低く真黒な雲から氷雨が降り注ぐ。
遥か天より地を見下し、下々に厳しさを呉れてやらんと奢るかのように。
それは晩冬の早い夕闇が帳を覗かせても霙にならず、冷たい雨粒は身体に当たった側から染み、地を這う生き物の肌を、肉を、心を凍えさせる。
天邪鬼、鬼人正邪はあかぎれた指先で頭巾を目深に下げ、当て処無く人里の往来を歩む。黒々とした建屋の窓にひとつ、またひとつ暖かな火が灯る度に下卑た舌打ちを鳴らし、ただ歩む。
その成りは、粗末な物であった。古びた外套は最早その用を成さず、ぼろけた革靴はとうに足枷。足袋はずぶ濡れ、指先の感覚なぞ最後に覚えたのは何時の事か。
輝針城異変よりとうに三月は過ぎたか。首謀者であるこの天邪鬼は来るべき転覆の機会を伺い、身を隠しながら幻想郷を彷徨っていた。
異変そのものは未遂に終わったが、彼女にあってはそれも計算の内であった。
この世界に於ける指折りの抵抗勢力を舞台に上げるだけの災禍を、己が中心に立って為せたこと。そして力量をつぶさに観察し、分析が出来たこと。その二つが果たせただけでも、次なる企てに十分な収穫であろう。
彼奴らは異変を丸く収めたと粋がっていようが、大きな利を得たのはその実この自分である……そう、己を信じていた。
しかし、その胸中は灰色の靄に覆われていた。それはこの日に至るまで、一日一刻たりとて晴れることは無い。
――何故だ。
日々自問を繰り返すが答えは見い出せず、苛立ちが靄を濃くするのみ。やがて靄は進むべき道をも晦まし、彼女を精神的にも肉体的にも憔悴させていった。
空腹と苛立ちに痛む胃の腑を外套の陰で押さえ、妖怪としての、悪党としての本能に瞳を昏く光らせる。所詮天邪鬼たる下賎を忌み嫌われる身。掏摸(すり)であろうが巾着切りでろうが、破落戸(ごろつき)紛いと罵られん悪事も、矜持や情などという下らぬ枷に縛られる事は無い。
時刻も更け、悪天に人はまばらだが、むしろ悪事にはこの上ない好機。小路に引き摺り込めば、すぐにでも事に及べよう。
往来から哀れな標的に当たりをつける。
島を探る屋台引き、早い店仕舞いを終える商人と店子、何某か仕事を終えたか赤提灯を求める男共。
そして……独りこちらへと向かう女。
決して着物は豪奢ではないものの、成りは小奇麗で小金を持っていそうな居住まい。深く差した番傘の縁からは僅かに眼鏡が覗いているが、こちらには気付いて無かろう。いわんやこれからその身に降り掛からん凶行をや。
睨め付ける視線の先で、女は更に人気の薄い土塀沿いの裏路地へと消えて行った。渡りに船である。今一度背後を確かめ正邪も道を同じくすると、頭巾を一層目深に下ろし、距離を読みつつ歩みを速めた。
十間、五間、三間、地面はまま柔らかく、傘を叩く雨粒に残る足音も掻き消される。しかしこのお誂え向けにあっても、胸の内で晴れぬ靄に苛立ちが募り、黒々とした感情が沸き上がる。
仮初めの平和に溺れた間抜けな鴨め。なに、所詮人間の細腕、少しでも足掻くようなら哀れな仏として翌朝誰ぞに手を合わせてもらえば良かろう。
二間、一間……半間まで詰めたところで思い切り踏み込み、肝へ一撃当て身を繰り出さんと拳を放った瞬間だった。
「呆れたものよのう」
全てを見届けた言葉が耳元に届くや、女の身体は濛々(もうもう)たる濃い煙と化し、正邪の視界を遮った。
「なっ……!」
鈍い手応えがある筈の拳は空を切り、勢い込んだ身体は蹈鞴(たたら)を踏む暇も無く煙に突っ込んでいく。感触を覚えるはずの無いそれは、正邪の身体を捕らえると得たりとばかりに包み込んできた。
実体を持たぬ力相手では揉み合うことさえ侭成らず、やにわに藻掻く程に絡み付き動きを封じられる。それどころか、頭巾から外套からするすると身包みを剥がれてゆくではないか。
「糞っ、何だこれは!」
「化術も知らぬか、間抜けが」
嘲りの言葉と共に視界が晴れると、正邪は薄汚れた肌着にまで剥かれ、荒縄と化した煙に固く後ろ手に縛り上げられていた。
混迷に陥りながらも持ち直そうと踏み込むが出足を軽く払われ、無様にも冷たい泥の中へ顔から突っ込む。
尚も細腕が肩を掴み引きずり起こす。その有り得ぬ力に驚く間もなく、背骨を砕かんばかりの猛然たる勢いで土塀に二度三度打ち付けられ、再び泥けた冷たい地面へと転がされた。
「げぇっ! あ、がっ……!」
「待ち伏せるつもりが態々着いて来たかと思えば、追い剥ぎを狙っておったとは。いやはや、これほど救えぬ輩だったとはのう」
「お前……妖怪か!?」
尚降りしきる雨に顔の泥を洗われながら、憎々しげに尋常ならざる凄味を滾らせた女を睨み付ける。
「ようやっと気付いたか、節穴も過ぎると笑う気も失せるわ」
揶揄と共に外套の裾から立派な縞の尻尾を覗かせ、此方も丸眼鏡の奥から忌ま忌ましげに足下の小鬼に一瞥呉れた。
「成りは見窄らしいが人相書きの通りじゃの……ようやっと見つけたぞえ、あまんじゃくめ」
「誰だ、生憎狸に知り合いなんざいないわ」
「それは重畳よな、貴様になぞ名乗れば名が汚れるわ。そもあまんじゃくに縁を持たれるくらいなら独りで野垂れ死んだ方がましじゃろうて」
暴かれて尚の太々しさで正邪は牙を剥くが、一層の冷淡さで化生の狸も吐き捨てる。
「しかし貴様の為した非道ばかりがこちらに及んで、嫌でも存在を知る羽目になったわい。この落とし前はきっちり付けてもらわにゃならんでのう」
「落とし前だ? はン、天邪鬼に産み落とされてこの方、恨み辛みなんざゲップが出るほど……ぐごぉっ!」
減らず口を半ばに重い革長靴の爪先を鳩尾に叩き込まれ、正邪は胃液と肺腑の空気を撒き散らしつつ、泥の中をもんどり打って悶絶する。
「あまり勝手に喋らんでくれんか。あまんじゃくの素性など聞かされても耳が臭うなるだけじゃて」
その様子に蹴りを放った当人は袖で口元を隠し、まるで道端の汚物そのものを見遣るそれと同じく眉間に皺を寄せた。
「先の異変では付喪神を悉く唆してくれよって……まったく、度し難い事をしでかしてくれたもんじゃ」
「あ、あぁ、それがどうし……げぇぇっ!」
尚口さがない腹に無言で二発目を見舞うと、起こそうとした頭を横合いから冷えた靴底で加減無く踏み付ける。
「喋るな、と言うたがもう忘れたか。鶏にも劣るのう」
ぎりぎりと頭蓋を軋ませ、泥けに汚された顔を合わせようともせず、また淡々と罪状を言い渡す。
「お陰で儂を始めここな狸衆は大損害を被ったわい。大小怪我を負った者は数え切れず、目を掛けた付喪神は皆散り散り……可哀想に、管理に非は無かろうに、義理が立たぬと首を吊ろうとまで思い詰めた者までおるわ」
「かっ、かか……っ、泣ける話じゃあないか。吊った狸の皮で三味線こさえて浄瑠璃で一席打ちゃあいい」
「ふぉふぉっ、これはまた巧い事を言いよる。しかしのう」
互いにくつくつと喉を鳴らすが、狸は目許を下げる事なくこめかみをひとつ踏みにじり、懐から取り出した式札を一枚やにわに放り投げる。
雨に落とされ地面の泥が染みると、それは一匹の大蛇と化け、正邪の喉笛に飛びかかった。
「ぎぃっ!? ……ぉ、げぇぇぁ……ぁがぁっ!」
「何度も同じ事を言わせんでくれるか。この期に及んで立場を己の解せぬ訳でも無かろうに」
溜息混じりに語る間にも、大蛇は強靭な顎で喉に食らい付きながら、みちみちと音を立てその身で首を絞め上げていく。
ようよう自由になった半身を、起き上がり小法師の如く跳ね上げ足掻くも、たちまち気道は葦の髄程まで絞られる。必死に息を求める顔は徐々に赤から紫色へと染まり、見開いた眼は真っ赤に充血し始めた。
「け、けぇぇっ! ぉげぇ……ぇぇっ!」
「ほれ、儂は勝手にやるから、貴様も好きなだけ喋るが良いわ」
怪鳥の如き苦悶の声などまるで意に介さず、続けて懐より煙管を取り出しては悠々と燐寸を擦って一口蒸す。二口目を吸い付けたところで、目鼻から汁を垂らし惨めたらしく喘ぐ顔に向け、噎せ返るような甘い紫煙を吹きかける。
「げが……が、がひゅ……おぇえ……」
「苦しいかえ? 脈を外して気道だけ絞めておるからのう。首吊りと違い落ちることも出来まいし、そりゃあ苦しかろうなぁ」
嗜虐による喜悦も無い、報復故の激情も無い、唯々感情の薄い上辺の優しさが耳鳴りと共に鼓膜を震わせる。
「さて、貴様に因縁こそあれ儂はこの世界の者ではないでな、世の為に正してやろうとか異変の始末をせいとか大仰な事を言うつもりは無いわい。ただ聞くだに外道にすら仁義を通さぬ、その所業や性根に心底反吐が出てのう」
「ぎぃぃぃぃ……ひゅ、ひゅぅぅぅ……」
最早その意識に声は届いているのか、身じろぎすら叶わなくなった天邪鬼にようよう視線を合わせ、灼けた煙管の先で絶命寸前の鯉の如く喘ぐ頬を叩く。
「ま、これは言わば収まり切らぬ私怨のようなもの……ほれ、身の程を知ったか。頭を下げれば言い分ぐらいは聞いてやるぞえ?」
頬を焼かれ尚薄れゆく意識の中、しかし正邪は焦点の定まらぬ瞳を尚ぎらつかせ、音の漏れぬ唇を戦慄かせた。
糞食らえだ、と。
その言葉を確かめると、深い溜息と共に狸の手から煙管が落ちる。大蛇はそれを合図と得たように、首を捻じ切らんばかりの強力で小悪党の首を絞め上げた。
ついに正邪の口から蛙の断末魔のような音が漏れると、ぐるりと眼球が返り、だらりと唇の端から舌が泡と共に垂れ落ちる。
痩せこけた小さな身体はひくひくと痙攣を繰り返しながら弛緩し、がくりと崩折れると、股間から湯気がじんわりと立ち昇った。
「ばっちいのう、糞まで漏らしておらねば良いが」
眉間に皺を寄せつ戒めを解くと、今一度懐から式札を適当に取り出しては人型に化かし、正邪の身体を何処かへと運ばせる。
「この程度の茶番では音を上げぬか。ふん、肝が座っておるのだか退けぬ故の自棄糞だか」
その後へ静かに歩みを進め、狸は晴れることも陰る事も無い声で何某かを憂いる言葉をほとりと零した。
「されど己の道行きすら逆しまに囚われるのなら、あまんじゃくとはさても哀れな生き物よ……」
§
酷く幸せな心地の中で、正邪はゆっくりと瞼を持ち上げた。
ランタンの下がる煤けた梁と、渡された紐から下がる衣服が僅かに揺れる様が、水底から見上げた景色ように映り込む。
貧窮に喘ぐ少女のよに肋の浮いた身体は裸に剥かれ、暖かく柔らかな毛布に包まれていた。ぱちりぱちりと背後から聞こえる炭の優しい音、鼻をくすぐる香ばしさ……身を切る風も凍える雨も、全ては遥か過去のような。
しかし、擦り傷と痣にまみれた身体の鈍痛が後ろ髪を強く引き、縄目の痕が付けられた両の手首が現実を突き付ける。一際痛む首の周りは、間違いなくそれらより濃い痣となり残っていることだろう。
そして痛みは、意識を失う前の屈辱的な蹂躙を灰色の靄と共に呼び起こす。
己が興した悪事、天邪鬼とは言え因果までは拒まぬ。
故に、報復されたとてあの程度で、何故にこうして文字通りぬくぬくと生き存えているのだ。車座になった狸の中央で火炙りか、座敷牢で転がっているのが、真っ平御免ではあるが筋書きと言うものであろう。
それとも、これ自体が何某かの罠……。
ばんと炭の爆ぜる音に緩慢と巡っていた意識を叩かれ、背なへと身構えるように寝返りを打った時だった。
「お目覚めかえ。ようけ眠っておったのう」
その瞬間を待ち構えていたかのように、穏やかな声が浴びせられた。
声の主は探るまでも無く、自分を嬲ったあの化生の狸であった。路地で出くわした姿とは少々異なるが化術を解いたか、否、この姿すら真であるかも疑わしい。
「どこだ、ここは?」
「儂の庵じゃ。なに、余程の事がなければ誰も踏み込まぬ故、まあ構えずくつろぎなされ」
しかしあの凍てついた瞳は何処へ失せたか、今はただ好々爺の笑みで囲炉裏の前で胡座をかき、鉄鍋なぞをかき回していた。
いよいよ拭えぬ不気味さに毛布を跳ね上げて身を起こすと、掴みかからん勢いで狸に詰め寄る。
「くつろげだと? 一体何の……!」
「まあまあ、すっぽんぽんで凄まれても困るわい。ほれ、服はそこに吊っておいたからまずは着たらどうじゃ、粗相していたようじゃから洗っといたぞ」
「……くっ」
指をさされ、改めてあられもない己の姿に思わず赤面する。
確かに威嚇しようにも裸では流石に決まりが悪い……寸分見せてしまった少女のような恥じらいを振り払うと、不承不承ながら一歩退く。
「一体、これは何の真似だ。私に恨みがあるんじゃなかったのか?」
温まった下着と服を身に纏いつつ、正邪は再び猜疑心に満ちた目で睨み付けた。
「ふむん、それはなぁ……うん、もう良いじゃろう」
笑いを噛み殺したような生返事もそこそこに、煮立った鉄鍋から何某かの汁物をあけ、傍らの櫃から冷や飯をよそう。
これは如何なる奸計であろうか。
しかし如何に気を張ろうと、限界を迎えていた身体が幾分休まったと有れば、胃液までも吐き出した臓腑は狂おしいまでに匂いの元を欲して止まぬ。生唾を必死に堪えるが、無情にも据え膳がすぐ手の届く場所まで寄せられてしまった。
「ほれ、芋と猪の汁物じゃ、菜飯は冷めておるが相伴せい」
「……馬の糞でも化かして食らわそうとしているのか?」
「子狸でもあるまいに、そんな己の食欲まで失せるような事はせんわい。どれ、お望みと有らば七味でも一服盛ってやろうぞ」
立ち上る湯気の中、瓢箪(ひょうたん)からさらさらと七味が落ちる様を暫し歯を食いしばり凝視していた正邪であったが、最早限界であった。
自棄糞気味にどっかと腰を下ろし、おもむろに茶碗を取り上げては掻き込んで菜飯を口一杯に頬張る。
続け様に塗りの椀から汁を流し込み、溶岩のように蕩けた里芋を大根菜と共に噛み締め、ごくりと喉を通す。灼けるように熱く、獣の脂が染み渡った香ばしい汁が冷飯に冷まされ、胃に落ちていく。
猪の肉こそ固いが咀嚼を呼び、じんわりとその滋味を身体の芯まで伝えると、忘れた頃に菜飯に混ぜた白胡麻と七色の香味が次の食欲を掻き立て次の箸を誘って止まぬ。
「良い食べっぷりじゃの。お口に合うようで何よりじゃ」
「ふ……ふん、犬の餌よりはマシだな」
「ふぉっふぉっ、そりゃあ狸の餌じゃからのう」
久しく有り付けなかった温かな食事に流されまいと尚も噛み付くが、まるで気に留める様子も無く一笑に付すと、悠々と一升瓶を取り上げ桝に酒を注ぎ傾ける。
しかし漫然とした不安と違和感は、留まる事なく心の中で膨れ上がるばかり。
ひとしきり胃が落ち着くと、箸も置かず態とらしい噫(おくび)をひとつ噛まして牙を剥く。
「おい、狸。茶番もいい加減にしろ」
「おぉ、これは独りで失敬。相伴するかえ?」
恐ろしく手応えの無い返事が、正邪の苛立ちを尚逆撫でる。
「いらん。一体何を企んでいる」
「は、企むじゃと?」
人里での出来事を考えれば至極当然の問いかと思われたが、狸は何を言い出すのかとばかりに半身を引き、目を丸くした。
「空惚けるな。貴様とその手下を追い詰める程の大損害を与えた相手を、何の理由も無く赦すものか」
「当事者の儂が赦したと言っておるじゃろ。狸衆にはよしなに取り計らっておくが、それで何がご不満かのう」
「死なぬ程度に首を絞めただけでか、戯言を! そんなもの、莫迦(ばか)でも何か企んでると判る!」
「そうは言われてものう。企むとははて……」
しつこいまでの詰問をのんびり噛み含めるように頷くその仕草に、正邪の堪忍袋の緒はついに音を立てて弾け飛んだ。
「いい加減にしろ!! あまつさえ取りなしたように繕って、私を陥れようとしているのだろうが!」
「……ほう! ほうほう、そういう事か! ぶふっ……!」
その言葉にようよう何をか悟ったか、高らかに膝をひとつ打つと、狸は突然けたけたと耳障りな笑い声を上げた。
「ぶっ、ぶひゃひゃ……なるほどのう、それで企んでおると? この儂が、お前さんになぁ? ひゃっひゃっ、こりゃあ傑作じゃわい!」
桝から酒をこぼす程に笑い転げ、吹き上げてしまった囲炉裏の灰に咽せ、爆笑とはこの体か。想像の範疇を超えた、そのあまりに異常な有様は、正邪を思わず身じろがせる程。
「なっ、何が可笑しい!」
「ひひ……あぁ、すまんのう。くくっ、いやいや、此程までに滑稽な事はそう有るまいて……ふふ……そうかそうか……」
ついには眼鏡を外し手拭で目許を押さえるまでに笑いを堪えていたが、やがて呼吸を整えるように大きく息を吐き、ぐっと桝を空ける。
「……なあ、あまんじゃくや、まさかとは思うがお前さん……」
口元を覆った枡が下げられると、化生の狸は再び冷めた、否、あの氷雨の下よりも冷酷な笑みを眼鏡に奥に張り付けていた。
「己が、何某かを企まれるに値する存在だとでもと思うておるのかね?」
「な……っ」
不意に胸へ突き立てられた氷の刃が、正邪の顔から色を奪う。
「まだ分からぬか、ほんに救えぬ奴よ」
予想の範疇を越えぬ反応に鼻白んだか、面倒そうに干した桝を囲炉裏に放り込む。舞い上がる灰と共に立ち込める酒臭さの中、狸は呆然とする正邪の耳元まで膝行り寄り、密談でも交わす声音で囁いた。
「儂が付喪神の騒動を目溢したのも、異変の根源と知りつつ誰ぞ伝えぬのも、追い剥ぎに遭うて尚飯を食わせたのも全て、そう……」
そして幼子をあやすように優しく髪を撫で上げると、頬を嘗めるほど近くより、刻み込む。
「憐れみ、じゃよ」
憐れみ。そのたった四音で、正邪は改めて己が身に浴びせられていた苛烈な恥辱を思い知った。
その表情の移り変わりがようやっとお気に召したか、狸は突き放すように再び哄笑する。化けの皮が剥がれたとはこの事か、それは天邪鬼のお株を奪う邪まに満ちた笑みであった。
「いやはや、儂とて息巻いてお前さんを朝な夕な探しておったが、いざ目の当たりにすれば乞食と見まごうぼろけた成りと、痩せて貧弱な身体。やれ噛み付いたかと思えばこの老いぼれにさえ惨めたらしく負ける様を見ていたら、それはそれは憐憫の情が湧いてのぅ」
恩情に化かした酷く饒舌な揶揄に、正邪の顔が見る見る憤怒に赤黒く染まる。
この狸は、既に自分を敵と認識することさえも投げうっていたのだ。ただ寒さに震え、腹を空かし、濡れそぼった少女風情として庵に匿い、施しを与えていたのだ。
「ふ……巫山戯るなあああっ!」
「はてさて、巫山戯ていたのはどちらやら!」
いきり立ち、椀を投げ付けるがそこは煙に巻いたもぬけの殻。尚嘲笑は途切れず、背後より湧き出た煙が耳を嘗める。
「お前さんがけしかけた付喪神の中には、奮起して自ら力を手に入れた者もおるぞ。その間、お前さんは黒幕の陰で何をしておったのかのう?」
「煩い! 私は……私はっ!」
拳を作り、振り回すが腕には枯葉が一枚。振り払えば、何事も無かったかのように囲炉裏端で一升瓶を咥え、旨そうにごぷりと喉を通している。
「ぷぃ……お前さんがたぶらかした力無き妖怪たちは以前よりも歩み寄り、己等の在り方を今一度確かめ合ったと聞いたわ。独り隠れて歩かねばならぬほど落ちぶれた誰かさんと違ってのう」
「黙れ、黙れ黙れぇっ! この狸婆がぁッ!」
なんという見窄らしい抵抗だろう、論ずる壇にも上がれず光弾を放つも、力押しですら何ら実を結ばぬ。一升瓶は割れ、鍋はひっくり返り、戸板は破け……たちまち庵は滅茶苦茶に荒れ、煙に包まれるも、それは正邪の心象を冷静に表すのみ。
「おお、そうじゃった。もう一匹腑抜けたのがおったわ!」
それを見下す天井より、仕上げとばかりに声が張られた。
「お前さんと組んだ一寸法師は力を失い、神社に匿われ日がな惚けておるそうじゃ。打出の小槌が無ければ只のお人形さん……半端者のあまんじゃくにはようお似合いじゃあないか!」
何かが、正邪の琴線に触れた。
己の内に沸いたそれを確かめる間も無く、呪詛の叫びと共に力を解放する。
不規則な光弾が八方にぶち撒かれたかと思うや、庵そのものが正邪を中心に転変する。天は地に地は天に、馬手は弓手に弓手は馬手に、哀れ感覚を失した古狸は光弾に頭から突っ込まん……しかしその一手先を頭の中に描くことすら、己の中に渦巻く靄が阻んでいた。
そして、果たしてそれは現実のものに昇華しきらず、まざまざと目の前に突き付けられる。
「やはり御粗末なもんじゃ。己が引っ繰り返せるのはこの程度か」
どろんと銅鑼の如き轟音が耳をつんざいたかと思うや、転変した庵は墨流しのような煙と化した。
再び雨曝しとなった正邪は息を切らしつ、かつて囲炉裏のあった場所にそびえる、老いて背の曲がった松の木を睨み付ける。
「おのれ……また化術か!」
「悔しいか、小悪党めが。悔しかろう、同じ術に何度も引っ掛かりおって」
番傘を差した狸はその幹に腰掛け、高みより見下す。背後の暗雲は黒々と低く、幽玄な灯りとなった妖気に包まれたその姿は、対峙していたどの瞬間よりも巨妖としての威厳に満ち満ちていた。
「お前さんが地にも着かぬ足許より手を伸ばしただけで届く天とは、転変させても張りぼての庵を返すが関の山。結果成したのはさても御粗末な異変もどきよ」
それは、揶揄であって、揶揄でなし。叱咤のようで、叱咤に似つかぬ。
「いやはや博麗の巫女殿もとんだ厄介払いに付き合わされたものじゃ。異界の不死人から聖人超人、果ては神をも相手に立ち回っておるのだから、さぞや手加減に骨が折れたろうて」
一言切ると、狸は朗々と問うた。
「のう、あまんじゃくや。誰に土を付ける事も付けられる事も無く、天の高さから目を逸らし、日々隠れては勝った勝ったと駄々漏らし続ける事が、お前さんの望んだ結末か?」
「っ……それは……!」
反駁が衝きかけた口を、内なる何かが遮る。
耳を貸すな、それこそが天邪鬼の本懐ではないか。誰ぞ眉をひそめ、損を被る様を糧にする、卑小な生き様こそ天邪鬼そのものではないか。
――何故だ。何故、己はそれを善しとしない。
日々の些細な悪行に飽いた切っ掛けはあろう、偶々間抜けな一寸法師と出会った運もまたあろう。それだけであれば、小槌の力を振り撒いた時点で雲隠れし、陰で手を叩いて眺めていれば良かったのだ。
ならば何故、鬼人正邪は立ち上がったのだ。弱者の理想郷なぞと、大それた逆しまに至るまで立ち続けたのだ。
「ふふん、そうかそうか。半端者が寄って描く太平天国なぞ、所詮絵に描いた餅のようなものじゃなぁ!」
「……言いたい事はそれだけか」
黙りを見て取った狸の言は、最早耳には入らなかった。
爪が食い込むほど拳を固く握りしめ、正邪は松の木に背を向けると、黒々とした丘を見上げる。
「逃げるか、あまんじゃく」
「ぬかせ……一宿一飯のなんとやらだ。狸の餌に免じて今は見逃してやる」
「ほほぅ、口先だけは一端の大妖怪サマじゃのう。精々その短い角が見えぬよう、隅でこそこそと生き存えるがいいわい!」
血を吐きそうな程の激情を堪え、嘲笑を背に受けながら駆け出す。
敵わぬ力から逃げるためではない、異変を遂げるために。内なる靄の、その先にあるものを見届けるために。
やがて天邪鬼の背が宵闇に融けるのを見計らったように、暗雲は松をも覆わんほど低く降りると、その一部をどろりと溶かす。
「やんややんや……さっすが大した千両役者ぶりだねぇ、あんなしょうもない小物焚き付けちゃってさぁ」
冷やかしの喝采と共に黒い雫は少女と思しき姿となり、寄り添うように狸の隣へと腰掛け、にやにやと陰険な笑みを浮かべていた。
「ふん、観劇代は高う付くぞえ。まったく、儲けの出ない芝居じゃわい」
相変わらず身の無い旧知の軽口を鼻で笑うと、枯れた松葉を煙管に化かし大きく一息にふかす。
「それにしても随分情けを掛けたもんだ。生かしておいても得なんかありゃあしないのに」
「幾許かとは言え、素質のあった付喪神が飛び抜けて育ったのは、まあ棚牡丹とも言えるからの。その分目溢してやったと言うところか。それに……うふん……」
ふと、物騒な笑いを噛み殺すように天邪鬼が駆け出した先へと視線を送り、すうと目を細める。
「どうにも暢気なこの世界に在って、ああいう気骨のある者を見るとどうにも疼いてしまうでなぁ」
「あーあぁ、エラいのに見初められちゃったよ。可哀想に、あいつロクな死に方出来ないわ」
哀れみの欠片も無く、少女もまたトラツグミの音色でせせり鳴くと、再びぬるりと暗雲に溶ける。
「放した稚魚の、果ては鯛か竜神か……ってか? まあ、どれだけ目を掛けてやっても所詮は天邪鬼さ。紅白の錦鯉に骨まで残さず噛み砕かれるのが関の山だね」
「どうかのう。外道とは道を踏み外して尚貫く道……その果ては儂等がなまじ見通せるものではないわい……」
遠く暗澹たる頂の神社を覆う木々の隙間より漏れる光は、小さき反逆者が放つ最期の大花火か。
化生二ツ岩マミゾウはその一筋の光明を暫し眩しげに見遣り、自らもまた暗雲の内へと姿を溶け込ませた。
§
どうと水飛沫を上げ、正邪は冷たい石畳に叩き付けられた。
「嘗められたものね」
博麗の巫女は遅れて宙空より降り立ち、苛立たしげに白い息を吐き出す。
気を張るまでも無く煌びやかな弾幕で闖入者を三度地に落し、弾幕勝負はものの四半刻経たずであっさりと勝敗が決してしまった。
「転変させる建屋でも無く、あまつさえ境内に乗り込んで名乗りまで上げて、勝算があるのかと思えばこの有様。まったく、冷えた身体も暖まりゃしない」
「糞っ……まだだ!」
「もうお帰んなさい、何度やってもあんたの負けよ。こっちだって風邪ひいたりしたら洒落にならないわ」
うんざりした声が、耳を上滑りする。顔を上げると、巫女はこちらに背を向け、大きく伸びなぞをひとつ打っては濡れ髪を払っていた。
そう、嘗められているのは疑うべくも無く正邪自身。彼奴にとっては、異変を介さぬ妖怪の急襲など日常の厄介払いのようなものなのだ。
「まだだと言っているだろうがぁっ!」
正邪は宣言無しに、しかし誇示するかのような大きな挙動から歪んだ光弾を一撃放った。
まるで知性の無い物の怪が放つようなそれを巫女は僅かな挙動で躱すと、低い声で尋ねる。
「……宣言もしないでどういうつもり?」
「額面通りだ」
答えと共に、八条六連の光球がぼうと正邪の頭上に浮かび上がる。しかし巫女は何等動じる事無く、蔑みに満ちた表情で天邪鬼を睨んだ。
「呆れた。弾幕ごっこの決め事も守れない程踏み外していたなんて」
「決め事? 餓鬼のごっこ遊びの決めなぞ知ったことか……異変はまだ終わっちゃあいないんだよ!」
ひとつ吠えると、美しさの欠片も無い、ただ目の前の敵を討つ為だけの弾幕が巫女目がけて降り注ぐ。
「そう、じゃあ……」
しかし一言零し、薄く呼吸を整えながら幣で目の前をふたつ切ると、摺り足で軽く一足半を踏み込む。
その瞬間、弾幕は炭に水を打ったが如く、氷雨もろともに残らず霧散した。
「……あんたはもう、私に調伏されるのを待つだけの、ただの下等妖怪よ」
この、返しの僅か一手に、正邪は蒼ざめた。
普通であれば、先程までと同じく当たらぬよう躱すはず。
受けるにせよ相殺に必要なだけの力を放つなり、相克の為に呪いや巫力を顕すはず。
それを、僅かな所作だけで全て消散してしまったのだ。
この博麗の巫女こそ、ごっこ遊びなどに収まらぬ、埒外にあった存在であったのか。
「今まで……手加減、していたのか……」
「いいえ、目的に応じた手段を講じているだけ。今はあんたみたいな外道に相応しい手段を、ね」
まるで無機質な口調から殺気を覚えた時には、やはり挙動ひとつ無く掌から札を想起させる弾が打ち出されていた。
その数、僅か三枚。しかし先程までの華やかさは無く、ただ恐ろしいまでに妖を屈服させるだけの力を溢れさせ、蛇蝎の如く正邪に牙を剥いた。
咄嗟に宙へ身を踊らせ既で一枚を躱すと、続けて襲い来る二枚目に力の限り光弾を叩き込む。五発目でようよう焦げ落とすも、先に躱した札が背後より舞い戻り肩口を掠め、肉を焼け焦がした。
傷を押さえている猶予など無い。更に時間差を持って襲いかかる三枚目を御し切れず胸でもろに受けると、蹴上げた小石のように軽く身体が吹き飛び、石畳を二度三度と弾みながら倒れ臥した。
ごっこ遊びで被弾した比ではない。たった一枚の札を受けた肩と胸にはのた打ち回る程の痛みがいつまでも残り、耳を塞ぎたくなるような苦悶の呻きが正邪の口から漏れた。
それでも巫女が静かに歩み寄ると身体を起こし、なんとか身構える。
「ぁぐ……ま、まだだ……! こんな、もの……」
「そう、まだよ。こんなものじゃ済まないわ」
慈悲無く肯定を被せ、尚も巫女の向けた掌からは光の針が無数に湧き出ていた。
「残念だけど、これで終わりかどうかは、もうあんたが決める事じゃないの」
悍(おぞ)ましいまでの力を感じ、飛沫を上げながら転がるが、瞬きを越える速さで右腕に突き立ち直に神経を灼く。再び喉奥に込み上げてくる声を噛み殺し、更に突き立てられる針を、水飛沫を上げ必死に転がりながら躱す。
その惨めな有様は夕刻の狸との対峙の比ではない、猫が鼠を嬲るよりも見目明らかな力の差であった。
「ごっこ遊びで終わらせれば良かったのに、理を破った自分を呪いなさい。あんた程度の小鬼が、身の丈に合わない異変を起こすことがそもそもの間違いだったのよ」
「は……、そんな、程度の相手に……引っ掻き回された三流巫女が……!」
地を転げながら奸計を練る。最早正面からぶつかり合うことなど以ての外。
「どうした! 針なぞ幾ら刺さってもくたばらんぞ!」
虚勢を餌に距離を測り、巫女の背後に頭上に、陰となる位置へ次々と鏃を湧かす。見えざる位置からならば、先のように消す事など出来まい。
「痩せ我慢しながら挑発なんて見苦しいわよ。もうあんたも結末は見えているんでしょう?」
「黙れッ!」
吠え猛たのを号令に、鏃は死角という死角から巫女目掛けて降り注いだ。
しかし前触れ無くその姿は忽然と掻き消え、鏃は全て空を切る。
またも化術かと目を疑う間もなく、亜空の透間を経て現れた気配を背後に感じた時には、弾幕以上の力が籠もった幣の一撃が正邪を襲っていた。
「あがっ、がああああぁぁぁぁっ!」
遂に堪え切れぬ絶叫が喉奥から迸る。激痛などと言う生易しいものではない、骨肉から内蔵、精神に至るまで、全てに痛覚が通ったかと思える程。恐らく服なぞとうに焦げ、背は焼け爛れていることだろう。
「ま、だ……まだだああっ!」
気を張らねば飛びそうな意識を奮い痛撃を堪えると、凶刃と化した爪を立て、振り返り様に腕を横薙ぎに振るう。さしもの巫女もこの粘り腰は想定外であったか、咄嗟に防いだ幣が大きく弾き飛ばされた。
「もらった!」
好機とばかりの二合目を繰り出すも爪に手応えは無く、頸の三寸手前で手首ががっちりと捕えられていた。
尚も押し切ろうと込めた力は、受け流されると同時に己の肘を逆手に極められてしまう。みちりと嫌な音と激痛が正邪の体内を過った瞬間、同じ背丈の少女から繰り出されたとは思えぬ重い肘打が、肋に叩き込まれていた。
視界が明滅した僅かな間に巫女の姿が沈んだかと思うや呼気一喝、背後より気と体重を乗せた重い廻し蹴りが背より正中を捉え、そのまま円を描くように振り抜かれる。
吹き飛ばされる間に失いかけた意識は、残酷にも数間先の砂利道へと顔面から突っ込むと血の味と激痛を伴って現実へと引き戻された。
「徒手なら私に勝てるとでも思ったの? あんた程度の妖怪が……哀れすぎて言葉も無いわ」
残酷なまでの力量の差に、地に伏した正邪の四肢から力が失せていく。
妖術も、奸計も、腕力も、その悉くが無力。
これが、これこそが、転変せしめんとした天であったか。こんなもの、青天井ではないか。否、己が唾した物は、初めから青天井そのものであったのだ。
何をやっている、鬼人正邪よ。
狡猾な狸の口車に乗せられ、鬼神の如き巫女に勝目の無い戦いをけしかけ、その先に何がある。
逃げろ。いつものように逃げを打て。勝ち負けは己が決めれば良いではないか。
そして姿を見せずに小さな悪事を仕掛け、手を叩いて悦に浸れば善い。
それが天邪鬼……お前自身が本来在るべき姿ではないか。
「うるさい……煩い煩い煩い煩い、黙れぇぇぇぇッ!」
噛み締めた口の端から血を垂らし、正邪は絶叫する。
漸く暴いた靄の正体……天邪鬼である、己自身へ向けて。
天邪鬼故に、鬼人正邪たる個を永遠に否定し続ける、逆しまの呪いへ向けて。
「諦めなさい。これ以上抵抗しないで大人しくすると約束すれば見逃してあげるわ……御伽噺の中で生きるあんた達と同じようにね……」
巫女の言葉が、呪いの背を押す。
そう、どれだけ足掻けど、天邪鬼故に、天邪鬼として負けるのだ。
古人が絶えず伝えるように、些細な悪事に留まらなかった事を因果に、天邪鬼は調伏されるのだ。
逃れ得ぬ残酷な結末に、遂に瞼が下りようとしたその時だった。
「正邪……っ!」
雨音に掻き消される程の小さな叫びが、鬼人正邪の意識を覚ました。
そこに、それは、いた。
小さな身体、小さな顔、出逢った頃のように、遠近感が失われる。
しかし、己と共に在った日々を想起させるものは、何も無かった。
不格好な椀も被らず、煌めく針の剣すら差さず、あの吐き気を催す程真っ直ぐな瞳は陰を落とし、目の前の自分にすら怯えるようで。
「莫迦、何やってるのよ! 出てくるなって言ったでしょう!」
嗚呼、なんという弱々しい生き物なのだ!
見ろ、焦れた巫女の怒声にすら身を竦め、怯えているではないか。
野良猫なぞ飛びかかるまでも無くその柔肌を爪で切り裂き、溝鼠にすら柔肉を食い千切られるであろう。
嗚呼、そんな地べたから見上げる天とは、さぞや高かろう。
その小さな瞳はあの異変の中、己の振る舞いをどう映していたのか。
同じ視線にも在らぬ者が、届かぬ天へ虚勢を張り、宙空でくるりくるりと独り空回っている姿に愛想を尽かしたのではないか。そう、見放されたのはこちらの方だったのかも知らん。
「も、もう……もう、やめてよ、こんな事……」
やれ、落ちるところまで落ちぶれたものだ、こんな地を這う弱きものにすら身を案じられるとは。
しかし、その見窄らしい事実こそが、力となる。
自らを負へと導く未来に立ち向かう、意気となる。
あの時も、こうやって馬鹿げた勇気を、卑小な天邪鬼たる己自身を超える蛮勇を奮わされたのだ。
「ねぇ、このままじゃ正邪が……!」
「私に指図するな。小槌が使えない程度で腑抜けた小人風情が」
まったく、どの口が言ったものか。
浮ついたままその小人風情に頼り、天に届く力を得たと勘違いした滑稽な天邪鬼が。
血の混じった唾と共に吐き捨てると、腫れた瞼を更に歪め、嘲笑と共に舌を突き出す。
「はは、いい気味だろう? お前を謀った小物がボロクズにされてよぉ……」
「ち……がう。私だって、あの異変の……」
「黙ってろ。解ってんだよ、お前の言いたい事なんざ」
そうだ、解っている。この弱いくせに甘っちょろい生き物が、己の責任に惑う戯けた正義感など。
そんなもの、残さず取り上げてやる。
お前なぞ、ただの利用された小人、哀れな被害者で終わってしまえ。
我こそが、この鬼人正邪こそが元凶……輝針城異変の全てで在った事を刻みこむのだから。
「じゃあな、独りじゃあんよも出来ない半端者め」
それは彼女を嘲る為の言葉か、内なる己との訣別の言葉か。
正邪は今一度地の低さを確かめ、ふらふらと、しかし両の足で確と地を掴み立ち上がった。
そして爛と瞳に火を灯し、一世一代の紋を切る。
「どう、した……どうしたどうした三流巫女サンよぉ! 終わりは手前が決めるんじゃ無かったのか!?」
神なぞには届かぬ。聖人超人、不死人など以ての外。鬼を名乗れど、真なるそれには遥か及ばぬ。
一寸法師の小槌を振るい、天邪鬼たる己を踏み台にしても、見上げた天は未だはるか遠く。
「何をこの期に及んで……あんた程の卑怯者なら人質でも取って逃げるのかと思ったわ」
「ははぁッ、人質だァ?」
ならば、ならばこそ、地の果てまで墜ちるのだ。
彼奴等が這うことすら及ばない足許の下へ、天邪鬼の下へ、小人の下の、下の下の、そのまた下まで。
「かかっ、お前程度にゃあの抜け殻でも脅しになるのかい。流石幻想郷の頂点に君臨する博麗の巫女サマはお優しいこったなぁ!」
「……軽口も大概になさい……」
「なぁ、焦ってるんだろう? 焦るよなぁ、ハナで始末出来ると思って高説まで打った小物がしぶとくてさァ!」
血を流し、痛みを堪え、重心すらままならぬ、余りに見窄らしい挑発。
しかし満身創痍で尚耳障りな哄笑が、その振り絞るような天邪鬼らしからぬ魂の叫びが、初めて巫女の表情に純粋な嫌悪を引き摺り出した。
「一瞬でも情けを掛けた自分に腹が立つわ……本当に消えたいみたいね」
「やってみろ! お飯事に溺れた巫女程度に私が殺せるものか!!」
「そう……じゃあ……」
再び感情を圧し殺した低い声で巫女が呟くと、雨は無風にも拘わらず彼女の方へと螺旋を描きながら吸い寄せられていく。その手に幣は無く、彼女の持つ純粋な巫の力が霊気諸共に、渦の如く遍く気を吸い込んでいた。
それだけで、内臓ごと持って行かれそうな悪寒に襲われる。妖怪としての本能だけではない、生物として感じる恐怖がそこにある。青天井より降り注ぐ、抗う事の出来ない頂点の力。
やがて渦が収まると、五つの陰陽を象った力の権現が巫女の周りを囲んでいた。
「あんたは、もう終わりよ」
死刑宣告にも等しい呟きと共に、それらは解き放たれた。
震える両膝を諌め、両の目を見開き、最期の雄叫びを上げるも、光の濁流は邪な妖怪を呑み込んだ。
白に塗り潰された世界が視界を覆い尽くした次の瞬間には、想像し得るどんな暴力よりも苛烈な衝撃が全身を貫いていた。
右手を突き出し一つ目に抗うが、枯木の如く軽い音を立てて骨が砕けた。
最早悲鳴などという甘えは許されぬ。辛うじて二つ目も続けて受け切ったが、未曾有の痛覚を伴って右腕は焼け焦げた。
尚もいなそうとした左腕は三つ目弾かれ、肩口から顎へ、噛み締めた奥歯ごと抉り上げていく。
受ける方の無い四つ目が腹にめり込むと、肋を砕き、臓腑を潰しながら宙へと浮かされた。
そして五つ目が、最早力の失せた抜け殻を大鳥居よりも高く天へと打ち上げる。意識すら失ったか、やがて正邪の身体は宙空の頂点に達すると、天地の理に任せるまま頭から落下していった。
予見するまでも無い惨たらしい末路に、巫女は目を逸らす。
唯一人、力無き小人は確と目を見開いていた。天より罰を受け、地に落とされる天邪鬼の終わりを見る為ではない、鬼人正邪という存在を識るが故に。
果たしてその目に映ったのは、笑みであった。諦念のそれではなく、一筋の光を初めて目にした、赤子の如き笑み。
「かかっ、怒りで手ぬかったか、間抜けがあっ!」
しかし、その笑みは刹那で邪に染った。
正邪は目を見開くと、僅か残った力を絶叫と共に己へと解き放ち、落下の力を垂直に転変する。
己の頭蓋を砕かんと待ち受ける石畳の僅か半寸手前で、その身体は鳥居を抜け、境内より見下ろす森へ不自然な落下を始めた。
「っ、悪足掻きを!」
小虫を仕留め損ねた苛立ちが巫女の口を衝くが、その勢いに踏み出した以上は追えず二の足を踏む。
「これで終わったと思うな! 素っ首洗って待ってろおおおおぉぉ!」
山彦にも忌まれたおぞましい呪詛の叫びは次第に遠く、やがてその姿と共に宵闇へと消えていった。
「……聞くに堪えないわね。陳腐な負け犬の捨て台詞だわ」
酸鼻極まる表情で濡れ髪を掻き上げ、巫女は静かに境内を背にする。
「どのみちあの高さじゃ助からない……生きていても獣か化け物の餌食よ」
それは、誰に向けられた言葉であったか。
輝針城異変の爪痕は天邪鬼の、否、鬼人正邪の凄絶な記憶と共に、博麗霊夢の胸に刻まれた。
残された一寸法師は独り氷雨に濡れ、暗澹たる森を見遣る。
鬼人正邪に謀られ、一族の力を利用された。頭目にまで担ぎ上げられた挙句、逃げた後足で砂をかけられた。憎くないと言えば、嘘になるだろう。
しかし今一度自らに問う。あの切っ掛けが無かったとしたら、弱者の為に立ち上がっていたのだろうか、と。
掴まり立ちをしていた手が、彼女から離れた途端尻餅をついた自分が。
小槌の力を口実に未だ起き上がろうともしない自分が。
天邪鬼を元凶と指さし、匿われるを善しとしている自分が。
何度無様に伏しても、彼女は地を踏み締め、必ずや再び立ち上がるだろう。
対峙せねばならない。共に見た理想を、正しき路へと導き現実のものと成すが為。己自身の力で、同じ目線まで立ち上がるのだ。
それこそが、この小さな小さな異変の、恩讐の果て。
少名針妙丸は今一度深く凍える風を吸い、熱の籠った息を吐く。
その瞳には、永く覚えなかった安堵と、静かな情熱が宿っていた。
§
森の木々に身を預けながら、正邪は一歩ずつ当て処無い先へと進む。
辛くも一命は取り留めたが、その姿は凄絶そのものであった。
身体中に捺された敗者の烙印のみならず、枯れ木に服や肌が千々に裂かれ、右の腹は太い枝に深く抉られ腸までをも氷雨に晒す。頭蓋は免れたが背に罅(ひび)が入り、残った左の腕は折れ、ざっくりと靭の割れた脚の感覚はとうに失せていた。
それでも、宵闇に融ける赤黒い血を垂れ流しながら、進む。
「嗚呼、負けたな……ぼろ負けじゃあないか……」
打ちのめされ、地に落ち、蔑まれ、踏みにじられ、罵声を浴び、生き恥とは此の事か。
「くふふ……っ、ふふ、かかかっ……!」
されど、正邪は嗤う。
滴る血で真っ赤に染めた舌を垂らし、禍々しく嗤う。
最早この有様を勝ちなどと嘯くほど落ちぶれてはいない。敗北者故に、この世で返すべき天の果てを身を以て知り、己の舌で地の果てを嘗める事が出来たのだ。
奢りし巫女よ狸よ、付喪神共よ、そして凡百の妖怪共よ、精々高みより見下しているがいい。己等の知るに及ばぬ下の下より転変し、真っ逆さまになった貴様等の顔を我が足許に這いつくばらせてやる。
「精々、束の間の安寧に溺れていろ、莫迦者、共め……っ!」
大層な言葉を吐くが、木の根すら越えられぬ足が蹴躓き、無様にも顔から泥けに突っ伏す。
「まだ……だ……」
数刻で幾度この言葉を吐いたであろう。
否、あの城を背にした時からだ。もういいだろうと目を逸らし、愉悦に浸る天邪鬼の逆しまの中で、そう叫び続けていたのだ。
口に入った枯葉ごと土を噛みにじり再び立ち上がろうとしたが、最早身体を仰向ける事さえも許されぬ。それでも喉に込み上げた血の塊をごぷりと吐き出し、消えかけた命を繋がんと激しく喘ぐ。
「し……しん……みょう、まる……」
僅かに持ち堪えた意識が喉を震わせ出てきたのは、あの間抜けな一寸法師、少名針妙丸の名であった。
騙してやった、利用してやった、見捨ててやった、
しかし唾棄すべき真直ぐな瞳と心で、彼女もまた未だ見ぬ転変せし世界を見据えていた。あの時の自分が識るよりも高い、高い天を見据えていた。
「見えたんだ……おまえ、が……お前が見てた、景色がさぁ……」
目指す先が同じなら、必ずや彼女と再び相見えよう。
果たさねばならぬ。例え見窄らしくとも、己の身ひとつで生きて、這い上がらねばならぬ。
「だか、ら、今度こそ……見せて、やるよ、理想の……世界ってのを……」
折れた腕で地を突くと、骨は赤黒く腫れた肉に刺さり、神経を焼く。
罅の入った背骨は小さな体躯を支えることにすら悲鳴を上げる。
それでも力の全てを絞り、顔を上げ、小人はおろか蛞蝓(なめくじ)の歩みにすら及ばぬ僅かを這いずる。
「かっ、はは、私に理想を掠め取られて……せいぜい、悔しがるんだな……」
霞みゆく視界の先に、小さな笑顔を見たのは、夢か、幻か。
「なぁ……なあ、針妙丸……だか、ら……」
正邪の涙は、か細い呟きと共に誰へ届くことも無く、氷雨に流されていった。
§
斯様にして、輝針城異変はひっそりと真の幕引きと相成った。
やがて降り続く雨に血は洗い流され、何事も無かったように世は安寧を取り戻す。そしてまた、誰が為したかを知る処無く、弱き者は与えられたそれを享受して生き存える。
それを日常として、感謝する相手も識らず、地より無為に天を拝む。
講釈師は、巫女に調伏された卑小な天邪鬼の見窄らしい末路を以て語りを終えることであろう。
しかし、逆しまの天邪鬼、鬼人正邪の知れぬ行方が物語る。
ここより出ずる、新たな異変を。
遥か天より地を見下し、下々に厳しさを呉れてやらんと奢るかのように。
それは晩冬の早い夕闇が帳を覗かせても霙にならず、冷たい雨粒は身体に当たった側から染み、地を這う生き物の肌を、肉を、心を凍えさせる。
天邪鬼、鬼人正邪はあかぎれた指先で頭巾を目深に下げ、当て処無く人里の往来を歩む。黒々とした建屋の窓にひとつ、またひとつ暖かな火が灯る度に下卑た舌打ちを鳴らし、ただ歩む。
その成りは、粗末な物であった。古びた外套は最早その用を成さず、ぼろけた革靴はとうに足枷。足袋はずぶ濡れ、指先の感覚なぞ最後に覚えたのは何時の事か。
輝針城異変よりとうに三月は過ぎたか。首謀者であるこの天邪鬼は来るべき転覆の機会を伺い、身を隠しながら幻想郷を彷徨っていた。
異変そのものは未遂に終わったが、彼女にあってはそれも計算の内であった。
この世界に於ける指折りの抵抗勢力を舞台に上げるだけの災禍を、己が中心に立って為せたこと。そして力量をつぶさに観察し、分析が出来たこと。その二つが果たせただけでも、次なる企てに十分な収穫であろう。
彼奴らは異変を丸く収めたと粋がっていようが、大きな利を得たのはその実この自分である……そう、己を信じていた。
しかし、その胸中は灰色の靄に覆われていた。それはこの日に至るまで、一日一刻たりとて晴れることは無い。
――何故だ。
日々自問を繰り返すが答えは見い出せず、苛立ちが靄を濃くするのみ。やがて靄は進むべき道をも晦まし、彼女を精神的にも肉体的にも憔悴させていった。
空腹と苛立ちに痛む胃の腑を外套の陰で押さえ、妖怪としての、悪党としての本能に瞳を昏く光らせる。所詮天邪鬼たる下賎を忌み嫌われる身。掏摸(すり)であろうが巾着切りでろうが、破落戸(ごろつき)紛いと罵られん悪事も、矜持や情などという下らぬ枷に縛られる事は無い。
時刻も更け、悪天に人はまばらだが、むしろ悪事にはこの上ない好機。小路に引き摺り込めば、すぐにでも事に及べよう。
往来から哀れな標的に当たりをつける。
島を探る屋台引き、早い店仕舞いを終える商人と店子、何某か仕事を終えたか赤提灯を求める男共。
そして……独りこちらへと向かう女。
決して着物は豪奢ではないものの、成りは小奇麗で小金を持っていそうな居住まい。深く差した番傘の縁からは僅かに眼鏡が覗いているが、こちらには気付いて無かろう。いわんやこれからその身に降り掛からん凶行をや。
睨め付ける視線の先で、女は更に人気の薄い土塀沿いの裏路地へと消えて行った。渡りに船である。今一度背後を確かめ正邪も道を同じくすると、頭巾を一層目深に下ろし、距離を読みつつ歩みを速めた。
十間、五間、三間、地面はまま柔らかく、傘を叩く雨粒に残る足音も掻き消される。しかしこのお誂え向けにあっても、胸の内で晴れぬ靄に苛立ちが募り、黒々とした感情が沸き上がる。
仮初めの平和に溺れた間抜けな鴨め。なに、所詮人間の細腕、少しでも足掻くようなら哀れな仏として翌朝誰ぞに手を合わせてもらえば良かろう。
二間、一間……半間まで詰めたところで思い切り踏み込み、肝へ一撃当て身を繰り出さんと拳を放った瞬間だった。
「呆れたものよのう」
全てを見届けた言葉が耳元に届くや、女の身体は濛々(もうもう)たる濃い煙と化し、正邪の視界を遮った。
「なっ……!」
鈍い手応えがある筈の拳は空を切り、勢い込んだ身体は蹈鞴(たたら)を踏む暇も無く煙に突っ込んでいく。感触を覚えるはずの無いそれは、正邪の身体を捕らえると得たりとばかりに包み込んできた。
実体を持たぬ力相手では揉み合うことさえ侭成らず、やにわに藻掻く程に絡み付き動きを封じられる。それどころか、頭巾から外套からするすると身包みを剥がれてゆくではないか。
「糞っ、何だこれは!」
「化術も知らぬか、間抜けが」
嘲りの言葉と共に視界が晴れると、正邪は薄汚れた肌着にまで剥かれ、荒縄と化した煙に固く後ろ手に縛り上げられていた。
混迷に陥りながらも持ち直そうと踏み込むが出足を軽く払われ、無様にも冷たい泥の中へ顔から突っ込む。
尚も細腕が肩を掴み引きずり起こす。その有り得ぬ力に驚く間もなく、背骨を砕かんばかりの猛然たる勢いで土塀に二度三度打ち付けられ、再び泥けた冷たい地面へと転がされた。
「げぇっ! あ、がっ……!」
「待ち伏せるつもりが態々着いて来たかと思えば、追い剥ぎを狙っておったとは。いやはや、これほど救えぬ輩だったとはのう」
「お前……妖怪か!?」
尚降りしきる雨に顔の泥を洗われながら、憎々しげに尋常ならざる凄味を滾らせた女を睨み付ける。
「ようやっと気付いたか、節穴も過ぎると笑う気も失せるわ」
揶揄と共に外套の裾から立派な縞の尻尾を覗かせ、此方も丸眼鏡の奥から忌ま忌ましげに足下の小鬼に一瞥呉れた。
「成りは見窄らしいが人相書きの通りじゃの……ようやっと見つけたぞえ、あまんじゃくめ」
「誰だ、生憎狸に知り合いなんざいないわ」
「それは重畳よな、貴様になぞ名乗れば名が汚れるわ。そもあまんじゃくに縁を持たれるくらいなら独りで野垂れ死んだ方がましじゃろうて」
暴かれて尚の太々しさで正邪は牙を剥くが、一層の冷淡さで化生の狸も吐き捨てる。
「しかし貴様の為した非道ばかりがこちらに及んで、嫌でも存在を知る羽目になったわい。この落とし前はきっちり付けてもらわにゃならんでのう」
「落とし前だ? はン、天邪鬼に産み落とされてこの方、恨み辛みなんざゲップが出るほど……ぐごぉっ!」
減らず口を半ばに重い革長靴の爪先を鳩尾に叩き込まれ、正邪は胃液と肺腑の空気を撒き散らしつつ、泥の中をもんどり打って悶絶する。
「あまり勝手に喋らんでくれんか。あまんじゃくの素性など聞かされても耳が臭うなるだけじゃて」
その様子に蹴りを放った当人は袖で口元を隠し、まるで道端の汚物そのものを見遣るそれと同じく眉間に皺を寄せた。
「先の異変では付喪神を悉く唆してくれよって……まったく、度し難い事をしでかしてくれたもんじゃ」
「あ、あぁ、それがどうし……げぇぇっ!」
尚口さがない腹に無言で二発目を見舞うと、起こそうとした頭を横合いから冷えた靴底で加減無く踏み付ける。
「喋るな、と言うたがもう忘れたか。鶏にも劣るのう」
ぎりぎりと頭蓋を軋ませ、泥けに汚された顔を合わせようともせず、また淡々と罪状を言い渡す。
「お陰で儂を始めここな狸衆は大損害を被ったわい。大小怪我を負った者は数え切れず、目を掛けた付喪神は皆散り散り……可哀想に、管理に非は無かろうに、義理が立たぬと首を吊ろうとまで思い詰めた者までおるわ」
「かっ、かか……っ、泣ける話じゃあないか。吊った狸の皮で三味線こさえて浄瑠璃で一席打ちゃあいい」
「ふぉふぉっ、これはまた巧い事を言いよる。しかしのう」
互いにくつくつと喉を鳴らすが、狸は目許を下げる事なくこめかみをひとつ踏みにじり、懐から取り出した式札を一枚やにわに放り投げる。
雨に落とされ地面の泥が染みると、それは一匹の大蛇と化け、正邪の喉笛に飛びかかった。
「ぎぃっ!? ……ぉ、げぇぇぁ……ぁがぁっ!」
「何度も同じ事を言わせんでくれるか。この期に及んで立場を己の解せぬ訳でも無かろうに」
溜息混じりに語る間にも、大蛇は強靭な顎で喉に食らい付きながら、みちみちと音を立てその身で首を絞め上げていく。
ようよう自由になった半身を、起き上がり小法師の如く跳ね上げ足掻くも、たちまち気道は葦の髄程まで絞られる。必死に息を求める顔は徐々に赤から紫色へと染まり、見開いた眼は真っ赤に充血し始めた。
「け、けぇぇっ! ぉげぇ……ぇぇっ!」
「ほれ、儂は勝手にやるから、貴様も好きなだけ喋るが良いわ」
怪鳥の如き苦悶の声などまるで意に介さず、続けて懐より煙管を取り出しては悠々と燐寸を擦って一口蒸す。二口目を吸い付けたところで、目鼻から汁を垂らし惨めたらしく喘ぐ顔に向け、噎せ返るような甘い紫煙を吹きかける。
「げが……が、がひゅ……おぇえ……」
「苦しいかえ? 脈を外して気道だけ絞めておるからのう。首吊りと違い落ちることも出来まいし、そりゃあ苦しかろうなぁ」
嗜虐による喜悦も無い、報復故の激情も無い、唯々感情の薄い上辺の優しさが耳鳴りと共に鼓膜を震わせる。
「さて、貴様に因縁こそあれ儂はこの世界の者ではないでな、世の為に正してやろうとか異変の始末をせいとか大仰な事を言うつもりは無いわい。ただ聞くだに外道にすら仁義を通さぬ、その所業や性根に心底反吐が出てのう」
「ぎぃぃぃぃ……ひゅ、ひゅぅぅぅ……」
最早その意識に声は届いているのか、身じろぎすら叶わなくなった天邪鬼にようよう視線を合わせ、灼けた煙管の先で絶命寸前の鯉の如く喘ぐ頬を叩く。
「ま、これは言わば収まり切らぬ私怨のようなもの……ほれ、身の程を知ったか。頭を下げれば言い分ぐらいは聞いてやるぞえ?」
頬を焼かれ尚薄れゆく意識の中、しかし正邪は焦点の定まらぬ瞳を尚ぎらつかせ、音の漏れぬ唇を戦慄かせた。
糞食らえだ、と。
その言葉を確かめると、深い溜息と共に狸の手から煙管が落ちる。大蛇はそれを合図と得たように、首を捻じ切らんばかりの強力で小悪党の首を絞め上げた。
ついに正邪の口から蛙の断末魔のような音が漏れると、ぐるりと眼球が返り、だらりと唇の端から舌が泡と共に垂れ落ちる。
痩せこけた小さな身体はひくひくと痙攣を繰り返しながら弛緩し、がくりと崩折れると、股間から湯気がじんわりと立ち昇った。
「ばっちいのう、糞まで漏らしておらねば良いが」
眉間に皺を寄せつ戒めを解くと、今一度懐から式札を適当に取り出しては人型に化かし、正邪の身体を何処かへと運ばせる。
「この程度の茶番では音を上げぬか。ふん、肝が座っておるのだか退けぬ故の自棄糞だか」
その後へ静かに歩みを進め、狸は晴れることも陰る事も無い声で何某かを憂いる言葉をほとりと零した。
「されど己の道行きすら逆しまに囚われるのなら、あまんじゃくとはさても哀れな生き物よ……」
§
酷く幸せな心地の中で、正邪はゆっくりと瞼を持ち上げた。
ランタンの下がる煤けた梁と、渡された紐から下がる衣服が僅かに揺れる様が、水底から見上げた景色ように映り込む。
貧窮に喘ぐ少女のよに肋の浮いた身体は裸に剥かれ、暖かく柔らかな毛布に包まれていた。ぱちりぱちりと背後から聞こえる炭の優しい音、鼻をくすぐる香ばしさ……身を切る風も凍える雨も、全ては遥か過去のような。
しかし、擦り傷と痣にまみれた身体の鈍痛が後ろ髪を強く引き、縄目の痕が付けられた両の手首が現実を突き付ける。一際痛む首の周りは、間違いなくそれらより濃い痣となり残っていることだろう。
そして痛みは、意識を失う前の屈辱的な蹂躙を灰色の靄と共に呼び起こす。
己が興した悪事、天邪鬼とは言え因果までは拒まぬ。
故に、報復されたとてあの程度で、何故にこうして文字通りぬくぬくと生き存えているのだ。車座になった狸の中央で火炙りか、座敷牢で転がっているのが、真っ平御免ではあるが筋書きと言うものであろう。
それとも、これ自体が何某かの罠……。
ばんと炭の爆ぜる音に緩慢と巡っていた意識を叩かれ、背なへと身構えるように寝返りを打った時だった。
「お目覚めかえ。ようけ眠っておったのう」
その瞬間を待ち構えていたかのように、穏やかな声が浴びせられた。
声の主は探るまでも無く、自分を嬲ったあの化生の狸であった。路地で出くわした姿とは少々異なるが化術を解いたか、否、この姿すら真であるかも疑わしい。
「どこだ、ここは?」
「儂の庵じゃ。なに、余程の事がなければ誰も踏み込まぬ故、まあ構えずくつろぎなされ」
しかしあの凍てついた瞳は何処へ失せたか、今はただ好々爺の笑みで囲炉裏の前で胡座をかき、鉄鍋なぞをかき回していた。
いよいよ拭えぬ不気味さに毛布を跳ね上げて身を起こすと、掴みかからん勢いで狸に詰め寄る。
「くつろげだと? 一体何の……!」
「まあまあ、すっぽんぽんで凄まれても困るわい。ほれ、服はそこに吊っておいたからまずは着たらどうじゃ、粗相していたようじゃから洗っといたぞ」
「……くっ」
指をさされ、改めてあられもない己の姿に思わず赤面する。
確かに威嚇しようにも裸では流石に決まりが悪い……寸分見せてしまった少女のような恥じらいを振り払うと、不承不承ながら一歩退く。
「一体、これは何の真似だ。私に恨みがあるんじゃなかったのか?」
温まった下着と服を身に纏いつつ、正邪は再び猜疑心に満ちた目で睨み付けた。
「ふむん、それはなぁ……うん、もう良いじゃろう」
笑いを噛み殺したような生返事もそこそこに、煮立った鉄鍋から何某かの汁物をあけ、傍らの櫃から冷や飯をよそう。
これは如何なる奸計であろうか。
しかし如何に気を張ろうと、限界を迎えていた身体が幾分休まったと有れば、胃液までも吐き出した臓腑は狂おしいまでに匂いの元を欲して止まぬ。生唾を必死に堪えるが、無情にも据え膳がすぐ手の届く場所まで寄せられてしまった。
「ほれ、芋と猪の汁物じゃ、菜飯は冷めておるが相伴せい」
「……馬の糞でも化かして食らわそうとしているのか?」
「子狸でもあるまいに、そんな己の食欲まで失せるような事はせんわい。どれ、お望みと有らば七味でも一服盛ってやろうぞ」
立ち上る湯気の中、瓢箪(ひょうたん)からさらさらと七味が落ちる様を暫し歯を食いしばり凝視していた正邪であったが、最早限界であった。
自棄糞気味にどっかと腰を下ろし、おもむろに茶碗を取り上げては掻き込んで菜飯を口一杯に頬張る。
続け様に塗りの椀から汁を流し込み、溶岩のように蕩けた里芋を大根菜と共に噛み締め、ごくりと喉を通す。灼けるように熱く、獣の脂が染み渡った香ばしい汁が冷飯に冷まされ、胃に落ちていく。
猪の肉こそ固いが咀嚼を呼び、じんわりとその滋味を身体の芯まで伝えると、忘れた頃に菜飯に混ぜた白胡麻と七色の香味が次の食欲を掻き立て次の箸を誘って止まぬ。
「良い食べっぷりじゃの。お口に合うようで何よりじゃ」
「ふ……ふん、犬の餌よりはマシだな」
「ふぉっふぉっ、そりゃあ狸の餌じゃからのう」
久しく有り付けなかった温かな食事に流されまいと尚も噛み付くが、まるで気に留める様子も無く一笑に付すと、悠々と一升瓶を取り上げ桝に酒を注ぎ傾ける。
しかし漫然とした不安と違和感は、留まる事なく心の中で膨れ上がるばかり。
ひとしきり胃が落ち着くと、箸も置かず態とらしい噫(おくび)をひとつ噛まして牙を剥く。
「おい、狸。茶番もいい加減にしろ」
「おぉ、これは独りで失敬。相伴するかえ?」
恐ろしく手応えの無い返事が、正邪の苛立ちを尚逆撫でる。
「いらん。一体何を企んでいる」
「は、企むじゃと?」
人里での出来事を考えれば至極当然の問いかと思われたが、狸は何を言い出すのかとばかりに半身を引き、目を丸くした。
「空惚けるな。貴様とその手下を追い詰める程の大損害を与えた相手を、何の理由も無く赦すものか」
「当事者の儂が赦したと言っておるじゃろ。狸衆にはよしなに取り計らっておくが、それで何がご不満かのう」
「死なぬ程度に首を絞めただけでか、戯言を! そんなもの、莫迦(ばか)でも何か企んでると判る!」
「そうは言われてものう。企むとははて……」
しつこいまでの詰問をのんびり噛み含めるように頷くその仕草に、正邪の堪忍袋の緒はついに音を立てて弾け飛んだ。
「いい加減にしろ!! あまつさえ取りなしたように繕って、私を陥れようとしているのだろうが!」
「……ほう! ほうほう、そういう事か! ぶふっ……!」
その言葉にようよう何をか悟ったか、高らかに膝をひとつ打つと、狸は突然けたけたと耳障りな笑い声を上げた。
「ぶっ、ぶひゃひゃ……なるほどのう、それで企んでおると? この儂が、お前さんになぁ? ひゃっひゃっ、こりゃあ傑作じゃわい!」
桝から酒をこぼす程に笑い転げ、吹き上げてしまった囲炉裏の灰に咽せ、爆笑とはこの体か。想像の範疇を超えた、そのあまりに異常な有様は、正邪を思わず身じろがせる程。
「なっ、何が可笑しい!」
「ひひ……あぁ、すまんのう。くくっ、いやいや、此程までに滑稽な事はそう有るまいて……ふふ……そうかそうか……」
ついには眼鏡を外し手拭で目許を押さえるまでに笑いを堪えていたが、やがて呼吸を整えるように大きく息を吐き、ぐっと桝を空ける。
「……なあ、あまんじゃくや、まさかとは思うがお前さん……」
口元を覆った枡が下げられると、化生の狸は再び冷めた、否、あの氷雨の下よりも冷酷な笑みを眼鏡に奥に張り付けていた。
「己が、何某かを企まれるに値する存在だとでもと思うておるのかね?」
「な……っ」
不意に胸へ突き立てられた氷の刃が、正邪の顔から色を奪う。
「まだ分からぬか、ほんに救えぬ奴よ」
予想の範疇を越えぬ反応に鼻白んだか、面倒そうに干した桝を囲炉裏に放り込む。舞い上がる灰と共に立ち込める酒臭さの中、狸は呆然とする正邪の耳元まで膝行り寄り、密談でも交わす声音で囁いた。
「儂が付喪神の騒動を目溢したのも、異変の根源と知りつつ誰ぞ伝えぬのも、追い剥ぎに遭うて尚飯を食わせたのも全て、そう……」
そして幼子をあやすように優しく髪を撫で上げると、頬を嘗めるほど近くより、刻み込む。
「憐れみ、じゃよ」
憐れみ。そのたった四音で、正邪は改めて己が身に浴びせられていた苛烈な恥辱を思い知った。
その表情の移り変わりがようやっとお気に召したか、狸は突き放すように再び哄笑する。化けの皮が剥がれたとはこの事か、それは天邪鬼のお株を奪う邪まに満ちた笑みであった。
「いやはや、儂とて息巻いてお前さんを朝な夕な探しておったが、いざ目の当たりにすれば乞食と見まごうぼろけた成りと、痩せて貧弱な身体。やれ噛み付いたかと思えばこの老いぼれにさえ惨めたらしく負ける様を見ていたら、それはそれは憐憫の情が湧いてのぅ」
恩情に化かした酷く饒舌な揶揄に、正邪の顔が見る見る憤怒に赤黒く染まる。
この狸は、既に自分を敵と認識することさえも投げうっていたのだ。ただ寒さに震え、腹を空かし、濡れそぼった少女風情として庵に匿い、施しを与えていたのだ。
「ふ……巫山戯るなあああっ!」
「はてさて、巫山戯ていたのはどちらやら!」
いきり立ち、椀を投げ付けるがそこは煙に巻いたもぬけの殻。尚嘲笑は途切れず、背後より湧き出た煙が耳を嘗める。
「お前さんがけしかけた付喪神の中には、奮起して自ら力を手に入れた者もおるぞ。その間、お前さんは黒幕の陰で何をしておったのかのう?」
「煩い! 私は……私はっ!」
拳を作り、振り回すが腕には枯葉が一枚。振り払えば、何事も無かったかのように囲炉裏端で一升瓶を咥え、旨そうにごぷりと喉を通している。
「ぷぃ……お前さんがたぶらかした力無き妖怪たちは以前よりも歩み寄り、己等の在り方を今一度確かめ合ったと聞いたわ。独り隠れて歩かねばならぬほど落ちぶれた誰かさんと違ってのう」
「黙れ、黙れ黙れぇっ! この狸婆がぁッ!」
なんという見窄らしい抵抗だろう、論ずる壇にも上がれず光弾を放つも、力押しですら何ら実を結ばぬ。一升瓶は割れ、鍋はひっくり返り、戸板は破け……たちまち庵は滅茶苦茶に荒れ、煙に包まれるも、それは正邪の心象を冷静に表すのみ。
「おお、そうじゃった。もう一匹腑抜けたのがおったわ!」
それを見下す天井より、仕上げとばかりに声が張られた。
「お前さんと組んだ一寸法師は力を失い、神社に匿われ日がな惚けておるそうじゃ。打出の小槌が無ければ只のお人形さん……半端者のあまんじゃくにはようお似合いじゃあないか!」
何かが、正邪の琴線に触れた。
己の内に沸いたそれを確かめる間も無く、呪詛の叫びと共に力を解放する。
不規則な光弾が八方にぶち撒かれたかと思うや、庵そのものが正邪を中心に転変する。天は地に地は天に、馬手は弓手に弓手は馬手に、哀れ感覚を失した古狸は光弾に頭から突っ込まん……しかしその一手先を頭の中に描くことすら、己の中に渦巻く靄が阻んでいた。
そして、果たしてそれは現実のものに昇華しきらず、まざまざと目の前に突き付けられる。
「やはり御粗末なもんじゃ。己が引っ繰り返せるのはこの程度か」
どろんと銅鑼の如き轟音が耳をつんざいたかと思うや、転変した庵は墨流しのような煙と化した。
再び雨曝しとなった正邪は息を切らしつ、かつて囲炉裏のあった場所にそびえる、老いて背の曲がった松の木を睨み付ける。
「おのれ……また化術か!」
「悔しいか、小悪党めが。悔しかろう、同じ術に何度も引っ掛かりおって」
番傘を差した狸はその幹に腰掛け、高みより見下す。背後の暗雲は黒々と低く、幽玄な灯りとなった妖気に包まれたその姿は、対峙していたどの瞬間よりも巨妖としての威厳に満ち満ちていた。
「お前さんが地にも着かぬ足許より手を伸ばしただけで届く天とは、転変させても張りぼての庵を返すが関の山。結果成したのはさても御粗末な異変もどきよ」
それは、揶揄であって、揶揄でなし。叱咤のようで、叱咤に似つかぬ。
「いやはや博麗の巫女殿もとんだ厄介払いに付き合わされたものじゃ。異界の不死人から聖人超人、果ては神をも相手に立ち回っておるのだから、さぞや手加減に骨が折れたろうて」
一言切ると、狸は朗々と問うた。
「のう、あまんじゃくや。誰に土を付ける事も付けられる事も無く、天の高さから目を逸らし、日々隠れては勝った勝ったと駄々漏らし続ける事が、お前さんの望んだ結末か?」
「っ……それは……!」
反駁が衝きかけた口を、内なる何かが遮る。
耳を貸すな、それこそが天邪鬼の本懐ではないか。誰ぞ眉をひそめ、損を被る様を糧にする、卑小な生き様こそ天邪鬼そのものではないか。
――何故だ。何故、己はそれを善しとしない。
日々の些細な悪行に飽いた切っ掛けはあろう、偶々間抜けな一寸法師と出会った運もまたあろう。それだけであれば、小槌の力を振り撒いた時点で雲隠れし、陰で手を叩いて眺めていれば良かったのだ。
ならば何故、鬼人正邪は立ち上がったのだ。弱者の理想郷なぞと、大それた逆しまに至るまで立ち続けたのだ。
「ふふん、そうかそうか。半端者が寄って描く太平天国なぞ、所詮絵に描いた餅のようなものじゃなぁ!」
「……言いたい事はそれだけか」
黙りを見て取った狸の言は、最早耳には入らなかった。
爪が食い込むほど拳を固く握りしめ、正邪は松の木に背を向けると、黒々とした丘を見上げる。
「逃げるか、あまんじゃく」
「ぬかせ……一宿一飯のなんとやらだ。狸の餌に免じて今は見逃してやる」
「ほほぅ、口先だけは一端の大妖怪サマじゃのう。精々その短い角が見えぬよう、隅でこそこそと生き存えるがいいわい!」
血を吐きそうな程の激情を堪え、嘲笑を背に受けながら駆け出す。
敵わぬ力から逃げるためではない、異変を遂げるために。内なる靄の、その先にあるものを見届けるために。
やがて天邪鬼の背が宵闇に融けるのを見計らったように、暗雲は松をも覆わんほど低く降りると、その一部をどろりと溶かす。
「やんややんや……さっすが大した千両役者ぶりだねぇ、あんなしょうもない小物焚き付けちゃってさぁ」
冷やかしの喝采と共に黒い雫は少女と思しき姿となり、寄り添うように狸の隣へと腰掛け、にやにやと陰険な笑みを浮かべていた。
「ふん、観劇代は高う付くぞえ。まったく、儲けの出ない芝居じゃわい」
相変わらず身の無い旧知の軽口を鼻で笑うと、枯れた松葉を煙管に化かし大きく一息にふかす。
「それにしても随分情けを掛けたもんだ。生かしておいても得なんかありゃあしないのに」
「幾許かとは言え、素質のあった付喪神が飛び抜けて育ったのは、まあ棚牡丹とも言えるからの。その分目溢してやったと言うところか。それに……うふん……」
ふと、物騒な笑いを噛み殺すように天邪鬼が駆け出した先へと視線を送り、すうと目を細める。
「どうにも暢気なこの世界に在って、ああいう気骨のある者を見るとどうにも疼いてしまうでなぁ」
「あーあぁ、エラいのに見初められちゃったよ。可哀想に、あいつロクな死に方出来ないわ」
哀れみの欠片も無く、少女もまたトラツグミの音色でせせり鳴くと、再びぬるりと暗雲に溶ける。
「放した稚魚の、果ては鯛か竜神か……ってか? まあ、どれだけ目を掛けてやっても所詮は天邪鬼さ。紅白の錦鯉に骨まで残さず噛み砕かれるのが関の山だね」
「どうかのう。外道とは道を踏み外して尚貫く道……その果ては儂等がなまじ見通せるものではないわい……」
遠く暗澹たる頂の神社を覆う木々の隙間より漏れる光は、小さき反逆者が放つ最期の大花火か。
化生二ツ岩マミゾウはその一筋の光明を暫し眩しげに見遣り、自らもまた暗雲の内へと姿を溶け込ませた。
§
どうと水飛沫を上げ、正邪は冷たい石畳に叩き付けられた。
「嘗められたものね」
博麗の巫女は遅れて宙空より降り立ち、苛立たしげに白い息を吐き出す。
気を張るまでも無く煌びやかな弾幕で闖入者を三度地に落し、弾幕勝負はものの四半刻経たずであっさりと勝敗が決してしまった。
「転変させる建屋でも無く、あまつさえ境内に乗り込んで名乗りまで上げて、勝算があるのかと思えばこの有様。まったく、冷えた身体も暖まりゃしない」
「糞っ……まだだ!」
「もうお帰んなさい、何度やってもあんたの負けよ。こっちだって風邪ひいたりしたら洒落にならないわ」
うんざりした声が、耳を上滑りする。顔を上げると、巫女はこちらに背を向け、大きく伸びなぞをひとつ打っては濡れ髪を払っていた。
そう、嘗められているのは疑うべくも無く正邪自身。彼奴にとっては、異変を介さぬ妖怪の急襲など日常の厄介払いのようなものなのだ。
「まだだと言っているだろうがぁっ!」
正邪は宣言無しに、しかし誇示するかのような大きな挙動から歪んだ光弾を一撃放った。
まるで知性の無い物の怪が放つようなそれを巫女は僅かな挙動で躱すと、低い声で尋ねる。
「……宣言もしないでどういうつもり?」
「額面通りだ」
答えと共に、八条六連の光球がぼうと正邪の頭上に浮かび上がる。しかし巫女は何等動じる事無く、蔑みに満ちた表情で天邪鬼を睨んだ。
「呆れた。弾幕ごっこの決め事も守れない程踏み外していたなんて」
「決め事? 餓鬼のごっこ遊びの決めなぞ知ったことか……異変はまだ終わっちゃあいないんだよ!」
ひとつ吠えると、美しさの欠片も無い、ただ目の前の敵を討つ為だけの弾幕が巫女目がけて降り注ぐ。
「そう、じゃあ……」
しかし一言零し、薄く呼吸を整えながら幣で目の前をふたつ切ると、摺り足で軽く一足半を踏み込む。
その瞬間、弾幕は炭に水を打ったが如く、氷雨もろともに残らず霧散した。
「……あんたはもう、私に調伏されるのを待つだけの、ただの下等妖怪よ」
この、返しの僅か一手に、正邪は蒼ざめた。
普通であれば、先程までと同じく当たらぬよう躱すはず。
受けるにせよ相殺に必要なだけの力を放つなり、相克の為に呪いや巫力を顕すはず。
それを、僅かな所作だけで全て消散してしまったのだ。
この博麗の巫女こそ、ごっこ遊びなどに収まらぬ、埒外にあった存在であったのか。
「今まで……手加減、していたのか……」
「いいえ、目的に応じた手段を講じているだけ。今はあんたみたいな外道に相応しい手段を、ね」
まるで無機質な口調から殺気を覚えた時には、やはり挙動ひとつ無く掌から札を想起させる弾が打ち出されていた。
その数、僅か三枚。しかし先程までの華やかさは無く、ただ恐ろしいまでに妖を屈服させるだけの力を溢れさせ、蛇蝎の如く正邪に牙を剥いた。
咄嗟に宙へ身を踊らせ既で一枚を躱すと、続けて襲い来る二枚目に力の限り光弾を叩き込む。五発目でようよう焦げ落とすも、先に躱した札が背後より舞い戻り肩口を掠め、肉を焼け焦がした。
傷を押さえている猶予など無い。更に時間差を持って襲いかかる三枚目を御し切れず胸でもろに受けると、蹴上げた小石のように軽く身体が吹き飛び、石畳を二度三度と弾みながら倒れ臥した。
ごっこ遊びで被弾した比ではない。たった一枚の札を受けた肩と胸にはのた打ち回る程の痛みがいつまでも残り、耳を塞ぎたくなるような苦悶の呻きが正邪の口から漏れた。
それでも巫女が静かに歩み寄ると身体を起こし、なんとか身構える。
「ぁぐ……ま、まだだ……! こんな、もの……」
「そう、まだよ。こんなものじゃ済まないわ」
慈悲無く肯定を被せ、尚も巫女の向けた掌からは光の針が無数に湧き出ていた。
「残念だけど、これで終わりかどうかは、もうあんたが決める事じゃないの」
悍(おぞ)ましいまでの力を感じ、飛沫を上げながら転がるが、瞬きを越える速さで右腕に突き立ち直に神経を灼く。再び喉奥に込み上げてくる声を噛み殺し、更に突き立てられる針を、水飛沫を上げ必死に転がりながら躱す。
その惨めな有様は夕刻の狸との対峙の比ではない、猫が鼠を嬲るよりも見目明らかな力の差であった。
「ごっこ遊びで終わらせれば良かったのに、理を破った自分を呪いなさい。あんた程度の小鬼が、身の丈に合わない異変を起こすことがそもそもの間違いだったのよ」
「は……、そんな、程度の相手に……引っ掻き回された三流巫女が……!」
地を転げながら奸計を練る。最早正面からぶつかり合うことなど以ての外。
「どうした! 針なぞ幾ら刺さってもくたばらんぞ!」
虚勢を餌に距離を測り、巫女の背後に頭上に、陰となる位置へ次々と鏃を湧かす。見えざる位置からならば、先のように消す事など出来まい。
「痩せ我慢しながら挑発なんて見苦しいわよ。もうあんたも結末は見えているんでしょう?」
「黙れッ!」
吠え猛たのを号令に、鏃は死角という死角から巫女目掛けて降り注いだ。
しかし前触れ無くその姿は忽然と掻き消え、鏃は全て空を切る。
またも化術かと目を疑う間もなく、亜空の透間を経て現れた気配を背後に感じた時には、弾幕以上の力が籠もった幣の一撃が正邪を襲っていた。
「あがっ、がああああぁぁぁぁっ!」
遂に堪え切れぬ絶叫が喉奥から迸る。激痛などと言う生易しいものではない、骨肉から内蔵、精神に至るまで、全てに痛覚が通ったかと思える程。恐らく服なぞとうに焦げ、背は焼け爛れていることだろう。
「ま、だ……まだだああっ!」
気を張らねば飛びそうな意識を奮い痛撃を堪えると、凶刃と化した爪を立て、振り返り様に腕を横薙ぎに振るう。さしもの巫女もこの粘り腰は想定外であったか、咄嗟に防いだ幣が大きく弾き飛ばされた。
「もらった!」
好機とばかりの二合目を繰り出すも爪に手応えは無く、頸の三寸手前で手首ががっちりと捕えられていた。
尚も押し切ろうと込めた力は、受け流されると同時に己の肘を逆手に極められてしまう。みちりと嫌な音と激痛が正邪の体内を過った瞬間、同じ背丈の少女から繰り出されたとは思えぬ重い肘打が、肋に叩き込まれていた。
視界が明滅した僅かな間に巫女の姿が沈んだかと思うや呼気一喝、背後より気と体重を乗せた重い廻し蹴りが背より正中を捉え、そのまま円を描くように振り抜かれる。
吹き飛ばされる間に失いかけた意識は、残酷にも数間先の砂利道へと顔面から突っ込むと血の味と激痛を伴って現実へと引き戻された。
「徒手なら私に勝てるとでも思ったの? あんた程度の妖怪が……哀れすぎて言葉も無いわ」
残酷なまでの力量の差に、地に伏した正邪の四肢から力が失せていく。
妖術も、奸計も、腕力も、その悉くが無力。
これが、これこそが、転変せしめんとした天であったか。こんなもの、青天井ではないか。否、己が唾した物は、初めから青天井そのものであったのだ。
何をやっている、鬼人正邪よ。
狡猾な狸の口車に乗せられ、鬼神の如き巫女に勝目の無い戦いをけしかけ、その先に何がある。
逃げろ。いつものように逃げを打て。勝ち負けは己が決めれば良いではないか。
そして姿を見せずに小さな悪事を仕掛け、手を叩いて悦に浸れば善い。
それが天邪鬼……お前自身が本来在るべき姿ではないか。
「うるさい……煩い煩い煩い煩い、黙れぇぇぇぇッ!」
噛み締めた口の端から血を垂らし、正邪は絶叫する。
漸く暴いた靄の正体……天邪鬼である、己自身へ向けて。
天邪鬼故に、鬼人正邪たる個を永遠に否定し続ける、逆しまの呪いへ向けて。
「諦めなさい。これ以上抵抗しないで大人しくすると約束すれば見逃してあげるわ……御伽噺の中で生きるあんた達と同じようにね……」
巫女の言葉が、呪いの背を押す。
そう、どれだけ足掻けど、天邪鬼故に、天邪鬼として負けるのだ。
古人が絶えず伝えるように、些細な悪事に留まらなかった事を因果に、天邪鬼は調伏されるのだ。
逃れ得ぬ残酷な結末に、遂に瞼が下りようとしたその時だった。
「正邪……っ!」
雨音に掻き消される程の小さな叫びが、鬼人正邪の意識を覚ました。
そこに、それは、いた。
小さな身体、小さな顔、出逢った頃のように、遠近感が失われる。
しかし、己と共に在った日々を想起させるものは、何も無かった。
不格好な椀も被らず、煌めく針の剣すら差さず、あの吐き気を催す程真っ直ぐな瞳は陰を落とし、目の前の自分にすら怯えるようで。
「莫迦、何やってるのよ! 出てくるなって言ったでしょう!」
嗚呼、なんという弱々しい生き物なのだ!
見ろ、焦れた巫女の怒声にすら身を竦め、怯えているではないか。
野良猫なぞ飛びかかるまでも無くその柔肌を爪で切り裂き、溝鼠にすら柔肉を食い千切られるであろう。
嗚呼、そんな地べたから見上げる天とは、さぞや高かろう。
その小さな瞳はあの異変の中、己の振る舞いをどう映していたのか。
同じ視線にも在らぬ者が、届かぬ天へ虚勢を張り、宙空でくるりくるりと独り空回っている姿に愛想を尽かしたのではないか。そう、見放されたのはこちらの方だったのかも知らん。
「も、もう……もう、やめてよ、こんな事……」
やれ、落ちるところまで落ちぶれたものだ、こんな地を這う弱きものにすら身を案じられるとは。
しかし、その見窄らしい事実こそが、力となる。
自らを負へと導く未来に立ち向かう、意気となる。
あの時も、こうやって馬鹿げた勇気を、卑小な天邪鬼たる己自身を超える蛮勇を奮わされたのだ。
「ねぇ、このままじゃ正邪が……!」
「私に指図するな。小槌が使えない程度で腑抜けた小人風情が」
まったく、どの口が言ったものか。
浮ついたままその小人風情に頼り、天に届く力を得たと勘違いした滑稽な天邪鬼が。
血の混じった唾と共に吐き捨てると、腫れた瞼を更に歪め、嘲笑と共に舌を突き出す。
「はは、いい気味だろう? お前を謀った小物がボロクズにされてよぉ……」
「ち……がう。私だって、あの異変の……」
「黙ってろ。解ってんだよ、お前の言いたい事なんざ」
そうだ、解っている。この弱いくせに甘っちょろい生き物が、己の責任に惑う戯けた正義感など。
そんなもの、残さず取り上げてやる。
お前なぞ、ただの利用された小人、哀れな被害者で終わってしまえ。
我こそが、この鬼人正邪こそが元凶……輝針城異変の全てで在った事を刻みこむのだから。
「じゃあな、独りじゃあんよも出来ない半端者め」
それは彼女を嘲る為の言葉か、内なる己との訣別の言葉か。
正邪は今一度地の低さを確かめ、ふらふらと、しかし両の足で確と地を掴み立ち上がった。
そして爛と瞳に火を灯し、一世一代の紋を切る。
「どう、した……どうしたどうした三流巫女サンよぉ! 終わりは手前が決めるんじゃ無かったのか!?」
神なぞには届かぬ。聖人超人、不死人など以ての外。鬼を名乗れど、真なるそれには遥か及ばぬ。
一寸法師の小槌を振るい、天邪鬼たる己を踏み台にしても、見上げた天は未だはるか遠く。
「何をこの期に及んで……あんた程の卑怯者なら人質でも取って逃げるのかと思ったわ」
「ははぁッ、人質だァ?」
ならば、ならばこそ、地の果てまで墜ちるのだ。
彼奴等が這うことすら及ばない足許の下へ、天邪鬼の下へ、小人の下の、下の下の、そのまた下まで。
「かかっ、お前程度にゃあの抜け殻でも脅しになるのかい。流石幻想郷の頂点に君臨する博麗の巫女サマはお優しいこったなぁ!」
「……軽口も大概になさい……」
「なぁ、焦ってるんだろう? 焦るよなぁ、ハナで始末出来ると思って高説まで打った小物がしぶとくてさァ!」
血を流し、痛みを堪え、重心すらままならぬ、余りに見窄らしい挑発。
しかし満身創痍で尚耳障りな哄笑が、その振り絞るような天邪鬼らしからぬ魂の叫びが、初めて巫女の表情に純粋な嫌悪を引き摺り出した。
「一瞬でも情けを掛けた自分に腹が立つわ……本当に消えたいみたいね」
「やってみろ! お飯事に溺れた巫女程度に私が殺せるものか!!」
「そう……じゃあ……」
再び感情を圧し殺した低い声で巫女が呟くと、雨は無風にも拘わらず彼女の方へと螺旋を描きながら吸い寄せられていく。その手に幣は無く、彼女の持つ純粋な巫の力が霊気諸共に、渦の如く遍く気を吸い込んでいた。
それだけで、内臓ごと持って行かれそうな悪寒に襲われる。妖怪としての本能だけではない、生物として感じる恐怖がそこにある。青天井より降り注ぐ、抗う事の出来ない頂点の力。
やがて渦が収まると、五つの陰陽を象った力の権現が巫女の周りを囲んでいた。
「あんたは、もう終わりよ」
死刑宣告にも等しい呟きと共に、それらは解き放たれた。
震える両膝を諌め、両の目を見開き、最期の雄叫びを上げるも、光の濁流は邪な妖怪を呑み込んだ。
白に塗り潰された世界が視界を覆い尽くした次の瞬間には、想像し得るどんな暴力よりも苛烈な衝撃が全身を貫いていた。
右手を突き出し一つ目に抗うが、枯木の如く軽い音を立てて骨が砕けた。
最早悲鳴などという甘えは許されぬ。辛うじて二つ目も続けて受け切ったが、未曾有の痛覚を伴って右腕は焼け焦げた。
尚もいなそうとした左腕は三つ目弾かれ、肩口から顎へ、噛み締めた奥歯ごと抉り上げていく。
受ける方の無い四つ目が腹にめり込むと、肋を砕き、臓腑を潰しながら宙へと浮かされた。
そして五つ目が、最早力の失せた抜け殻を大鳥居よりも高く天へと打ち上げる。意識すら失ったか、やがて正邪の身体は宙空の頂点に達すると、天地の理に任せるまま頭から落下していった。
予見するまでも無い惨たらしい末路に、巫女は目を逸らす。
唯一人、力無き小人は確と目を見開いていた。天より罰を受け、地に落とされる天邪鬼の終わりを見る為ではない、鬼人正邪という存在を識るが故に。
果たしてその目に映ったのは、笑みであった。諦念のそれではなく、一筋の光を初めて目にした、赤子の如き笑み。
「かかっ、怒りで手ぬかったか、間抜けがあっ!」
しかし、その笑みは刹那で邪に染った。
正邪は目を見開くと、僅か残った力を絶叫と共に己へと解き放ち、落下の力を垂直に転変する。
己の頭蓋を砕かんと待ち受ける石畳の僅か半寸手前で、その身体は鳥居を抜け、境内より見下ろす森へ不自然な落下を始めた。
「っ、悪足掻きを!」
小虫を仕留め損ねた苛立ちが巫女の口を衝くが、その勢いに踏み出した以上は追えず二の足を踏む。
「これで終わったと思うな! 素っ首洗って待ってろおおおおぉぉ!」
山彦にも忌まれたおぞましい呪詛の叫びは次第に遠く、やがてその姿と共に宵闇へと消えていった。
「……聞くに堪えないわね。陳腐な負け犬の捨て台詞だわ」
酸鼻極まる表情で濡れ髪を掻き上げ、巫女は静かに境内を背にする。
「どのみちあの高さじゃ助からない……生きていても獣か化け物の餌食よ」
それは、誰に向けられた言葉であったか。
輝針城異変の爪痕は天邪鬼の、否、鬼人正邪の凄絶な記憶と共に、博麗霊夢の胸に刻まれた。
残された一寸法師は独り氷雨に濡れ、暗澹たる森を見遣る。
鬼人正邪に謀られ、一族の力を利用された。頭目にまで担ぎ上げられた挙句、逃げた後足で砂をかけられた。憎くないと言えば、嘘になるだろう。
しかし今一度自らに問う。あの切っ掛けが無かったとしたら、弱者の為に立ち上がっていたのだろうか、と。
掴まり立ちをしていた手が、彼女から離れた途端尻餅をついた自分が。
小槌の力を口実に未だ起き上がろうともしない自分が。
天邪鬼を元凶と指さし、匿われるを善しとしている自分が。
何度無様に伏しても、彼女は地を踏み締め、必ずや再び立ち上がるだろう。
対峙せねばならない。共に見た理想を、正しき路へと導き現実のものと成すが為。己自身の力で、同じ目線まで立ち上がるのだ。
それこそが、この小さな小さな異変の、恩讐の果て。
少名針妙丸は今一度深く凍える風を吸い、熱の籠った息を吐く。
その瞳には、永く覚えなかった安堵と、静かな情熱が宿っていた。
§
森の木々に身を預けながら、正邪は一歩ずつ当て処無い先へと進む。
辛くも一命は取り留めたが、その姿は凄絶そのものであった。
身体中に捺された敗者の烙印のみならず、枯れ木に服や肌が千々に裂かれ、右の腹は太い枝に深く抉られ腸までをも氷雨に晒す。頭蓋は免れたが背に罅(ひび)が入り、残った左の腕は折れ、ざっくりと靭の割れた脚の感覚はとうに失せていた。
それでも、宵闇に融ける赤黒い血を垂れ流しながら、進む。
「嗚呼、負けたな……ぼろ負けじゃあないか……」
打ちのめされ、地に落ち、蔑まれ、踏みにじられ、罵声を浴び、生き恥とは此の事か。
「くふふ……っ、ふふ、かかかっ……!」
されど、正邪は嗤う。
滴る血で真っ赤に染めた舌を垂らし、禍々しく嗤う。
最早この有様を勝ちなどと嘯くほど落ちぶれてはいない。敗北者故に、この世で返すべき天の果てを身を以て知り、己の舌で地の果てを嘗める事が出来たのだ。
奢りし巫女よ狸よ、付喪神共よ、そして凡百の妖怪共よ、精々高みより見下しているがいい。己等の知るに及ばぬ下の下より転変し、真っ逆さまになった貴様等の顔を我が足許に這いつくばらせてやる。
「精々、束の間の安寧に溺れていろ、莫迦者、共め……っ!」
大層な言葉を吐くが、木の根すら越えられぬ足が蹴躓き、無様にも顔から泥けに突っ伏す。
「まだ……だ……」
数刻で幾度この言葉を吐いたであろう。
否、あの城を背にした時からだ。もういいだろうと目を逸らし、愉悦に浸る天邪鬼の逆しまの中で、そう叫び続けていたのだ。
口に入った枯葉ごと土を噛みにじり再び立ち上がろうとしたが、最早身体を仰向ける事さえも許されぬ。それでも喉に込み上げた血の塊をごぷりと吐き出し、消えかけた命を繋がんと激しく喘ぐ。
「し……しん……みょう、まる……」
僅かに持ち堪えた意識が喉を震わせ出てきたのは、あの間抜けな一寸法師、少名針妙丸の名であった。
騙してやった、利用してやった、見捨ててやった、
しかし唾棄すべき真直ぐな瞳と心で、彼女もまた未だ見ぬ転変せし世界を見据えていた。あの時の自分が識るよりも高い、高い天を見据えていた。
「見えたんだ……おまえ、が……お前が見てた、景色がさぁ……」
目指す先が同じなら、必ずや彼女と再び相見えよう。
果たさねばならぬ。例え見窄らしくとも、己の身ひとつで生きて、這い上がらねばならぬ。
「だか、ら、今度こそ……見せて、やるよ、理想の……世界ってのを……」
折れた腕で地を突くと、骨は赤黒く腫れた肉に刺さり、神経を焼く。
罅の入った背骨は小さな体躯を支えることにすら悲鳴を上げる。
それでも力の全てを絞り、顔を上げ、小人はおろか蛞蝓(なめくじ)の歩みにすら及ばぬ僅かを這いずる。
「かっ、はは、私に理想を掠め取られて……せいぜい、悔しがるんだな……」
霞みゆく視界の先に、小さな笑顔を見たのは、夢か、幻か。
「なぁ……なあ、針妙丸……だか、ら……」
正邪の涙は、か細い呟きと共に誰へ届くことも無く、氷雨に流されていった。
§
斯様にして、輝針城異変はひっそりと真の幕引きと相成った。
やがて降り続く雨に血は洗い流され、何事も無かったように世は安寧を取り戻す。そしてまた、誰が為したかを知る処無く、弱き者は与えられたそれを享受して生き存える。
それを日常として、感謝する相手も識らず、地より無為に天を拝む。
講釈師は、巫女に調伏された卑小な天邪鬼の見窄らしい末路を以て語りを終えることであろう。
しかし、逆しまの天邪鬼、鬼人正邪の知れぬ行方が物語る。
ここより出ずる、新たな異変を。
と快哉をあげてしまいました。
思うえばこういう小悪党は幻想郷にいなかったので新鮮ですし良かったです。
彼女の活躍がまた読みたいです
とても面白かったです
正邪はさんはかっこ可愛い!
>咄嗟に宙へ身を踊らせ既で一枚を躱すと、
素手?
もちろんやったこととか天邪鬼って言う性質はうまくかけてるのかもだけど受け付けんわ
現実を叩きつけられるような内容を、現実から逃げてきた文章の世界で見るのは辛い気持ちになるねww
でもよかった。この正邪は、応援したくなる。心から。
良い作品でした
でもここまでディストピア的な幻想郷を作るなら、もう少し救いが多くあって欲しかった。