄へ文字を打ち込んだ。
『篠崎透子 逮捕』
「大きく振れば当然ずれる。近似というのは、間違いを許容する代わりに、問題を解ける形へ変形する操作です」
検索。
小休止の後、無数の記事が並んでいく。
『人気アイドル・篠崎透子容疑者を逮捕』
『違法電子薬物ファンタジア所持の疑い』
『所属事務所、事実関係を確認中』
「……本当に」
声が漏れた。
いえ、まだ早い。早いわ。
確定ではないでしょう?そうでしょう?そうに違いないでしょう?決まらないでしょう?そうでしょう?
「ただし、近似が外れたからといって、自然法則そのものが変化したわけではありません」
だから私は、その画面を、瞬きや息といった一連の活動を必要としなくなった人がそうするように、瞳で熱なく点検した。決して熱なんて、入っているわけがなくって。
「それはこちらが勝手に、条件の範囲を見誤っただけです」
一番上の記事を開く。
逮捕時刻が書いてある。
『午前二時十四分』
私が"はい"を押したのは、確か日付が変わる直前だったはず……。
「次に、同じ振り子であっても、初期位置と初速度が異なれば、当然ながら運動も異なります」
私は記事を下へと送った。
警察は以前から捜査を進めていた。
関係者への聞き取り。
それらがいつ行われたのか、詳しい時刻までは書かれていない。
しかし、ともかくそれらが事実として陳列されていた。
「運動方程式だけを眺めても、一つの運動は決まりません。どの位置から、どの速度で始まったのか。それを与えて初めて、具体的な解が定まります」
別の記事を開いてみる。
通信記録の解析。
逮捕状の請求。
例の如く、そうした事実が無機質に綴られている。
他の記事を見ても、同じだった。
個人ブログを覗いても、同じ。
「えー、前回の類題に関しては、章末にいくらか似たようなのが載っていたと思います。適宜参照してください」
それからSNS中を探しても――全ては篠崎透子の逮捕が事実であることを裏付けるものばかりだった。
ファン達の嘆きや、当該アイドルに対する否定的な意見。それらの集合体が忙しなく叫んでいるのが、鬱陶しいくらいに何度も瞳に伝達されていく。
「……どうして」
パソコンから目を離し、顔を上げる。
今私は、どんな顔をしているのだろうかと、ふと思う。
教授は最初の振り子の先端に、もう一本線を書き足した所だった。
「さて、振り子一つならまだ簡単です。では、その支点を別の振り子に取り付けるとどうなるか」
二重振り子。
「皆さんの中には、この時代にわざわざ科学世紀的なアプローチで学問を学ぶことに、ひょっとしたら意味を見出していない人もいるかもしれません」
黒板上の二本の振り子は、止まったまま絡み合っていた。
動き出すことのない、静止画みたいに。
「しかし、性質や法則というものが、決して変化することがないことについては、承知でしょう?」
それがひどく、もどかしく感じる。けれど同時に、落ち着くようにも。
「蛇足でしたかね。では話を戻します」
私はもう一度、パソコンへ視線を戻した。
「同じ結果へと至る条件が、一つしかないとは限りません。逆に、ほとんど同じ条件から、同じ結果が出るとも限らない」
逮捕されたという結果が、確かにそこにはあった。
その原因は、警察の捜査なのか。
それとも、本人の行動なのか。
あるいは――私の選択なのか。
「そんな訳、あるわけないじゃない……」
私は笑ってみようとした。
「では、二重振り子の運動方程式を導出します。前回の単振り子と同じ感覚で始めると、途中で符号を間違えるので気を付けてください」
教授は口を開かなくなり、講義室内にカツカツとした心地の良い音を刻み始めた。
私は白痴みたいにぽかんとしながら、また顔を上げて、黒板が衣替えを始める様子を眺めた。
そして、ここ十数時間のことを振り返った。
『これから大雨が降る』
私は"はい"を選択した。
すると大雨が降った。
『有名アイドルが逮捕される』
私は"はい"を選択した。
すると篠崎透子が逮捕された。
「……ぁっ」
小さく、悲鳴のような声を上げてしまう。
そうだ、昨日の夜、『次は6時間後』と書かれていたではないか!
あれからもう8時間以上経過している!
私は大慌てでブラウザを閉じて、自分ゲームを起動した。
起動は一瞬で完了し、暗い液晶に小刻みに揺れる少女が反射した。
なるほど、こんな顔をしていたのか――そんなどうでもいいことに思考を奪われた、その一瞬。
白い文字が、浮かび上がる。
『あなたは不思議な出会いをする』
「……っ」
それは、病院の待合室で名前を呼ばれるように。
「不思議な……」
それは、バスの中で目的地のアナウンスが発せられるように。
「……出会い」
手を動かすことも、何か考えることもせず、しばらくそのドットの連なりを見つめて、四回くらい瞬きをしてから、息を吸って、顔を上げて、チョークの残り香を認識したりして、ようやく息を吐いて、もう一度黒板を見た。
二重振り子の運動方程式が描かれていた。
「不思議な出会い」
何故だろう。
雨の時とも、逮捕の時とも違う。
その文章を読んで、私はまず真っ先に、馬鹿正直にドキリとしてしまった。それは心臓の音や鼓動の変化を感じれば、誰だって気づく程度には、兎にも角にも分かりやすかった。
……そうか、"あなたは"と告げているからだ。
これは、私個人に対して、明らかに一体一で告げている。
「さて、ではさっそく演習問題に移りましょう」
黒板とチョークの摩擦以外の音が突然響き、私は何か悪いことをしていることを咎められた気分になって、肩を小さく震わせた。
「この二重振り子が示す最も重要な性質が何か、分かりますか?」
顔を下げる。
『あなたは不思議な出会いをする』
文字列は、やはりそれだけのことを告げていた。
解釈の余地を、キャンバスいっぱいに残して。
「それは、ほんの僅かな初期条件の誤差が増幅され、有限の観測精度では、遠い未来の軌道を事実上予測できなくなるということです」
私は右手の人差し指でマウスを動かし、"はい"を選択した。