て「まぁいいや詐欺でもなんでも。でもね? 私には大きなポリシーがあるの」
文「ポリシーですか」
て「それは、私だけじゃなく、騙された人も幸福にするような嘘を吐く事。幸福にさえ出来るんならば、嘘くらい吐くべきなのよ」
(『東方文花帖 Bohemian Archive in Japanese Red.』より抜粋)
序.
妖怪の山の哨戒天狗、犬走椛。彼女に対する社会的評価は、正しく次の一言に要約されている。
「椛ってさぁ、変わってるよねぇ」
大将棋の次の手を真剣に考えているときに、勝負相手から突然そんなことを言われれば、きょとんとして顔を上げるしかない。椛は目をぱちくりさせて、大きな盤の向こう側にいる友達の河童――河城にとりに目を向けた。
「なんですか、いきなり」
「いやぁ、なんだか……こうして酒を飲みながらあんたのこと眺めてると、つくづくそう感じちゃってねえ」
にとりはそう言いながら腕組みをし、うんうんうなずき、横に置いてあったお猪口から酒をぐいっとあおった。
「はぁ、そうですか。それはいったいどのあたりから判断したんですか?」
「うーん、言ったことなかったっけ?」
「ない気がしますねえ」
「まずは、その口調だね。天狗様のくせに、河童に対して敬語使うなんて、あんただけだよ」
「そんなことはない。文様だって貴女には敬語を使っているではありませんか」
「いやまぁ、あの方は得体が知れないから論外さ……あんたと文様がいっとう天狗の中では変わってるかもしれないよ」
「ふむ、確かに、文様が多少気の触れているお方だというのは、私も認めるところですが……」
椛は唇に指を這わせて、直属ではないがいちおう上司にあたる射命丸文を思い浮かべる。彼女と親交を持ったのはとある秋のこと、山の上に出所不明の神が突然住み着いた一件のときである。椛は山頂の神社への偵察任務をつつがなく果たしたことで、文は殴り込みをかけてきた人間にうまく渡りをつけたことで、あまり大袈裟ではないものの上層部のお歴々にお褒めの言葉を頂いたことがあり、それがきっかけだったのを覚えている。
椛から見ても、文は非常に変わっている。内輪向けの新聞を出す天狗が多いなかで、一人積極的に山の外へ出て取材活動を行い、文々。新聞なるものを懲りずに出版し続けている。ともすれば他の天狗たちからの不興を買いかねないことを平気でやり、それでなお飄々と世のしがらみをすり抜けているのだから、ある意味において椛はこの上司を非常に尊敬している。
しかし、椛が文と同じくらい変わっているというのは、いったいどういう了見なのだろうか。椛にとってははなはだ心外である。
「そもそも、天狗様が河童と仲良くするっていうのがなかなかに特異なのさ」
「だって、にとりは私の友達ではないですか。仲良くするのは当たり前でしょう」
「だからぁ、そういうことを臆面もなく言えちゃうところがだねぇ……」
はぁ、と溜息をつきつつ、にとりの頬は少しだけ赤く染まっている。素直じゃないのである。
椛はそんな友人の姿に再びきょとんとしつつ、自分も傍にあった盃から日本酒をぐいと飲んだ。
椛はあまり意識していないが、妖怪の山にはヒエラルキーに基づく差別意識というものが少なからず存在している。具体的にいえば、それは天狗と河童の関係だ。天狗は厳格な組織体系と強靭な肉体によって山の中腹に君臨し、河童たちはそれよりも下のほうで機械によって独自の文明を築いている。一応共存の関係にはあるものの、住まっている場所がそのまま身分の上下意識に反映されていることは、否定できない事実だ。天狗は河童に横柄な態度をとり、河童は天狗にゴマをすることに専念している。
だから、そんな種族間の差異など何一つ気にすることなく付き合えている椛とにとりの関係は、妖怪の山においてはなかなかに希有なものだと言える。
「なーんかこう、あんたにはアイデンティティの意識ってもんが欠けてる気がするんだよ」
「あいでんててー? 外来の言葉にはちょっとうとくて……」
「あー、まぁいいや。とにかく椛は非常に変わっているのだ。それを自覚して、強く生きていってくださいまし」
それ以上この話を続けるつもりはないらしく、にとりは頭の後ろで手を組んで長椅子に寝っ転がった。そういうにとりだって、種族の違う人間に対しても盟友呼ばわりをして、差別などしないではないか。椛は何か釈然としないものを感じつつ、箸を伸ばしてイワナの塩焼きを口に運び、また酒を一口飲んだ。
「暇だなー。なんか面白いことでも起きないかね」
にとりが外を見て言った。二人がいるのは、滝から多少位置の低いところにある哨戒天狗詰め所である。今滝の上には別の白狼天狗が詰めていて、椛はちょうど先ほど交代時間を迎えたので、非番だった。木でできた物寂しいそのあずまやは、しかし酒と肴とにとりが持ってきた簡易ストーブのおかげで楽しく賑わっている。眼下には、とっぷりと暮れた妖怪の山の風景。春が近いとはいえ、夜はまだまだ寒い。
「やめてください。そんなことになったら、また文様が新聞書くのを手伝わされるハメになるんですから」
「忙しいのはいいことじゃん。勤労を最大の徳とするんだよ」
「私には、あのような文筆業じみたものは向いてませんよ……この大剣を振り回しているほうが性に合ってます」
「まったく、ちったぁ文化的になろうよ天狗様。時代に置いてかれちゃうよ?」
それのどこが悪いのか、ちょっと椛にはわからなかったので、下手に反論することなく次の手を考えることにした。
しかし、椛の希望に反して、どうやらにとりの言う「なんか面白いこと」が起きてしまったらしい。
突然、夜の妖怪の山に、甲高いサイレンの音が響き渡った。つんざくような機械的な轟音が静まり返っていた大気を震わせ、鳥たちがばさばさと飛び立って豊かな葉を散らせた。妖怪の山が一斉にざわめき出す。動物たちは災厄の方角から我さきに逃れようとし、河童たちの集落からはパニックと狂乱の喚声が聞こえてくる。
「これは……」
にとりが飛び起きて言う。
「河童からの救援要請、ですね」
椛は即座に火を止めて、傍にあった大剣をひっつかんで外に出た。にとりも慌ててそれに続く。
サイレンの音は、ちょうど椛たちのいる面の反対側から響いてくるようだ。
「やだね、この音……不吉だ。前にサイレンが鳴ったときはたしか、あの山火事の時だったっけ」
にとりが身ぶるいをしながら言う。とてもこの事態を面白いなどと言えるような余裕はなさそうだ。
椛もよく覚えている。ちょっとした火の不始末から発生した山火事はまたたく間に広がり、河童たちだけでは処理しきれないと判断され、天狗の救援が要請されたのだ。椛もその救援部隊の一員だった。消火活動は三日三晩、夜を徹して行われ、それまでに何体もの河童の焼け焦げた遺体を目にすることになった……椛にとっても当然、このサイレンは身ぶるいを催させるものにほかならなかった。
でも、怖気づいて逃げるわけにはいかない。朋友たる河童が何らかの危機に瀕しているのだ。
「ね、行こう」
「ええ……もっとも、今行っても事態は収まっているかもしれませんが。先遣隊はもう現場に到着しているでしょう」
「それでも、気になるもんは気になる。頼む、椛。背中に乗せて」
「……いいでしょう。でも、その背嚢は置いていってください。速度が落ちますので」
「椛、いくら外来語だからって『リュックサック』を知らないのは――」
そうして椛とにとりは夜の闇に向けて飛び立った。不吉な轟音が鳴り響いているなかでは、満月さえもが不気味に見える。
「椛! 千里眼でなんか見えないの!?」
「それが、見えないんです! なんだか白い、光るものが覆っていて、湖の一帯だけが見えない!」
それは椛にとって初めての体験だった。千里眼が効かなくなるなんてことは、今まで生きてきた中で一回もない。だけどとにかく、何かとてつもなく異常なことが起きているのはわかる。
飛んでいる二人の下の山道を、河童たちがごちゃごちゃと色々な機械や工具類を手に持ちながら避難している。川を泳いでいけば一番速いのに、機械が壊れてしまうからそれもしないらしい。
「あれでは逃げ足が落ちて危険だというのに……」
「まぁ、普通に考えたらそうだね。でもそれが河童ってもんさ」
にとりがしたり顔で頷いている。まったく河童のことはわからない。
山の側面をぐるりと回り、先ほどいた哨戒天狗詰め所からはちょうど反対側にやってきた。このあたりは傾斜が緩やかで、山頂に以前できたものほどではないが、それなりの規模の湖が清らかな水を湛えている。
火の手がどこからも上がってない以上、河童がサイレンを鳴らした可能性として一番高いのは、外からの侵入者があった場合だ。しかし、優秀な目を持つ哨戒天狗がこんな奥地にまで侵入を許すなんてことはまずありえない。もしそんなやつが本当にいるとしたら、どんな手を使ってここまで入り込んだのだろうか。
「椛、あそこ!」
にとりが指を差した方向に、湖がある。いつも通りそれは静かに佇んでいるが、何か様子が変だ。椛とにとりは湖の淵に降り立って、暗闇そのもののような湖面をじっと見つめる。
奇妙な緊張感が場を支配していた。天狗の先遣隊たちはみな、呆気にとられたように湖の上の虚空を見つめている。高い樹木の上に備え付けられた警報機からは、未だにサイレンの音が吐き出されている。何も起こっていないけれど、逆にそのことが、この場に奇妙なプレッシャーをかけているようだった。
「なんか、ヘンだよ……」
にとりがそう言って、椛の袖を握り締めたときだ。強烈な光が突然向こう側の岸から放たれ、周囲一帯を真昼のように明るく照らし出した。
現れたのは――少なくとも椛にはそう見えたのだが――白い鱗を持つ、巨大な蛇のような何かだった。それはじっと見つめるにつれ、曖昧だった輪郭がだんだんと分節化され、明瞭なものになった。いや、これはまさしく、龍だ。長くぎざぎざとした肢体に荒々しい顔はまさに想像通りのもので、光はその姿全体からまばゆく溢れだしてくるかのように、ただただ神々しかった。
龍は体を奇妙にくねらせながら、巨大な口をぐわっと開け、湖の中心へと躍り出た。でたらめに動いているように見えて、その動きには一貫性がある。何かを追いかけているようだ。だとすれば、追われている獲物はどこに――?
「あ、あれ!」
にとりが叫ぶまでもなく、不運な獲物はすぐに見つかった。水面を切るようにして飛ぶ小さな影。その正体は、ピンク色のワンピースを身に纏い、白いふわふわの耳を振り乱している、黒髪の妖怪兎だった。
危ない、と思った時にはもう遅かった。追っ手の姿を確認しようとしたのか、減速して動きを止め振り向いた兎の上に、龍がぞっとするような大口をあけて飛びかかった。兎は直撃を受けたのか、湖の中へ龍もろとも落下して、見えなくなった。長い尾が吸いこまれるようにして消えていくと、水面に立つ僅かな波紋以外、何も残らなかった。サイレンもいつの間にか止んでいた。
周囲の者と同様、茫然とする椛とにとりに、声をかけるものがあった。
「いやはや、大変興味深いことが起こりましたねぇ」
振り向くと、赤い目を爛々と輝かせている鴉天狗、射命丸文がばさばさと地上に降り立ったところだった。
「文様、見ていらしたんですか」
「ええ。事件の匂いがするところに私がいないわけがないでしょう? いの一番に駆けつけてじっくり眺めていましたよ」
そう言って文は椛にウィンクする。どんな状況下でも、その鉄の神経はびくともしないらしい。
「にとり、大丈夫ですか? 少し茫然としているようですが」
「あ……はい、文様。ちょっと、びっくりしただけで」
「まぁ、そうでしょう。あれで驚かないというほうが無理な話です」
文がふむふむと頷きながら、愛用の文花帖に万年筆でなにやら書きこんでいる。
「文様、今のも記事にするおつもりですか?」
椛は少しだけ呆れて尋ねる。
「いや……事件の性質上、私が記事にするのは無理ですね」
「え、どうしてです?」
「さっきの正体が何だったにしろ、少なくとも妖怪兎の侵入を許してしまったことははっきりとわかる事実です。これは貴女たち哨戒天狗の責任問題になる可能性がありますが、それ故に同胞の失態は隠蔽されるでしょう。大天狗様は、この件を天狗と河童の間のみで隠密に処理することを望み、事件のことが山の外部にもれることは絶対に好まない。これに関する記事は、たとえ内輪向けでも恐らくすべてシャットアウトされ、この場に居合わせた全員に、緘口令がしかれるでしょうね」
すらすらと並べ立てる文の言うとおり、早速天狗たちによる調査が始まっていた。サイレンを鳴らした河童への聞き込み、湖中に消えた兎の捜索、白い龍の正体・出自の解明、そして事件の経緯の把握……。事態がいったんの終息を迎えたようには見えるけれど、するべきことはたくさんあるし、椛もまもなく応援に加わらなければならないだろう。
「それにしても、凄かったですね、さっきのは……話には聞いていましたが、実際に見たことはありませんでした」
椛はぼやく。龍は幻想郷の最高神である。その聲は天地を割り、地上に雷雨をもたらす。体をうねらすと山が崩れ、地震が起こるという。最後に龍が幻想郷に現れたのはその創世の時、博麗大結界が張られた折のことらしい。いったいあの兎は、どんな恐ろしいことをしでかして天の怒りを買ったのだろうか。
「そうですねぇ……と、できました。椛、絵を描いたので、どんな感じかちょっと見てもらえませんか?」
「写真は撮らなかったのですか?」
「もちろん、撮りましたよ。ただこういうのは、客観的な姿だけでなく、主観が捉えた物のあらましというのも大事なのです」
「なるほど。では拝見……」
椛は文花帖を受け取り、そこに描かれた絵をじっと眺める。射命丸文は絵心もあり、その即物的かつ写実的なスケッチはいつも息を呑むほどであるのだが……今回は椛も、首を傾げるしかなかった。
「これ……大鷲ですか?」
「ええ、うまく描けているでしょう」
「はぁ……でも、さっきそこで見たのとは違いますよね。どこで見たのですか?」
「椛、何を言っているのですか。あれはどう見ても大鷲だったでしょう。もっとも、あんな大きいのは私も見たことがないけれど」
話が噛みあっていない。首を傾げている二人に、にとりがきょとんとした顔で会話に割り込んできた。
「え、ちょっと待って。さっきのはばかでかい蜂の大群でしょ? 私、追っかけられたことあるから、凄く怖かったんだけど」
「……なるほど。ちなみに椛、貴女にはどう見えていたの」
「白い、大きな……龍の姿に」
「すると、全員で同じものを見ていたにもかかわらず、一人一人違うものに見えていたということですか?」
文がまとめた通りのようだ。事態はますます混迷の度合いを深めていくばかりである。
一. 縁を結ぶもの
出がけでちょっと手間取ったせいか、人里に着いたときにはもう正午になっていた。
薬の販売で何度も何度も足を運んでいるうちに、徐々に里の人たちは挨拶をしてくれるようになっていた。私も、最初のうちは心労がたえなかったものの、今ではそれなりに楽しんで家々の戸口を回ったり、具合が悪くなった人の症状を簡単に見てあげたりしている。慣れれば慣れるものだ。
「あら、兎さん、こんにちは。今日も薬売りですか?」
甘味処の着物姿の女性がにこやかに声を掛けてきた。いつもの薬売りのときの出で立ちで来ているのだから、そう思うのも当たり前だ。
この甘味処には私も何度か足を運んでいる。栗善哉とあんみつと、お姉さんの笑顔が絶品なのだけれど、今はどれも味わっている暇はない。
「あ、いえ……今日は寺子屋に用があって」
「寺子屋に? 慧音先生に御用ですか?」
「ええ、そんなところです。それとも今、授業中で邪魔になったりしますか」
「いえ、今は昼休みでしょうねぇ。あ、そうそう、うちの妹が、今日はもこ姉さんが手伝いに来る日だって、喜んでましたっけ。たぶん、遊んでもらえるんでしょうね」
予想通りだ。ぺこりとお辞儀をして、その場を立ち去ろうとする。
「あ、兎さん。これいりませんか? ただでもらったんですけど、余っちゃって」
女性が差し出してきたのは、緑色の布の袋だった。白い枠取りの中に、『縁結び成就』と書かれている。
「それ……お守りですか?」
「ええ、これがホントに効果が凄くて。里でいま流行ってるんですよ。これで結ばれた夫婦もちらほら出てるくらい。どうですか?」
「いえ、同じようなもの、もう持っているので。そっちの効果が薄れたら、と思うと」
「それもそうですね。じゃ、いってらっしゃい! また善哉食べにきてくださいね」
寺子屋は、人里の端のほうに位置している。前には白墨で線が引かれた広場があり、遊具が幾つか据え付けられている。歩いていくとちょうど鐘が鳴って、奥の小屋がわいわい賑わったかと思うと、子供たちがわっと入口からはきだされた。その輪の中心にいるのは、竹林に住む蓬莱人、藤原妹紅。
「もこ姉ぇー、遊ぼー!」
「鬼ごっこやろう!」
「あー、わかったからそう急かすなって。ちょっ、こら、髪引っ張るな!」
「くらえー! けーね先生直伝、猛牛の如き突進!」
「押し倒せー!」
「群がるのやめぇぇぇい!」
きゃいきゃいと子供たちが楽しげに殺到し、妹紅はその場にうつ伏せに倒れ伏した。
「……楽しそうね」
「あァ!? 全然楽しくなんか……」
そう言って妹紅は顔を上げ、私を見た。あからさまに嫌そうな顔をする。こちらとしては、妹紅の意外に子供好きな(というよりは子供に好かれる)一面が見られて非常に満足だけれども。
「あ、兎さんだ」
「薬売りにきたの?」
「いや、ちょっとそこのお姉さんに用があって」
「……何の用。人里の中でやり合う気はないぞ私は」
私だって、そんな気は毛頭ない。妹紅に会いに来たのは、ある事に協力してもらうためだった。
「教えてほしいことがあって」
「……なにを」
「二週間くらい前、てゐと一緒に小屋でお酒呑んだんでしょ? そのことについて聞かせてほしくて、ここまで来たの」
「あぁ、そんなこともあったね。でも何でそんなこと訊くのさ」
「それが……」
少しだけ心が疼く。一度は消えた不安が、再び頭をもたげてくる。どうやら妹紅は知らないらしい。
「てゐ、もうずっと永遠亭に帰ってないの……これまでにも何度か、三日くらいはいなくなることあったんだけど、こんなに長い間いなくなるのは初めてで」
「ふぅん……行方不明ってこと? あいつがねぇ」
「そう、だから――」
「だが断る」
妹紅がにやりと意地の悪い笑みを見せた。彼女の上に群がっていた生徒たちが一斉にブーイングを始める。
「ひでー! なんでさー!」
「協力してあげなよ!」
「うるさい! 私の趣味は輝夜とその周辺の奴らの頼みには否といってあしらうことなんだ!」
「おにっ!」
「きちく!」
「もこう!」
まぁしかし、断られるのは予想通り。こんな時のために、姫様から妹紅を籠絡するための秘策を教わっていた。今こそ、それを利用するときだ。
「…………ぅ、ひっく」
「な、なにさ」
「ぐすっ、だ、だって、てゐがいないと、わたし……心配で、どうしたらいいか、わからなくて……っ」
涙がぼろぼろと頬を伝って落ちる。嗚咽がとめどなく溢れてくる。当然、嘘泣きなのだけれど、同時に本当に泣いてもいる。自分の心の波長を操って、無理やり不安定な気持ちにしているからだ。姫様曰く、これで落ちない妹紅は妹紅じゃないらしい。
「……ふん。泣き落とししようったってね、そうはいかないよ。こちとらそんな情は何百年も前に捨てたんだから」
ここまでも予想通りだ。普通の泣き落としじゃ、妹紅は揺らぎこそすれ頼みを聞き入れてはくれないだろう。しかし、今は状況が私に味方をしてくれる。
「兎さん、可哀そう……」
「ひっ、ぅ、うええん……」
「え、な、なんで、あんたたちまで泣いてるの?」
自分の上を見た妹紅はぎょっとした。それも無理はない。なにせ男の子女の子問わずその場の全員が、涙を流して泣いているのだから。男の子たちは拳を握って懸命に泣くまいとするも、瞳がうるんでくるのを抑えられない。女の子たちは人目をはばからずぼろぼろ泣き出し、中には男の子の肩を借りて嗚咽をもらしているのもいた。
「お願い、もこ姉」
一人の女の子が涙目のまま気丈にも進み出た。先ほどの甘味処の女性の妹だ。
「兎さんを助けてあげて……兎さん、わたしのお父さんが急病だったとき、助けてくれたことがあるの。だからぁ……!」
もう限界だった。娘はその場にくずおれて泣き出してしまった。一人の男の子が涙をこらえながらその子に手巾を渡した。
「……わかったよ。ちゃんと協力するから。だから、ほら、泣くなって」
ついに妹紅が折れた。生徒たちの顔に一斉に花が咲き、再び妹紅にわいわいと群がった。
私は、自分の涙を止めると同時に、操っていた子供たちの心の波長も元に戻した。利用したみたいでいい気はしないけど、仕方がない。てゐを探すためなのだから。
※ ※ ※ ※ ※
二時間前――
てゐが失踪してから、今日で約二週間になる。
ある夜にふらっと出かけたのを見送ってから、何の便りもない。これまでにも、二、三日気まぐれでいなくなったことはあるけれど、こんなにも長い期間音沙汰がないのは初めてだ。以前鈴蘭の毒に犯されてほうほうの体で帰ってきたときは、てゐの事とはいえさすがの私も肝を冷やした覚えがある。だから、もし今どこかで動けないくらいに弱っていて、助けを求めているとしたら……と思うと、心配するまいとしてもどうにも気になってしまうのだった。いったい、どこで、何をしているのやら。
「てゐ、まだ帰ってこないの?」
縁側で朝の光の下で目覚める庭を眺めていると、姫様が滑るように歩いてきた。
「えぇ……さすがにこんなに長くいなくなるのは、心配です」
「そうねぇ……もう、何日になるのかしら?」
「二週間です。せめて手がかりが何かあれば、探しに行けるんですけど」
何の当てもなしに探しにいけるほど、幻想郷は狭くないし、時間があるわけでもない。てゐを見つけるのにどれくらいかかるのか見込みすら立たない以上、お師匠様に仕事を休ませてくださいとお願いするわけにもいかない。
「あら? そんなに前だったかしら。だとすると……」
姫様が両の袖を合わせて口元を隠しながら、なにやら考え込んでいる。
「姫様?」
「二週間前というと、満月のあたりね」
「え? ええ、そうなります」
「あの丘で妹紅と遊んだとき……思い出したわ。妹紅、私と遊んだ前日に、てゐとお酒呑んだんですって。愚痴っぽくそう言ってたわ」
「え……それじゃ、妹紅とお酒を呑んで、それからいなくなったということですか?」
「そういうこと」
「そんな、まさか、てゐ、兎鍋にされたんじゃあ」
暗い考えが頭をよぎる。そういえば妹紅の小屋まで姫様との関係を探りに行ったとき、捕まって危うく夕飯にされるところだった。まさか、てゐは触れてはいけない暗部に触れてしまい、そのまま……。
「それはないでしょうね」
あっさりと姫様は否定する。まぁ、てゐもおめおめと夕飯にされるようなタマだとは思えない。そう信じたい。
「そもそもあの二人、お酒呑むくらい仲良かったかしら。てゐがちょくちょくからかいに出かけてたのは知っているけれど」
「波長の短い者同士で、それなりに上手くやれてるみたいですよ。一緒に酒宴までしてるっていうのは、私も初耳でしたけど」
「妹紅の話を訊きにいくつもり?」
「ええ……もし知ってたら、何としてでも訊きださないと。あまり自信ないですけど」
せめて、タタキにされて食卓に並ばないことを祈る。
「ふふふ、てゐのことが心配なのね。友達だから?」
姫様が微笑みながらそんなことを言うので、急に恥ずかしくなってしまう。
「いえ、そんな、こと」
「それとも、好きだから?」
「ち、違います! ただあいつが他の誰かに迷惑かけてないかと思うと、胃がきりきり痛くて」
「さらっとひどいわね……行くのなら、気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
そう言って、姫様はまた滑るようにするすると廊下の向こうへ歩いて行った。
※ ※ ※ ※ ※
それで、妹紅の小屋に行っても誰もいなかった。竹林の中にはいないようだし、妹紅が行くようなところといえば……と考えてみると、まっさきに付き合いの深そうな上白沢慧音が思い浮かんだ。そうして来てみれば、予想通りだったというわけだ。
「……といってもなぁ。別段なにか特別な話をしたわけでもないよ」
多少不機嫌ながらも、妹紅はしっかりと思いだそうとしてくれている。やはり、子供たちの力は絶大だ。
妹紅が来る日は午後いっぱい遊びの時間になるらしく、私が昼の一時間妹紅を独占しても、文句を言う子供はいなかった。彼らは机をがたがたと動かして、会議でもするように長方形に並べ替えた。その上座に、私と妹紅、そして慧音が座っている。
「酒呑みながらなわけだし、内容覚えてないことも多いよ」
「そこを何とか。どんな些細なことでもいいわ」
子供たちのひそひそ声がきこえてきた。
「もこ姉、幸せ兎さんとなに話してたのかな」
「まさか、恋のお話?」
「わくわく」
「そこそこ、大人の話に首を突っ込まないように」と、慧音が先生らしい穏やかな声で嗜める。
「はーい」
思わず笑いそうになった。てゐと妹紅ほど、恋話などというものからかけ離れている二人組はいない。せいぜい悪口を言い合いながら酒を酌み交わすのがいいところだろう。
「そうだなぁ……あんたの楽しみにしてた芋羊羹を全部あいつが食っちまった話とか」
少しでも心配したのが間違いだった。てゐは発見次第即しばきたおす。
「あと……そうそう、変わったところっていうか、これは酒呑むたびにあいつが言ってたことだけど」
「なに?」
「幻想郷全体を幸福の絶頂に祭り上げる計画が進行中なんだってさ」
「はぁ?……なにそれ」
「私に訊くなよ。あいつが言ってたことなんだから。一字一句違わずにね」
恐怖のどん底に突き落とす……なら、まだわかる。典型的な悪役の考えそうなことだ。だけど、幸福の絶頂に祭り上げる、というのはわからない。語法以前に、何故そんなことをするのか、そんなことが本当にできるのか、というのが問題だ。
「あいつの能力を使えばできるはずなんだって。胡散臭くて信用ならんけど」
「能力? てゐの能力って、たしか」
「『人を幸運にする程度の能力』……幻想郷縁起にはそう書いてあるな。また人里では、彼女は『幸せ兎』といったほうが通りが良い」
黙って聴いていた慧音が口を挟んだ。妹紅のいう通り、だいぶ胡散臭い。普段の行いを見る限り、私にとってはただの悪戯好きで偏屈な性悪兎でしかない。そんな能力を持っているなんてこと、今の今まですっかり忘れていた。
「幸福の絶頂に……かあ。何を考えてるのやら」
「知らん。で、二週間前は、もうその計画が実行に移せるところまで来てる、って話だったな。何一つ具体的なこと言ってなかったから、どうせ嘘だろうと思ってたけど。というか嘘だろうけど」
それから二週間以上経っている。もしてゐが何らかのアクションを起こして、その効き目が本当に表れているのであれば、人里に来たときに何か気付いたはずだけれど。見たところ、変わったことがあるようにも思えない。やはり嘘だったのか、あるいはてゐの能力をもってしても不可能だったのか。
「ん……? もしかしたら」
唇に指をあてて考え込んでいた慧音が、思いついたようにはっと顔を上げた。
「慧音? どうしたの?」
「いや……馬鹿な話かもしれないが、心当たりがある」
慧音は立ち上がり、両手をパンパンと鳴らして、がやがやと昼食をとっている子供たちの視線を集めた。
「最近流行っている縁結びのお守りについて、誰か知っている者は?」
それを聞くと、なぜだか子供たちはみんなにやりと笑みを浮かべた。私の横に座っていた女の子がすっと手を上げる。例の甘味処の女性の妹で、名前を初(ハツ)というらしい。
「先生、それ、たぶんみんな持ってます」
初がそう言うと、みんな一斉に懐から緑色のお守りを取り出して、私たちのほうへ自慢げに見せつけた。
「そう、これだ。最近急激に里で流行り始めたんだ」
慧音が生徒の一人からお守りを受け取って、机の上に置いた。私もこれは見たことがある。甘味処の女性がいらないかと勧めてきたやつだ。
「へぇ……でも、単なるお守りでしょ? どうせ御利益なんてないよ」と、妹紅。
「いや、物凄い効くと評判なんだ。実際、これが出回りだしてから、里では交際を始める者が多くなったし、二、三件ではあるが結婚する例も出てきている」
「うそぉ……」
思わずそう呟く。博麗神社へ行ったとき、薬を売るつもりが逆に赤いお守りを買わされ、お師匠様にこってりしぼられてからというもの、私はお守りなどというものを二度と信頼しないことに決めていた。だけど今回のは、現に多数の実例を示されてその効果が証明されている、らしい。
「で、これが流行り始めたのが――」
「……ちょうど二週間くらい前ってわけ?」妹紅が次いで言う。
「そんなに前ではないが、そのちょっと後だ」
するとますますてゐの言っていたということが現実味を帯びてくる。結婚するということが私にはよくわからないけれど、きっと幸せなものなのだろう。
それにしても、このお守りにてゐがどう関わっているのだろうか。
「あ、そもそもこのお守り、どこの神社のやつなの? 博麗神社?」
思いついて尋ねる。それがわかれば、当面の捜索範囲はだいぶしぼられてくる。
「いや、これは妖怪の山の頂上にある、守矢神社のものだ」
「守矢神社……」
行ったことはないけれど、そこに住む者には会ったことがある。永遠亭の雨漏りがひどかった日、洩矢諏訪子という蛙の神様がふらふらと遊びに来た。てゐもその時一緒に会ってるから、いちおうこの二人(?)には繋がりがある。
「幻想郷へ来てからの日はまだ浅いが、何分布教活動に熱心なもので、人里にもだいぶ信奉者が多い。最近では、近くの山に出来た命蓮寺に圧され気味ではあるが……」
そう淡々と話す慧音は、なぜか気難しげに眉をひそめている。どうしたのだろうと思っていると、初がこっそり耳打ちしてくれた。
「里の人が外に出ていくのをあまり心良く思ってないみたいなんです。慧音先生、里の守護者みたいなものですから」
「ああ、なるほど……それにしてもあなた、歳のわりにしっかりしてるわね。爪の垢でも煎じててゐに呑ませてやりたいわ」
「いえ、そんな……あ」
初が手を滑らせてお守りを落としてしまった。すぐさま拾おうとした彼女の手に、隣に座っていた男子生徒(さっき手巾を渡した子だ)の手が重なった。二人は顔を赤らめて手を引っ込め、たどたどしい口調でお礼を言い合った。それを見ていた生徒たちがひゅうひゅうと口笛を鳴らして茶化しているが、二人は満更でもない様子。ああなるほど、これがこの縁結びのお守りの効果か――!
そんなアホな。
「ふぅん。こんなのがねぇ」
妹紅はじっくりとお守りを見つめていたが、何を思ったか次の瞬間、
「えいっ」
と、お守りの布袋を暴いて、中を探り始めた。
「わー! もこ姉バチあたり!」再び、生徒たちからブーイング。
「あ……ごめんごめん、護符かなんかが入ってたらもんぺに貼り付けようと思ってさ、せっかくだし」
なんという貧乏性。呆れる私たちをよそに、妹紅は一枚の紙切れを中から取り出した。
「なんだこれ……」
広げてみると、それは一枚の写真だった。白黒かつ折り目がついて見えにくいが、上方へとのびる階段が写しだされている。ちょうど神社に行く前に上らなければならない長ったらしい階段のようだ。そして、その前に俯きながら立っているのが――
「……てゐ」
ふわふわの耳にくしゃくしゃの髪、そしてワンピース。表情はよく見えないが、間違いない。
「ほんとだ、幸せ兎さんだ」
「あ、すごい。こっちにも入ってる」
次々に生徒たちが自分のお守りを開けて中身を確かめる。確認したところ、全部にてゐの写真が入っていた。
「この階段は、博麗神社のではなさそうだな。雰囲気が違う。見たことはないが、恐らく……守矢神社だろう」
決まりだ。てゐは確実に守矢神社の連中と繋がっている。
「この写真、貰ってもいいですか」
「ああ……妖怪の山へ行くのか?」
「えぇ、てゐがまだいるかは、わからないけど……守矢神社の連中に話を聞かないことには、何も始まらないし」
「だが、妖怪の山を無許可で登るには骨が折れるぞ。河童や有象無象の神々はともかく、滝より上に住まう天狗という種族は、外部からの干渉にはとても敏感だ。何らかの手引きなしに、あそこまで一戦交えずに行くことはできない」
「里の人たちは、どうやって出入りを? 当然、お参りをするのでしょう」
「それは守矢神社の巫女……いや、風祝か。彼女が天狗や河童たちに渡りをつけ、人里から神社まで参拝客を安全に誘導する役目を担っている。ただし、彼女が来るのは10日に一度。次に来るのは、6日後だ」
「そんなに待っていられない……何か、手はないかしら」
残念だけど、単身妖怪の山へ乗り込んでいくほど強さに自信があるわけじゃない。そもそも、てゐはどうやって山の頂上にある神社まで入り込んだんだろう?
「そうだな……一度博麗神社へ行ってみるのはどうだ」
「え? どうして?」
「私は行ったことがないからわからないが、霊夢なら異変の際妖怪の山へと足を運んでいたはずだ。手を貸してくれるかどうかは絶望的だが、知恵くらいは貸してもらえるかもしれない」
「あの巫女がねぇ……」
また変なのを売りつけられないだろうか。そこだけが心配だが、他に手は無い以上、行ってみるしかない。
「とにかく、ありがとうございました。一度博麗神社へ行きます」
そう言って出ようとすると、初が声を掛けてきた。
「あ、うどんさん。お守りのほうはいらないんですか? もしかしたら、幸せ兎さんが幸運をわけてくれるかもしれないですよ」
「……うどんさんはやめてね。貴女のお姉さんにも勧められたけど、私はいらないわ。それよりももっと効果がありそうなもの持ってるから」
「え、すごい。それってなんですか?」
「これよ」
私は胸元を指差す。ブレザーに隠れて見えなかったようだけれど、そこにはあるものがずっとぶらさがっていた。
「あ……幸せ兎さんのペンダント?」
そう。てゐがいつも身につけていた、にんじん型のペンダントだ。
「そういうこと。じゃ、色々とありがとね。お姉さんにもよろしく!」
勢いよく寺子屋を飛び出したとき、ちょうど昼の時間の終了を告げる鐘が鳴った。
二. 幸運を呼ぶもの
神社の階段を登り終えた途端、ありえない光景が目に飛び込んできた。
私が来る時の博麗神社は閑古鳥が鳴いていて、境内の片隅で巫女が一人寂しく箒で掃除をしているのが常だった。それがどうだろう。いま大勢の人々がつめかけて、見晴らしのいい景色を楽しんだり、お賽銭箱の前で熱心にお祈りしている……眩暈がして、階段を危うく転げおちかけた。異次元に迷い込んでしまったのか。自分の感覚を疑いつつ、人々の合い間を抜けて、母屋のほうへと向かう。
玄関で出迎えてくれた霊夢は、まるで天使のような笑顔を浮かべていた。
「いらっしゃい鈴仙。元気そうでよかったわ」
里の恰幅の良い素封家が、新たな金ヅルを見つけたときのような満面の笑み――訂正しよう。あまり純粋な笑いじゃない。だけどもとにかく、幸せそうではあった。
「あの……そっちも、嬉しそうね。表のあれ、どうしたの?」
「ふふふ、知ってるくせに」
「え、どういうこと?」
「まぁ、上がんなさいな。ちょうどお茶淹れたところよ」
上機嫌なのはまことに結構なのだけれど、何だか気味が悪い。まさか、兎鍋の材料が手に入って喜んでいるんじゃないだろうか。再び恐ろしい考えがよぎるも、出がけにお師匠様から、あるものが渡されたのを思い出す。
「あの……これ、差しいれ。よかったら、お茶と一緒にどう? お昼すぎだけど」
「なあに? それ」
「ええとなんだっけ……ああそうそう、恵方巻きだったかな」
恵方巻きの入った包みを取り出すと、霊夢はますます満面の笑みを浮かべた。どうしようやだ怖い。
「気が利いてるわね。親切な兎はいつでも大歓迎だわ。さぁどうぞ、上がって」
以上のやり取りをもって、にべもなく追い返されるんじゃなかろうかという不安とは裏腹に、私は博麗神社に心良く迎え入れられた。
※ ※ ※ ※ ※
「お師匠様、あの……」
台所にいくと、珍しいことに、お師匠様がてずから白いご飯を握っていた。家事はすべて私以下ペットの兎たちに任せきりなので、姫様とお師匠様の二人が台所に立つことは極めて稀だ。
「ああ、ウドンゲ。ようやく探しに行くのかしら」
「ええ、はい……それはそうとお師匠様、何を作ってらっしゃるんですか?」
「これはね……恵方巻きよ」
「はぁ……姫様が食べたいっておっしゃったんですか?」
「ええ。節分はとっくに過ぎてるんだけどね。ただ、そうね、貴女が動くというんなら、半分持たせてあげるわ。お昼に食べなさい」
「あ、ありがとうございます」
「ちょっと待ってなさい。いま包んであげるから」
お師匠様はすらりと背が高い。凛とした印象を与える後ろ姿を見つつ、考えていた疑問を口にする。
「てゐ、どこに行っちゃったんでしょうか」
「あら、心配?」
「そりゃあ、まぁ……お師匠様や姫様ほどではないですけど、長い付き合いですし」
「そういえば、最近あの活動はしているの? 『兎角同盟』だったかしら」
「いえ、なんかもう最近は、諦めかけてます……てゐもあんまり乗り気じゃないみたいですし」
主要な活動といっても、主に宴会の鍋で兎肉が出されたら抗議する程度のこと。誰も真剣に取り合ってくれないし、そもそも当事者の片方に気迫がないのだから、尻すぼみになっても当然だと思う。
「私が貴女なら、てゐがどこに行ったかの心配よりも、てゐが何か企んでいるんじゃないか、というほうを心配するわね。貴女の知るてゐは、そんなに簡単に死んだりするたまかしら」
お師匠様が振り向いて、柔らかな笑みを浮かべていう。私の考えていることを見越して言ってくれているらしい。「死ぬ」という不吉な言葉も、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「それにね……最近、私のところから薬が何種類か盗まれているわ」
「え……もしかして、てゐが?」
「恐らくね。いずれにしても数瓶程度。なくなってたのが僅かなものだから、気付くのが遅れたけれど。それを使って何をしようとたくらんでいるのか、できれば探り出してきなさい。はい、これ」
お師匠様は包みを差し出した。ご飯と具のいい匂いがする。
「薬のことが絡んでいる以上、今回は私も動きましょう。あと、出る前にてゐの部屋を調べてみれば、何か手掛かりがつかめるかもしれないわね」
「えぇー……トラップがあるかもしれないから、怖いんですけど……」
「じゃ、頼んだわよ」
晴れやかな笑顔で、お師匠様は私の背中をぽんと押した。ちょっぴり死刑宣告をされたような気分になりつつ、暗澹たる心持ちでとぼとぼ歩きだした。向かう先は、永遠亭内でも屈指の魔窟だ。心してかからなければならない。
※ ※ ※ ※ ※
「れいむー、だれー? お客さん?」
薄暗い座敷の中央には10人は囲めそうな大テーブルがあって、いまそこに淡い髪の幼い少女が気だるげに頬杖をついていた。少女は私を見ると、たちまち嗜虐の紅い光を瞳に浮かばせ、白い八重歯を悪戯っぽくちらつかせた。
「おや、永遠亭のちょっと頭のおかしい兎さんじゃあないか。どうしたの? また薬をばらまきにでも来たのか?」
「薬って……どういうこと?」
二か月に一度、私は紅魔館に薬売りに出向いている。そこで確かにお金と薬のやり取りはされるのだけれど、薬を無造作にばらまいたりなどはもちろんしない。そんなことしたらお師匠様の楽しいお仕置きが待っている。
「ほら、こないだ来た嘘つき兎。あれ、あんたの差し金でしょ?」
「……詳しくきかせて」
思わぬところでてゐの尻尾をつかめたかもしれない。腰をおろして、レミリアの話を聴く体勢に入る。
「なに? あんたが命令したんじゃないの? あいつに」
「いえ……てゐは二週間くらい前から失踪中よ」
「へぇ? そう。うちに来たのは一週間くらい前だけど」
すると、てゐはもう山にはいない? だとしたら、これから山に行く必要性は薄れる。
「それで?」
「いや、夜にさ、あいつがいきなり私の部屋を訪ねてきたんだ。咲夜に紅茶を淹れてもらってるときだったかな。訪ねてきたっていうか、いつの間にか私の目の前の席に座ってたっていうか。あの注意深い咲夜ですら気付かなかったもんだから、ちょっと警戒したんだけどね。それで、何の用だって聞いてみると、いつも通り、薬を売りにきたんだってさ」
「私は命令してないわ。お師匠様も、てゐには薬を持たせないようにしてるし」
「ふぅん。で、まぁ暇だったし、どんな薬があるのって適当に相手することにしたんだ」
話をまとめるとこうだ。
レミリアは、てゐから胡蝶夢丸のナイトメアタイプと、妖怪用の精神安定剤を買った。前者はレミリア用ので、最近刺激がなくて退屈だから、たまにはということで購入を決めたものらしい。後者は妹のフランドールに飲ませるためのもので、春が近付いたせいか、外に出られない鬱屈を爆発させて、暴れることがあるからだという。それらをいつもより安い値段で取引すると、てゐはふらふらと出口へ向かった。
「ふらふら?」
「ああ、なんだか話してるときもそわそわしてて、心ここにあらずって感じだったな。心配事でもあったのかねぇ」
レミリアは次の日の朝、早速ナイトメアタイプを服用して、どんな悪夢が見られるのかとわくわくしながら眠りについた。寝る前に咲夜に、妹に精神安定剤を呑ませるよう命令したという。
本題はそれからだ。フランドールは姉に構ってもらえなくてふてくされ、なかばやけくそで薬を飲んだ。すると、精神は安定することはなく、逆に恐ろしい悪夢を見た。500年近くに及ぶ箱入り生活の中で、フランドールはとんと恐怖というものに直面したことがなかった。心を揺るがす未知の体験に怯えきって目を覚ました彼女は、何も考えることができずに姉のもとへと向かった。
叩き起こされたレミリアは、普段なら眠りを邪魔されたことに腹を立て、妹を邪険に扱っただろう。しかしこのときなぜか、レミリアの精神はとても安定していた。ここ数年味わったことがないくらいの良い気分だった。彼女は怯えて啜り泣く妹の背中を優しくさすり、久方ぶりにベッドの中で仲良くお話をしながら、抱き合ったまま眠りに落ちたのだという。
「つまり……胡蝶夢丸と精神安定剤の瓶の中身が、入れ替わってたってこと?」
「そ。結果的にはまあ良い方向に転がったからよかったけどさぁ、あんたのところでは瓶の中身を入れ替えて売ったりするわけ?」
「いや、そういうのにはお師匠様も私も注意をはらってるから……たぶん、てゐの仕業ね」
まったく、危ないことをする。もしこれでレミリアの不興を買ったりしたら、永遠亭の不利益にもなる。紅魔館はこちらのお得意様なのだから。
「はい、お待たせ。お昼にしましょう」
霊夢がお盆を持って部屋に入ってきた。皿の上には幾等分かに切られた二本の恵方巻きと、芳しく湯気を立てている薄緑色の日本茶があった。お茶は、いつもここでだされる出涸らしなどではない。ちゃんと淹れたてのほくほくで、しかも香りからして里の高級品だとわかるものだった。
「れ、霊夢……まさか貴女……生活に困窮して、ついに窃盗まで!」
「失礼な。ちゃんと自分で買ったわよ」
巫女は眉をひそめたものの、真夏の太陽のような上機嫌はそれくらいでくもることはないらしい。彼女は鼻歌混じりに恵方巻きに手を伸ばした。
「これ、なに?」
レミリアが興味津津で手を伸ばし、ぺろりとたいらげる。むぐむぐしたあと、へぇ、なかなか美味しいじゃないといって、さらに一つとってパクつきはじめた。私も一つ食べてみる。様々な具とご飯、そして海苔の味が混ざり合っていて大変美味しい。ボリュームもあって空きっ腹にも嬉しい。食べ終えると、自然と次のに手が伸びた。
「はぁ……美味しいわねぇ。特にこのかんぴょう! いい感じに甘くて、見た目も可愛くて、言うことなしだわ」
霊夢は具の間からぴょこんと突き出たかんぴょうを、舌でぴろぴろ愛撫している。なんとなくはしたないからやめてほしい。
「ねぇ、霊夢。さっき言ってたことだけど、私と、表の人の集まり具合と、何か関係があるの?」
「んー? だって、てゐがお賽銭箱置きに来たじゃない。あれ、あんたも関わってるんじゃないの?」
またてゐだ。本当に色んなことに首を突っ込んでいるみたいだ。
「ん、でも霊夢、前にあの兎がお賽銭詐欺やってたこと、怒ってなかったっけ。うちも咲夜がいれてたみたいだけど」と、レミリア。
「いや、そりゃあ怒ったわよ。だから、この前あいつがお賽銭箱のぞきこんでたときにはね、けちょんけちょんにしてやろうと思ったわ」
「……で、どうしたの?」私はおそるおそる尋ねる。
「そしたら、取引を持ちかけてきたのよ。といっても、私からは何も出す必要はなかったけど」
「取引? どんな?」
「お賽銭のこと許すかわりに、『幸運のお賽銭箱』を置かせてくれってさ。なんでもそれ、あいつが賽銭詐欺のときに使った箱らしいわ」
「ああ、あのちっちゃいやつね。で、それまさか置いたの?」
「えぇ」
「どうして?」
「だって……これを置けばお賽銭ががっぽがっぽ入るっていうのよ? そ、そんなの、たとえ嘘でも置かざるをえないじゃないっ」
霊夢は捨てられた子猫のように震え、うるうると涙目になっているけれど、瞳の中にはしっかり「金」と書きこまれている。まぁ、同情しなくもない。食うに困ったり着る服がないほど困窮している様は見たことないが、それでもお賽銭が入らないとちょっと美味しいものを食べるといった贅沢さえままならないのだろう。
「で、それ置いたら参拝客が増えて、お賽銭が入った、と。だから境内があんなに賑わってたのね」
なんだかもう先は見えている。てゐが関わると、物事はとことん引っかかった者の都合のいいように動くらしい。
「え、ええ……いやもうホント、てゐさまさまだわ。お礼言いたいくらいなんだけど、今日一緒じゃないの?」
「あ……その、てゐね、二週間くらい前から永遠亭に帰ってないんだ」
「ふぅん? でもここに来たの、えーと……五日前よ」
「そう……紅魔館に行ったのが一週間くらい前だっけ。やっぱり、もう妖怪の山にはいないわね……」
どうしよう。守矢神社の住人に話を訊きたいけれど、もう山を下りているのならば遠回りになる。単純にてゐを追うのならば、ここらへんでもう少し話を聞いてまわったほうがいいかもしれない。
「ん、山……? そういえば」
霊夢が何かを思い出すように斜め上を見上げ、ぽんと手を打った。
「あいつ、去り際にね、これから妖怪の山に行くとか言ってたわよ」
「あ、それうちも。訊いてもないのに、帰る前に自分から言ってたな」
レミリアもそれに続く。なんだろう、てゐがわざわざ私のために手がかりを残してくれているような感じだ。
確かに山へ行けば、神社の連中と組んでてゐが何をしようとしているのかを暴けるかもしれない(それがお師匠様に言付かったことでもある)。それに加えて、てゐが去り際に残した言葉が嘘でなければ、てゐを見つけられる可能性もあるわけだ。するとやはり、妖怪の山へ行くのがいいだろう。
「そういうわけで、私、妖怪の山に行きたいんだけど……あそこって、天狗が住み着いてるんでしょ? 慧音先生に聞いたんだけど、外部から侵入しようとしても、まず間違いなく止められてしまうって……どうすればいいか、ちょっと知恵を貸してほしいの」
「……そうねぇ」
霊夢は難しい顔をしながらも、一応考えてはくれているようだ。てゐのお賽銭の件が功を奏しているのだろうか。
「ついてってあげてもいいけど、今は境内に人が沢山いるからなぁ……さすがにほっぽりだしていくわけにはいかないし」
「そうだよね……」
「ふん、臆病だな。強行突破すればいいじゃないか。たかだか天狗だろう?」
レミリアが物騒なことを言う。それが出来れば苦労はしないし、私だって永遠亭の一員だ。そんな大がかりな組織を相手にへたをうてば、お師匠様や姫様まで巻き込むことになる。それは避けたい。
「うーん、もっと頻繁に妖怪の山に出入りしてて、なおかつ暇そうな奴がいればいいんだけど――」
「なんだなんだ、妙な面子が集まってるな。悪だくみかえ? よし私も混ぜろ」
いつの間にか入り込んでいたらしく、白黒の魔法使いこと霧雨魔理沙が、悪戯っぽい笑みを浮かべながらこの部屋に踏みこんできた。
「…………」
「…………」
「どうした?」
「いや、あんたにしては珍しく空気読んだ登場の仕方するな、と思って」
「なんだよ霊夢、この世には読む価値のある空気なんてそうザラにあるもんじゃないぜ?」
「まぁ、そうね。ところで魔理沙、あんた暇じゃない?」
「お、さっそく悪事へのお誘いか? あいにくだな、報酬と内容次第によっては引き受けてやってもいいが、今は行かなくちゃいけないところがあるんだ。ここへ寄ったのはまぁついでだな。霊夢、表のアレ、ひょっとしててゐの仕業じゃないだろうな」
私と霊夢とレミリアは顔を見合わせた。そんなことを訊くってことは、まさか、魔理沙のところにもてゐが現れた?
「……そうよ。幸運のお賽銭箱置かせてくれって言うから、置かせたら、ああなったの」
「へぇ、やっぱりな」
「何がやっぱりなの?」私は尋ねる。
「お前は知らないのか? あいつ、いろんな人妖のところをまわって薬ばらまいたりお賽銭集めたりしてるだろう。アリスのところにも来たっていうし、そこらの妖精や妖怪たちの間でも、てゐのおかげでいいことが起きたって評判になってる」
「魔理沙のところには来たの?」
「ああ、お賽銭の集金にな。前もなんとなく得になった気がしたから、今回も冗談半分でちょっとだけいれてみたんだ。そしたら珍しいキノコは発見できるし、研究は上手くいくし、いいことずくめだったぜ」
『幻想郷全体を幸福の絶頂に祭りあげる計画』……私の知らないところで、てゐはどんどんそれを実行して、成果を上げているようだ。なんだか嘘みたいで信じられない話だけれど。
「で、あんたはもっと幸運をわけてもらうために、てゐを探してるってわけ? ガメついわねぇ」と、霊夢。
「お前には言われたくないな。ま、そういうことだ。あいつ、これから妖怪の山に行くって言いふらしてたみたいだぜ」
そう言って、魔理沙は卓上にあったお茶を勝手にとってごくごくと飲みほした。
「あ、それ私の……」
「ま、確認ができればそれでよかったんだ。というわけで、私はこれから妖怪の山へ行く。さらば」
「ちょっと待ちなさい、魔理沙」
あわただしく出ていこうとした魔理沙を、霊夢が鋭い声で止める。
「ん? なんだ?」
「あんた、鈴仙も一緒に連れてってあげなさい」
「ああ? どうして私が。なんか得でもあるのか?」
「それは、ねぇ?」
霊夢は振り返り、短く私にウィンクをした。なるほど、そういうことか。
「私の能力を使えば、遠くからでもてゐの波長を追えるわよ。あんまり遠くにいすぎると駄目だけど、近付けば絶対にわかるわ。貴女に案内してもらえれば、もっと見つけやすくなると思うんだけど」
「……ふむ」
魔理沙が値踏みするような目で私をじろじろ見る。
「それに、てゐの行動パターンなら大体読めるわ。今どこらへんにいるのかの見当もついてるし」
「……いいぜ。ただし邪魔だけはしないでくれ」
「ふふふ、私もついていくわよ。なんだか面白そうな運命が見えるもの」
それまで黙っていたレミリアが、紅い瞳を悪戯っぽく輝かせて立ち上がる。
「待て、お前がついてくると話がややこしくなる」
「あんたらだけ幸福になろうったって、そうはいかないわ。さあ、とっとと出発しましょう――」
「それはなりませんわ、お嬢様」
また予期せぬ突然の来客だ。片手を振りあげてはりきるレミリアの横に、いつの間にか瀟洒なメイドが控えている。
「……咲夜? なによ」
「お嬢様には、是非とも今すぐ館に戻っていただきませんと」
「どうしてよ。まだ約束まで時間があるじゃない」
「ええ、本来ならば。ですが、紅魔館のほうで非常事態が発生しました。フランドール様が暴れています。このままでは、お嬢様のおうちは帰るころには無人の廃墟と化しているでしょうね」
「はあ!? なんでよ。あいつ、最近大人しいじゃない。昨日だって一緒に寝てあげたのに――」
「だからこそ、なのです。フランドール様は、最近お嬢様と遊びたくて仕方ないのですわ。どうか傍にいてあげてください」
住み家を失いかねない事態だというのに、咲夜の声はなんだか嬉しそうだ。
「……ふん。しょうがないなあいつは。私がいなきゃなにもできないのか」
レミリアは傲慢そうにふんぞり返ったものの、満更ではなさそうだ。てゐの一件で妹との絆を深められたのは、彼女にとって至極幸福なことなのかもしれない。
「じゃあ、魔理沙。分け前があったら絶対よこしなさいよ」
「ああ、絶対お断りだぜ」
そうして、レミリアは従者を伴って部屋を出て行った。やっぱりなんだか、てゐに意図的に導かれている気がする。
三. 逃れえるもの
そろそろ春が近いからか、深い緑はどこか活気づいて見えた。妖怪の山は、遠くからならいつでも見ているけれど、こんなに近くでじっと眺めることはあまりなかった。傾斜は初めのうちは緩やかなものの、ある地点から急激に角度がキツくなり、ほぼ直角に近い鋭さを見せながら青い空に突き刺さっている。
「こんな険しい山、空でも飛べない限り暮らすのは無理ね……」
「ああ、だから飛べる奴ばかりが住んでいるってわけだ。河童は別だけどな」
魔理沙は帽子をおさえながら、乗っていた箒から身軽に地面へ飛びおりた。
「さて、ここからは徒歩だ」
「えぇ? どうして?」
「飛びながら猛スピードで突っ込んでみろ、すぐさま哨戒天狗たちに捕捉されて追われるハメになるぜ。私一人なら迷わずそうするが、目立ちたくないんだろ?」
「うん……そうね」
「なんだ、引きこもって研究ばかりしてたら、せっかくの兎の脚力も衰えたとか?」
「むぅ……そんなことないもん。ほら、とっとと登るわよ」
「へいへい」
緑に分け入り、しばらくの間無言で歩く。最初は気が重かったものの、気持のいい空気に包まれて適度な斜面を登っていると、だんだんと楽しくなってきた。少し休憩して、清流の傍の手ごろな岩の上に座り、二人で水筒の水を分け合って飲んでいると、野兎たちがのそのそと集まってきた。彼らにかまってやりながら、私は歩きながら考えていたことを口にする。
「てゐがどうやって山の上まで入り込んだのか、考えていたんだけど」
「ああ、どうでもいいな」
「もしかしたら、こういう普通の兎に紛れ込んでいたのかもしれないわね。それなら哨戒天狗にもバレずに進めそうだし」
「ぴょんぴょん飛びはねてか? いくら亀より速いったって、あの頂上まで行くには骨が折れそうだなぁ。人間の姿で行ったほうが数段てっとりばやい」
「うーん、でもそうだとすると、いったいどうやって」
そこでふっと閃いた。確かに魔理沙の言う通り、人の姿で行くのが一番速い。だけど、そのまま侵入したのでは、天狗にすぐさま見つかってしまうだろう。ただ一つだけ、ノーマークで通れそうなルートがある。
「そうだ……人間たちに混じっていけばいいんだわ」
「だけど、妖怪の山にそんな大勢の人間が出入りするなんてことは……いや、あるか」
「週に一度だけ、人里から守矢神社まで、巫女に誘導してもらう『参拝ルート』がある……それならもしかして、天狗たちも大して注意を払ってないんじゃないかしら」
てゐにとって、兎の耳を隠すことなど造作もないことだろう。それさえ見つからないようにしてしまえば、誰か顔を知っているものがいない限り、妖怪兎だと露見することはない。いやそもそも、守矢神社が妖怪からの信仰を受け付けているなら、正体を偽る必要すらない。
「まぁ、そんなことわかってもしょうがないけどな。ほら、休憩は終わりだ。さっさと登ろうぜ」
野兎たちに別れを告げて、だんだん流れが急になってきた川に沿って登っていく。今のところ、てゐの波長は見つからない。
何かおかしいな、と歩きながら魔理沙はぼやくように言った。
「何が?」
「いや、いつもなら神様やら河童やらでここらへんは結構賑やかなんだが……妙な緊張感があるような気がする」
そう言えば、先ほどの兎たちもどこか心の波長が乱れていた。首筋がぴりぴりして、何者かに見張られているような気分になる。まさか、哨戒天狗たちの視線? 考えすぎか。
「うーん、このままだと、あいつと会えそうにないかな」
「え、誰か探してるの?」
「知り合いの河童。そいつ、哨戒天狗の一人と仲がいいから、もしかしたら口をきいてくれるかもと思ってたんだが……お、いたいた」
魔理沙の視線の先には大きな岩があり、その上に、水色のレインコートを着た、緑色の帽子にツインテールの少女が座り込んでいた。両手で両膝をかかえ、浮かない顔で急流を眺めている。心は千々に乱れてとらえどころがない。何か、心配事でもあるのだろうか。
「よう、にとり。元気か?」
「ひゅい!? あ……魔理沙。と」
私を見た彼女の目は、驚きに大きく広がる。視線は明らかに、私の耳に向けられている。もしかしたら、てゐのことに心当たりがあるのかもしれない。
「あー、こいつは私の知り合いの月兎だ。名前は、えーとたしか冷やしうどん」
「初めまして、鈴仙・優曇華院・イナバです」
でたらめを言われる前に、ちゃちゃっと自分で挨拶をする。話がきけるかもしれない以上、変なイメージを持たれるわけにはいかない。
「妖怪の山に何の用。さっさと帰ったほうがいいよ」
無理に装ったような冷たい口調で、にとりは言う。
「おいおい、つれないなにとり。なんかあったのか?」
「……いや、別に」
こんな嘘なら、私にだって見抜ける。憂いに心を奪われて、気もそぞろという感じだ。
「まぁいいや。ちょっと頼みがある。椛にお願いして、こいつを神社まで安全に通らせてやってほしいんだ。お前、あいつと仲良かったよな」
「あ……」
にとりは、触れられたくないところに触れられた、という顔をした。らちが明かないので、私はずばずばと切り抜けることにした。口調はお師匠様の真似をして。
「何か事情があるというのなら、私も無理を言うつもりはありません。それはそれとして、貴女、もしかして最近眠れてないんじゃないですか?」
「え、ど、どうして」
「言い忘れてたけど、こいつ医者なんだ。まだまだ見習いのひよっこらしいけどな」
耳に神経を集中して、にとりの波長を読み取り、そこに表れる異常の兆候をかぎわける。
「きっと心に負担が掛かる出来事があって、それが原因でなかなか寝付けない。この状態が続くのは、いくら妖怪でも芳しくありません。そこで、この薬を三錠、眠る前に服用してください」
私は手提げの救急カバンから、黒い丸薬の入った小瓶を取り出す。
「胡蝶夢丸という薬です。これを飲めば寝付きが良くなり、なおかつ楽しい夢が見られます。今よりも精神の状態は確実に良くなるでしょう。ああ、代金はいりません。これは試供品用ですから。もし治らないようであれば、迷いの竹林にある永遠亭までぜひお越しください。通信販売も受け付けております」
……キマった。
ここにお師匠様がいないのが残念だ。私もちゃんと営業が出来るのを見せてあげられたのに。
にとりは胡蝶夢丸をおそるおそる受け取り、判断を仰ぐように魔理沙を見た。
「ああ、それなら大丈夫だ。私も飲んだことがある。確かにいい気分で寝ることができるが、どんな夢かは次の日ころっと忘れちゃうけどな」
「……そう。ありがと」
もごもごと言って、にとりは瓶をポケットにしまう。河童というのは、なかなか素直で付き合いのいい種族なのかもしれない。
「頼んでみるのはいいけど、でもいま山に登るのはおすすめしないよ。ぴりぴりしてるから……」
「ああ、それは私も感じてた。でもなんでだ? 何か事件でもあったのか?」
「それは……私からはいえないよ」
にとりは立ち上がり、ぴょいと岩から飛び降りた。
「哨戒天狗の詰め所まで案内するよ。ついてきて。今ならちょうど椛が番をしてる」
さっきから、滝のごうごうと流れ落ちる音は聞こえていた。詰め所はその上にあるらしい。
白い飛沫が激しく飛び散る滝つぼを尻目に、水の裏側の通路を抜けて、人工的に設えられた石の階段を上っていく。角度が急で湿っているけれど、手すりが横に付いているので平気だった。
「ねぇ、にとりさん。もしかして貴女、山でこんな妖怪兎見かけなかった?」
滝の音にかき消されないように、大きな声を出して尋ねてみる。にとりは写真をちらりと見て、不自然な速さで短く「いや」と答えた。間違いない。彼女はこの山でてゐを見ている。だけど、これ以上は答えてくれそうもなかった。
つづら折りの階段を登りきっても、まだ上があった。ここからはつり橋をいったん渡り、反対側の岸にある階段に移らなければならないらしい。
「うひぃ、なかなか疲れるな。ちょっと休憩しようぜ」
魔理沙もさすがに息があがっているらしく、ふらふらと近くの岩に腰を下ろした。私とにとりも同意して、また水筒から水をごくりと飲む。
ここからの見晴らしはとてもいい。広大な緑の森と澄み渡った青空を、太陽の光が屈託なく垂直に貫いている。思わず伸びをしたくなるような光景だった。こんないいところに住んでいるなんて、天狗はなかなかずるい種族だ。
「たまには歩いてみるのもいいもんだな」
魔理沙がらしくもなく、風に感じ入ったように目を細めている。金色の髪は緩やかにウェーブをなし、黙っていればお人形さんみたいで可愛いのに、と思わせる。
「そうねぇ」
「さてさて、上で何が待ってるやら。山は様子がおかしいし、親切な河童さんはだんまりだし。楽しみでしかたないぜ」
露骨なあてこすりだ。にとりは少し眉をしかめたけれど、意志は崩れないのか、口は頑として開かなかった。
その時だ。私の耳が振幅の激しい波長をキャッチした。もう何年も一緒にいるのだから、間違えるはずがない。
「……見つけた。てゐだ」
「本当か? どこだ?」
私のアンテナの有効範囲はだいたい竹林の広さほどで、それ以上は月の兎が飛ばす特殊な電波でもない限り、追うことはできない。だからもっと早くにてゐの居場所に気付いてもよさそうなものだった。
なぜなら、てゐはびっくりするくらい近くにいたからだ。
「あそこの、茂みの向こう」
暗い陰の中にある深緑色の茂み。そこが今、何者かが蠢いているかのようにがさりがさりと音を立てている。
「てゐ、そこにいるの?」
返事はない。
何だか腹が立ってきた。こんな妖怪の山くんだりまでわざとらしく導いておいて、いったい何で隠れるというんだ。もう振り回されるのにはうんざりだ。
「おい、早く出てこないと、一発デカいのぶちかます――」
「そんな必要ない!」
突っ走って、茂みの中に片手を突っ込んだ。がさがさした葉の感触を越えて、何か柔らかなものをつかむ。
「つかまえた! さぁ大人しく観念――」
しかし、私の手のうちにあったのは、同じ四足動物でも兎とは似ても似つかないものだった。
「……猫?」
「にゃーん」
朗らかな表情で、その黒い猫は鳴いた。つやつやと毛並がよく、光沢があって身なりも上品だ。おまけに、猫叉だ。二本の尻尾が、親しげに私の手の甲をぽすぽす叩いた。
まさか、そんなはずはない。てゐは間違いなくここにいた。もう一度波長を探ってみるけれど、てゐ特有の振幅の激しいものは見つからない。忽然と私のサーチ範囲の中に現れて、そしてまた忽然と消えた。いったいどうなってるんだろう。
「ん? そいつ……もしかして」
魔理沙が近づいて黒猫を覗き込んだ、その時。
「椛ッ!」
にとりの切迫した叫びが聞こえて振り返ると、私の横にあった岩を巨大な剣がこなごなに粉砕した。
「……え」
ギラリ、と地面に突き刺さった刀身が光る。そのよく磨かれた表面に、私の驚いた顔が映り込んでいるのが見えた。
白髪の哨戒天狗はすぐさま剣を構え直し、私に向かって刃を振るった。
「わわっ」
紙一重の差でかわす。前髪を剣の切っ先がなぜる。その拍子に黒猫を取り落としてしまう。少しよろめいたところへ、天狗に腹を蹴り飛ばされた。
「う……っ」
後ろにふっ飛ばされ、樹木に思い切り叩きつけられた。一瞬呼吸が止まって、目の中で火花が散る。でも気を失っている時間はない。すぐ次の攻撃が来る――
身をかがめると、ひゅっと頭の上を風圧が通り過ぎて、その次にめりめりという重々しい音が聞こえた。
目の前に哨戒天狗の鋭いまなざしがある。激しい音を立てて、木が他の植物をみんな道連れにしながら向こう側へと倒れた。
「……ひっ」
喉の奥で息を呑む。こんなのに斬られたんじゃひとたまりもない。私は咄嗟に天狗の目を覗きこんだ。
「……ぐ……っ」
天狗は苦しそうに顔を歪め、目をつむってよろめいた。その隙になんとか彼女の恐ろしい刃の届く範囲から逃げ出した。何が起きているのかはまったくわからないけれど、警告も何もなしに攻撃してきた以上、聴く耳は持たなそうだ。
「ちょっと、魔理沙、手伝いなさ――」
しかし、白黒の魔法使いは人差し指を立てて帽子のつばを支え、舌を出して茶目っけたっぷりに笑った。箒にまたがって離陸寸前といった感じだけれど――
「あ、逃げる気!?」
「悪いな鈴仙、この箒は一人乗りだ」
「こらぁ、人でなしぃぃぃぃい!」
私の叫びも虚しく、魔理沙は爽やかな笑みを残して山の上の方へと飛び去っていった。
「あいつぅ、最初からおとりにするつもりだったな……!」
思えば案外あっさりと頼みをきいてくれたことを疑うべきだった。でももう遅い。
だけど、この状況なら私でも切り抜けられるだろう。天狗の椛は私の瞳に囚われて、視力がまともに働かなくなっている状態なのだから。
振り向くとすぐそこに剣が迫っていた。
「な、なんで!?」
切っ先は寸分あやまたず私を狙っていた。なんとか回避できたけれど、椛は目をつむったままで攻撃を繰り出している。どうしてそんなことができるのかがわからない限り、幾ら能力を使って視力を封じても無駄だろう。あの斬撃をいつまでも避け続けていられる自信はない。
「椛、お願い話をきいて!」
にとりが泣きそうな声で叫ぶけれど、振り向いた椛の顔を見て、ショックを受けたように口をつぐんでしまった。駄目だ、にとりにも頼れない。自分で何とかするしかない。
再び椛が目を閉じたまま構えの姿勢に入り、驟雨の勢いでこっちに向かってくる。なんとか避けなくては、一刀両断にされてしまう――
不意に脚を柔らかな感触が撫でた。あの黒い猫だ。この状況を理解していないのか、人懐っこい笑顔を見せてすりすりと頬をなすりつけてくる。
「ちょっとあんた、危な――」
目の前の地面に、ふっと影が落ちた。
もう椛の大剣は目の前に迫っている。
だめだ、かわせない。
激痛を覚悟して、私は目を閉じた。
ガァン!
鉄と鉄がぶるかるような固い音が響く。だけど、痛みはまったくない。あまりの速さで斬られたから、まだ神経が痛みを感じるに至ってないのかも、と悠長に馬鹿なことを考える。
目を開くと、柔らかな光が溢れていた。
椛の目は驚きに見開かれている。彼女の剣は間違いなく私をとらえていた。だけど、すんでのところで止められていた。
「あ……?」
ぽわりと光を放つ、にんじん型のペンダントによって。
ぎり、と椛は唇を噛んで離れた。そしてもう一度構え、斬撃を繰り出してくる。
その時、一陣の風が吹いた。それは次第に寄り集まって強風と化し、目を開けていられないくらいに激しく吹き荒び始める。
一瞬のうちに、私は竜巻のような風の壁に囲まれていた。足が地面を離れ、撹乱され翻弄されながら、まともに呼吸もできないままに、どこかへと運ばれていく。その途中で、私は気を失ってしまった。見えるのは闇だけになった。
四. 猫の恋
猫が恋をしたのです、と彼女は言った。
とりとめもなく続く世間話の最中、瞳に憂いを湛えながら、ぽつりとそんなことをもらした稗田阿求は、じっと見つめる永琳の視線に気づくと、少し顔を赤らめて、いえ、大したことではないのですが、と付け加えた。
「猫が恋を……ですか。別段、珍しくないことのように思えるけれど」
「ええ、ええ、その通りです」
「ならば、何が貴女にとってそんなに気がかりなのかしら」
阿求は少し口ごもると、膝の上で気持ちよさそうに眠りこんでいる二又の黒猫の背を、つるりと撫でた。
「この猫ではなく、また別の……ちょうどあそこにいる猫のことなのですが」
彼女が指差す方向には縁側があり、そこでは一匹の白い猫がこちらに背を向けたまま、春の空をぼんやりと眺めている。
「名をハクといいます。もうこの家に居ついてから長いのですが、彼が、その、恋に落ちてしまったみたいで」
恋、という言葉を発するのに、阿求は全然馴れていないようだ。理知的で外見にそぐわぬ立居振舞をする彼女が、この時ばかりは何故だか年相応の娘のように思えた。
永琳は微笑を浮かべると、お茶を一口呑み、話の続きを促した。
「永琳さんのおっしゃった通り、猫が恋をするというのは、全然珍しいことではありません。もちろん、あのハクの場合も……ただ、彼が好きになった、その相手がちょっと問題でして」
「なるほど……妖にでも惚れましたか」
「ええ、彼は、想い猫の遺体を運びに来た、地獄の火車に恋慕しているのです。いわゆる一目惚れというやつですが」
なかなか事情が複雑のようだ。当の猫は飼い主の心配に気付くこともなく、ただひたすらに空をじっと眺めている。ずっとあの状態で、ご飯もあまり食べてくれなくて、と阿求が思い詰めた口調で言う。
「それで、火車に恋をしたというのは、どのような経緯で?」
「えぇ……先ごろ、私の飼い猫が一匹、病で亡くなりました。ハクと同じように、白くて、毛並の美しい雌の猫でした。ハクは彼女に恋をして、彼女のほうも、満更ではないような反応を示していたのですが……亡くなったあとで、遺体をあちらの部屋に一日、安置しておきました。想いを伝えることのできなかったハクが、どうにも哀れで仕方なくて……埋葬する前に、せめてもう一晩だけでも、一緒にいさせてあげようと。女中たちにも、その夜は部屋に近寄らないようにと言いつけておいたのです。ところが、その間に……」
「火車が、亡くなった猫を攫いにきたと」
「えぇ……私も直接は見ていないのですが、黒くて妖しい、そして不気味なまでにてらてらと光った毛並の、一匹の猫が現れたようです。そして人の姿をとると……赤い髪の、黒い衣装を着た少女の姿だったようですが、彼女は遺体を抱きあげて、その部屋を去ろうとした。そこへ眠っていたハクが目を覚まし、彼女の姿に一目で魅入ってしまった、というわけです」
「よくわかりました。しかし、貴女はそれをどうやって知ったのかしら。まさか猫と会話したわけでもないでしょう」
「この娘に、きいたのです。亡くなった猫の親友で、最期の時も、それ以降も、ハクと一緒に部屋に残っていました。この子は、人の姿になれますから。もっとも、私以外の前で人化の術を見せたことはないようですが」
阿求の膝の上で、二本の尻尾をゆらゆらとくゆらせている雌の黒猫。気が強そうな瞳を永琳に向け、やがて興味を失ったのか、主人の心地よい抱擁の中で再び眠りに落ちていった。なかなか度胸の座った猫叉である。
「無粋な質問でした。それは、確かに心配ですね。罷り間違えば、あの猫まで地獄に連れていかれるかもしれない」
「はい。かといって、愛する猫を失った悲しみを、火車に恋することによってまぎらわせているのならば……あるいは、心の痛みをいまひとときでも忘れられているのであれば、それは彼のためであるのかもしれないけれど……」
再び物思いに耽りそうになった阿求は、はっと意識をこちら側に戻す。
「あ、余計な話をしてすみません……幻想郷縁起の件でいらしたのですよね」
「いえ、こちらこそ興味深いお話がきけてよかったわ」
永琳は膝の上で開いた幻想郷縁起をぱらりとめくる。
「この書物では、幻想郷に住む様々な種族が網羅されているようですが、先ほどの火車については、ここには未だ掲載されていないようね」
「えぇ……その書は、花々が異常に隆盛をほこった異変までに、存在が明らかになった人妖たちを対象としたものですから。それ以降に認知された人妖たち……大まかにいえば、守矢神社と山の神々、天人たち、地霊殿と地底の住人、そして命蓮寺の面々に関しては、目下情報を収集しているところです」
「随分と多いですね。件の火車は、それらのグループのどれかにあてはまるのかしら」
「はい。彼女は地霊殿の主、古明地さとりのペットで、名を火焔猫燐といいます。地霊殿の資料は、こちらに」
そう言って阿求が渡してくれた資料にざっと目を通す。古明地さとりとその妹。そしてペットの火焔猫燐と霊烏路空。なかなか面白い能力を持った者たちが集まっている。
「それにしても、どうしていきなり幻想郷縁起を気にされたのですか?」
「あぁ、用件をまだお話していなかったわね。因幡てゐの項を参照したかったのです」
「あ、それじゃ……永琳さんも、てゐさんの失踪の件で動いているのですね」
鈴仙が人里へ調査のためにきて、それを終えたのだろう。情報の伝達ルートはおそらく、上白沢慧音。
「それならば、ついさっき判明したそうですが、最近流行っている縁結びのお守りの中に、てゐさんの写真が入っているみたいです。撮られた場所は、妖怪の山の守矢神社だということでした」
「縁結び?」
「ええ。なんでも効果は絶大で、それで結ばれた夫婦もいるだとか」
「貴女は、それを持っているの?」
「あ、ええ、その……友達の、花屋の娘から、もらいまして」
再び阿求は顔を赤らめ、おずおずと懐から深い緑色のお守りを取り出した。それを受け取り、許可をもらったあとで、中にある写真を取り出す。さしあたっては、この写真が撮られた経緯や場所は問題ではないし、鈴仙が既に調べにいっているだろう。いま重要なのは――それが「縁結び」のお守りに入っていたこと、そしてその効果についてだ。
「しかしこの書は、てゐさんを探す手掛かりにはならないと思いますが……」
「えぇ、ただ確認したかったのです。彼女についての記載が、どのようになされているかを」
「なるほど。そういうことでしたらば、どうぞ。一冊進呈します」
「ありがとうございます」
淡々と答えながら、因幡てゐの項目を参照する。人間を幸運にする程度の能力。人語を解し、人間の姿を取ることができる……云々。
「どうでしょう、永琳さんの目から見て。その記述はあたっていますか?」
「……おおむねよく彼女の特徴をとらえているわ。それでも、彼女の出自に関しての詳細な言及はひかえているようだけれど」
「そうです。いちおう、神話にある『因幡の素兎』の話も取り上げようとは思ったのですが、確認が取れず信憑性も薄いため、削らざるをえなかった部分です。永琳さんは、てゐさんが本当にあの素兎だと思っているのですか?」
「さあ、それは私にもわかりません。あれは得体の知れない兎ですからね。ただ、もし本当だと仮定するならば、そのお守りのことについて、納得できる部分が出てきます」
「というのは?」
「大穴牟遲神が、八十神に騙されて泣いていた素兎に適切な助言を与えた件に関しては、もう話すまでもないでしょう。問題なのはそのあとです。傷の痛みがおさまった兎は大穴牟遲神に、ヤガミヒメは八十神ではなくあなたを選ぶでしょうと予言し、事実その通りになった。そのことから、素兎を縁結びの神様として信仰する向きもあるといいます」
「あ……じゃあ、このお守りの効力も、てゐさんの能力によるものだと」
「その可能性があります」
てゐは人に幸運をもたらす。愛する人と結びつく者は幸運である。つまり彼女は、『縁』をその手におさめているといっていい。
「凄い……するとてゐさんはいま、その能力を最大限に活用して、人々に幸福を与えまわっているのですね」
「えぇ、そういえるでしょう。ただ彼女の能力には、重大な欠陥があります」
「欠陥?」
「『人間を幸運にする程度の能力』……ということは、つまりてゐは自分自身を幸福にすることはできない。この書にもあるとおり、彼女を見つけた人間は幸運に恵まれるでしょう。だからといって、見つけられたてゐ自身が幸福であるとは限らない。幸運や幸福、そして縁は、てゐが完全に意識的に操れるというわけではない、ということです。それなのにどうして、彼女自身にとってはほとんど無益といえる慈善行為じみたことをしているのか、そのことが私には気にかかるのです」
「単なる趣味……とか?」
そう言って阿求は微笑む。今日ここに来るまで、永琳は阿求に対して真面目一辺倒というイメージしか抱いていなかった。だが、実際に会ってみると、猫の恋をひたすら憂うロマンチストな側面や、冗談を言うお茶目な一面がところどころに顔を覗かせて面白い。
「いずれにしても、興味深いお話ですね。てゐさんは、意識的に幸運を授けたり縁を結ばせたりするわけではない。ということは、ほとんど無意識に、人々を幸福にして回っているということですか」
「えぇ、そう言うには多少語弊があるかもしれないけれど……無意、識」
頭の隅に引っかかるものがあった。永琳は幻想郷縁起をいったん置き、先ほど受け取った地霊殿の資料に再び目を走らせる。すると、ある項目が燦然と光を放つように思えた。
古明地こいし。地霊殿の主、古明地さとりの妹。無意識を操る程度の能力――
「ひょっとして……」
「はい?」
「この地霊殿の連中のうちの誰かと、てゐが接触したという可能性はないかしら。永遠亭では、少なくともそういうことはないようだけれど」
「……ああ、それならば」
阿求は着物の袖で口を隠して記憶をたどる。
「慧音さんからの又聞きですけれど、てゐさんとその火車が、人里の中で一緒に歩いているのが目撃されています。そう、ちょっとした事件があって……甘味処の店員に、シズさんという女性がいるのですが、ある朝彼女の父親が急病で倒れました。午後には鈴仙さんが薬を届けることになっていたようですが、それを待つようではとても間に合わない。もう助からないと、皆が諦めかけていたところへ、てゐさんと火車が現れたようです。てゐさんが薬を処方して、結果的に父親は助かったのですが、そのあと二人は姿をくらませてしまったらしいです。遺体を運びにやってきた火車をてゐさんが止めた、というのが大方の見解です」
「てゐが薬を、ねぇ」
基本的に、永琳はてゐを信用していない。大事な薬の処方は、自分が行う以外はすべて鈴仙に任せている。だから、盗んだというのでもない限り、てゐが永琳の調合した薬を持っているはずがない。
「ところが奇妙なことに……これは駄菓子屋の主人の証言なのですが、てゐさんが処方したのは、その日駄菓子屋から購入した水飴だったそうです。中身を入れ替えたのでない限り、シズさんの父親が飲んだのも、うちで売った水飴のはずだと、主人は断言していました。どうやらてゐさんは、ただの水飴をその病気にきく特効薬だと偽って飲ませたらしいです」
なるほど、と永琳は思う。それは一種の偽薬効果だ。当然、普通ならそんな都合のいいことが起きるはずはない。しかし、水飴を薬だと偽って飲ませたのは、他ならぬ因幡てゐなのだ。騙された相手は、その嘘を信じることによって、幸運を授けられた。彼女の能力が奇跡を起こしたのだろう。
しかし、今はそれもどうでもいい。とにかく、てゐと火焔猫燐には何らかの繋がりがあり、その線は無意識を操る能力を持つ者へと伸びている。それがわかれば充分だ。
「情報をありがとう。とても参考になりました。今日はこれでお暇しますわ」
「いえ、こちらもてゐさんの項目に記載すべきことを、もう一度検討することができました。永琳さんも、てゐさんを探しに行かれるんですか?」
「いえ、あとは弟子がうまくやってくれるでしょう。私が動くのはここまでです……あぁ、そうそう。彼の件ですが」
永琳はハクに目を向ける。縁側の光景は、先ほどから何一つ変わっていない。
「もし本当に心配ならば、この薬を飲ませてあげてください」
「それは?」
「今日から約一週間前後の記憶を曖昧にする薬です。服用後しばらくは意識がぼんやりとしますが、すぐにそれまでと変わらない日常生活に戻ることになるでしょう。もちろん、強制はしません。必要がないと判断するならば、廃棄してください」
文机に置かれた瓶に、阿求は複雑な視線を向けた。すべてを忘れさせるのがいいのか、それともこのまま苦しみに耐えしのばせるのがいいのか、測りかねているのだろう。永琳の予想では、猫の意志を尊重して、阿求はこの薬を使わない。けれどもとにかく、これで情報を提供してくれたことへの義理は果たしたことになる。
永琳は辞する前に、ハクの背中をつるりと撫でた。彼はぴくりと耳を動かしただけで、あとにはぼんやりとした沈黙だけが残った。
五. 天狗の文
扉の向こうは魔窟だ。心してかからねば死あるのみ。躊躇のない猛進が私を救う。そう心の中で繰り返し、てゐの部屋の扉のノブに手をかけた。
静寂の一瞬。ガチャリと鳴ったその音が、宣戦布告の合図。
「ふっ」
息を短く吐き出して、兎の健脚を久々にフル駆動させ、猛スピードで部屋の中へ飛び込んだ。
白い液体をまき散らしながら落ちてきたタライをかわす。前方に待ち構えていたとりもち群を飛び越える。すかさず襲いかかる固いおはじきを小型ロケットで一つ残らず撃ち落とし、空中にひるがえった勢いのまま、部屋中に仕掛けられた糸をことごとく切断する。暴れ出した有象無象の波長を耳で感知し、全方位からの攻撃に敏感となった私は、すべての罠を手足をもって粉砕してみせた。
命と誇りをかけた戦いが終わり、ほっと床に着地した瞬間、脚の裏にえげつない痛みを感じて、思わず悲鳴を上げて転倒した。着地した床にはきらきら輝くビー玉が置かれていた。洒落にならないくらい痛い。泣けてくる。しかし、まぁ、それをのぞいてトラップはほぼすべて突破したのだし、損害は比較的軽微。今回はこれでよしとしよう。
「相変わらずごちゃごちゃしてるわね、この部屋は……」
部屋の隅の戸棚には、ところせましと古新聞やら割れた陶器やら壊れた妙な機械部品やらが陳列されている。変なものを収集して飾るのはてゐの趣味だ。白い壁の上で黒い字を踊らせている、『天為無法』と仰々しく記された掛け軸もその一つ。どういう意味かはわからないけど、「天衣無縫」の間違いだということは確定的に明らか。
古びた洋服箪笥を開けると、ピンク色のワンピースがズラリとえもんかけに吊るされて並んでいた。
「ピンクしか持ってないの、あの子は……」
溜息をつき呆れつつ、今度何か仕立ててやろうかと思う。手がかりになるものがありそうなのはここだけなので(他の場所は罠が怖くて開ける気にならない)、ぽんぽんと叩いて一着一着チェックしていく。
すると、隅にあるやつのポケットの中に、固い感触の何かが入っていた。
いつもてゐが身につけているにんじん型のペンダントと、一枚の書き置きだった。
「これ……忘れてったのかな」
ペンダントを調べても、おかしなところは見つからない。ごくごく普通のアクセサリだ。
書き置きにはこう書かれていた。
『あの丘に集う時まで、
これをあんたに貸しておく。
必ず身につけるように。
もしわたしが本当に必要だと思ったら、
大声で呼んで。
あと……』
そこで表の文面は途切れていたけれど、裏にはまだ続きがあった。
『勝手に部屋をのぞくな、えっち!』
グシャリ、と紙を握りつぶした。
なにが「えっち!」だ。絶対見つけ出して、悪だくみを全部白日の下にさらしてやる。
紙を胸ポケットにいれ、ペンダントも一緒にいれようと思ったけれど、そこであの文章が私にストップをかけた。
必ず身につけるように。
「……何か効果があるもんかしら」
見る限りは、なんの変哲もないペンダントだ。オレンジ色の艶やかな表面は僅かに光を反射して輝いている。兎にとって、ニンジンは単なる食料であるだけではなく、幸せの象徴のようなものでもある。確かに、これを身につけるのは縁起のいいことかもしれない。私はブレザーの襟に紐を通し、落ちないように固定した。これで何か、ご利益があればいいけれども。
※ ※ ※ ※ ※
そのペンダントは、いま目の前の地面に転がっていた。先ほど放っていた柔らかな光はもう跡かたもない。普通のにんじんのように見える。何が何だかわからないけれど、とにかくこのペンダントは、私を守ってくれた。やはりご利益はあったのだろうか。
「んん……っ」
体を起こすと、にゃーと可愛い鳴き声を上げて、黒い二又の猫がすりよってきた。今いる洞窟のような場所がどこなのかわからないけれど、こいつもついてきてしまったらしい。よしよし、と撫でてやると、猫は気持ち良さそうに目を細めた。随分人懐っこいから、誰かの飼い猫なのかもしれない。
「やぁ。ようやく起きましたね。妖怪にしては鍛え方が足りないんじゃないですか?」
きょろきょろと見まわしていると、不意に光の射すほうから声がした。
「あんたは……」
「いつも文々。新聞を贔屓にしていただいております。清く正しい射命丸です」
逆光から浮かび上がったのは、黒い翼を広げ不敵な笑みを湛えた烏天狗の姿。彼女は入口の一段高い岩の上に、悠然と脚を組みながらこっちを見下ろしている。
「……なんで私はここに?」
「おや、貴女だけじゃないですよ。その猫と、それからもう一人。貴女の横で伸びています」
見れば、隣でにとりがリュックを後生大事そうに抱えながら気絶している。
「たしか、凄い風に巻き込まれて……」
「ええ、あの風を起こしたのは私です」
「……何を考えているの」
「いえいえ、面倒なことになりそうだと思ったから、ちょっと誘拐してみただけです。貴女にとってもにとりにとっても、このほうがいいと判断しまして」
この天狗が何を考えているかは見当もつかないけれど、どうやら危害を加えようという気はなさそうだ。
「この山で何が起きているの。様子がおかしいみたいだけど……」
「厳戒態勢にある、といっても過言ではないですね。特に妖怪兎に関しては、発見次第即座に連行という大天狗様の命が下されています」
「じゃあやっぱり、てゐが山に来て、何かやらかした?」
「貴女はご存知じゃなかったんですか?」
そんなのこっちが知りたい。果たしてあいつは何をやらかしたんだろう。妖怪の山全体を覆う緊迫感から察するに、事がそれほど単純ではないのは明白だ。ともすれば、お師匠様たちにも累を及ぼしかねない。
「ふむ。ならば、あの事件を引き起こしたのは、永遠亭の総意ではないと」
「当たり前じゃない。だっててゐ、二週間前からうちに帰ってないのよ? その事件って、いったいなんなの」
「二週間前ね。なるほどなるほど」
文はしたり顔で頷いて、質問に答えようとしない。なんだか遊ばれてるみたいで腹が立ってくる。
「妖怪兎の捕獲命令が出てるってんなら、どうして私をここへ連れてきたのよ。このままその大天狗様とやらにつきだすつもりなの?」
「そうですねえ、貴女の返答いかんによってはそうするかもしれません。滅多な口はきかないほうが身のためですよ」
脅しか。口を封じられたというなら、じっと睨んでやればいい。
「その意気ですよ。そうでもないと面白くありません」
にやりと嫌な笑みを浮かべて、文は洞窟の入り口のほうを振り返る。
「……さて、ようやく来ましたか。貴女の術に嵌ったからといって、あの子も少し気が緩んでいるようね」
さっきの哨戒天狗が入口にすっと姿を現した。もう視力は戻っているらしく、しかつめらしい顔で洞窟の中を睥睨する。
「文様、貴女という方は……」
「遅かったですね。椛、あれしきの術に引っ掛かったあげく位置を割り出すのにこんなに時間を要するなんて、貴女の千里眼にはまだまだ改善の余地がありそうですね」
千里眼。さっき目を閉じながらでも攻撃できたのは、それがあったからか。千里を見通す眼というからには、すぐ近くで起きていることも心の眼でお見通しに違いない。
「腕も眼も鈍っているのは自覚しています。それに関しては貴女の言う通りですが……なぜこんなことを? 大天狗様の命に背いて兎をこんなところに隠すなんて、正気の沙汰とは思えません」
「椛、私は天狗族に背いたことなど一度もありませんし、これからも確実にそうでしょう。私の一時の行動が裏切りに見えるならば、それはより大きな全体の利益のためになされていることなのです」
もっとも、純粋に私的な関心のために動いているというのも否定はしませんがね、と文は悪戯っぽく付けたした。
実に胡散臭い。
「……ならばこのことが、どのように天狗社会に貢献するのか、教えていただきたいのですが」
「それはおいおいわかります。それよりも椛、貴女のお友達に何か言うことはないのですか? そのために彼女も一緒にここまで連れてきたのですよ。私たち以外の誰の眼も届かないところでね」
椛はぐっと言葉に詰まる。にとりはいつの間にか起きだしていて、潤んだ眼で友人を見上げている。
「……もみじ」
「…………」
気まずい沈黙が流れる。なんだか凄く居心地が悪い。このまま黙っていれば、状況が見えてくるのだろうか。
「……やれやれ。椛、友達思いなのはいいことですが、単なる風聞のために己を捻じ曲げることはないでしょう。河童と仲良くしてはいけないというのは、不文律であって掟ではないのですから」
「え……椛、それってどういう」
「事件が起こった夜、貴女と椛は詰め所で晩酌をしていたでしょう。兎の侵入を許したのは、椛が河童なんかと酒を呑んでいたからだ、というようなことが天狗たちの話題に上りました。もちろん、椛は非番だったのですから、真の責任はその時警護にあたっていた別の哨戒天狗にあります。それに河童と仲良くしてはいけないなどという掟もない。にもかかわらず、椛がそのような風評被害にあったのは――」
「文様! それ以上は」
「黙りなさい。にとり、天狗による河童への差別意識は貴女も身を以て知っているでしょう。椛は自分がそのような状況に置かれていることが貴女に知れれば、きっと傷つくに違いないと思った。これが、最近貴女が遠ざけられていた理由です」
「……やっぱり……」
にとりは苦しそうに顔を歪めた。椛は観念したというように目を伏せている。
「さて、あとはお二人でじっくりと話し合ってください。時間はたっぷりありますからね。私たちは外へ出ていましょうか」
文が目配せしてきた。どうやらやっと私の番らしい。黙り込む二人を残して、胡散臭い天狗に続いて洞窟の外へ出た。
「そろそろ訊いてもいいかしら」
「どうぞ。答えられることならお答えしましょう。真偽の保証はしませんが」
「この山で起きたっていう事件……それにてゐが関係しているっていうの?」
「さぁ、それはわかりません。ですが、確かにピンクのワンピースを着た妖怪兎は目撃されています」
どうやらてゐはまだ天狗に捕まっていないらしい。確証はないけれど、そんな口ぶりだ。
「で、その事件って、どんな?」
「二週間前の満月の夜、この近くにある湖の上で、一羽の妖怪兎が正体不明の怪物に襲われていました。正体不明というのは、見る者によってその姿が千差万別に変容したという意味です。はっきりいって、『怪物』という呼称も疑わしいところですが――妖怪兎はソレの一撃を受け湖に転落、その後今に至るまで行方不明となっています」
「…………そんな……」
茫然としているフリをする。てゐがその事件の後も山の外で色々やらかしていることは、知られない方がいい。
「へぇ、鈍いわけではないようですね」
「……何が」
「いえいえ。ところで、この件に関して天狗の間で何が問題となっているか、貴女にはわかりますか?」
「……天狗以外の種族に侵入を許したから、かしら。天狗社会は閉鎖的だってきいたし」
「その通り。妖怪兎は哨戒天狗の厳重な警備をくぐりぬけてこんな奥地まで入り込んだ。しかもまずいことに、さきに事件に気付いたのは河童で、天狗に対して救援を要請してきた。大天狗様はそれが自らの一族の失態であることを隠蔽するために緘口令をしき、責任は結局うやむやのまま立ち消えになった……だから、今求められているのは、天狗族以外への批難の矛先。つまり」
「……てゐを、なんとしてもとっつかまえたいってこと?」
「あるいは、貴女が身代りになってもいい。要するに、罰する対象があれば我々は満足するのですからね」
やたら脅迫的な発言だけど、そんなに心配する必要はないかもしれない。文の目はどこか笑っていたし、そもそも本気で私を身代りに差し出すというなら、こんなところに連れてきたりはしなかったはずだ。
「お断りだわ。てゐが捕まってるんならともかく、利用されるのなんて真っ平ごめんよ」
「おや、今更ですか? 先ほどはにとりにうまく利用されたというのに」
「……え、あの河童に? どういうこと?」
「やっぱり鈍いですねぇ。椛はにとりを遠ざけていたと言ったでしょう。それなのに今日、にとりが貴女を滝まで案内したのは、貴女の身柄を引き渡すのを口実に、椛と話をしようという魂胆があったからでしょう。にとりは椛が警護にあたっている時間を知っていますしね」
「……あ」
ああ見えてなかなかしたたかな河童さんだこと。しかも魔理沙にも利用されたみたいだし、なんだか泣けてくる。
「……というか貴女、私とにとりが話すところ、見てたの?」
「ええ。今頃山の頂上にいるであろう困った鼠のことも知ってますよ」
「最初から気付いてたのね」
「いつかは来るだろうと予想してましたからね。あの妖怪兎を探しに」
「じゃあ、気付いてて泳がせたってこと?」
「そうですよ」
「何のために?」
「愉しむために」
「…………」
どこまで本気なのかわからない。まるで遊んでいるみたいだ。
「……なんで、私にそんなことを話すの。そもそも、なんでこんなところに連れてきたのよ。てゐのこと、それ以外にも何か知ってるの」
「私が貴女をさらったのは、貴女に自分の置かれた状況を理解させるためです。まんざら知らない仲でもないですからね。何もわからないまま大天狗様の前に引っ立てられるのを見るのは、多少なれど胸が痛む」
こいつもしれっと嘘を言う。やはり信用しないほうがいい。
「まぁ、ひとまずはこんなところでいいでしょう。それがわかったら、さっさとこの山を下りてください。見つかりにくいルートは教えてあげますから」
「……ちょっと待って、このまま手ぶらじゃ帰れないわ。てゐはどうも山頂の神社と何か繋がりがあるみたいなの。だから、そこに行かないと――」
「あまり調子に乗らないほうがいいですよ。私と貴女ではどちらのほうが立場が上か、まさかわからないわけではないでしょう」
まったくわけがわからない。一族に対しては裏切りのような行動を取りながら、こういう時になったら急にその権威を振りかざして脅しをかける。破綻しているようだけれど、この余裕っぷりを見る限り、崩すのは難しい。
これ以上何か訊きだすには、一戦交えるしかなさそうだけれど、そんなことをしても何の得にもならない。
「――っ、わかったわよ」
「いい心がけです。それに、神社の連中はどうせ口を割ったりしませんよ。行っても追い返されるだけです。そうですね……椛に勝ったことに敬意を表して、一つだけ手掛かりをあげましょうか」
「なに?」
「その猫叉、なかなか可愛いじゃないですか。連れ帰れば、貴女の主も喜ぶと思いますよ」
見るといつの間にか、さっきの猫が尻尾をゆらゆらしながら私の足元に寝転んでいる。守ってあげたことに恩を感じているのかもしれない。だとしたら、なかなか可愛い奴だけれど。
「……それが手掛かり?」
「さぁ、そろそろ帰っていただきましょう。幸運を祈ってますよ。今後とも文々。新聞を御贔屓に」
六. ラストリゾーム
竹林への侵入者に気付いたのは私だった。普通なら、どうせ魔法使いか巫女が暇潰しにやってきたのだろうと放っておくのだけれど、今回は事情が違う。なにせ、得体の知れない有象無象が大挙してこの永遠亭へ押し寄せているのだから。それもやたらと殺気立った波長をまき散らしながら。
お師匠様は私の報告を受けて、すぐさま永遠亭の周囲に急ごしらえの結界を張り巡らせた。侵入者たちが妖精や妖怪たちを蹴散らしてここに辿りつくまでに50分、結界を突破するのに10分、推定一時間は、事態を把握する余裕がある。
帰ってすぐに調査報告と簡単な情報交換は済ませていた。お師匠様は考えをまとめるといって、また夜に部屋に来るよう私に指示した。その間の出来事だ。いったい何が起きているんだろう。夜の空気はざわついて、永遠亭内は非常事態にもかかわらずなにやらわくわくするような気配が立ち込めている。おおむねは、興奮して走りまわったりお喋りしている兎たちのせいだけれど。まるで、夜が明けなかったあの日と同じだ。
「ああ、もう。わけわかんない」
溜息をつきつつ、薬缶の火を止めた。動揺している私を見て、お師匠様がお茶を淹れるように指示したのだ。これからお師匠様が今回の件に関しての自分の意見を話してくれる。それで少しは何かわかるのか。二つの湯飲みに熱い緑茶を注いで、仕事部屋へと向かった。
「お師匠様、お茶が入りました」
「御苦労さま。少しは落ち着いたかしら」
「えぇ、まぁ……だけど、いったい何が起きてるんでしょう。てゐのことと、関係があるんでしょうか」
「私の読みが正しければ、あるでしょうね。まず、情報を整理しておきましょうか。てゐの足取りをもう一度話してくれるかしら」
お師匠様はお茶を一口飲むと、椅子の上で脚を組み、考え込むような姿勢になった。
座布団の上では、例の黒い猫叉が、二本の尻尾をゆらゆらさせながら眠そうにうずくまっている。結局、こいつは何も言わずに永遠亭までついてきた。ご飯をあげてからはずっとこの調子だ。呑気でうらやましい。
「ええと、15日前の晩、てゐは藤原妹紅と彼女の小屋でお酒を呑んでいます。次の日、守矢神社の参拝客に混じって山を登ったみたいです。それと同じ日の夜に、満月だったそうですが、妖怪の山で正体不明の怪物が暴れまわる事件があって、てゐはその怪物の攻撃を受けて湖へ落下、そのあとずっと行方不明……って、天狗たちは思ってたみたいですけど、そのあとも妖怪の山の外で普通に目撃されてます。一週間前は紅魔館、そのちょっと後で博麗神社、といった具合に、色々なところに現れては妙なことをやらかして、『山へ行く』って言い残してから姿を消したそうです」
「今日は、妖怪の山にいたのね」
「そうです」
「永遠亭へペンダントを置きに来たのはいつなのかしら」
「え?」
「てゐがいつも身につけているペンダント。貴女がてゐの部屋の箪笥から見つけたらしいけど、15日前からずっとそこにあったのでないとしたら、つまり妖怪の山へ持っていったのだとしたら、そのあとに永遠亭へ戻ってきたはずだわ」
「あ……」
そういえばそうだ。今日会ったうちの誰かに、てゐがこのペンダントを持っていたかどうか聞いておけばよかった。
「もちろん、最初から置いていった可能性もあるけどね。でももし持っていったとすると、てゐがここへ戻ってきたときに、貴女は気付かなかったのかしら」
ここ最近は、仕事で忙しかったりてゐのことが心配だったりで、ずっと眠らずにいた。基本的には眠らなくても問題ない身体だし、月にいたときに、緊張を絶やさない訓練を受けてもいた。てゐの特徴的な波長が近くにあれば、すぐに気付いたはずだけれど。
「うーん、確かに変ですね」
「これに関しては、可能性は二つあるわ。妖怪兎の誰かに頼んでペンダントを届けてもらったか、あるいは、貴女の波長探知能力をすりぬけるような何らかの能力を身に付けたか」
「……それなんですけど、妖怪の山でてゐは私のサーチ範囲の中に突然現れて、それからまたパッと消えちゃいました。もしかしたら、それと同じような手で、永遠亭にも入り込んだんじゃないでしょうか」
「ありえるわね。でもひとまずは、別の方面から全体を眺めてみましょうか」
「というと?」
「『幻想郷全体を幸福の絶頂に祭り上げる計画』……だったかしら。実際に今幻想郷で起きていることを見れば、この言葉も無視はできないでしょうね」
確かに、行く先々で、てゐが人妖に幸運を与えた証拠に出くわした。守矢神社のお守りが引き起こした多くの縁結び、お賽銭箱が呼び寄せた博麗神社への多数の参拝客、そしててゐの悪戯が強化させたスカーレット姉妹の絆……その他にも、魔理沙の話では、てゐは色々なところに現れて、人妖問わず幸福をもたらしているらしい。
でも――何だか引っかかるものがある。
「……正直信じられない、ですね」
「何がかしら?」
「いえ、あのてゐが……実を言えば、ついさっきまでてゐの能力が何だったかすら忘れていたんですけど。でも能力以前に、てゐがそんなことをして回ってるっていうのが、ちょっと実感わかなくて」
「言いたいことはわかるわ。あの腹黒くて胡散臭くて図太くて小賢しい性悪の因幡てゐが、人に幸運を振りまくなんていう慈善行為を好んでやるわけがないと、貴女は思っているのでしょう?」
「いえそこまで酷いことは思ってませんけど……まぁその、少なくとも私なら、てゐと『慈善行為』って単語を同じ文の中では絶対に使いません。慈善行為っていう言葉のイメージが汚されますので……」
「貴女も充分、酷いわね」
お師匠様がふっと笑みをこぼし、お茶を一口、ごくりと飲む。
「それに関しては、私も貴女と同意見よ。ならば、こう考えてみてはどうかしら。てゐは確かに慈善行為じみたことをして回っている。はたから見る限りではこの上なく利他的な行動といえるわね。でも、それはてゐの目的のうちのほんの一部であって、全体ではない」
「え……?」
「つまり、この騒動の行きつく先に、てゐの本当の目的があるのではないか。恐らく今回のことは、最終的にはてゐにとって何らかの利益になるような、純粋に利己的な行為なのではないかと、予想してみることはできないかしら」
「あ――ええ、それなら、確かに……てゐってあの性格ですから、自分の得のために動いているというんなら、今回のことも納得できますけど……でも具体的に目的ってどんなものなんでしょう。お師匠様には何かわかっているんですか?」
「そうね、なんとなくの予想はついているけれど……貴女にもわかるように、もう少し迂回して話を進めましょう。今回の件は、貴女が全てを理解することが重要そうだしね」
「どういうことですか?」
「それはさておき。貴女が実際に出くわした幸福の事例は三つだったわね。里でのお守りの件と、博麗神社の参拝客の件と、紅魔館の吸血鬼姉妹の件。そのうち、少なくとも二つにはある共通点があるわ」
「共通点? みんながみんな幸せになったってところですか?」
「いえ、それはすべてに該当する。里と吸血鬼姉妹の件を結びつけるのは、『縁』という言葉よ」
「縁……ですか」
それからお師匠様は、因幡の素兎が一部から縁結びのご利益を持つ神様として信仰されているということを話してくれた。なるほど、里で起きたことはそのまんまだし、スカーレット姉妹も、てゐの悪戯によって結びつきが強まったことを考えれば、確かに縁と関わりがあるかもしれない。
「てゐは恐らく守矢神社と結託して、自分の写真をお守りの中に入れさせた。きっと何らかの交渉があったのでしょう。てゐの要求はわからないけれども、守矢神社側にとっては里の信仰を得る大きな機会になる。このようにして、幸運の素兎の似姿が入ったお守りは、縁結びの力を発揮することになった」
「あの、てゐは本当に、縁を操作するなんてことができるんでしょうか」
「操作、という言葉は語弊があると思うわね。縁というのは偶然的で事後的な概念よ」
「……ちょっと、意味がよく」
「常識的に考えてみればわかるわ。人は好きな誰かと巡り逢えたとき、『ああ、これはいい縁が結ばれた』と思ってしみじみと納得する。決して、縁という『物』が先だって存在するわけではない。それは常に、後になってから見出されるの」
「じゃあ、縁っていうのは幻想にすぎないってことですか」
「そのとおりよ。だけど、どんな幻想でも、人に信仰されれば相応の力を持つ。今回の里の件だって、もしかしたら最初はてゐの力なんてなんの関係もなく、たまたま誰かと誰かが結ばれて幸せになったのかもしれない。でもその時、その人たちのすぐそばに守矢神社の『縁結び』のお守りがあった。それが話題となって、お守りのご利益は本物だ、と里の人々に噂されるようになる。そしてみんながみんなその気になって、お守りの効力を試そうとする。ますます多くの縁と幸福が見出されるようになる……」
「みんな、騙されてるんですね」
「そうね。でも、騙されれば実際に幸福になる。となれば、自分が騙されていることなど意識しなくなるでしょう。いつかてゐがどこかで言っていたけれど、騙された相手を幸せにする、それが、あの悪戯兎の力なのかもしれないわ」
信じる者の幸福といったところね、お師匠様はそう言って、よくわからない笑みをこぼす。
何だかひどく、都合のいい話に思えてくる。
でも、お師匠様の言う通り、てゐの能力を「騙された相手を幸せにする」ものという風に考えれば、すべてのつじつまが合ってくる。博麗神社の件も、幸運のお賽銭箱があれば幸せになれるよ、という言葉にのってそれを設置したけれど、実際に参拝客がたくさん集まって、霊夢は嬉しそうだった。スカーレット姉妹も、魔理沙もそうだった。
となれば――何だか悔しいけれど、てゐのご都合主義的な力は認めざるを得ない。
「少しだけ話を変えるわ。さっき貴女は、てゐは縁を操作できるのか、と訊いたわね。私の考えでは、てゐは縁を操作することはできない。正確に言えば、縁は誰かによってご都合主義的に結ばれているけれど、操作しているのはてゐではない」
「じゃあ、いったい誰が?」
「わかるでしょう。縁とか、運命の赤い糸とか、そういうのを操れる存在が、たった一つだけ」
「……神様、ですか?」
「てゐの部屋にある掛け軸に書かれた言葉、覚えているかしら」
「え? ……ええっと、たしか、『天為無法』でしたっけ。あれ、漢字間違えてると思うんですけど」
「意図的にでしょう。文法も滅茶苦茶だけれど、今回の件に引きつけてあえて書き下すならば、『天の為すことに法は無い』としたらいいかしら」
「……てゐは、天とか、神様とかを味方につけているってことでしょうか」
「そうともいえるし、そうでないともいえる。てゐの能力、という言い方にもしっくりこないけれど、それには限界があるのよ。彼女は天の采配に任せることによって、他人を幸福にすることは出来る。でも天は、決して彼女自身を幸福にはしてくれないのよ」
「天は二物を与えず、ですね」
「うまいこというわね。さて、今言ったことは、てゐの目的が本当は慈善行為などではないことの傍証になるわ。てゐの性格からして、そんなのに納得できると思う?」
たぶん、てゐなら我慢ならないだろう。周りだけが幸せになっていくのを、指をくわえてただ眺めているだけなんて。
「……てゐの目的は、幸せを与えてくれない天の神様を出し抜いて、自分が幸せになってしまおうって感じでしょうか」
「そうね。そう考えたほうが、てゐを知っている私たちからすればしっくりくるわ」
「でも、どうやるのかな……具体的に、あいつの幸せってなんなんでしょう」
普段のてゐを見ていると、幸せとかそういったものを求めているようには全然感じられない。たいていは何かしらの悪だくみを進行中で(その犠牲者はほぼ私なのだけれど)、ぼーっとしているときは悪戯の算段でもしているのだと思っていたけれど。まさか、こんな大それたことを考えていたなんて。
「後者の質問について考えるには、もう少し視野を広げる必要がありそうね。まずは前者の呟きについて考えましょう。答えは簡単よ。天はてゐ以外の人妖は見境なく幸せにしてくれる。ならばてゐとしては、他者に起きる幸福に乗っかる形で、自分が幸せになる計画を練り上げればいい」
「あぁ……でも、言うだけなら簡単そうに思えますけど、実際にそうやって今回の件は動いているんでしょうか」
「調査をしているときに、なんだかてゐに導かれているような気がすると、貴女は感じたのだったわね。その感覚が答えだと思うわ」
導かれているような感覚……たしかに、里ではお守りを手掛かりにして山へと行くことになった。博麗神社では、行くのに邪魔になりそうなレミリアを、その前にてゐが起こした出来事によって見事に厄介払いすることが出来た。しかもどれも誰かしらが幸福になっている……とすれば。
「今日、私が山へ導かれたのも、てゐの計画のうちなんでしょうか。そしてそのことにも、誰かの幸福が関わっている?」
「間違いないわ。わざわざ山へ行くって言いふらしていたんだからね。この場合の幸福の事例は、哨戒天狗と河童の件かしら。二人は結局仲直り出来たのでしょう。もっとも、仲違いの発端は、てゐが関わっている湖の事件だから、罪滅ぼしといったほうが正しいわね」
「あの天狗の、射命丸ってやつは……?」
「わからないわ。でも貴女の受けた印象からして、相当怪しいみたいね。何か知っていてもおかしくはない。それに……」
ちらり、と寝転がっている猫と、その背をゆっくりと撫でる手を見る。文が最後に手掛かりと言ったこと……。
「なんだかこうして見ると、全部に繋がりがあるように思えてきますね。こいつ、もしかしてお師匠様の話の中にあった、稗田家に猫の遺体を盗りにきたっていう火車でしょうか」
「だいぶ今回のことに頭が慣れてきたみたいね。きっとそうでしょう。全てがなにかしら都合の良いように繋がっている。この火車はさっきも話したとおり、以前てゐと一緒に人里で幸福の事例を一つ作っているわ。どこでどう知り合ったのかはわからないけどね」
その火車――火焔猫燐は、自分が話題の俎上にあることを気にも留めないで、尻尾をゆらゆらとのんびりしている。火車という言葉から受けるような不気味な感じはしない。
「それと、この火車に関しては一つ疑問があるわ。貴女が山で彼女を拾ったとき、すぐ傍にはてゐがいたんだったわね」
「えぇ、てゐがいたと思った藪に手を突っ込んだら、なぜかこいつを掴んじゃったんです」
「てゐと燐が繋がっていることから考えれば、彼女も何らかの役目を負わされていると考えるのが妥当でしょう。おそらく、てゐは貴女に燐を連れ帰させるために、あえて波長の検索圏内に現れた。なぜかしら?」
「……見当もつきません」
「ここからは結果論になるのだけれど……私と貴女に、地霊殿との関わりを持たせたかったからだと思うわ」
「地霊殿って……こいつがペットとして飼われてるところでしたっけ? なぜそんなことが言えるんですか?」
「それは、山で起きたという事件の犯人、つまりてゐを追いまわしていたという正体不明の怪物は、地霊殿にゆかりのある人物によるものだからよ」
だんだん、ついていけなくなってきた。
頭を抱えていると、お師匠様が口調を和らげて説明してくれた。
「大丈夫。貴女も今なら理解できると思うわ。まず、天狗が貴女に説明した怪物の特徴を思い出してごらんなさい」
「ええと……たしか、見る者によってその姿を変えるとか」
「そう。そして今度は、この資料を見て」
お師匠様が差し出したのは一枚の紙だった。そこには『古明地こいし』という妖怪の説明と、その弾幕の特徴が示してある。
「これ……稗田のところの資料ですか?」
「えぇ。もっとも、現物ではないけれど。覚えていたのをさっき書き写したのよ」
こういうことをさらっとやってしまうのだから、次元が違うなと思う。
「ここを読んで。この弾幕の説明の部分」
「えぇと……『弾幕のロールシャッハ』ですか?…………あっ」
弾幕の軌跡の塊が、人によって異なる何らかの形に見える。
てゐを襲った怪物の特徴とぴったり一致する。こいつが犯人か。
「未整理の資料を拝見したところ、妖怪の山の事件を起こせそうな能力を持ったものは幻想郷全体で二名。片方は命蓮寺の妖怪封獣ぬえ。正体を判らなくする程度の能力を持っているらしいわ。でも、妖怪の山の事件を一連の流れの中で位置付けてみると、古明地こいしのこの弾幕によるものと考えるほうが妥当でしょう」
「その、ぬえっていう奴が起こした可能性はないんでしょうか」
「可能性はある。でも、てゐが仕組んだ計画全体に働く原理を考えれば、古明地こいしの関与を疑ったほうが極めて有効性が高いのよ」
そこでお師匠様は、なぜか眉をひそめた。何か気に入らないことがある時の仕草だ。どうしたのだろう?
「貴女も感じている都合の良さとか、ご都合主義とか、そういったもの……それがてゐの能力の本質よ。この『幸福異変』とでも言うべきものの総体は、近付く者が都合良く関係しあうという、類縁性の原理に貫かれている。この流れに身を置いた時点で、人は神様のご都合主義に絡め取られてしまうの。恐らく天は、私がこうして思考することを含めて、すべて操作しているし、掌握してもいる……それがちょっと気に食わないわ」
やはりよくわからない次元での悩みだったけれど、要するに、てゐの計画に乗せられた時点で負けってことだろう。
それはたしかに、ちょっと悔しい。
「……と、話がそれたわね。古明地こいしが関与していると仮定すると、もう一つ、推測できることがあるわ。それは、てゐがどうやって貴女の波長探査能力をすり抜けているかの説明にもなる。古明地こいしの能力がなんだか、読んでごらんなさい」
もう大体言わなくてもわかる。古明地こいしは、無意識を操る程度の能力を持つ……これが、他人の意識から逃れられるものだとすれば、お師匠様の言いたいことは一つしかないだろう。
「てゐが、この子の能力を利用しているんですね」
「えぇ、そうよ。ここにペンダントを置きに来たときも、山で貴女の耳から逃れたのも、恐らくこれによるものだわ」
「でもどうやってるんでしょう。こいしって奴も、燐みたいにてゐと共謀してるんでしょうか」
「いえ、それでは湖上で二人が戦っていたことの説明にはならない。私の考えでは、恐らく」
「盗んだんだね、私の能力を」
不意に、聞き覚えのない軽やかな声が聞こえた。
「え、な――?」
「うーん、とするとあの時かぁ……つかまれちゃったからなぁ」
山吹色の上着と苔のような深緑色のスカートを着た女の子が、燐を膝の上に乗せて背を撫でつつ溜息をついている。
「だ、誰ッ!?」
咄嗟に指を向け臨戦態勢に入る。まったく気付かなかった。外には結界が張ってあるというのに、いったいいつの間に?
「えー、最初っからずっといたのに。貴女だってもう何回も私の名前聞いてるよ?」
「あ……まさか、貴女が」
「古明地こいしさんね」
さすがにお師匠様は眉一つ動かさない。もしかして気付いていたのだろうか。
「そうそう、よろしくね。えーと、お師匠さんに、うどんさんだっけ」
なんともふわふわした、掴みどころのない子だ。あとうどんさんはやめてほしい。
「いつからここに?」
「うどんさんについてきたのよ。幸せ兎さんを山で張ってたら、なんだか見覚えのある猫がいるなって思ったの」
「張ってたということは、やはり貴女は湖上でてゐと戦っているわね」
「うん。あんま強そうじゃなかったから、余裕だと思ったんだけどね。凄かったよー、ポリグラフ使ったら一瞬で振り切れちゃった。よっぽどの大嘘つきなのね」
のほほんとお茶なんかすすっている。燐もこいしも、何だか我が家にいるようなくつろぎようだ。
「あ、それ私のお茶……」
「で、湖に落として、勝った、って思ったんだけど。そしたら湖の中からじゃばぁんって出てきてさ、袖をつかまれちゃった。びっくりだよ。だってまだ無意識を解除してなかったんだよ? どうやって私の世界に入ってきたんだろ」
しきりに首を傾げながら問いかけてくるけど、そんなのこっちが知りたい。てゐといいこいしといい、得体の知れないところは共通している。
「これで色々とはっきりしたわね。盗んだ、と貴女は言ったけれど、てゐは真似をしているだけよ。無意識に行動する真似事をね。だからその力もきっと、貴女のように完全ではないわ」
「そんなこと、できるのかなぁ」
「無意識の世界に貴女がいるときに、袖を掴まれたのよね。その時に、てゐはそこに身を浸すコツのようなものをつかんだのかもしれない。まぁ、すべて結果から類推したことでしかないけれど。それに、もう一つ傍証を挙げるなら……先ほどの縁の事後性の話を覚えている?」
「えぇと、縁とは常にそれが結ばれたあとに見出される幻想にすぎない、でしたっけ」
「そう。想像でしかないけれど、無意識も似たようなものではないかしら。貴女のような特別な能力を持っていない限り、一般人にはそれを知覚することすらできない。あとで行動を思い返して、ああ、あのときは無意識だった、とでも証言するしかないの」
「うん……まぁ、普通の人ならそうだろうね」
「恐らく、てゐもその普通の人の範疇からは逃れられていないはずよ。でも、縁と無意識はその性質上類似している。ならば、てゐが貴女の真似をできているというのも、頷けない話ではないでしょう。さて」
お師匠様は立ち上がって、部屋の中をうろうろし始めた。何か大事な話をするときの仕草だ。
「私の解釈をお話するのも、いよいよ大詰めね。一つ問いかけをしましょう。そもそもなぜ、てゐは全てが起きる前に妖怪の山へ行ったのかしら?」
「えぇと……守矢神社に行って、お守りの話を持ちかけるためですよね」
「もう一つあるわ。ねぇこいしさん、貴女はよく妖怪の山へ行くのかしら?」
「うん。だってあの神社、お姉ちゃんのペットに神様の力を分け与えたんだよ? うまくとりいれば、私にもその力をくれるかもしれないじゃない」
「ならば、てゐの目的は二つあったといえるわ。一つは、さっきウドンゲが言ったとおりよ。もう一つは、貴女に会うため。恐らくその猫から貴女がよく妖怪の山へ行くことを聞いていたのでしょう。ではなぜ、てゐは無意識の能力を求めたのか」
「あったら、便利だからじゃないですか?」
「そうね。あとは、過去のトラウマに根ざしているといえる。因幡の素兎の話は知っているわよね」
「一羽の兎がサメを騙して海を渡っていった話ですか?」
「素兎がてゐ本人だったと仮定すれば、そのあとのことはきっと心に残っているでしょうね。彼女はわにをだまし通せたと慢心して、最後に『お前たちは騙されたんだよ』と暴露してしまう。そのせいで、身を引き裂かれるような痛みを味わうことになった」
「駄目じゃない。自分の最大の敵は自分だ、ってお姉ちゃんが言ってたよ。甘いなぁ」
「そうてゐも思ったから、無意識の能力の秘訣を求めたのでしょう。無意識に行動するということは、自分自身を騙すことに他ならない。なにせ、自分で自分の行動を制御することができないのだから」
「あ……ちょっと待ってください。騙された相手を幸せにする、というのがてゐの能力なら……自分を騙すことで、自分も幸せにできる、ということも考えられますね」
「いいところに気がついたわね。やはりてゐの目的は、自分自身を幸せにすることでしょう。では、てゐの目的が具体的にどんなものなのか。ようやくその話に移れそうね」
ちらり、とお師匠様は窓の外に目を向ける。爆発音は大分近くなってきている。話に夢中で忘れていたけれど、今大勢の何かが永遠亭を目指して猛進中だ。そろそろ外郭の結界に到達するだろう。
「これまで見てきたように、てゐは山で二つの力を手に入れた。一つは、縁を無造作に結びより多くの人々に幸せを与える力。もう一つは、疑似的にではあれど無意識に行動できる力。後者は自分の計画を他人に感づかれることなく実行するのに役立ち、前者は、そうして行動している間も天の采配によって他人に幸せを与えるのに役立つ。それに便乗する形で、てゐは自分自身の真の目的を果たそうとした。そしてその計画は、今も進行中のようね」
「真似をされてるのは、気に食わないけどね」
「しっ、邪魔しないの」
「これは稗田家を訪れてようやく実感できたことだけれど……てゐが起こした一連の出来事は、近年幻想郷で起きている一連の異変と相似形を保っているわ。幻想郷ではある程度の短いスパンで異変が起きる。異変が起きるたびに、閉鎖された領域は幻想郷へ向けて開かれて、新たな人妖が認知されていく。幻想郷縁起の編纂はまだまだ終わらないでしょうね」
閉鎖された領域……たぶん、この永遠亭も例外じゃない。夜が明けなかったあの日から、永遠亭は幻想郷へ門戸を開き、私たちは、竹林の外の世界と交わって生きざるを得なくなった。お師匠様が言うのはそういうことだろう。
「すなわち、一連の異変は、見知らぬ他者を幻想郷という文脈に取り込むことに他ならない。てゐも似たようなことをしているわ。多様な状況の中にいる人妖は『幸福』という同じテーマに従属させられていく。神様のご都合主義はただの一人も逃さず、自らの手に全てを絡め取っていくのよ。本人の意志とは無関係にね」
何だか、やってることは良いことなのに、凄く傲慢なように聞こえる。
お師匠様は、てゐのやってることがあまり気に食わないのかもしれない。
「それでも彼女の力には制約がある。天は彼女自身を幸福にはしてくれない。私たちが一番よく知っているけれど、あの兎がそんなことに満足していられるわけがない。ならばどうするか。彼女にとっての幸福がどんなものなのかを知らなくてはならないわね。
ここで、異変の構造に関する知識が役に立つわ。紅霧異変、春雪異変、永夜異変と、多くの人に知られている大規模な事件のあとに、一つずつ、小異変とでも呼べる事件が起きているわ。あまり人々の意識には上らないようだけれど、そこでも同じように新たな人妖が認知されている。例えば、紅魔館の悪魔の妹、境目に潜む妖怪、守矢の神社の土着神、そして、私たちが当事者である永夜異変の場合は――」
「私だよ!」
「貴女は、間欠泉異変のほうに分類されるわね。ウドンゲ、わかるかしら」
「……藤原妹紅、ですか」
異変が落ち着いてしばらく経ったころ、永遠亭に遊びに来た人間に、姫様が面白がって肝試しを勧めた。目的は妹紅を討伐するためだったけれど、図らずもそのおかげで妹紅の存在が知れ渡ったみたいだ。今ではあの仏頂面に似合わず、寺子屋で子供たちの人気の的になっている。
「そうね。このように、大規模な異変が終わったあとも、幻想郷は貪欲なまでに他者を自らのうちにとりこんでいく。でも、それは時として完全ではない。紅魔館、白玉楼、守矢神社、地霊殿、命蓮寺、どれもある意味での『家庭』と呼んで差しつかえないと思うけれど、隠したい秘密はどこにだってあるもの。事実、妖怪の山は幻想郷に対して開かれたにもかかわらず、その秘密主義的な体質は健在している。そしてそれは、私たちも例外ではない」
「私たちにも、隠していることがあるってことですか?」
「みんながなんとなく察していることだけれど、決しておおやけになることはない事実。あの文々。新聞にも、そのことは隠蔽された……私たちが、隠蔽した。もう、わかるでしょう」
「……姫様と、妹紅の、」
何年にも渡る殺し合い。
確かに、一度記事にされたことがある。竹林で不審火が目撃され、あの射命丸文がインタビューをした。でもはぐらかした。
「これは姫に聞いた話だけれど、てゐは姫と妹紅が殺し合うのを何年も前から嫌がっているらしいわ。あの兎の性格上、幸福そうに殺し合っているなんてことが許せないんでしょうね。
そもそも、なぜてゐは永遠亭に帰ってこないのかしら。別にただみんなを幸せにするだけなら、ここを拠点にしたって不都合はない。むしろ、里の人の信頼を得られるのだから、永遠亭の利益にも繋がる。私だって話を持ちかけられたら賛同して、協力するわ。でもてゐは失踪した。それはなぜ?」
「目的を知られたら、お師匠様に反対されると思ったから?」
「てゐの本当の標的は、この永遠亭だからよ。
幻想郷の異変とてゐの計画が似ていることから、その目的も似たようなものだと考えることができる。幻想郷が未だに拾えることのできていない暗部、それをさらけ出して、姫と妹紅に自分の望む幸福を押しつけること、自分の信じる幸せの中に取り込むことが、てゐの真の目的よ」
思わず、溜息をつく。あいつがこんなことを考えているなんて、思ってもみなかった。
「よくわかんないけど、なんだか、途方もない話だねぇ」
こいしは相変わらずのんびりした口調で言う。その通りだ。
お師匠様はお茶をすすって、意味ありげな顔で窓を見た。外にはざわついた竹林が途方もなく広がっている。
「てゐのやっていることはこの竹林みたいなものね。竹は普通の樹木と違って一本の幹があるわけではない。地下茎を通して、一本一本が互いに繋がっている。つまり、その構造に中心はない。てゐは縦横無尽に表層を駆けまわって、際限なく幸福を広げていく。おおもとを探って深層に潜っていき、最後に黒幕が明らかになる通常の異変とは、その点で異なっているわね。最初から犯人は誰にもわかりきっているもの」
生きるのに必要なことは、すべて竹林から学んだって、いつかてゐが言っていた気がする。
それにしても……てゐの目的が明らかになったとはいえ、まだ幾つか解けていない謎がある。
「お師匠様……結局、今永遠亭に向かっているのは誰なんでしょう?」
「貴女もよく知っている人妖たちよ。中には、貴女が今日会った者も含まれているでしょうね」
「え……霊夢とか、レミリアとかですか?」
「それに、山頂の神社で無下に追い返されて鬱憤がたまった――」
ヴオオ……という鈍い音とともに、外でまばゆい光がほとばしり、急ごしらえの結界に凄まじい熱量の塊がぶつかる。
確かめるまでもなく、マスタースパークだ。
「……とかね」
「いいなぁお外、楽しそうだなぁ」
「あの夜と似ていますね。非常事態だっていうのに、兎たちも、なぜか楽しそうで」
ただ違うのは、嬉々として罠を仕掛けていたてゐがいないということだ。
「えぇ。永夜の再来といっても過言ではないでしょうね。みんなある秘密を求めてここへ殺到している。ただし今度は目的が違う。今あの人妖たちが求めているのは、てゐの幸運をもたらす能力よ」
あつかましい幻想郷の住人たちのことだ。てゐが大々的にそんなことをやっているとわかれば、自分もそのおこぼれにあずかろうと大挙して押し寄せてくるだろう。
「これもてゐが仕組んだこと、なんでしょうか」
「そうね。でもこれには、貴女も加担しているのよ」
「どういうことですか?」
「この幸福異変が上手いのはね、異変が起きているということすら気付かれない、というところにあるわ。ただ人妖を幸福にしてまわっているなんてことを、誰も異変だなんて思わないでしょう。騙されたままなら幸せでいられるのだから。でも今日、何かが起きているということを感じさせるような出来事があった。それが中心のない構造に疑似的な中心点を作り出し、貪欲な者たちの目をここ、永遠亭へと向かわせることになった。その出来事は、貴女が一番よく知っているはずよ」
「まさか、私がてゐのことを訊いて回ったから?」
「そう。てゐがやってきて、何だか知らないけど幸運を与えてくれた。それだけなら何の問題もない。でもそこへ、同じペンダントを持った貴女がてゐを探しにやってきた。点と点が繋がることで、その線は間違いなく貴女たちの所属であるこの永遠亭へのびるでしょう。貴女が盤上にあがることで、てゐの計画は次の段階へ動き出すよう画策されていたのよ」
いい迷惑だ。知らないうちに加担させられていたなんて。
でも、お師匠様の言うことが本当だとしたら、少し悲しい。
「……てゐにとっては、私も、都合良く動かせる盤上の駒にすぎないのでしょうか」
「ええ。これは私の言い方が悪かったかもしれないけれど……てゐにとって、貴女はとびっきり重要な駒であるはずだわ。なにせ」
お師匠様は私の胸元に目を止める。そこには人参型のペンダントが、大人しくぶらさがっている。光を放って天狗の斬撃から守ってくれたのが嘘みたいだ。
「そんな大切なものを、託されたのだからね」
必ず身につけておくように――
これは友情の証なのか、それとも……。
そもそも、てゐは私にとって何なのだろう?
「私が先ほど、貴女が全てを理解するのが重要だと言ったのは、そういう意味よ。貴女は望むと望まないとにかかわらず、てゐの計画の共犯者に仕立て上げられた。計画の成就には、貴女の助けが必要不可欠なのよ」
「お師匠様も、てゐに協力するんですか?」
「いえ、私が積極的に関わるのはここまでよ。あとは静観を決め込むわ。ご都合主義な神様の掌の上で転がされるのは、あまり好かないからね。それでも、今後のことを忠告するなら……」
お師匠様は机上にあった紙をひらりとつまみとった。てゐのワンピースのポケットに入っていた、あの書き置きだ。
「まず……そうね、まもなく結界は突破されるでしょうから、今夜も仕掛けた罠を使って適当に遊びましょう。勝てたら何事もなく追いかえせるでしょうけれど……てゐの計画を考えると、そんなに簡単に終わるとは考えにくい。私たちは、てゐの起こしている異変に関して何らかの返答を求められている。追いかえしたとしても、禍根は残るでしょうね。ならば、ここは素直に負けて、円満に解決する策をとりましょうか」
「策?」
「簡単よ。異変が終息したあと、みんなで集まってすることといえば?」
「宴会だね!」
「そう。どうせてゐはここにはいないのだから、騒がせたお詫びに永遠亭主催で宴会を開くといえば、みんな納得して今日のところは引きあげるでしょう。そして、その宴会の場所は……」
お師匠様は私にてゐの書き置きを渡してきた。
「ここ。気にならないかしら」
「『あの丘に集うときまで』ってところですか? ……あの丘、って」
てゐの目的といえば、姫様と妹紅。二人は、一度竹林で戦って火事を起こしそうになってから、場所を移して殺し合うようになった。竹林の外、人里からは離れた、月のよく見える丘。
「恐らく、てゐからのメッセージよ。もし彼女の計画に乗るのならば、宴会はここで行うこと。乗らないならば、無視してもいい。これは、貴女が決めることよ」
「わざわざ指定してきたってことは、てゐはそこで何かを仕掛ける気なのでしょうか?」
「十中八九、そうね」
……都合良くすべてが回っているように見えて、脆弱な計画だと思う。私の助けなしでは成し遂げられないのだから。
自分でもわからない。姫様と妹紅の殺し合いについてどう思っているのか。てゐが自分にとってどういう存在なのか。だけれど一つだけ、心に決めていることがある。
「宴会は、あの丘で行うことにしましょう。そこにてゐが確実に現れるというんなら……とっつかまえて、こらしめてやるだけです」
私は、それがどんなものであれ、てゐの悪戯をそのまま黙って見過ごすわけにはいかない。
「……わかったわ。それでは、迎える準備をしましょうか。といっても、相手に出くわしたら弾幕ごっこをすればいいだけなのだけれどね」
「私も、ちょっとだけ混ぜてもらっちゃおうかなぁ」
「あんたは、自分のおうちがあるでしょ。その猫連れてとっとと帰りなさいよ」
「そうはいかないよ。利用されたまんまで引き下がるのなんてやだもん。あの兎さんにはきっちりおとしまえつけてもらうからね」
怖いことを笑顔で言い残して、こいしはふわふわとした足取りで部屋から出て行った。レミリアの話では、てゐもふらふらと覚束ない歩き方をしていたというけれど、もしかして無意識の能力を持つ者の特徴なのだろうか。
私も部屋から出ようとして扉を開けると、向こうから「きゃっ!」という悲鳴が聞こえた。
「あっ……あんたたち、ずっと聴いてたの?」
倒れこんできたのは、屈託のない笑みを浮かべる妖怪兎たちだった。
「いやぁ、そのぉ」
「えへへー」
「あ、宴会、あの丘でやるんですよね? まかしといてください」
「どうやら、兎たちも一枚噛んでいるようね。日替わりで半分くらいが泥にまみれて帰ってくるから、どんな落とし穴掘ってるのかと思っていたけれど」
お師匠様が呆れ顔で呟く。
「やだなぁ、落とし穴なんて掘ってませんよぅ」
「あっ、そろそろ敵がきちゃう!」
「討ち入り! 討ち入り!」
きゃいきゃい楽しそうに笑いながら、兎たちはどたばたと廊下の向こうへ走り去った。
「……大丈夫、でしょうか」
何だか不安になって尋ねる。もともと、こういう事態には弱いほうだ。お師匠様が言うようには、弾幕ごっこも楽しめないだろう。
「大丈夫よ。必要以上にシリアスにならない。そのための弾幕ごっこだもの。終われば適当に、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎよ。今日も、永い夜になりそうね」
鏡の割れるような音がして、外の結界が突破された。
※ ※ ※ ※ ※
「眠れないの?」
縁側に座って火照った身体を冷ましていると、姫様が廊下の向こうからするすると近付いてきた。
「あ……はい。だって、あんな戦いのあとじゃあ」
「そう? 私なんかすぐにだって眠れそうよ……ふぁぁ」
姫様はあくびをして、眠そうに袖で目をこすりつつ横に座った。
「結局まだ、帰ってないのね」
「二日後の宴会で何か仕掛けてくるだろうって、お師匠様は言ってました」
「そう。相変わらず、何を考えてるかよくわからない兎ね」
「ほんと、そうですよね……知ってます? あいつの部屋にある掛け軸に、なんて書いてあるか」
「ええ。だって、あれは私が書いたんですもの」
「あ、そうなんですか?」
「昔、嗜みに書道をやってたことがあってね。何か書いてあげるって言ったら、じゃあこれ書いてっててゐが頼んできたの。それが、あの文字。『天為無法』だったかしら」
庭の向こうには、姫様の盆栽が月の光の下で静かに佇んでいる。何もしていないように見えて、結構多趣味なのだ。
「天の為すことに法は無い……でしたっけ。破天荒な感じは、確かにてゐっぽいですね」
「あと、洒落も含まれているのよ。天と為、縮めれば、『てゐ』になるわ」
「ああ……」
なるほどとは思うけれど、あまりお洒落とはいえない。
「て……ゐ、っと」
姫様が落ちていた棒を拾って、地面に字を書いた。
「この、『ゐ』っていう字、大人しくしている兎を横から見た形に似てるわよね」
「あ、ホントですね。耳がありませんけど」
すると、何を思ったか、姫様は「ゐ」の字に耳を二本、ぴょこんと付け足した。なんとも度し難い形になった。
「……無いほうが、いいんじゃない?」
「そうですね」
気の抜けた笑いが漏れる。姫様と話せて、なんだかリラックスできたかもしれない。
たまに思うけれど、永遠亭を覆うまったりとした空気というか、倦怠感のようなものの大元は姫様なのかもしれない。月から逃げてきたころ、ちょっとの間は情緒不安定に過ごしたものの、ここの空気に取り込まれてか、すぐに月のことなど忘れて暮らせるようになった。これが破られたのは、永遠亭の情勢に大きな動きがあった日。つまり、あの永夜異変と、ついさっき大勢の人妖が詰めかけてきたときだけだ。
私は、姫様の持つその空気が好きだ。
「姫様は、その……」
だけど、姫様自身、その空気を自ら捨ててしまうことがある。
「どうして、妹紅との殺し合いを、やめないんですか?」
すなわち、蓬莱人同士の終わらない戦い。そのときの姫様は、血なまぐさくて、凄惨で、あまり……好きじゃない。
「……どうしてかしらね」
妹紅に関する質問をする時、いつもなら姫様の表情は、霜が下りるようにすぅと冷たくなるのだけれど、今はなぜか、ひどく疲れているように見える。
「妹紅はまだ、姫様のことが憎いんでしょうか」
「さぁ、わからないわ。ただ一つ言えるのは、私を殺すときの妹紅の顔が、とてつもなく楽しそうだということだけ」
姫様は、と訊こうとして、やめた。殺し合いを終えて帰ってくるときの、血みどろながらもどこか惚として夢を見ているかのような表情を見れば、姫様にとっても妹紅との逢瀬が重要な意味を持っていることは、私にだってわかる。
だけど、理解はできない。殺し合いが楽しいなんて。
「昔ね、妹紅と遊ぼうと思って出かけたときに、てゐがついてきたことがあったわ。雪が降っていて、暗くて、寒い夜」
姫様が目を伏せながらぽつりぽつりと語りだす。
「それで、私と妹紅に、殺し合いなんてもうやめたら、って忠告してきた。その時まで知らなかったけれど、てゐ、嫌がっていたのね」
「……姫様と妹紅は、それで、やめたんですか?」
「ううん。いつもの丘についたから、結局、普通に遊んだの。そこからは、あまり覚えていないんだけど……焼け焦げた私たちを見て、あの子は俯いていたわ。もしかしたら、泣いていたのかもしれない」
てゐが泣いたところなんて見たことないし、あまり想像もできないけれど、そのときのてゐの気持ちはわかる気がする。私も、姫様と妹紅の殺し合いを実際に目の当たりにしたら、平静でいられそうもない。
「やめようと思えば、やめられるのかもしれないわ。でも、最初は暇潰し程度に思っていたのだけれど、それが当たり前になって、やめられなくなって……強引に命が引き剥がされるあの感覚が、忘れられないの。この世界から、自分がいなくなるっていう錯覚、一瞬だけでも自由になった、と思えるわ。妹紅もきっと、その感覚に、やみつきになっているのだと思う。だから、あんなに楽しそうなんだわ」
私は、姫様のことが大好きだ。月から逃げたときに、匿ってもらったことの恩義も感じている。
だけれど、姫様のすべてを認めることはできない。死ぬのが楽しいなんて、そんなことを考えてしまう状況にいる姫様を、認めるわけにはいかない。
だから。
「姫様――!」
「いやぁ、いいお風呂だったねぇ! ウチのと比べても遜色なかったよ。おねいさんがたは入らないのかいっ?」
底抜けに陽気で場違いな声が響いたので、思わず縁側にすっ転んだ。
廊下の向こうからほくほく顔で現れたのは、赤い髪に黒い衣装を着て、肩にてぬぐいを引っかけた猫耳の女の子だった。
「あ、あんた、誰!?」
「あぁ、この姿で会うのは初めてだったね。あたいは火焔猫燐。うどんねいさんには助けてもらっちゃったねぇ。ありがとね」
じゃあ、こいつがあの猫の正体か。
なんだか、火車という言葉から思い起こすよりも、拍子抜けするくらいに陽気な妖怪だ。あとうどんねいさんは頼むからやめてほしい。
「あら……貴女、猫叉なのね」
先ほどのシリアスな表情はどこへやら、姫様は不意に現れた燐に興味津津だ。
「よろしくね、お姫様」
「いつからここに?」
「昨日の夕方かなぁ。うどんねいさんについてきたんだけど……っと、そんな場合じゃないや。残念だけど、そろそろ行かないと。こいし様が出張ってきたとなると、もう一つだけやらないといけないことがあるんだ」
そうだ。そういえばこいつは、てゐと繋がっている。たぶん目的も知っているだろうから、言うなれば共犯者だ。
「あ、あのっ!」
「ん? なんだい?」
「……その、てゐは元気なの?」
いざ声を掛けると、そんなことしか訊けなかった。他にも尋ねるべきことはいっぱいあるのに、少し恥ずかしい。
「あぁ、元気も元気。何も心配はいらないよ」
燐はにやりと笑った。悪戯っぽい笑みは、てゐとそっくりだ。一緒にいるあいだにうつったのだろうか。
「貴女は、てゐの何なの。共犯者? それとも、友達?」
「んー、協力者ってとこかな。うどんねいさんも聞いただろうけど、里でてゐの姐御が騙した相手を幸せにする能力を使ってるのを見ちゃってねぇ。みんなを幸せにするのが、姐御の幸せなんだって。まぁ、嘘だろうけど、それでもあの男気に惚れちゃってさ。面白そうだから、ちょっと協力してやろうって思ったわけ」
そう言うと、燐は興味津津といった表情でこう訊いてきた。
「訊き返すけどさ、うどんねいさんにとって、てゐの姐御は何なんだい? 恋人?」
「それはない、ゼッタイ」
と、即座に否定できるけれど、正直なところ、私にもわかりかねている。てゐが私にとって何なのか。友達、というようなベッタリしたのも違うし、共犯者というのも何だか癪だ。うまい言葉が見つからない。
考えていると何だか恥ずかしくなってきたので、話をそらすことにした。
「あの子……こいしが出てくることは、てゐにとっては予想外だったの?」
「いや、それもちゃんと計画のうちさ。あまり心配することはないよ。うどんねいさんが一番よく知ってると思うけれど、姐御の能力はホンモノさ。きっと、すべてが都合よくいくよ」
「……その、てゐの計画って」
「おっと、そいつをここで話すわけにはいかないね。つまらなくなっちゃうでしょ?」
燐は姫様をちらりと見たあと、猫らしくぴょんと身軽に飛びはねて、庭に降り立った。すぐそばに、なにやら乳母車みたいなものが現れた。その取手の部分には、見馴れたあの縁結びのお守りがついている。
「あら、もう行っちゃうの? なんならずぅっといてくれてもいいのよ」
「いや、あたいは地霊殿のペットだからね。二叉かけるのは趣味じゃないんだ」
「そう……残念ね」
「あ、そういえば……稗田さんのところの猫は、どうするの? お師匠様に話聞いたんでしょ」
お師匠さまの話の中にあった、やってきた火車に恋患いをしているという白い猫のことだ。
「……恋猫の魂が、死に際にどんなことを伝えたかったか。教えてやれば、そいつも目が覚めるだろ。まったく、もてるオンナはつらいねぇ」
少し悲しそうな笑みを残して、燐は竹林の闇へ溶け込んでいった。
七. 星降る丘の戦い
その丘の頂上には一本の樹が生えている。幹は大のおとな五人が両手を広げて繋ぎ合せてもなお余るくらいに太く、昔はさぞかし立派な大樹だったろうなと思わせる。けれど、今ではもはや見る影もない。葉はすべて焼き払われ、枝は先端のほうが黒く焦げ、幹には生々しい暴力の痕が深く刻み込まれている。たぶん、姫様と妹紅が殺し合いの場をここに移してから、こうなってしまったのだろう。
既に日が落ちて、空はもう暗くなっているが、丘の周囲は楽しく賑わっている。集まっているのは、二日前に永遠亭を襲撃してきたのとほぼ同じ面子だ。霊夢、魔理沙、アリス、八雲紫とその式たち、紅魔館・白玉楼の主従などなど。
実は、正式な招待状を出したのはこれらの人妖たちだけなのだけれど、他にも様々な有象無象が入り混じっていた。酒の匂いがすればどこからともなく現れる鬼が二人、霧の湖の氷精とその友達、前に竹林で迷っていた三匹の妖精、いつぞやてゐの罠に引っ掛かっていた蛍の妖怪と食べ物を虎視眈々と狙っている金髪の女の子。静かに座ってお酒を呑んでいる花の妖怪と、その隣で退屈そうにしている鈴蘭畑の人形。夜雀と騒霊三姉妹に至っては、勝手に屋台とコンサート会場を設置している始末だ。
さすがに、守矢神社に招待状を送ることは無理だった。厳戒態勢が敷かれている山に、兎を送り込むわけにはいかない。てゐのことで、神社の連中から何かききだせるかもと思っていたけれど、残念だ。
「盛況ねぇ」
霊夢は敷物にどっかりとあぐらをかきつつ、膝に頬杖をつきながら辺りを見回して言った。
「宴会がタダで楽しめるってんなら、あの夜に攻め込んだのも正解だったわね」
「こんくらいしてもらわないと腹の虫がおさまらないぜ。まったく、二度も無駄足食わされた身にもなってみろ」
魔理沙はぷんぷん怒りながら、霊夢の横に腰をおろしている。二度も、というのは、山頂の神社に行って追い返されたこと、そして永遠亭まではるばるやってきたけど目当てのてゐが見つからなかったことだろう。
こっちだって、てゐに勝手に共犯者に担ぎあげられたあげく、こんな風にみんなの晩酌をして回らなければならないのだから、ちょっとくらい同情してくれたっていいと思う。
「それにしても、なんだってこんな丘でやるんだ? 特に見物があるわけでもないだろうに」
「うん、実はね、てゐがここらへんにいるんじゃないかって情報があったの」
「へぇ、じゃあ今日ここにいればあいつに会えるってことか?」
「かもしれないわ」
「ふぅん……ま、せっかくの宴会だし、楽しませてもらいますかね」
そう言って、魔理沙は酒をあおり始めた。ここはもういいだろう。つまみもまだまだ充分ある。立ち上がって、別の敷物のところへ行くことにした。
魔理沙の言うとおり、この丘には特に何があるわけでもない。最大のアクセントになりそうな頂上の木はあんな具合だし、疑問に思うのももっともだ。いったい、こんな場所で、てゐは何を仕掛けてくるのやら。
「あぁ、こんばんは。無事に山から帰れたようで何よりです」
声を掛けられたのでふりむくと、天狗の文が相変わらずの胡散臭い笑みを顔に張りつかせながら歩いてきた。
「……あんたに招待状出した覚えは、ないんだけど」
「まぁまぁ、そんなこと言わないでくださいよ。私たち天狗もてゐさんに多大な迷惑をかけられたんですからね。宴会に参加する権利はあるはずです」
などと言っているけれど、表情は至極楽しそうだ。一応文の言っていることも事実なのが悔しい。てゐが山に行かなければ、そもそもコトは起きなかったのだから。
「ところで……燐のことを知ってたってことは、あんたもてゐの共犯者なの」
「おや、もう全部知ったのですね。貴女の聡明なお師匠からきいたのですか?」
「そうよ。で、どうなの?」
「共犯者、というのは若干そぐわない気がしますけどね。おおむねそんなところです」
聞けば、文は湖で起きた事件のあと、まっさきにてゐの侵入経路に思いあたり、数分後には守矢神社にいたのだという。そこで、守矢神社の面々とてゐの『取引現場』に出くわした。
「取引って、どんな?」
「それは今言うとつまらないから、黙っておくことにしましょう。いずれにせよ、あの兎は大した度胸の持ち主ですね。何を企んでいるのか言わなければ大天狗様のもとへ連行するって脅しをかけたら、すぐに『あんたも協力しない?』とか持ちかけてきましたよ」
「で、協力することにしたの?」
「ええ。といっても、もちろんタダではないですが。私の役目は二つ、それらは私の利益にもなりえるので、協力したまでのことです。まず妖怪の山へ貴女が来たら、事情を知らせて無事に帰らせること。そしてもう一つは……今日この宴会に参加して、記事を書くこと」
「……それがあんたにとって、どんな得になるっていうのよ」
「後者については、おいしいネタが提供されることですね。そして前者は……てゐさんの目論見通りにいき、貴女と椛とにとりが一堂に会したところでさらってしまえば、誰の目も届かないところで、無事に二人を仲直りさせることができる。そして実際、そうなった」
つくづく、ご都合主義の神様とやらは怖いものですねぇと、からからと文は笑う。
「ん……でも、それで本当に得になるの? 見たところ、知り合いが仲直りするくらいで喜ぶようなタマじゃないみたいだけど」
「おや、ひどいですねぇ。私はこう見えてとても人情に厚いんですよ」
「それに、記事ってなに? この宴会のどこがネタになるのよ」
「すべてを知った貴女なら、もうわかるはずです。それに……ほら、新しくお客さんが来たみたいですよ」
文の指す方向を見ると、暗くなった草原の向こうに、結構な数の小さな影が集まっているのが見えた。そのうちの一つ、周りよりも一回り背が高い影には、見覚えがある。
「え……そんな、なんで」
「早く行ってあげたほうがいいですよ。これは妖怪ばかりの宴会ですからね……人間の子供にとっては、この上なく危険です」
草原の向こうから歩いてきたのは、慧音と寺子屋の子供たちだった。
「ちょ、ちょっとちょっと、どうしてきたの!?」
慌てて駆け寄る。もちろん、里の人間を妖怪だらけの宴会になど呼んだりしない。
「……妖怪がいることを知っていれば、連れてこなかったな」
慧音が顔をしかめて丘の周囲を見回す。今は誰も気づいてないけれど、妖怪たちが知れば大騒ぎになるかもしれない。
子供たちは興味半分、怖さ半分で、丘に近づきたくてうずうずしてるけれど、妖怪たちが怖いからうかつに近寄れないといった感じだ。
「どうやって、この宴会のことを知ったの?」
「何を言ってる。招待状を出したのはそちらだろう。しかもご丁寧に、寺子屋の生徒ひとりひとりにまで同じものを配ってまわって……何のつもりだ?」
「……もしかして、招待状を配ってまわったのって」
「幸せ兎さんですよ!」
甘味処の娘、初が元気に言う。妖怪の中にも、私のような知ってる顔がいて安心したのだろう。
「……てゐか。何考えてるのよあいつ」
慧音が差し出した招待状を見る。確かに、私が書いて兎たちに持って行かせたのとまったく同じものに見える(文面は、永遠亭主催で、妖怪たちはいっさいいない、という風に変えられていたけれど)。そういえば前に紅魔館でパーティーが開かれたときにも、てゐは謎の技術で兎たちの分の招待状を偽造していた。
「とにかく、子供たちを宴会に参加させるわけにはいかない――」
「あれ? その子たち、もしかして、慧音んところの?」
「おいおい、ずいぶんコマいのが集まってるな」
霊夢と魔理沙がお酒を片手に近寄ってきた。子供たちの間から、「あ、巫女さんだー!」「白黒だ、凄い凄い!」と歓声が飛ぶ。さすが人間の英雄というだけあって、人里でも人気は高いらしい。
「なに? その子らも宴会に参加するの?」
「まったく、大胆な事するな。ま、多い方が楽しいけど」
「いや、すぐに人里に連れて帰るが……」
「……あぁ、慧音、この子たちが妖怪に喰われるんじゃないかって心配してるの? 大丈夫よ、私がいれば、襲うやつなんていないわ」
「……しかしな、万が一ということもあるだろう」
「いい社会勉強じゃないの。この先幻想郷で生きていくには、必ずどっかで妖怪と関わらなきゃいけないでしょ。今のうちから、あいつらがどんなものなのか知っとくのは充分得だと思うけどね。しかも、私の保護付きでさ」
珍しく霊夢が輝いている。人と妖怪の中間に立つ者だからこそ、言えることなのかもしれない。
「……慧音先生、あたしたちも、宴会に出てみたいです」
初が、後ろから慧音の袖を引っ張って言う。他の子供たちも同じ気持ちのようだ。みんな、期待に目が輝いている。
それに心を動かされたのか、慧音は小さく溜息をついた。
「わかった。ただし、妖怪と二人っきりになるんじゃないぞ。必ず先生か巫女の目の届くところにいること。それと、まだお酒は駄目だ。ちゃんと守れるな?」
「はーい!」
「大丈夫。紫にも釘を刺しとくわよ。それじゃ、行きましょうか」
子供たちは霊夢と魔理沙のあとについて、宴会の輪の中に入り込んでいった。
「……どうにも、私は頭が固すぎるのかもしれないな」
慧音が腕組みをして、ぽつりとこぼすように言う。
「いや、まぁ、子供たちを思ってのことですし」
咄嗟にフォローする。今更だけど、慧音相手にどんな風に接したらいいかわからない。私の先生というわけでもないけれど、何やら自然と敬語を使いたくなるような雰囲気が滲み出ている。きっと、生まれついての教師なのだろう。
「一昔前までは、人間と妖怪が仲良くするなんて絶対に無理だと思っていた。少なくとも、永夜の異変の前までは。それでも、お前たち永遠亭や守矢神社と人里の関わりが深くなっていくにつれて、もしかしたら、と思うようになってきた。まぁ、拭いきれない不安が残るのは、確かなんだが」
その不安は、私にもよくわかる。永夜の異変のあとで、人里と関わって生活しなければならなくなったとき、言い知れない感情が胸を蝕んでいた。月から逃げてきた当初と似たような感覚だ。何かに、追われているんじゃないかという……。けれども。
「何かと関わることを余儀なくされたときには、誰しも変わらざるを得ないのかもしれません。それがたぶん、『縁』ってやつです。今が不安なのは仕方ないけれど……そのうち、慣れますよ」
「……だといいな」
もしかして、てゐはこういうことまで予測して、子供たちを宴会に招待したのだろうか。だとしたら、その試みは成功といえるかもしれない。宴会に加わって少ししか経っていないにも関わらず、彼らは妖怪たちの輪にうまく溶け込んでいる。アリスは即席の人形劇を披露して場を沸かせているし、妖精たちは子供たちと一緒にはしゃぎまわって楽しそうだ。屋台ではミスティアが料理を大盤振る舞いし、プリズムリバー三姉妹のライブは大変な盛り上がりを見せている。
「……あの子たちなら、大丈夫かな」
「ですね」
それにしても、疑問が一つ。甘味処の初の話では、慧音は里の人が外に出て行くことをあまり心良く思っていないということだった。なのに、たかだか招待状が来たくらいで子供たちを外に連れ出すものだろうか。しかも配ったのはあのてゐだ。疑わないほうがどうかしてる。
「……そうだな。私も最初は連れていく気はなかったよ。ただ、子供たちが行きたがっていたし、それぞれの親からも許可が出て、是非にとお願いされたんだ。それでも何人かは残ったけどな」
「よく、許可を出しましたね」
「お前たちが知っているかどうかは知らないが、永遠亭は里の人々の信頼を得ているんだぞ。対処の仕様がなかった流行り病も、永遠亭が診察を始めてからは死亡率が格段に下がったからな。お守りの中に幸せ兎の写真が入っていたことも後押ししたらしい」
「あ……そうですか」
それはちょっと嬉しい。頑張って薬売りに出向く甲斐があったってものだ。
「それに、もう一つある」
「なんですか?」
「招待状が届いたあとに、妹紅から手紙が届いたんだ」
渡された紙切れを見ると、永遠亭主催の宴会に出るなら、私も行く、という旨のことが書かれていた。
「え……うそ、なんであいつが」
「らしくないと思ったんだがな。妹紅は里人からの信頼を得ているし、妹紅が一緒に行ってくれるなら安心、ということで許可を出した親が半分以上だ」
「……そんなの、私は書いてないよ」
この場では一番聞きたくなかった声が、後ろから聞こえた。
「……あぁ、妹紅。遅かったな。書いてないって、どういうことだ?」
「言った通りだよ。私は手紙なんて書いてない」
「じゃあ、これは……?」
「私の字に似てるけど、違うね」
ここまで来たならだいたい想像がつく。妹紅の手紙を偽造したのも、てゐだろう。
「じゃあ、妹紅はどうしてここへ?」
「私も、慧音から手紙貰ったから来たんだけどね。子供たちを連れていくから、一緒に宴会に出てほしいっていう」
ということは当然、妹紅が貰った慧音の手紙を書いたのも、てゐだ。
あぁ、もう本当に、何を考えているんだろう。こんなところに呼んでしまったら――
「……ま、いいけど。何だか、楽しそうなことになりそうだしね」
妹紅の目が案の定、丘の上に向けられる。その方向には、一応の主催者である姫様とお師匠様が佇んでいる。
「今日はえらく豪勢だね。せっかくの自分の葬式だから盛大に祝おうってか?」
「あら、遅かったのね。怖気づいて来ないと思ってたわ」
空気がぴしり、と凍りつく。いつの間にか、騒がしかった周囲は水を打ったように静まり返っていて、妹紅が丘を登る足音しか聞こえない。人間も妖怪も、姫様と妹紅の関係をなんとなく感づいてはいる。知ってはいるけれど、誰も口には出さなかったこと。決して公には出なかったこと。子供たちも、二人が作る異様な雰囲気に気圧されている。
射命丸文が遠くで写真機を構えている。あいつが言っていたネタって、このことだったんだ。
「ちょ、ちょっと、せっかくの宴会の場なのですし、その」
「あら、これは永遠亭が開催した宴会なのよ。紅魔館にお呼ばれしたときとはわけが違うし、いい余興になるんじゃないかしら……ねぇ、永琳、いいでしょ?」
「……好きにしなさい」
固い、静かな声でお師匠様は答える。何か言いたいことはあるけれど、諦めたような――お師匠様は、こういう状況になることを予測していたのだろうか。なにせ、てゐの計画の目的を見抜いたのだから。てゐが丘で何か仕掛けてくる、と言っていたのはこのことだったんだろう。
でも、肝心のてゐはどこにも見えない。
あぁもう、じれったい。こんな状況にしておいて、どこで道草食っているんだ。
そこで、ワンピースのポケットに入っていた書き置きの文面を思い出した。
『もし私が本当に必要だと思ったら、
大声で呼んで』
「……姫様、お師匠様、ちょっと耳を塞いでてください」
「え?」
「大声を出しますから」
お師匠様はなんとなく察したのか、どこからか耳栓を二人分取り出した。
二人が耳を防護するのを待ってから、私は息を大きく吸い込み、耳に神経を集中する。こいしの言い草じゃないけれど、てゐにはきっちりおとしまえをつけてもらわなくちゃならない。そのために呼ぶ。口から出る声の波長を最大限に拡張して、幻想郷のどこにいても聞こえるように。
「てええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええゐっ!!!!!!」
丘の周囲にいた人妖が悲鳴を上げていっせいに耳を塞ぐ。私の声が、サイレンのように遠くまで響き渡る。
さぁ、どこにいるのか知らないけれど、いつまでも隠れてないでいい加減出てこい。
そのとき、ぼふっという音がして、丘のあちこちで突然土柱が立った。
「……え、はぁ?」
見ていると――あたりを舞う土埃をかきわけて、たくさんの妖怪兎がわらわらと這い出てきた。丘の斜面には幾つも幾つも穴が開いている。まさか、この丘の地下に隠れていた?
「待たせたね」
大騒ぎの中で、何だか聴きなれた、だけどもちょっとばかり懐かしい声がした。
勝手に利用されたのには腹が立つけれど、その声を聞くと安心する。思わず安堵のため息をつく。
「ため息をつくと、幸せが逃げていくよ?」
てゐが、少し泥で汚れたワンピースを着て、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、すぐそばに立っていた。
※ ※ ※ ※ ※
「……てゐ! あんたねぇ!」
「あとあと。それよりも今は、他にやることがあるでしょ?」
さっそく引っぱたこうかと思ったけれど、てゐはしれっとあさっての方を向く。そっちには、土埃の中で目をぱちくりさせている妹紅と姫様。そうだ、二人の戦いをどうにかしてもらうために、てゐを呼んだんだ。
「ねぇ、あんたら、まだ殺し合いなんか続けるの? 不毛すぎるよって、前に言ったよね」
「……しばらく見ないと思ったら、またそれなのね。もう、諦めたと思っていたけれど」
「気に喰わないことは放っておけない性分でさ。無理に我慢するのは寿命を縮めるからね」
「あっそう。お前の寿命なんか知ったこっちゃないよ、こっちは」
再会してそうそう、一触即発の空気だ。姫様と妹紅の強い視線を、てゐは平然と胸をそらして受け流している。自分の主人に対してさえ崩さないそのふてぶてしさはいつも通り。だけど、どうするつもりなのだろう。
「まぁ、そうだね。こんだけ人も集まってることだし、いつも通りやったらいいよ」
「はぁ!? ちょっとてゐ、あんた何言って――」
「その代わり、私たちは全力であんたらのくだらない遊びの邪魔をする。そこんとこは、覚悟しておいてね」
あぁなるほど、それなら納得……。
「えーと、私たちって?」
「決まってるじゃん。あんたと、私」
「えっ」
「だって、あんたも姫と妹紅の殺し合いを嫌がってたでしょ? なら、目的は一緒じゃない」
……確かに、それはそうなのだけれど。どこまで巻き込まれ体質なのだろう、私は。
「……邪魔をする、ですって。どうやら、妹紅と気兼ねなく遊ぶためには、貴女たちを先に倒しておかなければならないみたいね」
「そうみたいだね。お前なんかと協力するのは癪だけど」
二人の敵意が、明らかにてゐと私に向けられている。心なしか、妹紅の背後に炎が踊っているように見える。まずい、本気だ。
「あわわわ……」
「なにビビってんの。しっかりしてよね」
「だ、だって……お師匠様は――」
黙っていたお師匠様は、いつの間にか取り出していた弓を天に向かって構え、弦を引きしぼり、矢を勢い良く放った。矢は空中で四つに分かれ、丘を囲む四方の地面に突き刺さる。ぱきぃん、という軽い音がして、硝子のような透明の壁が立ち現われる。
「結界を張ったわ。急ごしらえだけれど、弾幕くらいははじき返すでしょう。周りは気にせず、戦ってくれていい」
やらせる気まんまんだった。
宴会の客たちは落ち着きを取り戻したらしく、結界の向こう側で酒やつまみに手を出しつつ、事態の成り行きを見守っている。さっきまでそこらへんをうろちょろしていた妖怪兎たちは、いつの間にかどこかへ消えてしまっている。結界の内側には、私たち永遠亭の面子と、妹紅だけだ。
「……来ないの? なら、こちらから行くわよ」
その言葉をきっかけに、姫様が弾幕を展開する。天蓋に張りつく本物の星々よりも色鮮やかな星弾が、暗い丘の禿げた地面を照らし出す。妹紅も炎の翼を背負って、夜空に羽ばたき飛びあがる。もうこうなったら、戦うしかない。
「て、てゐ、なんか策はあるんでしょうね!?」
「……安心して。一つだけあるよ」
「それって、どんな?」
「ふふふ、太古の昔から因幡の一族に伝わっている必勝法――」
何を思ったか、てゐは姫様と妹紅に背を向けて全速力で走りだした。
「『脱兎のごとく逃げる』!」
「って、こらぁーーーッ!!」
「いいからホラ! さっさと走る!」
あぁ、なんかデジャヴが……。
軽いめまいを覚えつつ、てゐに従って私も勢い良く駆けだした。上から星弾と炎弾が霰のように降りかかってくる。たしかに、この場で逃げるのは正解だろうけれど、こんなんじゃいつまで経っても勝てやしない。
「わわわ、このままじゃ――」
そのとき、目の前を走っていたてゐが忽然と姿を消した。
「あれ? ……ひゃあ!」
ふっと踏みしめる地面の感触が消えて、暗闇の中に落ち込んだ。意識を失ったのかとも思ったけれど、下に打ちつけられた痛みは本物だった。
「大丈夫? 鈍臭いなぁ」
「……うるさいわね。なんでこんなところに穴が……って、ああ」
そういえば、てゐや他の兎たちは丘の地下にずっと隠れていたんだった。ここがその穴だろう。中は、立って歩き回れるくらいに広い。壁は木の枠組みで補強されていて、崩れる心配はなさそうだ。あちこちに備え付けられたランタンのおかげで、明かりも充分にある。
「狡兎に三窟あり、ってね。もっとも、三窟どころじゃないけど。この丘の全体に、巣穴みたいに通路が張り巡らしてあるよ。ひとまずはここに隠れよう」
てゐと一緒に洞窟の奥に進む。ところどころに小部屋があって、中で妖怪兎たちがわいわいと百人一首に興じていた。信じられないくらい呑気な奴らだ。
「それで……どうする? まともにやったんじゃ、勝ち目ないよ。いつまでもここに隠れてるわけにもいかないし……あ、そうだ。天の神様が味方してくれるっていうんなら、大丈夫よね?」
「さぁて、どうかな。なんせ、ご都合主義の神様は意地悪だからね、この私を幸せにしてはくれないんだ。あいつらにとって殺し合いを続けることが幸福なら、そっちの味方をするかもしれない」
「そんな……」
「大丈夫。要するに、天を出し抜けばいいわけだからね。そのための準備もちゃんと」
ふと、鳥の鳴き声が聞こえたような気がして振り返る。向こうから、小さな鬼火のようなものがこっちに向かって飛んでくる。あれは……火の鳥だ!
兎たちが楽しげな悲鳴を上げて隠れる。私たちも、咄嗟に身をかがめたおかげであたらずに済んだ。だけど、あまり時間はない。いずれあぶり出されてしまうだろう。
「準備って、どんな?」
「ペンダント、ちゃんと持ってきてるよね」
「え? ああ、これ」
必ず身につけるように。その言葉通り、今までずっと首からさげていた。妖怪の山では哨戒天狗の剣戟から守ってくれた。やはり何か秘密があるのか。
「はい」
紐をはずして、てゐに手渡す。受け取ると、素早く身に付けた。
「ふぅ。やっぱし、これがないと落ち着かないね……っと」
てゐがどこかしらをいじくると、パカッと音がして、ペンダントの蓋が開いた。
「あ、そうなってたんだ」
「うん。今必要なのは、これ」
中に入っていたのは、一枚の紙切れだった。
「それ……お守りに入ってた写真?」
「厳密には違うかな。お守りのは全部新聞用の紙に印刷したやつだよ。ペラペラだったでしょ? こっちのは、文が撮ったのを現像したやつ。大元の一枚だね」
「この写真、あいつが撮ったの?」
「そゆこと。守矢の連中と取引して、縁結びのお守りの知恵をあげるかわりに、神の力をここに封じ込めてもらったんだ」
「神?」
「お燐からきいたんだけど、あいつら、地霊殿のペットに神の力を与えたんだって。だから、里の信仰を得させるのと引き換えに、私もそのおこぼれにあずかろうと思ってね。神の力っていうのは、要するに『信仰』の力。人々の信頼を得れば、その分だけ強くなることができる。縁結びのお守りの中身が暴かれた時点で、信仰は守矢神社だけじゃなく私にも流れ込む仕掛けになってたのさ」
何だかよくわからないけれど、里の人がてゐに少なからず感謝の気持ちを抱いている今の状況であれば、神の力を存分に発揮できるということか。
「あ……もしかして、山でペンダントが私を守ってくれたのって、それが入ってたからか」
「そう」
「で、どうするの? その写真。どっかに貼るの?」
「呑みこむのよ」
「え!?」
てゐは写真をくしゃくしゃとまとめると、上にぽいと放り投げ、口を大きく開けて呑みこんだ。
ごくん。
「…………」
「…………」
「どう? 何か、変わった?」
「ん……身体が熱い、気がする」
少なくとも、外見上は変化がない。本当にこれでいいのだろうか。
「よし、あとは、ちょっとした作戦を説明するよ」
※ ※ ※ ※ ※
妹紅は、あちこちに開けられた穴の中へ火の鳥を放つのをやめた。もう五分ほど待っているけれど、あちらから何かを仕掛けてきそうな気配はない。怖気づいたのだろうか、と首をかしげつつ、すぐさまその考えを否定する。あの執念深い因幡てゐが、簡単に諦めるはずがない。何回か小屋で一緒に盃を交わしたときも、懲りずに何度も輝夜との殺し合いをやめるよう勧めてきたのだ。
結界の内側の夜空は、無数の星型弾幕で眩く鮮やかに彩られている。この強い光の中では、本物の星の弱い光はただちにくすんで見えてしまう。中心で微笑んでいるのは、もちろん輝夜だ。相変わらず傲慢な奴、と妹紅は内心で毒付く。
自分が輝夜との殺し合いをやめることなどあるのだろうか、と少し考えてみる。過去の父親との一件があって、憎んでいたのは確かだ。今でも、その澄ました表情を見ると、何故だか殴ってやりたくなる。だけれど、彼女との殺し合いは、もはや本来の意味を失っているなと自分でも感じる。輝夜を殺し、そして輝夜に殺されるとき、憎しみを晴らすのとは別の、言いようのない恍惚とした感覚にとらわれる。それがどんなものだか、うまく説明はできないが――少なくとも、てゐが散々言ってきた通り、健康的でないのは確実だ。
「どうせ死なないんだから、健康なんかに気をつかってもね」
穴の奥を見ながら、そうひとりごちる。恐らく、てゐは身体の健康のことではなく、精神の、魂の健康のほうを言っていたのだろうけれど、それに気をつかうかどうか決めるのは、妹紅の自由だ。よほどのことがない限り、やはり輝夜との殺し合いはやめないだろう。
「さて、このまま出てこないつもりなら――」
そう言って下を向いた瞬間、ジュッという音がして、右腕に焼けつく痛みが走った。
「痛ッ……!」
見上げると、様々な色の光線が夜空を幾千幾万にも切り取っている。さながら光で出来た蜘蛛の巣だけれど、その糸はかなりの熱量をはらんでいる。そのうちの一本が、妹紅の右腕を焼いたのだ。右手はあとかたもなく消え、血液すら出なかった。
「あら、ごめんなさい。たまたまあたってしまったわ」
微笑を浮かべながら輝夜が言う。口調が全然すまなそうではない。絶対にわざとだ。
「お前……」
「でも、妹紅もそう言いかけたわよね このまま出てこないつもりなら、こっちで勝手に始めておけばいい。また出てきたときに、相手すればいいでしょう」
「……わかったよ。じゃあ遠慮なく」
妹紅はぎらりとした笑みを見せ、再び炎の翼を背負う。あっちがそのつもりなら、降りかかる火の粉をはらうまでだ。ありったけの力をこめて、輝夜に拳を叩きこむ。
「おや、仲間割れみたいですねぇ」
文はファインダーから目を離し、肉眼で目の前の光景を確認する。妹紅と輝夜が、堰を切ったように血なまぐさい殺し合いを始めた。お互いがお互いの命を奪うために、全力の一撃を放ちあう。それは文たち妖怪にとっては心躍る光景ではあるけれど、人間にとってはどうだろう。とりあえず写真機を構え直し、シャッターを切る。この写真こそが、文がスクープしようとしていたものだ。
「さぁ、もともと仲間じゃなかったんじゃないの? あの二人、相当仲が悪いわねぇ」
霊夢は目の前で起きていることにもなんのその、ゆっくりと盃を持ちあげて細い喉にお酒を流し込む。その精神は、人間よりも妖怪にほど近い。
「ったく、自重しないな、あいつら。なぁ、見たくなかったら見なくてもいいんだぜ?」
魔理沙が顔をしかめながら、隣にいる子供たちに声をかける。子供たちはみな、目の前で繰り広げられている光景に茫然と目を見張っている。刺激が強すぎるかもしれない。そう思って声をかけたのだけれど……彼らは目をそらそうとしない。ひたすらに、現実を眺めている。慧音も腕組みをしながら、二人の殺し合いを見守っている。その厳しい表情から、慧音がどのような感情を抱いているかは、容易にうかがい知れた。
「永琳さんは、どうなのでしょう。あの二人の殺し合いのことを、どう思ってらっしゃるのですか?」
「……私がどう思おうと関係ないわ。私は、姫の意図に従うだけ」
文の問いかけに、いつの間にか結界の外へ出ていた永琳は静かに答える。何の感情もこもっていない声。しかし全てを知っている文には、すぐにその無表情が繕った演技であるとわかった。本当は、笑いたくて仕方がないのだろう。
「またまた。鈴仙さんにすべてを吹き込んだのは貴女でしょう。恐らく、彼女一人では計画の全体は見抜けなかったはずです。すなわち、貴女の助けがなければ、この状況自体ありえなかった……輝夜さんに従うフリをして、本当はてゐさんを利用して殺し合いをやめさせる腹積もりなのでしょう?」
「何のことかしら? 姫の望むことは、私の望むこと。それが違えたことなど一度もないわ」
「……なるほど。貴女は、輝夜さんを独り占めしたいのですね。だから、貴女では彼女に与えることのできない死の快楽を、長年に渡って与え続けている藤原妹紅が許せない……かといって、輝夜さんの意向に背くことは絶対にしないと決めている。てゐさんの計画を見抜いた時点で、それに加担すれば自分自身の手を汚さずに、自らの願望を実現できると考えた。だから――」
「すべて、貴女の、勝手な憶測に過ぎないのでしょう?」
永琳は、ゆっくりと噛みしめるように言い、初めて文のほうを向いた。そこに浮かぶ凄絶な笑みを見て、思わず背筋が凍りついた。まぁ、どうでもいいことですが、と虚勢を張るので精一杯だった。
「飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹らる。引際をうまく見極めなければ、貴女もいつか使い捨てられるわよ」
「……やれやれ。私も、まだまだということですか」
ぽりぽりと頭をかく。あまり自分を過信するのはよくない。精進しなければ、と文は思いつつ、ファインダーをのぞく。
「……お、穴からなんか出てきたぜ」
魔理沙が声を上げたのは、その時だった。
※ ※ ※ ※ ※
「てゐ様! てゐ様! 二人が殺し合い始めましたよ!」
てゐから『作戦』なるものを聞いていると、興奮した兎が駆けよってきた。穴の入口から見張っていたのだろう。
「もうか。案外早かったね」
てゐは隠れながらこのときを待っていた。二人が洞窟の入り口に注意を払っていたら、たとえ出たとしても狙い撃ちされてしまうだろう。ずっと姿を見せなければ、しびれを切らして二人が殺し合いを始めるはずだ。その通りになったわけだ。
「ねぇ、それ、本当にやるつもり? だいぶ汚いと思うんだけど」
「勝てればいいんだよ、勝てれば。じゃ、そろそろ出よっか。神の力の本領発揮ってね。みんなの信仰の力、使わせてもらお」
洞窟の出口まで行き、外を見る。星弾や炎弾の向こうに、激しく戦う姫様と妹紅の姿が見えた。だいぶ衣服に血がついている。もうすでに、お互い何回か死んで再生しているのだろう。その凄惨な姿は、とても遊びとは思えない。命を本気で奪おうとする攻撃が惜しげなく繰り出されている。でも、二人は楽しそうだった。
「完全に、あっちの世界にいっちゃってるね。そろそろこっちに呼びもどさないと。そのために、みんなをここに集めたんだから」
「……そうね」
もう姫様が、あんな凄惨な行為に没頭するのを見るのは嫌だ。自分のしていることは不毛なんだって、わからせてあげなければならない。
「しっかり掴まってて……じゃ、いくよ!」
てゐの肩に手を回す。自分より背の低い奴におんぶしてもらうというのも変な話だけれど――そんなことを考える間もなく、物凄い勢いで走りだした。
「ちょ――――速い速い速い!!」
周囲の弾幕を風圧で蹴散らしながら、空気が分厚い壁のように感じられるスピードで、てゐは空中を駆け回る。夜空に近づいたとき、星々がまるで彗星のように尾を引いて見えた。何も認識できそうにない今、腕に抱くてゐの感触だけが頼りだった。
「そろそろ、ぶつかるよ!」
吹き荒ぶ風の中でてゐの声が聞こえたので、衝撃の準備をして身構える。そして、てゐが何かに激突したと思った瞬間に、手をパッと放した。
見ると、目の前には驚いた表情の姫様しかいなかった。てゐは妹紅をかっさらって丘の向こう側へ消えたはず……ひとまずは、二人を引き剥がすことには成功した。よし、次は。
「イナバ……貴女も、私を殺してくれるの?」
「いいえ、姫様には絶対に手を出しません」
それだけはしないと誓ったことだ。私は姫様に恩義を感じている。月から逃げてきて、仲間たちを見捨てた罪悪感に塞ぎこんでいた私に、優しく声をかけてくれたことも、しっかりと覚えている。私を撫でる慈愛に満ちた手つきは、決して忘れようがないくらいに心の支えとなってくれた。
「ただ、足どめするだけです」
姫様の目を覗き込む。夜のような黒の中に、若干の紅が混じる瞳。その奥に潜む理性を、意識の波長を、ほんの少しだけ弄ってやる。
「あ、くっ……!」
こちらに踏み出す足取りはふらふらになり、瞳は胡乱な色を浮かべる。しばらくはまっすぐ歩けないし、私の姿が何重にもなって見えるだろうから、まともに戦えないはずだ。
その間に。
「……あった!」
お願い、まにあって。心の中で祈りながら、それに向けてロケットを撃ち始めた。
猛スピードで突っ込んできたてゐの直撃を、妹紅はまともに食らった。抱えられるようにして丘の向こう側まで突き飛ばされる。地面に叩きつけられる前に何とか体勢を立てなおし、同じく目の前に着地したてゐを睨みつける。
「……まさか、いきなり突っ込んでくるとはね。お前、そんなに足速かったっけ」
「遅かったよ。でも今は、あんたたちを倒すためにちょっとばかり強くなってるんだ」
「ふぅん、そう」
妹紅はすかさず渾身の一撃を叩きこむ。すると確かに、てゐは苦も無く受け止めてみせた。輝夜の骨を何度も砕いてきた拳だ。並の力と動体視力じゃ受けきれない。それを止めたのだから、ひ弱な妖怪兎にしては異色だといえる。
一歩引いて立て直そうとするが、てゐは受けた手で妹紅の上腕を掴み、そのまま強引に一本背負いの体勢に入ろうとする。少し驚きはしたものの、妹紅はすぐさま投げられるのとは逆の方向へ体重を落とし、てゐの投げ技を阻止してみせた。そのまま転がり込んで抑えつけてしまえばこっちのもの――そう思った瞬間、てゐの姿が消えた。
「ん」
違和感を覚えて、妹紅はその場から身体を引き離す。妙な消え方だった。そこにいるはずなのに、そこにはいない。自分には触れることすらできない、いや、触れているのに触れていないという奇妙な感覚。
ふと首筋に僅かな風を感じて、地を蹴って前に転がった。次の瞬間、今まで妹紅が立っていたところにてゐの拳が突き刺さっていた。
「……妙な技を使うね。それも、私らを倒すために身に付けたの?」
顔を上げたてゐはきょとんとした表情で妹紅を見る。そして地面にめり込んだ自分の手に目をやり、残念そうな声で言った。
「ありゃ、失敗か。うまく溶け込んだつもりだったんだけど」
「たとえ姿を消せても、元々目に見えないものは消せないよ。空気の揺れとかね」
「残念だけど、そこまで意識させないようには出来ないなぁ。所詮は真似してるだけで、本家には到底敵わないね」
てゐはすっと立ち上がり、悪戯っぽい笑みを見せ、自分のこめかみを人差し指で示した。
「やっぱり最後は、ココだよね。どうやら力じゃ勝てそうにない。なら、あんた以上に考えを巡らせないと駄目だね。狡さが私の取り柄だし」
「やってみな」
何だか妙な力を持っているようだし、接近戦をするにはリスクが高い。ここは遠距離から攻撃したほうがよさそうだ。そう判断した妹紅は、炎の翼を背に作り出し、夜空に向けて飛翔する。翼を羽ばたかせると、そこから何百もの炎の塊が地に向けて降り注いだ。これなら、大量の水でも持ってこない限り対処のしようがない。逃げるしかないだろう。
案の定、てゐは何をしてくるでもなく、自分に向かって飛んでくる炎弾をただ避けるしかなかった。妹紅はてゐに徐々に近づき、段々と弾幕の密度を濃くしていく。このまま近付いていけば、結界の壁まで追いつめることができる。そうすれば――勝ちだ。
「――最後に、訊くけど」
てゐは結界に背をあずけながら、静かな声で妹紅に語りかけてきた。もう兎の左右は炎で埋め尽くされている。逃げ場はない。
「本当に、殺し合いをやめる気はない?」
その答えは決まっている。妹紅は腕にありったけの力を込めながら、きっぱりとした口調で答えた。
「ない。何百年も前からやってるんだ。いまさら、変えられない」
「……そう」
てゐが妹紅の背後をちらりと見て、二本の指をくわえ、甲高い口笛を鳴らした。まさか、鈴仙と挟み撃ちにするつもりか? そう思ってちらりと後ろを見るけれど、誰の姿も見えない。ただのはったりだったようだ。
これで終わりだ――そう思って腕にためた炎の力を解き放とうとしたとき、バリン、と硝子の割れるような音がした。
「え――?」
さっきまで四方を囲んでいた結界が、突然砕け散った。
妹紅はてゐの背後を今、はっきりと見た。結界の向こう側だから安心していたけれど、今火焔を叩きつければそれは間違いなく、子供たちを焼き払ってしまう。
理性が妹紅の動きを止めた。固まった妹紅との間合いを、てゐが一瞬でつめる。
「食いしばりなッ!」
そして、てゐは妹紅の頬を思いっきり殴り飛ばした。
拳が頬骨にあたり、歯が口の中を切るのを感じた。
受身を取れず、まともに地面に叩きつけられて、妹紅は意識を失いかけた。頭が混乱して、はたらかない。いったいどうして結界が、突然破れたりなんかした?
起き上がると、てゐが丘の向こう側に手を振っているのが見えた。その方向には、月兎が、手に折れた矢を持って立っていた。あの矢は、永琳が結界の要として戦いが始まる前に放っていたものだ。それを壊したから、結界も同時に消え去った、というわけだ。
「もこ姉!」
終わりを感じ取ったのか、破れた結界を越えて、子供たちが妹紅の周りに駆けよってきた。みんな半泣きになっている。その深刻そうな顔を見れば、彼らが妹紅と輝夜の殺し合いの一部始終を目の当たりにしたことがわかった。そして、それについてどう思ったのかも。
「変えられないって言ったね。何百年もずっとやってるから、いまさらやめるのは無理だって。確かに、私も止めることはできないよ。何百年も前からあんたらのことほっといたんだから、いまさらやめさせるのは無理だよね。だけど、その子たちはどう? まだ出会ってから数年しか経ってないだろうけど、あんたとその子たちの間にはもう浅くはない縁が生まれてるよ。その出会いで、あんたは何も変わらなかったの? 変えようとすら思わなかったの?」
てゐは低い声で、刻み込むように語りかける。妹紅はその強い瞳に気圧される。
「怖かったんじゃないのかな? 姫との殺し合いをやめるのが。何かが変わってしまうのが。あんたは蓬莱人で、永遠に生きられる。姫も同じ。だから、何も昔と変わらないことにすっかり慣れた。慣れると、それをするのが当たり前になって、しないと不安になる。でもね、人って、変わらざるを得ないんだよ。たとえ永遠不変の命を持っていても、魂がある限り、新しい縁が結ばれれば、心は必ず揺れ動く。生きていくってのはつまり、常に変わり続けることに他ならない。それはあんたも、例外じゃないはずだよ」
変わるのが怖い、というのは、正直妹紅にはわからない。変えようなんて思ったこともなかったし、輝夜との殺し合いに疑問を持ったこともなかった。ただ自分が楽しいからやる。それだけだった。
だけど、てゐに言われるまでもなく、子供たちにそれを見られていたかと思うと。
何だかひどく――馬鹿らしくなってしまった。
妹紅は子供たちの顔を見まわして、深く溜息をついた。
「もう私は、このことについてあんたに金輪際口を出さない。あとは自分で、ゆっくり考えて」
そう言っててゐは踵を返し、丘の向こうへと歩いて行った。頂上にある枯れ木は、先ほどの戦いで妹紅が放った炎弾によって、跡かたもなく崩れ去っていた。
てゐが妹紅を諭すのを耳で聴きながら、私は思わずこう呟いた。
「ずるいなぁ」
あの勝ち方だってそうだし、子供たちに囲まれてあんなこと言われたんじゃあ、妹紅にも返しようがないだろう。この状況に陥った時点で妹紅の負けだったというわけだ。まぁ、この状況に持っていくまでが、物凄く遠大だったわけだけども。
「……そうね、ずるいわ」
横でぺたりと座り込んだ姫様が、疲れ切った声で言う。
「私には……あんな風に囲んでくれる人たちなんて、いないもの」
すねているのか、あてつけているのか、よくわからないけれど、私には何も言えない。なんせ姫様に裏切りのような行動をとったばかりなのだから。
どうすればいいか迷っていると、後ろからお師匠様の声がかかった。
「……輝夜」
姫様は顔を上げず、俯いたままだったけれど、その肩がひくりと震えるのが見えた。
「帰りましょう」
お師匠様は姫様に手を添えると、ゆっくりと立たせて、髪の乱れを整えてあげた。見たこともないような優しい仕草だった。そしてその小さな肩を抱きかかえるようにして腕を回し、歩き始めた。
「貴女も、お疲れ様。今日と明日は、ゆっくり休むといいわ」
お師匠様は表情を崩さなかったけれど、口元は確かに笑っていた。何故だかわからないけれど、寒気がした。
宴会のほうはもうお開きという感じで、みなお酒の瓶や皿をほっぽり出して三々五々闇の中へ消え始めている。その中でひときわ元気そうなのは、天狗の射命丸文だった。
「いやぁ、いい写真が撮れましたよ。さっそく明日新聞にして幻想郷中に配ってまわりますね。山での事件以降、少し筆を持て余してまして」
言うが早いか、文は返事も待たずに空へと飛び去ってしまった。これで、姫様と妹紅の殺し合いは、幻想郷に知れ渡る。秘密がまた一つ潰されて、この世界に取り込まれたというわけだ。
「相変わらず、勝手な奴」
「まったくだね。ネタを提供してやったんだから、ちょっとくらいお礼言ってくれてもいいのに」
「……あんたのことよ」
振り向くと、そこにてゐがいた。さっきのシリアスな雰囲気とは違う、いつもの、しょうもない事を考えているような顔で。
「ま、ひとまず竹林に戻ろうよ。宴の始末をつけないと」
終. トリックイナバ
てゐと一緒に、暗い竹林の中を歩く。さわさわと揺れる音が耳に心地よい。てゐは、あんな戦いのあとであるにもかかわらず元気な歩調で、ワンピースの裾をさばきながら歩いている。吹き抜ける風は暖かい。もう春が来ている。
「姫様と妹紅……やめるかな」
「まぁ、しばらくはやめるだろうね。そのうち再開するかもしれないけど……そんときも、今日のこと思い出せば恥ずかしくなるよ」
「恥ずかしく?」
「正確には、馬鹿らしく、かな。今までは二人だけの殺し合いの関係だったけど、そういうのが持つ意味って、第三者の目が入ることであっけなく崩れちゃうことが多いんだよ。他人の目線を気にしてみると、もうそれまでの自分と同じではいられない」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
そういうものか。
私には、特定の誰かと特別な関係になったことなんてないから、あまりピンとこないけれど。
「それにしても、よくもまぁ、あんな計画を思いついたもんねぇ」
「まぁ、何年も考えてきたからね」
「どれくらい前から?」
「永夜が終わってすぐあとくらいかな。竹林の外がどんな場所なのか知って、幻想郷っていうのがどんなのかわかって、それで思いついたからね。まぁ、よくうまく行ったなぁと自分でも思うよ。色んな奴らを気付かせないように協力させるのが大変だったし、あんたのお師匠が確実に協力してくるような状況を作るのも難しかった」
気付かないうちに協力させる。それがたぶん、今回てゐが採用したなかでもっとも巧妙な方法だろう。里の人々も、妖怪たちも、知らないうちに踊らされていたし、今でも、そんな計画に加担させられていたなんて気付いていないだろう。気付かなくて当たり前だ。
「何人が、あんたの計画を知ってたの?」
「まずお燐だね。あいつから、こいしがどんな場所によく現れるのかを訊きだした。あとは、あの天狗。脅されたから仕方なしに話したら、案外よく乗ってきてね」
「あの天狗がよく協力する気になったわねぇ」
「あいつは、天狗だけど、新聞記者でもあるからね。取材で山の外を飛び回ってるうちに、幻想郷がどんなものなのかにいちはやく気付いてた。それで、天狗社会も秘密主義のままだといずれ駄目になると思った。つまり、私の目的に共感したってわけさ。ま、スクープ記事が欲しかっただけかもしんないけどね」
「その両方かもね。あいつ、頭が回りそうだし」
「あの先を読む能力も大したもんだよ。山での事件が起きた直後に、哨戒天狗と河童の関係がこじれることを予測してたわけだから。そのおとしまえをつけろっていうのが、あいつが計画にのる条件みたいなもんだった」
「……でも、たかだか知り合いが仲直りするくらいで、あいつに何の得になるっていうの?」
「ほら、天狗って、河童たちよりも自分らが上位にいるって思いこんでいるのよ。そのプライドが、天狗社会には不利益になるってあいつは思ったわけ。だから、あの哨戒天狗と河童の仲がこじれるのは、何よりも天狗社会が変わることを望んでる文には都合が悪かったんだ」
「ふぅん……人がいいんだか、悪いんだか。他には、私と、お師匠様と、一緒にきいてたこいしか」
「たぶんね。あと何人か気付いてたかもしれないけど。得体の知れない奴が多いからね、幻想郷は」
あんたも相当得体が知れないよ――そう言いかけたとき、竹林の向こうから誰かが現れた。
「こんばんは。随分と楽しんでたみたいだね……そろそろ、私の相手もしてよ」
こいしが、不気味な笑みを浮かべながら、こちらに軽やかな足取りでやってきた。
「この前は何だかうまく出し抜かれたみたいだけど。どうやってあの攻撃をかわしたの?」
「湖上で追いつめられると思ってた? 下にはたくさんの水があるんだよ。そんなの、下に逃げて不意をついてくれって言ってるようなもんじゃない」
「それでも、無意識の世界に入ってくるなんて、できないでしょ? 後学のために、どうやったのか教えてよ」
「簡単だよ。あんときのあんたの無意識は不完全だったのさ。水面に立ってたでしょ? あんたの周りだけ波紋が立ってた。自分が引き起こす自然現象すら相手に知覚させないようにしないと、簡単に破られちゃうよ」
二人とも、軽い口調で、気さくに話しているようだけれど、目が笑っていない。表立ってはいないが一触即発の空気だ。あぁ、まだこんな厄介な事が残っていたなんて。
「私がいるっていう痕跡すべてを消さないといけないってわけね。いよいよ消えちゃいそうだけど――わかったわ。肝に銘じておく」
「そう。なら、おうちに帰って真面目に勉強でもしてれば?」
「そうはいかないよ。きけば兎さん、神の力を分けてもらったんだって? ずるいなぁ、私にはいくらお願いしてもわけてくれなかったのにさ……こうなったらいっそ、兎さんをうちに連れてかえったほうが早いよね。お姉ちゃんもペット好きだから、きっと喜ぶだろうし」
そう言ってこいしは中に浮かび上がり、周囲にハート型の弾幕を発生させる。てゐも地面に手をつけて低く身構えた。今にも飛びかかりそうな勢いだ。
「ちょ、ちょっと、まだやるつもり――」
「こいし様! ストップストップ!」
すると、また竹林の向こうから誰かが走ってきた。赤い髪に黒い装束、あれは、お燐だ。その後ろに一人、小柄な影を伴っている。見たことない人物だ。
「おりん? と……」
こいしの目がその人物を見て大きく見開かれる。彼女にとって予想外の登場だったようだ。
「あぁよかったまにあって。さとり様、こっちですこっち」
「わかっていますよ。あまりせかさないでください」
「……お姉ちゃん?」
じゃあこの白くてひょろくて不健康そうなのが、こいしの姉なのか。胸には目のようなものがついている。さとりは不機嫌そうな顔で、私たちを見まわした。
「だいたいのことは燐からききました。貴女は……天を殺したのですね」
さとりはてゐを見ながらいう。てゐはいつもの表情に戻って、軽やかに答えた。
「よかった、来てくれて。出不精って聞いてたから、出てこないかと思ったよ」
「仕事が溜まっているのに連れ出されるのは不愉快極まりないですがね。なぜ貴女の後始末になど付き合わされなければならないのか、理解に苦しみます」
「……お姉ちゃん、何しに来たの?」
「こいし、帰りますよ。どうせこの兎は、貴女に渡すものなど何も持っていませんよ。それに私も、こんな胡散臭いのを連れて帰りたくありません。来られても迷惑です」
「え……だって、こいつ、私のこと利用したんだよ? こんなんじゃ納得できないよ」
「あぁ、それについては私も同感ですね。こいしの能力は、覚り妖怪の固有の力の否定として現れたもの。つまりそれは、覚り妖怪という存在を前提としている。こいしは、我々覚り妖怪にとっては非常に希有な価値を持っていると言えるわけです。それを利用するのは、確かに許せないですね」
さとりがよくわからない話を展開している。こいしはぼそりと、お姉ちゃんにとってじゃないんだね、と呟いた。聞こえているのかいないのか、さとりはてゐをひたすらじっと眺めている。
「ですが……なるほど、報酬はもう燐が受け取っているというわけですか」
「え……あたいが?」
燐がきょとんとする。私もきょとんだ。覚り妖怪というからには、彼女は心を読む力を持っているのだろうか。
「貴女がもらったそのお守り。計画に協力してくれたお礼として、その中の写真にも力が流れ込むようにしておいたみたいですよ。どんな効果があるかは知りませんが」
「ありゃ、いいって言ったのにさ。随分楽しませてもらったし、報酬なんていらないんだけど……」
燐はぴんと閃いたように尻尾を立たせた。どこからかまたあの乳母車のようなものを出現させて、その取手についていたお守りを外す。
「あ、そうだ! じゃこれ、こいし様にあげますよ。てゐの姐御の戦い、見たでしょう? それがあれば、結構な力を出せるはずですよ」
「…………」
こいしは、納得がいかないという顔でそれを受け取る。
「こいし、貴女が欲しかったのは神の力でしょう。それでいいではありませんか。これ以上この兎に関わっていても、馬鹿を見るだけですよ」
「……うん」
少し沈んだ声でこいしは頷き、さとりの傍へ歩いていった。さとりは存外優しい手つきでその頭を撫でると、てゐをキッと睨みつけた。
「もう私たちには関わらないでください。今度勝手に利用するようなことがあれば――ただではおきませんから」
そう言って、二人は竹林の闇の中に消えた。
「やれやれ、嫌われちゃったね。仕方ないか」
「ま、そんなことより、計画達成おめでとう。さすがあたいの見こんだとおりだったね。また今度、面白そうなことあったら誘ってね」
「うん。ありがとう。また今度ね」
燐は朗らかな笑みを残して、主についていった。
てゐは深く溜息をつくと、その場にへなへなと座り込んだ。
「あ、ちょっとてゐ、どうしたの?」
「……すっごく、つかれた」
どうやら、本当のようだ。元々そんな大した力を持ってないのに、無茶するから。普通なら、妹紅に対抗するような力なんて持ち合せていない。持ち前の都合の良さと周到な計画がなければ、あいつに勝てるという状況すら作り出せなかった。ちっぽけな、ただの悪戯好きな幸せ兎。
「今回は、あんたも頑張ったわよね」
「……そういえば、まさにぴったりのタイミングだったね」
「あぁ、結界のこと? そうね、まにあわないんじゃないかってひやひやしたけど」
「……うん。さすが、私の相棒」
てゐがそんなことを言うのをきいて、私の中で一つ、答えが出た。てゐは、私にとって何なのか。友達でも恋人でもない。相棒。仕事上のパートナー……多々悩まされることはあるけれど、それがたぶん、一番しっくりくる。そしてその仕事とは、全イナバを投入した一大計画。考えてみれば随分と、大役を任されたものだった。
何を思ったか、突然てゐは、暗い夜空に向かって中指を突き立てた。あまり上品な仕草じゃない。
「ざまぁ見ろッてんだ。ようやく出し抜いてやったよ」
「……馬鹿なことやってないで。さっさと帰るわよ。立てる?」
てゐはふらふらと立ち上がる。おんぶしなければならないかとも思ったけれど、その必要もなさそうだ。
「鈴仙」
「ん?」
てゐが何も言わずに右手を差し出した。
「これからも、よろしくね」
「……うん」
なかなか殊勝なところもある。そう思って、てゐの手を握った……そのとき。
べちょ。
「……べちょ?」
何やらぬるぬるしたものが手についたので、見てみる。それは、水飴だった。
「……てゐ……あんたねぇ……」
「やーい! 引っかかった! 引っかかった!」
「こら、待てーッ!!」
てゐはぴょんぴょんはしゃぎながら走っていく。ったく、ちょっと心配させたと思ったら、すぐこれだ。何だかひどく安心しながら、私はいつものように、てゐのあとを追いかけていった。
(完)
読み応えが凄くドンドンのめり込んで行きました!
全てが上手くまとまっていたのでは、と思います。
素晴らしい作品をありがとうございました!
てゐれーせんの2人が楽しそうで何よりです。
あと、微妙にヤンデルお師匠様が大好きです。
てゐかっこいい!!
読み切ったかいがあった
楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。
鈴仙に水飴くらわせるためにこんな大掛かりな仕掛けを施すんだぜ…
これだけの大作を書ききったのは凄いと思う。
読んでる側も、鈴仙と一緒に騙され、振り回されてしまいました。
大変面白かったです。
てゐが異変を起こした理由が納得できなかったせいかな。
途中までどんな理由なんだろう、と期待して読んでたから
がっかりしたというのも大きいか。
あとてゐが迷惑をかけまくったせいで皆が永遠亭に乗り込んでくるのなら
まだわかるんだけど、幸運をもたらす能力の秘密を知りたくて東方の
メインキャラが大挙して乗り込んでくるって流石にそこまで非常識で
自分本位のキャラばかりだとは思いたくない。
とは言え魔理沙だけは死ぬかもしれないのにうどんげをおとりにしたり、
秘密をさぐるためにその辺探しまくって挙句の果てに逆切れしてる最低の
キャラとして描かれてしまってるけど。
過去作を読み返してきて改めてそう思った。
相変わらず、この長さを読ませる文章もホント好きです。
ただまぁ、27さんのコメントとか読むと、言われてみれば確かに魔理沙の扱いとかヒドイかもしれない。
難しいですねー
みずあめさんのてゐは本当に素晴らしいです。
非常に面白かったです。
どうしても続きが気になって眠れそうになかったので読み切ることにしました。
これから寝ますが、なんだか気持ちよく寝れそうです。ありがとうございました。