大妖怪ルーミアはその聡明な頭脳を持って思いを馳せていた。
今宵は満月。
過去を懐かしむのにこれほど適した夜は無い。
彼女は妖怪然とした禍禍しい痩躯をしならせ、虚空から酒瓶を取り出した。
そして彼女はその酒瓶を豪快に直飲みし、その場に座した。
彼女の眼前に広がるのは、湖。
思い出深い湖沼だ。
曖昧な面持ちで眺める。
水面には爛々と輝く水月が浮かんでいた。
彼女はふ、と自嘲気味に笑う。
まるで情趣という言葉が顕在したかのような空間だ。
私には最も似合わない。
そして己の内から湧出した言葉に目を白黒させた。
どうも随分と殊勝な気分だ。
それもまた一興か、と言葉を吐き捨て酒を呷った。
ああ、楽しかったなぁ。
想起するのは、淡い思い出。
決して全てが綺麗とは言えない。
しかしそれでも、決して忘れたくない。
そんな思い出。
あそこで氷精がいつも寝ていた。
あちらの紅い館ではいつも酷い目に遭う。
向こうの道途を往けば人里が。
こちらには、そう。
博麗神社が。
ふと、何者かの気配がした。
「やぁ、ルーミアじゃないか。久し振りだな。」
叢の中から霧雨魔理沙が意気揚々と歩いて来た。
彼女は懐かしげに久闊を叙すと、不敵な笑みを携え対峙した。
「本当に久し振りだね。今までどこに居たの?」
「ちょっとそこまで、世界を見てきただけだぜ。」
魔理沙はそう言うと私が持っていた酒瓶を剥奪し、一息に飲み干した。
「私のお酒なんだけど・・・」
「おいおい、知らないのか。深夜に運悪く魔法使いに出会ってしまったらお酒を差し出さなくちゃいけない決まりだぜ?」
「そーなのかー」
そんなわけあるか。
そう思ったがつい口走ってしまった物は仕方が無い。
口癖は早々に治る物では無い。
魔理沙は言う。
「で、こんな所で何をしているんだ?」
「見れば分かるでしょう。月見酒だよ。」
「酒が無いじゃないか。」
「魔理沙が飲み干したんだよ!」
「はは、だったらただの月見だ。気取ってるなぁ!」
こいつはここで食ってしまおうか。
私はそこらの有象無象ならば刹那に驚懼する峻峭な眼光で、魔理沙を炯々と睨み付けた。
すると魔理沙は何やら澄まし顔で尋ねてきた。
「なぁ、ルーミア。そういえばさ。」
「ん?」
「・・・いや、何でも無い。月が綺麗ですねって言おうとしただけだ。」
告白されてしまった。
いや、違うか。
そもそも私と霧雨魔理沙はそれほど親しい間柄では無い。
私は魔理沙を畏怖していたし、魔理沙は私を倦厭していた。
そんな関係は今でも変わる事は無い。
そして、これからも。
だが。
だが、私は彼女が言いたい事を理解した。
私は聡明なのだ。そして行間を読む妖怪だ。
彼女にとっても思う事は多々あるのだろう。
皆、思う事が多々あるように。
「やっぱり一つ聞いとく。」
「いいよ。」
「霊夢が死んでから何年経った?」
「三百年。」
即答した。
「そうか。」
彼女は即応した。
そして今度はゆっくりと咀嚼するように
「そうか。」
魔理沙は満足気に頷き、自嘲気味に笑った。
「私は長く生きすぎたかもしれん。そろそろ潮時かな。」
そう、呟いた。
私は彼女が捨虫の魔法を使用するのを意外に思った事を覚えている。
魔理沙は生に固執していないと思ったからだ。
魔理沙は人として生き、人として死んでいくものだと漠然と思っていた。
だが、今の私には分かる。
彼女がどんな気持ちで人から魔法使いになったのか。
「霊夢より先に死にたくなかったんだね。」
「そうかもな。」
否定の言葉は無かった。
だが肯定の言葉も無かった。
まぁ、今となってはどうでも良いことだ。
魔理沙は最早、怡々たる面持ちなのだから。
ふ、と自然と笑みが出た。
魔理沙も、は、と笑みを零した。
そして私と魔理沙は、言葉を交わす事も無くその場に佇んでいた。
数刻が経った。
魔理沙が言う。
「んじゃあ、私はそろそろ往くよ。」
一体どこに?などと野暮な事は聞かない。
それこそ愧赧の念に取り付かれてしまう。
それが幻想郷の流儀なのだ。
とはいえ若い頃は全く理解出来なかった事だが。
昔は彼女達の佯狂たる言動に困惑したものだった。
「そう。良かったら一緒に来ない?」
「いや、私はそういうのは性には合わないんだ。何せ、魔法使いだからな。」
「そう。」
「ああ。」
「それじゃあ。霧雨魔理沙。またいつか。」
「ああ、またいつか。」
魔理沙は来た道を戻り、叢に消えた。
まるで世界で一番素敵な夜を過ごしたかのような足取りだった。
さて。
私は腰を上げた。
一瞬だけ、思いを馳せる。
冰心の少女達へと。
幾星霜の時へと。
「皆、準備はいいかい?」
私は両手を広げた。
すると突然暗闇が蠢き、その狭間から何かが溢れ出た。
妖怪、妖獣、妖精、幽霊、亡霊、獣人、そして八百万の神々。
皆、全くと言っていいほど妖気が無く、そして年老いている。
そんな彼らが、ありとあらゆる闇の狭間から噴出する。
ここに幻想郷中の魑魅魍魎が集結した。
「さて、皆の者。」
幻想郷はすっかり近代化していた。
行き過ぎた文明。
発展しすぎた文化。
今や外の人々は世界を完結させ。
幻想に生きる者達さえも幻想を抱かなくなった。
幻想郷は、幻想さえも、幻想としたのだ。
「今宵は最高の日だ。」
凛然と輝く満月。
泰然と煌く水月。
満月は、妖気を高める。
「永久の宵闇、大妖怪ルーミア。僭越ながら先頭を往かせてもらう。」
我ながら強くなったもんだ。
自嘲気味に笑う。
「さぁ皆。星が呼んでいる。例え刹那の時間でも良い。人々に思い出させてやろう。世界は闇に満ちている事を。思い出させてやろう。闇には我々が潜んでいる事を。」
「そして思い出させてやろう。」
「我々が幻想郷を最も愛している事を。」
やはり思うのは、嬋妍な少女達の顔。
もう帰ってくることは無い、純粋に楽しかったあの頃の記憶。
彼女達の目に映った朱の輝きは。
心に宿った魂の色か。
「往こうか。」
「最後の妖魔夜行に。」
そして、夜が降りてくる。
幻想のように、甘く切ない夜が。
とても気分が悪くなりました