「暑い……」
博麗神社の母屋。畳敷の茶の間で、博麗霊夢はぐったりとしていた。
朝から夜まで寸断なく暑くて何もする気が起きなかった。元よりすることもないのだが、汗と怠惰でグズグズになっているのが精神衛生に悪い。
「そうだ、境内を掃除しよう」と言うだけ言ってみるものの、うまく立ち上がることができない。仕方がないからふわふわ浮かんで縁側まで出てみたが、日向にはみ出した途端に「うっ」と呻くほどの熱気が襲いかかってきた。
すごすごと引き下がる。
「吸血鬼の気持ちがわかるわ……」
太陽が隠れないうちは何もできそうになかった。
夕立ちでも降ってくれればいいものを、からりとした晴天が現実を突きつけてくる。
霊夢は諦めて、茶の間に戻ってふわふわ浮いたまま目を閉じた。浮いていると、いくら昼寝をしても肌に畳の跡がつかないので塩梅がよいのだ。
寝ながら浮くのは簡単なことではなかったが、霊夢は怠惰の合間を見て、頭にコブができるほどの練習によってその難行を可能にした。
「これぞ秘技……夢想……睡眠……」
暑さのあまりなんだかよくわからないことを言いながらも、次第に霊夢は眠くなる。頭が空っぽになってしまったらしく、ウォンウォンと耳鳴りがする。
――なんだっけ、この音。何処かで聞いたことがあったような……。
――泣き声みたいな、うとましくて、悲しい音色。
目が覚めたとき、霊夢は自分がまだ寝ているのに気がついた。
上半身を起こして振り返ると、そこに畳の上にだらりと四肢を投げ出した自分の姿があった。すやすやと安らかな顔をしている。脇は出しっぱなしだし、短くした袴がめくれてしまっていて、しゃがむと中が見える。
「ずいぶんだらしない格好ね」
――あれ、喋ったのに、「私」の口が動いてない。
どういうことなんだろうとぼんやりした頭で考えていると、暑苦しさをまったく感じていないことに気がつく。まだまだ外は明るく、空は時間が止まったように青いのに。
暑くもなく寒くもない。
なんだか極楽のような。あるいは、温い水の中を泳いでいるような。
空気が重い。
「これってもしかして、幽体離脱?」
霊夢は試しに寝ている自分の脇をくすぐってみた。
「……うわ、くすぐったくない」
次に、起きている自分の脇をくすぐってみた。
「……感度が鈍い」
感覚器官がないと、脳みそもうまく働いてくれないらしい。
新しい発見だったが、事態の打開にはなんの助けにもならなかった。
魂魄で言うなら、ふわふわ浮いている霊夢が「魂」。
すやすや寝ている霊夢が「魄」と言ったところだろうか。
霊夢は暑くもない空気の中をぬるぬる泳ぎ回り、しばらくは快適だったのだが、だんだんと不安の方が勝ってきた。
どうやって体の中に戻ればいいのかわからない。
背中をあずけるように体にもたれかかってみても、ふにふにと肌に押し返されるばかりで、スッと内側に入っていくことができないのだ。
「困ったなぁ」
このままだといずれ体が腐って死んでしまうのではないか。
「……息は、してるみたいだけど」
弱々しい呼吸と微かな脈拍。
いつまで持つかはわからない。
空気は少しずつ重たくなって、ますます水の中を泳いでいるみたいな粘度になってきた。
魄は死に、魂だけが残って、だんだんと重くなる世界に取り残される。
「なるほど、こうやって地縛霊ができあがるのね」
むざむざとこのままできあがってしまうわけにはいかない。暑いから寝逃げしていたらそのまま死んでしまいましたなんてお笑い種は、私の人生のオプションには付いていないと霊夢は思った。
「……動けるうちに、行きますか」
冥府か幽界(かくりょ)か。
冥府に行くとそのまま死亡判決ということにもなりかねないし、相談相手は、多少なりとも生きている、似たような境遇の存在がいいと霊夢は思った。
高度が増すにつれ、体が軽くなってくる。
「体から離れた方が自由になるなんて、夢みたいねぇ」
実際、これはただの夢なのかもしれないと思いながら、霊夢は幽界への門をくぐった。魂だけの存在ともなれば、生者を弾く結界もフリーパスである。
少し期待していたのだが、道中誰にも出会うことはなかった。幽霊の自分がどのように見えるのか、確認したかったのだ。いちおう服は着ているものの、他の生き物からは素っ裸の人魂に見えているのかもしれない。
「まあ、服を着てこその人間か。これも一つの獲得形質かしら。生まれてきたのは巫女服を着るためだったのね」
働かない頭でぐだぐだと独り言を言いつつ、ようやく長い長い階段にたどり着いた霊夢は。
いつもと同じ半霊の姿がそこにあることに安堵した。
「あれ――? あなた、死んでしまったの?」
魂魄妖夢は箒をはいていた手を止めて、目を丸くして霊夢を見つめた。
「さあ、たぶんまだ、死んではいないんじゃないかしら」霊夢はふわふわと同じ段まで登ってから、その段に腰を下ろした。
「少し相談に乗ってもらいたいのよ。なんだかね、暑かったからふわふわしてたらそのまま死にかけてしまっているの」
「……何を言ってるのかよくわからないけど」
妖夢は箒を置いて、階段に座った。腰にさしていた剣を抜き取り、傍に立て掛ける。
「この先には行かない方がいい。幽々子様に食べられても知らないわよ」
「植物のくせに肉食なの?」
「死骸を食べるのが草花の業。……齧られるのが嫌なら、相談相手は私にしておくことね」
「さっきから相談してるわ」
「それも、そうね」
外は夏でもここはなんだか春めいていた。
気温を感じることはできないが、階段を吹き降ろす風の柔らかさが、心地いい。
「常春の世界ねぇ」
「ここは忘れ去られた春が集うところ」と妖夢は言った。「頭が春な幽霊だけがここに来れるの」
「頭ぐらいはいつも春でありたいものね」と霊夢は言った。「それで、私、どうやったら元に戻れるのかしら」
「なんだ、生きていたいのか」と妖夢は霊夢に笑いかける。「てっきり私に斬られて、暑苦しい世界と袂を分かちたいのかと」
「夏だけ死ぬのは賢いけれど、秋になったら後悔するわ」と、霊夢は袖をひらひらさせた。
「ところで、私、服を着ているのかしら」
「外ではともかく、ここまで来ればいつも通りの紅白ね」と妖夢は言った。「冥界では、魂が魂だけで形をなせるようになる」
「影分身ね」
「遠からず。――さて、私から見れば、あなたがそうなった原因は一目瞭然なのだけれど」
「そんなにわかりやすいの?」
「自分の頭のハエを追えってこと」
「ハエがたかるなら体の方でしょう」
「ちょっとした洒落なんだけど……。よろしい。やっぱり斬りましょう」
妖夢は立ち上がって、刀をチャキリとかっこよく鳴らした。
あ、この鳴らし方、練習してやがるなと霊夢は思った。
「って、ちょっと待ちなさいよ。脈絡がないわ。この辻斬り」
「脈絡も斬れるから問題ない」
「めちゃくちゃね……」霊夢はため息をついて、この息に意味はあるのか、ただ生きていることの猿真似に過ぎないのかと、ぼんやりとしたことを思った。
「五体満足なら弾幕勝負でこてんぱんなんだけど、こうも頭が鈍いとなんだかやる気が出ないわね」
「頭が鈍いのはいつものことでは」
「失礼な」
「礼儀も斬れるから問題ない」
「うーん、豚に真珠、バカに刃物……」
「まあその、なんと言うべきか」妖夢はらちの明かない会話を無理やり断ち切るように言った。
「これはあなたが生き返るための試練」
「……ふむ」
「試練内容。私を信じて斬られること」
「……さよなら」
霊夢はふわふわと階段を降りていく。
「ちょっと待って。そんなに信用がないの!」と妖夢は追いすがる。
「あるわけないでしょ。いつも戦ってばかりじゃない。私たち」
「その戦ってばかりの相手に相談を持ちかけてきたのはあなたよ」
「それもそうね」と霊夢が立ち止まる。「もう少しまともな話になると思ったのに」
「手っ取り早い。斬って済むならそれでよし」
「……あー、いいわ。わかったわかった」
霊夢は捨て鉢にそう言うと、ふわふわと微笑みながら、妖夢の傍に近づく。
「半霊とーった!」
妖夢の肩に乗っかっていた白い霊魂の塊をつかみ取り、そのままぎゅっと、抱き枕のように締め付けた。
「……すべすべね」
「何がしたいんです」と妖夢は三歩下がってたじろいだ。
「私を斬るなら好きにしなさい。この子がどうなっても知らないわよ」
「あぁ、そういう遊びですか」と妖夢はうなだれる。「やはり何というか、あなたとの会話はですね」
「なんなの、歯切れが悪いわよ?」
「とても面倒くさいので、問答無用で斬り捨て御免!」
妖夢は抜く手も見せずに抜刀した刀を、鋭く踏み込んで振り下ろす。
霊夢は半霊の盾でガードする。ビチビチと跳ね回る半霊だったが、霊夢の十指が深く食い込んで逃げられそうにない。
――愚かなり。自分の剣で成仏しなさい、妖夢。
霊夢がそう思うか思わないかの一瞬だった。
妖夢は肘を畳んで太刀筋を変える。脚を大きく開いての下からの斬り上げ。
完全に油断していた霊夢に、スペルカードでブーストをかけた超速の斬撃が吸い込まれる。
「未来永劫斬!」
霊夢は宙に高く舞い上がった後で、ようやく自分が斬られたことに気づいた。
全身から力が抜けていく。――あぁ、これが、成仏。これが無の深淵なのね。
走馬灯のように様々な思い出が蘇った。
弾幕のこととか、弾幕のこととか、弾幕のこととか。――なんだか撃ち合ってばかりのシューティングゲームみたいな一生だったな。
あれ……でも。
なんだか、わざと思い出すのをためらっているような。
なんだろう、この悲しみは――。
「気分出すのもそのへんにして」と、妖夢は階段にぐったりと倒れ伏す霊夢に言った。
霊夢はむっくりと起き上がって、ぼんやりとした表情で周囲を眺め回した。
「あれ、生きてるわ」
「本当に信用がなかったのね……」
自由になった半霊が、また妖夢の肩口に戻った。
「どうして私は生きてるの?」と霊夢は尋ねる。「なんだか頭が重たいわ」
「私はあなたを斬ったのではなく、博麗霊夢とそうでないものを斬り分けたに過ぎない」と妖夢は言った。
――頭の上のハエを追え。
霊夢がおそるおそる自分の頭に手をやると、すべすべとした、霊体の感触がそこにはあった。
「これって、幽霊……?」
むんずと掴んで目の前に降ろす。
それは、なんだかやけに面の大きな、ヒキガエルの霊魂だった。
「まあ、間抜けな面ね」と霊夢が言うと、怒ったらしくゲエコゲエコと鳴き出す。あまりに大きな声なので、霊夢の耳にはウォンウォンと耳鳴りにしか聞こえなかった。
「うるさい」と、妖夢は刀の鞘でヒキガエルのお尻を軽く叩く。
蛙は不満げに「げえこ」と喚いて、静かになった。
「この蛙が異変の原因」と妖夢は階段に座り直して言った。
「人間に限らず、生きているものは知覚せずとも無数の霊魂に取り憑かれている。魂は、自覚もなしに多くの他者に規定され続ける」
霊夢は蛙を撫でながら、妖夢の話を聞き流す。
「穢れは本来迷信ではない。悪霊に混じれば悪に染まるのは歴とした事実。見えているものに責任を押し付けるところから、人間の悪業は始まる。生と死を知ってようやく一人前。全ての生き物は、所詮半人前に過ぎない」
「あら、半人前はあなたじゃない」
「失礼な」
「礼儀はもう斬られたわ」と霊夢は笑った。「――うん、なんか、言いたいことはわかった」
「本当に?」
「あなたのじゃないわ。この蛙の」
霊夢は蛙の額をきゅっきゅと指で擦る。
「霊体の蛙は、ぬめぬめしていなくていいわね」
「……私にもさわらせてくださいな」
妖夢は刀を置いて、動くぬいぐるみのような蛙を霊夢と一緒にいじりまわした。
蛙はげこげこと喚いたが、まんざらでもないらしく、暴れなかった。
「それで、私はどうやったら元に戻るのかしら?」と、霊夢は蛙を抱えて言った。
「なんの解決にもなってないわ」
「起きれば元に戻る」と妖夢は言った。「既に異変は斬り捨てた。今のあなたは、続きを夢に見ているだけ」
「よくわからないわ」
「死ねばわかる。焦る必要はない」
「死にたくないわ」
「なら、わかる必要もない」
妖夢は立ち上がって、刀を腰にさし、箒を手にとった。
「掃除はできなかったけど、いい試し斬りができたな」
「ありがたいかしら」
「礼儀はもう」
「ありがとう、妖夢」と霊夢は微笑む。
「あら……ええっと」
妖夢は不意打ちにたじろいだ。「それじゃ、私はこれで」
「今度会ったら三倍返しね」
「首を洗って待っていろ」
妖夢は捨て台詞を残して、ぴゅんと張りのある飛びかたで階段の上に姿を消した。
霊夢はぼんやりと蛙を抱いて、自分が起きるのを待つことにした。
静かな静かなあの世の入口。
耳を済ますと、いろんな音が聞こえてきた。木々のざわめき。誰かの笑い声。カツンと何かがぶつかって、ゴトリと何かが転げ落ちる。
あらゆる形に魂があり、すべすべとしていて、心地がいい。
目を閉じて酔ううちに。
――そうそう、弾幕以外にもいろいろあったわねと。
霊夢は懐かしい気持ちになった。
茶の間の霊夢が目を開けると、魔理沙がべったりと抱きついていた。手足を絡めて、うるうるとした目で見上げてくる。
「え、あ、ちょっと!」霊夢が顔を真っ赤にして身じろぎすると、背中にふにふにとした柔らかい違和感を覚えた。
振り向くと、萃香が背中に抱きついていた。ぎゅっと手を回して、ちょっとやそっとじゃ離れそうにない。
「あ、霊夢が生き返ったぜ!」
「霊夢ぅ! よかった、生きてたぞ!」
二人は頬をすり寄せて一層強くまとわりつく。
「暑いぃ」
霊夢はもがき苦しみながら、なんだかちょっと、くすぐったくて笑ってしまった。
――聞くに。
二人はこの暑い中をわざわざ神社にやってきたらしいのだが、そこでなんだか死人みたいにひんやりとしている霊夢を見つけたのだそうだ。
後頭部にコブが出来ているみたいだし、ひょっとして頭を打って死んだのかと心配になったが、息はしているし、脈拍も弱々しいながら動いている。
「とりあえず、温めてあげようということになって」
「ひんやりとした体が心地よくって」
「ああなったと……まあいいわ。もうちょっと死んでいたかったような気もするけど」
まだ、空が青い。
あれはたった一瞬の夢だったのだろうか。ずいぶん長かったように思えるが。
霊夢は肩を回して体の具合を確かめる。
肩も気持ちも軽い。死ぬ前よりも調子がいい。
「あんたたち、暇ならちょっと手伝ってくれない。この神社の何処かに大きな蝦蟇がいるだろうから」
「蝦蟇?」
「そう。そいつが私を殺しかけた犯人、もとい犯蛙なの」
五分とかからず見つかった。ヒキガエルは縁側の下で丸くなって日光を避けていた。
「ひゃあ、こいつはでかいぜ」と魔理沙が感心した。
ヒキガエルは畳半畳分はあるものすごい分厚さだった。ちょっとどうかと思うほど顔がでかい。
「げえこげえこ」と鳴く声があまりに大きなものだから、ウォンウォンと耳鳴りにしか聞こえなかった。
「なんだか泣いてるみたいだぞ」と、萃香は突っつきながら言った。
「おいで」と霊夢は言う。
「あなたの神様は、こっちの分社の方にいるわ」
ヒキガエルはのそのそと縁側から這い出して、霊夢の後に続いて歩いた。
守谷神社の分社の前で、蝦蟇は一声げえこと鳴いて。
風情もへったくれもなく、ふっと風のようにかき消えた。
「五百年ものの、大蝦蟇がね」と霊夢は分社の小さな賽銭箱にもたれかかる。
「自らの死を悟って、せっかくだから蛙の神様の面でも拝みに行こうかと、この暑い中えっちらおっちら、神社に登ってきたんだけどね」
「……あー、わかった。わかったぜ霊夢」と魔理沙が吹き出した。
「神社を間違えたんだな」
「そうなの」と霊夢はケタケタ笑った。
「間違えたのよ。で、暑いのに無理をしたせいで、間違えた先の神社で死にそうになっちゃったのよ」
「間抜けだなぁ」と萃香が気の毒そうに言う。「かわいそうに」
「その死に際の恨みに、ふわふわしてた私の魂がとりつかれたってわけ。まったく、とんだ目にあったわ」
「霊媒体質が裏目に出たってわけだな」と魔理沙は満足げにうなずいた。
「いやー、よかったぜ。冷やし霊夢。すごくすべすべしてて気持ちがよかった。なあ萃香」
「気持ちよかったけど、死んじゃダメだぞ霊夢。死ぬときは私の酒で死ぬんだぞ」
「はいはい。……ま、そうね。お酒でも飲みたい気分だわ」
「宴会か!」
「やろうやろうぜ!」とすぐに二人は盛り上がる。
酒の準備に母屋に駆け戻る彼女たちにため息をついて。
霊夢は、もう何処にいるのかもはっきりしない蛙に向けてぽつりと言った。
「じゃ、またね。暑さを憎む心の友よ」
しかし、憑かれても霊夢は霊夢。面白かったです。
良かったです!
非常に楽しめました
いや、面白かったです。
皆のんきな幻想郷は素敵
素晴らしい。
夏らしい一品、どこか暑さを忘れさせられました^^
ご馳走様です。
妖夢と霊夢の会話も良かった。
時は待たず。ですね。